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「え」


1999年鑑賞作品

永遠と一日MIA EONIOTITA KE MIA MERA
1998年 134分 ギリシャ=フランス=イタリア カラー
監督:テオ・アンゲロプロス 脚本:テオ・アンゲロプロス
撮影:ヨルゴス・アルヴァニティス 音楽:ヨルゴス・パッツァス
出演:ブルーノ・ガンツ/イザベル・ルノー/アキレアス・スケヴィス/デスピナ・ベベデリ/イリス・ハジアントニウ


1999/5/13/木 劇場(シャンテシネ)
ふとふりかえってみると、私はアンゲロプロス監督の作品を殆ど観ていないのであった。「霧の中の風景」だけだ。それももう10年近く前になる。別に避けていたわけではないんだけど(「霧の中の風景」は印象的だったし)。

作家が入院直前の最後の、“普通に生きている一日”を、過去の思い出とのカットバックの中に描く。作家、ではあるけれど、彼は近年詩人(ソロモス)の研究に取り組んでいて、彼自身にも詩人の匂いが染み付いている。そして、少年。殆ど何も喋らない少年。これはまるで「パーフェクト・サークル」ではないか。言葉をあやつる老人と、その言葉を内面に隠し持ったままの少年。あるいは、託すべき言葉をまだ少ししか持っていない少年。大人になるということは、言葉をためていくことなのかな、と思ったりもする。それは自分を表現する語彙が増えることでもあるけれど、同時に、言い訳をする言葉を出来るだけ多く用意することでもあるかもしれない。両作品の少年とも、与えられた状況の中で必死にあがいている。言い訳の言葉を持た(て)ず、それを持っている大人にすがり、時には軽蔑の眼差しも投げるかもしれない。

娘に託す妻の残した手紙の中から彼女が自分に対する思いを綴った一通を見つける作家。一瞬にして30年前の世界に飛ぶ彼は、そこが夏の日なのに、冬の格好のままだ。そして同じく年老いている。夏の陽光がすみずみまでふりそそぎ、娘の誕生を祝うのに集まった人々は陽気に歌い、踊る。現実世界で寒々しい中を(冬のせいばかりではなく、政治的状況も描かれるため)少年とさまよう作家はなにかことあるごとにこの夏の日にジャンプする。そのうちこの夏の日が、過去ではなく、あの世の世界に見えてくる。もう今はいない妻、まだ言葉を持たぬ娘。白っぽい光に満たされた楽園。もし、もしこの作家が「ワンダフルライフ」のようにたった一つの思い出だけをあの世に持っていけと言われたら、この夏の日を選ぶのかもしれない。気づいてやれなかった妻の気持ちが横溢しているこの夏の日を。

現実世界の作家は病魔にむしばまれ、絶望的な政治状況が描かれる。そこで詩が、詩人ということがこれほど力のない、意味のないこととなるとは……。幻想のように出てくるくだんの詩人、ソロモスも、この世界では見事なまでに血肉を持つことが出来ない。しかしこの映画自体は詩的感覚に満ちている。言葉を越えたところで。いや、詩的な世界とは逆に言葉を持たないものなのだ。言葉にすると、とたんに力を失ってしまう。それは、詩の言葉には時に説明が必要になってしまうから。説明が必要になるということは同時にそれが学問になってしまうことを意味する。学問自体は素晴らしいものだけど、現在進行形での芸術の力は失われてしまう。古典文学がそうであるように。

詩は古典であろうが現代詩であろうが、どこか解説が必要な性質を持っているように思う。詩自体が古い芸術形態なのかもしれない。あるいは現代に生きる私たちが詩という芸術を感覚的に受け入れることが出来ないほどに退化してしまっているのかもしれない。映像は言葉を使わずにその詩的感覚をそのままに表現することが出来る素晴らしい芸術だけれど、それが私たちが芸術(あるいは言葉の芸術)を咀嚼する力を失わせる原因になっていると思われなくもない。この作品の中で言葉の芸術は戸惑っているかのように、居場所がなく、さまよっている。少年が拾ってきてくれる言葉も、暗示的な匂いを感じさせはするものの、この作品に何かを投げかけるところまではいかない。どこかこの作家、詩人という設定も意味のないものに思えてくる。

しかし、あの検問所のようなところ、白い霧の中で、鉄条網に人々が貼りついて動かないでいてドキッとさせるのだけど、そしてあれは多分彼らはみなその格好のままで死んでしまっているんだと思うのに、その固まった姿勢に耐え切れなくなった数人が微妙に動くのがどうしても気になって、可笑しくて……いいんだろうか、あれは?少年と作家が最後の別れにバスに乗る場面で、次々と様々な客が乗ってくる……はてはバスの中で弦楽演奏会までやりはじめる三人もいて。様々な人生をあのバスに込めたのだろうか……人生を乗せて走るバスってやつか?ちょっと判りやすすぎる手法でこっぱずかしかったりして。

2時間以上のかなり長尺で、長まわしも多いが不思議と退屈はしない。それは多分、作家を演じるブルーノ・ガンツの魅力のせい。少年の方は、この手の作品で好演を見せている子役たちほどには強い印象を与えてくれないのだけど。重たい、黒いコートを着て、白いひげと深く刻まれたしわを持つB・ガンツは、素直にカッコいい。詩人(あ、作家か)とか、もうすぐ死んでしまうとかいう立ち枯れた雰囲気はそれほど感じさせないものの、人生の機微をその全身に染み込ませているようで。冒頭とラストに印象的に流れるテーマ音楽も素敵だった。

と、美しく締めたいところだが、この日来ていた観客の一人がねー……。後ろに座っていたから顔は見えなかったものの、多分ご老人で、たんのからまった老人咳を映画の間中ずーっとしていて、時々ティッシュに吐き出している音まで聞こえてきて、もう雰囲気ぶち壊し。おーい、自分がどんなに迷惑かけてるのか判ってんのかい?どうせシニア料金で観てるんでしょ、もう一回出直してこいっつーの!★★★☆☆


「英二」
1999年 分 日本 カラー
監督:黒土三男 脚本:黒土三男
撮影:戸澤潤一 音楽:笛吹利明 長渕剛
出演:長渕剛 イ・ナヨン 若林しほ 高橋長英 松村達雄

1999/5/22/土 劇場(丸の内東映)
なにもここまで辛い点をつけることもないかな、と思わなくもないんだけど。だってさあー、オープニング・クレジットで二番目よ、二番目に名前が出ていながら前半たった2分の出番とはどういう事なのお!?そう、哀川翔である。私は彼の名前がキャストにあったから観に行ったようなものなのに……これでは「ダンジェ」の二の舞ではないか……ううう、どうしてくれよう。ま、いくらなんでもそのせいだけではないんだけど。うーん、あまりにも凡庸すぎるというか、平均点をつけるのもめげる程の平凡さというか……ココがある、というものをどうしても見つけられない辛さ。これならかえって腹が立つほどの作品の方がまだ印象に残るってもんだ。哀川翔目当てだったから、この作品が過去のTVドラマを下敷きにしたその後の話、そしてシリーズ化をねらっているということすら知らずにいた。哀川翔はそのTVドラマに出ていたのかな(「とんぼ」?)、そこで重要な役をやっていたからとりあえず出しときましたって感じなんだろうか……それにしても……。カッコつきで友情出演になっている石倉三郎より出も見せ場もないではないか!

