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「す」


2001年鑑賞作品

STACY
2001年 80分 日本 カラー
監督:友松直之 脚本:大河原ちさと
撮影:飯岡聖英 音楽:特撮
出演:加藤夏希 尾美としのり 林知花 内田春菊 筒井康隆 佐伯日菜子 大槻ケンヂ


2001/9/11/火 劇場(BOX東中野/レイト)
ゾンビを再殺するロメロ部隊だの、武器の電動ノコ、ブルース・キャンベルハンドなど、ゾンビ映画やら、恐怖映画やら、サム・ライミやらにオマージュ?の効いたホラー?映画。原作がそうしたサブカル的な映画が好きそうな大槻ケンヂ氏ということで、さもありなん、という感じなのだが。私はその原作は読んでいないので、監督が言っていた(劇場に挨拶に来ていた)ような、イメージを壊されて云々、というのは判らないけど……うーん、どうだろう。やはり最も問題なのは、このヒロインの加藤夏希かなあ。そらまあ、あぜんとするほどの美少女ではあるのだが、そんでもってこういう映画にあっさり出ちゃう頼もしさはイイのだが、何かおにんぎょさん状態でねえ。いくら可愛くても、今ひとつサムシングがないので、私の美少女ラインに引っ掛かってこないんである。これはこの監督が脚本を書いた「死びとの恋わずらい」の後藤理沙なんかにも言えるんだけど。キャピキャピ明るいだけではダメなのよ。特にこういう映画の場合は哀愁がなくっちゃ、それこそB級のまんまで終わってしまう。それをネラッてるのかもしれないけど……。

まあ、言ってみればこれはゾンビ映画。21世紀初頭、15歳から17歳までの少女たちが突然死に、その後でその死体が人間たちを襲う“ステーシー”となって蘇り、彼女らは親や兄弟、恋人たちによって“再殺”される。その再殺の手引きが少女を擁する家庭などに行き渡り、テレビでは再殺の為の電動ノコがブル・キャンの名前で陽気に売られ(なんか、「バトル・ロワイアル」の解説ビデオを思い出すやね)、と同時に、こうした再殺を受けられない少女たちのために、公務員としてのロメロ部隊が結成されていて、そのメンバー募集も放送されている。もうすぐ死ななければならない少女たちはさぞかしパニックに陥っているかと思いきやそうではなく、ニア・デス・ハピネスと呼ばれる、死期に近づくほどに多幸感に満ちた躁状態になり、明るくさざめきあって、輝くほどに美しい。

彼女たちは恋人、あるいは憧れの男性に再殺されたがっている。そのためにホスト系の男に金を払って依頼したりするシステムまで生まれている。ちょっとこれは良かったコスプレ3人娘は(チャリ・エンもどきだけど、その中でもキャメっちではなく、ドリュー・バリモアに憧れているというのがイイ)その金を稼ぐために、違法に再殺を請け負っている。娘をどうしてもその手で再殺できない父親なんかの代わりに再殺してさしあげるんである。違法だから、バレそうになったら逃げの一手なわけだが、そのために彼女らは武道に長けていて、ヌンチャクだの刀だの(つまり、見た目は着物、チャイナドレス、ボンテージ風と国籍バラバラだから武器もそれに合わせてるのね)を颯爽と振り回す。そんな中彼女たちは、その手にステーシーとなってしまったかつての恋人を(いや、ステーシーとなってから恋人になったと言った方がいいかもしれない)かき抱き、追っ手から逃れようとする青年に出会う。彼らをかばって敵の銃弾に倒れる彼女ら、ドリューを気取っていたボンテージ娘が「いいなあ、あたしもあんなふうに愛されたかった」とつぶやいて息絶える場面はなかなか良かった。画的にもこの3人娘はグーである。

