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「う」


2001年鑑賞作品

VERSUS
2000年 119分 日本 カラー
監督:北村龍平 脚本:北村龍平 山口雄大
撮影:古谷巧 音楽:森野宣彦
出演:坂口拓 榊英雄 松田賢二 新井雄一郎 松本実 大場一史 片山武宏 吉原歩 上赤俊朗 増本庄一郎 谷門進士 浅井星光 渡部遼介 古宮基成 三坂知絵子


2001/9/25/火 劇場(シネ・アミューズ)
何の前触れもなくいきなり飛び込んできた、北村龍平という名前。「ヒート・アフター・ダーク」の題名は聞いていたけれど、観ていなかったし……。そしてこのお初の北村監督が、その作品を観たこともないのに、いきなりハリウッドデビューが決まってるとか、とにかく聞こえてくる話が型破りなものばかりで、加えて本作の予告編が確かに群を抜いてカッコイイのだけど、キャストが皆見知らぬ人ばかりで、何なんだ、これは?と気になりまくっていた。

で、対面。最初に抱いた印象は、あ、「SCORE」みたい……(って、デニーロとか出てる最近のハリウッド映画じゃありません)。それこそハリウッドに負けじとばかりに、そしてタランティーノに無理くり観せちまったという、室賀厚の脳みそ沸騰映画。かの「SCORE」は本作ほどファイターアクションが華麗じゃなかったし、とにかく全編気合い!な映画だったけど、私はその気合まくりがむちゃくちゃ好きだった。小沢仁志兄いをはじめとする役者陣もメチャメチャ熱かったし、結束力も並大抵じゃなかった。という、キャストの面で、本作はどうも今ひとつ乗り切れない部分があったのは、最初にこの「SCORE」を思い出してしまったせいか。クライマックスで魅せまくる二人の主役は圧巻だし、確かにカッコいいのだが(でも坂口拓氏は個人的には今ひとつ琴線に触れないけど……)、他のやたらと多い、本当に無意味なほどに多いキャストが、うーむ、という感じで……。

特にこれはコメディリリーフなのだろうが、やたらにキザに決めてて、ワザとらしい威嚇行動を繰り返している男は、ああ、こりゃあ水上竜士氏がやったらさぞかし……(これは「SCORE2 THE BIG FIGHT」を思い出してる)などと思ったりしてしまう。彼が出てきてそのオーバーアクションな演技を披露するたびに思わずゾゾッとしちゃうんだもん……。彼だけじゃなく、確かに個性的なメンツが揃ってはいるんだけど、彼らが何か台詞を言うたびにこのゾゾッと感覚が私の中に波打っちゃって、困った。あー、こういう時に、場慣れた?演者の凄さを感じるなあ、などと……。まあ、でもこういうのは、それこそ外国に行っちゃえば全然感じないんだろうし、私ら日本の観客が外国映画の台詞はやたらとカッコよく自然に聞こえちゃうのと同様なところがあるんだろう……だからアッサリハリウッドに引き抜かれちゃうのかなと思ったりもする。アクションはとにかく素晴らしいし、その演技のオーバーアクションもハリウッド的だしね(私はイヤだけど)。

舞台となる森の立ち枯れた雰囲気、その中で繰り広げられる血みどろの戦い、といった点では、「鬼畜大宴会」を思い出す。他の映画ばかり思い出して無意味な比較をするのもどうかしらんと、思わず自分にツッコミを入れたくもなるのだが……。でも、本作でも「鬼畜大宴会」に見られたような、いわゆる血と肉がほとばしるような残酷描写に力を入れている部分があって、例えば胴体(頭だったかな)ぶち抜いて向こう側をのぞいてみたりとか。でもそれはどこかミセモノっぽいというか、それこそ比較しちゃうと「鬼畜大宴会」のウソみたいな生々しい、生理的に訴えてくる怖さには到底及ばないんだよなー。何が違うんだろう?「鬼畜大宴会」ではそれが本当の痛みとして(それこそとんでもない大激痛だが)こちらに感じさせたのに対して、本作では、粘土をこねくり回しているみたいな感覚がある。キャストにしても、テンションは高くても気迫がないというか……。「鬼畜大宴会」にしても「SCORE」にしても、この気迫が凄かったからなあ。

