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I am Sam/I am Sam
2001年 133分 アメリカ=スペイン=フランス カラー
監督:ジェシー・ネルソン 脚本:クリスティン・ジョンソン/ジェシー・ネルソン
撮影:エリオット・デイヴィス 音楽:ジョン・パウエル
出演:ショーン・ペン/ミシェル・ファイファー/ダイアン・ウィースト/ダコタ・ファニング/リチャード・シフ/ロレッタ・ディヴァイン/ダグ・ハッチソン/ローラ・ダーン/スタンリー・デサンティス/ロサリンド・チャオ/マリン・ヒンクル/ブラッド・アラン・シルヴァーマン/ジョセフ・ローセンバーグ
……というシリアスさをとかく回避しようとするためか、作品自体の色合いは明るく彩られている。サムやその友人の障害者たちの言動、失敗なども含めてコミカルにとらえ、それは無論、無神経にも失礼にもならないように、彼らの人間的魅力を描く方向にむかうべく細心の注意が払われている。しかも全編を彩るのはサムの大好きな(彼だけではなく、友人たちも大ファンであるらしい)ビートルズ、それを現代アーティストがカヴァーした楽曲でしつらわれ、思わずポップな娯楽作品かと見間違うような体裁である。
今までの世間的なイメージとしては父親のみ(あるいはそれに限らず片親のみでも)の子育てというのはとかく悲壮感を持ちがち。本作中に父子家庭映画の先輩として出てくる「クレイマー、クレイマー」にしても、やはりコミカルな味付けはされていたものの、基本ラインはそうである。そういった、肩に力が入りがちなものをことさらにポジティブに、軽めにとらえ、逆にそれによってシリアスな核心をあぶり出していこうという印象は、「ハッシュ!」などが思い出されたりもする。しかし、非常に斬新な視点とそれに引きずられないこまやかな心情描写で印象深い「ハッシュ!」と比して、物語を構成する条件、その用意周到さにおいて固まりすぎのような気もしないでもない。さあ、泣くぞ!と用意して行った私が妙に冷静に見終わってしまったのは、このあたりに原因があるような気がする。
サムから引き離される娘、ルーシーは、まるでおにんぎょさんみたい。カワイイ、可愛いすぎる。それはものすごく“白人”の持つあるひとつのイメージ(無論、それは“白人”自身から見た)を意識させてしまう。こまっしゃくれて、頭の回転が速くて、つまりはインテリジェンスを小さな頃から持ち、たとえ“こんな父親”を持っても、立派に成長していくであろう、といったような……。あるいはそんな人種的な視点ではなくても、この作品の命である障害者にしたってそうだ。サムを含めたユーモラスで人間的な彼らは確かに充分に魅力的なのだけれど、その魅力が“純粋”という価値観ばかりでとらえられすぎているような気がする。純粋というのはその実、裏腹に危険な価値観だ。それは無知とか白痴などといったイメージへと簡単に裏返ってしまうから。その対象が“障害者”であればことさらにそうで、“純粋”だけが彼らのセールスポイントのように押し進めることに、そんな危険を感じて身構えてしまう。
などと思うのは、昨今数多く作られている、こうした知的障害を持った人たちをとり上げたドキュメンタリーを観てみると、彼らの真の魅力はそうした健常者が一方的に持つ漠然としたイメージではなく、私たちのように社会的、世俗的なことにとらわれないからこそ育まれた豊かな感性や自由な発想だということが判るからだ。勿論、本作にもそうした部分……ビートルズのことなら何でも知っているとか、というのは描かれるけれども、あまり強調はされないし、彼らの“こだわり”として残るのは毎週のスケジュールや毎日食べるものにひどく従順だったり、一生懸命になればなるほど仕事でヘマをやったり、といった“ユーモラス”な部分ばかり。その“ユーモラス”もまた、簡単に“滑稽”に裏返る危険性がある、と思うのは考えすぎなのだろうか?知的障害者ではないけれど、チェアウォーカーたちを題材にした「ナショナル7」(これから観ます)では、やはりこうした“障害者=純粋”に対する一方的な価値観に対する反発が行われていると聞く。
そうした“純粋”さを、彼らに学ぼうと言いたげな視点。それは決して彼らを同じ地平の、同じ人間としては見ていない視点のように思えてしまう。例えばそうしたこだわりやヘマも、私たちも同様にするものなのだという視点ならば(むしろそっちの方がずっと単純に共感できる)、そんな違和感は感じなかったのかもしれない。そうした上で、同じ人間なのに、仕事に対する情熱は一緒なのに、収入にひどく差があることに対しての、社会的問題提起もされるのではないか。障害者だからというのではなく。実際、“職業に貴賎はない”などといった理想的な言葉がありつつ、人権侵害ではないかと思われるほどに(靴一足も満足に買えないサムの経済能力では、確かに子育てはムリだと断定されてしまうだろう)それに格差があることに対して、どんな人間だって言いたいことがあるのではないか。サムみたいに健常者に助けられて、同情されて昇進する、みたいな描写ではダメなんである。
しかし、“障害者”であるからこそ、そんな彼らから学ぶべきことはたくさんある。裁判所で、突然サムがこちらの胸を打つことを雄弁に語りだす場面がある。しかし彼が言葉につまると、傍聴していた彼の友人たちが助け舟を出し、それが映画からの引用であると判ってしまう。あるいは、弁護士のリタと答弁の打ち合わせをするものの、相手の弁護士に突っ込まれると、サムにはそれに対応する言葉が出てこない。ここで感じなければいけないのは、彼らが台詞を覚えるほど映画を熱心に見ているとか、相手の弁護士は卑怯だとか、そんなことでは無論なく、言葉は結局大切なことは何も伝えられない、無力である、ということなのである。サムが私たちの心を打つのは、決して彼の発する言葉ではないはず。弁護士のリタは口八丁、手八丁でサムの“愛情”を弁護するけれども、その愛はリタの言葉で説明できるものでも勿論ない。サムとルーシーの間に流れているもの、彼らを結ぶ絆は愛情であるということを、確かな確信をもって感じ取ることが私たちには出来る。でもそれは言葉ではないのだ。
言葉、というのはこの場合知的能力、に置き換えてもいいと思う。サムは知的能力のなさからルーシーと引き離される憂き目にあう。このセンテンスの“知的能力”を“言葉”に更に置き換え直すともっとハッキリする。自分をつくろうための言葉が出てこないサム。自分をつくろわないサム。言葉という、真実から、愛から、ただただ遠く離れていくばかりの道具でしかそれを判定できない裁判所、引いては世間というところ。そんな理不尽さに今更ながら私たちは気づくのだ。賢いという価値観が本作では頻繁に出てくる。ならば賢いというのは、どこで線引きするのか?それこそ、子育てが許されるほどの賢さはどこからなのか?その子供よりIQにおいて劣っている親など、いくらでもいるだろう。それだけではサムの養育能力を疑うことは出来ない。ならば彼が知的障害者だから?あるレベルでサムがそう認定されただけで、その線引きからほんの少しでもこちら側にいたなら、こんな事態にはならなかっただろう。結局、健常者が決めた、健常者が住みよい社会にするための線引きなのだということに、気づかなければならない。
あるいは、その線引きは人間関係に対しても考えるべきところがある。子育てが出来る出来ないという話が出てくるなら、その前段階として恋や結婚が出来る相手のレベル、みたいな価値観も出てくるはず。本作ではルーシーの母親はホームレスの女性で、彼女は赤ん坊を産んだ途端逃げてしまうし、サムとリタは心を通わすものの、恋や結婚の関係には至りそうもないし、そこを避けているような気もしないでもないのだが。ついこの間、「UNLOVED」でそうした価値観に絶望的な気分になったので、そのことに対しても、もう少し、希望的な、楽観的な気分にさせてもらいたかった。
サムを完璧に演じるさすがのショーン・ペン、実際に知的障害者たちの中からキャスティングされている友人たち、美しく颯爽としていて、しかしサムに対して心のほころびを見せるリタ役のミシェル・ファイファー、皆素敵だが、一番心に残ったのは、何十年も引きこもっている女性、アニー役のダイアン・ウィースト。彼女はそのふんわりやわらかなところがとても好きな女優さん。しかしその彼女が、どうやら過去に近親相姦によるトラウマを抱えている(明言はしなかったけど……多分そうだよね)などという厳しい役柄であることにビックリし、まるでその過去が彼女を老けさせたかのように、ちょっと見ない間に随分と老け込んだ風に見えたのにもビックリしたけれど……。とにかく、彼女はサムや友人たちのような種類の知的障害者ではないんだけれど、それどころかジュリアード音楽院を主席で卒業しているような才能の持ち主だったわけだけれど、そんな彼女でも引きこもりになってしまうと、世間の視線は一転して差別と、いいところ哀れみどまりのそれに満ち満ちている、ということを、相手弁護士の残酷なツッコミで痛感させられるのだ。ここでも世間的な線引きのいいかげんさ、都合のよさを感じずにいられない。
同じ知的障害者と家族の問題として思い出されるのが、「カーラの結婚宣言」。本作に感じたような弱点がないとは言えないながらも、「カーラ……」の方により好感や展望を思わせるのはなぜだろうか、と考えてしまった。本作ではサムによってリタが影響を受ける部分がありながらも、それはかなり微かで、あくまでサム自身の問題、サム自身の視点が大きかった。「カーラ……」の方は、主人公カップルが大きくクローズアップされながらも、実はその焦点はハッキリ、彼らによって変わってゆく母親の方にあった。物語の語り方としては、本作の方が正解だとは勿論思うのだけれども、残念ながらやはり健常者である作り手にとって、彼ら自身の本質、本当に感じている気持ちを芯から探り当てられたとは言いがたいのだ。そんな感慨は残酷にさえも思えてしまうのだけれど、どこかに高見の視点を感じてしまう。ドキュメンタリーに勝てないのはこのあたりか。
リタが提案したように、共同親権という形に落ち着いたのだろうかと思わせるラストは、これからの共生の社会に明るく前向きな希望を抱かせてくれた。★★★☆☆
むしろこの作品の主人公は障害とか車椅子ではなく、なんたってタイトルに使われているぐらいだから、合気柔術の方だと言っていいのかもしれない。将来有望なボクサーとして、前途洋々である青年、太一が突然見舞われる事故、脊髄損傷による下半身不随、車椅子の生活。彼はこの合気柔術と出会ってふてくされていた人生から立ち直る。この武術を説明する言葉には印象的なものがたくさんあって、まさにその字のごとく、気を合わせることによって、自分のバランスに相手を引きずり込んで崩す。相手の力を利用して倒すんだと。つまり相手を受け入れなければだめなんだということが、無論、この武術だけの話ではなくて、彼の生きる姿勢、そのものに深い影響を与えていくのだ。戦いのための武術じゃない、というのもハッとなる。わかりあうための武術だと。もう人間は戦ったり、誰かを殺したりする必要はないから。そうだ、そうなんだよね。相手を傷つける理由も必要もない世界があったらどんなにいいだろうと思う。いいだろうと思うだけではダメなんだと。それをこの武術は実践しているんだ。無論太一は格闘技として、自分を高めるものとしてボクシングをやっていたわけだけど、徹底的に相手を痛めつける、相手を拒絶するところから出発しているようなボクシングと明らかに違うのだ。太一はチェアウォーカーのスポーツで最も一般的なバスケットボールをやればいいじゃないかなどと言われ、自分は団体スポーツはダメだ、格闘技じゃなけりゃ、と言う。でもそう言っていた彼がこの合気柔術との出会いでもっとも成長した部分は、相手を受け入れなければ技はかからないこの武術によって、一人でも修行できる武術ではあるけれど、試合する相手も、そして仲間も、そして師匠も、皆がいる、それが大前提だということを理解したことなんじゃないかと思う。
そして自分の運命も。一生車椅子の生活だと知った時、彼は自暴自棄になって、病院で支給される睡眠薬をこっそりため込んで自殺を図ろうとする。それを止めるのが脊損(脊髄損傷の略)の先輩、常滑(火野正平)。彼はこの車椅子の人生を受け入れる覚悟がすっかり出来ていて、一般的なイメージでは哀れみの目を受ける側であるのに(イヤな言い方だけれど)、彼は自分の家族の方をこそ思いやって退院を拒否し、病院を転々としている不良患者なのだ。彼は言う。「たった2ヶ月で死のうなんて、10年早いんだよ」なーんか矛盾しているようなものの言いようだけど、達観した、少し哀しげだけれど、結構楽しんでいるようなその彼の言い方にはものすごく説得力がある。この台詞には、後々太一が出会うことになる合気柔術の極意と重なる部分があって、ことに恋人を探しに太一が旅に出るラスト、彼にお師匠さんである平石が、合気柔術は一生修行だと、言うのだ。人生も一生修行だな、と思うと、あの常滑の言っていたことがもっと実感を持って思い出される。
この常滑を演じる火野さんが実にバツグン。脊損の大ベテラン?である常滑さん、無論、下半身は全く効かないんだけど、その動きは慣れてるって感じでひょうひょうと思えるぐらい。加えて男性性器も「俺は全滅」と言う位なんだけど、後々太一と再会した時、怪しげな薬、「バイアグラの倍効くからバイバイアグラ」なるものを持ってきて、全滅だった俺も出来るようになった、と太一にも売ってくれるんである。このくだりは思わずバイバイアグラってナンだよー!と大笑いしたけれど、「半立ちぐらいはする。何となくじわーっと出る程度」の太一もめでたく勃起し、太一が「神様!」と天を仰いでお祈りポーズをとるのにも爆笑。しかし、これって、凄く切実な問題なんだろうな。思えば「ナショナル7」でもチェアウォーカーの性の問題がテーマだった。障害者だといきなり哀れまれたり、あるいは聖人に見られたりすることへの拒否反応。そういえば本作でも性の問題の他に、合気柔術に出会う前の荒れていた太一が、バーで呑んだくれてカップルの客にカラみ、「障害者がこんなところで呑むなって言いたいのかよ」と言うシーンが出てくる。つまり、太一はいわゆる障害者になっても太一という人間、その自分自身は何も変わっていない、いきなり障害者、という目で見られることに苦痛を感じているのだ。これは、健常者でもさまざまな場面で遭遇する、第三者から張られるレッテル、という点で共感できる部分。彼らとの間に、こちらが思うほどに境界線はないはずなのだ。常滑は「障害者になると、世界が狭くなる」と皮肉めいた言い方をしたけれど、それは健常者の側に留まっているこちら側にも勿論問題がある。人間としての本質は何も変わっていないはずの彼らに対して、なぜ態度を変える必要があるんだろうということ。
太一が探しに行く恋人というのは、彼がチェアウォーカーとなってから出会ったギャンブル好きの巫女さん。太一はチンピラにカラまれていたところを助けてくれたテキ屋の権水から露天商の仕事をもらうのだが、慣れない太一の店にはさっぱり客がこないところを助けてくれたのが彼女なのだ。予告編では割とフツーの女性に見えたんだけど、非合法カジノでのギャンブル生活で日本中を放浪して歩いているという彼女は、謎も多く、そして人生に対して実に頼もしく前向き。クサっている太一にあっけらかんと「私は人生は楽しい方が好き」と言い、「巫女さんって処女しかなれないんじゃないのか」などという太一に「しっつれいね、私処女よ」と言い放つ。演じるともさかりえが実にチャーミングで、「クロエ」といい、最近の映画のヒロインとして輝いている彼女には本当、嬉しくなってしまうのだ。
どうしても車椅子という立場に引け目を感じてて、彼女に対して積極的に出られない太一に「早く自分から動いてえ」と彼女。そうして二人は初めてのメイクラブ。さっきまではバイバイアグラの効力で勃っていたんだけど、いざという時萎えてしまって「何がバイバイアグラだよ」とガックリくる彼に、「そんなこと、どうでもいいの。指先から感じるよ」と情熱的な愛撫を繰り返す彼女にジーンときちゃう。そう、そうなんだよね。女の子は好きな人と触れあっているだけで、感じるものなのよ。男性は勃つことこそ、それにやたら重きを置くけど、だってそこだけがセックスじゃないから。全ての、愛し合う過程が大事なんだもん。この「指先から感じるよ」って、その点を凄くついてて、名言よ、実に!
