home! |
シェイディー・グローヴ
1999年 99分 日本 カラー
監督:青山真治 脚本:青山真治 佐藤公美
撮影:田村正毅 音楽:山田勲生 青山真治
出演:粟田麗 ARATA 関口知宏 光石研 斉藤陽一郎 塩見三省 矢島健一 浅見小四郎 中野若葉 江角英明
青山監督は九州出身なのだという。男尊女卑と言われているお土地柄。いやー、納得である。九州の人に懇意な人がいるわけではないけれど。「Helpless」がイヤだったのは、女の描き方が、白痴的な聖女という、あまりにもあまりなものだったから。今回は主人公が女性ということでなんとかなるかなと思ったら、これがまあ、最低なんである。演じる粟田麗はなかなか可愛いしがんばっているけれど(おおお、「東京兄妹」のあの娘かあ!)なんにせよキャラクターが悪すぎる。結婚願望に満ち満ちていて、恋人に対してもそういう目でしか見ていない。恋人に(あとあと残るものである)プレゼント攻勢をし(ペアグラスや和食器であるから、その後の結婚生活を意識しているのか)その恋人にフラれ、しこたまワインを飲み、手当たり次第にデタラメに電話をかけ「あんなに真面目につきあってたのに、そんなはずない。彼は何か勘違いしているんですよ」と見知らぬ人に一方的に喋り続ける。その後も彼のことがどうしてもあきらめきれず(というよりあきらめるという発想がないんだな、彼女は)「理想の男性と結婚する100の方法」なんていうゾッとする本を読み、完全にストーカーと化して、しまいには探偵に彼の行動をチェックさせたりする。
一体この子はOL(というのもイヤな言葉だけど……なんで会社員って言わないのかなあ)という設定のはずなのに、そんな気配も全然なく、頭の中は恋愛、もしくは結婚しかないようなのだ。というより青山監督が、女は恋愛と結婚で頭がいっぱいなんだとしか考えていないようでさらにゾッとする。それなりにギャグタッチにしているところもあるのだが(しかし全く笑えないけど)、ことさらにデフォルメしているようにも感じられないものだから、さらにそう確信してしまう。どこか、こういう女を可愛いと思っている節すらあるのではと思って、さらにさらにゾッとしてしまう。……しかし!青山監督がキネ旬のインタビューで“今回のヒロインは自分に一番近いキャラクター”と語っているのだ……も、よう判らん。
そのヒロイン、理花が惚れている(と思い込んでいるといった方が正しいのかな……結婚相手の理想像である大手商社の有望社員)小野という男(関口知宏。父親、関口宏とは違って、なかなか面白い個性の俳優)が野心に燃えるあまりに謀略に走ることすらし、社会的体面のために愛してもいない理花と結婚しようとする、結構イヤな男として描かれているものだから、理花をかわいそうな、可愛い女とことさらに思わせようとしている気がして、やっぱり気に入らない。だってさあ、その謀略が災いして、ニューヨーク勤務になるはずがニューギニアに左遷(ニューギニアの人が怒るぞ……)された小野が手紙で“社会的な体面のために君と結婚しようとしたけれど、今こそ君が必要なんだと判った。君に来て欲しい”などとほざくのだよ!?も、監督のそういう意識、ありありではないか。ま、いくらなんでもこれで理花は小野のもとには行かないんだけどさ(行ってたらマジで怒るよ)。なんでも監督は作品の発想を夏目漱石から得ているという。今回は「虞美人草」。うっ、私漱石はキライなんだ……私が青山監督が苦手なのはそういう根本的なところにあるのかも!?
ここまでさんざん言うほど気に入らないのになんで一つ星じゃないかというと、やはり前述のARATA氏が素晴らしくいいからなんである。監督が「ワンダフルライフ」を観てその声で決めたといい、評論家さんたちもこぞって彼の声のよさに言及しているように、やはり誰でもがARATA氏の声には感じ入っているらしい。この作品では携帯電話が重要なキーアイテムとなっているし、とにかく相手に喋り続けること……相手が聞いていようといまいと……ことが作品の要となっていて、一番のクライマックスはARATA氏扮する甲野が理花に向かって自分の感情を一方的に吐露する(理花の顔を見ることすらせずに!)という場面にあるから、彼の声はそれをイヤなものとして感じさせるものであってはいけない。……その点でARATA氏の声は素晴らしい。落ち着いていて、通って、静かで、気品があり、なにより非常なる美声である。聞き入ってしまい、納得させられてしまう。
彼が理花の電話をキャッチし、彼だけが理花の話を真剣に聞いてくれるのだが、彼は生まれる時に死んでしまった双子の妹のことを考えていたところに理花から電話がかかってきたことで、その妹が電話をかけてきてくれたのではないかと思ったという。これまた女性のイヤな神格化の仕方で気に入らないのだけど、彼の声で言われるとなんだか、そうかそうか、と思ってしまうのだ。もちろん声だけではなく、彼の独特のたたずまいもいい。「ワンダフルライフ」での現実ばなれした役とは違うせいでなのか、ここでの彼は「ワンダフルライフ」の時より背が小さく見え、おろされた前髪が目をおおうように揺れているのも、それが彼自身の不安や行き場のなさを醸し出しているように見える。
甲野が辞めてしまった映画配給会社で、彼を崇拝している後輩の男が面白い。彼も一種のストーカーかもしれない。「俺も辞めます!」とか「(先輩のこと)あきらめません!」とか書き送る。甲野が進めていた(上司からは反対されていた)映画の宣伝を引き継ぎ、見事成功させて甲野の主張が正しかったことを証明した後、彼もまた会社を辞め、甲野とともに小さな宣伝会社を立ち上げる。……理花よりも、甲野との相棒関係がずっと好ましい。理花が雇う探偵(光石研)も印象的だが、脇の中ではこの後輩がとてもいい。
理花が子供の頃に父親によく連れていってもらったという森、その写真が映画のもう一人の主人公となり、そしてラストシーンにはそこで理花と甲野が再会し、手を握り合うところで終わる。森は美しいが、このラストシーンにはちょいとまたしてもゾゾッとしてしまう。ちょーっと、あまりにも陳腐なんでないかい?手を握り合うのがラストカットとは……勘弁してくれよお。★★☆☆☆
そしてこの作品がなんたっていいのは地方を舞台にしていることなのだ。「青春デンデケデケデケ」とはまるで趣きがちがって聞こえる四国弁。でもやっぱり好きだ。優しげで。閉鎖されている雰囲気の山村、この雰囲気は「新日本暴行暗黒史 復讐鬼」だッ!これはほんと、ロケハンの素晴らしさがモノを言った作品。それを最大限に表現する篠田昇のカメラの相変わらず美しいこと!ホラーだからと一様に暗くするわけではなく、田舎に降り注ぐ自然光(のように感じさせる)がしらじらと照らし出す明るさが、逆に現実感を喪失させる表現になっている。白い光は幻想世界、フェアリーテイルじゃなければ意外にホラーに似合うものなのだ。白昼の恐怖は暗闇の恐怖に時として勝つことがある。「悪魔のいけにえ」の朝日に照らされた殺人鬼のように。
男女が二人“ただ会って話しているだけ”で陰口を言われてしまう日本の土着的体質。この村の中だけで閉じられた輪。筒井道隆扮する文也も、そこから逃れられない。弱そうにみえて実はやはりよそ者、脱出できた夏川結衣扮する比奈子とは違うのだ。はたから見れば莎代里の強い思いに縛られているようにも思える文也だけど、「あんなに自分を愛してくれた女はいない」という彼の言葉は重く、彼女を今でも愛していることが判りすぎるほど判ってしまう。だって、そうじゃなければ「比奈ちゃんだったら忘れられる」なんて言うわけない。忘れられる、だなんて言ってるうちはとてもダメだ。他の人を愛するということは、かつて他の女性を愛していた自分として愛するということだと思うもの……忘れるとかそういうのは違うと思うもの。だから、彼が最終的に莎代里の元へ行くことは想像できた。そしてその場面、年を取らないままこの世に蘇ってきた莎代里と文也が交わすキスシーンと抱擁は壮絶に切なく美しい……。莎代里が佐藤充扮する修験者によって封印される時、文也が一緒にその沼に入って彼女と一緒に消えてしまうシーンもまた忘れられない。★★★★☆
「地獄」といえば、'79年の神代辰巳監督の同タイトルものは観ている(原田美枝子の豊満な肉体がエロ!)。今年作られた石井輝男版も多分そうだろうけど、いわゆる地獄絵図、阿鼻叫喚の場面を呼び物にして、そこまで至る展開に作家の表現領域がまかされるわけだ。もちろん、地獄絵図における一種の絵巻物的な見せ方にも興味がそそられるが。本作での展開は、地獄に堕ちることを前提とした薄気味の悪さ、縁起の悪さを、全編夜なんではないかと思われるほど暗い画面の中に充満させる。主人公の天知茂は、教授の娘との婚約にこぎつけるが、悪魔的な友人によってことごとに翻弄される。この友人を演じる沼田曜一の不気味さといったら!後ろを振り返ったらふと佇んでいるとかいう、ちょっと間違えればギャグになりそうな場面でも、彼の薄気味悪さで本気でゾゾッとしてしまう。悲運の主人公を演じる天知茂も、もともと暗さを背負った印象のお方だから、もうどこまでも暗い暗い暗い!
しかしやはり天知茂はスバラシイ。眉間に深く刻まれたしわが醸す苦悩の表情、腰の位置が高いスタイルの良さに惚れ惚れする。彼は母親の危篤の知らせによって故郷に帰る。そこで過失死させてしまった恋人とそっくりの女性に会う。うーん、ドッペルゲンガー。死んだ恋人とそっくりというのは半ばお約束ですな。現代の「もういちど逢いたくて/星月童話」に至るまで古今東西使われる設定。これはね、実際に似てるかどうかっていうことはさほど問題ではないと思うわけで。もちろん画面上は二役でやってるわけだしそりゃもうそっくりなのは当たり前なんだけど、何故似ているか、あるいは似て見えるかというのは、主人公や周囲の人間の心の葛藤や、トラウマを投影しているという、一つの表現手段なんじゃないかと思うわけで。
おいおいそりゃないだろう、という過失死の仕方……ひとりでけつまづいて吊り橋からおっこっちゃうとかいう場面には思わず場内から笑いがもれるほどだったが、天知茂があくまであの眉間にしわよせた苦悩顔でいるもんだから、私はひたすら惚れ惚れするしかないんである。そして、最初に彼が過失死させた男の母親によってそこに居合わせた登場人物全員が毒殺され、地獄行きである。地獄の描写は、特殊効果やメイクも多分にエポックメイキングなもので、皮剥ぎ地獄で内臓でろでろとか、首から胴体ちぎれてうぎゃーとか、血の池、針の山といったお約束までかなりグロに見せてくれるんだけど、正直言ってこの地獄に堕ちるまでの展開がしんねり、ねっちりと長々しく、地獄に堕ちてからの時間数は結構短いんで、こりゃ、「地獄」というより「地獄前」てな感じなんだなあ。いや、天知茂が素敵だからいいけど。地獄で、死なせてしまった恋人に逢い、子供を身ごもっていたことを聞かされる彼。子供を救うべくぐるぐるまわってる円盤状のもの(あれはなんなんだ?)にしがみつく場面、ちょいと間抜けだが、カッコいいぞ!★★★★☆
幼女誘拐殺人事件の宮崎勤、サリン事件のオウム真理教麻原彰晃、毒入りカレー事件の林眞須美を地獄で裁くというとんでもない映画。しかしその尺の多くはオウム真理教にさかれており、林眞須美などは血の池でうごめいている描写くらいしかない。宮崎勤の事件もオウムの事件もそのあらましを再現していく。なんでも実際に事件のあった場所、あるいは極力近いところで撮影されたのだとか。執拗に描写されるオウム(劇中の名称は宇宙真理教)の、そして麻原の暴挙、愚行。石井監督が“裁判被告人(麻原をはじめとするオウム幹部のメンメン)の人権擁護ばかりが叫ばれていて、裁判はやたらに延ばされ、実際に被害にあった人々がないがしろにされているのではないか”と義憤を感じてこの映画を作ったというだけあって、オウムの道場での場面……麻原が若い女性信者に手を出したり、自分の母親を救い出そうとしてくれた男を信者を脅して殺させたり、異様な修行場面など……は微に入り細にうがち、しかも麻原や上祐、麻原の愛人などそっくりさんなもんだから一層スゴいんだけど、でも、これを痛快無比だ、などとあっさり言ってしまうのにはひどく抵抗を感じてしまう。私は石井監督の言う意見には共感できないから。
オウムのことに関しては、特に「A」を観てから、犯罪そのものもそうだけど、それ以上にそれに関わった人間に関して凄く考えるようになってしまった。そこから派生して、他の事件を考える時も。もちろんオウムの犯した罪は許されないものだ。でもだからこそこれほど時間をかけて裁いていかなきゃいけないのだと思う。オウム=悪という図式がいつのまにかオウム信者=悪という図式にすりかわって、残った信者がどこにも行けなくなっている状況や、オウムだけに限定した法律のスピード成立などに石井監督の主張と同じ、“オウムを弾劾する”意識が感じられるのだが、それに対して私は人間が人間を排除する恐ろしさの方をより強く感じてしまうから……。
石井監督は“オウムの問題はもっと複雑だと人は言うけれど、違う、あれはチャチな人間が起こしたチャチな事件なのだ”と言う。そうだろうか……劇中で、ヒロインを含めた一般信者が麻原や幹部の考えに次第に疑問を抱くようになるのだけど、そしてそれは一般の人々なら当然抱く疑問(というよりは胡散臭さか)であるのだけど、それがあまりにもあっさりしすぎてて。それならなぜ彼らは入信したのか。それもなんだかんだとやたらお金がかかるというのに。そして麻原がしたことを充分承知していながら、そしてなぜ彼があんなことをやったのか理解できないながら今でもオウム真理教信者であり続ける人々が少なからずいるのはなぜなのか。そんなにあっさりした問題じゃないはず。
しかし石井監督が、誰も映画にしようだなんて、思いもつかなかったいわばタブーな問題に切り込んだ姿勢は本当に凄い。そうだ、こうして声に出して言わなければ、みんながあの事をどう思っているのか、こうしてリアクションしたり、議論することも出来ないもの。劇中、麻原がジャマな人間に対して(あの坂本弁護士一家など)「ボアしろ」(本当はポアだけど)という場面が何度も出てきて戦慄するが、石井監督、こんなヤバい映画作ったらポアされちゃうよ!と本気で心配になってしまう。観に来ている観客も狙われるんじゃないかと思うくらいだもの。……と思うのは私だけではなかったようで、「ねじ式」で集まった若いスタッフは恐れおののいて逃げ出し、「ねじ式」をやった劇場(ユーロスペース!)を始めどの劇場にも上映を断られ、最悪の場合はテント劇場でやろうと思ったという。それが本作のために2億かけてリニューアルされた、もともとは成人映画館の上野スター座(現スタームービー)で公開されることとなった。成人映画館にかかる作品も手がけていた石井監督に救いの手を差し伸べた、いい話だ!
