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暴走パニック 大激突
1976年 85分 日本 カラー
監督:深作欣二 脚本:深作欣二 神波史男 田中陽造
撮影:中島徹 音楽:津島利章
出演:渡瀬恒彦 杉本美樹 室田日出男 川谷拓三 小林稔侍 渡辺やよい 風戸裕介
というわけで、最初はなんでこんなにいろんな人のエピソードを盛り込んでくるのか判らなくって。だって、主人公の銀行強盗犯、渡瀬恒彦(若い時ほど兄弟どうし似てるなあ)と、その恋人でお豆を炊くのが上手な(笑)女(杉本美樹)と、金を目当てに追いかける、死んでしまった強盗犯の片われの兄(室田日出男)のおっかけっこだけで話は事足りる筈なのに、ミニスカポリスな(苦笑)恋人を寝取られて頭に血が上ったのんびりおまわりさん(川谷拓三)だの、少年趣味の富豪に目をつけられてレイプされそうになり、反対に殺してしまうカーキチ(死語?)の修理工だの、を同時進行で描いていくから?マーク状態。
んで、主人公が見かけによらず(失礼)ケナゲな恋人にほだされて、高飛びの前に彼女のために金を作ろうともう一度銀行強盗を決行し、コイツらのみならず、暴走族少年団、彼らを取材していたマスコミ、のんびりおまわりさんがぶつかった酒屋のトラック、以下同文にやくざの車だの何だのが訳も判らずおっかけっこに加わって大暴走を繰り広げるに至って、なるほど、この場面を描くためにいろんな人たちが必要だったのねと思い当たる。しっかしそれだけのために、と思わなくもないけど(笑)。
いやいや、でも、本当にこの場面は白眉中の白眉!それでなくてもおっそろしくスピーディーで無駄のないカッティングでノセにノセられ(最近こういう日本映画、観ないよなあ……)特にこの場面は細かくカットを重ねに重ね、目が回りそうなほどの臨場感と大迫力。お金をかけた大爆発なんてなくったって、これだけ見せる事が出来るのだ。映画にお金をかけないからハリウッドに負けるのだ、云々なんていう論は通用しない。むしろやたらと爆発ばかりに頼っている昨今のハリウッド映画はどんどんつまらなくなっているではないか。映画は面白くしようという情熱と知恵なのだ。
あのおっかけっこの中では、暴走族少年たちにマヌケな質問をし、しかも成り行きのままに暴走を死にもの狂いで実況中継して、なぜか警察にとっつかまってしまう(笑)アナウンサーが一番笑えたなあ。
26歳だという(!)、今の26歳とは比べ物にならないほどオトナで男臭い渡瀬恒彦のワイルドさ。ハスッパなんだけど、男に一途でいとおしい杉本美樹。この二人の絶望的なほどの運命関係がグッとくる。一度は絶望しかけて自殺未遂を起こした彼女を男が救い、彼女のためを思って男は何度も車から放り出すも、女は何度でも追ってくる。ついに折れて「早く乗れ!」と車のドアを開ける男に、必死に走っていく彼女が可愛らしい。
85分という今ではちょっと考えられない上映時間にいっぱいの登場人物とそれぞれのドラマとアクションとコメディと、もうとにかく盛りだくさん、2時間モノ以上ではないかと思われるようなカット数で圧倒的。さすがは深作監督!★★★★☆
彼は自分の“障害”について悩んでいるけれど、その他はごくごく普通の、いや、ちょっと困ったワルいくらいの男の子だ。車泥棒でしょっ引かれてるし、友人の小切手は失敬するし、カワイイ女の子にはすぐ目移りする。胸の膨らみをおさえてテープでぐるぐるまきにしたり、股間に布を突っ込むのだって、鏡の前でカッコつける男の子の行動とイコールだし。でも本人の意志とは関係なく、彼はどうしても悲劇のヒーローにならざるを得なかった。それは彼が女性の肉体を持っていたから。女性の性、女性の肉体は、どうしてこれほどまでに弱い立場に置かれなければならないのだろう?たとえ心が完全に男性でも、その魂の宿り木でしかない肉体ですべてを判断され、陵辱されてしまう。
ブランドンが“女性”だとバレて、バスルームでムリヤリひん剥かれ、車で連れ去られてラリッたジョンとトムにレイプされる場面は、哀しさなんか感じない、ただただ猛烈な怒りで心が爆発しそうだった。どんなに男として生きていても、筋肉を鍛えていても、女性の肉体を持つブランドンは男性の前ではやはり非力だということが悔しくて悔しくて。一番大事な「心」「精神」が女性でも男性でも関係なく、なぜ、なぜ肉体が女性だというだけで、いつでもこんな目に会わなければならないのだ?なぜ男性は女性を支配下に置くことを当然だと考えることを止めないのだ?そしてそのことで悩むのはなぜいつでも女性(の肉体を持つ側)でなければならないのだ?私はもうあの場面に肉切り包丁を持って飛び込んでいって、ジョンとトムを5センチ幅ずつ切り刻んでやりたかった。
