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「ま」


2001年鑑賞作品

巻貝の扇
1983年 12分 日本 カラー
監督:山田勇男 脚本:
撮影: 音楽:
出演:


2001/12/24/月 劇場(BOX東中野/山崎幹夫&山田勇男特集/レイト)
私にとっての銀河画報社映画倶楽部の初体験映画、「海の床屋」が童話なら、さながらこの作品は詩のような感じ。アヴァンギャルドで、かつロマンティックなような。

巻貝の扇。それを見つめているとふと別の世界へ飛んで行く。縄。縄が支配している。男を縛り、女を縛る。馬などその姿がすっかり隠れるほどにぐるぐる巻きにされている。その馬を炎が包む。生贄のような、神事のような光景。

画面のこちらに向かって、並んで座っている男と女。和服風の、不思議な衣装を着ている。ちょっと、神話の世界を思わせるような?二人はお互いを見ずにジャンケンを続けている。勝負がどちらについているのかさえ、無関心のように続けるそのジャンケンは、次第次第にずっとあいこになって行く。それはジャンケンをしているというよりも、お互いのテレパシーを確認しているかのよう。あるいは、永遠に続くヒマツブシをしているよう。

縄が二人を追ってくる。這うようにして逃げる二人を、やはり這うようにして追ってくる。縄は次第に膨れ上がる。生命を得た縄。不思議に、残酷なわけでもなく、心惹かれる光景。やがてストンと終わる映画は、どこでどんなふうに終わったのかさえさだかではない。何に決着をつけているというのでもない。それもやはり詩の印象。★★★☆☆


まぶだち
2000年 99分 日本 カラー
監督:古厩智之 脚本:古厩智之
撮影:猪本雅三 音楽茂野雅道
出演:沖津和 高橋涼輔 中島裕太 清水幹生 光石研 矢代朝子

2001/11/20/火 劇場(シネ・アミューズ)
古厩監督、実に7年ぶりの長編第二作目。篠崎誠監督以上の待たせ方だけれど、私はデビュー作の「この窓は君のもの」が正直今ひとつピンと来なかったので、撮らないのかなあ、と思いはしつつも、待っているという気分はあまりなかった。しかし本作は「この窓は……」がウソのようにあらゆる意味で成熟し、しかも作家の言いたいことが画面に横溢していて、こんなこと、私ごときが言うのは恥ずかしいのだけれど、真に作家的成長を感じた。役者たちも本当にいい演技をしている。「この窓は……」のピンと来なさは、役者が素人だったからかなあ、などと思いもしたのだが、本作もメインの少年三人のうち一人だけが演技の経験があるものの、他の少年少女たちは皆地元の素人であるというのだから、驚いてしまう。監督の演出のネバりと引き出す腕力が格段に増しているということだろう。

中学生が精神的に追い詰められるという点で、どうしても同時期公開の「リリイ・シュシュのすべて」と比べてしまうようなところがあるのだけれど、本作はラストに20年後の彼らの今が指し示されることもあって、今から20年前の物語ということなのかもしれない。監督の“あの頃”を重ねているというか。「リリイ……」で起こることが、あまりにも大人社会の縮図で痛ましくて凄惨なのとは違うのだけれど、だからといって本作の描写が手ぬるいという感じはしない。いや、逆に「リリイ……」が憧れの歌手やインターネットの世界を介在して見つめているところがあって、その美しやかな映像もあいまって、仮想的に感じる人もいるのかもしれない作品なのだが、本作はそれに関してはきっぱりクリアしている。

あの頃の、辛さと楽しさが不思議と無理なく同居していた年代、友達を他人と認識し始める最初の頃、ただただ従うばかりだった大人たちへやっと反抗でき始めるものの、自分の反発が具体的に自分でもよく判らなくて、結局は無力な子供の抵抗になってしまうこと……。その剥き出しの柔らかな感情が引っかき傷を重ねていくのから目をそらさず、丁寧に積み重ねて描いていくことによって、そうしたモヤモヤとしたあの頃の感情が、鮮やかに目の前に展開されていく。友達と過ごす邪気のない時間も楽しさもウソではないのだけれど、その時間にさえ、大人の影が差し込んできていたあの時代が。

