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「く」


1999年鑑賞作品

孔雀/KUJAKUAWAY WITH WORDS
1999年 90分 香港=日本 カラー
監督:クリストファー・ドイル 脚本:クリストファー・ドイル/トニー・レインズ
撮影:クリストファー・ドイル 音楽:板橋文夫
出演:浅野忠信/ケヴィン・シャーロック/シュー・メイチン/クリスタ・ヒューズ/ジョージーナ・ドブソン/久保孝典/島内初美


1999/9/10/金 劇場(シネ・アミューズ)
映画にストーリー性を求める気はないのだけど、それにしてもこれはちょっとツラい。なんでも浅野忠信演じる主人公、アサノは「記憶=過去の映像を消去できない男」なんだそうだが、そんな事見ていてもちっとも判らない。微かに判るのは、このアサノが沖縄から来たらしいことと、流れ着いた香港のこのバーのソファがいたくお気に入りで、そこにひねもすうずくまっていること。そして主要な登場人物はあと二人。ちょっと信じがたいけれどどうやらこのバーのオーナーであるらしい、アル中気味のイギリス人、ケヴィン(ケヴィン・シャーロック)と、今一つ関係性のわからない中国人の女の子、スージー(シュー・メイチン)。話によるとこのスージー役のシューは、モラルの厳しさから演出についていけないところがあって、結果彼女のカラミが薄くなったというが、確かに。なんであんたがそこにいるの?てな感じで、なんだか逆に違和感。

違和感といえば全篇違和感なんだけどね。……ああいかにも、クリストファー・ドイルが映画を作ったらこうなるんだろうなあ、というのを見せられた気がする。でも例えば、彼がいつもタッグを組んでいるウォン・カーウァイもまた、特に決まったストーリーラインなぞは存在せず、エピソード・カットの積み重ねで構築していくようなところがあるけれど、ちゃんと話、というよりは流れと言った方がいいのかな……そういう意図というか感情がズドンとこちらに入ってきたのに、本作は、ただただ様々な映像を“見せられている”という気しかしない。ま、その映像に身を委ねればいいんだろうとは思う。そういう性格の映画なのだと。早回しや逆回し、コマ落としにスローモーション、光の露出を様々に変え、色や質感や……etc,etc……もうあらゆる見て驚く、心地いい、映像のマジックを次々と繰り出してくる。そのほかにもちょっと面白い演出……自分自身のことを話す3人が、何度も何度も並ぶ位置を変えてどさりと座り込むショットとか……なんていうのもあったりして、まあ、そういう意味では飽きさせないのかも……いややっぱり飽きちゃったな。

だってやっぱりこれって映画というより“映像作品”なんだもん。あ、そんな事言うと「劇場にかかるすべての作品が、いやもっと言ってしまえば映画的だと感じられるすべての作品が映画だ」と主張する自分の言を否定することになるんだけど……。でも、前者はともかく、映画的な映画というよりは、映像的な映画だな、とは思う。主人公アサノが語る言葉は一見印象的なように思えて、その実何一つ身のある言葉としてこちらの心に響いてこない……言葉が意味を持たないし、映像が言語的な意味を持って訴えてくるということもない。スージーの色が弱くなったことで、アサノとケヴィンのラブストーリーのような……というより友情に近い、いや、もっと根本的な原質のところで響きあってるといったらいいかな……展開になってはいるけれど、そこに提示されるのは、あくまで五感的なものであり、それを超えた心情にしみてくるものは、少なくとも私にはちょっと感じとることが出来なかった。

そうそう、観ている最中、ずっと思っていたのは、これって、写真集みたいだなあ、ということ。これが写真集だったらあるいはちょっと感じられるものがあったかもしれない。写真の横にアサノの言葉が添えられていたら、自分の心で何らかの感情が湧き立つまで、その写真と言葉を繰り返し眺められるから。それが出来ないから、ヴィヴィットな映像に目を奪われているうちに、言葉(台詞)がするするとうわべを流れていってしまうから、ツラいのだ。……でもこれって、原題、というより英語タイトルか、“AWAY WITH WORDS”は、言葉なんかふっとばせ、という意味だというんだから、やはりドイルの意図は言葉から感じとる感覚ではなく、映像から感じとるそれだということなんだろうけど。でも感じとれないんだから、しょうがない。

ただ一つ、アサノがいたくお気に入りのバーの青い青いソファのことを何度も何度も「このソファは孔雀の匂いがする。とても気持ちいい。もうここを離れたくないよ」とつぶやくのだけは、その青いソファの深い色合いに催眠状態のようになって、ひどく印象的に響いてくる。ああでも、ほんと、それくらいだな……あとは、特にエンディングが印象的だった板橋文夫の、ジャズとオキナワンミュージックが融合したような音楽が良かった。★★☆☆☆


クジラの跳躍 他2篇
1998年 (合せて)66分 日本 カラー
監督:たむらしげる 脚本:たむらしげる
撮影:――(アニメーション) 音楽:手使海ユトロ
声の出演:永瀬正敏 利重剛 永井一郎 三谷昇

1998/11/17/火 劇場(銀座テアトル西友/レイト)
……不覚。今までこの、たむらしげるという人を知らなかったこと。なんなんだ、なんなんだこの、唖然とするほどの美しさは!「銀河の魚」の青、「クジラの跳躍」のガラスの海の緑、そしてその信じられないほどの質感……。大体、“時間速度が異なるエリアではしぶきは美しいガラス玉となり、クジラの跳躍は空中に静止したかのように見え”半日かかるクジラの跳躍に見物人たちが思いを寄せるなんて、一体他の誰が考え付くだろう!海がガラスで出来ていて、それが緑色をしているなんて一体誰が……。

冒頭のモノクロのアニメーションで巨大な客船の上の少年が覗く双眼鏡から一気に色鮮やかなガラスの海へとパンしていく……いざなわれる、とはこういうことなんだろう、ゆっくりと跳躍する巨大なクジラ、その真っ黒で優しい巨体、緑の海の色を映した瞳、そこに集う人々……静止したトビウオの群れ、それを捕まえる老人、同行の黒猫の動きのキュートなこと!これを描きたかったんだと何枚もデッサンする画家、箱型のアコーディオン(?)で懐かしい音楽を奏でる路上(海上か)演奏家、道化師たち……そのすべてがなんとやさしいのだろう。

「銀河の魚」もすごく素敵だった。ボートのオールが水面に落とされる時の繊細な音といい、何と繊細で精緻な音作りをしているんだろう、じっと耳を澄まさずにはいられなくなる……。ああそうだ、この人の世界は、動いているのに動いていない美しさなのだ。揺るぎ無い印象を心に植え付ける。天の川をボートで漕ぎ出す、その水面の下にはもうひとつの世界が広がり、そこにも川が流れているという不思議、怪魚に変わってしまったこぐま座、その怪魚が破壊したキュートなロボット(?)、怪魚を退治した少年と老人が渦巻状の水流に巻き込まれて、すっと、もとの天の川に流しだされる心地よさ。

そしてそして「PHANTASMAGORIA」!“珠玉の掌篇”という言葉はこの作品群のためにあるようなものだ!ここではたった4篇しか紹介されていないけれど、他のも観たい!この架空の惑星、ファンタスマゴリアのイメージの豊かさには唸った。街中がお酒の香りに満たされている密造酒をつくる街、その密造酒が配達される、海に浮かんだ、透明なボトルの形をしたリカーショップ、南の国に憧れて列車に乗った雪だるまが、終着駅では溶けてしまっていた哀しい話、夜空に季節ごとの星空を映し出す映写技師、“ロマンチックな仕事に思えますが、古い映写機を修理しながらするこの仕事は想像以上にきついのです”といいながらも、古い映写機が星空を映し出すイメージは何ともはやロマンチック&ファンタスティック!虹を削り取って江に具を作るというのも素晴らしくファンタスティックだ……。子供の頃にはこういうイマジネーションがあったと思うのに、いつの間にやらどこかに置き忘れてしまった、それをたむら氏はいまだに持ち続け、しかもそれがどんどん溢れ出して止まらないんだ……凄いっ!星人間やビル人間のキュートさ、酒場に集まる星人間に混じって、ねじ仕掛けのテディ・ベアを発見、そのキコキコしたキュートな動きにはホント、参ってしまった。

