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「ふ」


2004年鑑賞作品

ふくろう
2003年 119分 日本 カラー
監督:新藤兼人 脚本:新藤兼人
撮影:三宅義行 音楽:林光
出演:大竹しのぶ 伊藤歩 木場勝己 柄本明 原田大二郎 六平直政 魁三太郎 田口トモロヲ 池内万作 蟹江一平 大地泰仁


2004/3/9/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
だって新藤監督、もう90歳だよ!?別に年がどうこうっていうわけじゃないけど、やっぱり驚くよ、そんな御大でこんな映画作っちゃうんだもん!いや、だからこそか。この映画の凄さの基本ベースになっているのは、この軽み、なのだ。まるで力みのない、いい意味での軽々しさ。これはやはり、映画を撮り続けてきた人だからこそ出来る軽みなんだとつくづく思う。手馴れた凄み。もう何やってもアリでしょという、凄み。実はこの物語の底辺には凄くシリアスなテーマが横たわっているというのに、それをこんなブラックコメディにしてしまって、しかし後味の悪さはなく、どこかすうっとしたミントの風が吹き抜けるような爽快感が残るというのだから。そう、これって、社会派映画なのだ。それなのに、これだけ笑ってこれだけ爽快とは!

本作はモスクワ映画祭で大竹しのぶが女優賞をとったんだという。そりゃ、とるよね。こんな彼女にかなう女優なんているとは思えない。これはまさしく大竹しのぶなのだ。いくつになってもどこか幼さが残るような、それでいて恋愛の匂いがプンプンしている、全身女の、おおらかでコケティッシュな、女。彼女が娼婦をやると悲壮さがまるでない。アタシがやるのは当然でしょ、てなもんなのだ。実際は、そうしなければ彼女たち母娘は生きていけない境遇にあった。選ぶ余地はなかった。しかしそれで次々に男を食い、その後でご馳走を食らって高らかに笑う彼女たち母と娘は、まるでそれを楽しんでいる風にさえ感じるのだ。
実際は、そんなはずはない、というのもキッチリと描かれる。彼女たちはそこに来た男たちをその気にさせるのであって、その手腕もまた自負している。だから最初から「判ってるんだよ、いくらだ」などと言う男には憤る。バカにすんな、出て行け、人権侵害だとまでかみつく。
女がカラダを売る話なのに、それも他に仕様がなくなってそうする話なのに、何だかちっともアワレがないのは、そういう彼女たちの誇りの部分をしっかりと、しかしさりげなく提示しているから。
このあたり、やはり“手馴れた凄み”なんだよなあ。さすが、大女優を妻に持った監督、かも?

ここは東北の片田舎。さびれた開拓村の、最後の一軒。
そうか、東北だったのか。登場人物たちの訛りがあまりに強烈にデフォルメされているから、かえって判らなかった。それが逆にファンタジックに思えるぐらい。
ここは不毛の土地で、村人たちが努力しても努力しても、作物は実らなかった。20軒あった開拓村の人々は次々とこの土地を捨てていった。
そして残ったのが、ユミエとエミコの母娘。彼女たちには行くところがなかった。
ユミエの両親は満州からの引き上げ民。満州に行くと決めた時、既に何もかもを手放しており、日本に帰ってきて、無償で土地を与えてくれるという国の提案に飛びついた。そしてまた……何もかも失い、飢えて死んだ。
だから、その子供と孫であるユミエとエミコには、行くところなどどこにもないのだ。
ユミエのダンナは出稼ぎに行くと言って消息を断った。男はいい。そうやって一人で外に出て行けるチャンスがある。
いや、ユミエとエミコもそのチャンスを得ようと立ち上がったのだ。そのためには元手がいる。そしてその元手を作るためには……犠牲になる男が、いや男たちが必要だった。

冒頭は、もうビックリ。何が起きているのかと狼狽するぐらい。ボロボロの服にすすけた顔で、大竹しのぶと伊藤歩がはいつくばってこちらにむかってくるのだ。そして大股広げてバッタリと倒れる!?
はてこれは、アングラ演劇の話か何か?と思うぐらい。あ、でも実際そんな雰囲気は全編に流れている。確信犯的な、舞台臭さ。場面は一貫してこの母と娘が住む家の居間にほぼ限られていて、そこに男が一人、また一人と訪ねてくる手法になっている。これ、舞台劇だといっても違和感がないぐらい。
しかしこれは、監督が長年構想していた、映画のためのオリジナルなのだ。
登場人物の構成のシンプルさといい、やはりこれもベテラン監督が長年映画をやってきて、そぎ落とされ、そぎ落とされ、行き着いた先の究極の形、って感じがする。
しかも、美術も監督がやっているんだもの、オドロキ!

木の根まで食って、もういよいよヤバいって時になって、女二人、一世一代の大勝負に出る。体を綺麗に洗って、ボサボサの髪をキチンとして、メイクもして(しかし赤の絵の具で口紅は……ガビガビになるだろー)、掃除もして、問題は服……これも唯一残っていた足踏みミシンで、葬式用の白黒の幕と、開拓村の赤い旗をザックリ切ってカタカタ縫って、シンプルな服の出来上がり。
しかし、シンプルながら、特にユミエの方の白黒の肩紐ワンピースはきっちり深いスリットとか入っちゃって、やたらなまめかしいのね。
実際、大竹しのぶったら、すっごいのよ。まあ何たって彼女もトシだし、娘役の伊藤歩と比べて足とか太いし、目じりのしわも目立つんだけど、それすらもチャーミングに見えるぐらい。その化け猫めいた色の白さと、座りなおすたびにパンツ丸見えのサービス満点さに、もう驚いちゃう。
いや、それどころではない。「レイプされそうになった!」とワザとらしく乱れた姿で逃げてくるその時、一瞬下半身モロで途中まで降ろされているパンツ引き上げながら出て来るんだもん。心臓ドキッどころかドカッきて死にそうになったわよ!
実際は、伊藤歩の方がモロヌードを披露してたりするんだけど、大竹しのぶだもん。驚くよなあ。

そう、伊藤歩もまた、凄いのだ。ヘアまでバッチリのヌードシーン。でもそれは確かにこの作品の解放性を感じはしたけど、あんまり必要性感じなかったかな……。彼女って何ていうか、そういうことに対しての壁がないなっていうのは、「スワロウテイル」で鮮烈に出てきた時から思っていたことで。女優さんがカラダを見せるっていうことは、度胸を試される部分があって、それをウリにしているような作品も結構あるんだけれど、彼女はそういう部分をポンと飛び越えちゃってるというか。そんなことのどこがタイヘンなの?とでもいうように、サラリとしたもので。体すべてが女優としての仕事だってことを、当然のこととしてとらえている頼もしさがある。どこか巫女さん風のイッちゃってる系の目といい、独特の迫力がある。胸は薄かったけど(あっ)。
なんにせよ、ほとんど両主演のような形であの大竹しのぶとタイ張るんだから、やっぱ凄ぇよなあ。

