home! |
月球儀少年
2000年 28分 日本 カラー
監督:山田勇男 脚本:島村ユードラ
撮影: 音楽:
出演:神考俊 菊地佳 清水ひとみ
8ミリを主に用いている山田監督だけれども、この作品は“HDカメラとビデオカメラを使い、デジタル編集したものを最終的に35ミリフィルムにおこす手法”を使っているという。などといっても、門外漢の私にはサッパリだが、8ミリの作品の時に感じられる、木綿ごしのような柔らかな世界ではなくて、冷たい澄み切った水のような、透明な世界。山田作品特有の、あの童話のタイトルに使われるようなアンティークな文字デザインで書かれたのれんのかかった古びたラーメン屋。妙に色っぽい母親、寡黙な年頃の兄、弟。弟は先生に目をつけられていた兄にどこか憧憬のような感情を持っていて、その行動をまね、中学に行ってしまった兄の姿を追い求めるが、うるさく追い払われてしまう。兄はフクザツなもやもやを抱え出す年頃。ストリップ小屋の女は、そんな彼の感情をもちろん知って、暇つぶし気味に意味ありげな視線を投げる。弟の残した、子供用の黄色い傘を女は兄に手渡し、「可愛い傘ね」と笑いかける。兄は自分が子ども扱いされたような気分がし、弟に当り散らすが、その実、女に声をかけてもらったことで、心にざわめいた満足感を覚えている。
ほんの2、3年違っただけで、最もその内面が違っているこの年頃、決して仲が悪いわけではないのだけれど、お互いを思いやるまでの余裕がない兄、弟。その気分はどこか懐かしげ。お互いがお互いをうまく思いやれないことによって相手を傷つけていることも気がついているから、そのことによって更に自分が傷ついているこの柔らかい年頃がいとおしく、そしてなんだかかわいそうで。それはポジティブな方向での憐憫とでもいったようなものなのだけど……その時をこえてこそ、大人になるから。現代は、この“相手を傷つけている感覚”を経験できなくなっているから、何だかおかしくなっている気もする。この二人が懐かしげなのは、自分の時代は何とか、そうした部分を踏んでこれたからなのか、なんてホッとしたりして。
弟の夢想の中には月の世界がある。月の世界に住む少女。彼女は時々、少年自身の姿になったりする。クラス展示で宇宙空間を再現している、その惑星の中でも、月を愛でる少年は、この月に住む少女を夢想している。冒頭は、このクラス展示をしている様子。青い宇宙空間に、小さな星たちが羅列している。少年の足元にころころと転がってくる月球儀。少年はカーテンの外、激しく降る雨を見ている。降る雨。月球儀。一瞬のストップモーション。少年はまるで思いついたように、それでガラスを割る。透明なガラスの破片が飛び散る。まるで宇宙が爆発したかのように、刹那にきらきらと。
少年はまだ何をしたいのか、判らない。何をしたいのか、と考えているわけでもない。ただ、兄に憧れ、自分の中にある少女性を戸惑いながら見つめ、そして今はまだ模倣の人生を生きている。自我の確立がこれからであるということが、大人たちにとってうらやましく感じられているということすら、当然ながら無自覚である。一方の兄は、憧れられるまでの自分ではないことにうっすらと気づき、何をしたいのか判らないことに少々の焦りを感じている。弟の憧憬は誇らしくもあるけれど、同時に自己嫌悪でもある。自己嫌悪の感情は、ある程度の大人になった証拠なのかもしれない。そして、そうして自分を見つめることは、自我の確立の始まり。
まだ透明な弟と、うっすらと色のつき始めた兄。弟はある時足を折ってしまう。兄はその弟を後ろに乗せて自転車をこぐ。途中、弟はふり落とされる。倒れて動かない弟に対して兄は、「早く乗れよ」と冷酷に言う。弟は何事もなかったように立ち上がって、兄の自転車の後ろにまたがる……。残酷さとほほえましさが同居する、だなんて、なかなか描けるものではない。でも、これこそが兄弟、なのだよね。折りしも雨が降ってくる。ざあざあと振ってくる。やがて学校に着いた弟は自転車を降り、兄に向かって敬礼する。そして深く頭を下げると、カギをしていなかったランドセルから、教材がこぼれ落ちる。雨の中に。あ、この描写と同じのがあったな、と思った……「まぶだち」だ。実はひそかにこれって、自我の確立の表現なのかもしれないな。テレ隠しと、確信犯的なものと、でも確固たる決意のある、少年特有な。