しきり屋のサダトモをはじめとして、テツヤ、周二たちはいつもつるんで遊んでいる仲間たち。威圧的な担任教師からはクズだと言われ、ことあるごとに目をつけられている。この担任ときたら、本当にトンデモナイ奴で、人間グラフだと言って生徒たちを不良、クズ、優等生と分類分けし(クズは人間でもないのだという)、生活記録だといって毎日の出来事を書かせ、根拠もなくウソを書いたといっては呼び出して暴力的な説教を浴びせる。確かに根拠はないのだけれど、見通しているのも事実で、サダトモはこの担任に心を開こうなんて絶対にしないし、他の仲間たちはこの生活記録が上手く書けなくて、サダトモにアイディアをもらっているんである。ある日、彼らの駄菓子屋での万引き行為がバレてしまう。担任はそれぞれの親たちを呼び出し、彼らは一様に子供たちを殴りつけ、責めたてるが、サダトモの父親だけは何も言うことが出来ない。サダトモは父親よりも大人っぽいしぐさで、ごめんなさい、と謝ることでその場はおさまったかのように見えたのだが、この父親は家に帰ってしばらくしてから、「やっぱりお前を殴ることにした」とサダトモをためらいながら二発、三発と殴る。恐らく初めての経験だったのだろう、サダトモは部屋に飛んで帰ってベッドをボスボスと殴りつけ、書くつもりのなかった30枚(!)の反省文を徹夜で書き上げる。そこには本当の、サダトモの自己嫌悪の叫びが綴られていた。

これが担任によって「評価」されてしまったことが、サダトモをはじめ、クズだと言われ続けた仲間たちに亀裂を生じ始める。サダトモと、とにかく書いてきたテツヤはクズから優等生に昇格させられた。サダトモは「いやです。クズでいいです」と反発するものの、妙にサダトモが気に入ってしまったらしい担任は「お前は評価されることに慣れなきゃいかん」とその決定を変えない。しかし周二をはじめ、以下の少年たちはサダトモとテツヤに水をあけられてしまったことで、明らかに二人と距離が出来てしまう。マラソンをしたり絵を画いたりして、懸命に担任からのノルマを達成しようとする少年たち。しかしその道すら自分で選べず、担任から提示された「水の入ったバケツを持って立ち続ける」ということも達成できなかった周二だけが、最後まで落ちこぼれてしまう。

故意か事故か、技術の授業中に自分の手にノミを刺してしまって大ケガをする周二。蚊のなく様な声で「わざとじゃないんです」と言う周二が可哀想でたまらない。明らかに追いつめられている。彼の気持ちを察して、サダトモとテツヤは周二を誘って、以前のようにふざけあう。川の橋の上の、欄干の上を行進する三人。本当の無邪気さと、不安定な心を隠そうとするかりそめの無邪気さが交錯する。何か不吉なものを感じたのか、ふとサダトモが振り返る。それに呼応するように、周二がにっこりと、しかしどこか泣き出しそうな笑顔を作って、ぴょん、と欄干から足を外す。一瞬の出来事に呆然とするサダトモ。

やがて雷が鳴り、大雨が降り、川が増水して周二は一向に見つからない。駆けつけた担任に「本当のことを言ってくれ。周二は自分で飛び込んだんじゃないのか」と聞かれるサダトモは、一瞬の後「いえ、足を滑らせたんです」と言い放つ。思わずサダトモの横顔を見つめるテツヤ。サダトモの言葉には、こんな奴に本当のことなど教えてやるものかという気持ちも確かにあったとは思うが、何故だかこのイヤな教師に対する、引いては子供の頃の気持ちなどとうに忘れ去ってしまった大人たちに対する憐憫の情も不思議と感じられて……どちらかというとそちらの方が強く感じられてしまうのだ。あるいは、いつかは自分も彼らと同じように、この頃の自分の気持ちを忘れてしまうのではないかという恐れも……。

この事件は、邪気のない少年期を完全に終わらせるものにした。この事件を期に、少年たちは一緒に遊ばなくなった。それぞれがそれぞれの世界を、時間を作り、それぞれに歩み出す。あの事件後、周二の死体を探そうと言うテツヤと、そんなことは自分を正当化するに過ぎないと言うサダトモは激しくケンカをする。それでも探す、俺はやっとやりたいことを見つけたんだから。周二の死体を探すっていうことを、とテツヤは言う。俺はいいことをしようとしているんじゃないんだ。周二のぶよぶよになった死体を見たいと思っているんだから、と言うテツヤに、サダトモは、……それは、俺も見たい、と返す。夕凪の川の上に浮かべた小船に、中央に頭を並べて反対方向に仰向けになっている二人の、この大人への端境期を迎えている、残酷だけれども不思議な優しさを感じる会話、そのリリカルな響きに、懐かしいような哀しいような、変に胸をかきむしられる思いがする。