ああもう、なんなのだろう、この、手触り(?)は、ひんやりとしているのに心があったかくなる映像は!(って、かの香織さんの受け売りじゃなくて、ほんと、そんな感じなんだもの)ガラス、水晶、プリズム、ムーンストーン、……透明で美しいものすべてに喩えたくなる。音楽がまた素晴らしいんだ、このたむら氏の映像にここまで完璧にしっくりくるコラボレーションがよくぞまあ……これぞ運命のカップルだろう、初めて聞いたこの手使海ユトロ(不思議な名前……)氏の、微かな不安定さを表現する旋律、これは酔わせる!なんと彼の息子さん(小笠原健人君)が「クジラの跳躍」の船上の少年の役だそうな。素晴らしい作品。これはレイトショーなんかじゃもったいなさ過ぎるぞ!また、たむら氏の製作会社の名前がいいじゃないの“株式会社 愛があれば大丈夫”だなんて!★★★★★


グループ魂のでんきまむし
1999年 119分 日本 カラー
監督:藤田秀幸 脚本:藤田秀幸
撮影:関口太郎 音楽:北野雄二
出演:阿部サダヲ 宮藤官九郎 村杉蝉之介 松尾スズキ 伊沢磨紀 井口昇 まつおあきら

1999/6/24/木 劇場(中野武蔵野ホール)
いままでいくつかの映画に対して「こんな映画、観たことない!何にも似ていない映画だ!」と言ってきたけれど、それはこの映画のためにとっておけばよかった!なんなんだ、なんなんだこのただひたすらボーゼンとするしかないほどの、そして抱腹絶倒で死にそうになるほどの面白さは!予想もつかない狂暴かつオバカなエピソードが怒涛のごとく乱打され、それぞれが交じり合っていそうで交じり合わず、しかししっかりラストに収斂されていく。素人っぽそうに見えて(ビデオ作品で画面も粗いし)、その実恐ろしく構築力に長けているのでは……いやいや、そんなマジメな分析は、この映画の前では無力だ!

無知な私はこの「グループ魂」という存在を知らず……松尾スズキ氏主宰の劇団「大人計画」から生まれた実際のコントトリオなのだそうだ……バイト君に対する、ほとんどイジメのツッコミをする他の二人のリアリティに、最初正直引いていたのだけど、そのお笑いや、1/4秒でボケろとかいう間に対するこだわりから発生する虐待が妙に可笑しくて……そうこうしているうちに、……ん?この三人、破壊(阿部サダヲ)、暴動(宮藤官九郎)、バイト君(村杉蝉之介)と呼ばれてはいるけれど、劇中で本名で出てるじゃないか!と気づくに至ったのだった。

前半の展開で彼らが笑点に出演するくだりがあるのだけど、ちゃんと円楽さんが後楽園ホールの客席に座って「最初はグループ魂さんの……」と紹介し、その笑点のステージで彼らがはじけているというのが映し出されたので、えええ!?一体どうやって……笑点か、あるいは円楽さんにコネでもあって撮影させてもらったのかなあ?と思っていたら、そう、実在のコントグループであるグループ魂としてほんとに出演した時のフィルムなのであった!すっ、スゴイ!しかしこの時、「笑点」なんてじいさんばあさんしか見ない番組だろ、なんてバカにしていた破壊や暴動が、故郷に電話で方言まるだしで泣きながら報告しているのがとにかく可笑しくて。バイト君も自分の住むアパート(信じられないほどのボロアパート)中に紅白まんじゅうを配るという、まさにツボに入った行動をしてくれて嬉しくなってしまう。

笑いや可笑しさに対して理解できなかったことが反動になり、お笑いオタクになった暴動が三人組のコントグループを結成しようと思い立ち、まず最初に仲間に引き入れたのが破壊。「本当に暴力的な奴でなければ、本物のツッコミは出来ない」と、暴力部部長である破壊をスカウトする。暴力部!こんな部に入ろうという奴がいること自体が凄い。……常に胸ポケットにカッターを携帯し、部員たちを血だらけにしている破壊=阿部サダヲは、この強烈三人組の中でも特にスバラシく、全篇狂気が過ぎて笑いになっていくという希代のワザを発揮している。このあと、バイト君が所属していた松田優作研究会(同好会だったかな)なるものが出てきて、ま、つまりはみんなで松田優作になりきって悦に入るというもんなんだけど、こっちが……会で、暴力“部”なんだから更にスゴイ。……、ま、その暴力で部費をねじとっているに違いないのだが……。

そう、その松田優作研究会で「お前は優作のカッコをするのは100万年早いんだよ!」とパンツいっちょにさせられ、「俺はあんまし甘くないコーヒーって言ったんだよ、これは全然甘くねえじゃねえかよ」と言われ「あんまし甘くないって……少しは甘いってことだよな、でも苦いのとはまた違うのかな……」などと悩みまくる。“本当のボケは本当のバカにしかできない”ともう一人のメンバー探しに苦慮していた暴動の前にこのパンツいっちょであらわれ「あんまし甘くないコーヒーって……」と苦悩した表情で問い掛けるバイト君、そのシーンでストップモーションになる。まさしく運命的な出会いと相成るわけである。

全篇相手を変えながらもいじめられにいじめられぬき、ついにはノイローゼになり、はては殺されそうにまでなるバイト君=村杉蝉之介。彼は松田優作に傾倒し、部屋中にポスターを貼り、優作の歌をガンガン鳴らし、アーリータイムスの瓶の中味を「午後の紅茶」に入れ替えてラッパ飲みするという愛しいやつである。しかし彼がずーっと、季節を問わず着ているのがSENRI OE APOLLOのロゴが右胸にバックプリントでSUZUKI SOUNDSPECIALと入っているトレーナー(おそらくコンサートツアーグッズであろう)であるのが妙に気になるのである。なぜ、大江千里?しかも最初から最後までほんとにその一着を着たきり雀なものだから何か意味があるのかと思ってしまう

彼はテレビのレギュラー番組を取るために、他の二人の仲間から不気味な風貌の女プロデューサー(どう見ても女装している男性だ……)の食い物にされることになってしまう。身体を固くしてそのプロデューサーの酒に付き合うバイト君。ふと電気を消され、真っ暗な画面の中で彼の悲痛な叫びが……その後、引きつった顔で泣きながらシャワーを浴びながら執拗に体をこすり続けるバイト君が哀れながらも可笑しくてたまらない。

この一件でグループ魂を脱退するバイト君。二人も「俺達ひどいことしたから、止める権利なんてないよ」などと、本気なんだかどうなんだか妙に神妙にバイト君を引き止めることをしない。そうして一人ぼっちになってしまったバイト君は、今度は“モリノイカリ”なる緑の生命を愛するフォークグループに洗脳されてしまう。全身緑づくめで、ラーメン屋で割り箸を糾弾し、八百屋の店先で♪野菜は生きている〜♪と歌う彼らはバイト君に“命あるものを口にしてはいけない”と強いり、またもやバイト君は死にそうである。

この間に出てくる人生相談の男がまた出色なのだ!演じるはそのくだんの大人計画主宰者松尾スズキ。そのぼろアパートの掲示板に“手首を切る前に扉を叩け”(ちょっと違ったかもしれない)と書かれた紙を目にとめたバイト君が、その男の部屋に行くと、暗い部屋から扉をうすーくあけたその男「何の用?」「……あのおー人生相談の貼り紙見て」とたんに破顔一笑「あ、そう?入って入って」恐ろしいほどに汚く、何もない部屋にダンボール箱をテーブルがわり、ワンカップ大関の空きグラスをコップがわりに水を汲み、「ごめんね、お茶っぱ切らしてて。ガスも止められてるんだ」とその男。

途中、家賃催促の大家があらわれ、平身低頭引き取ってもらった後態度が一変する男。「負けろ、負け続けるんだ。お前は負けることがキライだろ。だが負けている。負けることに負けているんだ。俺は負けることが好きだ。だから負けることに勝っているんだ。俺は負けることが嫌いな負けている君が好きだ」と、もう何がなんだか判らない。そうこうしているうちにおっそろしく大根演技のボディコン女があらわれ、ボコボコケンカをおっぱじめているうちに何でだか熱烈なキスから、押し入れに入り込んでのセックスに興じ出す。おそるおそる部屋を出て行こうとしたバイト君に(押し入れの戸を閉めているのに)なぜか気づいて「もう少しだからちょっと待て」と言ってフィニッシュ!その女から「どうせないんでしょ」と一万円札を受け取る男……まったく、一体なんなんなんだ!?

