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「ふ」


1999年鑑賞作品

ファイアーライトFIRELIGHT
1997年 103分 イギリス=フランス カラー
監督:ウィリアム・ニコルソン 脚本:ウィリアム・ニコルソン
撮影:ニック・モリス 音楽:クリストファー・ガニング
出演:ソフィー・マルソー/スティーヴン・ディレイン/ケヴィン・アンダーソン/リア・ウィリアムズ/ドミニク・ベルコート


1999/6/11/金 劇場(Bunkamura ル・シネマ)
よーく考えると気になるところは結構ある。子供を宿し、産むことを条件に三夜にわたって肉体関係を結ぶ(もしかしたら処女かもしれない)エリザベス(ソフィー・マルソー)が第一夜の苦痛から第二夜には悦びの前兆を感じ、第三夜には絶頂の叫びをあげるまでになるという、男性的な見方の都合のよさや、娘への気持ちを断ち切れず、7年後家庭教師として潜り込み、苦労はするものの娘からの信頼を勝ち取る……と言えば聞こえはいいが、父親とベッドで共に寝ているところを見られたりしているのに、いくら思いをつづったノートを見たからってころっとエリザベスを母親と認識してなついちゃう娘の描写があさはかだし(だいたいこのノートをいかにも見てくれというように机の上に放り出しておくのも解せない)、娘への思いとチャールズへの思いをやけにバランスよく持っているのもどうかと思うし、この家の主人、チャールズに思いを寄せる、彼の植物人間になった妻の妹がこのわがまま娘、ルイザに全く関与しないのもおかしいし。

しかしそれでもなおかつなぜこんないい点をつけたのかというと、観ている時は全くそんな事に思いが及ばなかったからだ。それぐらい、役者が素晴らしかった。私は今まで、映画はその中味のよさ(脚本や、監督の脚本の理解の仕方など)が映画の出来不出来を最終的には左右してしまうものと考えていて、どんなに上手い役者が出ていても、というか、その中味のよさが役者のよさを引き出して、いいもの同士が共鳴しあって(あるいは凡百だった役者でもその中味のよさによって磁石のようにいいところが引き出されて)傑作、秀作ができるものだと思っていたのだけれど、これを観て少し考えを改めてしまった。どんなに中味に疑問があっても、役者が説得力のある、感動的な、心からの演技を見せてくれればその欠点をも覆い隠すことが可能なのだと。

特にソフィー・マルソーが素晴らしい。彼女の官能、コルセットで押し付けられた胸のうちのめらめら燃えている感覚、冷静を装った表情の下の喜怒哀楽をさえ感じさせる入魂の演技!正直言って彼女がここまで上手いとは思わなかった。いや、「女優マルキーズ」でソフィー・マルソーを久しぶりに見た時、彼女こんなにいい女優だったっけと思っていたけど、あの奔放な女性とは全く正反対のキャラクターであるこのエリザベス役でまた完全にノックアウトされた!最初22歳の設定で出てきた時には、ソフィー・マルソーが22歳??と思ったがそれが全く不自然でないみずみずしさにまず驚いたし、それが外見的なことももちろんだが、それ以上に、父親の借金を返す金を作るためとはいえ、自分のからだを売り渡すことへの抵抗から、たった三夜でチャールズへの思いを募らせていくさまを自然に見せ、なおかつ(特にそうした会話をかわすわけでもないのに)インテリジェンスを感じさせるという、改めて考えてみると本当に難しい内面演技を実にさらりとしかも説得力も充分にこなしている。

そして落ち着いた風情で、しかし娘へのそしてチャールズへのはやる思いを胸に秘めていることをせつせつと訴えてくるような7年後の彼女もまた、それ以上に素晴らしい。メイクや何かで年を表現することを全くせずに、本当にたたずまいでその年齢をまとわせている。そして7年前のうぶな頃とは全く違う、女性としての欲望を押さえ切れない官能さ。彼女の誘う唇が格別である。暖炉の火の光(ファイアーライト)はすべてをなかったことにしてくれる、とあの三夜の時もともされていた暖炉の火を思い起こしながら言う彼女。立ち上がり、チャールズの目を見るべきかそらすべきかといった風情で、あえぐようにもれ出る吐息を隠せず、半開きにふっくらと震える彼女の唇は、まるで吸ってくれと言わんばかりに蠱惑的である。実際チャールズはあらがえずに彼女とくちづけをかわすのだが、どんな扇情的なメイクラブ・シーンよりも、キスシーンの方がよほど官能的だとあらためて思う。誘う唇といえば、フランスの女優たちは思えばみんなそんな唇の持ち主だ。シャルロット・ゲンズブールもロマーヌ・ボーランジェもイザベル・アジャーニも、やや開きかげんで物言いたげで柔らかそうな唇の持ち主である。薄くて薄情そうで理屈ばっかり言ってそうなハリウッド女優とはひと味もふた味も違うのだ。

忍耐と愛情を同時に持って娘を教育する“誇り高き”(彼女に惚れたチャールズの友人の弁)エリザベスは教師としてもきわめて魅力的である。使用人と娘からののしられても毅然とした態度をくずさない。知らず知らずのうちにアルファベットを覚えさせてしまう彼女の手腕。絵の上手さ。家庭教師としてキャリアを積んできたことを充分納得させる貫禄である。

7年前の三夜も、家庭教師として住み込む時も季節は冬である。モノクロかとみまごうような寒々しい景色。それに対比するかのように燃え上がる彼女の情念。娘ルイザが隠れ家として使う、湖の中にぽつんと浮かぶ石造のコテージが魅力的である。カメラはその中に入ることはなく、いつも娘を、または全裸で泳ぐチャールズを切なく見つめるエリザベスの姿(首すじに微かに触れるしぐさだけで彼女の思いが切実に伝わってくる)。娘ルイザに信頼されてこのコテージに招き入れられる時になってもカメラは岸のこちら側から動くことはない。いや、正確に言うと父親と添い寝するエリザベスを見てしまったルイザが、氷のはった湖を歩いていき、氷が割れて湖におちたのをエリザベスが助けるシーンで湖の中ほどと水中にまでカメラは行くのだが、それが惜しいと思うくらいである。あくまで岸のこちら側にカメラ(観客)を固定することで、湖とコテージを聖域とする視線が魅力だったからだ。

道楽ものの父親の借金のために奔走し、疲れ切ったチャールズ。ある寒い晩、長年植物状態だった妻を安楽死させるため窓を開け放つ。一見唐突、借金からの逃避とエリザベスへの愛のために、身勝手な思いからとったかに見えなくも無いチャールズの行動。自責の念にかられるエリザベスもまたしかし自分の行動に後悔はないという。罪を分け合うことで二人はより一層の結びつきを得たのかもしれない。しかしこれがこの恋愛だけに命をかけるものならこうした描写もアリだろうが、娘との信頼関係もきっちり築き上げるあたりはいささか出来すぎではあるのだけど……。

ここでチャールズに(同志的な愛情ではあっても)愛されていると思っていたチャールズの妻の妹(まどろっこしいんだけど、役名忘れちゃったんだもの……)がそれが自分だけの思い込みであったことを思い知らされる場面が哀切である。借金のかたにすべてを持っていかれ、白くだだっぴろい部屋にぽつんと座っているチャールズに近寄り手に接吻する彼女。その手をためらいがちに、しかしはっきりと引っ込めるチャールズ。10年もの長きにわたって、チャールズの妻(=彼女の姉)をかすがいとしてきたと思っていた彼女の思いが打ち砕かれる瞬間である。チャールズは妻は妻として彼女しか見ていなく、そしてエリザベスとルイザに対する思いも同様だが、彼女にそうした思いを抱くことはついになかったのだ。彼女の役どころはもう少し突っ込んでほしい深みのあるものだけに、ここでふつりと途絶えてしまうのはもったいない。屋敷が売り払われた後、行くべきところなどないはずの彼女の姿が見えず、それの説明もされないのもいささか納得が行かないのである。

四つ星のわりには文句が多すぎるのだけど、やはりこの点数は揺るがない。ソフィー・マルソーの素晴らしさは格別だったし、チャールズ役のスティーブン・ディレイ、チャールズの妻の妹役の女優さん(俳優名も判らない……)、ルイザ役のドミニク・ベルコートなどそれぞれ水準以上の出来だった上、神秘的な映像も秀逸だった。まったくソフィー・マルソー、いい女になったなあ!!★★★★☆


ファザーレス 父なき時代
1998年 78分 日本 カラー
監督:茂野良弥 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:斉藤大樹 村石雅也 音楽:柞山智宏
出演:村石雅也

1999/6/25/金 劇場(ユーロスペース)
ラスト近く、自分がバイセクシュアルだということを告白して「僕のことを気持ち悪いと思った?」と母親に問いかけると「とんでもない、よけいに愛しくなっちゃったよ」と息子を抱擁する母親、そのシーンに観客の多くがすすり泣きをしていたようだった……でも私はその場面だけでも成立するような情緒的な感情に対して反応して感動するのはちょっと違うような気がしていたのだ。私が感じていたのはそこで母親が発する「それはあんたが不安定だから、頼れるものを探しているんだよ」云々という言葉で、彼女が息子を愛しいと思っていることはまさにそこから出ているのではないかと……悩み、苦しみ、弱く、保護すべき存在として。彼女は彼が本来はストレートで、中年の男達に抱かれているのは一時的な迷いにすぎないという考えなのではないだろうかと、そして果たしてそれは本当にそうだろうか?

冒頭、このドキュメンタリー作品の主人公である村石雅也氏が、上野の成人映画館界隈で出会った中年男達に誘われ、ホテルでコトに及んでいる様子が描かれる。そして、女性の恋人と別れる場面(?)も出てくる。そしてその他は終始彼の家族との対話に当てられるので、彼がゲイなのかストレートなのか、はたまた自身が言うようにバイセクシュアルなのかは判らない。当人にも判っていないのではないかと思う。そんな自分がたまらなくなって自傷行為に及ぶ場面などは、その切れないナイフで力いっぱい体を切りつけている描写に思わず腰が引けてしまう。……ふと自傷行為とは、ナルシシズムの裏返しではないかな、と思わなくもない。傷つけられた自分を憐れんだり、あるいは自慰行為に似た、恍惚とした感覚に陥ったり。彼の中ではまだアイデンティティが確立されていないのだ。それはこの映画のタイトルにもなっている父親との関係性が大きく作用しているのかもしれないし、あるいはくだんの母親の性的な匂い……離婚後、男友達を家に連れ込んでセックスしているのを彼が目撃したことや、年下の(それまで童貞だった)男と再婚したこと等……も絡んで複雑な様相を呈している。

キャッチコピーに「この映画が完成したら僕は自殺しようと思っていた」とあるのが実にうなづけるほど、まさしく決死の覚悟がなければここまで切り込めないと思うほど村石氏は自分の家族の問題を掘り下げていく。女と借金を作ったことが原因で、母親と離婚して以来会ったことのない実父、離婚以来自身の生活におわれて、おば夫婦に息子を預けっぱなしで母親としての機能を果たしていなかった母親、そしてその母親との関係修復……中学時代の短い蜜月の後やってくる若い義父、そしてその義父の抱える被差別部落出身というトラウマ……劇場公開をする(最初は卒業制作というかたちであったものの)作品としてここまで切り込み、ここまで赤裸々に自らの負の部分を語るという凄みに驚嘆してしまう。