そうそう、これは「地獄」だから、地獄の場面はもちろんふんだんに出てくる。オウム信者であったことで苦悩しているリカ(佐藤美樹)という女の子が、閻魔大王(前田通子)によって地獄の恐ろしさを世間の人に伝えよと生きたまま地獄に連れて行かれ、宮崎勤や麻原、林眞須美が地獄でゴーモンにあっているさまを目撃するのである。三途の川を渡るところでいきなり脱がされ、下着姿で地獄ツアーに出発することになるあたり、石井監督のご趣味が……。生きたまま(?)腕を、足を、胴をゴリゴリと切断され、血が吹き出す、上唇を巨大ペンチ?でぐわっとめくられ、舌をぐおおおー!とひっぱられた時の血走った目ん玉飛び出た形相、生皮はがされて肉と血と骨が露出するなど、実に生理的嫌悪感を刺激する描写……。特に今回の白眉は舌を抜かれる場面。これはオウム幹部や顧問弁護士がやられるのだが、過去二作の「地獄」ではなぜかこれはなかった(と思う)。“閻魔様に舌を抜かれる”という有名なフレーズ?があるにもかかわらず、血の池とか、手足がもがれるとか、皮はがれるといったのは定番だったのだけど。
突然の丹波哲郎御大の登場には思わず劇場から笑いがこぼれる。石井監督作品で演じた(私は未見)“明日死能”というキャラクターだという、大罪を犯した男が、地獄の掟にさからって、三途の川を渡ろうとせず、連れて行こうとする地獄スタッフ?の女の子の胸をつかむというオチャメな暴挙ぶり(笑)。なんだか思わずホッとしてしまう。
ラストは宇宙真理教の女性信者がサマナ服を次々と脱いで裸になり、永遠なる神、太陽に祈りを捧げるというもの。全く、こうまでして裸の女の子を並べたいかね、石井監督……。★★★☆☆
ここでの小林旭は芸人一座の浪曲(詩吟?なんて言うんだろう)歌い。飢饉救済のための公演を侠客、俵屋のシマで急遽行ったことからのっぴきならない事態になっていく。俵屋の陰謀で喉を水銀でつぶされた菊さん=小林旭は一座を離れ、二年。二年前彼と祝言を挙げるはずだった浅丘ルリ子、俵屋の若頭だったが、二年前の刃傷沙汰に関与して顔に傷を負い、足を洗って板前になった高橋英樹、菊さんに送られた刺客の兄で(この刺客は誤って自分で自分を刺して死んでしまった)菊さんを殺そうと乗り込んできた宍戸錠扮するバイオリンのツネ。
バイオリン!この作品で一番さらったのは宍戸錠かもしれない。黒マントでバイオリンを流しで弾きながら……といいつつそれはかなりイイカゲンなもので、すぐにケンカをおっぱじめて常にニコニコ笑っているつわもの!“ギターを持った渡り鳥”に対抗しているわけでもあるまいが、そのバイオリンを担いだ黒づくめのケッタイな風貌にドギモを抜かれる。親子だから当然なのだけど、若い頃の、ひげのない宍戸錠氏は、特に笑顔を作ると宍戸開氏にまさしくうりふたつでビックリである。
正統派のハンサムで、こうした心根のまっすぐな男が良く似合う高橋英樹。菊さんを待ち続けた二年の間、心がはっきりと定まらないながらも、この高橋英樹扮する若頭に惹かれてしまった浅丘ルリ子は理の当然で、彼女の弟で遊び人ながらもまだまだウブな所のある渡哲也が、姉の菊さんへの思いの方を本当だとしたがっている直情思考がカワイイのである。
街の荒らす侠客、本郷組(だったかな)を共に倒してからやりあおうと、帰ってきた小林旭、宍戸錠が多勢を相手に立ち回る!面白いのは冒頭での小林旭、渡哲也、高橋英樹、そして刺客役(俳優名判らない……)が立ち回る時もそうだったんだけど、ドスやピストルだけでなく、柔道みたいな投げ技を結構使っちゃうのだよなー。でもそれが本当なのかもしれないが……。そして小林旭が宍戸錠が敵にさしたドスを引き抜こうとすると宍戸錠がいや、それは刺したままにしておけ、と言う。それじゃああんたが俺を刺すドスがないじゃないかと小林旭。そうだな、と考えるフリをして、宍戸錠、小林旭の頬に一発平手打ち!これで負けといてやらあな、と言って、二人笑いあう。くっさー!だけどカッチョイイー!★★★★☆
時はいつに設定されているのかは判らないが、原爆の映像を見せてみたり、かなり訳が判らず、どこかパラレル・ワールドのような雰囲気。荒れ果てた砂漠をエルヴィス・キングが死んだ後のロックスターを目指して何組ものミュージシャンがロスト・ベガスを目指す。主人公バディもその一人で、彼は「ブルース・ブラザース」かと思われるような黒づくめに(しかもほこりだらけのボロボロ)、しかしサングラスではなくて黒ぶち眼鏡(これまたヒビが入ってる上に鼻のところがテープで補修してある)、背中にギターを背負ったところはまるで「ギターを持った渡り鳥」だが、そこにガムテープで(!)仕込み刀を隠し持ってるあたり、座頭市か?というとにかくかなりぷぷぷなキャラ設定なのだが、彼は大まじめにクールで、しかも持ってる刀はダテじゃなくて殺陣は素晴らしく、加えてカラテの達人ときた!クールに構えているとはいえ、外見が白人の、普通のあんちゃんなので、このギャップにはおおいにのけぞるのだ。本当にその、斬って斬って斬りまくり、カラテでバッタバッタと倒していくバディのスピーディーなアクションは、本当に座頭市の、そして健さんの斬り込みと、ジャッキーのアクションを同時に見ているようなカッコよさ!
彼のカッコ良さに惚れて(惚れるよなー!)ついていく少年。彼は言葉が喋れないというわけではないんだけど、殆ど喋らず、何か危機がある時には「アー!」と雄たけびをあげる。この二人のコンビがとってもいいんだなー。「グロリア」や「レオン」をほうふつとさせなくもないが、あれよりももっと最初っから相棒の雰囲気。まだ使える乗り物を見つけ出すのが得意なこの少年は、車を運転したりもしてこれまた寡黙なバディに「やるな」と言われたりする。この“まだ使える乗り物”が車からバイクへ、そして自転車へとグレード・ダウンしていくのが可笑しく、バイクの時にはバディの後ろにしっかりとつかまり、自転車の時にはバディの前にちょこんと乗るこの少年が可愛くて仕方がない。この少年をうっとうしがってる風のバディも、彼が「アー!」と泣くとバック転やなんかを転びながらやって笑わせたり(それもしぶしぶやってるという表情が可笑しい!)してなにくれと気にかけているところが可愛い。
ベガスを目指すミュージシャンたちもみな奇妙奇天烈だが、そのミュージシャンたちを狙う“デス”と呼ばれる殺し屋軍団がかなりキテいて、ボロボロのマント状のものにぼさぼさの髪、そのいずれもそしてメイクもススで汚れたようになっている。えらくおっそい車でゾンビみたいにひょろひょろ追っかけたり、武器はなんと矢(!)で、ミュージシャンたちは背中に何本もの矢を射掛けられてばたばた倒れていく。その様のマンガチックなチープさがたまらない!
山盛りのソ連兵に取り囲まれて絶体絶命になるバディと少年。しかしなぜソ連兵……。刀一本で戦いまくるバディに「1957年以来弾は入ってない」という銃も使いものにならず、次々と倒されていく敵集団。「虎拳でやっつけろ」と部下に言うソ連兵のボス。と、と、虎拳!?虎拳というより酔拳か、蛇拳のなれの果てのようなへなちょこ拳法を恐る恐る繰り出す男をあっさり倒すバディ。なんとか危機を脱したと思いきや、力尽きて倒れ……それも「坊主、どこだ?」と少年を気遣いながら!死んだかと思われるぐらいぱったりと動かなくなってしまったバディを半べそになりながらベガスへむかって引きずっていく少年。すぐそこにベガスが見える、そしてバディも目を覚ます。なのにそこにデス集団が……。
ここでバディは背中に矢を受けて、一度は起き上がりながらも最終的に死んでしまうのだけど、ここでデスと見せるアクションもさることながら、なぜかデス達とギターセッションしてしまう可笑しさ&カッコよさがたまらなく好きだー!少年をかばって死んでしまうバディ。ふとふりむくとバディの身体は煙のように消えていて、衣服と眼鏡、ギターだけが残されている。その衣服をずるずると引きずりながら身につけ、ずり落ちる眼鏡をかけ、ギターを背負ってベガスに向かう少年。その彼に「メンバーがほしかったらここに電話しろ」とナンバーをくれるデス集団……なんなんだ!
