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「な」


2003年鑑賞作品

ナイン・ソウルズ
2003年 120分 日本 カラー
監督:豊田利晃 脚本:豊田利晃
撮影:藤澤順一 音楽:dip
出演:原田芳雄 松田龍平 千原浩史 鬼丸 板尾創路 KEE マメ山田 鈴木卓爾 大楽源太 國村隼 北村一輝 瑛太 伊東美咲 京野ことみ 唯野未歩子 今宿麻美 鈴木杏 松たか子 井上順


2003/7/22/火 劇場(テアトル新宿)
脱走するとはいうものの刑務所に収監された罪人たちによる群像劇で、というと、ついこの間の「刑務所の中」をふと思い浮かべるけれど、これが不思議なほどに(というのもおかしいのかもしれないけれど)違うテイスト。少々笑いを含んでいるところはちょっと共通するような気もするけれど、絶望的な孤独の中に、どこかペシミスティックなカタルシスがあるというか、その絶望的な孤独の魂が集まった時に、孤独の結束とでもいうような仲間意識の切なさがあるというか。豊田監督は男性のリリカルを撮れる人。正直女性に関しては役者のチョイスからして面白味がなくてアレだけれども(この売れ線の女優たちの選択には、なんか事務所のコネとかの意図的なものを感じなくもない)、暴力的で流血もバンバン描かれながら、この豊田監督が描く男たちはロマンティシズムとリリカルにあふれているのだ。時に流血に嵐のような豪雨が重なったりする。それはあふれる血がそのままあふれる涙に感じさせて、本当に、不思議にリリカル。

エッジの効いた男映画でありながら、結構躊躇なくファンタジックな幻想やそれを描くCGを印象深く持って来られるのが、この監督の凄いところ。青い空にぽっかりと浮かぶ雲はおたまじゃくしからカエルの形になり、いくつも見つかる四つ葉のクローバーは、皆が散り散りになってしまった後、雨の中でその葉を散らし、死んだ筈の恋人がキスで出迎え、別れた筈の仲間たちが三々五々、集まってくる……。極めつけは、荒野に突き刺さるかのごとくにただ一つ、ぽつんと残された東京タワーと、その真っ暗な空間に“何でも開けられる未来のカギ”がカチャリと差し込まれるシーンで、絶望的な気分はそのままながら、マッチの灯りほどの希望がともされるような気もする。それはでも、もしかしたら、死による逃げ道なのかもしれないけれど……。

最初、男たちは10人だった。一緒の房に収監されている10人。しかしそのうちの1人が、富士山のふもとの小学校に埋められた、タイムカプセルの中のニセ札、という情報を提示して、つまりは脱走を促し、ワザと騒ぎ、ひとり刑務官たちに連れ去られてゆく。この男の存在はメタファーを感じさせる。それは、そのあと誰かが言った、「男には9つの穴がある。でも女はひとつ多いんだ」という台詞。この男が抜けたからこそ9人になった彼らに対する、この男の存在というのは女、息子を外の世界へと出してやる母親、みたいな象徴に感じるから。そう、ウソをついてでも、息子を外に出してあげたい、と。そして彼が歌ったヤケクソ気味の歌は、ドラえもん。♪こんなこといいな、出来たらいいな……と歌うその歌は、外への希望を感じさせながらも、総てが終わった時にふと思い出すと、やはりそれはあまりに非現実的な憧れだったのだ。でもそれだけに、刑務所の中と外、罪人という形を借りながらも、そこには外の世界におびえ、しかし出て行きたいと願う人間の葛藤がある。

この男たちの中では最も若く、父親殺しで収監されていた未散は、10年のひきこもりであり、彼を見捨てた父親に絶望して殺しに至った。冒頭、ギチギチに建物が密集していかにも息詰る大都会が空撮され、ふと気づくとひとつ、またひとつと建物が消えていき、あっと思うと一気に荒野になって、東京タワーだけが突き刺さる風景が彼のアップにオーヴァーラップする。都会に閉じ込められている私たちが、外に出て行くためには、つまり自由を獲得するためには、何かを排除しなければならない。でもそこには犠牲がつきまとい、また別の拘束が待っており、そこを脱出するにはまた……。私たちもまた、このギチギチの大都会の中にひきこもっているんであり、自由になりたいと願っても、一体自由って何だろうとも思う。自由は何かを生み出すのだろうか。何かを生み出すものは、それは全くの自由からは生まれないんではないだろうか。

