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彗星まち(獣たちの性宴 イクときいっしょ)
1995年 63分 日本 カラー
監督:今岡信治 脚本:今岡信治
撮影:鈴木一博 音楽:ミッキー吉野 岸本ひろし
出演:新井総二郎 奈賀愛子 伊藤猛 阿部節子 佐野和宏 長宗我部蓉子 林由美香
「初めてだったから、とにかく判らないまま撮って、いっぱいいっぱいだった」と今岡監督は言っていたけれど、それでも不思議なくらい、やっぱり今岡監督の映画なのだ。それにしてもこれを撮った時30歳!やっぱり才能のある人っていうのは、若い時からあるんだよね、大器晩成なんてウソだって、思っちゃう。
監督自身の自伝的な思いがこめられているんだという。3年間同棲していた彼女と別れたばかり。もうどうしようもなくて、映画を作るという、もっと苦境に追い込んでしまえ、みたいな思いからの初監督、だったのだという。自分の要素と、そして下敷きにしたのは中国の古い史実にある(詳しく語ってくれてたのに、ごめんなさい、詳細忘れた。)三角関係の物語。本作では、さらに発展して四角関係。男女四人、ある夏の季節、汗だくでダルダルな中、ひとつの死体も絡んで、やるせない物語をつむぎ出す。
印象的なのは、炎。「国映映画」のバックからしてもう、炎が渦巻いている。監督が語っていた、自身の焦燥を感じさせるような、炎。主人公の青年が持っているチャッカマン、そして死体を焼く炎。河原で、石油をかけながら上がる炎は、火事になっちゃいそうと心配になるくらい、威勢良く焼き尽くす。
同棲していた彼女。500回もヤッたのに、出て行くのかよ、と青年は言う。飽きたのかよ、と。でも、くらがえする男とだってじきに飽きるだろ、と。しかもその男には妻子がいるのに。
その青年に、まとわりついている少女。冗談みたいにスレスレに短いミニスカート。「一緒に住もうかな」なんて、たわむれのように言う。その時、青年と別れた女は既に、その妻子ある男と、冷房もない部屋で扇風機に吹かれながらお互いをむさぼっている。
……何だかここには、ひとつも愛などないみたい。
でも、愛って、何?それこそ、500回セックスしたって、愛なんて生まれるのかな。
愛に憧れてさえ、いないみたい。青年と別れた彼女も、不倫相手のその男が家庭に戻ると言って、多少は傷ついたような顔をするけれど、そしてあっさり青年の元に戻ってくる。
いやむしろ、多分、青年の方が愛に、憧れていたのかもしれない。青年が河原に見つけるひとつの死体。「不思議に怖くない」その死体をたわむれに、弔ってやろう、なんて言って、河原で、骨になるまで焼き尽くす。朝になる。その骨をひとつひとつ、拾い上げる。他人なのに。やっちゃいけないことなのに。何だかひどく神聖な儀式みたいだ。
青年は川へと歩いていく。服を脱ぎ捨て、パンツ一丁になって、じゃぶじゃぶと入っていく。
女二人も、はしゃぎながら衣服を脱ぎ捨てる。下着一枚で、じゃぶじゃぶとじゃれあう。
妻子もちの男も、遅ればせながら、という感じで、それに参加する。
でも、青年だけは、何だか違うものを見ていたような気がする。あの、炎。焼き尽くされて残った骨。彼の目に、焼きついたもの。
この青年が、海辺で、まるでたわむれのように彼女の前で、石油をかぶって、自ら火をつけるシーンは衝撃的である。
もちろん、その直前にカットアウトされ、青年の火柱は、カメラの引いた遠くで、どこか切なく映されるのだけれど。
驚いて見つめる彼女、引いたカメラの先の、彼の小さな火柱は、なんだか宗教的な厳かささえ、感じた。
あの、骨だけになった死体。骨だけになったら、なんだかとても神聖なものになった気がした。
見も知らぬ、オジサンの死体なのに。
青年はその骨を削って、紙に巻いて吸ってみたりした。ドラッグを気取りながらも、それもまた、神聖な儀式だったように思える。
即物的な女には判らない、ロマンティシズム、という奴かもしれない。
