home!

「え」


2001年鑑賞作品

A.I.A.I.ARTIFICIAL INTELLIGENCE
2001年 分 アメリカ カラー
監督:スティーヴン・スピルバーグ 脚本:スティーヴン・スピルバーグ
撮影:ヤヌス・カミンスキー 音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:ハーレイ・ジョエル・オスメント/ジュード・ロウ/フランシス・オコーナー/ブレンダン・グリーソン/ウィリアム・ハート


2001/8/26/日 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
とある映画を観に行った時、その何館か抱き合わせの同じ映画館でこの「A.I.」をやっており、エレベーターで乗り合わせた女の子二人が「まだA.I.やってんの」「これ、つまんないよね」と話していたのを聞いて、俄然興味を覚えてしまった。特に観たいという気も起こらず、割とどーでもいい気持ちでいたのだが、つまらないと断定するぐらいというのは、どういうものなのか、知りたくなってという、かなり不純な動機で劇場に足を運んだ。

そうした先入観があった点は確かに否めないが、しかし本当につまらないので、ビックリしたほどである。つまらないというより、何だか気恥ずかしい感じ。物語や手法として成熟していない感じがした。キューブリックが企画として持っていたものを、紆余曲折の末、スピルバーグが監督したという作品だが、果たしてそれは幸福な出会いだったのか。キューブリックが監督していたら、と思わずにいられないが、しかしそれ以前にこの原作が古いものであるというのが、そうした未成熟の感覚を抱かせるような気もする。つまり、ロボットが人間のような愛情を持つという設定は、その原作が書かれた頃には目新しかったのかもしれないが、あるいはアメリカでは目新しいのかもしれないが、日本ではそうではないから。そうしたテーマは、資金的にリスクのある映画業界では発展しなかったものの、漫画文化、あるいは小説でも、そうしたSF、ファンタジーが隆盛した日本では進化、成熟を遂げているからである。

その中で人間と変わりのないロボットは、人間と変わりのない愛情の感情に苦しむ。という点は一見、この「A.I.」と同じように見えて、実は大きく違う。「A.I.」のロボットたちは、人間と変わりのないはずが、人間にロボットを演じさせるという気後れからなのか、ロボットらしさばかり追及している。首をコキッとやって音楽を鳴らすセックス・ロボットのジョーなどはその最たるものだが、愛情を感じることのできるほどの高性能である主人公ロボット、デイヴィッドにしたって、登場の際はえらく動きがぎこちない。あとは愛情という感情をロボットに与えられるかどうか、というところまで技術が発展したとは到底思えないのである。画面に映っている人間と区別させるためにやらせているようで、それってかなり幼稚な発想なのではと思ってしまう。

そうした違和感は、愛情をインプットされることによって、人間に愛情を抱くという設定に対する違和感を増幅するものにもなっている。あるいはそうした人間の身勝手さを描くための設定なのかもしれない。しかし、ここまでロボット技術が発達した末にロボットが人間に愛情を抱くというのなら、それはやはり高度に発達した人工知能ゆえに生まれる愛情、愛情を生み出すほど、限りなく人間の脳に近づくほどの複雑な人工脳という展開を期待する方が普通なのではないか。だからこそロボットは無機と有機の差に悩み、これが本物の感情か、愛情かというのを相手の人間と共に悩むことになるのではないか。

……と思ってしまうのは、日本の漫画文化、小説文化が大抵そうした方向で進んでいたから(あるいは私の読んでいるものが)なのだろうが、そうでなくったって、インプットされる愛情に共感するというのはいささかムリな話である。デイヴィッドには悪いけど、それこそプログラムされたツクリモノの愛情じゃん、と思ってしまう。大体、人工的に愛情を人間が作り出すことができるという発想からして、もうそれだけでアメリカ人の人となりまで信用できなくなっちゃうというのは言いすぎだろうが。仮にそのインプットされる愛情というのが質的に本物と遜色ないとしても、インプットされたということは、アウトプットされたら元に戻ってしまうんじゃないかという発想がどうしても頭をよぎるからだ。まさしくマシン的な性質として。今ひとつこの子に同情できないのはその一点が大きい。まあ、このハーレイ・ジョエル・オスメントが感動的子役演技をいかにもな感じで披露しているせいもあるだろうが……。