この男たちは、自分たちのいる刑務所から脱走することで、まず単純な自由は得ている。しかし彼らが行きたいと望む先は彼らが元いた世界、そこへの安住であって、自由による新しい世界ではないのだ。そして彼らはひとり、またひとりと少しずつバラバラになってゆく。元いた世界に戻ることなど当然叶わず、彼らは捕まったり殺されたりする。元いた世界は、もはや元いた世界ではないのだ。愛する女性のもとに戻りたいと思っても、その彼女の目の前で再び捕まってしまう男、愛する女性が既にいない事実を受け入れられず、幻想の彼女を夢見ながらこときれる男、「小さな田舎町で喫茶店を開いて、住民に信頼されるのが夢」と語り、その理想そのままの喫茶店にホレこんでアルバイトに入るも、当然通報されてしまって自らをボコボコに殴って倒れこむ男、自分と弟の自由を勝ち取るために父親を殺したのに、その弟が父親と同じ種類の男になり下がっているのに絶望して弟までも手にかけてしまう男……彼らにとって焦がれた“元の世界”は、決して元の世界では、ないのだ。

彼ら一同の一応の共通目的であった、ニセ札が入っている筈のタイムカプセルの中には、おもちゃのガラスのカギが入れられているだけだった。ガラス?プラスティックのようにも見える、つまりは透明のがっちゃいカギ。“何でも開けられる未来のカギ”と命名されたそのカギを「お前にやるわ」と言われた未散は懐にしのばせる。彼がそのカギを次に取り出すのは、殺した弟の返り血を浴びて全身真っ赤に染まっている時。人質といいながらもはや死んでいる弟とともに何の目的もなくボンヤリと篭城している彼の耳に、クラクションの音が届く。それは彼を探しに来た虎一だった……このシーンは、メロディアスなギターにこのクラクションが音楽そのものになって重なる、非常に印象的なクライマックス。そして未散が窓を開けてみると、そこには冒頭と同じように真っ赤な荒野の中に突き刺さった東京タワー。それに向かって未散は“未来のカギ”を差し込む。カチャリ、と。

リーダー格の虎一は、「遅刻は絶対に許さない」というワンマン男で、「年功序列」だと言って彼らを傲慢なまでに取り仕切る。しかし仲間がひとり、またひとりと自分の世界へと下車していく(まあ、とりあえずは)ことに、彼の寂しさは隠しようもない。彼は言う。「息子は俺に、殺して欲しい、と頼んだんだ」元医師で、自殺幇助の罪で捕えられていた白鳥さんが、そんな彼の告白を優しく聞いてくれている(……というのも、切ない幻想である)。息子殺しの虎一と父親殺しの未散は、どこかプラスとマイナスみたいなところがある。傲慢な虎一に未散はかつての父親を見たのか、ことごとに反発するものの、それは父親に対してそうした反発さえ出来なかった彼の願望のようにも思える。そして虎一は、死にたがっていた息子を愛しているがゆえに殺したことを、この未散を見るたびにそれが唯一の選択だったのだろうかと、苦悩するのだろう。未散が父親を殺したように、もしかしたら息子は自分を殺したがっていたんではないかと、感じたのかもしれない。

虎一はまな娘の結婚式に駆けつけるものの、当然のごとくこの娘から拒絶されてしまう。しかし彼女が息子につけた名前には彼の名前の文字が使われており、しかしそこにもどこか、言いようのない寂しさがあって……つまりはもう、彼、父親自体は彼女にとって必要ではないんだという……彼は脱走に使っているバンに戻り、数少ない残りの仲間たちが戻ってくるのを待っている。「遅刻は絶対に許さない」と言ったくせに時間がきても「もう少し待ってやったっていいだろう!」と言って待ち続ける。彼は、みんな一緒に逃げたかったに違いない。彼は来ない仲間を探しにバンをひた走らせる。

「青い春」でも良かったマメ山田がかなりさらっている。小さな体で脱走の名人である彼、白鳥は、しかしただ一人の常識人の趣。彼が一番先に、自分の居場所を見つけるのだ。しかも彼のその場所は、元のとおりの元の場所。たった一人、安住の場所を見つけた男。田んぼの中に突如あらわれる光り輝くのぞき部屋はかなりシュールだけれど、その中に彼が腎臓を提供した女の子がいる。「先生が来るのをずっと待っていた」とささやくストリッパーを演じるのは伊東美咲で、正直ストリッパーを演じるにはかなりの実力不足だけど……。小さな穴から小さな手を出し、彼女の傷跡に触る白鳥……奇跡のようにここだけが幸福に満ちた場面。

愛する彼女を、死に瀕しつつ幻想に見る猿渡に扮するKEEもイイ。「火星のカノン」の切ない真鍋君が実に印象的だった彼は、ここでもかなりの切なさの度合で美しく自滅してゆく。彼と幻想の中でのキスシーンを繰り広げるのは「blue」でいい味を出していた今宿麻美。非常に内面的なものを感じさせる美しいキスシーンで、彼ら二人のセンスが光ってる。

