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シーズ・オール・ザット/SHE’S ALL THAT
1999年 96分 アメリカ カラー
監督:ロバート・イスコーヴ 脚本:R・リー・フレミングJr.
撮影:フランシス・ケニー 音楽:スチュワート・コープランド
出演:レイチェル・リー・クック/フレディ・プリンツJr./マシュー・リラード/ポール・ウォーカー/ジョディ・リン・オキーフ/キーラン・カルキン/アンナ・パキン/ケヴィン・ポラック/エルデン・ヘンソン/キンバリー“リル・キム”ジョーンズ/アッシャー・レイモンド
主人公の生徒会長、ザックなんて、ハーバードもイェールも合格しちゃう成績優秀なコになんかとても見えないしさ。みんな見てくればっかり気にして、学生としてやるべきことなんて考えてなさそうなんだもん。だから私は正直、“変身”する前のヒロイン、レイニーの方が断然魅力的だったけどなあ。ユニークで、我が道を行くって感じで。メガネかけてたってその可愛さが隠れたりしてなかったよ。逆にメガネはずしたとたんに、他のフツーの女の子と一緒になって埋没してしまった感じすらする。大体、メガネを外すと実は美少女って、30年前の少女漫画じゃないんだからさあ。
ほんと、人間を見てくれや肩書きだけで判断してるんだよね、彼らは。もちろんそれをおちょくるような描写もあるわけだけど……。主人公のザックをフる学園一の美女、テイラーは、テレビドラマに出演中の俳優というだけでどう見てもバカなブロック・ハドスンにイカれちゃって、あとで泣きを見るし。その安っぽいアイドル、ブロックに扮するマシュー・リラードのバカッぽさは面白かったなあ。ああ、なるほど、あの「スクリーム」のしゃべくりキングの彼ね。ちょっとクセ者俳優って感じで彼はナカナカいいかも。
ザックは一応レイニーが変身する前、前衛演劇に出ている彼女を見た時から彼女に惹かれはじめるあたりはちょいと見どころはあるにはあるが、結局は彼女に眉を抜かせて粉はたかせて、口紅べったり、赤いドレス着させてその“変身”に心奪われるんだからやっぱダメじゃん。あんな厚化粧のレイニーより、普段のナチュラルな彼女の方が数段可愛かったけどなあ。それにこの赤いドレスだってさ、多分テイラーに対抗させるために選んだんでしょ。連れてったパーティー会場でばったり出会ったテイラーは、ソックリのドレス着てたもん。まったくザンコクなことやらすなよなー
脇役にはなかなかオモロイ子達がいるのが救いだけれど。まず、レイニーの弟でアコガレのザックが姉と付き合い出したのに大はしゃぎ、「セガやろうよ!」とじゃれつくサイモン、演じるはあのマコーレー・カルキンの弟のキーラン・カルキン、確かに顔は似てるけど、あそこまで嫌らしいほどのマスコット的な可愛さではなく、もうちょっとは知性がありそう。そしてレイニーの幼なじみで、彼女に突然めぐってきた春を全力で応援するジェシー。レイニーに「ダイエットするんでしょ!」とせっつかれるオデブくんなんだけど、まさしく親友として心からレイニーのことを心配してくれるイイ人ぶりはこのコの方がよっぽど理想の男の子だなあ、と思わせるんである。実際、ザックの妹のマックは、このジェシーと初めて会ったプロム会場で、一目見ただけでその外見的なことよりも内面を見抜いて意気投合した感じだったし。主人公やその取巻きたちより、この二人の方がよっぽど人間的に出来てるよなー。そのマックは、レイニーをヘアメイクして“変身”させる立役者。演じるはアンナ・パキン!うぉー、育ったなあ!
あっと、もう一人忘れてはいけない、レイニーのお父さん。彼はプール掃除の会社を(と言っても彼たった一人の会社だけど)起こした一国一城の主なんだけど、その仕事のショボさから、人にバカにされている。でもそんなことなど気にせず、ちゃんとプライドを持って仕事していて、でものほほんとした穏やかなパパなんである。子供たちのことをとっても愛してて、特にこの家庭環境でお母さんがわりとして奮闘してきたレイニーを心配している。ラスト、プロムパーティーからレイニーを追いかけてきたザックとレイニーを中庭に二人きりにして、ライトアップさせるココロニクい演出をしたりするナイスなお父さん!いやー、このお父ちゃんと付き合いたいよ、私ゃ。
ラスト、「プリティウーマンの気分だわ」などとうっとりザックとダンスするレイニー。おーい、いいのか、そんな簡単にナットクしちゃって?だってあんた、それって、自ら改造されたと認めてるようなもんじゃないの。あんたにはそんなものより大事な核があるんじゃないのお?まあ、ザックもまた、彼女によってアート(アートパフォーマンス?)に目覚めさせられたわけだし、そういう影響関係でイイのかもしれないが。しかし本当に才能があるのかも判らない(多分ないでしょ)ザックが、そのためにハーヴァードだのイェールだのを捨て去っちゃう(そういうことでしょ?)はどうかと思うけど。あ、でもそんなこと言ったら、それこそ学歴偏重主義な発言になっちゃうかなあ。
観た後もしばらく耳に残る、明るくキャッチーなテーマ曲はまあまあ良かった。★★☆☆☆
んで、くだんの予告編のシーンは、クライマックスも大クライマックスで披露されるもので、こんなん予告編でバッチリ見せちゃってええんかいな、と思うほどなのだが。見ていても判るけれど、やっぱりこの爆発に追いかけられて海に飛び込むまでのシーンはホンモノ、スタントなし、CGなし!オッソロしいガキたちだ!ほんと、やっぱり判るんだよなー、CGでやってるとか、スタント使ってるとかっていうのって。こういう風にムチャに生身の体を駆使した迫力のリアルさの前では、そうしたウソがどんなに白々しく見えることか!
警察内でツマハジキもののチャン警部が、友人の復讐を遂げるため、問題児の新人警官、三人を起用する。ケンカっぱやいジャック(ニコラス・ツェー)はサワヤカ青年、女ったらしのマッチ(スティーブン・フォン)はマッチというより諸星、この三人の中ではイチバンのコメディリリーフ、エイリアン(サム・リー)は爆発頭が笑える。その標的は香港に進出してきた日本の新興ヤクザ、赤虎(仲村トオル)。というわけで劇中では広東語、英語(新世代の彼らは、旧世代の香港スターよりもずっと自在に英語を操るのだ……日本もこうなって欲しいものよのお)、日本語が飛び交うこととなる。このアジアのゴッタ煮の感じが何とも言えずクール!
ダニエル・ウーにはびっくりしたなあー。単なる悪役ではなく、役立たずの悪役(笑)。赤虎に使われている彼は、覆面警官、ジャックを知らずに仲間にしてしまったことでアッサリ殺されてしまう。女もマッチに取られちゃうし。ダニエル・ウーはこの小心者でナサケない小物のチンピラを、これまた軽やかに巧みに、そして楽しそうに演じていて、ますますもって彼の懐の深さには感心してしまうんである。そしてどんなに物語や演じる役柄がシリアスでも、いつもどこかにユーモラスをたたえているサム・リーがイイ!今回の役は他の二人にカッコイイところは譲り(彼一人だけ、あてがわれる女の子もいないしねえ)、体を張りながらもしっかりコメディリリーフに徹している。アクションシーン(特にクライマックスの赤虎との対決場面)で見せるバスター・キートンか赤塚不二雄のマンガ(どこに共通点が!?)を思わせるようなコミカルな動きは絶妙!
チャン警部の殺された友人の妹で、やはり復讐に燃えて行動を共にするY2K(グレース・イップ)がカワユイ!いくら使ってもありあまる元気さで、ムチャを平気でしでかして、キュートで愛くるしい。ダニエルの女からマッチにくら替えするヘイズ役のジェイミー・オングも原千晶風でイケてるクールな美女、女の子のレベル高し。
しかししかし、結局一番カッコよかったのは赤虎を演じた仲村トオルかもしれない。これはビックリ。全然彼のことは予想外だったから。出ているのは知っていたけど、またアリガチに、なんだかなーって感じの日本人役かと思ってたから。トンデモナイ!ひょっとしたら彼が密かに主役ではないかと思われるくらい。いつも冷たい表情をして、冷徹に相手に銃弾を撃ち込み、ツラい過去を背負って、その過去を清算するために自分も含めた全ての人たちを巻き添えにしようとしている。ジェネックス・スターたちに比べればぎこちない発音の英語も、だからこそ何か空恐ろしく響いてくるほど。彼は本当、意外にイイ役者なんだよなー。「暗殺の街」でもハードボイルドが似合ってたし。特に本作では彼に立ち向かうオノコたちが皆若く、若さゆえの魅力ももちろんたっぷりあるのだけど、その中で仲村トオルの、妙齢の男性の持つ存在感と色気がより一層際立つのよねー。イヤハヤ、ちょっとウットリしちゃいました、ワタクシ。
ちょいと昔の日本のヤクザ映画を思い起こさせるような、あまりクリアーじゃないフィルムの画像が、スタイリッシュな内容なのに妙にノスタルジックに感じさせたりして。香港映画って、凄く明瞭な画像の映画と、こういう画像の映画と、やけにハッキリ別れるのは何ででしょ?使ってるフィルムとかカメラが違うのかなあ。
いや、ほんとようやく観られて、しかもこの超エンタテインメントにすっかりお腹いっぱいで、大満足。★★★★☆
見合い結婚の夫婦、古い一戸建ての日本家屋に姑と同居、自宅に隣接した診察室を持つ若い医師。……夫婦生活に聞き耳を立てる姑は、妻のあの時の声が大きすぎて眠れない、慎みを持つようにあなたから言いなさい、と息子に言う……息詰まる生活。ああそうか、歯科医師という設定、別にサディスティックな描写にだけ効果的なわけでもないのだ。医者とはいえ生命の危険を扱うわけではない、しかしなんたって医者というエリートな職業についている男。母親の自慢の息子。母と息子の歪んだ関係を持たせるのには、この歯科医という設定は効果的だ。この姑が死んでしまった時から、友也は不能に陥ってしまった。妻、紀子は貞淑そうに見えて、厳格な姑の目を盗み朝からノーパンで夫を挑発するようなくえない女である。夫の不能をフリーライターである友人の律子に相談している彼女、それを知った友也が怒りにかられて紀子に暴力をふるい、そのままほとんどレイプのようにして彼女を求める。そのことで友也の不能は治ってしまった。
「ドッグス」以来、かなり気合入れて注目している俳優、遠藤憲一。「金融腐蝕列島[呪縛]」でもカッコよかった。彼は顔がいい。個性的な面構え。いろんな方向に転べる顔をしている。ここでも、母親に抑圧され続けてきた顔、サディズムに目覚める顔、殺すことが究極の愛だという結論に達する顔とエスカレートしていくさまがスリリングにハマッている。妻、紀子役の金谷亜未子。私はVシネまではチェックが及ばないので、私にとって彼女は「極道懺悔録」以来のお目見えなのだけれど、相変わらずこういうエグい役が似合うお人だ。いつもはロングスカートに身を包んで、“貞淑な妻”をやっているのだが、ひとたびそのスカートがめくれると、爛熟した空気にあっという間に支配される。その目の下にいつも出来ている疲れたようなくぼみが、エグい。
サディズムに目覚めたのは夫の方だけれども、それをことさらに引き出したのは彼女。「ゲームをしよう。ゲームだから、僕がどんなにひどいことを言っても本気にしちゃいけないよ」「ゲームなのね。……だったら、私を縛って」彼女はでも、マゾヒズムと言うよりは夫に本気で愛されるためにその身をさらけ出しているように映る。彼女が夫に暴力を振るわれていると知った律子が迫ると、紀子はさらりと全裸になって傷だらけの体をあらわにし、「これが私たちの愛し方なの」と厳然として言い放つのだ。二人のやり方は次第にエスカレートし、箱の中に一糸まとわぬ姿の紀子が入り、それを庭の土中に埋め、夜になるまでそのままにしておくなどという行為にまで出る。セックスをしながら紀子の首を絞め、本当に意識を失ってしまって危うく死にかけるところまで行ってしまう。……しかしこの時、紀子を失う恐怖が想像以上だったことに、逆に友也は「殺すことが究極の愛の形」だと悟るに至ってしまう。
確かに、相手への愛情を切実に感じうる手段として、その手で殺してしまう行為以上のことはないかもしれない。友也は趣味で猟奇殺人を描いた小説を書いているのだけれど、それを読んだ紀子が友也を責め立てて泣き伏す場面がある。「今から思えば、妻は嫉妬していたんです。小説の中では見知らぬ女を殺して切り刻むんですから」……そうだったのかもしれない。実際紀子は友也がそれを決行するのを心待ちにしていたのだから。ある夏の夜、夏祭りの日。二人楽しく夜店を歩いた後、ふいに友也は紀子を抱きしめる。「愛している」「……今夜なの?」その紀子の顔は幸せそうに輝いていて、その夜、セックスの絶頂の中、友也に絞殺される時も何の抵抗もせずに恍惚の中死んでいくのだ。その紀子の亡骸を前にたまらず涙を流す友也。
それとも、母親の支配=息子への溺愛ならば、その母親からの支配から一転、今度は妻を支配する側に回ることになる友也は、支配されることが愛ではなく、支配することが愛だという境地にでも達したのだろうか。なぜなら殺人は支配の究極の形だから。でもそれならば一方的な愛でしかない。支配される側には愛が存在しないということになるのだから。でも紀子は自ら支配されるようにしむけ、それは彼女の中では逆に自分が友也を支配したとも言え……双方ともに何ともはやエゴイスティックな愛の形。
友也が「ゲーム」と称して、紀子が律子とレズの関係にあったと迫る場面があるけれど、あれは果たして真実だっただろうか。紀子がそれを肯定するのは、彼の愛の行為を引き出すためだけだったように思えるけれど、でも律子の紀子に対する思いも普通じゃない気がするし。彼女は友也を呼び出し、「私は紀子のことを一番良く判っているんです」と言い、「確かにあの子は死への憧れの強い子だけど、夫に殺されて幸福な妻なんていないですから」と友也を牽制するのだ。友也はそんな律子を殺し、その死体の前で射精し、体をバラバラに切り刻む。後から答えてあれは妻を究極に愛する=殺すための予行練習だったと語るが、律子に対する嫉妬だったんじゃないだろうか。そこで射精の行為に及んだのも、その嫉妬からくる欲望だったんじゃないのだろうか。
律子の解体シーンでは、乳首を摘み上げてカッターで切り取るなんていうオソロシイ場面も出てきて、もうあやうく失神しそうになってしまう。紀子のそれも、解体後の場面が一瞬挿入されるだけだが、皮をはいで生肉状態になった場面が映し出されたりする究極のグロテスク。シリーズ第一弾の「通貨と金髪」も、おそらくシリーズ全作品が18歳未満鑑賞不可なのだけど、この作品に関してはセックス描写でなく、この残酷描写でR指定なんじゃないだろうか……。
物語はすでに友也が妻殺しの罪を犯し、声だけの男(刑事?)に尋問されている場面を挿入しながら進行していく。今の心境を聞かれて「……最高に、幸せです」と言い、本当に幸せそうな笑顔を見せ、一筋の涙を流す友也=遠藤憲一の入魂の演技!その愛の形にふと納得させられてしまうのが怖い。★★★☆☆
なんの、心の用意もなかった。これほどまでに衝撃的で、心揺さぶられる映画だなんて思いもしなかったか ら。ヒロインの藤谷文子は、私にとって初のお目見えだったし。“スティーブン・セガールの娘”なんてい う、ベタな情報しか知らず、それは何の期待をも抱かせなかった。しかし、なんという凄い女の子だろう! 彼女が本当に、魂をぶつけてきているのが、判る。ガクガクと震えて、おびえておびえて、自分を消滅した くて、でも人のぬくもりが恋しくて、人に置いてきぼりにされるのが怖くて。彼女のあの独特の喋り、演技 とは思えないほどにナチュラルな口調は、庵野監督の演出のたまものでもあるのだろうが、驚異的である。 本当に壊れやすい少女が、そこにいるのだ。膝を抱えて。
彼女と出会う、仕事に疲れたアニメーション作家(!)カントクに、なんと岩井俊二。実際の映画監督であ る彼を俳優に抜擢したのもオドロキだが、その庵野監督の慧眼にも驚いてしまう。この人しか考えられな い!驚いた。岩井俊二が、これほどまでにスクリーンに息づいてしまう人だとは。穏やかな、しかし画にな るその風貌。少女の藤谷文子とほぼ全篇二人っきり出ずっぱりなのだが、彼らの緊張感と、距離感が、揺れる 関係性が、見ているこちらの心を揺さぶってくる。彼女を被写体に映画を撮ろうというカントク。レンズを 通した二人の関係は観ているこっちがどうしようもなくドキドキするほど、お互いの気持ちがガンガンと交錯している。特に二人道路に横たわって撮って いる画なんかは!監督と、女優の関係。カメラを通して恋人同士な関係。
初めてカントクが少女に会った時、彼女は線路が幾重にも交叉する、その線路の上に寝そべっていた。顔を ペイントし、派手な、キテレツな服とサングラス、赤い傘、赤い靴を履いて。次の日、彼女はまたやや違う 格好と顔のペイントでやはり線路の上にいる。昨日、「明日は私の誕生日なの」と言われたカントクは、彼 女に花とプレゼントを持って来ているのだが、彼女は「ちーがーう!明日が私の誕生日なの!」と拒否する。 そして翌日。再度少女から「ねえ、明日何の日か、判る?」と問われ、「えーっと……」と口ごもるカント クに、少女は「わっかんないかなあ、明日は、私の、誕生日なの」と言い含めるように言う。
少女は今は廃ビルとなっている大型家具店の中に住んでいる。赤いセロファンをいっぱい髪に結んだ日、彼 女は彼をそこに招き入れる。その中を、ここが秘密の三階、秘密の四階……などと跳ね回りながら案内する 少女に、ぜいぜい言いながらついていくカントクが可笑しい。そして屋上に躍り出た彼女は、「ここが、秘密の 屋上!」と叫び、「ここで、いつも確認するの」と言う。手すりの外に立ち、つぶやく。「空がキレイ。星 がキレイ。月がキレイ。私が存在しなければ、みんなキレイ。私がいないほうがいいのかな。私の血はどう だろうか。それぐらいはキレイかな。……見てみようかな。」そしてふっと止まる時間。の後、彼女は振り 向いてニコッと笑い、「ほら、今日も大丈夫」と言って戻ってくる。
