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「た」


2001年鑑賞作品

ターミナルビーチX
1981年 40分 日本 カラー
監督:山崎幹夫 脚本:
撮影: 音楽:
出演:川口善之


2001/12/24/月 劇場(BOX東中野/山崎幹夫&山田勇男特集/レイト)
これは、夢なのか現実なのかわからない。あるいは、目を閉じたその脳裏に焼きついている画像なのか、その目を閉じた男の実際にとった行動なのか判らない。若い男。20代前半だろうか。彼は「アンダルシアの犬」よろしく、スーパーで買ったカミソリで自らの目を切り裂く。衝動的にではなく、冷静に。血を流した目を包帯で覆い、包帯の下から血を流しながら街をさまよう男。街は硬い根雪に覆われている。冷たく、白く、孤独な街

彼の目を覆った、大げさなまでの包帯がくるくると解かれる映像が何度となく挿入される。明るい、暖色の光の満ちた部屋で、顔の見切れた若そうな看護婦が、彼の包帯を優しく解いてゆく。その間、彼は夢を見ているのか、それとも過去を思い出しているのか。

「道警様。国家論研会は本日で終了」だっただろうか、そんなことが書かれた黒板のある、雑然とした部屋、誰もいない部屋、その部屋を、男がひたすら壊しまくる。でも何だかやる気がなさそうに、だらだらと。でもそのだらだらとした様が疲れているようで、何かを考えながらのようで、少し怖い。胸から血を流し、街なかで倒れている男。雪原にたどりついて腕時計を外し、横たわる男。その延長線上のように、仰向けの大の字に倒れている男がむくりと起き上がると、その形どおりに雪の上に血で人型が染まっているシーンもある。滑稽だけれど、場違いな滑稽さなだけに、やはり少し怖い。彼は終始孤独で、破壊と自己破壊の行動しか取らない。まるでそれが世界の全てでもあるかのように。

包帯の解かれる映像が最後を迎える。すっかり解かれて彼の色白のきれいな顔があらわになる。さあ、ゆっくりと目を開けて。そううながされて彼は目を開ける。その目は確かに何かを捕えたのだろうけれど、彼は夢の続きを見たいのか、こんなことを言う。「見えない、何も見えないよ」それは声ではなく、サイレントのように字幕に文字で、頼りなく踊っている。

その日挨拶していた監督が、本当に若かりし頃で、ヘルツォークやブニュエルや加藤泰や、さまざまな監督のサルマネだ、と語っていたが、無知な私には先述のブニュエルの部分しか判らなかった。映像の命である、視覚を閉ざされた男が主人公で、その視覚を閉ざされた世界がこんな風に孤独と破壊と自己否定。どこかに本能的に共感する部分があるから、何だか辛い。★★★☆☆


TBXノイズ編
1982年 7分 日本 カラー
監督:山崎幹夫 脚本:
撮影: 音楽:
出演:川口善之

2001/12/24/月 劇場(BOX東中野/山崎幹夫&山田勇男特集/レイト)
先の「ターミナルビーチX」の予告編の延長線で出来上がったという。1、2秒刻みでカットがつながれる、一見してビデオクリップ風の作品だが、観ていくうちにそのキワキワの映像における主張がかなり衝撃的。予告編を作っているうちに……とは言えど、その「ターミナルビーチX」にはない映像もかなり加えられており、しかもその加えられた映像のイメージの波及が大きくて、音楽も異なるもの、よりアドレナリンが出そうなパンクなものを使っており、いわば本編である作品とはかなり与えられる印象が違う。

増えているのは主にテレビの画面を撮ったという戦争や皇室の映像。後から監督自身が解説してくれた、当時の新宿のバス乗っ取り放火事件の記事も何度となくあらわれる。どこかの戦争の、首のない兵士。当時の浩宮皇太子や昭和天皇がにこやかに行事に従事している様子。特にこの若かりし頃の皇太子は、この「TBX」の主人公であり、唯一の出演者である男を演じる川口氏に妙に似ており、二人のカットが交互に現われたりすると、思わず錯覚を起こしそうになるほど。戦争の映像よりも地球にかぶさるNHKのロゴよりもバス乗っ取り犯の記事よりも、この皮肉な錯覚現象が最も確信犯的で衝撃的。

もうひとつ、明らかに増えていると思しき映像に、この主人公の男が何に向かうともなく、無目的的に走っているシーンがあった。向かうところも帰るところもない行き先のない絶望とともに、不思議な爽快感も感じさせて、その矛盾もまた何か残酷な気がした。★★★★☆


ターン
2000年 100分 日本 カラー
監督:平山秀幸 脚本:村上修
撮影:藤澤順一 音楽:ミッキー吉野
出演:牧瀬里穂 中村勘太郎 倍賞美津子 北村一輝 柄本明 川原亜矢子 松金よね子 小日向文世