この映画の見どころのひとつが、逃亡ために扮する、あまりにムリがキツい9人の女装姿で……だってひとりだけならまだしも、この9人のいかつい男たちが皆して女装じゃ、そりゃムリだっつーの。物凄い開き直ってる千原浩史、小柄だからなのか女子高生になってしまうマメ山田、コワすぎる原田芳雄、そしてさすが若いだけにちょっとイイ線行ってるかもしれない松田龍平(でもやっぱり骨格ゴツい。華奢に見えるのに、やはり男性ね)……うーん、凄い。これだけでもこの映画は語られる価値があるよなあ……。
髪を切るととても幼い感じの松田龍平は、今までにはない狂気、である。そう、角度によっても、驚くほどに幼く見える。そしてそれは、昨今の不条理なまでの少年犯罪を思い出させもするのだけれど、そこに何があったのか、何かどうしようもないものがあったのではないかと思わせるのに、彼のやりきれなさ、感情を表現することに不得手な少年の哀しさが成功させている。うん、やっぱり松田龍平をリアルタイムで見られるのは幸せだな、と思う。

最後に虎一が見る幻想は、総ての仲間たちが何事もなかったように集まってきて、白い雲が浮かぶ青い空のもと、皆して気持ち良さそうに天を仰ぐショット。あのタイムカプセルが埋まった、時間が止まったような富士山のふもとの小学校の校庭で。このラストシーンに、人生の何を馳せようか。まさか希望、じゃないよね。幸福でも。でもだからといって絶望ではない、と思うのも不思議だけれど。★★★☆☆


ナオと僕
2003年 13分 日本 カラー
監督:猪俣ユキ 脚本:
撮影:音楽:
出演:永山竜弥 木下ほうか 上原奈美 三輪ひとみ 三輪明日美

2003/11/18/火 劇場(テアトル新宿/Hello New Generation! vol.U「FREESTYLE SHORT MOVIES」/レイト)
この猪俣ユキという才能に「17才」で唐突に出会って、実に驚かされた。脚本も手がける彼女、その「17才」の彼女の脚本世界が実に独特な空気を放ってて。このたった13分の超短編でも、いや短編だからこそ、そのエキスがギュギュッと濃縮されている。ひとことで言えばセンスがいいんだけど、しかもそのセンスというのが彼女独自のオフビートで、非常にアーティスティック。現代アートを思わせる。この作品も、まず一見してその画面の手触りがいい。まず絶対にフィルム。しかも、絶妙にボカシ気味に柔らかい輪郭で映している。これはキッカリとワザとの、手作り8ミリフィルム風の懐かしさと、冬の、小春日和の暖かさみたいなものを感じる。画面の中を作り込まなくても、こういう画面自体の“空気”が非常に洗練されている。タイトルも懐かしさとキュートさが出てて秀逸。

「17才」では監督に迎えた木下ほうかが面白い。これもまた、“監督”猪俣ユキの感性が良く出ている。タイトルロールである美少年ナオの親友で、彼の後をいつもくっついているノブーキーという青年。青年……うーん、年的にノブーキーがいくつに設定されているのか判らないけど、しかしかなりサバを読んでいることは間違いない。ニットの帽子にヒッピー風?のポップな格好、舌足らずな喋り方と動きも何となく舌足らず風。こんな役を彼にふるなんて、と思いつつ、実にこんな役が、まるで木下ほうかを当て書きしたように、そのままそこに存在しているんだから凄い。いやこれは確かに当て書きに違いない。で、そんな当て書きが思いつくこと自体が凄いのだ。

ナオとノブーキーがいつものように二人歩いていると、木に引っかかっている赤い風船を見つける。それには文通希望の女の子の手紙。ナオは手紙を送る。返事が来る。それを繰り返す。赤いポストをこっそりと行き来するナオと、それをこちらもこっそりと見守るノブーキー。風船やポストの赤や、こういうカッティングも実に才能を感じる。

文通相手のその女の子は、会ってみると小学生だった(しかしメイクがキツいし、絶対小学生じゃねえだろ、お前……)。彼女は恋人がいないというナオに寂しいでしょと言うんだけれど、ナオはそれを否定する。彼女は「一人は寂しいの!」と強硬に主張する。どうやら家庭環境に恵まれていないらしい。
ナオが、恋人がいなくても寂しくない、というのはノブーキーの存在があるから。ノブーキーがナオのことを大好きなのは一目瞭然だが、ナオもまた、こんなノブーキーを好いているらしい。「いつも僕の後ろにいる」とこの彼女とデート中にも振り向くと、確かにちゃんとそこにノブーキーが隠れている。完璧ストーカー(笑)。でもそれをナオがちゃんと判ってて、というかいつも自分のそばにいるということを確信して、信頼して、信じてて、それが何かイイんだなあ。気持ちとかそういう湿った感じじゃなくて、もっとポップな部分でのイイ感じ。