この時、彼女が「ここだけは絶対に、ダメ!」と言った地下に、彼女の隠れ場所がある。雨が降ると、彼女 はそこに閉じこもる。雨は、家族を思い出させるのだと言う。水道栓をいっぱいにひねってザアザアと降ら せ、赤い傘を逆さに無数につるして、彼女は小さなバスタブの中に縮こまっている。赤い祭壇にはオモチャ の自動車と赤いろうそく。この、奇妙でとてつもなく美しい儀式の斎場には、度肝をぬかれた。うちっぱな しのコンクリートで包まれたひんやりした中に、さらに冷たさを増す、ニセモノの雨。真っ赤で、しかしや はり冷たい透過度のある色彩が、心を塗りつぶした声にならない叫びのようにも、心から流された血の海の ようにも見える。
その中で縮こまる彼女。彼女は何かをつぶやいている。誰かに手を差し伸べて欲しいようでも、拒絶してい るようでもある。バスタブの棺桶の中の彼女は、不思議に美しいけれど、シャンパングラスのように、ふ と手から滑り落ちて壊れてしまいそう。その美しくも哀しさと混乱に満ち溢れた空間と、こっちの世界に戻 ってこない彼女の姿に、唖然とするカントク。
出来のいい姉へのコンプレックスと、押し付けがましい母親への反発と。そんな彼女を見守るカントク。彼 は彼女と共に住みはじめる。彼女を“実写映画”の被写体にする。たわむれる、幸福な時間。しかしそこにはチクチクとトゲが存在 している。カントクの携帯電話が鳴ると、あからさまに不機嫌になる少女。「一日一回は、誰かと話してる。 いいな」彼女にとって電話は現実に引き戻される象徴なのだ。彼女は家の電話にも、絶対に出ない。彼女に かかってくる電話は、まずまぎれもなく、彼女の母親からに決まっている。電話のベルが鳴ると、おびえた 小動物のようにびくびくしている。
携帯に対する彼女の拒否反応には、私はなんだかシンパシィを感じてしまった。あの、携帯電話というもの は何だって、ああも生活の中に侵食してくるのだろう。強引に、現実に、それも他人の現実に引き寄せる。 私は、携帯を持たない。持とうと思ったこともない。まるであれは、監獄の鑑識札のようだ。逃げられない 。ちなみに言うと、電話自体があまり好きではない。家にいて電話が鳴っても、あまり出ない。やたらつか まりにくいヤツだと言われる。友達が減っていっている気もする(苦笑)。突然の電話、電話はいつだって 突然だ。そこからの時間が他人によって支配されるのが、嫌なのかもしれない。現実に引き戻されるのが嫌 なのかもしれない。
少女の場合は、それが本当に顕著である。彼女はカントクの携帯を取り上げ、走り出す。彼女はまるでネコ みたいにスルリスルリと逃げて、捕まらない。それでいて、ふいと腕の中に飛び込んでくる。もう、どこに も行かないでね、と。彼女は路上に落ちているエロ雑誌を拾い上げ、「カントクもこういうの、好きなんで しょ」とカントクの言葉も全く聞かずにそう決め付けてくる。「ねえ、セックスって、好き?」と突然聞き、 「いやあ、カントク的には……」なんて口ごもるカントクに、「ふーん、やっぱり好きなんだ。私は嫌い。 だって、そんなことしたら、ただの男と女になっちゃうじゃない」そして一呼吸おいて、ひどくドスの聞い た声で「大っきらい!」と言った後、へへへ、と笑う。……私は、この彼女の言葉が、気持ちが、なんだかと ても判るような気がして、胸が痛かった。後にカントクから置いてきぼりにされると思い込んだ彼女が「セ ックスをすれば、そばにいてくれるの?」とカントクを押し倒すシーンでそのことを思い出して、ただの男 と女になっちゃってもいいからどこにも行かないで、と叫んでいる彼女の心がたまらなかった。
彼女は時々本当にドキッとさせるのだ。カントクの心を見透かしているみたいに。心のバランスを崩して、 半狂乱になった彼女をカントクが全身で受け止めるシーンがある。あの、ニセモノの雨が降り続ける地下の斎場で、びしょ ぬれになりながら、お願いだからこっちに戻って来てくれ、とばかりに。カメラが二人に合わせて揺れる。 とてつもなくエモーショナルなシーン。その後、カントクはバスタブのふちに腰掛けた彼女の髪を優しく洗 う。「もうどこにも行かないでね」とくりかえす彼女。そのあまりにも画になる、甘やかなシーンに見とれ ていると、ふと彼女がカントクを見上げる顔のアップになり、「何、考えてるの」と射るように見つめて言 うのだ。その時カントクが何を考えていたのか、あるいは彼女がカントクが何を考えていたと思っていたの か判らないけれど、その一瞬のカットは、霊的な少女の直感力を痛烈に感じさせる。
なぜ、彼女がそんな風に取り乱したのか。それはカントクが、彼女との“過剰な接触と、たまらなく退屈な” 生活に疲れて、彼女に対してある時期冷たくなったからだ。彼女が「嫌われた?嫌われた?嫌われた?また 置いてきぼりにされちゃう!」と落ち着きを無くす痛ましさ。そして、突然、落ち着くためにクスリでも探 すように留守録のテープの山から一本取出す。それは母親が何度となく入れてきた罵声。それを聞きながら、 思わず出た関西弁で「うるさいんじゃあ!それは押し付けって言うんじゃ!」と叫び電話機を床に叩き付け る。彼女、母親からの留守録のテープを、あんなひどいこと言われているテープを大事に大事に取っておい て、ことあるごとに聞いてて。うっとうしくって、判ってくれなくて、ほんとにそばにいて欲しい時にいて くれなかった母親が、でも捨て切れないのだ。好きだという感情とは違うのかもしれない。肉親というもの に対する厄介な感情。
彼女が電話が嫌いなのは、自分が混乱を来す全てが、この母親からの留守録に集約されているからか。息を のむ、クライマックスでの母親、大竹しのぶとの一騎打ちは、この藤谷文子という女の子、いや女優の凄さ を脳髄に叩き込まれるほどの素晴らしい名場面。名場面、などという穏やかな言葉は似合わないと思うほど。 ワンシーン・ワンカットとは、こういう場合にこそ生きるのだ。母親は、彼女に帰って来て欲しいという。 彼女は「自分が淋しいから帰って来て欲しいって言うの!?そういうことなの!?私が、私がそう思ってい た時にはいつだって無視してたくせに!」と叫ぶ。いや、叫んでいるのだろうか、ふりしぼるように……全 身から涙を流しているかのような、感情の固まりで出来ている体が爆発したかのよう。
彼女が母親と会う決意をしたのは、カントクが執拗にかかってくる、そして彼女が一向に取ろうとしない母 親からの電話を取ったからである。そしてなぜ取ったかといえば、その電話がある部屋に、母親の写真が ズラリと並べられていたからだ。彼女の心を象徴する、女が刺し貫かれたザンコクな画の裏に隠された、ま るで遺影のように並べられた母親の写真。彼女が自分であることすら拒否した時に、自分の姉になってしま ったのもそうだけれど、好きとか嫌いとか、そういうものを超えた、コンプレックスとも違う、肉親への感 情。追い払っても、元々自分の中に植え付けられてしまっている肉親の存在。それと向き合わなくては、 彼女は誕生日を迎えることが出来ないのだ。
カントクは彼女と母親を引き合わせる段取りを組む。彼女は暗くなるまで線路に一つ一つ石を置いている。幸せになれ 、幸せになれとつぶやきながら。そのかなたからカントクが歩いてくる。電話を取ったこと、母親が明日 会いにくることを告げると、彼女は案の定取り乱す。「逃げるなよ!」「逃げてないもん!」足早に歩い ていく彼女を追いかけるカントク。「いなくなれ!」振り向きざまにカントクに叫ぶ彼女は、明らかにそ の言葉を発したことに後悔している。彼女は、母親にその言葉を言われたくないために努力したのに、言 われてしまった。だからパァンと壊れてしまったのだ。カントクはじっと彼女を見つめている。「……な んで、いなくならないの」「……それは、君と一緒にいたいと思ってるから」「……」「君が好きだ」 「……嘘」「本当。好きだ」「……」後ずさりする彼女。「好きだ、好きです」言い含めるように、彼女 と視線を合わせ、あるいはその後に視線を落としながら、一歩一歩彼女に近づいていくカントク。遂に彼 女を抱き留めたカントクに彼女は泣きそうな声で「……どうして優しくするの」と言うと(同じ台詞でも 全く意味のなかった「タイムレス メロディ」 とはエラい違いだ)、カントクは「……さあ、どうしてかね」と彼女の頭をかき抱く。……ああ!なんと いう、優しくて癒されて、そして心がトクトクする素晴らしきラブシーンなのだろう!何度でも観たい、 何度でも聞きたい。この「好きだ、好きです」という言葉を。一歩一歩近づいてくるカントクのぬくもり を。なんでもかんでも「嘘嘘嘘」と首を振っていた彼女が、やっと初めて、信じられたのだもの。
一度でいいから戻って来てという母親の懇願に泣きながらうなづき、そして「夢から覚めた?笑ってよ」 というカントクに泣き笑いを見せる彼女(ああ!)。そして翌日。二人はカーテンを大きく開け、そして 彼女はカレンダーの12月7日に印をつけるのだ。「12月7日、私の誕生日です」……あーもう、あー もう、あああもう!その吹っ切った笑顔と明るい声のトーンに涙がこぼれてしまう。壊れた少女というの は、昨今の日本映画によく出て来て、それはいかにも男性側の理想系としての無垢な少女が行きついた形 でイヤだったのだが、この彼女は、原作が彼女自身というのもあるのだろうけれど、生身の肉体を持った 少女のしての痛ましさを見せながら、そしてこうしてその世界からちゃんと戻ってくるのだ。それがとて もとても感動的。
エヴァンゲリオンには衝撃を受けたものの、「ラブ&ポップ」では正直アニメの描写をそのまま実写に持 ち込んだような感じがして、そしてエヴァの匂いもそこここに感じられて今一つピンとこなかったのだが、 もうエヴァの庵野監督、というくくりはやめたいと思う。この作品においてすら、いまだにそういう視点 で語られているのだけれど……確かにエヴァに集約されていた彼のカラーははっきりと感じ取れるものの、 それはエヴァの、ではなく、庵野監督のカラーなのだから。
そして東京都写真美術館という、写真と映像のミュージアムでの公開だからという訳でもないのだろうが、 写真や画、CGを実写映画の中に前衛的な映像表現として巧みに取り入れ、しかもそれが目に新しい映像 としての新鮮味ではなく、驚くほど人物(彼女)の心象風景を語っているのだ。そのままの描写では表現 しきれない孤独や絶望や自分を消滅させたいという願いを、増幅して提示している手腕には感嘆する。
それぞれ別の俳優のナレーションによって挿入される二人のモノローグは、特にカントクにおいてひどく コトバの力に頼っており、それは一見、この救いようのない世紀末の社会を言い当てているかのようにも 思えるのだが、それが最後にはとてもとてもシンプルな言葉に、例えば「好きだ」という言葉に収斂され ていく感動。取り残された工業地帯のような、無機質な線路や鉄筋や工場や大型トラック、人気のない商 店街などの中に取り残された二人が、でもそんな風景すら美しいと思えるのは、きっとその為だ。
すべりこみで今年のベストワンになった、衝撃的で、愛しくて、大好きで、たまらない映画。上映終了ま で、きっとまた何度も観に行ってしまう、だろう。★★★★★
学園内に語り継がれる哀しい恋の物語。ドイツから招聘された、当地に妻子がいる美術教師と、学園長の娘で音楽教師との恋は、彼女の愛の言葉であった毎日のピアノが、彼女の父親によって彼の耳に届かなくなった時に悲劇の終焉を迎える。彼女は自殺し、彼は学園を去った……と伝えられる物語には、実はもっと凄惨な事実があった。それを握り、その事実を知った少女たちが次々と死をとげる。そしてその犯人はその過去の過ちを繰り返すような悪事を続けており……。と、まあ、ここでネタバラしではあるけれど、悪の根源は現在の学園長である筒井康隆で、ラストには実に嬉しそうに?ピストルを口にくわえて自殺する怪演を見せてくれる。ほんと、この学園長はピッタリだったわぁ〜。別に犯人じゃなくても、ミッション系学園の学園長でミサ服着て礼拝堂の壇上に立ったり、懺悔室で真知子(深田恭子)の話を聞いたりする姿が実にしっくりくるのよね。
死に行く少女たちの中では、ヒロインたちとの絡みもないまま冒頭でいきなり身を投げて死んでしまう黒澤優がなんといっても強烈。彼女は「ISOLA 多重人格少女」では、多重人格の少女という難しい役柄のせいか演技的には今一つ、という感じだったのだが、その、どこかまがまがしいようなルックスが印象的で、本作でもそうした独特の存在感をいかんなく発揮している。彼女は先の伝説の恋の真実を知り、それを演劇部の脚本として残して、自殺した。そして彼女自身にも、美術教師、ソーンヒル(セイン・カミュ)との秘めた恋と妊娠という秘密があった。ソーンヒルの幻覚に出てくる彼女の怖さと美しさは圧倒的!彼女は理解して演じるというよりは、雰囲気で演じるタイプ、だから今回のような役柄はまさしくハマる。
そして真知子が思いを寄せる、演劇部顧問のやもめ男、倉林先生を演じる加藤雅也も予想以上に良かった。少しやせたのか、今までの男のセクシーさという感じが薄れ、亡くした妻の思い出から抜け出せない、教え子の恋心にも無感動な哀しい男が予想外に似合ってて。しかし真知子のむき出しの好意とともに、傷ついた彼女のそばについてやるうち、彼自身の中にも何かが芽生えたのか、最後、学園を去っていく倉林はちょっと漠然と文学的ではあるけれど真知子の愛に応える言葉を贈り、彼女の幼いキスに自分からもう一度応えてやる(キャー!)。うーん、やっぱりアイドル映画はかなり年上の男性とのラブシーンの方が良いよなー!かつての原田知世や薬師丸ひろ子がそうだったように。こうやって少女は大人になっていくのですよ。
なぞめいた転校生、神山を演じる新人の内田朝陽(オープニングクレジットを見た時、内野聖陽かと思った……)はちょっと演技に固さが見られて、物語を引っ掻き回すキャラにはちょっと役不足だったかな、というのが少々気になったが。
深田恭子ちゃんは、懸命な感じが可愛らしい。ことに劇中劇で見せる、舞台上から父親(根津甚八)を哀しさと愛情を込めて見つめる、涙をいっぱいためた、ダイヤモンドのようにキラキラ光る瞳が!彼女は瞳の力ですな。この細かいまつげにふちどられた、黒目がちの瞳には勝てませぬ。★★★★☆
登場人物はほぼ二人っきり。本当に、厳密に二人っきりだったら、良かったなあと思わなくもない。少女(橋本麗香)だけを撮る映画製作を依頼する黒人男性がほんのちょっとながら出てくるのだけれど、彼を出さなくても問題ないし、彼を出さない方がより完璧に二人だけの世界だったのになあ……なんて。まあそれはともかく、7日間、廃虚(閉鎖されたマンション?の一室)で映画を撮ること、少女以外のものは映してはいけないこと、という条件ではじまった映画撮影。ものを言わない、発するのは拒絶を示す声だけの少女を相手に、なぶるようにスチルを撮る場面からスタートする。
「白痴」の浅野忠信氏のナレーションは……うーむという感じだったが、本作、永瀬正敏氏のナレーションは抜群。彼はたむらしげる監督のアニメーション「クジラの跳躍」でもナレーションを担当していたし、その声と喋り口調が実はかなりナレーション向きなのだな。彼もまた、このナレーション以外では劇中一言も口をきかない。彼と彼女の対峙は、ただ一点、間に挟まるカメラのみである。毎日違う服装とメイクで(あれじゃつながりませんがな)、王女様の様に椅子に座ったっきりの少女を、そしてカメラからたまらず逃れて洗面所に閉じこもる彼女を更に追いかけて彼は接写を繰り返す。それはほとんどレイプにも近いような行為。よくカメラはそうしたことに譬えられるけれど、実際にこんなにも如実に感じられたことはなかった。彼女は泣き出しそうな声で、初めて意味のなす言葉「いやあ」と発し、部屋から逃げ出してしまう。そして翌日、彼女は姿を現さない。
そして翌々日、彼女が再び現れたあたりから撮影者と被写体の関係がじりじりと逆転していく。カメラを通していつしか彼女の魅力に取り込まれていたらしい彼は、彼女の瑠璃色に施された小さな宝石のような足の爪にくぎづけになり、ほとんどかしづくような様を見せたりする。彼女はそんな彼を蹴り飛ばす。いつのまにか彼が彼女の格好をして椅子に座り、それを彼の格好をした彼女が全く同じように撮影していたりする。……仕返しのように。おびえた小動物をもてあそぶように笑いながら。その関係がめまぐるしく逆転を繰り返し、もつれあい、彼女はバスタブに倒れ込み、その彼女を彼は凝視する。二人の手からはいつのまにかカメラが姿を消し、くるくると舞い踊りながら抱き合う、柔らかく、柔らかく。そして冒頭の画面とは明らかに違った、優しい視線で彼女を見つめた“実験映画”の映像で締めくくられる。
青、というより群青色、深い海の底のような。部屋の中央に下げられた、きらめいた音を出すアンティークなシャンデリアがそのクリスタルな色を際立たせる。その画はその全てが、印象派の絵画の様に美しい。しかし時折、画面が分割され、彼と彼女の装いが逆転し、劇中カメラの16ミリフィルムが差し挟まれ、均衡を危うく保っているようなその画像は、全く逆、ダリのようなシュールレアリズムの世界を想起させる。その双方に柔軟にシフトしながらエナジーが高まっていく様が体内の根源的な何かを揺さぶるほどにスリリング。