三部構成の原作を入れ子構造にして一本の映画に仕立て上げているという本作は、ということはそれぞれのエピソードにメインの主人公がいるはずだが、やはりヒロインとして取り扱っているのはこの加藤夏希なのである。あの3人娘の方がよっぽど良かったけどね……。彼女が演じる詠子は、人と関わりを持たずに人形を製作している人形使い渋川の元に、まさしく天使のごとく舞い降り、「私の再殺の権利をあげる」とのたまい、その代りに、人(自分)と一緒にいてもぐっすり眠れるような幸福な時間をあげるとのたまうのである。まあ、随分と自信があるのね、このコ、とも思い、こおんな美少女が再殺してくれる相手もいないなんてという違和感も感じつつ……。それにニア・デス・ハピネスを体現しているせいで、このコが渋川と同じように人と一緒にいるのが苦手で、なんていう暗い影はぜーんぜん感じられないんだもん。まー、難しいよね。躁状態でそういう影を感じさせるっていうのは。でも感じさせなきゃ、この物語自体が成立しないんだけど。

彼女と渋川がステーシーの再殺とその後処理に当たっているロメロ部隊に遭遇する。彼らがいつまでこんなことを続けるんだと、なぜ平気なのかと自問自答して苦しんでいるのに対し、詠子は、私たちはあなたたちに感謝している。愛している。本当よ。だから大丈夫、気にしないで、てなことを言って回り、男たちは思わず男泣きにむせび泣くという……。この場面は本当に感動する場面になんなきゃ困るんだけど、彼女がその躁状態で笑いながら飛び跳ねながら言っていて、それがホントにそのまんまというか、その先に待っている死と再殺というはかなさの前の明るさとかってことがまるで浮かんでこない、それこそバカみたいな明るさで、困っちゃったなー、て感じで。感動するどころか、アハハ、ウフフと笑い、飛び跳ねている彼女に段々恥ずかしくなっちゃって……。まあ、このコは美少女だというだけでいいんだろうけどね。そうでなきゃ、あんな今時アナクロなセーラー服と白いソックスだの、お帽子つきのレースのネグリジェ(!)だの着せないよね。その辺は彼女のアイドル映画だと割り切っているのかなあ。

この人嫌いの渋川に扮するのが尾美としのり。もうさすがにおじさん入ってきちゃっている彼は、冴えないがゆえにこの美少女に見出され、一時の夢のような幸福な時を過ごす男にはピッタリだが(ちょっと失礼かしら……)この物語、この役柄、この世界、今ひとつ掴みきれないなーと思ってんじゃないかなという印象も受ける。実際、その感覚は観客である私も感じているんだから、ムリもないのだが……。ただ一人、ムチャクチャその世界を掴みまくっているのは、ステーシー研究をする犬神博士に扮する筒井康隆で、彼はこういうチープな役をやらせると、ほっんとにハマる。絵に描いたようにマンガチックで。嬉しくなっちゃうぐらい。

確かに相手を殺すことは究極の愛の行為だと「魚と寝る女」で思ったけど……このエーガでそれを再認識するのはかなり難しいみたい。★★☆☆☆


Stereo Future
2001年 111分 日本 カラー
監督:中野裕之 脚本:中野裕之
撮影:中野裕之 多田勉 音楽:清水靖晃 FANTASTIC PLASTIC MACHINE TOWA TEI ワタナベノブタカ 野崎貴潤 TSUKADA
出演:永瀬正敏 桃生亜希子 竹中直人 麻生久美子 緒川たまき ピエール瀧 Daniel Ezralow 風間杜夫 赤星昇一郎 松岡俊介 谷啓 大竹まこと 大杉蓮  吉田又康 長保昌 村上淳 小林のり一 杉本哲太 中村有志 YOU

2001/6/18/月 劇場(テアトル新宿)
「サムライ・フィクション」は大好きだけど、でもあの時中野監督が盛んに発していた“ピース”ということ、その意味や意図が今ひとつ理解しかねていた。だけど本作を観て、一気に納得。前作がいわば映画というものに対しての純粋な気持ちで作り上げたものならば(正しい出発点だ)本作は作家としての姿勢に対して純粋な気持ちで作り上げた映画。中野監督に対しての作家としての信頼が大いに増してしまう。ストーリーが薄いなんてもっともらしい意見を述べている人もいるらしいけれど、こういう姿勢で描こうとしているこの監督、ひいてはこういう作品に、ストーリーなんてどれほどの意味があるんだろう。ストーリーや台詞にばかりよりかかろうとするのはハリウッド映画やテレビドラマの悪しき習慣。そりゃ一人よがりにイメージだけに振り回されるような映画はカンベンだけど、本作はそうじゃない。このあたりは本当にいい意味でミュージッククリップ出身の監督の感覚なのかもしれない。