村石氏は実父に会いに行き母親と対面させ、自身のわだかまりを二人にぶつけ、ついには涙を流す。長いこと会っていなかった二人もどこか居心地悪げにしながらも、お互いの変化をゆるやかに受け止める。そして義父。最初村石氏の主観的な所から描かれる彼は、いささか自信家で、子供の気持ちを汲み取ろうとしない男に見える。しかしそれがどちらかといえば村石氏の方でカベを作っていたことが明らかになっていく。……というのも(先述したように)村石氏には小学校時代引き離されていた母親との関係性を中学になって取り戻し、中学時代は“ちょっとおかしいほど”母親とべったりと仲がよかったのだという。そこへ入ってきた義父。高校生という複雑な時期の男の子にとって上手くやっていけという方が無理というものだろう。

そして村石氏は逃げるように東京に進学し、そこで何一つ見出せないまま、いや、自らのアイデンティティのなさを見出したと言うべき堕落した生活を送り、窮地に追い込まれる。しかしこうした機会を得て義父と徹底的に話し込むと、この義父、実に大した人物なのだ。被差別部落出身ということで容赦ない差別を受け、そのことに卑屈になっている親からも自分の気持ちを裏切られ、たった小学校一年生で家を出、川辺の小屋で生活していたという義父。そのことでいまだに悪夢を見てうなされる義父。村石氏の執拗な問いかけに(やや興奮気味になりながらも)怒ったり無視したりせず、きちんと答えていく。「雅也ともっと小さな頃に出会いたかった」と言う彼は、自分と血のつながった子供は持てなかったものの、自らの子供時代のトラウマをいっぱいにかかえ、それをどこか誇りに思って生きている様は、これ以上ない素晴らしい父親である。そう、村石氏と親子になったのが遅すぎた……あるいは村石氏が思春期真っ只中だったことが、その父親性を発揮できなかった原因なのだ。

むしろこうして苦しむことが出来る村石氏は幸福なのかもしれないと思ったのは、自衛隊松本駐屯地に勤務する兄の冷めた姿勢である。彼は村石氏から、両親の離婚を止めなかったことをなじられ、寂しいとか哀しいとかいう感情は持てない人間であることを述懐する。であった、ではなく、彼は多分今でもそうなのだろうということを匂わせる口吻で。彼が他ならぬ自衛隊を自らの居場所にしたことが一層感慨深いものを与える。

この兄のそうした哀れさは、彼に他の家族に感じる性の部分を感じないからなのかもしれない。このドキュメンタリーは家族の結びつきをうたっていながらも、いやだからこそか、それぞれに性への強い自己認識を感じるのだ。息子である村石雅也氏はその揺らぎに本当の意味で死にそうなほど悩んでいるし、外に何人もの女を作らずにいられない性分だった実父、まだ女盛りであるうちに離婚してしまった母親、30代半ばまで童貞だったという母親言うところの“国宝もの”の義父……といった具合に。それは翻って“生”へのエネルギーでもあり、村石氏が自殺しようと思ったというのも、生を(この時には表裏一体である死を)強く感じている証拠である。だからこそこの徹底的に話し合う親子の姿は魅力的なのであり、その中でこの兄の存在がふと気になるのだ。

ラストもラスト、義父が村石氏を自分の故郷に連れていってくれるという場面がある。二度と思い出したくもない、見たくもなかった故郷へ。義父もまたこの映画がきっかけで自分を見つめなおすことが出来たのだろうが、それにしてもこの行為は村石氏が義父を「誇りに思う」と言うのもおおいにうなづける立派さである。村石氏、自殺する前にこの映画を撮って本当に良かった、そして生き続けるエネルギーをもらえて本当に良かった。もちろん彼の本当の正念場はこれからである。前述したように、彼自身のセクシュアリティ、そしてアイデンティティはまだ揺らいだ状態だということと、それを受け取る母親側がどうやら固定観念で息子を見ているらしい、ということ。でもここまでお互いをさらけ出したのならもう心配はいらないだろうが。

少々音楽が大袈裟すぎてうるさかったのが残念だった。この主題ならイメージ的な映像はともかくとして、音楽は出来るだけ抑え目に、目の前のノンフィクションだけを熱を込めて観たかった気がする。★★★★☆


54 フィフティ★フォー54
1998年 101分 アメリカ カラー
監督:マーク・クリストファー 脚本:マーク・クリストファー
撮影:アレクサンダー・グルズィンスキ 音楽:(監修)スーザン・ジェイコブズ
出演:ライアン・フィリップ/マイク・マイヤーズ/サルマ・ハエック/ネーヴ・キャンベル/セラ・ウォード/ ブレッキン・メイヤー/シェリー・ストリングフィールド/エレン・アルベニティニ・ドウ/ヘザー・マタラッツォ/スキップ・サッデス

1999/8/4/水 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
70年代の、ディスコの世界。どちらも私にとっては全くの未知の分野だ。NYにあった「54」なんていう伝説のディスコも、そこのオーナーであるスティーヴ・ルベルも私は知らなかった。毎夜毎夜有名人たちが集い、エントランスではルベル自らがベルベット・コードとよばれる入場チェックを行う。車を横づけにして華麗な格好であらわれ、すんなりと通されるスターたちと、何とか入れてもらおうとせいいっぱいの格好をして手を挙げてルベルにアピールして押し寄せてくる一般ピープルたち。まさしくアカデミーナイトのような騒ぎのエントランス。選ぶものと、選ばれるもの。選ばれて54の中に入ると、金飾銀飾の、まア、絵に描いたような別世界。この選民思想。ルベルは神のようでもあるし、ナチのようでもある。

NYの対岸、ニュージャージーに住んでいて、漠然と有名願望があったシェーン(ライアン・フィリップ)は入場を許される。その美貌と彫刻のような体がルベルの目にとまっての許可証。シェーンは初めて“選ばれた”ことに狂喜し、夢のような一夜を過ごし、即刻ウェイターとして54に入り込む。この就職面接でも、ろくな受け答えをしていないのに、ルベルはシェーンを起用する。ここにいたって、判るのだ。ルベルはイケてる人物をピックアップするわけではなく、自分の気に入った人物を引き入れるのだと。“有名人”という肩書きがついていれば無条件だし、そうでなければ美しい者、自分と同じように有名願望がある者、夢に向かってふんばっている者などがその条件。好きな人でまわりを固めて楽しい時を過ごそうなどというのはいささか幼稚っぽく感じられもするが、それが彼の積年の夢だったのだろう。……考えてみれば私たちの究極の夢は皆それと同じかもしれない。

出入りするあまたの有名人の中で、一番何度となく語られる名前が、トルーマン・カポーティであるというのが象徴的である。歌手でもなく、俳優でもなく、デザイナーでもなく、作家であるカポーティが常連客であることが一番誇らしげなのは、ルベルのみならず、その54に集う客や従業員もまた同じようなのだ。エンターテインメントの王道を行っていながら、知的であることを拠り所としているある種の歪んだ自尊心。見るからに田舎者であるシェーンは当然このカポーティも知らず、その若く美しい肉体だけを武器に54にいることで「美しい原始人」などと揶揄される。一瞬、美しい容姿の中味はお粗末なシェーンが哀れにも見えるが、その実哀れなのは、そうした知的自尊心で内側を膨らませて自らを誇っているような嫌みなインテリ人達なのかもしれない、とも思う。自らの美しさをことさらに自覚せず、野望を達成する手段も実にまっすぐな、裏取り引きなど考えもしないシェーンのピュアさはさわやかですらあるからだ(頂点にのぼりつめて鼻高々になったところをくじかれたりするあたりも)。そのピュアさはウェイター仲間で親友のグレッグ(ブレッキン・メイヤー)も同じであり、彼の場合、シェーンほどの美しさを持ち得なかったことで彼と同じ成功はつかめない。しかし、このグレッグはいいキャラクターだ。自分の野望はないわけではないけれど、妻の歌手としての成功を信じて、その資金稼ぎのために働いている彼。おだやかなルックスが私にとってはシェーンよりも魅力的だ!

スティーヴ・ルベルに扮するマイク・マイヤーズが、ちょっと驚きのはまりぶりを見せる。マイヤーズと言えば「オースティン・パワーズ」のオースティンか、「ウェインズ・ワールド」のウェイン、どちらにしてもおバカなキャラしか知らなかったのが、過去に苦労してのし上がってきた、どうやらゲイらしい、野望と人情がないまぜになったような複雑で繊細な人物像を禁欲的に演じていて、それがまた上手いのだ。ストーリーの中心となっているのは語りべでもあるシェーンだが、その実の主人公はミスター54であるルベルだろう。……いや、54自体が主人公というべきか(それならタイトルロールだ)。

これがディスコ映画でもなくナンパ映画にもならなかったのは、54がディスコといいつつディスコではなく、自分の存在を高めるためにある場所だったから。そのために54のバーテンダーにまでのぼりつめた(それはイコール、有名人になることである)主人公、シェーンの物語が妙に普通の、普遍的な青春モノになってしまってちょっと物足りない気もするけれど。今ではすっかり古臭いものとなってしまったのがこの映画を観ていると信じられないくらい輝いているディスコ・ミュージックが全篇を彩る。……いや、“古臭く”なってしまったのは、この物語中で語られるようにディスコが大企業の運営に渡ってしまってそれぞれのディスコが急激に個性をなくしてしまった時、ディスコ・ミュージックもまた同じ道をたどらされてしまったのだろう。ディスコ・ミュージックという肩書きをつけられる前、54にかかっていた、54でしのぎを削っていた歌手たちの聞かせるソウルはこんな風に圧倒的パワーを持っていたに違いない。小さなCDコンポや自分一人で聞いて悦に入るヘッドフォンステレオなどに収まってしまうような音楽ではなかったのだ……多分。★★★☆☆


WHO AM I?我是誰/WHO AM I?
1998年 120分 香港 カラー
監督:ジャッキー・チェン/ベニー・チャン 脚本:ジャッキー・チェン/スーザン・チャン/リー・レイノルズ
撮影:プーン・ハンサン 音楽:ネイサン・ウォン
出演:ジャッキー・チェン/ミシェル・フェレ/山本未来/ロン・スメルチャク/エド・ネルソン

1999/11/27/土 劇場(新宿ジョイシネマ1)
観終わった瞬間、「面白かったー!」と椅子から滑り落ちそうになりながら私と同時につぶやいた、ジャッキー初体験の友人に思わずまくしたててしまった。そうそうそうでしょ、ジャッキー・チェンは本物なんだよ!本物の映画スター、本物の男!ジャッキーを見たら、アクション映画とはかくあるものぞと思うでしょう、ハリウッド映画における“アクション俳優”なんてまがいものだと、よおーく判るでしょう!今回はジャッキー大久々の自身の監督作。共同監督とはいえ、「プロジェクト・イーグル」以来、実に八年ぶり!この時をどんなにか待ち望んだことか……いつか機が熟した時に、力をためて再び監督をするだろうと信じていたとはいえ、やはり驚きと嬉しさは隠し切れないッ!ジャッキーに関してはついつい点が甘くなりがちの私は、今から思うとかなりムリのあった「ナイスガイ」などにもへーぜんと★★★★★をつけたりしちゃうのだけど、自身が監督するとこれほどまでに違うものだろうか!

