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「ゆ」


2001年鑑賞作品

夢は時をこえて 津田梅子が紡いだ絆
年 92分 日本 カラー
監督:藤原智子 脚本:藤原智子
撮影:宮内一徳 音楽:吉岡しげ美
声の出演:二木てるみ 横田ひろみ 青木裕子


2001/2/11/日 祝 キネマ旬報ベストテン授賞式(朝日ホール)
津田塾大学創始者の津田梅子の生い立ちを追ったドキュメンタリー。のみならず、彼女の時代の、そして彼女と共に突き進んでいった女性改革者を追っていく。それは同時に現代につながる女性活動家にも及んでいく。しかし、虐げられた遠い昔よりずっと力を持っているはずの現代の女性はこの津田梅子らの切り開いた道に甘んじているんではないかと思われるほど、梅子らの使命感、その活動、その熱意は凄まじいとしか言いようがない。ドキュメンタリーといえど、今は多くが故人の、というよりもはや歴史上の人物になってしまったような人たちを追っていくために、藤原監督はきっちりと脚本、構成を準備し、まったく隙のない演出、引き込まれる。

はじまりは今から10数年前、津田塾大学のもうじき卒業という学生らが大学の物置をこじ開けたことから始まる。女子大だから、これまたもちろん女性だが、窓から屋根へ飛び降り、開かずの間を鉄棒をつっこんでドアノブガチャガチャやって開けちまったというんだから、もうそのキッカケのエピソードからスゴい。その中には津田梅子の自筆による英文の手紙が、実に何百通も散乱していた。彼女が留学していたそのステイ先の家族に当てた手紙だと言う。それにしても何百通とは尋常ではない。一体彼女はそこで何を訴えていたのか。

留学、である。今から100年以上も前、時代も江戸幕府である。女子ばかりをアメリカに長期にわたって留学させようというのである。あつまったのは5人。最年少は梅子の6歳、上は15歳ぐらいまでの女の子たち。新幕府になって、日の目を見ない仕事ばかりやらされていた幕府のお役人たちがある種の恨みも手伝って、娘たちには最新の教育をほどこし、自分たちの果たせなかった、国のために動ける人物に、という願いがこめられていたのではないかという。スゴい。この時代に15歳の娘盛りを留学に行かせようというだけでもオドロキなのに、6歳とは!梅子の父親であった人物というのがまたスゴくて、彼はアメリカで通訳の仕事をしていた経験があり(!)そこでの子女教育を目の当たりにして、ぜひ自分の娘を行かせたいと思ったらしい。そのほかにも彼はクラーク博士より以前に農学校を設立してたり、そこで農機具を考案していたり、この人だけでもかなり面白い。それにしても10年以上にわたる留学である。6歳である梅子が帰るときにはもう両親の顔も覚えていなかったというぐらいである(時代が時代だから写真もそう簡単には撮れないし)。手紙のやり取りを続けることで家族の絆をつないでたとはいうものの、スゴすぎる。彼女は国費留学生。現代の百花繚乱の留学事情とはあまりにも違う。彼女が幼くしてただならぬ使命感を内面に育てていったのは想像に難くない。

帰国し、彼女はアメリカとはあまりにも違う、女性が貶められている現実を目の当たりにする。そしてそのことに女性が気付いてもいないことを。……こうやって、外の社会から見なければ、やっぱり判らないのだ。彼女はそのために女子教育に力を注ぎたいと思うが、留学後の彼女らに仕事など用意されていなかった。世は文明開化で西洋のモノマネに浮かれているけれど、本当の西洋的社会の良さなど何も取り入れられていない。……なんだかそれって、今もたいして変わらない気がするけれど。

彼女は女性に高等教育をほどこしたいと願い、そのためには自らが高等教育を受けたいと願い、再度渡米し、大学に留学する。彼女、後のノーベル賞受賞学者の助手に請われたというくらいの才媛ぶりだったっていうんだからこれまた凄い。まったく、梅子に対する感想は凄いしか出てこない。