バイト君を裏切ったことに本気で後悔しているらしい暴動が地獄の部屋を作り、青鬼と赤鬼をバイトの兄妹にやらせて「うう、村杉君、俺が悪かったああ!」と苦痛に打たれながらも、その打ち方やBGMにいちいち細かい指示を出したり、破壊に仕える井口が破壊の咀嚼をあごをささえて補助したり、“モリノイカリ”に殺されそうになっているバイト君を助けるか否かで逡巡している井口のモノローグ……そして結局助けない……などなど、もうほんとに何じゃこりゃ!?なんでこんなこと思いつくんだ!?の連続でお腹はよじれてヨレヨレである。そしてラストにはめでたくグループ魂に復活したバイト君が今度はリーダーとして迎えられ……たが、敬われる言葉とは裏腹にやはりパシリになっており、しかし嬉しそうなバイト君、というスバラシイ大団円である。まったくもってビックリの大傑作だ、こりゃ!

ところで「でんきまむし」って、何?
★★★★★


狂った野獣
1976年 78分 日本 カラー
監督:中島貞夫 脚本:中島貞夫 大原清秀
撮影:塚越堅二 音楽:広瀬健次郎
出演:渡瀬恒彦 星野じゅん 川谷拓三 片桐竜次 白川浩二郎

1999/2/27/土 劇場(新宿昭和館)
おおっ、ここ、これは、まさしく「スピード」ではないか!理由は違えど暴走するバス、運転を交替する乗客、緊張の中のクラッシュに次ぐクラッシュ!「スピード」よりずっと以前に日本でこんな傑作が作られていたとは!主演は渡瀬恒彦だけど、なんたって冒頭から釘付けにする川谷拓三!銀行強盗に失敗してバスジャックする二人組の、もう一人は凡庸で、もう完全に川谷拓三に食われまくっている。かといって川谷拓三が狂気のキレた演技を披露しているというわけでもなく、この人にしか出来ない、この情けなさ爆発の魅力!バスジャックして乗客を脅しつけるも、拳銃に弾は入っていないことが判り、とたんに頼りなくなる。仕方ないのでスパナを片手に始終大声を張り上げて乗客を威嚇しようとするものの、次第に彼が怖るにたりないと思われたのか、逆に乗客のおばさんに説教される始末。

この乗客たちがまたケッサクで最初にクレジットで名前を見たときどこに出ているのかと思ったら、白塗りのチンドン屋だった志賀勝には嬉しくなっちゃったし、一緒にバスに乗っていたことで不倫がばれるのではないかとそのことの方を怖れている女と、その女の子供の担任教師、この状況を楽しんでいるかのように、一番前の席に座って悠然とバナナを食べている老人など、とにかく楽しくて仕方がない。バスの乗客でない、外の世界の脇役もふるっていて、当のバスに自分の子供が乗っているのを知って警察に乗り込む主婦2人組、マンションの通路を走っていく女性をロングで捕らえたショットで、ええ?あの人、顔が真っ白!?と思っていたら、次のカットでもう一人の主婦の家に知らせに行くところで、パックをしていたことが判る。こんな非常事態に鏡に向かってお化粧を直している相手に向かって、「こんな時に何やってんの!」と言うのは確かに正論だが、いくら“こんな時”でも、パックくらいは取った方がいいと思うよ……。

ラジオの公開放送中にこのバスジャックの速報を読む笑福亭鶴瓶師匠、声まで若い!バーで弾き語りするチョイ出演の三上寛も嬉しい。エンディングにかかる絶叫調の歌は、三上寛だよね?実は宝石泥棒を働いてバスに乗り込んだところにバスジャックに巻き込まれてしまった渡瀬恒彦が、何とか無事逃げおおせるために、発作を起こしてしまった運転手に替わって、ドライバーを引き受ける。実は彼は目を悪くしてスピードレーサーをクビになってしまった男で、次第に彼の視界は二重三重に歪みはじめ、あちこちクラッシュして暴走を始めるのだ……。

川谷拓三が、実は小心者というのがすっかりバレバレになってしまって「もう、止まってくれ、捕まってもいいから」と懇願するが、自分が捕まりたくない渡瀬恒彦は止まらない。ついに追いつめられ、バスは横転、乗っていた子供にナイフを突きつけ、警察を威嚇するもあとがない犯人2人組と、何より自分が逃げ切るために渡瀬氏が“観客の代表”だと言って一芝居打つシーンが出色!バスにあったマイクで「自分も首を絞められた!ウウッ、苦しい!」とのた打ち回ったり、「犯人がもう一人の子供の首を絞めている!」と言って「そんなことしてへんがな」と口をとがらせて抗議する川谷拓三に、苦しがっている子供の声を演じさせたり、ここのシーンはとにかく可笑しい!脱出用のヘリに向かってバスから降りた3人を振り切ってヘリは飛びたち、渡瀬氏以外の二人はあっけなく落下死&射殺される。

英雄扱いされそうになるのを「しょんべんさせてくれ」と何とか逃げ出した渡瀬恒彦。宝石強盗した女と落ち合って奪った宝石をあらためようと思ったら、バスの中に散らばっている宝石をケースに詰め直すように乗客に指示した時に皆こっそりそれぞれの懐におさめられてケースは空。何から何まできちっと収まる気持ち良さ。川谷拓三の死に方はさすがだったわあー。★★★★☆


グレイスランドFINDING GRACELAND
1998年 108分 アメリカ カラー
監督:デヴィッド・ウィンクラー 脚本:ジェイソン・ホーウィッチ
撮影:エリオット・ディヴィス 音楽:スティーブン・エンデルマン
出演:ハーヴェイ・カイテル/ジョナサン・シャーチ/ブリジット・フォンダ/グレッチェン・モル/ジョン・エルワード/スーザン・トレイラー/ペギー・ゴーメリー

1999/11/14/日 劇場(シネマスクエアとうきゅう)
エルヴィス生存説をヒントにしたおとぎばなし。なんでもエルヴィスの元妻、プリシラ・プレスリーが製作総指揮をつとめ、タイトルとなっているグレイスランド=エルヴィスの邸宅で初めて撮影が行われたという。なるほど、グレイスランドって、地名じゃなくて、エルヴィスの家のことだったのか。どうりで自分をエルヴィスと名乗る男(ハーヴェイ・カイテル)が“graceland”と書いたボードを掲げているのを見たバイロン(ジョナサン・シャーチ)が最初からうさんくさい顔をしたわけだ。