なんといっても言わずもがなのアクションの危険さは、これまでのジャッキー全作品の中でもベスト1!他人に監督を任せていたここ数年、責任の所在が自分にないせいか、やはりやや遠慮がちのアクションになっていたのだといまさらのように気づく。もちろんどの作品でもアクションの質は高く、しっかり見せて、魅せてくれるのだけど、死と隣り合わせになるような危険なアクションはやはりなりをひそめていたのだ。ジャッキーもいつまでも若くないし、あの頃がピークで下降線だったのかなあ、などと思っていたのが、とおんでもない!そんなん死んじゃうよ、ジャッキー!というのを、ファンは残酷ながらもやはり観たい、その期待を十二分に満たす凄まじさ。ビルの上でのアクションはお約束だが(でもスゴイ!)急傾斜になっているガラスばりのビルのカベを屋上から滑り降りるクライマックスにはアゼン!その他にもガラスの落下を両はさみうちにさせて(片方だけにしとけばいいのに!)落ちてくる犬を間一髪助けたり、木靴を履いての、そしてジャッキーお得意の椅子を使ったアクションなどなど、無数に繰り出されてくる目を疑うシーンの数々、この人のアイディアマンぶりには本当にひれ伏するしかない!

今回の役柄は記憶を無くした秘密工作員。飛行機から墜落し、奇跡的に助かったジャッキーは南アフリカの地元原住民に助けられ、そこでしばしの時を過ごす。物語の前半は、記憶を取り戻せないまま言葉も判らないネイティブの人たちの間でまごつくジャッキーを丁寧に描写していて、しかしなかなかジャッキーのアクションが見られないものだからいささかじりじりとする。とはいえ、ジャッキーのお人柄がよく出た、人々との和気あいあいぶりは楽しいし、冒頭からの凄まじい戦闘アクションや、この村を空撮でとらえた、唖然とするほどの壮大なモブ・シーンなど、見所に事欠くことはないのだが。そう、ジャッキーが監督すると、カメラワークも冴えに冴えわたる。映画の、大スクリーンの醍醐味をこれでもかと見せつける。テレビの画面ではつぶれてしまうであろう、とおーくの山の稜線に立つ三人の見張りの小ささ!移動ショットのスピーディーなスリリングさ!アクションスターとして見られがちなジャッキーだけど、やはりプロフェッショナルな監督なんだよなあー、映画の見せ方を十二分に心得ている。

砂漠の中のラリーを発見したところから、猛スピードで展開が回り出す。車の故障と、兄の負傷にお手上げのレーサー、ユキ(山本未来)を助けるジャッキー。このレースでもそうだけど、このことによって文明社会へと戻ってきたジャッキーが組織に追われて見せる街中でのカーチェイスは、これまで見たどんな映画よりも数段、数十段スゴい!スゴ過ぎるッ!思えばジャッキーは「デッド・ヒート」なんていう映画もあったくらいのカーキチでもあったのだ……。完全に真横になってビルの間を擦り抜けるわ、奇跡的な駐車テクニックを披露するわ、それをやりこなす山本未来もカッコイイぞ!正直彼女は、ミシェル・フェレ(新聞記者に姿をやつしたCIA)に見せ場をほとんど持ってかれちゃってお気の毒なんだけどね。

昔はアクションの動きがよく判るようにと、あの独特のマッシュルームカットだったジャッキーが、役柄のせいもあるだろうけど、短く髪を切り、そしてこれも役柄のせいだろう、シリアスな顔をしている場面が多く、なんだかとてつもなくハンサム!惚れるわー!そしてこれぞジャッキー!というべき達人どうしの(というか、ジャッキー対二人だけど)闘いも、今回頂点に達した。まず長い!いつまでたっても終わらない!もちろん退屈するなんてことはあるはずもなく、時にしっかりユーモアをまじえて笑わせながら、超絶アクションを繰り広げる。二人の対決相手のうち、欧米系の男の方がジャン=クロード・バンダムみたいな開脚ワザの持ち主、ジャッキーだってその点でも負けてないもんだから、こやつとやる時はまるでバレエでも観ているように美しいアクション。しかし子供のケンカのようにムキになってスネを蹴りあって笑わせる余裕もかます。もう一人のアジア系の男とは、よりスピーディーなアクションを展開し、目も回る(彼に引っかけていた針金?がらせん状にねじれるギャグには笑った!)キレのいいアクション。つまり、アクションにおけるあらゆる型を存分に見せた、アクションの見本市、お手本のような素晴らしさ。もう口があんぐり開いたまま閉じられない!

ジャッキーが自ら納得いく、満足いく自身の監督作を撮るために、目も回る忙しさで出演作をこなしながら、あせることなくじっと待っていたであろうことを考えると、なんかもう泣けてきちゃうんである。恒例のNG集で、久々に本当にヤバいNGが満載されているのを見るにつけ、そんな泣き笑い状態でハイテンション!?あー、もうジャッキーのファンでい続けて良かったなー!!★★★★☆


フェアリーテイルFAIRY TALE A TRUE STORY
1997年 98分 イギリス カラー
監督:チャールズ・スターリッジ 脚本:アーニー・コントレラス
撮影:マイケル・コールター 音楽:ズビグニエフ・プレイスネル
出演:フロレンス・ハース エリザベス・アール ピーター・オトゥール ハーヴェイ・カイテル

1999/4/1/木 劇場(銀座テアトル西友)
まず言いたい。予告編で既存の曲(「フォレスト・ガンプ」のサントラ)を使うのはやめて欲しい。

二人の少女が撮った妖精の写真が巻き起こす大論争。これが本当の物語だというのだから凄い。ということは、その写真も実際に残されているのだろうか。実名の著名人、コナン・ドイルや、フーディニが出てくるのだから凄いが、やはりこの映画の主軸はそんなところではなく、さらに妖精が本当にいるのかどうかというところでもなく、子供の心の美しさと、それを大人になってもいかに持ち続けるかというところにある。
“大人になるということは、信じることを忘れること”あるいは、信じられなくなること、そして信じることを信じなくなることなのかもしれない。ただ、子供の信じるピュアな心だけでは傷ついてしまうものがあって……。“存在する”ことをかたくなに実証しようとした結果、美しい野が荒らされてしまう現実には、心が痛む。

少女たちに邪気はなかったものの、結果的には住み処を荒らされてしまった妖精たちが、ひっそりと、黙って出て行く。しかし騒ぎが収まり、野がもとの美しい静けさを取り戻すと、妖精たちは再びやってきて、寝ている少女たちの元へ姿をあらわすのだ。

しかしここで妖精の姿を目撃するのは、年かさの思慮深い少女、エルシーだけというのが面白い。美少女度ではフランシスの方が圧倒的に上なのだが、この想いの深いエルシーに感情移入してしまう。彼女は最初から妖精を世間にさらすことに対して懐疑的なところがあった。

父親が行方不明のために彼女の元にやってきた従姉妹のフランシスは、天性の無邪気さと、多分心の底に持ったさみしさから、妖精との対話に躍起になっている。それは多分、行方不明の父親の存在を信じるのと、妖精の存在を実証するのを知らず知らず重ねあわせていたこともあると思うのだけど。そして実際父親が現れたことで、彼女は妖精を目にすることがなくなる(多分だけど、これからも)。

エルシーはというと、現実に兄を亡くしているせいか、実際に存在するかどうかということよりも、心の中に存在し続けるかということの方が大切だということを、子供ながらも判っているようなところがある。その上エルシーは、亡き息子をいつまでも悲しんでいる母親(エルシーにも黒い服を着るように強要する)に自分の存在が見えていないことで小さな心を痛めていて、人が傷つけられる痛ましさを充分に理解しているのだ。

しかしなんといっても子供だから、はっきりとした意志をもって妖精たちを守ることは出来なくて、途中、妖精たちの存在を口外しない、とフランシスと誓いの儀式を行ったにもかかわらず(このあたり、自分の行動に自信がもてなくて、懸命に戒めようとしたであろう彼女の心がいとおしい)、大人たちの口車に乗ってどんどん話が大きくなってしまう。

結果的にはその口車に乗せてしまったコナン・ドイル(ピーター・オトゥール!)と、マジシャンのフーディニ(ハーヴェイ・カイテル!ぴったり!)だけれども、彼らも職業柄か、どこか大人子供な、邪気のないところがあって、憎めない。金色の草原に昼寝している郵便屋さん、少女の危機を救う、戦争で顔の半分を潰されてしまった軍人さんなどなど、大人子供な大人たちが魅力的。しかし何より嬉しいのは、エルシーの母親が、この控えめな娘の優しい心にようやく気づいてくれたこと。

光まばゆいイングランドの野原、森、水ぬるむ小川、その中を金色と栗色の髪をあそばせて駆け抜ける純白のワンピースの少女二人……その美しさだけで語る価値のある映画。★★★☆☆


フェイスFACE
1997年 分 イギリス カラー
監督:アントニア・バード 脚本:ローナン・ベネット
撮影:フレッド・タムス 音楽:アンディ・ロバーツ/ポール・コンボイ
出演:ロバート・カーライル/レイ・ウィンストン/レナ・ヘディ/スティーヴン・ウォディントン/フィリップ・デイヴイス

1999/2/3/水 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
ええっ!この監督さん、女性監督なの!?前作「司祭」でも大感動したアントニア・バード。画面、そうこの画面!ウォン・カーウァイ、いやクリストファー・ドイルと対極にあるようなつや消しの乾いた画面。あっちがマジックペンなら、こっちは木炭かクレパス。ああそうだ、黒沢清監督の画面と似ている。ドライで、寒々しくて、禁欲的な。そうだそうだ!この画面に衣装の黒がよく映る。どこまでも執拗に塗りつぶされたような、心を隠すような無表情な黒。

なんかほんとに毎回言っているけどロバート・カーライル、見るたびに感心してしまう。ほんと、イギリスの男大竹しのぶ(!?)と呼びたい演技者。これも毎度言ってるけど、「トレインスポッティング」の役が信じられないこの魅力。ちょっと面白いほど毎回毎回失業者(というか、いわゆる職を持たない)の役。それがここまでステロタイプにならないのは本当に凄い!「GO NOW」で、今までで一番ハンサムな彼だなあ、と思ったけど、本作の方がハンサムかもしれない。いわゆるハンサムでは決してないんだけど、だからこそか、ハンサムに見える映画ではいっそう魅力的に見える。仲間の中では一番の小柄で、ヤセなのに、彼がやっぱり一番リーダーにそぐって見えるし、その黒服と黒の革手袋がちょっとぞくっとするほど素敵。