主役の英二に扮する長渕剛が、そのいでたちほどのカリスマ性を感じさせてくれないのである。黒づくめにサングラスで、カッコよくたばこを吸うしぐさまではいいんだけど、そしてケンカシーンでは体重ごとぶつかってくるリアルなアクションでまあまあ見せるのだけど、結構いい人、の柔らかさの方が目立ってしまう。彼を崇拝する若いチンピラが出てくるあたりもあまりにも定石どおり。悪玉であるヤクザも単純極まりなし。

女がね……女もまた平凡なんだよなあ。中国からだまして連れてこられて、言葉も何も判らず、人間扱いされていなくて、心身ともにボロボロになっている梅花。彼女が殴られた後、必ず振り返ってキッとした目を見せるのが、弱いだけの女を出すことによって批判されるのを恐れるように、実は芯は強い女なんだとせこく主張しているようである。それで結局彼女を死なすんだから、悲劇のヒロインそのまんま。川に浮かんだ彼女をざぶざぶ入っていって引き上げ、人工呼吸をする英二を、救急隊員や野次馬が取り囲んでいるのに、彼女が息を引き取り、英二が(やけに時間をかけて)彼女を泣きながら抱きしめるシーンを徐々にカメラが引くと、なぜ周りに人が誰もいないのだ??二人の世界かい?おーい、恥ずかしすぎるぞ。

彼女の仇を討ちに、組事務所に乗り込む英二……はいいんだけど、マシンガンを組員に向かってぶっ放した後に「どけ、お前らに恨みはないんだ、組長に会わせろ」って……言ってから撃てよ……もう何人か死んでるって……。そして組長の元にたどり着き、組長に向かって、「金より人間の心だろ!」みたいな、やけに人情に訴えた、しかも平凡極まりない説得をする英二にはあ?という感じ。どうやらここで泣かせに来ているらしいのだが(BGMや、カメラの寄りなんかから察するに)これで泣けとはかなり無理な相談だぞ……(長渕ファンなら泣くのかなあ)。しかしもっと恐ろしいのは極悪非道の限りを尽くした鉄面皮のはずの組長が、この説得に心打たれたらしく、英二の言うとおり自害するという展開で、もう目が点である。おいおい、それなりに思うところがあって、金がすべてだというポリシーを持つに至ったんじゃないのかい?これしきのことで自責の念に駆られるほど弱いボスだったのかあ?組員も救われないわな。

前述した哀川翔や石倉三郎はもちろんだが、結構出のある松村達雄の役どころも(英二を影になりひなたになり助けるという)平凡で、松村氏の独特の存在感は大好きだけど、これといって言うべきものはないのである。いかにも人情に訴える時に出てくる、苦労の末、平凡ながら幸せな結婚をしたけなげな妹(若林しほ)の存在もまた同様である。とにかく何一つとして突出したものがないんだよなあ。しかも、このタイトル、全然関係ないのにどうしてもあのエポックメイキング的な作品、「竜二」を思い出しちゃうじゃないの。それって辛すぎるぞ……。

これでシリーズ化したら、怒るよ。でも万一そうなるなら、今度はちゃんと哀川翔の出番を多くしてよね、頼むよ、ほんと。★☆☆☆☆


AMYエイミー/AMY
1997年 103分 オーストラリア カラー
監督:ナディア・タス 脚本:デヴィッド・パーカー
撮影:デヴィッド・パーカー 音楽:フィリップ・ジャド
出演:アラーナ・ディ・ローマ/レイチェル・グリフィス/ベン・メンデルソン/ニック・バーカー

1999/12/23/木 劇場(シネスイッチ銀座)
最近は本当の意味での“天才子役”が多くって参っちゃうよなー!いわゆる昔の安達裕美的ないやみったらしい上手さじゃなく。本作の主役、タイトルロールのエイミーを演じるこのアラーナ・ディ・ローマもなんという素晴らしさなのだろう!ああ、またしてもあっさりと陥落、泣かされてしまいました。それもたまらない思いでエンドクジレットまで胸がつまっているのをどうしようもなく、延々と泣き続けてしまった……。

とはいえ、本作の大きな魅力は、不幸の中に存在するあたたかな明るさである。ギャグではなく、ユーモアでこれだけ笑わされるのは久しぶりで、おおいに気持ちがいい。エイミーはカリスマ的ロックミュージシャンだった父親がステージで感電死して以来、耳が聞えなくなり、声も出なくなってしまった。福祉局の人間から逃れるために田舎からダウンタウンの一角に越してきた母親とエイミー。父親をほうふつとさせるような、ギターをかき鳴らしてやけっぱち気味の歌を歌う隣人のロバートあんちゃんに近づいて歌で答えるエイミー。彼女は歌でならコミュニケートできるのだ。この設定の面白さ。しかしなんでもこれは実際にある症例だというのだから驚いてしまう。不謹慎だけど、そうだとしたら、世の中楽しくなるのになあ、などと思ったりして。だって、みんながエイミーと話したくて、歌い出すんだもの!

最初にエイミーとお話できたロバートの主張を証明しようと、二人の若い警官が♪僕らは警官〜、好きなのはハンバーガー〜♪と、しかもエイミーの前に片膝ついて歌い出すのには爆笑!そしてエイミーの耳が聞えないと最初に知って「クール!(スゲエ!)」を連発する悪たれ小僧がなんたってイイ。彼の趣味は車のホイールを集めること。部屋中ところせましとホイールが飾られている。歌でエイミーと話ができると知った彼が、そのホイールで作ったパーカッションセットを叩きながらエイミーに歌で話しかけるシーンの愛しさよ!彼は両親が不仲で、というより、父親が酒飲みで大好きな母親に暴力をふるうことで心を痛めていて、夜、両親が喧嘩している家を飛び出して、外で声を殺して泣いていたりする。その痛ましさ。

でもこの彼にしても、エイミーにしても、子供の素晴らしいところは、そうした不幸によって、楽しい時までをも塗り込めてしまわないところなのだ。楽しい時には楽しいことだけを考えていられる。心の中で、二つ(あるいはそれ以上)の感情を両立していられる。これは、子供の素晴らしい資質。「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」がその代表的作品、そしてその資質が次第に失われていく年頃を描いていたのが「どこまでもいこう」。だからこそ子供には救いが、可能性が、未来があるのだ。

エイミーが歌いだしてからの彼女の輝くばかりの愛らしさには本当に驚いてしまう。この年で、この圧倒的な歌唱力は何たることだ!水撒きばかりしている、隣人のガンコばあさんに♪こんにちは、マリンズさん〜と話しかけ、疎ましがられてもひるまず、♪またね、マリンズさん〜と歌いながら去っていく彼女、あー、カワイイ、もう!そう言えば先述のロバートがエイミーと歌で会話ができると知り、家に閉じこもりがちな彼女を公園に連れ出すと、母親が誘拐されたかと激怒するのだが、こんなカワイイコなら確かにちょっと連れて行きたくなるもんなあ!?