2001/11/29/木 劇場(銀座シネパトス)
マイカル系限定公開だったため、確かに上映館数は多かったけど私にとってはかえって観に行くのに適当な劇場がなかったので、どっかにムーヴオーヴァーしてくれないかなー、と待っていたら、予想通りの劇場、銀座シネパトスに来てくれたので、助かり、助かり。実を言うと、「愛を乞うひと」があまり得意じゃなかったんで、ちょっとどうかな、と思っていたんだけど、今回はCG処理に気を取られることもなくって、良かった。というのも、実は「愛を乞うひと」では、おお、上手いCG処理だとか、何かそんなことに気を取られたりして、作品にあまりのめりこめなかったから。つまりは作品自体はすごくシリアスなテーマを扱っているので、CG処理がどうとかいうことに気を取られたくなかったんだけど、その時代背景を反映させたシーンや二役の時のそれに、やはりああ、CGだー、などと思ってしまうのが、そのシリアスな設定と相反して実に気をそがれるものがあって……。

でも本作は、まずはそれが大前提というか、CG処理が生きてこその面白さなので、当然、その感心が気をそぐものにはならないんである。でも意外にこっちがCGだと思っているのも使ってなかったりして?実は最初、ヒロインの真希以外、この世界には誰もいないんだ、と思ってみても、画面の隅に誰かが間違って映ってたらどうしようとか、余計な心配をしてたりしたんだけど(笑)。当然そんなボケはないどころか、新宿の、あのさくらやだの紀伊国屋がある、とんでもなく人通りの多い通りが、しっかり白昼で、だれ一人、車一台走っていないという、あの衝撃のシーン!白昼、と見えて、早朝だったりするのかなあ、でもそれにしたって、あの新宿のあの通りで人っ子一人、車一台ないなんて!思わず心の中でウオー!と感動してしまった。

突然のトラックとの衝突事故で、ハンドルを切った瞬間、自宅の居間で居眠りから覚めた真希。その世界は、全てが全く昨日と同じだけれど、彼女以外、誰もいない世界。最初はよく状況が飲み込めなかった真希だが、連日2時15分になると、前日の同時刻に引き戻されてしまうことが判る。いつでも今日、明日がこない。毎日縁側には母のもいだトマトが置かれ、冷蔵庫にはその日にポストに投函する懸賞応募ハガキが止めてあり、その冷蔵庫を開けるとスライスチーズがぽとりと落ちる、毎日の今日。季節はもちろん、天気も毎日今日の天気。この世界に慣れまいと、店に行けば誰もいなくてもお金を置き、虫や鳥の声を庭から聞こえるようにCDコンポをセットし、果てはホースで雨を降らせてはしゃぐ真希は、しかしさすがに不安と寂しさに押しつぶされそうになって、そのニセモノの雨の中で慟哭する。しかしその時、電話のベルが鳴る……。

真希を演じる牧瀬里穂が、もうとんでもなく可愛い。うわー、この人って、こんなに可愛かったかしらん?とちょっとビックリしちゃうんである。ベリーショートの髪型が良く似合ってて、加えてその大きな瞳といい、すっごく可愛い!ほら、あの「顔」でイヤーな妹役をやってたからさあ、あれもまた瞠目させられるものがあったけど、この人って実際、こおんなにカワユかったのか!という……。27歳という設定、彼女自身もまあそれぐらいの年だけれど、その年相応にちゃんと見えつつこれだけ可愛いとやんなっちゃうよなー!真希は“メゾチント”と呼ばれる銅版画家、という設定。メゾチントというのも初めて聞いたけど、その製作過程や作品も丁寧に活写され、なかなかに興味深い。

この設定は、ちょっとイイよね。数ある美術、芸術の中でも、新鮮に感じるところを持ってきて、しかもそうした芸術家、なわけだから、明日がこない、作品を作ってもそれが残されないという苦しみは想像を絶するものがあるんだもの。こんな状況になってしまった真希は、それでもロビンソン・クルーソーよりはマシ、と年をとらないとか食べ物に困らないとか外敵がないとか、いろいろ条件をあげては見るものの、それはこの、芸術家として致命的な“明日がこない”という条件を何とか補えるものはないかと探しているようでね……。それさえなかったら、割と楽しめるかな?なあんて、私もノンキなこと言ってるけど……いくら一人が好きだからって言っても、他人がいるからこその一人の楽しみなのであり、誰もいない中での一人ぼっちは、やっぱり……辛いよね、辛いなんてもんじゃないよね。

というわけで、かかってくるはずのない電話がかかってきて、真希は当然アセって飛びつく。お願いだから切らないで!と懇願し、以降その電話が本当の?世界との唯一の接点になるのである。真希が予想していた通り、ここは時間の流れから取り残された、空間だけの世界で、本当の世界は、真希が毎日の今日を数えていた、その日数分ちゃんと経過して、もう半年が経っていた。この電話の相手は、ギャラリーにあった真希の銅版画に目をとめ購入し、本の装丁に使わせてもらおうと電話した、新人の編集さんである洋平。真希の説明する状況があまりにとっぴだけれど、彼女の切羽詰まった様子に気おされて、その電話を切らずに置くことを約束する。真希の母親に会いに行き、彼女が半年前の事故から目を覚まさずにいることを知る。彼女の母親に電話に出てもらうも、双方とも声が聞こえない。彼女の声が聞こえるのは、洋平だけらしいんである。でも、彼が伝える真希の言葉に、この母親も向こうの世界に娘が閉じ込められていることを了解する。かくして彼は真希と彼女の母親、そして真希とこの現世界をつなぐメッセンジャー役となるんである。