その彼が、ミイラ男のような包帯だらけになって、女二人によって車椅子で連れ出されて、ガードレールにぶつかって、ふっと直立してしまうシーンはちょっと、クスッと笑ってしまう。彼は、神聖な骨になりそこねた。なんだかそれが、妙に愛しかったりして。そして彼は、海に向かう。女二人に挟まれて、海岸に座り込んで、波に洗われる。そして、あの川に入っていった時と同じように、決然として海に入ってゆく……川と違って、海はだんだんと、その深みを増してくる。
彗星、だ。彗星が現れた……。
あの、自ら火柱になった時にも、彼は執拗に言っていた。「彗星は、来るんだ」って。彗星が来たら、どうなるってもんでもないのに、彼はそれが自分にとって、とてもとても大事なことのように、そう、繰り返し言っていた。それを聞き流す彼女の前で、抗議するように、自らに火を放った。
そして、彼は海に入っていく。彗星が来た、という。少女が「本当だ、きれい」と見上げる。彼女も、見上げる。
彗星、火、海、骨、全てが、そこから始まる何かを予感させるものだ。
三人は首だけ出して波間に漂っている。彼はもう、包帯がほどけかけちゃって。そして私たちには見えない彗星を見つめている。波間に、漂いながら。
見えないそれが、どうしてこんなに、澄んだ何かに思えるのだろう。
あの、妻子もちの男、家庭には結局戻れず、彼女も青年の元に戻っていって、そして別の女を連れ込んでいる。競馬で大穴を当てた彼は、有り余る金を床にバラまいている。「お金ちょうだいよ」と迫るその女に「適当に持っていけよ」と言う。
しかし、嬉しげに拾い出す女を、足蹴にする。何度も、蹴り倒す。次のシーンでは彼女は頭から血を流して顔にスイカみたいな縞模様を作り、その背後ではカレンダーが火に包まれている。
また、火、だ。でもカレンダーが燃えるというのも、なんだかひどく象徴的に思えたりもする。時間の否定。時間の無意味さ。あるいは、そう思いたい男の心?男は妻子のもとへ、戻れなかった。ドアの前で、足がすくんだ。借金まみれだった男、大穴当てて、全てが解決したのに……自分が作り出した空白の時間に、恐れたんじゃないんだろうか。
彼が愛によって奪ったと思った女、でも彼は本当の愛のある家族の元に戻ろうと思った。でもそれが出来なくて帰ってきた時、愛によって奪ったと思った女は元彼のところに戻っていって、彼が家族から離れていた時間は、まるで無意味なものになってしまった。
私は女だけど、この彼女の気持ちが一番、判らない。むしろ、この妻子もちの男や、青年の気持ちの方が判る(というか想像できる)気がする。
彼女は何が欲しかったんだろう。愛?セックス?それとも、一人でいることがイヤだっただけ?
この、「気持ちが判らない彼女」というのが、ズバリ、この時の今岡監督の心境だったのかもしれないけれど。
それにしても、こんなの、30歳で考えるような世界じゃないよ。やっぱり、凄いんだもん、今岡監督ってば……。
9年前のこの作品、助監督を始めとしたスタッフ陣に、今のピンク映画界を支える若き才人たちがズラリ揃っている。今だってみんな充分若いのに、もうこの頃から新進気鋭でバリバリ現場にいたんだと思うと、ちょっと身震いする気持ちさえする。やっぱり、ピンクは日本映画の最後の砦かもしれない。いまや、もっと、一般映画にも進出してほしいと思う才能がティーンエイジャーの頃からビシビシ鍛えられているんだもの!★★★☆☆
もう一時代過ぎ去ったルーズソックスに多少の恥ずかしさを感じつつ、これまたとんとお見かけしなくなったセーラー服は思いっきり嬉しく。夏休みの白々とした太陽まぶしい昼日中、補習の授業に全然身が入っていないオチコボレ女子高生たち。
どことハッキリ限定していない、解説によると“東北の片田舎”ってことが、言ってしまえばそれだけが、弱々しい私の反抗心を奮い立たせる。だって、“東北弁”だなんてアイマイな言い方されるの、凄いキライなんだもん。ほんと、特に最近、ここではおんなじことを何度も言っているような気がするんだけど……ただ、この映画、一応はロケーションを山形で行っているし、しかもクレジットには方言指導が二人もついているし、決してイイカゲンなそれではないとは思うんだけど……どうも聞きごこちが悪い。
あのね、特に語尾の“ず”のつけかたが、凄く違和感があったのさ。“ず”は津軽弁でもあったけど、この劇中みたいに「来てず」なんていうように、普通の語尾にただ“ず”をつけたりは絶対しなかったからさ……この“ず”の使用形を耳にするたびに、こつん、と引っかかっちゃって。
