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「お」


2000年鑑賞作品

OLの愛汁 ラブジュース
1999年 分 日本 カラー
監督:田尻裕司 脚本:武田浩介
撮影:飯岡聖英 音楽:
出演:久保田あづみ 佐藤幹雄 林由美香 澤山雄次


2000/8/11/金 劇場(銀座シネパトス/レイト)
ヒロインは私とほぼ同い年。そしてヒロインの友人とともに、この年頃になると感じてくる何とも言えない世間的な重圧感や焦燥感。純粋に見えたはずの年下の男の子との恋愛の軌道がじりじりとはずれていくさま……彼は年など関係ないと言うし、私も、そして劇中のヒロインも多分この子と同じくらいの年の頃は同じように考えていたのだろうけど、そうはいかないのだ。自分という核は変わらないと思いながらも、年齢によって明らかに変わってくるものが確かにあること。それはヒロインとは逆パターンの年齢差である友人の恋愛の破綻にも言える。彼女らの恋愛は、見ずに過ごせばそのままうまくいったかもしれないものを、でもどうしても見過ごせなくて、自ら崩壊させてしまった。

冒頭、ヒロインの友美(久保田あづみ)が6年間つきあった恋人にいきなりふられるところから始まる。「正直マンネリ気味だったけど、みんなこんなものだと思っていたし、このまま行くのだろうとぼんやり思っていた」という友美のモノローグが聞こえてくる。この作品は彼女のモノローグがかなり印象的。説明的にならず、彼女の心情の変化がしんしん伝わってくる。このまま行く、とは彼女の年ごろからして結婚まで行く、ということだろう。劇中の彼女の台詞にもあるが何度となく挿入されるノートパソコンを黙々と叩く彼女の仕事する姿からは、やりたい仕事をやっているという感じはない。ただなんとなくここまで来てしまった、という気持ちがありありである。

こんな感じだから、友美はふられても涙も出ない。「今は彼女の方が……」と連れて来た女の方が泣き出してしらけてしまうくらいである。友美は終電の中で居眠りをして寄りかかってきた男の子を振り払えずに駅を乗り過ごしてしまう。その子は若々しくて可愛くて、つい友美はその唇に自分の唇を重ねてしまう。そのみずみずしい描写!そして電車は終点の駅にすべりこむ。目を覚ます男の子。弾かれたように電車を飛び出す友美を追いかけてくるその子と友美は関係を持ってしまう。

それからその8歳年下の男の子、タカオとつきあうようになる友美。つきあうといっても、彼が友美の部屋に日参してセックスを繰り返すだけの関係。それでもお互いに言葉を重ね、身体を重ねていく二人の気持ちは高まっていく。いや、友美は高まっていたけれど、実際のところタカオはどうだったのだろうか?

芸術系の専門学校に通い、日々カメラを持ち歩いて写真を撮っているというタカオ。「すごいね、これみんな友達なの?」「撮ってくれってうるさいから撮るだけ。そういうの断ると面倒じゃん」「この中に元彼女がいたりして」「何にもなかったとは言わないけどさ、つきあってられないよ。“私は山田花子の気持ちが判る”なんて熱弁ふるっちゃうんだぜ」ここで言う山田花子とは、あの自殺した漫画家のこと。彼の気持ちも判らないではないけど、重たいものを嫌う、若者のある一タイプの典型であるタカオに次第に危なっかしさを感じていく。「思い出とか形に残すの、マジでヤなんだよ」と友美がタカオの写真を欲しがるのを拒絶し、友達の写真もアッサリ捨てる。それを複雑な顔で見つめる友美。それはいつか自分もこんな風にカンタンに見捨てられると予感してしまうからだ。若い彼ならば、また次、と考えることも出来る。けれども……。

「セックスをしている時のタカオの泣き出しそうな顔が可愛くて、私は彼を抱きしめてしまう」とタカオに入れ込んでいく友美。まるで同じ繰り返しの仕事にも、その表情が明るく変わっていく。しかしそんな風に、セックスの時に女の子のようにヨガるタカオが、なんだかどこか自分一番主義なだけのようにも感じてくる。それはでも逆に、どちらかというと受け身のことが多い女性が、そうであるとも言えるのだけれど。そんな彼を喜ばせてあげたいと、感心するくらいさまざまな方法を駆使して愛撫する友美と、「仕返し!」と言って彼女に乗りかかるタカオ。しかしその幸せなセックスも回を重ねるごとにだんだんと意味が変容してくる。

タカオは最初に会った時から、自分のかばんの中にいつもコンドームを常備していて、まるでこれは性教育のビデオかと思うほどに、セックスシーンの度に彼が自分で装着する場面がきっちり差し挟まれるのがなんとなくユーモラスに感じられる。しかしだんだんとコンドームをつけるという行為自体が、彼が友美から距離を持ち続けていることのように思えてくる。慣れた手つきでどこか事務的にコンドームをつけるタカオの姿に愛は感じられない、と思えてくるのだ。彼がある日そのコンドームを持ち合わせていなくて、友美が「いいよ、出して。もうすぐ来るし」と言うのだけれど、絶頂に来た時、タカオは突然友美から身体を離して(ハッとする友美の一瞬の表情が印象的)結局外に出してしまう。「やっぱ、こえーし」何とも言えない哀しそうな友美。彼の言うことは判る。しかし……。

タカオは「こんな気持ちになったの初めてだから」などという殺し文句を発するものの、「好きだ」という言葉はあまり言わない。友美がセックスのオーガズムの中で「好きよ」と切なげに繰り返すのに「俺も」と返すだけである。「……いつもそれなんだから」とごちる友美。人と距離を持ち、決定的な関係を形作るのを恐れているかのようなタカオも哀れだけれど……。

友人から恋人と別れた話を聞かされる友美。「私の部屋にきても、絶対にあの人、12時には帰るんだよね。もうあの人を見送ってるの、疲れたんだ」彼女が恋人を見送った後、しばし座り込んでからつと立ち上がって洗い物をするシーンが思い返されてくる。「私も失恋した時話聞いてもらうから」「失恋しそうもないやつに言われたくないよ」泣き笑いする友人。友美が帰ると、駅でタカオが待っている。「飲んできたの」「友達とね。……女の子よ」「どうだっていいよ、そんなの」この言葉が、積もり積もってきた友美の気持ちを突き崩してしまう。「どうしてよ」「どうでもいいことじゃん、俺そういうの、気にしないから」思わずタカオを階段から突き飛ばしてしまう友美。……いつのものように自分の部屋にタカオを招き入れていつものようにセックスするものの、その日を最後にタカオはふつりと来なくなってしまう。

タカオの言葉はクールで何だかもっともらしく聞こえる一方で、しかし実はとても空虚なものだ。友美が可愛いと感じていた部分だって、容易に未熟と言いかえられてしまう。未来のある彼には、年齢を重ねるごとに希望を失っていく気持ちなど判りたくもないんだろうし、友美の半ば自虐的な言葉を優しく受け止めるだけのキャパシティをまだまだ持ち合わせていないのだ。

モノローグやセリフがとにかく魅力的。女性としての年齢としてもう後戻りの出来ない友美の言葉は切実感を持って響いてくるし、タカオの言葉は一見カッコイイけれど空虚で意味がない。言葉の双方の意味あいがひどく対照的で、それが友美の淋しさややりきれなさをより一層あおってくる。

タカオと出会った時のように、電車の中で今度は友美が隣の男性にもたれかかって寝入ってしまっているラスト、終点だと思ってふと目を覚ますと、線が延長されて終点が数個先の駅になっている。「やっぱり私はついているのかもしれない」という友美のモノローグと再び目を閉じる彼女のアップでエンディング。……今度は本物の愛をつかんで欲しい。

効果的に使われている椎名林檎の「ここでキスして」が非常に印象的。★★★★☆


オータム・イン・ニューヨークAUTUMN IN NEW YORK
2000年 107分 アメリカ カラー
監督:ジョアン・チェン 脚本:アリソン・バーネット
撮影:クー・チャンウェイ 音楽:キャロル・オーディッツ
出演:リチャード・ギア/ウィノナ・ライダー/アンソニー・ラパグリア/エレイン・ストリッチ/ヴェラ・ファミーガ/シェリー・ストリングフィールド

2000/10/2/月 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
うーん、かなり期待外れだった、と言わざるを得ないなあ。もう号泣するくらいの悲恋ものを期待したからさあ。「この映画がラブ・ストーリーの歴史を変える。」なんていう宣伝惹句もそれぐらいの期待を抱かせるものだったし。秋のニューヨークは確かに美しいし、その中をそぞろ歩くリチャード・ギア&ウィノナ・ライダーはその年の差さえ画になるくらい(巷で言われているように年の差を感じない、とはいくらなんでも思わない)美しい二人だが、ただそれだけなんだもん。大体、いくら若く見えるからって、もう28歳のウィノナが22歳の、しかも男性経験のないウブな女の子を演じるなんてムリがあるんじゃないのお?いや、見た目的には全然ムリはないんだけど、やっぱりこっちはウィノナが22歳な訳ない、って知ってるからさあ……でもどうやら、「17歳のカルテ」ではもっと凄まじくサバ読んでるらしいし、向こうには10代、あるいは20代前半のイイ女優はいないのかあ?