ブランドンはそんな目にあっても、彼らに対して友達言葉を使い、「俺が悪かったんだ」と言う。震え、混乱するブランドンの心が痛くて辛くてしょうがない。彼はでも、自分の存在について思い悩む女性の高尚な精神と、男性の持つフェミニズム精神とを併せ持つ、まさしく完璧な人間なのだ。そうだ、普通なんかじゃない。弱さは強さを生むけれど、強さ(あるいは強いと思い込んでいる心は)うぬぼれで堕落していくだけだ。
ブランドンは同性愛とはまたまったく別の地平にいる。女性として女性を愛するのではなく、そうした性的嗜好だけではなくて、男性として考え、男性として行動する。しかし彼がまず語られるのは、そうしたセクシャルな部分でのアイデンティティであり……そしてその肉体の存在で、彼自身も普通の人の何倍もそのことを考えなければいけない。彼の生活や悩みや嗜好は、いつでもこの部分に支配されている。これは、シンドイ。
しかし彼を愛するラナのまっすぐな愛情には泣かされる。彼女はブランドンが女性の肉体を持っていると知っても、自分はブランドンという人間を愛しているのだと微塵も惑わない。正直言って、これが逆に男性が、自分が愛している女性が実は男性だった、というシチュエイションならば、こんな風には考えられないんじゃないかと思ってしまう。誤解を恐れずに言ってしまうと、男性はまず女性と認識してから相手を愛するんじゃないかと思うから。セックスの対象となるかどうかが前提である意識が多分女性よりずっと強いから。それは自分では子孫を生み出せない、種の存続の本能的な意識か知らん、などと思ったりもするのだが、とにかく、女性はそうした本能よりも感情で生きているイキモノなので、愛している相手が女性だと判ってもそれほど動揺しないラナの姿は不思議じゃないし、おおいに共感できるのだ。
ラナを演じるクロエ・セヴィニーは、それまでのショートヘアーのボーイッシュな印象から(あ、でも「ガンモ」はちょっとヘンな役だったけど)非常に女性のなまめかしさを放出している、リアリティのあるキャラクター。彼女の役者としての成長も感じさせる。劇中の進行時間の中では語られないけれど、彼女は妊娠していて、「デブに見られないかしら」なんていつもお腹のお肉を気にしている。……実際彼女は自分が妊娠しているということが判っていたかもあやしいけれど。しかしホントにウエストの辺りにぽっちゃりお肉がついているんだものなー。あれは役作りのためだろうか……やはり。その設定のせいかどうか、彼女は細身のブランドンをそのふっくらとした母性で包みこむ。アル中気味でフラフラしていても、(心が)男性のブランドンより強さを感じさせる。「あなたが男性だろうが女性だろうが愛している」とか「あなたにも感じさせてあげたい」という台詞は、まるでそのまま子を思う母親のようでもある。
ジョンはラナに惚れていたがゆえ、信頼できる友人のブランドンが女性の肉体を持っていたと知った時に心のバランスを崩して強行に出てしまう。それは性の理不尽な立場について思い悩んだことのない、男性特有の心の弱さだ。だから思えばこの弱い心を持つジョンも、かわいそうといえばかわいそうなのかもしれないけれど……。いや、でもレイプは殺人にも匹敵するこの世で最低最悪の犯罪だ。それは精神を惨殺するという意味で、肉体を殺す殺人よりもヒドいかもしれないのだ。しかもジョンはその弱い心から発生した不当な怒りのまま殺人までをも犯してしまうのだから。一番かわいそうなのは、巻き込まれて殺された未婚の母、キャンディスだが……。
監督は女性のキンバリー・ピアース。心が男性の人間の物語だけれど、こうした複雑な思考が絡むテーマは、それに図らずも悩まされ続けてきた女性にしか撮れないだろう、と思う。それは男性であったブランドンには不幸なことなのかもしれないが。いや、ブランドンは自分で思っている以上に、肉体が女性であったことは幸福だったのではないだろうか、などと思うのだ。肉体は非力でも、心の葛藤によって彼の精神は緻密に研ぎ澄まされていたのだから。……でもそれもレイプで粉々にされてしまったけれど……。ああ、なぜレイプなどという忌まわしい犯罪が存在するのだろう!!こうした映画やレイプ事件に接するたび、世の中の男性全てを撃ち殺したくなってしまう!