これもまた「17才」からの、多分盟友同士であるんであろう三輪明日美ちゃんがセーラー服姿で登場。いまや人妻であり母よ……(涙)。で、この作品では明日美ちゃん、助監督も務めているのだ!いずれ明日美ちゃんの監督作品とかも観られる日がくる、かも!★★★★☆


茄子 アンダルシアの夏
2003年 47分 日本 カラー
監督:高坂希太郎 脚本:高坂希太郎
撮影:白井久男 岸克芳 音楽:本多俊之
声の出演:大泉洋 小池栄子 筧利夫 平野稔 緒方愛香 平田広明 坂口芳貞 羽鳥慎一 市川雅敏

2003/7/30/水 劇場(有楽町丸の内シャンゼリゼ)
一体どうしてまたそんなにハマっちゃったのか、ここ一年ほどよーちゃん(大泉洋氏)にとち狂っているので、しかしたった一年前にようやく気づいたというのもああ、もう遅すぎた!と歯噛みしているくらいなので、もう今回の主役大抜擢には小躍りどころか大躍りして喜んじまったのであった。で、試写会で観てからもう一度劇場に足を運んだのはパンフレットが欲しかったからなんだけど、パンフレットなんてよう買わんケチの私がこれまたものすごーく珍しいことなんである。でも劇場で観る感覚を確かめたいというのもあった。試写会場とか、あるいはもっとヒドいえらく狭い、いわゆる試写室なんかだと余計に、ああ、やっぱり劇場で観たかったな、と思うんである。“用意された場”で観る映画というのは、今ひとつ一般的な反応、というのが感じ取れなくてつまらないから。試写会場だと結構簡単に拍手とかしちゃうしねえ。

で、二回目の鑑賞では、一回目ではすっかりよーちゃんの声ばかりに気を取られていたらしいことが実に良く判った(笑)。二回目では、この短い物語を語る緩急の上手さに、うなったのである。それは自転車レースそのものの緩急と、物語の緩急。しかもその中に群像劇を盛り込み、過去までも盛り込み、それらが職人の腕で非常に洗練された形になり、すがすがしいラストへと収斂されていく。こうしたスポーツものの題材の場合、クライマックスが最大の見せ場、みたいなところがあって、確かに本作もそうなんだけど、本作はそのあとの力の抜けた感じが、素敵なのだ。

灼熱の太陽の下、爆走したレースを終わった主人公ペペが、日も落ち、星もちらほら見え始めた夜風の涼しげな一本道を、今度はマイペースでこいでゆく。その暮れなずむ涼しさの、まさしくハレの喧騒から抜け出た心地よい疲れが感じられて、イイのだ。実際、それまでは周囲のキャラの会話によって語られていたペペの過去が、ここでようやく自身によって回想されてゆく。レースの間の彼は、レースだけに集中していた彼だった。でもその彼の中には、こんなホロ苦い過去が確かに詰まっていたのだ。その日はかつての恋人、カルメンが自分の兄、アンヘルと結婚する日。レースは地元で、なじみの店の前を通り過ぎる時、沿道で皆が応援してくれているのも知っていた。アンヘルは「弟はレーサーだから」とレースだけに集中している彼を誇りに思っている。そのことも、ペペは知っていた。切ないジレンマ。レースの途中、自分を影の下に一瞬だけ入れてくれた大きな牛の看板?は、あの時、カルメンに失恋した時も彼のかたわらにいた。ペペはこの牛に敬礼し、そしてまた新しい一歩を踏み出していく。

彼、ペペを演じるよーちゃん……もとい大泉洋氏は、予想外の上手さ。私はすっかり嬉しくなってしまった。道外にも細々流出している番組などで見る彼はいつでもバラエティなので、本来の、役者である彼の仕事を、主役として堪能するのは(声とはいえ)初めての経験だったので、かなりのオドロキであった。どちらかといえば裏返り声の印象の彼が、レースの前半あたりなどではかなりクールに切り返していたりして、眼鏡の奥に感情を押し込めているペペがやたらにカッコいいんである(いや別に、おーいずみさんがカッコよくないってわけじゃないですケド)。対してカルメン役の小池栄子嬢は少々、もったいない気も。大人の女性を演じるということでトーンを抑えたらしいんだけど、画面でのカルメンの明るい表情とギャップがあることも結構あって、そんなに“大人の女性”を気にすることはなかったんじゃないかなと思う。