見つめられただけで頬を染めるようなシャーロット(ウィノナ・ライダー)が、しかしウィル(リチャード・ギア)とデートしてキスし、ベッドインするまでは驚くほどにあっという間である。まあ、それに関しちゃ突っ込むまい、アメリカなんだから。そんでまあ、また驚くほどにあっという間に親密になり、愛だなんだと論じはじめる。まあアメリカなんだから……とまたしても思いつつ、だんだんとうんざりしてくる。プレイボーイの中年男と、はかない命のうら若き女の運命の恋。これが逆の年齢差だったら、絶対成り立たない話なんだろうなあ、と思うと(「ぼくの美しい人だから」「パンチライン」くらいか、でもこれほど年齢は離れてなかった気がする)、さらに腹が立ってくる。別に、48歳の女と22歳の男のラブ・ストーリーを見たいと思ってるわけじゃないけど、そろそろこういう、いかにも“男の夢”みたいな組み合せはやめて欲しいもんだ。やっぱりこのあたりはまだまだハリウッド、いや全世界的に男性優位なのよねー。

まあでも実際画になっちゃうし、これで映画としてイイものだったら、別に文句は出ないのだが、これがねえ。この作品ならでは!というのが何にもないまま、予想の域を何ら出ないまま、終わっちゃうんだもん。女の命がだんだんと削られていって、それに伴ってプレイボーイの男は真実の愛に目覚め、しかしあらゆる手を尽くしたにもかかわらず、女は永遠の眠りについてしまうという……。しかし訳判らんことに、この男、ラストシーンでは、(シャーロットの手術をする医者を探し出したとはいえ)彼女とは何の面識もない昔の女、しかも自分がはらませたその女と、生まれた子供を抱いて、幸せそうにボートに乗ってるんだから理解不可能である。セリフの中ではこの女性は結婚したらしいんだし(確か……違ったかな)、別にヨリを戻したってわけでもなさそうなんだが、それにしてもこのラストは何を言いたいんだが本気で判らない。(記憶違いでした。※後述)

シャーロットとの思い出は永遠に抱きつつも、彼自身は自分の血を引く息子を次世代に残し、幸せを見出した、とでも言いたいのだろうか?それならそれでもいいけれど、このシーンにはこの映画の主題たる、ウィルとシャーロットの“真実の愛”(ホントか?)のカケラも見当たらず、やっぱり釈然としない。しかし、自分の子供だって判っていながら、妊娠を告げに来た昔の女に「(子供が出来て)おめでとう」なんて言うなんて、理解に苦しむ。しかも、私の記憶違いじゃなく、ホントに彼女が別の人と結婚したんなら、なおさらではないか?(ほんとに記憶違いでした。※後述)

劇中で、ウィルが男の本能に負けてこれまた別の昔の女とセックスしてしまい、シャーロットとの仲が危うくなってしまいそうになる。セックスと愛は不可分のものであると信じて止まないまさしく“女”であるシャーロットと、愛が介在しないセックスも存在することを人生(男性的本能としての?)経験上知っているまさしく“男”であるウィルの違いを良く伝えているエピソードだが、監督が女性だからなのか、完全に女性の意識の側に立っていて、ウィルがなぜセックスの欲望を断てなかったのか、どういう具合にその誘いに乗ってしまったのか、という辺りがバッサリと切られてしまっている。ただ、シャーロットの“女の勘”ってやつでその裏切りが暴かれるだけで、観客であるこちらがわはシャーロットがどうやってその匂いをかぎつけたのか首をひねってしまうほどである。

ま、その場面を描くと、この映画のカラーには似合わず、エグくなってしまう、という判断だったのかもしれないが、ただ、これでは、男性的視点の映画を反面教師にしてきたはずの女性演出の映画が、まるで同じことをしていると言われたって仕方のないことだ(しかも脚本も女性じゃないか、しっかりしろよお)。ウィルの行為は確かに許されざるものだが、男性がなぜこうした行為に陥ってしまうのか、そしてそれをお互いがどう受け止め、理解しあえるのか、という部分が全く無いのには、女としての傲慢を感じてしまう。男は平謝りに謝り、女はそれを受け入れて“愛のある”セックスをし、仲直りをするなんて、ちょっとおざなりすぎやしないか?しかもそのセックス場面は、ガラス越しに妙にロマンティックに描かれたりして……うー。

紅葉が光り輝くばかりに美しいセントラルパークをそぞろ歩く二人、でもその場面は「恋人たちの予感」「誰かがあなたを愛してる」(大好き!同じ女性監督でもこうも違う!)をはじめ、あらゆる映画(あるいはドラマ、CM、写真集等)でよく見る画であり、この映画が胸にしみるラブ・ストーリーでない以上、平凡な絵葉書の写真のようにしか感じられないのである。いつまでも若いと思っていたリチャード・ギアも、頭を上から見ると地肌が見えて、ああ……。

※感想文UP後、またしても指摘されちゃいました。あの女性はウィルが昔捨てた女が生んだ子供なんだそうで……一体どーゆー記憶違いか勘違いか、まあ、大変失礼致しました。お恥ずかしい。そりゃいくらなんでもそうだわなあ。
★☆☆☆☆


オーディション
2000年 115分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:天願大介
撮影:山本英夫 音楽:遠藤浩二
出演:石橋凌 椎名英姫 國村隼 松田美由紀 根岸季衣 沢木哲 石橋蓮司 斉木しげる 光石研 大杉漣

2000/3/29/水 劇場(渋谷シネパレス)
三池監督という人は、全く自分のスタイルというものを持たない人なんだから驚いてしまう。作るたびにそのカラーをガラリと変えて、でもその根底にあるのはしっかりエンタテインメントであり、とにかく理屈抜きに「……面白かったー!」と思わせる、強力にねじ伏せる力なんである。今回は原作小説の映画化ということで、この村上龍の小説は未読なのだけれど、どうやらかなり映画と小説は違うものになっているらしい。脚本家が別にいるのでその時点で違ってきているわけだけど、でもやはりその違いは、三池監督の“ねじ伏せ”にあると思う。「DEAD OR ALIVE 犯罪者」はもう全編力づくでねじ伏せまくりという感じだったが、今回はこれが同じ監督の作品か!と驚くほど、静かに静かに、じわじわとねじ伏せてくる。

“オーディション”という語感からくる華やかなイメージをしっかり裏切ってくれる、恐ろしくコワイ物語。7年前、妻に先立たれたやもめの中年男、青山が、高校生の一人息子に「親父最近しょぼくれてんじゃん、再婚でもしてみれば」と言われたことからコトは始まる。「ガキは困る。ピアノやバレエなんかでしっかり訓練されている女がいい。この歳になって失敗はしたくない。しっかり観察して決めたい」と、青山は親友の吉川に相談すると、「俺にいい考えがある」と吉川は映画のヒロインオーディションを、その映画製作の成立はダメモトで企画するのだ。

そしてオーディション。青山と吉川の二人が次々と女を面接する。20代初めから30代はじめのたくさんの女たち。女優以外は考えられないとタカビーな態度で言い放つ女、尊敬する女優は森光子だと言う女、突然脱ぎ出す女、バトントワラーをしだす女……面接官側も負けてはいない。といってももっぱら吉川ばかりが質問しているのだが、しまいには「風俗で働くことをどう思う?」なんていう、およそ関係ない質問までをもしかけてくる。その矢継ぎ早に畳み掛ける質問と答えのカットバックの応酬は、表情豊かな吉川役の國村隼と、黙って聞いているばかりながらも、思わず苦笑をもらしたりする青山役の石橋凌の表情もあいまって非常にワクワクしてしまう。

……ところでこの場面、吉川が「×××は知ってる?」となんて言っているのか聞き取れなかったのだけどそれに答えて「大杉漣!」と女が答え、青山と吉川が顔を見合わせて思わず吹き出すシークエンスがあり、あれは一体なんて言っていたのか、非常に気になる!大杉漣といえば、ラストクレジットで名前があって、えええ!?ちょっと待ってちょっと待って、漣さん、どこに出てたあ??とすごくビックリしたのだけど、その役というのが……!!