「白痴」の銀河役に続いての登板の橋本麗香嬢、手塚監督は彼女がそんなにお気に入りなのだろうか……うーん、正直言って「白痴」の時も本作も、何か違うなあという気分がしているのだけど。彼女は“少女”というものをあまり感じさせてくれないものだから。少女ゆえの危うさ、奔放さ、揺らぎ、そういったものを。ひょっとすると20代にも見えてしまうシャープな大人っぽい顔とこの完璧なスタイルでは、ねえ。ただそれは単に私の好みに合致しないだけの話なんだけれど。でもことに本作では「白痴」とは違って、そうした少女性が求められると思うのだけど。
日本では(あるいは全世界的にそうなのかも)短編映画を観られる機会があまりにも少ない。今回だって、「白痴」がなければ観ることが出来ない作品だったかもしれない。ストーリーに依存することない短編映画は長編映画よりずっと才能を試される形態のように思う。もっともっと短編映画を観られる状況になることを切に願う。★★★★☆
まあそれは置いといて、私はてっきり前作の「借金王(シャッキング) ナニワ相場師伝説」でスナック・バセロンのママ、森下怜子(夏樹陽子)と“銀行屋”安斉(哀川翔)の借金は返し終わったのかと思ってたら、本作ではまだしっかり借金が残ってた(笑)。特に怜子ママは前作の台詞からして絶対返し終わったはずだったのになあ?まあ何でもこのシリーズの人気の影響で終わったはずのコミックの連載も再スターとされたと聞くし、映画の方も実際前作の時点で終わりだったのかもしれない。今回は、今までになく現実の社会世相を反映してて、「腎臓売っても金作れ!」の台詞がニュースをにぎわせていたのは記憶に新しいところ。しかも今回、借王チームのブレインである安斉は自分のためというより(それもあるけど)義兄(嶋大輔)が陥れられたこのシステム金融に怒りを向け、その破滅を心に誓うのである。
毎回微妙、絶妙かつ華麗な変装を見せてくれる怜子ママ、今回はもう70か80かといったようなフランス人と結婚した未亡人、マダム・ギャバンに変装する(ホンモノは原ひさ子。カワイイ)。首までリアルに老けたその変貌ぶりにはほんとうにビックリ!と、でも夏樹陽子、実はもう48歳なんだよね。うそぉ!と思うくらい若くてキレイだけど。だからこういう老けメイクが違和感ないし、彼女の一発やったる!ってな勢いにノセられちゃうんだよなあ。それにコミカルさ加減がカワイくて。
今回は彼らの敵であるシステム金融サイドがナカナカに手強いんである。悪徳システム金融の金主、向井(宍戸錠!)と、その懐刀で、怜子ママがかつて可愛がっていた元ホステス美由紀(海野けい子)。特に美由紀は借金で地獄を見た経験のある女で、途中でひらりと向井を裏切って借王チーム側に荷担するあたりは、借王たちよりもウワテである。シリーズ第1作で見せた、ビルの一室にニセの金融会社を作って敵を陥れるという作戦も、ここを訪れた美由紀は最初から疑わしい目を持って眺めてたし、いつもカンペキな怜子の変装もアッサリ見抜いてしまったしね。
その向井はどうかというと、結局ちょっと可哀相だったかもしれない。彼はひょっとしたら美由紀のような参謀がいてこそ力を発揮できる人物だったのかもしれないし、それに過去の女ならぬ過去のオカマの弱みを握られて、あっさり安斉たちの前に陥落する。美由紀が向井の背中を流すシーンで彼が全く彼女に興味を示していなかったところで確かにオヤと思ったけど……。美由紀がしたたかに女の部分を利用しようとしているのも判ってたけど、ひょっとしたら彼女、向井のことが好きだったんじゃないかなと思えなくもない節があって……でもそう考えてしまうのも甘いかしらん。
今回の白眉はもう殆どコントノリな安斉のスピード変装である。マダム・ギャバンの家で(ニセ)契約を取り交わそうとしたところが、彼が勤めるひかり銀行大阪中央支店に本店検査が入り、次長である彼は足止めを食ってしまうのである。仕方なくこの支店の応接室で契約を続行しようとするものの、この銀行の安斉次長とその双子の弟(こちらは勿論ウソ)を二人一役で演じている彼は、呼ばれる度にトイレでガサゴソ!と凄まじい音を立てて着替えをし、二人一緒に出てこられない理由をさりげなくかわし、次長でいる時に弟役の時のホクロを取り忘れたりとヒヤヒヤさせられるものの何とか切り抜ける。いやー私ゃ、この弟役をやってる時の、前髪を下ろした時の哀川翔の方が断然好みなんだけどなー。
今回、元セゾン劇場で普段はやっぱり芝居に使われているル テアトル銀座での上映。もんのすごいゴージャスでおそろしく上品な劇場で、作品カラーとのあまりのギャップの凄さに笑いが出てしまうほどだったが……。スクリーンもとても大きかったから、ドアップの哀川翔が観られるわ♪と思ってたのに、あの不鮮明さでは……やっぱり残念。★★★★☆
冒頭、シャンドライの夫が、政治犯として捕まってしまうところから始まる。砂塵舞い上がるアフリカの地、恐怖に失禁し、夫の名を泣きながら叫ぶシャンドライの姿の痛ましさ。そして場面は変わり、そこはローマ。医学生として学びながら、キンスキーの屋敷の使用人として働くシャンドライ。成績優秀な才女であり、至極真面目な使用人である彼女。つややかな褐色の肌と、驚くほど美しい漆黒の瞳、お人形のように整った、どこか幼さを残すその面立ちとアンバランスな成熟した女性の肢体……フィルモグラフィを見ると他の映画でも見ているはずなのだけど、名前と顔を一致させて見るのは初めてなこのサンディ・ニュートン、すこぶる魅力的。全身で感情を放出させる。キュートなのに知的な雰囲気。雰囲気だけでなく、この劇中でもいくつかの言語を駆使する彼女は本当に才女なのだろう。
「太陽と月に背いて」で、ランボー(レオナルド・ディカプリオ)に恋焦がれるヴェルレーヌを演じた時にも思ったけれど、キンスキーに扮するこの人、デイヴィッド・シューリスは思いつめて人を恋する男がなんとまあ似合うことだろう!その、いつも何か言いたそうにしているうすい唇が要ポイントである。屋敷を丁寧に丁寧に磨き上げる彼女の姿をじっと見つめるキンスキー。孤独なピアニストという点で「海の上のピアニスト」を思い出したりもするけれど、かの作品のピアニストは窓の外に見た少女へのただ一瞬の恋だった。まさしくピアノが彼のすべてであり、その一瞬の恋はピアノからちょっと浮気した、幻のようなものでしかなかったのだ。でもここでのキンスキーは、ピアノ以上にシャンドライを愛してしまう。だって、ピアノを手放してしまうのだもの!彼は彼女を愛することで、いや、愛する相手を得たことで初めて自分が存在していることに気付いたのではないかと思われるほど影が薄く、彼の今までの人生が孤独だけで支配されていた気配に満ちている。彼の無償の、献身的とも言える愛は、人を愛する自分が存在していることの喜びなのかもしれない。究極の自我の確認。
彼は最初こそいささかストーカーじみた行為……二人の部屋をつなぐエレベーターに乗せた彼女の戸棚にプレゼントを置いたりといった……をするものの、最初の告白から以降は、シャンドライに必要以上に近づこうとしない。ただ彼は思いを込めてピアノを弾く。多分、それ以降の彼はただただシャンドライを思って弾いていたのだろうと思う。彼女はその音色に惹かれてキンスキーの部屋を訪れたりもするのだけれど、「あなたの音楽も、あなたも判らない!」と言ってしまう……。
確かに階下で聞こえるシャンドライの聴くアフリカンミュージックの音色と、階上でキンスキーの奏でるクラシックはただ交錯するだけで決して交わらないように思える。二人を隔てているらせん階段のように、その距離はとてつもなく遠く、同じように彼と彼女の距離も、人種、身分、立場、どれをとっても近づきようもないように見える……しかしそれを突破するのがその音楽なのだ。キンスキーは彼女の音楽に、いや彼女にインスパイアされて、アフリカンミュージックのリズムを思わせるオリジナル曲を紡ぎ出す。それに思わずにっこりし、体を揺らし出すシャンドライ。ああ、ジャズだ、ジャズではないか!と私はもうすっかり嬉しくなってしまった。ジャズはすべてのジャンルの音楽を受け入れる、自由そのものの音楽。どんなに異質に見える音楽どうしだって、ほら、こんなに簡単に融合できてしまう!後に監督のインタビューを読んで、監督がジャズ好きだと知り、さらに嬉しくなる。彼の映画に国境がないのは、そのせいなのかな、と。そして今までのその国境のなさは、いささかぎこちなさというか、強引な部分もあったのだけど、ジャズ、ひいては音楽こそがそれを解決する鍵だったのだ、と監督も気付いたのかもしれない。映画監督にジャズ好きが多いのは、何ものからも自由という点で映画と共通しているからかもしれない。
このらせん階段はこの映画の顔だ。ゆるやかに旋回していくその形状の美しさだけでも価値があるけれど、らせんが醸す無限の感覚は、逆説的に一瞬でもあるのだ。キンスキーとシャンドライが先述の音楽で一瞬にしてつながったように。シャンドライは時々掃除の仕事をしながららせん階段の上から下をのぞきこむ。さながらそれは、奈落の底をのぞいているかのようで、それもまた“無限”の感覚なのだが、その空間を音楽が“一瞬”にして登ってくる、そして時間を共有するのだ。
そして、ピアノを手放す前の日、キンスキーは最後の演奏会を開く。シャンドライにささげるそのオリジナル曲を延々と弾くために。その日彼女あてに釈放された夫から、翌日の早朝に彼女のもとに行くという手紙が届く。混乱し、屋敷を飛び出してしまうシャンドライ。さまよい、屋敷に戻ると、誰もいなくなったがらんとした部屋で、まだ一人ピアノを弾きつづけているキンスキーがいる。彼女をまっすぐにみつめたまま、彼女だけにささげる曲を。泣き出しそうな、何とも言えない表情でキンスキーを見つめ返すシャンドライがそこで何を思っていたのか……。
シャンドライがキンスキーに対して感謝の手紙を書いている。何度も筆が止まり、何と書くべきかと思いあぐねている彼女は、そうではない、たったひとつの結論に行きつくのが怖いのだ。紙一面に「Thank you」の言葉がおどったあと、意を決したように書かれたのは「I love you」のひとこと。そして彼女は眠り込み、燃えるような自分の体に気付いてはっと目が覚める。眠りながら唇や乳房をみずから愛撫する、この時の官能的な彼女には息をのんでしまう。そして彼女はキンスキーの部屋にしのんでいき、そこで一夜を明かすのだ。愛し合い、朝になり、彼女の夫が訪ねてきてベルを鳴らす。何度も何度も鳴らされるベルに、キンスキーは彼女の方に顔を向ける。その手には、あの手紙があり、その表情はどうするの、と言っているようにも、この言葉をもらえればもういいよ、と言っているようにも見え……。泣き出しそうな顔でベッドを降りる彼女と、ドアの前に立ちつくすその夫のショットでカットアウトされてしまう。結末は、明かされない。でも彼女はベッドを降りたのだよね、やっぱり……。
コマ落しのように自由なスピードで編集されたリズムもまたジャズ的で楽しい。シャンドライ、なんと美しい名前なんだろう。その名前のリズムもまた、ジャズ的である。そして監督が言及するように、物語の折々に出てくる、アフリカ老人のかなでるかの地の民族音楽は、まさしくジャズの根元。ジャズが自由の代名詞だからこそ、観客に委ねられた、こうしたラストになったのかもしれない。ならば、キンスキーとシャンドライの幸福な結末を思い描いてもいいのだろうか……。★★★★☆
まあ、本作がミュージカル仕立てになっている事もあって、その辺の多少奇抜なキャラ造形やスピーディーな展開はネライでもあるのだろうが。フランス映画のミュージカルといえば、即座に「シェルブールの雨傘」を思い出すけれど、普通の台詞までもが歌になり、踊りもしない徹底ぶりが生み出したかの作品の衝撃には本作は到底及ばない。節目節目に踊って歌うという(シリアスな時は踊らないけど)、ま、至ってフツーのミュージカルな展開。うーん、それに、こんなどんどんシビアになる話をミュージカルにして、しかもその悲劇的な結末はこの映画の主題でもあるだろうにそこはまるでミュージカル手法を使わないから、なんだか中途半端な印象。
そのシビアな展開とは、ジャンヌの“運命の恋人”オリヴィエ(マチュー・ドゥミ)がHIV陽性患者で、物語のラストには死んでしまうというもの。次第に死期が迫る彼は、醜い姿を見せたくないと言って、あるいは看護婦さんの言うように最後は家族で過ごしたいと思ったのかもしれない、ジャンヌの前から黙って姿を消してしまう。彼を探し回るも見つからず、結局死んだ翌日になってようやく居所を突き止めることが出来る悲劇。ラスト、彼の葬式に出席するために急ぐジャンヌ、靴のかかとがとれたのか、転んでへたりこんだまま悄然とするショットでカットアウトされる。そのラストシーンのツラさはなかなか印象的なのだが……。
マチュー・ドゥミがあの「シェルブールの雨傘」の監督、ジャック・ドゥミ(とアニエス・ヴァルダ)の息子である事を考えるとこのミュージカル作品への出演はなかなか楽しい。恰幅のいい彼、とても末期のエイズ患者には見えなかったけど。ヴィルジニー・ルドワイヤンは初めて見たエドワード・ヤン監督作「カップルズ」ではなんてカワイイ女の子だろうと思っていたけど、その後の「プレイバック」から本作にかけてどんどん化粧が濃くなっていってなんだかもったいない。年を重ねているからロリータ的魅力が薄れていくのは仕方ないのかもしれないし、本作の中で素顔(の設定である朝とか)の時に見せるナチュラルさはやっぱりキュートなのだけど。そのキュートさより、やたらとセクシーさばかりを強調しているのはちょっぴりなんだかなあ、だが。やたらとヘソ出した服ばかり着るし(腹冷えますよ)。セックスシーンも多く、やたらと脱ぎっぷりもよろしいしね。
それにしても、オリヴィエと出会ってからは、今までつきあってきた他の男との関係は当然ながら絶っていて、オリヴィエにもそれに対して許しを請うていたのに、彼が行方をくらまし、落胆しているはずの彼女の前に現れた通りすがりの大道芸人と楽しげにダンスしたあとあっさり部屋に招いて寝ちゃう(でしょう?)のは全く解せないなあ。いやこれが、彼がいなくなってヤケになったとかいう描写ならまだ判るが、もとのジャンヌそのままに、ただただ明るく奔放な描き方なんだもん。一体お前はなんなんだ!
ジャンヌとは正反対のタイプの彼女のお姉さんと、そのダンナが、彼女が落ち込んで訪ねてきた時に見せるダンス&歌が一番いい。このカクテルマニアのダンナの、マイホームパパみたいな(まだ子供はいないけど)ホンワカした雰囲気といい、このお姉さんとの絶妙な可笑しさを伴ったおしどり夫婦ぶりといい、ほんと可愛くて彼女たちの方がよっぽど親近感がわいてしまう。★★☆☆☆
紫禁城からさらわれた(?)ペペ姫を救うため、西部の地に乗り込んだ近衛兵、ジャッキー扮するチョンが列車強盗の荒くれ者、ロイに出会い、衝突を繰り返しながら最高の相棒となっていく。インディアンの娘との結婚騒動があったり(またしてもインディアンネタ。ジャッキーが好きなのかな?自分と近いものを感じてるのかしらん)“上海キッド”としてお尋ね者になったり、売春宿でまるで修学旅行生のようにロイと盛り上がったり、テンションは上がりっぱなしで一向に下がる気配なしなのはさすがジャッキー映画。相棒、ロイ役のオーウェン・ウィルソンは見たことのあるような顔だけど、ブラピばりのかなりの美青年。「ラッシュアワー」のクリス・タッカーのように、無粋にジャッキーの領域をジャマしたりしないし、無法者の荒くれ者を演じていながら、ジャッキーを尊敬、尊重して演じている感じがして、好印象。しっかし、こういう若くて美しいオノコと並ぶと、さしものジャッキーも年取ったなあ、という感は否めないが……。実際、まるで同年代のようなノリの相棒同士はややムリがあるもんなあ。もちろんパワーは誰にも負けてないんだけどさ。
いかにもアジアという、個性的な顔立ちをしたペペ姫様(ルーシー・リュー)。彼女に絶対服従のチョンはいざ助け出すという段になっても彼女の顔をまっすぐに見られないほどなのだが、ロイと行動を共にするうちに西の思想に慣れたのか、最後にはお姫様とラブラブ状態。西も東も身分の上下も関係なしッ!てなとこがテーマなのだろうが、生まれた時からしみついた体質がこんなにまで変わるのはちょっとどうかなと思わないでもないけどね。それに、ここでハッピーエンドになる要素はすべて西の思想だしさあ。いや別にいいんだけど、ここでの西の思想は、すべてイイものだし。
思い返してみると、禁欲的で地味なキャラのジャッキーより、オチャメなオーウェン・ウィルソンの方がなんだか印象に残っちゃうんだよね。仲間に裏切られて砂に埋められ、そこに行き会ったチョンに箸をくわえさせられて「これで自分で掘れ」と言って去られるオマヌケさ、フェミニストというよりは女にヨワく、荒くれ者なのに射撃がヘタ、しかし早撃ち保安官との対決で奇跡の勝利を収めたり、チョンのワイフ(?)にホレちゃったりと、なあんか、可愛いんだもの。
それにしても、あのチョンのワイフになるインディアン娘(ブランドン・メリル)は美人だったぁー。お尋ね者となったチョンとロイが首吊りの刑に処される時、ああ、もう二人で処刑台に立っちゃたら、助けてくれる人いないじゃん!と思い、ハッと彼女の存在に気づいて、そのとおりメッチャカッコよく銃で首吊縄を撃ち、馬を駆って助けに来た時は、あーもう、女なのに男らしいー!とウットリ。ロイはこの娘にホレるけど、絶対この娘のほうがツヨいよなー。ロイの方が女の子扱いされたりして。
近衛兵の裏切り者、ロー・ファンとの教会での対決がクライマックス。ロイとネーサン保安官の対決、他の近衛兵、ペペ姫も巻き込んでもうどうなっちゃうんだ、コリャ!?の大騒動。しっかし、宝石のように大切に育てられたはずのお姫様、ペペが、何であんな見事なケリを見せちゃうんだよ!ツヨいじゃん(笑)。うーん、でも、ロウゼキモノが場内に侵入した時のためにお姫様といえどそういうワザも身につけてるのかもしれない!?