エイミーと同じように、彼女の母親もまた、自分の夫の死からこっち、心を閉ざし続けていたのが、ロバートをはじめとした(最初はとっつきにくかった)隣人たち、そして外部の人間の中でたった一人の理解者である児童心理学の医師によって救われていく。エイミーを愛していながらも、実際には夫の死の悲しみで心がいっぱいになっているこの母親、でもエイミーは無意識的にも、その悲しみが自分と同じだという、同志的な共有感を感じているのだと思う。大人であるこの母親は、不幸のパワーが救いの明るさをも塗りつぶしてしまうから、なかなかそこまで到達できてない。

ついに福祉局の人間に“保護”されてしまったエイミーを救いだそうと、くだんの医師と母親が施設に向かうも、彼女は逃げ出してしまってもぬけのカラ。彼女を探し出すために、方々を歌いながら探す人々の姿が、あたたかい笑いを提供してくれる。特に驚いたのが、エイミーの呼びかけにも決して答えなかったあのガンコばあさんが、お腹に手を当て、背筋をピンと伸ばして夜の往来でオペラ歌手ばりに歌い上げる場面!そしてまたしても警官、それも大人数の警官隊が♪ぼくらは捜索隊〜、怖くないよ〜、出てきておくれ〜♪と、もうすっかり完成されたメロディとユニゾンで合唱しながらザクザク進んでいくのにはまたしても爆笑につぐ爆笑!もう良すぎるわ、ほんと。

しかしここからが泣きどころなんである。この、捜索している夜の公園では、ロックイベントが行われていて、エイミーの父親の曲を演奏している。エイミーは「パパ!パパ!」と泣き叫ぶ。それを見つけた母親とロバート、医師が駆けつけ、エイミーを保護。(普通に会話する声は)聞えてないという母親をよそに「エイミー、パパのお話をしておくれ」という医師にエイミーが泣きじゃくりながら答える。「あたしがパパを殺したの!あたしがパパを殺したの!」……それまでも何度となくこの父親のステージでの事故場面は母親の回想によって挿入されていて、そこでは、ステージ上の父親に駆け寄ろうとするエイミーを、舞台袖で母親が抱きとめていた。そしてその直後、父親はステージのケーブルに足を絡ませて転倒、どこかの線が接触したのか、おりからの豪雨も原因して感電、火だるまになって死んでしまう。その強烈なトラウマとなる記憶。エイミーの中では、自分が駆け寄ったことによって父親が転倒し、死んでしまった記憶にすり替えられていたのだ。たとえようもない自責の念。この小さな体の中で、そんな痛ましい記憶を四年間もずっとずっと抱え続けていたなんて、想像を絶してしまう。そのエイミーの心の痛みを思って、もう泣くしかないんである。だから、ここでの涙は感動とひとくくりに言うにははばかられる、もっと痛い涙。もちろん、エイミーが自分の記憶違いに気づいて(普通に会話する)声を取り戻すハッピーエンドは感動的だけど、それを迎えてさえ、彼女の痛みに、エンドクレジットが流れる間も、ただひたすら滂沱と涙が落ちてしまう。

母親はそんなエイミーを抱きしめ、ここではじめて彼女が“同志”だったことに気づくんである。「あの事故の話を、私はずっとしなかった」と、自分だけが苦しんでいるように思っていたことに。哀しい過去を乗り越えるには、忘れようとするのではなく、それを昇華し、自分のものにしてしまうこと。泣き疲れて眠るエイミーを膝にのせて、車の窓から、亡き夫の、手を振って去っていく後ろ姿を“見る”母親の目からはとめどもなく涙があふれるけれども、でも、ここでの彼女の涙はそれまでのそれとは明らかに違う。

記憶を持つこと、人を愛すること、そして音楽は、人間の持つ素晴らしい能力。それが単純に幸せとして機能するのではなく、複雑にからまりあって、でもだからこそ人生。記憶(思い出)は、愛は、音楽は素晴らしいのだと、思わずにはいられない。もちろん映画も!★★★★★


「A」
1998年 135分 日本 カラー
監督:森達也 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:森達也 安田卓治 音楽:朴保(パク・ポー)
出演:荒木浩

1998/6/1/月 劇場(BOX東中野)
かの上祐逮捕後、オウム真理教の対マスコミを任された荒木浩広報副部長に密着したドキュメンタリー。これがむっちゃくちゃ面白かった。あんまり面白くて、二回も観てしまった。優れたドキュメンタリーとは、エンターテインメント性や、ユーモアさえも内包している。これほど主義主張が示されない映画は初めて観た。それがドキュメンタリーであっても、いや、逆にドキュメンタリーだったら余計に、そこには作り手の主張が表れてしまうのものなのに、それを注意深く避けている。それがこんなに興味深い結果を生むとは!一回目は、ドキュメンタリーであるにもかかわらず、純粋な映画的な面白さに心惹かれていたんだけれども、二回目は、頭の中に理解しようとするための言葉があふれて止まらなくなった。よって、何から書いていいのか困ってしまうのだけど……。

オウムに関して、人々がヒステリックになるのは、凶悪犯罪に対する感情のほかに、彼らを理解できないという理由があるのだと思う。オウムに限らず、統一教会や、幸福の科学など、一連の新興宗教団体に対する反発と非常に似ているからだ。時として、クラシックなキリスト教に対してすらその態度は見て取れる。日本人が“なんとなく”受け入れられるのは、やおよろずも神様がいて、大抵のことは許してくれる神道と、唯一神でありながらやたらと寛大な仏教だけだ。オウムはその仏教から派生したものではあるけど……その意味では真言宗とか禅宗とかこれまでだっていくらだって枝別れはしているんだけど……それらの派がもはや職業としての坊さんが冠婚葬祭を取り仕切る程度の機能しか持たなくなっているのに対して、そうした場ではなく、自らを高みに持っていってくれる修行の場が用意されたオウム信者になった気持ちはとてもよく理解できる。仏教の教義を根底にしたオウムに対する信仰が揺るがないのは何の不思議もないし、それが悪いこととも思えない。