履歴書に添付された作文を読んだ時からもう彼女と決めていた山崎麻美が現れると、今まで黙っていた青山が、まるで恋の熱に浮かされた少年のように彼女に語り掛ける。驚いて、覗き込むようにいろんな角度から青山を見つめる吉川が笑える!オーディション終了後、もう他の女など目に入らないようになっている青山を危惧して、吉川が言う。「じっくり観察するって言ってたじゃないか。俺はどうもあの女が気になるんだ。焦るなよ」しかし青山はガマンできず、その夜、麻美と連絡をとってしまうのだ。

オーディション前、吉川が「書類審査は通って、二次で落とされる、そういう所に掘り出し物がいるんだよ」と言う。「何でそんな女がそこで落とされるんだ?」といぶかる青山に「不幸じゃないからさ。女優なんてのは不幸な女に向いてるもんだ」と吉川は返す。この会話の伏線があってこその「あの女が気になる」である。最終的に麻美は、これ以上ないくらいの不幸な過去を持つ女だったわけで、吉川がかぎつけたのは、そうした女優の資質を持つ彼女だったのかもしれない。吉川は独自に彼女の身辺を探るが、彼女を知っているという人に誰一人として会うことが出来ない。一方青山は楚々として可憐な麻美の言うことを一から十まで信じ込み、何一つ確かめようなどとはしない。

この作品は、青山と同時に観ている観客までをも騙そうとはしていない。一人へたり込んでいるざんばら髪の麻美、その部屋にある奇妙にうごめく袋、アナクロなダイヤル式の黒電話、それらが点在する、すさんだ狭い部屋……青山からの電話のベルに唇の端をきゅっと上げる麻美が映し出され、この女が異常者らしいことを最初からつきつけてくるのだ。青山と会うことになった麻美は言う。「こんなこと言うとうっとうしい女だって思われるかもしれませんが、青山さんからの電話、ずっと待ってたんです」彼女の言葉に思わず笑みを浮かべる青山だが、この場面を見させられている観客は、ぞっとしてしまう。……いや、この場面を見ていなくたって、これはコワイ台詞だ。ずっと電話を、しかも部屋で待っている女の図なんて……待っている女ほど怖いものはない。「おしまいの日。」でもそれは痛感している。ある意味ではそれは男性にとっての理想の女性像でもあるのだろうけれど、それが突きつめられた時にこれほどの怖さで迫ってくるということ、それは男性に対する女性の反撃なのかもしれない。

後半、青山を襲うことになる麻美は、彼が息子の重彦に手を出さないでくれと懇願するのを受けて「私はあなたがすべてなのに、あなたは私がすべてじゃない、他に大事なものをいっぱい持ってるのね」と歌うように言う。“待っている女”はイコール、その男のことだけを考えてくれている女だ。それを期待する男の理不尽さをついてくるこの台詞。しかし、逆に女は根本的にこうだという男性側の視点も見え隠れしているようで、ちょっとイヤな感じもする。女は恋愛至上主義で、男を好きになったら、他のものは一切目に入らず、ゆえに社会性など持ち合わせていない、といった……。ちょっと飛躍するかもしれないけど、結婚した女が仕事を続けることが困難なのは、男性側にこうした女性に対するイメージが植え付けられているような気がしてならない。

そして女は、恋愛に狂ったり、不幸にみまわれたり、孤独にさらされたりすると、簡単に狂気に陥ってしまうと思われているらしい。ふと思い返すと、最近の映画(特に日本映画において)で、そうした女性像のなんと多いことか!私はそれほど女が弱いものだとは思えないのだが……まあ、ここでの麻美はそうならざるを得ないほどの目にあってきたわけだけど。幼少時における、性的なものをも含めた暴力に対するトラウマ。そこに登場するのは石橋蓮司!いやらしい笑顔満面で火箸を持って麻美の足を開かせる……はまりすぎだあ。

突然姿を消した麻美を血眼になって探す青山、あの女は危険だと止める吉川の忠告も耳に入らない。しかし彼女を追えば追うほど不可解な事実が判明していく。麻美がバイトしていたという銀座のバーは一年も前に殺人事件があってつぶれ、その現場には殺されたママのバラバラ死体のほかに、指が三本と舌と耳がひとつづつ、多かったのだという。麻美が通っていたバレエスクールは板が打ちつけられて閉鎖されており、そこで一人ピアノを弾いているのがかの石橋蓮司である。「あの女に会ったのか、あの女と寝たのか、あの女の匂いをかいだのか」とガクガクと迫ってくる彼に青山は戦慄し、きびすを返す。

この頃から現実とも幻想ともつかない映像と、神経を逆なでするような雑音がガチャガチャと交錯していく。麻美の部屋にあった袋の中には指と耳と舌、そして両足の先を失った男(大杉漣!)が入っており、彼女に飼われている。彼女は石橋蓮司もその手にかけ、糸状の刃物で彼の首をすっ飛ばしてしまう!そして青山の部屋に忍び込み……。

ああもう、ここからのクライマックスは、本当にちょっと、気絶しそうになってしまうか、吐きそうになってしまうかという、壮絶極まりないもので、もう、観てるだけで、痛い痛い痛い!頼むからやめてくれええええ!クスリで四肢の自由を奪われた青山、しかし痛みだけはしっかりと感じることが出来、麻美は彼の上に乗りかかって細い針をいくつも用意し、胸や、目の下(!)に刺していくのだ。「ここもとても痛いでしょう。痛さは自分がどういう形をしているか一番よくわかるのよ」とあいかわらず楽しげに、歌うように言う。「キリキリキリキリ〜」と軽やかに言いながら針を刺していく彼女の恐ろしいことといったら……しかしこれだけでは終わらない。彼女はあの糸状刃物を取り出して「これはね、骨付き肉でも簡単に切れるのよ」とにこやかに言い、足首の上に巻きつけ、ガシガシと切断していくのだ!!!青山の苦悶の顔や、笑顔満面の麻美の表情はもちろん、その音、骨を切る音のすさまじさに気が遠くなりそうである。片足を切断したところで、彼の息子が帰宅し、この惨劇はようやく終りを告げる……。

石橋凌氏が素敵である。妻に先立たれ、男手ひとつで息子を育ててきた彼、アグレッシブな吉川役の國村氏とは対照的に、常に一歩引いて穏やかに笑みをたたえている。特に麻美にホレてからは、ほとんど恋する少年状態。一歩間違えればただのにやけた男になるところを、魅力的な大人の男のギリギリの線で踏みとどまっている。しかしそのいわば消極的なところが彼の弱点となるわけだが……。

その麻美を演じる椎名英姫は「DOG−FOOD」以来のお目見え。かの作品はデジカメ作品だったため、今一つ彼女のお顔がはっきりと認識できかねていたのだけど、ここで見せるはかなさと危うさ、それがぐいっとひっくり返る恐るべきタフな強さに戦慄。バレエというと(彼女が本当にバレエをやっていたかどうかは知らないけれど)はかない美しさのように思われがちだけど、そのはかなさを演じるための足腰の強さときたら尋常ではないんだよね。考えてみればそれって、前述の、理想の女性を求める男性をあざむくという完璧な象徴ではなかろうか?

それにしても解せないのは、40代の男が再婚するのに、同年代を指定してこないことである。ガキはダメだと言いながら、20代〜30代はじめと限定していて……ま、たしかにガキではないけど、“若い女”なのだよね、確実に。そりゃ、そうでなければこの映画のストーリーは成り立たないけれど、でもこの辺になーんとなく男性の本質的なものを感じてしまうのは私だけなんだろうか。★★★★☆


オール・アバウト・マイ・マザーTODO SOBRE MI MADRE
1999年 101分 スペイン カラー
監督:ペドロ・アルモドバル 脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:アフォンソ・ベアト 音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:セシリア・ロス/マリサ・パレデス/ペネロペ・クルス/カンデラ・ペニャ/アントニア・サン・ファン/ロサ・マリア・サルダ/フェルナンド・フェルナン・ゴメス

2000/5/12/金 劇場(シネセゾン渋谷)
アルモドバル監督がゲイであるという事を今更ながら知る。でもそれに気づいてみると、彼の作品の味わいの秘密がこうもはっきりとこの目に見えてくることか。彼は男であること、女であること双方の素晴らしさとアイデンティティとを同時に、そしてその性差に必要以上にこだわる事の無意味さもまたよく理解しているのだ。ストレートの男性、そして女性が作る映画が、自分の性を乗り越えられない、あるいは乗り越えすぎる(推測しすぎて違和感がある)のとは対照的だ。

三代のエステバンをめぐって母親である女達と、女の心を持つ男の優しい心が交錯していく。その心は愛情であり、友情であり、自我への優しさ。そこには見事なまでに男は登場しない。たった一人、純粋な“男”であるのは、修道女シスター・ロサの父親のみなのだが、彼は娘の顔も判らないほどにボケが進んでしまっている。初代エステバンは父親である事を知らぬまま女になってしまった。そしてエイズに感染し、物語の最後には帰らぬ人となる。まだペニスがついている、乳房のついた“娼婦”アグラードは、実はこの登場人物達の中で一番印象的な存在。それは男としての要素を持つからではなく、“彼女”が(ペニスを取ろうとしない事で判る様に)男としての要素を忘れないがために、娼婦であるにもかかわらず、聖性を最も感じさせる人物だからだ。ずばり言うと、両性具有の“天使”。修道女のシスター・ロサよりも、さらに高い宗教的な位置づけをされているように思うのだ。それを言えば、この女性達の中で、最初に母となっているマヌエラはいわばマリア。夫が“女”となってしまったことで、いわば夫を喪失した彼女には、その上でも充分に資格がある。その同じ彼、今やロラという“女”である初代エステバンとの子供を宿したシスター・ロサは、ならば二代目マリアだ。