“次々に男を食い”って書いたけれども、何か、ホントの意味でそんな感じさえ、するんだよなあ。実際は殺しているだけ(!?)なんだけど、そのあとでかならずゴーカなご馳走をたらふく食って、高笑いしているんだもの。
その殺しの道具は、男にヤラせた後に飲ませる“特別サービス”の毒入り焼酎である。
何かヘンな味だと思いながらも「ささ、ぐーっと、ぐーっと」と言われると男の性なのか、一息に飲み干してしまう。そして一瞬の間があって、口からぶくぶくと洗剤のような泡を吐き、キイキイと鳥のようなヘンな音を立てながら、そしてヘンな動きを見せながら、男たちは死んでゆくのだ。
もしかして、この死に様は、それぞれの役者に任されているのかも?パントマイム風な動きを見せたりする男もいて、それはないだろーと思いつつ笑いが止まらない。ゴーカな役者陣の個性がそれぞれ出ていて、どれもこれももう噴出してしまうほどに可笑しい。そして最後に一言、言い残すのだ。「油断大敵」とか「バラには棘がある」とか「……なぜ」とかね。そうするとそれに対して大竹しのぶ扮するユミエがそれぞれに「……上手い!」とか「詩人ね」とか「運命だわね」などと言うのがおっかしくてたまらんのよ。
そして、ユミエとエミコは死体を荷車に載せて運んでいく。♪なきなーさあいー、わらいーなーさーあああい、と「花」を歌いながら!(爆笑)

もっぱら男を相手にする仕事をこなすのはユミエだった。だってもう最初っから扇情的なカッコしてるし、色目使ってるし、大竹しのぶはいくつになってもこのコケティッシュさで……そりゃ彼女の方を選ぶよなあ、って思う。それは男が彼女よりあきらかに年下であってもそうだよなあと思うんだから、大竹しのぶ、恐るべし、である。
しかしエミコは娘であり同志だから「いずれは私もやらなきゃいけないんだから」とその役目を買って出るようになる。その最初のお客がガンだった。役所の引揚援護課だというその男は、この開拓村を提唱したそもそものはじまりの男の息子だった。彼は父の過ち、そして遺志を継ぐために引揚援護課を引き継ぐ。しかしその重責に耐えかね、そして責任をとるために死ぬつもりだった。
ユミエとエミコの家を訪れ、エミコの最初の客となり、そしてじぶんはこれから死ぬつもりなんだと告白する。
自分から死ぬと言っているんだからと、しかも彼の迫力に気圧されて、いつもの“特別サービス”をせずに帰してしまう。
しかし彼がそれまで童貞であり、エミコにとっての最初の客であったことが、運命を狂わせた。

“エミコにとっての最初の客”ってだけで、“エミコの最初の男”というわけではなかったのだ。
「いつかは私もやらなきゃいけないんだから。実験台としてはちょうどいいでしょ」でイキナリバトンタッチし、終わった後も「なんてことなかった」とニッコリ、だなんて、やけにあっけらかんとしすぎじゃ、だなんて思っていたら、なあんだ……処女じゃなかったワケ。
でもその援護課の男は、彼女が運命の人だと思って、死を思いとどまって戻ってきてしまうのだ。
しかしその時点で事態はかなりムチャクチャ。母親のユミエといざせんとする警官は来ているし、しかもまた一人闖入者が……かつてこの開拓村に住んでいて、そしてエミコと恋仲だった少年が瀕死の重傷を負って逃げ込んでくるのだから。
エミコが処女じゃなかったことがここで明かされ……ちゃうちゃう、大事なのはそんなことじゃなくって、その少年、浩二が、その母親が弱い立場ゆえに受けたひどい仕打ち、そのために浩二が犯してしまった殺人が明らかにされるのだ。
浩二を死なせたくない、引き渡したくないエミコ。そしてユミエとヤろうと思って潜んでいた警官、エミコが処女じゃないと知ってしまった援護課の男……入り乱れ、いきなりの修羅場!
正直それまでは、ユミエが男にヤラせては殺し……の繰り返しで、それもまた面白かったけど、このまま延々と続くのかしらん、などと思っていたものだから、このいきなりの修羅場にかなり驚く。
監督、起承転結どころか、起・転結かよ!ってなぐらいに。
このあたりも、ぜっんぜん恐れないベテランの余裕なんだよなあ。ふう。

男たちは、国そのものを象徴しているのかもしれない。あるいは社会。あるいは理不尽。
そして女は、名もなき民であり、人間であり、そして何より……女である。
この母娘しかいなくなってしまった開拓村。電気も水道も、この一軒だけのために引かなければならない、そのコストのムダについて訪ねてくる電気屋や水道屋は言い言いする。別に自分たちがその費用をまかなっているわけではないのに。
ダム建設の工夫として来ている男は、公共事業の“無駄の必要性”についてとくとくと説く。まるで自分が国そのものの立場みたいに。
しかし実際に生きる苦しみに直面して、生き抜くために行動しているのは女であるこの母と娘、なのだ。
彼女たちには男たちが言っているようなことは関係ないし興味もない。大切なのは、生き抜くこと。そしてそのためにここから出て行く手段を作り上げることなのだ。
それは単純だし、そのある意味での愚かさは女であることの恥ずかしさを感じなくもないけれど、でもまず人間である“女”という生き物に、誇りを感じる気持ちの方が強い。
やっぱりやっぱり、最後に生き残るのは男よりも女、ゴキブリよりも(!?)女なんだよね!って。

男たちの中でも、キーを握り印象を残す援護課の男、蟹江一平は、名前から予想したとおり、蟹江敬三の息子さん。やっぱり!でもお顔が似ているわけではないんだよね。感じも、似ていない。だって、オドオドした感じがハマるなんて、蟹江敬三じゃあり得ないじゃない。でも存在感が頭にこびりつく、という部分は親譲りかも。これはもはや七光りではないでしょ。
でもやっぱり大竹しのぶ、なんだなあ。アップカットがかなり多くて、複雑な、微細な表情まで余すところなく拾っているんだけど、ズドン!なのよ。ここまで人間をナマで見せちゃっていいのと思うぐらい。やっぱり天才女優なんだよなあ!