ただ一つ理解できないのは、グル(教祖)である麻原に対する感情も揺るがないこと。「尊師がどういう人間であってもかまわない」「世の中の矛盾に答えを出してくれたのは尊師しかいなかった」という信者の言葉が取り込めない。でも、それは当然のことなのだろう。だって、私たちは麻原に直接相対していないのだから。彼は多分本当にカリスマ性のある人物なのだろうし、信者たちが言うように何に対しても答えを出してくれる、導いてくれる人物だったのだろうと思う。ただ、問題は麻原が教祖ではあっても一人の人間で、神様ではなかったことだ。教団のトップに君臨した、どこからか彼はねじまがっていってしまったのだろう。信者たちにとっては、親を刷り込まれたヒヨコが、どんなことになっても親と認識するしかないのと同じように、麻原に対する感情は変わらないんだろうと思う。多分、純粋な人であればあるほど。

荒木浩広報副部長を中心とする信者たちは驚くほど普通で、こちらのイメージ……マスコミによって作り上げられた、カルト的な雰囲気は皆無。多分麻原とは違って欠点や弱点をさらけ出しそれをまっすぐ見つめる、それがゆえに魅力的な人間臭さを持ち、無邪気で、屈託がなく、修行をしている様子も、ワイドショーなどでよく流されていたヒステリックな感じはなく、まさしく仏教的な静けさに満ちている。荒木氏がマスコミの喧騒から逃れて一人祈りをささげているところや、右翼団体のオウム弾圧の絶叫の中、一人黙想している場面なんかは、一種禁欲的な美しささえ感じるほどだ。彼が映し出されるいくつかの場面は、ドキュメンタリーという意味合いから離れて、非常に映画的な魅力に満ちている。教団施設が次々と壊される場面に立ち会う、静かで悲しげな表情はまるで滅びの美学、「ニュー・シネマ・パラダイス」なんて思い出しちゃったし、一張羅の背広はあってもきちんとした靴がなく、サンダル履きで他の人に靴を借りたりする奇妙な可愛らしさや、猫が荒木氏の膝にまどろむ場面の詩的さはドキュメンタリーとは思えないほどだった。もちろん、ラストの、まさしく青春映画のような故郷への帰郷、ドアに立って手を振る笑顔や、子供の頃の写真を見せるところも。

彼は穏やかなだけではなくひどく誠実な人物で、あの「ああ言えば上祐」の異常なほど弁の立つ人とはまるで正反対。そういう人物を広報責任者として仕立てたのもオウムの謀略だ、という批評もあったけど、その真偽はともかくとして、彼が全く純粋にオウムの教義を真理として信仰していて(信じている、のではなく)、純粋すぎるがゆえに、矛盾などは少しも考えてなくて、その矛盾点を突かれると絶句してしまう(一橋大学での質疑応答で、矢継ぎ早の質問に対して答えている場面が一つも挿入されないのが象徴的)、しかも、その意見に対してじっくりと考え込み、理解してから答えをつむぎだそうと努めている、その姿に非常に心打たれるものを感じるのだ。

これは、荒木氏だけではなく、信者たちがオウム関連の本や、記事や、テレビ番組等にはすべて目を通し、麻原批判に耳をふさぐことなく凝視し、本質を見極めようとして困惑し、あがいている姿にも見て取れる(これは結構意外だった)。『麻原オッサン地獄』なんて本を読んでいる信者に「どう思いますか」と問うた時、私が予期した“こんなのは嘘です”とか“信じません”という言葉は出ず、「……何とも言えませんね」とぽつりと言った言葉に表われるような。彼らの人生観や社会観、宗教、哲学は千年前の原点の思想のように理想的で純粋で、こんな人たちに社会へ出ろというのは無茶な話のような気がする。荒木氏の「もう一度出家したい」との言葉の切実さ、彼はこんなことをしているより、心静かに修行をしていたい人なのだ。

それにしても麻原の娘の、麻原クリソツさには笑ったなー。彼女が信者たち言うところの「毅然とした」態度で記者たちに問答する場面は、側で押しとどめる荒木氏や、代表代行の女性の苦笑の表情もあいまって、非常に可笑しかった。しかし、本部に戻った彼女が、記者会見とはうって変わった子供らしい笑顔を見せたのには、またしても少なからず驚いてしまったけど。

オウム信者以外のすべての人が、オウムは悪で、だからオウム信者に対しては何をやったってかまわない、という意識を何の疑問も持たずに(!)さらけ出しているという恐怖に初めて気づく。マスコミはカメラが正義だと信じて疑っていないのが、違うカメラをこちらがわに一台設置しただけでこれほど良く判るかという……。カメラは真実を映し出すと、信じきっている。それは多分、視聴者も。でもマスコミの、表層をなぞるカメラは扇情的な映像だけを欲しがり、アニメチックな音楽を施し、過剰演出を過剰とも思っていない。唯一、信者へのインタビューを撮ろうとしたNHKの女性インタビュアーが、カメラを向けると固くなってしまう信者と懸命に距離を縮めようとする、皮肉なことにカメラのテープが停止し、インタビュアーがマイクを向けずに言葉を捜しながら会話を進めている時に、信者の言葉がこちら側に届くシーンは印象的。

警察の不当逮捕のシーンは凄かった。自分の正義を信じて疑わず、ひどく軽蔑しきった口調で都合が悪くなると平気で嘘を言う。あまりにあからさまで笑ってしまうほど。一般市民も、そう。「謝ってもらって当然」「それが常識」と、強要する姿には何か寒気すら覚えた。正しいことと間違っていることというのはいつでもくっきりと別れるものではない。そもそも正しいこと、なんてはっきり定義できる事柄が一体どれほどあるというのだろう。そしてその中間にあるグレーな事柄を無理矢理どちらかに所属させたりして。そして“理解する”という言葉が、ここでは何と傲慢に聞こえるのだろう。大体、人間二人寄ったら理解しあうことなんて出来ないんではないか。理解できない、それがイコール悪になる恐怖、正義に安住する居心地の良さから、オウム信者の人権なんて思いも寄らないこちら側の人間の残酷な攻撃。「バカ集団」「極悪教団」「人間の顔をして人間ではない」「オウム信者は全員打ち首」こんな言葉を、多分この映画を観る前なら私もうなづいていたかもしれない恐ろしさ。森監督はなんと冷静な視点を持っていたことか。本当に驚嘆。頭が下がる。★★★★★


「A」 インターナショナルエディション
1998年 136分 日本 カラー
監督:森達也 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:森達也 安田卓治 音楽:朴保(パク・ポー)
出演:荒木浩