民家で10人ばかりの学生を集めてスタートした語学学校、津田塾は、年々生徒数を増してゆく。関東大震災で壊滅を受けても、留学時代のアメリカ女性の盟友によって集められた寄付金などで、より立派なキャンパスを建ててしまったりする。そう、この時代にアメリカから友人を女性語学教師として呼び寄せてしまうのも凄いし、それに応えて来てしまう彼女たちも凄い。しかも個人対個人の付き合いで、である。よほどの人的魅力や使命感がなければとても出来まい。本作には伊藤博文を初めとして時代のそうそうたる人物がゾクゾク登場するけれど、彼ら男性はみな国という大前提があったのに対し、彼女たちには、最初こそそういう意識があったかもしれないけれど、結局国は少なくとも女性のためには何もしてくれない、自分たちで動かなければ何も始まらない、という気持ちで行動しているところが大きく違うのである。

時代は戦争へと突入していく。学校がそのまま軍需工場になってしまって勉強が続けられないつらさはどこも同じだったろうが、鬼畜米英の時代に、英語を主軸とした語学大学とその学生のこうむった理不尽な差別。軍隊によって門の学校名の上に覆われた看板をえいとばかりに取り外し、川に投げ捨ててしまった学生(当然女性)の痛快なエピソードは、今でこそ英雄伝そのものだが、当時は軍隊に呼び出されてもう生きて帰ってはこれないのではないかと思った彼女たちの胸中を思うと、もう本当に慄然としてしまう。ただその時応対に当たった将校が「自分ももともとは学徒だったから、君たちの気持ちは判る」と言って帰してくれたというのが、ズキーンというかキューンというか、とにかく胸に突き刺さった。

その後、東京裁判の通訳として駆り出されたり、さまざまな国際的場面で活躍する津田塾卒業生、というあたりはちょっと学校宣伝のような気もしないでもないのだけど。“若くてハンサムな男性”にみんなして夢中になるエピソードとかの(しかし、それホントなの、写真、ハンサム!)女性ならではのウキウキした華やかさも、シビアな時代を明るく彩ってくれて楽しい。しかし、スゴいのは、102歳まで生きた、津田梅子に教わったという老人ホームにいたおばあちゃん、しなさんのエピソード。本当に、この現代に歴史として生きているそのおばあちゃんは、梅子先生の思い出話を実にイキイキと語ってて、その頭のよさと言葉の歯切れのよさがいまだ全く衰えていないのも驚かされるし、おりおり英語のキメ台詞を織り交ぜたりしてやたらカッコイイのである。年をとってたった一人残されることは私は怖くて仕方ないんだけど、こんな風に最後までカッコよくいられたら、いいなあ、って思うのだ。彼女に限らず、登場する津田塾卒業生の女性たちは、見た目からどことなく、なんとなく違うんである。創始者の思いが行き渡ってる、本当にそんな感じで。

もはや就職予備校と化してしまった現在の大学観に対して、純粋に学問を学べることに対する喜び、人間として認められることの喜び(これはもちろん男女関係ないことだけど、女性はずっとこの当たり前の価値観を得るために戦ってきたのだ)を感じさせていて、ああ、大学って本来こうあるべきじゃないのかなあ、という感慨をものすごく感じてしまう。学問って、勉強することって、ほんと、面白くて素晴らしいことなんだよね。

ホントにホントの意味で、私、女性に生まれて良かったなあ、ってもしかしたら初めて思った、かも。女って、スゴい。そしてメチャメチャ面白い!★★★★☆


EUREKA ユリイカ
2000年 217分 日本 クロマティックB&W
監督:青山真治 脚本:青山真治
撮影:田村正毅 音楽:青山真治 山田勲生
出演:役所広司 宮崎あおい 宮崎将 斉藤陽一郎 国生さゆり 光石研 利重剛 松重豊 塩見三省 真行寺君枝 尾野真千子