このともさかりえ演じるサマ子もそうだし、太一に男気を感じて仕事を紹介してくれるテキ屋の権水やその仲間たちもそう、そして何より運命のお師匠さん、石橋凌演じる平石先生もそうなんだけど、こうして太一が出会うことになる仲間たちは、太一のことを、その外見も勿論目に入っているし、見ないふりなどしないんだけど、何ていうのかな……いきなりストレートに中に入ってくるんだよね。そこしか重要じゃないよ、というのを、全然意識せずにそう確信している、っていうのかなあ。権水のいきつけのスナックのマダムが、太一にバイト先として引き合わせてくれたビデオ屋の店長なんて、障害者だとかヤクザだとかそんなことを全く気にしない“変人”だと紹介されるんだけど、これが神戸浩で、もう彼が最高なのよ。これをやれるのはまさに彼しかいない。相変わらずあの独特のエロキューションで、エロビデオマニアで、やはりマニアックなエロビデオを求めてやってくる客(佐野史郎。似合いすぎ(笑))に狂喜して案内しまくるのには爆笑!彼は、そういういわゆるレッテルを全然、全く、本当に、眼中にないというのをまさしく体現していて、彼は天才役者じゃないかと思っちゃうぐらい、ホント、最高なの。いいなあ、こういうの、彼等みたいな、こんな人間になれたらどんなにいいだろうと思う。これもやっぱり、「相手を受け入れる」ことなんだよね。まず人を疑うことを教わるような今の世の中で、どうやってこれを体得すればいいんだろう、なんて……。
そうそう、運命を受け入れる太一が本当の意味でそれを体得したのは、彼が車椅子を、ハンディとしてのそれではなくて、彼の身体の一部分、いや身体そのものとして受け入れることが出来るようになった時。合気柔術を修行しても、再びカラまれたチンピラにひっくり返されてボコボコにされてしまった彼は、非常に無力感に襲われるのだけれど、車椅子のブレーキを外して自由自在に自分の身体として動かせるようになって、合気柔術の極意をつかむのだ。相手に勝ちたいとか、悔しいとかそんなんじゃないんです。と、いう境地にも達し、彼は大使館で行われる演武会で、他流派からの挑戦を受けることになる。見事技がかかり、屈強な相手を投げ飛ばした彼、涙をこらえながら「今、直立不動の気分です!」と平石先生に言うのだ。いい、いい台詞だなあ!涙ぐむ仲間や平石先生。こっちもすっかりジーンとしちゃったよ。直立不動の気分、凄くいい言葉だね!
武闘派の他流派をちょっと悪役にしちゃったのはアレだったけど、でもこの平石先生はまさにスーパーヒーローで、しかしサラリーマンだっていうのが、いいんだよね。彼の口癖は「私はサラリーマンですから」で、恋人を探しに旅に出る太一に「いいですねえ。私の夢ですよ。でも私は、サラリーマンですから」とやはりここでも口にするのだ。彼にとっての“障害”がきっとサラリーマンだということなんだろうけれど、私たちだってそうだけど、そのことを別に人生の足かせだとか思っているわけじゃ、ないんだよね。このサラリーマンだから、という連呼は、太一にとっての車椅子がそれと同じ程度の“障害”でしかない、というより、自分を説明する言葉に過ぎない。それでもサラリーマンである自分より、恋人を探しにいくなんていうぐらい、自由に羽ばたけるじゃないかと、そういうことなんじゃないかと、思うのね。この平石先生を演じる石橋凌は、スーツを着ているサラリーマン姿はまさしくサラリーマンそのもの、普通のオジサンで、あのカッコイイ石橋さんじゃなくて、かなりビックリするんだけど、この温和な武術家、というのが、逆に凄く、そうやっぱりカッコイイんだよなあ。彼がね、自分がここまで修行できたのは、稽古のあとのビールが楽しみだったからですよ、と言うんだよね。そして太一も稽古の後はこの先生や仲間と共にその輪に加わっている。あのバーで呑んだくれていた太一が、と思うとなんだかこっちまで嬉しくなってきて。まさに合気柔術はわかり合う武術、なんだよなあ。
日本って確かに便利な国にはなったのかもしれないけど、住みやすい国とは決して言えない、ということがあらためて判る。ほっんと、くだらない話で申し訳ないんだけど……キャリーカート引きずってビール(じゃなかった、発泡酒(笑))を箱で買いに行くと、車輪が歩道の傾斜に取られちゃって、あやうく車道に出そうになっちゃうのだ。ほっんとに、くだらない例で、申し訳ない(笑)。最初、車椅子の練習をする太一が、やはり傾斜に車輪を持ってかれちゃうシーンがあって、思い出した。歩道の傾斜は、車が車庫なんかから車道に出て行くために作られている傾斜が多くて、つまり、日本は徹底的に車に都合のいいような社会になっちゃっているのだ。人間ではなく。この問題は以前テレビで検証しているのを見たことがあって、本当に車椅子の人には危ないんだよね。あの番組を見たのはもう随分と前なのに、何か特に問題にされることなく、日本の歩道はいまだに変わらない。
私は家族だから逃げられないから……と言って、太一のために結婚を延期したお姉ちゃん。でもそれが太一にはたまらなかった。こういうことも、なかなか気づきにくい。お姉ちゃんは決して悪気があったわけじゃない。姉として弟の太一を心配していたに違いないんだけど、太一が心を開くことが出来た人たちとこのお姉ちゃんの違いは、やはり哀れみの目、障害者だという目があるかないか、ということなのだ……それが家族からの視線だということが、どんなに辛いか、想像を絶する。一番理解してほしい家族が……。でも太一が目覚めたことで、お姉ちゃんもこの弟によって気づかされた。誰かが誰かのために犠牲になる、それは犠牲になる人よりも、そうさせてしまった人間の方が辛いんだということ。ただ、一人の人間として相対してほしい、すればいいんだ、ということ。これは加害者(の家族)と被害者(の家族)とか、他の色んなケースにも当てはまる問題で、人間としての生き方を、そんな単純ではないことに、改めて気づかされる。
意外にこうした普通の青年のカルさを体現できる役者というのは、なかなかいない。そしてカルそうに見えながらその内面は若さゆえの真摯な悩みを抱えている、というのも。カルさを持ちつつ、リアルであること。この映画の加藤晴彦は、本当のチェアウォーカーの人から見ても、もしかしたら本当のチェアウォーカーの人たちよりも車椅子を習熟しているんだという。彼が意外にも(失礼)映画作家たちに好んで起用されるのがなぜなのか、判ったような気がする。まさに彼には合気も車椅子も自分のものにする“気合”があった気がする。★★★★☆
そして邦子。「私は、旦那も子供もいないし、少しくらいいい物持っててもバチ当たんないでしょ?」という台詞には、言われた雅子じゃなくても本当に殴りたくなっちまったが(つっても私にも旦那も子供もいないけどさ)、これが彼女の本質的な部分なんだろうなと思うと、ますます腹が立ってくる。それってまるで独身女がみんな孤独に耐え切れなくて、こんな風に消費とか何かバカなことに走っちゃって身を滅ぼすみたいじゃない?だなんて、私もそうとう偏っているけど、だってさー、実際独身の女に対する風当たりや偏見って、多いんだもん。寂しいでしょ、結婚しないの?、みたいなさ。一人って楽しいよーとか言っても、そういう一般的イメージの中ではまるでそれが空しく響いちゃうみたいなのが、私には耐えられないのよ。だからこういうイメージの独身女を描かれちゃうと、いくら映画の中のキャラだといっても、もう許せないって思っちゃうわけ。あー、あー、ヤダなあ、私ってば思いっきり独身女のヒステリーじゃん。
その邦子を演じる室井さんは、彼女このキャラを鼻にかかった甘えた声で演じてて、うう、判ってらっしゃる、このキャラがイライラする許せない女だってこと、判ってらっしゃる、と思わずワナにはめられたような悔しさを覚えてしまう。それで言ったら甘えたわがまま女の弥生を演じる西田尚美も、やっぱりその点、上手いんだよね。だからこそこの四人の中の主人公である雅子の原田美枝子や、ヨシエ師匠の倍賞美津子のカッコよさが際立つんだもん。
でもこの四人とも、夫をはじめとする家族の存在(あるいは存在しないこと)が歯車の狂っていく原因だっていうのが、ああ、やっぱり女ってそうなのかな、なんて思っちゃう。ある意味、男が狂っていくならば、第一の原因はこうじゃないよね、なんて。男は仕事で狂っていくのが一番だって気がする。それこそ雅子の夫はリストラされて、もうすっかりフヌケみたいになっちゃって、子供がまったく口きかなくなったのだって、決して雅子が口うるさいばかりじゃなくて、この覇気のない夫にも責任があったはずじゃない?あるいは仕事のし過ぎで過労死や過労自殺をとげたりってこと、世間的によく聞くし。男にとって一番は家族(人間、あるいは相手、かな)じゃないんだなって思ったりするのね。そして家族が残されることに、ものすごく男に対して理不尽なものを感じるわけ。でもその一方で、まず家族があって、それに個人であるはずの女が個人じゃなくなっちゃって、家族の歯車の一つになって人生が翻弄されてしまう、という女に対しても理不尽を感じるのだ。あんた、家族がいなくちゃ生きていけないわけじゃないでしょ、と思うのに、女の出発点はまず家族(相手、結婚してなければ恋人とか)で、彼女達の存在理由もまずそこにあって、っていうのが……。だから、一番哀しいのは男が、とか女が、とかではなくて、彼らの価値観がこんな風にまったくすれ違っていることなのだ。大切にしているものが、出発点が、同じじゃない。
で、まあ、原作があるものなので、こんな風にキャラやなんかにイライラしてても始まらないので先に進めますと……弥生が夫をうっかり殺してしまい(妊婦なのに腹蹴られたりガキはいらねえからな、なんて言われたりしてあれだけ暴力ふるわれたら、うっかりどころかしっかり殺してやったって全然おかしくないと思うけどね)彼女はこの子供を産んで育てるために、絶対に刑務所に入るわけにはいかない、と同じ母親であることを訴えて、深夜の弁当工場のパート仲間である雅子に助けを求める。つまりこの死体を処理して、夫は蒸発してしまった、ということにしようと。常識人でシッカリモノの雅子がこんな荒唐無稽な話につい巻き込まれたのは、お腹に手を当てさせられて「動いているの、判るでしょ」と涙目で弥生に迫られたからで……そう、もはやここで、まるっきりキャラが違うはずの弥生と雅子が、女の出発点が家族というものに縛られていることを、しっかりと露呈しているのだ。もし女がそんなことを気にしないでいられるなら、死んでせいせいした、と思っているぐらいの夫ととの子供に未練なんてない、と思ったのかもしれない。女は子供を捨てられない。「命」でもそんな台詞が出てきた。そうなんだ、男は子供(や妻)を捨てられても女は子供を捨てられないのだ。やっぱり子宮で考えてるのかなあ、なんて皮肉っぽくも半ば本気で思ってしまう。
でも、この「子供を捨てられない」というのを突破しなければ女の自立はないのだと言わんばかりのラストが待っているのも、またなかなか皮肉なのだけれど。あ、いや弥生はちゃんと子供と共に生きていく希望を暗示するラストが用意されているんだけど、雅子がね……。いや、まあそれは置いといて、話を戻しますと、シッカリモノの雅子より、より頼れる師匠と呼ばれるヨシエを引き込んで、雅子主導のもと、死体のバラバラ解体が決行されることとなる。昼間は夫も子供もいない、その時間を利用して、水着にゴミ袋の防御服姿で、さながら牛を解体でもするように風呂場に横たえられた死体を処理していく。最初の一刀こそ大騒ぎで、とてもとても出来ない、と思われたのが、「テレビの裏ワザで見た」という、苦手なことをする時は大声を出してやれば出来る、というワザを使って、見事首をバサリとやったあとは、実に手際よく作業が進められる(しかし人間の骨を切るのに、あんな普通の包丁ではそう簡単に切れないと思うんだけどなあ)。その途中で雅子にカネを借りに来た邦子が加わったのが話をややこしくさせる。
この邦子の甘えた喋り方にはホント、参ったが彼女が物語を引っ掻き回すんだから、まあ仕方ない。小分けにされた死体をそれぞれがゴミとして捨てることを受け持つのだが、邦子が墓場のゴミ捨て場に捨てたことで、カラスにやられ、事件が発覚しちゃうのだ。んでまあ、この死体の張本人?である弥生の夫が暴力団が催しているバカラに出入りしていたことで、前科のあったヤクザに容疑がかかってしまうわけ。邦子がカネを借りている小さな街金の男、十文字(香川照之)が事件に首を突っ込み、イケてる金融系主婦、雅子と出会って彼女に仕事を依頼することとなる。それはズバリ、死体解体。寝たきりの義母を抱えて金に困っている師匠も再び参加し、またしても途中から邦子も加わって、どこか楽しげに作業する彼女たち。
十文字が雅子にホレちゃって、絶体絶命でもうみんな散り散りに逃げなきゃいけないって段になって、彼女にプロポーズするじゃない。あれ、ぐっと来たなあ。だって、だってさ、男って、特に年をとってくると顕著に、若い女の方が好きじゃない。ここでは絶対に10は離れている雅子にホレる十文字、っていうのが、しかも説得力があって、何かもの凄く嬉しいのよね。いや、別に若い男が好きだってんじゃないんだけど(笑)。でも確かにこの原田美枝子はひたすらカッコよく、そして美しく、そりゃあ、ホレるのも無理ないっていうイケてる主婦なわけだけど、でもここは香川照之だからこそ、だよね、やっぱり。彼なら無理ないもん、原田美枝子とでも。全然、無理なく、似合ってる。彼に最初にイケてますねえ、と言われる雅子が、その時は意に介さずにその場を辞した後、「私って、イケてる?」と邦子に聞いたその顔が、かすかに嬉しそうに輝いていた、このかすかにってところが上手いのよ。原田美枝子ってばもう、カッコいいんだから!主婦にはならないと思うけど、こんなカッコいい女になれたら、どんなにいいかしらん(ムリムリ)。
カッコいいといえば、師匠役の倍賞美津子もひたすらカッコよかった。彼女は夫に先立たれて義母の介護をたった一人でやっていて、しかもその住んでいるところは、取り壊しをするので立ち退きを迫られているボロアパート。寝たきりで自由がきかないから、どうしても介護者に向かってワガママになってしまう義母に「顔に濡れ布巾かけますよ」なんてコワいことを言いつつ、テキパキ世話してて、そう、会話だけ聞けば鬼嫁かワガママ姑か、って感じなんだけど、運命共同体であるこの二人の女が、そう女同士という部分がやっぱり根底にあって、なんとも説明のしがたい親愛でつながれてるっていうのを、感じさせるのだ。義母を演じる千石規子、凄かった。本当に小憎らしい寝たきり老人、という感じで、演じているなんて思えなくて、ほんとのほんとに寝たきりのワガママおばあちゃん、という感じなんだもの。この“家族”は血のつながらない家族であって、この四人の女たちの中では、もしかしたら彼女だけが頭ひとつ抜けていたのかもしれない。いや、夫の母、ということを考えれば、逆に最も縛られていたのかもしれない。ああ、そう考えちゃえば、女が自立するためには、いつでも心の支えである家族を捨てて、やはり孤独に耐える覚悟がなきゃいけないのかもしれないなあ。