“Samurai Fighter”“Silent Female”“Sounds Funky”“Stereo Future”という4つのSFから成り立っているという。しかしその4つのエピソードは分けて語られるわけでもないし、分断される印象も全くない。TVディレクター、薫(緒川たまき)の手がける環境番組から、エリのさまよう森の中といったやわらかな大自然の映像がまるでいやみなくわざとらしくなく入り込み、全体の大きな流れとなっている。エピソードに出てくるキャラクターは、売れない役者の圭介(永瀬正敏)とその周囲の撮影隊、イイカゲンな監督(風間杜夫)、濃すぎる主演、高山(竹中直人)、彼の悪友、健吾(ピエール瀧)等々、映画の娯楽としてのおもしろさの面に十分に配慮したメンツになっているし、彼らが織り成すシークエンスはやたらとおもしろいのだけれど、しかしやはり全体から感じ取れるのは大きなたゆたうような時間の流れ、自然のゆるやかさなのだ。たまらなく優しい気持ちになれるような。

という、この美しい自然の中におかれるのは、薫と妹のエリ(桃生亜希子)と植物専門医のダニー(ダニエル・エズラロウ)。エリは電車の中でナンパっぽく声をかけてきたダニーと出会う。そう、この時点ではこのうさんくさい外国人、という感じだったのが、実は彼がこういう肩書きを持って、本当に自然を愛して、自然の息吹を全身で感じ取りながら、この自然を守ろうというその姿が、ものすごく、ものすーごく素敵なのだ。と、こう書くと、なんか教育番組っぽく聞こえる?それに自然が美しいというのは実に単純すぎる図式でもある?いや、でもそんなことは感じない。自然は厳しいけれど、でもやっぱり自然は美しいのだ。その中に置かれる美しい姉妹。ダニーが「アメイジング!美人姉妹だよね」とカメラ目線で言った場面が妙に可愛らしくて好き。この薫とエリはしっかり今風のメイクを施しファッショナブルな格好をした、かなり人工的な印象を受ける“美人姉妹”なのだけれど、それが自然の中に立った時に、しかしそれをもなんら問題にさせないほどに自然は大きく彼女たちを包み込み、そしてさらに美しく輝かせる。やはりそういう意図的なものを感じてしまう。

やはり緒川たまきがバツグンだ。この人はなぜこんなに美しいんだろう。本物の美しさ、ナチュラルな美しさ。その声。ただただ見とれてしまう。まさしく自然派志向な美しさなのだけれど、しかしそうした人工的なメイクをほどこし、髪もきちっと整え、東京国際フォーラム(テレビ局という設定)のこれ以上はない人工的な白亜の巨大な幾何学模様の中に置かれると、このプラスティックのような美しさもまた格別。多すぎるまばたきすらも美しく感じるとは……ただ単に私が彼女のファンだというだけか?

彼女の妹で、恋人との亀裂のショックから声をなくしてしまったエリ。彼女はインターネットによる同時通訳の仕事をしている。そこでダニーと間接的に再会する。騒々しいおしゃべり、言葉ばかりが聞こえてくる世の中で、しかしその世の中の一番最先端のツールはこんなに静かなもので、言葉が発せなくても、通じあうことができる。エリが薫とのコミュニケーションに使っている小さなキーボードで言葉を打ち込んでそれを音声に変えるという道具も、まさに現代の道具なのだけれど、そうした優しさを感じる。自然をテーマとしながらも、こうした中野監督の理解の仕方が、なんだかとても嬉しく感じてしまった。というのも、ここでは全然関係ない話なんだけど、ついこの間、10代の子たちがあるテーマに沿ってディスカッションするNHKの番組を見ていて、そのときはインターネットがテーマで、あまりにもネットが悪しきものとして攻撃されていたから(数少ない肯定派の女の子が泣いちゃってかわいそうだった)、こんな若い子達がそんな風に思っているのがショックで、納得いかなくて、それ以来ずっと、自分にとってのネットのこととかも考えて気分が悪くて、だからこれがとても嬉しかったのだ。