なんでこれがタイトル「ふくろう」か。それは、37歳の母親と17才の娘がそんなことするなんて村の誰も思いもしなくて(この年は両方とも……ちょっとキツいわね)、この犯罪が世に明らかにされることがなく、だけど、森の、そして夜の番人、ふくろうだけはそれをじっと見ているところから。ふくろうだけがその真実を知っている、という……男を食い殺すたびにふくろうがクルックーと鳴く(そりゃハトだわ)シーンが挿入される。
ふくろう、可愛いんだけど、私、コワいのよ、ふくろう。「アクエリアス」っていうイタリアホラー映画が忘れられなくて……ホラー映画が流行った頃、私の中では、この「アクエリアス」がいっちばん怖かったのだ。ふくろうのかぶりものした殺人鬼が次々と殺戮を繰り返していく話で、これ観たらふくろう絶対怖くなるって!観たの高3の時なのに(受験生、勉強しろよ!)いまだにトラウマ的に忘れられなくって、ふくろう、怖いんだもんー……(しかしビデオ持ってる!)。★★★★★


藤原義江の ふるさと
1930年 107分 日本 モノクロ
監督:溝口健二 脚色:如月敏 演出台本:畑本秋一 小林正
撮影:横田達之 峰尾芳男 音楽:
出演:藤原義江 夏川静江 小杉勇 土井平太郎 村田宏寿 田村邦男 浜口富士子 入江たか子 津守精一 北原夏江 佐久間妙子 小西節子 津島ルイ子 大野求 伊藤和夫 マキシム・シャピロ リディア・シャピロ

2004/2/18/水 東京国立近代美術館フィルムセンター
この作品はどうしても観たかった。藤原義江という名前を目にしてから。ん?藤原義江?どっかで見たことある字面だなあと思って……そうだそうだ、妹尾河童さんの本に出てきた、彼が若い頃お世話になったという声楽家の藤原義江だ!と思い出したから。いや、正確に言うと、その本に一葉載っていた、藤原義江氏のお顔がもんのすごくハンサムだったから!!藤原義江、という名前ながら男性で、日本人離れした目鼻立ちの、ダンディな美男子なんである。動く藤原義江を見たい!喋る藤原義江を見たい!そして何より、類まれなる美声であったという彼の歌声を聞きたい!そりゃーもう、胸ときめかせて足を運んだのであった。

トーキーになるかならないかの頃の作品で、部分トーキーという形で歌を歌う場面を中心にトーキーになり、その他はサイレントのこの作品。しかもこれは後年、先達の偉業を再確認する、という意味で(そういう解説が冒頭入る)主にトーキーの部分の補修が行われ、“通常のトーキーの映写速度で上映すると高音になりすぎるシステムを元来の速度で再現することによって、より自然に聞こえる”ようになっているんだとか。そういやあ、昔の、特に無声映画時代からトーキー初期のフィルムって、動きがすっごく早かったりするのってひょっとしてそういうフィルムのシステムによるものなのかなあ?確かにあの動きに合わせてしまえば声も元来より高くなってしまうわけで……なるほど。

という部分を復元してあるから、藤原義江の声も不自然なことなく、聞けるのである。それにしても!こんな美男子でこんな美声をうららかに響かせるなんて、まさに天は二物を与えてしまうんだなあという感慨。想像よりもはるかにずっと、藤原義江の声楽家としての天分は素晴らしく、今と比べれば決して録音技術は高くないというのにその声に聞きほれてしまうのだ。いや、なんつったってやっぱり彼自身がイイ男だからかなー。ホントに役者さんみたいだもん。何でこれで役者じゃないのと思うぐらい。確かに役者じゃないから時々相手の女優さんとのテンションにズレを生じたりしなくもないんだけど、でもそれでもここまで美男子だったらもう全然OKでしょう。細身の体にスーツがしなやかに似合い、足がスラリと長く、お顔もほっそり。ほっそりとしつつもその中央に鎮座する鼻はこりゃ日本人じゃねえだろってなぐらいに形よく高々とそびえ、オールバックがダンディに決まる、まさに、まさに美男子はこれよという見本なのだ。ああー、カッコイイぃー。

ところで。劇中で彼の名前は藤村義雄、である。うう、ダサい……。そりゃ、藤原義江そのまんまじゃ女性の名前みたいではあるけどさあ……センスない。藤村は外国留学して本格的に声楽を修め、当地ではその才能も高く評価された。しかし日本に帰ってみても、そんな外国の評価などは通らない(ま、この時代だしね)。しかも金持たちが跋扈するサロンに取り入って金を出してもらわなければ、レコードを出したり売れたりすることがかなわないのである。たとえしゃがれ声ででっぷりと太った男であっても、金さえあれば社交界で歌手としてチヤホヤされるのだ。チャンスをつかめずもんもんとしている彼を支えていたのは、帰港する船の三等船室で出会った妻、綾子だった。

しかし藤村が資産家の娘、大村優子をパトロンに売り出すようになってから彼は一変してしまう。出したレコードは大ヒットし、ラジオから流れる彼の歌声に街の皆がうっとりするようになったのだけれど、藤村自身は大村に連れ出される社交界ベッタリになってしまって、毎日毎日パーティーで酒とダンスに明け暮れる様になってしまった。街の人々が、これでは藤村はダメだと、彼を街頭に連れ出さなきゃダメだと口々に噂するのを耳にして綾子は心配し、何とか自分との生活に振り向かせようと、彼の目の前ででっぷり太った男(一見してあの声楽家のような)と車に乗り込み、ホテルにシケ込むんである!うっわ、大胆なことする……で、驚いた藤村は彼女の後を追い、鍵穴からのぞくと、その男に寄り添って親しげにしている彼女の姿が見える……ひええ、修羅場だよお!しかしここで中に踏み込むようなことはしないのね。そこが昔の人の奥ゆかしさなのかしらん。踏み込めばよかったのに……そうすりゃ誤解も解けたのに。その声楽家のように見えた男は、なれないタキシードにふうふう言っている夫婦の使用人の男。彼もまたすっかり変わってしまったご主人を心配して、この危険な役目をかって出たのだ。

しかしすっかり誤解していこじになってしまった藤村は、生活を改めるどころか、妻を罵倒し、社交界へとまた戻ってしまう。落胆した綾子は、置き手紙を残して出て行く。あなたを一番愛しているんだと。あなたの健康と将来が心配なのだと。あなたが本来の、のびのびとした歌を取り戻すまで、会わない決心なのだと。
綾子に出て行かれた藤村は、急に意気消沈してしまう。これはちょっと意外だった。いや、綾子の“浮気”に、彼女の言うことに聞く耳をもたずに取り乱す彼、の時点でそれはもう充分判っていたことだったのだけれど。藤村は綾子のことを本当に愛しているのだ。パトロンの大村優子は藤村をチヤホヤし、新聞もロマンス実るかと書きたてたりもするけれども、これは好機とばかりに彼に言い寄る大村に藤村は、自分は綾子が、綾子だけが好きなんだと言い、ただただため息をつき、心ここにあらずである。綾子はいまだにまあ、やぼったい女だし、すっかり洗練され、そしてもともと美男子な藤村とつりあうのは見た目ではお嬢様の大村の方ではある。だけど、藤村は自分が不遇な頃から彼の才能を信じ、笑顔で支え続けてきた綾子を誰よりも愛しているんだな。うう、いい奴じゃないの。