二代目エステバンは、母親を愛しながらも、父親の喪失感をずっと感じていた。母親が何も語ろうとしない気持ちを汲んで、黙って彼女を愛情深く見つめ続けてきた。彼が死んでしまい、シスター・ロサの宿した息子が三代目エステバンとなるのは実に象徴的である。二代目エステバンは、マリアが産んだ子なのだからキリスト、そしてそのキリストが一度死に、三代目となって復活するのである。その三代目エステバンは、エイズに感染していながら、それに対する抑制力を持っている。奇跡の力を起こしているのだ。まさしくキリストではないか。

それを考えると、初代エステバンが、夫である事も父親である事も(図らずも)放棄して、“女”になってしまったことも何やら象徴的に思える。“彼”はそのキリストの創造元である、もっともっと混沌とした“何か”なのだ。それを体現するかのように、“彼”はいまだその正体をつかみきれないエイズという病にかかって死んでゆく。

こうして考えると、女はこうした男たちを世に出す存在として機能しているようにも思える。すべての人間が“母親の子供”であるのだからそうなのだが、こうして男が、(キリストが処女マリアを母親としているように)自らのより所を“父親の息子”ではなく“母親の息子”としていることが、よりその感を強くさせる。逆に女は、“息子の母親”としての存在に強く翻弄され、時にはその息子の喪失でみずからを見失いかけもするのだが、女としてというより、人間として人間を創造するたくましさ、誇らしさに光り輝いている。

ならば、と考える。子供を持たない女性はその資格を持たないのか、と。ここで出てくるのが、レズビアンである大女優、ウマ・ロッホだ。彼女はたった一人の女性を愛し、その女性に翻弄され、いつも深く傷ついている。そのウマと合うだろうとピンときた初代マリアたるマヌエラが差し向けるのが、かの“天使”アグラードである。マヌエラがシスター・ロサ亡き後三代目エステバンをつれてひととき姿を消し、二年後彼女らの元に戻ってくる時、愛した女性に裏切られたウマの傍らに、かわらずついているのがアグラードなのだ。そしてそこに帰ってくるマヌエラ。三代目エステバンを囲む彼女らは、全員母親であり、全員彼を見守る天使のようでもある。何でも演じられる女優である彼女が、何でも演じられるからこそ本物をなかなか手に入れられなかった。でも、疑似人生を必死に演じているうちに、それが本物に限りなく近づく事があるのだ。そして、多分女性はみな一様に女優なのである。それにウマは二代目エステバンの死に大きく関わっていたわけだし……。

人を愛することよりも、人から愛されることよりも、こうして自分が存在したあかしとしての愛する人間を残すことが、愛の大きな意味での定義なのかもしれないと思った。そうして人間は鎖の様につながって存在してゆき、延々とその愛を伝えていくのだと。★★★☆☆


沖縄10年戦争
1978年 102分 日本 カラー
監督:松尾昭典 脚本:松本功 大津一郎 志村正浩
撮影:赤塚滋 音楽:鏑木創
出演:松方弘樹 千葉真一 野川由美子 佐藤充 藤田まこと 織田あきら

2000/4/20/木 劇場(新宿昭和館)
おーい、だから私は松方弘樹はあんまり好きでないんだってば!なんでたまに昭和館に行くときに限って松方弘樹ばっかりなんだよお……(番組チェックしてから行けって?ま、そうなんだけどさ)。しかも私の好きな佐藤充は重要なキャラなのに、中盤すっかり姿を消し、後半出てきたと思ったらいきなり撃たれて死んじゃうんだもんなあ……。しかしあのシーン、警察病院から抜け出してきたという設定だったもんだから、薄手のパジャマに上着を羽織った姿だったんだけど、それで撃たれるでしょ、血のりの装着がゴワゴワしてるのが判るんだよねー……あれは興ざめだったなあ。

しかししかし、松方弘樹が一番最初に名前が出てくるにもかかわらず、結構彼は出番も見せ場もそれほどなくって、じゃ、誰がメインかと言うと、これが、千葉ちゃんなんである。佐藤充と千葉真一が兄弟役で、彼らと松方弘樹は子供だった戦争中一緒に生き延びた間柄。おっと言い忘れたけれど舞台は本土復帰直後の沖縄で、彼らは沖縄ヤクザ、本土から進出してくるヤマトヤクザとの腹の探り合いから抗争に至る展開は、沖縄でのロケが禁止され、完成作品も沖縄では上映禁止になったという“呪われた映画”なのだという。難しいウチナンチューも(なぜか松方弘樹以外は)少々ながら操り(当然字幕つき)、結構本格的に沖縄人の世界を描いていく。

敵対するヤマトヤクザはかなり典型的なこずるい関西ヤクザで笑っちゃうほどなのだけど、その中で実は沖縄出身なのだということが後に明かされる藤田まことだけが、佐藤充が信頼を寄せていた誠実な人物。しかし彼の力だけではどうにもならず、ヤマトヤクザに沖縄の利権が吸い上げられていき、その事実を知った佐藤充がその組事務所に乗り込むも、無残に撃ち殺されてしまうのである。どしゃ降りの雨にうたれてずぶぬれになった佐藤充がさらに血まみれになって倒れ、駆け寄った藤田まことの腕の中で絶命する場面はなかなかヨイ。

ヤマトヤクザを利用するといいながら彼らの“犬“としてその実利用される結果となる千葉ちゃんは、最初から徹底して沖縄にこだわり、ヤマトを敵対視する松方弘樹と完全に決裂してしまう。そしてラストシーンは一人小船で海に出奔する千葉ちゃんをライフルで狙いながら撃てず「独りで死にに行け!」と松方弘樹が叫んで終わるんである。なんで死ななきゃならんのだあ。

ちょっと面白かったのは、あの「座布団と幸せを運ぶ」山田隆夫氏が時代を感じさせる厚ぼったいマッシュルームカットの若いチンピラ役で出ていること。しかも彼は実にたっぷりしたスローモーションで銃弾に倒れるという非常にオイシイ役をもらってるんである。良かったねえ。★★★☆☆


おしまいの日。
1999年 119分 日本 カラー
監督:君塚匠 脚本:君塚匠
撮影:前田米造 音楽:佐藤正治
出演:裕木奈江 高橋和也 菜木のり子 金山一彦 岩松了 山村美智子 ミッキー・カーチス 馬渕晴子 鈴木清順

2000/1/18/火 劇場(シネマ・カリテ/レイト)
登場人物の台詞が多くて長い、加えて心の中で言っている台詞もまた多くて長い新井素子氏の小説は、その点で非常に映画化が難しいと思う。この原作はヒロインの日記部分と三人称部分に別れており、やっぱりどっちも多くて長い。それを君塚監督はエッセンスを凝縮して残すように、巧みに選択取捨し、まとめあげた。この脚本の確かさに感嘆する。新井氏の映画化作品の中では一番の出来ではないだろうか(珍しくSFじゃないし……あ、でも最近の素子さんの小説はSFではないのかな)。

二組の夫婦の物語。しかし、主たるのはもっぱらそのうちの一組。さらにいえば、その妻。これはほんとに、ホラーである。怖い。その夫婦とは、三津子(裕木奈江)と忠春(高橋和也)。経済的には、一般的に言うと結構裕福。両隣ひしめき合っている建て売りとはいえ一戸建てにすみ、専業主婦の鏡のような三津子によってピカピカに磨き上げられている白亜の住まい。そう、専業主婦の鏡。三津子にとって結婚生活の形はそれ以外考えられないのだろう。しかし結婚して結構たっているこの二人にまだ子供はいなく、彼女はひたすら家の中で寂しさという魔物にとり憑かれていく。彼女は日記を書く。その日記にはひたすら、愛する夫、春さんのことだけ。仕事漬けな春さん。接待だなんだと毎日お酒を飲んで午前様になる春さん。いつかそれでは体を壊してしまう。彼女はいつ帰るとも判らない、というか、遅くなるのは絶対に判っている夫の帰りを、いや、今日は早いかもしれない、と毎日毎日バランスの取れた食事を用意して待っている。もちろん自分も食べずに待っている。ただひたすら。

これは、怖い。一見献身的な妻に見えなくもないが、これほど怖いことはない。仕事で疲れきって、一刻も早く寝床に入りたい忠春が帰ってくるといつもいつも、三津子が食卓でまったく手をつけていない食事を目の前にぼんやり座っているのだ。今日も遅かったのね、今日も食べてくれないのね、そんな、怨念めいたものが漂う食卓。