どこか知恵の足りないおぼつかなさで、しかし本当の少年らしい可愛らしさを持つ、コロリンとした周二が、その最期の鮮烈さも手伝って心に焼き付けられる。サダトモに憧れと反発を感じ、しかしやっぱり最後まで親友であり続けるテツヤの悩める少年期を体現したみずみずしさがいい。そしてメインのメイン、サダトモはいつもシャツを出して、胸元を開けているさまは、少年のいきがっている感じを良く出しているのだけれど、それがちゃんと色気をも感じさせて、一人、訳も判らずという部分はあるものの、大人に反発するだけの力を持つ少年という説得力がある。

走っても走っても届かないぐらい、草っぱらや川辺がのんびりと続いているものの、濃い緑の山々がこんもりと取り囲んでいるこの田舎町は、その丸くて柔らかな風景は本当に穏やかで美しいのに、その閉じ込められた閉塞感はやはり感じてしまうのだ。しかもその閉塞感は、“こんもりとした山々”に象徴されるように、どこかアイマイで、そこから逃げ出そうという感覚をも真綿のようにくるんでしまう感じで。こういう部分は、それが明確であった「リリイ……」とは対照的であり、あるいは「リリイ……」の子供たちが沖縄旅行なり、リリイのコンサートの代々木体育館なりにあっさりと出て行けたのとは違って、彼らはここからは大人にならなければ出られないのだ。その意識さえ、やんわりと遮断されているのだから。そして大人になっても出て行ったのは、サダトモだけだった。

担任の先生役の人、どこかで見たことのある人だと思ったら、中学生日記の!そうかあ、それじゃ本当に“中学教師役”のベテランなんだ。やたらとリアリティがあったのは、そのせいか……。周二が死んだ後、沈み込むサダトモの、落ちたペンを拾ってやる女の子とか、何かそういうさりげない描写に、ふとそこに本当の生活の空気みたいなものを感じて、心惹かれた。それはテンションの高い場面や、物語に直接関係してくるエピソードの場面ほどに重要性はないのかもしれないんだけど、それがあるからこそ、この作品が純度の高いものになっている気がして。★★★★☆


真夜中まで
1999年 110分 日本 カラー
監督:和田誠 脚本:和田誠 長谷川隆
撮影:篠田昇 音楽(プロデューサー):立川直樹
出演:真田広之 ミッシェル・リー 岸部一徳 國村隼 柄本明 高野拳磁 春田純一 斎藤晴彦 六平直政 大竹しのぶ もたいまさこ 高橋克実 佐藤仁美 唐沢寿明 戸田菜穂 笹野高史 三谷幸喜 名古屋章 小松政夫 (ジャズ演奏)五十嵐一生 佐山雅弘 道下和彦 小井政都志 井上功一

2001/8/9/木 劇場(テアトル新宿)
予告編で観た時からしびれっぱなし。くぅーッ、カッコいい、カッコよすぎる!全編ジャズの名演奏が駆け巡り、しかもその主人公のトランペッターは真田広之だなんて、これ以上何を望むと言うんだ!この人って、この人って、もー、本当に色っぽくてカッコいいんだもんなー!

というわけで、ひたすら酔い心地なんである。まあ、一方のお話はいたって簡単。ライブとライブの休憩時間中にトランペッターの守山が、殺人を目撃してしまった外国人クラブのホステス、リンダのトラブルに巻き込まれ、次のライブの時間までに彼女と共に殺人の証拠を探すため、夜の街を駆け抜ける。相手は悪徳刑事。自分たちが逆に犯人にされてしまう恐れと、もう1つ、守山は次のライブでアコガレの大物ミュージシャンが店に来てくれるから、どうしてもそれまでに戻らなくてはならない。一体、証拠は見つかるのか、そして、ライブに間に合うのか……。

