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「ち」


2004年鑑賞作品

痴漢義父 息子の嫁と…
2003年 59分 日本 カラー
監督:後藤大輔 脚本:後藤大輔
撮影:飯岡聖英 音楽:
出演:中村方隆 麻木涼子 佐々木ユメカ なかみつせいじ 城春樹 水樹桜 江端英久


2004/4/18/日 劇場(池袋新文芸座/第十六回ピンク大賞AN)
2003年度ピンク第五位の作品だったけれど、もっと上位にいっても良かったんじゃないかと思う。映画、映画そのもの。ラスト、義父が薄墨色の書の上にぽとりと落とす涙に、高まった気持ちがあふれて……泣いてしまった。

義父と嫁の二人暮し。彼らをつなぐ息子であり夫である男は写真の中で笑うばかりである。一般的な常識ならば、そうなればもう嫁は実家に帰るであろう、普通。でも彼女はここにとどまり続けている。二人だけの静かな生活。
……と、いう趣に行く前に、冒頭、ドギモをぬかれるシーンがある。ここはずいぶんと山の中、ずいぶんと田舎。朝もやが冷たく感じられる早朝、義父は牛舎に行き、乳を搾って歩く。牛が並ぶ中に、嫁のノリコが素っ裸で四つんばいになっているのだ!?そのカッコで義父に乳を搾られる。義父は「やっぱり出らんね。気にせんでいい。いつかは出るけん」と言って嫁の頭をなでる。「モー」と鳴く嫁……一体!?
こんなのイキナリだから、こりゃコメディかと思う。実際思わず噴き出してしまったりしたんだけど……このシーンの意味するところが、笑うどころじゃない、あのラストにこぼれる涙に直結しているんだと後で知り、呆然となるのである。くそ、やられた!

畑仕事で日に焼けた、いかにもおじいさんという感じの義父と、三十路一歩手前で、田舎くさいカッコの下に豊満な女体を想像させる嫁が一緒に暮らし続けているというのは、確かに世間的に色々言われるネタであり、考えるだにグロテスクに違いない。しかも物語的に……この二人はお互いに愛し合っていて、それがクライマックスでとげられるというのだから、ますますグロテスクに違いない。
でも、そのクライマックスに到達する時には、感動で胸がいっぱいになっている。二人が添い遂げるそのシーンがたまらなく美しいと思う。
でもそれまでの二人はそれぞれの立場をわきまえているから、お互いへの思いなど口に出来るはずがない。静かに朝ごはんを食べ、畑に出て、静かに夕飯を食べ、それぞれ風呂に入って寝る……朝、嫁の乳が牛舎で搾られるほかは本当に静かな静かな慎ましく美しい生活なのだ。

この朝の!?なシーンは一体何なのか。
義父は少々ボケかけているのだ。そのきっかけになっているのが、この行動のもととなっている牛のハナコの死である。ハナコは乳が出なくなったことで息子にムリヤリ売られそうになった。それを必死で止める義父と嫁だったが……目の前でそのトラックが横転し、牛も息子も死んでしまった。
この義父のボケのきっかけが、息子ではなくて牛の死だというのはなんとも皮肉だが……息子のことは、この愛する嫁とのたった一つの共通事項だからだったのかもしれない。
朝になると決まって、今はもういないハナコの乳も搾ろうとする義父のために、毎朝嫁が四つん這いになっているのだ。義父が取り乱さないように。

後になって、彼のそのボケの進行を診察した医者が、専門の病院に入れた方がいいと勧める。ついてきた看護婦はこの家を辞したあと「ヒドい嫁ですよね。ボケたままほっておくなんて」といまいましそうに言う。
それをいましめる医者。治すばかりが思いやりじゃない。実際この嫁ほど義父のことを思っている人間はいないのだ。

妻はもうおらず、息子は死んでしまったし、数年ぶりに帰ってきた娘は土地を売って金を手に入れるのが目的だった。
土地を守るために、ハイエナのような村の男と大立ち回りを演じた義父はケガをして横たわっている。嫁はその枕もとにひざまづき、「お義父さんと離れたくなかったから、病院に連れていくのがイヤだった……」と涙ながらに告白する。「お義父さんが好きなの」と泣き崩れる。
ただの、恋愛関係なら、彼女がここまで苦しむ必要はない。
でも、義父と嫁という関係は、その共通項の男が死んでしまった今、ほとんど切れかける寸前である。彼女の意思で踏みとどまっても、病院なり施設なりにこの義父が入ってしまったら、もう自分の手は届かなくなってしまう。

彼女が自分のことを、ズルいんだと、自分勝手なんだと泣きながら責める、その気持ちがあまりにも判ってたまらない。彼女は毎朝そうするように義父の傍らで服を脱ぎ、四つん這いになってモーと鳴(泣)く。義父が目を覚ます。それが嫁だと判って……ようやく判って、そう、今までは牛のふりする嫁に気づくことは決してなかったのに、彼のしわだらけの目にみるみる涙がたまるのが……なんでこんなに胸をつかれるんだろう。彼の押し殺した気持ちが、それは例えば風呂場でこっそり嫁を思って自慰にふけったりしているそれこそ“グロテスク”な場面より、彼のその気持ちが手にとるように判ってしまって……。
そして二人は静かに求め合う。「夢みたい」とつぶやきながら、これ以上なく幸せそうに。
こんなに静かで幸せなセックスシーンをそれまでに見たことがあっただろうかと思う。

何より切ないのは、それでハッピーエンドを迎えるのかと思いきや、この義父が自ら身を引いてしまうことなのだ。
彼は土地を売り、老人ホームに入ることを決意する。お互いに愛し合っていることが判ったのに、この若い嫁の将来を慮ったのだ。
彼女にしてみれば、勝手に決められて、という憤りもあっただろう。でも義父の思いやりが何より判るからそこまで言えない。この思い出深い家を去る時、玄関の上がり口で膝をついて挨拶しつつ、書をしたためる義父の後姿に向かってポツリと「……お義父さんは残酷だわ」と、下を向いてたまらず嗚咽する。これが精一杯の恨みの言葉。
嫁が去ったあと、書をしたためるそのままの姿勢で義父は動かずにいる。目はどこか遠くを見ている。彼の書いていた書にカットが切り替わる。「嫁 牛」と大書された下に、彼女が毎朝牛になってくれたことが書き綴られている。次々になくした大切なもの、その最後の最後を失ってしまった。薄墨の書にぽとりと落とされる義父の涙は、なんて滋味深い悲哀に満ちているんだろう!

ちゃんと田舎で、田舎言葉もしっかりしていて、田舎の生活で……それが一番素晴らしかったかもしれない。一日の仕事を終えて、夕陽に目を細める義父の表情の素晴らしさは、ここまできっちりしていなければ出ない。三十路前の女がここまで落ち着いていて、親子以上に年の離れた義父を好きになるというのが説得力があるというのも、そうでなければ出ないと思う。グータラ男が田舎道を自転車でのらりくらりと回っているのもいかにもな風景。都会から突然帰ってきた娘の奔放さも実に際立つ。この娘を演じる佐々木ユメカ。確かに彼女もはやベテランだけど、こんなに上手かったっけ?などと思ってしまう。ま、ハマリ役ではあるけどきっちりととてもいい演技をしていて、この映画をしっかりと支えている。

聞こえ続けているラルゴの旋律が、義父の涙の後のタイトルクレジットで厳かに繰り返される時、ああ、こんな映画に出会えて良かったと心の底から思う。まるでそこには笠智衆と原節子がいるようだった。★★★★★


痴漢電車 快感!桃尻タッチ
2003年 60分 日本 カラー
監督:加藤義一 脚本:岡輝男
撮影:図書紀芳 音楽:レインボー・サウンド
出演:佐倉麻美 風間今日子 林由美香 相沢知美 兵藤未来洋 平賀勘一 なかみつせいじ 丘尚輝 城定夫 色華昇子

2004/5/24/月 劇場(渋谷アップリンクファクトリー/2003PINK FILM ARCHIVES)
いやー、もう、大好きよ、これ。こういう1000パーセントくだらないのって、最高に大好き。何でか“痴漢……”ってつくピンクはアタリが多いんだよなあ、不思議と。実際にあうとこれほどイヤなものはないのに。そんでもって、この加藤義一監督作品というのも初見。トークショーで来ていた監督は、思いっきり緊張で、シャイな感じでこの爆笑映画を作った人とはとても思えん。そういうギャップは更に楽しいのだ。

おいおい、元ネタは「少林サッカー」だって!?そ、そうかもしれない、このくだらなさは!つまり、これは痴漢道を極める話なのよ。何だそりゃ!痴漢道は“触道”と呼ばれ(おい)、ペ○スを思わせる黒光りした木の御柱が奉られ(おいおい)、ここの家系は先祖代々痴漢を継承していった名家であり(おいおいおい)、その祖先は痴漢の元祖である出歯亀の起源となった池田亀太郎という偉大なる人なんだという(もう、おい、言うのも疲れる……)。自分の指には絶対の自信を持つ父親、鶴二郎の、その右手のつけねには一本一本それぞれ「黄金右指」と刺青してある!その娘はマトモだから父親に、お願いだから痴漢に出かけるのはやめてと懇願するんだけど、父親は、自分は世のOLたちのストレスを解消しにいっているんだ、ボランティアだと豪語、今日もいそいそと出かけていく。

あのお……あの、ね。これ実は冒頭がかつての学生運動を回想するつくりになってたのよ。おや、これはシリアスな社会派映画なのかしらんと思ったら、なんでこうなるのよ!いやまあその……一応それは意味があるっちゃあるんだけど。つまりその学生運動で共に活動した二人が、一人は痴漢になり、一人は刑事になるわけ。で、その刑事の方は、痴漢になった鶴二郎を、いつか捕まえてやるといつも言っているんだけど、鶴二郎は「お前は20年前からそう言っているな」と笑う。おお、なあんだよ、まるでルパンと銭形刑事じゃん(笑)。
それで、何の運命のイタズラか、なあんとこの娘、さくらの恋人である亘は、この刑事の息子だったんである。亘はちょっとイイ男。NACSさんの佐藤重幸氏にみょーに似てて、私はかなり困ったんだけど(笑)。二人はマトモな恋人同士だったから、この痴漢道に邁進する父親に共に頭を悩ませていたんだけど、な、なんと、亘は痴漢道に目覚めてしまうのだッ(アホかッ!)

