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マイ・ビッグ・ファット・ウェディング/MY BIG FAT GREEK WEDDING
2002年 96分 アメリカ カラー
監督:ジョエル・ズウィック 脚本:ニア・ヴァルダロス
撮影:ジェフリー・ジュア 音楽:クリス・ウィルソン/アレクサンダー・ジャンコー
出演:ニア・ヴァルダロス/ジョン・コーベット/マイケル・コンスタンティン/レイニー・カザン
ところで、この映画で“日本の結婚率が上がる”って?うっそお。だって、日本の女性たちは、こういう結婚をしたいと思っているのかなあ……などと思うのは、家族と恋愛の関係においてはそうかもしれないけれど、このヒロインが仕事の部分までどっぷりと家族につかっているから、そんな疑問がわいてくるのであった。家族経営のレストラン「ダンシング・ゾルバ」でウェイトレスをしていて、日々楽しいことも出会いもなく、どうにもこうにもウダツのあがらない、で見た目判りやすいブスであるトゥーラが、ハンサムな男にひとめ惚れをして大変身を遂げていく話、なんだけど、まずその仕事の面で……彼女が内面を磨こうと大学に通うことを決心するのは、旧態依然の内部事情であるこのレストランにコンピューターを導入して……というのが一方の理由だった。どこかナアナアでウェイトレスをやっている感じのトゥーラが自分の力で仕事を充実したものにしたいと思っているのね、感心、感心、と思っていたら、彼女がそのコンピューターの技術を生かして就いたのはおばの旅行代理店。んん?あれ?レストランは……?そのために大学に行ったんじゃなかったの?それともまだ在学中で、アルバイト、ということなのかなあ。でもそれにしても、またしても身内で仕事に就いちゃうべったりさに、やっぱり日本の仕事をする女性、との意識は離れているように思えてしまう。しかもその後、やっぱりトゥーラは「ダンシング・ゾルバ」に戻る描写は現われないのだ。……あの大学に行く理由は何だったの?
やはり、大学に行った理由というのは、内面からも自分を磨いて、あのハンサムな青年にもしもう一度会えた時、自分が変わっていたい、ということだったのだろうか。……ま、いいけどね。でもそれじゃ仕事に対する女性の意識、という点ではここにはまるで入ってきていないから、余計に共感しにくいって気がする。だって、仕事をしていて、で結婚に尻込みしている女性は、つまり人間としての自立を願っているから、なんでしょう?違うかなあ。で、内面はこれでいいとして、外見。まあ、これがあぜんとするほどに判りやすい方法で……めがねを外し、ケバケバのメイクとハデハデのヘアスタイルで、美人いっちょあがり、ってんだからマジかよ、と思う。メガネを外せばあら美人、なんていつの時代の設定かしらと思うし(シャレたデザインのめがねにすればいいだけでは……)、私は正直、ケバメイクのトゥーラよりスッピンの時の彼女の方がよほど良かったように思う。
つまりスッピンのトゥーラがブスだったのは、あの時の彼女に笑顔がなかったせいで、決してメイクしてなかったわけじゃないと思うのね。それに、メイクして美人で、それで男がひっかかった、だなんて、いくらなんでもあんまりじゃない?まあそりゃ誰でもまず外見で判断するんだろうけれど、彼、イアンは友人から女性を紹介されていた時、どの女性も同じに見える、と言っていたじゃない?彼の見どころはここにこそあって、メイクをしたトゥーラというのは、それこそ“同じように見える女”でしかないように思えるんだけど……。それに彼があの「ダンシング・ゾルバ」で一度会っている彼女と、自分から声をかけた彼女が同じ人物であるということに「覚えている」というだけで、どう思っているのかサッパリなのもどうかと思う。だって彼は素顔の(それはメイクの有無というんじゃなくて)彼女を知っているわけだし、何か思うところがあっても良さそうな気がするけど。