まあ、いいや。それは私が“山形弁”に関しては知らないからだとは思うから。でも、だったらだったで、ハッキリ山形!って言っちゃえばいいじゃんよー、とも思う。それは私のあまりにヨワヨワしい反抗心なだけだけど(笑)。
なんで「ウォーターボーイズ」がどうにもダメで、本作が大丈夫だったかっていうのは、いえ、決して女の子でセーラー服だったからってことじゃなくて(汗)、「ウォーターボーイズ」には驚くほどに、努力の跡ってのが見られなかったのね。あまりに都合よく、いつの間にか上手くなってる。そのくせ、最後の披露シーンでは、努力の成果!みたいに華々しく披露している。これが、一番、ナンダヨ!って思ったの。
それはこの矢口監督が、スポ根的なことが嫌いだからなんだろうなってことが、本作では判った。いや、本作では、「ウォーターボーイズ」よりずうっと、そういう努力の痕跡はあるし、女の子たちはクヤしい思いもするんだけど、それに固執することはないから、というより、固執するまいと、意識的に回避しているような気さえする。
そういう点ではツマンナイ人間である私は、努力至上主義みたいなところがあり、この劇中でも、ジャズの魅力にみせられてからドタバタながら邁進してきた五人組に、途中のブランクがあって(つまりはラクな方に行っちゃってて)後から再参加した残り大多数がね、ブランクがあったはずだし、その前ももんのすごくヘタクソだったのに、ここで合流していきなり上手く合わせられちゃうというのは正直不満で、ツッコミどころだろう!と思ったんだけど、でも多分、こーいうところが矢口監督の本来であって、いわば、ご都合主義でもいいじゃん!みたいな。それがね、今回は、私も……(この間に迷いがある)ま、いっか!って思えたの。一方に努力しているコたちがいるなら、いいや、って。そのコたちが主役であるんなら、いいや、って。
ま、その五人(4ガールズ+1ボーイ)が上手くなるのも、結構イキナリではあるんだけど。と、その前に、まあなんで彼女らでジャズのビッグバンドを結成することになったのか、っていう大元の話がありまして。高校野球の応援に出かけた吹奏楽部に弁当を届けることになったこの補習組の女の子たちが、電車の中で寝過ごすわ、川で水浴びして遊ぶわで、弁当腐らせて、吹奏楽部全員中毒おこして病院送りになったため、その代替要員として借り出されたっていう……。そのクダリはねー、ギャグだってことは判ってるんだけど、彼女らの自分勝手なお気楽さに、オバチャンの私は単純にムッときたりもして……こういうあたり、自分でも大人気ないと思うし、まさにこういうあたりが矢口監督の語り口であるというのも判っているから、だからどうも相性が悪いのよね。
ただ、今回は女の子だからさあ、しかも、カワイイ♪まあ、参加する女の子の揃いも揃って美少女だっちゅーの!一応その中でもバツグループに入るどっしりタイプのドラムの女の子でさえ、こけしのような髪型が似合う素朴な愛らしさと対照的な、落ち着きまくった、かまえたキャラがポイント高いよ。矢口監督の意味ないギャグシーンは引いちゃうことが多いんだけど、この女の子が土手っぱらでファミリーサイズのアイスクリーム抱えて食べてて、背後の自転車の音に立ち上がったとたん、バリッ!とばかりにスカートが落ち、自転車の男の子が驚いて土手を自転車ごと転がり落ちて(豪快!)しかし立ち上がったとたん、鼻歌まじりで何ごともなかったように走り出すシーンだけは、ツボつかれて吹き出しちゃった。うっわ、何か思いっきり説明しちゃったわね、私。
ただこういう、ムッとしちゃったような女の子の中には当初入っていなかった、メガネに膝丈スカートの女の子、関口さんに一番ホレこむあたりも、思いっきり私のシュミだけどさ(笑)。音楽が好き、楽器がやりたい!ってことを、最初っから本当にスナオにアピールしていたこのマジメそうで地味な女の子、関口さんは、肺活量やマスターの早さなど、才能もピカイチ。補習をサボる口実で始め、ウダウダやっていたその他の女の子たちをひそかに牽引する役目を果たす、のよね。演じるユイカ嬢はこの間、朝ドラヒロイン決定で見た時より(あん時は当然メガネなんぞかけてないし、今風な制服のスカートも思いっきり膝上だった)ずうっと、カワイかったなあ。すいません、あの、マニアックなつもりはないんだけど。