2001/2/19/月 劇場(テアトル新宿)
青山真治監督作品はキライなんだけど、キライだったんだけど、でもたった二作しか観ていなくて。観ている「Helpless」と「シェイディー・グローヴ」に拒否反応を起こしていたので、もう私にとって青山監督はダメなんだと、思ってたんだけど、なんだかふっと、突き抜けたような感じがした。3時間37分の長尺も、全く気にならなかった。別に次から次へと物語が展開していって飽きさせないというわけではない。ちょっとした犯人探しの趣はあるものの、そして主人公である沢井(役所広司)が何も語らないので、ひょっとしてほんとにこの人が殺人犯なんじゃなかろうかと一瞬疑いそうになるものの、でも観客にはそれが誰だか予測はついているので。……いや、そんなことはこの映画の中では瑣末なことだし、なぜ、少年が殺人を犯してしまったかという問いに対して、判るけれど言葉にできなくて。ああ、でも世界って、そして人間って、こんな風に、判るけれど言葉にできないことばかりだ。だから苦しい。少年は自分自身が今にも殺されそうな体験をした。バスジャック。この映画がカンヌに出品されていた時、偶然にもバスジャック事件が起きてちょっと騒がれもしたけれど、でも当然ながらそんなことは何の関係もない。それにこの作品におけるバスジャック事件はそれそのものが問題なのではなく、それがきっかけになって崩れてゆく、そして取り戻してゆく人間としての過程だから。

バスジャック事件は冒頭の、ほんとに短い時間で示される。もちろんその場面はその後の展開中何度も頭をよぎり(別にシーンが挿入されるわけではないのだけれど)重要ではあるのだけれど、ほんとに短い。犯人役が利重氏だということにちょっと驚いて……彼ほど犯人に似つかわしくない人はいないのだけど、でもだからこそか、薄ら寒い恐ろしさと、そして哀しみを感じる。閑散とした循環バスの乗客はその大多数が殺され、犯人も射殺され、中学生くらいと思われる兄妹と、運転手であった沢井真(役所広司)だけが生き残る。マスコミによる好奇の目、それによる家族の離散、兄妹はおとぎ話のような一軒家に、その後に死んでしまった父親の保険金によって(母親はとうに出て行ってしまった)学校にも行かずに閉じこもって暮らし、沢井はさすがにもう一度バスの運転手には戻れなくて、失業状態になり、発作的に家を出たりする。この年で家族と同居とは、と思ったが、どうやら彼は妻と別居状態にあるらしく、その後に国生さゆり扮する妻と(ワンシーンだけなのに、彼女、良かった。)、正式に別れるために会う場面が出てくる。土木作業員の仕事にはついたものの、沢井は家にいるのがたまらなくなって、かつて自分と共に生き残ったあの兄妹、直樹と梢のもとに身を寄せる。そこにこの兄妹の様子を見に来た従兄の秋彦(斎藤陽一郎)も加わり、何ともつながりのない、ヘンな共同生活が始まる。

その頃通り魔殺人事件が起こる。沢井に好意を寄せていた職場の女性(椎名英姫。「オーディション」といい、彼女はほんとおじさんキラーね)が被害者になり、その日彼が彼女を送っていっていたことから、沢井に嫌疑がかけられる。結局直樹が犯人だったことが物語の後半に判るのだが、刑事は一貫して沢井が犯人だと確信している。しかし証拠はない。沢井はまるでそこから逃げるように四人で旅に出ようと提案する。小さな中古バスを買い、キャンピングカーのように改造して出発する。……行く当てはない。しかし今から思えば、直樹があの女性を殺したのは、あの時沢井をつけていたのかな。あの殺人に関しては、直樹の嫉妬も働いていたかもしれない。梢もだけど、直樹はずっとずっとずーっと何もしゃべらない。あの事件の日から、言葉をなくしてしまったかのよう。喋るのは、旅の途上、彼が犯人だと判った沢井が、また罪を重ねようとする直樹を止める時に、ふりしぼるように言う時だけ「なんで、殺しちゃいけないんだ」なぜ?なぜって……明確な答えが、しかも即答できないことに戸惑ってしまう。

まるで無造作に放り投げられたようにそこにある九州の大地は、今まで見た日本の“広大な風景”というヤツとはあきらかに違っている。人間に優しかったり、あるいは厳しかったりする、人間に対する存在としてそこにないのだ。それはただ当然そこにあるだけ、人間が存在するのと同じように、大地も存在しているだけ。青山監督もことさらその大地に意味を求めようとはしていないし、求めたらウソになってしまったとも思う。直樹が警察に出頭し、軽はずみなことを言って沢井を怒らせた秋彦が降ろされ、旅は沢井と梢の二人っきりで進められる。全ての問題が片付いてしまったかのように見えるその状態での道行きは、一見意味がないようにも思え、え、もう収束しているんじゃないの、終わらないの、と思うのだが、実際はここからが大切なのだ。かといって何が起こるというわけではない、でも気持ちは、ことに梢の気持ちはもやもやしたわだかまったような霧の中から次第に抜け出しているのを感じる。