しかし藤村、自動車事故を起こしてしまう。藤村はうわごとで綾子の名前を呼ぶ。なのに、綾子が枕もとで彼に話しかけると、まだ性懲りもなく意固地になっている藤村は、お前なんか帰れと、けんもほろろである。大村もまた、藤村がうわごとで綾子の名前を呼び続けることにムカついて病院から彼女を追い払ってしまう。しかし、生命に別状はないものの、歌手生命は絶望的だという医師の診断にパトロンたちは一様に引き上げてしまう。そして息を吹き返した藤村はようやく真人間に目覚め、綾子のもとへと飛んでゆく。

クライマックスは、野外のステージに万人の人々を集めてのライブコンサート。まさに藤村は、社交界から街頭に連れ戻されたのだ。うららかな美声に聞きほれ、割れんばかりの拍手を送る人々は、とりすました上流社会の人間などではなく、まさに市井の人々である。その中には藤村と入れ替わってすっかり落ちぶれた、あのデブでしゃがれごえの声楽家もいて、藤村の声に涙を流している。度重なるアンコールに泣いて喜び合う藤村と綾子、そして藤村の再起に手を貸した友人と、あの主人思いの使用人(←コイツいい奴!)。いやー、豪華なクライマックスといい、スカッとするハッピーエンドだねえ。すらりとした体躯をぴんと弓なりに伸ばし、美声を響き渡らせる藤村、いや藤原義江。素敵いいぃー。

これって、あの、溝口健二監督だよ!それも凄い。トーキー半分、サイレント半分というこの作品、トーキーとして、歌唱を本格的に取り入れるなど、まだまだ手探りのこの時代に実に意欲的&実験的。こういう作品に麗しきお姿と美声を残すことが出来た藤原義江は凄いわ!★★★☆☆


プッシーキャット大作戦
2004年 43分 日本 カラー
監督:本田隆一 脚本:本田隆一 永森裕二 吉津屋こまめ
撮影:上斗敏嗣 音楽:松石ゲル (ザ・シロップ)
出演:水谷ケイ 江口ナオ 布川ゆかり 村石千春 高山謙二 山本浩司 菅野久夫 つじしんめい

2004/7/6/火 劇場(テアトル新宿/レイト)
セクシー娘三人がお色気たっぷりに大活躍する、……それが結構早めに一人めが死んじゃって、パートナーとして良さげだった二人めも死んじゃって、最後一人になっちゃうのは、ちょっと、意外だった。最後まで三人でバッタバッタとなぎ倒すんだと思ってたから……って、あ、つまり私ってば「チャリエン」をイメージしてたんだわあ、無意識に。違う、違う。そんなハッピーな三人じゃないのよ。ついでにいうと、そんなに頭良くもないし、田舎モンだし(笑)。カッチョ良さなんかよりユルユルの笑いの方がダンゼン、強いんだなあ。

そういやあ、プッシーキャットっていうのも何だか聞いたことあるし、このお尻を突き出したポーズも何だか見たことあるし……ラス・メイヤーの「ファスター・プシィキャット!キル!キル!」が元というかオマージュというかそういうことらしい、んだな。あ、すいません、観てません。タイトルと、写真を見た記憶があるっきり。つまりはこの本田監督というのが、もー、ものすっごい60年代ラブ!な人で。だってさ、この日トークショーで出てきた風体が、もうそのまんまだったもん。思わず口を開けっ放しにして深く納得しちゃったよ。身体にフィットしたスリムなファッションに、かなりモジャモジャ入ってる長髪。うーーーん、まさしく60年代な感じ?(いや、どっちかというと、70年代?)同時上映の「ずべ公同級生」もそうだったけど、ほおんと、特に、そう、女の子の感じ、ファッションとかキャラとかが60年代のスクリーンからそのまま持ってきたってぐらいなのね。ダンスでゴーゴー!な感じもそうだし。話は、どうなのかなあ。まあ、こういうノーテンキなエンタメもあったかなあ。でも何といってもその雰囲気をかもし出しているのは画づらというか、空気というか。現代風、クリアな感じがまるでない、フィルムの色合い、そして手触り。

冒頭、セクシーに踊りまくるシーンが出てくるから、この三人はマアとりあえずはダンサーであるらしい。しかしこのシーンはいわゆる60年代風を提示するだけなんじゃないかと思われるほど、特にそれには触れずに、次のシーンではなぜか軽トラに(荷台に二人立って)乗って海岸沿いの田舎道を走っている。荷台にはビニールシートに覆われた死体!このビニールシートが物語の展開にしたがって、だんだんとうず高くなっていくことになるのだ。
多分、この軽トラを奪うために、運転手を殺したんだろうなあ。あとから考えるとそんぐらい、彼女たちの殺す理由は単純至極。やたらクールにキメてる割には殺しの現場を見られたりとドジ踏んで、そうすると、殺すしかないべ、となって際限なく殺しを重ねるんである。あ、そうそう、ここはどこか、東北の片田舎らしくてね、彼女たち始め、登場人物は皆“東北弁”を喋るわけ。私、こういう風に“東北弁”って括るのが、なあんか気に入らなくて仕方なくってさ。こういうシチュエイションの映画の時、いっつも言っちゃうけど……ま、つまりは私が結局はマスター出来ないままだったってこともあるけど。つまり、“東北弁”なんてものは、ないでしょと思うわけ。関西の人が、関西弁なんていうのはないって憤るのよりも大きく、憤るべきだと思うんだなあ、だって広いんだから、東北は。私のいた福島と青森、最南と最北だからそりゃ全然違ったし、それに、このただ語尾に“べ”とか“べさ”とかつけりゃいいっていうの、なんだか違うと思うんだよなあ……。確認とか了承とか、そういうニュアンスっていうのが私の感覚ではあるのさ。そうでもないのかなあ……プッシーキャットの中でもヒロインのハリー役、水谷ケイが青森出身で完璧に話した、なんていうから、そおかなあ……津軽(南部)弁とは激しく違うけどなあ、なんて思ったりしたんだけど……。

