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「や」


2001年鑑賞作品

焼け石に水GOUTTES D’EAU SUR PIERRES BRULANTES(WATER DROPS ON BURNING ROCKS)
2000年 90分 フランス カラー
監督:フランソワ・オゾン 脚本:フランソワ・オゾン
撮影:ジェーン・ラポイール 音楽:
出演:ベルナール・ジロドー/マリック・ジディ/リュディヴィーヌ・サニエ/アンナ・トムソン


2001/8/7/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
ふと気づいてみると、私はフランソワ・オゾン監督の作品には★★★☆☆以外つけていない。巷の評判の高い監督に対して、妙に冴えない反応しか示せなくて、今回に至っては、それよりさらに点を下げてしまった。以前からうすうす感じていたことだったようには思うのだけれど、上手さゆえのつまらなさで、単純に映画を面白がる私には時々敷居が高すぎるのだ。多分この監督はムチャクチャ上手いんだろうと思う。そうした洗練された、あるいは手馴れた腕は感じる。しかし、それが映画の情熱と正反対のものとして私には感じられてしまう。優れた文学を文学のテイストのまま映画に移してしまったらこんなふうになるんじゃないかというような感じもする。判ったフリして面白がれない。

予告編で受け取っていたイメージともだいぶ違っていた。キャスト四人が横一列に並んでポップな音楽にあわせて踊っているという、ちょっとオバカな感じがツボをくすぐられるシーンだけを使ったもので、そしてこのシーンは確かに映画の中にあるものの、これだけを取り出してみたイメージと映画のイメージは全く違うのである。まあ、そんなことはままあることだし、いい方に裏切られればそれでいいのだが……。オゾン監督の奇妙なおかしさの魅力というのは確かにあって、「ホームドラマ」なんかではそれを割と素直に面白がれたのだが、今回は私にはどうもダメだった。三幕ものの戯曲が原作である本作は、その幕ごとの始まりにコミカルな音楽とキャストを入れ替えて繰り返されるイメージがあったり、愛情とセックスに対してハシャぐ可笑しみなども確かに面白いはずなのだが、監督の計算が行き届きすぎて、そのはめ込まれた画面に毛筋1つも破綻がないというのが、一番悪い方向へ行っている様に感じるせいだろうか。多分、オゾン監督って、自分の中のイメージが本当に確固としていて、そのイメージどおりに作り上げる完璧主義者という感じがする。

愛情とセックスに真実を見出せない一人の美青年が、それを知りすぎた美中年の男に絡めとられていく。この美青年、フランツは、それによって確かに愛情とセックスの素晴らしさを知った。しかしそれと同時にそのはかなさをも知ることになる。その美中年、レオポルドは、まさしく“釣った魚にえさはやらない”タイプで、自分を愛しさせるほどに夢中にさせながらも、そしてセックスでは報いてやりながらも、愛情を与えてやることはしない。それによってますます相手の愛情は募るという悪循環で、フランツは悲劇的な最期を迎えてしまう。物語の筋は悲劇であり、その語り口は喜劇であり、そして結論は悲劇であるという、この操作の上手さは確かに才人、オゾン監督ならではなのだが、どこかペダンチックに感じてしまうというのも事実で、だから凡人の私にはダメなのかもしれない。……ホント素直じゃないんだから。

この二人の昔のガールフレンド、アナとヴェラは、三幕目になってやっと絡んでくる。アナはそのあどけない顔と相反する肉感的な体の持ち主で、そしてそれを隠そうともしない奔放なエロティックさがまぶしい女の子。一方のヴェラは、レオポルドのために性転換した元男性のマダムで、そのスレンダーな体つきと濃いメイク、そして男に捨てられた女の色香が漂う女性である。直喩と隠喩、単純と複雑、様々な対比を感じさせるほどに対照的で、ヴェラは今でも愛しているレオポルドに慰められたくて来たのに、彼は新しい獲物である若い女の子、アナを愛撫することに夢中でヴェラを省みようとしない。同じ痛みを抱えた同志で心を通わせられるかに見えたフランツも、服毒という早急な結論を選んでしまっていた。