意識のない息子の代わりに買われたデイヴィッドは、この息子が息を吹き返したことによって、あっさりと捨てられてしまう。そして森の中でさまようデイヴィッドは、同じように捨てられ、壊れかけた同じロボット仲間たちと遭遇する。廃棄される部品を付け替えて生き延びている彼らは、見るからにグロテスクである。んで、何でこんなグロテスクなロボットたちを登場させるかっていうと、人間こそがホンモノだ、と叫ぶ人たちによってこうしたジャンクロボットが捕らえられ、公衆の面前で破壊し、楽しむという悪趣味なショーを描くからである。

しかしこのショーの場面が悪趣味なのは、その点ではなく(というか、こういう設定って、すごくありがち)、外見が人間の男の子そのもののデイヴィッドが登場すると、人々はこんな子を破壊するなんて、残酷だ、と司会者を糾弾するという展開にあるんである。しかも、それで彼らは、そして物語っている映画としての視線(いうまでもなく監督の視線だ)も、それが感動的だと思っているらしいんである。お、お前らなー、と唖然としてしまう。だって、それは、まるで見た目が同じなら同じ仲間、つまりは障害者やもっと広く言えば少数民族や性的嗜好の違うマイノリティを異質として排除する様とまるで同じだからである。それで快哉をあげているなんて、まるで右翼みたい。ぞっとしてしまう。

彼らが逃げ延びる、近未来の地球の繁華街?も今ひとつ垢抜けない。「メトロポリス」の洗練されたそれを思い出したりすると、ため息が出てしまう。しかもそこで指南を請う3Dアニメのドクターの登場に至っては、観ているこっちが恥ずかしくなってしまう。何なんだろう、この恥ずかしさは……。それと同様の恥ずかしさは、デイヴィッドが氷に閉ざされた海の底で何千年も生き続けた後に出会う未来ロボットに対しても感じる。ひょろりと単純化された、透過性のあるボディにコンピュータがぎっしり搭載されているようなその未来ロボットたちは、造形といい動きといい、悪い意味でマンガチックである。つまりは、監督はA級の感動物語を語っているつもりが、そこに見えている光景がB級に他ならないという、そのギャップの違和感と気恥ずかしさ。それにやっぱりこれはA級の物語なんぞではないんだもの。

徹底した秘密主義で撮影が行われ、秘密のベールとか何とか、とにかくもったいぶりまくって製作され、公開されたという経緯すら、気恥ずかしく思えてしまう。やっぱりここ数年のスピルバーグは、ことにヒューマンな感動とかそっちの方に色気が出てきてから、どうにもおかしくなってしまった。単純な娯楽映画の監督としては確かに最高だと思うのだが……。それにしてもこの映画のオフィシャルサイトにはなぜBBSがないんだろう。それこそあのエレベーターの女の子たちのような、つまんない発言を目の前にさらさせないために設置していないのではないかと思われてしまうが……。自分がつまんなかったこういう作品ほど、他人がどう思っているのか、知りたいんだけどなあ……。

ジュード・ロウの魅力が全然出てなくてかわいそう。 ★☆☆☆☆


ELECTRIC DRAGON 80000V
2000年 55分 日本 モノクロ
監督:石井聰亙 脚本:石井聰亙
撮影:笠松則通 音楽:小野川浩幸 MACH1.67
出演:浅野忠信 永瀬正敏

2001/8/3/金 劇場(渋谷シネマライズ/レイト)
「電気と感応しぃぃぃ、爬虫類と心を通わせる男ぉぉぉ、竜眼時盛尊んんーッ!!」「電気を修理しぃぃぃ、怪電波をキャッチする謎の男ぉぉぉ、雷電仏像ぉぉーッ!」っつー、大絶叫のキャスト紹介。ああ、もう、男の子って、いいわあ、というのが思いっきりひとくくりの感想。いや、まあ石井聰亙監督にしても二人のキャスト、浅野忠信、永瀬正敏両氏にしても、男の子なんて年ではなかろうが、しかし、こりゃあ、やはり男の子感覚、男の子映画というに値するんではないだろうか。電気!ロック!正義!対決!ま、爬虫類だの仏像だのという部分はひょっとしたら男の子ではなくそれこそ“男”の部分なんだろうけど、ことに盛尊(モリソン、というのは破滅的ロッカー、ジム・モリソンから来てるのかなあ?)に顕著な、その爬虫類の部分を必死に抑えているというのが、より“男の子”であり続ける、ありたいということを強く感じさせてしまう。ではでは、雷電仏像はどうか?彼は男の子と男を上手に両立させて、男の部分で男の子の部分をコントロールし、表に表しているような人物。男の欲望のままに盛尊を愛していたら(ありゃあ、やっぱり愛でしょ?)かなりヤバい結果になるところを、男の子としての友情の証しとして電気バトルに誘い込む!というのがさあ。