生のエネルギーを一時失っているような森は確かに魅力的だし、この森を黄泉返りの森とする感覚はうなずけるんだけど、でもそれもやっぱり台詞上だけって感じで、彼らがいうように異様なものを感じさせないのも、痛い。またまた繰り返すけど「鬼畜大宴会」では、そういう台詞こそなかったけれど、この森が彼らの狂気を増幅させるっていう、異様な感覚が確かにあったから。本作ではその台詞ほどに、というか全くそうした何かを秘めている森、という気分を起こさせなくって。登場人物たちだけがそう思ってて騒いでるっていうあたりは、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」並みなんだよなあ……。

時空を越えた運命の戦い、転生、永遠の命、黄泉返りの森……などという少年コミックなノリの設定にも多少ゾゾッとしつつ、映画作るんだったら一度はやりたくなるゾンビの集団にもかなりゾゾッとしつつ、……まあ、要するに、クライマックスの二人の対決に至るまでは私の中では拒否反応ばかりが渦巻いていたんだな。メインの中ではたった一人の女性キャスト(三坂知絵子)が裕木奈江風の、いかにもこの手の少年コミックに出てきそうな女の子女の子した……もっと言ってしまえば男好きのするタイプの造形なのもイヤだった。加えて、彼女は確かにこの二人の男の命運を握っているのだが、突如未来に飛んでしまう(……これもねえ……。それに最初に映る廃墟の画面が工作並みにチープすぎるし。)ラストシーンでの台詞でも判るように、結局は男の庇護のもとにしか生きていけないと感じさせるのが一番イヤで。

そんなキャストの中で、一人少々“場慣れた”印象を残し、存在感をアピールしていたのが、第二の主役の榊英雄。なあんか見たことあるなあ、と思っていたら、それこそ映画を観る前に必ず見させられるデビアスダイアモンドのCMのお方とは……いやいやそれよりビックリしたのは、「この窓は君のもの」でデビューとは!ああ、確かに、彼だ!もう随分と前だけど……。「この窓は君のもの」の古厩監督がそれ以来の沈黙を破って、やっと今年新作を公開することと、彼もまた同じだけの期間を経て映画ファンの前に姿を現したのは妙にリンクしている気がして、嬉しい。

確かにクライマックスのアクションはめちゃめちゃカッコよかった。これだけでも観に来たかいがあったと思った。しかし勝った男と運命の女がバイクにまたがり、死ぬかもしれないと思いながら森を脱出するところで終わってくれたらどんなにか良かったのに……。だって、死ぬかもしれない、というあたりの余韻もポイントじゃない?その刹那な感じで終わったら、ほおんと、ステキだったよー。先述したけど、あの未来の部分はいただけない。かなり、いただけない。何であそこで終わんなかったのかなあ!★★★☆☆


ウォーターボーイズ
2001年 91分 日本 カラー
監督:矢口史靖 脚本:矢口史靖
撮影:長田勇市 音楽:松田岳二 冷水ひとみ
出演:妻夫木聡 玉木宏 三浦哲郁 近藤公園 金子貴俊 平山綾 眞鍋かをり 竹中直人 杉本哲太 谷啓 柄本明