大泉氏は劇中でペペが言う「遠くへ行きたいんだ」「でなきゃ、生まれた土地か出られないだろ」なーんて言葉とはウラハラに、全国で歯噛みしているファンが大勢いるにも関わらず、北海道から出ようなんて気のさらさらないらしいお方だけれど(当然、そこがいいんだけど)、でも強烈な地元意識を持ちながら外国のチームに参加しているペペを彼が演じるのは、監督の意図どおり、確かに大きな意味がある。ペペはもともとエースレーサーではなく、チームのレーサーを勝たせるためのアシスト。しかしハプニングが起こり、彼の肩にゴールを切る重責が突如のしかかる。そんなつもりはなかったから、早い段階からアタックを仕掛けて集団をバラしていた彼にそんな余力は残っていない……ハズだった。しかしこのレースが行われているのは、ペペが久しぶりに足を踏み入れた故郷。彼自身は否定しながらも、彼は地元の大きなパワーに押されて見事勝利を飾るのだ。……それは、地元で輝き続ける大泉氏、そして悪しき中央主義への強いアンチテーゼにより大きな意味を投げかける。

それにしてもこの自転車レースというのは面白い。監督が危惧したように日本では決してメジャーなスポーツではなく、無論私も知らなかったわけだけれど、ただ単に走るとかスピードとかそんなんじゃなくて、こんなにも緻密なチームプレイによる知的なものだとは知らなかった。しかも信じられないほどの過酷な状況下で行われ、その上で一分、一秒という正確さで繰り広げられるのだから。この中編という限られた時間内において、どれだけそれを自転車ビギナーに伝えられるか、というのがこの映画のひとつの勝負であったのだろうと思う。実際は気の遠くなるほど長丁場になるレース、だからこそさまざまな面白さがあるはずのそれを、映画の武器であるビジュアルを駆使して魅せる。カメラ角度やテレビ画面、砂嵐やクラッシュなどなど、さまざまに見え方を工夫していて、自転車の群れがゆるやかなライン上に並びながらも、凄いスピードで疾走している、といった華麗さに感動する。実際の自転車レーサーによる解説などもリアリティがある。さすが、監督以下、スタッフみんな自転車野郎だけある。

割と淡々とレースを牽引していく中盤まででさえこんな風にかなりのスリリングなのだから、クライマックスの興奮は最高。市街地に入り、カーブが多くなる。自転車から身体をナナメに乗り出してぎゅいーん!とばかりにラインを描くペペに本気で見惚れてしまう。またここで畳み掛けるアンダルシア〜なギターがいいんだなあ。本田俊之のこの音楽、頭から終わりまで非常に洗練されていて、この迫力のクライマックスにしても洗練されていながら、アドレナリンをあげていく感じがホント、さすがなんだわ。
もう余力を残していない(はず)のペペに大集団がぐんぐん近づいてくる恐怖(うッ、すっかりペペの気持ちになってる)、写真判定にもつれ込むほどに大激戦になるゴール間際は、レーサーたちが「北斗の拳」(!)みたいに顔がひしゃげるほどの、コミカルな大迫力(?って何か矛盾?)。この突入する“絵”の迫力は、原作に大いに敬意を表しているんだろうなあ。

ホント、この長さはいいと思う。これをきっかけに短編、中編がもっともっと一般的な公開形態にのぼるようになればと思う。短編専門の劇場などもあるけれど、場所にしろ時間にしろやっぱり限られているし、こんな風に1時間を切る映画が映画館に普通にかかっていれば、時間をチェックすることなく、待たずにフラリと観に行けるし。それに今回のこのアニメ化、連作のうちのひとつとはいえ、いわゆる読み切り作品の映画化。これはコミックスの名作読み切りが映像化されるチャンスが広がったのでは、という期待も膨らむ。人気が出るマンガというのはやはり長い間の支持を得たもの、つまりは長期連載モノなどが多く、それが映像化された場合、どうしてもはしょりが出て、映像化作品の方に不利になってしまう。でもこんな風に読み切り作品ならそれがない。むしろ一定の長さの中に旨味を凝縮した読み切り作品の中にいいものは多いと思うし、映像作品の方が原作を凌駕するようなものも出てくるように思う。

確信犯的にバランスを崩して生命線を際立たせる絵で魅せる原作は、独特の味わいがある一方、この魅力をアニメ化に生かすことは不可能。実際、自転車モノをアニメにするのは人間との大きさなどのバランスが難しく、敬遠されていたのだという。この魅力ある原作をそのままに目指しながらも(監督弁)、やはり別物であるアニメ作品をどう構築するか。高坂監督はその“原作そのまま”の弁、まさしくそのままに、極めて誠実な方法を取った。原作のラインをまずは整理された線で描くこと。そしてほんの少しのオリジナル(キャラもそうだけど、牛の看板?のエピソードなどは上手いと思う)を入れることで、その整理を揺らし、原作とは違う種類の揺れで迫った。原作と映像作品の非常にいい関係を見せてくれた、と思う。