何で痴漢道に目覚めるって、あんた……もう信じられないよ。二人は電車に乗ってる、そして共に触られるのね。二人は相手が触ってくれてるんだと思って「こんなところで、ダイタン……」なあんて言いながら喜んでる(喜ぶなよ!)。しかし、ふと気付くと、それぞれが違う相手に触られてて、しかもそれがマシューとアニータという外国人(絶対、違う!)。彼らは日本で友達を作るにはおさわりをするべきだと、ある本によって教えられたんだという。その本は鶴二郎著で(バカッ、もう!)インターネットで流通しているんだという(……)。
ぜえったい外国人なんかじゃないこのアヤしい外国なまりの二人の男女に、なぜかラップでノセられていくうち(やめてくれー、恥ずかしくてもだえるー)、亘も洗脳されてしまい、自らラップのリードを取り出す(だからやめてってば、恥ずかしいから)するとその公園にいたあらゆる人たちが振り返り、皆でラップを踊り出す(み、見てらんない、恥ずかしくて。セックスシーンより100倍恥ずかしいわ)。

あのね、この亘は助教授の道を探っている大学講師であり、つまりとってもマジメな男なのよ。さくらとするセックスだって、王道ですごーくマジメ。しかしこの話にノセられて、ボディタッチ(おさわり)こそが日本の文化だ!なんていう哲学(なワケない)に目覚めてしまい、それを自分の研究テーマにすることに決定してしまうのだ。お前、お前、お前、アホかー!!そんで鶴二郎に弟子入りすることになる。弟子入りかよ……。さくらとの関係もとってもマジメに考えてる亘、刑事である父親にそのことを打ち明けるんだけど「あの娘の父親は痴漢なんだぞ!(マジメな台詞だけに、噴き出しちゃう)」と一喝、勘当されてしまう。ちょっとカワイソウ……。

ああ、そうか、この修行の日々が「小林サッカー」だということなのね。まずは掃除から、と始まる修行の数々は、しかし全てが触道へと昇華していくのだ!?水拭き、から拭き、と繰り返すそれをダッチワイフ相手に特訓し(もう、頼むよ……)、その指ワザを寝ている間も夢の中で練習しているというマジメさ。それを見て鶴二郎はさくらに「いい青年じゃないか」嬉しそうにうなづくさくら……そうかよ、もうやってくれ、勝手に(笑)。

ここまでで既にバカバカしいんだけど、さらにバカバカしいのは、さくらの出生の秘密を語る回想場面。さくらは鶴二郎の本当の子供ではない。小林拳法の達人で、その指で次々に女たちを快感でなぎ倒していったウンピョウという伝説の男と、その彼と運命的に出会った、やはり小林拳法の達人、真樹との間に生まれた子供なのだ。ウンピョウは痴漢現場を抑えられて警察に追われ事故死し、真樹はさくらを難産の末、鶴二郎に託して息をひきとった。それを聞かされたさくら「じゃ、私、ハーフじゃん」そういう問題なのか?オイ!

でねでね、この回想シーンが、アホなのよ。ホントに。光まばゆい、いかにもウツクシイ回想場面なんだけど、電車の中でウンピョウがホイ、ホイと型をキメていく道筋に従って女たちがアンアン言いながら倒れてゆく(もー)。その先に、涼しい顔をしたミニのチャイナドレス姿の真樹がいて(林由美香嬢。んーん、似合うね)彼女だけはその訓練された指ではっしとウンピョウの指の侵入を防ぐのだが……見つめあったその目とその目、恋に落ちるのね。そして二人は、何か、あれはなんなの、もんのすごい貧乏くさいガランとしたアパートの一室みたいなとこよね、そこで二人して向き合って、ホイ、ハッ!と拳法の型を繰り出し(大マジメなんだもんなあ……脱力するよ、このバカバカしさには)、それがいつしかセックスになっていくという……ありえん、ありえん。

えー、それで話を戻しますと、亘のマジメな取り組みが身を結び、鶴二郎から「もうお前に教えることは何もない」と(そういう台詞が出てくるあたりがアホだというのだ)実戦へと向かうことになる。その前にさくらとふたり、神前にうやうやしくかしづき(あの御柱にね)、まあ神聖なるセックスをしてからいざ戦場へと向かうわけだ。

電車の中には、鶴二郎とさくらも乗り込み、亘を心配そうに見つめている……おっと。
あのねー、何でさくら、ナースのカッコしてんのよ。彼女が看護婦さんだってことは「今日は夜勤だから」なんていう台詞で何となく見当はついてるけど、なんでそのカッコで電車に乗ってるのよ!まあここまでくると、その程度のことはどうでもいいやと思えなくもないんだけど……。そして首尾よく女をその指に悶えさせる亘に近づいてくるさくらは、彼のモノをその手に……「妬けちゃった」とニッコリ笑うさくら。そして電車の中では三人の熱い吐息が……イヤー!もう。

亘がこの論文で助教授になれるかどうかは……至極、疑問、ね。しかしさあ、痴漢道って一体どうやってそれで生活してるんだろ……なんてこんな映画にそんな現実的なことを考えちゃ、いけない?★★★★★


地球で最後のふたりLAST LIFE IN THE UNIVERSE
2003年 107分 タイ=日本=オランダ=フランス=シンガポール カラー
監督:ペンエーグ・ラッタナルアーン 脚本:プラープダー・ユン/ペンエーグ・ラッタナルアーン
撮影:クリストファー・ドイル 音楽:スモールルーム/フアラムポーン・リッディム
出演:浅野忠信/シニター・ブンヤサック/ライラ・ブンヤサック/松重豊/竹内力/ティッティ・プームオーン/三池崇史/田中要次/佐藤佐吉

2004/8/24/火 劇場(渋谷シネ・アミューズ)
このラッタナルアーン監督の作品は観たいと思っていた作品もあったのに、何だか今まで機会がなくて。でも本作は今までの作品とはかなりカラーが違うというから、そうした前知識なく本作に臨めて良かったのかもしれない。
だって、こういう映画って、好きだもの。
特に凝った展開が待っているわけではない。ひとことで言っちゃえば、孤独な男と女が恋に落ちる。それだけって、言ってもいいかもしれない。
少し変わっている部分があるとすれば、男が日本人で女がタイ人だってこと。そして二人の周りで人が、結構沢山死んでしまうということ。
でも、静か、である。そんな物騒な展開もものともしないぐらい。本をめくる音、食器を洗う音、図書館の中を歩く足音……そんな音をしんしんと聞いているのが、好きだ。そういう映画が好きだ。かすかなかすかな生活の音。音だけをしんしんと聞いているうちに、二人の距離が近づいて、そして……二人は離れてしまうんだけど、きっとつながってる。

外国に暮らす日本人。あるいは、その上で異国の女性と恋に落ちる、というのは、今までたくさん見てきた設定ではあるんだけれど、今までで一番、この浅野忠信は溶け込んでる。ここまで溶け込んでいる人は今までいなかった。
というか、この中で彼はもはや日本人ですら、ないのだ。今までのそれはきっちり日本人だった。無論、それが恋の障害の要素となって話が盛り上がる、そういうものだった。でも彼は日本人だということを感じさせない。かといって、タイ人というわけでも無論ない。彼はただ、一人の男。ヒロインであるノイから日本人、日本人と呼ばれはするけれども、それはそう確かめなければ判らなくなってしまうんじゃないかと思うぐらい、ただ一人の男、ケンジなのだ。

こういうのはさすが浅野忠信。彼はとにかく売れっ子で、昨今刺激的な主役を数多くこなしてきたけれど、きっとやっぱりこういうのこそが上手いんだと思う。空気のように、水のように、どこにいても一人の男でいられる役者として、彼以上の人はいないんではないか。
ケンジが勤める、ヴァンコクの日本文化センターにある図書館には「殺し屋1」のポスターなぞが貼ってあって、この監督さんが浅野忠信に対して持っていたある一定のイメージをうかがわせるんだけど(だから、監督さんは、それとは全然違うだろう!という意味をこめて、こういう遊び(のシーン)を仕掛けてるんだろうと思う。三池監督まで役者として引っ張り出して!)浅野忠信がもともとはそういう、極めてニュートラルな人だからこそ、そういうとんがったものも演じられるというわけで、そのニュートラルをニュートラルのままに設定すると、これが怖いぐらいに溶け込んじゃうから……逆に監督の力量が問われるのかもしれないとも思う。水のように溶け込んでしまう男を、主役として輝かせるという部分においては、監督の仕事だろうと思うから。
監督は浅野忠信を信頼して、そのカメラで見つめ続けさせることによって、そのいわば難題をクリアしてきた。

一体、ケンジはなぜここ、タイにいるんだろう。生活の匂いがしない。まるで……死にに来ているみたいだ。ケンジがノイの元に転がり込むことになる事件……ケンジの兄が彼の部屋で友人?のタカシに殺されてしまい、そしてケンジがタカシを殺してしまい……ということがあるんだけど、ヤクザであるケンジの兄が日本でトラブルを起こしてタイに来たのは、多分ここに弟がいるからだろう。でも、ならば、ケンジはなぜタイにいるんだろう。だって、ケンジはタイ語もまともに喋れない。仕事をしている日本文化センターは場所柄、日本語でOKで、タイの文化が好きというわけでもないらしいし、人とまともにつきあわずに暮らしている。
……でも、多分、ともかく、ケンジが日本にいられない理由は判るような気がする。大阪から来たというんだから尚更である。異常なぐらいの潔癖症のケンジ。生きている意味が見出せないケンジ。……だからといって、死ぬ意味も見出せないケンジ。
そんな彼が、日本みたいな、生きる正義を強要する国で、しかも大阪みたいな個人を主張しなければ生きている価値ない、みたいな場所で生きていけるわけない。

ケンジがノイと出会ったのは、不思議な偶然である。その時、ノイの妹ニッドは死んでしまった。最初にケンジを見つけたのはニッドだった。……顔見知りというわけではないはずだ。ケンジがニッドが働いているような、フーゾクの店に行くわけがない。でも、橋の上で、川の中に飛び降りてみようかな、みたいな雰囲気を漂わせているケンジをニッドは見つけた。……まるで知り合いを見つけたような雰囲気で彼と顔を見合わせた。
でもその直後、ニッドは他ならぬ姉のノイの車に激突して死んでしまう。
もちろん、わざとというわけではないんだろうけれど……それでも、自分の男を寝取ったニッドに対してその直前まで大喧嘩をしていたノイである。……不思議なほど似ている二人。実際にも姉妹である二人なんだけれど……同一人物が二役を演じているのかと思ったほど。

この、まるでドッペルゲンガー現象は、その後もケンジとノイの間に静かに、波紋を投げ続ける。
兄が死んでも、別にショックを受けたわけではなかったケンジ。強引に自分の生活に入ってくる兄は、彼にとっては他人同然だった。
でも、ノイはニッドが死んだこと、そのことで自分が一人きりになってしまったことに、ひどく動揺している。だって、本当にソックリの二人だった……。
劇中、何度かノイとニッドが入れ替わる。ケンジの膝で寝ているノイが、あの日死んだ時のまま、血だらけのセーラー服姿になって、次の日も過ごしたりする。でも本当にソックリだから……ノイがそう演じているのかもと思わせたり。
あの時、ケンジを見つけたのはニッドだった。ひょっとしたら、ケンジと恋に落ちるのはニッドだったのかもしれない。
でも、そのニッドは死んでしまった。事故とはいえ……ノイが殺してしまったような形で。
ノイがニッドを抱え続けることで、自分が兄の死にショックを受けていないことで……お互いにより孤独感を深めることで……だから、二人は、“地球で最後のふたり”になったのだ。

この元ネタは、ケンジが勤める図書館から借りてきた絵本。世界で最後の一匹になってしまったヤモリが、嫌いな友達に囲まれている方が、一人になるよりよっぽどマシだと哀しむ内容。自分が思っていることも、誰も話す相手がいないんじゃ意味がない、って。
そうかもしれない、そうなのかもしれない。いつもいつも、ひとりになりたい、煩わしいと思っていると、そんな想像をすることさえ難しいけれど、ケンジがこの本を借りてきたのはきっと、そう、思いたかったから、なんだよね。ひとりでいることを、寂しいと思うことさえ出来なかったケンジが、寂しさを知らないことこそが絶望だということに、気付いていたから。