この義母が佐竹(容疑をかけられたヤクザ。間寛平)に殺されて、師匠はハズみで佐竹を殺しちゃって、このボロアパートに火をつけたあと、彼女はいつものオバサンスタイルとは打って変わって一張羅と思しき洋服でドレスアップして、胸には真珠のネックレスを輝かせ雅子の前に現われる。自首してくると。彼女たちは一緒に遠くに逃げる約束をしてて、それが出来なくなったことを告げにきたのだ。いつでも師匠を頼りに思っていた雅子は、彼女の肩に顔をうずめて「寂しいよ……」とつぶやく。このシーン、凄く良かった。このシーン以外でも雅子と師匠の場面はお互いを尊敬しあっている親友という感じで、それも大人の女同士で見ててとにかくカッコよくってドキドキしたけど、この二人、ここで、一生の別れなんだよね、絶対、そうなんだ、そう……師匠の夢だったオーロラを見に行く旅を雅子は引継ぎ、家族に別れを告げ(子供に貯金通帳を残していった……パートのお金、つぎ込んでいるのかなあ、そんなこと、することないのに)北へ、北へと車を走らせる。途中、弥生を出産のため小さな診療所で降ろし、トラックをヒッチハイクして、そのトラックの女運転手に、アラスカに行きたいんだ、と雅子と邦子が告げると、なまらでっかい夢でないかい、とその女運転手はガッハッハと大笑い。そして空にはオーロラが……で、エンド。このCGはちょおっとわざとらしかったなあ。
結構痛快だったし、面白かったとは思うんだけど、うーん、やっぱりスッキリ飲み込めない気分は続いてしまう。こんなにも徹底的に子供と会話がなくなったり、夫に暴力ふるわれたりする可能性があるのなら、やっぱり結婚なんてするもんじゃないとか思っちゃうし、こういう女たちを賛辞してるのとか思っちゃうし……。でも、今までの映画の中での女の造形って、つつましいために惨めになっちゃうか、バリバリキャリアウーマンでカッコよすぎるか、だったのかもしれないという気もしないでもない。現実の普通の女たちは、面白いとはとても思えない、工場での流れ作業のパートやってて、あこがれだった暮らしや結婚生活を送っていられるわけでもなく、夢といえばささやかで、それも持っていられるだけ幸せで……、誰にでもこんなになってしまった責任はあるけれど、誰かのせいだけではなくて。たとえ結婚しなくても、誰ともつながらない人生なんてあり得ない。生きていくための責任はいつでも想像以上に重いんだ。★★★☆☆
思い出を想起させるものはまだまだある。先輩後輩が一人ずつしか出てこない野球部。どう見ても甲子園を目指そうなんていう校風じゃないのに、「甲子園目指してたのか」とちょっとからかい気味に聞かれると「当たり前だろ」と照れもせずに答える。そして夢破れた先輩部員は、まるで当たり前のように、しかしやはり苦い覚悟を持ってヤクザの世界へと身を投じてしまう。それしか行き先がないと、はっきりとした確信を持ってしまうなんて。そして、落書きだらけのすさんだ部室でフォスターの「夢路より」を奏でるたった二人のフォークソング部。繰り返し、繰り返し、Aメロだけを何度も弾いて、それ以上に行くことができない。夢路は行き止まり。切り開こうにも、どっちの方向に切り開いていいのかわからない。成り行きさえも、見えない。
「しあわせなら手をたたこう」と大書された屋上で、柵の外に立ち手を叩く回数で番長を決める“ベランダゲーム”で新記録を出してしまった九條は、しかし番長に対して何の興味もない。幼い頃からの友達である青木は、そんな九條を歯がゆがって後輩をシメたりするのに何くれと手助けをするのだが、九條は最初の一撃以外にはシメ続ける興味がわかない。青木よりも退屈な授業の方をとった九條に彼はついに激怒してしまう。髪を剃り込み、眉をそり、目を見張る変貌を遂げて九條のかわりに学校を仕切ろうとする。そんな青木に九條は言い放つ。「お前には無理だよ」
ああ、確かに青木には無理だったのだ。一見、クラくてオタクだと見られていた九條に孤独への嗜好性とそれゆえの強さがあったのに対して、青木は九條が大好きで、彼から離れたくなくて、でもそう思っていることにさえ気づかなくて、こんな変貌を遂げたに違いないのだから。未来への切符が持てるということは、孤独を自ら望むということなのだ。「学校大好き」な九條はそれをからかわれるものの、このすさんだ学校はひょっとしたら社会の縮図どころか、それよりももっと厳しい場所だ。友達がいるはずなのに、彼らは孤独の恐怖に負けてさっさと思い出を作り、ここから去ってしまう。思い出を嫌い、その孤独を愛することができる九條だけが残される。皆が勝手に置いていってしまった思い出を十字架のように背負わされて。
至るところにペイントされている落書きは、ひたすら黒。そしてクライマックスは一瞬、真っ黒に染められた校舎。青木のたった一人の死への「ベランダゲーム」を目にし、九條は一心に青木の元に駆けていく。息を切らし、つまづき転倒しながら、全速力で階段を駆け上っていく。……これが青木の目に入っていたら、彼はもしかしたら死ぬことを思いとどまったかもしれない。クールな九條が、こんな純粋な友情の形を示すとは思わなくて、ふと目の奥あたりに不思議に熱いものを感じる。しかし九條が屋上に到着した時、青木の手は柵をかすることもなく宙に弧を描き、地面に鮮血とともに叩きつけられる。床にはまるで遺書のような、これまた黒い影のペイント。立ち尽くす九條の影に沿うように長く絶望的にのびている。九條はそれに一瞬視線を投げかける。何を言うともなく、その場を静かに辞していく。絶望的な、未来へ孤独を抱えて。
いかにも男の子グッズであるホームランバーを買いに走らされる男子は、門のところに他の学校の女の子を待たせている。その女の子に窓から鈴なりになって手を振り続ける男子学生たち。そうした、青春の描写として何の不思議もない場面を織り交ぜながらも、グラウンドをジョギングするたった一人の野球部員、いつまでも満開の桜はなんだか白々しく、その下で毛虫を集めては土に埋めている奴がいて、それはいかにも未来の否定を暗示し、そして空はいつも退屈に晴れ渡っている。どこかに微妙に歪みが始まっている。いつまでも満開の桜……そのせいか、すべてがたった1日の出来事のよう。彼らが家に帰る気配がまるでない。しかし青木と対立した九條がまるで当然のごとく、と思うのも奇妙なのだがそう感じられるほどあっさりと、他の生徒達とともに帰宅の途につく。その日、青木は屋上からそんな九條を見つめている。その姿勢のまま、時間が早回りする。どんどん暗くなって、遠くの道路にはきらきらライトを点滅させた車がびゅんびゅん通り過ぎて、そしてそれも途絶え、ついにはだんだん明るくなって朝を迎えてしまう。永遠の一日を勝手に終わらせてしまった九條に対する恨みをぶつけるかのような青木のダイビングは、男の子らしいヤキモチの形だったのかもしれない。
ハグレモノの彼らと対等に付き合える先生がいる。小人症の花田先生。最初登場した時は、彼らに小突かれ、シメられるのかと思ってドキッとしたが、彼自身アウトローの雰囲気を持つ花田先生は、先生達の中で唯一彼らを真の意味で理解できる人物なのだろう。生徒たちは花を大切に育てている花田先生を別に揶揄することもなく、それどころかこの先生に促されて、自分たちの花を育てることさえする。途中、そのうちの一人の幸男が、いい気になって自分をバカにする友達に対して激情に駆られ、刺し殺してしまう。落書きだらけのトイレの戸にギシギシと差し込まれる包丁が恐ろしい。その幸男が連行される時、花田先生が「幸男、幸男ー!」と叫んでパトカーを追っていく。胸が熱くなる。幸男のしたことはバカな、愚かなことだけれど、こんな風に心の底から心配してくれる先生を持てた彼をなんだかうらやましいと思う。花田先生は九條と二人でサッカーに興じたりもする。なかなか上手くて、キーパーの九條の手をかすめて見事なゴールを決めたりする。一人残って花に水をやる九條に花田先生は言う。「咲かない花はありませんよ。花は咲くものです」
そう、花は咲くもの。幸男も青木も彼らなりに花は咲かせた。でもそれはあまりに性急過ぎた。咲いたと思ったとたんに、あっという間に散ってしまった。花はゆっくりと、ゆっくりと咲かさなければならない。たとえ誰も見てくれる人がいなくても、見てほしい好きな人に見てもらえなくても、たった一人になっても。大切に大切に水をやって、厳しい風雨にも耐えて。俺の花は咲かないよ、と言っていた九條の花は、皆より一番遅くなって、蕾をつけ、ゆっくりと花を開かせた。生きていくのは、孤独への道を進むことだ。最後には絶対に、一人になってしまう。辛いのに、それでもなぜか人(九條)は生きたいと思う。……なぜだろう。
いまどき珍しい黒い学ランに身を包んだ彼ら。日本の学生独特の学ランはどこか武装した軍服を思わせるところがある。カラーも外しているし、多少スリムで短ランではあるけれど、彼らはそれほど着崩していない。ストイックにまさしく武装して、見えない敵を見える相手に置き換えて、殴り飛ばし、蹴り飛ばして闘っている。見える相手に置き換えているうちは、それは空しい闘い。その暴力もまだまだ無邪気なだけ。それがたった一人判っていたのが九條だった、ということなのかもしれない。彼を助け(るつもりで)下級生をシメている青木を、壁に寄りかかってぼんやり見やっている九條(何と画になるのだろう!)に、そんな諦念にも似たオトナの風景が見える。
松田優作よりも、息子である松田龍平の方をこそリアルタイムで見られることを本当に嬉しく思う。演技らしい演技をせずに、その存在で自らをスクリーンに刻み付ける彼は、役者ではなくまさにスター。そうした存在感は、かつての高倉健や小林旭などの銀幕のスターにあったもので、ここのところとんとお目にかかることが少なくなったまさしくカリスマ性。彼の出るシーンはいちいち画になり、青木に向き合ってくわえたままのタバコで火を分けてやるシーンなどビリビリしびれまくったが、上手くてビックリのサッカーシーンなど健康的なものもイケる。何にせよ、松田龍平である、その前提だけで充分なのだ。“演技らしい演技”を必死にしまくる(もちろん、いい意味で)同世代の役者たちの間で、青い炎のようなオーラを放つ。鮮烈だった「御法度」の後、彼のそうした魅力を判ってらっしゃらない使い方をいくつかされて心配していたが、豊田監督に行き着いて本当に良かった。
豊田監督。暴力的だったりドライだったりするその外見的な見え方のエッジの冴えは素晴らしく、危うくそれにばかり気を取られてしまいそうになるけれど、その中に一級の切なさを備えるからこそ、頭ひとつ抜け出る作品を作る人。本作で、九條が青木の髪を切る場面の、友達同士ならではのとぼけた雰囲気が、後の哀しい展開を重ねるにつけ、切なく思えてたまらない。とぼけた松田龍平も新鮮であり、意外な少年らしさを見せる。このシーンも含め、前半戦はとにかくイイ奴の青木を演じる新井浩文は、松田龍平と対照的なありかたの役者として、松田の存在感にタイを張る熱演。ことに後半の変貌に思わず息を飲む。「GO」の前の役者デビューだったというのだから、豊田監督の役者の目のつけどころもまた凄い。
生き急ぐかのような音楽がガンガン流れる中を、武装した彼らがゆらめいていく。屋上からゆっくりと階段を降りていく彼らに重なるミッシェル・ガン・エレファント、その冒頭からまずしびれまくった。上映時間も昨今の映画には珍しく短めで、時間ばかりを稼いで、気持ちが散漫になりがちの冗長な映画が横行する中で、しかしその中身はあまりにも濃密で、余計に生き急ぐ感を強くする。辛い気持ちも濃厚になっていく。覚悟を決めて観なければ負けてしまう、闘いの映画。★★★★☆
私は推理力はまるでないので、オチが読めたわけでは決してない。ただ、突然訪ねてくる三人の使用人たち、あるいは霧のかなたから突然帰ってくるヒロインの夫がこの世のものではないということは、いくらなんでも判る。この使用人の彼らがいずれはこの家族三人に知らせようとしている“秘密”をもったいぶりながらちらつかせるのが、何だかワザとらしくて、うっとうしく感じてきてしまう。さっさと知らせれば、みたいな。結局この家族三人は自分たちが死んでいることに気づいていない、この三人と同属の幽霊だったわけで、このオチ自体に新鮮味は決してないんだよね。かなり良く聞く話。確かに、幽霊にコワイコワイ、と言っていて突然、幽霊はお前の方だよ、と言われるのって、すごく怖いシチュエイションではあるんだけど。これまたネタバレを執拗に阻止し、やたらと大ヒットしちゃった「シックス・センス」も結局同ネタなんだよね。と考えると、やはり意外でも新鮮でもないんだよなあ。そうすると、それまでの過程をどう面白く、怖く見せるかという部分に焦点が当たるわけで。
というわけで。監督はとにかく見せないことに腐心し、その部分に作品の、そして監督の個性を見出そうとする。とかく見せたがりのハリウッドに対するアンチテーゼとして。これはとてもよく判る。見せすぎのハリウッド性ホラー映画は確かにどんどん品性を失ってきている。ただ、この“見せない”ことで恐怖をかきたてるというのは、かなり難しいと思う。それこそ腕が必要なのだ。上品さを出すことには成功しているんだけどね……。子供たちが光アレルギーのために、屋敷中厚いカーテンが垂れ込め、光を入らせないために部屋から部屋に移るときには必ずカギをかけ、しかも外に出ると深い霧に覆われている……。この設定は確かに個性的な映画的魅力にあふれていて、興味をそそられる。だけど、これだけですっかり満足しちゃっている気がするのだ。
画としては確かに魅力的だが、監督が何も見せる気がないことが次第に判ってきちゃうと、一生懸命怖がろうと努力しているのも無駄なんじゃないかって気がしてきちゃう。誰もいないはずなのに、物音がする、ドアを開けても誰もいないという繰り返しに慣れちゃって、そう音がするだけで、開けても誰もいないんでしょ、という感じ。……ひねくれてる?でも画面の中からせめて“気配”を感じさせてくれないと、やはりツラいものがある。それを喚起させるのがチラリズムの手法であり、なにもそこまでつっぱってただただ見せないことだけに固執する必要はないと思う。いわば、このチラリズムに長けていたのが「リング」で、大仰に見せたわけじゃないけど、チラリチラリと怖さを見せることで、あの映画の恐怖は成功していたんだし。観客の想像力を信頼してくれるのはありがたいけど、想像力が膨らむのには、ある程度のヒントとヒントの間に生じる絶妙な隙間が必要なんであり、そういうのがどうも感じられない。
監督は音楽も手がけている才人だけど、その音楽も、ありそうな音楽、こういう音楽を創りそうな誰かを彷彿とさせちゃう、“良く出来た”ホラー映画の音楽、という印象。「オープン・ユア・アイズ」でうーん、それほど……と思い、「パズル」であ、結構やるじゃん、と思い直した、んだけど、結局「パズル」は製作仲間は同じだったけど、監督は別の人(マテオ・ヒル)だったわけで(アメナーバル監督は音楽のみ)デビュー作、「テシス 次は私が殺される」は未見なんだけど、やっぱりそれほど入れ込む気になれないんだよなあ……。
ただ、私はニコール・キッドマン大好きなもんで。インタビューとか読んでも、彼女が取材陣たちをメロメロにする、感じのよい、本当に可愛くて素敵な女性だということが判るし。別れたダンナがどうもナルシス系スターに傾きかけている(ケビン・コスナーにならんように注意)ことを思うと、ますます彼女を応援したくなっちゃうんである。実際、本作でも彼女は相変わらずイイ。時代設定が太平洋戦争終結の頃、そしてどうやら敬虔なカトリック教徒らしい、そしてオチを考えると彼女が自分の犯した罪(子殺しと、自分殺し)の罪悪感に、無意識下でさいなまれている、その制圧された感じが、これ以上なく出ている。カッチリとした服装、その足元のガチッとした茶系の靴に至るまで、侵しがたい雰囲気を醸し出すファッションが実に良く似合う。なんか、そう、グレース・ケリーみたい!