いわゆる犯罪映画だけど、凡百のそれとは明らかに違う、社会の厳しさが如実に反映された映画。レイ達が強盗になったのには、失業問題が明らかに背景としてある。だからこそ、わずかな金をめぐって仲間たちが疑惑にとりつかれ、これでもか、と言うほどにどんどんどんどん泥沼化していく。ある批評家さんがスティーブンを“軽い精神障害のある男”と言っていたけど、そうは見えなかったし、そんなことどこにも書いてない。偏見じゃないのかなあ……。そのスティーブンがロバート・カーライル扮するレイをひたすら信頼している(というよりなついてる感じ)のがすごく微笑ましい。レイは多分スティーブンの将来を慮ってることもあって、「金もあるんだからそろそろ自立しろ」というんだけど、ラストまで見てみると、むしろレイの方がスティーブンを必要としていたのだと思う。本の虫で、片時も本をはなさず、“地球が二つある話”を「SF作家ってすごいよな」と、誰彼となく嬉しそうに話すスティーブン。レイの恋人、コニーに嫉妬し、彼女とキスをしたり、ベッドインしようとしているところを無邪気に邪魔したりする。そんなスティーブンを半分本気で疎ましく思っているようなレイだけど、ラスト、絶体絶命の危機を、スティーブンが体を張って助けてくれたことが象徴するように、彼らはやはり運命共同体なのだ。

そしてそのことによって怪我を負うスティーブンを連れて、最後の裏切り者である仲間のもとから辛くも脱出するレイ。この時はスティーブンがどの程度の怪我を負っているのか判らなかったから、助かって!二人とも逃げのびて!と心の中で必死に祈る。そして、コニーの待っているサービスエリアへと向かう二人。「靴の中で血がびしゃびしゃだ。もうこの靴下ははけない」などと冗談でレイの心配をやわらげながら「大丈夫、彼女は来てる」と励ますスティーブン。もう完全に立場は逆転している。怪我をしているスティーブンを車に残し、サービスエリアでコニーの姿を探すレイ。どこを探してもいない。失望しながら車へと戻るレイ。血の跡を残してスティーブンが姿を消していた。パトカーがサービスエリアに入ってくる。半ば観念したような表情でゆっくりと歩くレイ。そこへ「レイ!」と車の中から呼びかけるコニー。中にはスティーブンもいた!スティーブンにむかって「死ぬほど心配したぞ!」と本当に涙を浮かべ、くしゃくしゃの顔で怒るレイ。微笑ましく、安堵の気持ちでいっぱいのラスト。レイが信頼しうる最後の、そして永遠の二人だ……あーやっぱり感動しちゃったなー!★★★★☆


梟の城
1999年 138分 日本 カラー
監督:篠田正浩 脚本:篠田正浩 成瀬活雄
撮影:鈴木達夫 音楽:湯浅譲二
出演:中井貴一 鶴田真由 葉月里緒菜 上川隆也 マコ・イワマツ 永澤俊矢 根津甚八 山本學 火野正平 筧利夫 花柳錦之輔 馬渕晴子 小沢昭一 中尾彬 中村敦夫 岩下志麻

1999/12/8/水 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
正直な感想を言ってしまうと、長い、つまらない、面白くない。同じ回を観ていた中年のおばさま二人がエレベーターにてもらした感想「……タダ券だったから、ま、いいか」という、言葉、なんかものすごーくよく判る。私は司馬遼太郎氏の作品に対しては無知だし、この原作も読んでないんだけど、なんか、全然ワクワクしない。歴史の事実があるから仕方ないとはいえ、“秀吉暗殺計画”が実際には行われないのもあらかじめ判っちゃってるからその辺のスリリングさがないのもツラい。

安土桃山時代の豪華絢爛な美術、ポルトガル文化が反映されたエキゾチックさ、そうしたものがこれみよがしにスクリーンに充満する。……なにか、どうだ完璧だろう、と言わんばかりなのがどうしても気に障ってしまう。特にCG臭さがあるわけではなく、本当に完璧なんだけど、まるで映像の見本市みたいに、物語上関係ないと思われるものを執拗に映し出すのが無粋。「写楽」や「瀬戸内ムーンライトセレナーデ」の時もそうだったけど、篠田監督の最新技術の見せ方が私にはどうも苦手なのだ。「少年時代」のようなタイプの作品の時にはそれがないのですんなり観られるんだけど。どちらにしろ、篠田監督の(特に近年の)語り口はなんというか……カッチリしすぎてて、教科書みたいで、面白くないのだ。特に本作は、忍者のお話。こちらは多少の逸脱、破天荒さを期待しているのに、もう冒頭から画面は活字で、そしてナレーションの説明で入ってゲンナリさせられてしまう。

かつて織田信長によって伊賀一族を全滅に近く惨殺された恨みを、時の支配者、太閤秀吉に向けるべく、秀吉暗殺の命を受ける伊賀忍者の生き残り、葛籠重蔵(中井貴一)、忍者の身分を嫌い、武士としての立身出世を望んで仲間の元を去った凄腕の風間五平(上川隆也)、密命によって重蔵を陥れるも彼によって自分の出生を知り、恋に落ちる小萩(鶴田真由)、やはり伊賀の生き残りで重蔵に思いを寄せる一途で激しい木さる(葉月里緒菜)と、この四人がメインとなるわけだが、誰一人として魅力的となり得てないのがツラい。

一番の主人公である葛籠重蔵が高笑いするたびなんなんだコイツなどと思い、大体いくら口で説明されても織田信長の行為に対する恨みを秀吉に向けるのはこれいかに?この中ではまあ魅力的な部類に入る風間五平は、しかしこれは上川隆也本人の魅力だろう。若さゆえの野心に燃えるが、その野心も古だぬきの太閤秀吉の前ではちっぽけなもの、まるで蜘蛛の巣にかかった虫のようにからめとられて非業の死を遂げる。しかし彼に石川五右衛門を重ねるとはね……。

二人のヒロインのうち、よりメインであるほうの小萩を演じる鶴田真由は、監督曰く「日本で今一番美しい女優」……そうかあ?私にはただ凡庸なだけに見えるけど……少なくとも本作の中では。このキャラに不可欠なミステリアスな魅力に恐ろしく欠ける。なんか、ただ黙ってニコニコしてるみたいに見えてしまう。重蔵はともかく、彼女が重蔵に惚れている気色も今一つ感じられないし。そして木さる。キャラ的には魅力的だが、でもそれも“一途、けなげ、単純、”と、男にとって都合の良い『女の可愛さ』をボーイッシュな衣で隠しているだけのような気もしてしまう。そしてこの木さるを演じる葉月里緒菜の、本来の魅力である凄みのある美しさや、それと正反対にそして同時に存在する無邪気な可愛さがすっかり封じ込められてしまっていてもったいない。監督のせいなのか、キャスティングのせいなのか、キャラが一向に立ってこない。

そんな中、秀吉を演じるマコ・イワマツと、甲賀忍者の摩利支天洞玄を演じる永澤俊矢は面白かった。二人とも私の気に入りの役者さんということもあるのだけど。マコ・イワマツは特に重蔵との一対一の対決で見せる、“弱い老人”を自ら演出するタヌキぶりが愛しいと思わせるほどに巧み。ここでやたらと高笑いをして優勢に立っているかのような態度を示す重蔵の方がよほど情けなく滑稽なのである。もちろんそれは重蔵の人間的弱さから来る魅力をあらわしているのだろうが、そうは感じず、ここでの重蔵は単なるピエロのように見えてしまう。それだけ秀吉に扮するマコ・イワマツがチャーミングなのだ。そして摩利支天洞玄。演じる永澤俊矢は、おのれそれで忍者かい!とツッコミたくなるほどただただデカいのだが(でもそれを言ったら中井貴一もそうだけど、彼の場合はガタイのデカさというより背が高いだけの印象)、それがある種のユーモラスさに転化するところが彼の持ち味。重蔵との一騎打ちで腕がふっとんだり、死にたくないのだ、と重蔵に命乞いをしたりしても、ちょっとクスッと来てしまうような。彼もマコ・イワマツに共通するようなチャーミングさをもつ役者さんなんだよなあ。

とまあ、この二人の良さで★☆☆☆☆から★★☆☆☆になったという感じだろうか……。上映時間が微妙に長いのもツラくて、中盤からはひたすら、はやく終ってくれえ、と願ってしまった……。★★☆☆☆


豚の報い
1999年 118分 日本 カラー
監督:崔洋一 脚本:崔洋一 鄭義信
撮影:佐々木原保志 音楽:
出演:小澤征悦 あめくみちこ 上田真弓 早坂好恵 岸部一徳 吉田妙子 平良進 大平睦男 渡辺奈穂

1999/8/11/水 劇場(テアトル新宿)
名前を見て一発で小澤征爾の息子だと判った小澤征悦氏。でもあんまり似ていない。むしろ、甥であるオザケンの方が似ている感じ。眉が太く、日焼けしていて、(役柄上)寡黙で、女たちに押されていそうでその実自分の中の核を譲らない、ちょっと最近見ないタイプの骨太な青年。彼の母親が豚小屋で彼を生んだという設定から、後にいっしょに、厄払いの旅に出ることになるネーネー達のいるスナックに豚が乱入、その旅のもっとも愉快なエピソードとなる、実は病気だった豚の肝にあたってしまう彼以外の女性達……などなど、とにかく豚憑きの展開が面白い。ま、なんたってタイトルが“豚の報い”だから。

女達の喋る沖縄言葉がとてつもなく魅力的。全篇訳の判らない、というのではなく、時々明らかに判らない言葉が出てくる時だけ字幕が出る。その辺のナチュラルさが絶妙。それに明るくのびやかに聞こえる語尾の響きもいい。この女性三人、あめくみちこ、上田真弓、早坂好恵はみな沖縄出身なのだろうか(確か好恵ちゃんは沖縄だったよな)。季節は夏だし、沖縄だし、みんなかなり扇情的な格好をして、小澤征悦扮する正吉に迫りまくる。酔っ払っているとはいえあからさまに彼をまたいで座り「しようよー」と胸をブリブリさせる。はては彼の寝込みを襲って、「もう何年もヤッてないのよう」と、ほとんど強姦状態で関係を迫る。この開けっぴろげな性の開放感!それを拒絶するでも受け入れるでもなく、やんわりとかわす正吉なのだけど、不思議と、おどおどして腰が引けているとは映らず、優柔不断とか、情けない男には感じられない。彼のこの女性三人に対する付き合い方は、彼ならではのナチュラルさで、その茫洋とした感じが、彼女たちの勢いとうまく調和しているのだ。

旅のきっかけが、スナックに乱入してくる一匹の豚だというのがなんともはやいい。実際あの場にいたらこの大きさといい、怖いかもしれないけど、観客として見ているとこの豚さん、白くてすべすべしていて、清潔な感じで、なんか、かわいいのだ。こけながら追い回されているところなんか観客からも笑いが出るほど妙に微笑ましい。豚から逃げようとして逆に豚とともにソファに追いつめられた早坂好恵ちゃんが豚に迫られる格好になるところも好きだなあ。そして彼女が気絶し、“マブイ(魂)を落とした”というところから、それぞれの人生に思うところのあった女性達が厄払いをしようと思い立つ。

