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菊次郎の夏
1999年 121分 日本 カラー
監督:北野武 脚本:北野武
撮影:柳島克己 音楽:久石譲
出演:ビートたけし 関口雄介 岸本加世子 グレート義太夫 井出らっきょ 吉行和子 麿赤兒 今村ねずみ 大家由祐子 細川ふみえ
ああ、でもでもそれはまさしく杞憂というものだったのだ!いまさらこんな事を言うのははなはだおかしいのだけど、“ビートたけし”って、こんなに面白かったんだ!という思いである。テレビと似たようなネタをやっている部分が多いのに、なぜこれほどまでに笑わせられてしまうのかが不思議だったのだけど、北野監督のインタビューで「脚本・監督・編集の四役でどれを抜かしたら駄目だと思うか」との問いに、「編集じゃないかなあ。編集だけは自分でやらないと、という感じがありますね。」と即答していたのを読んで、ああ、そうだ、そうなんだ!と膝を打つ。私も編集は監督がやるべきもの、編集が他の人であれば、それは監督作とは言えないと思っているんだけれど、そして、編集が他の人の手に委ねられてしまうハリウッド映画が、どれもこれも同じ、無難な印象を与えてしまうのもまさにそのせいで、日本映画が今まさに活況を呈しているのは編集権が監督に与えられるのが理の当然というところに一因がある訳で。まさしく岡本喜八監督言うところの「つなげてナンボ」ですな。そして北野監督作品の場合、その作品の性質は編集の性質からきているのだと、初めて気づいたように思う。テレビでのビートたけしより自身が編集する映画での彼が圧倒的に面白いのはまさにそれ、ギャグの面白さを最大限に引き出す間を知りつくした編集の妙なのだ!
北野監督の映画には設定と冒頭と結末があって、その間のストーリーはないに等しい。しかもエピソードというよりも、シャッターを切り下ろしたような、瞬間の印象を焼き付けるショット的なシーンで連続していく。そしてその編集の絶妙の間は、北野監督唯一絶対のものだ。こんな笑わせる映画でも、やはり画面は静寂に包まれ、緩急のリズムとはまさしくこれだというタイミングで、ふっ、と落とす。呆然とカメラの前でたたずむ人たちの位置や表情の撮りかたの妙技。この、画面に人物が動かずに映り続けるという手法、これは北野監督独特のもので、ここから生まれるリズムに酔わされるのだ。
父は死に、母は働きに出ていると言い聞かされて、祖母と二人暮らす正男(関口雄介)。ある日急に思い立って、母に会いに行こうとする正男に、町でフラフラしているヒモみたいな菊次郎(ビートたけし)が付き添うことになる。奥さん(岸本加世子)から預けられた金を、競輪ですっかりスってしまい、正男の金で正男の言う通りの車番にしたらこれが大当たり。翌日も調子に乗って正男に当てさせるのだがこれが見事に大はずれ。もうしょっぱなから爆笑である。この子供の調子の乗り方と、菊次郎の調子の良さが絶妙なんである。
菊次郎はまさしく子供のまんまオッサンになってしまった男だ。建前では正男を喜ばすためといいつつ、自分が遊びたくてたまらないのだ。ヒッチハイクもまともにしようとはせず、タイヤをパンクさせてそれを助けて乗せてもらおうとしたところが、その車がブレーキをきりそこねてそのまま崖下に転落しちゃったり、「もっとかわいそうな顔にしなきゃいけないんだよ」と正男の顔にたぬきみたいにペイントしちゃったり、一番お腹を抱えたのは盲目のフリをして白杖とサングラスでヨタヨタ車の前に躍り出て、そのままひき逃げ(!)されてしまう場面!ギリギリのギャクだ……。そして泊まったホテルの入り口にある裸婦の彫刻(もうこれ、登場した時点で何かやると思った!)の×××に黒テープはったりと、もう完全にガキそのもの。
母親の元にたどり着いたはいいが、新しい家族とともに幸せそうに暮らしている様を目の当たりにし、ショックを受ける正男に、人違いだと単純な嘘でなんとか慰めようとする正男のこれまたガキっぽさがいとおしい。母を訪ねあてたというある種の到達点を達成してから、もうタガは外れたとばかりに遊びまくる菊次郎。途中で出会ったバイクの2人組(グレート義太夫と井出らっきょ)と、詩と音楽を愛する心優しい青年(今村ねずみ。かのコンボイのリーダーだ。)とともに、正男のためという言い訳ももはや忘れて遊んで、遊んで、遊びまくる。でもちゃんとそれが正男のためになっていることは、多分正男が生まれてはじめて本当に遊ぶということを肌身で知って、どんどんほぐれた表情になっていくことでちゃーんと判るのだ。テレビで見ていると少々嫌悪感のある井出らっきょの全裸ギャグも、スクリーンだからなのか、あるいはこれもまた北野監督の緩急のリズムに合っているのだろう、のびのびとした笑いを間断なく誘ってくれる。やはり義太夫&らっきょが出てくると、妙に嬉しそうにはしゃいでいる様子が判るのがいいよなあ。大人がひたすら遊んでいるのが、これほどまでに魅力的とは……。盗んだトウモロコシを一本200円、二本で500円という、なんでや!な手書き値段表も好きだなあ。
最後に正男に聞かれて初めて菊次郎だという名前だと判るこのオトナコドモは、もう見るからに奥さんのヒモだし、町の風来坊なんだけど、住んでいるところは浅草で(ホーム・グラウンド!)風通しのよさそうな白いシャツはいつでも清潔に真っ白でピンとしわがのびていて、実に粋なんだよなあ。これまた涼しそうなサンダル履きもいい。菊次郎、というかもうビートたけしその人なんだけど、彼がこらえきれず笑いを含んだ言い方で「バカヤローコノヤロー」というのがとてつもなく好きなのだ。いわゆる東京弁の“バカ”は冷たいとよく言われるし、このバカヤローも文字面で見るととても冷たいのだけど、この人がこの調子で言うと(笑ってなくても)なんてチャーミングなのだろう!