1972年生まれということは、私と同い年だったブランドン・ティーナ。ラナを愛し、殺された時はまだほんの21や22だった。人を愛して殺されるには若すぎる……。とにかく、辛い作品だった。しかしこうした問題を持った映画はこれからどんどん出てくるんだろうな……。★★★☆☆
名バイプレイヤーである奥村公延を主役に迎えて展開する物語の舞台は北海道。水戸監督は北海道の人なのだな!アメリカのロードムービーに出てくるような長いひと気のない一本道は、でもやっぱり日本的な湿り気を感じさせる。故郷の町を目指してのろのろと車を運転する老人、中村(奥村公延)が、恋人とけんかして置き去りにされた若い娘、明美(小野原亜希)を拾い上げる。そして大金を持って逃げている中年女、静子と自殺しようとしている元刑事、豪とも出会う。
この二人と出会う前に中村と明美が遭遇するエピソードが、やはり死にまつわるそれなのだが、とても個性的で秀逸なのだ。明美はまず、中村に近くの駅まで送ってもらう。しかしその駅は廃線で、駅の中にはたった一人、おばあさんが乳母車に向かって子守り歌を歌っている……明美が近寄って話しかける……しかしその乳母車は空で、しかも相当古ぼけてしみがついていたりするのだ。明美に声をかけられていることなどまるで気づいていないかのように子守り歌を歌い続けるその老婆にぞっとせずにはいられない。明美もまた一目散にその駅から駆け出してしまう。
再び中村に拾われた明美。二人はガソリンを借りに一件の家に立ち寄る。そこには遺書を残して孤独に死んでいる老人の遺体(水戸監督の実父!)が、まるでただ眠っているかのようにきちんと布団の中に横たえられている。遺書にしたがって掘り出したカセットテープには、その老人の素っ頓狂な歌が入っている。この、死んだまま放置されているという、なぜかユーモラスささえを感じさせる構図は「脳の休日」にも通じていて面白い。この監督は、生きている人間に対してと同じように、いや、それ以上にかもしれない、死んでいる人間に異常に愛情を注ぐのだ。死にゆく人間に対してではなく、“死んでいる人間”に対して。そこに人間としての尊厳を感じるとかそうしたものではなく、不必要に重くなった肉体だとか、残された言葉や声がもはやその持ち主を持たなくなった空しさだとか、そのしんとした即物的な感覚だとか、なにかそうした非常に独特の感覚を持ってとらえている気がする。こんな風に死を表現する作家は初めてだ。
そして先述の二人と出会い、一同海岸で一夜を明かす。そこで(照れ隠しなのか)それぞれ“嘘”として語られる身の上話は、しかし多分それぞれに真実であり……。中村のそれは故郷で教師をしていた頃、恋に落ちてしまった教え子との物語だ。回想シーンとして若い頃の中村を演じているのが鶴見辰吾!水戸監督は篠原哲雄監督「月とキャベツ」の助監督をしていたとのことだから、その縁かな。山崎まさよしもこの映画にコメントよせてるし。
その後明美の恋人が後悔して追いかけてくるのだけれど、やはりまた喧嘩して置き去りにされてしまう彼女。そぼ降る雨。またしても中村の車が現れる。ドアを開けて出てきた中村、「また喧嘩したのかい?」顔をくしゃくしゃに歪めて中村に駆け寄り、抱き着く明美の肩を戸惑ったようにぎこちなく抱く中村……。
二人は中村の故郷へと車を走らせるのだが、そこにはもう町はなく、壊れた家の残骸が残るだけの廃虚となっていた。そこに呆然と座り込む中村は、しかし立ち上がって言う。「さ、行こうか」明美が返す。「どこへ?」中村はにっこりと「どこだっていいさ!」そして、エンド。
この廃虚の情景は空しくも、なぜかどこか懐かしい、泣きたい気分にさせられる。そこにかつてあったはずの忘れられない思い出を、なぜかしら観客も感じ、たどってしまう。残酷なのだけれど、非常にポエティックなのだ。それがこの監督の個性でありチャーム。ツボを抑えたミディアムなロングショットも非常に効果的で自分の世界に耽溺しない、正統的で確かな演出姿勢を感じさせる。役者達がみんなしっかり水戸ワールドの住人へといざなわれているのだ。
「生姜焼きは豚に決まってるでしょ!」と言いながら、その実どうやら猫の肉を使っているらしい(だって、どう見ても猫の頭としか思えないものが皿に乗ってくる!)その名も「ねこ」と書かれた暖簾の下がった(!)食堂のエピソードといい、この監督の頭はひょっとしたらかなりギリギリの紙一重!?しかもこんな息子にプロデューサーとしてまでしっかり協力しちゃうお父さんが好きだなあ!(しかも死体役まで!)うーん、この親にしてこの息子ありなのかも!?★★★★☆
ああ、でもでも、「カップルズ」のシャイな少年からたった一年で、あんな激しいメイク・ラブシーンを演じるなんてえ!とかなり身悶えしてしまった私。実を言うと正直、ジェが人夫(ひとおっと。人妻の逆じゃ)に思いを寄せているというのは私にはピンとこなかった……ニブいんだろうな。確かに後半、台湾に戻ったジェが、その人妻、ムーンにそっくりな女性ローザに出会い、彼女に「あなたはワイ(その人夫)が好きだったんでしょう」と指摘されるけれど、ジェは動揺するもののハッキリ肯定しているわけではないし……台湾に帰る前、ワイを付け回していたのも、私には消えてしまったムーンの行方を知りたいがためなのかと思っていた。これってやっぱり女性ゆえの希望的視点なのかなあ、女が体だけ愛されているということを肯定するのが辛くって。だって、ジェがほんとにワイを愛していたんなら、その精神的な愛はほんとに崇高で、肉体関係だけの愛が太刀打ちできるわけがないんだもの。……そのことにムーンが生きているうちに気付けなかったジェも、夫に愛されていることも実感できず、ジェにはそうした愛しかもらえずに死んでしまったムーンも、哀しい、哀しすぎる。