で、メイクで美人、のトゥーラが彼と首尾よく付き合うことになって、でどうすんの、そのメイク、ずーっとしたまんまなの?と思っていたら、本当にしたまんまだった。うわあ。ベッドインしてる時も、顔だけバッチリ勝負メイクのまま。ナチュラルメイクにもなってない。彼女が彼といない時でも、例えば朝ベッドで目覚めた時とかでも、やっぱりしっかりメイクしている。これは……いいのか、トゥーラ。一生片時も、素顔の自分を見せないつもりなのかなあ……。女は化粧でしか変われなくて、そんでもって化粧をしたらその仮面をはずすことも出来ないの?それともこれはメタファーで、“メイクをしたトゥーラ”というのが磨き上げられた末の彼女の素顔になった、とでも言う気かなあ……まさか。
うーん、何ていうか、幸せになる過程、幸せの種類、その間口がえらく狭いって気がする。この映画において選択されているそれが、“現代の結婚率を上げる”というほどに、現代に即してないし。そりゃ、いつの時代になっても変わらないものはあるけれど、女性が願う幸せの過程、種類は、過去と比べて大きく飛躍したはずで、だからこそ結婚という、人類の基本構成をなすための土台である“幸せ”をつかむことが逆に難しくなった。で、その点を本作がどうクリアしているかっていうと、男性側を女性側に100パーセント引き込むという、そりゃいくらなんでも、という方法によってなのだ。
確かに描写は面白い。トゥーラはギリシャ系で、その親戚の隅々まで集まる陽気な集団は、イアンのみならず彼の上品で静かな両親までも巻き込んでしまう。目を白黒させながらも次第に楽しげに彼らとシンクロしてしまうイアンとその両親の描写は、ま、いいんだろうけれど、私は少々苦々しくも思う。だって、どちらかといえば、私は彼の両親側のタイプなんだもの(上品じゃ、ないけどさ)。で、こういうポジティブ全開の人たちに、自分の構築してきた世界があっという間に破壊されることに抵抗がある。もちろん、そのことによって自分の狭かったり暗かったりするカラが破られるのはいいんだけど、それ以上に、これって強制に近いものを感じるんだなあ……イアンのみならず、彼の両親までもギリシャ式に従え、みたいな。そうでなければトゥーラの幸せな結婚はありえなかったのかもしれないけれど、だったら結婚は男と女の平等な関係のもとに成り立っているとはどうも思われない。だって、結婚に際して彼女側のお父さんから新居のプレゼントがされ、それが彼女の両親の隣の家、だなんてこれは彼と彼女の個人的な結婚の意義さえ、なくしてしまっている気がするもの。完全に、家の結婚。しかも彼女側だけの。まあ……家の結婚が男性側のもの、でないという点が新鮮なのかな、確かに。でも、長年そのことで女性は苦しんできたのに、それをそのままひっくり返すだけというのも、あんまりな気がする。
そういえば、結婚の問題って女性の側からしか語られないし、男性にとっては何か通過点のひとつに過ぎないのかなとさえ思うことがある。女性に結婚が普遍の問題として語られるのは、甘い砂糖菓子の幸せとしてだけじゃなく、今は無論、人生における最大のシビアな問題としてなのに、こういうのを見るといまだにその点が誤解されている気がするし。あ、でもこの映画はもともとこのトゥーラ役のニア・ヴァルダロスがひとり芝居していた戯曲で、で映画用の脚本も彼女の手によるもの、ということは……うーん、じゃあ国民性の違い?彼女は、“総ての少数民族と同じ”と語っているけど……そうだろうか。あるいは芝居は確かにデフォルメが重要な部分を担っているけれど、映画になるとリアルな目で見られる部分が芝居より多くなるから、かなあ。
ノースター映画である本作が、ハリウッドで大健闘したことについて、単純に面白い映画が人々に受け入れられる、という図式がこれほど長々と語られているというのも、まさしくハリウッドの異常性だな、と思う。確かに単純。最近スジばかりが複雑になって、それでいて描写は単純のままのハリウッドには新鮮なのかも。
ところで、邦題からGREEKは外さない方がよかったんじゃないのかなあ。だってこここそが重要なんだし、これを外してしまったら、ホントに平凡なタイトルのただのハッピー映画に見えるじゃない……実際そうだけど。★★☆☆☆