私はエルヴィス・プレスリーに関して全く無知なので、よく判らないのだけど、ハーヴェイ・カイテル、ずいぶんとまあ嬉しそうにエルヴィスになりきっちゃって。いや、ここが難しいところで、エルヴィスになりきっちゃっている男を演じているのか、あるいは本当に“実は生きていた”エルヴィスを演じているのか。中盤まではどちらにも気持ちは揺れ動く。バイロンのいうとおり、“エルヴィス“はエルヴィスにちっとも似てないし、エルヴィスの物まねをする人なんかそれこそいくらだっているわけだけど、彼がエルヴィス本人でしか判らないようなカルトなことを何でも知ってたり、いやそれならば熱狂的ファンならありうる事なんだけど、彼が途中出会ったエルヴィスの幼なじみだという警官と話が合ったり、車の整備工が「キングのためなら光栄」とタダで車をなおしてくれたりするのを見て、えー、まさか、本当に?と思いはじめる。しかし主人公にはそれを信じるにしろ、信じないにしろ、彼が生と死をイヤでも意識せざるをえない存在だということが辛くてたまらない。バイロンは一年前の新婚当時、妻を列車と車の衝突事故で亡くしているから。彼はそれを自分のせいだと思い込もうとしているのだが、実はその時運転していたのは妻の方だったということを思い出すのが怖かったことがラストになって明かされる。

一人の女と一人の子供が出てきて何も言わないという夢にうなされる“エルヴィス”。隠し持っている新聞記事は片面がエルヴィス・プレスリーの死亡記事、片面が同じ日に飛行機事故で若い母親とその娘が死んでしまった記事。そこに映っている妻と娘に先立たれた若い男は、“エルヴィス”の面影を宿している。彼がうなされている悪夢とも一致する。バイロンは(そして観客も)“エルヴィス”が家族を失った日とエルヴィスの死が重なったために、それこそ彼が現実を直視できないため、一種の精神障害を起こしてエルヴィスになりきっているのだと思う。同じ日に“死んだ”はずのエルヴィスが生きていれば、彼の家族も死んでいるわけがない、という意識が心の奥底にあるのだろう、という……。“エルヴィス”は言う。あの記事は自分の存在をどうしても信じない人のために特別に作らせたものなんだ、と。

それにしても見ものなのはなんたって、この“エルヴィス”がステージに立つシーンだ。ハリウッド・カジノでの『伝説のスター・ショー』。その露払いとして登場する、ブリジット・フォンダ扮するアシュレイが披露するマリリン・モンローもなかなか絶品である。ま、マリリンにしてはちょいとお肉がなさすぎで、肉感的な魅力には欠けるのだけど、半開きの目と唇でマリリンさながらに舌足らずにしゃべるなりきりかたはお見事だし、ステージでのパフォーマンスは、体型の不備を補ってあまりあるお色気ぶり。そして“エルヴィス”の登場!出る直前までナーヴァスになって、歌えないよう、てな感じでトイレで腰が立たない姿でまず笑わせてくれ、いざステージに立つとエルヴィスそのもののキメキメのポーズで腕をぶんぶん振り回しながら歌うハーヴェイ・カイテル、ノリノリ!

ちょいと素敵な仕掛けはここからである。ステージを盛況のうちに終え、バイロンと“エルヴィス”はグレイスランドへと向かう。“エルヴィス”は残った家族が帰ってくる自分のためにパーティーの準備をしているはずだというが、こっそり忍び込んだ邸宅はしんとしずまりかえっている。落ち込み、泣き崩れる“エルヴィス”。やはり彼は家族を失ったことがトラウマになっているあの新聞記事の男だったのか、とここで確信が強くなる。バイロンはアシュレイに記事の男に縁者が残っているか調査を依頼していた。こんな風にエルヴィスによりかかっている彼を見捨てては置けない、というわけだろう。しかし……。

“エルヴィス”がバイロンを連れていったところ、それはバイロンが一度も来たことのなかった亡き妻の墓だった。何故ここを知っているのかと驚くバイロンに、「不思議な出会いだ。俺を乗せてくれたトラックの運転手があの列車事故の時の列車の運転手だった。彼もまたお前と同じようにずっと苦しんでいた」と……。バイロンはそこで、ようやくあの悪夢をまっすぐに受け止めることが出来る。あの時運転していたのは彼女だったこと。彼女が彼にキスしてハンドルをつかの間離してしまったことが事故の原因だったのだ。彼女が死んでしまった事実を自分のせいにすることで、苦しみから逃げていたバイロンは、それが余計に苦しむことになっていたことに気づいたのだろう。墓の前で存分に泣き、指輪を埋め、彼女に別れを告げるバイロン。彼の苦しみはようやくやわらぐこととなる。

エルヴィス・プレスリーの命日、グレイスランドはろうそくを手に参列する人々でひしめき合う。感慨深げにそれをながめやる“エルヴィス”とバイロン。「俺はこんなに愛されていたんだな」バイロンは彼に「あんたに会えて良かった。いっそ自殺しようかと考えていた。この数日間で勇気をもらえた」と言う。おやおや、どこかで聞いたセリフ。そうだ、冒頭、“エルヴィス”が乗せてもらっていたトラックの運ちゃんが言ったセリフとそっくり同じではないか。などと思っているところにハリウッド・カジノで別れたアシュレイが駆けつける。駆け寄ったバイロンにアシュレイが言う。あの新聞記事の家族はどこを探しても存在しなかった、と。ふと振り向くと“エルヴィス”は姿を消している。あわてて四方を見回すと、たくさんの人に囲まれて、あの両手を前に出したポーズで叫んでいる彼。「リメンバー・キング!(キングを忘れるな)」今までに何度となく見たポーズとセリフなのに、本当に、この場面では、ああ彼はキングなのだ、本当にエルヴィス・プレスリーだったのだ、と思わせる。そしてエルヴィス(もう“”は取ります)はまた、トラックの運ちゃんやバイロンのように、人の死にかかわって苦しむ人々を救うために旅に出るというラスト。

とこう思い返すと甘ったるくも思えるのだけど、不思議とそんな感じはなかった。気持ちよく、楽しめるフェアリーテイル。やたら深遠だったり、あるいはやたらカルかったりするのではなく、ちょうどよい味つけ、ちょうどよい酔わせ方が心地いい。★★★☆☆


クレヨンしんちゃん 爆発!温泉わくわく大決戦/くれしんパラダイス!メイド・イン・埼玉
1999年 分 日本 カラー
監督:原恵一 水島努(くれしんパラダイス!) 脚本:原恵一
撮影:梅田俊之 音楽:荒川敏行 浜口史郎
声の出演:矢島晶子 ならはしみき 藤原啓治 こおろぎさとみ 丹波哲郎

1999/5/12/水 劇場(錦糸町楽天地)
毎年キネ旬ベストテンで三留まゆみさんが、半ば意地のようになって「クレしん」を入れてきているのでずうーっと気になっていた。97年度には野村正昭氏も6位に入れていたし。そして今「ああもっと、早く観とけばよかった!」意地で入れたくなるのもおおいに、おおいに肯ける。まぎれもなく、映画ではないか、これは!

まったくこれが子供向けでなんてあろうはずがない作りなのだ。確かに子供には人気抜群で、GW中は家族連れでにぎわってずっと立ち見になっていたから、こんな公開終了間際に観るはめになってしまったのだが。実際に観てみると、悪いけど子供には判ろうはずのない時代を伴ったギャグや過去の映画へのオマージュがふんだんに取り込まれているし、映画的なカメラアングルなども見事である。子どもたちはしんのすけがお尻を出したり、人の形を残して屋根に激突して家の中に落ちたりといった、判りやすいギャグにウケていたが、クレしんの真の面白さはそんなところにはないのだ!