冷たい肌、冷たいブロンド、冷たいブルー・アイズ。霧の立ち込める冴え冴えとした空気、バカでかい屋敷の中にピリピリした緊張感ですっと立っている彼女。その大柄がスクリーンに良く映える。ほおんとに、美しい人。アップになっても、引いても。結構カラダも見せちゃう彼女だけど、本作では、ま、その辺はせいぜいスリップ姿程度なんだけど、そのすそがめくれた時にチラリと見えるガーターベルトや、上品におおわれた良さげな大きさの、形のいいバストなどにかなりドキドキ。この辺の“チラリズム”は妙に上手いのになあ?
物語のカギを握る子供二人。お姉ちゃんの方はより現実との接点に近くて、最初から色んなものが見えている。女の子特有の、妙に落ち着いたおませな小憎らしさが、見えざるものの恐怖よりよっぽどコワい。やたらとおびえる男の子の方は、眉毛が薄くて、顔がコワい(笑)。あ、だからビジュアル的にこの子供たちってなあんかコワいんだよね。ヘンな圧迫感というか、もう風貌が呪われてるっていうか(笑)。うーん、そこまで計算してるのかなあ、判んないけど。そういやあ、「シックス・センス」でもそうだったし、子供って、前の世界に時間的に近い分、いろんな世俗的固定観念にとらわれている大人より、そういうものが素直に見えちゃうんだなあ、っていうのは確かにある。そういう怖さはよく出てた。この“世俗的固定観念にとらわれている大人”(つまり、ニコール扮する母親がね)ってのが、まさしく文字どおりな描き方だったのは、ヤボったかったけど。女の子がアンっていうのはまあ普通だけど、男の子のニコラスっていう名前は、何か宗教的、カトリック的な感じがする。
ラストは、地縛霊とはこのように作られる、みたいなマニュアルを見せられちゃってるみたい。いきなり台詞でタラタラと説明的になるのには、ガクッとさせられるものが……。この使用人三人は結核で死に、この家族三人は錯乱した母親が子供を殺し、彼女も自殺してしまったということだから、死後の世界に同じ生活が待っていても、まあ救われるんだろうけど、例えばこの世で生きていくのがどうしてもツラくて自殺した人だったりしたら、かなりたまんないよね。でもそういうのも何かの話で聞いたなあ。やっぱりおんなじ。死後にも同じ生活が待っている、というところが。だから、死んだって仕方がない、っていう、あれはどこかブラック・ユーモア系の話だった。星新一あたりだったかなあ?何にせよ、だからそういう部分でも割と王道というか……うん、やっぱり新鮮味はない。
時代の雰囲気を伝える調度品の数々が、その命の灯であるランプや暖炉や……がいちいち素敵。不気味な死者の写真集でさえも。ことに、(一応)恐怖のアイテムになる、アンティークな小ぶりのグランドピアノが……!いいなあ、ああいうの、すっごく欲しい!★★★☆☆
何よりも思ったのは、どんな状態にいても、子供ってやっぱり強いな、ということ。子供はショックを受けても、それと通常の生活とは別個にして考えることが出来るのだ。仮設テントの生活はいつもと違う面白さがあるし、何より友達たちと過ごす毎日は、いつもと同じように楽しい。でも、そんな彼らの中にもいつしか亀裂が生じてくる。大の仲良しでいつも一緒にいる女の子二人、ティーナとヴァーレは、ティーナがお金持ちの家の娘で、ヴァーレがいわゆる一般家庭の娘、なのだが、大地震が起きる前は、そんなこと考えなくても良かった。二人で秘密の手帳を作って、二人で秘密の場所を作って、どこまでも探検して。それで良かったのだ。大地震が起こった後も、二人は前と変わらず仲良くしてた。ティーナはヴァーレの家族のいる仮設テントに入り込んで。でもヴァーレの母親は、ウチみたいな貧乏な家族が、あんなお金持ちの娘を養う義務はない、と彼女を追い出そうとする。大地震になって、皆が平等に失ったように見えても、そこにはやはり大人の目から見た厳然たるレベルの境が存在する。それでも二人はくじけない。彼女たちの友情はいつまでも続くかに見えたのだが……。
この二人の、ローティーンの女の子がつむぐ友情物語のくすぐったさが、確かにこんな頃があった、と思わせてテレくさくなる。お互いに上衣をめくりあって、まだ全くふくらみのない華奢なベニヤ板のような裸の上半身をピンクのポラロイドで撮り合ったり、キスってどんなものか知ってる?知ってるよ、口の中で舌をまるめるの、と、お互いに歯を磨いて実験のキスをし「少しキモチワルイ、でも、少しイイ」とでんぐり返ってじゃれあってはしゃぎ合う、この年頃の女の子のくすぐったさ。でもこの二つのシーンとも既に、彼女たちの間に異性への関心が芽生えているのが見え隠れしている。そしてその意識の方向に置いて、二人のベクトルに微妙な違いが生じているのも……。この行為によって、よりティーナに対する友情を同性愛的なものに高めているヴァーレと、この行為の先に、好きな男の子の影を見ているティーナ。今までは同じことを考えて、同じことに楽しいと感じていたはずの二人が、一人一人違う人間なのだということを知るには、避けられない別れが待っているのだ。
その好きな男の子、というのが、クールなアゴスティーノ。彼自身、ティーナの方を気に入っている。どちらかといえば、だなんて言い方をして、ティーナのことをサラダ菜、と呼ぶ彼の、この年頃の男の子のちょっとつっぱった感じが、ああ、確かにあの頃、こういう男の子にドキドキしたかもしれない、なんて思い出す。アゴスティーノは、しかし家族の中の問題に心を痛めていた。彼の父親は副町長。倒れてしまった町長に代わって、副町長がこの混乱した町を指揮しているのだが、もともと町長と対立していた彼は、町長派に対して仮設テントへの優先順位を遅らせたりして、地元民から必ずしも受け入れられているとは言えない。こんなところ、こんな状況でも政治的な派閥争いが生じ、それが一般庶民に影響を与える、ということに呆然とする。確かにこの副町長も身を粉にして頑張っているのは判るのだけど、政治家と一般民との常識的距離が、ここであぶりだされることになるのだ。
こんな状況なので、被災者の入れる住宅が足りない。副町長家族はトレーラーを持っていて、そこに年老いた母親とその息子である青年、この母子を同居させることにする。アゴスティーノは小さいながらナカナカ理解のある子供なのだが、彼の兄のフィリッポは16歳、最も多感な年頃、ということもあるのだろうが、自分たちの住処に入ってくるこの二人に露骨な拒否反応を示し、この同居するモッチャ夫人が病気のせいで痴呆気味なのをいいことに彼女からカネを盗んだりするのだ。皆に迷惑がかかる、と身を縮こまらせているこの青年、ジョヴァンニに軽蔑の目を向けるし、この母子をかばおうとする弟のアゴスティーノには暴力で口止めするし、全くなんてヤツだ、と思わずにはいられないんだけど、まさしく大人と子供の境界線上にいる彼は、子供の無邪気さばかりでも、大人の見得ばかりでも押さえ切れない、彼自身にも持て余している不安や苛立ちがあるのだ。でも、それがいい方向に向くきっかけがあれば。彼自身が本質的に悪い子ではない、というのが示されることになる。
というくだりには、もう本当に胸がポッとあったかくなってしまった!このモッチャ夫人は、自分がフィリッポにイジワルされているのに気づいていなくて、逆に彼が自分の夫であると信じ込んでしまって、つまりひたすらなつくんである。彼女に自分への邪心が全くないのに面食らうような形で、フィリッポはそれを突っぱねることが出来ず、彼女をオートバイの後ろに乗せて家まで送ってあげたりする。はだしのままさまよい出た彼女に、ワルの仲間がひやかすのも気にせず自分の靴を履かせて肩を抱き、「僕はあなたの夫じゃ、ないんです。僕は16歳です。あなたが父親だと思っているのは、実はあなたの息子なんです」そう諭すように囁くと、彼女は完全に痴呆になったわけではないので、ハッと目が覚めたようになって「そう、皆死んでしまった。そして私だけが残ってしまった……」と目に涙をためて呆然と立ち尽くすのだ。そのモッチャ夫人を見つめるフィリッポの目は、もはや無論軽蔑ではなく、かといって哀れみでもなく、いわく言いがたい、言ってみれば一生懸命な、真摯なまなざしで、じっと彼女を見つめている。そしてそれからはフィリッポはモッチャ夫人の世話を買って出て、いつも彼女といっしょにいるのだ。実に仲良さそうに。
町のことにせいいっぱいで、家族やこのモッチャ親子のことなど気にもかけてくれない夫にすっかり疲れ果て、お互いに疲れ果てているジョヴァンニと心を通わせるゼレンギ夫人。その様子をのぞき見て、アゴスティーノは母がジョヴァンニと不倫をしているのだと思い込み、心を痛める。どしゃ降りの中、ずぶぬれになって駆け出して、担任の先生のいる仮設住宅に駆け込む。「大人でも、恋をするのよ。お母さんは今、一番辛い時だと思うわ」と子供に対してもあいまいな言葉で濁さずに語りかけるこのベティ先生は、子供たちのことが一番大事で一番心配している教師の鑑。しかし、こんな言葉が出たのは、ベティ先生自身が今、恋をしていたから。アゴスティーノが訪ねた時、彼女の仮設テントには壁画修復工のイギリス人、アンドリューがいたのだ。そして、アンドリューには子供を望む妻、クレアがいた。ベティ先生自身が不倫の危険のはざまにいたのだ。
アゴスティーノは母親がいそいそと出て行くのを見つけて、あとを追う。この時、それを部屋の中で見送るフィリッポが、モッチャ夫人とソファにぴったりとくっついて並んで腰掛け、仲良くテレビを見ながら「早く帰れよ」なんて呼びかけるのが、微笑ましくって笑ってしまう。もう、フィリッポは大丈夫。で、アゴスティーノがつけていった先で車の中で母親が抱き合っていたのは、ジョヴァンニではなく、父親。もともとラブラブな夫婦だったのだから驚くこともないのだけど、そういうところは子供たちには見せていなかったわけだし、なんといっても不倫だと思い込んでいたアゴスティーノは戸惑うのだけど、そんなアゴスティーノに気づいて父親は車から出、男同士の話し合いをするのだ。「同性愛って、知っているか?ジョヴァンニはカフェの主人と恋人同士なんだよ」「あのヒゲの人?」……驚いた。確かに意味深な会話と目配せはあったけれど、全然気がつかなかった。そりゃあ、不倫にはなりっこないよなあ。それにしても、これぐらいの年になった夫婦がラブラブできるのも、ゲイの恋人同士が普通に町に認知されているのも、うらやましい、と思っちゃう。
ベティ先生が恋しているアンドリューはなかなかナイスな青年。京都に2年間“逗留”していたことがある、と彼は日本語でマグロ、シャケ、アマエビ(アマエビ!)……と説明しながら自分で握った寿司をふるまう。す、すごい……結構おいしそう。でもまな板の上でズタズタになった白身魚?の身の切れ端をのせたやつは、ちょっと……だけど。彼は壁画修復に生きがいを感じてて、でも彼の妻のクレアはとにかく子供が欲しくて。だからクレアはこの修復の仕事にもついてきたんだけど、常に基礎体温を測っててハイ、今!って時にセックス、とうながすって具合で、彼はとにかく仕事に没頭していることもあって、どうしてもそんな気になれない。子供、子供……ということで頭がいっぱいになって、女性特有のヒステリックな感情をぶつけるクレアと衝突してしまう。
この図式はね……何かいかにも女が子宮でものを考えているとか、子供を欲しがるのは女だけとかそれが本能なんだとか、女に仕事は理解できないとか、そういう旧来からあった固定観念をそのまま持ち込まれているみたいで非常に気分が悪いんだけど、でもこの監督、女性なんだよね。うーん……まあ、男性側にもそれと逆に、男は家族を大切にしないとか、頭でばっかり考えるとか、そういうことを持たせているのかもしれないけど、でもここでは完全にクレアの方がネガで、アンドリューはチャーミングだからさあ。壁画修復に夢中になっている様も魅力的だし。でも、この壁画を修復できるなんて、と彼が感激しているその絵は、聖母マリアの「受胎告知」というのは実に皮肉な話。アンドリューはこんな風に解説するのだ。「このマリアはまだ11〜12だ。顔に恐れがある」ひえッ!マリアってそんな幼くして“処女懐妊”しちゃったのお!?うっわ、何か、ザンコク……。
壁画修復、だなんて「冷静と情熱のあいだ」みたいね。職人なんだけど、芸術に携わっている、というプライドが凄くある感じ。“兎唇”の手術の痕を気にしているベティに、アンドリューはその傷にこそ惹かれるものを感じる、と言い、古風な言葉(イタリア語を文学で覚えたのかな?)で微笑ましい、ちょっと笑っちゃうような口説き方をする。しかし、なるほど、壁画修復工の彼が傷に惹かれる、というのは、確かに実に説得力があるのよね。でね、この基礎体温でせーのでセックスするっていうの、「いつまでも二人で」であったよね。今は結構不妊治療の話もよく聞くし、“愛の結晶”の赤ちゃん、なんていうのは、ファンタスティックな昔の話なのかなあ、なんて……。で、結局「クレアは去った」とアンドリューは言い、あとひと波乱あるもののめでたく二人は結ばれるらしいんだけど、私、ひょっとしてクレアはそのお腹に赤ちゃんを宿して去ったんじゃないかなあ、なんて思ったのだ。彼女、本当に本当に子供を欲しがってたでしょ。「バラ色のつま先にキスしなければ死んでしまいそう」って言っていたぐらい、異常なほどに。で、もう今日セックスすれば絶対!たとえアンドリューがいくら不能でも(?)って日だったんだろう、あの時、どこかに行ってしまっていたクレアが突然、アンドリューを訪ねてきたのは。そして壁の薄いベティの仮設住宅の中で二人はセックスして、そして二人は終わった。そう考えると……もの凄く依頼心が強いヤな女にしか見えなかったクレアが、赤ちゃんさえいれば生きていける、っていう、もの凄く強い、そしてある意味もの凄く不憫な女性に思えちゃうのだ……なんか、切ないな。