外国を舞台にして堂々と物語を構築できるのも、日本のマンガの凄いところである。これは逆の場合がちょっと考えつかないことを思うと、やはり日本のマンガ、あるいは日本人の才能だと思う。実際はアンダルシア地方に茄子漬けはないんだそうだけれど、そうしたフィクションがありながらも、緻密なリサーチによって作品世界を作り上げていくことで、そのフィクションさえもリアリティが生まれる。それにしてもあの茄子のアサディジョ漬けは実に美味しそう。地元の名物料理だから、とポーカーフェイスの下は絶対嬉しいんであろうペペが、フォークとナイフで食べようとしたチームメイトを制して「こうやって食うんだ」と、手づかみで大きく開けた口に放り込むラストシーンのシャレてること!

そしてラストクレジット、ペペとアンヘルの子供時代を原作者、黒田硫黄のイラストで綴りながらかかる忌野清志郎御大の「自転車ショー歌」がとにかく最高なのだ。これは実に完璧なテーマソングじゃない?★★★★☆


名もなきアフリカの地でNIRGENDWO IN AFRIKA/NOWHERE IN AFRICA
2001年 141分 ドイツ カラー
監督:カロリーヌ・リンク 脚本:カロリーヌ・リンク
撮影:ギャルノット・ロル 音楽:ニキ・ライザー
出演:ユリアーネ・ケーラー/メラーブ・ニニッゼ/レア・クルカ/カロリーネ・エケルツ/マティアス・ハービッヒ/ジデーデ・オンユーロ

2003/9/24/水 劇場(シネ・スイッチ銀座)
ナチ占領下のユダヤ人の迫害の悲劇を、彼らが逃れた先のアフリカの地を舞台に描き出す、というのは、そういう事実をさえ知らなかった無知な私にとってまずとても新鮮だった。新鮮、と言っていいものなのかどうかとも思うが……つまりこのあたりは、かの地での悲惨さを徹底的に描き出した「戦場のピアニスト」あたりとはっきりと対照的で、起こっている歴史的事実は同じだし、親兄弟をなくす悲劇も確かに同じなのに、映画としての見え方はそれがちょっと実感できないほどに、大自然のスケールと人間とのふれあいをこそ大事にしている作品なのだ。もちろんその背後には常に戦争の影が潜んでいるのだけれど、時としてそれを忘れそうになるぐらい……ある意味ここでは戦争の悲惨さというよりは、戦争を通して変わっていく、いや成長していく人間の姿、みたいな感じの描かれ方。これも珍しい試みではないかと思う。戦争の事実やその悲惨さよりは、そのことによってあぶり出される人間そのもののアイデンティティにこそ焦点をしぼる。この雄大な大地の中でおおらかな生活を送るチョコレート色の肌のケニアの人たちと、白い肌に上品な衣服をきちんとつけているヨーロッパ人とを置いて。あるいは人そのものの見え方だけではなく、冒頭示される厳しい冬のドイツの白さと、陽光ふりそそぐこのアフリカの大地の対比もまた非常に鮮やか。あいまいな部分は殺ぎ落とされ、物語にしても言葉にしてもこうした見え方にしても、はっきりとした対比で選択を迫っていく。潔いほどに。

戦況が厳しくなる前にと、家族をアフリカはケニアの地に呼び寄せた夫は先見の明があったわけだけれど、ユダヤ人が徹底的に迫害される前にこの地に着いた妻の方はというと、今ひとつそのせっぱつまった状況を把握することが出来ず、華やかなパーティーなんぞに明け暮れていたドイツでの生活を懐かしむ。頼まれていた冷蔵庫の代わりに華やかなドレスを買ってきて夫を鼻白ませ、天蓋つきのベッドを必死に作ってみたりと、とにかく状況が判っていないのだ。で、しまいにはこんな土地には住めない、と。
今までの、ヒトラー占領下におけるユダヤ人の描き方とまるで違う。今まではひたすらこの逆境に耐え忍ぶユダヤ人、であり、こんなスノッブな人間が描かれることなどまずなかった。それも舞台を移したから可能なのであって、どこかペシミスティックなやり方で“かわいそうなユダヤ人”をウツクシク描くことから解放された、新鮮な視点。そして舞台を移したからこそ、ただユダヤ人、という括り以上のものが見えてくる。思えば今までの映画では、“かわいそうなユダヤ人”というひとつの括りでしかなかったような気がする。でもここで彼らが直面するのは、そんな単純なひとつではないのだ。