アリャ絶対、「明日に向かって撃て!」のパロディじゃ!と判る、教会からスゴい形相で出ていくチョンとロイ、そしてそれが(なんたってパロディだから)腰砕けて終わるラストにはウケた。あ、ラストは違う違う、ロイとインディアン娘、チョンとペペ姫のラブラブだったわ。ハイハイ、お幸せに、って感じかあ?
やーっぱ、ラストもラスト、恒例のNG集が一番面白かったかしらん??★★★☆☆
でもそれには思い当たる原因もあって。劇中の中でも語られているけれど、主人公の少年がヒッチハイクで遠くまで行ってみたいと話していた、ということを彼の友達だった女生徒が先生と母親に話している時、「ほら、テレビであったんですよ、ヒッチハイクで……いわゆる、貧乏旅行ってやつですか」と先生が言う場面。それは言うまでもなく猿岩石から始まって朋友(パンヤオ)の記憶も新しい「進め(ぬ)電波少年」のことであるのだが、その電波少年で私たちが見ていた、ヤラセもあったという話はあるものの、ホンモノのヒッチハイクの厳しさと、人との出逢いの感動が、どうしても映画として作られたヒッチハイクの描写がかなうわけがないから。しかも、今回は、学校というタイトルをサブに持って来ているのからも判るように、実際の学校は殆ど出てこず、少年にとっての学校は外の世界でありそこで出会う人々が教師であるのだから、その部分にリアルさや説得力がないとツラいのである。
少年の側が、そうした人たちとの出逢いをことさらに淡々と受け止めているのも、こちらの勝手な期待を満たしてくれない原因だろう。少年はかねてから憧れていた屋久島の縄文杉を見に行くのだが、その縄文杉にやっと、本当にやっと出会えた時には、ようやく到達した、という達成感はあるものの、その悠久の時を超えてそびえたつ縄文杉に対して圧倒されるとか、感動するとかいった感じは全くない。画面に出てくる縄文杉も、フレームに見切れた、ただの大木といった感じしかない。それ自体にもかなりガクッとくるものがあるのだけど、それは、少年にとって大事なのはその旅の目的を果たしたことではなく、その過程で得たものなのだと(実際、まだこの旅での人との出会いは残されているのだし)主張しているのだと思い当たると余計に、でもその過程が今一つ響かないしなあ、……などとも思ってしまうのだ。
まあ、それもちょっと言いすぎなのかもしれない。期待した赤井英和はかるーいジャブだったけど、麻実れい扮する大型トラックの運転手や彼女の息子、丹波哲郎扮する老人などとのエピソードはかなり見ごたえのあるものだったし。そう、この女性ドライバーの息子、登はいわゆる自閉症まではいかないのかもしれないけど引きこもりというヤツで、全くものも言わずにジグソーパズルや時代小説に没頭、部屋中に黒澤明の映画ポスターなんかを貼りめぐらしているのだが、少年とは不思議に気が合い、彼が帰る翌朝にははだしで少年を追いかけて来て、彼に自作の詩を裏書きしたジグソーパズルの完成品をプレゼントしてくれるのである(そして少年は自分の帽子をプレゼント。これもイイ)。母親はそんな息子の姿と、行為、久しぶりに聞いた声に涙する。ここで披露される登の詩は、まさしく目的ではなく過程、あるいは生き方(行き方)そのものを大切にする精神にあふれている。その詩といい、添えられた浪人の後ろ姿のイラストといい、なかなかの出来栄えで、この登君が決してただのオタクではなく、自分でものを考え作り出す才能のある青年だと判るのだ。
丹波哲郎にはさすが!と唸ってしまった。彼は、まあベテランだから当然なのかもしれないが、やはり相当に上手い。しかも、なんというか、型にはまってなくて、柔軟で前衛的とすら感じるような、見ていてワクワクするような演じ手である。しかも、こうした、失禁してしまうような老齢の男を演じていても、不思議にどこか色気がある。しかしこの丹波哲郎や赤井英和、高田聖子などは山田組初参加というのがちょっと意外なのだが、それだけ山田カラーにハマッた、と言える反面、そうした初参加としての新鮮な風が吹き込む、という感じがなく、言ってしまえば、山田カラーに取り込まれてしまった、個性が発揮しきれなかった、という感じも否めない。丹波氏は、そうでもなかったけれど。
この場面は、少年がこの老齢の男の息子があまりにひどい言動をすることに対して泣きながら怒るという、少年の成長を結実させるクライマックスなのだが、先に予告編でこの場面を見せてしまっているせいか、素直に感動できなくて残念。この場面に限らず、本作品の予告編では、見所をすべて出してしまっている感じで、こんな大切な場面など、主要なセリフを殆ど聞かせてしまっているし、要所要所で、あ、ここ予告編で見た、などと思ってしまってどうも興ざめなんである。
それに、やっぱり全体に普遍的すぎるというか、これが30年前の映画だって言われたって信じちゃえるような、古いわけじゃないんだけど、新しくはない、つまり現代にしかない病根が描けているかというと首をひねってしまうというか。風俗的なことの描写に対する物足りなさもあるし……別にコギャルを出せと言ってるんではないけど、あんなマジメな格好した中学生の群れ(特に宮崎県の場面で)は、まるでタイムスリップしたような感覚にすら陥るのだもの。ひょっとして、だから今一つ訴える力に欠けるのかもしれない。山田監督って、もちろんいい意味でもあるのだけど、ほんと、全く変わらないんだよね。もちろんこれだけの作品を撮ってる人だし、その中ではいろんな変遷はあるにしても、こういう部分がまるで変わらない。世情を見ているようで見ていないって気がする。見てても自分の中の定規で測り直しすぎていて。松竹お抱えの監督として、あまりにも恵まれすぎたというか、ハングリーさがないことが、今の時代の映画としては特に厳しく感じてしまう。
ところで、この主人公の金井勇太少年、えっ、「ズッコケ三人組」でデビューって……、あああ、ほんとだ、三人のうちの一人ではないか!え、このクレジットの順番から言うと、ハカセだった子?私、このハカセが琴線触れまくりで、この子は今はまだ普通っぽいけど、今後美しくなる可能性大有りだ!とかなり盛り上がってたのだが……う〜〜〜ん、ま、今はさなぎの時だからね。ニキビがジャマしてるせいもあるし、私が二年前(たった!)に感じたあの予感がゆくゆくは当たって欲しい。ただね、彼、予告編の時からもうすっごい思ってたんだけど、もろ吉岡秀隆を彷彿とさせて、いかにも山田監督が好みそうな、っていう……だから、このまま山田監督の元で育てられちゃうと、そうした色のある可能性の方が伸びない気がしちゃうんだよなあ。★★☆☆☆
まあ、それはさておき。時代は60年代である。この物語が時代性ゆえのものなのかは判らない。こうした強制的な施設が、今でも存在するのかは。ただ、存在していないにしてもきっと状況は大して変わらないのだろうと思う。人よりちょっとだけ悩んでしまっただけなのに、大人からはラインを大きく踏み外してしまったと思われて、腫れ物に触るようにあるいは冷たくさげすまれて、元いた場所から遠く避けられてしまう……。大人たちは心配という衣をかぶりながら、その実、自分たちのせいではないと思いたいのだ。勿論、大人たちのせいだというわけではない。誰のせいでもない。少女期には大なり小なりあることなんである……少年は判らないけど。
そうした、心を病んでしまった少女たちが一つところに集められるのが、舞台となるこの病院。ただでさえ感じやすい年頃の女の子達が、こうしてあつめられ、しかもほとんど軟禁状態に近い監視をつけられて生活するなんて、どう考えても病気(?)の治癒に対しては逆効果にしか思えない。面白いことに大人たちもそれに気付いていないわけではなく、病院に送り届けてくれたタクシーの運転手は「なじむなよ」と忠告してくれる。セラピーの場で、精神科医の希望に添った“告白”をしさえすれば出られるのだ。……つまりは、自分に正直なうちは出られない。大人になった証拠=ウソつきにならなければ出られないのだ。
はたして、ウィノナ演じるヒロイン、スザンナはどうだったのだろうか。彼女はリサとの脱走劇から帰って来て、まるでツキモノが落ちたかのように素直な“告白”をはじめる。それは本当に素直に心を見つめた結果のように見えなくもない。でも私にはその告白をしながら「私、治ってきてるわよね」などとどこか満足げに言うスザンナに一抹の不安を感じてしまった。それは、リサがついに捕まって施設に帰ってきたのを スザンナがどこかおびえたような目で迎えるに至って、さらに確信に至る。スザンナはリサといると、良かれ悪かれハダカの自分になってしまうのだ。勿論、だからこそリサに惹かれ、まるで駆け落ちのように二人脱走を試みたのだが。リサがスザンナのように退院を勝ち取ることが出来ず、脱走を繰り返して8年もこの施設にとどまらざるを得ないのは、リサは自分を隠すことが出来ない、あまりにもハダカすぎるのだ……痛々しいほどに。
スザンナが退院する前夜、リサはスザンナの隠している心の暗部を暴く。スザンナが日記に書いていた、彼女たちに対するシニカルな、悪口とも取れる描写である。彼女たちは傷つき、涙を流し、リサは激昂するけれど、スザンナを追いつめようとしたリサをポーリーが止める。リサにしても、そして他の女の子達にしても、判っているのだ。自分たちだってスザンナと同じだと。自分は他の子とは違う、正常なんだと思いながら、でも自分が一番辛いと思っている。死にたいと願い、背中を押してもらいたいと思うほどに辛いのだと思いたがっている。
でもそれは、逆説。「誰も私の背中を押してくれない!」と泣き叫ぶリサに、スザンナが「それはあなたがもう死んでるからよ!」と痛烈な一言を浴びせる。泣き崩れるリサ……死にたいと願っているのは、逆に生きたいと願っているからだと気付かされるのだ。リサは両親が、自分が死ねばいいと考えていると思い込んでいて、ただ、たったそれだけで彼女は自分の存在価値を見失っていたのだ。なんという脆さ。こんなにも強く、エキセントリックで人を惹きつける魅力のある彼女が。でもそれはまさしく少女だからなのだ。彼女の世界はまだまだ両親などという、所詮、長い人生の半分いや、1/3以下の、本当にわずかな時期を世話してくれるに過ぎない人物によって支配されてしまっている。それは彼女のここまでの人生が彼らに握られているほど、短い時間しか過ぎていないから。それが少女、いやコドモというものなのだ。親が自分の世界の全てだということは、子供にとっての最大の悲劇である。それがバカバカしいことだと気付く大人になってからも、子供の時にそれによって受けた傷は忘れることはないのだから。
彼女らが外出を許されたアイスクリーム・ショップで、スザンナが肉体関係を強要された教授の夫人から「一生入院しててね」などと罵倒され、それをリサをはじめ彼女らが撃退するシーン、顔にやけどを負っているポーリーが心を閉ざし、その外でスザンナとリサが心を込めて歌うシーン、それはどれも少女でなければ出来ないむき出しの愛情表現であり、気恥ずかしいけれど涙が出るほど暖かい。……でも、どうしてこうしたことが出来なくなっていくのだろう。心を隠すことばかり上手になっていってしまうのだろう。そうしてこの施設を出ていける“大人になる”ことは、そんなにもいいことなのだろうか。
本作でようやく初めて見た、アンジェリーナ・ジョリー。オスカーをとるほどだからと、期待して観たら、なるほど、納得の存在感。純粋に演技力と言うより、その特異なカリスマ性と存在感でもぎ取っていったという感じ。そのボッテリ唇に目が行ってしょうがない。うーん、ジーナ・ガーション以来の気になる唇。★★★☆☆
物語はオムニバス形式になっていて、しかし、それぞれはゆるやかにつながっていく。基本的には呪われたとある一軒家。しかし、その家の住民と何らかの関わりがあれば、離れた場所の、例えば学校でも悲劇は起こる。はじまりはこの一軒家に、ずっと学校に来ていない俊雄の様子を見に来る教師、小林のエピソードから。両親は見当たらず、家中ちらかっており、子供は傷だらけで、しかもどうも様子がおかしい。……この家のエピソードはラスト前にもう一度語られるのだが、そこで登場する母親は(おそらく一度死んで)すでに化け物になっており、子供の俊雄は死んだ猫がとりついている。……この第1話のラストカットで、窓の外を見ている小林教師のうしろで大きく口を開け、その口の中は真っ黒でにゃーああ、と鳴き声を立てている俊雄!ああ、もうもう、泣き出したくなるくらい怖い!
最初からこんなに怖くって、もうどうしようかと思っていたが、こんなのは序の口だったのだ。とにかくこの監督は見せ方がうまい。それは先述したように決定的シーンへのじわじわと迫っていく演出力と、その決定的シーン、つまり化け物の造形が上手いのだ。この猫憑き少年はこの家の次の住人である家族の、息子がつきあっている女の子に襲いかかるのに、学校にも出没する。誰もいない職員室で彼女に携帯で電話をかけ、はだしでひたひたと走りまわる。電話に出た彼女は自分の足にまとわりつくものを感じ、恐る恐る下を見ると、この少年が……全身真っ白になったこの少年が、黒い口をうっすらと笑わせて彼女を見上げているのだ……ああもう、本当に思い出したくない!!
化け物の造形の素晴らしさは、まだまだある。この学校で人間とウサギがぐちゃぐちゃにまじりあった死体が発見される。そしてそこにはこの死体が持ち主ではないあごだけがまじっていて……この見せない死体だけでもうドキドキに怖い。そしてこの家に血だらけの少女が、体をガックンガックン引きずりながら帰ってくる……母親が声をかける……あごをなくした少女が振りかえる!!!もう、本当に振りかえって欲しくない、お願いだから振りかえらないで、と切に切に祈りながら、でも見たいと観客に熱望させるほどに誘い込んでいく。
この盛り上げていく手法は視覚だけにとどまらない。この、あごをなくしてしまった少女の家庭教師として、この家にやってくる霊感の強い女性(三輪ひとみ!)は、なにか奇妙な物音がどうしても聞こえてくるのである。喉の奥で声にならない声を小さく震わせているような……。彼女はその音がどうしても気になり、押し入れをあけ、見上げるとそこに女の化け物がいて引きずり込まれてしまうのだが、この、“声”だと確信が持てないままの物音としての声の奇妙さが、ざわざわと焦燥感にも似たただならぬ恐怖をかきたてる。
そしてラスト前、猫憑き少年の母親であった女が化け物として登場するシーンがなんといってもクライマックスである。小林教師に大学時代懸想していたこの女は、訪問してきた彼を逃すまいと、その姿をあらわす。やはり白い全身で、大きく見開かれた目と口は黒くふちどられ、その口からは血を流し、ざんばらの黒い髪……とまあ、ここまではありがちかもしれない。しかし彼女の登場の仕方が、とにかく強烈なのだ。階段をずるずるとはい降りてくるんである。そのがくがくとした動きと、しっっっかりと小林教師を見据えている目とあわあわした口の動きが、こちらの内臓があっつくなったりひんやりしたりしてしまうほどに、恐怖を通り越して驚愕、戦慄。小林教師は怖さのあまりに腰が立たない。ドアを開けようと後ずさると、そこには瞬時に彼女が移動していて、「小林くうん」と彼の顔の上に覆い被さるのだ!!!
このようなクリーチャーとしての化け物のほかに、最終エピソードでは、それらとは180度違うものを出してきて、しかもそれでラストもラスト、カットアウトさせて、この監督の非凡ぶりをまざまざと見せつけてくれる。こんな惨劇が続いて現在、なかなか買い手がつかなくなったこの家を何とかしようと、不動産業者が、霊感のある妹の響子に家の下見をさせる。彼女はこの家に巣食う化け物たちを如実に感じ、とても平静にそこに入られなくなり……。ここではそれまでに見せてきた恐ロシメイクを施した白いワンピースの女が、腰を折った足の陰からこちらをのぞいているという場面も描かれてドキッとさせるのだけど、それがこのエピソードの見せ場ではない。この家の呪いの影響を受けないような人にしか売ってはいけないと兄に強く言い含めた響子、買い手がついたと聞いて、二度とは近寄りたくなかったであろうこの家に、どうしても気になって様子を見に行く。門から出てきた男はなんてこともない普通の人物のようである。ふと顔を上げると、大きな窓からこちらを見ている女性がいる。……別にあの恐ロシメイクはしていない。しかし、色白の肌に、あの白いワンピースを着て、無表情のまま目線だけを水平に動かしてじっと響子を見つめるその姿は……。いやこれが、はっとするほど美しいのだけど、でもでも、やっぱりゾクリと、とてつもなく恐ろしいのだ。その後に響子の驚愕する顔を挿入させなくったって、充分に充分に怖いのだ!!!