2001/11/12/月 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
日本映画界の期待の監督のうちの一人、であるにもかかわらず、実を言うと私は矢口監督の作品を面白いと思ったことがない。それで本作もあまり観る気がしなかった。加えて本作に関しては、オンナやゲイに関してあまり気分のよろしくない表現がなされているとちょっと耳に挟んだものだから、ますます観る気がしなかった。まあ、でも人の話だけを聞いていて云々するのもなんなので、と思ってようやく重い腰をあげたんだけれど、どちらに関しても思ったとおり、そのとおり、だったのでガックリした。矢口監督の作品とはなんというか、水が合わないと思っていたんだけど、本作に関してはちょっとそれだけじゃないんだよなあ。……ムカムカする気分すら湧いちゃって。まあ、水が合わないというのは、あるとおもう。会場が笑いに沸いている場面とか、私には全然可笑しくなくって、これはたんに笑いのツボどころが違うんだろうなあと。それこそが私が矢口作品と水が合わない部分であり、矢口作品はそのユーモラスさが特徴だからそれが面白いと思えないと、もう相性が悪いとしか言いようがないんだもんなあ。

たった一人の、それも3年生で引退してしまう部員がいるだけで廃部寸前の水泳部に若くてキュートな新人女性教諭が顧問になったもんだから、引退してヒマしていた体育部関係の3年男子たちが皆して部員に殺到してしまう。しかしその佐久間先生が教えたいのがシンクロナイズドスイミングだと知って、間が悪くて逃げ遅れてしまったもともと部員だった鈴木を含む5人に激減。しぶしぶシンクロをすることになったものの、佐久間先生が突然の妊娠8ヶ月発覚!あっさり戦線離脱してしまう。しかし周りからのからかいの声に反発して、文化祭でシンクロを発表すると決めちまったもんだから、とにかくやるしかない。ふとしたことから知り合ったイルカの調教師に助けを請い、夏休み中に特訓することになる。鈴木は予備校で知り合った桜木女子高の静子とイイ仲になるが、彼女にシンクロのことを言い出せない。

という展開で、これはきっかけはアホなことでも、だんだん真剣にのめりこんで行く若人の青春物語ッ!という感じに当然なるに違いない、はずでしょ、普通。なのに、最後の最後の最後までただ何となく流されていき、偶然の結果上手くなり、という、そりゃねーだろ!?の腰くだけな展開で、これじゃ、メンバーの一人が戦線離脱して彼に対して「お前ってサイテーだな」という鈴木の台詞に共感することは到底出来ないし、「シンクロのことを一番恥ずかしいと思っていたのはお前だろ」と言われる鈴木も言うメンバーも、そこまで切羽詰まったものがあったとは思えないから説得力がなく……。というわけだから、当然大成功に終わる熱狂のシンクロパフォーマンスのクライマックスに感動するわけにはいかないんである。まあ、確かにそのパフォーマンスはカッコいいし、すごいとは思うけど、ただそれだけで、達成感とか、そういうものが、まるで、まるでないんだもん。大体さあ、知らずに上手くなっているだなんて、「ベストキッド」かよ!っていう……しかも教える側も全く教える気がなかっただなんて、そんなヘナチョコな話があるか!いくらそれが竹中直人だってちょっと許せん!

そもそも、きっかけの佐久間先生があんまりである。最初にたきつけておいて妊娠して産休であっさりいなくなっちゃうだなんて……。それも8ヶ月まで全然妊娠に気がつかなかったとか、あんなに情熱的にシンクロを教えたいと言っていたのに、まるで後悔を残さずににっこりバイバイだとか、おのれー、オンナを馬鹿にしてんのかー!と言いたくなる。いけないいけない、コメディなんだから、こんなことで怒っちゃいけないとは思うんだけど、根本的にこーゆー視点があるからダメなんじゃないのとも言いたくなるんである。