この映画のキーワードは「よそ者」である。
差別されていたドイツでの地で、ユダヤ人である彼らはすでに「よそ者」だった。
そして逃れてきたこのアフリカの地でも、当然彼らは「よそ者」である。
慣れ親しんできたドイツはもちろん、苦労を重ねながらも「世界中で一番美しいところ」というまでにこの地を愛するようになるケニアでも、彼らはその土地の人間となることが出来ないのだ。
しかし、そんな彼らに“チャンス”がやってくる。チャンス、というといかにも御幣があるのだけれど……つまり、戦争によって崩壊した国を立て直すことにより、建国に携わる、つまり「よそ者」ではなくなるチャンスである。
ずっとずっと、「よそ者」であることに辛い思いをしてきた夫は、妻と娘にドイツに戻ろうと言うのだが……。

ドイツ国民だけど、ユダヤ人。
ユダヤ人だけど、ユダヤ教に執着しない。
ドイツ国民だけど、反ナチ。
そしてこのアフリカの土地での彼らは、……やはりユダヤ人。
ユダヤ人というカテゴリは、この戦争中、どこに行ってもやっぱりよそ者なのだ。 でも戦争が終わり、長い間祖国から遠く離れたこのアフリカの土地でがんばってきた彼らは、この土地ではちゃんとよそ者ではなくなっている。
特に妻の変貌が凄い。きっかけは、一時の軟禁状態である。英国領であるケニアにおける敵性人であるとして、夫と引き離される妻と娘は、しかしなぜか待遇は一流ホテルでの豪華三昧である。最初こそ、「ドイツでの生活を思い出すわ」なんぞとのんきなことを言っていた彼女だったけれど、何もすることのない退廃的なこの生活に、これが“軟禁”だということがようやく判ってくる。
そしてこの出来事で彼女がもうひとつ学んだことがある。
何でも人に頼めば何とかなると思っていた自分自身の甘さ。当地のユダヤ人会に夫に職を与えてくれるように頼みに行った彼女は、相手にそう言われるのだ。
そして彼女は辱めと引き換えに、夫の職を得ることになる。
豪華な軟禁生活より、過酷な自由を選んだのだ。

あれだけ傲慢な態度を振りまき、私はこんな土地に住む人間ではないのだという態度がありありだった妻が、全身土ぼこりだらけになりながら、土地の人たちとともに作物作りに奮闘し、この土地でふんばる人の顔にちゃんとなっていく凄さ。不思議なことに、上品な衣服自体はさして変わらないし、いまだメイクもきちんと施しているのだけれど、明らかに顔が違うのだ。今までは毛嫌いしていた土地の儀式(お祭り?)に娘に薦められて参加する時着ているのは、あの冷蔵庫が化けたきらびやかなドレスだったりするのだけれど、あんな華やかなカッコをしているのに、目立ちはするけれど浮いてはいないのだ。なるほど、あのドレスの存在はこういうことを描くのにあったのかと。でもそれは彼女の顔がこんな風に明らかに変わらなければ出来ない芸当である。
女優って、いや、人間って凄いな、と思う。

妻の方にリアリティがあるのは、理想主義である夫(その純粋さが素晴らしいわけだけど)に対して、彼女はこの土地で真の意味で生きる努力をしたから。夫の仕事は、アフリカでなくても出来る仕事。でも妻の方は汗を流し、畑を作り、そしてこの土地の人になりえた。
実はあまりにすんなり過ぎて、「アフリカでの生活の大変さを実感するヨーロッパ人」としての表現は正直食い足りない思いもするのだが……。
そういう意味では、夫の方は最初から最後まで印象が変わらない。この夫というのはこれがなかなか知的なイイ男で、それがいかにも象徴的である(ホントイイ男……「ルナ・パパ」のチュルパン嬢の婿役!)。ドイツでは弁護士の職を持っていたインテリ、戦況を予測する頭の良さを持っているのだけれど、この戦時下、あるいはこの土地では彼は自分の能力を発揮することが出来ないのだ。彼はそれ以外の自分になれない。広大な土地を相手に作物を実らせる妻と違い、井戸を掘っても水は出ない。職を得るのも妻の奔走のおかげである。「ここでは自分が無益な人間に思えてくる」「どうせ預かっている土地なんだから」という彼の台詞もまたいかにも象徴的である。

このあたりは、男と女の、生きていく姿勢の違いかな、と思いもする。なんだかんだ言って女は住めば都で、生きていければ大丈夫、みたいな強さがある。そこで自分ができる意味を見出す。でも男は、自分にだけしか出来ないことが崩れると、弱い。それは裏返せば自分にだけしか出来ないことに誇りを持っているとも言えるのだけれど。
そういう意味で、妻が夫に「理想主義」と言うのは判る。それはいい意味でも悪い意味でも。妻にとっては、生きていく意味を見出せたこの美しい土地で生活を続けることこそが大事なのだけれど、夫にとっては、かつて生きていた自分を取り戻すことこそが大事なのだ。それはどっちがどうというわけではない。そこが男と女の違いなのである。