真希が6月の世界にいることで、洋平は自分が友人と開いた個展を見てもらう。誰もいないギャラリーで、アナログレコードもかけっぱなしのその場所で、真希は洋平の画いた、素直で力強い筆致の絵に目を止め、作者紹介のチラシにニッコリと挨拶する。植物に造詣の深い真希も知らない、大きな亜熱帯性の木を描いたその絵のことで、真希と洋平は話をはずませる。彼は「会いませんか、あそこなら会えるような気がする」と、その木がある植物園へと彼女を誘うんである。もちろん、会えるはずはない。しかし会えるような気がする、“会っているような気がする”気分を満喫する二人は、時間を決め、空間を越えてデート?するんである。この辺はちょっと「イルマーレ」を思い出したりするなあ。時間を共有していないからこそ、時間への渇望を感じる、そしてだからこそ切なくて美しい“時間”への思いがあふれる。そんな中で真希はだんだんと現世界の感覚を取り戻していくんだけれど、一方で現世界の自分の状況に心が騒ぐ。快方に向かっているらしいことに素直に喜べないのだ。もし、現世界の自分が目を覚ましてしまったら、ここにいる私は……?

そんな時に、真希のいる世界に、他に人がいることに気づく彼女。イベント会場で風船とたわむれている真希の目に、真っ赤なオープンカーが通り過ぎる。私だけじゃなかった!はしゃぐ真希を洋平は心配する。こっちの世界の真希が良くなって、戻ってくることをこそ考えて欲しいと思っている洋平は、あっちの世界の真希がその世界に執着することになるのを危惧しているのだ。無人島に通りかかった船が海賊船だってこともあるんだから……と言う洋平。しかし真希は自分だけではなかった、という喜びを抑えきれず、その人物とコンタクトを取ってしまう。柿崎、と名乗った彼は、真希とは違って現世界にはもはや見切りをつけている。洋平は真希からその男の名と状況を聞き、彼が幼児のひき逃げ犯であることを知り、彼と会わないよう真希に伝えるのだが、その理由を言う前に、彼の家を訪ねてきた上司によって、電話が切られてしまう!一方、その柿崎は彼女の家を探し当ててくる。ズカズカと上がり込み、“今日”という時間を彼女と共有しようとするのである。彼と彼女が共有しているのは、たった5分に過ぎないのだが……。しかし真希に手を出そうとした彼は、その彼女の目の前で、断末魔の苦しみを見せて消えて行く。「向こうの世界の柿崎さんが、死んだ……」呆然と涙を流す真希。

この柿崎を演じるのが、こういうキモい役ばかり回ってきてしまう北村一輝。私としてはやはり彼には「蝉祭りの島」の時のような、ステキな役をもっとやってほしいところなんだけどね。上手いからなんだろうけど、こういう役が多すぎちゃって……。

ま、とにかく真希はこの出来事でいわばキモが座っちゃって、一日限りでもいいから作品を残そうと思い立つ。夜を徹して、朝までかかって仕上げたそれは、洋平と“一緒に”見た、あの旅人の木。止まった時間の中を旅している真希には、あるいは止まった時間に閉じ込められて旅することができない真希には、何よりも心休まるその木を、心を込めて彫る。そして出来上がった“一日限りの傑作”を携えて、自分の眠る病院へと向かうのである。その途中、ずっと6月だったはずの真希の足元に枯葉が舞い、彼女は時ならぬ寒さを覚える。彼女が現実世界に向かいつつあるのだ、とドキドキさせる。病院の入り口を入ると、やはりそこには誰もいないけれど、車椅子に乗った“自分”を押す母親と洋平の姿が見える。雪が降ってくる。車椅子の“自分”に、旅人の木の版画を持たせる真希……というシーンがハッキリと映し出される前に、こっちとあっちの真希がリンクする。車椅子の真希がゆっくりと目を開ける。「……ただいま」その手にはちゃんと、一日限りではない“傑作”が……。

もんのすごい老けてビックリ!の倍賞美津子は、今まで、姉妹の華やかで美人の方、という印象を持っていたのを(というのは、私だけだろうか……)、本当にようやく最近、抜け出ることが出来たような気がする。彼女が洋平を信じることによって、この世界が成立しているという点で、本当に彼女の存在感によって成り立っている作品といえるかも。★★★★☆


ダブルス
2000年 90分 日本 カラー
監督:井坂聡 脚本:米村正二 吾妻正義
撮影:佐野哲郎 音楽:
出演:萩原健一 鈴木一真 川原亜矢子 平愛梨

2001/4/26/木 劇場(テアトル新宿)
また今までとは違った趣の作品を送り出してきた井坂監督。今回は、どうかなあ、どうも噛みあっていないような気が……。というのも、デコボココンビ、鍵屋の萩原健一はいいとして、彼とコンビを組むパソコンオタク、鈴木一真がちょっとキビしいもんだから……。彼、井坂監督作品では「女刑事RIKO 聖母の深き淵」(大好き!)でも凄く良かったし、確かに映画界のホープだとは思うんだけど、でも彼のコメディ演技を見るのは初めてで、やっぱり、コメディって、難しいんだなあ。彼の演技を見てると、それを痛切に感じてしまう。声が裏返ったり愚かしくうろたえたりするのも、どうも笑えなくて、逆に引いてしまうというか……。一方やはり萩原健一はその辺に関して一日の長があるから、自然に可笑しいんだよね。ま、でもこの二人のうちで、よりコメディ要素がふられているのはやっぱり鈴木一真の方だから、キビしいんだよなあ。

