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恋愛回遊魚/起毛球了/FLUFFY RHAPSODY
200年 60分 台湾 カラー
監督:ウー・ミーセン 脚本:ウー・ミーセン
撮影:ルーク・チェン 音楽:ジェフリー・チェン
出演:チャン・ジャーホイ/ツァイ・ツェンリャン/イェ・シャオフー/イー・ツーイェン/ユェン・ウェンピン/チャン・ズォンズォン/ワン・シンユェン
医師の免許を持っているのに、今は半ばスチュワーデスのガールフレンド、ア・メイのヒモのような男、ワン。彼はテレビCMに出たことがあるという女子高生、ミャウミャウと出会う。彼女は自分がレズビアンだといい、“彼女”に振られた日、ア・メイとテレビゲームをしていたワンを呼び出す。彼女と一晩中一緒に過ごす彼。ア・メイはフライトで旅立ち、ミャウミャウは彼女のいないワンの部屋にすべりこんできた。ミャウミャウなんて名前のせいじゃないけれど、そんなところなんてまるで猫みたいだ。一緒に寝たり、ワンの下着を借りてみたり。二人の関係はセックスの色合いを淡く帯びているけれども、でも二人は男女の関係にはならない。ワンの方はミャウミャウがCMで男の子とキスしていたりするのを見て軽い嫉妬を覚えるなんてこともあって、彼女にホレていなくもないように思われるのだけれど、ミャウミャウは、「私はレズビアンだから」のひとことでワンを軽くあしらってしまう。でも、ミャウミャウのこの言葉は、嘘。彼女はCMで共演した男の子に恋している。CMでの、演技でのキスで、ミャウミャウは彼に男の、そして恋の香りを感じている。ワンには感じないものを。
ミャウミャウは女子高生らしい潔癖さで、相手が男だからとか、女だからとか、というカテゴリーにまずはめてみないと恋が出来ないと思っているようなところがある。彼女に“彼女”がいたというのも、多分嘘ではないのだろう。そしてミャウミャウはそのことによって自分がレズビアンだと思ったらしいのだけれど、彼女は自分では気づかないところでとてもニュートラルな女の子。ちゃんと恋の相手として認識した上で、恋に落ちることが出来る女の子。それが男であるとか女であるとかいうのではなく。彼女が感じる恋の香りを、彼女はワンには感じない。ワンはかすかにその香りをミャウミャウに感じている。彼がミャウミャウに感じるデジャヴはその象徴的なもののように感じる。夢の中のミャウミャウの方が、生々しい。真白い下着を剥ぎ取られている彼女。一方、この夢を受けてワンがデジャヴを感じるシーンでの現実のミャウミャウは、ワンのカラフルなトランクスがそれに取って代わっている。この点で、ミャウミャウとワンの間の微妙な温度差が生じてくる。ワンが感じているミャウミャウは、むしろ夢の女の方。現実のミャウミャウの、その心の芯の部分はワンの手の届かないところにある。それは、いわばこの時だけの、少女の気分のようなもの。
でも、そのデジャヴをつなぎとめておこうとして、ワンは彼女の痕跡をテーブルに赤い輪郭線で引いてみたりする。でもそれは、まるで事故現場の、死んでしまった人の形のあとのようで、ワンにとっての現実のミャウミャウが、一層遠く離れていることを皮肉にも露呈してしまう。ワンは後に、そのテーブルに寝っころがって、彼女からの、彼にとっての彼女という存在が消えてなくなる、いわば遺書めいて聞こえる手紙を読むことになるのだ。……彼女の残していったコンビニおにぎり(!おにぎりって、日本のものだけじゃないのか!それもコンビニおにぎり!)をほおばりながら。
ミャウミャウが紺サージのプリーツスカートをはいて、学校のトイレでタバコをふかしていたりとか、そんな女学生っぽい青くささが、何かたまらなく琴線に触れる作品世界を形成している。ワンの男としての気持ちも知ってか知らずか、無防備に彼のふところに入り込んでゆくようなしたたかで無知な少女らしさがいい。自分の女としての魅力も充分心得ていながら、その一方で好きな男の子に再会してもまっすぐに目を見ることも出来ないようなピュアさ、そんな重層的な心のうちがヴィヴィッドに輝いている。つややかで長い黒髪や、すんなりと長く美しい足が超ミニからおしげもなく披露されているさま、そしてとんでもない美女になる片鱗を兼ね備えている、今はまだ幼さの残る美少女ぶり。台湾の美少女といえばビビアン・スーを思い出すけど、彼女もまたそんな無防備で艶のある美少女だった。性的な魅力を感じさせつつ、少女性もピュアに輝いているというタイプの。