女が語るのは、7つのつまらない話をする男の話。男が語るのは、ショートホープにその名そのままのささやかな願いをかける女の話。その話す異性に、それぞれが関わりたいと思っている。でも二人のとっている位置は微妙。カメラは引き、波は寄せては返し、煙草の吸殻は砂浜に埋められる。
このけだるさ。一人の男と一人の女だけでここまでの雰囲気を作り出す猪俣ユキ、やはり恐るべし。彼女が監督する長編作品を早く実現させてほしい。★★★☆☆
例えば、こう。えもいわれぬ美味しい料理を口にして、「何かとりあえず、今日あった嫌なことなんて全部忘れて、明日も頑張ろうって感じ!」とヒロインの渚がスラスラと並べ立てるこの“美味しい”のリアリティのなさ。それをカヴァーしようとしているのか、表情の変化も実にハッキリと判りやすく、料理を口に運んだとたん、んん!とばかりに破顔一笑、テレビの料理バラエティじゃないんだから……と嘆息してしまう。
このハワイで自分のやり方ばかりを押し通し、どうも切羽詰まっている渚を連れ出した潤とエミーによって、彼女はこのハワイでの時間の流れや、人の気持ちの大切さ、待つことの大切さ、などなどを学ぶんだけど、これまたそれを彼女はこれこれ、こういうことなのね、判ったわ、とやけに詳細に説明してくれちゃうんである。いや、さあ……言ってくれなくたって、判りますよ、それぐらい。バカじゃないんだから、と言いたくなる。そんなに観客が信用できないのかなあ。しかもこの映画の運命のアイテムであるパレオの哀しいいわれを聞いた渚、いくらなんでもいきなり泣き出すのはあんまりじゃないの?泣くことが感情の流れの表現だなんて、そんなヤボな。そして、これはさすがに本当にあんまりだと思ったのか、わざわざ「ありきたりだけど」と前置きして「地球って、凄いよね」……その言い回しがありきたりだと思うぐらいなら言わないでほしいわ。だって、もっと雄大な感覚で、そんなことやっぱり、言われなくても判るんだから。タイトルに使われているマナだって、そう簡単に説明できる言葉じゃないんでしょ?だったら……。
それを判らせるために、言葉なんか必要なくするために、ヒロインをこのハワイという土地に立たせたんじゃないの?でも確かに……そんな風になるのもムリないくらいにハワイ、という感覚を起こさせないのも、確か。だってハワイアンの人々の登場はほんの数人で、彼女が直接的に関わる人々は、これが見事に日本人ばっかりなんだもん。一応ハワイにずっと住んでいるという設定ながら、これじゃハワイでの人のふれあいによるうんぬん、などというのをリアリティを持って感じるのはかなり、かなり難しい。しかも彼女の泊まるペンションのオーナーを演じる蟹江敬三はかなりのマンガチックなキャラの造形になっており、そう、それが風変わりな、とかそういう雰囲気にとどまっていればこのハワイの不思議な力の一つになっていたんだろうけれど、も、はっきりマンガチックなんだもん。で、彼の出す料理がそれこそマジックなわけだけど、前述のように、そのマジックをご丁寧にぜーんぶ言葉で説明してくれちゃうから、全然マジックじゃなくなっちゃう。
渚がハワイで出会う潤は、父親の経営するリゾート会社の仕事をこなせないでいる。で、彼が父親から言われているのが、「哲学がない」ということ。これ、凄くよく判るんだよね。料理も哲学だと、思う。で、この映画にも、それこそがないんじゃないかと思う。だから料理も説明しまくっちゃう。潤はそんなこと言われたって判らないと言い、そんな彼に渚は、このハワイで、その時間を、空間を楽しむことこそが大切なのを教えてくれたのはあなたなのよ、と言う。潤の、判らない、という言葉と、それに対する渚の答え、そのものズバリ、この映画と観客との距離を示しているような気がしてならない。映画における哲学、というのは、そりゃ本当に難しいことだと思う。人それぞれの受け止め方をするしかない映画だけれど、でもその中に、その人の感じ取れる哲学があるかどうかが決め手になるんじゃないかと、この「哲学」という言葉を聞いて、思った。哲学も確かに言葉で説明するけれど、説明しきれないところに本質があるんじゃないかと思うからだ。