しかし、この壁画修復っていうのも、世界的遺跡を真っ先に保護するためによこされた、文化庁かどっかからの派遣隊で、でも当然、街の人たちは教会なんかより、破壊され尽くした住宅を先に何とかしてほしいわけで。そしてベティ先生は、子供たちのために学校を何とかしてほしいとこの文化大臣に直訴している。だからベティ先生とアンドリューの関係って、やっぱりちょっとシニカルというか……ベティ先生、危険だから、と結局壊されてしまう学校を見て涙ぐんでしまうじゃない?ブルドーザーで豪快に壊される様に子供たちは最初こそはしゃいでいるんだけど、先生の涙を見て静まり返ってしまい、皆先生に寄り添うようにして学校が崩れ落ちるのを見てて。でもその一方で、全世界の宝だから、と遺跡にはお金がつぎ込まれて悠長に直されてる。まるでその事態をあざ笑うかのように、修復中の教会がまた余震で崩れて……。自然になんて勿論かなわないし、それどころか、自然ってすべてのことをぜーんぶ判ってて、試すみたいに、猫がネズミをちょいちょいやるみたいにイジワルだったりして。でもそれも、人間がずっとずっと傲慢だったからなのかなあ……やっぱり。
この撮影、実際に起きたこの地震で、誰もいなくなった街で行われたという。そしてこの映画も、街から人がだんだんいなくなっていく、とヴァーレによって語られる。彼女は、私は何もかも、変わらない。これ以外は、と、今はすっかり豊かになったバストを鏡に映して、ティーナはどうなったかな……と夢想する。茶目っ気たっぷりで未来を感じさせるこのラストに少しだけ微笑みをもらえる。★★★★☆
子供たちのために、金だけ持っている男と再婚した母親。人間性のカケラもないようなその義父に、ずっと虐げられてきた子供たちと母親。ついにキレた橘真一(高倉健)は、その家を飛び出す。兄ちゃんが出て行ったら、母ちゃんがいじめられても止めてくれる人がいない……とすがる妹に、すまねえ、と言い残し……。ヤクザな生活を続け、ついには当然のごとく監獄入りしてしまう。
という、彼の過去は、もっぱらこの北の果て、“網走番外地”の刑務所に収監された彼が折々思い返す回想によって語られる。だから舞台としては徹頭徹尾、この何もない、厳しい寒さの、一歩外に迷い出れば凍えと飢えであっという間に死んでしまいそうな、それこそが鉄格子であるこの厳寒の地、網走に建てられた殆ど流刑ではないかと思われる刑務所のみ。新人受刑者として入った彼らの前には、その罪状と懲役期間を自慢げにうそぶく先輩風を吹かした輩がおり、その器量を自画自賛するヤサ男がおり、心中し損なって女に先立たれたことにメソメソしている男がいる。しかし何と言っても目玉なのは、その罪状を明かしたがらず、もう随分とこの檻の中での人生を送っているらしき老人。その誰も及ばない気の遠くなるような懲役期間にみんな恐れをなす。後にその罪状が明かされた時……でもそれもあるいは彼のハッタリかもしれないと思わせる節もあるのだが、何にせよ、その悟りの境地に到達した、若い獣に一歩も動じない静の力強さ、演じる嵐寛寿郎の威風堂々っぷりにはまさしくキャリアの差を感じ入る。
なんだかんだ言いながら徒党を組みたがる受刑者の男たちに対して、一匹狼の風を保っているのはこの老人と、我らが健さんであるからして、ハッキリとは言わないまでも、この老人はやはりひそかにこの気骨のある若者を気に入っている風であり、脱獄騒ぎを制するのも、健さん=橘の思うとおり、それに巻き込まれて彼の仮釈がおじゃんになるのを救ってくれた趣が大なんである。あと半年もお勤めを全うすれば大手を振って出られる橘が脱獄に心揺れるほど、一刻も早くここを出たいと願うのには、苦労をかけっぱなしの母親が乳がんを患い、その命が風前のともし火だという妹からの切羽詰まった手紙によるのだった。これまた彼を気に入っている保護司である妻木氏(丹波哲郎)が、橘が芯は性根のまっすぐな、心の優しい青年であること、立派に更生する可能性は充分であり、病気の母親に会いたいという彼の心に報いたいと、仮釈の手続きに奔走するのだが、一度目は橘の青年らしい虚勢っぱりが、仲間にからかわれたことによって火がつき、騒ぎをおこした発端になって懲罰房に入れられておじゃんになる。しかしこのシーンは、確かに皆、もうすっかりオトナの男にもかかわらず、まるで少年のように……男子学生たちが先生をからかって、悪ふざけに興じているような楽しさ、ほほえましさがあり、しかも一人一人の芸?を見られるという点でもかなり出色のシーン。ことに、ヤサ男(あれは……誰?)のイヤーン、アラーン、みたいな女の模写など、最高。
橘の仮釈に奔走してくれる保護司、妻木氏に扮する丹波哲郎。彼もまたみずみずしく若く、あらら、丹波さんってこんなバタ臭い顔つきのハンサムだったかしらん……と今じゃすっかり霊界の宣伝師とあいなっているクレイジーじいさん(失礼)である彼と比較して思ってしまう。それに、年をとってくるともはやどっちが先輩で後輩だかわからんような感じだけど、こうして昔の作品を見てみると、高倉健よりぜっんぜん丹波哲郎の方が年上で、風格が違うのよね。この頃はまだ喋りも聞き取れる(笑)。嵐寛寿郎御大は中盤で姿を消しちゃうので、全編にわたって健さんと渡り合う彼は、実は第二の主役と言っていいくらい。
そして二度目の仮釈がダメになったのは、二人ずつ鎖につながれた受刑者たちが作業場に向かうトラックに乗せられている時に、橘とつながれた男が彼を道連れに脱走を図ったため。橘を道連れにしたのは、かねてから彼を目の敵にしていた、あの先輩風を吹かしていた権田(南原宏治)。気の遠くなるほどに地の果てまで続く大雪原。これは……絶景!これだけでもこの作品を観る価値はある。モノクロにされてしまったことが、逆にその白とかすかな影を強調し、圧倒的な無常観の漂う、自然の……それは雄大さというよりも脅威を感じさせる。この勝つことの出来ない大雪原に戦いを挑み、全身真っ白になりながら転がり続ける運命の鎖につながれた二人。そう、その全身真っ白になりながらというのも、ホントにモノクロゆえのリアルな寒さを感じさせ、このロケはさぞかし地獄であったろうと、こちらまでブルブル震えてきそうになる。
この、行きあたりばったりの脱走をして、橘にその責任をなすりつけようとまでする大したことない男である権田が、彼との道行きで、決して憎むべき人物ではないことがだんだん判ってくる。その寒さから身を守るためにお互いに体を寄せ合うことを提案し、さすりながら抱き合う二人。権田が「オナゴを思い出すなあ」などと戯れ?にチューチューしだし、強烈に拒絶する橘という場面は抱腹絶倒!ほっんとにイヤがっているような健さんが最高なんだよなあ。
クライマックスは追ってきた保護司、妻木氏とのトロッコチェイス!その前に二人が入り込んだ家はこの妻木氏の家で、芋を貪り食っていたところに彼の奥さんが帰ってきて、とっさに彼女に怪我をさせてしまっていたのだ。橘の仮釈通知を持ってきていた彼は「……バカな男だ!」とその通知を破り捨て、彼らを追う。前を行くトロッコに脱走者である二人、後ろのトロッコに妻木氏が乗り、こ、これは今でいえばリュージュか何かか、と思えるこのおっそろしいスピードと豪快なカーブに、うわあ、ど、どうやって撮影したんだ!と驚嘆するほど、凄い迫力!何せ見るからにボロそうなトロッコだから、ブレーキが壊れてて止まることが出来ない。それを知った妻木氏は自らは長い猟銃を雪に突き刺して雪しぶき?を立てながら減速を試み、前を行く二人には「カーブでスピードがゆるんだ時に飛び降りろ!」とアドヴァイス。行く手には、断崖絶壁、目もくらむ滝壷が待っている!いちにのさん、で飛び降りるまでにひっぱりにひっぱりまくるスピードと時間のアクションは手に汗握る迫力。
何とか助かった二人は、今度は迫り来る列車に自分たちの鎖をひかせて、それぞれ自由になろうと試みる。首尾よく成功し、しかしその弾みで線路の外側にいた権田の方が雪原に弾き飛ばされ、重傷を負う。自由になったにも関わらず、権田が母親を呼ぶうわごとに足を止めてしまう橘は、ボロボロになりながら追ってきた妻木氏に銃を向けられながら、こいつ、お袋を呼んでたんだよ。俺なんかより、ずっと可哀想なヤツなんだ。と、自分の命と引き換えにしてもいいのか、と問い掛ける妻木氏に覚悟を決めて両手を挙げ、権田を助けることを懇願する。と、妻木氏は空に向けて銃を一発、二発!驚いて顔をあげる橘に「何をやってるんだ、こいつを早く医者に見せるんだ」その後、権田が妻木氏に対し、逃げたのも、妻木さんの奥さんに怪我を負わせたのも全部自分なんだ、と告白、いやー、男の友情ってヤツですかい?この時、妻木氏によって母親が手術を受けて心配ないことを伝えられた橘は感激の涙を押さえ込む。すがすがしい気分を漂わせたラスト、病院へと、馬車を駆る健さんの掛け声が響き渡る。
ロケーションの個性が発揮されたという点でも、秀逸なこのシリーズ。最近はとかく適度に都会、あるいは外国でのロケとか、そんなんばっかしだからなあ……。★★★☆☆
大都会、東京に暮らす夫婦。夫は売れない小説家、妻は技術の最先端を行く大病院のエリート医師。この妻が突然パニック障害に陥り、夫のふるさとである長野の山奥へやってきた。……というくだりは、後になってから示される。冒頭は40代の妻と50代の夫といった年頃の夫婦が、二人して緑の深い山奥に訪ねてくるのである。妻に寄り添うようにして山道を登っていく夫、というのがもうこの最初から感じ取れ、そして子供がいない夫婦だというのも判り、何かワケアリだな、と思う。小さなかやぶきの阿弥陀堂に着き、出迎えたのはもう96歳になるおうめ婆さん。このお堂を守りながら暮らしている。
妻は診療所で週三日午前中だけ働き、夫は家事をする傍ら、村の広報誌を各家庭に配ったり、恩師の元を訪ねたり、おうめ婆さんを訪ねて便所を作ってあげたりする。突然の過呼吸に襲われたりと、心を病む妻の症状がたびたび見え隠れする。夫は彼女のそばにいつもいて、美味しい食事を作って、散歩に誘い、とにかく彼女のもとを離れない。じっと、見守っている。
この夫を演じる寺尾聰には、参ったなあ……。バリバリ仕事をする、でもその仕事によって心を病んでしまった妻、それをここまで完璧にサポートする夫像があまりにも素敵なんだもの。これは妻がそれだけの才能のある仕事をしているということもあるけれど、そうでなくたって、あるいは逆に仕事をする夫に対しての妻という関係だって、ここまで出来るだろうか?しかも50も越えた男性が……。彼は昔から花見百姓(花に見とれて百姓仕事を忘れてしまう)なんてからかわれるような男で、まるでこだわりなく人の仕事を手伝い、家を訪ね、人の話に耳を傾ける。彼の作る卵焼きや、鉄鍋からよそわれるミートソースがとっても美味しそうで……それもただ食事を作ってあげてるって感じじゃなくて、本当に彼女のことを考えて心を込めて作った食卓、という気持ちがもの凄く伝わってくるのだ。こういうのを見ると私でもちょっと結婚してみたくなっちゃう。
二人でゆっくりと心を取り戻していくシーンは、どれもこれも本当に素敵。美智子が仏壇の掃除をしていて、「これは小さいから新しい仏壇を買わない?そしていつか、私たちもここに一緒にご先祖様になれたらいいと思わない?」と問うと、孝夫が「いいね」とニッコリする。そのほの暗い和室で、丁寧に仏壇の道具を掃除しながら交すそんな会話が、何でだろうなあ、悲哀のこもった幸福感っていうか、何かそんな矛盾する感覚なんだけど、とにかく幸せな感情で満たされて、こんな台詞を聞くだけで涙がこぼれちゃうのって、私ってば心が弱ってるのかしらん(笑)。でもね、この夫婦、本当に素敵なんだもの。一緒に渓流釣りに行って、美智子が見事釣り上げた魚をいろりで焼いて食べ合い、それで作った骨酒も一緒に楽しみ……そんな風に、お互い、特に美智子の方には辛いことが身体いっぱいにあるんだけど、二人それを判っているから、必要以上にさらけ出して哀しくなりすぎることもなく、一緒にいることで、そのあたたかさで乗り越えようとしているのが。一緒にいる、ってこんなに大事なことなんだって、人から距離を置くことばかり考えていると気づくことは難しい。
この夫婦には子供がいない。彼女が人の死を次々と看取らなければいけないという過酷な現場にいて、心がすっかり疲れてしまって、そのせいでかせっかく授かった子供が流れてしまう過去があったのだ。その時の回想シーンで「子供は親を選んで生まれてくるのね。私は選ばれなかった……」と涙を流すのがあまりにも哀れで……。だって、そんな、そんなこと絶対にないよ!でも彼女が責任を感じているのも凄くよく判るから、ただただそんな彼女の手を握り締めるしかない孝夫もあまりにも哀しくて……。でも大丈夫、ラストにはちゃんと神様からのプレゼントが用意されているのだ。子供嫌いで女に子供を産む責任を押しつけられることに懐疑的な私でも、実に素直にああ、本当に良かった!とまたしても涙が流れてしまう。もはや蛇口が閉められない……。
四方開け放した古い木造の家はとっても風通しが良くって、だって泥棒なんて入るわけがないんだもんね。盗んでいくようなものが置いている家がどこにもないんだもん。人との風通しもいいんだ。電気が、電灯以外に出てこない。コンビニも、自販機もない。電話さえない。電話などしないで、人の家には直接訪ねる。会いに行くのだ。夜の村の風景は、深く湿った藍色の中に、しっとりとにじんだ家や街灯の明かりが黄色くほんのり点っている。そしてこの緑、緑、緑……見渡す限り緑で、緑の中に閉じ込められている感じさえする。ああ、こんな場所になら、いくらだって閉じ込められたい。小鳥の声や川の水音だけがするこんな場所に。
