home!

「へ」


2001年鑑賞作品

PAIN ペイン
2001年 114分 日本 カラー
監督:石岡正人 脚本:石岡正人
撮影:鍋島淳裕 音楽:遠藤浩二
出演:松本未来 中泉英雄 藤本由佳 吉家明仁 小室友里 下元史朗


2001/11/22/木 劇場(中野武蔵野ホール)
俳優のほとんどが見知らぬ顔ばかりで、しかし若い子も皆とても演技が達者なので、何の違和感もなく引き込まれた。後から、演技経験ナシの子ばかりというのを知って驚く。あそこまで彼らがあの役に、あの物語に、あの空気に溶け込ませたものは一体なんなのだろう。それは、彼ら自身の感性や監督の演出の賜物もあるだろうけれど、その世界が特別なものではなく、すぐそばにあるものだという示唆にも思える。実際、今まではそうした世界を描く場合、やはり一般的な世界と分離していたような気がするけれど、本作はそうした境界線をほとんど感じることがない。あれだけ明確に選択を迫られているにもかかわらず、あちらの世界に行くのにはジャンプすらいらないほどなのだ。そしてあちらの世界というのも、ある意味では何ら特別なものではなく、例えばAVの撮影現場などは、通常の撮影の控え室を覗いているかのような、本当に普通の、笑いさざめく明るい現場である。それは驚くことではないはずなのだけれど、何だかちょっとドギモを抜かれた。

この物語は二つのパーテーションに分かれて展開していく。田舎に帰るかここに残るか。何にせよこの東京に居場所がないらしいカップルである真理と敦がケンカ別れし、それぞれ出会う世界。真理は街でパー券を売っている女の子、可奈と出会い、援助交際の手引きをする世界に巻き込まれていく。一方の敦はAV女優の美樹との出会いから、AVのスカウトマンの道へと足を踏み入れるのだ。どちらの場合も、そのきっかけは本当に普通に転がっており、可奈にしても美樹にしても、彼らに対して真摯と言っていいほどの対応をする。彼らには真理や敦が明確な道を見いだせなくてフラフラしていることが、判ってしまうのだろう。それは多分、彼らが自分だけを頼りに生きていく、そうした世界に身を置いているからであり、例えば私みたいなノウノウとした一般人には見抜けない部分なのだろうと思う。

足の悪い真理はそのことでコンプレックスを抱えているのだが、そうした部分も可奈はすらりと引き受けている。それは彼女を相手にする大人たちがその点をことさらに強調して見ているのとは対照的に。そしてその大人たちのそうした視線も可奈はよく判っていて、真理の足の悪さを彼女のセールスポイントにするようなしたたかさも持っている。彼女はいささか手荒い方法で真理を世間の厳しさにさらしていくのだが、常にある程度の距離を持ってサポートに回っているそれには、決して甘っちょろくない、本当の友情というものすら感じてしまう。私はこんな風な友情を、与えたことも受けたこともなかった。

真理にかませたガムを可奈が受け取り、待ち受けているオヤジに売りつけるという流れには思わずウウッと思うほどの生々しさがあった……。それは、エンコウモノ映画の初期の作品であった「ラブ&ポップ」に平田満が女の子の噛み含んだマスカットをシャーレに集めているという場面があったけれど、どこかミセモノ的であったそれとは全く違う、圧倒的な現実感だった。エンコウモノ映画の多分最初であった、「バウンスkoGALS」の世界とも大きく違う。「バウンス……」は形はエンコウ映画を扱っていながら、最初から健全な友情映画を描くという意図があり、それに対抗した、より現実感のある「ラブ&ポップ」がある、という図式で、この二作は、特に「バウンス……」などはかなり好きな映画なのだけれど、本作の現実感には到底かなわない。それは新鮮な顔ぶれが揃っているというのももちろんあるし、臨場感のあるロケーションに展開されるというのもあるけれど、それだけではない。