わざとヘタ(というのもちょっと語弊があるけど)な演技をさせているといった、子役の手垢のついてない感じがいい。そして、おお、クマさんデザイン!の天使の鈴。たあいない小道具のようでもあるけど、そのキュートなデザインと、これもまたキタノ・ブルーな色ガラス、涼しげな音色でこれまたチャーミング。欲しいわ、これ。
そう、実はしっかりとキタノ・ブルーなのだよね。こんなテイストの作品でも。ウェットであると同時に乾いているような感覚を醸し出す画面の青み。「HANA−BI」のあとでプレッシャーがあって当然なところを、こんな、単純に楽しい面白さを提示してくるという勇気と、それをのびやかに成功させてしまうプロフェッショナルな無邪気さが凄い。感動といえばそうなんだけど、それは正男や菊次郎の親探しではなく、彼らの成長物語でもなく、長い永い夏休み、日がな一日遊び疲れた後にじわっとくるような、そんな切なさなのだ。★★★☆☆
監督であるシルヴィア・チャンが劇中でも映画監督の役を演じ、自らの(多分シルヴィア・チャンと劇中の映画監督双方ともの)自伝的映画を作る話し合いに合わせて展開されるのが本作の映画。この監督がシューヤウであり、脚本を練り上げる打ち合わせでの話し合いにあわせる形で映画は進行していくのだが、その設定は微妙に変えられている。映画内映画で語られるシューヤウは後にファッションバイヤーとなる。脚本の段階というよりは回想の段階で語られているのに、すでにフィクションになっているのがやや違和感。監督になったシューヤウの時制も含め、20年の長岐にわたる三人の揺れる関係が行ったり来たりするのだが、その部分だけがフィクションなのだと思うと余計違和感が増すのである。だって変えられているのは(多分)シューヤウの職業だけなんだもの。監督であるシューヤウは「そこまで同じだと生々しくなる」とかなんとか言ってるけど、それこそそこまで同じだったら職業だけ変えたって大して変わんないと思うけど……。
シューヤウ監督が「シンプルなラブストーリーを撮りたい」と思い立ち、それを若い男性の脚本家に伝える。シンプルなラブストーリーがかくも難しいものだということに本作であらためて気づかされる。残念だけど、本作はそのシンプルなラブストーリーに成功しているとは言い難いのだ。打ち合わせで恋愛体験を皆で話し合っている時、その脚本家が言う。「恋人同士の会話って、バカみたいですよね」恋人同士は意味のある何かをするでもなく、意味のある会話をかわすでもないのだろう、確かに。はたから見ればつまらない会話を、でも本人たちはとても睦まじくかわしている。こんな、ただただシンプルに愛し合うだけなのが一番美しい形なのだということをシューヤウ=シルヴィア・チャン監督は言いたいのだろうと思うけど、皮肉なことにその脚本家の言葉どおりの印象しか与えない。愛し合うシューヤウとホークァン、二人のかわす会話は、特にシューヤウにとっての初めての恋愛だっただけに、非常にたあいのない、「私のこと好き?」てな感じが延々と続く、初々しいといえば聞えもいいが、それこそ“バカみたいな”もの。それをどう共感するものにしていくか……観ているこちらが一緒にドキドキしたり、切なくなったりするものにしていくかにラブストーリー映画の難しさがあり、それは行間的なものになってくるので、ロマンチックな印象よりもっと高度な、いわば技術的なものを求められる、非常に難しいものなのだろうと思う。本作は監督、シルヴィア・チャン本人がこの過去の思い出を大切に抱いていることに安心してしまって、それを描きさえすれば切ないラブストーリーになるだろう、とでもいうような感じを与えてしまう。その本人の思いをどう万人の共感するものにするかという部分が忘れ去られている気がするのだ。
「シンプルなラブストーリー」を目指したせいなのか、魅力的なキャラクターであるチャンリーの描写が押さえ気味にされてしまったのがその一因ではないだろうか。彼女の抱える複雑な思いの方がこの二人よりよほど切ない。彼女は“親友”であるシューヤウに思いを打ち明けることが出来ず、ホークァンを好きなフリをする。多分、シューヤウがホークァンに惹かれていることを知っての牽制的意味合いも含んでいたのだろう。しかしいわばそれが触媒、あるいは起爆剤となる形でシューヤウの彼に対する思いは膨れ上がっていく。シューヤウが彼と破局を迎えた時(実はその別れにはチャンリーが荷担の一翼を担っているのだが)、チャンリーはたまらずシューヤウに思いのたけを打ち明ける。親友だと思っていたのに、と彼女はショックを受け、チャンリーとの仲はそれきり疎遠になってしまう。
大人になったシューヤウが「あの頃は自分の目線でだけしか物事を見ていなかった」と言い、他の人の立場で考えることによって色んな事が見えてきた、と語るのだが、“他の人の立場”はもっぱらホークァンだけに限られており、それさえも大して彼の立場を理解したとは思われない。チャンリーにいたっては、皆無である。報われない“親友”である。チャンリーはその後ホークァンと結婚するのだが、彼女が彼を通してシューヤウを愛し続けるためだったのであろうその選択も(ホークァンも同じ理由だったと思うが)、全く語られないまま唐突に彼と彼女の結婚の事実が明らかにされ、唐突にチャンリーがホークァンにシューヤウを愛していた事実と別れ話を告げ、唐突に彼女は脳腫瘍で死んでしまうのである。しかしこの脳腫瘍も、高校時代から頭痛を訴えてて亡くなったのは40代に手が届こうという時というのは、そんなことってアリなんだろうか?
結局、シューヤウの主観的な“切ない思い”だけで語られてしまっているのだ。チャンリーは勿論、ホークァンの複雑な思いすら希薄。とはいえ、そこはさすがの金城武、身体演技で訴えてくるものがあるのだが。そして“シンプルなラブストーリー”はやたらと出てくるラブシーンにばかりその役目を負わせ、最初のうちはその美しさにおおっと思いもするが、だんだんとまたか……とイヤになってくる。
ラストお互いにそれぞれに結婚、婚約した二人はこれからも連絡を取り合おうと、最良の友人同士として別れを告げる。空港でホークァンは「飛行機の中でヒマになったらこれでも見て」と包みを渡し、二人は感慨深げに抱擁。機内、シューヤウがその包みを開けると、ホークァンが彼女を思いながら撮り続けた、夕焼けの写真が無数に入っている。それを見て目を潤ませるシューヤウ。写真というアイテム、それも過去に撮られたそれは、否応なく感動を盛り上げる……筈なのだが、正直、なんだこりゃ?としか思えないのだよなあ。夕空に思いを託す、という意味のなさに首を傾げてしまう。この時間になると彼は彼女を思うということなのか?それにしても……。