ごつごつした岩砂漠、本当に流砂が起きそうな砂砂漠、風に転がってる枯れた植物のボール(あれなんて言うんだっけ……)。ほんとうに過酷な撮影だっただろうと思われるその圧倒的な荒涼とした自然のハードボイルドさ。その乾燥した世界にぴったりマッチしたアクションのクールさ。途切れることなく鳴り響く、どこかアナログな、でも最高にカッコいいロックサウンド。……これはスゴイ、本当にスゴイぞ!★★★★★
まあ、その“秘密”を知ってしまっていたおかげで、最初からそのさまざまな伏線に気をつけて観ることが出来たので、その点ではなかなか面白かった。なるほど、オチがそうくれば、リピーターしたくなる気持ちも判らなくはない。私が「月とキャベツ」(これもヒバナ本人が自覚がある点が違うけどオチは同じ)を何度もリピーターし、例えば「私には花火の歌が永遠に残ってる」「大袈裟だな、永遠なんて、死んでから判る事だろ」という花火とのやりとりに、結末を知った後でしか味わえない感慨を抱いたのを思い出してしまった。監督のM・ナイト・シャマランはインド系アメリカ人だという。この“成仏できない霊”の感覚はやっぱり、仏教的なものだよなあ。どこでもそんなことを言っていないのが不思議なほどなんだけど、そうだよねえ?だって、シックス・センスって、いわば“第六感”でしょ?ちょっとその言葉から来るイメージとは違うけど、それもまた仏教的な言葉じゃないのかなあ。邦題を「第六感」にすればよかったのに(?)。
その“死者が見える”少年が、そのさまよえる霊たちの姿におびえ、「彼らだということは体の感覚で判る」みたいなことを言うのに、なぜ小児精神科医クロウ(ブルース・ウィリス)がそれだというのに気づかない(んだよね?)のかはツッコミたくなるところ。しかしまあ、「先生だけが僕を救える」と思った感覚がそれだと思えばいいのかなあ。この少年、コールを演じるハーレイ・ジョエル・オスメント、天才子役と騒がれるだけあって、心に闇を抱え、いつも霊におびえて、泣き出しそうな(そして泣いている)テンションの表情はいやんなるくらい確かに上手い。でも、日本の子役にはこんな子いない、なんて言うなよ。「M/OTHER」の高橋隆大はバツグンの上手さだったんだからね、ナチュラル演技でいえば、高橋クンの方が上だぞ!テンション演技で言えば、ドワイヨンの「ポネット」を演じたヴィクトワール・ドワソルなんて子もいましたね……あの女の子の場合、本当に幼くて、役柄と自分を混同して精神障害をおこすのではないかと心配になるほどだったが、そういう意味で言えば、このハーレイ少年は制御されたポネットという感じ。凄く知的に役柄を構築している感じがする。
ま、とにかくこのコール少年が、こんなにおびえるのも正直あんまりピンとこないんだけど。だって、彼、多分生まれつきの能力なんでしょ?死んだ祖母がしょっちゅう彼の元に来ていたというくらいだから。もう物心ついた時からそこかしこに霊が見えていたはず。そういう霊能力者の場合って、それが日常になっているもんじゃないのかなあ?おびえるのは、見えないものに対する恐怖、つまり霊能力者ではない私のような人々が幽霊話を聞かされて、“なにかがいるような気がして”トイレに行けなくなるとか、そういうある種の既成概念からくる恐怖であるのだと思うのだけど?コール少年のおびえかたは、そうした既成概念をあらかじめ身につけた後に、突然霊が見えるようになってしまった、とでもいうような感じで、なんか違う、と思ってしまうのだけど。
赤が目につく。赤い風船、幽霊であるクロウが開けようとするドアのノブ、少女を殺した母親が(葬式だというのに)着ている真っ赤なドレスと口紅、そしてコール少年の聖域であるキリストの像が無数に安置された一角にかけられたクロス。この赤はなんの象徴なのだろうか。血、ではないだろう。不安だろうか。常に不安におびえ続けるコール少年、自分が死んだことをまだ気づかないまでも、妻とのすれ違いに不安を覚えるクロウ、その他、コールの母親も、クロウの妻もそれぞれが言い知れぬ不安を抱え続けている。
正直言っちゃうと、コール少年の恐怖の話と、クロウの愛妻とのラブストーリーを同時進行させるのはあんまり好きではないのだ。別に違和感はない。うまく融合されていると思う。でも、自らが幽霊だと気づいたクロウが、妻にそっと別れを告げてからのラストまでの描きかたは、もう、いきなり雰囲気が変わって感動モードの恋愛話になっちゃってるんだもん。ジェームズ・ニュートン・ハワードの音楽がチャララーンとばかりに盛り上げちゃってさ、おいおい違うだろう、この映画はそうじゃないだろ!とツッコミ入れたくなる。こういう、家族とか夫婦の愛情をとりあえず入れておこうというのが、ハリウッド映画のどうにも好きになれないところで……。
しかし、ハリウッド映画でこうした幽霊が認知されるようになったんなら、日本のホラームービーも出て行ける可能性ありかなあ?タク・フジモトのエモーショナルさを排除したようなつや消しの映像は、画面の中に闇を多く封じ込めることによって何かが潜んでいる感覚を煽りたて、鶴田法男監督の「ほんとにあった怖い話」とか「リング」、「富江」などに通じるものがあるし。……でも実際の演出は西欧のホラームービーにありがちな、物陰から突然出てくるやり方のこけおどし的なもの……うーん、やっぱり判ってらっしゃらないかも?
タイトルクレジットの終わり、キーワードとして、(多分、クレジット中に次回を観るため席取りに劇場に入ってくる観客を巻き込んだ演出なんだろう)“私は死にたくない”と浮かびあがる文字。そこまでするか……あまりにあざといぞ!★★★☆☆
おっと、そうそう、主人公は的場浩司なのだった(笑)。日本人の父に捨てられ、中国人の母に自殺されたトラウマを持つ一匹狼のリュウ。彼とユウジはぼろアパートの向かい合わせで、窓越しに挨拶する間柄。出所してきたユウジをなにくれとかまうシャブ中刑事の笠井六郎(峰岸徹)が実はリュウを捨てた父親だったという、そりゃねえだろうというような偶然よっかかりの展開で、父を憎んで憎んで憎みきっていたリュウが、最後の最後「お前に会いたかった」という父を殺してしまい、しかし「ごめんなさい、お父さん……」と泣き崩れる浪花節……。この混乱の元になる、チンピラを殺してシャブを奪った娼婦、鳴海(中園りお)もまた、そのチンピラと言うのが「まだ毛も生えそろわないうちにやりまくった」父親、という。ユウジもリュウも、そしてこの女にまで、いわゆる“父親殺し”を科するというのはちょっとしつこいなあ。別に男どもだけでいいじゃない、その方がストイックで。
押尾学が意外にいいのだ。的場浩司主演のはずが、彼もまた主役の一翼を担っている。彼が殺した藤沢(哀川翔)が、イサオ(川本淳一)よりもヤクザとして格が上だと見込んだ男。しかし彼は足を洗う気でいて、それを許さないイサオが執拗にユウジをつけねらう。このイサオを演じる川本淳一も、上に立っていながらいかにもこわっぱという器の小ささが実によく出ていて、ダダッコみたいにバタバタして、類友という感じで下の若いモンも使えない奴ばっかりで、本当に哀れな奴。イサオと争いたくないユウジだったが「それでもイサオが追ってきた時は、殺せ」との藤沢の言葉通り、温和な雰囲気を一変させて、殺気をみなぎらせてイサオを殺す。……まさしくイサオなどものの相手にもならない、ユウジのしなやかな動き。
中国マフィアを皆殺しにする場面で見せる、的場浩司の横っ飛びの二挺拳銃、うーん、ジョン・ウーか、ロバート・ロドリゲスの影響大!?実の息子は捨てて、そいつは可愛がるのか、とユウジを殺そうとするリュウと、笠井、そしてユウジが三つ巴になって銃撃戦になるクライマックス。いたぶるようにユウジの足に弾を撃ち込むリュウ……しかしあれだけ撃たれて、なんでその後あんなにスタスタ歩けるんだよ、ユウジよお(笑)。それとも足元に撃ち込まれてただけで、当たってなかったのか?そうそう、ここにそのくだんの娼婦、鳴海が絡んできてるのも邪魔なんだよねー。しかも彼女結構最後まで生きてるし。ユウジが彼女に惚れているという設定なんだけど、一回のセックスで「あんた気に入ったんだ」と自分のアパートの住所を渡す程度の間柄だからなあ……そのあと彼女の過去のトラウマを聞いてはいるけど、それでもなあ……。
そして場面は変わり、生き残ったのはユウジとリュウ。あの場面で「息子をよろしく頼む」と息絶えた笠井の後、リュウもガクッとなったから、死んだかと思ったら、生きてたのね(笑)。「なんで俺を助けたんだ」というリュウに「お前と俺はおんなじだ。俺も父親のような存在だった男を殺した。俺達は兄弟だと思わないか」とユウジ。うわ、クッサー!……と思いつつ、これは喪服のつもりかな?黒っぽいスーツに身をつつんで海を臨む丘に立った二人がちょっとカッコいいからまあ、許そう。
そう、設定といい何といいクサイんだけど、結構それが気にならず、割とクールに見せてしまう。役者が上手いんだな、みんな。峰岸徹が脇をビシッと固めているのも大きいし。チラシやタイトルのイメージから来る任侠ものの泥臭さはなく、なかなか見せてくれた。★★★☆☆
「恋人が出来たら友達と会っちゃいけなくなるなんて、そんなの変」と、恋人の男との同棲を拒む女の子。この子の微妙な心理が切ない。おそらくこの男の子と女の子はお互い本当に大切な友人同士と思っていて、でもそれが異性同士だから、同性同士の親友とはやはり違う感情が生まれてしまうことを否定しきれないでいるんだもの……。私、ちょっと前までは同じ人間同士なんだから、男と女だって、同性同士と全く同じに親友関係を結べると思っていて、それがなかなか出来ないのはむしろ男性の方の性的な本能に問題があると思っていたけれど、そうじゃないんだ。恋人にはなれない、というか、恋人にはなりたくないけど(それは恋人が一過性のもので終わってしまうのに対して友達は一生続くものだから)、まったくのプラトニックでいるのに多少の居心地の悪さを感じてしまうような、微妙な感覚。恋人にプロポーズされていることを男の子に相談するシーンも切ない。「前だったら、あんな男やめろって言ってくれたじゃない。会ってみて、私に合うかどうか決めてよ」「お前、大地震になった時、誰と一緒に最後を迎えたいと思う?それがそいつだったら迷うことないんじゃないの」その台詞に物憂げな顔になる彼女。それがいまの恋人ではないことは明らかで、そして多分彼女の心にのぼったのはこの親友の男の子の名前だろうと思われるから……。
女の子が上京して遊びに来た自分の妹とこの男の子がセックスしたことを知って(しかしこのセックスシーンがかなり可笑しい。タイトルの「抜かずに中で」の部分はコンドームをつけようとする男の子に「そんなのいらないよお」という妹の台詞からきていると思われるが、この妹が精力絶倫で、果てちゃった男の子が仕方なく頬杖をつきながら妹を指で愛撫してやっているのがそこはかとなく可笑しい)、愕然となり、一人部屋で(多分男の子と自分のセックスを想像して)自慰行為にふけるシーンの切なさ。しかも男の子が(妹と似ているから)彼女を抱いているみたいだった、などと言うものだから……。「なんで妹と寝るのよ、何で私じゃないの」と酔った勢いで(いや、これを言うために酔ったのかもしれない)言ってしまう女の子に彼もまた自分の気持ちを揺り動かされ、寝てしまう二人。このシーンが、他のセックスシーンと違って、なにか凄くエモーショナルなものを感じてしまう。それは多分、他のシーンで(とくにこの女の子の妹と彼とのシーンで)その行為の時にあまりキスをしていないのに、ここではそれまでの気持ちが一気に出たかのように唇を求め合っているからかもしれない。そしてその後、背中合わせに膝を抱いて後「何で寝たのよ。もう友達に戻れないじゃない」と泣きそうな声で言う女の子……。