真理は当初、しごく一般的な反応を見せる。オヤジ達に侮蔑的な行為を強要され、彼らからその代償として多額の金を巻き上げ、それをいわゆるアソビでぱーっと使ってしまう可奈たちの世界に対して、「あんたたち、バッカじゃないの」と。真理のその言葉は確かに一般的な反応で、今まではその言葉にこそ真実があると思っていたのに、この流れでこの台詞を聞いてみると、それがいかに力の持たない言葉なのかが判って呆然とする。その力のなさは、可奈のそうした生活が、耳で聞いているだけではいかにも愚かなのだけれど、実際に目にしてみると、あまりに必死で刹那で、これほど生きているということを切実に感じさせるものはないと思ってしまうからだ。一方で真理は、そういう意味では生きていない。それを判りやすく象徴しているのが、彼女の足へのコンプレックスで、彼女はそれに阻まれて先へとすすめない。後へと戻ることすら出来ない。未熟なまま、そこにいるのを可奈に拾われたのだ。可奈はそういう意味では真理よりよっぽどオトナ的な世界に身を置いているのだけれど、しかしその可奈も最終的に自分をどうするかという点においてはやはり未成熟なコドモだ。それがどこかリリカルさを感じさえする、あてのない電車の旅へとつながってゆく。そして、結局そんなことで逃げられるわけもない。

一方の敦。スカウトマンとAV女優の世界は、「駅弁」を即座に思い出させたが、あの作品ではスカウトマンをここまで突っ込んで描いてはおらず、映画作家としての葛藤の物語だったので、本作のこの展開は実に新鮮でスリリングだった。池袋の街角で、仲間のスカウトマン達が集まって新人スカウトマンの敦を実地教育する場面は、そのスカウトマン達の黒づくめにキマッている様子もあいまって、ワクワクするほどの映画的魅力を感じた。ナンパの延長で声をかけていた敦は、撮影現場でもウブな反応で「こういう子もだんだんと慣れていくと思うとねー」などと女優さんたちにからかわれていたのが、目も覚めるほどにぐんぐんとスカウトマンとしてのたたずまいと風格を身につけていく。その変貌には本当に目を見張ってしまう。それはこの新進役者、中泉英雄のスクリーンの中での目覚めでもある。

街行く女の子何百人と声をかけて、最初から直裁にAVという言葉を口に誘う彼らは、だまして連れて行こうとかいう部分が微塵もないということに気づかされる。本当にプロ意識で動いているのだ。そんな彼らの世界にも様々な闘いや葛藤がある。いわゆるキレイな商売ではないこの世界で、しかし最低限の部分を死守したいと思っている男がおり、その一方で連れてきた女の子を最初に陥落させて言うがままにさせる男もいる。アダルトショップとのつき合いも経営者が変わればサイフの紐も固くなり、御法度である未成年者ポルノに手を出し、お縄になってしまう。「キレイな商売ではない」という自覚がある中での気持ちの置き方というのが、私などには想像もつかない世界なのだけれど、何かそうした世界でこそ、自分の姿に、そして気持ちに否応なく対面し、その際の決定を迫られることで人間としてのあり方を求められるのではないかと思ってしまう。多分、彼らから見れば“キレイな商売”で生きている人間たちなど、本当に生きてはいないのだ、とすら。いや、実際には本当に“キレイな商売”などあるわけがない。自分たちはキレイな商売をやっていると思っている人間たちなど、ウソの姿を鏡に映して満足しているのだ、と。

長い間、AVの世界に身を置いている美樹は、自分の商品価値が下がってきていることを、彼女を動かすマネージャーよりも先に敏感に受け取っている。あるいは、若くて新鮮さを求めるAV業界において、手慣れてきた、あるいはプロ意識が芽生えてきたような彼女の立場が微妙だということなのかもしれない。スカウトマンである男たちは完全にプロ意識なのに、彼らに連れてこられる女の子にそれが求められないというのは皮肉というしかない。風俗をやっている女の子をそれとは知らずにスカウトしてしまって、演出家?からスカウトマンが咎められる、というシーンも、それを象徴している。自分を何とか売り込もうとし、捨てられる前に居場所を確保しようとあがく美樹の姿は、こんな時代になっても社会に置き去りにされる恐怖におびえ、それゆえに心ならずもタフになってしまう女の姿がヴィヴィッドに浮き彫りにされていて、立場は違えど同じ女である自分にチクリと刺を刺してくる。