この関口さんにはホレこんだものの、ヒロインの友子をはじめ、その他の女の子たちに感情移入するにはちょいと時間がかかったのだ。でも控えめながらも自分の感情にスナオな関口さんと違って、ちゃらんぽらんさを自覚しているがゆえに、マジメになるのが恥ずかしくてついつい意地っ張りになってしまう友子はじめその他の女の子たちがカワイイと思い始めたのは……そう、まだまだヘタクソながらも、演奏を合わせる楽しさに目覚めてきて、「何か、いぐね、いぐねー?」と盛り上がっていた矢先に、吹奏楽部が完治して復帰してきちゃった場面から。
ムリヤリやらせちゃってゴメンね、なんて言われて、楽しいから辞めたくない、なんて言えなくって、やる気なんて最初っからなかったんだもん、せいせいした!と言い放って……でも、辞めなきゃいけないのが悔しくて哀しくて、校舎から離れてからワンワン泣く彼女たちに、ようやく、カワイイなあ、と思えた、のね。
意地っ張り、っていうのが、カワイイんだよね。やりたいくせに、素直じゃない、っていうのが。
自他とも認める飽きっぽい性格、せっかく買ってもらったパソコンも放りっぱなしの友子が、いくら中古品の激安とはいえ、サックスを買ってもらえるわけもない。なんで、そのパソコンと妹のプレステをしかも格安で売り飛ばしちゃう。あきれ、怒った家族も、どうせすぐ飽きるだろうとタカをくくっていたんだけれど。
手に入れたオンボロサックスを土手で練習していると、その同じ曲がキーボードの伴奏で聞こえてくるのね。ア・ボーイの拓雄が対岸でやっぱり一人、練習してて。川を挟んで合わせるシーンが、良かったなあ。
というわけで、自分たちでビッグバンドを続けよう!ということになるんだけど、楽器を買うために皆でスーパーのバイトをしたものの、不注意でクビになっちゃった4ガールズ+1ボーイ以外は、バイト料の方に目がいっちゃって、男の子と合コンとかしちゃって分裂しちゃう。5人は私たちだけでもやるわい!と奮起するわけなんだけど……。
いつも控えめで、意見を言おうとすると「関口はいいから」とさえぎられちゃう関口さんなんだけど、実はいつでも大切なことを言おうとしているのだ。で、この時は、クビになったバイトのかわりの金稼ぎとして、マツタケ狩りを提案したのだった。で、でもね、そこは他人の山であって、マツタケ泥棒だったのよ!しかし期せずしてイノシシ退治しちゃって(ここでのストップモーションギャグは、ちょーっとサムかったかなあ)多額のお礼金をゲットしちゃう(あんなにもらえるもの?)
メデたく中古品ぐらいなら揃えられたんだけど、これが揃いも揃ってガタガタ。しかしギターとベースの女の子の紹介によって、腕利きの職人である、彼女らが以前所属していたバンドの男の子たちにオンボロを見事に直してもらえることに。
そうそう、なあんで吹奏楽のはずがジャズのビッグバンドになったかっていうと、人数が揃わなかったこともそうだけど、「あたしたち、これならやれるけど」みたいな異議を全く寄せつけない態度で、ギターとベースをクールにかき鳴らすこの二人の存在があったからなのね。ジャズならギターもベースもアリだから、という……。二人がこの男の子たちとやっていたバンドは、そのあまりの辛気臭さに解散。つまり彼女らがフッた彼らは、ロックバンドをくんでいたというのがウソみたいな未練たらしさ。「フォークデュオを組んだんだ」(!)とサムすぎる“新曲”を披露したりするのが笑える。
しかし、修理の腕はピカいちで。結局あの時離れてった他の女の子たちが合流して、その子たちはバイト料で買ったブランド品を売って新品のピカピカの楽器を手に入れるんだけど、その中でもうすすけちゃってすすけちゃって、丁寧に修理してもらったこの味わい深い古ぼけた楽器を誇らしげに使い続けるこの四人の女の子たちは、やっぱり、イイんだなあ。
5人がイキナリ上手くなるのは、ジャズ好きの数学のセンセから授かった裏拍の極意をつかんだからである。ま、このセンセも好きなだけで演奏は全然で、ヤマハの初心者クラスに通ってるぐらいなんだけど(指導がトロンボーンの谷啓ッ!)