それにしてもあの豚料理は美味しそうだった!民宿のおじさんがどこからか持ってきた一頭の豚をさばいたおのおのの部位が(ちゃんと豚の顔も!)ところせましと並べられ、テーブルいっぱいにこれでもか!の豚肉料理が花開く。あの恐ろしく大きくて、層がはっきり判る、あめ色の角煮!しかし翌日彼を除く女達、民宿のおばさんも腹を下してトイレといったりきたりである。「正吉、あんた食べなかったの。きっとチヌ(肝)よ、いつもと味が違うと思ったのよ。あんたチヌを食べなかったのよ」果たして正吉は本当にチヌを食べなかったのか?……いやいやそうではないような気がする。彼は豚の神様に守られているのだろう、多分。

ネーネー達のうち、ママ(あめくみちこ)の状態がひどく、民宿のおばさんといっしょに病院に入院する羽目になる。見舞いにきた正吉が民宿のおじさんとはち合わせし、そこで交わす会話の抱腹絶倒なこと!「葬式の帰りにな、持たされたんだよ。市場に出せないからって言って」「(その豚)病気だったんですか」「マチコね」「豚はマチコと言うんですか」「いや、葬式の、死んだ女だよ」「おじさんは食べなかったんですか」「食べなかった。(おばさんが)大丈夫だったら俺も明日食べようと思ってたのに」この何とも言えない、ピントのずれた会話が、喋っている人物の顔のアップを交互に映す、これ以上ないほどのはっきりとした切りかえし手法で描かれる。その様のテンポのユーモラスなことときたら!正吉のヌーボーとしたキャラと、おじさんのとらえどころのないキャラが奇妙な化学反応を起こして笑いを誘わずにはいられない。

ここで登場する医者の岸部一徳がまた絶妙。いつも通りの彼の低いテンションのしゃべりが、正吉の茫洋さと同様、ユーモラスさを助長する。病気の豚を供したことを警察に言わないようにと、民宿のおじさんに懇願され、そのつもりはないと言うこの医者、しかしどうやら彼も豚肉を食べたらしく、競歩みたいなくねり歩きで便所に行く動きが可笑しい。沖縄の(いい意味での)どーでもよさを一身に体現しているようなのんびり、てきとー加減がいい。

おばさんに押し切られて正吉はママの世話をすることになる。正吉が訪ねてきたその時からハイレグのパンツ丸出しにして横たわっているママは、下心ありありなのだが、正吉の前で粗相をしてしまい……シーツもショーツもコーヒー色に染めてしまう描写のキツイこと!あめくさん、ようやるなあ……あれはツライ。とりあえず部屋を出ていった正吉が「くさいのくさいの、とんでけー」と低くつぶやくユーモラスさでホッと救われる。ママの下の世話をし、ショーツを洗ってどこに干そうかと苦心している(点滴のバーに釣り下げようとするのに爆笑!)姿といい、彼の誠実さから発生するそこはかとない可笑しさはこの映画の良心。

彼女たちのウタキ(御嶽)でのウガン(御願)を案内すると言いながら、その実彼の目的は、12年前、風葬に伏された父親の骨拾いである。崖を下り、海岸を臨んだ窪地によりかかるような格好で白骨化している父親を見つけ、側に腰を下ろし、しばらく心で会話しているように親子二人だけの時間を過ごす正吉。ふと思いついて彼は海岸から砂を運んできて、(骨を埋めない)墓を作る。腹下しのせいで日程が大幅に遅れてしまったネーネー達が、今日が最終日だと、正吉を待ちわびていて、戻ってきた正吉を詰問すると、今までとは別人のように弁をふるう彼に圧倒される。「僕がウタキを作った。この島には本物のウタキもあるけれど、ここで祈って欲しい。そうすれば父さんは神様になれる。神様になった父さんならあなたたちを救える」と。そうすれば正吉は神様の子供になるわけだ……豚の神様、神様の子供。彼が女性に異様に迫られるのも、それをやんわりとかわす物腰も、神様キャラと説明できないこともない。押されているように見えて、その実正吉が女三人の手綱を握っているのだものね。正吉が神(の子)なら、さしずめ彼女たちは彼の言葉を欲しがる巫女か。

海に向かって真っ直ぐに白く白く伸びている道。その道を四人は歩いていく。天上に通じているような道。ポカン、と抜けたような晴れ方をする沖縄は、昇天するには絶好の空ではないだろうか……何ものをも白日の下にさらし出してしまうストレートに撃ち込まれるこの陽光。やはりこれは、神様の映画、神様の物語、なのだよなあ。★★★☆☆


無頼 黒匕首
1968年 86分 日本 カラー
監督:小沢啓一 脚本:池上金男
撮影:高村倉太郎 音楽:坂田晃一
出演:渡哲也 松原智恵子 川地民夫 露口茂 中谷一郎

1999/6/22/火 劇場(新宿昭和館)
はからずも川地民夫出演作を二本続けて観ることになってしまった。実はひそかに川地民夫出演作品に注目した番組設定だったりして?「懲役太郎 まむしの兄弟」では軽いフットワークの、どこか「悪名」シリーズの田宮二郎を思わせる菅原文太の弟分役が絶妙だったが、ここでは主人公、渡哲也扮する藤田五郎の因縁のかたきであり、同じ女を愛した者どうしとして、哀切あふれる筆致で描かれる。個人的には「まむしの兄弟」の勝の愛すべきバカが好みだが、川地民夫の一方のイメージである陰影のある役どころとしての本作でのキャラも捨てがたい。

ヤクザ(というより暴力団か)どうしの抗争で恋人、由利を死なせてしまった藤田五郎。彼をかばって割って入った由利を、川地民夫(役名忘れた……)の放った弾が命中してしまったのだ。そして数年後、出所した彼の前に現れたのは、由利そっくりの女性。先輩、三浦の妹で外科の看護婦である彼女は五郎に好意を持ち、偶然彼女を目にした川地民夫もまた……。彼はおそらく由利をも五郎と同様愛していたのであるし、かたき同士ではあるものの、奇妙な連帯感で結ばれているのだ。

一方で印象的なのは、刑務所暮らし中、なにくれと五郎の面倒を見ていた女で、彼女は五郎に思いを寄せつつもそれがかなわず、別の、やはり極道の男と所帯を持っている。この男が彼女に惚れきっていて、しかし一方では極道者として五郎に心酔していて、男としての気持ちの板挟みと、敵の組のボスが彼女を気に入ったことから義理と私的感情のこれまた板挟みで七転八倒の苦しみを受ける。彼女は彼の気持ちを痛いほど判っていながらも、五郎に対する気持ちはどうしようもなく、しかし……といったこれまたどうしようもない苦しみようで、かくも人間の感情というものはやっかいなのだな、全く。

刀ではなく、そしてピストルにもまだやや早い匕首(ドス)、五郎のトレードマークは黒の匕首である。刀よりもピストルよりももっと血なまぐささを感じる匕首の鈍い光が渡哲也の若いけれども鬱屈した感じとよく似合っている。これまた私は初見の“無頼”シリーズで、この藤田五郎という人は現役やくざから作家に転向した原作者なのだそうな。知らなかった、不勉強なり。★★☆☆☆


プライベート・ライアンSAVING PRIVATE RYAN
1998年 150分 アメリカ カラー
監督:スティーヴン・スピルバーグ 脚本:ロバート・ロダット
撮影:ヤヌス・カミンスキー 音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:トム・ハンクス/トム・サイズモア/エドワード・バーンズ/バリー・ペッパー/マット・デイモン

1999/4/6/火 劇場(シャンテシネ)
気づいていないのだろうか、これは勝者の論理だということを。このエセヒューマニストめ!と叫びたくなってしまう。何でこの監督はこうなんだろう。それともアメリカ人だからなのか。

冒頭とラストに示される、その後のライアンの姿。ミラー大尉が戦死した場面で“頼むからここで敬礼なんてするなよ”とハラハラして、しなかったから、ほっと胸をなで下ろしたら、こともあろうに、その墓参りをしている老ライアンにやらせやがった。なお悪い。なぜ悪いかって、そこには軍人に対する誇りがいまだ厳然としてあり、戦争を戦い抜いた満足感を当然のように感じているから。これが勝者の論理なのだ。勝者が語る戦争なんて、はっきり言って胸がむかつくだけなのだ。軍人であることを恥ずかしいと思い、戦争に参加したことを汚点と感じなければ、反戦映画なんて作って欲しくない。

勝者、勝者と言うけれど、本当は戦争に勝ち負けなんて言うべきではないんだ。戦争はただの殺し合いで、双方ともにただ傷を残すだけなのだということがなぜ判らないのか。さんざん残酷描写を連ねた本作を作ったくらいだから、そんな単純なことくらい判っているかと思ったら、勝者のアメリカにとって、この第二次世界大戦は、どうやら自由を守る正義の戦いだったらしいのだから、始末に負えない。

三人の息子を亡くした母親をこれ以上悲しませないために、末っ子のライアン二等兵を救出に向かわせる。一見感動的なようでいて、ちょっと考えればヘンな論理。だって、それじゃあ、一人息子を失った母親は?たった一人の夫を失った奥さんは?てなことになるのである。もしかして、それを皮肉って描くのかな……と思いきや、途中その救出兵が愚痴まじりにそのおかしさを指摘するものの、おおむね正面切って大まじめにやるんだから苦笑してしまう。対マスコミに向けた作戦のようにしか考えられないこのエセヒューマニストな行為を、あたかも“ちょっといい話”のように語っちゃうんだから驚いてしまう。だって、その電信文を持って、トップの連中が「ライアン二等兵を救出するのだ」と自己陶酔な顔で言い、何でこんな所で持ち出すの?といった、リンカーンの追悼文書を読み上げ、その場面には常に、どの映画でも同じように聞こえるジョン・ウィリアムズの厳粛なオーケストラが低く流れ続けているんだから!まったくナニヲカイワンヤである。

すさまじい戦闘場面で、敵の顔が全く見えないのも気になる。まあこれは大体戦争映画ではそうで、味方の状態を描くのに精いっぱいだから仕方ないのかもしれない。そして現に戦場では敵は敵であり、敵を倒さなければ自分がやられるのだから、敵側のことを描く方がそれこそエセヒューマニストなのかもしれないが、戦車が雁首あげてこちら側を狙い撃ちする場面の、ホラー映画の殺戮マシーンのような無機質な描写にはちょっと……と思ってしまう。この戦場場面では敵は敵だと言っていてもいいから、どうせその後のライアンを登場させるんだったら、敵も人間で、同じように、いやそれ以上に(敗戦国なんだから)傷を負ったということを言って欲しかった。でもここで描かれるのは、独裁政権を鎮圧したという正義の誇りであり、兵士が死んでいく痛みは、我が身にしか感じていないのだ。正義!なんてイヤな言葉だろう、こんな一人よがりな、自分勝手な言葉があるだろうか。