この映画の中で言及されている、待つこと、の大切さも、言及されているだけで、それが表現されているかというと、やはりすこぶる怪しい。私は、待つことが映画の中で表現されるとき、それはとてつもなく、もしかしたら映画において最高に美しい表現であり、時間なのではないかと、思っている。ただ待つこと、それだけでとても美しくてそして切なくて、そして何より幸せな時間なのだと。待つことが大切。そのことに渚は気づいた。確かに劇中の渚は気づいたのだけど……映画の語り口は、この渚よりも本当に心が自然に氷解するのをただただ待っていてもいいはずの相手に、ムリヤリのきっかけを作らせてしまうのだ。彼女の娘によって。確かに人生のある場面によって、強引なキッカケというのは必要だとは思う。でもこの映画の流れの中でこんな風に提示されると、やはり起承転結の中のピースにすぎないんじゃないかと感じてしまう。息子が死んでたった1年で、こんなに強引にユミの心を引き戻していいものなのだろうかと。映画があって登場人物がいる。そりゃ確かにそうなんだけど、この映画によってユミの、もっと待ってほしかった時間が、ひどく短縮されてしまったような、気がした。
井坂監督は、破綻なくきちんと映画を作り上げる、その職人的手腕が頼もしい人なんだけど、ここ最近はそれがどうも裏目に出ているような気がして仕方がない。隙間やアイマイな部分をいじくらないような大胆さが映画的表現に昇華していたような部分がすっかりなくなって、語って語りすぎるために、何だかこんなにキュウクツになってしまっている気がして。舞台はリゾートではないハワイ。田舎のハワイ。それは多分、その風景を黙って信頼して映し出しているだけで、何かが生まれる、そんな気がするし、観ているこっちもそんなことを期待していたような気がする。でもリゾート地のように饒舌じゃないハワイに不安になったのか、隅から隅まで解説してしまった。
潤に扮する西島秀俊は、華やかなヒロイン、川原亜矢子の相手役になるには意外なほどに、地味なお人である。しかし、彼のそうしたあっちこっちにある懐、隙間、サムシングが、それこそが、この映画に求めていたことなのだ。西島秀俊にもまた説明的な台詞はかなり与えられてはいるんだけれど、これはやはり彼のパーソナリティーなのか、そうした押し付けを感じない。西島秀俊は普通に見えて普通じゃない。特別なポケットのある人で、それが時々ドキッとするほどの、色気ともいえる深さを感じさせるのだ。ラストシーン、川原亜矢子とキスシーンくらいさせろよな、と思った……これはスター、川原サイドでストップがかかってたりして?
でも、その川原亜矢子、私はとてももったいないと思った。彼女は自分でも言っているけれど、実際はこんなに早口で喋る人じゃない。むしろのんびりとした口調でその声は実に魅力的にポワンとしていたりするのだ。確かに彼女は背も高くてスタイルバツグンで、こんな突っ走ったキャリアウーマンが似合う外見ではある。でも彼女の良さは、そんなのんびり、おっとりした部分、そしてそれが外見とのギャップをかもし出すところにあって、その魅力がすっかり殺されているこの役に、もったいないなあ、と残念しきりなのであった。やたらくっきりした表情の変化も、これはモデル時代に身につけたものなのか、監督の指示なのか判らないけれど、彼女がもともと持っているパーソナリティーや、演技力とはやっぱり、違う気がする。この人はちゃんと微妙なサムシングを演じられる人だと思うのに。外見のイメージ、あるいは世間一般の、スーパーモデルであった彼女へのイメージは、確かにこれなのだろうけれど……。彼女、井坂監督作品には二度目の登板だけれど、前作もカッコイイ大人の女で、正直印象は変わらない。これは、もったいない、と思う。彼女の実際の喋り、とても可愛らしいのに。声、語り口に個性がある女優は一番特だし、映画向きだと思う。外見で可愛いとかキレイとかいう女優がいっぱいいる中でぬきんでることが出来るし、何よりリアリティや生々しさを感じさせてくれるから。ベテランなら桃井かおり、大竹しのぶ、若手なら広末涼子や池脇千鶴が思い浮かぶ。しかも川原亜矢子は関西出身、関西弁の彼女なんて、実に見てみたいのだ。
“一年前”なんていうクレジットにもうわっとさせられたりして……とにかく最初から最後まで、あまりにも説明しすぎでヤボなんだよー!★★☆☆☆