もう一人、これもまた切ない人物が、トン。冒頭ですぐに彼がゲイであることは説明され、だから物語の中で彼の気持ちは誰よりも判りやすい。彼は今更、男と女の間で揺れ動いたりしないし、でもだからこそ報われることも少なくて、思いを寄せる青年、ワイが自分に好意を持ってくれていることを知っていても、その好意が恋愛感情でないことを痛いくらいに判っていて、ただただ優しく、良い人でいるしかない。それでも苦しんでいるワイを見捨てられない、そばから離れたくないトン。それは、ワイの心が亡き妻のものであると知ってしまうと、彼のそばにはいられないと傷心を抱えて台湾に戻ってしまうジェとは対照的だ。……やはりその辺が大人と子供の愛情の違いか。でもそうだとしたら、大人になるのって……辛い。今の愛が報われないと知ってても、その愛から離れることが出来ないのだから。
当のワイはどうだったのだろう。「まるでロボットみたい」とジェから評されていたワイ。妻が心でも身体でも自分を欲していることに気付かず、パソコンでの仕事に夢中になっている彼は、まさしく時代を象徴している。健康体である青年がまるで性的なことに興味を示さずに、そしてまるで無表情にパソコンに向かっている様はかなり異様である。でもそんな“ロボットみたい”なワイにムーンは勿論、ジェやトンも惹かれたのも、彼の中のそうした哀しい部分に共鳴したのかもしれず……妻への愛を、その死をもってしか実感することが出来なかった彼は、哀しい、哀しいとしか言いようがない。
スタンリー・クワン監督はゲイなのだそう。実を言うと、ジェの人物設定が、実はゲイなんだけど、女に性的欲望を持つという、これってリアリティのあるものなのかとちょっと疑問だったりもしたのだけど、監督がゲイの人ならアリなんだろうか……。でもそういうのがホントにアリなら、なんかそれってゲイだけじゃなく、ストレートの男性だって突き詰めれば同じなんじゃないかと思えて来て……つまり、本当に心を許すのは同士である男であり、女は性的対象でしかないという……それって、凄い辛い!確かに男性ってそういうところあるし、女性は逆にそういう部分って希薄だし。ああ、でもどうなんだろうなあ、確かに女性は女性同士の結びつきに男性ほど特別なものを持ってはいない(と思う)けど、、だからって完全に男性に寄りかかっているわけではなくて、結構冷めてるし。うーん、男性も女性も、だからお互い様なのかな。女性の方が、そういう部分一人でも平気だってことなのかもしれない……それもちょっとツラいけど、でもカッコイイもん!(と思っておきたい)そういうことにしておこう。
原題の「愈快楽愈堕落」がどういう意味なのか判らないけど(「愈」が判らない)、英語題で邦題でもある「HOLD YOU TIGHT」は、シンプルだけど、グッと来てしまう。皆しっかり抱きしめて欲しくて、それで愛情を確かめたいって思ってるのに、でも本作ではだれも本当に愛する人に抱きしめられることはついにない。だから、“ME”じゃなくて“YOU”なのだ。彼らは出来なかったけど、愛する人に抱きしめて欲しいなら、自分から抱きしめにいかなくては。ジェとムーンはそれを埋めるかのように抱きしめあうけれど、どんなに抱き合っても埋められることはない。本当に愛し合っている二人じゃないから。……セックスなんかなくっても、ただ抱きしめあえるのが、一番幸せなのかもしれない。無言のまま、相手のぬくもりやその存在を確かめることが出来るから。★★★☆☆
九州から東京に出てきて、デザイン会社で働く浩二に、一度にいろんな問題がわきあがる。一つは父が亡くなったこと。一つはこの老父のおじいちゃん子だった甥が郵便局で強盗未遂事件を起こしたこと。そして、もう一つは突然音沙汰のなかった恋人、凛(つみきみほ)が転がり込んできたこと。彼女が訪ねてきたことなど知らずに浩二は帰宅前、昔の恋人(中嶋朋子)の部屋を訪ね「泊まっていこうなんて思わないでね」と自分の無神経さをやんわり拒絶されたばかりなのだから。長いこと病床に就いていたこの老父の、今か今かと予期されていた死と、この恋人との、居心地はいいけれどはっきり決めかねる関係、そして不可解な甥の犯罪……その全てが混沌としている。
思えば彼の仕事もまたそうだ。取引先の担当のイヤミな上司(鈴木ヒロミツ。この役の男、ほんとにむかっ腹がたつ!)に憤り、侮辱された部下のためにもその仕事を降りようとしながらも「そんな子供じみたこと」と止められて続けざるをえないのだ。しかし時にはガマンをしない方がいいことだってある。この件については、自分が見えてきた浩二が導き出した、実に痛快な答えが用意されているのだ。
ま、かくして故郷へと帰る浩二、村中に借金をしたことでわだかまりを残して死んだ父の葬儀は村では出せず、気まずい空気が流れる。そして以前は仲良しで、一緒に無邪気に遊んでいた甥、拓也(細山田隆人)は難しい年頃ゆえか殻に閉じこもったまま。昔の様に気楽に声をかけてみても、突っぱねるばかりだ。