ミャウミャウがワンにプレゼントするのは、哀しげなメロディを奏でるオルゴール。憂鬱なときに聴いてね、と言いつつ、「この曲を聴くと憂鬱になるから、憂鬱になりたくないと思ったら、聴けないの」というよく判らないヘリクツで、だから憂鬱にはならないですむ、と言うミャウミャウ。憂鬱は都会の病気だろうか。優しさも都会の病気だろうか……こんな風に規定できない相手に対する、残酷な誤解だろうか。大人になりきれないのはもう年齢的にはオトナのワンの方で、好きな男の子が出来たとたん、その気持ちに気づいた途端、女のミャウミャウは一足飛びに大人になってしまった、のだろうか。無防備なようでいていつも巧妙に予防線を張っていたミャウミャウに対して、彼女を慈しんでいるようでいて、ただ単に彼女にホレていたのかもしれないワン。憂鬱と優しさの中に虚構の心地よさを作り上げて、いざ傷つく時にも、なるべく、なるべく傷つきたくないと、傷つかせたくないという都会人の見得、だ。
原題は、“毛玉が出来た”という意味だという、随分と変わったタイトル。劇中で彼女はひたすら衣服に毛玉がつくことを嫌がっている。半ばはしゃぐように、ではあるけれど。ぬくぬくとあたたかくて柔らかい関係に、ほころびが生じてしまうこと、を暗に恐れているのだろうか。街頭に宝塚風の大きな看板が掲げられている。そこに書かれているのも多分、“毛玉が出来た”という文字。彼女はその看板に興味を示し、まとわりつく。その場面も何度となく出てくる。しかしその何度となく出てくるシーンは、実は同じ時間の中。ワンがデジャヴを感じるように、不思議に時間がゆらめいているのだ。「あなたと別れて15分、寂しい?私はとても……」そんな言葉を連ねたミャウミャウからの手紙。コンビニおにぎりを置き土産に、斜めに書かれた不思議なラブレターは、何故だか別れの手紙のような余韻を残す。斜めに書かれた、ということもまた、真剣になることへの恐れのように見える。真剣になれば、傷つくから。それをワンも感じたのか、彼女を追ってバス停へ向かう。通りを横切ろうとした時、ゆらめいていた時間の不思議が、ここでガラスが割れるように表面化して……あのラストは一体、何?ワンはバスにさえぎられる、そして通りに倒れてしまうのを遠い遠い俯瞰で捕える。……あれは一体、何?
ラーメン屋に貼られたアサヒビールのポスターや、クレヨンしんちゃんの“おはよう”と起こしてくれる目覚まし、「日本の新聞なんか読んでかっこつけちゃって」などという台詞、川端康成の小説の引用(でも私、知らないやつだ)など、そこここに発見できる、ジャパニーズカルチャーの見え隠れに驚き!ジャパニーズカルチャーって、決して洗練されているわけではないし、言っちゃえばちょっと泥臭いようなところがあるんだけど、それがスマートに隠そうとしている若い男女の機微をあぶり出して見せているような気もして、そのちょっとしたかくし味が面白い。★★★☆☆
それにしても!最もオドロキなのは、いくら若い頃とはいえ大杉氏がこんなにもやせっぽちで貧乏臭い(失礼!)印象であった、ということだ。確かに顔は漣さんなのに、雰囲気というかオーラというか、それが今と全然違って、勿論それは役柄上ということもあるわけだけど、それにしてもこのイライラしてキレやすい、仕事の続きそうもない未来のない男、をまるで地のままに感じさせる演技は若さのせいもあるだろうけど、今の漣さんじゃ、とても想像つかないのだ。ひげは蓄えているし、時代を感じさせる大きなサングラスして、むしろ今よりオッサン臭いような印象もあるのに……。それにしても、この連続レイプ殺人者は、いつも女にのっかかってから自分のパンツをお尻から引きずりおろし、私はそれを観ていて何となく、「アベモン」で自分のお尻を出したがる漣さんを思い出してしまった。だ、だってさ、ここでの漣さんたら、そうやっていつでもお尻ばっかり出してる感じ、するんだもん。全裸ではなくて、お尻だけって感じが。ううむ、確かにプリッとしててカッコいいお尻だが、結構マヌケな感じが……(笑)。
しかし、映画自体は、マヌケだなどと笑っていられるようなものではなくて、全編緊張感に満ちている。その昔、本能のおもむくままにセーラー服の少女を森の中までつけていって、犯し、ハズみで殺してしまった男。その少女の叫び声と画面での彼女の顔のなまめかしさとがやたらアフレコっぽくてギャップがあるなあ、と思っていたら、それが映画中映画の「連続暴姦」。しかしそのフィルムを回していた映写技師はハッとする。その筋だけならば、よくあるレイプものの話、偶然だといって片付けても良かった。しかしその少女を犯している男の太ももの付け根には、自分と同じ赤いヘビの刺青。じっと身を隠し続けて時効を待っていた男にとって、これはまさに青天の霹靂。あの時自分がしたことを、見ていた人間がいたのだ。