可奈たちが管理するエンコウする女の子たちの、あまりに自分の若さを信じきっている様には、一種の気の毒さをさえ感じてしまう。「月一万円のおこずかいじゃ絶対足りない」のは、東京にいるからだろうが、それにしても同日同劇場で観た「援助交際撲滅運動」でも出て来たブランド名のオンパレードは……。それらが彼女らに何をしてくれる?それどころか、全てにおいて悪化の一途を辿るとしか思えない。より良いものを作ろうとデザイナーたちがしのぎを削ったそれらが、ただ単に豊かな時代の代名詞にしかならないなんて、何だか哀しすぎる。

自分がのし上がるために、彼女である真理を風俗店に売り飛ばす敦と、自ら進んで売り飛ばされる真理。それでもちょっとした後ろ髪な気分が残って、真理を侮蔑する客を張り倒す敦をとりなす真理。この、もはや修復の仕様のない、幼いレンアイが行き着いた先の奇妙な共犯関係。彼らの10年後は一体どうなっているんだろう、と思ったら、やりきれなさばかりが心を圧してくる。もう恋人ではないにしても、二人は何かでつながっていられているだろうか……。

染めた髪を黒く戻し、何も知らない素人中学生としてカメラを見据える可奈のショットで締めくくられる。これほど何もかもを知ってしまった後、あと何十年も生き続けなければいけないのは、プラスばかりではなくマイナスの方向にもやみくもに進みすぎた時代の残酷さ、なのだろうか。★★★★☆


ベティ・サイズモアNURSE BETTY
2000年 110分 アメリカ カラー
監督:ニール・ラビュート 脚本:ジョン・C・リチャーズジェームズ・フランバーグ
撮影:ジャン・イブ・エスコフィエ 音楽:ロルフ・ケント
出演:レニー・ゼルウィガー/グレッグ・キニア/モーガン・フリーマン/クリス・ロック/アーロン・エクハート/クリスピン・グローバー/プルート・テイラー・ビンス

2001/5/14/月 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
原題は「ナース・ベティ」看護婦ベティといったところでしょうな。いいじゃんこれでー、看護婦ベティ、いいじゃないですか。彼女のロクデナシの夫が死んでしまって、紆余曲折あれど彼女は一人自立の道を歩むんだから、夫の苗字であるところの本名をタイトルにしなくったってさあ、などと思うんである。そう!これは女の自立の物語。に、至るまではかなりの、ちょっとどうかと思えるぐらいの寄り道をするんだけど。これまではなんとなく男に寄りかかっているというか、自立しようとしててもどっか危なっかしかったりする役柄だったレニー・ゼルウィガーが、ちょっとした病的症状ながらも、やたらと前向きにガンガン突き進み、ついにはこれから何が始まってもいい、何が開けてもいいという、期待と夢に満ちた女一人のスタートラインに立ち戻る、そのポジティブさが素敵ッ!「ザ・エージェント」以来のカワユサで、この年頃に現われてくる目じりの笑いじわなんぞも可愛くて。思い込みの激しさが気味悪さじゃなくカワユサになるのは、やっぱり彼女ゆえだろうなあ。

女ったらしの下品なダンナに当のベティのみならず、周囲のみんなも同情している今日この頃。と、いうぐらい、そう、町に住んでいる人のことがみんな判ってるくらい、小さな町で。カンザスの小さな田舎町、ベティのダンナ、デルがいうところの、住人はみんなアホばかりの町。でもほんとにアホだったのはヤバいヤクを手に入れて、それをこともあろうに元の持ち主に売りつけようとした、このデルであり、彼はそのことでなんと頭の皮をはがれて殺されてしまうのである。それをたまたま見ちまったベティは、ショックのあまり、とん、と夢の世界に入り込んでしまう。

ベティの夢の世界、それは、大、大、だーい好きなデヴィッド医師が活躍する昼メロの世界。彼女はこの世界に憧れて看護婦の道を目指しているくらいなのだ。ロクデナシの夫から自立しなきゃということもあって、彼女がウェイトレスしてるダイナーのみんなも協力してくれている。その矢先の、予想もしなかったこの事件。彼女は、ドラマの中で妻を失ったデヴィッド医師が新しい出会いの予感を感じているという台詞に反応、自分が劇中の(というか、彼女にとってはホンモノの世界の)彼の、元婚約者であるとなぜか思い込み、彼の勤める劇中の(以下同)病院に向かうべく車を走らせるのである。その車の中にはかのヤクがあり、犯人二人が追っているとも知らず……。