一番年若いジジ・リヨンは、さすがに高校生姿もサマになっており、その可憐な童顔もあいまって初々しささえただよう。いやあ、美少女だわ、好みだ。金城氏は高校生ではなく浪人中の19歳、そして彼もわりと童顔入っているので違和感ない。ここでも彼の語学力が駆使され、日本にてツア・コンをやっているという設定、そこでバイヤーとして来ていたシューヤウと再会するわけだ。彼が“もつやき”と書かれた赤ちょうちんの屋台で飲んでる姿がミョーに好きだなあ。そして御年29歳のカレン・モクがおさげで女子高生やっているのには思わずその女優根性をたたえたくなってしまい……違和感があるようでないようで、うーむ、微妙なライン。でも彼女自身が「アタシは女子高生よ!」と、もう気合入ってるから、強引にそう思わせてしまう感じ。まッ、時は70年代、今の若者より総じて大人っぽい人が多かったと思うし。
一般から公募したというタイトル、永遠と書いて“とき”と読ませるとは……ちょ、ちょっと恥ずかしくないかあ!?★★☆☆☆
主人公の柏原崇が扮する駆け出しの録音技師、俊太郎たちクルーが撮っている、宮古島の伝統織物、宮古上布のドキュメンタリーと、俊太郎の揺れ動く恋物語の二つがこの映画の中には存在する。やや前半におけるドキュメンタリーの比重の重さと、後半の俊太郎のプライベートな話とでバランスが悪い気もしないでもない。ドキュメンタリーが本当にまったきドキュメンタリー映画なものだから、その土地の人たちの喋るリアリズムな会話と、後半の(やはりどうしても)演技の会話のギャップに少々違和感を感じてしまうのだ。でも、そのドキュメンタリー部分は一個の作品として観たいほど素晴らしいものだし、二人の女性の間で揺れ動く俊太郎の物語もまたみずみずしく、篠原監督の真骨頂という感じなので、もうラストにはすっかりはまってしまって気にならないのだけど。
そう、篠原監督の真骨頂といえば、これ!草原である。ま、宮古島なんだから、美しい海の素晴らしさもふんだんに出てくるのだけど、その海がすぐ側に眺められる草原でのシーンがやはりいい。この土地に住み着いている録音技師、木島隆文(岩城滉一)が撮影クルーを連れてきてくれるところなのだが、別にそこで彼らは何をするでもなく、寝転がったり、逆立ちしてはしゃいだり、風に吹かれていたりする。微風を感じる、穏やかな草の揺れがなんとも心地よく、やわらかい。本当に篠原監督って、草食動物の印象だよなあ、と思ってしまう。
そして録音技師の物語ということもあってか、一番に印象的なのはその、音。真田麻垂美扮する吉崎日奈子との関係性におけるキーアイテムであり、俊太郎の録音技師になるきっかけとなったガラスの風鈴の音は言わずもがなだが、俊太郎が島のあちこちで録る海の音や機織りの音、そして会話がやんだふとしたしじまに聞こえてくる微かな鳥の鳴き声……などなど、なかなか聞こえてこないものを、しかも抑制された音量で聞かせてくれる。俊太郎が録音技師になったのは、自主映画のコンテストで木島が自分の作品の音を評価してくれたことがきっかけで、彼は映像における音の重要さを感じたと語るのだが、あまり音に意識して映画を観たことがなかった自分に気づいて思わず恥じてしまう。ああ、そうだ、音ってこんなに素敵なものだったのだ、と。そう言えば、ラジオドラマが好きで良く聴いていた頃、これとよく似た感覚にとらわれたことがある。人の声が手前で心地よく響いていて、自然の音が、上の奥の方で控えめに、しかしクリアにきらめいているこの感覚。そしてその声と音との間隙は静寂なのである。この心地よさ。
録音技師の持っている、あの大きなふわふわしたマイク、あれって、とてもチャーミングなのだよな。そう言えば、ヴェンダースの「リスボン物語」も録音技師の話だったっけ。おどけてあの大きなマイクで窓拭きしたり、凄くかわいらしかったのを思い出す。このマイク一つとっただけで、充分なキャラクター性を感じるのだ。
日奈子は勝浦の造り酒屋を切り盛りするしっかりものの跡取り娘であり、俊太郎とは常に中、遠距離恋愛を強いられている。そんな二人を繋ぎ止めるのはEメールである。「(ハル)」では一貫して画面の文字だけを、「ユー・ガット・メール」ではほぼ会話ノリで朗読されていた、その手法の間をとったような、その場に応じて画面だけ映したり、朗読だけだったり、その両方だったりする。「(ハル)」の手法も好きだったけれど、より自然なのはこちらかもしれない。俊太郎がドキュメンタリーのレポーターをつとめる鏡耀子(川井郁子)に惹かれていく経過を、彼のたった一行のメール「木島さんのうちに耀子さんがいた」と画面で見せる効果が満点なのは、どちらかの手法に偏っていたら得られないものであろう。そう言えば、日奈子がわがEメールという、いわば音の出ないコミュニケーションツールで、しかも距離が隔たっているのに対し、鏡耀子はバイオリニストであり、ほんのちょっとながらその演奏で俊太郎の心を揺さ振り、俊太郎の肌のぬくもりが感じる距離にいるのだ。
日奈子は俊太郎からピノコと呼ばれていて、それがとてもとても可愛らしい。しかし、このピノコという呼び名にはやはり意味を持たせているように感じるのは、彼女が無垢であるというのと同意義で未熟であるということも示唆している。それは対恋愛に対してのみであり、造り酒屋で新製品を作り出すほどのしっかりものが、俊太郎の心の揺れ動きに実に素直に反応してふくれっつらになったり、思い付きで近寄ってくる男とデートしたりしてしまうのだ。そう言えば当の「ブラック・ジャック」におけるピノコも、BJの助手を立派に勤め上げるほどでありながら、BJにべたぼれしているせいで、近づいてくる女性に嫉妬ばかりしていたっけ。仕事はしっかりこなすのに……というところまで、まさしく日奈子はピノコそのものである。でもだからこそけなげでいとおしい。自分の気持ちがよくつかめなくて日奈子に連絡を怠るような俊太郎に自転車で会いに行き、やきもちの感情をぶつけるようなところ、こんなかわいい子を悩ますなよ!と俊太郎をどつきたくなってしまう。
ま、でも恋愛に対して未熟なのはひょっとしたらこの鏡耀子もそうなのかもしれず、あるいは恋愛に成熟している人間なんてどこにもいないのかもしれないのだが。彼女は木島とかつて不倫関係にあったらしく、彼女の方が今でも変わらず木島を思い続けているのに反して、木島の方はその感情を過去のものとしている。そんな耀子が危なっかしくて見ていられない俊太郎もまた危なっかしいのだけど。耀子はなぜこのドキュメンタリーのレポーターなどつとめたのだろう。……やはり木島の住む宮古島での仕事だということで引き受けたのだろうか。最初のうちは彼女のレポート、本当にぎこちなく、満足に質問も出来ない状態だったのが、宮古の自然や俊太郎との対話が功を奏したのか、だんだんとナチュラルにレポートできるようになっていく。彼女のレポーターとしてのその変化もまた、ドキュメンタリーそのものでスリリングな魅力がある。