ごめんごめん、ついつい、東北の言葉のことになるとアツくなっちゃうもんだから(笑)。そんなことは、つまりは物語には大して、というか、ほとんど関係ないのだった。三人のプッシーキャット。リーダー的存在で最後まで生き残るハリー。彼女を何かとライバル視して、でもはっきり言って巨乳でベビーフェイスなだけのマリーはハリーの逆鱗に触れ、早々に首をホールドされてこの世とオサラバ。ハリーを“肉体的にも精神的にも”愛している、どこか哀愁を感じさせるサリーはハリーを愛するがゆえに、彼女がただただ人を殺すのが耐えられなくて、一緒に死のうと思って、自分だけが、死んでしまう。そしてハリーは……彼女だけはウラ組織とつながっていたの?そのあたりもなあんか、つけたしっぽいというか、あいまいっぽいというか。まあ、それは最初からお約束な感じではあったけど。ダンサーから殺人者へ、そして強奪者へ?その流れからしてさっぱり判んないなあ、ま、そんなことはどーでも良いけどね。つまりは、このお色気三人組が胸の谷間をあらわにして、太ももバーン!と出して、男を誘惑して刺激的なディープキスかまして、女王様!的なハイキックかまして、それがあれば、いいわけよね、つまりは。

でも一方で、彼女たちとカラむこっち側の事情と登場人物が魅力的だったりするのであった。少女かと見まごう程の若い海女と、彼女が仕えているスケベじじいと、同じくそこの使用人であるおしの青年。この海女、コトリはこのじじいの愛人の娘であり、彼女の母は娘を置いて逃げ、コトリは海で溺れたところをジジイに助けられて、そのためにジジイは片足が義足になってしまった。だから、コトリはこのエロじじいがどんなにイヤでもこの奴隷生活から抜けられない。
でも、ホントは、ウソなの。ジジイは義足なんかじゃないの。彼はコトリのことを愛している。アブノーマルに。愛人だった彼女の母親にどんどん似てくるコトリに欲情して、弱みにつけこんでヤラしいこと、してるのだ。コトリは歯を食いしばってこの主人に仕えている。仕えていられるのも、このおしの青年、樫塚のこと、好きだからなんだな。デブでイケてない青年だけど。ついでに言うと、マリーとハリーの誘惑に屈してしまうようなヤツだけど(まあそれは……仕方ない。男の欲求不満はね、大目に見ないと)。

マリーの殺しの現場をこのコトリに見られてしまったことで、ハリーとサリーはコトリを殺さなければと思ってるのね。コトリの仕えているじじいがここら一帯で一番の金持ちだと知ったハリーはこりゃ一石二鳥、とばかりに、コトリを殺してついでにじじいの金もせしめちゃおうと思い立つ。で、このじじいの家に色仕掛けで潜入し、樫塚を誘惑してカネのありかを聞き出す。いざ決行!と思った時に、コトリがじじいにさざえを入れられた、と泣きながら逃げてくる。じじいが追ってくる。じじいの鉄槌で樫塚が死んでしまい、コトリが泣き叫ぶ。プッシーキャットの誘惑に負けっぱなしだったとは言うものの、いつでもコトリの味方、コトリをこそかばって心配して……きっと愛していたんであろう樫塚は、結構、泣かせるんだな。
そしてサリーが、ハリーをこれ以上殺人者にしたくないと、愛しているから一緒に死にたいと拳銃を向ける。サリーの放った拳銃の弾がなぜかコトリを撃ち抜く(何でよ!腕、悪すぎ!)。じじいがコトリを愛していたことを聞き届けたハリーが、じじいの頭を撃ち抜く……おいおいおい、何だか怒涛すぎる!人死にすぎ!

ひとつひとつ細かく見ていくと、結構いいシーンだったりするんだけどなあ……。海岸の、断崖絶壁で繰り広げられるこのクライマックスシーンは、すっごい風で、赤茶のレザーのつなぎでセクシー&クールにキメまくる(胸の谷間、いや谷間というより形そのものでヤバい!)ハリーの髪が思う存分?吹き上げられて、エラいことになってるんですけど。それにその凄い風のせいで、どうも台詞が聞き取りづらいし。だから、せっかくいいシーンなのに、ああ、風が凄いなあ、ちょっと凄すぎるなあ、ってことに気ぃとられて、今ひとつ集中できなかったりして。

田舎の巡査を演じて、あっという間に死んでしまった山本浩司が先頭切ってホレこんでいたという、コトリ役の村石千春嬢は確かに、カワイイ。このドギついセクシー三人組のプッシーキャットの中にふっと紛れ込むから、その童顔で可憐な感じがきゅんとさせちゃうし、それに、この海女のカッコがね!ホットパンツを思わせる根元ギリギリまでの太ももバーン!で、キャットたちのセクシーファッションより、生々しいエロなんだな!!童顔ってのも、結構、というよりかなりヤバいと思うよ、ホント。これで海岸でサザエなんて獲ってて、東北弁で、あーん、もうたまらないかもっ。

おっと、だからね、東北弁っていうのは、ないんだってば。しつこいか……あ、でもせめて、“東北なまり”ぐらいにしといてほしいのさ。★★★☆☆


ふらいぱんじいさん
1981年 21分 日本 カラー
監督:岡本忠成 脚本:岡本忠成 東川洋子 永倉薫平 
撮影:田村実 音楽:広瀬量平
声の出演:岸田今日子 草野大悟

2004/8/6/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(日本アニメーション映画史)
「ウォレスとグルミット」ですっかりポピュラーになったクレイアニメだけど、その技術は日本でだって連綿と続いてて、この天才アニメーター、岡本忠成だって当然、ちゃあんと使ってるんだよね!

しっかし、それにしてもとっても素朴なクレイアニメではある。それこそ「ウォレス……」を思い出すと、動きにしても何にしても、非常に素朴(言ってみればぎこちない)。でもその素朴さが、この作品世界、なのだよなあ。だって、ふらいぱんじいさん、だよ??ふらいぱんじいさんが、そんななめらかに動いちゃダメでしょう!っていうのは、あるじゃない。実際、ふらいぱんじいさんは確かにぎこちないんだけど、出てくる豹やら猿やらラクダやら小鳥たちやらは、ふらいぱんじいさんよりずうっとなめらかな動きを披露しているんだもんね。やっぱりこれは計算の上なんだ。

ふらいぱんじいさん。ある家庭で、ずっと目玉焼きを作ってきたじいさん。でもある日、目玉焼き専用の小さなフライパンが購入されて、ふらいぱんじいさんは、流しの下の暗い空間に押しやられる。しょんぼりしているじいさんに、とおりがかったゴキブリ君が、旅に出なよと勧めてくる。じいさんの上にかけられてる中華鍋のオジサンも、それがいいアルよ、なんて賛成する。ずっとずっとこの家で、目玉焼きを作ることを生きがいにしていたじいさんは決心がつかない……。
でも、あのゴキブリ君が、じいさんにくっついていたおかげ?で、野菜炒めを作ろうとした奥さんが、ギャー!とばかりに悲鳴をあげて、ふらいぱんじいさんを放り投げちまったんだ。トラックにぽーん、と放られたじいさん、ホントに旅に出ることになってしまう。当てもなく。