ジャズが他の、まいわゆるクラシックとかロックとかの、一般的に知られている音楽とどこが違うかという、ひとつの、そして決定的な要素としてこの裏拍のリズムを持ってきたのは判りやすいし、なんといっても説得力があるのね。
アタマで拍子をとらずに、二拍目、四拍目にアクセントを持ってくるジャズのリズム、というのは、クライマックスの、ステージでの手拍子でも躍動的に、そして感動的に実践されるんだけど……何より彼女たち、ガールズ&ア・ボーイがいきなり上手くなる、のは、だから、この裏拍のノリをつかんだからなのだ。
横断歩道の「麦畑」のメロディがソレだと、愛しい愛しい関口さんが気づいたからで、この時から彼女たちにジャズのリズムが俄然、聞こえ出すんである。もうそうなると楽しくて止まらない。布団たたきの音さえ、ジャズになっちゃう!
単純だけど、案外とこれが説得力があるんだよなあ。数学のセンセから授けられたのはある意味“知識”であり、アタマでなるほどと判っても、体感しないと判らないのが音楽であり、ジャズ。で、体感で判った彼女たちが、“いきなり”上手くなるのも、だからナルホドとちゃんと説得力を持たせられるのね。
何よりそのことにすっごく喜んで、たまらなく楽しそうにジャズのリズムを刻み出すのが、イイんだなあ。
練習場所に苦労するのは、どの音楽映画も一緒ね。まるでデンデケ(これも、さんざん引き合いに出してるけど)。まだまだヘタクソな彼女たちの演奏はどこに行ってもうるさい!って追い出されて、ついにはカラオケルームにこもって練習しちゃう。こりゃ意表だけど、窮屈そうに収まって、なんでいけないの?振り返る彼女たちが何ともオカしい。
そこに都合よく練習場所を提供する男が出てくるのはあまりにも都合がいいけど、そこで彼女たちは、このジャズ好きが判明してしまう数学教師に“出会う”わけね。演じるは竹中直人。思っきしコレクターで、しかし頭でっかちで、お約束どおりブランデーグラスを片手にご満悦、というあたりは、ピッタシ。
彼は自分が実は楽器に関しては全くのビギナーであることを恥じて、音楽大会の指揮は辞退するんだけど、でも会場には駆けつけて、観客席の後ろで嬉しそうに、「僕が教えた生徒なんです!」とノリノリで指揮する。それがステージ上の彼女たちにも見えてる。嬉しそうに呼応するスウィングガールズ!
本当はこの大会だって、出られるはずじゃなかったのだ。相変わらずヌケてる友子が、ビデオテープの応募をすっかり忘れてポケットに入れっぱなしにしちゃってて、先着順からもれちゃってたから。
そのことをずうっと言えずに、やっと会場に向かう列車の中で告げた彼女、仲間たちは一様に怒り、白けて、イヤな雰囲気になっちゃう。
しかも大雪のせいで列車は止まっちゃうし……しかしそこに、先にバスで行った吹奏楽部のセンセ(白石美帆)が迎えに。一校出場できなくなって、スウィングガールズが繰り上げ出場になったことを知らせに来たのだ。
雪まみれになって、鼻の頭をマッカにして、時間ギリギリにステージ上にどどどど、とばかりに駆け込んできたスウィングガールズ。そんな姿に会場からは失笑がもれる。そして演奏が始まる。その迫力ある、ノリノリの演奏に帰りかけていた客も戻ってくる。“裏拍”の手拍子に揺れる客席との一体感に鳥肌がたっちゃう。そして、いわゆる“吹奏楽”にはない、ソロパフォーマンスの胸のすくカッコよさ!そして何より、全開の笑顔!