中学生とは、確かに一番難しい年頃かもしれない。こうして思い返してみても、例えば小学生の頃は、将来のことなんてまだまだ遠い先のことで、とりあえず、一日も一年もやたら長く感じる“今”を無我夢中で生きるしかなかった。そして高校生以降になると、それなりにその先のことが見えてきて、あるいはそこまでに蓄積された自分の能力を査定して、その先を決めざるをえなくなって、とりあえずの目標が出来ることによって、それに向かってひた走ることが出来た。でも中学生は、漠然とした希望と漠然とした不安、無我夢中になるには悟った冷めた心が顔をのぞかせ、かといってはっきりとした展望が見えるには若すぎる、何をやっていいのか判らない、何かをやっていても、それが本当に将来に結びつくのかが判らないというようなやりきれなさがある。しかも、そうした分析めいたことを考えられるのはこうして大人になった今だからであって、中学生の頃にはそのはっきりしないもやもやをもてあますばかりで、それがなぜなのか、とかどうしたら打破できるのか、などということは考えることもなかったし、出来なかった。
中学生のいじめや犯罪はその苛立ちをぶつけたいのか、何かを形にしたいのか、そうしたことを受け止める器や発散する場がどんどん少なくなっていることが遠因になっているのかな、という気もしているのだが。ただ現代は、小学生にすら無我夢中でいることを許してくれなくて、いじめや犯罪が低年齢化しているのもそのせいなのかな、とも……。とまれ拓也の強盗未遂は実に迫力なく他愛なく、あっさりと捕まってしまう。
拓也を心配して何くれと外に連れ出す浩二は、彼もまた自分の混沌を拓也に投影させているのかもしれない。拓也はもう背も体格も浩二と同じくらい、いや下手すると彼よりも大きいくらいだ。それでもなぜ、こんなにも幼く危なっかしく、頼りなく見えるのだろう。まだ出来立てみたいな柔らかい肌が、大人の締まった身体を持つ浩二との対比でそう見えるのだろうか。もちろんそれもあるけれど、そればかりではないような……。そういえばそうした危なっかしさは「御法度」の松田龍平にも感じた。彼の場合はそうした危なっかしさが妖しい魅力に昇華していたわけだが、この細山田隆人は、その少年期特有の危なっかしさが危なっかしいままにスクリーンに息づいている。
自分の考えていることすら判らないという苛立ちは、もしかしたら大人も持っているのかもしれないけれども、大人はずるい知恵ばかり身についてしまっているから、そうしたもやもやにも通り一遍の理由をつけることが出来る。でも子供はその苛立ちをそのまま自分の内部に取り込んでしまうのだろうと思う。そうしてそれを分解できないまま蓄積し、はっきりした理由のない怒りや不安に身を焦がす。拓也が強盗未遂をした動機を聞かれ、何も言わず押し黙っていることに苛立った教師が「何事にも動機ってものがあるだろう。それをやろうと思った原因が」などと問い詰めるのだが、拓也にそれがはっきりと判っていたなら、この本来は聡明な少年がそんな愚行は犯さなかったように思う。
浩二はそんな拓也が、判らないまま、しかし自分自身もまた判ってないから、その自分を偽らずにさらけ出して拓也に向かっていく。拓也が知らず知らずほどけていくのは、そうした浩二のむき出しの好意を感じるからなのだろう。
凛もまた、彼女特有のやりかたで拓也を見守っていて印象的。拓也がこっそり喉元にナイフを突き付けているのをにっこり笑って見つめていたり、「友達じゃない、あいつらなんてクズだ」と吐き捨てるように言う拓也を抱き寄せ、彼の手を自分の胸元に差し入れたり……。母でもなく、姉でもなく、友達でもない、女性としての柔らかさと、男っぽい快活さをあわせもつ、つみきみほならでは。
浩二が子供の頃に森で出会った、仮面をかぶった異形の者(宇崎竜童!)に出会うのも、その少年の頃の自分を取り戻したからだろう。この“仮面”というのがこの作品では実に象徴的に使われている。拓也は「13日の金曜日」のジェイソンみたいなプラスチック製の仮面をかぶって強盗に入り、それを悪ノリして真似た悪友(友、と言っていいかどうか……)達が浩二を襲って金を取り、浩二はひょっとこの面をかぶって、かのイヤミな取引先の上司を脅しつける。面をつけた浩二が拓也にふざけてバタフライナイフをつきつけ「仮面をかぶればなんでも出来るんだな。お前に教わったよ」などと皮肉なのか本気なのか判らない口調で言う場面もある。
しかし、浩二は襲った相手に仮面を外して自分の素性を明かし、拓也が浩二のハーレーダビッドソンを拝借してぶっ飛ばすと仮面が風に飛ばされて外れ、森の異形のものは仮面を外すとその姿がかき消えてしまい……そうして浩二も拓也も、自分の行くべき道をはっきりとはしないながらも、その入り口を見つけた時に、仮面は必要のないものとなっていくのだ。浩二が「ちょっと南インドまでな」と凛を追いかけることを暗示させてこの故郷を去る時、ノーヘルでハーレーにまたがるのも、仮面の要らなくなったことを示唆しているのではないか。