エリはダニーと出会い、森の中で自然を体に感じとることによって、だんだん元気を取り戻す。だからこのダニーとうまくいくのかな、と思っていたら、そんな単純な話でもなかった。エリの心は、その刺である圭介とのことを取り除かないと本当には元に戻らない。お互い好きなのに、つまらないすれ違いで仲たがいをした2人が再会するのは圭介がバイトをしている酸素クラブ(?)。酒ではなく、新鮮な酸素を供給するダンスフロアにダニーと入ったエリは倒れてしまう。新鮮な酸素を供給する、なんて、これ以上人工的なロジックはないわけで、そうしたところで圭介と再会するのも皮肉なのだけれど、でもエリがちゃんと圭介とのことを決着つけたいと思って、彼と再会するのは、彼女に力を与えてくれた大気の中で、そこで圭介もエリもお互いの気持ちを再確認し合い、めでたくハッピーエンド。エリは笑い声を立て、あ、声が出た!と、観客もニコニコになる。よかったねえ。

この2人が展開するキスシーンはこの場面に限らず、回想シーンでもやたらとロマンティックで、なるほど確かに横からしか撮ってない(笑)。結構濃厚にやってるんだけど、そうしたアングルと中野監督自身のロマンティックな性質のせいなのか、セクシーさよりもハッピーな感じを受ける。こういう部分ににじみ出てしまう人間性が好きだなあ(笑)。そして単純な話ではない、といいつつ、じゃあ、薫とダニーがうまくいくのかな、などと思ってしまう私の方がよっぽど単純?でも、この2人、特にあの甘味屋のシーンあたりからいい感じじゃない?あの場面では薫とエリが先にいておいしそうにおしるこを食べていて(本当においしそう!薫のウンチクも可愛らしい)、そこにダニーが入ってきて、薫と目配せをする、あの場面。仕事を恋人にして走り続けている薫が、おしるこに幸せそうな顔をしていて、そこに現れるダニーという図式は、そんなふうにも思ったんだけど。

薫の編集作業を手伝っている大竹まことがちょっとイイなあ。彼女の、環境を変えようという前向きな姿勢に知らず知らず感化されていく、オーディオマニアなおじさん。オーディオマニアなくせにニセモノのスピーカーをだまされて買ってしまう可愛らしさ。この人ってクセのある、ちょっとコワいイメージなんだけど、でもそれは多分にテレからきているということもわかってるんだけど、そのテレの部分から発するキャラを気持ちよく感じさせてくれて。落ち込んだ薫をなぐさめるのも、ちょっとテレたようなところがとってもいいんだなあ。それに応えて薫が気持ちを入れなおすのもいい。理想的な仕事仲間関係。

東京にいると、本当にコンクリートばかりで張り詰められていて、土がなくって、緑も用意された緑で、ただ適当に生えてるっていうのなんてなくて、そう、東京にいると時々本当に体がおかしくなりそうが気がするのだ。と、思いはじめたのはごくごく最近で、上京したばかりのころにはそんなこと思ったこともなかったのに。ただがむしゃらで、必死だったから。でもようやく、それこそ10年も経ってようやく東京で落ち着いて、でも、だから何だか落ち着けなくて。地面も空すらも、コンクリートやプラスティックや金属で隙間なく埋めつくされている、体全体で呼吸をすることができなくて。たかが映画、されど映画、中野監督の発するこの緑と太陽の暖かさで、観ている間だけでも息を吹き返せたような気がした、本当に。

最新のクラブミュージックなども使う一方で、本当にその緑が発しているような微温のゆるやかで穏やかな音楽、全体を貫いている音楽が、ああ、本当に幸せ感覚が五臓六腑に染み渡る、という感じだった。★★★★☆