何だか気がつくとホラー映画で(名前に反して)怖がらせられ役者の常連さんになってしまった感のある柳ユーレイは、でも好きなんだよなあ、彼。この化け物女にこれほどまでに惚れられるのもわかるような、誠実一本やりな、色のつかない感じがこの人の持ち味。そして、おーい、最近出過ぎだぞお、な諏訪太朗がまたしても、そしてまたしても刑事役で登場。そしてそして「死国」では怖がらせ役の方だったのが逆転し、なおかつあの作品とは正反対の現代的な女子高生役の栗山千明は、「死国」の時は実に実にあの日本的な顔立ちが醸す(いい意味での)アナクロニズムに瞠目させられたものだが、ミニスカートの制服に身を包んだ彼女が実際は腰高の足の長い、スタイル抜群の少女だったことに驚いた。あの時の着物姿は本当に古い日本人形みたいだったのに。そしてここでは、存分に怖がらせられ役を演じていて、うーんやはりこの子、いいなあ、注目株だ。
ほんと、もう二度と観たくないほど、心臓がばくばくするほど怖い思いにさせられたのに、……でもでも、やっぱり絶対「2」も観に行っちゃうに決まってる。もともとレンタル用ビデオ作品で、先にビデオ発売されている本作は、でもこんなん、家で一人でビデオで観たりなんかしたら、……うわあ、想像しただけで怖くて怖くて泣きそうだ。劇場で、他のたくさんの観客の人たちと、そして劇場のスタッフの人たちもいるんだと思う安心感があってさえあんなに怖かったのに……。うー、でもより恐怖感を味わうにはビデオの方がいいんだろうが……やだやだ、怖い!呪われる!!!★★★★★
通して観てみると、この「呪怨」の鍵を握るのはやはり、小林先生に惚れていた階段ズリズリ女、川又(佐伯)伽耶子(字が違ったかも……)なのである。この伽耶子が、本作では他の女にのりうつり、ドッペルゲンガーとなり、増殖し、……とまあ、八面六臂な大活躍なんである。前作でのラストで恐ろしいほどに美しい“化け物予備軍”の姿を見せてくれた藤井かほりがこの伽耶子にのりうつられ、不動産業者をとり殺してしまうのだが、藤井かほり、かなりやっちゃってくれてます。もともとどこか険のあるストイックな美人のタイプである彼女、伽耶子からの“送られるはずのない小包”……その中には伽耶子の、小林先生に対する思いをつづった日記と、彼女の息子である猫憑き少年の描いた両親の絵が入っている……を手にした時の、本当に三角にとがった目の恐ろしさときたらなかった!そしてこの家を心配して再度訪れた不動産業者が、ふとこの日記に話題を移すと、彼女、突然がくりとうなだれ、その下がった髪の中に顔を隠して、暗い声で「……それ、私の日記なんです」とつぶやくのだ。あああ、その顔を上げた時、伽耶子の顔があるに決まっている!頼むからその顔を上げないでくれえ!しかししかし、彼女はやはりじりじりとこの不動産業者に近づき、ガッと顔を上げるとやはり白塗りの伽耶子の顔で!もう……判ってるのに、やっぱり心臓に悪い。そしてここでもあの全身白塗りの猫憑き少年が、にゃあーん、とソファで携帯をかけている……この子、この歳でこのキャラにこんなにもはまってて大丈夫なんだろうか……なにか、「オーメン」を観た時と同じ心配してるなあ、私。
前作で栗山千明のボーイフレンド役だった男の子は学校で増殖した伽耶子に取り囲まれる。望月峯太郎の「座敷女」のラストみたいに、奇妙な動きで、しかも物凄いスピードで廊下を這いずり回る伽耶子は、やっぱり戦慄するほどに怖いのだけど、その伽耶子が二人に増えた時、ありゃりゃ?と思い、その数がどんどん増えて窓をガタガタいわせ、校庭にゆらゆらたたずむに至ってはありゃりゃりゃりゃ?という感じだった。うーん、なぜか、増えちゃうとあんまり怖くない。唯一絶対の存在であるが故に怖いのだということに気付く。ここまで増えると、ああ、同じカッコして同じ髪型して、ずっとうつむいて大変だなあなどといらんことを考えてしまう。……それに、女のバケモンって「リング」も「女優霊」もそうだったけど、長い黒髪で白のワンピって決定事項なんでしょうか?
前作でもそうだったけど、明かりを点けても点けても何だかやっぱり暗い家(部屋)の中が、どうしようもなく怖いのだ。そう、明かりを点けても、そのまわりだけが白く輝いてるだけで、部屋の中はやっぱり暗くて……この感覚って、ほんと、ホラーなんだ。この化け物たちからは逃げられない、化け物たちの支配するワールドなんだと、文明社会の道具も、彼らに簡単に支配されてしまう恐怖。
これまた前作の続きで出てくる刑事役の諏訪太朗が伽耶子に襲われる場面も、ドアの陰にスーっと消えていく伽耶子、まではなかなかドキドキさせてくれたけど、足の間から伽耶子の白塗り顔がぬっと出る、というカットアウトは、うーん、これはネタ切れ気味のショットだなあ、なんて思ってしまう。そして、不動産業者の妹、響子が、小林先生夫婦の霊にとりつかれておかしくなってしまい実家に帰っている場面で、髪を振り乱しながら人形を抱いている響子を見ながら、狂ったように笑う母親……なんて描写にも同じことを感じてしまったりして。でもこうして考えると、こけおどしではなく、しかも思わせぶりすぎでもなく怖がらせるのって、ほんとに難しいんだ……本作だってクオリティはやっぱり高い。あくまで、前作でのインパクトがあまりに強かったので、どうしても比較してしまう部分があるから。あるいは、この監督の見せ方に、二作を続けて観ちゃうと慣れてしまうというのもあると思うし。
何にせよ、注目すべき才能が現れたのは間違いない。これだけの演出力があれば、ホラーに限らず、いわゆるエンタテインメントに強い人だとは思うけど、監督本人からしてホラー好きらしいし、しばらくはホラーの秀作で存分に怖がらせて欲しい!★★★☆☆
そして今回は、本郷流一(哀川翔)が若い頃、極道の何たるかを教えてもらったという北海道の富塚組親分として出てくる川地民夫がこれまた渋い、素敵、カッコイイ!敵の襲撃を受けて傷を負い、ふせっている彼は、それでもいつでも口元に穏やかな笑みをたたえ、本郷を歓待し、血の気の多い息子を心配し、若頭の裏切りによって死んでいく……哀川翔の腕の中で!川地民夫、若い頃のアウトローな彼もお気に入りだけれど、いい具合な年の取り方をなさってくれちゃって!義に篤く、任侠道をまっとうし、しかし上品でうららか。さすがベテランの、余裕の演技を見せてくれるのだけど、その川地民夫と相対する哀川翔の臆することない柔軟さ、寡黙な誠実さとのコラボレーションが、ううッ、素敵すぎるっちゅーの!
この富塚親分さんを見舞うために本郷が北海道入りしたことで、彼にその気がなくてもこの地でのシマ争いが勃発、本郷の宿敵、伊能政治が何かとインネンをつけてくる。富塚親分の一人息子が、一本気な奴なんだけど、今の時点では若さゆえのバカさで突っ走るもんだから伊能の思うツボなわけで。この息子を心配して何くれと世話を焼き、ついには彼の身代わりとなって自ら敵地におもむき、覚悟の最期を遂げる梅沢富美男扮する石井(役名うろ覚えだけど、多分……)が泣かせるうー!彼は覚悟を決めたその前夜、愛妻(佳部晃子)と新婚時代以来の外食に出かけ、これまたそれ以来断っていた酒を口にする。全てを察知し、涙ぐむ妻。子供は作らなかった夫婦らしく、二人の短かったけれどお互い信頼しあった愛情関係が切々と胸に迫る。
この石井の死によって、改めて極道の何たるかを叩き込まれるこの一人息子。彼が哀川翔から、これからはあんたが親分さんだ、きっちり組を束ねていきなさい、と言われ、深くうなづき、続いて「俺、結婚します。昔からこいつだけが俺の女房だと心に決めた女がいるんです!」と言う。うっひゃー!この年で言う台詞かあ!?って、そんな年とってから言う台詞でもないけどさ。なにかこういう王道なキメ台詞、久々に聞いたぞお。いや、このシリーズ自体、そうした仁侠映画黄金期のキメキメ台詞のオンパレードだったんであった。そしてこいつのこの台詞に、ちょっとからかい気味の、そして、カワイイ奴だ、といった感じの含み笑いをする哀川翔が、ああ、素敵!
本シリーズでなんたって楽しいのは、いささか悪ノリすぎるほどの悪役演技を怪演する伊能政治役の萩原流行。強烈な南なまり(土佐弁あたり?)に、おまえはホストかい!と突っ込みたくなるようなハデな格好。赤のスーツに金色のチーフだぞ、オイ!あれだけの銃撃戦を展開して、手下は次々に死んでしまうのに、彼だけがいつも死なないのが不思議でたまらない。いや、本郷の宿敵なんだから死んじゃ困るんだけど……。そして本郷組組員の中でも一番の信頼株、本郷に付き従っている、徳丸役の松田勝がイイ。黒づくめで用心棒的な風貌、銃より実践ケンカ道といった感じの武術派。彼は哀川翔と対照的にテンションの固まりで、気をつけて見ていると画面に映っている時はいつでも、ちょっと過剰なほど殺気演技をしていて、オモシロイ。
ああそれにしても哀川翔のあまりの素敵さに、呼吸困難をおこしかけた私なのでした。★★★★☆
今回はなーんとなく、哀川翔の出番がビミョーに少ない気がしないでもない。またしても伊能政治にでしゃばられて追いつめられた北陸金沢の神先組組長(鶴見辰吾)を助けに北陸入り。今更気づくのもなんだけど、このシリーズって、本郷流一とその組員の夢が“全国制覇”だけあって、まるで寅さんのごとく全国津々浦々を回るのだよな。昔のNHK朝ドラ「凛々と」以来久しぶりに聞いた個性的な北陸のお国言葉、やきもの、染め付け、由緒ある建物など目白押しに出てきて、ますます寅さん的趣き大なんである。
本郷に助けられる神先組長は、この土地の利権を一手に引き受けている極道と言いながら、組長のまっとうなお人柄で、堅気の取引先にも信用あるという希有なお方。その人の良さにつけこんで、極悪非道な伊能政治がこれでもかの汚い手を使ってくる。ヤツにかかれば、彼の可愛がっている血気盛んな義弟をなぶり殺すだの、たった一人の大切な妹を組員に輪姦させるなんてのはヘでもないんである。まあまあ、あいもかわらず楽しそうに演じていること、萩原流行!不正をつかんだ銀行の専務理事を脅す時の、笑顔から一瞬のうちに真顔に変わるそのコワさ!今回もハデなスーツを着ていまして、なんとまあ、明るいえんじ色のベルベット!よくやるわ、ほんと。
今回は本郷の元だけでなく、この伊能政治側にも強力なゲストが!彼と“兄弟”と呼び合う天才的ヒットマン、向井役の名高徹郎。かつて本郷ともしょっちゅうコンビを組んでいたという因縁の相手である。そして改めてここで、本郷もまた、天才的な強運と、銃の腕前を持っていることが示される。最初の顔合わせ的な向井との銃撃戦で、二人は相撃ちになった!と思いきや、双方ともに、胸に入れていたジッポに弾が命中しているんである。この、双方ともにというのですでにムリがあるのに、このネタを後半でもう一度使っちゃうんだもんなあ。
“兄弟”といえば、本郷の“兄弟”である大和武士もしっかり登場!まあああ、白い上下に赤いシャツと赤いネクタイ、吉幾三みたいなグラデーションサングラスという、なんつーカッコしてんの、あんた、といういでたちで現れ出でる彼。今回もまた、本郷と何かというと、ほとんど無意味じゃないかと思えるほどに「兄弟」「兄弟」と呼び合ってうなづきあい、私をキャーとしびれさせるのだけど、クライマックスの、神先の妹を救出し、伊能を追いつめる銃撃戦で二人揃って銃をぶっ放し、煙の出た銃を胸元に持ってきたポーズでやや背中合わせ気味に二人並んだツーショットのカッコよさときたら……参りました。
それにしても、今回の登場人物達ときたらこれがまあ、しつこいくらいになかなか死なない(笑)。その誠実なキャラでちょっとだけ哀川翔を食っちゃった鶴見辰吾は、おいおい、その位置は心臓だろう!というところに、本郷をかばって銃弾を撃ち込まれてる状態で、敵をオノ?で倒し、本郷が抱き起こしに来て最後の会話をかわすまで死なないし、向井に至っては、本郷に額の真ん中を撃ち抜かれ、これは絶対即死だろう!と思うのに、しっかり最後の言葉を、しかもゆっくりと感慨深げに言ってからぶっ倒れるし。もひとつオマケという感じで、本郷組の組員、工藤が、向井の銃から組長をかばって弾を受けてしまった時、最後の言葉めいたことを言って一度目を閉じてしまってから、本郷に「工藤、工藤ー!」と呼びかけられてまた薄目を開け、「組長と一緒で嬉しかったっす……」と呟き、ガクッと息絶えるんである。なんかここまで来るとほとんどギャグで、お前、そりゃもう死んでるだろ、などと突っ込みたくなったりして……。でも哀川翔にあんな風に繰り返して名前を叫ばれたり、首を抱きかかえられたりするの、めっちゃうらやましいけど……(そーゆー問題か?)。
銃撃戦の時でも、銃をおろしている時は完全に肩の力が抜けていて、瞬間的に筋肉が躍動する哀川翔のカッコよさは、ほんと何度見てもほれぼれ(×2)しちゃうんだよなあ!★★★☆☆
本郷組の組員の一人、戸沢が突然、何も言わずにしばらく暇をもらいたいと言い出すところから始まる。金を持たせて戸沢を送り出した本郷が「一週間ぐらい前から様子がおかしかった」と言って、他の組員にさぐらせると、戸沢の本当の親以上の絆で結ばれている義父が、詐欺同然のシステム金融にひっかかって10憶の借金を抱えてしまい、脅されているという。その影にはまたしてもあの伊能政治が(またかよ)……。伊能役に扮する萩原流行は今回もかなーりキテます。青や赤のスーツや金色のチーフにはもう驚かなかったけど、お、今回はダークグレーなんて、シックな色のスーツじゃん、と思ったら、バリバリに光沢入ったシルクサテン!ひえー!しかも、なんか指輪の数が増えてるんですけど……小指に指輪するのはやめてくれないかなあ(笑)。
一方の哀川翔は、うーん、相変わらずなんて素敵に三つ揃いが似合う人だこと!チンピラや悪徳ヤクザのようにではなく、本当にスリムにしなやかにスリーピースの似合う人だなんて、今の俳優で私は他にちょっと思いつきませんがな。着やせするタイプなんですな。結構脱ぐとスゴいのに。そして、哀川翔といえば白のロングコートなんである!袖を通さずにはおった状態がワザとらしくならずに似合う。そして薄く色の入った眼鏡も似合うんだよなあー。怜悧な若き親分という感じでもう!
金で雇われ、本郷をねらうフィリピンの女性スナイパー。彼をつけねらっている最中にチンピラにからまれ、その腕っぷしの強さゆえにトラブルを起こしているところを本郷に助けられる。彼はネクタイを外し、けがをした彼女の腕を止血する。ああちくしょー、カッコよすぎるぞ、哀川翔!ポーズではない、本当に彼の性格から出る行為、手際の良さ。そしてタイを外して開襟状態になる姿もまた色っぽいわあー。日本人には散々ひどい目にあってきた彼女だけれど、この一件で彼に心奪われてしまう。そりゃそうでしょ、これで惚れなかったらウソだっつーの!ううッ、しかししかし、うらやましいー!