それは、この犯された少女の妹。映画中映画と同じ場面が再現され、そこには映写技師である男と、その下に組みしかれた、今度は本当に叫び声と恐怖に満ち満ちた顔がシンクロする少女。それをじっと見つめる幼い女の子。この女の子が成長し、自分の手で犯人を捕まえたいと願い、自分の観たことを脚本にして恋人であるピンク制作会社の男に手渡し、作品となる。あの時現場に落ちていた手袋に、フィルムの破片が残されていたことから、この犯人が映写技師であるという推測をつけた上での行動だった。そしてそれはドンピシャリと当たり、彼女がペンネームとして名前を拝借していた女(彼女のストーカー女であるレズビアン)が殺される。警察に行こうと言う恋人に、彼女は言う。私は自分の手で犯人を捕まえたいの。あいつは絶対、私に手を出してくる、殺されるかもしれないけれど、それでもいい。そうしなければ、私は本当に人を好きにはなれないもの、と。
あの場面を見てしまって以来、トラウマとなったその記憶に苦しむ彼女は、その気持ちを見透かされてレズビアンの女の手に堕ちていたのだ。このレズ・シーンは80年代当時のケバメイクと、指輪をしたギスギスした手に真っ赤な爪、という二人の女が絡み合う様で、どうも見ていてあまりキレイなもんじゃ、ないんだけど。プレイシーンの時はナチュラルメイクが私の好みです。それにしてもこの彼女、この記憶のトラウマで男に対して完全に心を開けない、はずなのに(だからこの女に目をつけられたはずなのに)恋人の男とのセックスシーンは随分と長くしんねりと描かれていて、おいおいおい、お前言ってることとやってることが違うだろー、と思わず思っちゃう。それとも、あれかな、体は開けても、心は開けない、ってことなんですか?(ひゃー)その方が問題アリだと思うけど(笑)。このシーンでは、スタンドライトをつけてヤリながら彼女の体の仔細を見たがる男と(「鍵」みたいね)、それをいやがる彼女との間でライトがつけたり消したりされ、それもまたしつこいので、段々やんなっちゃう。このセックスシーン、いくらピンクとはいえ、あまりにも本筋に関係なく長々しいんだもんなあ。
で、この犯人の男をおびき出すために、彼女は次回作を準備している、という情報を男の元に届けるんである。ライターの女は殺した、と思い込んでいる男は当然驚く。この時、彼とねんごろになっていた映画館の受付嬢は、秘密を知ったために殺されてしまう。そしてまた漣さんはお尻をズリズリと……まあ、それは置いといて。案の定、彼女のことを突き止めて姿を現したこの男に、彼女はサスペンス映画の王道をきちんと守って?どんどん袋小路に逃げていく。それはまるで、あの記憶のまま……どんどん人のいない森の奥深くへと逃げていった、殺されてしまった彼女の姉と、おんなじ。まさか、姉妹そろってあの悲劇が繰り返されるのか……息を呑んで見守っていると、事態は思ったとおりの方向へ進んでしまう。
女の力では抵抗も空しく男につかまり、「最後に男を味あわせてやるよ」だなんて吐き気のするような台詞とともに組み敷かれる。偶然なんだか何なんだか、ダンボールを敷いた上に彼女は倒れ込んじゃってて、あ、ヤバいよー、その状況だと和姦だってことにされちゃうよ、と観ているこっちはいらぬ心配(笑)。しかし解せんのは、さっきまであれほど抵抗して、隙あらば逃げ出そうとしていた彼女が、いっぺん組み敷かれると、男が尻を出すために(しつこいな、私も)彼女から身体をいったん離してズボンのベルトを緩めている間に、まるで待っているみたいに仰向けのままみじろぎもしないことなんである。身体を離す男も判らんが、この女の方がもっと判らんよ。ピンクでそーゆーことを言っちゃいけないの?それにしても……。
しかし、反撃の仕方、これがなかなか面白いんだな。ヤッちゃうのみならず、更に女をいたぶろうと男がライターの火を女の乳首や顔に近づける。イヤイヤをしながらふと彼女の目に入ったのは、彼女のバッグから散乱しているヘアスプレー。あ、そっか、なるほど!とドキドキしながら待っていると、やった!火をつけなおそうと自分の顔の前にライターを持ってきた男に一発噴射!火はゴウッとばかりに燃え上がり、男は悲鳴を上げる。目が利かなくなってしまった男はフラフラと逃げた女を捜す。目の前にいる。コノヤロウ!とばかりに棒を振り下ろすと……何とそれは鏡。四方八方に飛び散って、(で、これがどういう位置関係になってそうなったのかよく判んなかったんだけど)彼は鏡の破片とともにビルの窓からジャンプしてしまう。彼女が映った鏡がキラキラと闇の中を反射しながら粉々に砕けるさまといい、男があっという間に窓の外に身を投げ出されるさまといい、凄くスリリング。そしてその死んでしまった男を放心したような、哀しそうな、何とも言えぬいろんなものを宿した表情で窓から見下ろす彼女の顔でストップモーション。このラストもまた非常に印象的。★★★☆☆