愛に翻弄されたフランツが物語のメインになってはいるものの、またしても取り残されたヴェラがそれでも生きていかなければならない人生の辛さを感じさせて最も印象に残る。彼女はフランツが死んでいるこの部屋から出ようとして窓を開けにかかるが、開かない。出ようとして出ようとして必死にもがく彼女、そしてそれを窓の外から冷徹に見据えるショットに切り替わり、彼女の袋小路の心情を痛切に感じさせる。そして他の二人も……。レオポルドは惚れさせた相手に「(自分に相手が必要なのではなくて)君に俺が必要なんだろ」と言う傲慢な男。それは彼自身に育む愛がないということ。そしてアナは愛もセックスも、その大切さを判らないうちに乱用して、愛する人を失ってしまう。

愛情もセックスも相対する相手に同等の容量で持ちえることは出来ないものであり、それは判っているのだけれど、それにどれだけ目をつむるか、どれだけ妥協できるかが、皮肉だけれど関係を長続きさせるカギである。しかしこの四人は無垢なまでに、あるいは残酷なまでにその妥協に対して背を向ける。だからこそ純度の高い愛でありセックスであるとも言えるのだが……。★★☆☆☆


山の郵便配達那山 那人 那狗/POSTMEN IN THE MOUNTAINS
1999年 93分 中国 カラー
監督:フォ・ジェンチィ 脚本:ス・ウ
撮影:ジャオ・レイ 音楽:
出演:トン・ルゥジュン/リィウ・イェ/ジャオ・シィウリ/ゴォン・イエハン/チェン・ハオ/リ・チュンホア/ヤン・ウェイウェイ/ダン・ハオ/ホァン・ウェイ/ワン・ユィ

2001/6/22/金 劇場(岩波ホール)
あまりにも美しい緑、果てしない緑、清冽な清流、ただほっとかれているだけの当たり前の自然のはずなのにそれはやっぱり中国の風景で、こういうのって本当に不思議だな、と思う。例えば日本の山間部の、“ほっとかれている自然”でも、そこに映される風景の感覚は全く違うだろうと思う。日本の場合は広がらない緑。くるっとまとめこむ緑。どっちがどうというわけではない。返って日本人にはそうした日本の緑がほっとするようにも思える。まるで違う映画だけれど、意識的に緑にこだわっているという点では共通している中野裕道監督の「Stereo Futere」の緑はまさしくそんな緑で、私はそのつつましい緑にとても安堵させられた。だから本作での緑はそうした感覚よりもむしろ、すごいなあ、というような、ドキュメンタリーを見るような趣である。確かに撮影ではドキュメンタリー並みの過酷さを強いられたに違いない。この“ほっとかれている自然”のなんという過酷さ!しかしそれを当たり前のように、いや当たり前に違いないのだが、歩いてゆく親子の、そして犬の真摯な美しさ。

いまだにこんな職業が成立するのか、というほどにアナクロな、山を二泊三日で歩き通して郵便物を運ぶ郵便屋さん。仕事を継いだ息子でさえ、今はヘリコプターでもなんでもあるのに、と言うぐらいの、現代に奇跡のように残っている仕事。息子がこの仕事を継いだのは、最初は決して父親のようにこれを一生の仕事にしようなんて思ってなくて、公務員で、その中での出世の足がかりにしようと思ったからなのだった。父親はこの仕事に誇りを持っていて、息子にも一生の仕事にして欲しいと思っていたに違いないが、そんなことは押し付けたりしない。しかし息子の初回の仕事に付き添っていくことで、これまた息子もそんなことは一言も言わないけれども、しかし彼はこの仕事を一生の仕事にしていくのだろう。二回目の仕事にただ当たり前のように出て行く彼の後姿に、そう感じてしまう。