そーいやあ、公開順序は逆になったけど、監督とこの二人のコラボレーションが継続した「五条霊戦記」では、ま、この二人ではなかったけど、男同士の対決が、まさしく男の欲望のままの愛の形に見えたんだけどね。殺したいほど愛しているという。うーむ、そうすると男と男の子の相関関係は……。しかしやはり本作では男の子、なんだよなあ。あ、でも雷電仏像の方は男の方に近いかもしれない。何たって、あの雷電の台詞である。「怒ったお前に会いたかったんだよ」うーん、いいわあぁ。その台詞をぶつけられる盛尊の方はといえば、自分で自分の体をもてあましているような状態だから、やはり相手の愛に応える対決であった「五条……」の男同士の対決とは違うのね。でもそう考えるとちょっと雷電が切ないかも?いや盛尊の方も、愛を愛として受け止められないという点で切ない。それはある意味この二人がその共通項で結ばれているともいえ……ということは、やっぱり愛なのねー?

いや、だってさあ、電気というのは確かにアナクロニズムな懐かしさ、男の子が喜ぶようなオモチャ的な要素はもちろんあるけど、その一方でセクシャルな隠語としてのそれもあるわけでしょ?二人とも相手のないまま“帯電”して、その放出先を探してさまよっていたんじゃないのかなあ。自分の放電を受け止められる唯一の相手同士の二人は、やっぱり運命の相手な訳よ!いまだ見ぬ運命の相手の為にため続けていた欲望という名の電気を、一気にエレクトさせる……んで、雷電の方は、何たって自ら見つけた相手だから、自覚的放電な訳だが、盛尊の方は、挑発され、怒りを引き出された上での放電。やっぱりまだオトコノコって感じやね。

電気修理人の雷電はまあいいけど、爬虫類専門のペット探偵なんて、そんなん生業になるんかい、という盛尊。そんなつっこみどころがあるキャラもかなり好きである。幼い頃の感電事故で脳に損傷を受けた盛尊は、暴力を働いてしまう本能を手作りドラゴンギターでなだめ、夜は自らを動けないように施錠して寝る。自分の本能を自分でコントロールできない盛尊は、まさしく哀しいまでに永遠のオトコノコなのだ。反面、雷電はというと、仏像の仮面の下の顔は動かせないから、必然的にまさしく仏像そのままの欲望を断ち切ったたたずまいで、しかし世にはびこる悪は許せず、と同時に運命の相手である盛尊を狂おしいまでに欲している。そのためには正義を愛するはずの彼も、残酷な手段を使うこともいとわないという、嗜虐的な愛の形がたまんないなあ。

二人の対決にはそれこそ惜しむことなく放電、電気音楽(っていう感じなのだ)がバチバチと、もうそれこそ発電所の漏電事故のようにハデに展開されるのだが、その場面に至るまでは、意外に静謐である。ちょっと拍子抜けするほど。雷電はもとより、盛尊もどこか私小説的といえるほどの孤独で静かな生活を送っている。時々自分の本能をなだめるためにギターをかき鳴らしたりもするけれど、それすらも心の虚無からくる爆音で奇妙に静かな印象を受ける。街の雑踏でギターを弾いても、誰も彼に頓着することがない……それは確かに都会の情景なのだけれど、まるで誰も彼に気づいていないかのような、孤独の静けさ。彼が愛する爬虫類たちも、当然ひたすら静かである。雷電は耳をすませている。いわば自ら進んで静謐の中に身を隠している。彼の静けさの表情の裏側にはそれとは真逆な、たぎる本能が見える気がする。彼だけがだれも気づかない盛尊に気づくのである。それは愛でもあり、獲物を捕えたハゲタカのようでもある。

監督は、盛尊は地を這うイメージ、雷電は逆に高いところにいるイメージだと語っていた。いわば下界の人間に恋する天使がごときである。ああ、やっぱりかなわぬ恋なのねー?その過程からすると本能をコントロールできない盛尊と、その本能を発露することがそもそも許されない雷電というのもなんか納得できたりして、勝手に(笑)。切ないなあ。