彼女のこの、ショックから来る故の強烈な思い込みが、ある種の人を惹きつける魅力となって、周りのみんなを巻き込んでいくのが凄いんである。唐突に遭遇する銃撃戦で(っつーのも凄いけど)怪我をした青年を救ったベティは、そのことでとある病院の薬局の仕事を得、その青年のお姉さんであるローザの家に居候することになる。ベティの妄想に困惑しながらもほっとけない熱いスバニッシュの女、ローザといい、ベティを追いかけるうちに作り上げられていく彼女のイメージの虜になる引退間際の殺し屋、チャーリー(モーガン・フリーマン)といい。そして極めつけはベティの目的である、デヴィッド医師を演じるジョージ・マコード(グレッグ・キニア)。ベティの目を覚まさせるためにローザが上司の弁護士のコネでとある慈善パーティーにもぐりこみ、ホンモノの彼とベティを引き合わせる。ベティの完璧な夢の世界は、ジョージに彼女がすばらしい天分のある女優の卵だと思い込ませ、さらにその意味を越えて彼女に惹かれてしまうのである。

でも、ベティを本当に目覚めさせたのは、殺し屋、チャーリーであった。このチャーリーを演じるモーガン・フリーマンがねー!さすがの上手さ。もともとはチャーリーと息子であるウェズリーの殺し屋コンビは、殺し屋とはいいつつ、デルを殺すつもりなんてなかった。というか、チャーリーにはなかった。まだ青二才ですぐカッとなってしまうウェズリーが、早まってデルの頭の皮をはいじまったことで(早まってやることかい!)、チャーリーもついつい焦ってデルを撃ち殺しちまうんである(というあたりも彼らの二流ぶりを示してるんだけどねー)。取り戻すはずのヤクのありかは、ベティが乗って行った車の中。というわけで彼らは彼女の後を追う。で、先述したようにチャーリーはその間にベティの虜となるわけだが、ついに彼女と再会した時、その時はもう壊滅的な状態で。

ベティはジョージに罵倒されて目が覚めている状態で、国に帰ろうとしており、そこにチャーリーとウェズリーのみならず、国から追っかけてきたベティの元同級生で新聞記者のロイと、保安官のバラードが訪ねてきてて、しかも彼らはとかく掛け合い漫才みたいな押し問答。しまいには録画していた、かの昼メロをこの番組のひそかなファンであるウェズリーのご所望で見ることとなり、登場人物がレズビアンだったとかの意表をつく展開に彼は目を丸くし、その隙に縛り上げられていたロイとバラードが反撃してまたまた銃撃戦!

んで、なんでベティを目覚めさせたのがチャーリーかというとね、まあ、幻想の世界から抜け出したのは、ベティがただのファンであることを知ったジョージが彼女を罵倒しまくったからなんだけど、ここで夢想し続けたベティにようやく出会えたチャーリーが、彼女に、あんたは大丈夫だと、男がいなきゃ生きていけないなんてことはない、40年代じゃないんだから、と優しく励ますのだ。これをね、モーガン・フリーマンが、その優しくて知性的なキャラももちろんのこと、初老の黒人である彼がいうからこその、この胸にズーンとくる説得力。んで彼が別れ際、そっとベティの頬にキスする、なんとも言えない優しい場面も素敵なのだ。でも彼、外に出たとたん、駆けつけた警官に射殺されてしまう。この悲しさ。

この場面では、でも一組のカップルも生まれてたりするんだよなー。もちろん危機的状況なんだけど、どこかマヌケな可笑しさのある空気の中で、水槽に銃弾が打ち込まれて、ローザの飼っているコイが飛び出しちゃう。彼女が、私の魚が……と悲痛の声を上げると、一緒に縛られてたロイが「ニシキゴイ(ちゃんと日本語のニシキゴイの発音なの)だろ」「知ってるの?」てなわけで、彼女のニシキゴイを救い、その後のシーンではしっかりというかちゃっかりというか、ロイは彼女のスペイン家族の一員に迎えられて、彼女とラブラブになっているという……。