耀子が俊太郎を誘って木島の個展を見に行くと、そこには耀子が「こわい奥さん」と冗談めかして言っていた木島の妻(永島暎子。やっぱりメチャ素敵!)がいる。宮古上布で作った着物を着ているのに耀子が気づき「宮古上布ですね」と声をかけると「私、宮古の出身なのよ」と奥さん。「この人の仕事って、東京を拠点にしていなければやっていられないでしょ」と更に言う。この二つの言葉で、それまで夫婦の断絶がもたらしたと思っていた木島が宮古島に居着いている事実が、実は確固とした夫婦の信頼、愛情関係の上にもたらされていたことを知った耀子は狂ったように笑い出す……本当にこのシーンの川井郁子の壮絶ともいうべき笑い顔にはぞっとするものさえも感じてしまう。たまらず耀子を連れてその場を辞する俊太郎。傷心の耀子とふと交わすキス。しかしその時俊太郎は耀子に対する気持ちが、そうした(恋愛的な)感情ではないことに気づくのだ。「あなたが好きだけど、こういうんじゃないと思う。あなたのために出来ることならなんだってやってあげたいけど……」という俊太郎に、「じゃあ、眠りにつくまでそばにいて」と言う耀子。ベッドの足元で膝を抱えてそれを実行する俊太郎もまたいとおしい。
大杉漣氏はややテンションが高すぎるかな、という感じがしないでもないが、その大杉氏と俊太郎に扮する柏原崇の間で右往左往するディレクター、田口浩正や、俊太郎のやや先輩ながら、ほとんどおなじパシリ状態の同僚がいい。ことにこの同僚(役名忘れた……)、東京のOLをしていたのが宮古上布に惹かれて居着いてしまったという織物師の女性(これも土地の実際の人で、ドキュメンタリー映画に登場する)にホレてしまって、「先のことは考えない、今出来ることをやっているあなた、ノーフューチャーだ、そんなあなたが好きだ!」と支離滅裂に告白するシーンが可笑しい。
というわけで、やはり篠原監督はいいよなあー、とうっとりしてしまう私なのであった。今度は是非、女の子を主人公にした作品を観てみたい……どうかしらん?★★★★☆
ビビアンの登場は結構遅くて、実際のピンの主役はトニー・レオン。女に翻弄され、というか、客観的に見れば単なる女たらしのトニー扮するCMディレクターのワイが、最終的に運命の(かどうかも今後判らないが……)恋人となるビビアン扮するアーユーと出会う。しかし物語は彼が揺れるもう一方の女性である彼の上司のビビアン(これは役名で演じるはエイダ・チョイ)や、同僚でほんとに女たらしのパトリック(アレックス・フォン)、パトリックと微妙な関係を揺れ動くメイなど、周囲の人物の愛すべきエピソードを絶妙に織り交ぜて描く。ロケ場所とか舞台とか、Vシネっぽい、お金のかかってない感じで、数はとにかく多い香港映画の一方という雰囲気を醸し出すチープさだが、人物の動かしかたが上手いので気にならない。
この上司のビビアンというのが、当初レズビアンに間違われていたりする。バリバリ仕事をしているせいもあるけど、確かに風貌、雰囲気、どこかレズビアンぽいのだな。……レズビアンぽい、というのはどこか語弊があるんだけど……だって知り合いにはレズビアンはいないので判らないし……ただ、映画で今まで見たレズビアンが、例えば「バウンド」のジーナ・ガーションとか、「ハイ・アート」のアリー・シーディとか、そういう共通した風情みたいなものを感じるのだ。男に負けまいとするキャリア・ウーマンとはまた違う、なんだろう、独特の視線の色気なのか、アンニュイさか。どちらにしろ魅力的だ。
ワイの同僚、パトリックとメイ。生来の女好きで、もともと古株の彼女はいるものの、浮気をせずにいられないパトリックと、彼の幼なじみでずっと彼を思い続けている(パトリックは気づいていない)同僚のメイ。童顔なのにナイスバディで、それに引きずられるような感じでメイといい仲になるパトリック。しかし本気のメイと、最初は本気とは言いがたいパトリックが気持ちの上ですれ違うのは当然で……。浮気をしようとするとメイの時のように“勃たない”(……)ことを、彼女に支配されているからだといかにも男性特有の身勝手な考えをしていたパトリック。メイが決別を決心し、ウソの結婚話を彼に聞かせ、ようやくパトリックは彼女に本気だったことに気づく。そう、お互い本気で好きあっていても、タイミングがずれるとこんな結果になってしまうのだ。友達から恋人になるのって、こういう所が難しいのだろうなあ。
もう一人面白いのがワイの父親。女に翻弄される息子に適切な(?)アドヴァイスを授ける、恋愛の大家である。二号どころか三号もいた、死んだ母さんも気づいていたという父親の豪語に、目を丸くするワイ。しかも「一人は寂しい」と若い女性と再婚を決め、すでに子供まで作っているという絶倫さである。サッカー好きで、なぜか息子の家にサッカーを見に来るこの父親のとぼけた味わいがなんともチャーミング!
セクシュアルなネタが多いところもこの作品の特徴の一つで、レズビアンという のもそうだけど、娼婦を買うとか、コンドームをし忘れたとかいうのがガンガン出てくる。そのコンドームをし忘れた、と言うのはパトリックなのだけど、それを聞いたメイが「大丈夫、三日前に終わってるから」と返す。そーいう問題じゃないだろう!しかも100パーセント大丈夫なんかじゃないっつーの!しかもしかもそれに答えてパトリック曰く「どうりでしっくり来ると思った」……もうなにをかいわんや。そのナマでやったのが凄く良かったからコンドームを使う気になれないとかいいくさるし、ちょっとこのへんジョークとしても問題ありだよなあ……。
そして、なんといってもビビアンである。彼女扮するアーユーが登場する場面、偶然スタジオに残って着替えていた彼女がシーツ(?)をまとって物陰から物陰へと逃げ回り、ワイの言葉にふと立ち止まって振り向くシーンからもう、その清楚な色気と可愛らしさに打ちのめされてしまう!何といってもモデルという設定だから、とっかえひっかえ可愛い服に着替えてくれるのも嬉しく、ワイは首を振ったけれども彼女自身が気に入って買った、真っ赤な膝上のワンピースのなんと可愛く似合っていること!まったくこの悩殺娘が!
面白いのはこれが彼女のセルフパロディ的な装いを呈していることで、物語の最後には日本に行って“ビビアン・スー”としてスターとなったアーユーの姿が、実際のビビアンの(ブラック・ビスケッツや、CMや、雑誌の表紙など)姿を使って描かれていること。登場は遅いし、ワイの上司のビビアンや他の達者な脇役の活躍の中で健闘してはいるもののちょっとものたりない位置づけなんだけど、この後半のラスト・スパートで彼女の印象が強く残されるのでもうけもの。 ★★★☆☆
少女の家族が越してきたのは、まるで「シザーハンズ」のそれのようなきれいに区画され、芝が刈り込まれ、静かで、清潔な住宅街『キャメロット・ガーデンズ』。しかし「シザーハンズ」の住宅街のファンタジックさはキュートさのをより強く感じさせたのと対照的に、こちらのファンタジックは非リアリティ、非人間的なそれである。よそ者を排除する街……そうだ、それこそ、「シザーハンズ」のエドワードだって、よそ者だったけれど(ラストには追われてしまったが)、その街に暖かく受け入れられた。しかしここは郵便配達人でさえ(ちなみにこのポストマンはメキシコ系らしい)さっさと出て行けと言われる街である。街というより……箱庭かな。