離婚した拓也の母親で登場する安部聡子さん、市川準監督作品の密かなるマドンナで、そのほあんとした雰囲気と喋りが私の琴線に触れまくっている女優さんである彼女、市川監督作品以外では全く見ない人なので(舞台の人なのですね)、今回のキャスティングは嬉しかった。どういう事情があったのだろう、このふた昔前の女学生のような雰囲気の彼女が、ほかに男を作って出ていってしまうなんて。彼女、でもそのスーパーナチュラルな存在感には、可憐さばかりでは推し量れないような雰囲気は確かにある。中学生の息子を持つ役柄、なんていうのがいささか意外ながらも、なるほどと思わせてしまうような母性をも醸しだしているところが……。
プロデューサーの山上徹二郎氏の故郷であるという熊本県人吉市(お、ウッチャンと同郷だ)のお国言葉が味わい深い。筒井氏も、細山田君もちゃんと駆使していていい感じ。悩み多き甥や姪の良き相談役となるおじやおば、なんていうのに安穏とした憧れを持っていたかもしれない私(ほら、シャンプーのCMとかにもあったじゃないですか、おばと姪のそういう関係)、そう簡単には行かないよなあ、やっぱり……などと思ってしまったのでありました。★★★☆☆
やはり空手をやっている妹の勤める教会の屋根裏に事務所を置くと、さっそくやってくる依頼人の謎の美女。彼女は四日間のボディーガードを依頼してくる。車中にあるという彼女の小切手を取りに行かせた牙の妹が、彼女と間違われて襲われ、応戦するも全裸にされて放り出されてしまう……。うーむ、この辺は青年コミック誌(梶原一騎原作)ならではの表現かぁ?なにも全裸にせんともいいと思うが、でもこの場面、真夜中、教会の屋根の上の十字架の影が地面に映し出され、両手を広げた妹がその影に重ねあわせる格好で仰向けに倒れているという、まさしくキリストの殉教を瞬時に思い起こさせる格好でとても美しい……あ、でも別に死んでないけど。
美女の正体は暗殺されたニューヨークマフィアのボスの女。のこされた麻薬を横取りして組織と取引をし、高飛びをしようというのである。それに費やす四日間が契約期間。次々とヒットマンに狙われ、危ない目にあっていく。それでもどうしても危険な麻薬取引に固執する彼女をたしなめ、生命は保証するがこの取引は止めた方がいいと諭す牙だが、彼女は聞かず、後一日を残して、牙を解雇してしまう。そして彼女は敵の凶弾に倒れてしまう……。
しっかしこの牙、ボディガードのくせに彼女の危機に気づくのが遅くて、彼女が風呂場で水攻めに遭って死にそうになってからやっと助けに入ったり、彼女を連れて逃げる時も、彼女の腕をむんずとつかんで自分のペースに無理矢理合わせて駆け抜けるだけで、その横には銃弾がびゅんびゅん飛び交い、危なくってしょうがない。とても彼女を守っている様には思えないのだが……。思ったよりも空手を披露する場面も少なく、かと思えば突然思いついたように空中高く一回転したりして!?
それにボディガードにしちゃあ、結構派手なスーツ着て、やたら目立ってるよな……チバチャンらしいけど。「俺の事は牙と呼んでくれ」という冒頭のキザさから、うーん、キテるわ、と思ったけど。加えて、彼ばかりでなく、他のキャストもしっかり「ボデーガード」と発音しているのには、苦笑。思いっきり膝の力抜けるわ……。★★☆☆☆
厳寒の雪山に囲まれた、要塞と化したダムをテロリストが襲撃、織田裕二演じる富樫という男たった一人がその肉体を極限までさらして敵と戦いぬく。雪山に慣れていることと、自分が死に追いやってしまった負い目のある親友の恋人が人質の一人になっていることで自分を奮いたたせて。しかしテロリストの間にも仲間割れが生じ、事態は思わぬ方向へ発展する……。
紅一点である、この“親友の恋人”の存在が私にはどうもうっとうしくって仕方がなかった。男がたった一人で戦う物語に、女は必要だろうか?いや、その存在が説得力があればいいのだけれど、これが松嶋菜々子では!私はどうも彼女がダメである。確かにおっとりとした美人で人気があるのは判るけれど、演技力があるとはどうしても思えない。デビューのNHK連ドラ「ひまわり」の時からダメだったけど(特にあれは上川隆也はじめ、彼女より若い遠藤雅に至るまで、共演者がみんな上手すぎた)、その時から演技的な成長は何一つ遂げていない。TVドラマを中心にやっているから顔演技なのかというと、その顔演技すらもままならないありさまで、顔も身体的にも表情があまりにも乏しいのだ。勿論セリフもしかり。なにか台本のセリフをただつぶやいているという感じすらする。
特にエレベーターで逃げるところで扉が開いた途端敵に遭遇し、持っていた銃の使い方がとっさに判らず焦り、しかし次の瞬間には冷静に銃をぶっ放すという場面。焦りの表情もそうだけど、そのあとの、敵といえど人を撃つという時の表情にしてはあまりにフツウすぎる。しかもまるでモデル立ちみたいに斜めにキレイにたって、腕も何も動かさずに落ち着いて乱射したりして。そりゃねえだろうと言いたくなるのだ。
大体、彼女は最初から最後まであまりにツルンとキレイすぎるのだ。まるで、くずれない。あんな肉体的にも精神的にも過酷な状況で、まんまグラビアに載ってる女優さん状態なんだから困ってしまう。それに演技も連動している感じ。メイクさんナントカしろよ、といいたくなるのだが……外見的に少しは崩れれば、演技も何とかなったかもしれない?あーあ、これが例えば片岡礼子だったりしたら、良かっただろうになあ!