こうなると、本来ちょっと胸を打つようなシーン……わずかな休憩時間に母親のことを語り合って涙ぐむ若い兵士や、戦闘の前の静けさの中、エディット・ピアフの歌に耳を傾けている兵士たち、元教師のミラー大尉と若いライアン二等兵が、自分の家族のことを懐かしく語る……などの詩的な場面もウソくさくなってしまうのだ。もっと掘り下げて欲しかった、実戦経験のない通訳として参加した兵士の、戦いや殺しに戸惑い、泣き顔を見せる姿もどこへやらと埋没してしまう。彼の心理に力を入れてくれればまだ許せた。

冒頭の30分、ノルマンディ上陸作戦の残虐描写は、目を背けたくなるほどの圧巻さ、内臓が飛び出、血ではなく肉片が飛び散り、かなり悪趣味なブラックユーモア……ヘルメットを脱いだとたんに頭に弾丸が命中したり、自分のちぎれた腕を拾ってウロウロするなど……までもあり、死屍累々とした海岸には血の波が打ち寄せる。そのリアリズムを称えるべきなのかもしれないが、ここでもおのれの自己犠牲の描写に腐心し、敵はゲームのキャラクターのように大して流血もせず小さく倒されるだけ。戦争映画を作ることは、それが娯楽ものの場合は別にして、反戦意識を高めるために必要だとは思うけど、ここまで来るとそれってちょっと違うんじゃないかという気がどうしてもしてしまう。大体、究極の残酷描写をすることが反戦映画だとでも思っているんだろうか。こんな映画作ってる暇があるんだったら、実際に戦争をやめればいい。いまだに正義と称して各国に送っている軍勢をさっさと引き上げて、平和な世界を取り戻す努力を、“世界のリーダー”だったらすればいいのだ。正義の象徴のつもりなのか、やたらにはためく星条旗に寒気がしてしまう。日の丸掲げて殺戮を繰り返した日本人が、今国旗に複雑な問題を抱えているのに、この国の人たちときたら、臆面もなくわれらの国の国旗を崇め奉っているときた。

自分の汚点は隠したがる日本ですら、近年侵略戦争の罪を認めてきているのだから、いいかげんこういう戦争意識はやめてもらいたいのである。あ、でも無理か。だって、(隠してたということは)少なくとも自分たちに非があることを知っていた日本と違って、アメリカは全く自分が正しいんだと思ってるんだから。★☆☆☆☆


プリティ・ブライドRUNAWAY BRIDE
1999年 115分 アメリカ カラー
監督:ゲーリー・マーシャル 脚本:サラ・パトリオット/ジョナサン・マクギボン
撮影:スチュワート・ドライバーグ 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ジュリア・ロバーツ/リチャード・ギア/ジョーン・キューザック/ヘクター・エリゾンド/リタ・ウィルソン/ポール・ドゥーリー/クリストファー・メローニ/ジェーン・モリス/ローリー・メトカーフ

1999/11/2/火 劇場(川崎チネチッタ)
原題は「逃げる花嫁」で当然のことながら「プリティ・ウーマン」の続編などでは全然ないわけで。主演の二人と、監督と音楽、それと「プリティ・ウーマン」のホテルマンで印象的だったヘクター・エリゾントがかぶってるだけだ。今回も彼はイイ役だった。しかし、映画自体は……うー、判らない&つまらないッ!

何が判らないって、映画の主題たる、マギー(ジュリア・ロバーツ)が結婚式で逃げ出す理由が判らない。自分を本当に理解してくれる人がいなかったとか、自分自身で自分が判ってなかったとか、はたまた好奇の目にさらされる結婚式がイヤだとか、なんだか首肯しかねる理由ばかりをもっともらしく並べて、なんだそりゃ?と言うしかない。結婚しようと思うまでの恋愛をしたのなら、結婚式に怖じ気づいて逃げ出したとしたって、そのままうやむやに別れてしまうというのも解せないしなあ。だって、わけも判らず逃げられた恋人の方だって理由を問いただしたいだろうに、そうしたことをやったらしい相手は一人もおらず、彼女自身も自分が逃げ出した理由が判ってんだか判ってないんだか、性懲りもなく再度、しかも何度も結婚しようとするのが判らない。父親がアル中で、彼女がその世話をするために大学を中退しなけりゃならなかったなんていう、中途半端な泣かせのエピソードも、この消化不良の前ではだからなんなんだ?それが結婚未遂の理由じゃあるまい?と思わせるしかないし。しかも、それを追及するためにコラムニストのアイク(リチャード・ギア)がマギーを取材にやってきたというのに、彼女の好きな玉子料理が相手によって変わるなんてことにしたり顔するぐらいで終わっちゃうんだもん!

ま、要するに結婚に、あるいは恋に恋する段階の女の子、ということなのかなあ……でももはやジュリアも30超えてんだから、いい加減にしろよ、と言いたくもなるが、そこは御大、ギア様がお相手とくりゃあしょうがないか!?「プリティ・ウーマン」の大富豪の時より、カルい印象のリチャード・ギアだけど、そこはそれ、ジュリアより18も年上(!)なんだから。しかしこれだけの年の差カップルを、違和感どころか素敵に見せちゃうところだけはハリウッド映画(あるいは西洋の映画ではおりおりあるかなあ)にかなわんのおー。でも日本映画でもやってみればいいのに。意外とイケるんではなかろうか。

もう明日は結婚式だという教会でのリハーサルで、結婚相手の男性の前で目と目をあわし、甘いキスをかわしてしまう二人のシーンはおおお、クラクラものの素敵さなのだもの!訳判らないながらも、このクライマックスあたりからは、単純に面白くなってくる。それまでの彼女の結婚未遂遍歴をくだくだしくたどる展開には、ちっとも素人ビデオっぽく見えない結婚式VTRもあいまってヒジョーにイライラモノだっただけに。せっかく明日教会をおさえてるんだからと、急遽相手をアイクにかえて結婚式を決行するも、またしてもマギーは逃げ出すわけで。そう、このシーンでのジュリア、口を捻じ曲げながらもなんとか笑顔を作り、ようようという感じでバージンロードを歩んでいくも、ナーバス度が一気に急上昇、くるりときびすを返して脱兎のごとく逃げ出す場面は理由なく面白い。理由を考えるとまたつつきたくなるからやめるわ、ほんと。

「プリティ・ウーマン」に代表されるような、いわゆる女性の結婚願望だけではツッコまれる、と思ったんだか、マギーは腕のある金物屋さんという設定(これはなかなかイケてたが)。そこまではいいがその上、デザイン能力もあり(……)、コネもない(はず)なのにいきなりニューヨーク進出に成功するマギーには唖然。そりゃねーだろ!?

ジュリアはややスリムに、ギアどのはやや貫禄がついたというものの、二人とも、9年前とさして印象が変わらないのはスゴイ。スターやのお。★★☆☆☆


不倫日記 濡れたままもう一度
1996年 59分 日本 カラー
監督:サトウトシキ 脚本:小林政宏
撮影: 音楽:
出演:葉月螢 泉由起子

1999/5/3/祝 劇場(銀座シネパトス)
サトウトシキ監督作品は数本観ているだけなのだが、いつも感じるのは、どこか浮遊している、もっと言ってしまえばファンタジックな、御伽噺のような空気なのだ。それが本作のようにあきらかにファンタジーの要素を入れてくると、その魅力がいっそう顕著になる。葉月螢扮する新妻(と自ら称している)が、死んだ後にゴーストとなって夫を見守るという設定。その夫も死に、ともにゴーストとなった二人が愛情を再確認しあう。ピンクなので性描写はキツイのだが、葉月螢のしっとりした質感(存在感というよりしっくりくる感じ)もあいまって、生々しい感じがしない。

常に葉月螢のナレーションともモノローグともつかない声でナビゲートされていく。小説のカルチャースクールに通う葉月。“自分を新妻だというのは私が小説家志望だからなのだ”とはよく判らない論理だが、ハーレクインかソフトポルノでも書くつもりなのだろうか?ミエミエの下心で彼女に近づくカルチャーの中年講師を淡々と受け入れる葉月。“私は不埒な女です”と言いながらも、そんな形容詞を寄せ付けないどこか超然とした彼女にはやはり瞠目させられる。この講師の愛人である女に“小説家志望なら、地獄を体験しなくちゃ”と言われて、こともあろうに夫に了解を得て浮気をする葉月(この女が訪ねてきた時に、夫が「妻は今日は浮気の日だから……」と言うのが可笑しい)。この女と対峙する場面でもそうだが、夫との場面とか、あらゆるところでそれぞれがカメラに向かって喋る顔のアップを交互に映し出す手法が取られていて、なにかそれは、ディスコミュニケーションというか、相手の心に届いていそうでいて届いていない、確信犯的な白々しさとでもいった自己完結を感じさせるものがあるのだ。

夫に了解を得た、といって、突然積極的に迫ってくる葉月に「参ったな……」と急に気力が萎えてしまう中年講師が可笑しい。地獄を体験しなきゃ、と意気込む葉月に「小説はイマジネーションの世界なんだから、いちいち体験しなくてもいいんだよ!」としまいには逆ギレして去っていく。「そんな……いまさら……」と途方に暮れる葉月。半ばヤケのようになって行きずりの男と関係を持ち、セックスの遊戯のつもりで首を絞めさせて思いがけず死んでしまう(この時、「上を締めると下も締まるんだねえ」と狂喜する男が可笑しいが、それって「愛のコリーダ」にあったよな……)。

そしてこの後から彼女はゴーストとなる。かの中年講師の愛人とデキてしまった夫を見守り、“ゴーストでも性欲はあるのです”なんて言って、夫とその女のセックスを見ながら自慰行為にふける彼女は、哀れ。と、ここで驚くべきことに夫が他の二人の男と交換殺人の約束を交わし、彼女がその犠牲になったことが明らかになる。「まさか彼らが本気だと思わなかったんだ」と葉月の写真を見ながら涙を落とす夫、やはり泣きながら夫と向かい合わせに座って彼を見守る葉月(当然彼には見えていない)のシーンは忘れられない。“私も地獄だけれど、夫もいま、地獄なのでしょう”葉月のモノローグが心に突き刺さる。

交換殺人の約束を果たすために、中年講師の妻を殺しに向かう夫。「だめよ、殺すなんて!」と絶叫する葉月の声など聞こえるはずもなく、ドアを開けるとそこには、葉月そっくりの女がいた。「生きてたのか!」と我を忘れ、女につかみ掛からんばかりの夫。……そこで何がどうしたのか、夫は手すりから落ちて死んでしまう。次のシーンでは、空っぽの電車に二人向かい合って座っている。「そっち行ってもいいか」と夫。隣同士に座る二人。「幽霊なのに、お前を抱きたくなった」「不埒な幽霊ね」向かい合わせから隣同士になって二人が同時に収められるショットに(もう顔のアップでのセリフの応酬などなく)、彼らの心が通じているのを感じる。白っぽいまばゆい光で満たされた車内の雰囲気も効果的。まさしく御伽噺なラブストーリーなのだ。★★★★☆


BLUE NOTE ハート・オブ・モダン・ジャズ/BLUE NOTE−A STORY OF MODERN JAZZ
1998年 96分 ドイツ カラー
監督:ジュリアン・ベネディクト 脚本:ジュリアン・ベネディクト
撮影:ウィリアム・レクサーV世 音楽:various(BLUE NOTEレーベル)
出演:アルフレッド・ライオン/フランク・ウルフ/アート・ブレイキー/ジョン・コルトレーン/セロニアス・モンク/バド・パウエル/ソニー・ロリンズ/ハービー・ハンコック/ホレス・シルヴァー/ジミー・スミス/ロン・カーター/マックス・ローチ

1999/10/12/火 劇場(シネクイント)
ジャズの代名詞が「BLUE NOTE」と言ってもいいくらいなのだろう。もう、冒頭から惜しげもなく数々の名演奏が流れまくり、鳥肌立ちっぱなし!「BLUE NOTE」の成り立ちが、ジャズに惚れてドイツからやってきた二人のユダヤ人、アルフレッド・ライオンとフランク・ウルフによって築かれたというのも全く知らなかったし、今でもよく目にするジャズミュージシャン達の、ライブの臨場感や、ピンと張り詰めた緊張感が伝わってくるモノクロが鮮明に際立つ写真の数々が、そのフランク・ウルフによって撮影されたことも初めて知った。……そうだ、それならばこのウルフ氏、希代の写真家ではないか。ジャケットに使われているものも数多くあるこの写真達、みな恐ろしく素晴らしいのだもの!