「妻のつとめ」という言葉で夫をがんじがらめにしていく妻。こうした“粘着質”な(原作にある表現)専業主婦をやらせると、まあ、裕木奈江、これほどはまるのか。いつも泣き出しそうな目と恨み言を言いたくても言えないような口元。かわいそうなんだけど、一方でうっとうしくて仕方のない女。そう、彼女は恨み言は言わない。春さんに余計な心配をかけてはいけないと、ただただ春さんが心配なんだと言うだけ。寂しい思いはすべて日記につづられる。そしてまたそれも、こんなこと思うべきじゃない、と思うのか、黒マジックで続々と消されていく。彼女の心を塗りつぶしていくかのように黒く消されていく日記……これもまた怖い。三津子は遂に忠春を心配するあまり、営業まわりをしている彼をつけるなんて行動にまで出てしまう。夫婦じゃなかったら、こりゃストーカーである。いや、夫婦だって、忠春ばかりを見つめてつけまわす三津子の姿といったら、本当に怖い。真摯な思いというのがこれほど怖いとは……皮肉なものだ。

この夫婦を客観的に見つめる存在として出てくるのが久美(菜木のり子)と俊彦(金山一彦)の夫婦。すでに倦怠期状態に入っている彼らだが、三津子と忠春の夫婦に出会うことによって変わって行く。久美は三津子の高校時代の同級生。どこか異常な三津子を心配して何だかんだと彼女を訪ねてくる。

……そう、三津子は異常なのだと、久美も観客もそう思っているのだけど。忠春が仕事で大変なのは判るけれど、そういうのはよくある話なのだと、彼女の心配は半ばイヤミだとまで思うのだけど、だんだんとその見方も変わってくる(男性の仕事なんて、みんなこんなものだと思っている世間一般のほうが、異常だと言うべきなのかもしれないが)。忠春もまた、尋常ではない。彼の仕事への熱中ぶりはただひたすら妻との生活のため。それを言い訳にしているわけではなく、本当にそうなのだ。実際、三津子が倒れれば、躊躇なく仕事を休む。しかし妻のためのはずのそれがだんだんと矛盾したものになってくることに彼は気づいていない。三津子が忠春に対して、ただ心配だと言うのではなく、彼と過ごせない寂しさを本音でぶつけていたら、また違ったかもしれないのに。

彼女の寂しさは、ついに幻覚を見るところにまでいってしまう。彼女が飼いたいと言い出したノラ猫、にゃおんの姿が忠春には見えない。幻の猫。にゃおんがいなくなったとおろおろする三津子にかわって忠春が庭を探すと、そこには腐乱しかかって死んでいる猫がいるのである。三津子は倒れてしまう。しかしその後も三津子はにゃおんの声を聞きつづける。彼女の心は見たくないものを閉ざしてしまうのだ。

三津子はやがて子供を宿すのだけど、その事実もまた彼女は受け入れない。お腹に包丁を突き付けることまでする。彼女の狂気はますます高まるばかりである。そんな彼女を心配して会社から早く帰るようになる忠春。ある日の深夜、三津子が大声で水泳大会の実況をするのに飛び起きる忠春。……彼女を最初のうち押しとどめようとする彼だが、しかし次第に彼女の掛け声にあわせて泳ぐのである。同じ世界にともに行った二人……篠崎誠監督の「おかえり」を思い出す。

このあたりから、ふと、忠春のほうが三津子に依存していたのではないだろうか、と思いだす。彼女の狂気は、狂気ではなく、彼女には三津子に依存している忠春がすべて見えていた上での行動だったのではないかとさえ。ある日、彼女は日記に「おしまいの日が来た」と書き記して姿を消してしまう。それは一見、彼女の精神状態が限界に「おしまい」に来てしまったように見えるがそうではない。「私には二人の春さんを世話する自信がない。あのままでは春さんはいつか死んでしまう。子供である春さんと二人で生きていくのなら出来そうな気がするのです。世界中で一番愛しているのは春さんだけど、それをおしまいにすることにしました」とつづられた手紙が久美の手に届く。三津子は自分のためには生きられない人間なのだ。いつでも誰かのためにしか生きられない。それは不幸なことだけれど、彼女自身もそんな自分のことをちゃんと自覚しているんである。だから、子供を取った。無茶な生活を続け、過労死してしまうかもしれない忠春と天秤にかけた結果、そうなったのである。なんというしたたかさ。これもまた恐ろしい話だ……三津子は春さんを愛していたのではなく、自分が世話できる人を愛しているのではないのか。

でもこれは、やっぱり愛の物語なのだ。なぜって、春さんが三津子を愛しているから。三津子の見通したように、春さんは三津子が去ってじきに死んでしまう。でもそれはおそらく過労死ではなく、三津子が去ってしまったことで、彼の中の糸がぷつりと切れてしまったのだろう。駅のホームで一滴の涙を流し、ことりと、本当にそんな感じで死んでしまうのだもの。……そうだ、これは忠春の、三津子への愛情物語だったのだ。それも、三津子のことがこうして見えてみると、なんという哀しい愛だったのか。

鑑賞後、あらためて原作を読んでみると、映画よりも、いや、映画とは違う、もっと残酷な話になっていた。怖さという点は押さえているけれど、君塚監督、この物語を映画にするにあたって、優しいラブストーリーにしたのだ。特に、春さんを優しい男に……。原作では春さん、実はかなり残酷な男だった、のだよね。三津子がいなくなっても大して動じないし、再婚しちゃうし、その後確かに死んでしまうけれど、それは本当に、過労死。三津子のことなんて、その後ほとんど思い出しもしなかったろう。原作は最初から最後まで三津子の春さんに対する愛の物語だったのだ。だから、とても残酷だった。

道路の角にぎゅうと挟まれるように建つ家は奇妙に歪んだ遠近法の中に不安げに立ち尽くしているかのよう。そして三津子や忠春がその画面の中にいる時、その構図はいつも平行を欠いている。じりじりと、傾いている構図。そして子供のおびえた視線のように、あおったショットの多用。

ラストは、白くまばゆい砂浜で、三津子が子供の“忠春”と戯れる美しいショット。幸福そうに子供の名前を呼ぶ彼女、この子が手を離れる時、今度はどんな選択をするのだろうか。★★★★☆


オネーギンの恋文ONEGIN
1999年 106分 イギリス カラー
監督:マーサ・ファインズ 脚本:マイケル・イグナティフ/ピーター・エディ
撮影:エミ・エイドファラシン 音楽:マグナス・ファインズ
出演:レイフ・ファインズ/リヴ・タイラー/トビー・スティーヴンス/レナ・ヒーディー/マーチン・ドノヴァン/アラン・アームストロング/ハリエット・ウォルター/アイリーン・ワース

2000/6/18/日 劇場(シネマスクエアとうきゅう)
これってプーシキンのロシア文学であり、舞台もロシアなんだから、英語で演じるのってヘンなんじゃないのかなあ。アメリカ映画じゃよくあるけど(「太陽と月に背いて」とか「ジャンヌ・ダルク」とか)うーん、イギリス映画でもやるかあ?キャストに関してはそうした点での違和感はなかったけど……特にオネーギンのおつきの男性なんてなんだか妙にロシア人ぽかったしな。

まあ、そんな事を言っていると先に進まないのでそれは置いとくとして。実際の原作は小説ではなく、韻文(叙事詩)なのだという。不勉強ながら未読なので判らないけど、原作のそうしたシンプルさが映画化された本作にもそのまま反映されている気がする。用意された設定、場面、台詞、そうしたものをてらいなく丁寧にひろっていった時に自然と現れ出る空気や力を信じているような誠実な作り。オーソドックスなコスチューム・プレイであり、特にリヴ・タイラーのハッとするような若々しい、そしてどこかエキゾチックな美しさがそれに良く似合う。彼女の人選は意外のような気もするし、しかしその、情熱的な言葉をその奥にため込んでいるようなふくよかな唇と、射るような蒼い瞳、神秘的な黒髪……これ以上はないくらいこのタチヤーナにハマっている。

退廃的な生活をおくる貴族、オネーギン(レイフ・ファインズ)が、伯父の死によって片田舎の莫大な遺産を手にする。都会の社交界の空虚さにうんざりして逃げ出してきたはずなのに、この田舎の生活もまた彼にはわずらわしいようである。結局のところ、彼は何のより所もない自分の心そのものをもてあましているのだ。そしてそれに気づいていない。退屈な環境がそうさせているのだと思い込んでいる。彼はこの田舎で無二の親友と、一生をささげる価値のある愛に出会うのに、その大切さに気づかず、不用意な言動で双方ともに失ってしまう。