1998/12/17/木 劇場(BOX東中野)
インターナショナルエディションだから観に行ったというわけではなく、ただ単にもう一度観たかったからなんだけど、よって、またこれを書く気もなかったんだけど、今回は英語の字幕がついていて、ドキュメンタリーがゆえに会話が不明瞭でうまく聞き取れなかった部分が判ったりもして(というほど英語が判るわけでは勿論ないけど……)あらたに考えてしまうようなところもあって再び書いてみようと思ったのであった。

うーん、でもこのインターナショナルエディション、未公開カットも追加されているけど、いくつかの面白い場面が切られてしまっていて非常に残念。荒木氏への単独インタビューで、彼が性的な経験を全くしていないと語る場面や、一橋大学で女子学生が荒木氏に肩入れしていく過程(そのあと路上で破防法反対の運動をしている彼女にお茶を振る舞われる場面は残されているが、こっちの場面の方が残す意味があったと思うけど……)など。

逆に追加されている場面には、荒木氏が一人祈りを捧げる場面で、角度を変えた彼の顔のアップが数秒と、ある集会に出た荒木氏がその打ち上げと思しき居酒屋で、他の人たちがかなり出来上がっている中(当然酒にも肴にも手をつけず)、一人思いを巡らしているシーン、破防法適用の危機を迎えた時「やはりショックですね。生活の根幹のほとんどを占めていることが違法行為になるわけですから」と語るシーン(この言葉はなにか、こたえた)、荒木氏が本屋でオウムの記事が載った雑誌を数冊買い、プリクラやってる女子高生が「……オウム!?」とエスカレーターで降りていく荒木氏に一瞥を投げかける、そしてエスカレーターの降りていった先が食料品売り場で、荒木氏がそこをゆっくりと抜けていく場面……。やはり、節制をしているオウム信者である荒木氏が居酒屋や、そうした食料品売り場を通り抜ける場面はそれだけでなにかどきりとする。

もう一つ、日本人が観るだけなら必要なかった、事件やオウム真理教の説明的カットが、冒頭のテープレコーダーを聞く場面を切って設けられているのだけれど、ちょっとこれの扇情的な、悪い意味での劇映画的な編集が気になった。「エヴァンゲリオン」かと思うような、あるいは「特捜24時」かと思うような、黒地に明朝体の白字が瞬間的に挿入され、鳩が飛び立つとか、赤ん坊が泣いてるとかいった、直接関係ない、イメージを喚起する映像が執拗に繰り返されるのが、この作品が貫いている一貫した主義と合っていない気がしてなにか違和感があった。先のカットした部分も含めて、オリジナルバージョンの方がシンプルでよかったのになあ……。

今回英語字幕がついたことで聞き取れたのが、オウム信者が森監督に説明しようとして説明しきれない時に言う「……勉強してください」という言葉。これは一人だけじゃなく三〜四人言っていたように思う。なにかちょっと、ドキッとした。そうだよね、私たちは勉強していない。する気もない。オウム信者たちが世のオウム批判に耳をふさぐことなく、様々な媒体にもきちんと目を通して、それがゆえに苦悩にあがいているというのに、私たちはオウムを勉強することがない。テレビの報道を信じきってしまっているし、その報道を流す方だって勉強なんてしていない。ただただオウムは悪だ、狂信だ、と叫ぶばかりで、本当に、実際の教義で何を説いているかという宗教の根幹的なことすら学ぼうとしていない。オウムを学ぶことは自分がオウム信者、あるいはオウム擁護派として弾劾される恐れがあることへの恐怖があるのは無論だけれど、それだけだろうか。正義に安住する居心地の良さ(これは前にも書いたけど)にどっぷりとつかり、勉強することなんて思いも寄らなかったというのが正解なんではないだろうか。彼らが勉強してくださいと言う気持ち、すごく納得できる。だって、彼らはずうっとその勉強をしてきたのだもの。それを、いきなり理解できるように説明しろといわれて、しかも何の共通常識も持ち得ていない人に、しかもしかも矛盾をつついてやろうと待ち構えている気持ちの方が大きい人たちに、どうやって説得性ある一言が説けるというのだろう……。

世界は複雑で緻密な学問や哲学や宗教や芸術で支えられているのが魅力のはずなのに、そしてそれらは互いにリンクし、影響しあって不可分であることがよりいっそう深度を増した魅力になっているのに、実際は単純で浅薄な娯楽的要素が表層を覆ってしまっている。それがすべてでもあるかのように、大きな顔をして。無知であることを恥だと思わない恥ずかしさ。……それにしても本当に切ない映画だ。今回は内容はもう過去三回で取り込めていたせいか、そういうそれこそ単純な感情的な気持ちが尾を引いた。荒木氏、彼は何と切ない人なんだろう。この映画製作から二年。まだ30歳の荒木氏、今彼はどうしているんだろうか。★★★★★


駅弁 EKIBEN
1999年 108分 日本 モノクロ
監督:梶俊吾 脚本:
撮影: 音楽:
出演:梶俊吾 白鳥さき チョコボール向井 中居まひろ 剣崎進 田淵正浩

1999/10/25/月 劇場(中野武蔵野ホール)
駅弁、そう、セックスの時の体位の一つのあれである。こんなんをタイトルに持ってくるところと、それを文字どおりの駅弁売りのスタイル(上半身裸のマッチョマンのAV男優、チョコボール向井が弁当とお茶の入った木箱を首から釣り下げて仁王立ちしている)の写真で作られたチラシ、みょーに手作り風の(いや実際そうなのだろうけど)予告編などで、もうこれは、かなりフザけたオバカ映画なのではなかろうかと(期待する意味で)思っていたら、マジだった。映画監督を目指すAV監督を主人公に(監督が主演もこなしている)仕事に誇りを持っているAV男優、AVの仕事を経験することで芝居に目覚めていくAV女優を配し、AV界の厳しい現実、過酷な撮影現場をぎゅうぎゅうに盛り込んでいく。

駅弁、はこのチョコボール向井の専売特許らしい。しかし彼はそれが原因でぎっくり腰になり(笑)、しばし休養をとらざるをえなくなったことでスタッフはじめ周囲の人間のありがたみを知ったと語る(いい人だ)。このチョコボール向井が実におもしろいのだよね。その前のインタビューで、AV男優に向けられた差別的視線や、AV男優自身が自分の職業を隠したがる事について怒り、俺は確定申告の時にもちゃんと職業はAV男優と書くし、屋号のところにはチョコボール向井と書く、それで毎回ちゃんと通るんだ、と言い放つのだ。いや、確かに大マジなんだけど、屋号のところにチョコボール向井……笑ってしまった。