現在のクラブシーンでDJ達がブルーノートアルバムを好んでサンプリングしているなんていう事実もまた初めて知った。つまりこれは単なる懐かし印の懐古映画ではなく、現在に脈々と受け継がれた音楽のパワーなのだ。思えばジャズは、かたくなに“魂”を守りたがるロックや、多くの人にとってよそゆきの音楽であるクラシックなどと違って、何からも切り離されていない。フレキシブルで、柔軟性にあふれていて、そのミュージシャンの一人一人のバックグラウンドから生み出される、その各人が一つのジャンルなのだ。アルフレッドとフランクが、ただただジャズが好きで、「良い音楽を人に聴いてもらいたかった」のだというエンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダーの言葉が印象に残る。……ああそうだ、“ジャズが”ではなく、良い音楽を。そうなのだ。やはり彼らの中にはジャズだなんだという垣根はない。それがジャズそのものをあらわしているのだ。ブルーノートレーベルが総じて名盤なのは、彼らがミュージシャンに好きにやらせることや、無名のミュージシャンを発掘するアルフレッドの天才的な直感と愛情を持った育て方(ステージで弾きマネだけで音を出さないなどの奇行を繰り返し、クラブから追い出されたバド・パウエルをアルフレッドが救ったなどの逸話がステキだ!)など、いろいろあるけれど、何と言っても「レコーディングがOKかどうかは、二人の様子を見ればすぐ判る。満面笑顔になるから」「ノッてないだろ?もっとスイングして!と言うんだ」というミュージシャンたちの証言で判る。彼らが最良のファン、最良の理解者であったこと、これにつきるのだろう。

このドキュメンタリーの基礎となったのは、1996年のシュツットガルト・ジャズ・フェスティバルでのブルーノート・レーベルに敬意を表するという趣旨で行われたブルーノート・オールスターナイト。ミュージシャンたちはこのドキュメンタリーへの出演も熱望したとのことで、ハービー・ハンコックや、ホレス・シルバーなど、ブルー・ノートの思い出を実に嬉しそうに語っている様は、見ていて顔がほころんでしまうほど。演奏シーンのみながら、ただ一人出演する日本人ミュージシャンが女性の大西順子氏というのは意外ながらも嬉しい驚き。これは新生ブルーノートレーベルのミュージシャンということなのかな。

黒人音楽として始まり、そしてずっと基本は黒人音楽であり続けたジャズが、アメリカで正当に評価されるのが困難だったのは避けられないことだったのだろう。いつも日常にありすぎて、道端の石の輝きに気付かない、という表現をしていたけれど、それよりも、やはり人種差別の問題、下賎な文化として白人文化から駆逐されていた事実。それが、そういう色眼鏡を持たない第三者、外国人によって(ここでのアルフレッドとフランクね)公平に、正当に評価されて初めて自国の文化に誇りを持つというのは、ま、日本をはじめ、どこの国でも一緒なんですな。ただ、ジャズの場合はやはり人種差別の問題は大きく、その後もしばらく、あるいは今でも低く見られているのかもしれない。しかしそれは、ある種のアンビバレンツというか、いやもっと単純に、黒人(と今は言っちゃいけないみたいだけど、便宜的に使わせてもらおう)の天性の音楽性、グルーブ感に対するジェラシーが働いているとも思える。今はどんな人種でもジャズミュージシャンがいるけれど、やっぱり違うのだもの、黒人ミュージシャンとは、圧倒的に。彼らは体の中に特別なジャズ時計が入っているんじゃないかと思えるほどに。

何故あんなに、肩の力をストンと落としてピアノが弾けるんだろう?ピアノを弾いているという構えがまるでなく、おしゃべりの続きみたいに、いやほんとにおしゃべりしているみたいに弾くのだもの、まったく参ってしまう!具体的には判らないけれど、きっと他の楽器でもそうなんだろうな。この感覚って、ジャズだけじゃないだろうか。やたらと力の入りまくった音楽ばかりがあふれている昨今、この魅力はことさらに大きく感じる。ああ、そう言えば、この肩の力の抜け加減、矢野顕子さんもそうだなあ。それでいえば彼女はジャズから始まった人だし、ジャズテイストを今も持ち続けているし、ジャズに定義の垣根がないというのに従えば、彼女もまたジャズミュージシャンと言えるのだ。そうだ、だって、某出版社から出ていた「ジャズの事典」に彼女の名前、あったもの。

ジャズは聴くより見る方が圧倒的に楽しい。他のどんな音楽よりも、ミュージシャンその人が出てくるものだから。「ジャズに名曲はない。名演奏があるだけだ」と言ったのは誰だったか……演奏しているそのスウィング感、グルーブ感をも目にしながら聞くと、そのクールさ、カッコよさときたらまさしく筆舌に尽くし難いのだ。このドキュメンタリー映画はもちろんその構築の仕方も優れているのだけど、このジャズライブを目で見る魅力を、しかも、もはや古典となった名ミュージシャンの貴重なライブシーンをてんこもりにしている点ですでに素晴らしいのだ。……アルフレッドの元妻が言っていた言葉だったと思う「女は音楽(ジャズ)には絶対にかなわない。音楽のかわりになれると思うのはうぬぼれにすぎない。あの人の一番は音楽なのよ」という言葉、ちょっと悪い意味での女性的恋愛至上主義な考えだけど、でもずしっと来るなあ……永遠にかなわないライバルに嫉妬し続けるなんて、しんどい。しかもこれほど魅力的な、自らも惹かれてしまうライバルに!★★★★☆


ブレイドBLADE
1998年 121分 アメリカ カラー
監督:スティーブン・ノリントン 脚本:デヴィッド・S・ゴイヤー
撮影:テオ・ヴァン・デ・サント 音楽:マーク・アイシャム
出演:ウェズリー・スナイプス/スティーヴン・ドーフ/N’ブッシュ・ライト/クリス・クリストファーソン/ウド・キアー

1999/6/7/月 劇場(ニュー東宝シネマ)
胎内にいる時に母親がヴァンパイアにかまれ、ヴァンパイアと人間の混血種として生まれたブレイド(ウェズリー・スナイプス)。年をとるスピードと日中外を出歩ける以外はヴァンパイアとしての強靭さや生命力、そして血に飢えた体質をも持つ彼。そんな自分の血を呪い、ヴァンパイアを絶滅させることを誓って、血への渇望を血清でだましだまし、日夜ヴァンパイア殺戮を繰り返す。

とにかく悪趣味の連続なのである。のっけから異様な盛り上がりを見せるクラブでハイテンションのダンスを繰り広げている人々が、さらわれてきた男性の背後で天井に向かってゾンビのようにズアーッ!と手を伸ばすからこの男性襲われるのかと思いきや、「イッツ・シャワー・タイム!」天井の無数のシャワー口から注がれるのは血、血、血!ドロドロとしたやけにリアルな血にまみれて狂喜する人々に、恐れおののく、そのさらわれてきた男性。そこはヴァンパイアの巣窟だったのだ。何というグロテスクな光景!しかしこんなのはまだ序の口なのだ。そしてそこにかのブレイドがひらりと登場する。(これは後から判明するのだが)ニンニクエキス入りの銀の弾丸(笑える)を特別性のマシンガンに装填してバカスカヴァンパイアを撃ちまくり、ちょっとカンフー入ったアクションでも倒しまくる。身体を貫かれたヴァンパイア達は、これまた粘性のありそうな肉体をブワチョとばかりに破裂させて、あるいは中から骸骨となって飛び出し肉ともども塵になって、消えていく。あるいは(後から再生しちゃうのだが)クリスプ(パリパリ)状態になるまで生きながらにして黒こげにされる。R指定がついたのもむべなるかなの、嬉しくなっちゃうくらい悪趣味の極みである。もうここまでくると血フェチというよりほとんどスカトロの領域である。そしてラストまで様々なかたちで死にゆくヴァンパイアたち、特別性の血清をうちこまれ、全身を膨れ上がらせて“ひでぶ”といったかんじで爆裂する様は(誰かも言っていたけど)「北斗の拳」まんまである。そういえば、監督のスティーブン・ノリントンは日本のコミックに影響を受けたとか言っていたなあ。

そのせいかどうかは知らないけど、作品中に実に恥ずかしい形で日本の描写が出てくる。ブレイドと、巻き添えを食って仲間に入った女医(N’ブッシュ・ライト)がヴァンパイアの手先である警官を追ってくると、「チョトマテ」と止められる。んん?いま何かぎこちないながらも日本語が聞こえたような……と思っていると、こんどはこれまたぎこちない英語で「インビテーションカードハ?」と来る(ということはこの男は日本人という設定なのだな。一応あれでも流暢な日本語のつもりだったんだろう)。その男をぶちのめして中に入ると、なんとそこでは日本の女子高生とおぼしき女の子達が超ミニ、白ソックスでパンツみせながらアニメソングっぽい歌(もちろん日本語)を舞台で歌い、踊っている。それをじっと見詰めるオタクっぽい観客たち。げげげ、日本の一方でのイメージってこんなんー!?うーん、でも当たらずとも遠からず……って、ほんとか!?