しかし前者に関しては、この段階で彼も親友の大切さを気づいていたようにも思えるのだが……。オネーギンは都会者特有のアマノジャクなところがあり、半ば親愛の情を込めて言った言葉が、そんな器用な術を持たない“田舎者”のレンスキーの純真な心根には侮辱の言葉として届いてしまう。しかも彼だけならまだしも、オネーギンが彼の恋人(タチヤーナの妹)に対してまでヒドいことを言ったので、レンスキーはオネーギンに手袋を投げつける羽目になってしまうのだ。オネーギンの和解の申し出もかたくなに拒み、その決闘でオネーギンの銃に倒れてしまう。

この事件によってオネーギンは逃げるようにこの地を去る。恋人に死なれてしまった妹と、愛する人に去られてしまった姉……。しかし妹は(その後どのくらいかかったのか判らないが)わりとあっさり立ち直って新しい恋人を手中にする。なんだかあのピュアなレンスキーがかわいそうである。一方のタチヤーナといえば、結婚は愛する人と、とどこに行ったか知れないオネーギンを思い続けるも、彼女の周囲のベテランの女たちは“愛”という言葉を幼稚なものとして一笑に付する。「結婚すれば夫との間に友情が生まれるものよ。それでも愛にこだわるなら、愛人を作ればいい」「私は結婚したら夫に貞節をささげます」そんなタチヤーナも状況には逆らえなかったのか、6年後オネーギンと再会する時には、既に人妻であった……3年前に。「貴方が現れるのは遅すぎた」と泣きむせぶタチヤーナ、3年間彼女はオネーギンを待ち続けていたのか。

しかし“愛人を作ればいい”とはぶっ飛ぶ言だけど、“結婚すれば夫との間に友情が生まれる”というのは妙に説得力がある。恋人時代のような愛情が一生続くわけはない。愛情が枯れるまでいかないまでも、それに近い状態に変容してしまうのならば、一生を共にする相手とは愛情よりは友情で結ばれていた方がいいのかもしれない。それも、最初からピュアな友情のみで。よく言う、「恋人と結婚相手とは違う」という意味がこの辺に隠されている気もする。心のどこかで、最後に愛する人を伴侶にして一生愛し続けたいと思いながらも、そのたぎる感情を自分も、そして相手も持ち続けられるなんて絶対に不可能だと思ってしまうから。友情で結ばれる結婚に一方では共感しながらも、一方では抗いたい……ああなんだって、こんなめんどくさい制度があるんだろう!

結局、オネーギンとタチヤーナは全くのプラトニックな関係のままで終わってしまったのだな……タチヤーナが情熱的な手紙を送った時は勿論、6年後に再会した時も。美しい公爵の人妻になっていたタチヤーナに自分の6年間の放浪の空虚さの原因を思い知ったかのように、彼女への思いが膨れ上がり、今度は自分から彼女に負けずとも劣らない熱のこもった手紙を書くオネーギンだが、いまや夫(オネーギンの従兄弟)に貞節をささげてしまった彼女は泣きながらそれを拒絶する。

そう、この場面、タチヤーナの住む屋敷に思いつめたオネーギンが訪ねて行く。二階では彼女の夫が眠っており、タチヤーナは一階で読書をしている……真っ白い部屋に、真っ白いドレスをまとった彼女は、目にまぶしいほど。まるで夢のような場面である。実際、これはオネーギンの夢だったのかもしれない。彼はタチヤーナに「嘘でもいいから愛していると言ってくれ。僕を救ってくれ」と彼女の足元にひざまずいて懇願する。顔をくしゃくしゃにしながら「愛しています。でも貴方は遅すぎた。もう二度と現れないで」と懇願するタチヤーナ。そして次のカットではふと現実的な色合いに戻り、どこからか去って行くオネーギンの後ろ姿でカットアウトする。……あの場面だけが、なにか現実ばなれしている意図を感じるのだけれど。タチヤーナは女だから、実は結構ふっきってしまっていてリアリスティックにオネーギンを見限っていたのかもしれない、などと……オネーギンがタチヤーナへの思いを燃え上がらせるのは、6年間の空白の後であり、それはかなり身勝手だという見方も出来るのだもの。だって少なくともタチヤーナは結婚するまでの3年間はオネーギンを思い続けていたに違いないし(その後は判らないけど)。

いろいろと印象的な部分がある。若き日のタチヤーナ、小船で読書をしながら、身を潜めて遠くにいるオネーギンをじっと見つめるそのひそやかな姿。すれ違いが哀しい結末を生む、曇り空が泣き出しそうな湖上の橋(?)での決闘場面(プーシキンも妻をめぐる決闘で命を落としたんだとか……)、無表情ながら主人を思いやっているのがよく判るオネーギンのお付きの男性、そしてオネーギンが手なぐさみに書いている繊細なスケッチ(なんとこれはレイフ・ファインズ自ら画いているというのだから驚き。上手い!)などなど。

けなすところなどない無難さが逆に物足りなさでもあるのだけれど、まっすぐな視線、迷いのない作りがストンと心に届く佳作。★★★☆☆


溺れゆく女ALICE ET MARTIN
1998年 124分 フランス カラー
監督:アンドレ・テシネ 脚本:アンドレ・テシネ/ジル・トラン/オリヴィエ・アサヤス
撮影:カロリーヌ・シャンプティエ 音楽:フィリップ・サルド
出演:ジュリエット・ビノシュ/アレクシス・ロレ/マチュー・アマルリック

2000/10/4/水 劇場(シャンテシネ)
英語圏映画に出たりもしているけれど、やはりジュリエット・ビノシュはフランス女優らしい女優、フランス映画が良く似合う。年下の男と恋に落ちるのも、思えばフランス映画が最も良く似合う。例えばアメリカ映画ならば、モッノスゴイ年上の男性と少女のような女の恋なんてのは良くあるけれど、意外に逆年齢差モノは少ないのだ。多分それは、女性は若く美しく、というハリウッド黄金期伝統の意識がいまだ良くも悪くも脈々と続いているからなのだろう。フランス映画は、例え若い女優でも大人の目をして、煙草をふかし、死をもって変えられるような激しい恋をする。今のフランス女優でそれがもっとも似合うのは、やはりビノシュだろう。

ビノシュが演じるヴァイオリニスト、アリスの年は劇中で明らかにはされないけれど、30代中盤というところか。彼女のお相手のマルタンはやっと20歳そこそこの若者。唐突に彼女に恋に落ちる彼は、まさしく青二才に他ならないのだが、彼はたったひとつの過去を武器に、彼女と対等な関係を持とうとする。勿論彼自身にそんな意識はないにしても……その武器とは、彼が父親を殺したこと。彼は10歳の時に、母親と別れた父親の元に移り住んでから、ずっとこの厳格な父親の愛情を受けずに育ってきた。いや、少なくとも受けていないと彼は思っていた。嫡子としての認知を受けられず、しかし彼の母親は息子が充分な教育を受けられることを願って実父の元に送り出した……その母親の思いのせいなのか、あるいは父親の愛情の示し方が不器用なせいなのか。義理の兄弟になる三人の息子たちだって、決してちゃんと愛されていたとは言い難い。一人は後年自殺してしまうし、ゲイのバンジャマンはあからさまに疎ましがられているし。マルタンの義母は「あの子は愛されていた」ときっぱり断言する。……それが本当ならば、彼は自分が子供たちを愛していることを、その子供たちに判ってもらえることなく、しかもその子供に殺されて死んでしまったことになる……ツラい。

父親を階段から突き飛ばして殺してしまった後、狂ったように家を飛び出し、農家の卵を盗み食って放浪するマルタン。捕まっても実家には帰ろうとせず、パリに住む俳優志望の兄、バンジャマンの元に身を寄せる。そこでバンジャマンの親友で同居人のアリスと出会う。マルタンは偶然得たモデルの仕事がトントン拍子に上手く行き、あっという間にスターの地位を確立して行く。そんな中、マルタンはアリスをストーカーのように付け回す……アリスとマルタン、そのどちらに視点の重点が置かれているとも言えないため、マルタンの方で一方的に盛り上がっていったらしい思いに、アリス同様、ひどく唐突な感じを抱くのだが、戸惑いを感じていたアリスがこれまたマルタンを愛するようになるのも唐突である。アリスはマルタンが若い男の子で可愛いと思っているからな訳ではなく、マルタンはアリスが年上の女ゆえの魅力があると思っているからな訳ではない。年上だから、年下だからという意識は(ま、フランスだから)ほとんど感じず、どこかでハサミがプチッと入れられたようにお互いを欲し、愛し合う様が鮮烈である。