息子の手紙を待ちわびる老婦人にウソの手紙を読んでやる父親。息子はそんなことはするべきでないと少々反発する。……しかし、あの老婦人はもしかしたら判っているんじゃないか、という気もしてしまう。あの手紙が、郵便屋さんが書いたものだということを。息子の手紙を待っていることから次第に郵便屋さんを待つようになっていったのではないかな、などと……。父親が自分の仕事を継いだ息子を紹介する。老婦人は彼の読む手紙を目を細めながら聞いている。そしていとおしそうに、大事にその手紙を懐にしまいこむ。まるで郵便屋さんが読んでくれたことでその手紙に命が吹き込まれたかのように。

山の中で出会う美しい娘、その村で偶然遭遇する結婚式の宴、踊る息子とその彼女を満足そうに眺める父親。……かつて自分が伴侶と出会ったときのことを重ね合わせているのか、はたまた2人の将来を願って、その幸せな情景を噛みしめているのか。翌朝、2人で仲むつまじく食事の用意をしている様子を父親が垣間見て笑みをこぼす。彼女はラジオにおわんをかぶせることでいい音になることを息子に教えてくれる。そのささやかなエピソードが心に残る。こんな山の中でもラジオに乗って音楽が聞こえてきて、でもそれは実際はまだまだ遠い距離である2人の関係を象徴しているようにも思える。息子は父親に、あの娘のことをどう思うかと聞かれて、口ごもる。いつも山のことを思って暮らしていた母親のことを思っていたのだ。山の人間は山で暮らすようにできている、と。それを聞いて父親もふと黙り込む。なかなか家族一緒に暮らすことができなかった思い出がよぎる。

でも、だからこそ、その切れ切れに思い出される記憶は優しくて、忘れられない思い出なのだ。息子はいつも遠くを見ているような母親に、山のことを思っているのだと思っていたのだろうが、それもまた本当なんだろうけれど、でも彼女はそれ以上に夫のことを思っていたのだ。いつもいつも待っていて、それは寂しいんだけど、でもだからこそ思いは募り、いつでも久しぶりの逢瀬が宝物になる。息子が生まれたときも、彼は仕事の途上にいた。彼女は彼に手紙を書き、彼は生まれてはじめて受け取った自分あての手紙に、そしてその内容に至上の幸福を味わった。素敵な話。

この母親が、とても美しくて。その待っている表情もとても美しくて。あんな大きな息子がいる年なのに、いや、その年を感じさせるものは確かにあるのだけれど、その感じさせるものすらも美しい。彼女を見ていると、それこそアナクロ的に女性に課せられた、家で待つ、という行為が、実はひたすらに尊い行為なのではないかと思えてくる。それに誇りを持ってさえいるような。

父親を背負って川の中を渡る息子。その背で父親は涙をこらえるように天を仰ぐ。郵便物よりも軽いよ、という息子もどことなく感慨深そうである。岸に着き、それまで父さんと呼んだことのなかった息子が、初めてそう呼びかけたとき、父親は今度こそ我慢できない、という表情で涙を浮かべる。この父親、母親とは逆に、この年の息子がいるにしては少々老けてみえる……この過酷な仕事のせいなのか、でもそれは仕事の年輪を重ねた男の老いで、これもまた別の意味で美しい。……少々寂しさも感じるけれども。

この父親の表情がしかし、ものすごく判りやすくて。あんまり判りやすすぎるから、思わず私は感情移入し損ねてしまった。こういうときほんとに自分のヒネクレ根性をうらめしく思っちゃう。みんな素直に感動して泣いているというのに……ああ、私ったら……。

郵便物が風に舞って飛ばされたとき、真っ先に駆け出した犬もエラかったが、足が悪いはずなのに犬とおんなじくらい速かった父親がすごい。しかもスローモーションだ。ううむ、おとーさん、エラい!?★★★☆☆


ヤンヤン 夏の想い出A ONE & A TWO
2000年 173分 台湾=日本 カラー
監督:エドワード・ヤン 脚本:エドワード・ヤン
撮影:ヤン・ウェイハン 音楽:ペン・カイリー
出演:ウー・ニエンジェン/エレン・ジン/イッセー尾形/ジョナサン・チャン/ケリー・リー