モノクロームの禁欲的な美しさの映像の中に、バチバチ、バリバリの欲望のエネルギーをぶち込んで、音楽、というより音の攻撃性がおっそろしくシンクロする。ただギャンギャン音を聞かせるだけの映画は昨今数あれど、本作は聞かせどころにむけてギリギリまで抑制して爆発させて、そのあたりはさすがにベテランの腕の見せどころか。浅野、永瀬両氏の手書きであるという字幕台詞もめちゃくちゃグーである。「また会おうぜ」という雷電の書置きはやはり続編への期待?期待しちゃうぜ、もう!★★★★☆


援助交際撲滅運動
2001年 88分 日本 カラー
監督:鈴木浩介 脚本:鈴木浩介
撮影:鈴木浩介 音楽:GYOGUN REND’S
出演:遠野小春 関保奈美 真壁あやか 遠藤憲一 山口祥行 佐藤幹雄 中蔦ジュテーム 諏訪太郎

2001/11/22/木 劇場(中野武蔵野ホール/レイト)
同じ日の同じ劇場で観た「PAIN」が援助交際という点で同じ事柄を含んでいながら、その視線があくまでも真摯であったのに対して、本作は全く逆のアプローチをしているので、普段はこういうB級的映画にノるタイプの私も、この流れで観てしまったせいもあっていささか引いてしまう感はあった。そのアホなノリの中には、妙にウェットな部分も折り込まれているのだけれど、それが逆にそのノリを分散してしまう印象もあったし。しかし、エンコウモノの映画がこれまでいくつか出てきたけれど、やはりそれのどれもが、エンコウは個人個人で行われるというよりは、元締めがいたり、あるいはリーダーがいたりと非常に組織だっているということを描いていて、個人が組織に抗えないかのように社会が作られていることを考えると、何か暗澹たる気持ちにもさせられるのである。それぞれの女子高生たちは映画の中でもそして実際でも、個人の意識で援助交際をしてカネを得ようと思っているのであるのだけれど、やはりそこには彼女たちを「自分でそう考えて決めた」と思わせる方向に導く、抗えない組織の力が働いているんじゃないか、と思ってしまって。

なーんて、マジなこと書いているのがアホらしくなるほどに、本作の展開のバカっぷりは堂に入っているのだが。しかしこれは少々前の1997年に設定されているという。観ている時には全然気がつかなかったけど、そうなんだって。原作漫画があるせいなのかなあ。でも、原作漫画があると知って、何となくホッとした気も……。マンガチック、という風に解釈すれば許容出来ちゃうのもヘンだけど。テレクラにエンコウ目的でかけてくる女子高生に、加えて彼女らがしばしばその手を使ってオヤジ狩りをするのに堪忍袋の緒と性欲のガマンが切れた中年男クニ(遠藤憲一)と青年オギス(佐藤幹雄)は、その女子高生を横取りしてヤリ逃げすることで、彼女らの意識の変革を促し、“援助交際撲滅”しようというんである。アホか……どういう思考回路をしてるんだか。この運動を略してエンボクと称し、次々と少女たちをクイモノにしていく二人だが、結局はただの性欲のたまったヘンタイオヤジであるクニと違い、まだ良心を残すオギスは逃げるたびに感じる罪悪感をいかんともしがたいのである。実際、処女に対してもSM仕様で縛り上げてレイプさながらにヤリまくるクニと違い、オギスは彼女らに対してセックスに関しても実に正統で丁寧であり、後に復讐のために彼女たちが作った指名手配似顔絵でも「母性本能をくすぐるいい人タイプ」などと書かれているんだから。

復讐、というのは、クニによる、処女であっためばえへの仕打ち。まあ、このめばえもおねえさまがたのエンコウでのカネ稼ぎを目の当たりにして、あたしもお金稼いでGショックとかプラダのバッグが欲しーい!とかそーゆー実に知能の足りない動機で、エンコウに手を出してしまうのだが、やはり経験のない彼女は直前になって怖気づき(しかも相手が怪しいメイクに総イレズミしょったヘンタイ男なんだから)何とか謝って帰ろうとするのだけれど、クニがそんなこと許すはずもなく、あえなくつかまってあらわなポーズに縛り上げられ、処女膜を指で突破されて、その後は……なのである。彼女はショックのあまり自殺を図り、未遂に終わるも、彼女だけはエンコウに染めずに守ろうとしていたこの地域の少女たちのリーダー、アヤは激怒する。絶対にそいつをふんづかまえて、復讐してやらなければ気がすまない、と。同じようにヤリ逃げされた少女たちから情報を集め、捕まえたのはオギスの方。哀れ彼は、ボコボコにされた後、チン○釘刺しの刑とあいなり、ベッドの上の人となるのである。