少女の父親は評議会のメンバーになりたいという野心があり、それを後押しするために母親はクッキーを焼き、それを少女にチャリティといって売らせることによって、地域の票を集めようとしている。あれ?この子、学校は?と思うがどうやら夏休みなのだな、あれは。10歳の子の夏休み……子供の夏休みは永遠の長さを感じさせる。「鉄塔武蔵野線」みたいに……。永遠とはその言葉だけでもはやファンタジーだ。
この街に芝刈りにくる貧乏な青年トレント。彼の住む掘っ建て小屋は少女がクッキーを売るべきリストになんか入っているはずもなく、この街から遠く離れた森の中にある。しかし手引き車をがらがらと引きながら、彼女はその小屋に呼ばれたかのようにたどり着く。少女が信じる「森の中の魔もの“バビヤガ”」のように、孤独に住んでいる青年。気まぐれのように彼と寝る街の女性もいるが、所詮は本能を満たすためだけの存在で、テニスコートにおくろうというただそれだけの青年の申し出さえも固持する。ましてや家族に紹介する気などさらさらないのだ。少女はそこにたびたびしのんでくる。赤いリボンで木を飾ったりする。時には親にウソをついて泊りに来さえする。彼女の行為は、彼女が青年に対する絶対の信頼を確信してのもので、観客もそれを判っているからいいものの、やはり客観的に見ればかなり危険な行為だ。この少女にはどこか大人の表情がある。大人たちのセックス場面に遭遇してもクスクス笑ったり、興味深く観察したりするタフさ。
青年の両親、特に父親が印象的だ。戦争の記憶を拭い去れない老人。国が配った缶詰のチーズの中に入っていたバクテリアで、肺をやられてしまったその老人は、しかしいまだに星条旗を手放せず、国に対する矛盾した忠誠心から逃れられないでいる。戦争に対するこんな皮肉なエピソードは、なかなかハリウッド映画ではお目にかかれない。なんたって、アメリカは自分の国が大好きだからね。これはアメリカが舞台になっていてイギリスとアメリカの合作の形をとってはいるものの、この辺のシニカルさはやはりイギリスのものだ。
しゃれにならない嫌がらせをする街の住民の中で、一人興味深い人物がいる。青年に「小学校の時一緒だったろ」と言って近づいてくるショーン。覚えていない、という青年になんとか思い出してもらおうとしつこく食い下がる。「ああ、父親がBMWに乗ってた。学校の駐車場で新車はあれだけだったから覚えている」と思い出す青年にその皮肉には気付いていないかのように親しくしたそうにするショーン。はっきりと明示はしないものの多分、小学校の時ショーンはこの青年に憧れていたのだろうと思わせる。冒頭、芝刈りからの帰り道、川に見事な回転で飛び込む全裸の青年を見せるシーンがあるが、その完璧な筋肉のつきかたにハッとする(着やせするタイプなんだな……服を着てると普通なのに)。どうやら学生時代は飛び込みでならしたらしい青年、おそらく子供の頃から体育会系で、ショーンのような腺病質っぽい子の憧れの対象だったことは容易に想像できる。ショーンがつるんでいる、こちらはたちの悪い悪ガキから進歩していないもう一人の男が、目障りな青年に嫌がらせをするのを、びくびくしながら出来ることなら仲裁しようとしつつ、やはりそれだけの度胸がないショーン。彼は青年にはっきり惚れている。多分それを自分でも自覚している。しかし彼は自分がこのハイソから抜け出せないこともまた自覚している。もしかしたらショーンが一番気の毒かもしれない。ラストでは生死不明になっちゃうし。
少女は心臓が弱く、手術のあとが大きく残っている。青年はショットガンで何発も撃たれた弾痕が腹に残っている。その傷を見せ合い、触れ合う場面の優しくも切ないエロティックさ。この事が後の悲劇をもたらすことになるのだけど……。ひょんなことから街の住民が飼っていた犬を青年のトラックで轢いてしまい、瀕死の犬を殴殺する青年。大人の目から見れば、あれは安楽死させたと判るのだけど、少女の目にはショッキングな出来事としか映らない。信じていた青年が犬を殺してしまった……逃げ出す少女は両親や警官に青年と傷を触れ合ったことまで喋ってしまう。どんなに大人の表情を持っていても、こういう所はやはり子供なんだな、と思う。無自覚に青年を追いつめてしまう少女の残酷さ。ここで終わったなら、それこそリアリティモノだったろうが、ここからのファンタジックさがお見事なのだ。
青年の掘っ建て小屋に向かう少女と少女の両親、犬の飼い主であるショーン、警官。そこでボコボコに殴られる青年を見て我にかえったかのように、父親の銃を取り出してショーンを撃ってしまう少女に、登場人物たちだけでなく観客もビックリである。愛する人を助けるために殺人さえも辞さない、父親を銃で脅してまでも……だなんて、まるでハードボイルドなラブストーリーそのままではないか。少女は青年に逃げるよう促し、タオルとクシを渡す。「逃げる途中、これを投げて」と。青年はうなづき、車を飛ばす。橋の上でタオルを投げると川が増水し、青年が走った後の道を閉ざしてしまう。道の途中でクシを投げると、その後ろに木がボコボコと生えてきて森が出来てしまう。目を疑うほど完璧なファンタジーである。そんな青年が見えるかのように赤いリボンで飾られた木に登り、遠くを見詰める少女はなんだか急に背が伸びたみたいにすら見えるほど大人っぽく映る。“赤い”リボンが無数に垂れ下がっているそれは、やはり少女期を脱した象徴なのだろうな、判りやすすぎるけど。純白のふわふわしたワンピースを着た少女の姿は、その赤に汚されていくことをも予期させてしまう。そしてその相手はこの青年ではないのだから。★★★☆☆
タイトル、初めて聞く監督の名前から来るイメージ、竹内力、小沢仁志というキャスティング……もうこれは、いわゆるVシネチックなネオヤクザもので、主人公は竹内力で、女は情婦で頭の弱い添え物で……という私のうんざり気味の予測はあっさり裏切られた。なんと、主人公は竹内力じゃ、ないんである。かといって小沢仁志でも突然の豪華キャスト、白竜でもない。驚くべきことに主役は野本美穂、中村綾の女性二人であり、ヤクザものの主役級男優たちはこのメチャカッコイイ女たちに嬉々として、と見えるほど踏みつけにされている。いやあー、びっくりした。
冒頭は、もうまんまネオヤクザもののスタートである。黒づくめで拳銃をぶっ放す竹内力のそばに、やはり黒のセクシーなかっこした、一目でこのヤクザの情婦だと判る頭の弱そうな、もうこの手の作品にはゾロゾロ出てくる、替わりはいくらでもいるぞ的な(私もしつこいな……)女が恐れおののいた表情で立ちすくんでいる。しかし、彼女=朋代がそこにある車のトランクの中に縛られた女が横たわっているのを発見する。金髪に髪を染め、はだけたあらわな胸には蝶のタトゥー、唇から血を流し、鋭い目でこちらをにらんでいるその女。後に彼女と運命的再会を果たすユキである。そこではあからさまには描かれないものの、朋代はこの時のユキに一目で魅せられたことを、彼女と再会した時に告白する。そしてユキもまた……。