目玉焼きを作ること以外に、自分にも出来ることがあるかもしれない、そうじいさんは思って、さっそうと旅に向かって歩き出すのだ。何が出来るんだろう?想像もつかない。
いきなり豹に見つかって、コレは何?鏡?あら、私黒豹になっちゃった!とパニくられる。二匹のカップル豹が、くんづほぐれつ、コミカル。このあたりの柔軟なユーモラスはクレイアニメの真骨頂。
次に見つけられたのは猿。イタズラ好きの猿たちに、カーン、カーン、と叩きまくられる。たまらず逃げ出し、夜の砂漠。そこには、迷子のラクダの子供が。
お母さん、お母さん、と泣くラクダの子供(もおー、カワイイんだな!)。ふらいぱんじいさん、このかわいそうな子のために一生懸命考えて、あ、そうだ!猿に叩かれたこと、思い出す。ラクダの子供にそのひづめで思いっきりカーン、カーンと叩かせて、お母さんラクダに迎えに来てもらうことに成功するんだ。
ふらいぱんじいさん、目玉焼き以外にも自分にも出来ることがあったんだー!って、ふくふくあったかい気持ちになるんだ。良かったね。

それでも、ふらいぱんじいさん、目玉焼きがやっぱり焼きたくって、オスのダチョウに、そうオスなのに、玉子をひとつくれよう、さぞかし大きな玉子なんだろう!ってダダこねたりもするんだけど……旅を続けて続けて、ついに出た、大きな大きな海!
ふらいぱんじいさん、それまで水なんて、蛇口から出るそれしか知らなかったんだ。こりゃあすごいや、と目を丸くする。ざぶんと飛び込んで、トビウオたちと一緒に楽しく泳ぐ。じいさんたら、鉄のフライパンなのに、何で沈まないのかしら(笑)。
しかし楽しげな海も、あっというまに恐ろしい嵐の海に早変わり!群れから逃げ遅れた一羽の小鳥が、あわれ大タコの餌食に!しかしふらいぱんじいさん、間一髪、機転を利かせて大タコを怒らせて自分に向かって墨を吹かせ、反射させて見事タコの目に命中させてやった。小鳥は重々お礼を言い言いして去ってゆく。
ふらいぱんじいさん、満足だった。でも、もうじいさん、体力の限界なの。だって、じいさんなんだもん、もう、ダメ。誰も知らぬ無人島に力尽きて辿り着いて、もう動けない、ダメだあ、なんて思ってたの……。

どれくらいの月日がたったのか、渡り鳥たちがその島に渡ってきて……あ!あの小鳥が渡ってきたの!やっぱり、おじいさん、こんなところでどうしたの、って声をかけてきて、話を聞いていた仲間の小鳥たちも集まってきて、もうダメだって思っているじいさんの、最後の望み、大好きなお日様の近いところに連れて行っておくれって頼むと……みんな力合わせて木の上まで運んでくれるのね。
じいさん、本当に死んじゃうのかな、って思った。でもフライパンなんだから、死ぬったってなあ……とも思ったけどさ(笑)。そう、じいさん、死ぬわけないの。だって、ふらいぱんじいさんなんだもん。運んだ小鳥たちはね、じいさんの上が実にちょうどいいって、そこで気持ち良さそうに眠っちゃうのね。そしてそれ以来、ふらいぱんじいさんの上は、小鳥たちの安住の地になるのだ。産みつけられた玉子をふらいぱんじいさんは、そう、玉子焼きなんかにしないよ!ちゃあんとあっためてあげて、親ナシのひなも面倒みてあげて、ひなが孵って、巣立って、そして渡り鳥たちが繰り返し戻ってきてはじいさんに旅先の土産話をするの。じいさんは、永遠に、永遠に、みんなのじいさんで、幸せなじいさんなんだ。……何か、涙出るなあ。

この物語で何を教えるっていうわけでもない……のかもしれないけど、何かが教えられる気がする。ふらいぱんじいさんの人生は、素敵、最高。彼には永遠がある。永遠の幸せがある。彼の直接の子供や家族がいるわけじゃないんだけど、たっくさんの子供、たっくさんの家族が彼にはいるんだ。……ちょっと今の現代人にはグッくる話じゃない?★★★☆☆


Bridge 〜この橋の向こうに〜
2004年 93分 日本 カラー
監督:加納周典 脚本:川端麻祐子
撮影:加納周典 樋口陽彦 音楽:山崎哲也
出演:市瀬秀和 藤真美穂 川端麻祐子 高槻純 吉岡毅志 太田千晶 中村優子 堀江慶 松田賢二

2004/7/13/火 劇場(渋谷シネ・ラ・セット/レイト)
夏の、若者の、青春の、ロードムービー。とは言いつつ、登場人物は大体20代で、社会人も含まれているし、そんな、ティーンエイジャー的なわけでもないんだけど、やっぱりそんな青春くささを感じるのは、ほとんど計画性もなく、ただ目的だけを見つめて、どこかヤケ気味のやみくもさで、夏の光り輝く草いきれの中を、人と出会い、反発しあい、そして関係を深めながら、彼らが成長していくからだろう。最後に待っているのは、そこはやはり大人の世界の、ちょっとホロ苦い結末だとしても。

最初、いや中盤ぐらいまでは、正直キツかった。それは演者が総じてあまりにもカッチリとした演技を披露してきたから。このキャラならこうだろうというような、ともすると押し付けがましくも思える、……悪いけど学生演劇っぽい、それが言い過ぎなら舞台演技っぽい、いかにもな、頑なな演技。見てるのがツラくって……映像の場合、もっと力の抜けた、その人のパーソナリティーを滲み出させるようなものがないと、とてもとても見続けられないんだよなあ……などと思いつつ、半ば本気で、ヤメようかなあ、途中で出ちゃおうかなあと思ってしまったぐらい、かなりゴソゴソと居心地の悪い思いを抱えてしまって。物語の展開や、そのカッティングも特に奇をてらっているというわけではなく、ごくごく普通だから、余計に演技を眼前で披露されている感覚が強く、参ってしまったのだ。

でも、中盤過ぎぐらいから、彼らの顔つきが明らかに変わりだす。これが順撮りかどうかは判らないし、台詞回しは相変わらずカッチリとしているんだけれど、表情も台詞回し同様カッチリしていたのが、だんだんとナマな感じに崩れてきて、身体全体がこのロケーションに解放されていくのがまざまざと見えてくる。ああ、ロードムービーって、凄い力を持っているんだなって、役者までをも変えてしまうんだなって、思った。