ヤモリが、象徴的に現われる。壁に、天井に、小さな手足をふんばってへばりついているヤモリ。
ただ、生きていくことに必死でいられることを、幸せだと思う。
孤独だということさえ感じられないほど、必死に生きていられることを。
孤独だと感じるってことは、生きていることに必死でいられないからなのだ。
だって、もともと、皆、ひとりなのだもの。孤独なのだもの。
ヤモリは孤独なことに気付いてなんかいない、きっと。それはあくまで人間の想像で……彼は生きることに必死なだけなんだ。

ノイの部屋に転がり込んだケンジ。彼は潔癖症で、外に出る時は割り箸を持参するほど。あふれる本も図書館みたいにきっちり整理して、服屋さんみたいに等しくつるされたシャツや、曜日ごとに決められた靴など……完璧な秩序を保っていたケンジの部屋とは正反対に、メッチャクッチャでグッチャグッチャで、ゴミあふれてて、洗い物放りっぱなしで……めんどくさがりの私だって驚くぐらいな、ちょっとやりすぎなぐらいな、ノイの部屋。
でも、不思議と、ケンジはここに居心地のよさを感じるのだ。口に出して言うわけじゃないし、最終的にはケンジらしくクリーンに掃除したりもするんだけど、そうでなければ病的なほどの潔癖症のケンジが、こんな部屋にい続けられるわけないもの。
ここには人の匂いがある。それは……死んでしまったニッドの匂いも含めて。生きていることに必死な、必死だった人の匂いがある。

ノイは泣いている。自分を置いて逝ってしまったニッドを思って。ニッドの部屋に入ったケンジに激昂したりする。あんな終わり方をしたけれど……ノイにとってかけがえのない妹だったのだ。
ノイの恋人と寝たニッド、でもそういう、ヒドい男だった。ニッドは本当に、姉のことを思ったんだと思う。それがいまならノイにも判るから……。
ノイは日本語を勉強中だけど、ほんのカタコトだし、ケンジはそれ以上にタイ語が判んなくて、いくつかの単語を知っている程度。英語も二人ともおぼつかない。そんなつたないコミュニケーションだけど、だからこそ、お互いの気配みたいなものをよりどころにして全身をアンテナにして会話する二人が恋に落ちたのはきっと……当然だったのだ。

ケンジが潔癖症なのは、キレイにすることで、生活している痕跡、生きている痕跡を消すことが出来るからかもしれない。彼はきっと苛立っていた。死ぬ理由が見つからないことを。彼の自殺未遂は、カンタンに遮られてしまうほど、意味を持たないものだ。生きている痕跡を消すことで、死んだような生活をおくっていた彼。
でもその彼が、生活の痕跡を現在進行形で残すノイの家に安住を求めたのは、ノイの命のぬくもりに恋をしたから。
ケンジだってきっと、死は怖かったんだ。あんなにも、死への憧憬があったのに、死体と暮らすことは出来なかった。
ケンジはノイの部屋をクリーニングするけれど(そのさまも、まるでマジカル)あのケンジの部屋みたいに、無機質 には仕上げない。ノイの部屋らしく、生活している、生きている、ぬくもりがある。

仕事で大阪に行ってしまうというノイと過ごす最後の夜。「ウンチがいっぱい出るのよ」なんていうパパイヤサラダをケンジにふるまうノイ。車の中で寄り添って明かす一夜。最後まで……キスさえ、しなかった。
このパパイヤサラダはちょっとしたブラックユーモアを含めて、ケンジにもうひと騒動体験させて、……つまりはノイと引き裂かれることになってしまうんだけれど。自分の部屋に死体を隠し持っていたことで(という理由だよね)刑務所送りに(だよね?このあたりちょっとアイマイで)なってしまうケンジが、妄想するのが大阪でのノイとの再会。大阪に行くことを暗にイヤがっていたケンジが、そのことを嬉しそうに妄想するのが……そしてケンジはノイをオープンカフェのウェイトレスとして妄想しているんだけど、あの時「ここと同じ仕事よ」と言ったノイ、その仕事っていうのは多分……そんなマトモな仕事じゃなかったと思うんだ。ハッキリと示されていたわけではなかったけれど。でも、お願い、お願いだから、きっと二人がいつかこんな風に再会できるって、思いたいな。思いたい……。

ノイ役のシニター・ブンヤサックがキレイでしかもカワイイんだ。ソックリの妹、ライラ・ブンヤサックともどもに……。浅野忠信、毛深いなー!こんなにサラリとしている人なのに、何でこんな類人猿なの!★★★☆☆


乳姉妹
1932年 136分 日本 モノクロ
監督:野村芳亭 脚本:川村花菱 久米芳太郎
撮影:長井信一 音楽:――(無声)
出演:岡田嘉子 川崎弘子 岡譲二 山内光 若水絹子 岩田祐吉 吉川満子

2004/2/3/火 東京国立近代美術館フィルムセンター
伝説の女優岡田嘉子が出ている……のだけれど、どちらが彼女か判らないのよー。映画が古すぎて資料は少ないし、映画ムック本の写真をもう一人の主演、川崎弘子と一生懸命見比べても、昔のメイクは似通ってて、一枚のショットだけじゃ映画の中のどちらがどちらだったのか判別がつきづらい。でも、年齢の差と、振られる役柄の傾向から、やはり岡田嘉子はしたたかな姉、房江の方かな。だとしたら妹の君枝役(この役名の漢字もアヤシイ)川崎弘子のふっくら美人の方が好み。泣き濡れて、泣き濡れて、そのたおやかな体に首もとまできつめに着付けたストイックな着物姿が被虐的な美しさ。岡田嘉子(多分)の方はというと、自分の身分を偽ってまんまとお嬢様になってからは肩を出したイブニングドレス(肩ヒモがチェーン!!)などのかなりハデな洋装も着こなし、妹の君枝から「お姉さま、雑誌の口絵みたい」と言われるまでに大変身。やっぱりこっちが岡田嘉子なんだよね?顔もバタくさい(ような気がする)し。

しっかしこのドロドロメロドラマにはびっくりしたよー。文学チックなタイトルと、クラシックな無声映画、大和撫子な美人が二人も出てきてまさかこんなにドロドロになるとは、本当にビックリ。新派劇が映画化されたということで、これは有名な話なのかなあ?冒頭シーンは裕福そうな夫婦二人が可愛い赤ちゃんを前にして、夫の渡航による別れに涙している。この赤ちゃんがホント可愛いの。赤ちゃんなのにすでに美人で、こんなキレイで可愛い赤ちゃん、ちょっと見たことないよと思うぐらい。やがてこの夫が伝染病にかかり、妻が看病のためこの赤ちゃんを乳母に預けて渡航するのだけれど、その別れを涙涙で惜しむのも判るわと思うぐらい、美乳児。しかしこの母親、哀れ渡航の船が難破して、死んでしまうのだ。この描写も字幕でアッサリ流して、え!?それだけかよ!と愕然。昔の映画ってこういうアッサリさで結構驚かされちゃうから、焦る。ほっんとに無声映画で伴奏音楽も何もつけないで上映しているから、シーンとした中でええっ!!とか声をあげそうになっちゃって、ホント焦るのよ、もう。

そして時は過ぎ(これもあっという間に十数年)、乳母のもとで乳母の娘と共に育てられたこの赤ちゃんは、自分の身の上も知らずに学問好きの楚々とした娘に成長した。名前は房江。乳母の娘で、この房江の姉として成長したのが、この田舎町で既に男とイチャイチャして、妹が仕事のために遠地に行く見送りも怠るという描写から、その奔放な性格が判る君枝。しかしこの名前……確かあのお母さんは赤ちゃんに、君ちゃん、と呼びかけていたはずなのになあ……と思っていたら、したたかなのは血だったのか、乳母が自分の娘にいい思いをさせたいばっかりに、名前を取り替えていたのだ。しかしこの乳母は病死する前、それを君枝に懺悔し、房江によく謝ってくれろと言い言いし、死んだ。しかし、君枝は急ぎ帰郷した房江に、自分こそがその身分の高い生まれなのだと“告白”して、まんまと資産家、松平家の一人娘におさまったのだ。

いっやー、何かもう既にドロドロよね。しかし、物語はもっともっと、ドロドロに進んでいくのよお。ああ、オソロシや。君枝にはこの時点で恋人がいて(あのイチャイチャしてた男ね)、外国でひと山当ててくるからそれまで待っててくれと言われ、指輪ももらっていたんだけれど、松平家の跡取として迎えられている青年にひと目惚れして、その指輪を乗っていた汽車の窓からひょいと投げ捨ててしまう。もうこれもビックリしたわよ。だって、無声映画のモノクロ映画の(しつこい?)しゃなりとした着物姿の美人が、青年見たとたんに躊躇せず指輪をポイ、よ。劇場内もどよめいちゃったぐらいなんだから!

まあ、確かにこの青年(お兄様と呼ばれる……ひゃー!)は石橋凌似のハンサム。ごめん、これは誰なんでしょう……キャスト見ても誰に当たるか判りません。でもねでもね、この君枝がソデにして、なんと最後には痴情の末死んでしまうという(!いきなりネタバレ!)男もかなりの美青年なのよ。うん、美しさで言えば、こっちの方が上かもしれない。田宮二郎風、どこか悪魔的な美しさ。だってね、彼最初から怖いのよ。自分が外国に行っている間、もし裏切ったら、必ず復讐する、あなたを殺します、って言ってるんだから。何にも疑問を持ってないうちからよおー。
そう、で田宮二郎風悪魔的美青年が、いよいよこの君枝が自分を完全に裏切ったと判った時の、その形相がすっごいの。こんな凄い形相、今の俳優でだってなかなかお目にかかったことない。まずデカイ字で「詐欺女!」と出た後の、その顔。そして彼女を殺して自分も死ぬしかないと決心した時の、あの目の周り真っ黒にメイクしたのが地顔かと思うぐらいの鬼気迫る形相。まさしく、形相、よ。こりゃ殺されるわって顔。凄かったなあ……。

何かどんどん君枝の話ばかりで進んでっちゃったけど、あの、一応主人公は房江の方なんだよな(笑)。いやー、だってさ、君枝があまりにも強烈なキャラクターというか、強烈なエピソードの持ち主というか、なもんだから、ついつい手が滑って(笑)。あのね、だから、好みとしてはやっぱり房江の方なの。ふっくら美人で、口元のホクロはとらない方が良かったのになあ。ま、もちろんこれこそが物語のカギを握るものになるわけだけど。でも、ホクロって、赤ちゃんにはないって聞いたことがあるんだけど……生まれたばかりの赤ちゃんっていうのは、シミとかホクロとか一切ない状態で、そういうものは成長していくにしたがって徐々に現われるんだって。確かに、ホクロのある赤ちゃんなんて見たことない。だから、完全に乳幼児の状態だった彼女に黒々と、その証拠となるホクロがあるのは本当はちょっとおかしい気もするんだけど、それはツッコミすぎってもんよね。

松平家の当主は、この房江も君枝を育ててくれた乳母の娘として丁重に娘として迎え入れる。しかし、そう、本当に実の娘なのは、この房江の方だったのだ。そのことを知る由もないのに、この当主は気配りのこまやかな房江をたいそう気に入り、房江が実の娘だったら良かったのに……とまで口にする。彼が記憶をたどって描かせた妻の肖像画はこの房江の方にこそソックリで(当然!)房江はその絵を見て、夢の中で何度も会っています、と涙を流すのだ。

しかも君枝がひと目惚れした、この松平家の跡取の青年に、房江もまた心惹かれる。しかもこの青年も房江を愛するようになるのだ。うっわー、ドロドロ、ドロドロ、ドロドロドロよ!だって、当主がいくら房江のことを気に入っているといっても、実の(だと思っている)娘とこの青年を結び付けたいと思っているわけで、君枝もそれを承知で房江に、あんた、手ェ出すんじゃないわよ、とばかりにキッチリ牽制してくるんだもん。こわー。だって、だってよ、この青年は房江にもう早い段階で愛の告白をしているわけよ。それがさー、またストレートなの。「露骨に言います。僕はあなたが好きです」だなんて!私またしても、静寂の中で、キャー!!とか言いそうになっちゃったわよ。字で見ただけでもテレるわー。こういう言葉は現代じゃ出ないよね、やっぱり。で、君枝は二人がお互いに思いあっているのは判っているんだけれど、しかも小さい頃からずっと姉妹として育ってきた仲良しなのに、もう全然そういう気配がないわけ。いや、表面上は仲良くしてんのよ。でも以前と同じじゃない。だって、房江は君枝に対して敬語になって完全に敬ってるし、いつまでも質素な和服姿の房江と、どんどんハデな洋装で髪に大きな花飾りとかつけてる君枝とじゃまるで違うんだもん。本当は、本当のお嬢様は房江の方なのに。この君枝、何かがバレそうになると一応は目を伏せたりしてみるものの、でもしっかり強気なんだよね。こわー!!