彼女が(多分敵に言われて)サンドイッチを作るところでは、その大量さにテロリストならずとも、んん?と思ってしまう。それもその半分を床に投げ捨てられたにもかかわらず、次の場面では給食のパンを入れるような大きなプラスチック製のハコの中にいっぱいに作って運んでいるんだから苦笑してしまう。なんだってそんなに材料が置いてあるんだ?まさかテロリストが用意してきたわけでもあるまいに。
織田裕二はさすが渾身の力を込めて、その厳しい寒さも伝わるほどの熱演だが、うーん、これは編集のせいなのかなあ、凄いなあ、と思いつつだんだんと飽きてきてしまうのだ。これは「M:I−2」でも同様の事を感じたのだけれど、そのアクションがスゴいのはよーく判るのだけど、それを凄いでしょう、とばかりにずーっと見させられると何だかだんだん、ふーん、という気持ちになってきてしまうのだ。これがジャッキーみたいに、物語のスリリングな展開と合わせてぐんぐん盛り上げていくアクションなら、ずっと手に汗握っていられるのだけど、わりとそこから切り離された部分で主人公一人がアクションに奮闘していると、こういう現象が起きてしまう気がする。
加えて、彼演じる富樫は一人で行動しているからあまり喋らないのだけど、いざ喋る時にはなんだかずいぶんと説明的というか、ヒーロー然としたことを言うからちょっと興ざめてしまうのだ。いや、勿論ヒーローなんだから、いいんだけど。特に激しい水流に押し流されながらも命からがら隣のダムにたどり着き、警察と無線で話す場面、疲労困憊の状態でも「約束したから」云々とアツく語っちゃうのには、わかったわかった、と言いたくなる……ヒネクレすぎかしらん。
テロリストたちの側の方が、復讐でこの仲間に加わった者(吹越満)あり、最初から裏切るつもりだったリーダー(佐藤浩市)ありと面白いのだけど、その黒づくめのマントみたいな格好といい、リーダーの、天パの長髪に車椅子といういでたちといい、妙にマンガチックで恐ろしさに欠ける。佐藤浩市の特異なキャラクター作りは確かに面白かったんだけど。しかもこいつ、乗ってたヘリコプターが墜落したってのに死なない上にピンピンして富樫とバンバン戦っちゃうしさ(笑)。
この、ヘリコプターを富樫が墜落させる場面の雪山からの大雪崩は、CG(でしょうね)と判っていても、さすがに迫力だった。ここは本当に凄かった。
警察内の、地方と東京本部の確執も食い足りないまま。地方署長の中村嘉葎雄は味わい深かったが。
感動のうちに終わるはずのラストを、あの演技力状態の松嶋菜々子嬢で締めくくらせるのはちょっとツラすぎ。★★☆☆☆
不勉強な私は、このジャクリーヌ・デュ・プレという人を知らなかった。15歳でデビュー、天才と言われながら28歳で不治の病によってステージを降り、42歳の若さで亡くなった美貌のチェリスト。そして彼女の人生が、彼女の姉、ヒラリーによって語られ、その赤裸々さで物議を醸したというこの本作。ずっとずっと、神聖なる伝説のミューズであっただろう彼女を、現実の女に引きずり下ろした。でもそれは本当にジャクリーヌを愛しているヒラリーだからこそ、彼女が伝説の存在として崇められているのが哀れだったんだろうと、この映画を観れば理解できる。
実際、“本当にジャクリーヌを愛していた”のはヒラリーだけだったのだろうと思うのだ。いや逆に、ジャクリーヌが本当に愛していたのが、ヒラリーだけだったと言うべきなのかもしれない。ジャクリーヌは優秀な姉と一緒に演奏がしたくて懸命にチェロの練習をした。別にチェロが好きなわけじゃなかったのに、そのことによって彼女の才能が発掘されてしまう。自分の意に反してどんどん姉と引き離されてしまうジャクリーヌ。そして当の姉からは、口には出さないながらも嫉妬と羨望の眼差しが注がれる。しかもその姉には愛する男が出来る。自分に向けられるのは、天才チェリストである弾き手としての才能にだけ。ピアニストであり指揮者であるアルゼンチンのダニエル・バレンボイムと「クラシック界のプリンスとプリンセス」と騒がれる結婚をした彼女、その出逢いは運命的のように見え、彼が振り向いたのはまさに彼女のチェロの演奏によってであって……。彼は真実自分を愛してくれていると思っていたのに、それは姉の結婚で孤独を感じていた自分が半ば強引に引き寄せた恋愛&結婚だったかもしれず、音楽家ではない自分でも愛することが出来るかという問いにイエスと言わない彼に彼女は深く絶望してしまう。