それに鈴木、いやいや佐藤に思いを寄せているゲイの早乙女の描写にしたって、まるっきりこっけいなオカマ扱い。幼稚園の昔からずっと好きだった、というシリアスな片思いの状況を持ってきながら、早乙女に相手の気持ちも確かめさせず、シンクロのクライマックスでヒロイン役にすり替えさせて佐藤に抱きつかせるだなんて、そんな無神経な話ってあるか!この感情の状態で早乙女がそんなこと出来るわけないよー。大体、なんなのあのキャラの造形は。バラエティ番組のコントに出てくるオカマちゃんレベルじゃん、妙に可愛らしいくせっ毛で、かげからジーっと好きな男の子を見つめ続け、ちょっとつつかれると泣き出し、だなんて。あんまり馬鹿にしすぎじゃないのかなあ。女の私が見てもムカムカするのに。

オカマといえば、オカマバーのメンメンの描写もずいぶんとひどい。これもまたテレビのコントレベル。まあ、彼らに関しては完全にコメディリリーフという立場だからあまり言うのもアレだけど、早乙女の件があるから、やっぱりこういう描写には厳しい目になってしまう。和服で白塗りが粉ふいてて、オネエ言葉で男の子のお尻をぎゅうっとやるだなんて、あまりといえばあまりのベタオカマで、そりゃないよと思っちゃう。柄本明の、もともとある微妙な可笑しさが、ベタな大味にすっかり隠されちゃって全然面白くない。

静子がどの時点で鈴木がシンクロをすることに気づいたのか、その点を全然フォローしていないのも気になる。ああいうさっぱりした性格の彼女だから、そんなことを気にするとも思えないけれど、それならそうで、彼女に隠そう隠そうとしている鈴木に対して何らかのリアクションがあったって良さそうなもの……いやあるべきであり、何にも知らない顔をして、突然あの場面でLOVEパンツを投げるだなんて、ナンダソリャじゃないかー。まるでこれも、オンナはバカかあ?って感じ。オンナの役割何にもないわけね、つまり。

考えてみれば佐久間先生役の真鍋かをりも、静子役の平山綾も、結局グラビアアイドルが映画に出ている、という域を全く出ておらず、彼女たちで映画に男の子を呼ぼうってんじゃないの?としか思えんキャスティングで、つまり佐久間先生も静子も誰がやったっていいような、全然重要視してないキャラなんじゃないのかと疑ってしまう。結局オンナもオカマもどうでもいいわけよ。笑わせられればそれでいいとでも思ってんでしょーが!監督自体にこの差別意識が自覚されてないみたいなのが、さらに始末に終えないんだよなあ……。

職業柄(笑)プールでのお魚虐待の場面も、おんどりゃー!って気持ちだったし。大体あの場面にも象徴されているけど、どの場面、どの展開に関しても、彼らはただただイイカゲンで、流されてて、やる気ナシで、水族館のお掃除に頑張っているとか、それこそあのクライマックスのパフォーマンスが不思議になるぐらい、そのヘナチョコは最後まで成長ナシなんだもん。ちょっと頑張っているのは、「いつもいい加減なんだから!」とまさしく観客の気持ちを代弁してくれてるガリベン君、金沢ぐらいなもの。

笑えたのは、静子が自動販売機にドロップキックをかますところと、佐藤のアフロヘアに火がついてスローモーションで画面を横切るところ、ぐらいかなあ……。失神したイルカに人工呼吸したら白いネバネバが出てきた、なんてのは論外。やっていいことと悪いことがある!★☆☆☆☆


MAELSTROM
2000年 86分 カナダ カラー
監督:デニ・ビルヌーブ 脚本:
撮影:アンドレ・タービン 音楽:ピエール・デロシュール
出演:マリ・ジョゼ・クローズ/ジャン・ニコラス・ペロー/ステファニー・モーゲン・スターン/マルク・ジェリナス/ボビー・ベシュロ/バージニー・デュボア/シルビー・モロー/マリ・フランス・ランベール/クレルモン・ジョリクール/ピエール・ルボー(魚の声)