二本立てになっていて、ごていねいにちゃんと東宝マークで区切られているのだが、まず一本め、各キャラクターをフューチャリングした短編集でまずやられてしまった!しんのすけの妹、ひまわりが主人公の一本、彼女はちょうちょをつかまえようとして家族の手をすりぬけていく。しかし彼女の目線がカメラになっているので、彼女自身は登場しないのだ。ちょうちょをおっかけたその目線は実に自在に上下左右とパンを繰り返し、その度に広がる空間がお見事である。視線の位置が低いので上を見上げる時の空や天井の高さが凄い。手塚治虫のアニメでこれと同じ手法の作品があったのを思い出す(タイトル忘れてしまった)。たしかあれは鳥の目線だった。

保育園のねねちゃんがファンタジーワールドに紛れ込むという一本も秀逸。ふらふら走っているウサギにつられて穴に落ちてしまったねねちゃん。そこは「不思議の国のアリス」そのままに(そうだ、ちゃんとウサギだったもんね!)カードが彼女の行く手をジャマするのだが、なんとこのカードは花札である。逃げ惑う先ではマージャンをやっており「ロン!」だの「国士無双!」だのと白熱している。おいおいーこんなのコドモに見せていいのかあ?つぎつぎにギャンブルの不思議世界(不条理世界かな)に紛れ込んでいき、到達するのは裁判の場面。賭け事をした罪で死刑になってしまうねねちゃん!?

しかししかし何たって大爆笑してしまったのはしんのすけの母、みさえが便秘から脱出してその喜びをミュージカルで表現するというぶっとびの一本で、♪出たー出たー出た出た出たー、と(しかもメロディが「ウエストサイド物語」の『トゥナイト』に酷似!)歌いながら次々と変わるその場面は過去の名作映画のワンシーン!いきなり「タイタニック」のあの船の舳先の場面には爆笑!しかも男女の位置が逆という確信犯!「雨に唄えば」「サウンド・オブ・ミュージック」はては何と「ブルース・ブラザース」まで!映画ファンにはもうたまらない。しかもミュージカルだし!あっというまに終わってしまって「終わるなー!」と絶叫するぶりぶりざえもんの一本も笑った!しかし、ぶりぶりざえもんの声が塩沢兼人さんだったなんて……(涙)。

んで、やっとメインプログラムについて語るわけだが、これがまた抱腹絶倒の面白さで、私は終わる頃には笑いすぎて涙を流し、体中がくにゃくにゃになってしまったほどだった。何たってぶっ飛びなのはかの丹波哲郎氏がご本人の役で(といっても名前が同じ温泉の精(笑)なんだけど)出演していることで、そのノリノリの演技にも大笑いだが、彼を意識したギャグ……Gメン75だの、ジェームズ・ボンドと一緒にフロに入っただのといった……までも飛び出してしまう。しかもしかも、彼に風呂場でぞうさん踊りをやらせてしまうのだ!

物語は悪の組織、風呂の嫌いな“YUZAME”による地球を温泉で沈めようとする地球温泉化(笑)計画を、国の秘密組織“温泉Gメン”が迎え撃つ。しんのすけの家に伝説の“金の魂の湯”(略して……)があったことから、野原一家はその騒動に巻き込まれてしまうというもの。クライマックスには“YUZAME”が送り出す無敵の巨大ロボットが街を破壊しまくり、それはさながらガメラかゴジラかという大迫力!ロボットということと、赤い色で、どこか太った「エヴァンゲリオン」を思い出させもするあたりがまた可笑しい。このロボットに自衛隊が突撃する。「自衛隊に入って良かっただろう!」と隊員たちに感慨深げに言わせたり、どんな攻撃にもびくともしないこのロボットにはては戦車を潰されてしまって「ああ、12億円の戦車が……!」と言うシニカルな可笑しさにもうお腹がよじれてしまう。しかしこの場面でなんたって可笑しかったのは、ロボットが頭から発射口のようなものを出した時隊員たちが「殺人レーザー光線か!?」と及び腰になるも、なんとそれはスピーカーで流れてきたのは「ゴジラ」のテーマ曲(爆笑)!しかもそれで隊員たちは逃げ惑うのだ!「落ち着け!心理作戦だ、あれはゴジラじゃない!」という隊長も可笑しい。

しんのすけ達が保護された“温泉Gメン”達の活躍がなかなかカッコいいのだ。タオルをのっけた浴衣型のユニホームが笑えるが。夜の大宮の町を(!)ガンアクションで駆け抜ける。しかもそこに流れるのは渋いジャズだったりして!そしてラストはかの丹波大先生があらわれ、「金の魂の湯の正しき入浴者は願いをかなえることが出来る」というのに応え、野原一家は家の庭に吹き出した温泉につかり無敵のパワーを授かり、無事ロボットを倒す。ここで“YUZAME”のボス、アカマミレの過去が語られるのだが、これがまた笑える。かつては風呂好きだった彼、銭湯の一番風呂に入るのが何よりの楽しみだったが、長嶋の背番号、3の下駄箱の鍵(あの木の札)を持っていかれてしまった恨みで風呂嫌いになり、こんな組織を作って風呂ずきの人たちに復讐を誓ったのだという。おーい、そんな事で?とあきれるメンメンに“温泉Gメン”のボスが「気持ちは良く判る」とうんうんと肯くのもアホだが「実はその鍵を持っていったのは私だ。私も長嶋のファンだったんだ。同じ大宮に住んでいたとは奇遇だなあ。はっはっは」と、のんきに言うのも大アホ。とにかくこの人ピントがずれまくっていて可笑しすぎる!

総理大臣として名前は出ないまでもはっきり小渕総理が出てくるのも笑った!もう本当にそっくりで、しんのすけが総理との電話に出て「ぎゃふん!」と言う。「おいおいしんのすけ、それを言うならガツンだろう」というしんのすけの父。どうやら彼は普段から総理大臣にガツンと言いたかったらしい(笑)。

ああそれにしてもそれにしても、本当にヒットだった!子供と一緒に観ている大人たちはこの面白さを知っていたはずなのに、どうしてそれを世間に教えてくれないんだー!考えてみればこの「クレヨンしんちゃん」もともと青年漫画誌に連載されているものなんだから、大人の眼にかなったものなんだよね……アニメ=子供のもの、とするのは悪い癖だ。しかもいわゆるアニメファンが観るようなやおい系モノと違って、間口の広さが魅力。「MARCO 母をたずねて三千里」を観た時にも思ったけど、こうした劇場用アニメ作品を作る人たちは当然だけど大人で、映画ファンだったりして、大人が(自分が)楽しめることをまず最初に考えているんだよね。もう次回からは迷わず観に行くぞ!★★★★★


グレン・グールド 27歳の記憶GLENN GOULD OFF THE RECORD/ON THE RECORD
1959年 58分 カナダ カラー
監督:ロマン・クロイター/ウルフ・ケニッグ 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:ウルフ・ケニッグ 音楽:――
出演:グレン・グールド

1999/11/22/月 劇場(銀座テアトル西友/レイト)
グレン・グールドと言えば、あの「レッド・バイオリン」のフランソワ・ジラール監督が「グレン・グールドをめぐる32章」でセミ・ドキュメンタリーの手法を使いながら、アーティスティックな、それも実に音楽的とも言える独特の映像センスで表現しており、その時点でグールドを全く知らなかった私は非常に感銘を受けたのだった。その超絶技巧なピアノの演奏技術の高さと、天才ならではの愉快な逸話の数々。でも本作ではグレン・グールドが27歳のほんの一時期、まるでエッセイのようになぞられた一人の青年の生活を追ったものである。32歳でコンサート活動から身を引き、レコードだけを発表して公の場に出ることのなかったグールドの、まさしく伝説的な若き日を活写したフィルム。テレビ作品だったのだろうか、30分弱ずつオフ・レコーディング、オン・レコーディングとしていわゆるプライベートなグールドと仕事しているグールドを収めている。きっと信頼しているカメラマンだったのだろう。レコーディングしているグールドを写真に収めようとする雑誌記者か何かに対しては非常に警戒しているのとは対照的にカメラをまるで意識していない。それとも一瞬を切り取られることに抵抗を感じているのかもしれない。音楽は時間の芸術だから。回り続けるフィルムに対しては無防備ともいえるほどのグールド、ことにピアノを演奏している時の彼の姿は、一種セクシャルな恍惚感とも言うべき様相を呈しており、見ているこっちがドキドキしてしまう。