彼女は海の中に入っていってその色を瞳に映し、兄に伝えようとする。直樹と梢は、別に双子というわけではないのだけど、演じる実際の兄妹、宮崎将と宮崎あおいがソックリなので、一瞬そんな感覚にもとらわれる。彼女は直樹にゴルフクラブで殴られるなんていう目にもあっているのだけれど、それでもお兄ちゃんのことが好きなんだという(というか、沢井のそうした問いかけにうなづく)。お兄ちゃんが殺人犯だと知っても、多分それは変わっていない。それは、沢井に嫌疑がかけられていた時に、沢井の妹(尾野真千子、かわゆい。)が「ちょっとだけお兄ちゃんじゃないかって、思った」と泣いてしまうシーンとのささやかな差異を考えると、かなり興味深い。それは直樹と梢だからなのかもしれないし、あの事件を乗り越えた兄妹どうしだからなのかもしれないし、あるいはこの年頃の兄妹だからなのかもしれない。あるいは、梢が男だったら、いや、そんな前提がなくても、もしかしたら梢がそうした犯罪を犯していたかもしれない、逆の可能性があるからなのかもしれない。

青山監督に、昨今の少年犯罪に対する目配せがそれほどあるようには思えないのだけれど、でも本作に関してはそれに対する示唆が含まれているように思う。バスジャック事件で心に傷を負った、という意味で直樹に与えられた心的状況は判りやすいけれど、そうしたものがなくても、本人には判らない、そしてどうしようもない、心の闇というのも違うような、敢えて言えば心の霧のようなもの、どんよりとたまっているそうしたものが今の少年少女にはあるのだと。それが時代のせいなのか、親のせいなのか、本人のせいなのか、あるいはそんな風に原因を追求すること自体がナンセンスなのか、判らない。少なくとも今の時点では。イタズラに解明しようとしてもムダな気がする。時間が必要なのだ。この映画が長尺なのも、そんな意味もあるような気がする。梢の心の霧が晴れていくのが見える。それにはこの旅もそうだし、この旅にかかった時間も必要だったのだ。

みんな、ひとりひとり。なんだか最近私は“ひとり”ということをものすごく感じてしまう。例えば血のつながりとかも、自分が残せなかったらひとりになってしまうのかとか。精神的に辛い時って、ひとりになりたいのに、ひとりになるのが怖くて、その矛盾が……なんか、だから、辛かった。苦しかった。この映画を観てるのが。それぞれがひとりひとりで。兄妹で存在していた直樹と梢も、結局ひとりひとりになって。ひとりひとりどうしの沢井と梢も、沢井はどうやら病を抱えているらしくて止まらない咳がついに血を吐いたりしてしまうし……梢もひとりになってしまうのかと。

でも、ラスト、沢井が梢と共に行った大地の果てで(あそこはなんというところなのだろう……名所なんだろうけど)、そこは物凄い絶景で、その崖のキワまで駆け寄る梢に、まさか、飛び降りるつもりじゃないよね、と、思ったら、彼女はそこで、自分を含めた今までの過去を脱ぎ捨てたのだ。それはなにか、とてつもなく哀しいようにも思えたのだけど、過去を否定することになるのではないかと。そうとも言えるし、そうでないとも言える。こんな風に大変な事件がその身に起こらなくたって、人生はそうしたことの繰り返しだ。過去を否定するのではない、けれど、それを捨て去らなければ前に進めない。梢は、沢井に呼ばれて、彼のもとへと駈け戻ってくる。その表情は晴れ晴れとしていて、そしてカメラが引き、ただ存在しているだけの大自然が広がっていて、ただ存在しているだけの梢が駈けている。……ただそれだけが、こんなにも救われる。ただ存在していること、存在できることが。感動、と言ってしまうのはカンタンだけど、それだけでは言い切れない、何か深いものを感じる。九州弁で展開される人間的な世界観や、セピア色したモノクロ(この作品で初試みの技術らしい)が、永遠の価値観を感じさせる。ズンときた。

今回は、悔しいけど、青山真治監督に、感服した。★★★★☆


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