一方ベティはというと、かの事件ですっかり時の人となって、カンザスまで追いかけてきたジョージから再度出演以来をされる。「これ以上ハンサムだったら犯罪だわ、っていっていたけど、でも中身はサイテー男ね」とキョーレツに、しかもニッコリといい放つベティのカワユイ強さよ!ジョージはひるむものの、何といわれてもいい、と彼女に懇願、今度こそ本当にベティはドラマに出演することとなる。それも彼女のアイディアをふんだんに盛り込んだ脚本で、しかもしかも、人気が出て60話あまりものレギュラー出演!ラストシーンは彼女が大陸横断する時に立ち寄ったバーで出会った女主人が懐かしんで話してくれた、アコガレのローマのオープンカフェでお茶してて、その店に置かれたテレビでイタリア語吹き替えでこのドラマが放送されており、冒頭のベティのごとく、おっちゃんギャルソンが釘付けになっているという……。ちょっと照れ笑いしてベティは店を出て、カメラは俯瞰になり、一人で街を楽しげに歩いてゆく彼女をとらえる。キュートなファッションと豊かで素直に伸びたブロンドがほんと可愛くて、それは30前後という歳が醸しだす不思議な可愛らしさで、その広々とした視界と踊るような足取りが、彼女のこれからの未来の展望を楽天的にとらえていて、ハッピーな気分。

思えば幻想の世界で思い込み一直線だった時も、それは完全に現実から逃げて後ろ向きな筈なのに、なぜだかこうしたポジティブな明るさを感じちゃうのがポイントなのだ。ジョージを動かすこととなる、彼女の思い込みっぷりの、大マジがゆえの可笑しさはほんと、絶品。コメディ部門のゴールデン・グローブ賞を受賞しちゃったという快挙もうなずけるんである。★★★☆☆


ベンヤメンタ学院INSTITVTE BENJAMENTA
1995年 105分 イギリス モノクロ
監督:ブラザーズ・クエイ 脚本:ブラザーズ・クエイ/アラン・パス
撮影:ニック・ノウランド 音楽:レシュ・ヤンコウスキ
出演:マーク・ライランス/アリス・クーリジ/ゴットフリート・ジョン/ダニエル・スミス

2001/1/30/火 劇場(シアター・イメージフォーラム)
5年程前の公開時観逃してしまった作品なのだけど、何故だかそれからずっと気になり続けていた。A4版の変形版チラシはスタイリッシュなモノクロ、そこに映し出されたなで肩で奇妙なほどにきちんとした襟元をした男性の横顔、「ベンヤメンタ学院」という、内容のつかめないタイトル。このブラザーズ・クエイという、写真で見ると妙に悪魔的でぞっとするような双子監督の作品は他のものも一切観たことがない。だから余計に観たかった。そして急になぜだか訪れた再映(なんだか最近こういうことが良くある)、喜びいさんで足を運んだ。

チラシで見ていたよりもっとやわらかいモノクロ映像は、ドギマギするほどの細部のクローズアップをしてみたり、逆にボカしすぎたり、どうなっているのか一番覗いてみたいところが画面から見切れていたりと、とにかくこちらの期待も予想も細かくはぐらかし続け、意表をつく映像展開を、しかもしれっと、静かに差し出してくる。だからずっと目をあけていたはずなのに、眠っていたんではないかと錯覚するほど(眠ってたのかな……)、そこで何が起こっているのか判らずにずっととまどったまま。それでもなぜだか「判んねえよ!」と怒る気にはならないのだが……前衛芸術のようでいて、そこまでワケワカラナイという訳ではない。主人公のヤコープが戸惑いの表情を見せるからいいのかもしれない。観客であるこちらも、彼と同じようにそこで起こっていることに目を丸くしながら、しかし次第にその世界が自分のものとなってゆく。

原作本をベースに「白雪姫」と「シンデレラ」の要素を取り込んでいるという。ベンヤメンタ学院とは、人に服従することを学ぶ、いわば召使の専門学校らしいのだが、そこでは教室は一つきり、生徒は8人(だったと思う)きり、実際に教える教師は校長の妹である女性一人きりである。すでに始まっていたその学院に、ヤコープが入学したいと訪れてくる。彼が頑丈に閉められた、しかしなんとなく小さめの扉の前にぶら下がったベルのひもを引くと、のぞき窓から彼をのぞくのは、猿。彼はとまどいつつも、そのまま人間が出てくる気配がないので、その猿に向かって入学したい旨をつげる。その奇妙な冒頭部から戸惑いと同時に何故だか心惹かれ、吸い込まれてしまう。