満作という男の子が、親友の雛子と、その雛子の親友のひかりを巻き込んで、いなくなってしまった恋人の薫を探しにいくんである。突然の置手紙。満作は訳が判らず取り乱す。ひかりの稼ぎで居候しているような状態の雛子は割りとノリで、じゃあ一緒に探しに行こうよ!と言い出すのだ。薫が置いていった、ずっと行きたがっていた海岸の写真、それ一枚だけを手がかりに、半ば脅迫でひかりも引っぱって。
とりあえずローカル線に乗って。その車中で雛子とひかりの学校時代の先輩、哲平と出会う。いかにもうだつのあがらないサラリーマン。気の進まない営業に行く途中だった哲平を誘って彼も参加することに。
次に出会ったのが、小さな町の小さなホームで誰かを見送っていた女子高生の珠美。エロオヤジ全開の哲平がちょっかいを出すのを冷たくあしらう彼女。この珠美にオバサンと言われてキレる雛子とケンカになり……バトルが終わってみたら、彼女もまたこの旅に参加することになっていた。
その後も、自転車で旅をしている男の子二人が加わるけれど、この、珠美こそが、キーパーソンだったのだ。

まあ、いきなりネタバレだけど、彼女はつまりは、幽霊だったんである。叶わぬ恋、その結果出来てしまった子供、苦悩して高い高い橋の上から飛び降りて死んでしまった。
近道の鉄橋を、彼女は足がすくんで渡ることが出来ない。最初の出会いから何かと珠美が気になる哲平は、皆を先に行かせ、彼女に付き添って遠回りの道を一緒に行く。
多分、この間、二人は何かを話したのだと思う。あるいは、何かがあったか、何かを感じとったんだと思う。劇中では強がる珠美を気遣う哲平、ぐらいな描写しかないけれども……何だか、どうしても、そう思えてしまう。

皆と合流したあと、ここでキャンプを張ることになって、珠美が自分の話を……不倫をしていて苦しんでいるってことを告白する。それに雛子がことごとく反発して……それはつまり、雛子が逆に、かつて結婚していた相手にこういう若い子と浮気された体験があったからなんだけど……それを哲平は何度となく仲裁に入るのだ。苦しむ珠美を気遣って。
確かにここに至るまでに、最初のサイアクの出会いから徐々に徐々に、哲平と珠美の距離は近くなってはいる。でも、彼女にとってどうしても渡れなかった(そりゃそうだろう)あの橋を迂回して、うっそうとした森の中を歩く二人の姿には、何かとてもこう……飛び越えた何かを感じてしまったのだ。

あの、森のせいかもしれない。それまでも皆は緑の中を分け入っていった。でもこんな風に、太陽の光もさえぎられがちの、湿った森の中は、何か、気配めいたものが作用する予感がするのだ。あの時に、二人の道行きは決まっていたんだって。
その夜、哲平と珠美は、二人お祈りつなぎで手をつないで、こっそりと出て行く。
この時点では、皆、珠美が実はもう死んでいるということを、知らなかった。
でも、きっと、哲平は知っていたと思う。知っていたに違いない。
知りながらも、彼女と手をつなぎ、去っていったのだ……!

と、いうのは、サイドストーリーに過ぎないのだけれど。その後、元の三人のメンバーに戻った満作、雛子、ひかりがヒッチハイクした車のオバサンに聞いて、震え上がった、というお話。
でも、このエピソードがメインよりもずっと心に残るのだ。この時期であり、夏の物語であり、やはり……そういうどこかノスタルジックな幽霊譚が身に染み渡るように出来ているのかもしれない。
さらっと流しちゃったけど、途中出会う自転車の旅の二人組だって結構イイ味は出しているのだ。特に、封建的な父親に反発して家出してきた寺の息子が、親父のやり方のままじゃ、継げない、オレが変える!と、一大決心をするところなんて。でもこの場面も……珠美の告白と彼の告白が交互に描かれてかなり気持ちが分断されるし、しかもやはり珠美のそれの方がどうしても重いから、この二人組は遅く加わって早く出て行っちゃうという損もあって……ちょっと、横入りっぽい。
この後に描かれるこれこそがメインであるはずの、満作と恋人薫のエピソードも、やっぱり珠美のそれと比べちゃうと正直弱いんだな……。
ま、それは私が美少女好きで、この珠美役のコについつい見とれちゃってたせいがあるんだろうけど(笑)。

メインの話に行こうとは思うんだけど、もうひとつ書かせてね。この珠美が幽霊だっていうの、何となく予感できる感じはしたんだけど、あまり確信をもてなかったのは、実は幽霊だった、というのにああやっぱり!と膝を打てるだけの伏線が全く張ってなかったからなのだ。
やっぱり、実は幽霊だった……っていうんだったら、彼女が案内した焼きそば屋や、バスの中で絡んでくる酔っ払いのオヤジなど……つまりは第三者が、彼女の姿が見えていない、というのが後から考えれば判る、みたいなぐらいには凝ってほしかったなー、と思っちゃう。オヤジなんか、珠美の短いスカートの奥に釘付けだったり、それに文句を言った珠美に直接絡んできたりするから……めちゃめちゃ生身の人間に見えてるんだもん。

ま、いいや。メインの話に戻ろう。
とにかく、ようやく、あの写真の海岸に辿り着いた三人、である。もうとにかく疲れたから、とりあえず一晩宿をとろうということになる。
その時に、雛子があまりの疲れからイラついて、あからさまにこの旅の不毛さを糾弾したもんだから、一気にケンアクな雰囲気になってしまう。あんたが言い出したんでしょ、とひかりもムッとして雛子をいさめると、雛子は、いつだって偽善者なんだから!と逆ギレ、たちまち女二人の聞くに堪えないののしりあいが始まってしまう。
心情的には、常識的なひかりに加勢する気持ちが圧倒的なんだけど、この女同士の口げんかっていうのが、本当に聞いててツラくて、だって、しまいにはお互いの欠点をあげつらうような格好になるからもう……見ていられないし、聞いていられない。
そんな観客の心情と最も近いところにいる、つまりは一番カワイソウな立場の満作が二人を制するんだけど、制したあとも二人のケンカはおさまらない。……うーん、このあたりはちょっとクドい。
ガマン出来なくなったひかりは飛び出してしまう。続いて雛子も。