「演奏マナーを知らなくて怒られた。田舎にいてコンサートに行く機会などなかったからマナーなんて知らなかったんだ。自分が楽に気持ち良く弾ければいいと思った」というグールド。レコーディングの時には録音技師泣かせとなる、曲に合わせてのハミングは、まさしくピアノを弾く時に再三言われる“歌って”あるいは“歌うように”弾くことを実に具体的に示してくれる。そう、実際に歌ってしまえばいいのだ。気持ち良く。何のカッコもつけずに!そして足を組んだままピアノを弾くグールドのなんの構えもない姿には、ピアノがまさしく彼の生活であり、友達であり、家族であり、本当に普通に彼のそばに寄り添っているものなのだと判る。そのピアノ演奏がスリリングでドラマチックなことは言わずもがなで、驚くべきテンションで弾きこなすレコーディング曲「イタリア協奏曲」は本当に感動的。そのためのピアノ選びにはむろん妥協を許さない。しかしたくさんのピアノが置かれた中を泳ぐようにかいくぐってそれぞれのピアノを弾いていく彼はそれもまたやたら楽しそうなのだ。

芸術家達がみなニューヨークに住んでいるのに、彼はレコーディングの時だけ出てきて、普段はカナダ、トロント郊外の静かな家で穏やかに暮らす。犬と散歩し(犬を散歩させ、ではなく)、日がな一日ピアノを鳴らす。“練習”と言ってはいるが、そうは見えない。彼にとってピアノは特別であり特別ではないから。もちろんピアノを演奏することが“好き”=『特別』で弾いているんだけど、食事をしたり、掃除をしたりといった延長線上にある“生活”=『特別ではない』としてピアノがある、そんな感じなのだ。“練習”とか“仕事”とかいうのではなく。“チェンバロのような響きを持つ”グールドの自宅のピアノは、余計に生活の中にあるピアノらしい、親しげな音で歌う。そばには犬が寝そべっている。彼は一人で住んでいるけれどピアノがあり、犬がいて、まるで家族三人暮らしのように楽しげだ。……美しい生活。

矢野顕子氏が寄稿している。「たとえそれが私たちのためでなくとも」グールドの弾くピアノを聴くことが幸せなのだ、と。彼は人のために弾いたりしない。ただ自分でいる、きっとそれだけなのだ。グールドは生涯独身だった。そのことで孤独だと言われるようだけど、きっとそれは違う。グールドは魅力的だし、きっと思いを寄せる人も少なくなかったと思うけれど、あの完成された美しい生活に入りこめるとは思えない。というか、あの美しい生活を変えるなんて、その必要もないだろう。彼にはピアノが“いる”のだから(“ある”のではなく)。客に向かってピアノを弾かない(コンサートよりレコーディングの方が好きだと言い切る)グールドのファンでいることは、いわば永遠の片思いなのだ。でもだからこそ、さらに好きにならずにいられないのだろう、きっと。実際は50歳まで生きたグールドだけれど、32歳で人前から姿を消した彼はその若い姿のまま永遠なのだ。まるで夭折した映画スターのように。★★★☆☆


黒い家
1999年 分 日本 カラー
監督:森田芳光 脚本:大森寿美男
撮影:北信康 音楽:山崎哲雄
出演:内野聖陽 大竹しのぶ 西村雅彦 田中美里 石橋蓮司 小林薫 町田康 桂憲一 伊藤克信 菅原大吉 佐藤恒治 小林トシ江 友里千賀子 鷲尾真知子

1999/11/21/日 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
ひっじょーに後味が悪い。なんか、森田監督どんどん別の地平に行ってしまうような気がする。「39 刑法第三十九条」ではその緊迫感、ゆれる精神状態のバランス、そうしたさじ加減が卓抜なものだったのに、うーん、何が違うんだろう。どこかちょっとだけ逸脱を許してしまったのがどんどん広がってしまったような。一番しんどかったのは西村雅彦氏の演技で、最初に彼が精神疾患から来る犯人だと思わせるせいもあるのだろうけど、あのいわゆる“不気味”な喋りとしぐさはあまりにあまりというか、なんかここまでくるとあざといとしか思えなくて。怖いというよりそうした嫌悪感の方を強く感じてしまう。そして執拗ともいえるほどのカニバリズム的な映像。浴室にびっしりとこびりついた血や、床下に放置された腐乱、あるいは白骨化した死体、確かに美術的には素晴らしく優れていて圧倒的なのだけど、これもここまでくるとねえ……という嫌悪感は否めない。そりゃまあいわゆるホラーやスプラッタと言われる映画にはこれと同等かそれ以上の残酷描写はあるんだけど……うーん、何というべきか、いまさら流行らないというか、劇場ブッキングの規模に比すとあまりに描写が過ぎるというべきか……。

そう、困ったことに怖さよりも嫌悪感なのだ。生理的嫌悪感。このカニバリズムハウス“黒い家”の中を懐中電灯片手に捕らえられた恋人を救出に探索する若槻(内野聖陽)は異常にぶるぶると震えながら歩を進めるわけだけど、そのブレる光の中に瞬間的に現れるそうした残酷描写ショットの連続も一見効果的ではあるんだけど、うーんあくまで“一見”かなあ……実際には震えている若槻がアホらしくみえるほどに、途中からそうした“恐怖の演出”にもつきあいきれなくなって、早く終わればいいのに……何て思いながらイライラとスクリーンを眺めているといった感じ。どうしてこうなっちゃうのかなあ?

昭和生命という保険会社の、金沢支社に勤務する若槻。さまざまな手を使って保険金を不正に受け取ろうとする顧客を相手に日々奮闘している。どうしてもらちのあかない顧客に対しては、“潰し屋”と呼ばれるその筋あがりの三善(小林薫)に依頼することもある。そしてそんな中一人の女から電話がかかってくる。自殺の場合も保険金がおりるかと問うその女性が、“意外な犯人”である菰田幸子(大竹しのぶ)。ま、幸子と彼の夫である先述の西村氏演じる菰田重徳が共犯だった、というよりは幸子が重徳をもあやつっていたわけだけど、正直言って最初から幸子が犯人だと容易に推測できてしまう。これは痛い。はっきりいってあんなあっけらかんと聞いてくる幸子が自殺する気だなどと思う若槻の方が理解できない。小説ならばそうではないのだろうけど、いかんせん映画となると俳優が最初からその役に入っちゃってるから、しかも菰田幸子はいわゆるサスペンス型の目くらましをする知能犯ではなく、本能のままに行動するタイプなのでよけい丸わかりなんである。この場合の“めくらまし”となる菰田重徳の存在は西村氏の演技にヘキエキするだけで効果なし。

途中、この夫婦の精神分析をするために、小学校時代の作文が出てくる。夢を(将来のではなく、夜見る夢)テーマに書かれた作文。ここで、重徳の方は多少の知能の遅れが指摘されるものの異常というには当たらない。彼のあの異様な喋り方や行動は、精神障害ではなく単なる知能的後退性なんだとわかるとややガクーッとくるものがある。いっぽう幸子の方はというと、深い闇の中に落ちていく描写が為されながら感情表現がされていないことで、「この人間には心がない」ということになる。うーん、そう言葉で言われてもねえ……多分ここらあたりからが恐怖のたたみかけになってくるはずなのだが、なんというかあまりに分析的すぎて、ふーん、という感じしかもたらさない。