でも、年をとってからこんなところで暮らしたいと思っても、私にその資格はないのだ。ここに何十年も住み続けているからこそ、彼らは、この風景は素晴らしいのだ。こんな場所に帰っていくことが出来る孝夫、美智子がうらやましい。私には生まれ育った土地がないから。そこそこに中規模の地方都市を転々として、最後に受け入れてくれたのが東京だったから。美智子が東京の雑踏の中で過呼吸の症状に見舞われてうずくまるシーン、辛かった。この映画の中で、唯一、辛かった。東京はハグレモノも黙って受け入れてくれる街で、だから好きだけど、でもやっぱり、私こんなところで何やってんだろ?と思うこと、少なくないのだ。東京は人が多すぎるから、誰も声をかけない。矛盾しているようだけれど、やっぱり人が多すぎるのって、異常なのだ。異常状態。この村で彼女がこんな症状に見舞われたら、ほっとく人なんて誰もいないだろう。それは人が少ないから。この村に住んでいる運命共同体だから。東京は、運命を分かち合わないんだよね。ほっといてくれる優しさ、という独特なものはあるのだけれど……それがありがたいことも、あるんだけれど。
緑は、実は比較的新しい色なのだ。昔からあった筈なのに、ただあお、と呼ばれる時期が長く、色として定義されたのは、昔からではない。ちょっと不思議なのだけど……。でも何となくその“新しさ”が緑の新鮮な感覚と似通っている感じもする。日本は湿度があって、緑がわさわさと、本当に豊かにつややかに育っている。画面の90パーセント以上が緑。それだけじゃなくって、四季を活写するその美しいこと!四季の本当の美しさはこんな風に生活を通さなきゃ、映せないのだ。「Dolls」での四季の風景、確かに美しかったんだけど、何かピンとこなかったのは、それがなかったからなんだ。ここに映される風景には、いつでも人間の営みが刻まれている。それはある意味、純粋な自然の風景とは言えないのかもしれないけれど、ここで暮らしている、暮らさせて頂いているという謙譲の姿勢が刻み込まれた風景なのだ。絵葉書のような四季の風景を撮っていたら、こんな胸にしみる美しさは出ない。かやぶき屋根がつぶれそうなほどに積もる雪も美しいけど、枯れ木の枝に積もる雪の形なんて想像したことがなくって、こんなところにも不思議と感動したりする。
心や身体の病に冒されている人がたくさん出てきはするけれど、映画的な起伏、つまり監督のデビュー作である前作「雨あがる」に見られたような物語の起伏はないのに、何でこんなに胸がつかまれるのだろう。これが生活の美しさなのだ。あるいは人生の美しさ。命の、地球の、日本の、美しさ。この村にはおばあちゃんがたくさんいて、何だかおばあちゃんだらけで、やっぱり女が長生きして残るんだなあ、なんて思う。その中でもやはりおうめばあさん、そのおうめばあさんに扮する北林谷栄が素敵で、カッコよすぎて、こんなおばあちゃんになれるんなら、ボケを恐れず長生きしたい、と思う。彼女は年をとってから水の音が気になるようになったと言う。それで夜眠れないこともあるけれど、その水に乗って流れて、海に出ることを想像するんだよ、と孝夫、美智子に語る。年寄りだけが水の音が聞けるんだ、と。私それ聞いて、絶対、もう絶対長生きしてやる!って思っちゃった。おうめばあさんのように、水の音を聞いて、そして眠れない夜に海に流れ出る自分を想像したい。その境地に何としても近付きたい、って。
夫が先立ち妻が残される夫婦……それが描かれるのは、孝夫の恩師である幸田とその妻ヨネ。癌に侵されているのだけれど、幸田は病院になど入ろうとしない。最後まで人間らしく、いつもの生活を続けて、死期を悟った時最後の言葉をきちんと周囲の人たちに残して、逝くのだ。その気丈さに深く心を打たれながら、残されたヨネの哀しみをおうめばあさんがその先輩として受け止め、一緒に哀しんであげている姿が……阿弥陀堂を訪れたヨネとおうめばあさんを映す引きのカメラにしんしんと、泣かされる。人の哀しみをこんなにまっすぐに受け止めるなんて、私にはできないだろうな……。
そのおばあちゃんばっかりいる中で、ひとり若い女の子がいる。小百合ちゃん。彼女はのどの病気のために声が出ない。でも人の声を聞くことは出来るから手話は使わず、人の話をニコニコしながら聞いて、その答えをボードに書いて示すのである。綺麗な字で、丁寧に。「記憶の音楽―Gb―」でもそういう描写が出てきて、あの映画ではその青年は耳が聞こえなかったんだけど、やっぱりスケッチブックに言葉を書いて示してて。それは言葉の、うんと大事なところだけを抽出して凝縮してて……だから、言葉を凄く凄く大切にしているって感じがするのだ。言葉はやっぱりいい。そう思えるのって本当に嬉しい。大事にしなきゃ、大事に使わなきゃって思う。声が聞こえなくても、目で受け止め、目が見えなくても耳で受け止められる。おうめばあさんの声を録ったテープを、病床で一心に繰り返し聴く小百合ちゃん。そしておうめばあさんの言葉を伝え聞いて、笑顔のままで綺麗な涙をはらりと落とし「ありがたいです」とひと言書くその言葉が……何か、すっごくすっごくいい言葉だって思っちゃって、これ以上の言葉ってないよね、って思うぐらいものすごく心に染みちゃって、小百合ちゃんと一緒に流す涙が気持ち良かったなあ。
そして小百合ちゃんのいつもニコニコしているその笑顔がとても綺麗で、もともとこの小百合ちゃん=小西真奈美は綺麗なんだけど……そう、小西真奈美、とても良かったな。彼女のことは「うつつ」でしか観たことないんだけど、本作の彼女、本当に良かった。女優は監督との出会いで輝けるかどうか決まるんだな、なんて思っちゃう。実際、これがなかなかユニークな経歴を持ち、そしてもちろん実力で上がってきた人なのだから、魅力を発揮するのは当然なのかもしれないけれど。ほっそりとした線の細さながら、意外に腰が豊かに張っているプロポーションが印象的。顔立ちも筆で描いたような繊細さで、日本人形のような端正な美しさ。この緑深い清冽な村に実に良く似合う。
この小百合ちゃん治療に美智子と共に奮闘する若い医師に、「雨あがる」から連投の吉岡秀隆。彼は本当に作品に恵まれる人だね。ハズしたのって、そうそうないんじゃない?医師役というのは「釣りバカ」から二度目で、何か思わず「北の国から」で妹役の蛍が看護婦なのに対して連動しているような気がしてしまう。単に「北の国から」ファンなだけだけど。そして樋口可南子。彼女ってこんなに美しい人だったのね。何か奔放で大胆な女優のイメージだったんだけど、それもまあもはや昔の話で、しっとりと年をとり、重ねた年を美しく輝かせて、辛い時でも努めて笑うようにしている彼女の、その柔らかな笑い声と笑顔がとても素敵。そしてその笑顔はだんだんと本物になっていって、最後にはこの村に医者として望まれることに応える強さを取り戻すのだ。そしてそんな彼女を頼もしげに夫は見つめ、彼もまたこの土地で、ただ純粋に伝えていく小説を書いていこうと筆をとる。それはパソコンなどではなく、やはり原稿用紙にペンなのだ。
すっかり目を泣きはらして、良かった、良かった……とつぶやきながら劇場を出ようとすると、この日でこの劇場は終了だったのだけど、続映の上映館を聞いていた方がいた。リピーター、するんだね。私もしようかなあ★★★★★
親のちょっとした勘違いで、小さな頃友達と遊んだことがなく、そのことにより空想癖になり、そのまま大人になってしまったアメリ。普通の興味からセックスを試したことはあるけれど、どうもしっくり来ないし、恋をしたこともない。穏やかで平凡な毎日、まあこんなところが幸せなのかもしれない、と思ったところに、小さなきっかけが転がっていた。壁のタイルのはがれ目から見つかった、こっそりと隠された小さな宝箱。昔この部屋に住んでいた少年が大事に大事にしていたであろう宝物。封じ込められた思い出の時間。
このシークエンスを観たとたん、私はこの映画にヤラれることを確信してしまった。小さな頃大事にしていたもの、ここでは男の子の宝物だけど、女の子って何故だか光るものが好きだった。キラキラしたビー玉や、単なるアルミホイルや、ガラスの宝石がついたオモチャの指輪や、小さなビーズ細工のブローチや、クリスマスツリーのてっぺんの銀色の大きな星や……そんな記憶がうわっと襲ってきたのだ。アメリもその宝箱を見ながら似たようなことを思っていたんじゃないかと思う。とてもとても優しい笑みを浮かべて、この思いを本当の持ち主に味合わせてあげたいと思う。いつもいつも一歩踏み出せないでいた彼女が踏み出した外の世界。彼女はそこで様々な人にも出会うし、今まで知っていた人ともただ見知っているだけではなく、愛情を持った関係を紡げるようになる。昔々、自分の元を去ってしまったハンサムな夫を思い続けている管理人の初老の女性、骨が折れやすい体質のため、外出できずに家の中で絵ばかり描いている老人、世間から見れば少々頭が足りない八百屋の青年などは、アメリの目から見れば“宝石のように野菜を扱う”仕事に対する誇り高き男の子。そして、運命の人、ニノとの出会い。
この監督のジャン=ピエール・ジュネにしたって、ニノを演じるマチュー・カソヴィッツにしたって、グロテスクで暴力的な映画で名を馳せた人たち。だから最初はこの映画の題材とこの二人のカップリングが意外で仕方なかったのだが、カソヴィッツはともかく(というのも私、カソヴィッツ監督の映画を観てないのよー)ジュネはグロテスクな中にもフランスらしい粋さがあり、例えば「デリカテッセン」のカップルなんか確かに異形なんだけど、とてもチャーミング、だったんだよなあ。思えば「デリカテッセン」なんてもう10年も前!うっそお、そんなになるう?ずっととんがった若手みたいな気がしていたけど、ジュネももうすっかり中堅どころなんだ。だからこそたどりついた、いわば悟りのようなひとつの到達点がこの「アメリ」だったのかなあ。……ということは、もしかして塚本晋也監督や、三池崇史監督なんかも、いずれこういうかわいい恋物語を撮ったりして……想像つかん!
脱線してしまいました。あ、ところでね。この「アメリ」本当はもっと早く観るつもりだった。去年の年末に観に行く予定だったのがちょっとしたことでそれがフイになり、そうこうしているうちに予想だにしない大ヒットになり、職場から歩いていけるからシネ・ラ・セットで観ようと思っていた私は、いつまでたってもコミコミなので、困っていたのである。さらにそうこうしているうちに、ウッカリシネ・ラ・セットでの通常ロードショーを逃してしまい、結局は拡大公開された新宿の、通常はこういうタイプの映画なんか絶対にかからないであろう劇場で観た。だから、予想外にすっごい大きなスクリーンで対峙して、うわー、なんかSF映画を観ているみたい!などと思ったりして。そんなこんなで、そう、なるべく世の評判は聞かないように、先入観を持たないようにしていたんだけど、やっぱり耳に入ってきてしまっていたから……ああ、聞いているとおりだったな、という範疇を出なかったのは、こういう大ヒット映画を遅ればせながら観る宿命なのかもしれない。でも、ちゃんと期待通りの、という意味も含めてだけど。
ところでこのアメリ、行動も含めて確かにとってもカワイイんだけど、一歩間違うとかなりアブないかもしれない!?ほとんどストーカーか犯罪者かっていうような……。ストーカーというのは、もちろんニノに対して。ニノとは目が合ったとたん電流というか、本当にアメリの心臓がバックバクいうのが見えているくらい(笑った)だったんだけど、何といっても人とまっすぐに向き合うのがコワいアメリは、普通のアタックの仕方なんか出来ない。彼のコレクションである廃棄された証明写真のアルバムを偶然拾い、ますます自分と近しい感情を持つアメリ。そして行動に出るわけなんだけど、あっさり渡すようなことはせず、公衆電話にかけたり、矢印に従って歩かせたり、そのアルバムの中に飾りマスクをした自分の写真とメッセージを忍ばせたりしてナカナカニノと直接対峙しようとしない。いわばひたすらニノを観察して、つけまわしてそういうゲームに巻き込んでいるわけで、ニノが好意をもってくれたから良かったものの(似た者同士で彼もこういう感覚が好きなのね)そうじゃなかったら、かなりコワい女の子だぞお。
だってさ、一方でアメリは気に入らない男、八百屋の傲慢な主人に対して、偶然放置されたカギを見つけて合鍵を作り、ほっんとに感心するぐらいの、お酒の瓶に塩?を入れたり、電気コードに針金を埋め込んたり、歯磨きと足クリーム(だったっけ?)を入れ替えたり、実に巧妙で細密なイヤガラセを施してギャフンと言わせるんだもの。でもそれが彼女自身の防御ではなく、同じ八百屋で虐げられている青年のためだ、というのがアメリらしいところではあるんだけどね。それに、そうしたヤバ行為をかわいく見せるってのがかなりのスゴワザ!ニノがカワリモノで、この八百屋の主人がヤナヤツで、ってあたりのキャラクターのさじ加減のおかげかな?アメリが職場の同僚と常連の客のキューピッドになって、その二人がアメリのそうしたワナ?にはまり込んじゃうエピソードもかわいくって大好きなんだけど、そもそも思い込みの激しさで常連客になったこの男の悪い癖がまた出て、最後の方ではどうも不穏な空気が漂っちゃうあたり、まあそう簡単に人は神や天使にはなれないなというシニカルさは、やはりジュネ監督ならではのものなのかなあ。
こういうある種のワガママや、夢見るロマンチックさや純情さを、10代の女の子ではなく20代の女性で描いた、ってところが、オトナの女にとっては随分と勇気を与えてくれる。といっても、やはりアメリぐらいの年頃がギリギリのラインで、彼女がここでニノを見つけたからこそ、きちっとしたハッピーエンドになるわけだから、私のような大年増が勘違いすると痛い目にあうわけだけど(……ふっ)。それに、女の子映画といいつつ、ちゃんとセックスも描いてるし(ま、フランスだからな)。いわばアメリはセックスという行為だけでは幸せ感を得られなかったから、愛を見つけたいと願ったわけで、何かこれって普通の逆を行っていて、その分妙に嬉しい説得力があるんだ。愛を知らないまだ女の子のアメリが、セックスを先に知るんだけど満たされなくて、というのが、愛とセックスの幸せな関係を感じさせてとってもイイじゃない?