そのシーンを俯瞰から眺めているのは、月の少女。弟の中の、もう一人の姿、なのかもしれない。透明な傘を差して登校してくる仲間たちと逆方向を向いている弟を見守るようにじっと、見つめている。そして兄は走り去る。雨の中。彼は弟にかつての自分を見ただろうか……。
兄弟の部屋の中にかかげられた、大きな大きなゼンマイ?仕掛けの時計。英語とフランス語?の字幕つき、という不思議な感覚。あくまでも透明な、どこまでも透明な、少年世界。黄色い傘、月球儀を初めとする小さな惑星などの、玩具的なものに対する偏愛、母親もストリッパーも、月の少女も、いい意味で現実感を100パーセント欠いているひたすらに優しい感覚。女がないがしろにされると怒るたちの私が、何故こんなにも完璧に陥落させられてしまうのだろう……それはやはり、どこかに少年に対する憧れがある、からだろうか。★★★★★
確かに椎名桔平はカッコいい。私も好きな役者の一人である。そして彼だけではなく、菅野美穂、池脇千鶴といったメインの役者をはじめ、柴咲コウ、石田あゆみ、田中邦衛、柴田理恵、あき竹城、大杉漣、佐野史郎、岸本加世子といった役者陣がズラリと並び、客寄せ的な大根スター役者など一人もいず、皆個性としっかりとした演技力を持つ好きな役者ばかりである。しかし、それが逆効果に作用したか、あまりにも破綻がなさ過ぎる。それこそ菅野美穂も池脇千鶴もピンで主役をはれるぐらいの若手実力派女優の最筆頭だが、その上手さゆえに主役を張るときの華やかさが抑えられている気がする。そして主役の椎名桔平はもちろんとてもステキで色っぽく、ある秘密を抱えているところなど、彼の謎めいた雰囲気がドンピシャリにはまってはいるのだが、彼は化粧師であり、化粧をされる女の世界こそが主役のような部分があるので、そのせめぎあいが露呈してしまって、彼の演じる小三馬の物語なのか、化粧を通してみる女の世界の話なのか、今ひとつフォーカスがボケてしまって、のめりこんで観ることが出来ないのだ。
こうした部分が、破綻のなさであり、つまりは上手く出来ている、とも言えるのだが、私としてはどうも面白くない。全ての人に、全てのテーマに、全てのエピソードにいい顔をして、上手くまとまりすぎてて、何か一つに夢中になろうとすると、ふいとはぐらかされてしまう感じである。文盲を頑張って克服する時子(池脇千鶴)のひたむきさ、小三馬に恋する純江(菅野美穂)の切なさ、上手く自分を表現できなくて役のつかない小夜(柴咲コウ)のかたくなさ、あるいは小三馬の秘密、彼の思い、そうしたひとつひとつのものが、さらさらと指の間からこぼれ落ちていくように通り過ぎていく。役者たちが上手く演じているだけに、何かとてももったいない気がする。作品としてのバランスはいいのだけれど、それが壊れるのを恐れるあまり、陳腐に大団円めいた印象を与えてしまう。
台詞に重さがないのも、気になった。例えば、「化粧は結局外見を繕うだけ。心に化粧をするのはあなた自身」という台詞が出てくるのだが、いかにも印象的に響きそうに見え、実際この作品のテーマたるところなのだろうが、どうも、軽い。というか、意味的に得心できない。心に化粧をする、というのが、しっくり来ないのである。心をきれいにする、という意味なのであろうが、それを化粧という言葉で代弁させると、自分の心を偽るというか、そんな意味に聞こえてしまう。しかもこうした言い回しは多分にクサく、原作である劇画の世界ではそれほどの違和感を感じないのだろうけれど、正直、映像となるとますます現実に即した説得力に薄れ、それで涙する小夜に思わず首を傾げてしまう。原作は未読だからなんとも言えないけれど、漫画を映画にする時には、脚色は充分に気をつけたほうがいい(しかし本作は東京国際映画祭で最優秀脚本賞をとっているのである……)。それこそ原作では江戸時代だったのを大正時代にするとか、そんなことよりもずっと大切な部分である。
平塚らいてうの存在に象徴される女性の権利の高まりとか、確かに大正時代に舞台を変えただけの良さは随所にある。イプセンの「人形の家」の芝居を観にくるブルジョアな人たち(特に女性)の華やかさなど、江戸時代が舞台だったら描けない部分だろう。映画ならではの華やぎが素敵に活写されている。そして実際に劇中で小三馬が関わり、その人生模様が描かれるのは、天ぷら屋の娘の純江にしても、火災で焼け出され、奉公に来ている時子も、お客を取る芸妓の飛行機も、皆そうした華やかさとは無縁の底辺の女たちであり、そうした富めるものと貧しいものが同列に生活しているというギャップも、それが遠く離れたところに合った江戸時代より、この大正時代の方が明らかに効果的に映る。