スナッチSNATCH
2000年 102分 イギリス カラー
監督:ガイ・リッチー 脚本:ガイ・リッチー
撮影:ティム・モーリス=ジョーンズ 音楽:ジョン・マーフィー
出演:ベネチオ・デル・トロ/ジェイソン・ステイサム/スティーブン・グレアム/ブラッド・ピット/ジェイソン・フレミング/アラン・フォード/ラデ・シェルベッジャ/マイク・リード/デニス・ファリーナ/レニー・ジェイムズ/ロビー・ジー/エイド/ビニー・ジョーンズ

2001/3/13/火 劇場(渋東シネタワー)
ちょっと登場人物が多いとすぐに判らなくなる私は、この監督の「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」では本気で泣きそうになったんだけど、あの時よりは、人物の数自体も抑えられ、キャラの交通整理も出来ていて、何とかついていくことが出来た。しかし実は「ロック……」も私にはそんなに面白がれた作品ではなく、個性がとてもあるように見えて実はそうでもないんではないか、というこの監督のカラーがね……オリジナルスコアというより、選曲重視の音楽や繰り返しを巧みに使ったカッティングなんか、いかにもイマドキでカッコイイし、個性的なキャラを裁く手腕は見事だとは思うんだけど、それが返って凡庸な感覚を起こさせる、と感じるのは私だけなのかしらん。前作と今作を見て、ああ、時代に目配せしているんではなく、この監督のカラーはほんとにちゃんと確立しているんだなあ、というのは、判った。でもそれは、前作も本作も、やはりとても同じ色合いを感じてしまったという点、本作が公開になるまで、前作の印象はすっかり薄れてしまっていたという点で、面白いけれど、うーん、その場限りかな、という感じは否めない、かも。なんかこれって、「PARTY7」の石井克人監督作品なんかにも共通する感覚で、加えて言えば、昨今の新しい映像作家は大なり小なりこういうタイプが多いのではないか。

ブラッド・ピット主演最新作、などとうたいながら、まあ、この監督だし、主演、ウソではないにしても、明らかに宣材のための文句なんであって、彼は“数多くの主役”の中の一人に過ぎないわけで。でもまあ、この作品の主軸である、裏ボクシングのファイターであるんだから、一応は一番オイシイ役なのかなあ。訛りのきつい、他の人には理解不可能なジプシー言葉で、すぐ仲間とワラワラ相談するのは可笑しかった、確かに。あのスターのオーラバリバリのはずの彼が、ちゃんと群像劇に染まっているあたりは、監督、ブラッド・ピット、双方のプロとしての力を感じることが出来る。

大粒のダイヤをめぐってのオマヌケな男たちの攻防、KGB崩れの“弾丸かわしのボリス”だの、気に入らないヤツはすぐ殺して豚に食わしちまうノミ屋だの、計画性のない強盗でしっかり防犯カメラに映ってしまういかにも頭の悪そうな下っ端三人組だのといったヤツらが跳梁跋扈する。ストーリーとキャラを思い起こすと何がどこで絡まって交錯しているのか、ここで書き記そうとすると頭が痛くなりそうなのでやめておく。しかし観終わってしまえばそうした複雑巧みなストーリーよりは、キャラの印象が強いのもこの監督の特徴か。しかしお気に入りのキャラがいれば、その辺のこともわりと気にならなくなるのかも。「ロック……」ではキャラの交通整理が自分の中で出来なくてそこまで気が回らなかったけど、本作では非合法ボクシングのプロモーターしている二人組のうち、気の弱そうなうっすい顔立ちのトミーがお気に入り。あのうっすい顔立ちが、ほとんど無表情のような状態から微妙に右に左に変化するのがどうにもツボなのよね。もう一人のターキッシュと比べて華奢ともいえるような体型も、もう困らせてください、って言ってるみたいで母性本能くすぐられちゃう!?

それと私は映画に出てくる犬コロに弱いので……実際は猫のほうが好きなんだけど、映画に出てくるといえば魅力的なのは犬の方なのだよねえ……この右目のところが黒く染まっている、これまたいかにもオマヌケそうな犬が、ツボだった。押すとキューキュー言うオモチャをガフガフ食べちゃって、吼えるたびにおなかの中からキューキューいう音が聞こえるという、キュート?さ。ダイヤも食べちゃうしね。実はこの犬こそが主役なのかも??

