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ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ/HEDWIG AND THE ANGRY INCH
2001年 92分 アメリカ カラー
監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル 脚本:ジョン・キャメロン・ミッチェル
撮影:フランク・デマルコ 音楽:
出演:ジョン・キャメロン・ミッチェル/スティーヴン・トラスク/ミリアム・ショア/マイケル・ピット/アンドレア・マーティン
正直、その造形を最初に見た時には、「ピンク・フラミンゴ」かあ??などと思いもしたのだが、すぐにそれが大いなる偏見だと気づく(うーん、この場合、どちらに失礼に当たったのかなあ?)。旧東ドイツから自由と愛を求めて脱出し、性転換手術の失敗した不完全な身体に苦しみ、昔聞いた神話のように、どこかにいる自分のカタワレ=愛する人を探して生きていくヘドウィグ。ヘドウィグという言葉は、故郷を捨て、自分の男性性を捨てた時に母親からもらったものだけれど、その二度とは帰れる筈もなかった故郷がベルリンの壁の崩壊によってそうした決意が無意味なものになってしまった。しかも自分の体に残された1インチのモノは、捨て去ったはずの男性性がこれまた無意味な形で存在してしまうことになる。
ヘドウィグはヘンセルという名であった少年期から、米兵のラジオでロックの洗礼を浴びて育つ。この少年期を演じる少年がまたなかなか良くって、ハードロックにノリノリになって踊りまくっているところなど、もはやいっぱしのロックスターを感じさせるほどである。いつ頃から彼の中に女性性が目覚めたのか、あるいはその男性にしておくには惜しいほどの美貌を一人の米兵に見出されたことにより、彼と、そして自由のためだけに女になろうと思ったのか。いや、もっと究極的に考えると、ヘドウィグにとって男性であるとか女性であるとかいうことの意味はさほど重要ではないんじゃないかと思える。彼女(彼、というべきなのかなあ)はただその存在だけを相手にさらして、あなたは私の引き裂かれたカタワレではないのか、と捜し求めているだけ。時には全身でシャウトして、呼びかけ続けて。
ヘドウィグが愛した少年、彼女がロックの全てを伝授したトミーは、彼女から楽曲のみならずその気持ちさえも奪い去ったまま、彼女を裏切りロックスターになってしまった。ヘドウィグはストーカーよろしくトミーの全国ツアーを追いかけ、その大ホールの近くのショボいレストランなどで今やトミーの曲として有名になってしまった、自分の魂を込めた曲を全身全霊を込めてアクトする。だが聞いている客たちは、目を丸くしているお年寄りだったり、下卑た視線を投げかける男たちだったり、哀れみや軽蔑の視線すらも感じる。ヘドウィグの夫、イツハクが言うように、新曲を作ればいいだけの話のようにも思えるのだが、ヘドウィグにとっては曲を持ち去られたことではなく、その愛を持ち去られたことこそが問題だったのだ。
イツハクのみならず、バンドのメンバーたち、あるいはマネージャーも、ヘドウィグの才能とその人間にホレているからこそ、彼女と共に行動している。特にイツハクはちょっとかわいそうで……ヘドウィグを愛しているのに。このイツハクを演じているのが本当は女性だと知って、驚愕。うっそお!どこが女性なのお!?だってだってだって、無精ひげとか生やしてるし……えええ!?あ、でも、ということは、ヘドウィグとのラブシーンなんか、実際はちゃんと男女の組み合わせだったんだ……逆転してるけど。そしてだからこその、あの独特の切なさなのかあ。そうしたキャスティングのヒネりがより一層ジェンダーの問題を考えさせる。しかもイツハクはドラァグ・クイーン願望があるのだし。というのも、気になっているんだけど……男性性器を1インチ残されたヘドウィグ、女性性器を作られているわけじゃ……ないのかなあ。性的欲求って、どうなっているのかなあ、なんて。あるいは女性性器が作られていたとしても、その“怒りの1インチ”がいつでも彼女の愛の行為をジャマしていて。でも、だからこそヘドウィグの造形には、性器、性を介在させない、気持ちが完全に愛に注がれるピュアさを感じてしまう。