で、ああ、ようやくさっき言ってしまったクライマックスにきたわ。当主が生死の境をさまよったのをいいように利用して(としか見えないよなーうーん)この跡取の青年との結婚をゲットした君枝だったんだけれど、あのソデにした昔の恋人に約束どおり“復讐”され、非業の死を遂げる。で、ですね。その後房江は家出して、キリスト教会の尼さんになっちまうんですよ。あ、あのねー、控えめなのにも程ってもんがあるでしょ、アンタ!あぜんとしたよ、私はッ!全てが明らかになり、当主は実の娘、房江を迎えに行く。死んでしまった姉、君枝のことも思って頑なに、ここばかりは論戦を張って家に帰るのを拒む房江。父親も後には引かず、彼女を涙ながらにこんこんと説得する。

これはちょっと、感動したわー。このおとうちゃんの頑張りにはさ。このお父ちゃんもなかなかイイ男なのよね。あらやだ、何だかイイ男揃いなのよね。亡き母親をしのんで泣く彼女に父親は「お前には父親はいないのか!」と……。この言葉に房江ははっとし、父親の胸に泣き伏す。だ、だけどね、そこで終わりなの。いや、正確に言うと、そのあとに、教会の鐘が鳴らされ、シスターたちが行列を作ってしずしずと歩いていく、というのがラストシーンで、こ、これって、どういうこと?これじゃ、やっぱり房江はこの教会にとどまっちゃったみたいじゃない!!えー?どうなのかなあ……それにしても、彼女を愛してくれていた跡取の青年が、君枝としぶしぶ結婚するという段になってから、完全に離れちゃってて、そりゃ、親子愛はまず第一に大事だけれど、その後一切房江と接触ないのはちょっと解せないなあ。それともやはりこのあたり(こそ)がクラシック映画ということなのかしらん。

“米西海岸で発見されたプリントを当地で不燃化・修復した”というこのフィルム。後半の最初にやや乱れがある程度で、その他は素晴らしく美しいモノクロ映像。こんなに昔のサイレント映画だとはにわかに信じがたいほど。神聖を感じるほどのモノクロの美しさは、現代の技術でモノクロ映画を撮ってもこうはいかないんじゃないかと思うほど、何かが宿っている。女優は夢のように麗しく、男優も奇跡のように美しく、それだけじゃなく、サイレント映画の中で表情だけで物語を判らせる演技力は、今の役者よりレベル上かもしれない。っつーか、むちゃくちゃ面白かったよ!!★★★★★


父、帰るVOZVRASHCHENIE
2003年 111分 ロシア カラー
監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ 脚本:ウラジーミル・モイセエンコ/アレクサンドル・ノヴォトツキー
撮影:ミハイル・クリチマン 音楽:アンドレイ・デルガチョフ
出演:ウラジーミル・ガーリン/イワン・ドブロヌラヴォフ/コンスタンチン・ラヴロネンコ/ナタリヤ・ヴドヴィナ/ガリーナ・ポポーワ/アレクセイ・スクノワロフ/ラーザリ・ドゥボヴィク/エリザヴェータ・アレクサンドロワ/リュボーフィ・カザコワ/アンドレイ・スーミン

2004/10/2/土 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
本作が同じロシア映画の「パパってなに?」に設定やストーリーやシーンなど、様々な点で似ているという指摘があって、なるほどそうだよなとも思ったんだけど、かの映画をふつふつと思い返してみると、当然だけどやっぱりまるで違う。父親喪失の物語の傑作がそう時をおかずに続けざまに出るのも、それはこのロシアという国が抱える喪失感からくるものなのかもしれない。ソ連という、大きな父からの喪失感、である。その父はあまりに巨大で、巨大すぎて見えない部分が大きくて、親愛の情が大きくある一方で反発の情もまた大きく、姿がとらえられないという点で神のようでもあり……私にはあまり判らなかったけれど、そもそも前提として用意されていたという宗教的な言及やシーンというのも、そうしたあまりに大きな父に抱かれていたからこそ生まれでた神話のようなものだったのかもしれない。誰も見ていない、息子二人しか見ていない湖に沈みゆく父、それは、神話そのものだった。

……ごめんなさい、いきなりラスト言っちゃった。でもラストを言ったからって大して差し支えないくらい、この物語は解けない謎が多すぎる。12年間家を空けていた父親が突然戻ってきた。12年間何をしていたのか、どこに行っていたのか、なぜ戻ってきたのか、何も判らない。この点については、まだ子供の二人にわざわざ詳細な話をするまでもない、との大人の事情なのかもとも推察されるのだけれど、それにしても迎える大人(妻と姑(?妻の母?))の態度もあまりによそよそしい。姑は気を使っているのか黙ったまま、妻は一応妻らしくセクシーな黒のスリップ姿でベッドに入り込むもののその表情はどうも冴えないし、実際二人が房事に励む様子も、しそうな雰囲気さえ全くないんである。

まあ、でもそれも、この物語が一貫して幼い兄弟二人の視点で描かれていると思えばまだ納得も出来る。子供時代っていうのは思い返してみたって、大人に対してひどくミステリアスにとらえていたもんである。大人になってしまった今となってみれば、子供の頃思っていたほど大人じゃなくて、子供以上に子供だったりするんだけど、子供にとって大人はナゾだらけなのだ。
でも、このお父さんが、何の仕事をやっていたかさえ判然としないのは、やはりナゾである。
母親はパイロットだというけれど、それはいくらなんでも説得力がなさすぎる。子供に父親に対する尊敬の念を抱かせる意図がアリアリだということぐらい、幼い兄弟にも判るもの。
でも、そのミステリアスが最初のうちは、二人にとってちょっとワクワクするものもあったと思う……パパと呼ぶには臆するほどの、“知らない男”であったとしても、男の子にとってパパっていうのは、やっぱりアコガレの男に違いないんだから。
戸惑いながらも、突然ふってわいたパパとの釣り旅行にワクワクしていたのは事実。

ここまでにも、そしてこれからもナゾは山積しているけれども、この作品の大きなナゾは二つにしぼられると思う。それは、この父親が息子二人を愛していたかどうか、という精神的な部分と、父親が無人島から掘り出した箱の中身は何なのか、という物質的な事柄の、二つ。
後者に関しては永遠に判りっこない。だって父親と一緒に船で湖に沈んでしまったのだもの(詳細は後述ね)。
でも前者に関しては……観終わった今なら、愛していたに決まってるじゃないの、と大きくうなづける自分が、映画を観ていた時の自分とあまりに違っていて、驚くぐらいなのだ。

この父親、コワいんである。スパルタなのだ。とにかく笑顔を見せないし。二人の兄弟が不良にからまれて根性ナシな態度を(あくまでこの父親から見れば、ね。優しい子たちだって充分言い換えることが出来るのよ)見せれば嘆息し、用事があるからお前たちここから帰れ、と言ったり、生意気な口をきいたら雨の中ずーーーっと置き去りにしたり、口答えや約束を守らなかったりしたら、車に殴りつけて鼻血が出ちゃったり、倒れるまで何発も殴ったり……。
でも、こうして書き出してみると、そう大したことでもないじゃん、という気がしてくるのだ。
だって、こういう父親って、今でこそそういないけれど、昔気質の父親、として語られる日本の親父そのものじゃない?この兄弟が優しい女親にずっと育てられてきて(冒頭、ケンカした兄弟がわれ先に母親に告げ口しようとする場面で、二人のマザコン度が即座に判っちゃう)そうした男親に対する免疫がないから、ひとつひとつのことがアクマのように感じられるのも無理からぬことであり……実際、この二人の視点で描いていくから、ついつい観客もそう思ってしまうだけのことなのだ、きっと。
そういう点において、巻き込み方が、実に上手い。ニクイほどに。
すべてが終わって、観ている時にはその唖然とする結末が仕方がなかったと思っても、思いたくても、こうして思い返してみると、こんな風に……そんな大したことだったんだろうかと思ってしまうことが。

特に、弟のイワンはとても敏感にこの父親に反応している。正直、もちょっと黙っていれば波風たたないのに、と思うぐらい。ま、父親がナイスバディーな女に釘付けになるなんて目撃しちゃったりもするんだから、判らなくはないけど……それだけ繊細な精神の持ち主なんだろうと思う。冒頭、一人だけ櫓から飛び込めない描写からも判る……臆病というんではない、空気の中に漂うさざなみ、予感、恐れを敏感に察知してしまうのだ……きっと、こういう年頃の少年、そして弟だから。
お兄ちゃんのアンドレイは、吹き出るニキビが象徴するような、性徴期へとさしかかっていて、この父に対して従順な態度になれる。その点で、彼は大人であるんだけど、それを弟から媚びていると言われると、彼の中に迷いが生じる。その点ではまだ子供で……フクザツな年頃なのだ。

そしてこのお父さんこそが、最も迷っていたんだと思う。このコワモテだから(ホント、顔がコワいのよ)心中が察せられないんだけど、すべてが終わってから、彼の最初からの息子への接し方を思い返してみると、ちょっと笑っちゃうぐらい、“父親の息子への接し方”の理想形を踏襲しているのが判るから。執拗に「はい、パパ」と言わせてみたり、悪さをした不良少年にやられたらやりかえせ、と言ってみたり、反抗するコを、押入れに閉じ込めるがごとく置き去りにしてみたり、ワガママを多数決の論理で従わせたり、約束の言葉を反復させ、言い訳の無意味さを説くために殴ったり、小さなボートでの、無人島までの長い長い距離を息子二人だけにオールをこがせたり……ある意味、父親の理想を追い求めるその姿がカワイイと思えるぐらい。まあ、息子の釣った魚ぐらい食べてあげても良かったと思うけど。そう……この父親、大人に見えて、あまりに不器用なコドモだったのではなかったか。

でも、何たって息子たちの視点から描かれているから(私もしつこいね)、このケッペキなまでの理想系父親は、アクマのようにコワく見える。特に繊細なイワンは、「もっと違っていたら、好きになれたのに」と泣きながら言う。
好きになりたかったんだよね、つまり。
でもこの台詞で判る。それがワガママ全開だってこと。自分の思い描いていた、つまり母親と同じような優しい父親じゃなかったから、なんだ。
母親じゃなくて、父親なのに。
でも、しょうがないよね。12年間もいなかった。それが突然現われて、たった一週間で判りあえるなんて……そもそもムリなんだもの。
でも、多分この父親は、この旅行で一気に距離を縮めようと思ったんだろうことは想像に難くない。それもまた、この父親のどこか子供っぽいお伽噺思考である。この息子たちが思ったんならまだしも……。だから、こんなスパルタ父親になっちゃった。だってどうしたらいいのか判らなかったんだと思うもの。
だから、この父親は、決してコワい、アクマな父親じゃなかったのだ。どうして観ている時は、そうとしか思えなかったんだろうと、不思議なぐらい。……監督にハメられた!