この映画の記事をいろいろと読んでると、選曲されてる音楽を判ってないと、本当には楽しめないみたいな感じで、まあ、そんなこともないんだろうけど、単なる、このジャンルの音楽に疎い私のひがみなんだろうけど、でもそういう方向からの評論や記事があまりにも多すぎて。しかしこの手法も最近ホントに多いし、正直手詰まりって感じも、するんだけど。スローモーションの使い方(ボクシングの場面で特に。でもあれもどっかで観たような、って感じだ)やカッティングで魅せる、面白がらせるというのもまたしかり。確かに才気は感じるけど、二作目で観ると、あ、また、と思ってしまうのも事実。三作めが、勝負かな。

と、こんなふうにアイマイな文句を連ねてしまったもう一つの理由は、劇場で、ちょっとしたギャグ場面にも即座に反応してワザとらしく爆笑している御仁が二、三人いて。ダメ。私ああいうのに遭遇すると、作品自体が楽しめなくなっちゃうんだよう。笑ってないヤツらはこの作品の面白さを何にも判ってないだろ、って言われてるような気がして。それもまた過剰反応なんだけどさー。ああ。★★★☆☆


スペース カウボーイSPACE COWBOYS
2000年 130分 アメリカ カラー
監督:クリント・イーストウッド 脚本:ケン・カウフマン/ハワード・クラウスナー
撮影:ジャック・N・グリーン 音楽:レニー・ニーハウス
出演:クリント・イーストウッド/トミー・リー・ジョーンズ/ドナルド・サザーランド/ジェームズ・ガーナー/ジェームズ・クロムウェル/マーシア・ゲイ・ハーデン/ウィリアム・デヴェイン/ローレン・ディーン/コートニー・B・ファンス

2001/2/11/日 祝 キネマ旬報ベストテン授賞式(朝日ホール)
自分が観ていない映画が、ベストワンになるなんて、うーん、ちょっとショック。キネ旬社長の黒井氏が最初の挨拶の時に「「顔」(日本映画のほうのベスト・ワン)とか「スペーストラベラーズ」とか……」とおもっきし間違ってたのに誰もツッコまなかった。そんなことはいいとして、そう、ほんと公開時観ときゃよかった。考えてみりゃあ、そうだこれってクリント・イーストウッド監督作品だったんだもん、ハズレるわけがなかったのだ。しかし最近宇宙モノがやたら多くって、もともとそんなに宇宙モノには興味がないもんだから(特にハリウッド映画には)、それでもって、クリント・イーストウッドって、私にとってはなんとなくアートっぽいイメージの監督さんなのね。でもそれこそ考えてみりゃあ、もともとは娯楽作品で手腕を発揮したお方だったんだもんなあ。

と言うわけで、クソーと思いながら、今更ながらの鑑賞。いやー、あったりまえだけど、良かった、面白かった。かつて人類初の宇宙飛行士になるはずだったのを、チンパンジーにその役目を奪われた四人のいまやじーさんが(しかしトミー・リー・ジョーンズをもうじーさんと言うのは気の毒だが)、故障したオールドタイプの人工衛星を修理するために再び召集される。設計者であるコービン(クリント・イーストウッド)しか直せないというので、彼がNASAをちょいと脅してかつてのチームメイトでの出動を了承させたのだ。そのチームの名は“チーム・ダイダロス”。コービンの他に、彼の因縁の悪友である戦闘機パイロット、ホーク(トミー・リー・ジョーンズ)、パイロット&天体物理学者でその女好きはじーさんになっても衰えることないジェリー(ドナルド・サザーランド)、そしてロボット工学のエキスパートで、今やちょっと頼りない牧師さんになってるタンク(ジェームズ・ガーナー)という面々。