実際の上映時間とシンクロさせる(それはまるで和田監督の盟友、三谷幸喜監督の「ラヂオの時間」のようなのだな)スリル、その短い時間でちょっとイヤなヤツだった守山がちょっとイイヤツに変わっていく心地よさと、恋心というのではなく、この濃密な時間を共有しあった同志としての守山とリンダの関係が良い。頼りなげな日本語ながら、その行動力は無鉄砲すぎるほどのリンダを演じるミッシェル・リーが「漂流街」よりずーっと魅力的なのは、やはり真田広之という色のある華のある、落ち着いた役者が相手のせいか。ゴマカスために喋り捲る広東語や、時折混ぜる英単語がメチャメチャカッコよく響く。立場は弱いはずなのに、この真田広之を引っ張りまわすキャラとしての強さ、そして失踪するときに長いワンピースの深いスリットからあらわになる美脚に釘付けである。まあ、ちょーっと走り方がモタモタしているのが気になるけどね。

そう、守山ってば、そんなにイイヤツじゃないんである。冒頭のライブシーンで、客(大竹しのぶ!)からのリクエスト「月の砂漠」に、「ここはジャズバーなんだから、そこを考えてもらわないと」みたいな言い方をして、ムッとさせる。えー?そりゃないでしょ、ジャズは何でもジャズになるからこそジャズなんじゃないの!と思いつつも、いやいや、絶対映画の最後にこの「月の砂漠」をやってくれるに違いない、という期待感も持たせるのだ。そしてやっぱりそれは果たされるわけで、それも途中、リンダが唯一知っている日本の歌として彼女が歌い、そこは飛び乗ったトラックの幌の中で、それに合わせて守山は即興で伴奏をつける(うー、素敵!)。それに気づいた運ちゃんがジャズファンで「俺の車にジャズマンが乗ってるなんてよお!」と興奮し、彼らのために来た道を引き返してくれるんである。この運ちゃんを演じる六平直政がイイんだよなあ。

そうそう、この脇役陣がたまらんのよねー。それは例えばゲスト出演的なチョイ出も含めて、こちらのツボをくすぐりまくる。二人に車を取られてしまう、ベタなペアルックのカップルが唐沢寿明と戸田菜穂、くだんの大竹しのぶ、人生哲学を持つホームレスが名古屋章と、このへんをチョイ出に使う豪華さとその味わい。そして物語に深く関わってくるキャスト陣として、この手だれな雰囲気が似合いすぎる故買屋のもたいまさこ、この人がカッコいいなんて、うっそお、という、実は正義の側の刑事だった柄本明あたりが出色。いやいや、柄本明がカッコいいのは、あの一瞬、岸部一徳扮する悪徳刑事が二人に向けた銃を撃ち落とすあの瞬間だけなんだけどさ(いや、その後ももうちょっとカッコいいかな)。危うくキューンとなるくらいカッコよかったのよ。柄本明にキューンとなるなんて、いやん。

守山は、休憩時間、練習のため屋上に出たその時に事件に巻き込まれるので、大事なトランペットを持ったままである。かなりアクションもあるんだけど、上手くこの楽器をかばい、ミュートやマウスピースはとっさに武器にしながら駆け抜けていく。真田広之がトランペットを持って走っているというだけで、画になる。まあ、どうも走りの遅いミッシェル・リーに逆に引きずられているという感じを出すのに苦労しているように見えたけど、そうでもないかな?

このマウスピースは物語のキーとして上手く機能していて、もたいまさこの故買屋で彼は銀のマウスピースを買い、それをリンダにプレゼントするわけだが、彼がふところに大事に持っている、このトランペットのマウスピースは金。「月の砂漠」の歌詞にシンクロしているだけではなく、事件が解決して、お別れという段になった時、この銀と金のマウスピースを乾杯のように二人でカチンとする場面が、ああッ!鳥肌が立つほど素敵なんである。そしてそこまでに行くのに、この銀と金のマウスピースはそれぞれに大活躍して、金のマウスピースは守山が悪徳刑事のもう一人、國村隼(好きじゃ!)のナイフを避けるために使われ、銀のマウスピースは守山と岸部一徳の方の悪徳刑事が取っ組み合いになる場面を下に来ている柄本明らに知らせるために、リンダが必死に吹き鳴らすために使われる。それで、このマウスピースでカチンでしょ。効いてるんだよねー。