そう、ドキュメンタリースタイルなのだ。みんな実名だし。全てドキュメンタリーなのでは?とさえ思わせる。街角に一日10時間近く立って、週に一人か二人見つかるか見つからないかという女の子に声をかけ続けるスカウトマンなんかは本物の映像だし(なるほど、渋谷の109の交差点渡ったところ、確かにやたらと声かけてるお兄さん数人いつもいるもんなあ。あのお兄さんも顔見たことある気がする。……私は声かけられたことないけど……ふっ)、監督やチョコボール向井が自分の思いのたけを訴えるインタビューもそうだし。そしてあなたの彼や娘の恋人がAV監督だったらどうするか、という街頭インタビューもそう。このインタビューは面白い。女の子のなかには、そこで表現することに誇りを持ってやっているなら、別にかまわないという子もいたけれど、娘の恋人が……と問われた中年女性が「そんな人が結婚なんてできるのか」と言ったのは凄かった。

でも、全てがドキュメンタリーかと思いきや、“顔がバレては困る”と言っている“人妻”の女性もしっかり顔見せして出演してたりするし、大人のおもちゃを使おうとして、「こんな熱いのいやだ、こんなの聞いてない、あたしらがいなきゃメシ食えないくせに!」と非難するAVギャルとの攻防シーンもえらくリアルだけど、書かれたものだろうし、ドキュメンタリズムのなかでドラマを非常に面白く見せていく。極めつけはラストシーンで、外で焼き肉ランチをしているところで急に雨が降ってきて、カメラが引くと、屋根からホースで雨を降らせている(下手な雨なんだよねー(笑)。人物のところにだけほんとに水撒きみたいに降るんだもん)のを見せるところ。ドキュメンタリーじゃないんだ、これはドラマなんだと提示しているわけだけど、これは監督が、これから映画を撮っていくことを声高らかに宣言しているということではないか。

それというのも、監督が自分がやりはじめたという、リアリティを追及した、逆に言えばただホンバンをそのまま撮るだけのドキュメンタリースタイルをAV界が次々に真似し始めて、それは全部クソだ、と言う場面があるから。ドキュメンタリーは安易に、安く、時間もかからずに、誰にでも撮れるけれど、一番難しいものなのだ、と言いつつ、彼はドラマ、つまり本編映画を撮りたくてたまらないのだよね。最初、日本のAV界はハリウッドと同じく量産しているから、その中で競合して優秀な監督が出てくるのだ、と豪語していた彼だけれど、毎月市場に出るタイトルが数百本!という作品をまともに観て評価する人間などいない、結局男一人で見ていて、ヌケればいいのだ、と苦々しげに言う。AVビデオを取り扱っている業者も、これだけ出ていると何がなんだか判らない、たまに中味を見てみると、ベルトコンベアーのように事務的に作られた内容にガックリくる、と言う。しかし、これって、ハリウッド映画に対しても暗に批判しているようで面白い。

映画監督になりたくて日活芸術学院に入った監督が、ドラマを撮りたいけれどこの膨大なタイトルを毎月こなさなければならないAV界においてそれがだんだんとかなわなくなってくる。恋人には「私の一番嫌いな職業」そして、「あなたは一生映画なんか撮れない」とまで言われる。ヤケクソのようにファック場面ばかりをガンガン撮り、女優を罵倒し、理不尽な怒りをあらわにする。そんな時にあらわれるのが白鳥さき。なぜAVをやっているのか、とこれまで登場した女の子に対するのと同じように聞かれる場面で登場する彼女は、しかし、他の女の子とは一見して明らかに違っている。吸い込まれそうに大きくてきれいな瞳をしばたかせて、舞台や映画もやってみたいという彼女。

撮影において前述のように監督のやつあたり的な怒りにさらされ、ホンバンな体験で(ほんとにAVは本番でホンバンなのか!)恐ろしい目にあい、その大きな瞳から何度となく涙をこぼすのだけど、だからこそAVは面白いかもしれない、ここでもっと何かをやれるかもしれないと思ったと語る、タフな女の子なのだ。監督が無理をしてでもドラマを作ろうと思い立ったのはこの子に出会ったからこそ。スタッフからも批判の出ていた傲慢な態度を改められたのも、この子の存在ゆえなのだ。いいヒロインだ!それまで室内でファック場面ばかりを撮っていたところから一変、シーンごとにこだわって作り上げていく“映画”を撮るところでこの映画は終わる。まさしく、映画を撮りたかった男のハッピーエンド!

監督が全編を通して熱く語っている時に座っている椅子、その椅子だけがラストカットで映し出される。ペットボトルを差し込むところもついてたりして、あ、これって、ディレクターズ・チェアなんだあ、と気づく。も、めちゃめちゃ映画撮りたいお人なのだな。愛しいではないか。最初はなんでモノクロで撮ってるのかなあ、と思ったけれど、(どうしても入れなければならない)セックス場面が生々しくならないから、語るべき言葉がストレートに入ってくるし、記録映画っぽい感じも出てなかなかいい。AVにおけるドキュメンタリー感覚から、監督の目指す映画のフィクションへと柔軟に行き来する構成も上手く、正直予想外に面白かった。しかし、今手元にあるこの小さな、通常チラシの半分、B6サイズの変形版で、表のみの印刷のチラシしか資料がなく、キネ旬にも載ってないし、HPも存在せず。……うーん、埋もれてしまうには惜しい作品なのだけど。しかしこれ、しっかり英語字幕が入っているのは、海外展開を考えているのかしらん?★★★★☆


エバー・アフターEVER AFTER
1998年 118分 アメリカ カラー
監督:アンディ・テナント 脚本:アンディ・テナント/スザンナ・グラント/リック・パークス
撮影:アンドリュー・ダン 音楽:ジョージ・フェントン
出演:ドリュー・バリモア/アンジェリカ・ヒューストン/ダグレイ・スコット/パトリック・ゴッドフリー/ミーガン・ドッズ/メラニー・リンスキー

1999/5/10/月 劇場(有楽町みゆき座)
「ウェディング・シンガー」ですっかりホレてしまったドリュー・バリモア。メイクや髪型のせいか「ウェディング……」のキュートさには及ばないものの、泣き笑いする時のキュートさはこの人が一番!お話は、実は「シンデレラ」は実話だった!というおそらくフィクションで、16世紀のフランスに舞台設定され、しかしなぜか登場人物たちは英語を喋り(いいけどね……毎回言ってるけど)、シンデレラ(灰かぶり姫)であるダニエルは薄幸の女性というより、逆境でもめげず、きちんと邸内には味方もおり、意地悪な義姉のうち一人をもあらたに味方に加えてしまうという、強い女の子。おてんばで木にはするする登るし、剣の達人だし(二刀流で売られた先のスケベ爺のもとから脱出する時に見せるカッコ良さ!)、おまけに読書が好きで、もはや死語の“文武両道”なんて言葉を持ち出したくなってしまう、およそシンデレラのイメージとは程遠いもの。しかしこういうキャラクター設定は、90年代のヒロイズムヒロインには実にありがちで、90年代も終わりの今、アナクロニズムにさえ感じてしまうのだけど。お相手の王子の頭の固さも古いしな。