戸沢を救い出すべく、ワナだと判っていながら敵の指定した廃工場に向かう本郷。彼の信頼する少数精鋭の組員をしたがえ、「おれたちには全国制覇という夢がある。そのためには誰一人として欠けちゃいけねえ。死ぬんじゃねえぞ」と(クッサー!だけど、大マジな彼が言うとカッコいい……)。彼らは口々に親分に命を預けたと言い、そこに居合わせた戸沢の義父は思わず涙をこぼすんである。「私は息子があなたの組に身を寄せると言った時には正直反対したんです。でも今では、あなたに育ててもらって本当に良かったと思っています」とこの義父は言い、「そんなんじゃありません、俺たちはみんな、親兄弟同然の絆で結ばれているんです」と本郷が返す。いやあー、今時お目にかかれないっすよ、こんな堂々とやっちゃう義理人情は!最初はなにか気恥ずかしいものを感じていたけど、もう慣れちゃうとすっかりその世界にハマッて、うんうんとうなづいてしまう……ヤバい。
かくしてお定まりの銃撃戦が始まるわけだけど、ここに駆けつけ、雇い主を裏切って本郷を助けて戦うのが、かの女スナイパー。くだんの本郷のネクタイをハチマキにしてる女ゴコロが泣かせるじゃないですか。そして銃弾に倒れた彼女、ネクタイを本郷に返し、「私、お父さん日本人、だから私日本人、本郷と同じ」と虫の息で訴える。かわりに家族に送金するからと言う本郷に、彼女は本郷が探し出してきてくれた、今は亡き父親の写真(裏にアドレスがある)を本郷に渡して息絶える。めったに見られない哀川翔の女性に対する情感あふれるシーン、彼女を抱きかかえて、その名を叫びつづける姿に、うらやましくて、素敵で、うらやましくて(しつこい)もう私はコンラン状態なんである。
そう、ここでのシーンがことさらに印象的なほど、哀川翔には、女の匂いが感じられない。そこがイイ。思いっきりストイックなんだよなあ。結婚している役は結構あるけれど、恋人のいる設定はほとんど見たことないし。同じこうした作品群のスターである竹内力が、オラー!みたいな表情で常に女をはべらせているようなイメージであるのと対照的に、哀川翔は常に男一匹、クールな面持ちを崩さない。まわりの組員達がコワモテでいつも殺気をみなぎらせているのと違って、余裕を持ったしなやかさを持ち、いざという時に瞬間的にテンションを爆発させる。その緩急、すばやくまっすぐに伸びた腕から繰り出されるガンさばきとヒョウのような身のこなし……ああもう、素晴らしい!★★★★☆
この中野英雄扮する大磯銀次は、服役中に自分を裏切って恋人を借金漬けにした岸田組に復讐し、なおかつ金を脅し取るため、このシリーズの根幹たる事実、親分殺しに本郷を陥れたことを伊能自身が図らずも告白したテープを武器に引っ掻き回す。そして銀次が身を寄せる北九州のナントカ組が本郷が若い頃世話になったところで(またかよ……なんかこのシリーズで2、3度聞いてる気がするぞ、それって)彼もまた巻き込まれていくわけである。
今回ちょっと意外だったのは、ここ最近はすっかり七曲署のボス状態で、「ここは俺の出る幕じゃない」などと静観ばかりしていた木曜会親分、春田(安岡力也)が結構話にカラんできて、異能を倒すという共通目的のために本郷と歩み寄り、兄弟の盃を交わそうというところまで行くことである。正直、少数精鋭の組員で夢は全国制覇、と一匹(一組?)狼状態でやってきた本郷流一が、(個人ではなく)他の組の親分や誰かと兄弟盃を酌み交わすなんてちょっと信じられなかったのだけど、やっぱりもうちょっと、というところでそれは先延ばしになり、そのまま本作の中では実現することはなかった。それでも本郷に加勢するため単身北九州に乗り込んできた春田に対して「もうあなたは身内よりも濃い、兄弟分だと思っております」などとマジな目で言う哀川翔、っとと、もとい、本郷流一に私はキャーとまたしてもしびれてしまうんである。しかしこうしてまたしても抗争に加勢することなく東京に帰されてしまう春田親分なのであった……ホントこの人の必要性には毎度首をひねってしまうのであるが……もしかして抗争シーンを演じることに対する、安岡氏自身の体力の問題だったりして?まさかね。
まるでビデオソフトユーザーに向けての義務的サービスのような濃厚なセックスシーンを銀次とその恋人に何度か、しかしかなりの駆け足で差し挟むあたりは今までの本シリーズではなかった部分。若いモンの淡い色恋はあったけれど、あまり女や恋愛の匂いがしないのがいいところだったのだけど。まあとにかく、このケイコさんという銀次のコイビトが岸田組の組員に乱暴されたことで本郷の怒りに油を注ぐことになる。この組員達をほとんどリンチのような目に合わせ「あの娘さんはもっと深い傷を負ったんだ」と言う本郷……娘さん、てのも古い言い方やなあ(笑)。
節目節目でキャラが敵対する相手の名前を、低く呪うように言うカットが続出するのが、しまいには可笑しくてたまらなくなってくる。まあみんなして「伊能ー!」と言うのが一番多くて、あとは伊能が「大磯ー!!」でしょ、あとは「本郷ー!!」とかね。なんか原作の漫画のコマを実にリアルに想像できるんだよなあ。
毎度ホストのファッションショー状態になっている、伊能の今回のハデハデファッションは、真っ赤なシャツに青いネクタイ、同色の細い縦縞が入った深いえんじのスーツ、というのが一番キてたかしらん。シルクサテン地とベルベット地はこれまでも何度か見てるから。メガネがフレームなしのシンプルなものなのが不思議なくらいなんだけど、それもまたイヤラシイくらいファッショナブル。それにしてもホント毎回凄くて、衣装さんには感心しちゃうわ。それでなくてもこのゾロゾロ出てくる男達のキャラを個々に反映させるスーツをバッチリ選ぶんだもんなあ。本郷流一なんて、若いけどカリスマ性のある、筋の通った男、というのがぴったりハマる、グレーの三つ揃いだけれど古臭くない若々しいデザインで、しかしなんたって三つ揃いだから中からビシッと決まるあたりは、まさしくこれは本郷流一でしかないカッコじゃ!と感服しちゃうもんなあ。
今回は本郷組は二人も死者を出してしまって、なんか、ただでさえ少ない組員がジリジリ減ってっちゃって心配になってしまう。こりゃあ最後には右腕、徳丸(松田勝)だけが残って彼が死んだ時に異能も倒しておしまいなのかしらん、などといらん想像をしたりして。
そうなのだー!またしても伊能を取り逃がしてしまうんである。もう信じられない、あそこまで行くとほとんどギャグだよう……だって、伊能の胸にドスを突き付けまでして、なんで躊躇するようなそぶりを見せるんだ、本郷ッ!ついに宿敵を……なんて思ったのか、そんなバーイじゃないだろッ!!フッと身を引いた伊能にまんまと逃げられちゃったじゃないか!まあ、この対決が終わってしまうことはこのシリーズの終焉をも意味するわけだから……でもそれにしてもあれはないよなー!!だって、彼の組員だけではなく、今回の主人公たる銀次も本郷に伊能を倒してもらうよう命をかけたってのにさあ……そう、またしても死んじまう中野英雄、気の毒に……。
あっ、でもこの、「いつまでもおいかけっこしてる間柄」って、まるでルパンと銭形警部みたい(笑)。★★★☆☆
これは韓国映画だし、主人公が敵対する位置にとりあえず“北朝鮮のスパイ”を置いていて、その一味のかなり思い込みの激しいシビアな描写は、いろいろと問題はあるのだろう。けれど、それを娯楽映画として昇華させるために堂々とやってのけるのがスゴいし、その悪役である、特に指揮官、パク・ムヨン(チェ・ミンシク)が体現する祖国への思いゆえのその行動が、単なる悪役以上に物語にド迫力を生み出しているのだ。彼は決して韓国や韓国人を敵対視しているのではなく、それどころか同一民族としてこれ以上はなく愛していて、二つの国が統一されるのを誰よりも願っている。経済的に恵まれた韓国においてその意識が弱いことをこそ嘆いている。「50年も指導者に騙されつづけてきた」と、祖国統一のために戦争を起こそうという彼の行動は、ぼんやり過ごしてきた私たち日本人にはなかなか理解できないのだけど、その動機が憎しみではなく、愛から来ていることに、より深い根を感じ、戦慄するのだ。これはそれこそハリウッド映画では考えつきもしないだろう。事実から生み出される人物像は、深くて強い。
この男を演じる、チェ・ミンシクは本当に凄い。ちょっと火野正平入っているような個性的な風貌がまず強烈。自分の信念に恐ろしいまでの確信を持ち、そのために死ぬことなんか何とも思っていない、想像を絶する確固たる意志。その信念で同胞を引っ張る、全身から発する濃いカリスマ性。冒頭、北朝鮮の特殊部隊訓練シーンからすでに、アーミー服と泥まみれで顔も何も判然としない中で、彼はその強いまなざしで異彩を放っている。それにしてもこの冒頭シーンは凄かった。ハリウッド映画の戦争や情報部のアクションは、映画の中のショーであり、こんな背筋の凍るリアリズムは得られないだろう。こう断言してしまうとマズいのかもしれないが、ここには本物の怖さがある。それがハリウッド映画の凡百のアクション映画と一線を画している。だから、ハリウッド映画とは比べて欲しくないのだ。
翻って韓国側。主人公、ユ・ジュンウォン(ハン・ソッキュ)が勤めるのは韓国情報部。情報部という設定もまた、存在はしているけれどいまやアメリカ映画でもどこかリアリティを失い、それこそ映画的な虚構の世界に埋没してしまっており、日本においてはそれこそ語るべきものもない。それこそその設定がこれほどのリアリティを持って迫ってくるのは韓国や北朝鮮ぐらいではないだろうか。彼らが昼日中から繰り広げる北朝鮮スパイ一味との銃撃戦のすさまじさと臨場感は尋常ではない。銃弾の数の物凄さももちろんなのだが、めまぐるしいまでのカッティングと、血や肉が飛び散る痛さを感じさせる容赦のなさが凄いのだ。そしてここにかぶさる畳み掛けるような音楽がまたいい。メロドラマ部分では多少大仰に甘すぎるかな、という感じもするけれど、こちらとのバランスで考えれば正解なのだろう。
メロドラマ部分、主人公と、恋人であるミョンヒョン(キム・ユンジン)との関係が、この主題から乖離することなく、それどころかもっとも重要な核心として展開していくのはワクワクする。しかし、女スパイ、イ・バンヒの存在が、推理ものの犯人推測のセオリー『もっとも意外な人物であること』に当てはめて考えると、逆に最初から予想がついてしまうのが痛いと言えば痛い。おまけにそのミョンヒョンは、ジュンウォンに対して「私の願いは、私に何があっても恨まずに理解してくれること」などと言うし、キーボードを打つイ・バンヒのシルバーメタルのマニュキュアがミョンヒョンと同じなど、最初からあからさまなヒントをばらまくものだから……。だから、彼女がイ・バンヒだと知ったジュンウォンはかわいそうなくらい狼狽するけれど、観客はそこで彼と一緒にええー!と驚けないのが残念。でも犯人の意外さが意図ではないのかな。
ああ、それにしてもやはりハン・ソッキュはいいのである。「八月のクリスマス」でめっちゃ惚れ込んだ彼(双方の役名が酷似!)。情報部員なんてシビアな役をやっていても、あの穏やかな優しさは健在で。ミョンヒョン=イ・バンヒが、彼の前では素顔でいられたというのもおおいに納得な、全てを包み込むような優しい笑顔。ああっ、もうたまらん!あっ、そういえば、この映画の中でもっともロマンティックなシーンのひとつである、雨の中、ウィンドウの水槽の前でのジュンウォンとミョンヒョンのキスシーン。あの場面で、二人を追いかけてきていたはずの同僚のジャンギルはどこいっちゃったの?
そうそう、このジャンギルがなかなかいいんだよなあ。ジュンウォンの同僚で、相棒で、親友。内部にスパイがいると疑われた時も、ジュンウォンとジャンギルはお互い絶対に疑おうとしない。親友と彼女のデートに同伴しても歓迎されちゃうような愛すべき人物。実際この三人のデートは、ほんと微笑ましくて。ちょっとトミーズ雅似な彼は誠実そのもの。ミョンヒョンがイ・バンヒだと知っても彼女の口から直接に聞き出そうとする真っ正直さ。そしてそこでの銃撃戦で撃たれ、駆けつけたジュンウォンの腕の中で死んでしまう……ううう、ちょっとクサいけど、やっぱりグッとくる!
ここでの銃撃戦も、また凄い。いや、どの銃撃戦も凄いのだけど、ここは、ミョンヒョンの経営するアクア・ショップ。熱帯魚の入った水槽が所せましと並んでいるから、粉々に砕けるガラスと、水飛沫と、お魚がバシャーン、ガシャーンとすさまじいんである。全くこの映画でお魚さんたちは、水槽にタバコの灰だのビスケットだの入れられて死んじゃうわ、その果てに腹割かれて解剖されちゃうわ、すみか(水槽)を銃で破壊されるわで、受難続きだなあ。
クライマックス、両国首脳が観戦する、南北交流サッカー試合の巨大スタジアム。熱か光によって爆発してしまう液体爆弾CTXが北朝鮮組織によって貴賓席のライトの下に設置され、そこだけライトが点される。めまぐるしくカウントダウンしていく中を、群集をかきわけかきわけ、一人疾走するジュンウォン。しかし、この映画はまるで「太陽にほえろ!」ばりによく走る走る!圧倒的なリズムと迫力はこの疾走シーンの多さとそれを追いかけるカメラのスピーディーさにあるだろうな。絶対に間に合う!と判っていながらも、刻々とタイムリミットを刻んでいくCTXにハラハラし、銃の突き付けあいと、肉体バトルに大興奮!
この場面でイイところを見せる“コネ入社”の新人情報部員もまたいいキャラクター。彼は何かとからかわれて、ぶつぶつ言いながら水槽係をつとめていたりするんだけど、彼の“臆病な”性格が、逆に情報部の中ではマレであり、その素直さと慎重さが意外に役立つのかも。その後、彼の後に入ってきた後輩に、コネ入社かどうかを見分る方法などとエラソーに説教しているのは笑える。
本当のクライマックスはこの爆弾を止めた後にやってくる。イ・バンヒ=ミョンヒョンとジュンウォンの、どうしても避けられないやるかやられるかの対決。ああ、とても切ないのだけれど、この場面で初めて、後ろ姿でも、遠くに見えてる小さな姿でもない、正面ショットでマシンガンを構えるミョンヒョンのあまりのカッコよさに見とれてしまう。女性の場合、絶対アジア女性の方がこういうのって似合うよなー!黒い瞳と黒い髪が、ストイックにビシッと決まるんだもん。それに、ほんとにサマになってて、超一流のプロを全身で体現している。一分の隙もない。いや、隙はあった……彼女がジュンウォンに向けていた銃口を、車で脱出しようとする両国首脳に向けた時、ジュンウォンの銃が彼女に向かって火を吹く。彼女は、血だらけになった頭を彼の方に振り向かせ、それまでの張り詰めていた表情がウソのように、哀しい哀しい顔をして、スローモーションで崩れ落ちていくんである。そして、それを見守るジュンウォンも、彼女と同じ表情をたたえていて……予測とおりの結末だけれど、やはり、胸に迫る名シーン。まるで、ラブシーンのよう。
冒頭でパク・ムヨンに才能を見出される女性がもちろんイ・バンヒなわけなんだけど、私はてっきり、その後彼らと行動をともにしている組織員の女性だとばかり思ってて……え、だって、似てないかなあ?でも、ストーリー上で考えればやっぱりあれが後のミョンヒョンである、イ・バンヒなんだよね。それにしてもこの組織員の女性、情報部員に追いつめられて、とっさに小型爆弾?を飲み込み、一瞬で血肉を散らして消えてしまったのにはドギモを抜かれた!本作の中で一番衝撃的だったかも……。
中野裕之監督が作った予告編はナカナカ良かったけど、後におすぎ氏がナレーションをかぶせたバージョンが出てきて「2000年はシュリで決まり。絶対観なさい」と言われた時には、観るの止めようかなあと思わず思ってしまったけど……あれはちょっと、ヤメて欲しかった。中野監督といえば、カン・ジェギュ監督を絶賛するのはいいんだけど「すぐにでもハリウッドで撮れる」と言うのはなんだかなあ。なんでハリウッドで撮らなきゃいかんのだ。外国人監督が才能をかわれてハリウッドに行き、単なる“ハリウッド監督”になってしまった例がどれだけあると思ってんの、もう。★★★★☆
主人公であるアグネスは、自分のレズビアンに自覚的な16歳。転校したばかりの彼女は、学園の美少女、14歳のエリンに恋している。一方のエリンはこの田舎町、オーモルにうんざりし、なにかが起こるのを待ち続けている。アグネスの両親は、娘の誕生日にパーティーを開き、友達を呼びなさいと言う。大勢の友達がいると信じて疑わないのだ。“娘のためにしてやっている”そのことが、娘を深く傷つけるなど思いもよらずに。パーティーでは待てど暮らせど一人もお客は現れない……。
このアグネス、決して内気で内向的なばかりの少女ではない。それどころかかなり気が強くて、からかわれて中指を突き出したりする女の子。パーティーに来てくれた車椅子の少女に、あからさまに嫌悪感を示して追い返し、部屋で泣き伏す場面では、その、自分をかわいそうがっている描写に少々引き気味になってしまったが、この少女が誕生日プレゼントとしてくれた香水を憧れの女の子、エリンが気に入ったことからコロリと機嫌を直し、はつらつと車椅子の少女に謝る場面には苦笑してしまった。しかしその車椅子の少女もまた負けず劣らず少女特有の残酷さを持っていて、そんなアグネスを突っぱね、彼女の陰口を言いふらしたりする。……うーん、女は強いのだ。
時間はさかのぼるが、そのパーティに来たのはこの少女だけではなかった。ちょっとした思い付きでエリンとその姉が訪れたのだ。アグネスがレズビアンだと知ったエリンは、気味悪がる姉をよそに、「クールだわ!」とうっとり。姉と金をかけてアグネスにキスをする。このキスがアグネスとエリンの全ての始まりだったのだ。
監督が、「これはセクシャリティではなく、アイデンティティの問題」と語ることが、このエリンの言葉に端的に表れている。彼女がアグネスをクールだと思ったのは単純にレズビアンだからではなく、アグネスが“自分がレズビアン”だという自覚的なところを指しているから。エリンは何もかもが都会とちょっとずつ遅れているようなこの田舎町から出たくてたまらなくて、皆と同じであることに恐怖感にも似た嫌悪感、焦燥感を感じている。友達のような顔をして群れ、ファッションと男の子の話ばかりするクラスメイトに嫌気がさしている。アグネスと出会う以前にはエリンもまた、この女の子達とさして変わらなかったかもしれないのだが、たった一人の自分と向き合うアグネスに惹かれたこの時点から、エリンもまたアイデンティティに悩む、決して他と同じではない、一人前の人間として歩み出したのだ。
思えば、セクシャリティとは最もアイデンティティとイコールなものなのではないだろうか。両刀使いでもなければ、セクシャリティの大前提があって、愛する人の条件はまず二分の一にしぼられてしまう……それもちょっと哀しいけど。勿論、恋人以外だって、家族とか友人とか兄弟とか、かけがえのない愛する人は沢山いるわけだけど、セクシャリティが絡む愛する人は同じ時に二人といない、なぜかいつでもたった一人なのだ。カラダとココロの本能と理性(あるいは感情)の問題はムズカシクなるから割愛するけれど、ならばここでセクシャリティの問題でおおいに悩んでいるアグネスとエリンは、まさに人生の大問題、自分のアイデンティティについて思い悩んでいるのだ。これぞ濃密な人生の時間。
大人になるとは、上手く笑えるようになることなのかもしれない、などと、大人になった私は最近思うようになった。少女時代の私は(私にもそんな時があったのだよ)意識的に笑うことが出来なかった。写真ではいつもひきつっていた。しかし大人になると、そんなことは容易に出来ちゃうんである。アイドルの少女たちがそれが上手いのは、彼らは仕事をこなす、ちゃんとしたオトナだからなんである。彼女らはそういう意味で“本当の少女”ではない。少女映画の秀作は、皆少女が不機嫌である。その理由はこの映画の様にハッキリしている時もあれば、もっともやもやとした、ワケノワカラナイ感情をもてあましている時もある。彼女らは一様に今の現実から抜け出したいと願い、実はその“今”が一番濃密で光り輝く時なのだということに気づかないのだ。父親の言葉に反発して「25年先なんてどうでもいい、私は今すぐ幸せになりたいのよ」というアグネスの気持ちは痛いほど判るが、彼女がツライと思っている今の“時”はおそらく一生の中で一番価値のある時。“常識”というヤツに惑わされることなく、時には残酷なほどに正直に自分をさらけ出せる時代なのだ。
姉の恋人に「女はファッションだの、外見のことばかりでくだらない」と言われ、それを否定する言葉を期待した自分の彼もハッキリせず、激怒するエリン。確かにこの男どもはサイアクだが、エリンがこれほどまでに腹を立てたのは、自分がつい最近までは実際そんな女の子だったからではないのか。“友達”の本当の意味を知らなかったエリンが、つるんでいた女の子達のことを友達だと思っていた頃、はっきりとした理由を見つけられないままに苛立っていた、それは、そんな外見のことばかりで中身のない女の子から脱皮したいと願う心の叫びだったのだ……その時点ではそうハッキリとは気づいていなかったけれど。その時に出会ったアグネスは、彼女の触媒となり、同士となり、そして愛する人となった。
トイレにアグネスを連れ込んで告白したエリンを周囲が聞きとがめ、男を連れ込んでるんじゃないかと騒ぎ立てる中、二人で堂々と出て行く場面で終わってくれればただただ痛快!と喝采を浴びせるところだったのだが、その後にもう一場面残されていた。エリンの家で彼女手製のアイスミルクココアを供する場面。それはどこか少女同士の戯れの共犯関係のような幼さ、危うさを感じさせた。ココアをちょうど良い濃さに出来ないエリンの幼さが特に。ずっと自分の性的嗜好に悩んできたアグネスの大人びた悩みと、エリンの唐突にぶつかったような悩みとは根本的に深さが違うのだ……何か私はこの無邪気なラストシーンに逆に危なっかしさを感じてしまった。
それにしても、14歳で当たり前の様にワインを飲み、しかもロストバージンとは……ねえ。そんなことで驚く時代じゃないのかなあ。★★★☆☆
「ジンジュはまだ生きているのよ、9年間も!」という言葉を残して、一見自殺とも思える謎の死をとげた“古狐”と呼ばれていた女教師、パク。それを発見したのは日直で朝早く来ていたジオ(キム・キュリ)、同じ日直である彼女を校舎の外で待っていた内気な少女、ジェイ(チェ・セヨン)、もっと早く来て教室で勉強していたジョンスク(ユン・ジヘ)などの面々。“古狐”が担任であったジオら三組が動揺に包まれる中、後任の担任に“狂犬”と呼ばれてみなに嫌われている男性教師がつくことになる……。
クラスでも学年でも一番で“狂犬”に可愛がられている優等生、ソヨン(パク・チニ)にライバル心を燃やす、ジョンスクという少女。台詞はほとんどなく、ほとんど三白眼の目つきで意味ありげに事態を見つめている様が強烈で、“霊を呼ぶ力がある”と言われているヒロインのジオよりよっぽどオカルトチックでコワい。これは彼女がこの物語のキーパーソンに違いない!と思っていたのが、違った。最後の最後、一瞬のシーンでもう一度ハッとさせてはくれるものの、本質的にはサブストーリーの方での役柄であり、実に抜群のオトリキャラですっかりだまされてしまった……でもそう思い込んでいた私がそう感じただけか?