ただこの二人の感情は最後まで確信が持てないのだ。朋代自身が、宇東(竹内力)が小沢仁志(役名忘却)のもとに送ったスパイであり、その二人の間に取り引きされるカネを朋代とユキで奪おうとするわけだけど、彼女が本当は宇東に傾いているんじゃないかとか思わせる部分があって、彼女の本心が最後まで信用できない。バカラのディーラーとなって朋代の前に偶然現れたユキに近づくのも朋代の方だし、もともとはストレートであろうと思われる朋代が最初からユキに積極的なのも、そうした疑惑を増幅させるものがある。
多分、ユキの方にもそうした疑いはあったと思う。ユキは多分最初からレズビアンだろうし(風貌といい、黒の革のパンツスタイルなど、そうした匂いを感じる)、彼女自身が語るように朋代を一目で気に入ったのだろうと思う。朋代の言葉を信じれば、彼女たち二人はお互いに出会った時に運命的な恋に落ちたことになるのだけど、朋代がもともとレズビアンではないことで、ユキの方にある種の劣等感というか、そう言うのが語弊があるのならある種の惚れた弱みがあって、朋代に対して意識的に距離を取っている。
そう、この朋代を演じる中村綾、そうした微妙な部分をあざとくなく演じてお見事。明らかにタチ役のユキ(野本美穂)に対して、童顔で色っぽい服がロリに見える、いかにも男のオモチャ的な彼女。そのコケティッシュさが男と女、双方の心をもてあそぶ感じをよく出している。
彼女たちの計画が大詰めを迎え、海岸にオープンカーを止めた二人が思わず口論になり、ユキが車を降りて、「こんな車でよかったらやるよ」とさっさと歩いていってしまう。「そうじゃないの、私運転できない、免許持ってないの!」と泣き出しそうに言う朋代に思わず吹き出すユキ。二人して笑ううちに、ふと顔を見合わせる一瞬、朋代がユキの唇に自分の唇を静かに触れる。思わず顔を引くユキの戸惑った感じがいい。そしてその後、二人は砂浜で抱きあうわけだけど、その真っ白な砂浜に、黒づくめのユキと白づくめの朋代というコントラストが美しい。まさしく黒と白の天使を思わせるわけだけど、その内面はもしかしたらそれぞれ反対なのかもしれず……などという思いをも起こさせる。
男達から金を奪う段において、ユキは朋代に銃を向ける。三発、四発……。えええ、うっそお、実はユキの方にそんな裏切りが!?そして次のシーンではユキもまた宇東の腹心であったことが明かされ、二人で金を山分けしようという会話がなされ、もうぼーぜんとしていると、ユキの背後から殺されたはずの朋代が現れる。「金はあたしたちがもらうことにしたよ」二人して宇東にぶっ放す爽快さ!そのあと、ふと顔を見合わせた二人が銃を突きつけ合う、なんていうシーンを用意して(しかしこのシーンのカッチョイイこと!)またひとくさりハラハラさせつつも、目を合わせた二人は微笑をもらし、銃を降ろす。そして金を積んだ車で走り去っていく。まあーったく、最後の最後までやってくれるよ、ホント。
竹内力、小沢仁志、白竜、菅田俊といった錚々たるメンメンが、このタフな女二人に翻弄されるわけだけど、特にテンションが高いのはやっぱり小沢仁志兄い。もともとこの人表情の作り方とか、やたらと演技が濃いんだけど、まあちょっといくらなんでも、と思うほどバタバタと悔しがり、殴り、蹴飛ばす。最初は正直ヘキエキしていたんだけど、ある種コメディリリーフともいうべき、頭の弱い(実はこっちが、だったのね)男のキャラを存分に表現していると言えなくもなく、次第にそれを楽しめるようになってしまう。うーむ、しかしやはりちょっとやりすぎかも!?
この点数はちょっとあげすぎかなあ……でも予測を気持ち良く裏切られたという点でやっぱり献上しちゃおう!★★★★☆
撮影、仙元誠三の力もあるだろう、非情な空気を演出する画づくりがすばらしい。「鉄と鉛」でもそうだったけど、きうち監督は夜の画づくりが素晴らしい(ただ「鉄と鉛」ではあまりに夜の場面が多くて眠くなっちゃったけど……)。昼の場面でも夜のベタな色を感じさせるような所がある。歩道に伸びる影は墨一色の深いベタ、光沢が全くない、湿り気を排したその画だけで、充分ハードバイオレンスを醸し出す素晴らしさ。黒を基調とした衣装のドン・カルロスの静かでいてギラギラしたたたずまいもあいまって、ますます黒の底知れない力を感じるのだ。
ひょんなことで暴力夫からカルロスに助けられ、運命に導かれるように彼と行動を共にする聡美。扮する小泉今日子はやっぱりどうも大根だと思うんだけど(ごめんなさい)台詞が抑えられてるせいもあり、夫の暴力から逃げてばかりだった女から戦う女へと変貌するという過程が用意されているせいもあって、なかなか魅力的。ただ台詞を喋るとどうしてもちょっとだけガクッとなっちゃうのは私だけなんだろうか……。裸足のままカルロスについてくる聡美に、彼はなけなしの金をはたいてサンダルを買ってやる。公園で汚れた足を水道で洗うショット、スローモーションにきれいな裸足が水しぶきをあげ、ロングフレアースカートからのぞくすらりとした足にスリリングな予感を感じる。安物だといいつつしゃれたデザインの黒のサンダル、彼女が最初に黒に染まるシーンであり、その後の展開を充分に示唆する秀逸な小道具。ラスト彼女もまたノースリーブの黒のロングワンピースを着て、敵地でハードバイオレンスに身を置くのだ。お互いに惹かれあっているのは明らかだが、最後までそうした関係にはならないストイックさがいい。
敵の組の若頭に、またしてもの登場に嬉しい北村一輝!本当に彼は何という存在感の持ち主なんだろう。しかしなぜ毎回、ちょっとヘンなキャラクターなんだろう……このきれいな顔立ち、大マジでシリアスなロマンスをやったらしびれまくるだろうになあ……。ああ早く初主演作「日本黒社会 LEY LINES」が観たい!
そしてそして、これは凄かった。内田裕也&大沢樹生のギリアーク兄弟!金髪に黒の革づくめの二人は、一目見ただけでその妖しい関係が判ってしまう。劇中では何も語られないものの、お互いを「ブラザー」と呼び合う、もうそれだけで、彼らの同性愛の匂いが漂うのだ。なにか「GONIN」のビートたけしと木村一八の関係を思い出してしまったが、あれよりももっと相棒感覚が強い。英語をちゃんぽんにして喋る強烈な存在感のギリアーク兄の内田裕也に対し、ギリアーク弟、大沢樹生は殆ど台詞はないんだけど、彼のその、爛熟したような美しさが、内田裕也が寵愛しているのが充分首肯させるだけの魅力があって、「日本製少年」以来いまひとついい役に恵まれなかった彼が久々にカマしてくれた!
カルロスの撃った弾丸が頭に残っているせいで日々頭痛に悩まされ、組からも孤立している梶が、決死で奪った一億円をカルロスに託して死ぬ。「若いもん二人をよろしく頼む」と言い残して。しかしその直後、その一億円は組に奪われる。カルロスとともに金を奪いかえすことと、梶のかたきをうつことを決心するその若い二人がいい。現代の若者風な軽さをもっていて、二人でこの作品のコメディリリーフを買って出ているのだが、そのほっと力が抜ける好感の持てるユーモラスさと、梶を慕う心から敵地に乗り込み、非業の死を遂げる痛ましさ。聡美にほのかな想いを寄せながら、「あんた口説こうと思ったのに、ついてねえなあ」と言ってこときれるシーンは忘れられない!