2001/7/30/月 劇場(銀座テアトルシネマ)
本当の意味での新しい作家の登場を感じた。一見斬新そうに見えて、とかいうのではなく、その作家の、個人としてのリズムを感じさせる……。通常では絶対考えられないような音楽の使い方が最も印象的だった。全体的には暗く沈うつな雰囲気。ヒロインは常に重く苦悩しており、それはややうっとうしく感じるほどなのだが、その映像にはお構いなしといったふうに切り込んでくる、陽気ではしゃいだ音楽という、その一見珍妙な関係性が全編を貫くと、それが1つの流れとなってこの映画を形作っているのだから不思議である。心地よさというよりは、どこか矛盾した楽しさとでもいったような不可思議な魅力。

それはこの映画の言語でもあるフランス語の響きも手伝っている。そうか、カナダってフランス語圏だったんだもんなあ。アメリカと隣合わせだから当然英語の方がポピュラーなような気がしていたが。水を全編をたたえるメインイメージにとらえ、カナダの寒い空気もあいまって、ひたすら透明でひんやりとしたブルーな世界。こうした色合いは結構見るものではあるけれど、作品世界とこれほどしっかりマッチしているのはなかなかない。ちょっと「ANA+OTTO アナとオットー」なんかを思い出す。そういえばあれは映画の国籍こそスペインだったけど、メイン舞台はフィンランドであり、同じ北欧のノルウェーが重要なキーポイントとして出てくる本作の空気感と、そのどこか寓話的な感じも何か共通するものを感じたりする。

グロテスクな魚のナレーションによって物語は運ばれる。その魚は再三首を切り落とされ、瀕死の状態で、しかもそこは一体どこなのか、むくつけき男が無言でこの魚を何度も何度も斬首する、強烈でいながら全く茫漠としたイメージの場所である。魚をさばいているというより、その場所の感覚は殆ど鉄工所のようである。……しかしまあ、この寓話性を高めようとしているのかもしれない魚のイメージはちょっとお粗末な感じがして私はあまり受け付けなかったのだが。とまれ、その魚が語りだすのは一人の女の話である。さる大女優の娘。ブティックを任され、何不自由なく見える彼女だが、冒頭彼女は中絶手術を行っており、見ていくと店の経営も芳しくないようで、見るからに危なっかしくフラフラしている。「私は三度も堕ろしたんだから」などとなぐさめる友人の言葉など耳に入っていないようである。踊りに行き、男を引っ掛け、おざなりのセックスをしても心はもちろん、堕ろしたばかりの体ではそっちの満足感も得られない。

私はなかなかこのヒロインに最初のうち感情移入できないのである。というのは、ちょっとした理由というか……。彼女が、登場して中絶シーンが終わり、車に乗り込んで店へと向かう途中、魚を運んでいた保冷車が追突でもしたのか、中の魚をぶちまけてしまって、そのために渋滞になってしまっている場面に遭遇する。保冷車の男たちは魚を回収するまで待ってくれと、クラクションを鳴らし続ける車たちに呼びかけているのだが、待ちきれなくなった車が一台、二台と魚をふんづけて走って行く。ヒロインのビビアンもそれにならう。彼女の車に踏んづけられたサバと思しき魚が真っ二つになる。ああッ!なんとゆーことを!職業柄(笑)これだけで彼女にちょっと不快感を感じちゃうんである。まあ、それが暗示というか、その後彼女はある意味これによって呪われたような?展開になるわけなんだけど……。

女優の娘ということが彼女にとってはプレッシャーにしかならず、しかも劇中では相手も示されない中絶の傷を負って、こんなフラフラした生活を続けるうち、こりゃお前、絶対飲酒運転だろう!という、クラブからの帰り道、彼女は人をはねてしまう。しかもこともあろうにそのまま走り去ってしまう。はねられた男性が死んでしまったことを知り、彼女は愕然とする。さらに深い闇へと潜っていく。地下鉄のホームで出会った見知らぬ男に話し掛ける。「私、人を殺してしまったの。それは私しか知らないの。……やっぱり自首すべき?」男は答える。「誰も知らないのなら問題はない。どうせあんたもいつかは死ぬんだ。」この時は、なんて無責任なことをいう男だろうと思いもしたのだが、この男の登場シーンはもう一回あって、その時彼はまた同じようなことを言い、これが実に効いているのだ(後述)。彼女は証拠隠滅を図ろうとしているのか、車のナンバープレートをひっぺがし、車ごと川へ飛び込んじゃったりする。そこから這い上がり、びしょぬれになった彼女はベッドで胎児のように丸まって眠りにつく。