“きらめく街の1時間50分”という予告編での宣伝文句はほんとーにピタリで、この“きらめく街”ってのが、めくるめくジャズの名曲にドンピシャでホントに酔いしれてしまう。そこは確かにあのゴミゴミとした東京のはずなんだけど、濡れた道路の照り返しも計算に入れた、どぎついネオンや照明が絶妙にボカされたやわらかさで、とてもシャレている。クライマックスの、コカコーラのネオン輝く看板が掲げられた屋上が最も象徴的だけど、逃げてる二人が途中ちょっとだけ立ち止まる場面で後ろに吊り下げられている“おでん”の赤提灯が、柔らかい光を放ってかわいらしかったのにおもわず頬がゆるんでしまった。同じネオンがめくるめく都会でも、「天使の涙」のスタイリッシュさでもなく、「ブレードランナー」の異国趣味でもなく、「不夜城」の雑多さでもなく、まさしくジャズのために用意された、粋なアナログさを放つ街なのだ。この感じが一番好きだなあ。

冒頭のライブシーンから驚いたけど、ラストのライブシーンでは、もっとふんだんに真田広之のライブアクトが見られる。吹き替えではあるものの、その様はまさしくベテランで華のあるトランペッターそのものであり、マウスピースに唇を当てるときちょっと舌で唇を湿らしたりするのもそれっぽい。まったく、参っちゃうくらいにカッコいいんだよなあ!そして「月の砂漠」である!まだ残っていた、あの観客のかぶっていた帽子をひょいと取り上げて、武器として投げつけるために無くしてしまったミュートの代わりにトランペットの先にかぶせて吹き出す。曲名を知らされてなかった仲間たちも、絶妙に彼の演奏に合わせて行く。このっ、この「月の砂漠」のジャズアレンジの素敵さときたら……うー、ヤバすぎッ!

佐山雅弘をはじめとするプロミュージシャンたちのまんまなジャズメン演技も嬉しい。あー、ジャズって素敵過ぎる!★★★★☆


マレーナMALENA
2000年 92分 イタリア=アメリカ カラー
監督:ジュゼッペ・トルナトーレ 脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ
撮影:ラホス・コルタイ 音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:モニカ・ベルッチ/ジュゼッペ・スルファーロ/ルチアーノ・フェデリコ/マティルデ・ピアナ/ピエトロ・ノタリアーニ/ガエタノ・アロニカ

2001/6/29/金 劇場(新宿ジョイシネマ)
少年期の夢想と甘い感傷にひたりきるには、あまりに残酷な、一人の女性の数奇な運命。集団心理の横行した大戦下、外見から来るイメージで人々が裁断する恐ろしさ。そのことで人一人の振る舞いが変わっていかざるを得ない理不尽さ、残酷さ。自分らしく生きていくことはこの現代であっても難しいのに、あの、心理操作を行われた時代に、女性が一人で残されて、一体どうしたらいいのか。だれ一人友達も理解してくれる人もなく、人々の悪意で親からさえ引き離されて、一体どうしたらいいのか。

一人の絶対的な女性に対する、少年の甘やかな記憶の映画として単純に観ることができたら、どんなにか良かったろうと思うけれど、そういうわけにもいかなかった。もちろんそれが意図だというのはわかっているけれど、一貫して少年の視線だけで描かれているから、マレーナの気持ちなど判りようもなかったし。オフィシャルサイトのBBSで騒がれているほど性描写が露骨だなんて思わなかったけど(っつーか、あんなんでロコツだと思うというのがびっくり)彼女に対してそんなふうに男たちは、いや女たちも、肉体としてしか見ていないのが、あまりにもやりきれない。深刻さを避けるように、街全体がほとんどスラップスティック状態で道ゆく彼女に対応しているのだが、何だかあまり笑えない。