そうだ!この四人のキャストが揃ったってことだって奇跡的だったのに、私ったら、ほんとに何で観なかったんだろー!ってしつこいけど。むちゃくちゃスゴいよなあ、この四人がメインキャストって!主人公はイーストウッドであり、儲け役はT・L・ジョーンズだけど、D・サザーランドもJ・ガーナーも当然スゴくイイ。サザーランドってば、その女好きのキャラがハマってて、とにかく可笑しくて、身体検査で四人して全裸になってる時、女医さんが入ってきて、他の三人はとっさに前を隠すのに、彼だけはニコニコして堂々とそのままなのが異常に可笑しかった。

ま、この御年(現実もそうだけど、設定としても70になんなんとしている、という感じでしょ)で、多少無理はあるものの若い人たちと同じように宇宙飛行士の訓練を受けて合格して、っていう流れなんだから、まあみんな元気なのは当然なんだけど。そういやあ、コービンだって同じくばーさんになった妻に対していまだにいちゃいちゃモードだったしなあ。儲け役、T・L・ジョーンズ扮するホークは妻を亡くしてだいぶ経ってて、でもNASAの若い(どう見たってあれはせいぜい30代でしょう)女性スタッフと恋に落ちちゃうし。しかも、彼女の方からその意志を示してきたんだぜえ、やるう!

この彼女、サラ(マーシア・ゲイ・ハーデン)とホークの短い間ながら穏やかに愛情をつむぐエピソードが秀逸。ホークは彼女に亡くなった妻とのなれそめなんぞを聞かせたりするんだけど、そうした大切な思い出を彼女と共有することが、彼女への愛情のように思えちゃうんである。ちょっと個性的な顔立ちしたこのマーシア・ゲイ・ハーデンという女優さん、「この森で、天使はバスを降りた」の弱気な主婦、シェルピーをやった人?(あの時はマルシア、の表記だったが)あれは、秀作だったんだよねー、私めっちゃ泣いたもん。

ホークはすい臓がんにおかされていることが判り、メンバーからあわやはずされそうになる。その前の段階で、彼らみたいなじーさん連中を宇宙に行かせないために、40年前からの因縁の相手であるNASAの司令官、ガーソン(ジェイムズ・クロムウェル)の画策があったりもするんだけど、彼らのニュースがすっぱ抜かれて一躍有名人になってしまったことから、めでたく四人揃って宇宙行きが決定する。しかしいざ人工衛星の修理に着手してみると、っていうか、もともとそれがロシア(かつてのソ連)側に渡ってること自体おかしかったんだけど、なんとまあ、核ミサイルがアメリカの大都市に向けて装填されていることを知る。かつての冷戦時代の遺物だったのだ。しかもしかも、頭でっかちでプライドばっかり高いアホな若手パイロットの暴走でシャトルは危機的状況に!このままではミサイルが発射されてしまう。その危険を回避するために、ホークは残り少ない自分の人生を犠牲にすることを決意する。そのミサイルを月の引力に向かって飛ばそうというのだ。もちろん自分が一緒に月に飛ばされて帰ってはこれない。そもそも上手くいくかどうかも判らない危険な賭けだ。猛反対するコービンにホークは、だってあんなに月が美しいじゃないか、と言う。かつて四人で行くはずだった、あんなにも行きたかった月に行けるのだと、言外に暗示して。

サラはもちろん打ちのめされるんだけど、でも彼女はNASAのスタッフとしてこの危機的状況をしっかりと支えるために、どうしてもこぼれてしまう涙をぎゅっとこらえてて、ああ!みんなを救うために一人が犠牲になるという展開は、「ミッション・トゥ・マーズ」にもあったし、結構お約束な要素ではあると思うんだけど、でもここではただ犠牲になる、っていうんじゃなくて、かつての夢をオレだけが叶えるんだよ、みたいなあたりが上手いんだよね。しかも、無事(?)月に着いて、そこで果てた彼の姿を最後に映し出し、そこに流れる「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」!これほどの大スタンダードが、まるでこのシーンのために作られたのではないかと錯覚しちゃうほどのドンピシャで、そしてもちろんジャズだし、うー、さすがイーストウッド!

今更ながら観たのがくやしいけど、今更ながらでも観られたのが、あー、良かった。ほんとに。★★★★☆


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