義姉の一人がシンデレラ=ダニエルの味方になってしまうという設定は面白い。ブロンドで整った顔の姉マルガリートばかり可愛がり、太って黒髪の妹ジャクリーヌをはっきりと差別する(ダニエルに対してほどではないけど)母(アンジェリカ・ヒューストン)に反発し、母がダニエルに対する仕打ちを自分のものと重ねあわせたせいか、次第に彼女の味方をするようになる。この“次第に”というあたりが絶妙で、彼女も贅沢の恩恵を受けて暮らしてきていたから、コロッとダニエル側につくわけではなく、結構最初のうちわがままも言うし、ダニエルはメイドで自分とは違うのだという意識も持っている。しかしそんな中でもダニエルに危機が迫るとそれとなくジェスチャーや目配せをおくったりしているから、あ、この子は見所がある、と思えてくるのだ。母に「ダニエルも舞踏会へ行かせる」と言わせるのはジャクリーヌの功績だし(それは後に覆されてしまうけれど)。母のダニエルに対する暴力に今度こそはっきりダニエル側について彼女の背中のムチの傷に薬を塗ってあげる。「あなたが悪いのよ、ダニエル。でも姉さんがパンチを食らったのは(ダニエルが彼女の暴挙に耐え兼ねて殴り飛ばしたのだ)いい気味だわ」とまだちょっと複雑さを残しながらも言うジャクリーヌはとてもいい感じ。それに最初はっきりブス顔に見えていた彼女が、王子のおつきの男性と(舞踏会で同じ馬仮面(笑)をかぶっていたことから)イイ仲になるあたりから、なんだかとっても可愛くなってくる。どっかで見たことあるよなあ、絶対、こんな強烈なキャラクターの女優さん、忘れるはずないんだけど。と思っていたら、何とびっくりあのキョーレツ映画「乙女の祈り」のヒロインの一人だったブータレ女の子とは!そう言えばあの映画でも、笑顔とぶすっとした顔のギャップが凄かったっけ……。とんでもない新人女優が出てきたと思ってたのに、ニュージーランド映画がなかなか入ってこないせいかそれ以降顔を見なかったがよかった、ちゃんと活躍しているんだ。

王子のキャラがいまひとつで残念。なんだか妙にこの王子(ダグレイ・スコット)“朋友”の伊藤くんに似ている……。チラシでもドリューとこのD・スコットの写真なのに、そこに大きく記載されてるのはドリュー・バリモア、アンジェリカ・ヒューストンで、これはいくらなんでもあんまりだと思う。これじゃD・スコットがアンジェリカ・ヒューストンみたいなレイアウトなんだもの……それならドリューの名前だけにしとけばよかったのに。完璧な悪玉、アンジェリカ・ヒューストンはもう殆ど「アダムス・ファミリー」そのままのコミック的なキャラで、ラスト、ダニエルによって洗濯女に身を貶められても、ダニエルを残酷だとも思わせないあたりが上手い。宮廷お抱えの画家として出てくるレオナルド・ダ・ヴィンチが結構効いていて、「魚が鳥に恋をしても……」と舞踏会に行くのを渋るダニエルに「ではわしが羽をつけてあげよう」と彼が考案した凧に使っている半透明の美しい羽をこれまた美しい純白のドレス(ダニエルの母の形見の婚礼衣装)につけてくれて、それがめちゃめちゃドリューに似合って可愛いのだ!ダニエルの幼なじみで絵の上手い男の子がなかなかいい味を出していた。彼もダニエルに対してちょっとした恋心を持っていなくもなかったと思うけど、とにかく絵が好きで、レオナルド・ダ・ヴィンチに憧れて、彼に対面すると緊張のあまりどたっと気絶してしまうという描写が可愛い。皆が皆、恋愛が一番だったら疲れるもんね。★★★☆☆


エブリバディ・ラブズ・サンシャインEVERYBODY LOVES SUNSHINE
1998年 102分 イギリス カラー
監督:アンドリュー・ゴス 脚本:アンドリュー・ゴス
撮影:ジュリアン・モーソン 音楽:ニッキー・マシュー
出演:アンドリュー・ゴス/ゴールディ/デビッド・ボウイ/レイチェル・シェレイ/クリント・ディアー

1999/4/2/金 劇場(シネアミューズ)
クールな音楽かダンス映画かと思いきや、サイコムービーだったりするのである。といってもホラーじゃないけど。

従兄弟同士で、周りから一目置かれるギャングスターだったテリー(ゴールディ)とレイ(アンドリュー・ゴス)が、出所後、レイが足を洗おうとしたことから彼に執着するテリーが次第に常軌を逸してゆく。金歯をむき出しにしてがなりたてるテリーが生理的嫌悪感を煽り立てる。彼はテリーに完全に惚れているのだ。周りから一目置かれる、というのはおそらくテリーあってのことだったのではないか。押さえのきかないテリーに対して、一種哲学者的なカリスマ性を放つレイ。テリーがあそこまで執着するのは嫉妬心もいりまじってこその感情だからのように思う。それに加えて、血のつながりを強調する、まるで東映のヤクザもののような同性愛的感情を持ち、しかもそれを神聖視しているのだから始末におえない。

レイの惚れた女(レイチェル・シェレイ)を誘拐、監禁、暴行したり、レイが没頭しているダンスユニットの仲間をチャイニーズ・マフィアの仕業に見せかけて息子ともども惨殺したり、自分から離れられないように、復讐と称してチャイニーズ・マフィアを皆殺しにするのにレイを巻き込んだりと、完全にサイコなのだが、彼から離れるように忠告した友人を突っぱねるレイは完全に術中にはまってしまうのだ。

なぜ、なぜそんなにテリーを信じるのだろう。いや、信じてないまでも、かばうのだろう?レイもまたテリーに対して自分では気づかない執着心を持っているということなのか。テリーがレイに嫉妬心を含んだつながりを感じているのだとしたら、反対に、レイはテリーにアンビバレンツな感情を見出して見過ごすことが出来ないのかもしれない。そう考えてみると、二人のつながりはそう簡単に切れないのだ。

銃を持った軍勢に取り囲まれても毅然としているチャイニーズマフィアの若きリーダーがカッコいい。彼は最後テリーに無実の罪をきせられて惨殺されてしまうのだけど。欧米映画では得てして奇妙な描かれかたをされがちなアジア人だが、ここでは対立するチャイニーズ・マフィアのほうがバタバタしているテリーの軍勢より圧倒的にクールだった。