しかし、だからといって彼らは対等に愛し合っているわけではない。それはどこかで微妙にバランスを失っている。アリスが、そしてバンジャマンが自分の仕事が上手く行かずにいる中、どんどん成功していくマルタンをどこかまぶしげに、そして嫉妬にも似た感情を抑えられないのは当然なのだが(特にバンジャマンが、自分は6年も役者修行をしているのに……とこぼすあたりは痛切である)こっちがそのギャップに気を取られているうちに、彼の心の穴がスコンと突かれるのだ。それは、アリスがマルタンに、彼の子を妊娠したと告げた時。マルタンは精神のバランスを失ってしまう。実はここに至るまで、マルタンが父親を殺した事実は明かされない。冒頭、家を飛び出したマルタンの姿へと急速にさかのぼって解明されていく彼の犯罪。そしてアリスは苦しむマルタンを救うため、自ら彼の家族に会い、裁判に出てもらうように奔走する……。

マルタンが倒れてしまった時、彼は絶頂期だった。しかし、「仕事は……」とうつろに聞くマルタンにアリスは「代役を使うんですって。代わりはどこにでもいるものよ」と言い放つ。未来の時間をたっぷり抱えた、誰でもがナルシスト気味になる若い年頃の彼にとってこれほどキツい言葉は無いが、確かにそれは真実なのだ。自分でやめてしまえば、結局はそこ止まりなのだということ。ツラい思いをしてきたとはいえ、自分で先行きを選択することのなかったマルタンは、それを実感として体験せずにきてしまったのだ。彼が最初に選んだそれは、自らの犯罪を裁いてもらうことだった。アリスとの、ひとときの逢瀬の途中、突然駆け出すマルタンは、警察署内に入って行く……自首するために。

マルタンがアリスの妊娠を聞いて極度に拒絶反応を示した時には、その時点ではマルタンの父親殺しも判明してなかったから、なんて男だと思ったけれど、それに対して怒らず哀しまず、マルタンを力強くサポートするアリスには惚れ惚れしてしまう。しかしそれは、アリスが、マルタンの心の動揺がコドモだからなどという単純なものではなく、なにか深い理由があるのだと、察知していたからに他ならないのだ。確かに父親を殺してしまったことで苦悩する青年に、自分が父親になると告げられるショックは想像を絶するものがある。アリスにどうしても告げられず、荒れる海でなにかを振り払うように泳ぎ続けるマルタンと、その彼のそばを離れようとしないアリス。まさしく絶海の孤島のような場所で苦しみ、すれ違いながらも相手を欲し続ける二人。

アリスがマルタンの家族たちに訴えかけ、予想通り疎ましがられ、ひどい言葉を投げかけられて、彼女はバンジャマンの前で一瞬、慟哭してしまう。しかしあくまで一瞬である。彼女はその後キッと涙を振り払って、「やるべきことはやったわ」と頭を誇り高く上げる。……強い!実に、ビノシュはカッコイイ。私が観たことのあるビノシュは、何だかいつでも愛にさまよっていて、実は強いのかもしれないけれど、消え入りそうなものばかりだったのだけど、本作のビノシュは、そのヴァイオリンを弾いている姿も、あごを高く上げ、背筋を伸ばして凛々しいし、早足でメトロの乗り換えをしたり、せわしなく煙草をふかすのも、やたらと頼もしい。しかしだからと言って男っぽいわけではなく、彼女はいつでも膝丈の柔らかい生地がまとわりつくフェミニンなスカート姿で、非常に自然体で素敵なのである。

ああでも、やっぱり、私はバンジャマンがとても好きだったなあ。ゲイであることでマルタンの疎外感を唯一判ってあげられる兄弟。無二の親友のアリスが、苦労もなく仕事で成功して行くマルタンの恋人になってしまうことで隠しようもない嫉妬に苦しむ彼は、何だかとてつもなく愛しいのだ。「自分がかき回したんだから、逃げるな」とアリスに忠告する彼は、やっぱりちゃんとアリスとマルタンの味方なんである。陽気で親しみやすくて弟思いのバンジャマンは、でも気がつくといつも哀しい目をしていたような気がする……それがたまらなくこちらの胸を揺さ振るのだ。

原題とは全く違う邦題は、何だか確かにフランス映画らしい匂いがするのだけど、ちょっと意味は不明。 だってアリスは、確かにマルタンを愛したけれど、決してその愛に溺れてなんぞいないからである。むしろ、過去に溺れゆく彼を、救い上げたと言う方が正しいではないか。うーん、判らない。★★★☆☆


オルフェORFEU
1999年 110分 ブラジル カラー
監督:カルロス・ヂエギス 脚本:ヴィニシウス・ヂ・モライス
撮影:アフォンソ・ベアト 音楽:カエターノ・ヴェローゾ
出演:トニ・カヒード/パトリシア・フランサ/イザベウ・フィラルディス/ムリロ・ベニーシオ

2000/11/2/木 劇場(シネマライズ)
その端はギリシャ神話であり、「黒いオルフェ」として1956年に製作されたものの現代版。「黒いオルフェ」はかなり記憶のかなたなのだけれど、昔とはいえどこか文学的、哲学的だったかつての作品と比べて、もっと現代という時代性を含んでいる。監督も言及するように、これが現代ブラジルの真の姿なのだというのなら、その状況はかなり深刻なのだが、悲劇的な結末はそのままながらも、こちらは陽気な色彩に満ちている。それは、現代の音楽であるラップが日常的にそしてカーニバルの時に熱く歌われ、この上なく美しいボサノヴァの旋律が甘く歌われ、酒が入れば自然と楽器を持って歌い出す、音楽の国としての真骨頂がここにあるから。

そして主人公のオルフェは、神も嫉妬するほどの音楽の才に恵まれた人物。冒頭、子供たちに請われてギターをつま弾き、その美しい音色で(もう、本当に美しい!)太陽を昇らせるシーンからその魅力にくぎづけになってしまう。売れっ子ミュージシャンだというオルフェは、成功してもこのスラム街から出ていこうとしない。「クスリを売りさばいたりしなくても、成功できるんだってことを示したい」と彼は言うが、それは彼に才能があるからに他ならないわけで、この時点で(原作?とは関係なく)その悲劇的な結末の芽がのぞいているような気もする。勿論みんな、オルフェが好きだし、女どもに至っては“一度は彼といい関係になる”のだが……。

この、無数のバラックが斜面に張り付いたような、錆びたトタン屋根がひしめき合っている、俯瞰で観ると決して美しいとは言いがたいカリオカの丘。迷路のような路地、隠れ家のような家々、どこか尾道の町のひそやかさを思い出させるが、かの町とは違って、この町は常に血なまぐさい空気に支配されている。警察はクズどもが集まっているこの地域を敵視し、さしたる理由も無く手入れをして、“流れ弾に当たって死ぬのなら仕方ないだろう”という乱暴さである。しかし人々はじっと我慢をして、年に一度のカーニバルを待っている。オルフェが率いるカリオカチームは二年連続優勝しているからだ。

ヒロインの登場である。アクレという奥地から出てきた娘、ユリディス。無垢な美しさを持った彼女にオルフェは一目で恋に落ちる。彼女も彼に惹かれるが、プレイボーイであり、彼の婚約者だと吹聴するミラの存在で、オルフェのささやきに素直に応えることが出来ない。しかし、ユリディスがこの町の悲惨な状況……オルフェの幼なじみで麻薬を扱って丘を支配しているルシーニョらが、男をリンチし殺してしまった場面……を目撃し、それを涙ながらに訴えたことにオルフェが反応、ルシーニョに挑戦状を叩き付けたことから、オルフェに対する気持ちを抑えがたくなる彼女。そしてその日、二人は結ばれる。

この場面で、ユリディスが処女だったことが明らかにされる。神をも嫉妬させる、音楽の神様であるオルフェと、無垢な処女であるユリディスの交わりは、なにか神聖なものを感じさせる。しかも、二人の交わりはこれ一度きりであり、次にオルフェが彼女に会う時、彼女は冷たい屍となっているのだから……。

その前に、カーニバルである。優勝チームという設定だけあって、いやその以前にリオのカーニバルをこれほど臨場感たっぷりに撮影したものを見るのは初めてで、興奮!赤と白の大群舞が乱舞する様は、本当に夢のようであり、先頭を切ってくるくると躍り、リズムだけに合わせてラップミュージックを歌うオルフェの輝くばかりの笑顔と肉体は、彼の母親が言うようにまさしく天使のようである。その衣装も、まるで衣装ではなく、彼のための天使のいでたちのよう……それにしちゃちょっと派手だけどね。

このオルフェに扮するトニ・ガヒートは、ここで見せる天真爛漫な笑顔を中心に、ギターをつま弾く時の恍惚とした表情、眼鏡をかけてパソコンに向かう時の理知的な顔、とまさしく女ゴコロをくすぐるハンサムなお人。笑っている時はビックリするほどベビーフェイスにも見えるのだけど、時々ふっとそんな大人の男の顔を見せるもんだから、……たまらない。