思えばあの時、野球部の男の子に恋していたスウィングガールズの一人が、そう、そのためだけにイヤイヤながらも続けていただけだった彼女が、吹奏楽部が戻ってきて楽器を取り上げられて、そして彼のためだけにやっていたはずだったから、吹奏楽部が応援席に陣取るその試合を見に来てて……でも、このエースの男の子には応援に来ている彼女がいて、しかもみっともなく三振に打ち取られちゃう。その時応援席にいたオヤジが、「スウィングしなけりゃ意味ないよ!」と叫ぶのね。
この時も、何よりこれはジャズのスタンダードナンバーのタイトルにもなってるぐらいの、ジャズを語る上での大きな要素である言葉だし、野球のバットスウィングに引っ掛けて、上手い!と思ったけど、この言葉、このクライマックスに至るまで、ずうっと、作用し続けてたんだな、と思って。まさにこの時、彼女たちはまごうことなくスウィングしているし、ジャズをやるからには、“スウィグしなけりゃ意味ない”んだよね。
「ウォーターボーイズ」はその後、テレビドラマやりまくっちゃったけど、これはヤメてほしいなあ。「ウォーター……」があったせいか、そういう声は多いみたいだけど。映画のヒットを何でもかんでもドラマ化するのがそもそもヤなんだもん。映画の価値がテレビドラマ化によって薄れてしまう気がしてしょうがないから。★★★☆☆
大友克洋が有名だっていうことぐらいは、ま、知ってはいるけれども、そっちの興味というよりは、やはりこの主役二人の声を担当する鈴木杏と小西真奈美の出来栄えに興味があって観に行った、というのが正直なところ。これが上手くって、驚く。本式の声優さんかと思うほど。小西真奈美は実際の年よりうーんと若い、しかもワガママなお嬢様を、ホント、こういう仕事する声優さんいるいる!っていうぐらい、テンション高く気持ちの良いオーバーアクションで演じてくれてるし、しかし何といっても鈴木杏である。私彼女に関してはどうも大味な演技の女の子だよなあ、という気分がずっと否めずにいて、ま、実際それがずっと功を奏してはいるんだけど、その効を奏するのが、奏しまくり!ってほど、このレイ役を完璧じゃないかと思うほどにこなしてた。何たって、男の子役なんだから。確かにこういう少年役は声優さんも女性が演じるものだけど、そのプロの声優に負けず劣らず、この多感な男の子の気分を、悩むところは悩み、ふんばるところはふんばりして、じっつにハツラツと演じてて恐れ入った。いやー、杏ちゃん、これまで以上に女の子のファンが増えると思うよ、ホントに。上戸彩なんかより、ずうっとボーイッシュな魅力があふれてるもんなあ。
オトコノコ、そう、男の子映画なんだよなあ。もう、いかにも、って感じ。やたらとムズカシイ発明用語を入れてくるのも、そういう気分がありありと感じられる。イギリスから生まれた重大な発明である蒸気機関。これが後の文明社会を大きく変え、そして支えた。恐らく、社会の時間でそう習った時に、聞き流していた女の子に対して、男の子は心ひそかに胸を躍らせていたんだろうと思う。勿論、その発明の恩恵の延長線上に現代の豊かな文明社会があるっていうのはそうなんだけど、その発明がなされた頃の方が、何でも出来る、出来ないことはない、みたいな壮大な気分があるから、夢が無限でワクワクするものを感じるんだと思うんだ。
そんなオトコノコの気分を汲むかのように、もうのっけから発明少年が走りまくり、今のアニメの技術を総動員してこれでもか!と見せている感じである。主人公は少年レイ。彼のお父さんもお祖父さんも発明家で、彼自身も天才的な技術の腕と発明の冴えを既に見せている。もう、この設定だけでワクワクものでしょ。で、イギリスでは変人扱いされているお父さんとお祖父さんはアメリカで研究をしている。このあたりも夢の国、アメリカ!でお約束である。しかしお父さんとお祖父さんは科学に対する見解の相違で分裂し、お祖父さんが持ち出した驚異の発明品、スチームボールを巡って大騒動とあいなるんである。“科学に対する見解の相違”!このあたりの何だか判んないけどカッコいい雰囲気も、オトコノコ、なんだよなあ。