男の子が成り行きで一緒に暮らしている女性にぬるそうなお風呂につかりながら「あいつ、結婚するんだ。もうホームパーティーには来ないよ」と言って、顔を洗う、その、これまた物憂げな表情。ラスト、ダンキンドーナツを携えた彼が一人映画館に座っている彼女の元へ「友達になりませんか?」と言って微笑みあい、二人で映画を観る(それは彼ら二人の映画だ!)シーンで終わる。一番いい終わり方かもしれないけど、やっぱり切ないよなあ。これしか方法がないのかなあ……。だって、彼女は結婚した男のことを本当に好きなわけじゃないのに……。★★★☆☆
大体が、髪型からして短髪をさらに整髪料でツンツン立たせているという、この年の人はやらないだろうというヘアスタイルだもんなあ。あ、もう一人いた、異彩を放つ人物。ジュニアと呼ばれる社長の息子、佐藤浩市。10年前というと幾つの時だろう……若さよりもその色っぽさに目が行ってしまう!佐藤浩市を見るたびに、うーん、その唇……と思ってしまうのだが、いやあ、ほんと色っぽいわ。父である社長がその上で死んだ芸者のもとに入りびたり、浴衣にひっかけた女物っぽい赤いちゃんちゃんこも妙に似合っている。この人の悟りきったような落ち着いた声といい、一対一の演技合戦で一歩も緒方拳に引けを取らない。
おっとびっくり、その芸者というのは井森美幸なのだ!こんな演技巧者の中ではさすがに演技はカタイが、おきゃんな芸者がはまってる。女優陣で重要どころは十朱幸代。高級旅館の女将でこの太陽新聞社の大手取引銀行の元ボスに水揚げされた過去を持ち、緒方拳のピュアさに惹かれて恋仲になる。結構ラブシーンも濃厚で、舌入れてキスするところなんかをドアップで撮ったりする。いや、別にそんな事はどうでもいいんだけどさ。しかし女優陣の中ではやはり吉田日出子が一番いいなあ。緒方拳のほんわりした奥さん役。緒方拳がこの吉田日出子の奥さんの前では妙に子供言葉になって可愛くなっちゃうのが、外に愛人をつくっていても家庭はなぜか幸せ家族というのを納得させてしまう。「そのおかっぱ、かわいいよ」なんて言っちゃったりしてね!実際かわいいよなあ、吉田日出子!奥さんはご主人の浮気を気づいているようでもあるんだけど、特に追及することもなく、いつもほんわり笑っている。ある意味、一番手強い女性かもしれない。それ言ったら、社長の奥さんである野際陽子と対照的なんだよな。夫の愚行が極まった死が許せなくて、冷たい表情を最後まで崩すことのない女性。多分、夫を憎む気持ちで自分の人生を楽しむ余裕すらなくなり、かわりに息子を溺愛するに至ったであろう彼女。でもそれも愛憎なかばというか、ちょっとひるがえれば憎しみに変わりそうな危うさを持っている。
社内のトップが二人とも死んだり、生死の境をさ迷ったりすると、その周囲のトップの座を狙ったり、その恩恵にあやかろうとしている人物たちは、自分の保身に懸命になって、誰一人としてその死を悼んだりしない。「僕は今まで、死とは悼むものだと思っていました」という、まだピュアさを残すジュニアのつぶやき。彼は自分の父親が腹上死したと聞いて、初めて父親をいとおしく思ったのだという。その彼が様々な陰謀を緒方拳がなんとか引っこ抜いて脇に寄せて、新しい社長に任命される。彼の立場だからこそ見えていた醜い部分を、いつまでも忘れず行動する、いい社長になるだろうと思う。★★★☆☆
そう、前作を見逃している間に、以前まで三人(哀川翔扮するひかり銀行大阪中央支店次長、“銀行屋”安斉満、志賀勝扮する浪花南署警部補、水沼正三 、夏樹陽子扮する高級クラブ“バセロン”のオーナーママ、森下怜子)についていた借金残高がいつの間にやら消えているのである。森下怜子ママに至っては、劇中、水沼警部補が「きれいなカラダになったからって(金儲けに興味ないふりして)」と言うくらいだからどうやら借金はなくなったらしく(ま、私の見た前々作(「借金王(シャッキング)4)の段階で、彼女の借金は確か一億円にまで減っていたから、それまでのペースから行くと、次の作品でなくなってしまうかな、という気はしてたけど)、安斉も、これまでは絵沢萠子扮する借り主に毎度呼び出されて返済が滞っているのをカラダのサービスで返す(!)というシーンが必ずあったのが今回はなかったから、もう返し終わってしまったのだろう。唯一水沼警部補だけは、いつでも借金残高不明、となるくらい膨大な借金を抱えている上に、コギャルに貢いでいるからやはり借金がなくなっているわけはなく、金もうけの話があると首を突っ込み、二人を巻き込もうとするのである。
しかし今回はゲスト、根津甚八が事実上の主人公。なんたってサブタイトルロールの“ナニワ相場師”だもんね。伝説の相場師と言われながら、腹黒い信金の老獪にすべての汚名を着せられ、刑務所送りにされた男、内藤繁樹。それまで株取引で多くの人に苦しみを味あわせたことに負い目を感じて出所後は足を洗おうと決心しているが、恩人の窮地をタテに取られて、またしてもその世界に足を突っ込んでしまう……しかしまたしてもまたしても老獪に操られてしまう彼のある種の純粋さ。寡黙で男気を内に秘めた根津甚八のまさに本領発揮で、むちゃくちゃカッコいい。
恩人とは、安斉と内藤がかつて通っていたボクシングジムのオーナー、脇川(なべおさみ)。彼が賭けていた最後の金の玉子、瀬田が、信金の手先が放った暴走車にはねられ、ボクシング生命を絶たれてしまったことから、内藤のみならず安斉の怒りにも火をつける!「内藤さんに勝ち目がなかったのは、セコンドがいなかったからだ。今度は俺がセコンドになりますよ」通天閣のてっぺんでコートをひるがえしながら向き合う二人のカッコ良さ&色っぽさ!それをねらうカメラが、二人が豆粒ほどの小ささになるまで徐々にパンダウンしていく……いやーもう、しびれるわあ!この二人のシーンはもういちいち見惚れずにはいられない。強風の中、内藤にたばこをすすめ、背を丸めて安斉がジッポで火をつけてやるシーンなんかも、たまらなく色気を感じてしまう。
そしてここからはもう、お決まりでしょう!“元”借金王(シャッキング)である三人組が、内藤が相場を動かす前の“露払い”としてニセの舞台を作り上げる。架空の米レストランチェーンを設定し、不良債権になっている土地を買い上げる話を持ちかけ、信金側の株券を騙し取り……毎度ながらスリリング&痛快!この時になると決まって(変装にもならないのに)かける黒ぶちメガネが似合いすぎるぞ、哀川翔!アメリカ人オーナーに扮する夏樹陽子、悪乗りしすぎだよ……。
ちょっとしたハプニングもあったものの、まんまと大金をせしめた四人だったが、“まだ試合は終わっていない”というメモを残して内藤は1/3の金を持って消えてしまう。信金の悪事が明るみに出たのと同時に、内藤の水死体が(身元不明となるくらいに無残な姿で)海に浮かぶ。そんな中、復帰不可能と思われていた瀬田が黙々とトレーニングを再開したところに内藤からのその1/3の金が届くのだ……。内藤が瀬田の復活を信じていたのか、あるいは見抜いていたのか判らないが、トレーニングをしている瀬田と大金を同時に見て腰を抜かす脇川オーナー。そして夕暮れの水面を見つめている三人、「試合はまだ終わっちゃいない」と、内藤の言葉を繰り返す安斉のやりきれない口吻、内藤に心惹かれていた怜子の目に光る涙……このシリーズでこんなしおからいラストはめずらしいが……しかし、イイ!
そう言えば音楽も、前と違ってちょっと洗練された感じになった。前(と言っても私の見た前々作までだけど)はもっといかにもVシネっぽいというか、泥臭い感じだったのに、メインテーマのメロディはそのままながら、そうした色は抑え目になっている。これはやはり、今回の作品カラーに合わせたのかな?うー、やっぱり面白いじゃないか!和泉監督の手慣れた演出が心地いい。それに、今回は根津甚八に譲ってやや出演場面が少なかったものの、やっぱり哀川翔がカッコいいんだもーん!★★★★☆
北野作品の例にもれず、「菊次郎の夏」でもエピソードの、というよりショットの積み重ねが魅力的なのだが、それがどうやって作られていくのかが如実に見られる本作は興味深い。自分のシーンが撮られる直前の一瞬、ふと表情が止まって何かを考えている顔になる北野監督。アイディアの連続射撃で一日に40カットも撮りまくる秘密がここにあると感じさせる、恐ろしいほどの、一瞬のコンセントレーション。その集中力が5%、あとの95%はいい具合に力が抜けきっていて、風通しがいい。
俳優ビートたけしのスタンド・インの役割を担う津川誠氏が、大きめのクレジットだったことに、メイキングを観るとおおいに納得できてしまう。監督と俳優を行き来する北野監督のまさしく分身の役割を果たす彼。北野監督が彼に敬意を表しているのがとても良く判るのが嬉しい。
ただひとりの子供である正男役の関口雄介君に、彼が緊張しないように、溶け込むように、なにかと声をかけるスタッフ達の姿が印象的だ。。しかしなんたって、スタッフたち自身が、本編の中の遊びまくる大人たちと同様に楽しみまくっているもんだから、この雄介君と違和感なく、同じ視線上でつきあっている感じがとてもいいんである。なんだかよってたかって雄介君にかまいたがっている気すらする。監督が自ら語るように、最初はこの雄介君と距離を置いていたらしい北野監督も、物語の進行に合わせて、関係性が密になり、叔父と甥(親子という感じじゃないのがいいのだよな)のような空気を漂わせていく。雄介君の全カット撮影終了後、彼が「あとせめて一週間、監督と一緒にいたかった。2ヶ月早すぎるよ!」という言葉に思わず感じ入ってしまう。
何たって世界の北野武だから、製作中、外国のマスコミのインタビューも受けたりする。その中で思わぬ来客が候孝賢。「フラワーズ・オブ・シャンハイ」のプロモーションで来日していたのか、お互いに忙しい時間をぬって北野監督と話し込む。欧米のマスコミや映画人と相対する時には感じることのないこのスリリングな感覚は、やはり北野監督がアジアの地平で活動しているというある種のアンビバレンツとでもいったような優越と閉塞の入り混じった感情を起こさせる。しかしそこがアジアの中の日本であることが、民族意識であり、国際意識であることに発展していくのだ。ある種の劣等感は必要だと思うのはまさにそうした人間性の発露にあり、そこに思いを馳せないことには映画に色気は出ないのだ。
編集、音楽などなどの場面にも立ち入っていくカメラ。久石譲の大仰な音楽に思わず鼻白む。本編を観ている時にもちょっと思ったのだけど、北野作品、ことにこの「菊次郎の夏」に関しては久石氏の音楽はドラマチックすぎるのだ。大林監督の映画にはピタリだったけど、そして久石氏は監督の作風で音楽を変えるなんてことはしなくて、どこに行っても久石譲まんまなものだから、どうも違和感がある。特にこのメイキングでは、スタッフをも巻き込んだ楽しげな関係性が心地よかったから、それを無理くりの感動モードに捻じ曲げてしまう久石氏の音楽に反発すら覚えてしまうのだ。それなら音楽は一切ないほうがいい。
ふと北野監督が、こうした映画作り、思いついたショットを次々撮っていく手法を「モダンジャズのような」ともらす。このメイキング作品のタイトルもそこに一つ起因しているわけだが、私は、直接には関係ない、音楽のことについて、あ、と思ってしまう。そうだ、もしこの作品に、いやこれのみならず北野作品にジャズが使われていたら。「荒野のダッチワイフ」や「カンゾー先生」のあのスリリングさがあったなら……ああ、考えただけでゾクゾクしてしまうではないか!