パソコン通信か、チャットか知らないけれど、とにかく強盗をするためにお互い顔も知らずにコンビを組むことになったgun(鈴木一真)とkey(萩原健一)。gunは強盗をしかける会社のかつての社長であり、裏切られた腹いせで、この会社に政治のヤミ献金があることを突き止め、それを強奪して高飛びしようっていうんである。完璧なシミュレーションとは口ばかりで、見るからに甘ちゃんな若造である。一方のkeyは、心臓病を抱えて、ワケありの女が待っているらしく、その女に今度こそ嘘つきと呼ばれないために、自分に何かあったら、その女のもとに金を持っていってくれ、とgunに頼みこむ。その女がだれかというと……。

エレベーターに閉じ込められてアタフタしている男二人が描かれる一方で、おしゃれなレストランでは待つ女が二人。こちらも見ず知らず同士が、お互い男を待っているという共通点で一緒にいる。自分の好きな映画のヒロインの名前で呼び合う二人、テレーズ(川原亜矢子)はミステリアスな美女、マチルダ(平愛梨)は中学生と思しき少女。会話の内容からも、テレーズの方がkeyの待っている女かと思いきや、実はマチルダの方なんである。もう一度家族一緒に暮らそう、と別れて出て行った父親が帰ってくるのを待ち続ける少女。

gunとkeyの二人はエレベーターに閉じ込められ、天井板をはずして脱出しようとかいろいろと試みるのだけれど、結局ダメ。一番原始的な方法、非常用のインターホンで警備会社に連絡して来てもらい、適当にお茶を濁してずらかっちゃおうと算段する。で、この解決法に至るまで、シミュレーションオタクともいえるgunが何度もさまざまな展開を披露し、というのも実際の映像でこちらに提示しといて、あわや、というところで、gunが「……ていう展開なんだけどさ」ってな感じで得意げになっているカットに返ってくるという……うーむ、いささか陳腐な、などと思っちゃうのはいけないのかなあ。でも、これが3度、4度、となってくるとさすがにうんざりしてくるというか……うんざりするのはgunのキャラのせいかもしれないんだけどね。それにこれって、いかにもゲーム世代の考え方、っていうか、何度でもリセットできるっていうのがさ。これも最近よく見かける手法なんだけど、「ラン・ローラ・ラン」とか、「スライディング ドア」、「イフ・オンリー」とかもそうだし。あ、でも、邦画で観たのは初めてかなあ。でもこれって、確かに面白いけどズルいっていうか、本当は人生はリセットなんて出来ないんだし、と思うと、まあでも本作の場合はシミュレーションしてるだけで、本当に実行している現実は一個なんだから、いいといえば、いいんだけど。

まあでも、男二人は別にいいのだ。問題は待っている女二人の方。大体、ただただ男を待っている女、という図式は、基本的に私は嫌いである。劇中で川原亜矢子がなぜテレーズという名前を使ったのか、それは「かくも長き不在」という映画のヒロインの名前だから、と彼女は言い、マチルダにどんな映画なのかと聞かれて、遠くを見つめる目で「待つ、映画」とつぶやく。男を待ち続ける女、その美学とでもいったところなのだろう。実際川原亜矢子の謎めいた、そして煙草を吸うしぐさもカッコよく完璧な美女ぶりは、待つ女の美学にふさわしい。けれども結局彼女の待ち人は現われず、彼女が誰を待っていたのかも、その相手がなぜ来ないのかも、触れられることはない。結局彼女はgunの相手ではないか、と観客をかく乱させるあて馬にしか過ぎないんである。こりゃないよー。

しかも、肝心の相手である、マチルダ、もとい、かずみちゃんなのだが、扮する平愛梨が、壊滅的。まあそりゃ美少女には違いないんだろうが(しかしちょいとエラが張ってるやね)、ここが泣かせどころ!の、gunがkeyの代わりに金を届けにきたとき、やっぱりパパは嘘つきだ、と涙を浮かべて訴える、そのシーンの大根演技は一体なんなんだよー。ホントに泣いて演技するくらいのテンションが欲しいのに、まああの涙は確実に目薬でしょうな、よくもまあ、あんなに何の感情もないってな感じに出来るもんだ。逆に感心するわ。ヘタでもいいから、いや美少女なんだからヘタぐらいがちょうどいいんだから、もちっと一生懸命さとか、どうにかならんのかい。

ううむ、ここまで井坂監督はハズレなしで来たんだけど、今回は……キビシイッ。★★☆☆☆


W/O
1999年 60分 日本 カラー
監督:長谷井宏紀 脚本:
撮影: 音楽:藤乃家舞
出演:

2001/2/27/火 劇場(ユーロスペース/レイト)
何にも予備知識を持たないで観に行くというのはいけないことなんだろうか。劇場周辺の路上にタイトルが無数にペイントされてて、それは即座に「π」を連想させ(「π」はいまだにそのペイントが渋谷じゅうに残っている!)あの作品のそうしたサブリミナルな魅力を思い出して、しかも日本映画だということで足を運んだのだけれども……。確かに映像はサブリミナル的。しかしそのあまりにも見えない映像の中で何が起こっているのか、まるで判らない。あまりにも加工に加工を重ねたその映像は美しさも鋭角さもどこかへ吹っ飛んでしまっており、なにか深刻に対峙しているらしい場面でさえ、その攻撃する側も、ただ黙って受け取る側も、まるで顔が見えない。ドキュメンタリーらしい。大学の施設が壊されているらしい。そのうち捨てられた廃屋と化していた施設にはアーティストやバックパッカーなどが住み着いていた(いわば不法占拠だ)という。その攻防。カメラ(監督)はあきらかにその不法占拠側にいるらしいのだが、なぜ大学側の方が悪いのか、自分たちの正当性はなんなのかをあきらかにしない。ドキュメンタリーだから声高に主張しないのかもしれないが、静かに見つめると言うのならこの映像はなんなのか。これは明らかに一個の映像作品として提示するための手法である。そこにこの問題がハメこまれているだけである。ドキュメンタリーとのせめぎあいとして生まれる何かがあるのかもしれないが、私には判らない。

ドキュメンタリーというものが、ふと考えてみると私の中ではあまりにも凝り固まったイメージとして、誠実でなければならないものとしてあり、映像に手を加えるなどということが、あまりに予想の外であったものだからうろたえたのだというのは自分でも判る。でもそれは、あくまで私の中だけでの勝手な前提であり、そのことをもってこの作品を云々するなど出来るわけもないのだが。ただ、ここで描かれるのはその大学施設の取り壊しだけではなく(それが主ではあるのだけど)秋葉原を、その街に溢れる宣伝文句を英語の字幕つきで徘徊する揺れるカメラだったり、浅草を探訪する、監督の友人、ユアンであったり、というものが突如として挿入されてくるのだ。私は本気で頭を抱えてしまった。映画に意味を求めることはキライだし、そんなことは無意味だと思いつつも、知らずにそういう姿勢で映画に対峙していたということなのだろうか。意味付けが許されるとしたなら、それは監督のみの特権だ。だけど……判らない、判らない、判らない!

ただひとつ、そうした意味をこえて迫ってくるのは、夫に先立たれた、老女である。どうやら監督の祖母であるらしい。このエピソードもまた、何のために入れられてくるのかと思うのだけど、ここは、ここだけは、私の狭い許容範囲内の誠実なドキュメンタリーだった。痛ましいまでに顔中しわくちゃで、口もすっかり歯をなくして入れ歯も入れていない状態で、どこかグロテスクですらある(と感じるのは、傲慢なのだろうが……)のだけれど、この時人間を人間たらしめているものが、目、瞳、なんだと今更ながらに改めて感じるのである。老女はその瞳に涙をいっぱい湛えている。死んだ人のことを言っても仕方ないんだけど、などととつぶやきながら。その外見からは想像も出来ないほど意識がしっかりしている。ただ、弱っている。痛ましいほどに。その目だけが生きている。哀しむという行為によって、いや、感情によってきらきらとしている。監督がまたくるよ、とそのガラス戸を引いたのが、まるでその瞳に圧倒されてのように、思えてしまった。

大学の門の中に入ってゆく車の映像が、何度も何度も巻き戻されたり、大学構内と思われる長い長い廊下が何度も挿入されたりする。きっと、その場で過ごした人たちにとっては、感慨深いんだろうな……でもこれもまた、あまりにも加工されてて、現実のものと思えないんだけど……誰か、私にすっかり判るように解説してほしい。「大いなる幻影」以来です、こんなに判らなかったの。でも、終映後、あれはスタッフなのかなあ、監督さんだったのかなあ、イベントのチラシをニコニコと渡されて、こんな判んないの★☆☆☆☆つけてやるう!と思ってた気持ちがホント臆病に萎えてしまって……私ってダメだなー……。★★☆☆☆


団地妻 隣のあえぎ
年 分 日本 カラー
監督:サトウトシキ 脚本:今岡信治
撮影:広中康人 音楽:山田勲生
出演:中川真緒 伊藤猛 田尻裕司 佐々木ユメカ 斎藤つかさ

2001/10/20/土 劇場(中野武蔵野ホール/P−1グランプリ)
昨年のP−1の覇者であるベテランのサトウトシキ監督作品。スケジュールとにらめっこして、勝ち進んでくれたとしても、やっぱりこの日、この時間にしか観られない!と馳せ参じた。いやー、去年の「団地妻 不倫でラブラブ」はホント、凄かったんだもの。意表をつかれ、面白く、切なく、美しかった。そして今回。やっぱりこの監督って、凄く手慣れているって印象。初めて見たご本人は、とてもアーティスティックな雰囲気で、想像通りの威風堂々さ。ああ、この監督からこういう作品が生まれるんだなあ、って凄く納得した。