しかし、オンナ(ノコ、とはさすがに言わんよ)である私には、このお父さん=エディとお祖父さん=ロイドの見解の相違って部分が今ひとつ、判らなかったんだよなあ。ロイドは、息子であるエディが、金儲けのために科学を、そして発明の魂を売ったと言う。確かにエディは大富豪をスポンサーにして発明を続け、その技術が兵器に転用されているのも知ってはいるけれども、でも進んで彼自身が兵器の開発をしているわけでもない。体の半分以上が機械になっているような異様な姿のエディだから、何だか観客の方もしばらくの間ロイドの言うことの方がホントかな、なんて思うんだけど、そんな単純なことでもないのだ。それにそんな風にエディを糾弾するロイドがじゃあ何の発明を、あるいは製作をしているのかっていうのも、今ひとつ判然としない。それこそ、エディが言うように、メリーゴーラウンドぐらいだったら、科学でも発明でも何でもないわけで。ヘタに反目しあってはいるけれどもこの二人、結局は今でもおんなじことを、おんなじ方向で目指しているんじゃないかって、思うのだ。言葉尻で(特にロイドの方が)ヤイヤイ言うけれども、そんな風に判りにくいし、結局は最後、二人は力を合わせるわけだしさ……つまり、科学に対して子供っぽいほどに潔癖なお祖父さんと、それを達成するためなら、ある程度したたかさを持つべきだと考える現実的なお父さん、という図式なんじゃないのかなあ。
というのは、より第三者的な目を持つレイがいるからこそ、客観的に見えてくるものがあるのである。レイはまだまだそんな世間の仕組みなんか判らない。お父さんとお祖父さんから交互に、それぞれの意見を押し付けられて戸惑うばかりだけど、とにかく彼に判っているのは、科学は人間の幸せのために必要なもので、だから、争い(戦争)のために使われるなんて、間違っているということ、なのだ。お父さんのエディは技術を進めるためにそれも仕方なしとして見ぬふりをした。そしてお祖父さんのロイドはそれが許せなくて国の組織にその技術=スチームボールを渡したんだけれど、国もまた、その国を維持するという名目で、技術を戦争へと転化していった。レイには全てが見えるのだ。お祖父さんには全ては見通せなかったし、お父さんは見えていても見ぬふりをしたけれども、レイには、すべてが見える。それは彼が一番、未来への時間を持っているから、なのだ。
まあ、そういう点で、レイの立場は(主人公だし)判りやすいんだけど、どうも判然としないのはスカーレットのそれである。ロイドとエディが研究をしていた、スポンサーのオハラ財団の令嬢。何一つ不自由ない環境に育って、自分の、そして自分の財団の繁栄のためなら、戦争だろうがなんだろうがあったりまえ、みたいな風を気取っていながら、その戦争で人が死ぬとうろたえ(ロボットが戦争をしている、みたいな認識)、オハラ財団からすれば敵に回ったレイに狙いを定めることに怒りをあらわにし、「どうしてレイを撃つのよ、何にも悪いことをしてないのに!」といきまくんである。……ま、子供だということもあるけれど、これが人間のフツーの姿なのかもしれない、意外に。自分たちの利益のためなら戦争も賛成、戦争だから人が死ぬのは当たり前なのに、それを実際に知るとうろたえて、自分の知り合いだと今度は怒りになって、戦争賛成と言っていたのに、そのピンポイントに関してだけ怒り出す、みたいな。つまりは、レイみたいに、根本の、戦争自体を否定するのが一番簡単だし、一番理にかなっているのに、人間ってフシギとそう簡単にいかないんだよね……自分の利益がからんでくると。
そのあたりは、オハラ財団が、博覧会にぶつけて完成させたスチーム城に各国の軍事関係者を招き、最新鋭の兵器をプレゼンするところに如実に現われている。陸・海・空全てに対して実にクリエイティブで画期的な(このあたりの、……言ってしまえば楽しさは、アニメーションの面目躍如)兵器を、実際に戦争を(国の組織に対して)起こして、紹介するのだ。そりゃ、これ以上効果的なプレゼンはないんだけど、何たって戦争を起こしているわけだから、次第に彼らのいるところが実際に危なくなってくる。もう少し、あともうひとつだけ、紹介したい兵器があるんです、なんて食い下がっているオハラ財団側に、集まった軍事関係者たちは、自分の命の方が惜しいから、さっさと脱出の方法を教えろ!と怒鳴ってくる。可笑しいよね……無数の人たちを殺すことになる戦争兵器を買いに来た軍事関係者たちが、たった一つの自分の命が惜しくてあたふたするなんて。だったら最初から戦争なんてしなきゃいいだけの話でさ。どんなに莫大な利益を得ることが出来たって、それは自分の(プラスアルファ、愛する人たちの)命の次の価値しかないんだから。