そう思わせるための小技が効いてるんである。父親が、旅の途中で片付ける“用事”は、アヤしげな男たちとの取引めいたことで……死体を運んでいるんじゃないかと思わせたのもまた、引っ掛けだったし。
無論、父親はちゃんと息子二人と無人島に行くつもりであった。その島には、何か大切なものが地中深く埋められていたから。父親は息子たちに隠れてその箱を掘り出し、ボートの中にこっそり収める。
この箱を掘り出すためだけなら、何も息子たちを同伴することはなかっただろう。この箱の中身は永遠に謎のまま終わってしまったけれど……絶対に、息子たちのためのものだったに違いないのだ。
ああ、ようやく、最初にバラしちゃったところに戻ってきた。父親は、結局息子たちが知りたかったことや、この箱の中身が何なのか、何も語らずに、死んでしまった。それは……弟のイワンが、もうどうしてもどうしてもガマンできなくて、父親を殺そうとして、でも殺せなくて、高所恐怖症なのに、高い高い展望台に一人のぼって、それを追いかけた父親が、手をかけたところが崩れて、落下し、死んでしまったから。

あの時、父親は、「誤解だ!」と叫んだのだ。そして、イワン、と呼んでいたのに、愛称の「ワーニャ」と呼びかけた。
「誤解だ」という言葉を聞いた時、正直ちょっとビックリしたのだ。そう、兄弟の気持ちにシンクロしていたし、不気味な雰囲気の演出も手伝って(雨や凪いだ川や湖の水の雰囲気、曇り空、木々が風にざわめくだけで、不穏に気味が悪いんだもの!)もー、絶対このコたち、この男に殺される!とまで思い込んでいたから。あの箱を掘り出すための穴を掘り始めた時、あー、もう、絶対、このコたち埋める気なんだ!と本気で思ったぐらい。今から考えるとホント恥ずかしいんだけど。でも、本当に、単純に、誤解、だったんだ、きっと。そうでなければ高所恐怖症のイワンを助けるために、必死で追いかけるなんてしなかったはず。それまでの、自分にとっての理想の父親像を演出していたであろう彼と全然違ってて、必死で、話を聞いてくれ、ってすがって、そして……落ちた。死んでしまった。

イワンは言っていた。本当の僕たちのパパじゃないんじゃないかと。確かにそんな証拠はない。もともと、父親ってそういう確証なんて、DNAでも調べない限り、ないに等しい。昔の写真を見て、確かにパパだ、なんて言いあっていたぐらいの話で……あんなモノクロのボヤけた写真の中のパパに、誰だって似ていると言えるのだ。
不穏な雰囲気の進行で、そんなイワンの言葉も、なんだか真実味をおびて聞こえていた。でも、他ならぬこの“父親”が死んで、急に冷静にその場を仕切り出す兄のアンドレイが……彼らにとってこの上なく冷酷に見えていたその“父親”と鳥肌が立つ程にソックリなのだ。
アンドレイもまた、こういう時こそ、兄としての責務を果たさねばと、彼の考える“兄”の理想を実行していたに違いない……あまりにも、父親にソックリではないか。
懸命に父親の死体を海岸まで運び出し、ボートに乗せて無人島を脱出し、車に詰め込もうとしたその時……海岸に乗り上げただけのボートが波に運ばれてしまう。

その時。

二人は、叫ぶのだ。「パパ!パパ!」と。
あんなにも、パパ、と呼ぶことを躊躇していたのに。
意識してしか、言えなかったのに。
もはや死んでしまった“パパ”に対して、全く意識せずに、「パパ!」と連呼した二人。
もう死んでいるのに、それは「行かないで!」と言っているように聞こえた……。
やっぱり、パパと思っていたし、好きになりたかったし、愛する用意があったんだ。
兄は海岸にとどまり、弟はボートを追いかけて湖の中にジャブジャブと分け入る。
しかし、眠る父を乗せたボートは徐々に徐々に浸水し……沈んでしまう。
ただただ、二人は見つめるしかなかった。そして、カットアウト。

兄弟が撮ったカメラに収められたモノクロの写真が、スライドのように次々に映し出される。送り出す母、楽しげな旅行の雰囲気の中には父親の姿はなくて……でも、その写真の最後には。
このフィルムはカメラに入れっぱなしだったのかもしれない……今よりもっともっと幼い、物心なんてまるでついていなかったであろう赤ちゃんの二人や、若き妻や、そしてこの若きお父さんが映し出されているのだ。
そして、父親の車には、いつも取り出して見ていたのであろう、そんな赤ちゃんと幼児時代の二人と若く美しい妻の写真が大事に日よけに挟まっていた。
この時、口には出さなかったけれど、二人にはこれ以上なく、判っただろうと思う。
確かに父親だったこと。そして、確かに家族を愛していてくれたこと。
何の事情があったかなんて、全然判んない。でも、彼は帰ってきた。きっと、家族に会うために。空白の時間を何とか埋めたいと思っていた、と思う。
だからこの兄弟がこの関係を乗り越えて、父が死なずに大人になったら、大人として対等になって、あの頃はこんなことがあった、と酒を飲みながら語り合えたんだろうって思う。あの謎の箱を目の前にして……。
今となっては、あの箱の中身も気にならない。
謎ではあるけれど、きっと、多分、いや確かに、この息子二人のためのものだって、思ってるから。

曜日、曜日でくぎられる、一週間の出来事である。旅の間、兄弟は交互に日記をつけている。きっと、忘れることの出来ない、日記になっただろう。

「兄のアンドレイ役のウラジーミル少年が、完成試写の直前、ロケ地の湖に遊びに行って溺死」!!!ちょっと待てー!ウソでしょ、ホントなの!?やっぱりホラーだったんじゃ!!なんてこと、呪いだよーー!!「ベアーズ・キス」の青年俳優が死んでしまっていた事実以来の衝撃……言葉もないよ!★★★★☆


父と暮せば
2004年 100分 日本 カラー
監督:黒木和雄 脚本:黒木和雄 池田眞也
撮影:鈴木達夫 音楽:松村禎三
出演:宮沢りえ 原田芳雄 浅野忠信

2004/11/11/木 劇場(神保町岩波ホール)
2年待って、りえ嬢にこの作品で真の主演女優賞を取らせてあげたかった!いや、取れるんじゃないかって、思う。だって、だってさ、私は「たそがれ清兵衛」で“主演”だといって受賞なのは納得いかなかったよ。こんなことじゃ、本当の女優の主演映画がなくなってしまう、って思った。それにあの役は素敵だったけど、賞を取るにはやっぱりちょっと弱い気がしたし、彼女の本当の力量はあんなもんじゃない、って思ってたから。
そう、あんなもんじゃなかったんだ。どうだろう、この女優、宮沢りえの素晴らしさときたら!私は、震えた。本当に震えてしまった。目を開けているのも大変なぐらい、顔をぐしゃぐしゃにしながら震えながら泣き続けた。ああ、もう、どうしよう……。

これは、ヒロシマの物語。日本が、日本映画界が語り続けていかなけりゃいけない義務がある、ヒロシマの。でも、戦争映画じゃない。戦争が終わってから3年が経った物語であり、戦闘場面も、ピカドンで悲惨な状態になった人たちの様子も、出てこない。あのピカの、太陽二個分であるという、閃光は何度も描かれるけれど、その悲惨な状況はもっぱら、ヒロイン美津江によって語られ、そしてせいぜい(なんていうほどカンタンなものじゃないけど)丸木俊のあの原爆絵図によって象徴的に示されるだけである。
黒木監督が、戦争場面を描かないのは、前作「美しい夏キリシマ」でもそうだった。タイトル通り、本当にただただ美しくてのどかで、その反語的意味は判りつつもなんだか面食らってしまうほどだった。本作はその点、もっとストレート。確かに表面上は、そう、やたらとリアルを追求したがるハリウッド映画みたいな生々しさはない。でももう、そんなものはいらないんだ。誤解を恐れずに言えば、それはだって、一過性のものなんだもの。だからかの国は、すぐに忘れちゃって、いつまでたっても戦争をやめやしないんだもの。あるいは、その生々しい残酷さにゲーム性を感じているんじゃないの?と思うほど。でも、戦争の悲惨さは……ずっとずっと、永久的に心に残り続ける、心を傷つけ続ける、その消せない、耐えがたい、心の傷、心の痛みにあるんだもの。

それを、りえ嬢はこの上なく見せてくれる。そうだ、本当に、この作品は、女優としての彼女にかかっているのだ……。もともとは井上ひさしの戯曲。そしてこまつ座による上演で名をあげたという舞台劇。映画化となった本作でも、舞台をほうふつとさせる画づくりと台詞の応酬で、宮沢りえ、原田芳雄の二人芝居、といった趣である。その一見かっちりとした台詞まわしは確信犯的で、大きく直球に投げかけてくる台詞が、どんどん、その内側の剥き出しの“心のリアル”をあらわにしていくのだ。
戦争、反戦を描いてはいるけれど、実は前提としてヒロインの恋の映画でもある、というのが、大きい。図書館に勤める美津江は、そこに訪ねてきた木下という青年に心惹かれる。この青年も美津江にまっすぐに好意をよせてくる……少ない、そして寡黙な出演場面が、あの頃の、控えめだからこそ内に秘めた情熱をふつふつと感じる恋愛を感じさせる浅野忠信が、イイんだなあ。
原田芳雄扮する美津江の父、竹造は、そんな娘の「恋の応援団長」だと言って現われる。……彼はあのピカの日、死んでしまっていたのだ。そう、彼は、幽霊なんである。

“おとったん”であるこの原田芳雄がさあ、さっいこうに、イイの。おちゃめなおとったん。あの、男っぽい、原田芳雄が、そんなおとったんがハマっちゃうんだよなあ、驚くべきことに。大体、「恋の応援団長」だなんて自分で言うあたり、相当オチャメだよ。このおとったん、細君に早くに死なれてから美津江を男手ひとつで育ててきた。だから美津江とのやりとりは……もはや彼女のほうもおとったんが幽霊だってことを忘れそうになるぐらい、お茶を勧めたりお饅頭を勧めたりして「(食べられないことに)そやったかの……」とつぶやくぐらい、あの頃の、ピカの前のようなくったくのない、遠慮のないやりとりで、この父娘の会話が、相当に楽しくって、たまらない。

でも、美津江は、このおとったんが手を焼くぐらい、頑固なんである。何にって、恋にである。幸せになることにである。美津江は、自分は幸せになっちゃいけないんだという。それどころか、生きているのさえおかしいんだという言い方までする。あの日、みんなみんな死んでしまったピカの日、みんな死んでしまうことが、自然なことだった。自分が生き残っているのは不自然だ。幸せになるなんて、そんなこと、申し訳なくて、できやしないんだと。
こういう理屈で泣かせる映画が、いままでなかったわけではない。でもいままでのそれは、そう“理屈”でしかなかったんじゃないかと思わせるぐらい、ここでの彼女は“理屈”なんかじゃなかった。彼女の中でのそれは、絶対に曲げられないもの。信念と言ってもいいぐらいのもの。だって死んでいった人たちはみな、彼女の大好きな人たちばかりだったんだもの。

美津江には仲のいい親友がいた。勉強も良く出来て、美人の、自慢の親友。そのお母さんとも仲が良かった。母親を早くに亡くした彼女にとって、本当のお母さんのように思っていたに違いない。
でもあの日、ピカでその親友は死んでしまった。会いに行った彼女のお母さんに美津江は言われた。
「なぜ、娘が死んで、あなたが生きているの」
判る、判るけれども、絶対に言っちゃいけない言葉、でも戦争は、こういう言葉を生み出してしまうんだ。そしてこのお母さんも死んでしまった。美津江は……この言葉を“約束”として受け止めた。
そんな言葉を言われてしまった哀しさに、そしてそれを“約束”だという哀しいまでの優しさに、もう、涙腺のダムはとうの昔に決壊してしまった。ダメだよ、ダメ……そんなこと、思っちゃダメッ!て美津江、幸せになっていいんだよ、幸せになるべきなんだよって、……言いたい、言ってあげたいけれど。
どうして、言えるだろう、彼女に。こんな立場になったこともない私が?