そしてもちろん、テリーやレイのボスであるデビッド・ボウイの、常に変わらない表情が微かにゆれる感じが色っぽい。まさしく「バスキア」でアンディ・ウォーホルを演じた時の彼を思い起こさせるのだ。

レザーの黒光りした衣装と、腹の底に響く重低音がトラウマのように体にまとわりつく作品。★★★☆☆


エリザベスELIZABETH
1998年 124分 イギリス カラー
監督:シェカール・カプール 脚本:マイケル・ハースト
撮影:レミ・エイドファラシン 音楽:デイヴィッド・ハーシュフェルダー
出演:ケイト・ブランシェット/ジェフリー・ラッシュ/クリストファー・エクルストン/ジョセフ・ファインズ/リチャード・アッテンボロー/ファニー・アルダン/キャシー・バーク/エリック・カントナ/ジェームズ・フレイン/ヴァンサン・カッセル/ジョン・ギールグッド

1999/9/18/土 劇場(日劇プラザ)
歴史ものに弱いせいか、あるいは登場人物が多いと頭がコンランするせいか、あるいはあるいは冷徹な語り口のせいなのか、ちょっと、いやかなりツラかった……ベースを予習していけばよかったかなあ……なんだか、時間以上に長く感じてしまった。旧教派と新教派、私生児の王位継承権、スペインだ、フランスだ、どこが味方でどこが敵で、誰が何故裏切り者になって……ああっあ、もう、判らない!という感じなんである。ほんとにこういう時にどんなに自分がナサケナイか……(涙)。

しかし、エリザベスを演じるケイト・ブランシェットの、このただならぬたたずまいには畏怖すら覚えた。なんだろう、この“特異”な感じは。女としての感情や喜びを割と奔放に見せながら、自分の中の核として高貴な血筋をおそらく何にも優先して持っている女性。まるで関係もなく、作風も違うけど、つい最近見た「ノッティングヒルの恋人」を思い出してしまう。そう、その中で超有名なハリウッド・スターに扮するジュリア・ロバーツが、「私は一人の女の子で(字幕では女になってたけど“just a girl”って言ってたもんね)あなたに愛されたいと願っている」と言っていた、そのキャラクターとちょうど正反対のものを感じるから。愛する人に愛されていながら、それが自分の中での一番ではないことに徐々に気づいていく感じ。

側近がまわりを取り囲み、侍女たちが覗き見する、ベールの中での情事の翌朝、周辺諸国との戦争会議に駆り出されて上気した顔が覚めやらぬエリザベスを色っぽいなあ、と眺めているのもつかの間、だんだんと戦況を理解し、分析し、勝手なことばかりケンケンガクガクする男性たちを一喝する“女王”へと変貌していく。しかしそれは強い女への変貌とか、そうしたポジティブな感覚よりも、自分の内側の王位へのプライドが現れた、なにか、しんしんと冷たいものが体中に染み渡ってくる感じ。

自分の指示した戦略が失敗して多くの兵士が死んでしまったり、自分の命を狙われたり、政略結婚を迫られたり、側近の誰をも、そして恋人すらも信じられないような状態に追い込まれていくと、彼女のその冷たさは一層さえざえとしてくる。もちろんその事態に直面している時には涙も流すし、軽薄な政略結婚相手を軽くあしらったりする愛敬も見せたりするのだけど、やはり芯は大理石のようにひんやりと冷たく、堅固なのだ。鉄の冷たさではない。鉄ならば燃え上がる時は熱くなるけれど、大理石はどんな時でも冷たいままである。……ラスト、国と国民との結婚をうたい、“処女宣言”をした、白塗り頬紅の肖像画そのままの姿はその冷たさが行き着いた究極の形、なのだ。

宮殿の遥か高み、垂直に見下ろすカメラワークを神の目、というのは簡単だが、もっと突き進んで、神のゲームといった感じである。小さく小さく見える人物の頭が丸くちょこまかと動いている様がまさしく駒そのものだから……広い宮殿の中を、あちらの柱には暗殺者が身を潜め、こちらには裏切り者が謀略を巡らし……といった風に。そしてなだらかな草原のロケーションでの、王位継承されるシーンで見せる再三のホワイトアウト。そのフィクショナルさは、本作の中でその場面だけが非常に異質な感じを与えるのを充分に承知の上で、観客の頭にフラッシュバックとして刻み込まれる感覚を植え付けている確信犯的なものを感じる。……エリザベスの真の戦いはその場面からはじまるのだから。

……これを観ちゃうと、ほんと、なんでオスカーがケイト・ブランシェットに行かず、グウィネス・パルトロウだったのか首を傾げちゃうよなあ……K・ブランシェットのこの上手さ、役への入れ込み方は格が違いすぎるくらいだと思うのだけど。

どっかで眠っちゃったかなあ……なぜ、恋人であったロバート・ダドリーが裏切る側にまわっちゃったのか判らなくて……。演じるジョセフ・ファインズは「恋におちたシェイクスピア」の時よりもっとずっと彼の兄、レイフのような繊細な感じ。エリザベスと密かに会話を交わすため踊る情熱的なダンスが印象的。エリザベスを支え続ける腹心、ジェフリー・ラッシュは、え、彼、こんな感じだったっけ!?と……なんだか随分印象が違う。前に見た時よりすこし太ったかな……いやいやそんな事ではなく、なんかこう、そう、エリザベスと共通しているようなすべらかな冷たさを彼にも感じるのだ。言葉をつくす恋人よりも、ずっと信頼を置けるにもかかわらず、得体の知れない冷ややかさを感じさせる寡黙さ。他には政略結婚相手として現れるヴァンサン・カッセルの頓狂さがオカシイ。

キリスト教が作品の裏テーマのようにして描かれるが、それがあらわになればなるほど、宗教としての神聖さが失われていく。崇める神は同一のはずなのに、お互いを異端呼ばわりする旧教と新教。いや、だからこその取り合いなのだ。独占欲と嫉妬。西洋の宗教は東洋のそれと違って、神を人間くさいものとして見たがらないけど、人間的魅力をももつがゆえの、神のカリスマ性なのだ……結局は同じこと、恋愛に共通する感情なのだ。エリザベスは最後、自らが神、あるいは聖母マリアとなるために、バージン・クイーンを宣言するわけだが、確かにそこでの彼女は、人間性をすっかり失っている。しかし、かわりに現れているのは神性ではないのだ。宗教対立の結果を皮肉に映し出したような、感情を掘り起こせない石のような冷たさ……そう、神性は人間性をも含んだもの、これでは神にも人間にもなりえない。本作の本当のテーマは、これだったのかもしれない。★★★☆☆


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