同じマンション(というより、アパート?)の二組の夫婦が絡み合う設定は、前回と同じ。しかし今回はスワッピングではなく(つっても、前回のも変則スワッピングだったが……)黒田、石井の両夫婦のうち、黒田妻と石井夫は殆ど恋にも似た関係に陥るんだけど、もう一組は交わらない。残された方は石井妻が奔放な遊び人で、黒田夫は腰痛もちで妻の要求に応えられない男。

黒田妻と石井夫は石井夫婦の隣の空き部屋で知り合う。夫の留守中に石井妻はかわるがわる男を引っ張り込んでヨロシクやっているというんである。石井夫は会社をリストラされ、それをこの奔放な妻に言えないでいる。冒頭、黒田妻が空き部屋のがらんとした畳部屋に寝そべり、隣から聞こえてくるあえぎ声に耳をすませているところから始まる。自慰し、果てる黒田妻。そこへ、石井夫がいきなりずかずかと入ってくる。「すみません、他人の家にいきなり上がりこみたい気分だったんです」という台詞は笑えるが、どこかに笑えない切羽詰まったものがある。この時から黒田妻と石井夫には何か共通した不安や不満が見え隠れする。隣から聞こえてくる声と、この空き部屋に二人っきりの状況で、まさかいきなり始まったりして……と思いつつも、いくらなんでもそんな乱暴なことにはならない。いったん別れる二人。

階下の自分の家に戻った黒田妻は夫と行為を試みるが、クライマックスのまさにその時に夫はギクッと腰をやってしまう。この描写も思いきり笑えるのだが、イキきっていない双方のもどかしい気分がこれからの暗雲を予感させる。その夜、黒田妻はいきなりダンスの衣装(何かセーラームーンショーとかそういう奴のかと思った……)を着て、「ほら、ちょっとキツくなっちゃったけど、まだ大丈夫!」と台所でポーズをとる。このシーンも尋常じゃなく大爆笑。あのほの暗い照明の、せまい台所ってところが更に笑える。しかしここも、黒田妻の切ないまでの女の主張が、切ないだけに可笑しく、可笑しいだけに切なく、「さっさと寝ろよ」とすげない夫の言葉に、黒田妻の暴走が更に予感される。

翌日、黒田妻と石井夫はマンションの外で出会う。パチンコに行き、ダンス(社交ダンスじゃないよ)を踊り、酒を飲み、しかし関係は持たない。気のあう友人といった、ほほえましい情景である。しかしそれが二夜に及ぶと、当然黒田夫は疑惑と嫉妬の目を向け、妻を引きずって石井夫婦の元に乗り込んで行く。

これが返って黒田妻と石井夫の気持ちに火をつけてしまう。翌日、石井夫は黒田妻をあの空き部屋に呼び出す。隣では相変わらず石井妻のあえぎ声が聞こえてくる。「奥さんとやっちゃえば、何もかも上手くいくような気がして……」とおそるおそる、独り言のように言う石井夫。やっちゃえば、なんて言っているのだが、何故だか妙に可愛らしく響くのは、この役者のキャラクターだろうか……。という、この役者というのは、この日サトウ監督に惜敗した田尻裕司監督。実際のお方はスクリーンよりも更に好感度の高い、やはりどこか可愛らしいところを持ったお方。トークバトルでベテランのサトウ監督に対し、終始腰(というか肩)が引けていたところが、可愛かったなあー。

この場面、やっちゃいましょう、とおそるおそる迫る石井夫、キスだけでも、などというところが更に可愛くって笑っちゃうのだが、最初黒田妻には迷いが見られて、石井夫の不器用なキスにも(黒田妻の鼻が石井夫の鼻に押されてブタッ鼻になっちゃうところが……(笑))応えない。しかし隣からの声は更にタフに聞こえてくる。たまらず夫Bにむしゃぶりつく妻A。性急に服を脱ぎ、何か当然のように石井夫の方が黒田妻の騎乗位の体勢を待つがごとく仰向けになるのが、やっぱこの人は……なんて思って可笑しい。これって、この後に続く黒田妻の執拗な追っかけへの導入部のようにも思える。ついに“やっちゃった”二人は石井夫が言うように、全てが上手くいくわけもない。

その頃、黒田夫は路上で飲んだくれて、「お前みたいなオヤジ、むかつくんだよ」と声をかけてきた少女?とホテルに入る。一度目は罵倒されるまま帰るが、二度目は有り金全部放り出して彼女にしゃぶってもらう。勃たない。哀れに思ったのか、少女は服を脱ぎ、彼の上に乗ってくる。ようやく硬くなってくる。そんな中でも妻のことを思っているのか、むせび泣く黒田夫が、愚かなまでに哀しくって、切ない。イク時も妻の名前を叫んで。

いまだに石井夫と会っていることに激怒し、妻の頭を引っ掴んで浴槽の湯に何度も何度もつける黒田夫。黒田妻は石井夫とともに、あてどなく旅に出る。鎌倉。かつてデートした東京の、よどんだ海とは全く違う、波の立つ、青い海。黒田妻ははしゃいで海に入ってゆく。石井夫も興ずる。海岸線を画面にゆるやかな斜線にとらえて、砂浜に置かれた二人の靴とバッグが手前に置かれたまま、青春映画のような二人を点景で捕えるショットは、リリシズムにあふれている。旅館で二人は、執拗なまでにセックスを繰り返す。私をめちゃくちゃにして、と黒田妻は石井夫を挑発する。朝になっても、黒田妻の欲求は止まない。たまらず逃げ出す石井夫を黒田妻は追いかける。浴衣姿で街を追っかけっこし、ついに捕まえた道路の行き止まりで、黒田妻は石井夫をメチャクチャに殴り、蹴飛ばしまくる。