そう、言えるのは、おとったんだけなんだ。おちゃめなおとったん。優しいおとったん……死んでしまったおとったん。
この、おとったんのことは、親友とそのお母さんの死以上に、美津江の心に突き刺さっていた。あの日、美津江は家から出かけるところだった。それをおとったんは見送ろうとしていた。親友に当てた手紙を取り落とした美津江はそれを拾おうとふとしゃがんだところに石灯籠があって、ピカの閃光をまともに受けずにすんだ。そしておとったんは、……それを、まともに受けてしまった。
がれきに埋もれたおとったんを必死に助け出そうとしたけれど、ついにかなわなかった。私はおとったんを見捨てて逃げたひどい娘……美津江はそう泣きながら繰り返す。おとったんは困ったように「そのことはもう話はついとるやないか」と言う。
お前は、頑張ってくれた。自分を助けるために、本当にがんばってくれた。どうしてもその場を離れようとしなかった美津江。その彼女に、ジャンケンで勝ったら行けと言って、わざと負けようとする。美津江はどうしても勝とうとしない。おとったんのグーにグーを出し続ける。「どうしてパーを出さんのや!」「いつだって、勝たせてくれた……優しい、優しいおとったん」……!!!だから!もうダムは決壊してるんだってば!

この、おとったん、娘の恋を後押しする時はものすっごく雄弁なのに、あの日の話をする時になると、トーンが落ちがちになる。ヒロシマを語り継ぐのは広島人の、そして日本人の義務なんだと、あの日を忘れたがる美津江にハッパをかけたりもしていたのに。美津江の哀しすぎる回想が堰をきったように流れ出すと、ただただ……「ひどいことよの」「むごいことよの」と弱々しく相槌をうつだけ。
だって、おとったんはまさにその中にいたんだもの。そして、死んでしまった。かわいい娘をおいて、死んでしまった。
こんな風に、死んでしまった愛する人が自分を励ますために現われるなんて、お伽噺かもしれない。だけど、だけど、必要なんだ。幻覚でも夢でもなんでもいい。そういうものでなくても……心の中に生き続ける愛する人への思いはこんな風に、自分が生きていく何にも替えがたい力になるんだ。だって、美津江、死んでしまったおとったんに対して、「私が生き残ったのは不自然だった」なんて、やっぱり、言えないよ。おとったんを一人残して死なせてしまったことに、激しい自責の念にかられる美津江だけれど、だって、おとったんが美津江を生かしてくれたんだもの……そして、戦争で生き残った人たちはきっとみんな、そうなんだ。死んでしまった人たちによって生かされているんだ。戦争を知らない私たちだって、そうだ。死んでしまった人たちに生かされているんだ。

木下青年との恋を拒否し続ける美津江だけど、実はもう実質上彼のプロポーズを受けるところまでいっていて、「もうそこまで話が進んどるんやないか」とおとったんが思わずつぶやくところなど、もう可愛くて大好きだ。そう、美津江、幸せっていうのは、拒めないものなんだよ。人間がそんなこと、選んじゃいけない。
「おとったん、ありがとありました」木下青年との幸せを決意して、そう呼びかける美津江。おとったんはもう、彼女の前には姿を現さないかもしれない。だって、娘が幸せになるため、そのことだけを考えて、おとったんは現われたのだから。
でも、いつだって、そこにいるんだよね、おとったん。そうなんだよね。

それにしても本当に本当に、宮沢りえは古きよき女性がなんでこんなにも似合うんだろう。時に痩せすぎと揶揄されるその華奢で小さな身体も、こうした舞台を得ると、けなげに頑張る芯の強い女性にしっかとハマる。何よりもその、落ち着いた優しい発音が、いいんだろうと思う。それにこの広島弁の、あったかくって、優しくって、涙が出そうなこと!
ヒロシマは悲劇だった。だけど、日本人だけがその悲劇を伝える大きな義務を持っていることは、ある意味誇りに思うべきことなのかもしれない、と思う。
この小さな島国から、世界に向かって、ずっとずっと伝え続けなければいけないことを、私たちは持ってる。
戦争をなくそうと、叫ぶ権利が、某国よりもずっとずっとあるんだから。★★★★★


血と骨
2004年 144分 日本 カラー
監督:崔洋一 脚本:崔洋一 鄭義信
撮影:浜田毅 音楽:(プロデューサー)佐々木次彦
出演:ビートたけし 新井浩文 田畑智子 オダギリジョー 松重豊 中村優子 唯野未歩子 濱田マリ 塩見三省 柏原収史 伊藤淳史 北村一輝 國村隼 鈴木京香

2004/12/2/木 劇場(上野東急)
韓国留学から帰ってきた1998年、既にこの映画の構想があったんだという。そうだ、崔監督、韓国に留学していたんだものね。まさに彼自身のルーツのもとで。そしてやっぱり彼は在日韓国人の話を描かずにはいられないんだ。それが自分の責任だと。今まさに韓国に留学しているミスターが北海道のことを描かずにいられないように……なんて思ったりして。
しかも、その描かずにいられない在日のこと、というのはさかのぼればさかのぼるほど、キツい話になってくる。それだけ準備と体力がいる。企画から実に6年越しで実現したこの映画は、それだけの重さを十分すぎるほど感じる力作になってた。
やはり、大阪は在日韓国人の街なんだ。全ての在日のルーツがここにあるんだ。昭和20年代、一旗あげようと船で渡ってきた彼ら。その意識の時点で確かに、大阪人と共通するようなところがあるし……大阪であったのは実に必然だったのかもしれない。
希望に満ちた主人公、若き日の金は、演じる伊藤敦史のすがすがしさもあって、とても最初からこんなトンデモない悪人には思えない。高い能力とタフな体力はもうあっただろうけれど、この時にはまだ……。
いや、悪役ではあっても、悪人ではなかったのかもしれない、金は。孤独を暴力に置き換えるということしか思いつかなかったことが、彼の最大の間違いだった。

「御法度」で共演した時にくどいたという主演のビートたけし。その時からだってもうずいぶんと日にちが経っている。確かにこの役にはあまりにも大きな決意が必要だもの。
あのビートたけしが悩みに悩んで、そしてこの役を生きることを決意した。これぞ、鬼気迫る演技。そんな型どおりの言葉で片付けるのさえ、躊躇してしまうほど。肉体改造はもちろんそうなんだけど、その肉体改造に関しては後からああ、そうだったのかと思うぐらいで(ここは大事でしょ。「モンスター」のセロンを思えば)内面から、あまりにも壮烈な男、金俊平を生きていた。しかも関西弁。まさかビートたけしの関西弁を聞くなんて思わなかったけど、それも後から思ったことで、関西弁のままずっとずっと生きている男にしか見えなかった。
もういくつか映画賞は出ているけど、実際今年度の賞は彼が総なめにするだろう。他に思い当たらないし、思い当たったとしたって、この決意の役、いや決意の人間の前では誰がいったって、かなわない。
実際、この人はもう監督ヤメて役者一本でいったほうがいいかも……(それにしても初期の監督業の冴えはどこ行っちゃったんだろう……)

その金俊平の妻に扮するのが、もはやベテランの域に達した鈴木京香。彼女に関してだけは“20代から70代までを演じきる”と言われるのが、たけしさんだってそうなのに(あ、20代はなかったか)、やはり女性がそれだけの長い年代を演じ切るというのがタイヘンと言われるのが(男性に比べてね)ちょっと、複雑にも思ったりして……まあこれだけの美人女優だから、老女までを演じること、その醜さを自ら体現することを讃えているんだろうけれど。晩年の彼女はちょっと人工メイク状態入っちゃってアレだったけど、まだまだ美しさを残していた時代を演じる京香さんはそりゃあ、素敵だった。素敵、と言っちゃっていいのかな、という気もするケド……金におびえ、怒り、憎み、嫌悪し、なのに嫉妬もしてしまうという女、の。でもやっぱり、金の愛人二人は当然のように上を出してるから彼女だけ出さないのはやっぱり不思議な感じでね、展開上。金が彼女をムリヤリ犯す場面で、愛人にはやるのに、上をムかないのがどうにも不自然なんだよね……。ここまで覚悟の役なのに、その一点に有名女優さんとゆーのはどうしてこだわるのか、どうも判らない。

その点、だから、第一の愛人役である中村優子などがやけに印象に残るんである。彼女は金と昼間っからヤリっぱなしだというのに、それなのに可憐で、それはこれだけ出してもそうなんだから。彼女が可憐な白の上下に着替えている姿を、金が「いいなあ」と目を細めて見ている場面など、ホント、確かにイイ、んだよね。この清子さんにホレこんだ金はところかまわず彼女を自転車の後ろに乗せてゆく。酒屋のオヤジさんが「お姫様みたいやなあ」というのが確かに、と思えるほど。これだけ出しても、である(しつこいな、私も)。

家族には、いや家族だけじゃないけど、とにかく特に家族に対してはあんなにも傍若無人で、イヤがる妻をムリヤリ犯すし、家を壊しまくるし、おびえる娘を殴り、彼女が逃げると階段から突き落とすし、本当に何て奴、見ているだけのこっちが殺してしまいたい!と思うくらいなのに、その気持ちを時々ジャマする描写が入る。どうして徹頭徹尾悪人でいてくれないのかと、思っちゃう。どうして時々ほんの少し優しさを見せるの。
清子さんは、可哀想な人なのだ。金は子供をほしがるんだけど、なぜか彼女には出来ない。そして、脳腫瘍で倒れてしまう。あ、金、どうするんだろう、やはり彼女を見捨てるのか、と思ったら……脳腫瘍の手術で悲惨な姿になった清子さんを連れ帰って、たらいに湯を張って身体を洗ってやったりするんだもの……。あの、暴力男が!思いもしない図に、つい、目頭が熱くなってしまう。
そりゃね、そりゃあ、最後には彼女に濡れ新聞紙をかけて殺しちゃうよ。それはまさに、金の金たるゆえんだったのかもしれない。でもそれも、最後までそばにいたのは彼で、新しくきた愛人に嫉妬するように金の胸元を弱々しくつかむ清子に、ずっと付き添ってて……私はきっと、甘いんだな。この殺しは、彼女自身が彼に願ったことのように思うなんて。そして彼はそれをひとことももらさず「楽にしてやった」と言っただけだと思うなんて。