ここらあたりまでが起承転結の“起承”あたり。シーンが細かく入れ替えられて、エピソードのかすかな、そして不思議なつながりを提示する。それはビビアンが昼食に食べていた“いつもの”タコ料理が、彼女がはねて死なせてしまった男がいつも仕入れていたものだということ。男は死に、そのときからおいしいタコを仕入れる者がいなくなって、固くてまずいタコがでてくることになってしまう。そしてこのお客からのクレームが、男の死体発見につながるのだ。

ビビアンはこの殺してしまった男の会葬に、せめて手を合わせたいと思ったのか、足を運ぶ。そこで出会う男の息子、エビアン。彼と共に男の職場に行き、殺人者を責める言葉に身をよじらせ、それでも何となくこのエビアンと別れがたく、男の遺品の整理をも手伝う。一晩中一緒にいたのに何をすることもなく別れた二人だが、ビビアンは空港に彼を追いかけていく。今まさに飛行機に(すっごいちっちゃい飛行機)乗らんとする彼を追いかけて走ってくるビビアンの、短距離走者並みの豪快な走りと、それにかぶさる民俗音楽風の威勢のいい音楽に思わず笑ってしまう。彼を捕まえた彼女は「忘れ物よ。あなたと寝たいの!」と言うにことかいてものすごいことを言い、しかしそれで引止めに成功して、彼との一夜を過ごす。「愛している(ジュ・テームの響きが心地いい〜)。ダイバーは決断が早いんだ」「……あなたは私のことを知らないわ」そしてその朝、彼女が寝ている間に朝食を買いに行った彼が見たものは、自分が乗るはずだった飛行機が墜落して乗客が全員死亡したという新聞記事だった。「君は天使だ!」というエビアン。……なんという皮肉!父親を殺して恨まれなければならない息子の命の恩人になってしまった。彼女はたまらず泣き出して真実を告白する。

告白されたエビアンは、苦悩する頭を抱えてバーに行く。見知らぬ男に話し掛ける。「恋した女が父親を殺した女だったんだ」「お前しか知らないことなら、問題はない。結婚して口を閉ざすんだな」そう、この見知らぬ男こそ、あの時ビビアンに駅のホームで話し掛けられた男だったのだ。……不思議な符合。そしてビビアンとエビアンは(と、こう名前を並べてみると、すごいゴロの響きね)、数ヵ月後共に彼の船に乗り、父親の遺灰を海に巻くのである。そしてジ・エンド。

シーンごとに現れる、水が撥ねているイメージや、ビビアンが悩みを振り払うようにシャワーを浴びたり、ぬめっとした暗い川に飛び込んだり、……そこには確かに水のイメージがある。ビビアンの眉や髪のダークさで白い肌が映え、それが冷たく透明な水をさらに冷たく感じさせる。自分を清めたくて、透明にしたくて、水を浴び続けているかのようなビビアンは、そのことで身も心もどんどん冷たくなっていってしまう。辛くなっていってしまう。でも、美しい。青くて透明で冷たくて。彼女の心はモヤモヤとしていても、その映像は“透徹”なんていう言葉が思い浮かぶぐらいに、きりっと、美しい。