そんなオルフェと敵対する関係ながらも、オルフェに惚れてるに違いないルシーニョ。幼なじみで、成功した彼に「なぜこんなところ出ていかないんだ」と言いつつ、誇りに思っているに違いない彼。その長年の思慕は、ひょっとしたらユリディスなんかよりずっとずっと深いのかもしれないんである。彼がユリディスに言い寄ったのも……そして威嚇による事故とは言え彼女を結果的に殺してしまったのも、彼女に対する嫉妬心からだったのかもしれない。ルシーニョはその後、その事実を知ったオルフェに抱きしめられ、その腕の中で彼の銃弾を受ける。オルフェの心にルシーニョに対する許しの心はあったには違いない。でも彼を生かしておくわけにはいかなかった。……私はこういう関係のこういう殺しのシーンがあるとすぐに、殺された方はそれでも幸せだったんだろう、本望だったろうと考えたがる癖があるのだが、これは本当にそうではないか。ルシーニョだって、悪事に手を染めた今の状態でずっといけると思っていたわけではあるまい。ヤバイ仕事をやってるんだから、いつかは殺されるかもしれない。でもどうせ死ぬならオルフェに殺されたいと、オルフェになら殺されてもいいと思ってはいなかったか。

オルフェが崖に突き落とされたユリディスの亡骸を回収するためにそろそろと下って行く。そこは、(自殺した人もあるのだろうけど)ルシーニョによってなぶり殺され、突き落とされた死体の宝庫である。その中に、まるでそこまでは落ちていかないよう天使がはっしと支えたかのように、天にささげられるように木の枝に抱かれている(刺し貫かれている)ユリディスがいた。彼はその亡骸を抱え、カリオカの町に戻っていく……泣きながら。

彼が自分の元へ戻ってくることを心待ちにしていたミラは、もうオルフェの心が戻ってこないことを悟ったのだろう、嫉妬と失望の気持ちが混乱に達して彼を刺し貫いてしまう。……でもこのシーン、私はミラがオルフェを救ったように見えた。彼女を恨む気持ちにはなれなかった。……だって、オルフェはあの時悲しみの極限にいて、そしてそれは時間が解決してくれるなどというなまやさしいものではなくて、本当にこのままいったら泣き狂って死んでしまう、そんな感じだったのだもの。狂い死にしてユリディスのもとにいくより、同じように彼を愛した女として、彼の本当に愛した女のもとに送ってやった方がよっぽどいい。

あの時のオルフェは確実に死にたがってた。ユリディスのもとに行きたがってた。ミラはそれを察知したんだろう。でも、彼女は後悔したかもしれない。愛する人を、ライバルである女の元に送ってしまって。彼を殺して呆然と立ち尽くすミラの表情にはそんな影も見えなくも無い。……それに二人並んだ亡骸は、誰も入り込めないほどに美しく、荘厳ですらあるのだから。その二人のまわりで、まず最初にオルフェの父親がまるで息子に、何寝てるんだ、起きろ、死んでなんかいない!と叫ぶかのようにサンバのホイッスルを吹き鳴らし、それに合わせてあたかもこれがカリオカ式のレクイエムだとでもいうような、サンバのリズムがどこからともなく沸き上がってくる。オルフェを慕っていて、ユリディスによって絵の才能を認められた男の子が、二人の死にあまりのショックで、途切れることなく叫び声をあげ続けるのが痛ましい。でも、そんなに哀しまないで。二人はやっと一緒に穏やかなところに行けたんだから。

でも、この現代社会は、こんな風に死ななければ愛すら紡げないのだと言っているような気もして恐ろしいのだが。そういった意味も含めて、「黒いオルフェ」とはずいぶんと色合いが違った。あの作品のように闇の恐ろしさはないけれど、社会の恐ろしさを感じる作品になっていた。でも、その愛の強さは、不変。★★★☆☆


俺たちに墓はない
1979年 92分 日本 カラー
監督:沢田幸弘 脚本:田中陽造
撮影:仁村秀信 音楽:竹田由彦
出演:松田優作 岩城滉一 志賀勝 竹田かほり 石橋蓮司 阿藤海

2000/5/16/火 劇場(新宿昭和館)
松田優作&岩城滉一&志賀勝という組み合わせの濃さが面白すぎる本作。またしてもムショ帰りの松田優作扮する島と、暴走族時代から島を慕ってひっつき歩く、岩城滉一扮するヒコ、そして志賀勝が扮するのは、島の資質に目をつけてヤバイ仕事に引き込むことで、彼らの友情を引き裂き、自分の身も危うくする一匹狼の滝田。これにシャブ中の女、ミチ(竹田かほり)が加わり、欲望と裏切りが渦巻く展開と相成ってゆく。

冒頭、島はダイナマイトをしかけたなどというウソの騒ぎを起こして、デパートのレジの金をしこたま盗む。そのことによって派遣社員だったミチが金を盗んだと疑われ、彼女はクビに。ヒコの経営するバーに彼女が偶然転がり込んだことから、彼ら三人の奇妙な関係が出来上がる。バーにいる時は完全にオカマ口調で島にしなだれかかり、ほんとにゲイかと思わせるヒコは、しかしシャブで正体を無くしているミチとセックスをし、彼女を自分の女にしたのかと思いきや、ミチは島に色目を使ってくる。困惑する島。

ヤクザの金を盗もうと計画した島とヒコは、黒づくめにマスクで押し入ろうとするも、そこで同じカッコをした滝田が仕事を済ませて飛び出してくるのに遭遇!うっわ、これまんま「花火降る夏」のエピソードと同じやん!ヒコは滝田の身代わりとなって捕まり、滝田はそこで島を次の仕事にスカウトするのである。島の条件は捕まってしまったヒコを救い出し、彼も仲間に入れること。「義理がたいんやな、よし判った」と滝田は彼のコネクションであっさりヒコを見つけ出し、豚小屋でつつきまわされている彼を救い出す。

ヒコが自分を身代わりにした男(=滝田)をぶっ殺す!といきまいているのを聞いた滝田は仕事からヒコを外すことを島に言い渡す。今までずっと相棒としてやってきたヒコ……悩みながらもそれを受け入れる島は、滝田と二人、賭博ツアーに出かける金持ち達が乗り込んだバスを襲う。ここで警察の目をくらますため、金を持った滝田が車を降りて逃げ、島も途中で車を乗り捨てて逃げる。自転車のカップルを脅して女の子の自転車の後ろに乗って逃げる島と泣きべそをかきながらその後ろを走ってついてくる男の子という画が可笑しい。

この金が、彼らの運命を揺さぶることになるのだ。ヒコは島が自分を見限ったと思い込み、島をぶん殴って単身滝田の元に向かってしまう。慌てて後を追いかける島。殺されかけた滝田は当然のごとく島が自分を裏切って、ヒコに自分を殺しに行かせて金を一人占め(というかヒコと二人占めか)しようとしたのだとこれまた誤解する。そしてそして、島の後を追いかけてきたミチがこの金を奪ってこの場からトンズラしてしまうのである。

ほうほうの体で逃げ出した島とヒコはとりあえずこの一件で仲直りをするわけだが……。再三「ついてくんなよ」という島に、「だって……」なんて言いながらとぼとぼついてくるヒコは、バーにいる時のオカマな彼にすっかり戻っている。仲むつまじく一緒にそばを食べる二人は可愛らしい(しかもお約束の、食い逃げ)。しかし金はミチが持っている。彼女から連絡は来ない……このことが再び彼らを引き裂いてしまうのだ。

路上で刺され、大怪我をした島を、偶然見つけたミチが自分の部屋にかくまってしまったことから、また事態はややこしくなるんである。ミチが組織からシャブを買っていたことから島の居所が知れてしまうのだ。乗り込んできたヒコと対峙する島は「お前とは対等に争わなけりゃならない時が来ると思っていた」と言い、お互いに銃口を向け合う二人、倒れたのはヒコの方だった……どこか満足そうに死んでゆくヒコ。

乗り込んでくる組織の一群を、エレベーターの前に待ち伏せさせたダッチワイフ爆弾(笑)にて一網打尽、島とミチは脱出に成功する。しかしこの、エレベーターの中で4,5人の男が重なり合って、血だらけで死んでいる場面はあまりにも凄惨で目を覆ってしまう。一度はミチを放り出そうとした島も、彼女の常用しているシャブをすべて放り投げて、彼女とともに逃避行へと車を走らせる。……結局、最後までしぶとくしたたかで、男を突き動かす源となっているのは、このミチだったのだ。

ヒコの部屋中にピンクレディーのポスターが貼っており、常にバーには彼女たちの歌が流れている。全くヒコってやつは、ゲイなのかミーハーなのか、普通にストレートでミチが好きだったのか良く判らん。演じる岩城滉一は今のイメージからは信じられないキャラで面白かったけど。そしてこのピンクレディーのポスター、超ミニの彼女たちをさかさまに覗き込む島、うーん見えそで見えない!(当たり前だ)このあたり、まさしく映画は時代を映す鏡ですなあ。★★★☆☆


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