そして娘、花子が自殺した時、「俺の娘はどこや!」と葬儀場に乗り込む金も。この花子に対して、自分の娘とは思えないような暴力をふるってたんだよ。あ、でもさすがに娘を犯すことはしなかった……なんて、そこに基準をおくのもヤバいけど。でも本当にヒドい父親だったらそこまでやりかねないかも、などと思うのは、やはり私はこのトンでもない父親の金を、なぜか、なぜだか擁護したくなる気持ちがあるからなんだろうか。
だって、花子の夫が、サイアクなんだもの。でも、花子は何より父親から逃げたくて、別に好きでもないこの夫の元に嫁いだというのに。
花子が自殺したのは、弟が言うように、金に追い詰められたのもあるにはあるけど、なんといってもこの夫の心ない言動と、そしてやはり暴力である。
それにこの弟の言葉が決定的となったのである……この夫から逃げようと、弟からカネを借りる花子。辛くて辛くて追いつめられている花子に「姉ちゃんは死ぬ死ぬと口ばかり。いっぺん本当に死んでみいや」言っちゃいけないことを言う弟。
アホかッ!追いつめられている彼女に何てことを……花子は自分がどれだけ辛いかを判らせる意地も手伝ってしまったんだと思う。もう、即、首をつってしまう。呆然と泣き伏す弟……アンタ、判ってるの?
あの時、花子は言っていた。「あんた、お父さんに似てきたね」
そうかもしれない。金家の長男だとずっとずっと言われてきたこの弟、正雄はあんなにも父親を憎悪していたし、姉の最初の自殺未遂の時、復讐だ!とばかりに父親に刺しかかったりしたというのに(アッサリ返り討ちにあったけど)憎悪すればするほど、その父親に負けないとするせいか、似てきてしまったのかも、しれないのだ。

娘の葬儀に乗り込んできた金は、花子の夫に殴りかかる。
その夫というのが、妻が自殺しても自分のせいだなんて露とも思わず悪びれず、お義父さん!なんて言っちゃって、にくったらしいヤツなのだ。だから彼を殴りつける金にはやれやれ!と思って……。
思い出すのだ。あの時。花子が自殺未遂をした時である。花子を小突きながら、自分は何もんなのか言うてみい、と花子に迫る金、震える声で「お父さんです」と繰り返す花子を殴り、あまつさえ階段から突き落とした金。「心にもないことを言うな!」と激昂した金に、寂しさを感じるのは……ずっとずっと、後になってからのことなんだけど。

彼はなぜ、あんなにも子供をほしがるのだろう。特に、息子をほしがるのだろう。一応、息子はいる。まさに長男。でも、まあいわば母親にとられてて……自業自得ではあるんだけど。だって彼はずっと家族をないがしろにしていたんだから。
しかも、自分は金の息子だという青年まで登場する。自分の母親は金にてごめにされ、彼女が自分を生んだことに激怒した金に殴り殺されたのだと、全身に敵意をみなぎらせて。その凶暴性は、無論金に向けられてはいるんだけれど、金自身に確かに、似ているのだ。この息子、オダギリジョーとビートたけしの対決はこの映画の中でも一、二を争そう白眉である。オダギリジョーがもてあました怒りを哀しき色気に包んでて、短い出演シーンにも関わらず場面をさらい、印象に残る。
そう、それでも金は息子を欲しがるんである。二人目の愛人、定子にずっと女の子が続いて、ようやく男の子が産まれた時、彼は狂喜の声をあげる。まるで……普通の父親みたいに。

カマボコ工場で成功してもうけまくり、それが傾き出すと、今度は高利貸しで稼ぎ、愛人を殺し、突然半身がしびれて二人目の愛人にアイソをつかされ、そして妻が死に……まさに因業ジジイの風体になった金が最後の最後にあてにするのは、金家の長男、正雄なんである。自分の仕事を手伝えと言う。もちろん拒否する正雄。
あれだけ家族に対してヒドい仕打ちをしてきたのに、そもそも本当に家族なんてどうでもいいと思ってたら戻ってこないし、目と鼻の先に住んだりもしないはず。ヒデエ奴だけど、とてつもなく寂しさを感じてしまうのはやっぱり、私は甘い、んだろうなあ……。
彼が最後の最後父親に勝ったのは、父親の方から息子を欲したのを、拒絶したから。そう初めて、たった一度だけ、正雄は勝利したのだ。

この父と息子の間を取り持とうとするのが、母の連れ子の婿、信義であり、彼はそう、なんというか……この義母に対してすっごく優しいの。正雄がヘンに勘ぐるぐらい。それより前に金の弟分であるわけなんだけど、金や金の家族たちよりもずっと、彼らのことをとても心配してる。
父親を冷たくあしらう正雄に、「お前は金家の長男なんやぞ!」と一喝する信義。でも、そんなの、この大阪の街に金が来た時から崩れさっていたんではないの?
金自身だって家族を捨ててきたはず。なのに。
金は、愛人が生んだもう一人の、まだまだ小さな息子、龍一を強引につれて北朝鮮に渡る。あんなにも誰にも渡さなかった財産、ガンになってしまった妻の治療費さえ「俺のカネや!」と頑として渡さなかったのに、北朝鮮政府にアッサリと寄付して。そして最後は、あまりにも寒々しい北の廃屋のような家で、死んだ。そのそばにいる青年になった龍一は、やっと死んだか、みたいな風情で……彼を埋めるための穴はもう掘ってある。やっとこの因業ジジイが死ぬことを、彼は待っていたのだ。
金、祖国だけが、自分の父親だと、思っていたわけじゃ、ないでしょうね?
祖国?あなたは北から来たわけじゃなかったはずなのに。北は確かにある意味で民族を強烈に感じさせはするけれど……そしてあの独裁者は、金の中にある暴力に満ち、ゆがんだカリスマを感じさせもするけれど。
そして、北に渡り、それで、こんな寂しい死に方するの。息子に待ち構えたように墓穴まで掘らせるような。
一体あなたは、幸せだったの……?

同じ在日の話でも、痛快で爽快だった「夜を賭けて」もこの同じ原作者なんだ……オドロキ。しかし更に驚くのは、この話が、彼の実父をモデルにしているということなのだ。
生きることに必死になることが、様々な方向性を持ち、金は多分それがあまりに極端になってしまったんだろうな。そんなにも必死に生きるなんて、今の世じゃ、考えもつかないこと。
でもそれが、間違いだったと、ひとことで言えない。迷惑極まりない奴だけど、なぜか、言えない。彼によって死んでしまった人たちは報われないけどでもなぜか……言えない。★★★☆☆


社会教育劇 街(ちまた)の子
1924年 51分 日本 モノクロ
監督:畑中蓼坡 脚本:野村愛正
撮影:白井茂 音楽:――(無声)
出演:夏川静江 小島勉 小杉義夫 高橋豊子 夏川大吾 一色久子 奥村博司 伊沢蘭奢

2004/2/13/金 東京国立近代美術館フィルムセンター
これは正直言ってぜえんぜん観る気なかったんだけどさあ。だって、“社会教育劇”と“記録映画”の二本立てだなんて、やっぱり触手は動かないわさ。時間があいたから足を運んだら、やっぱり会場もすいてたし(笑)。でもこれが観てみるとなかなか面白いのよ。あなどれない。

まず、面白いというより興味深い点がいくつもある。こんな昔の映画だから勿論モノクロで、しかも勿論サイレント。その仮名遣いもすっかり旧式で、読み取るのもなかなかタイヘンなぐらいなのだ。それなのにキャメラがかなり実験的なんだな。こんな昔からそんな手法があったのかっていうような。そ、それってちょっと昔をバカにしすぎだったかも?あるいは無知すぎたかも?でもやっぱりこんなサイレントで回想場面のオーヴァーラップとかスローモーションとかを、非常にスマートにやられちゃったらやっぱり驚くよ。すんなり、やっちゃうんだもん。しかもそれがすっごく効果的、効いてるだ。何か思わずじーんとしちゃうような。さすが日本映画史に名を残す名キャメラマンだよなあ、と思う(今回のフィルムセンターはそういう企画)。一言で言えば、果敢。

身寄りもなさそうな一人の不良少年が、やはり身寄りがなく苦しい境遇にありながらも優しく寛大な気持ちを忘れない一人のうら若き女性に出会い、更生していく、という物語。もう思いっきり、まっとうな、教育映画なんである。しかしね、やはりこの時代は“不良少年”といっても、まずそれが生活苦からくるということもあって、現代みたいに時代の複雑さの影響を受けていないから、もともとはとってもピュアな少年なわけで。だって彼が不良少年になるのは、生きていくために仕方ないことだったんだもの。ただ、まっとうにも生きられるんだということを教えてくれる大人が彼の周りにいなかったってだけで。そしてそれを教えてくれるのが、同じく大変な境遇にある女性。彼女は関東大震災で親兄弟を失い、引き取ってくれた男が悪党で、悪の手先にさせられそうになることを心の底から悲嘆していた。つまり、まだ悪の手先にはなっていない、それを必死に拒絶しているところが彼女の驚異的なまでの善人間で、もんのすご、理想的だけどね。でもちょっとドキッとしたわー。悪党の二階でただただ泣いている彼女。こりゃ×××な意味で監禁されてるのかと思って。でもこの悪党には妻がいて、夫妻して少年たちを悪の手先として使っているわけだから、そういうんじゃないのよね。あー、びっくりした。い、いくらなんでもこの時代にそれはないわよね。

この若き女性、お京さんがねー、ちょっと、イイのよ。顔はふっくら系の美人、しかしそのキュッとしまった細すぎるウエストから繰り出される優美な柳腰!柳腰ってのは、こういうのを言うのよね、と見惚れる。彼女は少年、仙吉と別れたあと、心あるお金持ちの家に女中として住み込むんだけど、その女中スタイルがまた、細い腰にきゅきゅっと前掛けつけてたすきがけして、何ともイイのよ。仙吉はね、ホントまだまだ子供だから彼女に対して恋愛感情云々ってのは全然なくて、初めて優しくしてくれた人っていう意識で、つまりまだ知らぬおっかさんのイメージを重ねているような部分があるんだけど、このお京さんのふっくら顔の柳腰にはちょっとヤラレちゃいますよ。これぞ癒し系のイイ女なんだよなあ、

この尺ながら、結構話も波乱万丈で、ハラハラさせてくれる。仙吉はお京さんによってまっとうなこと、人間としての美徳を学ぶんだけれども、途中で彼女とは別れてしまうし、まだまだ判らないことはいっぱいあるわけ。彼にとって奪われたものを暴力で奪い返すのは当然の正義なんだけど、その奪い返した金で買った髪飾りのプレゼントをお京さんは、また盗んだんでしょう、と突っ返す。仙吉から真相を聞いてもそれもダメという感じで突っぱねる。まあね、お京さんの気持ちは判るけれども、これはカワイソウだよ。だっていがぐり頭の男の子が一世一代、初めて女性へのプレゼントを買ったというのにさ……突っ返されたそれを仙吉は地面に叩きつけて踏みつける。ああ、かわいそう……。