メインストーリーは学校にいる幽霊で、“9年前に自殺した少女、ジンジュ”であるからして……などと思って、ヒロイン、ジオと内気な少女、ジェイとの友情物語をもサブストーリーとして微笑ましく見ているこちらの頭にパンチが飛んでくる。やはりヒロインなのだから、メインのストーリーにからんでくるのである……当たり前なんだけど、こういう初々しい少女の友情は久しぶりに見たから、何だかそれにすっかり見とれてしまって、そんな方向には頭が回らなかった。それに先述したとおりオトリキャラであるジョンスクが強烈にこちらの意識を引っ張っていってしまうので、まさかこの伊藤つかさみたいな純朴な少女、ジェイが9年間もさまよい続けた幽霊だったなんて、思いもつかなかったのだ。でもしっかり伏線はある。ジオの絵を専門的な言葉を使って誉めるジェイ。ジオが言う。「絵の勉強をしたことがあるのね」「昔ね。今はもうやめたわ」「中学の時?」「……ううん、もっと前」ここでジオはそれ以上追求することはないのだけれど、ジェイがジンジュとして本当に生きていた9年前、彼女は美術部に所属しており、親友の、彫刻をやっていたウニョンと作品の交換をしていたりしたのだ。
ウニョンは現在、新任教師としてこの学校に赴任してきている。当時の担任だったかの“古狐”によってジンジュとの友情を断たれ、そのことで彼女が自殺してしまったことをずっと気に病んでいる。久しぶりに来た母校は、いまだどこかジンジュの怨念が潜んでいそうな、まがまがしい空気に満ちている。
そう、この、ところどころにひびの入った白壁、摩擦でピカピカに光っている木造の床、何年も前のイタズラ彫りがそのままの木製の机など、これも今の日本では見られなくなってしまった、学校におけるオカルト映画の必須アイテムが目白押しなんである。セラミックの机に白く明るい教室やお手洗いではこんな幽霊譚はなかなかリアルに響いてこない。やはり、この空気感は絶対必要。加えて彼女たちの着ている制服!紺サージブレザー型の上着に、大き目のプリーツをとったグレーのスカートは膝たけ、そして白いソックス。うーん、実に、イイ。装飾品をまったく禁止されているのだろう、ヘアアクセサリーすらつけず、脱色や染色など思いもよらない真っ黒な髪が最も抑圧された気分を醸し出す。
その中で心ならずも抵抗を試みる結果となってしまうのがジオ。彼女は古狐の悲惨な死体が忘れられず絵に描くのだが、それがあの“狂犬”に見つかってしまい、めちゃめちゃに殴り飛ばされ、「この、オカルト女め!親の顔が見たいもんだ!」とすさまじく罵倒されるのだ。本当にこの場面はあまりにもひどく、この“狂犬”、ソヨンにはいやらしく髪の毛や耳を触ったりするし、本当にもう殺してやりたいい!と思っていたら、本当に殺されてしまった!……それも、幽霊に。そう言えば、このジオが殴られている場面で、ジェイ、止めてあげなよ、あれ、でも彼女の姿が見えないなあ、と思ってて……。先述したとおり彼女は実は幽霊だったわけで、ひょっとしてジオやウニョンにしか見えてなかったのか?と思いつつ……いやでも、過去の卒業アルバムに顔を残してるしなあ、と思い直し……。
この過去の卒業アルバムが、この作品のキー、恐怖の小道具である。冒頭から“古狐”が驚愕の表情で過去の何冊かの卒業アルバムを調べている。そして彼女の死後、ウニョンが赴任してきて、いろいろと調べているうち、“古狐”の教務手帳からこの卒業アルバムにたどり着く。しかし図書室からは“古狐”がチェックしていた三冊の卒業アルバムは姿を消している。そんな中、あの三白眼少女、ジョンスクがソヨンとの行き違いにより自殺を図る。ソヨンはウニョンに、彼女とは一年生の頃は仲が良かったこと、教師が自分達を比べ始めてから心が離れてしまったことを泣きながら告白する。そう、それはあの9年前の出来事を繰り返すような事件で、ウニョンは一緒に涙を流して言葉もなく彼女を抱きしめるのだが、ソヨンを送り出した後、彼女のいた机に乗っている卒業アルバムにふと目が行く。実は一人ぼっちだったソヨンが自分の隠れ家にしていたのが、9年前、ジンジュの自殺した倉庫であり、そこにこの卒業アルバムがおそらくジェイによって隠されていたのだ。ウニョンはページをめくる。数年を経て、名前は違えど顔は同じ少女が繰り返し現れている!最初はジンジュ、そして現在のジェイまで……何年もデザインの変わらない地味な藍色の卒業アルバムの、それも全ページ白黒写真の中に、あの内気そうな少女が、何度現れても誰にも気にもとめられなかった、というようにひっそりと、数年置きに存在しているのだ。あまり怖くない、と言いつつ、この場面だけはちょっとゾッとしてしまった。
「ずっと、わかりあえる友達が欲しかった。ずっと学校にいたかったの」というジェイに、「私はあなたが大好きよ、ジェイ、ほんとよ。でも、お願いもうやめて」と泣きながら呼びかけるジオと、かつての親友ウニョン。ああ、いいなあ。ここには純粋な友情の心が確かに存在していて、女同士の友情の存在自体について懐疑的になってしまう私もちょっとグッときてしまう。そしてジェイは消え去り、まるで彼女の涙のように教室中に血の雨が降る。朝になり、ジオとウニョンがへたり込んで抱き合っている教室をガラリと開ける女学生。二人を見、ドアを閉め、廊下の向こうに立ち去って行く。振り返ったその顔は……ううッ、ジョンスクではないか!今度は彼女がかつてのジンジュのように繰り返すのか……ひえええ。
ジオ役のキム・キュリの美少女ぶりには参った。特にあの、ぽってりとした唇!あの唇がバランスを絶妙に崩して実にそそられる。官能的ですらある。彼女はなんでも韓国版「ひみつの花園」の銭狂いヒロインをやる(!)そうで、コメディエンヌの彼女も是非見てみたい。それと、ソヨン役のパク・チニの正統派美少女ぶりもいい。彼女が隠れてたばこを吸う場面、真面目な優等生が必死に反旗を翻している様が痛々しく、今の日本の10代の女優さんでこういう表現が出来る人がいるだろうか、などと思ってしまう。やっぱり実際に抑圧されている状況ではない日本では醸し出せないものってあるのだよなあ。
制服姿のチラシを見た時から絶対にイイと思っていた、その世界観を裏切ることなく展開してくれたのが嬉しい。★★★☆☆
あまりにも続きすぎる主演作、出演作を持つ浅野忠信を主人公に迎えているのがね……。同時期にさまざまな映画にフューチャリングされている彼が、この役だけに没頭し、一球入魂の演技をしたんだろうか、などと思ってしまう。もちろん、そんなことを思うのはルール違反だって、判っているんだけど、特にこういう役柄の場合は、やっぱり、こんなに出ている人にやられてしまうと緊迫感が薄れるというか……。予告編で浅野氏にこの一ノ瀬泰三役を演じることについて語らせているのは、そうしたことを牽制している、わけでもないんだろうが。
別に熱演してほしいわけじゃないし、熱演したら逆に鼻につくだろうし、彼の、その場で役柄にスッと入り込むような、感性の演技が、本作のような作品の場合合っているといえなくもないけれど……いや、ちょっと今回は何か、引いてしまったなあ。この一ノ瀬泰三という人物の、多分あったであろう執着心というか情熱というか、そうしたものを、この作品からは私はあまり感じ取ることが出来なかった。一ノ瀬氏がなぜそれほどまでに戦場に惹かれるのか、なぜそんなにアンコールワットを撮りたいのか、それが、判らなかったし、例え判らなくても切実な何かを感じ取れれば良かったんだけど、それもなかった。これは脚本のせいなのか、ひょうひょうとしすぎている浅野氏のせいなのか?
HPなどの資料を読んでやっと、一ノ瀬氏が沢田教一氏やロバート・キャパに憧れて戦場に行ったというのが判るけれど、劇中では、そんな事も判らないし(壁に貼られた、新聞に載った沢田氏の一番有名な写真「安全への逃避」に見入る場面があるけれど、それが沢田教一という人の写真であることも明かされない)アンコールワットを撮りたいという彼の衝動が、彼自身にも説明のつかないものであったにせよ、その強い思いも今一つこちらに響いてこない。彼が集中砲弾を浴びる輸送船に乗ってまでそこに近づこうとする場面も、ただ危険をいとわない向こう見ずな若いカメラマン、というだけで、彼のせっぱつまった思いがどうしても感じ取れなくて……。
戦場でのカメラマンが戦争に対してどういう役割を担っていたのかとか、そうしたものは一切描かれない。これは意識的なのか、無意識的なのか。なんだかむしろ、彼らが果たしたものってあったのだろうか、と思えるほどに、ただひたすら、より残酷で、画になるショットを追って砲弾をくぐりぬけているようにすら映る。戦争に対する彼らの意識や、あるいは作品自体から発する主張が、見えない。ためらいながらも残酷な場面でシャッターを切る泰三に、「よくこんな時に写真が撮れるね!」という遺族の叫びや、人間同士が憎みあうのは戦争のせいだと少女にさとすも「そんな戦争が好きなんでしょ!」と返され、言葉もない泰三の姿などが描かれはするものの、それに対する答えはないのだ。まあ、いくらなんでも、それら全てを肯定しているようには、思わないけれど……。
そんなに肩肘はって観る必要もないのかもしれない。彼がその生きる地を戦場に見つけたというだけで、これは一つの青春映画として観るのが正解なのかもしれない。親友との出逢いと別れ、清楚な少女とのひとときの幸せな時間……。銃撃戦の中で写真を撮りまくる彼の姿や、ロケット弾の犠牲となった現地の人たちの悲劇よりも、そうしたおだやかな時間を過ごす彼の方がよほど印象的だから。特に、戦地での同業者で、短い間の親友であったティムを亡くした後、彼の行きつけであったカフェで出会うウェイトレス、レ・ファンとのピュアな時間は美しい。彼女はティムを愛していたのだろうし、次第に泰三も愛するようになる。まるで死に行く人を察知してその短い生の時間に潤いを与える役目を課せられているかのように。
白いアオザイ姿の彼女の、まるで飾り気のない、だからこその崇高な美しさ。ああ、何か「季節の中で」のキエン・アンを思い出してしまう。泰三は彼女を写真におさめる。「最高、アンアンの表紙になれる。俺の愛読書なんだ」なんて言いながら。そこに雨が降ってくる。服が透けるのを気にしながら、しっとりとぬれた烏の濡れ羽色とでもいいたい真っ黒な長い髪を指でほぐす彼女の姿は、本当にはっとするほど。一緒に写真を撮ろうという泰三に「二人で撮るのは結婚する人となのよ」と拒むレ・ファンは、その時ティムを思っていたのか、泰三を思っていたのか……。
奥山和由プロデューサーの復帰第一回作品。羽田美智子の起用は彼が引っ張ってきたのか?松竹以外の映画に出ている彼女、初めて見たもの。やはり、松竹での不振は、会社に問題があったんだろうなあ。興行的にはことごとく失敗したものの、野心的で作品自体のレベルはなかなか高かった松竹でのプロジェクト、「シネマジャパネスク」の系譜に通じるような本作を、今回はしっかりヒットさせたものね。松竹の時とは違って、思う存分宣伝できたのも良かったんだろう。いろいろクセはあるんだろうけど、彼のそういう能力をただうっとうしいものとして排除した松竹は、やっぱり古い体質なんだな……。★★★☆☆
思ったとおり、もう画的には最高点である。だいたい、豊川悦司、布袋寅泰、佐藤浩市、哀川翔(!)、大和武士、村上淳……なんていうメンツを見ただけで、もう鼻血が出そうではないか。冒頭の、田舎道に黒塗りの車が列をなして止まり、中から組員たちが次々と出て来て、陽炎の立ち昇る暑い中を顔をしかめながら縦に顔をそれぞれのぞかせて歩き出すスローモーションには鳥肌がたった!あの背の低い志賀勝も、ちゃんとそのコワモテを覗かせてて、この画の計算された美しい動きは、でも特に指示したわけではなく、役者たちが自然にそう動いたというのだから、さすが役者は違う!。
主人公二人(豊川悦司、布袋寅泰)のタッパの高さ!豊川氏のなんという色っぽさ!布袋氏のなんという鋭角さ!同じ“背が高い”というのが、これほど対照的な個性を生み出すとは。特に豊川氏のスクリーン映えには、彼を見るだけで元が取れると思うくらいである。美しい顔立ちというよりも、個性的な顔立ちであるのに、この人はどうしてこんなにカッコ良く、色っぽいのだろう。サングラスを横っ飛びに飛ばして銃を取出そうとする場面や、指をつめる場面のあまりのすばやさや……その長い手足が優雅というか、刹那的というか、とにかくもう言葉では言い表せない色気である。
大組織の、下に構える小さな組の組長である彼、門谷は、事務所も小さくてショボいし、舎弟たちも数えるほどだけれど、信望が厚く、舎弟の一人、鉄夫は彼のために一人斬り込んで死んでしまうのである。この鉄夫役の村上淳がね!ほんと、彼、“組長にホレてる舎弟”って感じがものすごくハマッてて、彼の場合、絶対上に登る野望とかなくて、ああ、こいつは組長のために死んじゃう奴だな、確かに、って思わせる。監督は「ナビィの恋」(大好き!)の村上淳を観て起用を決めたというけど、まさしく大正解!このしょーもないチンピラの彼が愛しいんだなあ。
門谷の幼なじみで、30年前、共に一人のヤクザを殺してしまった栃野(布袋寅泰。実質的に殺したのは栃野の方)とのシーンでは、さらに豊川氏の色気が増す。栃野は在日韓国人で、焼き肉屋の店主でありながら、韓国パブで裏金を築いている豪腕の実業家。一匹狼で、ヤクザを死ぬほど嫌っている。そんな彼と30年ぶりの再会で、門谷はそのヤクザになってしまっていた訳で。しかも、たった一人でこれだけの実力をたくわえた栃野と対照的に門谷は舎弟には慕われているものの、大組織の傘下の小さな組の組長にしか過ぎず、今一つうだつが上がらない。門谷は自分を助けて手を汚したかつての幼なじみとの再会に動揺し、栃野は彼を案じるが故に冷たく突き放す。
しかし、修羅場で彼ら二人は共に血に汚れるのだ。そのシーンの凄まじさと美しさときたら!最初に門谷と栃野が目も合わさずにすれ違うシーンで栃野が意味ありげに門谷の腹を軽く抑えるようにして反対側に去って行く、もうそれだけでなんだかドキドキものだったのだが、その後、門谷が政敵、中平(佐藤浩市。ふてぶてしくも、やっぱり色っぽい!)にぶっ放し、仕留めきれず、そこに突進してきた意外な伏兵、栃野の右腕で門谷と中平の抗争のあおりで死んでしまった韓(哀川翔!!)の弟によって刺されてしまう。
その後を栃野が引き継ぎ、ほうほうの体で逃げる中平とその若頭(小沢仁志!)に向かって何発も撃ち込むもやはり失敗、彼もまた銃弾を撃ち込まれて絶命するのである。その場面にフラフラになりながら入ってくる門谷と、虫の息の栃野のほんの一瞬合う視線と交わす言葉(よく聞こえなかった)、そして血だらけになった二人の男という図は、たまらなく官能的。
煮え切らない四代目候補の粟野(岸部一徳)や、中平のために刑務所にブチこまれて出てきたいまやすっかりシャブ中の遠山(大和武士)など、キャストはみな印象的なのだが、中でも驚いたのは、この作品内容で哀川翔にヤクザの役をふらなかった!ということ。黒スーツの中に絶対いると思っていたのに、普通のカッコして焼き肉屋に入って来て、韓国語なまりで喋り出した時には、本当にのけぞってしまった!スゴい!この作品でヤクザじゃないなんて!しかし彼も結構早めに死んじゃって、うっそお、と思いもしたが、その最後は、敬愛する兄貴、栃野の腕の中で「貴方に出会えて本当に幸せでした(韓国語)」と言って息絶えるのだから、くぅーッ、まあ許してやろう。
でも、正直言って、門谷と栃野の二人の話にもう少し絞って欲しい気もしたんだけど。ただ単に私が頭悪くて群像劇という奴が凄く苦手で、どうしても頭がとっちらかっちゃうもんだから。それに、ひどく台詞が聞き取りにくい。何言ってんのか、さっぱり判んない。その後の流れで何とか推測してついていけるといった感じで。あとからHPとか読んで、ああ、あそこはそうだったんだ!なんて得心する始末だし。
あれほどキライだった(んです。)「仁義なき戦い」のテーマ曲が、布袋氏の新しいアレンジになったら、鳥肌もののカッコよさに震えてしまった。テーマ曲だけじゃなく、そのエッジの鋭い音楽が、見せ所でビシッと斬り込んで来て、凄くイイ。まさしく彼は、現代のミュージシャンだなあ、と痛感する。これまでのいわゆる映画音楽家だったら、ここまでハジけられないだろう。
オリジナルの「仁義なき戦い」シリーズでも、その後に「新仁義なき戦い」として作られてるんだよなー、そう言えば。それとの違いを強調する中黒(・)と句点(。)なのかしらん(モーニング娘。みたいだわな)。でも、スクリーンではその句点が切れて見えなかったけど。★★★★☆
どんなランボー者を演じていても、どこかに彼の地の人柄というか、正義を持ったところのある渡哲也が、今回ばかりはどこを切ってもただただヒドイ男を演じている面白さ。若い頃の彼は、本当に触れれば切れそうな刹那的な暴力性を持っていて、そうした正義の部分を完全に抹殺し、その激しい部分だけを最大限に発揮している。コイツだけならもうただただ腹立たしいだけなのだが、この息子に殺されかけまでする親父であり親分を演じるハナ肇が、コミカルな味を出しているので、助かる。といっても普段の彼よりは相当抑え目であり、全体にはやはり殺気がみなぎっているのだけど。
暴動をしかけ、追手から逃れるためにふと見つけた長屋に押し入り、無理矢理犯す少女に多岐川裕美。幼い面立ちだけど、しっかりその美しい面影が残っている。それにしても判らない。なぜ彼女は彼にホレるんだ??私なら絶対その場で撲殺してやるのに。その後再び訪ねてきた彼が傷を負っていて、弱みを見せたから、母性本能がうずいたのか?冗談じゃないなあ。しかもその後罪を犯した(いつも犯してるけど)彼が、出所後ほとぼりが冷めるまで大阪に行かなけりゃいけないので金が要る、おまえ、芸者になってくれるか、と情事のあとでこともなげに言った時にはほんとにコイツ、耳から指突っ込んで奥歯ガタガタ言わしたろかい!と思うほどイカッたが、その少女、泣き伏すだけでその言葉にしたがっちゃうんだもん。なんでよ!