それまでのイメージとは一転、寡黙でクール、そして苦悩しているダークヒーロー、ウェズリー・スナイプスがなかなかカッコいい。少々鈍重な気もするけれどアクションもサマになっている。なんでも90パーセントのアクションを自分でこなしたというが、ほんとかね?なんか顔の見えないアクションが多いし、そのあと切りかえして彼のアップになるシーンもやたら多く、いかにもスタントマン使ってます、って感じだったけど……。ただ、編集がとにかく素晴らしく、超細切れ状態のカットを超絶スーパーな手腕で豪速球にスピーディーに繋いでいく様が見事でそれを感じさせないのだけど。特に地下鉄構内でのヴァンパイアとのおっかけっこのシーンは出色。地下鉄が猛スピードで走り去り、カメラのフラッシュみたいな目の回るような光の点滅の中を逃げ回る。顔半分を引きずられる、ド迫力かつグロテスクさ。

そのシーンでもそうだが、フィルムを早送りする手法をそこここで多用していて、これが不思議とコミカルにならず、スピーディー&クールさを強調するのに成功しているのだ。これは良く使う手だけど、カメラを定点にすえて街を撮り、これを早送りすることで車のライトが長く尾を引いてめまぐるしく走っていくシーンや、月がさっと昇っていく様子とか、ここが特異な世界なんだということを上手く表現している。 CGをCGっぽく使っている気持ち良さもいい。ある種キッチュでチープな感覚も残しながら存分に映像マジックとしてのCGを堪能させてくれる。どの手法も多分にコミック的なんだけど、それがうまく昇華しているのだ。

しかし何といっても敵役、悪役である、野心のあるヴァンパイアに扮するスティーヴン・ドーフでしょう!この人の存在感はまったくもって不思議なのだけど……。顔は別に普通のあんちゃん。ちょっとユアン・マクレガーに似ていると思うのは私だけだろうか?それがカリスマ性を匂わせるのはなぜなんだろう。センスの良い黒づくめの服を絶妙に着くずし、ウェズリー・スナイプスの鍛え上げられた肉体とは対照的なちょっと女性的にやわらかな線を持つ上半身を裸にさらけ出したそのしなやかさ。シルバー・メタリックな瞳。彼がこういう映画の、こういう役を嬉々としてやっているのがなんだか楽しく、いい意味で作品を選ばない姿勢が好ましい。もう彼もさんざCGでぶった切られて、胴体から半分にされ、血の柱をあげて天高く吹っ飛び、またそれがくっつく、なんてのから、“ひでぶ”まで臆せず見せてくれて嬉しいの何の。日焼け止めを塗って20分間は太陽の下でも大丈夫、なんていうぷぷぷなワザをクールな表情で見せちゃうとこなんざ、最高だね!変に“いい作品”ばかり選んで鼻につく昨今の俳優と比べてなんという潔さ&柔軟な遊び心!こういうB級もの(あ、違う?)にばかり出てもらっても困るけど。

ヴァンパイアバスターと言えば即座に思い出す近作、そして大傑作「ヴァンパイア 最期の聖戦」。最近はヴァンパイアではなくヴァンパイアバスターが主人公になるのが流行りなのだろうか……そういう意味では厳密にはヴァンパイア映画、ではないよなあ。そう言えば気になったのが、ブレイドがヴァンパイアを撃退するのに銃を使うのをためらう女医に、「躊躇なく撃て。それでなければやられる。そのために銃は必要だ。」とか(ちょっと違うかもしれないけどそういうニュアンスの)いうことを言っていたこと。なにか、対ヴァンパイアのことではなく、現代アメリカの銃社会を擁護しているみたいに聞こえて……。

普通の人間に戻ることを拒み、より強力なデー・ウォーカー(昼歩くことができるヴァンパイア)となったブレイドが、こともあろうに雪の舞う冬のモスクワに降り立ち、ごていねいにロシア語でキメてラスト。おーい(笑)。★★★☆☆


プレイバックHEROINES
1997年 106分 フランス カラー
監督:ジェラール・クラウジック 脚本:ジェラール・クラウジック/アラン・レイラック
撮影:ローラン・ディアラン 音楽:マイディ・ロス/ローラン・アルヴァレーズ
出演:ヴィルジニー・ルドワイヤン/マイディ・ロス/マルク・デュレ/サイード・ダグマウイ/マリー・ラフォレ

1999/7/30/金 劇場(シネマミラノ)
ヴィルジニー・ルドワイヤンが出ているのは知っていて観たのに、なぜか私はこれがアメリカ映画のような気がしていた。センセーショナルなテーマ設定や、派手な予告編(派手なのは予告編だけじゃないけど……)などのせいもあるし、チラシのデザインもヒロインが全面に出ていてハリウッド映画的だし、そして何より、シネマミラノでフランス映画というのがピンと来なかったのである……。ま、そりゃ、特にアメリカ映画だけをやる劇場ではないけど、かといってフランス映画をやるというのは珍しいんじゃないだろうか?

“プレイバック”というのはだから、原題ではなく、ワールドタイトルに当たるのだという。吹き替え、という意味。幼い頃から親友同士で育ってきた対照的な二人の女の子のうち、歌声と作詞作曲に才能を持つジャンヌが吹き替えを、派手で舞台映えするジョアンナが当てぶり歌手を担当する。役の振り分けも、その二人がそれぞれにお互いを妬んで決裂するのも実に単純明快でわかりやすく、この辺もやっぱりアメリカ映画的匂いがする。日本に入ってくるフランス映画は多様になったとはいうものの、やはりフランス映画社や、ユーロスペースが持ってくる作家性の強いものに限られていたのだな、とこの期におよんで気づく。これはアート・キャップという、私は聞いたことのない配給会社だ……。なんでもこのジェラール・クラウジックという監督さんは、本国フランスでは何本も撮っているらしいし、きっと彼自身の作品カラーはこういったハリウッドタイプなのだろう。CM界出身というのもそのカラーにおおいに影響してそうな感じ。

エドワード・ヤン監督作「カップルズ」に出ていた時の少女少女したロリな感じに加えて、男好きする雰囲気を兼ね備えたヴィルジニー・ルドワイヤンはこのワガママで子供っぽく、でもステージでは光り輝くジョアンヌがはまり役である。こういうキャラクターはなかなかフランス女優ではお目にかかれない。アメリカ女優には腐るほどいそうだけど。だからなのか、彼女は次回作、レオナルド・ディカプリオとの共演であるハリウッドに招かれるらしい……フランス映画の枠にはまりきれないともいえるし、フランス映画の複雑さを演じきれないともいえる。ま、なんにせよ、私はなかなか好みの女優さんだ。小さ目の形のいい胸や(あらわなヌードがいさぎよい!)、すんなりと形のいい足、アジア系が入っているとおぼしき黒髪と黒い瞳が挑発的である。幼さを残している顔立ちが小悪魔的。劇中では歌唱力をジャンヌに譲っているという設定ながらも、ジャンヌとともにハモリを聞かせる場面では、メインの彼女を立てるコーラスパートとして非凡な歌いっぷりを見せる。実際、最後の最後では吹き替えだったジャンヌも前に出てきて、二人で歌うという大ハッピーエンドが用意されているわけだが、いくらなんでもそんなに上手く行くか?と思わせそうなところを、何度となくジョアンヌとジャンヌの魅力的なハモリを聞かせているから、マア、いっか、という気分になるわけだ。

対するジャンヌに扮するマイディ・ロスは、実際にシンガーソングライターであり、劇中の曲も彼女自身が作っているという。ジョアンヌが作ったツマラナイ曲も、彼女が伴奏し、アレンジしてコーラスをつけると抜群に良くなる場面を見せたりして、ナルホドと思わせる才能の持ち主。派手なジョアンヌとは対照的、というのを描くのに、静かな森でギターの弾き語りをさせるという描写はあまりに単純で赤面しそうにもなるのだけど……。彼女は母親の私生児であり、靴屋の一人娘。誕生日ごとに母親はジャンヌにきれいな靴をプレゼントしてくれるのだけど、派手な場には出ないジャンヌは一回履くと、もう引き出しに靴をしまってしまう。ズラリと並べられた靴は壮観であり、そして哀しく、そしてどこかゾッとするものをも感じる。それを見つめるジャンヌの歪んだ自己愛の強さを感じてしまう。彼女の頭の中に、その靴を履いて、キレイな格好をして、みんなに注目される姿が描かれているような気がするから?……自分が本当はそれに値する人間なのだと思っているように感じるから?

ジョアンヌとジャンヌそれぞれに異なった才能の持ち主なんだけど、こうした分かりやすい穏やかさを持っているジャンヌの方にみんなして肩入れするのもかなり単純な展開。……いや人間とは単純な見方による評価しかしないものなあ、この辺は逆にリアリティかも。客観的に見ている観客にとっては、自分の才能をひそかに自負していて、それを小出しにしてみんなを味方につけているような、表面上ではかわいそうな女、といった表情を崩さない(もちろん本人にその気はないんだろうけど)ジャンヌを、ジョアンナが「聖女ぶって、みんなを騙している」という気持ちがとても良く判るのだけど、劇中のスタッフにとってはジャンヌのそうした言動はワガママか、ドラッグで飛んじゃってるせいかの、どちらかにしか映らない。気の毒。単純でストレートなジョアンヌの方が実はよっぽど可愛げがあるんだけどね。

吹き替えって、どうしてだかすごくネガティブなイメージがあるのだよね。口パクとかいう言い方もされるし、ニセモノ、みたいな感じが強くある。洋画の吹き替え版が定着せず、吹き替え版は子供向け、みたいな意識が日本でも強くあるし。でも最近私はそうだろうか?と考えてしまうところがある。それは、香港映画の存在。香港映画は吹き替えが結構あたりまえなところがあって、富田靖子が、だからこそ外国人俳優にも入り込めるチャンスがある、と言って、セリフにとらわれない全身演技で魅了した(「南京の基督」、「キッチン」)のと、逆に香港映画ファンでありながら、自分の声にこだわった常盤貴子が吹き替えなしのセリフにばかり気をとられて無残な演技をさらした(「もういちど逢いたくて/星月童話」……そればかりじゃあるまいが……つまりは彼女の演技力の問題なんだけどさ)ことを比してそれを強く感じるようになった。ま、それは演技がセリフではなく、全身だという点で、まさにその歌声がネックになる歌手とは全く違う問題なのだけど、でも歌手だって、ステージでパフォーマンスする才能のある人と、歌声に才能のある人の住みわけがこんな風に出来てても別におかしくないんじゃないか、という気がしたのだ……。

日本でもシンガーソングライターというのが出てきて、それ以降、作詞作曲の能力と、歌の能力と、さらには最近ではパフォーマンスや喋りの面白さの能力まで全て求められ、それが当然みたいな感じが出てきた結果、純粋な歌手としての才能、作曲の才能、作詞の才能、パフォーミングの才能を持つそれぞれのプロフェッショナルが逆にいなくなってしまった。みんなうすまってしまって、強烈な個性の作家や歌手がいなくなってしまった。これは哀しいを通り越して実に危惧すべき問題なんじゃないかと思う。特に詩の世界なんか、昔のなんじゃこりゃ?といった思いもつかない強烈な個性を持った詩が全く出てこなくなった気がする。みんな矮小な恋愛の世界に終始していて、それがセンシティブだと思っているのだから困ったものだ。

思いっきり話題がそれたけど、ま、そういうことだ(どういうことだ?)。単純な映画のわりには、ちょっとこんな風に考えさせられたということで、いいんじゃないんでしょうか。それにステージングは見ごたえあったし、二人のデュオは素敵だったしね。クライマックス、ステージ上のジョアンヌが撃たれる場面を冒頭にちらっと見せる(その冒頭ではてっきりジャンヌが撃たれたのだと思わせる)構成も効いてたし。★★★☆☆


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