まあ、でも、そんなコムズカシイ話は言いっこナシ。だってこの作品の楽しさは、何たって“冒険活劇”なんだから。冒頭の、蒸気歯車メカとレイの一輪自走車による列車をもまきこんだスピード感たっぷりのおっかけっこから始まり、クライマックスの、巨大なスチーム城が飛行し、街中に墜落し(……ありゃ、描かれないけど、相当人が死んだだろうなあ……)、川へと誘導するバクハツ寸前!のタイムアクション、そして熱エネルギーを瞬間的に奪うために起こる、街中を覆う蒸気の凍結は、アニメーションといえどリアルな臨場感で、そして幻想的な力で迫ってきた。手を触れたらホロホロと崩れ、光り輝くダイアモンドダストになるなんて、なんて素敵。それまでの、科学の功罪がここで一気に浄化されて、ゼロに戻されて、純粋に科学を愛する少年、レイに託された、って思った。
なーんて言いながらも、ね。何か今ひとつ判らないんだけどね(笑)。ま、レイに託されたんだから、いっかあ、みたいな。レイの言うとおり、ロイドもエディもあの爆発したスチーム城の瓦礫の下から生還するのかもしれないけれども、時代は確実にレイに手渡されたんだから。飛行シーンや巨大なスチーム城の造形、爆発までのタイムアクション、そういうエンタメはさすが、見応えあった。だから、まあ、いっか。★★★☆☆
こちらは短編なので、かなりあっという間に終わり、しかもその終わり方は、ええ??これでイイのか?だってぜえんぜん、本題に行ってないんですけど……という状態。このある意味での思い切り方も凄すぎるわ。だって、だって、だって、ね。強盗の計画立ててて、やってやろう、イエーイ!みたいな感じで盛り上がって、もう少し計画つめなきゃいけないんじゃないのかなあ、まあ、いいか、明日で……みたいに男の一人が寝て、女の一人だけ起きてて物憂げにタバコくゆらしてる、その画で、おっとっとー!終わっちゃうのよ!え?え??ええっ!?強盗行くんじゃないの、何なのよ!みたいな。ものすっごい膝カックンだわあ。
「プッシー……」にも出ていて、監督の同級であり、お気に入りの役者であるらしい山本浩司が、男二人の主人公の一翼を担っている。確かに彼にはえもいわれぬオフビートの可笑しさがにじみ出る。顔はフツーというか、フツーでないというか、何だかウチの従業員に妙に似ているコがいたりして(笑)、なんだけど、つまりはシリアスになりきれないところがイイのかなあ、彼は。もう一人の主人公の男の子は割と顔かたち、整ってるのね。だからどんなにそっちの彼がハジけても、山本浩司の生々しいオフビートには負けちゃうわけ。なかなか罪な役者なんだな、彼は。
ハンサムな方、ヤスはボスに裏切られて、襲撃を思いついた。というのも、山本浩司演じるゴウが持ってきた変装術に感嘆して、これならイケる!と思ったから。それはルパンさながらの(つーか、まんまルパンだよな)顔からメリメリとはがすと元の顔が表れるっつー寸法の変装である。しかも笑えるのが、そのはがすのが毎回接着が強すぎて、いててて、いててて、となることなんである。オマエはルパンにはなれないなあ……。
この変装術で一旗揚げようと盛り上がった矢先にヤスのボスからの裏切りでリストラが決まって、ちょうどイイやとばかりに、かなり行き当たりばったりに復讐計画を練るわけ。それも、飲んでいるライブ喫茶(昭和歌謡のムード満点!)でスゴ腕の女の子たちと出会ったから。男たちにエッチな場面をのぞき見させるという触れ込みで手引きし、法外なカネを騙し取っていた彼女たちは、その場に乗り込んできた騙された男と乱闘を繰り広げるんだけど、カッコ 良くのしてしまう。彼女たちと組めば一旗揚げられる!と、ま、多少の下心も含んで彼らは(というかお調子者のヤスは)思ったわけ。
実際、この度胸入った60年代ガールズのクールなカッコ良さときたらちょっと、ない。一人落ち着いているリーダーの貫禄と、まだまだ女の子女の子しているメンバーたちのはじけっぷり、そのブーツの下に男をギュウとばかりに踏みつけて、怖いものなんかナシ!そしてあの変装術を武器に皆でいっちょやっちゃおう!と話は盛り上がる。ヤスはおちゃらけだから、自分と似たタイプの明るい女の子に目をつけ、ちょっとエッチなゲームに延々盛り上がってる。ゴウはあのカリスマ的な落ち着きのあるリーダーを気に入っていて、その静かな視線をこのリーダーも感じているんだけど、ゴウはシャイだし、リーダーはシャイなのかどうかも判らないほどテンションが変わらないので、最後までこの二人がどうとかいうことはない。うーん、なあんか、もどかしい!も少し先を見たい!と思わせるのは、ちょっと、シャクだなあ。
それにしても見れば見るほど面白いわ……山本浩司。この人の肩の力の抜け具合がホント、何ともいえないんだよなあ。もともとは脚本、監督をやる人なんだっていうけど……それも興味はあるけど、充分役者一本として生きていけるでしょ。★★★☆☆