2001/1/10/水 劇場(渋谷シネパレス)
寝不足気味の体調のせいだろうか、私にはこの映画があんまり響いてこなかった。国際映画祭を騒がし、終わった時には必ず涙している傑作と言われているのが、なぜだかこうピンとこなくって。ひとつの家族のそれぞれを描く物語だからある程度の長さは必要ではあると思うけれど、それにしても長いし。ああ、でも家族の物語じゃなかったけれど、同じヤン監督の「クーリンチェ少年殺人事件」(クー(牛偏に古)の漢字がwebで表示されない……)は本作より長い188分(!)という長さがありながら、ちっともそれを感じることがなかったのに。監督がある程度の年齢を経た時に“この齢だからこそ語れる静かでゆったりした人生の機微”何ぞとよく言われ、本作もまさしくそうした評を受けているのだが、そうだろうか。年をとらなければ、そうしたものは描けないものなのか?あるいは、年をとったら、そんな風に変わらなければいけないのか?私は、どんなに年をとってもちっとも変わらない、深作欣二監督や大林宣彦監督が好みかもしれない。年をとるとみんなしてそんな守りに入っちゃうなんて、ちょっと、つまらない。それに、基本や本質が変わらなくても、その中でそうした世界は描けると思うし、その方が魅力的だと思うのだけど。

できちゃった結婚のアディの場面から始まる。前に付き合っていた女性があらわれて(いかにも思い込みの激しそうな女だ)ひと騒動。彼の家庭も含めた、アディの姉家族がその語られている家族。父のNJ、アディの姉でこの家族の母であるミンミン、高校生の姉ティンティン、小学生のヤンヤン。そしてこの結婚式の直後、脳卒中で昏睡状態に陥ってしまった祖母。

母親のミンミンは姑の看病をするうちに自分の存在の無意味さに直面して精神不安定になり、新興宗教に救いを求めてしまう。父親NJは偶然初恋の人に出会い心ゆれ、仕事の方も自分と会社の方針がうまくかみ合わない。姉ティンティンは隣室の気まぐれな女の子がソデにした男の子との関係で悩み、その男の子がその隣室の彼女を殺してしまった(!)ことでさらに苦悩する。ヤンヤンはそんな大人たちを見ながら、自分自身では見ることのできない人生の側面を感じ取り、それを象徴するような人の後姿の写真をとり続け、小さな恋も経験する。

ミンミンの、唐突に自分の中に沸きあがった「私は毎日毎日同じ事をしている、お義母さんに話すことが、何もない」という疑問はひとごとではなく痛切だし、普段着の中からも精一杯おしゃれをして好きな男の子とおずおずとデートするティンティンの10代特有の心は繊細だし、ずうずうしい元彼女とそれを助長する夫の仲間にイライラしどうしのアディの女房の心に共感するし……そう、それぞれの挿話は確かにしっかり語られていて魅力的なのだが、やはりどうも長い。しかし、父親NJのエピソードには特に心惹かれた。かつての恋人と再会して、出張先の日本で楽しむ、かつてをなぞるデート。彼女はいまだ自分に思いを寄せてくれており、そのために時々感情的になる。彼はそれを優しく抱きとめる。時間をくれ、と言ったのは、彼の側にもまた、彼女ともう一度という気持ちがめばえたからなのだろうが、彼女は彼の前から黙って姿を消してしまう……それは、彼が「君の事を本当に愛していた」などという言葉をかけた、その翌朝に。彼女はその言葉を聞き、ドアを閉めたとたん、むせび泣くのだが、そこから何をすくい取ったのだろう。過去形だったことに、取り戻せない過ぎ去ってしまった時間を感じたのだろうか。いずれにせよ、それはつかの間訪れた夢のように、NJの前から過ぎ去ってしまう。彼は、これまた自分がホレこんだ日本のビジネスパートナーを会社から否定されるダブルパンチ。