仙吉は先の奪い返した少年たちに報復を受け、大怪我をしてしまう。その仙吉を助けてくれた富豪の家で、女中から「どこの馬の骨とも……」などと罵倒された仙吉、その女中はコソコソ主人の金を盗んでいるというのに。仙吉はその現場を目撃し、その金を逆に盗んで逃げてしまう。フラフラ遊び歩くんだけど、気持ちは晴れない。お京さんのことが頭にあるからだ。そして仙吉は改心を決心し、納豆売りを始める。お京さんに再会し、盗んだ金を返すつもりだということを告白する。そして無事金を返し、その家の主人からも許してもらえるんだけれど、仙吉は、あのお京さんを軟禁していた悪党によって陥れられそうになる……。

いやー、ビックリしたよ。だって殴り倒されたまま起き上がれない仙吉、今度こそ死んだかと思ったんだもん。あの少年たちとのケンカで石に頭をぶつけた時にも、血がベッタリでうわ、死んじゃった!?とびびったからさあ、今度こそホントに死んじゃったかも!と思って……しかし仙吉が目を覚ました時には彼はあの許してくれた家にお京さんと、そしてあの悪党の娘ともども引き取られて、幸せな生活を送っている、という段取りで、おおお、これぞスバラシイハッピィ・エンドですなあ。喝采。

いや、実際、物語よりもこの時代で既に!という映像技術とその実験精神に驚かされるのよね。それにこの仙吉役の少年はナカナカ演技派なのよ!★★★☆☆


着信アリ
2003年 112分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:大良美波子
撮影:山本英夫 音楽:遠藤浩二
出演:柴咲コウ 堤真一 吹石一恵 岸谷五朗 石橋蓮司 筒井真理子 松重豊

2004/1/30/金 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
だあってさあ、柴咲コウの怖がり方がヘタなんだもん……などといきなり、言ってしまう。このホラー映画が怖くないのはそのせいなんじゃないのと。しかし本当に怖いホラー映画に出会うというのはそりゃー、これが難しくって、ここんとこゾロゾロ出ている上に割とパターンや描写が似ていて案外慣れちゃうのかもしれない。かなりさかのぼらなきゃ、あれは怖かったわあ、っていうホラー映画、思いつかないんだもの。で、今回はこれがウリらしい、秋元康の企画原作、っていうスタートからヘタレだったんじゃないかしらんなどと失礼なことを思ったりして。携帯電話のホラー映画、ということで、先を越されていた韓国の「ボイス 」のパクリっぽく言われているんだけれど、何でパクリと言われるのか不思議なぐらいに物語は違う。ぶっちゃけて言えば、「ボイス」の方が数段物語としての構造は複雑で、少女のキャラはツートップでぶっ飛んで怖い。キャラが怖いだけで話が怖いわけじゃないんだけど……ホラー映画にしては話がドロドロ複雑すぎるのが、「ボイス」の難点であった……けれども、つまりは映画としてはよく出来てた。で、本作は、この「ボイス」に比して言えば、物語自体はものすごく、単純。単純すぎて、盛り上がらない。恐怖の対象が移っていくだけでは、クレシェンドしてくれないのだ。難しいのよお、ホント。

で、だから、ね。柴咲コウがね、彼女、「バトル・ロワイアル」の時にはほおんとすっげえ子が出てきたわと思ったんだけれど、本当に「バト・ロワ」でだけだったんだな……何かその後は思いっきり普通なのがかなり、不服。実際はあんまり上手い女優さんじゃないんじゃないのかしらん……とまで思ってしまったのは、この怖がり方のヘタさによる。あとずさり方とか、あんまりにも型どおりでガックリきちゃう。その点、彼女の親友役の吹石一恵嬢はイイのよ。怖がり方に生理的なものを感じる。うん、怖がり方以外でも、吹石嬢は非常に良かったな。柴咲コウより確実に、良かった。

これは「ボイス」の時にもおんなじようなことを書いちゃったんだけれど、私は今時携帯電話を持っていないという天然記念物なので、こういう物語自体にピンとこないのだ。自分の電話番号と同じ番号からくるとか、着信記録が未来になっているとか、まるで、全然ピンとこない。自分からの番号は着信拒否しておいた方がいいですよ、とあの女子高生たちが言っていたけれど、そう言われて由美(柴咲コウ)やなつみ(吹石一恵)はそうしなかったの?なーんていうのは、ビギナーな質問なんだろうなあ。
それにしてもあの女子高生もねえ。「やっぱり死の予告電話がかかってきたんだよ」とかいう、深夜ドラマちっくなわざとらしい台詞の響きにはかなりガックリくるものがあった。うーん、うーん、うーーーん、こういう起点の部分でこれじゃ、やっぱりキビしい。

自分の同じ電話番号からの着信。未来の日時。自分の声と、悲鳴。携帯電話の中の登録番号を経由して、その死の予告電話は次々に伝播してくる。その原因を突き止めていった時、それは子供を虐待していた母親から出ていると思われた。子供を虐待し、そして献身的に看護をすることで、自分をよく見せたいと思う、心の病気。誰にも見つからずにひっそりと死んでいたその母親の死体を廃病院の奥から見つけ、彼女の手に握られていた携帯電話の電源を切って、すべては解決したかに見えた。
しかし、本当は母親の虐待ではなかったのだ。この母子家庭には幼い娘が二人いた。その姉の美々子が妹の菜々子をワザと傷つけていたのだ。それを発見した母親は菜々子を抱き上げ、出て行ってしまった。後に残された美々子は小児喘息の発作が止まらずに、死んでしまった。

ちょっと、ねえ、この描写も何だかな、と思う。自分の子供を傷つけた、その子も自分の子供なのに、見捨てて出て行ってしまうなんて。美々子がそんな行動に出るのも、やっぱり自分の方を振り向いてほしいっていう、心の病気なんでしょう?そして咳が止まらずに死んでしまったら……そりゃ恨みを残した幽霊にもなるわなあ。
ただ、あんなところに母親が半ミイラになりながらひっそりと死んでいたのは、そういう自分を責める気持ちもあったのかな……いや、あれはやっぱり美々子にとり殺されたんだろうし、違うか……何かこのあたりが釈然としないのだ。

由美が子供の頃、母親に虐待を受けていたことで、この美々子の母親の幽霊(というか、ミイラ)に(彼女が虐待していたと思っていたわけだから)泣いて許しを請う。子供から許されたいと思っていたからなのか、これで彼女はうまいこと成仏したわけだけれど、なんせガンはこの母親ではなく美々子だったから、話はここでそう上手くは終わらない。
この廃病院では、たたみかけるような怪奇現象シーンの連続(しかしホルマリン漬けの赤ちゃんをずずずと差し出すのは、何の意味やら訳判らん)と、この母親ミイラとの対峙シーンがあり、ここがつまりはクライマックス。しかしそう!ここなのよ。柴咲嬢の怖がり方がね、ヘタレなのよお。
由美が恐れてスチール台かなんかの影から恐る恐るこっちを見るシーン、彼女の目があまりにギョロギョロしているもんだから、こっちがオバケかと思ってギョッとしちゃったよ。実際、柴咲嬢の目はかなり怖い。目玉焼き状態で白目の中をまん丸な黒目がぐるぐる泳いでて。彼女、絶対怖がるより怖がらせる方が似合ってるんだよね。それこそ「バト・ロワ」みたいに。

ああ、それでいうと、三池監督、ホラー映画は、うーん、うーん、うーん……。もともとハチャメチャな監督だから、ハチャメチャで突っ走るというか、あんまり待たない、というか。怖くないのは、この引っ張らなさのせいもあると思う。ああ、でもでも、こういう怪奇ホラーじゃなかったけど、「オーディション」はホント怖かったのに。あれもまた情念の怖さ、追い詰められる怖さ、ある意味そういう点では共通しているのに、どうしてだろ。やっぱりいわゆる“ホラー画面”に固執してしまうせいなのかな。実際、それは感じる。陽子が、ケンジが、なつみが、つぎつぎと死んでゆく場面には並々ならぬ力を入れているし、その原因たる美々子、菜々子、その母親が出てくると、鏡や、シルエットや、イン・フォーカス、アウト・フォーカスを使って、幽霊さんたち続々登場、だし。でも、その画はやはりどれもこれも基本だから、何か、つながらないのだ。教科書見ているみたいで。これだけのことをしでかす美々子にしたって、そんな強い恨みの感情があるほどの女の子には見えない……と思うのは、やっぱり「ボイス」の、同じ年恰好の女の子があまりにスゴかったことを思い出しちゃったからだろうな。

根本的に、由美にあまり感情移入できなかったせいもあったのかもしれない。彼女が子供の頃受けていたという虐待、その回想シーンと今彼女が一人で暮らしている“孤独”があまり、つながらない。部屋はこぎれいにしているし、彼女オシャレだし、友達にも恵まれて、合コンまでしている。さらに言うと彼女の口からその過去が語られるまで、まるで伏線が張られていなくて、彼女は今の生活を何も引きずらずにフツーに過ごしている感じしかしないものだから、その過去に切実を感じないのだ。無論、そういう過去があったからこそ、彼女は児童心理学を専攻しているんだろうけれど……それぐらいで。

それに、死の予告電話を受けてしまったなつみに対する処し方が解せないというか、考えナシというか、何なんだ?と思ってしまったのが大きかった。力のある霊能者に除霊してもらおう、というテレビマンの提案に、わらをもすがる思いでついていくなつみの気持ちの方がすんなり共感できる。だって、死んでしまうのかもしれないのだから、何でもやっておきたいと思うのが切実な気持ちじゃない?それなのに由美はただただ、テレビなんてヤメなよ、とそれだけの理由で、なぜだか不自然なぐらいに必死になつみを引きとめようとする。まあ確かにあのテレビマンはいかにもいいネタを見つけた、とばかりのヤラしい態度ではあったけれど、でもこの場合、由美になつみを止めるだけの理由も力もあるとは思えない。なつみの言うとおり、ならば由美に何かができるとでもいうのだろうか。何も出来ないのに、こんな引き止めが友情だと思っているのだろうか?そりゃ、霊能者もこの呪いに歯がたたず、なつみは無残に死んでしまったけれど、だからといってこの場面の由美に共感するのはちょっと、いやかなり難しいのだ。それは柴咲コウよりも吹石一恵の方が真に迫った演技をしているせいもある……かも。

なんか、女の子ばかりにリキ入っちゃってすっかり忘れてた?けど、重要なメインキャラがいたんだった。この一連の呪い殺しに妹が犠牲になってしまった青年、堤真一扮する山下(ヤな名前ね)。彼は予告電話がかかってきた由美と行動を共にし、なんとか彼女を助けようとする。しかし、母親まではつきとめたものの、本当のガンが娘の美々子であることに後から気づき、哀れ由美はとりこまれてしまうのだ。
いや、それは実はハッキリしない。美々子にとりつかれたと思しき由美は山下を刺すけれども、しかしその昏睡状態の中で山下は美々子に酸素吸入をさせてやり、美々子はそれで成仏したかにも思える。しかし山下が目を覚ました時、そばにいる由美は後ろ手に包丁を持っている。そして山下に(それまでの死体から常に検出された)赤い飴玉をほおばらせて包丁を後ろ手にしたまま、ニッコリと笑うのだ。……いやでもこれを、いくらなんでもハッピーエンドってわけにゃ、いかないだろう。だって山下は飴玉をほおばってしまったんだもの。しかも、拒まずに。彼はもうその時判ってしまっていたはず。きっとこの後、あの包丁が深く差し込まれるのだろうと思わずにはいられないではないか。由美の中にはもう……由美はいないのだから。

何かね、スッキリしないというかね、素直に「あー、面白かった」と言えないのがザンネンだなあ。三池監督はこの映画を伝説にしたかったらしいけど……ムリだよ。★★☆☆☆


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