もっとも奇妙なのは、そこで学ぶ生徒たち。何といってもヤコープに自己紹介をする時、名前を言って前方に倒れこむというのがワケが判らない。倒れこんで、画面の下に消えていってしまう。その下を映さないから、彼らがそこでどういう体勢をしているのかが、見えない。この最初から、ずっと最後まで、観客の観たいと思っている部分を実に意地悪に排除しているのだ。

ヤコープは、この奇妙な7人のセンパイたちとは違い、一人だけ普通の人間が紛れ込んだような形である。彼は一人だけ個室を所望する(全寮制なのだ)。割と臆せずにワガママを通すのである。その彼に校長も女教師リーサも惹かれてゆく。しかし何故彼に惹かれるのか。その基本部分でさえ不可解である。この生徒たちも校長もリーサも奇妙だが、一番奇妙なのはただ一人普通に見えるヤコープなのである。それもまた不思議なのだが……このメンツの中にいるから普通の人間のヤコープが変わって見えるのか、あるいは逆にヤコープこそがただ一人奇妙なのか。

ここが召使の学校で、ヤコープもまた「人に仕えたい。贅沢な人生は望まない」と言って入学してきたにもかかわらず、それに反する行動ばかりをしているせいかもしれない。反する、というのも違う気がするのだが……ヤコープ程度のふるまいは実に普通の人間のなせる行動で、しかしここにいる生徒たちは実際に仕えているわけでもない校長や教師や、あるいはこの学校そのものにすでにひれ伏せん勢いなのだから。盲目的に従順な7人の男、なるほど「白雪姫」だ。すでに7人そろっていたところに紛れ込んできたヤコープはニセモノの服従者だったということか。延々と繰り返される、テーブルセッティングやへりくだる台詞の反復や滅私奉公の(まさしくそれだ)心構え、そうして作り上げられていた一つの世界を、ヤコープが壊してしまうのである。

校長とその妹である女教師、リーサはただならぬ関係にある……と言っても、実際にそうした行為に及んでいるかはよく判らない。リーサは生徒の中の一人であるクラウスという男のことも宗教的な、妄想的な言葉で褒め称えたりするし、どうも良く判らない。校長は最初からヤコープに色目を使い、彼こそがこの学院を終わりにしてしまったのだと、暗に彼への執着の気持ちをそんな風に示唆する。リーサがヤコープに惹かれるのは、ひょっとしたら兄である校長のそうした気持ちへ無意識にあてつけているのかもしれない。しかしそんな風にはさまれるヤコープは、ちょっと困ったような顔をしているだけである。……やはりヤコープはどことなく不気味だ。

このクラウスという男が、最初からヤコープ以上に不思議な存在感を発している。彼はリーサの持つ不思議な一室、金魚が一匹入っている、レンズのような水槽が置いてある部屋をただ一人知っている人物。そこをヤコープもまた知ることになるのだけれど、その時ヤコープはその秘密の部屋を「ただ金魚がいるだけの部屋だ」とまあ、しごくもっともな感想をもらす。彼のこの感覚がベンヤメンタ学院が守り続けてきた世界を崩壊させてしまったのだろう。閉鎖的に守られてきたものが、白日のもとにさらされ、何の意味も持ち得なくなってしまう。ヤコープにそんなつもりもないのかもしれないが。彼がなぜ召使学校に来たいなどと思ったのかすらも判らない。彼は人に仕えるような人間ではない。

と、こんなふうにストーリーやその意味するところに頭をめぐらすと、この作品の魅力を全て取りこぼしている気がするのだ。本作はその戸惑い、幻惑、不思議でどこか恐ろしいおとぎ話の感覚がすべて。それに身を任せていればいいのだと。意味を持たない台詞がどんどんと大きくなり、耳をつんざくような音楽とともにクレッシェンドの最高潮に達する、絶望を表現するような手法、何かを言っているのに、衣擦れの音しか聞こえてこないミュートされた奇妙な生徒たち、先述したような、はぐらかす映像展開、そうした理解を超えるものに、それでも何故だか奇妙なシンパシィを感じる心地よさ。

本作はだから、そうした人間の説明のつかない奇妙な部分を抽出し、でもほら、心のどこかで判るでしょ、と言っているような、なんだか催眠術のような作品なのだ。★★★☆☆


トップに戻る