このNJを演じるウー・ニエンジェンがイイせいかもしれない。一見すると別に普通の中年男で、モデルばりに美女なかつての恋人からこれほどまでに熱烈に思いを寄せられるようには思えないのだが、彼の、彼女に対するなんとも言いがたい優しさがにじみ出てて、それは、そう、たまらずにホテルの彼の部屋を訪ねた彼女を優しく全身で抱きとめてやるシーンなどに顕著に出ているのだが、でも、それは、彼女に対してだけなのだよね。悩んでいた自分の妻を、自分の目の前で泣いていた、それも自分の母親を看てくれていた妻に対して、彼はこの彼女に対するような、優しさを示すことができなかった。彼は彼女に対して本当に愛していたと言ったけれども、じゃあ、妻に対してはどうだったのか。彼女に対するような気持ちがなかったのだろうか。本当に愛していた彼女に去られ、自分を支えてくれていた妻もその手から離れていってしまう。……それこそ、この時の、がっくりと座り込むNJの後姿は、前姿よりも雄弁に語っていた。

彼が出会う日本人ゲームプログラマー、大田役にイッセイ尾形。そう!もちろん、エドワード・ヤン監督ということはあったけれど、長い映画が苦手な私がこの作品に足を運んだのは、彼を見たかったからというのが大きい。予告編で見た時から、えええ?なんでなんでなんでイッセイ尾形が出てるのお!と、ワクワクだったのだ。彼は舞台人だから、映像作品にはなかなか出ないお人だけれど、たまに出ると、これがもう、実にもう、魅力的なのだもの。思えばNHK朝ドラの「凛々と」のお父さん役が好きだったなあ……などと、古い話を思い出したりして(あれはもう、10年まえか?)。期待にたがわず、イッセイ氏のチャーミングなこと!新しいゲームのコンセプトを説明する場面から(待っている間、窓から入ってきた鳩と戯れているのが、異様にカワイイ)NJが惹き込まれるのも納得なほどイイのだが、普段着になって、前髪を下ろして登場する場面がさらにいいのだ。スーツ姿とはまた別人みたいにチャーミング。ほんと、イッセイ氏にはチャーミングという言葉がよく似合う。ピアノを弾きながらパブのお客さんたちを巻き込んで「上を向いて歩こう」を歌う場面など、もう、本当にニコニコしてしまう。そこのバーテンダーが「ああいう、面白い人をもっと連れてきてくださいよ」なんて言って。

彼とNJが会話する場面が実にいいんだよなあ。二人とももちろんネイティブイングリッシュじゃないから、シンプルな言葉を選んでゆっくり会話するんだけど、それが、とても心地いい。日本語の時より、台湾語の時より、そしてサラサラと話される英語よりも、なんだかとても心がこもっているように感じてしまう。そしてその実に判りやすい発音が、つまりは日本語なまり、台湾語なまりのまま、気取らずに話すその英語が、なんだか嬉しいのだ。そうだよ、別にこれでいいんだよ、なんて思ったりして。そういう発音のほうが、なんだかとても優しく聞こえてしまう。

大田氏と仕事することはかなわなかったけど、NJ、彼と親友になれたんだから、その方がよかったじゃない、などとも思うのだけどね。恋人には去られたけど……そう、恋人は永遠のものじゃないけど、友達は永遠のものだから、ね。でも、彼ともこれで離れてしまうのかなあ、そんなことないよね?

邦題に使われているほど、末っ子、ヤンヤンの目を通した物語、という気はしないのだけれど。それに、このヤンヤンという子、大人に対して妙に哲学的なことを問うたりして……なんかそれは、子供はこれくらいのことを考えているんだよという想像の産物が過ぎていて、実際そこまで子供は抽象的に考えるかなあ?なんて思ってしまうのだ。それは別に子供を過小評価しているんじゃなくって、子供時代は確かに大人の思いつかないようなことをいろいろと考えるけれども、それをこうだったんだと思えるのって、やっぱり大人になってからだし、そこまでこの子に言わせているような気がするのだ。そして、この子自身の純粋な子供としての感覚は、失われているのではないかと。結局は、これは、ティンティン以上の大人たちの物語なのだ。

なんだか、こういう物語に到達してしまうと、先がないような気がするのは、考えすぎだろうか……。★★★☆☆


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