一度まんまと逃げおおせた幸子が若槻をワナにはめ、深夜のオフィスでのクライマックスの決闘大会とあいなる。トイレで用を足す若槻のところに突然投げ込まれるボウリングの玉!幸子はボウリングの名手という設定。劇中全編に若槻の(多分ストレス解消のための)やけくそ気味な水泳の場面と同様に何度か彼女のボウリングの場面も挿入される。彼女のマイボールである銀ラメが施された黄色い球。ちなみに彼女のマニキュアも同じ銀ラメイエロー。階段での乱闘の途中、幸子は若槻に「乳しゃぶれ!」と命令してその豊満な乳房を若槻の口に押し当てる。夢中で吸う若槻。なんなんだあ一体?しかしこの乳房のシーンは、乳房と大竹しのぶの顔が同時に映るシーンがないのだけど、やはり吹き替え?なんか興ざめだなあ。

かのボウリングの球を幸子にゴインと当てて彼女は壮絶にぶっ倒れ、物語は一件落着。ようやく落ち着きを取り戻した若槻を上司(石橋蓮司)がボウリングに誘う。躊躇しつつも参加した若槻、そこにかの銀ラメイエローのボウリングの球がコンベアーで繰り出されてくる。ちょいと、陳腐なまでのあざとさじゃないかい?基本的に性善説を信じたい私としては、この性悪説を前面に押し出した物語が根本的に相容れないのかも。劇中の若槻の恋人、黒沢恵も性善説を信じているわけだが、彼女の考えも甘い、とばかりにトラウマが残るようなヒドい目にあわされるわけで、しかもキャラ弱いし。

内野聖陽の気弱な囁き声で常に腰が折れ曲がっているような若槻像や、彼の上司である石橋蓮司の頼りになるんだかならないんだかよう判らんようなところは面白い。出前持ちで山崎まさよしが出演しているのには(クレジットを見なきゃ判らない!)びっくり。シーンのおしりをブラック・アウト寸前で止めたり、黄色や緑を数秒間フル画面で挿入したりと、視覚的効果には相変わらず意欲的。やや盛り込み過ぎた感はあるけど。全編にキイキイと入ってくる、金属音のような、電気の切れかかっているような音は、最近よくある手だが……。★★☆☆☆


黒猫・白猫BLACK CAT,WHITE CAT
1998年 130分 フランス=ドイツ=ユーゴ カラー
監督:エミール・クストリッツァ 脚本:ゴルダン・ミヒッチ
撮影:ティエリー・アルボガスト 音楽:“ドクトル”・ネレ・カライリチ/ヴォイスラフ・アラリカ
出演:バイラム・セヴァルジャン/スルジャン・トドロヴィッチ/ブランカ・カティチ/フロリアン・アイディーニ/リユビッツァ・アジョヴィッチ/サブリー・スレイマーニ/ヤシャール・デスターニ/アドナン・ベキル/ザビット・メフメドフスキー

1999/9/13/月 劇場(シャンテ・シネ)
「アンダーグラウンド」を見逃しているのをまったくもって後悔してしまう。だって、クストリッツァ監督というと必ずこの作品名が出てきてしまうんだもの。あの時、ふと気づいたら終わってたんだよなあ。そしてその年が終わってみたら、なんだかスゴイ高い評価を得ていた。いえね、実はこのクストリッツァ監督の「アリゾナ・ドリーム」は大、大、大好きで(これでリリ・テイラーに惚れ込んだ!)だから、もちろん彼の作品なら観ようと思っていたはずなんだけど、「アンダーグラウンド」が何か政治的というか、暗い影を落としている作品だと言われていたからなんとなく避けていたかもしれない……。後からビデオで観よう観ようと思いつつ、どっかで再上映してくれないかなあ、と思いながら月日が過ぎてしまった。やっぱりビデオでもいいから観なければ!

まあ、言い訳はいいかげんにしておこう。「アンダーグラウンド」がどうあれ、映画はそれぞれ一個の作品として確立しているんだから。あああ、そう、「アンダーグラウンド」がどうあれ、この「黒猫・白猫」は、まぎれもなく、私の好きな「アリゾナ・ドリーム」のクストリッッツァだ!もう、唖然とするほどに楽しく、恍惚とするほどに幸福で、にぎにぎしくて、かわいらしい……正直言って、前半は頭が混乱してた。いや、それは私だけだろうな。私は知った顔がいない俳優がたくさん出てくると、もうそれだけで頭の許容量がパンクするから(「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」がそのいい例だ)。祖父の世代、父の世代、息子の世代がそれぞれ二人ずつプラスα。そう考えれば実にすっきりなのだった。そう、特にこの祖父の世代二人が(今から思えば全然似てないのに)混同してしまって頭がコンランしたのよねー。まったく、ナサケナイ。後半は、息子の結婚騒動が軸に前述した陽気な世界が怒涛のごとくに展開されるわけだけど、前半はその息子がこの結婚に追い込まれるための伏線的な展開で、彼の父親マトゥコが一攫千金を夢見て才覚もないのに石油貨物強奪を計画しちゃったことから、それに失敗し(ま、罠にはめられたんだけど)ヤクザもの、ダダンに借金を棒引きにする代わりに売れ残ってる自分の妹と彼の息子を結婚させろ、とこうくるわけだ。

しかし、その頭コンランの前半もめまぐるしく楽しい場面に満ちている。マトゥコが強奪資金を請いに行った自分の父親の友人、“ゴッドファーザー”グルガの、ピンシャンしてるくせに頭だけ微妙にピントがずれている会話とか、そのグルガが「カサブランカ」が大好きで(部屋にポスターもばっちり貼ってる)ラストシーンの男の友情の場面ばかりビデオで巻き戻しているところとか(どうやらこのグルガと祖父のザーリェはこういう友情で結ばれているらしいのだな)。この列車強奪に失敗して、金の入ったカバンを奪われたマトゥコ、そのかばんを持った死体が竿(?)で釣り下げられているのを見てぴょんこぴょんこ飛び跳ねたり、その竿をつたっていったりしてなんとか取り返そうとする……それだけでも可笑しいんだけど、その死体がね!まさしく「メリー・ポピンズ」そのものなのだよ!左手に傘さして、右手にカバンでしょ、それで足を伸ばしたまま、空中に浮いていて、マトゥコが竿を揺さぶるたんびに、上下にユラユラ揺れるんだもん!

そうこうしているうちに、息子、ザーレの方では年上のジプシー娘、イダに一目ぼれ、ひまわり畑でのおおらかなラブシーンも目に鮮やか。しかししかし、どんなに抵抗してもこの政略結婚に抗えないのだな。彼の祖父であるザーリェが「粋な方法でこの結婚を止めてみせる」と言って死んでしまって(!)も、ダダンはその事実を隠蔽して結婚式をあげさせようとする。結婚式へとかけつけた“ゴッドファーザー”グルガまでもが突然死んじゃって(!)屋根裏で二人の死体を氷で冷やし、ぼろい家の天井からは水がぽたぽたこぼれて、もう、崩壊の危機!

このダダンの妹、アフロディタも、運命の相手があらわれるのを夢見ているから、兄から水責めを受けようと(!)この結婚には納得できない。と、いうわけで、一計を案じ、その祝祭のにぎやかな音楽に紛れ、彼女はその小さなからだを生かして式場からまんまと逃げおおせる。枯れた切り株をすっぽりかぶってちょこまかと移動するファンタジックさがたまらない。そしてこちらも宿命の女性との出会いを夢見ていたグルガの孫のノッポ君が、果たして彼女と運命の出会いを果たし、数ある追手も何のその、果敢に銃をぶっ放して、めでたく彼女とハッピーエンド。あ、もちろん、ザーレとイダもね!このアフロディタとノッポ君(かわいそうなことに名前を与えられていない(笑))、まさしく“チッチとサリー”そのもので、もう見た目からしてファンタジックなのだもの、嬉しくなってしまう。

そして最後に一波乱。なんとあの死んだはずの二人の老人が息を吹き返し(オイオイ!)、ほんとに天井は抜けちゃうし、おおわらわ。そして二組の結婚を取り決めている最中に、ダダンがみんなの罠にはまって、肥溜めに落っこちてしまう。ま、この辺はベタなギャグとしても、その糞だらけの体をアヒルで拭いちゃうのには大爆笑!そう、この映画やたらと動物が出てきて(ジプシーである彼らが引き連れているんだろうけど)、うち捨てられている車をひたすら食べ続ける豚とかも出てきたりして……特にこのアヒルが多く、とぼけた顔して画面をすいすい横切っていくのだけど、そのとぼけた顔のまま(当たり前だ)羽をばたばたさせてタオルがわりにされている可笑しさときたら……もう……!