否定的な意味でいっているんじゃないんだけど……ただ、哀しかったのだ。マレーナが、あんなにも寡黙に慎ましやかに、戦線の夫を、後に亡き夫を(というのは間違いだったわけだが)思って待っているのに、その美貌、その官能的なスタイルから、ありもしないもう一人の彼女がつくられていってしまう。そしてマレーナは、人々が望む、そのまぼろしの彼女になることでしか、生きていけなくなってしまう。そうやって人々が追いつめたのに、彼らにはその自覚がなく、それみたことかと彼女を糾弾し、しまいには目も覆う集団リンチ(しかも女性たちによる!)である。これはあのころ、確かに歴史の中に存在した事実なのだという。そうなのだろう。時代が、戦争が、人々の心をゆがませる、顕著な例だ。自分はあの女とは違うのだという安心と、さらに彼女をおとしめることによってさらにその安心を深めようという愚かな心。あるいは、そんな時代下でも、強くまっすぐに生きていこうとしていたマレーナへの嫉妬心、正しいはずの自分よりも男たちの心をとらえてしまう彼女への嫉妬心がそうさせたのかもしれない。

そんなマレーナを理解していたとまではいわないけれど、少なくとも彼女に対しての思慕の念だけは失わなかったレナートは、しかし、その少年としての無力さで、神に自分の代役を祈ることしかできない。この、ほとんど罪悪に等しい無力さにもやりきれなさを感じてしまう。でもレナートがもしこの時点で大人であったとしたら、果たしてマレーナに対して同じような感情を抱いていたかはあやしいところで、レナートはこの年齢だったからこそ、彼女に対する外見から来るイメージを、彼の欲求に沿うだけのものとして彼の中に形作ることが出来たのだ。大人の中にある、他人に対する愚かな図式がまだないから。ただ見ることだけで愛していると感じることができる。でもただ見るだけじゃ、何にも、だれも、救えないんだよ!守れないんだよ!終戦の日、マレーナが娼館から引きずり出されて身もあらわになるまでボロボロに衣服を引き裂かれ、殴られ、蹴られ、髪をズタズタに切られていても、何にもできない。なんという哀しい少年の非力さ。

でも。レナートがたった一度、彼女のためにできたことがあった。終戦で、死んだと思われていたレナートの夫が帰ってくる。彼はいなくなっているマレーナのことを街の人々に聞きまわるが、皆さげすむような笑いを浮かべるだけで、何一つ教えてくれない。教えてくれたとしても、それは人々が作り上げた彼女ではない彼女だ。そんな彼をレナートはまたもじっと見つめている。思い悩む。おいお前、半ズボンから長ズボンをはけるようになったんだったら、何とかしろよ!と思っていると、ようやく、レナートは自分が見てきた真実と、彼女の乗った列車の行き先を告げた手紙を彼の元へしたためる。マレーナに対して、何度も何度も書いては出せなかった手紙、出すことになるのがマレーナの夫に対してで、しかもこんな内容になるなんて。

でもそれが、ようやく、本当にようやくマレーナを救うことになった。彼女を探し出してきたマレーナの夫は、2人、この街にお互いを支えあうように、しかし毅然として帰ってくる。その姿に街のみんなは気おされる。負け惜しみ気味に、よく帰ってこれたもんだ、などといいながらも、彼らはこの2人の凛とした態度に、自分たちの非を認めざるを得ない。マレーナは、そのつややかな若々しさがすっかりどこへやらといってしまって、老け込んだ風情になっている。でも、それこそが全く作り上げられていない、彼女自身である彼女であり、あんなことがあった街に、あんなことをされた人々の間に分け入って歩いていくことができる彼女に、人間としての美しさを見ることができる。街の人々が彼女におずおずとながらも、挨拶の言葉をかけるエンディングは、そりゃちょっとばかし都合がよすぎるけれど、このへんの素直な人間賛歌がトルナトーレ監督の持ち味といえば確かにそうで。

ふと気づくと、トルナトーレ監督というのは、本当に、女性の描き方が、一貫して距離があって、こんなふうにタイトルロールのヒロインをすえてすらもそうで。いつでも女性は夢の中の存在で、実体がなくて。いやもちろん実際には実体があるんだけれど、彼女を愛する主人公の男性にとって、実体がないのだ。レナートは憧れ続けた彼女に対して念願を達成はするものの、それは結局、彼女でない彼女、つくりあげられた彼女であったのだし、本当の意味での彼女の実体に触れることは結局なかった。トルナトーレ監督はこのままこうした女性への距離を保ち続けるのかな……この作品はそのことに対する限界を示したようにも思えるのだが。最初こそそれは甘美な物語をつづることに成功したけれど、それはその一本の映画の性格づけ以上に発展し続けることにはちょっと無理があったのではないか。★★☆☆☆


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