カルロスとともにギリアーク兄との一騎打ちに出かける聡美の最期もまた印象的で、ギリアーク兄に「なぜこんな所にレディがいるのかな?アマチュアに俺は殺せないよ」と捕まれた手にフッと息を吹きかけられる。彼女がふと自分の手を見ると、ぽつんと針で突かれたような血が出ている。その直後にがくんと昏倒、こときれる聡美。こんな鮮やかな殺しは見たことがない……。
きうち監督デビュー作であるVシネの続編だということだけど、Vシネまでなかなかフォローできないので、不勉強な私は知らなかった。でも、「鉄と鉛」でもそうだけど、きうち監督の映画を東映のおっきなロードショー展開するのはどうも似合わない。……というと語弊があるけど、こうした本当の意味での傑作を、宣伝に熱心でない、来た番組をかけるだけみたいな丸の内東映&シャンゼリゼにかけて動員の無いまま終わらせるのがシャクなのだ。やはりミニシアターで、手厚く宣伝されて、クチコミの効く期間もちゃんとおいて、ヒットしてほしかった。閑散な場内がすごく悔しい。★★★★★
ただ一つ笑えて、観客もそこだけはウケてたのは、ホモ刑事マカロニ(このネーミング、バカバカしくて好きだなー)が美少年ビリーと(ジュド・ロウかと思ったフェロモン系の超美形)コトに及ぼうとした時に、マカロニ刑事がズボンをおろすと、彼のナニが巨大だということを表現するのに、その影がビリーの顔から上半身を覆うというもので、それだけでも可笑しかったのに、マカロニ刑事が誇らしそうに「32センチだ」などと言うものだから、爆笑モンである。その巨大なモノを狙う、キラーコンドーム。その安ホテルで提供されているコンドームは「安いから」という理由で、バラの、個別包装されていないものが大量に仕入れられている。あの、安っぽそうなオレンジ色!それがダンボールに無造作に積み上げられている様!そのあたりのチープさも結構ツボである。
しかしマカロニ刑事よりも、美少年ビリーよりも強烈だったのは、オカマのバベットで、ま、大男でひげの濃いドラアグクイーンとくれば、それだけで印象強烈になるのは必至だから、かえってステロタイプになりがちなんだけど、いや充分ステロタイプなんだけど、やはりこういう存在感キャラには弱いのだ。ボブが本名らしい彼女(?)が、ボブと呼ばれるたびに「バベットよ!」と執拗に繰り返すところ、「あんたの母親に似ているから、あんたはあたしを愛しているのよ」と言い張ってやまないある種の可愛らしい一途さがなんだかキュート。実際ああいう中年女性っていそうだから更に可笑しい。「有名プロデューサーが来る店だから」スカウトされるはずと思い込んで「優しく歌って」を口パク(!)でソフトに歌い上げる彼女(??)が本当にテレビ界に進出しちゃうあたりのこれまたチープさがイイのである。
あ、でもこの作品の何よりの魅力は、言葉が全編ドイツ語なのにもかかわらず、平気でニューヨークなんかを舞台の一つにしちゃうところだったりする。しかも、ニューヨークに住んでいるドイツ人の話というわけでなく、あくまでアメリカ人という設定で、アメリカ大統領候補までドイツ語を話すんだからぶっ飛びなのだ(しかもこの大統領、ディック・マクガバンなる名前で、ナニを食いちぎられるディックレスディック(チン○なしディック)……くだらねー(笑)!)。最初私、この映画がアメリカ映画だとばかり思ってたから(だってそういうウリ方をしてたもんだから……)、どう聞いても英語ではない言語で、でもニューヨークで、アメリカ大統領で……だから思わず頭を抱えてしまったんだけど、このいい加減さというか、強引さが好きだ。日本でも、ハリウッド映画になんかかしずかないで、舞台が外国だろうが登場人物が外国人だろうが全部日本語で通しちゃう映画とかできないかな……無理か。
んで、このキラーコンドームを作っていたのが天才科学者だというあたりのインチキ臭さと、パラノイアっぽいフェミニズム論者臭ただよう女性が、悪趣味なメイクでガンガンのアップで出てくるあたり、いかにもカルトコミック原作の趣があるし、ナカナカ好きな世界。
と、これだけ魅力的なアイテムがそろっているにもかかわらず、そのアイテムをあくまで淡々と語っちゃうから、後からこうしてあれこれ考えると、凄くもったいない気がして仕方がないのだ。やはり「オースティン・パワーズ」くらいはじけてくれよ!と思ってしまうのであった。★★★☆☆
アニメならではの臨場感はたっぷり楽しめた。爆破シーンなんかは、実写ではこれほどねちっこく演出できないもの。特に、高級リゾートホテルが大規模な破壊活動にさらされるなんて、アニメでなくては出来ないものなあ。あるいは、ラストの津波のシーン、岸壁に静かに座った周防氏がどっとくる津波にさらわれていくところなんか、これが実写でのCGだったら、ああ、CGだあ、という気分が先に立っちゃったりするのだけど、アニメだとそれがなく、素直に哀しさを受け止められるからいい。インターネットで作り出された神とか、狂信的なカルト集団、とか、なんか最近やたらと聞く設定で新鮮味はないのが残念。
それにしても、ふと思ったのだけど、偽名をつかって藍沢家に入り込んだという周防氏、でも、これだけの大企業だったら、娘の家庭教師の身元は徹底的に洗いそうなもんだけどなあ……そこまで見こして完璧なバックグラウンドをも作ってたんだろうか……いや、多分そうなんでしょう。多分、彼にとって最大の誤算は、彼自身の台詞による、金田一少年がその場にいたこと(彼が謎を解いてしまったこと)ではなく、もっとずっと根本的な、彼が藍沢茜に惚れてしまったことにあるんだろう。自分の父親代わりだった那国を殺されて、復讐を誓った彼なのだから、その復讐の相手の愛娘をも、敵の範疇に入れるべきだったのだ。しかし、この藍沢グループの中で、唯一奇跡的にのびやかに育った茜をそうした目で見ることは、彼でなくたって困難に違いない。劇中の金田一が、推理で犯人を割り出しながらも最後までどうしても信じられないといった表情をしていたのは、周防の茜への想いが本物だったことをも気づいていたから、だろう。
もう一人の犯人である、ホテル内の警備システムを管理していた少女(本当に少女……せいぜい10〜12歳くらいか)、東京の明智警部によって(カッコいい!)ハッキングされる。ラスト、ホテル内に人質にされたうちの一人ということで保護されながら空港にあらわれ、そこで当の明智警部とすれ違いざまに対面、那国巫琴という名前があかされ、どうやら那国の娘であるらしいことが判明する。常に後ろ姿でやたら謎めいた描写に徹していたのにあまり意味があったとは思えない。それに当然周防との共犯であるはずなんだけど、過去の回想シーンでも彼女は出てこないし、現在シーンでもお互い連絡を取ろうともしないので、全くつながりが見えないんだよなあ……ま、連絡取ってたら、周防が犯人だということを観客にバラしちゃうようなもんだからそれはいいとして、巫琴をこれほどまでに謎の少女に仕立てたのには意図的なものがあったのかなあ。彼女が周防を操っていたとか……いやいやそれは深読みし過ぎだ。