まー、男女のことはマカフシギ、ってことなんでしょうか。その後彼はクスリに溺れる。こりもせずに暴れまくり、刑に服すが、この少女、肺結核にかかっているのに身を粉にして働いて(ってことは、芸者の“お仕事”を、だよな……あー、やだやだ)彼の保釈金を作るんである。でも、それがたたってこの少女は死んでしまう。その死ぬ数日前に、どちらの意志なのか、籍を入れた書類が残っているとナレーションが入り、うーん、彼のたった一つ残っていた良心だと思いたいが、彼女はそれを知らずに死んでしまったのかな……。
その後、彼は死にそうなほど深手な傷を、暗殺者によって負ったりするものの実に実にしぶとく生き延びる。親父である親分に斬りかかったことを皮切りに、とにかく任侠道を外れまくってきた彼が命を落とすのは絶対に誰かに殺されて、と思いきや、なんと、最期は、刑務所の屋上からの飛び降り自殺。その直前にあの少女を亡くしている彼が、彼女の遺骨をかじるという、究極の愛情表現を見せ、自分の墓石を彫らせてから刑務所に入ったことを考えると、うーん、私は甘いのかもしれないけど、あの少女だけが、彼の中の真実だったのだと、思いたい……でも、どうかな。この非道な男じゃあなあ。
彼を何くれと心配し、でも面倒を見切れなくなる梅宮辰夫や安藤昇、山城新伍、冷たい面持ちを崩さない敵方の組員、成田三樹夫、クスリづけになっている彼と知り合う無法者の田中邦衛などなど、かなり豪華で個性的なキャストが楽しい。ちなみにこの週の昭和館のラインナップは、安藤昇&戦後の三国人(中国、台湾、朝鮮)とのいさかいが共通点。うーん、シブい観点?★★★☆☆
そしてこの彼女を殺したのが、西神とかつて相棒であった、非情な殺し屋、サソリである。このサソリに扮する成田三樹夫がなんといってもこの映画の目玉でしょう!いやいや、私が成田三樹夫びいきということを差し引いたって、本作の成田三樹夫は絶対、凄い、素晴らしい!殺し屋にお約束の黒づくめのスーツに真っ黒なサングラス。広い額(顔が長いんであって、決して禿げ上がっているわけではない!)の下に鋭く光る眼光。沖雅也ら青二才のチンピラどもが彼を雇ったヤクザの親玉からマリファナor金をせしめようと、サソリを誘拐する場面が面白い。階上からエレベーターに乗った彼を、各階で待ち伏せてじゅんじゅんに乗り込み、取り囲んでしまうのである。いかにもなオドシの表情としぐさのチンピラどもに、まるで動じず、一見観念したようについていくサソリは、しかしやはりそんな幼稚な奴等には引っかからず、あっさり縄抜けして形勢逆転!そのしなやかな動きの美しさが、うー、素敵だわ、もう成田三樹夫!渡哲也や原田芳雄の男くささとは全く対照的なところにいる、感情をまじえないプロの殺し屋である彼の、体温や匂いすらもないような完璧さにしびれる!
原田芳雄が渡哲也を慕う様子が、この日の昭和館プログラムの「反逆のメロディー」で佐藤蛾次郎が原田芳雄を慕っている様子とダブったりもして。要所要所にストップモーション、スローモーションを用いた独特のテンポの演出。ことに最後赤地に白で“終”の文字がラストシーンとチカチカと交互に映し出される様が面白い。★★★☆☆
原作は漫画、そして実際登場してくるのも漫画のキャラクター。しかしアニメーションでは、ない。このキャラクターを切り絵状にして、それを操演、二次元のキャラクターが重なり合って不思議な三次元を作り出す。画面の奥からズンズン迫ってくる顔、顔、顔。手前のキャラにピントが合って、後ろのキャラにいくほどに輪郭がぼやけたり、通常のアニメーションでは考えられない、効果的な表現の数々に見入ってしまう。漫画だから、カラーとはいえ、ほとんどノリはモノクロ。いつでも死の空気に満ち満ちている、新選組の触れれば切れそうな殺気を、暗闇に白い照明、それが作り出すキャラクターに差し込む影や、そのキャラクターから伸びる長い影法師がスタイリッシュに演出している。その中に吹き出し、流れる血だけが赤く赤く、毒々しい。
くしくも同じ新選組を取り扱った作品が同時期に公開され……それは言うまでもなく大島渚監督の「御法度」なのだが、かの作品と本作品、まあ、これほどまでに同じ新選組でも違うとは……。それは明らかに違うこうした手法と言う点ではなくて、新選組像の描き方が。しかし「御法度」のテーマたる“衆道”はある一時期の、まるで熱病のように浮かされたそれであり、決して新選組の本質ではないのだろうと思うが。つまり、市川監督の描く新選組には、隊士たちの命運を握るさまざまな女が出てくるのである。切り絵キャラなのでうっとうしいような生々しさはなく、なのに妙に艶っぽい女たちが。幹部の一人に恋人を差し出せと言われ、それを拒んで殺される若い隊士とそのあとを追う彼女、自分が斬った男の未亡人に惚れてしまって、追いつめられて心中してしまう二人、隊内の方針の違いに反発して脱走したが捕らえられ、切腹を命じられた隊士が、最後に恋人に会うことを切望したり……刹那的な生き方をしているせいか、驚くほどに恋に対して純情可憐。
しかし一方、幹部たる近藤勇と土方歳三はそうでもない。さまざまな女のもとを渡り歩くが、本気で惚れている女はなさそうである。加えて、「御法度」ではどこか暗黙の同志関係にあったようなこの二人が、本作ではかなりドライで、ある場面では対立したりするのも面白い。近藤勇が外部から基本的方針の違うインテリを入隊させ、土方が憤る場面は、でも、そうした嫉妬に思えなくもないけれど。
手法の斬新さは確かに瞠目するし、その鮮やかさも印象的なのだが、なんだか★★★☆☆どまりなのは、ちょっと頭の悪い私には判りにくいかな、と思う部分が多々あって……。活字で見ればそうでもないのだろうけれど、音で聞くとちょっと難解な言葉が多くていちいち思考が停止してしまうし、市川組の俳優で構成された、つまり声優ではないボイスキャストは、その声の違いが今一つ際立たない。あ、でも女性のほうは一発でこの人!と判るのだけど。まったくタイプが違うのに双方ともにとても色っぽかった萬田久子、岸田今日子の両氏の声がいい。ラストの主題歌の池田聡、久々に聞きましたね。……彼今も、音楽活動続けていたんだ……(失礼)。★★★☆☆
全くの予備知識のないままだったけど、この作品の原作脚本が「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」の押井守氏なのだと後で知り、あの観客層に納得したわけだけど、キネ旬での特集でもそうだったように、ここで注目すべきはこの作品を完全に自分のものとして引き寄せ、驚くべき完成度で、そして情緒の世界で作り上げた沖浦啓之その人であり、その作品がアニメーションという枠組みの中のみで語られてはいけないのだ。完成後、日本での公開まで1年半という時間がかかり、その間に海外の国際映画祭で一足早く高い評価を得たというが、こうしたひとつの“外圧”も、ことアニメーションに対してはこうも効かないのか。これは映画の、いや映画という芸術の中に花開いた、もっと一般的に認知されるべき秀作、傑作であり、いくら観客が入っているからとは言え、こんな小さな輪の中で終わらせてしまうのは、もはや犯罪なのだ(いかにも口コミの効かなそうな客層だし)。アニメーションの高い質を誇る日本自体が、日本のアニメーションに偏見があってどうするのだ!
などと憤ってしまうほど、この作品の凄さには本当に本当に圧倒された。正直、こうしたジャンルのストーリーの世界観にある、ある種の固さ(組織とか、抗争とか)に対して、すぐコンランしてしまう頭の悪い私は少々ツラい部分もあったのだが、そうしたバックボーンは全てが人間の哀しい内面に注がれ、いっそうの哀しさを増すのである。目を覆うばかりのリアリスティックな殺戮場面、本当に肉が砕け散っていくような描写の緻密さは衝撃的なのだけど、そうした辛い描写も、そしてすべてのものが、人間の哀しさへと収斂していくのである。……描写が凄ければ凄いほど、その内面に深く沈んでいく。正直、アニメーションにこれほどまでに“演出”の力を感じたのは初めてだった。だからこそ、有名どころである原作・脚本の押井守氏ではなく、新人とはいえ、素晴らしい監督である(なんとまだ33歳!しかしアニメーターとしては18年の大ベテラン!)沖浦啓之氏をこそ称えるべきなのだと思ったのだ。
“演出”を感じさせると思ったのは、登場するキャラクターが、そこにアニメとして動いている“画”ではなく、声をあてられる前に既に素晴らしい演技をしていると感じられるほどだったから。特にせっぱつまった状況で出会い、恋に落ち、悲劇的な結末を迎える、主人公の男女、伏と圭は素晴らしい。それは顔の表情のみならず、その手の動きや、後ろ姿や、髪や……そんなものにまでたたえられた感情を感じてしまうのだ。この二人はもちろん、とりまく数々の人間たちの、なんという人間くさい顔、顔、顔!ヒロインにはそれまでのアニメーションにも見られた華がかすかには存在するが、それも本当にかすかなものだし、それ以外の登場人物に至っては、現代の人間以上に人間らしい顔をしている。
“現代の人間以上に”というのは、ある意味当然の計算なのかもしれない。これは、フィクションとしての過去、敗戦から10数年後の、昭和30年代、あったかもしれない日本の、いや東京のひとつの姿である。反政府勢力を鎮圧する「首都警」と、その中の秘密組織「人狼」、そして対抗する反政府ゲリラが、しかしそれぞれに錯綜し、陰謀が飛び交う。非情な「人狼」(伏一貴)と通称「赤頭巾」と呼ばれるこれまた非情な女テロリスト(雨宮圭)が、しかしその非情さゆえに……人間としての感情を捨て去ってきたはずだったが為に、お互いを求め合った、その感情の炎を鎮火させることが出来ないのだ。……なんという、なんという哀しさ!
この時代設定を緻密に描写したということもあるけれど、グレーを基調にした、全てが灰褐色のような印象のある抑えた色味の画が、独自の世界観を作り上げている。思えば、こうした画作りひとつにしたって、今の映画にどれほどあるというのか。そしてテーマである「赤頭巾」、それも原典にたちかえった残酷な物語である「赤頭巾」をモティーフとし、それがその世界観をさらに強固なものにしている。……この「赤頭巾」の使い方には、参った。最後、「人狼」の手の内に落ちてしまうテロリストの「赤頭巾」である圭は殺されてしまうのだけど、圭を殺れと命じられた「狼」である伏は、どうしても彼女を殺すことが出来ず、圭は彼の胸に飛び込み、「お母さん、なんて大きな目をしてるの、なんて大きな爪をしてるの!」と吠えるように泣きながら絶叫するのである。伏は、痛恨に顔が歪み、言葉にならない声をもらす。……そして遠くから「人狼」の仲間が、圭を、撃つ。引きのショットで崩れ落ちる圭。……と最初思ったんだけれど、やはりこれは伏が圭を撃ったらしい。仲間はそのまま銃をおろしているのだ。その証拠が次の「人狼」のボスが言う台詞、『そして、狼は赤頭巾を食べてしまいました』……なんということ!
迷路のような地下水道内で展開される衝撃的な銃撃戦などは勿論素晴らしいのだけど、バラックのような長屋と、ビルが混在している架空の昭和30年代の東京、路地や公園のさみしさ、背の低いデパートの屋上の小さな遊園地、そこから世界の果てを夢見る圭……といった、胸がしめつけられるような心情的な情景描写がとにかく秀逸。追いつめられた伏と圭が戻ってくるのが、二人の思い出の場所であるこの屋上であり、そうしたどこかさえない場所でしかないことが、しかしそれが故に宝物のような場所に昇華していることが、とてつもなくたまらないのだ。このシーンに至るまで、二人はお互いの気持ちを打ち明けない。いや、このシーンに至っても、それ以降も、はっきりとした言葉では明言しない。でもこの場面で、二人は吸い寄せられるようにくちづけを交わし、黙ったまま静かに抱き合うのだ……圭の目からはひとしずくの涙がこぼれて。言葉よりなにより、これほど雄弁なものはない。
私の乏しい記憶では、ちょぼちょぼとは映画音楽を手がけていたと記憶するチェリスト、溝口肇が、本作でいよいよ本格的な映画音楽作家に乗り出した感。繊細でダイナミックな、そしてそのチェロがことさら哀切に響く音楽は、しばらく彼の代表作になるにちがいない。
アニメーションはもはやジャンルではなく、映画を作る上での手段のひとつにすぎないという認識でいないと、またしても日本は自国が生み出した芸術を長らく正当に評価しないまま、才能をつぶしてしまうという愚行をおかしてしまうのだ。しかもいまや、若い時から才能を丁寧に育てている場はアニメーション界しかないのかもしれないのだから。★★★★★