そう、これは雲が動物の形になるとか、街の中の演出家が言うべき言葉をアドヴァイスしてくれるとか、小物たちがアメリの恋を心配してくれるとか、そういうキュートな演出に惑わされてはいけない、実はきっちりとしたオトナの映画なのかもしれない。とは言いつつ、そうした小ワザがこの映画の秀逸な点には間違いなく、何といっても世界中を旅する小人の置物のエピソードにはたまんなくそそられちゃったよな!ああいう遊びはホント、最高だよね。アメリはそういうゲームが大好きで、恋の獲得にもその“作戦”を駆使しようとしてガラスの骨のおじいさんに咎められるのだけど、彼女の遊びはとても知的で洗練されていて、遊びが決して子供だけのものじゃないこと、遊びは人生を楽しくするおやつみたいなものだってすごくポジティブに言ってる感じがして、素敵なんだよね。
ニノのコレクション癖が好きだなあ。とにかく集めるのが好きな彼のために、彼の仕事場(大人のオモチャ屋!)の同僚のおかまさんと思しき人が、証明写真のコレクションをすすめ、これがアメリと出会うきっかけになるわけ。集めて、整理して、それを大事に持ち歩くニノの、こつこつと集めた、他人にとっては何の意味もない物に対する繊細な愛情が好きだ。ニノを演じるマチュー・カソヴィッツの作り上げるキャラクターがすごく優しげで。フランス、モンマルトルな感じを粋に演出するアコーディオンの音楽がほんと、ステキ。それにクレーム・ブリュレとか、チキンとか、すっごく食べたいーッ!って観ている最中、もうおなかがぐーぐーと……。特にクレーム・ブリュレがねー、帰り探し回ったんだけど、結局、あの表面がカリッとしたクレーム・ブリュレが見つけらんなくって、カリッ感つながりでクイニー・アマンを買ってガマンガマン。食べ物が美味しそうな映画は、それだけで充分優れた価値があるんだ。
ところで、二度目に流布され始めたチラシにも使われているアメリの宣材写真、濃い緑のベタ塗りバックに、顔はほとんど白塗りのノリ、真っ黒い瞳に真っ赤な口紅でにやりと笑っている感じで……ちょっと恐いんじゃない!? ★★★★☆
それでもアマノジャクな私は前半戦あたりまで、アウトローの話じゃないもんなあ、群像劇だもんなあ。最近の三池作品と同じく……などと、まだどこかに構えた気分が残っていたのだが。確かに群像劇。でも1人1人が間違いなくアウトローで、世間的に見ればつまらない犬死にに、男の最高の美学をかけていることがだんだん判ってきて。しかも、三池監督の視線とその演出は、気合の入った上映時間からも判るとおり、その一人一人にきっちりと時間をかけ(それでも出演場面を切られた人は多くいたようだが)、裏切り者の男にさえ、……その男が「ファック・ユー・……」と吐き捨てるように言うその言葉、吐き捨てるように言っているのに、とてつもない愛、悲壮な愛を感じてしまう。
映画を観終わってから、あらためて相関図などを眺めなければ組やら幹部やらの位置関係が今ひとつ判らないぐらい。実際、これまでの仁侠映画でも描かれていたように、それぞれの組の上にはそれらをまとめる一家というものがあり、更に上にも重鎮たちが多数存在している。組内、一家内でコソコソと根回しされる裏工作、でっち上げ、ヤラセ事件などは、まるで政界そのものの浅ましさで、その中で少数ながらまっとうな筋を通そうとする樋口組の男たちは、確かに彼らこそが本当の博徒なのだろうが、その純粋さゆえに最後には見事に、鮮やかといっていいほどに、絶滅してしまう。滅びの美学を、その身で体現してしまう。
まず、トップに名前の来ている加藤雅也がすごい。素晴らしい。すでにかつての彼とは明らかにその顔も体も違っている。ジャンクな訛り(広島あたり?)を喋り、いくつになっても純粋ゆえの無謀さの消えない、豹のような男。その視線の凄まじさ。最初からうわ、これが加藤雅也!?と驚かされたが、特に、彼扮する険崎が敬愛してやまない親父、樋口(竹中直人)を殺された時からの、全身に立ちのぼる、哀しさや怒りなどは既に通り越したような激情のオーラが凄かった。彼を付けねらう天成会の殺し屋、沼田(白竜)に、俺が殺したいのはお前だけなんだと言われ、仲間を助けるために丸腰になる。沼田はニヤリとし、約束をたがえて、捕えていた彼の元舎弟をぶっ放し、そして彼にもぶっ放す。剣崎をかばってついてきていた舎弟が撃たれ、剣崎は二挺拳銃で沼田を撃ち落す……。彼の感情の変化が顔、体、全体に刻々と現われる白眉の名シーン。三池監督はこのシーンでもそうだし、ポイントとなる殺しの場面には丁寧にスローモーションを使い、魅せる。ギャグでもなく、臭くもならず、スローモーションの美学を堪能させてくれる久しぶりの作品としても特筆できる。
そう、それにしても加藤雅也……。彼は役者としての可能性にかけてアメリカの地に渡ったわけだが、幾つかの作品には出ているものの、成功したものがあるとは言えなかったんだけど、正直、私はバカハリウッドにざまあみろ!と言いたいね。この人のこれだけの潜在能力を引き出せもしないでさあ。三池監督は世界的にも現在最も注目度の高い監督だし、この作品も今までにいくつかの海外映画祭に出ているわけだけど、もっともっと海外に出して、彼は勿論、日本の男優の素晴らしさ、カッコよさを知らしめてほしい。日本の男優のカッコよさといえば、北野武監督が「BROTHER」を撮った時、それを世界に知ってほしいと言っていたと思うけど、そしてあの作品も海外市場に出回ったけど、私は本作をぜひぜひぜひもっともっと海外のマーケットに出して、彼らの魅力で全世界をしびれさせてほしいのだ!
敬愛する総長(ミッキー・カーチス。この人はゴーイング・マイ・ウェイなキャラが、何やってもそのまま出てる)を殺され、それを理不尽な手打ちに持っていかれ、激怒する純粋ヤクザの樋口組長。演じる竹中直人、上手い。時々、驚いちゃうのだ。だって、竹中直人って、結構出まくりで、あまりに何でも出てるのでやんなっちゃう時も正直あったりするんだけど、こういうシリアスな役を、真っ向にふると、おっそろしく上手いんだもの!何か、「共犯者」のときの彼とか思い出してしまった。彼を敬愛する剣崎とのシーンもいちいちイイ。一緒に鮮やかな刺青の背中を並べて風呂に入るシーンとか。ムチャする剣崎を説得する食事の場面でも、画面の右端に竹中直人、左端に加藤雅也、で、結構な長回しだった気がする。二人の役者の空気がきっちり出来ていないと、あそこまでは絶対に魅せられない。それぞれの役者の良さだけではなく、こうしたコラボレーションの妙も存分に見せてくれているのが、この作品の素晴らしいところ。
先述の白竜は相変わらず小さめの色眼鏡が似合っているイイ男。そして私のお気に入りの遠藤憲一は、これまた、ようやく、三池監督でのこうした役柄の彼が見たかった、という男っぷりのいい役で登場してくれた。松方弘樹や伊武雅刀といった声の張りにも特徴のあるベテランを脇に、落ち着いたクールな喋りを聞かせてくれたのも嬉しかった。後半、捕えられ、「カレーってこんなに美味しかったのか〜」とすっかりカレー党になる、という三池流のコメディリリーフも振られてはいたものの、それもまた彼らしくて、可愛かった。それまでは甘いだけの印象だった美木良介もまた意外に良く、彼は樋口組の若頭であり、つまりは剣崎の兄貴分に当たるのだが、幹部たちとの世俗的しがらみと、さぞかし彼にとってうらやましいであろう剣崎の純粋なヤクザ精神との板挟みにされる、まさしく中間管理職の痛みがその甘さにかすかなホロ苦さを感じさせる、いい色気があった。
かつてのヤクザ映画にも出演したであろうベテラン役者たちがぞくぞく出ているのが魅力のひとつで、さすが迫力が違う。存在感が違う!あのシーンが印象的だった……黒服に身を包んだ男たち、その足元がナメるように撮られる。ついでカメラがだんだんアップし、男たちの横顔が奥から手前へと、ピントを移しながら現われる。画面から見切れていた樋口が怒声を上げるとカメラ角度が切り替わり、男たちが横一列に座っている画になる。黒一色の男たちの群舞の美しさといえば、「新・仁義なき戦い。」で阪本監督が見せた冒頭のシーンなどを思い出すが、本作のこのシーン、絶妙なリズムのカメラもあいまって、ゾクゾクさせた。そういえば冒頭から、場面と音声をズラしたカッティングなど、意欲的なリズムが実に功を奏していて、最近の三池作品に感じていた、中だるみの感覚が全くない。全編に渡って細心の緊密さが図られており、そのピンと張った糸が切れることがないのだ。
何でも、照明を出来るだけ使わないドキュメンタリータッチでいったというのだが、フィルム特有の沈殿する暗い美しさが終始画面に張り巡らされており、画面の美しさの点でも近年の三池作品の中では出色の出来ではないだろうか。あるいは音声も実に印象深く拾っており、ことにあの場面……山の中のアジト風?な家で、ムチャしすぎて追いつめられた剣崎が、舎弟たちに剣崎グループ解散を言い放つシーンで、夏の終わりみたいな切ないひぐらしがずーっと聞こえてるのが、何だかそれだけで涙が出そうになって困った。実際あの場面は彼にとっての節目のシークエンス。彼にトップでついていてくれていた桜庭が「兄貴、すいません」の走り書きと時計とチャカを置いて去ったのをはじめ、殆どの舎弟が保身のために彼の元を離れる。最後の道行きをともにすることになるほんの数人が残っているのを剣崎が目にして、行かないのか、と問うと「行くところ、ないですから。兄貴、風呂が沸きますよ」と返す舎弟たち。まるで涙をこらえるように無言で天を仰ぐ剣崎に、ひぐらしがあいかわらず聞こえてて。緑が目に染みて。あの場面は良かったなあ。
その残った中には、頭数をそろえるために拉致同然に引き入れた少年、均(小林範久)もいて、彼こそが最後の最後、剣崎と死の道行きに同行し、“男になる”のだ。いくら背中に刺青を入れられたからって、あんなふうに強引に仲間にさせられたのだから、何も残る義理なんてないはず。そしてドンパチでも相変わらずまだ怖がってて、伏せた拍子に彼の教育係たる良雄が撃たれて死んでしまう、なんていう壮絶な場面にも遭遇する。確かにいつまでたっても弱虫で、撃ち合いなんてできっこない彼なんだけど、泣きながらも撃たれた良雄を血だらけになって背負い、逃げてくる場面とかに彼なりの強さが見えて、そして最後、その手にダイナマイトを持って剣崎の運転するトラックの助手席に乗り、地獄へ突っ込んでいく彼を見ていたら……彼が残った理由が、判ったような気がした。
新宿昭和館が閉館するということで、一番お世話になったその名画座にラスト一ヶ月、通いつめていたんだけど、何を観た時だったか……ああ、もう現代ではヤクザ映画は作れないな、って思ったのだ。こんな俳優たち、いないし、って。現代の役者には現代の役者のいいところがあるから、それは決して否定的な意味でそう思ったわけではなかったんだけど、でも私はその時の思いを撤回せざるを得ない。だって。このヤクザ映画は、確かに、真の、ヤクザ映画なのだもの!確かにあの頃のヤクザ映画とは違うに決まってる。時代設定も違うし。でも、その兄弟分、しがらみ、斬り込み、滅びや死の美学は、まさしく、あのヤクザ映画に感じる美学そのものなのだ。ヤクザは死んでナンボのもんだとでも言いたげに、死にすぎるほどに死んでいく本作のヤクザどもは、愚かだけど、愚かであればあるほどその一瞬、その一生、他の誰よりも濃密で、揺るぎない。ちょっとだけ……ほんのちょっとだけうらやましいと思ってしまうほど。
男優であるなら、一度はヤクザ映画に出たいと思うんじゃないだろうか。あるいは、男性監督であるなら、一度はヤクザ映画を作ってみたいと。その思いが結実したという気分を感じさせる本作は、私の観たかった、という部分も多分にあるだろうが、役者の気合いも、監督の思い入れも、いつも以上に凄いという気がする。それにしても、自身の作品についに役者として出た三池監督、実に嬉しそうにマイクを女のケツに突っ込んでましたな……(苦笑)。
女といえば、このシーンでもそうだし、相変わらず三池作品の女はイマイチつまらないけど、たった一人、樋口の娘であるあの少女は良かった。その登場シーンのたたずまいから、せいぜい10歳かそこらであろうと思われる彼女は、何だか既に思いをいっぱいためこんでいる独特のなまめかしさを感じさせ、こりゃあ、将来イイ女になりそうだわ、と思ったが、そこだけではなく、父親が死んだ後、涙を流しながらピアノを弾いている彼女のその表情にわわっ、今からもうイイ女じゃん!とビックリした。ちょっとー、誰よこの子!一体どこから連れてきたのお?あ、ところで佐倉萌は、土屋が足をなめ回していた、あの女性だよね?