水のイメージもそうだが、私にはそれよりも魚のイメージを強く感じた。それは語りべのあのお魚というよりは、彼女が轢いたお魚、道にうち捨てられているお魚、そして彼女が殺した男が従事していたのが魚市場で、彼は冷凍のお魚をさばいており(よく築地市場にも入ってくるタイプの加工品。カナダやノルウェーのサバって美味いのよねー)、とこう見ていくと、それは死んだ魚のイメージなのである。そういえば、車に残る魚の生臭さの描写もそうだし、語り部の魚も常に瀕死である。ビビアンが殺してしまったのはこちらが先の、彼女の赤ちゃんは、直前まで羊水に満たされていた。真っ赤な血と共に透明なパックに入れられて、荼毘に付された。この死んだ魚のイメージは、やはりこの赤ちゃん。その罪の意識が、彼女にずっとずっとまとわりついて、匂いになってまでまとわりついて、まるでそれが呪いのようになって死んだ魚を扱っているこの男性を轢き殺してしまう。

それでエビアンに出会えたわけだけれど、幸せの代償はあまりに重い。この物語はそれをとても象徴的にあらわしていて気が滅入るけれど、実は幸せって、そうだ、いろんな辛いことの土台があってこそ手に入れるもので、感じられるもの。そういえば辛いという字の上に十という字があって、つまり十辛いことがあって初めて幸せが得られるんだなんて話を思い出してしまった。

相変わらず無粋なボカシで画面を汚していることに落胆。しかもそのせいでなのか、ボカシの場面で音質が落ちるのは?映倫め、もうえーかげんにせーよ。★★★☆☆


海の床屋
1980年 25分 日本 カラー
監督:山田勇男 脚本:
撮影:阿部崇之 音楽:
出演:平川勝洋

2001/12/24/月 劇場(BOX東中野/山崎幹夫&山田勇男特集/レイト)
「アンモナイトのささやきを聞いた」という、ささやかで秘めやかな映画のことはずっと忘れられずにいた。そのタイトルを久しぶりに目にし、その監督さんがもう一人の方との二人で特集上映をやるというので、足を運んだ。こういうスタンスで、数多くの8ミリを中心とした短編作品を撮っている人とは知らなかった。寺山修司のもとで、天井桟敷の美術を担当していた人。共同で映画を作っていた湊屋夢吉という人物や、銀河画報社映画倶楽部という名前も、ぼんやり聞いたことがあるような気はするけれど……。と、考えてみると、全てが夢の中のようで、まるで今日見た山田作品のようだなとも思える。

カタカタンと海に向かう列車。それに乗って旅しているのは、若かりし頃の監督自身。淡いピンクのジョーゼット風のリボンをふわりとつけた、黒髪の女の子がうつむいて向かいに座っている。着くのは海の町。古びた床屋。ピエロのようなメイクの主人が石鹸を泡立てる。うたた寝の時。夢との境がつかない。女の子とその一団はキツネの面をかぶり、おはやしに乗って踊りだす。ヴァイオリン、クラリネット、さまざま。

私と人生を取り替えませんか。そう言ったのは、床屋の主人だったか、その椅子に座っている自分だったのか。旅先の床屋でふとさっぱりしようと思い立ったその男は、奇術師。いや、そのピエロメイクの主人が奇術師?パンと手を叩くと本当に人生がくるりとひっくり返ってしまいそう。懐かしい響きをたてるドーナツ盤から聞こえてくるのはチャールストン?床屋の主人もうとうとと寝息を立てる。ふと彼が目を覚ますと、お客はいなくなっていた。

夢の物語の中に、また夢が折り重なる。夢想する夢と、目を閉じた時に見る夢が一緒になる心地よさ。いつまでもこの夢のパイ生地構造の中にくるまっていたいと思わせる。銀河画報社映画倶楽部初体験の私を、するりといざなってくれた夢の映画。こういう映画って、小さな町の公民館とかで観たい気がする。海辺の町の柔らかい陽光が、フィルムいっぱいに優しく閉じ込められている。小さな映像で語る珠玉の童話。★★★★☆


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