このくだりはスラップスティック風でやたらに可笑しいのだけど、でも、トークバトルで田尻監督が言ったように、殴りまくる黒田妻が、そのシーンは引いているにもかかわらず、何だか泣き出しそうな、高まってくる思いが凄く感じられちゃって、こっちまで泣き出しそうになってくる。殴られっぱなしの石井夫がふと見上げるとそこに海岸線が見える。このどんづまりと開放感が同時に味わえる感覚も、いい。

そしてそれぞれはそれぞれに戻っていく。黒田妻が帰ると、夫がダンスの衣装を着て、ポーズを作ったまま固まっている(爆笑!)。夫に肩を貸して、彼女が彼をどこにつれていくのかと思いきや、あの空き部屋である。石井夫婦がセックスしている声が聞こえる。その部屋で、二人は手を取り合ってワルツを踊り始める。西陽の差す、使い込まれたしっとりとした畳部屋で。なあんか、とてつもなく幸福感だなあ、なんて思う。ハッピーエンドだなあ、と。

それにしても!サトウトシキ監督が思ったとおりの感じのお方で、生で拝めたことに感激!★★★★☆


ダンボールハウスガール
2001年 100分 日本 カラー
監督:松浦雅子 脚本:松浦雅子 高橋美幸
撮影:篠田昇 音楽:
出演:米倉涼子 ブラザートム 樹木希林 櫻田宗久 伴杏里 吉田日出子

2001/10/9/火 劇場(渋谷シネ・アミューズ)
撮影日記とか読んじゃうと、どうしてもダメなんだよねー。あー、やっぱりこんなに大変な思いをして撮っているんだから、カンタンに面白くないとか言っちゃいけないんだなとか思って。でもそんなの、すべての映画がそうであって、それを表に出しているのとそうでないのとがあるだけであり、あるいはそれこそ劇中のヒロインの台詞じゃないけど「そんなこと、こっちには全然関係ない」んであって、撮影がいかに大変だったかとか皆が一生懸命作ったとか、そんなことで映画の良し悪しを決めていたら、本当にいいものは残っていかないんである……と自分を戒めているのは、そういうことにカンタンに左右されちゃう自分が確かにいて、女性監督ということでどうしても点数が甘くなりそうな自分もいて、さらに言うと、こうした映画制作の内情がより詳しく見えてしまっている映画関係者の人たちの方が、私たち一般の観客より更にそうした部分で点数を甘くしがちなんじゃないかなー、と思うので、やはり一般観客はより一層の厳しい目が必要だと考えるからなのである。まあ、要するに自分の意志の弱さを痛感しているんだけど……。

観終わって、最初に受けた印象は、「フツーだなー」ということだった。ホームレスになり、ダンボールハウスに住み着くことになる女の子、という設定自体はオッと思わせるものがあったんだけど、そこから期待されるような生活の汚さを笑い飛ばすようなタフな面白さに今ひとつ欠けていた。つまりは、ヒロインが最後までキレイすぎるのだ。もちろんヒロインなんだから、そうそう汚くなっては困るのだが、アルバイト先のテレクラの店長にも、家庭教師の生徒の女の子にも気づかれないというのは……。

まあ、それこそがホームレスの方たちに対する偏見であるというのも判っている。何でも聞くところによると、路上生活をしているけれども、きちんとしたサラリーマンの格好でダンボールハウスから出勤している人を見かけるとかいう話も聞くし。ただ本作では、それならそれで、そういうことから感じる意外性もないんだもん。路上生活だけど普通と同じくこんなにきちんとしているとか、あるいは逆に、路上生活って想像以上にこんなに過酷!とか、そのメリハリがなんともアイマイで、つまりは、ダンボールハウス生活の見どころ、この作品の見どころともいえるところが、美術で頑張ったという以上のものを見せてくれないのだ。

で、話を戻すけど、最後の最後までマユも完璧に整えられているヒロインに対しては、やはりそう簡単に共感するわけにはいかない。確かにこういうのを生き生きと演じているというのかもしれないけれど、ゲーノージンとしての華やかさはあれど、その、モデル体型、これまた最後までキレイに染められているロングヘアーの彼女に対して、ホームレスになった女の子のギャップ、過酷さをこれほどまでに感じられないと、やはり辛いのである。いくらエンタテインメントでもね……いや、エンタテインメントだからこそ、そのあたりはもっとガーンとやって欲しかった。

しかし最も辛かったのは、キャラにも台詞にも設定にも説得力がなかったこと、だろうか。ホームレスの人々にとっての心の拠りどころとなる教会、状況としては、これほど神様の存在を切実に感じたり、真摯な心持になったりすることはないと思うんだけど、そこにいる牧師ともども、そうしたいい意味での宗教性がまるで感じられなかった。記号としての教会、記号としての牧師、そんな感じ。教会も牧師も、そしてそこでひっそりと信仰されているはずの神様も、下界を感じさせる丘の下のダンボールハウス村の人々に対して何の影響力もない。ただゴスペルが歌われるのに似合うのみである。繰り返される「ハレルヤ」という言葉がギャグに聞こえ、「明日は、晴れるや?」と本当にギャグをかましても脱力するのみ。