このアヤはこの地域のエンコウ少女たちを監視していて、3万以下で援助やってる子がいたら、私に知らせて。しめてやるから。一人安くすると、すぐ値崩れするんだから、オヤジはそういう情報早いんだから、などと主張する。思わずナルホドと思ってしまうのは、しかし……。めばえに、欲しいものがあったら、全部はムリかもしれないけど、お姉ちゃんが買ってあげるから、もうエンコウなんて絶対にしちゃダメだよ、と諭すアヤにめばえは素直にうなづく。ごめんね、お姉ちゃん、と。しっかしアヤは自分がエンコウはしてないものの、オヤジ狩りはしてるくせに、あまり説得力ないけどねえ。それに彼氏とヤリまくってるしさ。とにかく、めばえにオギスを成敗した証拠写真を見せ、ほら、こうやってちゃんと復讐したからね、と告げると、めばえは怪訝な顔をして、誰これ、この人じゃないよ。もっとオヤジだったし、背中全体にイレズミしてたもん。と言うのである。人違いにようやく気づいたアヤたちは、再度捜索を開始する。なかなか網に引っ掛かってこないクニに、協力していた友達たちもうんざりムードだが(まあ、コヤツらはかなりえーかげんだからなー)アヤはあきらめない。そしてついに、SM希望のコールに欲望を抑えきれなくなったクニがノコノコやってくる。

クニとともにホテルにしけこんだアヤは、その場に彼氏を踏み込ませて成敗しようとするものの、何とクニは拳銃を持っており、それに脅されて逆に二人ともハダカで縛り上げられてしまう。「こいつ、熟しすぎだよ。お前、いつもこんな女とヤッてんのかよ!」と言いながらアヤに夢中で挿入するクニに、隙をつかんだアヤはうっちゃってあった拳銃をクニに向かって一発、二発!ついに敵は倒された。その殺戮にコーフンした二人は、その場でひと絡み、ルンルンとホテルを出てきたところを、かつて彼らに狩られたオヤジが待ち構えていて二人をひき逃げする。俯瞰で倒れた二人を見つめるショットが、妙に美しさを醸し出す。一方、実は同じ病院に入院していためばえとオギスは、双方の関係を知らないまま出会い、ちょっといい未来を予感させて終わる。

何かというと画面に解説ヨロシク出てきて、エンボクの何たるかをとくとくと講じたり、テレクラコールを盗聴しては、「きたー!きたきたきたー!」とそのヘンなメイク顔をぶるぶる興奮させて叫んだり、しかもその最悪な極彩色ファッション、そして何といっても超自己主義なヘンタイセックス、いやレイプだな、あれはもはや、が強烈過ぎるエンケンは、これは完全に「ビジターQ」からの流れであり、彼に対してはイイ男のイメージから入った私は、またしても嘆息してしまうのである。確かにビジュアルもキャラクターも「ビジターQ」よりはるかに強烈なんだけど、「ビジターQ」は作品それ自体がキチガイレベルだったから、やはり同じような印象、というのは否めないんだよなー。一方、ヤリ逃げしても憎めない、“母性本能をくすぐるイイ人タイプ”なオギスを演じる佐藤幹雄は、もうこれは何たって佐藤幹雄君なのだからして、カルいノリの中にも純朴さが見え隠れするカワユサが、ああたまらんのである。いやー、若いって、いいわよね、と彼を見てるとホント、思っちゃうんだよなあ。ちょっと最近、ハマってるんでね、彼に。

若い女の子たちも、まぁまぁ演技がそこそこ出来ているので(わりと最近の子はちゃんと演じるよね。やはり人前に出るのに慣れてるのかな)、なんやかや言いつつも割と楽しく観てたんだけどね。ことにアヤ役の子(遠野小春でいいのかな?)は今の女の子にしては発音もキレイで、風貌もかなり美人で、ヌードやセックスシーンも美しく、スクリーンの中に見つめ続ける価値のある女の子だったのが、ポイント。★★★☆☆


トップに戻る