拡大公開だったせいか、劇場にはあんまり人が入っていないようだったのが気になっていた「菊次郎の夏」だが、このメイキング作品にはぎゅうぎゅうに人が来ていた。なんだかあんまり芳しい評判を(ことに国内において)聞けなかったので、自分の好評価に自信が持てなくなっていたのだけど、なんだか安心してしまった……「菊次郎の夏」を観て気に入らなければここにはいないであろう性質の作品だから。ああしかし、ここで言ってもせんないことだけど、篠崎誠監督、あなたの劇映画の新作が早く観たいのです!★★★★☆
盲目の少女を無理矢理自転車に乗せて野っ原に横たわって会話を交わす場面ではひととき穏やかな時間が流れるかと思いきや、本当に一瞬で……。ラスト、何者かに大きな筒状の銃で(あれなんていうんだっけ?)殺される男。本当に、ただ、殺人者、暴行犯として忽然と表れ、役目を終えて消えていったかのような、夕焼けが長い間映し出されるラストシーンは詩的ですらある。そう言えば最初に殺した主婦の全裸の死体に血(?)で妙にアーティスティックにペインティングしてたなあ……。本物の阿部薫を初めて見た!★★★☆☆
リストラ対象として集められた50人が、新しく立ち上げた首都圏特販部配属にされ、三ヶ月で15億の販売実績を上げなければ、全員解雇という難題を突きつけられる。宣伝、営業予算ともゼロという状態で、まさしく知恵と足を使い、汗を流して奔走する社員たち。造反あり、裏切りあり、社内の本店営業部に仕事を横取りされるありさま。“左遷集団”の奮闘としてマスコミに取り上げられ、ますます状況はめまぐるしくなっていく。裏切り社員によって売り物件に放火され、恐ろしい勢いで燃え上がるクライマックスはまさしく圧巻!あのシーンはパニックムービーも顔負けの迫力!よく撮ったなあ……。その前で、呆然と崩れ落ちる社員たち……。
こういう憎まれ役をやらせたら、右に出るものはいないだろう、副社長を演じる津川雅彦。会社は俺が作った俺のもの、会社を存続させるためなら社員の大量解雇なんて何とも思わないということを隠そうともしない、ある意味実に幼稚っぽい単純さを持つ男。カッと目を見開いた時、左目だけが大きく開くのが妙に印象的だったりして。本当のタヌキは、そんな彼を操って、自分は控えめで物わかりのいい印象をくずさない社長だ。
もしかしたら最初から、この副社長を追い込む目的があったのかもしれない……。リストラ対象とはいいながら、ヤル気のない社員を奮起させることで会社にカツを入れられればというもくろみがあったのかも……というのは甘く見すぎだろうか?実際、特販部は目標の15億には届かなかったものの、あれだけ横ヤリを入れられながらもその半分まで売り上げ、本店営業部とも遜色ない実績を示した。篠田本部長(中村敦夫)はじめ数名は、子会社を任されることによって首をつなぎ、会社の冒涜に耐え切れず止めた滝川晃司と副社長のかつての愛人で、悪事を暴露した元秘書、今村春子は共に新しい会社を設立。これは、大会社否定論とも言えるかも。系列とはいえ、一つの会社を任されることになった篠田は、上がいないということで実に晴れ晴れとした顔でやる気を復活させているし、滝川もまた小さいとはいえ自らの城である新会社にかける意気込みは、リストラされそうになっていたあの三ヶ月よりも大きいかもしれない。まさしく“鶏口となるも牛後となるなかれ”なわけだ。そうだよなー!★★★☆☆
んで、私にとってはちっともヒップでもキュートでもラブリーでもなく、ただのサエないおバカである。しかもおバカ映画にすら成り果てていない中途半端さで、これはでも、キャストに問題があったんだろうな。それこそメルヴィル・プポーもそうだけど、ロマーヌ・ボーランジェにしたってどこか重いのだ、若いくせに。特にロマーヌなんてどっちかといえばル・シネマ系の女優である。やさ男のメルヴィルがぶん殴られて鼻血出して仰向けにぶっ倒れるとかいう描写が頻発するのだけど、それがもっとカルい人なら笑いになるんだろうけど、ちっとも笑えない。麻薬ディーラー、ジョエルを演じるジャン=フィリップ・エコフェはそうした匂いがやや感じられるが……いやそれはこの俳優がベテランだからだな、きっと。メルヴィルにしてもロマーヌにしても、まだキャラに色を染める作業に不慣れという感じがする。これは若い俳優にちょくちょく見られるある種の羞恥心にも似たもので、しょうがないのかもしれない。
物語はというと、お気楽ハンサムのレニー(メルヴィル・プポー)がワン・ナイト・ラブの女性から金を失敬、麻薬にかえて一攫千金を狙う。それを売りつけられるディーラー、ジョエルの情婦で、毎日に退屈しきっているジュリエット(ロマーヌ・ボーランジェ)。二人が出会い、右往左往しながら金を手にするために暴れまわる。やっぱりめちゃめちゃ可愛いエロディ・ブーシェ(ほんとにブシェーズじゃないの?)扮する麻薬の売人や、ジョエルにくっついてまわって、拷問のつもりが間違って殺しちゃうようなドジなチンピラ(役者判らん)あたりはやや魅力的。特にこのチンピラ、多分ジョエルに惚れていて、ジュリエットに去られたジョエルが「俺はセックスはじっくり一時間半かけてやる」なんてこのチンピラの胸ぐらつかんで顔のすぐそばで囁くのにちょっとどぎまぎしたような顔をするのが可笑しい。
星の一番美しい所だというチリ。そう言ったジュリエットの言葉を思い出して、メイク・ラブの後どこかへ去ってしまった彼女をさがして南米へ向かい、ガタピシするおんぼろバスに乗っているレニー。なぜか砂漠の真ん中で降ろされ、ボーゼンと歩き、ようやく着いた街でジュリエットの影がかすめる。走り続けてたどり着いたその星の美しい丘で仰向けになって星を見ながら待っているジュリエット。「あなたが本当に私を愛しているか試したかったの」……このラストシークエンスはその舞台の転換といい、なかなかチャーミング。あっ、いきなり思いついた!これ、エロディ・ブーシェがヒロインやってたら、きっとそれこそヒップでキュートでラブリーになってたろうなあ。そんで男優もこいつじゃなくて、もっとコメディを体現できるような人。うん、そうしたらきっと愛すべき作品になってたかも……しれない。★★☆☆☆
んで、誰が出ているか判らない映画だったから、若山富三郎主演と知って、ちょっとガクッときたりして……(若山氏のはあまり観てないせいか、面白いのに当たったことがないもんで……)。しかししかし、サブ主役が天知茂ッ!これはラッキー!口元に冷たい笑いを浮かべた非情な殺し屋の浪人役。この間観た「眠狂四郎無頼剣」でもそんな感じだったし、こういう役が多いのだな、彼は。少々バタ臭い顔と、腹にいちもつありそうな強い視線を放つ目が圧倒的に存在感。主役にするにゃあちょっとひん曲がったクセがあるが、脇役にしとくにゃ目立ちすぎるであろう彼、やはりサブ主役での存在感はさすがだ……もう、やっぱりクールでカッコイイのだ!
正直言ってやっぱり若山富三郎はちょいと苦手なので……こういうねっちりしすぎはちょっとねえ。年度が判らないから、彼がいくつくらいの時だかも判らないんだけど、ちょっと小太りで口髭で、やっぱり勝新に似てるのね(当たり前か)。町医者ながら、札付きの賞金稼ぎで、闇に消えた黄金の行方をひょんな事から捜すことになる男。飲み込んだ黄金を腹を切り裂いて取り出す描写が何度か出てくる、そのために医者という設定にしたわけでもないんだろうが、それ以外に医者である必要性がないんだものなあ。幕府からの礼金で地域に診療所を建てようなんて言ってるけどこの風貌じゃインチキくさい。手を組んで黄金を山分けしようと口では言いながら、下心ありありの女とあっという間にねんごろになる。このやらしい手際!撮り方も妙に念が入ってる……彼自身の私生活が出てそうでやだなあ(笑)。この女優さん、誰だったんだろう。なんかやたら脱ぎっぷりがよくて、形のよいおっぱいを大映しにさせたりして(それを若山氏がまさぐる……やっぱりここのシーンの気合の入り方は妙だぞ)。
ここぞという時の対決シーン……幕府の送り込んだ軍勢と若山氏とか、天知茂と若山氏の一騎打ちとかの場面になると、いきなりカメラがパンアップしていき、乾いた砂嵐が吹き荒れる。どっかで見たことあるような、突然パクリの画面挿入!といった感じの無邪気さに思わず笑ってしまう。ま、天知、若山御両人の対決はさすがの迫力だったけど。黄金に目が眩んでいる幕府によって女子供まで無残に殺されてしまう場面は思わず目を覆ってしまうむごさ。
若山氏にくっついてまわる“こいつがいるところには必ず死人が出る”ので死神と陰口を叩かれている吃音の乞食がいい。彼は誰だろう?それと私、大木実氏の顔と名前が一致しなくて困っているのだけど、誰か例を挙げて教えてくれないかしらん。日本映画って、クレジットで役名とキャストを並べないので、ほんと覚えられないのだよ……。★★☆☆☆
それ以上……そう!TVシリーズでも充分魅力的だったこの唯一無比の耽美世界が、劇場版になって、さらにパワーアップしているのには感嘆!本当に、気合いが入りまくっていると感じさせる止め絵の美しさときたら!飛び散る薔薇(やはり漢字で薔薇、でなくてはいけない)の無数の花びらの描写も、その花びらとともに風に遊ばれるウテナやアンシーのつややかな髪も、昨今見たアニメーションの中でも出色の美しさだ!加えてこの外界から閉ざされた学園の造形美術の前衛的な美しさもまた絶句もので、そう、これもまたTVシリーズでも思ったことだけどそれ以上に凄まじく気合が入りまくっている。中空に渡された鉄骨や階段、それに血のようにこびりついた赤い跡、これまた中空に浮かんだ四角い薔薇の絨毯……まさしくここは“天上”の世界(ウテナの名字だもの!)これはちょっと、美術賞ものだぞ!
しかしやはりここは閉ざされた、安全圏な世界。萩尾望都や竹宮恵子の往年の少年世界を描いた時に必ず登場していたギムナジウム(寄宿学校)。もちろんその世界の中は外の世界のいわゆる凝縮版で様々な陰謀や野望も渦巻いているわけだけど、やはり彼らは幼い子供でこの学園の中で守られている存在にすぎない。彼らが叫ぶ「世界を革命する力を!」という言葉は、決してこの学園世界のことを言っているのではないはずだ。彼らが言う世界の果て(果ては始まりでもある)、その世界に向けて叫んでいるはず。言ってみればこの学園内は世界ではないのだ。
驚くべきことにそれを具体的に示す、いや、残酷ともいえる回答を幾原監督は導き出した。車になったウテナ(!)とアンシーがこの学園世界から外の世界へと飛び出していく。学園側から無数に放たれた追手を振り切り、アンシーのトラウマである(近親相姦の関係にあり、自殺した)兄の幻影をも振り切って。このカーチェイス場面は、驚くほど時間をとって展開されていて、その間ずっとウテナは車になっているわけだし、アンシーの一人舞台で、まるでアンシーが主人公のような気がしてくるのだけど、ここまで丁寧に活写した監督の意図に、ラストのワンカットで思いが及ぶのだ。そう、ラスト、もはやハンドルとエンジンとタイヤだけ残ったようなマシンの上に、車から人間の姿に戻ったウテナとアンシーが一糸まとわぬ姿で横たわり、幸せそうに見つめあい、キスをして荒野の中を、世界の果てへと疾走していく。
そして一瞬挿入されるそのワンカットとは、二人が去った後の学園内、制服を着たわら人形が散乱しているというもので、その中にはウテナとアンシーの名札をつけた人形もまた倒れているのだ。学園世界が意味のないものであったこと、美しさが虚飾であったこと、外の世界に出て初めて生身の人間としての価値を得たこと……。「少女革命ウテナ」のメイン世界をすべて否定しているともいえる衝撃のワンカット。しかし、そうだ、彼女たちは「革命」を起こしたのだ、タイトルどおり。否定どころか、全面肯定。きっとそうだ。もちろん、この革命の結果がどうなるかなど……彼女たちがこの世界の果てで生き延びていけるかなど、誰にも判らないのだけど……。学園世界を飛び出すシーンにあれだけ時間を取ったのには、生身の人間として勝負していくことがいかに大変なことか……虚飾の中で安穏と暮らしている方がよほど楽なのに……しかしそれがどれほどの意味を持っているかを示すために必要なことだったのだ。だからこそ、飛び出した後の彼女たちにも、困難ながらも幸せが待っていることを願いたい。
TVシリーズ、あるいはこの劇場版でも冒頭までは、美しいけれど生気のない人形のようだったアンシーが、自らの意志で壁を突破していく姿は、この劇場版を作った意味が、アンシーの自己確立だったのではないかと思わせるほどの迫力だ。男装の麗人であるウテナがタチ役(というのもナマな表現だが……)と思っていたけれど、ウテナが車になり、それを駆って疾走するアンシーの方が実は……?何にせよ、そうした意味でもこのカーチェイスシーンは何かエロティックな感慨を抱かせる。
TVシリーズでの魅力の一つであった訳のわからない展開が劇場版では影を潜めていたのが少々残念だが(ま、ウテナが車になるとかは充分訳が判らないけど)、カルト的な中に収斂され、判る人にしかわからない、あるいは判る人が誰もいないなどという自己満足さに陥るよりはよっぽどいい。もちろんいい意味でのカルト的な魅力も保ちつつ、間口を広げたこの劇場版、傑作だと思う!あの「絶対運命黙示録」の合唱曲は相変わらずいいし……そう、その曲担当のJ.A.シーザーが寺山修司の「天井桟敷」の音楽だったとは!意図的であるかないかは別としても、ウテナの前衛的、耽美的、それが突き詰められた時に起こる形而上的な世界は、寺山修司の世界と共通しているものなあ!★★★★★
コミックは読んでないけど、おそらくコミックそのままの髪型やいでたちは、明らかに確信犯的に笑いを狙っている大げささ。しかし、翔さんはまんまだけど(彼は恐ろしく変わってない……いまだにコミックな風貌だもんね)白い特攻服、サテン生地の紫の長いハチマキ、SYOUBAKUとバックに書かれたスタジャン(懐かしい!)などなど、見てるこっちが気恥ずかしくなるアイテムなのだが、多分この当時でもそうだったんだろうと思われる。それを言えば、音楽も懐かしのロック調、そして女の子と海岸を歩く(!)時にはメロウな感じ、ともう80年代バリバリで背中がむずむずしてしまう。しかも挿入歌を織田裕二が歌っている!