エンジニアとしての腕は確かなのに社会から見捨てられ、幻想の家族を追い求めてさまよう老人、本当の家族以上の愛を見つけたのに、引き離されなければならない不法滞在者の外国人青年と保護施設から逃げ出してきたやはり肌の黒い女の子。というような、語るべき材料はしっかり用意されているのに、この説得力のなさは何なんだろう……。例えばこう、「今の杏の目は死んでない、きれいだよ」とか「おてんとさまの下の人間はみんなおんなじ」とか、そうした言葉が、ひどく空虚に感じられるのだ。机上で考えられた台詞が、肉体を持って迫ってこない。寒風の吹きすさぶ路上生活を送っている彼らから発せられるには、詩的で繊細すぎて、実感を持って迫ってきてくれない。

その最たるものは、ダンボールハウス村が放火され、ショックを受けている住人たちに、お前たちは不法占拠だとヤジを飛ばすオッサンに対してヒロイン、杏が放つ言葉である。「あんたもさびしいんだろ……云々」という言葉は確かに社会一般の人々の冷たさに対して発せられるのに説得力がありそうだが、しかし、その実、全く場違いで拍子抜けの感覚すら起こる。こんな目にあって、あんな侮蔑の言葉をかけられて、出てくる言葉としてはワンクッションもツークッションも置き過ぎていないだろうか?

実際どういう言葉が聞きたかったのかは自分でもよく判らない。でもここは明らかに泣かせどころで、ヒロインの口から耐え切れずにほとばしった叫びとして、肉体を持った言葉を聞きたかった。そう、思わず繰り返して使っちゃう、肉体と言う言葉……この映画がツラいのは、肉体を感じさせなきゃいけない、あるいは感じさせてほしい設定にもかかわらず、何か精神論に重きを置いていることなのだ。しかしその精神論も空虚で、力がない。結局肉体についていかなければ精神も存在する意味がないから。

前半、コツコツ貯めたお金を生活苦の男性に盗られ、君はまだ若いんだからとか、理不尽な理由で金をあきらめさせられ、「殺されたり襲われたりした方が、マシだった。金盗られるより……」と杏はつぶやく。物語も終盤になって、杏は家庭教師の生徒である女の子に「私も、お金さえあれば何でも手に入ると思っていた時があった」と語るのである。もちろん、この映画の中での真実、テーマとしては、後者にあるにきまっている。つまりは、お金では手にいれられないものがあると、それこそが大事なものなのだという論である。それは理屈としては良く判るのだけど、実際どちらの台詞、どちらの状況が実感を持ってより説得力があるかと言えば、皮肉なことなのかなんなのか、圧倒的に前者なのだ。

何年も(といっても、せいぜい2、3年だろうが)かかって、ケチケチ生活の末に貯めたお金を盗られて、その努力も借金というルール違反を犯した男の方が同情されることで、まるで報われず、呪いの様につぶやく前者の杏の方が、よっぽど説得力があった。それはその状況に説得力があったともいえる。ではなぜ、後者に説得力がないのか。それは、杏がそう考えるに至った状況に説得力がないからだ。彼女がお金に執着しないようになった、というわけでもないし、お金よりも大事なもの、というのは多分あのダンボールハウス村で出会った人たちと、その愛とか、そういうものなのだろうが、正直言ってあの場所での彼女の存在は最後までどこか傍観者的で、彼女がそう思えるようになるほど固い絆で結ばれていたとかいうのを感じることが出来ないから。

ということにダメ押しをするように、彼女はお金が出来たのであろう、またアコガレの地、アメリカへ向けて旅立つ。先述のような思いがあるので、“アコガレの地、アメリカへ”というより、“お金が出来たので”の方に、ついついウエイトを感じてしまう。別にダンボールハウス村に残ってほしかったとかいうわけではない。不屈の、タフなヒロインにとって当然のラストシーンだとは思う。しかし、出入りの激しいこのダンボールハウス村とはいえ、やはり印象としては、彼女は一時の気まぐれな住人程度にしか映らない。残された住人たちは、また変わらない日々を送るのだ。杏も、あの家教の生徒の女の子のように、この場所には訪れなくなるのだろう。台詞ではもっともらしいことを聞かせても、じゃあ実際彼女がここで何を得たのか、力を得たのか?と観客を戸惑わせたまま。

しかし、昔から、日本を出てどこかへ行く、というと、決まってアメリカなのには、さすがにウンザリするものがあるのだが。とりわけ、今回のドロ沼事件で、正直私は今まで以上にアメリカ&アメリカ人に幻滅してしまったものだから……。日本人はアメリカ以外に行くところがないのか??……。

かっとばすヒットはないけれど、ガクンというハズレもない松浦雅子監督だったけど、本作はちょっとずつのほころびが全体にはびこってしまった、という感じだったなあ……一見、ハジけた佳作のように見えはするんだけどね。★★☆☆☆


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