二組のうち、ザーレとイダはこの共同体を離れていく。祝祭の晴れやかな雰囲気のままに描かれるから、そのまま流して見てしまいそうにもなるけれど、彼らの行為は、実は結構深い意味があるのではないだろうか。彼らが出て行くことで、この物語が、どこを舞台とするのでもないような、いわば楽園的な世界だったことに気づくのだ。エンドクレジットの前に“ハッピーエンド”の文字が出て、その幸せ気分に、そうだよなー、と思わず素直にうなづいてしまいそうにもなるのだけれど、それは彼ら二人の、これから何が起きるともわからない出航を含めて言った“ハッピーエンド”であり、もっと言えば、ハッピーオープニングとでも言いたい結末なのだ。そうだ……結婚がハッピーエンドだなんて、改ざんされたシンデレラや白雪姫の童話が流布していたかつての無邪気な時代だったならいざ知らず、今なら誰も思わないもの。だからこそ、クストリッツァ監督の、本当の意味での人生讃歌がそこにはあるのだよなあ。

何かと印象的に出てくるタイトルロール(笑)の黒猫と白猫、ザーレとイダの結婚仲介人までもつとめちゃうけど、彼ら(?)の意図するところはなんだろう……あらゆるもののコントラストを意味する黒と白だけれど、ここではそれは生と死ぐらいしか思い浮かばない。黒というほどの不吉な影は見当たらず、作品は白の陽気なイメージに満ちているから。しかし、確かに生と死に関しては、ギャグのオブラートに包まれてはいるけれど、シニカルな色合いが強い。

これは多分、ジプシー音楽が下敷きとしてあるのだろう、とにかく全篇途切れることのないような(特に後半はずっと鳴りっぱなしだ)うるさいほどににぎやかな音楽に高揚しっぱなし、飲んでもないこちらまで酔っぱらっちゃったような気分になる。夜なんて来ないような、いつも昼の明るさにまばゆい、本当にここだけは御伽噺かもしれない。その後に何が待っていようと、とにかくここで幸せになってからだ!★★★★☆


黒の天使 vol.2
1998年 105分 日本 カラー
監督:石井隆 脚本:石井隆
撮影:佐藤和人 音楽:安川午朗
出演:天海祐希 大和武士 片岡礼子 鶴見辰吾 伊藤洋三郎 山口祥行 小林滋央 寺島進 野村祐人 速水典子 飯島大介 村松恭子

1999/11/20/土 劇場(シネマミラノ)
天海祐希は外見的には石井隆の原作漫画の“黒の天使”にピタシで、その大柄なスタイルの良さや、中性的な魅力がスクリーン映えしそうで、こりゃイケルんじゃないか、と思ったら……大コケ。ありゃりゃ?なんでこうなっちゃうんだ?彼女からはうーん……なんていうのかなあ“気迫”といったものが感じられないのだ。言っちゃえば、セリフ喋って動いてるマネキンみたい。アル中だという設定もうわべの言葉と酒を飲んでる描写だけで、堕落した感じや哀切さなどの信憑性が何ら感じられないし、額の汗を見るたび、霧吹きだろう、などと(ま、そりゃそうなんだけど)ついつい思ってしまう。街を駆け抜けるカッコも思ったほどキマらない。でかい身体をそのまんま垂直にして走るんだもん。もうちょっと前傾姿勢になってくれないと。息があがったマラソンランナーじゃないんだからさあ。

あーあ、vol.1の方は凄く良かったのになあ。vol.1の葉月里緒菜はそのきゃしゃな肢体が痛々しくて、でもキメの時には恐ろしく美しく、逆にはしゃいでいる時は驚くほど無邪気で、そういうメリハリもあったし(本作の天海祐希は一貫して同じ印象)、なにより“気”というか、“気迫”というか、そういうものが感じられたんだけど、天海さん、それなさすぎ!1の方は高島礼子も良かったしね……。本作でのもう一人のヒロインは片岡礼子。ああ、なんかずいぶんと久しぶり!前回の最後が「北京原人」(多分)で、初のメジャーがあんなひどい結果(作品の質的にも、興行的にも)になっちゃったものだから、その後名前を聞かないので余計に心配だったんだけど、よかったよかった。なんといっても石井隆監督作品にはそろそろ常連と化してるもんね。彼女ってほとんどの映画でまず脱がされる感じがするのは私の気のせいだろうか?ま、片岡礼子の場合、過去にどんなに脱いでても、そのシーンに接するたびに驚くぐらい、常にどこか清潔な印象があるから(これがたとえば江角マキコが脱いでも大して驚かないのと対照的)効果的なんだけどね。そう、今回彼女はそれだけじゃなくレイプもされてしまう。しかも相手は寺島進で、しかもしかも寺島氏、全身イレズミでしかもふんどしはやめてくれえ……。しかもしかもしかも、彼、片岡礼子扮するすずに撃ち殺されて(ま、それは当然だ)そのふんどしスタイルで仰向け大の字で股間を中心に血だらけになって死んでいるのを俯瞰でとらえるという……うっわ、なさけなー。

10年前に、暴漢に襲われそうになった天海祐希扮する魔世を助けた山部(大和武士)が誤ってその暴漢の一人を殺してしまい、そのことで苦悩した彼の母親が自殺してしまう。というトラウマが用意されているので、当然10年前のそのシーンが再現されるわけで。大和武士の場合、この人は多分高校生ぐらいの時からこんな感じで変わってないんだろうな、という印象があるから、さして違和感はないんだけど、天海さん……。10年前からデカい女なのはまあいいとして、そのブリブリなジャンスカはちょっとねえ……。そして10年後、彼女が黒のママ(鶴見辰吾!うっわ、ドラァグクイーンだよ……)からの指令を受けて銃を向けるのが、山部がボディガードしていた東陽組組長だったわけで。そして彼と撃ち合うはめとなる魔世はどうしても山部を撃つことが出来ず、銃をおろすも、彼の方は彼女とは気づかないから容赦なく撃ってくる。彼女がよけたその弾丸がたまたま通りかかった夫婦の、夫の方に当たってしまう。その妻がすず(片岡礼子)。奇妙な因縁でつながった三人。

すずは花屋さん。うーん、似合っている。夫の死後も、しかも流産直後だというのに、生活するためには働かなくちゃいけないと(でも多分、気を紛らわす意が大きいと思うけど)懸命に、けなげに働くすず。亡き夫を思って「しんちゃん……」と泣くところといい、今時こんなけなげな女性を演じさせて鼻につかない女優はなかなかいないぜよ。でもね、実は今回片岡礼子がヒロインの一翼と聴いて、黒の天使の一人ではないかと期待したんだけどね……。

ラストのクライマックス、これぞ石井印の夜の闇のどしゃ降りの中の銃撃戦。しかし途中から唐突に夜が明けたという設定なんだか、画面の向こうには晴れた空が見え、白々と明るくなる。しかし相変わらずどしゃどしゃ降りで、その白い光の中に血だらけの組員の死体がまさしく死屍累々といった感じに倒れており、かたきの山部に最後のとどめをうてないすずの泣き声と空をあおぐ魔世のアップでカットアウト。画的には完璧だが……。★★☆☆☆


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