なんたって、ケッサクなのは江口洋介扮する、湘爆のリーダーながら、手芸部の部長をつとめている男(役名忘れた……)。やたら刺繍のテクニックに長けていて(ちらっとだけステッチを縫うシーンを見せる江口氏、おーい、マジで手慣れてるぞ!)糸に対するこだわりもものすごく、やっと見つけた刺繍糸をヨコハマの不良に絡まれて踏み付けにされてしまい、一瞬間でメラッと怒って、相手を空中吹っ飛ぶくらい殴り飛ばしてしまう。ラスト、“御伽”との対決から帰って、徹夜で雪の富士山の刺繍を仕上げる責任感のある部長さんだ。織田裕二と半々な出なんだけど、このキャラクターの強烈さと、竹内力との肝試しシーンで見せる度胸と男気で彼に軍配があがってしまうだろう。
そう、この肝試しシーン、なかなかよくて。目隠しをして(というのは条件に入ってなかったんだけど)バイクをぶっ飛ばし突き当たりのより手前でブレーキをかけた方が勝ち(あれは「理由なき反抗」にあったな……)、というこのシーン、先に行った江口に勝つために、突き当たり手前でいきなり加速する竹内に間一髪飛び掛かってバイクから転げ倒し、救出する江口。「こんなことで終わりにしちまったらつまんねえだろうが!」泣き出しそうになりながら叫ぶ江口と、それを仰向けになりながら呆然と聞いている竹内の目にも光るものがある。……クサいけど、結構素直に感動しちゃったりして。妹の清水美砂に「お兄ちゃんは友達がいないから、湘爆がうらやましいんでしょ」と言われていた竹内、これが友達の出来た瞬間だろうな。
翔さん率いる“地獄の軍団”(なんつーグループ名……)とのコミカルなやり取りも可笑しい。地獄の軍団は湘爆に対してライバル心むきだしなんだけど、それは明らかに憧れからきていて、湘爆を意識したプロモーションビデオを作ったりするありさま(それがなぜかお笑いモノになってしまう可笑しさ!)。路上で鉢合わせした彼ら、湘爆が立ち去る直前、「タイヤパンクしてるよ」とささやく。ふと下を見た地獄の軍団が「あ、ほんとだ」と言う(ほんとに素で言ってるみたいに)オカシさ!骨折した翔さんを見舞いに行ってギブスに“湘爆参上!”なんて書いて、誰かのおみやげの果物を軒並み食っちゃったり、こいつら仲いいなー、って思ってしまう。実際、湘爆がピンチの時にしっかり助けに行くんだもんね(ありがちな“ぬけがけしやがって”みたいな言い訳を口にしてはいるものの)。
ああそうそう、“不良”なんて書いてしまったけど、不良なわけではないんだ。ただバイクで走ることが好きな、彼ら言うところの“走り屋”で、ガソリン代を稼ぐために果ては茶摘みスタイルでお茶のキャンペーンまでやるけなげさ(?)。一応彼女はいるものの、まだまだヤロー同士でつるんでいる方が楽しいお年頃で(今じゃそんなのは中学生までかも……)それを女の子側でも判っていて、しかたないなあ、ってな感じで見守っている。……このへんの出来た女房風の描きかたは今だと成立しないんだろうけど、懐かしくも微笑ましい。★★★☆☆
畳敷き、大きな梁、掛け軸、そして畳に置かれたほの暗いアンティークぽい照明など、隠微な和の空気に満ちた中、淡々と縛られ、淡々と写真を撮られ、淡々と縄をほどかれる女性たち。時に微かなうめき声をあげる。写真用の物憂げな表情からふと子供っぽい笑顔を見せる。そこにはよく見られる饒舌で乗せ上手なカメラマンと気取ったモデルの姿はなく、あるのは、微妙な姿勢にこだわって淡々とシャッターを押し続ける男と、一個の肉体としてそこに存在する女。
様々な緊縛方法がその名称とともに仔細に映し出される。そこには緊縛というイメージから来る妖しさよりも、手際のよい職人の腕を見る思いである。「縄じりを残さず美しく処理する」ことにポリシーを持つという監督。後ろ手に、全身にミイラのように、しかも手ぬぐいで目隠しをしたその目の上をさらに縄でぐるぐるまきにし、梁に逆さ釣りに、あるいは水平釣りにされる女たち。そのバリエーションとオリジナリティには目を見張る。実際クラシックな緊縛方法の他に、監督自ら考案した縛りも多々あるといい、それが縛りの楽しさ、奥の深さだと監督は言う。なんといっても幼少のみぎりからちゃぶ台だの椅子だのを縛って練習を重ねてきたという監督の言葉だから含蓄がある。
オレンジっぽい薄暗い照明に映し出された緊縛された女は、ただじっと黙っていることが恐ろしいほどのエロティシズムを放つ。パンティをつけた状態で縛られているものもあるが、やはり全裸で縛られている方がいい。痛々しいほどに絞り出される格好になる乳房、後ろ手に縛られて自由を奪われる、屈辱感と恍惚感がないまぜになった感覚。足の間に通される麻縄や、目隠しをされた時に気付く唇のエロさ。そして監督がこだわっている、ほどかれた後の縄の跡が残るすべらかな肌。緊縛は紛れもなく芸術だ!
しかし欲を言うと、もう少し肉感的な女を縛ってほしかった気もする。どうやらいわゆるAV女優さんを縛っているらしいのだが、細すぎる。肉がそれほど食い込まない。それこそこの日トークショーに来ていたSM女王のローズさんぐらいな太ももの女性を縛ってくれたら、もっとそそられたろうなあ。それとそれともう一つ。カメラが不安定すぎる。これはこの日の私の体調が悪かったのかもしれないけど、同時上映の「AYAKOの退院」の時から(カメラマンは同じクラウス・マンスキー)もうその揺れに酔ってしまって、胃に来てしまい、それが本作も揺れに揺れるので本気で気持ち悪くなってしまって、時折目をつぶって休んでしまう始末。意図的……?そうだとしたら失敗だと思うが……いや気持ち悪くなっちゃうことではなく、やっぱり落ち着いてしっとりと観たいもの、この世界。★★★★☆
今回の風間重吉(池部良)は、かなり快活でびっくりしてしまう。もう重さんといえば、寡黙なイメージがあるから。そして何と今回は板前である。深川の高級料亭“喜楽”の板前頭。ああ、前掛け姿の何という色っぽさ!もともとその恰幅の良さで、和服(着流し)が抜群に似合う人、その特徴が前掛けによってより強調されて、もう私は惚れ惚れと見とれるしかないんである。そして花田秀次郎(高倉健)との耽美的なヤバ系ツーショットが、同シリーズ他作品に比べて多し!今までは重さんが片腕のアウトローだった「昭和残侠伝 唐獅子仁義」が最も好きだったが、それに優るとも劣らず!
長いこと渡世人暮らしをしていた秀さんが、父や妹の死をきっかけに足を洗い、“喜楽”に戻ってくる。盲目の義母には素性を隠してキクジ(字が判らん)と名乗り、板前見習いとして働きはじめる秀さん。かつて出会った芸者の卵、幾江(藤純子)は今や立派な芸者となり、お互い思い続けていた二人は周囲に冷やかされながら恋仲になる。……そう、冒頭登場する藤純子は、秀さんを「お兄ちゃん」と呼ぶ15歳の少女という設定で、今回の役、かなりムリがあるぞ……とヒヤヒヤしていたら、それから数年後、つやっぽい芸者、幾太郎として再登場。あー、良かった。相変わらず天上の美しさである彼女。
何くれと二人の仲を盛り立ててくれる重さんは、妙に明るい。いつもなら全編通じての渋さからくる色気で圧倒するも、今回はその明るさがラストに一気に暗転する(斬り込みによって死んでしまう)ことによる色っぽさ。秀さんが義母であるおかみさんに「これぞ喜楽の味」と言わしめる出しまき玉子を作った時、誉めてやりますよ、と言って秀さんのもとにおもむき、肩が触れるくらい傍に近寄って耳元で囁くように「血は争えませんね」とつぶやく……おおおー!そんなことされたら、私だったら昏倒するぞ!?
幾太郎をお気に入りのイヤな客、喜楽の乗っ取りを企む新興博徒の駒井が幾太郎に乱暴しようとしたところに躍り掛かる秀さん、お客に暴力をふるってはならじと、秀さんを殴ってとどめる重さん。その後、重さんは「若旦那に手をあげてしまった……私のことを気の済むまで殴ってください」とひれ伏する。とんでもない、重さんのしたことは当然だと秀さん、「手を(頭を)上げてください」と言って重さんの手を取ると、重さん、世にも哀しそうな顔をして、秀さんの顔を下から見つめる……ああもう、すでに私は鼻血を吹きそうなのだが、こんなところで吹くのはまだ早いのだ!?
そう、板前見習いとして重さんの下で働く“キクさん”としての二人の関係と、重さんと秀さんとしてのそれの上下関係は、全く逆なのだ。公的にはキクさんなので、重さんが上、秀(キク)さんが下、しかし、実質、つまりは彼らが二人きりになった時だけ、若旦那である秀さんが上になる。その関係に何とも言えずエロティシズムを感じてしまう。
健さんとのもう一方での名コンビ、長門裕之がここでもイイ!渡世人時代兄弟分だったとおぼしき二人は、その背中の刺青ゆえに遠くの銭湯まで通わねばならず、刺青OKの銭湯で再会を果たす。彼が「やくざがカタギになるのは難しいや」と、またしても仕事をクビになり、秀さんのもとに別れのあいさつをしようと喜楽に訪れたのがグッド・タイミング、秀さんが、渡世人時代のライバルと会って一悶着おこし、喜楽をやめようとしていた矢先だった。重さんは、長門氏扮する××(役名忘却)を皿洗いにスカウトして、秀さんを引き止めることに成功する。長門氏の軽口のリズムはノリが良く、コメディリリーフとしての陽性さはバツグン。今回は、その明るさのまま死んでしまうという切なさはない。斬り込みに行く秀さんに、幾太郎を頼むと託され、同行するのを拒まれるからだ。「お前が気になって、かえって危ない」と言う、いわば殺し文句を秀さんに言われては、アニキ命の××もあきらめるしかないわけで。
秀さんの亡き妹のダンナが株に狂い、それを利用した駒井が土地の権利書を奪い取ってしまう。その間に入った世話になってる親分さんが殺されてしまったことで、重さんは一も二もなく、敵陣に乗り込むことを決意する。その道行きに同行する秀さん。おおっ、同シリーズの他の作品と逆ではないか!いつもは斬り込みに行く秀さんに、重さんがお供をするというパターンなのに。秀さんが重さんのもとに追いつくと、重さん「ご一緒願います」と言い、目を見交わす二人(ああ……)そして、秀さんが、重さんの肩を押して先に行かせる(いいわ〜……)。
そしていよいよ敵陣!こっからは、もう言わずもがなの迫力あふれる斬り込みシーン。大抵ここで重さんは死んでしまうので、毎回、やっぱり死んじゃうのかなあ……と思いながら観ていると、やっぱり死んでしまった……数人に取り囲まれて、グサ、ブシャ、ドッ!とばかりに刺され、壮絶に息絶える。ボスも含めて全員を皆殺しにした秀さんが「重さん!」と叫んで彼を捜す(ああ……)。血だらけで倒れている重さんを見つけ、泣き伏し、彼の上半身を起こしてその頭を自分のあごの下に引き寄せる。そのクローズアップのショットにもう、ここが鼻血ポイント!うー、冗談抜きに本気で吹きそうだわ。耽美的に色っぽすぎるわあ、もう!