男性が女性の顔や髪に触れるのって、映像で見るといつもドキドキしてしまうんだよね。「カラー・オブ・ハート」で初めて見たトビー・マグワイアに惹かれたのも、彼が最後に見せる母親とのそうしたシーンでだったし。化粧師である小三馬はもちろん、そうした描写が多々出てくるのだが、やはりその辺は色のある椎名桔平は確かにパーフェクト。彼が女性の肌を、髪を触るたびにドキドキする。ことに、彼を愛する純江がその心を押し込めて見合いする、その写真を撮るため、彼に化粧をしてもらう場面は……着物を肩までモロ脱ぎにして背中から首から胸元ぎりぎりまで白粉を塗りこむ小三馬に、純江の複雑な……悲しいドキドキみたいなものが伝わってきて純粋な官能とでもいったものを漂わせる。
顔にやけどを負った妻と、その夫が結婚写真を撮るためにやってくる。そのやけどが自分の過失だということに夫は深い罪悪感を抱いており、そんな夫を妻も痛ましく思っている。小三馬の神業的な化粧技術で、見事妻のやけどはきれいさっぱり隠されてしまい、二人、鏡の前で涙を落とす……。この夫を演じているのが先ごろ事件を起こしてしまった仁科貴であり、しかし彼はやはりこうした人間的な演技が非常に上手く、心をうつものがある。もし、もしこのまま彼が復活できない、なんてことになったら、とてもとてももったいない。日本映画界の損失である。脇をしっかり任せられる若手俳優というのは、これが意外にいないものなのだから。
小三馬にくっついてまわる男の子がいる。常連さんの元から戻る途中の自転車に乗った小三馬とぶつかってしまい、バラけた化粧道具に興味津々だった男の子。声の出ない彼はいじめられっこであり、ゆえに小三馬も言葉を発しない彼の唇を読むことなど出来ないのだが、やはりそこは鋭敏な神経を持つ小三馬のこと、彼と気持ちを通わせるのに時間はかからなかった。うるさく言うお母さんのことも、自分を避けるようにして働きに出ているお父さんのことも、大好きなのに、それを伝えることの出来ない彼の寂しさ、哀しさを、小三馬だけが受け取る。彼を追って小三馬の店にやってきた彼の母親に小三馬は化粧と衣裳をほどこしてやる。見違えるようにきれいになった母親に彼はニコニコとし、何と声も出るようになって母親も一人神経質になっていたことを反省する……あたりはあまりにもアッケラカンとしすぎていて、父親役の岩城滉一のようにキョトンとするしかないのだが……。それぞれの挿話を完結させるために、時としてこんな風にあまりに唐突にハッピーエンドを用意してしまい、ゆがみが生じてしまう。もちろん、男の子と小三馬の描写はナカナカ良く、それというのもこの男の子を演じる秋山拓也が台詞がない割にはその頑なな表情と力のはいりまくった全身で、一生懸命に声の出ない男の子を熱演しているからである。やはり子役はヘンな上手さより、こういう一生懸命さが好感が持てる。色とりどりの化粧道具に心惹かれる様がピュアで、カワイイ。彼はもしかして、小三馬に弟子入りするかな?
そう、小三馬の秘密とは、耳が聞こえないこと。銅山から垂れ流しにされた鉱毒で母を失うばかりでなく、自分の聴力も失ってしまった。それでも相手の言っていることが判り、普通に声を出して喋れもするのは、人の唇の動きを読む鍛錬を自分に課したであろうから、そして途中失聴者であるから、そして何よりも彼が努力の人だから。ドアを叩いても反応しなかったり、電話をひいていなかったり、様々に伏線は張られていて気づく人は気づいている(私は……気づかなかった)。それが純江。恋するがゆえに気づいていた純江の切なさは格別で、彼女は小三馬を官憲から救うために彼の秘密を暴露するしかなかったのだが、できればずっと自分だけの秘密にしておきたかっただろうし、彼女がつぶやいたように、自分が彼の耳になりたいと、心から願っていただろう。彼女が知っていた、と知ると、土手を自転車で走る小三馬に向かって、川で水切りをしていた純江が……唇を読むには遠すぎる場所から、自分が見合いをしたことを叫ぶ切なさが更に倍化されるのだ。菅野美穂の繊細な演技がすばらしい。
私の一番のお気に入り、池脇のちーちゃんは、無論可愛くって上手くってすばらしいのだけど……菅野美穂と並んで女性キャストのメインである割には、菅野美穂の方に感情的にさらわれてしまっている感じがする。……うーん、やはりこの辺はキャリアの差なのかしらん。★★★☆☆