まあ、正直、剣崎の女と思しき河村彩は、この作品の詩的な部分、緊張の糸を緩めさせる役柄だが、やはり今ひとつオモロくない。樋口の親父にホレている剣崎に女なんか必要ないんじゃー!というのは無理があるにしても……でも、あのシーン、剣崎に拳銃を向ける彼女がぶっ放した弾がはずれ、スプリンクラーが作動し、二人びしょぬれになりながらかき抱いて求め合うシーンは魅力的だったけど。そのカラミに黒味のカットが2、3回挿入され、独特の官能を感じさせるシーンになっている。今ひとつ体を見せてくれない彼女が残念だが……。しかし、オフィシャルサイトに載っていた“「ひまわり」で主演”は違うだろー!あれのどこが主演なんだよー。まったく!彼女の出てくる場面で使われる、黒地白抜き手書き字、サイレント風字幕は、「ビジターQ」風?ちょっと浮いていたような気もする。
ピアソラもかくやというようなあまりに哀しい哀しいバンドネオンによるタンゴの響きが、この現代のヤクザ映画にこれほどまでにマッチングするとは!この音楽だけで既に鳥肌モノのすばらしさで、三池作品ではよく名前を見る音楽、遠藤浩二氏、ちょっとお、これは音楽賞モノではないだろうか?既にパブロフの犬のように、あの音楽聴いただけで泣きそうだよ。いや、後半からもう泣いてましたが……。★★★★★
20世紀最悪の事故といってもいい、チェルノブイリ原発事故。その現場からそう遠くない位置にあり、森も畑も放射能に汚染されたために政府から移住勧告が出された小さな村、ブジシチェ村。600人いた村人たちはそのほとんどが移住し、残ったのは55人の老人とただ一人若い青年、アレクセイ。昔からこの土地で自給自足で暮らしている彼らが都会のアパート暮らしをするなんて、確かに考えられないこと。しかし不思議なのは、ただ一人残っている青年、アレクセイである。彼らの兄弟たち、あるいはこの土地で一緒に育ったであろう若者たちは皆この土地を去り、年に何回かの収穫の時期に手伝いに顔を見せるのを出迎える彼は、ただ一人の若者、であるにもかかわらず、この土地の象徴的な人物であるように思う。ナレーションも担当している彼は、多分、他の老人たちと最も違うのは、彼だけが受動ではなく、自らの意思で、ここに残ったこと。お年寄りたちは、もはや新しい生活など考えられないのだ。この土地で生まれ育ち、この土地で命を終えることを、こんな事故が起こらなくても、昔からそれが当然だと思っている。だから、目に見えない放射能で汚染された、と言われても、この土地を離れることなどとうてい考えもつかない。実際問題、自給自足で暮らしている彼らに、都会での暮らしなど、それまでの人生を否定しろと言っているようなもの。しかしアレクセイはまだ30代。これから人生を変えることはいくらだって出来たはずなのに、彼はそうしたお年寄りたちの理由よりももっと積極的な意思でここに残った。そのことに、ナレーションの彼の声を聞きながら観ている間中、ずっと考え続けることになる。
この映画は、水の映画。奇跡の水の映画である。水というのは、本当に奇跡だと思う。これまで数々水が印象的な映画を観てきたけれど、この実際の奇跡の水の前には、何も、誰も、勝てない。村人たちがこの土地を離れない理由として、具体的に挙げられる共通のことが、この泉の存在なのだ。こんこんと湧き出ている泉。畑や収穫物からも放射能が検出されているのに、不思議なことにこの泉の水はきれいなのだ。汚染されていない。いや、不思議なことに、だなんて思うのが、人間の浅ましさなのだ。豊かな森によって何十年も何百年もその肥沃な大地の奥深くに蓄積され、今湧き出ているのはそうして蓄えられ、浄化された、何十年も何百年も前の水なのだから、きれいなのは当然なのだ。性急に生き、その性急さの中で快適さばかりを求める私たち人間になど、とうていできないワザなのだ。水と同じように森もまた奇跡、この地球の生命。この森からも放射能は検出されているのだけれど、その森が果たした、その誕生からずっとずっと続いてきた長年の機能は、人間の浅はかな合理主義によってもたらされた事故になどびくともしない……と考えて、あ、と思った。
彼らが生かされているのは、その何十年も何百年も前の恩恵なのだ。そして取り返しのつかない事故を人間は起こしてしまい、その営々と続く流れを断ち切ってしまった。ここから何十年も何百年も未来の世代を裏切ったのだ。未来を、裏切ったのだ。もしかして、アレクセイが残ったことに、彼がこういうことを無意識に考えているんじゃないか、とふと思った。彼は未来の世代に手渡す責任者として、見届けることを望み、ここに残ったんじゃないか、と。このことを、ここに残ったお年寄りたちだって、多分判っている。彼らは自分たちを生かしてくれたこの土地に感謝しているのだ。そんなこと、現代の便利な=都合のいい暮らしをしている私たちには考えもつかないこと。土地に感謝する、なんて。でもそんな傲慢な都合の良さが、彼らの土地を破壊してしまった。それを何の罪のない彼らが、そこに住み続けることによって償おうとしている、そんな気がしたのだ。
そんなことを、声高に主張しているわけではない。カメラは彼らの、恐らくずっとずっと前から変わらない日常をただ映し出すだけなのだ。ここが放射能で汚染されている土地だという知識がなかったら、本当にその淡々とした日常を暮らす村の様子、とだけしか映らないほど。しかし政府から移住勧告が出されているこの村は、地図上から取り消されている、もう存在しない村。しかしそんな風に地上の村ではなくなってしまったことが、だからこそ、理想の天上の村に思える。ゴロゴロと実るジャガイモ、それをはぐくむ大地に、これのどこが汚染されているの?などと思う。いや、確かに目には見えないけれども、汚染されているのは勿論なんだけど、彼らにそんな未知の、目に見えないものなんて、彼らが生きてきたささやかな生活の大切さに比べたら、ナンボの価値もないものなのだ。こうして大地は今でもジャガイモを実らせてくれるじゃないかと。そしてこの一年分の食糧を収穫する時期には、散り散りになっていた家族たちも大勢この土地に手伝いに戻ってくる。この土地を離れた人たちも、その心は残った人たちとそう変わりはないのだ。それを見つめ続けるアレクセイのまなざしは一瞬、ちょっと皮肉めいたものを感じなくもなかったのだけれど、それは彼らに対して、ではなく、こんな土地にさせられたことへのそれなんだろうと思う。
この事故がなければ、原子力発電のことなど何も知らなかっただろう彼らだけれど、知ったからこそ、生まれ、育ち、生活してきた土地で死ぬ幸福を実感したんじゃないか、などと思う。その寿命は運命が決めるもの。事故があっても、そこを離れることはない。それが運命だから。彼らはもしかしたら、この事故以前よりも、この土地に感謝している、そんな印象を受ける。その象徴が、きれいな泉なのだ。変わらない生活をすることが、感謝の意味なのだと。祭りの時に、何年ぶりかに司祭が来ることになり、彼らは泉の洗濯場の補修工事をする。全てが手作業で、森から木を切り出し、ひとつひとつ計測して組み上げる。もうお年の彼らにはかなりの重労働だけれど、水への感謝と、それを見にきてくれる司祭を迎えるためならば、その労力をいとわない……ここには、戦争の道具などに使われるような曲解されたものではない、真に純粋なカトリック信仰があり、それにも感銘を覚える。信仰は何からも切り離された、真の信仰ならば、本当に素晴らしいものなのだ。その祭りで少女のようにダンスに興じる女たち、酒であっという間に正体をなくす男たちに、その無邪気ささえ、信仰のように思えてしまう。
「ナージャの村」は未見なのだけれど、この監督さんはもともと写真家。納得である。語ろうとせず、見つめることで真実をあぶりだそうとするその視線が、作られた物語よりもずっと心に訴える物語を作り出す。このロシアを舞台にした、それもドキュメンタリーを日本の映画作家が撮った。これは誇るべきこと。ロシアを舞台にしていても、その問題は地球上に暮らす全ての人間にとって考えなければならないことなのだ。だから日本人として、ではなく、彼は人間としてこの土地の物語を撮った。それが素晴らしいのだ。
最近、NHK教育で水とか森とか、そうした自然の連鎖、その機能の素晴らしさを子供たちに教える番組があって、そうだ、子供たちに“教育”として教えるのは、国語や算数じゃなくて、こういうことなんだよね、と思った。それはむしろ遅すぎたんじゃないかと思えるぐらいだったんだけど……。でも今、大人である私もそんな番組を観つつ、そうなんだ、水って、森って、凄いんだなと、本当に今更ながら“勉強”しているんだから……。オフィシャルサイトにこの映画を鑑賞した高校生たちの感想が載っているんだけれど、これが素晴らしくて嫉妬しちゃうぐらい。現代の子供たちは、ちゃんと学んでいる。この子供たちに、託したい。★★★★☆
登場するのは一人の女と二人の男。この一人の女、光子が主人公。稀なるヒロインである。いわばニュータイプ。今までいろんなイヤな女に映画の中で出会ってきたけれど、こういうタイプのイヤな女がいるとは……まさしくニュータイプである。性格があからさまに悪いとか、イジワルだとか、裏表があるとか、そんな判りやすいイヤさじゃないんである。つまるところ彼女は向上心や野心がなく、今の生活に満足しており、自分の生活や世界を大切にして、それを決して譲らない。それのどこがイヤな女なの?と書きながら私も思ってしまうぐらいなんだけど、これが最高にイヤな女なんである。だからこそ、ドキッとする。
まあ、私はそれなりに向上心や野心もあるつもりなので、この項目全てに思い当たる訳ではないんだけど、でもこういうのって、世間的には“普通”と言われるもの。ことに自分の生活や世界を大切にする、なんてあたりは、悪いことどころかポジティブに支持されるもの。ところがこれを徹底的に、完璧に、100パーセントに遂行しようとすると、これがとんでもないことになるのだということを見せつけられる。彼女はそうした自分の世界のカラを決して破ろうとしない。愛する相手が出来ても、その彼によって世界が変えられそうになると、強烈に固辞し、「あなたとは住む世界が違うから」と別れてしまう。逆に自分の世界に近そうな男を見つけ、この人の前では自分自身でいられる、と思うと、彼の抵抗をことごとく否定し、自分の世界に引き入れようとする。そのための理論武装が凄まじいんである。
冒頭に示される、彼女の日常生活。空き部屋を叩く新聞の勧誘に、そこ空いてますよ、と教えるまではいいが、彼女に勧誘を試みようとするのにピシャリと、私、新聞は取りませんから、と言ってドアを閉めてしまう。すごすごと自転車をひいて去る新聞屋さんの後姿に、冷え冷えとしたものをすでに感じてイヤな予感がする。
彼女が最初に出会うのは、リッチマンの勝野。彼は、有能なのにつまらないポストでくすぶっている(ように彼には映る)、サエない格好をし(ているように彼には見える)、ボロアパート(にしか彼には見えない)に住んでいる光子を見出し、惹かれ、豪華なドレスや高級レストラン、そしてもっといい部屋に移ろうという提案をし、そのどれをも彼女から強烈に拒絶され、そして別れを言い渡される。実を言うとこの時点では、光子の言うことはまあちょっと極端に過ぎるけれども、男の財力や権力で女を従わせようとすることや、自分のささやかだけれど大切な世界を否定されることに対する彼女の反発には共感するところの方が大きかった。フツウの恋愛映画だったらこういう「マイ・フェア・レディ」か「プリティ・ウーマン」かという展開に無邪気にハッピーエンドになるところを、女性の視点で否定することに対する痛快ささえ感じた。
けれども、第二の男、下川の登場から、彼女に対するいったん隠れていた違和感が増幅される。彼女は彼の向上心や野心をことごとく否定し、出来ないことをやろうとするな、あなた自身に正直になって、などと言う。彼が一生懸命にそれに反発しても、流れ出るように彼女の論は止まらない。正直、アゼンと感心するほどである。“今のままでいい”という言葉が、これほど残酷に響くとは、驚愕である。それは相手を認めているように見えて、実は否定しているから。このままの状態で剥製にでもなれと言っているのと同じことだから。相手が今の状態から変わることを彼女は許さない。今のあなたがいいから、という一見甘い言葉が、彼の可能性を、やる気を、将来を潰していく。彼は彼女の論についに返す言葉も見つからなくなり、「君は愛されない。そういう人だ」という捨て台詞を残して、彼女を置いて去る。結局下川はいったん自分の部屋(同じアパートの彼女の部屋の下なのだ)に戻り、しばし考え、彼女のもとに戻って、うなだれる彼女を抱きしめ“ハッピーエンド”なのだが、一体この先彼らがどう折り合いをつけていくのかまるで判らない。ハッピーエンドどころか、地獄の道行きのように思える。
ありのままの自分でいる、それを完璧に遂行しようとしたら、結局一人でいるしかないのだ。誰かと一緒にいたいなら、それを100パーセント通すことは出来ない。あるいは、今一人でいて、ありのままの自分でいると思っていても、そこまでに至る生まれてから今までのさまざまな環境が決定しているものだ。決して、自分だけの力でありのままでいるんじゃない。そんなことまで、まるで禅問答のように考えた。私も光子のこういう部分にはかなり思い当たるものがあるので、ありのままの自分でどうしてもいたいなら、その代償として一人でいる覚悟を決めるぐらいじゃないといけないんじゃないか、などと悲壮な考えにまで至ったのだけれど……そう、この映画を観てからずっとつらつら考えていて、とにかく書いてみようと思った時にもまだモヤモヤしていて書けなかったんだけど、今日平塚らいてうの記録映画を観て、あ、なあんだあ、実践している人たちがいるじゃない、とすっかり嬉しくなってしまった。お互いに強力に愛し合い、生涯つれそいながらも、お互いに好きな道、世界を譲らずにいた平塚らいてうとそのダンナの奥村博史が。……でもやっぱりこれは彼ら二人が強烈な自我を持っていたからこそで、やはり常人とは違うんだろうな。ものすごく理想だけど……。
そう、光子が、世界が違うということを再三言うのに対して感じていた違和感も、このらいてうの映画を観ていて氷解したのだ。光子はリッチな生活をする勝野に対して、自分とは住む世界が違うという。ならばその生活に慣れればいいという勝野に対して、私は自分の生活を恥ずかしいと思ったことなんてない。それが好きで満足しているの、あなたは私を見下している、と言い、拒絶する。光子の言うことは一見完璧に筋が通ってそうに見えて、微かなゆがみをはらんでいる。世界の境界線を作っているのは光子の方なのだ。見下しているのは光子の方なのだ。“恥ずかしいと思ったことなんてない”とわざわざ言うということは、それが客観的、世間的にはそう思われるということが判っている、というか、そう規定しているのは彼女の方なのだ。
で、なぜそれが、らいてうの映画を観て氷解したかというと、もともと女性は男性にずっと隷属してきた歴史があって、現代にあってもそれは決してなくなってなどいない。残念なことだけれど、男性と女性が同等の、同じ世界の同じレベルに立つことはいまだ不可能なのだ。あるいは、こう言ってもいい。男女の差に限らず、ひとりひとりは違う人間。同じ世界、同じレベル、そういうものはいわばナンセンスなのだ。だからそういう規定が前提にあったら、異性どころか誰とも付き合えない。厳密な三人劇に仕立てているせいもあるけれど、光子に友人の匂いがまるでしないのは、やはりそのあたりに原因があるのかもしれない。らいてうとそのダンナ、あるいは彼女と関わった人たちは、そういう規定の前提がなかったのだ。だからこそ理想が現実になり得た。
実をいうと光子に対する拒否反応というのはもっと根本的なところにある。公務員である彼女は劇中で勝野から言われる台詞からも判るように、何もこんなワザとらしく貧乏くさい生活をすることもない、レベルアップするぐらいのお給料はもらっているんである。それが、気にいらない。そうじゃないのなら、本当の意味での分相応の生活をしているんなら、“住む世界が違う”発言も判るけれども、これって働くことに対して得るお金の価値観に対する冒涜なんじゃないかと思っちゃうんだもの。ああ、なるほど、向上心や野心がない彼女だからこその選択なのかもしれないけど……。でもクリーニング屋でもらう針金ハンガーまでいくと、その自己演出にはさすがに腹がたってくる。逆説的なナルシシズムじゃないかって思えちゃって。もっのすごい狭く有刺鉄線張って、ちくちくちくちく針出してて。それなのに好きになった相手にはその中に巻き込もうとして、そのちくちく出た針で傷つけて。彼女が相手を説得しようとすればするほど、その針は深く深くくいこむのに。
でもそういう自己演出に対する拒否反応も、どこか同属嫌悪のような気もして、ますますイヤな気分になってくる。これはすごい脚本だと思うんだけど、光子の重ねに重ねまくる世界論は、実はその核はそんなに言論武装するほどのものじゃないのだ。彼女自身が作り上げた境界線の中の広さぐらい、ちっぽけなもの。だから、彼女自身が言うように、言えば言うほどウソになる。でも彼女がその狭さに気づいているかどうかは疑問である。あるいは、あの時、突然泣き崩れた時、「私はこうしかなれないのよ!」という言葉は、そのことを判りすぎるほど判っているということのようにも思える。そのひと言に集約されてしまうことこそが彼女の最も恐れていることだったのではないか。でもね……だから、確かに変わる必要なんてないのだ。二人でいる意味はどちらかがどちらかの世界に属することではなく、どちらかの期待に添うことではなく、ただ二人でいればいいのだ。二人でいることで生まれるサムシングを大事にすればいいだけのことなのだ。……そうじゃないのかなあ?
本作が長編デビューだという万田邦敏監督。「宇宙貨物船レムナント6」は気になっていたんだけど観逃してしまったんだよね……。本作に関しては脚本にしても画作りにしても出来すぎというか、そう、画がね、画面の奥と手前に二人を配置してピントを移してみたりとか、手を重ねたり握ったりするカットをアップで撮ったりとか、何というか……絵コンテが見えちゃうような感じで、美しいんだけど、出来すぎで、気持ちにまでは響いてこなかった。静謐で、そして張り詰めた空気感はとても好きなんだけど、その中で演じられる定規みたいな演技もキツくて。下川役の松岡俊介だけは適度な熱と柔らかさを感じたけど。
何だか近頃、やたらと30代とか30前後とかの女性に対するマスコミなどの言及が多い気がして、それは自分が当てはまるから目に止まっちゃうのかも知れないけど、そのどれもが閉塞感に息詰っているみたいで滅入ってしまう。本作も、そう。「ハッシュ!」も似た年代だったけど、いい方向に突き抜けたな、と思ったのに、「Laundry」や本作でまた逆戻り。ああ……結局、自分に反映して観ちゃうから素直に受け取れないのかなあ。正直な本能的な感情としては★☆☆☆☆、作品の完成度に対する気持ちとしては★★★★☆(いや★★★★★かもしれない)、と自分の中でものすごくギャップがある作品。決して“普通です”っていうことでは、ない。落ち着いて観られない、今は……。★★★☆☆