テレビシリーズを見ていない私も、あの決め台詞「じっちゃんの名にかけて!」には思わずワクワクしてしまった。単純ですな。しかし、ラストがひらがなで「おわり」なのには思わず笑ってしまったが……。★★★☆☆
会社の再構成に燃える、ミドル四人組。その中でも役所広司扮する主人公の北野が、腐りきったボードの、しかも頂点で実権を握っている佐々木の娘婿だというしがらみが面白い。表向きはそんな北野を出世頭だからすりよったと言いながら、その実北野に個人的にホレているのであろう、横柄なところがカッコいいという離れワザが魅力の椎名桔平扮する片山、他2名で構成される四人。その下の若手四人、善悪では簡単に振り分けられないボード(経営陣)、指揮をとる遠藤憲一がなんたってカッコいい検察、経済&金融専門のCS放送局ブルームバーグ……等々が入り乱れ、スピーディーな映像であれよあれよという間に進んでいく。バブル時の不正融資が発覚した、かつて大合併を経験している朝日中央銀行(ACB)が、再建をかけた株主総会をクライマックスに大揺れに揺れていく。その株主総会、総会屋の怒号が渦巻く圧倒的なモブシーンは迫力満点!で素晴らしいの一言!……だったからこそ、一般株主である老紳士の感動的スピーチでしめくくるのはちょっと膝カックンな思いだったけど……。なんだかここだけ甘ったるい感じがして。でも、それもこれも含めて、やっぱり原田監督っていい意味でも悪い意味でもハリウッド的なのだ。あらゆる所でちょっとカッコ良すぎるよなあ、と思えるところもあるのもちょいとね。マンガ的な悪役が楽しい仲代達矢扮する佐々木がワインに傾倒しているのもそうだし、主人公の北野が盲人の伴走ランナーをしているのも。そういうスマートさが時々生々しいリアルな面白さをジャマしている気がしなくもない。
一度目に観た時にはさっぱり判らなかった、経営陣内での人物相関図。飲み込めてみると、正義を一身に体現しているミドル達よりもやはりはるかに面白いのだ。生真面目ゆえに自殺に追い込まれた久山(佐藤慶)、若手に理解を示しながら、自らが逮捕されてしまう中沢取締役(石橋蓮司)から、内部事情をバラすことで免罪符を得ようとする太田、最悪党の佐々木まで、完全にこっちとそっちではなく、断固悪に抗ったもの、やむをえず関わってしまったもの、ひたすら気弱なもの、ずるいもの、全て自分がルールだと思っているものなど、白から黒、グレーまで、そしてその中でもさまざまな思惑が跋扈していてとにかく複雑、飽きない。悪を正すことだけを考えていればいいミドルや若手に比べ、生きてきた年数分のしがらみを断ち切れないボードたちの人間模様のなんと面白いことか。
北野が絶大な信頼を寄せる久山氏が自殺したのが発覚する場面のスリリングさは、株主総会のシーンに次ぐものだった。これに触れぬわけには行かないだろう、イージー・リグという新型カメラを使ったというその機動性がもっとも上手く使われているのがこの場面で、エレベーターから廊下を抜け、久山氏が倒れている部屋へ往復してカメラが追いかけていく流れはもう感嘆するしかないし、しかも、この時の秘書である黒木瞳の無言の演技!ここに限らず彼女は一言も台詞がないのが非常に功を奏していて(無言でロシアン・ティーを入れる彼女のたおやかさ!)、それが久山氏を絶対信頼し、尊重し、尊敬しているのがしっかり伝わる、女優やのお!な身体演技なのだもの。ここでチラリ出演の、オロオロしている警備員役の田口トモロヲ氏ににんまりさせられるのも嬉しい。
にんまりさせられると言えば、この人を置いていないでしょう、弁護士役のもたいまさこ氏!「双生児」でもひたすらスッテッキ!だった彼女だが、ここでももう最高だ。登場シーン、初対面の北野扮する役所広司氏と握手する場面、彼の目をじーっと見ながら握手をなかなか離さないのにまず笑わせてくれる。 しかし全般的には冷静で頼りになる弁護士さん。総会屋対策に「強制退場させてボコボコにしてもかまいません」と真顔で言うのに「ボコボコはまずいでしょう」とミドル(北野だったかな?)と言うと、それこそ彼女、にんまりと笑顔を作って「……冗談ですよ」いやあもう、最高!この時のキッペイ氏のこれまたにんまり笑顔もイイ!
つい最近黒沢清監督のテレビのスペシャルドラマでも抜群のコンビだった北野の妻の風吹ジュンは役柄的に食い足りないのは仕方ないけれど、その子供二人のうち、上の男の子のませっぷりがいい。おじいちゃんのワインを味見するのを楽しみにしてたり「お父さんが悪いんじゃない、たださ、会社って言うのはさ……」なんて嘆息交じりに言ったり、コイツー!てな、生意気さがたまらなく愛しい。しかもみょーに上手いんだよなー。子役特有のイヤミな感じが全然ない。
ブルームバーグ放送局のアンカーウーマン、和田美豊(若村麻由美)、一回目観た時には天海祐希かと思ったくらいに毅然と美しくてナカナカ気に入ったのだけど、二回目に観ると、この役柄から想像される域から一歩も踏み出ていないので、オイシイ役の筈が結構影が薄いのが気になる。女性が社会にまだまだ進出していないことに歯噛みしていることを、実に具体的に口に出したりして、とりあえず今の時代はこういう女性を出しておかなければ、というようないわゆるステロタイプというヤツ。背中にコイルでつなげたミネラルウォーターを常備しつつも、飲みかけの水をいつもそのまま放置してしまうようなところも、そういう目で見てしまえばワザと男っぽくしてるみたいで白々しい。何もしなくてもある意味これほどまでにチャーミングなもたいさんとは実に対照的なんだよなあ。
彼女の相棒のクリス・ゴタンダ(遊人)のフットワークの良さはなかなか魅力的だった。それに何といっても彼らマスコミ陣が突撃していくシーンは、本気で将棋倒しになってしまうほどの大迫力で、株主総会のシーンに匹敵する凄さ!
銀行内部の描き方はともかくとして、総会屋の何たるかが描かれていないことに対して某評論家氏が指摘されていて、確かにもっともなんだけど、やっぱりそこまでやったらとっ散らかったんじゃないかなあ。描かないことで、殆ど戦慄!のラストも含めて総会屋の不気味な恐怖感は充分出ていたと思う。新橋駅ホームで、若い男(本宮泰風。彼は株主総会のシーンにも、そして久山氏の墓参りをする北野を待ち伏せするラストにも出てきて、セリフは殆どない)が意味もなく北野を見つめるシーンはその直前、ミドルの仲間が撃たれて「駅のホームは真ん中歩けよ」と言われたばかりの彼にとって、そしてもちろん観客にとって電車の轟音もあいまって恐ろしくスリリングだ……それも彼らの正体がわからないからこその恐怖である。この物語は括ってしまえばミドルの活躍物語。総会屋はそれをはばむ悪役の一翼。悪役にまで人間性を持たそうとする昨今のハリウッド映画のマネまではしなかった原田監督の判断の方が正しかったのではないだろうか。★★★★☆
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