……とこう思えるのは、後半、ジャクリーヌ側からの視点で観るからなのだけれど。物語は真っ二つ、前半はヒラリー側の視点で描かれ、後半はそのまったく同じエピソードと、ヒラリーには見えない部分でのジャクリーヌが描かれるのだ。だから前半部分を観ている時はとにかくヒラリーがかわいそうで、旅先から汚れた洗濯物を送りつけてくるようなジャクリーヌになんだコイツと思い、いっくらジャクリーヌ側から描いたって、絶対コイツに問題ありに決まってる、と憤るのだけれど、……やっぱりヒラリーよりもっともっとジャクリーヌのほうがかわいそうなのである。悲惨なんである。この洗濯物のエピソードだって、家からちゃんと洗濯されて送りかえされてきた包みをせわしなく開けたジャクリーヌが深くその匂いを吸い込み、「家の匂いだわ!」と破顔一笑するのを見る時、家族から一人離された彼女の強い孤独感を痛切に感じてしまう。ヒラリーはそうしたジャクリーヌを見ていたわけではなく、表面上は才能豊かでみなにチヤホヤされる気まぐれな妹でしかなかったはずなのに、彼女をどこか不憫に思っている様子があったのは、彼女たちだけに通じるものが確かに存在していたんだろうなと思わされるのだ。
精神のバランスを崩したジャクリーヌが、ダニエルの前から姿を消し、ヒラリーの元に身を寄せる。ジャクリーヌはヒラリーに、ダンナと寝たいと要求するのだ。「セックスがしたい、男が欲しいの。ただセックスだけでいいの!」と森の中、服を全部脱ぎ捨てて小さく丸まって叫ぶ彼女は明らかに精神に破綻をきたしている。ヒラリーは仕方なくダンナに頼んでジャクリーヌの希望を叶えるのだけれど、それが正しかったのかどうかは、……難しい。それは道徳的な面でということではなく、この一件によってヒラリーの気持ちが妹から離れてしまうことでもなく(それらも問題なのだけれど)私には、ジャクリーヌがこんな無茶なことを言ったのは、意識的か無意識かは判らないけれど、“ヒラリーと寝る”ことの代替ではなかったんだろうかと思ってしまうからだ。だから、他の男ではなく、彼女のダンナでなければならなかった。ジャクリーヌは出来るものならヒラリーと寝たかったんじゃないだろうかと、一心同体だった幼い頃の姉妹同士に戻りたかったんじゃないんだろうかと。……それは冒頭とラストに描かれる、まだ音楽や楽器に翻弄されていなかった幼い二人がしっかりと抱き合っているシーンや、ジャクリーヌが脚光を浴び始めるようになった時、一緒のベッドで眠った二人が、ジャクリーヌの演奏旅行で引き離されるところから運命が転がり出していく展開がそんな風に感じさせてしまうのだ。
ジャクリーヌは女性がつける最新の避妊具をかざして「これさえあれば、結婚なんてする必要ないのよ」とヒラリーに豪語する。それは一見、そのあふれる才能によってひとりで生きていくことが出来る彼女の傲慢さにさえ見えかねないのだけれど、あの場面、自分が求婚されたことを頬を紅潮させて報告するヒラリーに対する、ジャクリーヌ側からの求婚だった気さえするのだ。いつだってジャクリーヌはヒラリーしか見ていないのに、ヒラリーに会いに行くと、彼女の後ろにはいつでもダンナがいて……、そしてそのダンナはヒラリーをヒラリーとしてだけ受け止めてくれるダンナで、ジャクリーヌにとってのダニエルとはまさに正反対で。
この場面で一番顕著なのだけれど、ジャクリーヌとヒラリー、それぞれの立場で描かれる時に聞こえてくるセリフがおのおの違っていて、そしてジャクリーヌは特に、ヒラリーに対して選択するべき言葉を誤っている気がして、このふたりのすれ違いは言葉の足りなさなのだと思いもしたのだけれど、いや、すれ違ってなどいない、言葉なんてこの二人には無用なものなのだと、死の直前のジャクリーヌを腕に抱きかかえるヒラリーを見て、思った。確かに表面上はヒラリーはジャクリーヌに嫉妬し、その言動に傷つき、そしてジャクリーヌは、自分のそうした存在を歯がゆく思っている、そうした二人の存在の仕方に見えるのだけれど、もっともっと根本の部分で彼女たち二人は双生児のようにつながっていて、だからこそあの不思議な、幸福なラストなのだと思えるのだ。……海岸でじゃれまわる幼い日の二人、夕暮れ、逆行を浴びて黒いシルエットで波打ち際にたたずむ女性に気付いてジャクリーヌは近づいていく、そしてなにかを言われる。まず冒頭に置かれるその美しい場面は、ラストもう一度反復され、その女性が大人になったジャクリーヌであり、幼い日の自分に「何も心配しなくていいのよ」とささやくのだ。ジャクリーヌの人生はその言葉とは裏腹なものだったのだけれど、でもこの言葉に大きく肯くことが出来るのは、ヒラリーがいつでもジャクリーヌのそばにいるから、離れていてもいつでもそばにいるから……そういうことではなかったのかと。
ジャクリーヌのチェロにしても、ヒラリーのフルートにしても、それはピアノや声楽などと違って、未完成さを感じさせる楽器だ。その楽器ひとつだけでは、(全くとは言わないけれど)演奏として成り立たない。幼い日、デュオで奏でたあの形が、やはり完成形だったのだ。お互い寄りそわないと生きていけない。チェロを構える姿勢や、フルートを吹く時の唇の形がどこかエロティックに見える……と言ったらちょっと言い過ぎだろうか。でもこれは邦題がジャクリーヌだけに焦点を当てているけれど、やはり原題の「ヒラリー&ジャッキー」であり、彼女たち二人の運命的結びつきの物語なのだから。★★★☆☆