ヘドウィグを裏切ってスターとなったトミー、彼はヘドウィグを純粋に女と信じていて、現実を知るに至って彼女から離れていった。しかしトミーもまた、ヘドウィグから気持ちを完全に切り離すことが出来ていないことが、ちょっと湿っぽい感傷を引きずらせる。トミーを演じるマイケル・ピットが本当に若さの魅力にあふれていて、まだまだ青二才って感じなところがまた良くて。登場シーン、浴槽の中でのマスターベーションで顔を上気させ、ヘドウィグに手伝ってもらってイッちゃうところからして少年らしい純情さに満ち、ヘドウィグとのラブシーンも、彼の純粋な愛情と欲望がぎこちなく出ているところに、ヘドウィグならずとも“すっかり彼が気に入って”しまう。彼が純粋に語る神の論議も、その柔らかな感性の手触りを感じる。しかも、彼はロックスターとなっても、その柔らかな感性を失わなかった。だからこそヘドウィグの“教育”を吸収し、スターになれたのだ。上半身ハダカで革パンのロックスタースタイルはしかし、そのぽよぽよの幼児体型がほほえましくもあるのだけど(笑)。
でも同じスタイルで……そう、ケバいメイクも落ち、ゴージャスなウィッグも衣裳も脱ぎ捨て、つまりは胸のパットもぜーんぶ外して、革短パンいっちょになった、女性性も男性性も関係ない、一人のヘドウィグとなった時、ロックスターとなったトミーと対峙し、トミーがステージからヘドウィグに歩み寄り、語りかけるように歌う。ただの、一人のヘドウィグを愛した彼によって彼女は昇華される。うん、これぞ、まさしく昇華だ……もう彼女と言うべきなのか、彼と言うべきなのか悩んでしまうのだけど、外見、その身体は男性でありながら、愛に翻弄される人生を送ってきたヘドウィグは、やはりヘドウィグでしかない妖艶な美しさにより磨きがかかる。人間としての、ヘドウィグ。トミーのその歌を浴び(それはトミーからの愛に満ちた優しい、けれども別れの歌でもあった)自分のステージに戻ってきたヘドウィグ、愛されることばかりにとりつかれてきた自分にふと振り返って気づいたヘドウィグは、自分を愛してくれる人たちに囲まれ、歌う。
母親から教えられたヘドウィグの語る神話が、シンプルでストイックなラインアニメーションによって描かれる。それにのせられるヘドウィグとアングリーインチのロック。音楽自体はめちゃめちゃカッコいいロックなのだが、その歌詞が非常にストーリー性のある、哲学的な、神的なもので、昨今聞こえてくるホレたハレたのロックとは全く異なった印象を与える。そう、メチャカッコいいのだ……ロックにこういう表現はヘンかもしれないんだけど、非常に洗練され、完成度の高い楽曲。そしてヘドウィグのパフォーマンスはまさしく最高で、なるほど、舞台版でもヘドウィグを演じたジョン・キャメロン・ミッチェルが賞を総なめにしたのはさもありなん、と納得してしまう。バラードも聞かせ、そのシャウトに身が震え、何より圧倒的なその歌声に酔いしれる。特に最後、何もかも脱ぎ捨てたヘドウィグのそれは、涙が出そうなほどに感動的。
「ベルベッド・ゴールドマイン」「ボーイズ・ドント・クライ」の制作会社、っていうの、思いっきり納得しちゃう。凄いね。そういえば、トミーのポヨポヨ体型のロックスターっぷりは、「ベルベッド……」のユアン・マクレガーを想像しなくもない?最初はそのカタカナタイトルに??と思っていたんだけれど、これは絶対に「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」でなければいけないんだなあ。★★★★☆