そうそう、本作でもひとつ言及しておきたい点、刑務所での面会で秀さんが(その場面では同時に重さんも)父親の死を聞いて涙を落とす場面があって、これまでどんな哀しいシチュエイションでも実際に涙を落とすことはなかっただけにちょっと珍しい。鉄格子ごしに男二人が涙を流す……いいではないか!★★★★★
刑務所から出てきた老舗の組の年若い三代目(渡哲也)が、新興勢力であくどい方法を使って成り上がった組と渡り合う。両親を亡くした彼を息子同様に支えるおやっさん(嵐寛寿郎)。やくざになってほしくない、と心配しながら見つめる幼なじみの女性(益田ひろ子)とのプラトニックな愛。どちらの組の味方ともつかない、一匹狼(安藤昇)との奇妙な友情関係。……などなどかなりベタな設定と展開。渡哲也もこの人の真面目さが直球で出ている感じで硬質な仕上がり。
ただ、彼が原爆症をわずらっているというのは異質なバックグラウンドだ。もともとこの老舗の組が勢力を失ったのも、二代目である彼の父と母、そして組員のあらかたが8月9日の長崎の原爆投下で一瞬にして吹っ飛んだからだというのだから。しかしその設定をそれ以上に展開させることはなく、あくまで彼の、そして組の薄幸さにだけ理由づけるというのも、かえってなかなか出来ない芸当なのかもしれない……物足りないけど。彼が自分のために死んでしまった数名の組員を思って、一人敵の組に乗り込み、全員を虐殺、無期懲役となるも、その原爆症のために獄中死するのが、ごていねいにも8月9日だというセンチメンタリズムにはいささか唖然とさえしてしまう。
それが画面のクレジットでだけ明かされる直前の、事実上のラストシーンで、血まみれになって敵の組事務所から(おそらく警察へ自首するために)引き上げてくる彼を心配して待っていた女を素通りして画面奥へと歩いていってしまう。……うーん、絵に描いたような禁欲的&プラトニックさ。定石どおりとはいえ、ちょっとあまりにあまりなのではないのお……。女はいつでもじっと耐えて待っている、そんな都合のいい生き物ではないのだぞ。
顔に傷ある訳アリの黒づくめ、一匹狼の安藤昇がグーだ。彼が渡哲也を殺さなかったために小指をつめるハメになって、旅立つ彼に「餞別じゃない、小指の葬式代だ」と言って渡氏がサイフを渡す。その場面で二人の視線絡み合うさまにはちょいとしびれたわあ。★★☆☆☆
冒頭はモノクロのみだったのに中盤からモノクロとカラーが気まぐれのように入れ替わり、それが何を意図しているのか私には今一つ判らなかったんだけど、(ホシの主観的視線の時にモノクロになっていたような気もする……)なんたって、モノクロの時のハナコのその姿は抜群に美しい。それまでさせられていたアイマスクでキリストみたいに下の急所を隠しているのもますますストイックな美しさを感じさせる。ホシがそのハナコの前でひざまずいて彼女の滴り落ちる血を受け取って飲むところなんかその最たるもので、あそこは出来ればモノクロでやってほしかったなあ……。これ、監督は若松孝二だけど、この荒野の乾いた感じ、その中で繰り広げる一種のシュールな世界は、この作品の脚本を担当している大和屋竺監督の傑作「荒野のダッチワイフ」を即座に思い出させる。
それにしても、これ、解説読むまで設定がさっぱり判らなかったけど、ハナコはボスの女で、それに横恋慕したホシが彼女とともにリンチされに荒野にうっちゃっておかれ、お互いを声で確認し、ボスの情婦たち(そうだったのか!)によって最初はハナコが上だけを、ホシが下だけを裸にされる。寝てても美しい形のハナコの胸を、目隠しされたホシが口で愛撫する。さらに全裸にされた二人が、ハナコがホシの膝の上に腰掛けるような格好で縛られ、キスしあう……ここまでの一連の流れの奇妙なエロティックさ!情婦たちと交わった後に殺されることを言い渡されたホシが、一人めの情婦を殺し、命からがら逃げる。荒野をさまよったあと、出会うこれまた情婦二人連れのボスと思しき男達とその配下。「こんな荒野を一人で歩いているなんて、あの坊や、なかなか見どころありますよ」……うーむ、何だそりゃ!ホシは逃げる時に奪った女のスリップ着てさまよってたのにさあ……。大体彼らはあんなところで何してるんだろう、鳥を焼いて食べたり、遠くまで狙える銃で射撃をしたり(これでラスト、ホシ達をリンチしていた男女を殺戮する!)、しかも、ホシがその望遠鏡つき銃を覗いていると「ここはボスの庭だから」とたしなめられる。……この荒野一帯が……?このボスって、ホシ達が所属していたところのボスなのかなあ。
そしてハナコを救うべく(かどうかは判んないけど)もとの場所に戻ってくるホシ。そして前述のハナコの美しい磔の前で、男達を殴殺する……彼らは「幹部になりたい」などと口にするけど、あくまでトップ、ボスがいる上での幹部であって、誰かボスがいないとだめだというのが可笑しく、だからボスの命令で、殺される前のホシをボスと呼ぶよう命じられていた男達は、ホシの迫力に圧倒されているせいもあるのか、ホシとボスを頭の中で別にして考えることが出来ない。ホシが最初に女を一人殺していることもあいまって、ホシを恐れ、逃げまどう。数の上でも武器の上でも完全に彼らの方が上なのに、である。
ああそしてこれ!先ほど出てきたボスと配下とその情婦たちが何かというと記念写真を撮りたがるんだけど、それがいつでも微妙にピンボケになっている。その画というのも女たちはトップレスで、磔のハナコをバックにしたり、ちょっとやっぱりオカシいのだ。そしてその記念写真の後ろから殴りかかってくるホシ。それがコマ落としのように一枚一枚の写真ショットで描かれる。……そしてラスト、再び画面は色を戻し、火柱がところどころに立っている荒野をハナコを抱いて去っていくホシを豆粒ほどになるまで同じ位置からとらえる。これは誰の目線なのか……カラーだからホシの意識を離れているんだろうけど、他に生き残っている人はいないし……。なにか、すべてにわたって宗教的な(主としてキリスト教の)匂いを感じるから、これはやはり神の目線?
関係なくてくだらないことだけど、脇毛を剃っている女性と剃っていない女性がいて、ちなみにハナコは剃ってなかったけど、それがちょっと気になったりして……ほんとにくだらないことだけど……。★★★★☆
とはいえ、やはりドキュメンタリーなのだ。その過酷さ、自然の脅威そして驚異。12月の初めから3月の半ばまで、しかも、北海道の最北端に向かって北上するという、無謀な計画。私は「由美香」「流れ者図鑑」を見逃してしまって、平野監督が夏の北海道を描いたそれらは知らないのだけど、やはり北海道は冬でなければその真価を発揮しないんである。冬の北海道は、壮絶で、美しく、凄まじい。とかいいつつ、北海道の人間は、内地(本州)の人より寒さに弱いと思う。東京に出てきた北海道の人間は、東京は風が冷たくて、北海道より寒いわ〜なんて言ったりもするんだけど、別に風のせいではなく、北海道にいると、そんな外に長くいようなんてしないからだ。ゴーッとばかりに豪快なストーブで(本作で、凍りついた自転車を溶かすために、ガソリンスタンドで出てきましたね。懐かしかった。体育館なんかはあのさらに巨大なやつであっためるんだな)完璧にあっためて中に閉じこもってしまう。まさしく熊の冬ごもりである。冬の北海道を自転車で縦断しようなんて、北海道の人は絶対に考えない。内地の人は変わってるわ、なんて言いつつ、しかしそれを敢行した平野監督の方がよっぽど、本当の北海道を身をもって理解したんだろうな、とも思える。
旅の中盤までは、平野監督は余裕こいてるというか、見送りに来てくれた女の子達のことを思い返したりして、参ったなあ、モテちゃって、もう、帰ってきたら、セックスしてくれる女の子たくさんいるなあ、なんて御満悦だったり、テントの中で寂しくなると女の子と自分を交互に一人芝居したり、仙台で思いがけず盲腸で入院するはめになった時も、表面上はショックな表情を浮かべるものの、これはオイシイぞと思っている様子も伺える。しかしそれが一変する時がやってくる。
旭川のドライブイン?で、夏の旅行の時にいた猫が「自分の死期をさとって、ある吹雪の日、裏山に振り返り振り返り消えて行った」話を聞いた夜、テントの中でその猫、チビのことを思う平野監督の表情が……。今まで、テントの中では比較的悲喜双方向ではしゃいでいるというか、“演じて”いる感覚が感じられていたのが、このあたりから本当の、本気の表情に見えてくる。そしてその二日後、塩狩峠で「長野政雄さんをしのぶ会」に偶然出席することとなる監督。誰じゃいそれ、と思うと解説が入り、なんでも90年前に列車事故があった時、自分の命を投げ捨てて乗客を救出した人物なのだという。初めて知った。雪の中、ろうそくを点して、その長野さんを悼んで讃美歌を歌う。その讃美歌が、その後、白い白い猛吹雪の中を疾走する監督の姿にずっと重なって流れていく。考えざるをえない死の感覚、死生感。そしてこの時から、監督は一言も発さなくなってしまう。聞えるのはゴウゴウと音を立てる吹雪の音、そして監督のぜいぜいとあえぐ息づかい、時折あげる雄叫び。現在どこにいるかなどの状況説明とユーモラスな演出のために使われていた字幕も一切出なくなり、ただ映るのは、ひたすら死の影を振り払うようにしてこぎ続ける監督の姿だけ。
冒頭、出発点だった故郷の砂丘に、昔の冒険家にならってか、自分の墓(十字架)を立てるも、結局それを蹴り倒す場面が出てくる。冬の北海道で死にそうに大変な目にあうことを予測してのパフォーマンスとも言えるが、こうした感情的な面での死の意識にとらえられることまでは予測していただろうか。しかし、言葉を失ってからの本作は、逆に映画の言葉を身につけていったと思う。それまで折々現れていた、夕日の中のシルエットにたたずむ監督、なんていう、あからさまなイメージショットも排除され(というか、そんなものを撮る余裕も失われたという、つまりはより真実性に近づいて行ったということか)、自転車はガチガチに凍りつき、それを丁寧にケアしながら猛吹雪に突入していく監督の姿とその過酷な気候は、壮絶な美しさ。時折風が止み、ただまっすぐに雪が降りてくる時、一切の音が、消える。雪はすべての音を消し去ってしまうのだ、ほんとに。
平野監督は何かというとセックスの妄想を夢見たり、旅館のカワイイ女の子に恋したりする、そのときのちょっとバカ入った可愛らしいともいえる明るさは確かに彼の常態なのだが、その死の空気、神聖ではあるけれどセックスや恋のように、そこからなにものをも生み出さない事態になった時、それは確かに不毛な状況なのだけど、でも、監督は常態の時よりもずっとイイのだ。男というより人間になってる、そんな感じ。
それまでもそうだったけど、彼の回りに死の空気が満ち満ちてからは特に、彼が一人なんだと、たった一人でいるんだということがしんしんと伝わってくる。テレビ番組みたいに(平野監督はモロに番組名出してたけど)親切ないい人に出会ったりなんてほとんどない。友達になるのは犬だけ。犬と夕暮れまでじゃれあっている監督は楽しそうだけど、楽しそうだから、淋しい。淋しくてたまらない。
ほとんど何も喋らずに、大きな瞳を見開いて監督を見つめているハニー=奥さんの存在感が素敵だなあ……夫である監督のことを“平野さん”と呼び、女の子とやたらセックスしたがる彼のことを“だんだん慣れてきた”などとナレーションするやわらかなタフさが好きだ!
そしてこのJAZZY!な音楽のカッコ良さ。荒涼とした画面に印象的に響き渡る。黒画面に白抜き明朝体のラストクレジットまで。クール!★★★★☆
冒頭、6年ぶりに出所した黒田(赤井英和)を隠しカメラが追う。どこか80年代的な、なんだかしっくりきてないおおぶりのジャケットがひときわ目を引く。6年ぶりのシャバの味、たばこの次は「ラーメン屋でビール1杯」などと推測するカメラのこちら側の会話をあっさり裏切り、なんとチョコレートパフェを大口開けて食べる黒田!久しぶりに組にもどってみたら“バブルがはじけて”自分のいたヤクザの組が株式会社の体をなしていて呆然とする黒田。“バブルがはじけた”と言う意味が今一つ判らず、ソープ嬢に風呂場でマッサージされて自分の××××を見下ろし、「バブルがはじけよった」なんて言っちゃうんだから!