妻は、この土地で、違いの素晴らしさを学んだ、と語っている。
妻がこの土地の人間の顔になった、とはいえ、でもやっぱり特権階級。土地の人たちを労働者として扱う立場。そういう意味ではやっぱりよそ者である。
彼女はそういう「違い」もこの頃にはちゃんと見えていただろうと思う。
最終的に彼女が、そして娘も夫についてドイツに戻ることを選択したのは、そうした様々な「違い」を彼女が飲み込んで大きく成長したことが大きかったのだと思う。
新しいドイツを作り、よそ者ではない、ドイツ国民としての力になりたいと言う夫。また一からこの努力を積み重ねていかなければならない。このアフリカの土地で夫の方は、妻やはじめからこの地にとけ込んだ娘と違ってそこまではたどり着けなかった。よそ者のまま終わってしまっていた。だから、彼にとっては新しいドイツで真の勝負が始まるのだ。

妻がこの土地でずっと頼りにしてきたジュスキントが切ない。だってめちゃくちゃ、イイ奴なんだもん。「惚れる女にはいつも相手がいる」の言葉どおり、また愛を得ることが出来なかった……。夫が仕事でナイロビに行っている間、彼女を支え続けてきた彼。ジュスキントはもちろん、彼女の方も彼にホレていたんだろうけれど……それは浮気ではなくて。彼女は夫との関係を修復した時妊娠を告げるのだけれど、あれだけはっきりと、「もちろんあなたの子よ」と言い切るってことは、本当に関係はなかったんだろう。それは一度彼女にせまられたジュスキントが拒む場面、たった一ヶ所あればその説明は充分である。夫とギクシャクしている間、頼りになる彼にホレてしまうのは仕方ない……。でもこの土地が好きになった彼女だからこそ魅力的になったんだし、そうして人間として成長した彼女に夫との障壁がなくなるのも当然のことで……。彼女が夫との気持ちを取り戻すためのセックスが説得力があってとても美しいのだ。
「愛する二人のうち愛する想いの深い方が弱い」と妻に言ったのは、夫の父親。確かにそうだと思いつつも、この夫婦は想いを投げ合って投げ合って、きっと今はお互いを同じだけ、大切に想っていると思う。
ジュスキントが入り込んで亀裂の出来た両親を心配していた娘のレギーナは、二人が同じベッドで眠っているのを見つけて、間に入り込む。
目覚めた夫は、こうつぶやくのだ。「自分の愛するものが、すべてこのベッドの上にある」と。

両親のことばかり書いてしまったけれど、この映画の大きな部分は、何の壁もなくこのアフリカの地、そしてその文化に純粋に染まり愛する、このレギーナの存在にある。幼少時のメチャクチャ可愛いレギーナにはひたすら目を奪われる。
この一家に料理人として雇われている土地の人間のオウアは、レギーナの親友といってもいい存在。でも彼は、自分が仕える側だということを非常に良く判っていた。その忠誠心は、「違い」を切なく感じさせる。懐が大きくて、聡明で美しいオウア。彼は言葉をはじめ様々なことを教えてくれるけれど、言外に最も教えてくれたことは、信頼すること、愛すること、だったのかもしれないと思う。

制服を着て学校に行けるレギーナと、素朴に生きるこの土地の子供たちは、明らかに「違い」がある。
でも、一緒に育った男の子の前ではブラウスを脱ぎ捨て、木登りをするレギーナには、その「違い」を軽やかに行き来するだけの柔軟な強さがある。
この土地の学校でさえ、ユダヤ人として差別される彼女は、肌の色の「違い」のことの方がささいなことであることを、それこそ「肌」で感じ取っているのだろうと思う。結局は「違い」は人の心が大きいのだということ。
はっきりとは示されないけれど、一番仲の良かった男の子とのあのリリカルな目配せは、彼女にとっての初恋が彼だったのではないだろうか。
ひょっとして、ひょっとしたら、そうした関係にもなっていたのかも、と……。

リンク監督作品は「ビヨンド・サイレンス」以来で、「点子ちゃんとアントン」は観ていないのだけれど、いきなりスケールの大きい映画に挑戦して、迷いもなく描ききる力量が凄いと思う。いささか彼女自身の主張がはっきりと出過ぎている感じは「ビヨンド……」でも本作でも正直あるけれど、そうしたひっかかりも黙らせてしまうほどのスケール。
いわゆる“女性監督”のイメージを破る頼もしさだ。★★★☆☆


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