その二階堂組が経営するケーブルテレビのスタジオで、くだんのカメラのこちら側、ディレクターの蘭子(つみきみほ)が登場。彼女は久しぶりにスクリーンで見る。小柄ながら凛としたたたずまいと、独特の発声がやはり個性的。実は酒に弱い黒田が、ちょっとの酒でことごとくぶっ倒れるシーンが非常に可笑しい!特に、高級料理店から親分、もとい社長を部下達で送り出した後、あのヤクザ特有の曲げた膝に手を置いて腰をかがめた姿勢から動かない黒田、どうしたのかと声をかけられるとその姿勢のまま口から直下型に×××!しかも、(下の画面が切られてるからおそらくだけど)その××の上にやはりその姿勢のまま頭を突っ込んでぶっ倒れるシーンは、画面に突き出したお尻もあいまって、最高に可笑しい。原作があるみたいだけど、まるで赤井英和に当て書きしたよう、いざという時はすご味があるんだけど、根本的には圧倒的にチャーミングなヤクザ。赤井英和もまた関西だから、ケーブルテレビのキャスター、ダーク荒巻役の山本竜二とともになにわのしゃべりは絶品。
“ヤクザが経営するケーブルテレビ”に挑戦して次々と銃撃事件が起こる中、犯人に疑われるバーのマスター、宮島として登場する永島敏行。ちっとも客をもてなす気がなく、なぜか編み物を黙々としている(しかも自己流で!)。最後の犯行予告に、球場のど真ん中に社長を座らせ、犯人を待ち受けるクライマックス、銃撃犯に便乗して、かつての大親分が能無しの社長を殺してしまうのだけど、それはあくまで暗示にとどめてはっきりと明かされることはない。ただ、犯人の弾数より一発多く発射されるだけ。警官のコスプレをした犯人から社長を守ろうとダッシュする黒田のスローモーション、どこからか発射された弾丸が、社長の頭に命中し、かつらが吹っ飛ばされる!この時にいたって、いつものつんつるりんの頭の麿赤兒が表れ、笑っちゃいけないと思いつつ笑ってしまう。
黒田が宮島を犯人ではないと直感した理由がラストで明かされるのだけど、これがなかなか泣かせるんだ。八百長疑惑で球界を追われたことで、その裏で糸を引いていたヤクザを恨んでいると疑われた宮島を、黒田は高校野球の決勝戦の時に真っ向勝負をした彼がそんなことをするはずがない、と語る。この辺は悔しいけどやっぱり男の世界、男の友情で、女が入る余地がない。リフレインされるハードボイルド調の(でもこれもどこか80年代的だな)テーマ音楽がカッコいい。★★★☆☆
そう、うわさには聞いていたけど、「スピード」の元ネタ的映画だってのはほんとだったのね!スピードを落とすと爆発してしまう爆弾を仕掛けられたため、止まることが出来ない新幹線からいかにして爆弾を取り外すか。犯人グループの主犯に高倉健、そして警察、国鉄(当時)。指令塔に警察と国鉄が入り乱れて混乱するところがスリリング。当時、国の威信をかけていたようなところのあるであろう新幹線が、走る爆弾になる恐怖、自動制御装置が逆に首を絞めることになるジレンマに汗びっしょりになりながら何とか冷静を保ち、運転手にギリギリの作戦を伝える宇津井健が驚きのカッコよさ。宇津井健がカッコいいなんて!と言ったら失礼なんだけど……この人ほどこの手の制服が似合う人もおられまい。無知で冷血な警察からの圧力に苦しみながらも、各新幹線の走行状態をにらみ、秒刻みでスピードの加減を指示する彼は主演といっていいほどの出ずっぱり&熱演である。心ならずも主犯の男(高倉健)をワナにはめるのに荷担してしまったことに対して、そしてなによりも、もう一つ爆弾が仕掛けられている可能性があるにもかかわらず、警察からの圧力に追いつめられて停車命令を出してしまったことに「1500人を殺したも同然なんだ」と辞職を決意する宇津井健の、こらえた涙を必死にこぼすまいとしている固い表情がまた素晴らしいのだ。
ほんとに爆弾除去作業のスリリングさといったらなかった。そこに至るまでの焦燥感……爆弾の位置を示した図面が受け渡し場所の喫茶店の火事で焼失したり……もすごかったが。いったん手にしたコードを風に吹き飛ばされて、救助車が並走して、爆弾を取り出すために車内の鉄板を焼き切るガス・バーナーを手渡すことになる。二つの線路に挟まれたところに標示計みたいな“障害物”があって、それにぶつかるまでのカウントダウンとそれが吹っ飛ばされる描写などなど、とにかく手に汗握るどころか、全身汗びっしょりになりそうな程の緊迫感。絶えずゴーッという轟音がとどろき、様々なアングルからとらえた新幹線の走行姿がとにかく迫力で、それだけで見ごたえ十分なのだ。
犯人グループがわにやたら湿った事情があるあたりが日本映画らしいところなのだが、その見せかたが走る新幹線と平行して細切れに挿入されるのが面白く、物語の緩急が絶妙である。最後まで健さんと行動を共にする男(おそらく山本圭)が独特の穏やかさをもっていて印象的。しかし彼もまた追いつめられてダイナマイトを抱きしめて自死してしまう。孤立無援になる健さん。この人には孤独がよく似合う。空港で追いつめられた健さんが、音を消された後ろ姿のスローモーション、しかも青みがかったショットで射殺され大きく手を広げてのたうち倒れていく(であろうと思われる……その直前でカットされている)ラストシーン、これがまた泣かせる。★★★☆☆
主人公は言わずと知れた市川雷蔵なのだけどね(そりゃそうだ、市川雷蔵映画祭だもの!)。近藤勇にホレて新撰組に入団する山崎蒸。えっ、何か、若い!?いや、でも前に観た「眠狂四郎無頼剣」のたった三年前なのに、でもあの作品にも出ていた藤村志保も、ここではなぜゆえこんなに顔がパンパンなのだあ?ま、とにかく、ここでの市川雷蔵は若く、血気盛んで、ひたすら正義に燃える剣の立つ男。恋人(藤村志保)は医者で、確固たるものを持っている彼女に対して自分は……という思いにさいなまれている時に(この時代にこんな設定を持ってくるとは!)、信じられる男、近藤勇に会う。……そうした意味で、山崎もまた近藤にホレているわけだけど、土方の入れ込み方にはかなわないわけで。だって、山崎は近藤の人というよりその正義に惹かれているわけだもの。土方は、完全に近藤の“男”の部分にホレている。これは雲泥の差。
近藤のために汚いこともいとわない土方に対し、憤り、近藤に詰め寄る山崎。近藤は確かに正義の人だけれど、それだけでは世の中を変えられないことをも知っている。土方、山崎はまるで右翼、左翼のように正反対で、それぞれが絶対に曲げない信念を持っているのだから始末におえない。近藤の苦しみはまさしく中間管理職のそれですな。山崎は久しぶりに恋人に会う。彼女は一目見て、彼の悩みを見抜き、新撰組など抜けてしまえという。そこに忍びのものが入ってきて、二人を襲う。その男を斬ってしまう山崎。その後二人はつかの間一緒に暮らし、一見幸せにそのまま続いていくように思えるのだけど、多分山崎の中にこの男を斬った時にすでにぷつりと切れたものがあったのだと思う。別れの置き手紙を残し、再び新撰組に戻ってしまう。
しかしさあ、この男を斬った後に、返り血を浴びた山崎と恋人は、その死体のある部屋で契りあっちゃうわけよ。もちろん、二人で抱き合って倒れ込むだけであとは暗示だけど。おいおい、そーいう状況で、その場所でそりゃないだろう!?血で興奮するなんて、なにかマニアックだぞ、お二人さん……ま、血はセクシャルなものを想起させるけどさ。
新撰組存続のために、敵(どーいう敵なのかよく判らん)をせん滅させるため、奔走する組のものたち。ここで、実に楽しそうに捕らえた敵をゴーモンする土方がよろし。山崎は敵のアジトを突き止めるも、ゴーモンによって自白した敵の証言は違う。山崎を信じる近藤以下五人と、土方以下20人がそれぞれの場所に別れて攻め入る。山崎の言が正しく、後から合流した土方は山崎を仲間と認めるわけだけど、ここでの、そして勝ち名乗りを上げた新撰組が往来を行進していく時に見せる山崎の複雑な顔ったらない。彼もまた、土方と同様に、正義だけでは渡れない世界に足を踏み入れてしまったから。そしてそれを仕方ないと思えるようになってしまったから。彼を見つめて往来にいる恋人を見つけてハッとするも、すっと正面を向き直す山崎は、きれいな信念だけで仕事をしている恋人のもとには戻れないのだ。遠ざかっていく山崎を追うことをやめて往来に立ち尽くす彼女の顔のアップでカットアウト。チャンバラ娯楽作なのにやけに苦い幕ひき。★★★★☆
悪夢が去った後、気がふれた妹を残し、兄は刀を片手に復讐に向かう。妹を犯した男達を手始めに。面白いのはこの男達が、訪ねる先で必ず女と交情しているということなのだ。農作業の合間に小高い丘で、家の中で、背の高い麦が生えた畑で。それも実に滑稽なセックスにふける男と女。そこに背後から忍び寄る兄は、縛られた時のままの。汚れた白いシャツをはだけさせ、細身の黒のズボンをはいて、振り乱した天パがかった長髪を振り乱し、その下から殺気みなぎる眼光がのぞき、恐ろしいほどの魅力をたたえている。殺人を犯すたびに返り血を浴び、川で水を浴びる彼はますますもってカリスマ性とでもいいたい吸引力で私の目を釘付けにしてしまった!彼に殺されていく人たちのなんと滑稽で、くだらない人間に見えることか!「仕方なかった、みんなで決めたことだから」と言い訳にもならない言い訳をし、女は女で「許してやって」と懇願するという情けなさ。最初に殺される男女は、女の方がやけに巨乳で、そこに刀を突き立てられる。豊かな胸にどくどく流れる血の黒さ(モノクロだから)が生々しい。兄が白いシャツからストライプのシャツに着替えてしまったのがちょっと残念だったな……あのはだけた白いシャツ、恐ろしく美しかったのに。
一度家に帰ると、気がふれた妹が自分のことすら判らなくなっていることが判り、悔し泣きする兄。そこに二人を偽装自殺にするために村人たちがやってくる。性懲りもなく再び妹を襲おうとした男を叩きのめしたことで、兄だということを認識する妹。固く抱き合う彼らの姿に涙しかけたのもつかの間、レイプされた自分を恥じたのだろう、台所に走り去り、包丁で喉をつく妹!なぜ?なぜ死ななきゃならないの!と心の中で叫びつつ、でも、……そう、妹の気持ちが痛いほどに判ってしまう!自分の胸の中でこときれる妹を抱きながら慟哭する兄。
その後のシーンがたまらない。妹のなきがらと一緒に風呂に入り、きれいに体を洗ってやる兄。妹を床に寝かせ、白ふんどし一丁になった兄が妹にせつせつと呼びかけるシーンは泣ける……(ここだけなぜかカラーになるのは……?)。ここにいたるくだりで、川で水遊びに興じている二人を「親子どんぶりと言うのは聞いたことがあるが、兄妹でもか?」とからかわれる場面があり、二人はそういう関係には陥っていなかったと思うけど、心の中では兄妹以上の気持ちを持っていたのではないのか……と思わせるくらいこのシーンは禁欲的ながら愛の美しさにあふれ、そしてそれを示唆するように妹にそっと接吻する兄の姿が映し出される。しかしそれは、そこからはじまる本格的な兄の復讐の儀式だったのかもしれない。ここからの殺戮シーンが本当にすさまじいのだもの……。
その白ふんどし一つの姿の兄、ひょろりと背が高く、やせぎすのその姿はストイックで、それ自体が鋭利な刃物を連想させる。彼の持っている刀の方が切れ味が悪そうで、それが肉に突き刺さる様は力が入り、血も、吹き出さずにじわじわと流れ出すのだ。音が、消される。消されるというか、壊れたラジオのようにぶつぶつという音は聞こえるのだけど、そこでこれから殺されることを知らずに談笑して歩いている人々の会話は聞き取れない。ざわざわした胸騒ぎ。と、兄がまだ田植えしたての水がたたえられた水田に一人の男を斬り付けるところから唐突に音声が復活する。そこからは兄の「死ね、死ねえ!」という悲痛な叫びと、殺される人々の、言葉にならない、擬音にすら示しにくい悲鳴が繰り返されるだけ。山に囲まれた閉塞間と、陽光が影さえも照らし出すような白昼の明るさとのギャップの下で繰り広げられる皆殺しの物語……うー……トラウマになりそうな映画だ……。★★★★★
「し」作品名一覧へ | homeへ |