実は、この二人が登場する冒頭のシーン、一緒に暮らしているらしい会話の感じとかで、最初、姉妹なのかと思ったのね。会社勤めのしっかり者のお姉さんのひかりが、芸術家を目指す妹を応援しながらもしっかりしなさいよ、とケツ叩いてる、みたいな。ま、実際には友達関係だけど、この見え方からくる関係性は確かにそのまんまなんだよね。
二人はお互いにお互いをうらやましいと思っている。ひかりは自分にはない才能を持つ雛子を友達として誇りに思い、雛子は自分にはなれない大人としての基盤を持つひかりを、自分のスランプもあってまぶしく見上げている。
だからこそ、二人は自分の中に、それに反する部分としての欠点や弱い部分も余計に見えてしまっている。それもまた、お互いに判ってて、だからこういう、一番親密な関係である二人がケンカしてお互いのそれを言い出すと、もうモロに図星だから、本当に辛いのね。
それはでも……そう、確かに、お互いがお互いに、誰よりも判っているということをも示唆していて……だから、海岸で一人、砂に絵を描いている雛子をひかりが見つけて、そしてお互いに、言い過ぎた、ゴメンね、と言うだけで仲直りが出来てしまうというのも、だからなのだ。
本当のケンカが出来るのは、本当に仲がいいから。ホント、そうなんだね。
そういえば、私、友達とこんな風にぶつかり合うケンカしたことって……あったかなあ……。

ひかりがそのことをまさに指摘された、通りすがりの美青年は、満作の探しに探していた、恋人の薫だった。
ゲイだったの、ね。結構素直にビックリしちゃった。頭の中に、満作の前に現われる楚々とした女性、みたいなものを想像しながら見続けていたから。でも確かに、満作にはそれもアリかなと思わせるような妙な可愛らしさがあって……それもまたちょーっとステロタイプな演技なんだけどさ(笑)。
薫は、ここに婚約者の女性がいるというのである。その人と結婚する、と。その女性に恋愛感情はないけれど、でも満作とはもう終わりなんだと。
泣きべそ顔でしつこく食い下がる満作に対して、薫は静かで、とても落ち着いて、すべてを決定してしまっている……これでは満作に勝ち目は、ない。

薫の婚約者であるという女性は、彼がゲイだということは知っているといい、それでも彼が私を必要としてくれているのならそれでいい、とこれもまた静かな表情で言う。
……どういうことなのだろうか、これは。
満作の愛が、薫には重荷だったのだろうか。あるいは、薫は愛ではない方法で生きていくことを選択したのだろうか。それとも……。
ゲイである薫が、女性と結婚する、ということを、満作が飲み込めないのもムリはないし、正直観客である私だってすんなりとは飲み込めない。でも薫の、そしてその婚約者の女性の表情は、全ての問題を超越していて、とてつもなく、静かだった。愛の形、これもまた、愛の形、なのだろうか。
満作と薫の関係がどういうものであったかは判らないけれど……確かに満作の猪突猛進な愛は、一方通行という感じは強くする。キャッチボールの愛ではなく、投げっぱなしの愛、だったのかもしれない。
満作はうなだれて雛子とひかりのところに戻ってくる。二人に挟まれ、そしてほっぺたにチュッとキスされ、なんだよお、なんて言いながら、でも元気に立ち上がる。よっしゃ、行こうか、と。

そういやあ、雛子が留学中に結婚していた話、なんていうのもあったんだった。好きで好きでたまらなくて、だから結婚したの、と雛子が語ったそれは、その言い方は……どこかこの時の満作に似ていたような気がする。
満作とは留学先で知り合った雛子。雛子がこのことで苦しむのを満作はずっと見ていた。
この旅の途中、ようやく雛子は離婚届を出すことを決意する。満作がいい子いい子、みたいな感じで雛子をはげます。
雛子は、満作が好きだったんじゃないかな、いや、好きなんじゃないかな。確かに二人は親友。男と女の親友が成立するなら、こんな感じなんだろうなという雰囲気。満作がゲイだから、絶対に、二人が恋人同士になることはあり得ない。だけど……。
でも、恋人には限りがあるけど、友達には限りがない。一生、友達だから。だから、大切なんだ。

脚本が、ひかり役をやっている川端麻祐子。こういう若い才能は頼もしい。彼女が、役者とか脚本とかのコダワリじゃなく、とにかく映画を作りたいんだ、と語っていた言葉は、そう、こういう言葉を聞きたかったのよ!と思わせる頼もしさだ。実際、今まで以上に映画界にはマルチな才能が求められる時代なのかもしれない。
映画をやりたい!作りたい!そのエネルギーは確かに感じ取ることが出来る作品。そのことが最も収穫だったかも。★★★☆☆


不倫妻の淫らな午後
2003年 60分 日本 カラー
監督:池島ゆたか 脚本:五代暁子
撮影:飯岡聖英 音楽:大場一魅
出演:佐々木基子 月島のあ 望月梨央 牧村耕次 本多菊次朗 松元義和 竹本泰志 池島ゆたか

2004/4/18/日 劇場(池袋新文芸座/第十六回ピンク大賞AN)
2003年度ピンク映画ベストテン第二位の作品。
この日プレゼンターの一人として壇上にいた池島ゆたか監督は、しかし司会より喋りに喋りまくっていらっさった。まー、ホント、よく喋るわこの人は……ピンクをヘンに高みに持っていこうとはせずに(こういう評価される場だと、そうなりがちな部分はどうしてもあると思うんだけど)ホントエロな話を実に嬉しそうにするんだよね(笑)。感じでは多分、今一番多作なピンク監督であるんだろう彼は、その点非常に充実しているんだろうな、と思う。私がピンクに触れるきっかけとなった四天王たち(プラスアルファ)の作品群とは、今回の上映5作品の性格は明らかに違うなと思ったんだけど、最もそれを感じたのが池島作品で、それは多分、この監督が壇上に上がって喋りに喋りまくってキャラ全開だったせいもあると思う。四天王作品というのは……ま、私はその片鱗をちょこっと観させていただいただけではあるんだけれども、やはり作家性というか、作家的というか、そういう部分がとても強くて。それが魅力的である一方で、あまりにそれが強すぎてついていけなくなることがあったのも事実。その点、今回観ることが出来たベスト5は、まず、エンタメとして見せることを達成しているのが印象的だった。

今回観ることが出来た池島作品は、そうした彼の喋くりキャラクターからはちょっと想像できないような、切ないラブ・ストーリーだった。いや、これはラブ・ストーリーというべきなのか。過去の甘い恋愛をちょっと苦い味で味わい直し、そして幸福な現在を見直し、帰ってゆくというこれは……終わってみれば結構道徳的な話なのかもしれない。確かにこのストーリーの核には報われない不倫関係がある。過去に苦い形で終わりを告げたその関係を、20年も経って思いがけず遭遇したその人と、ほんの少しだけ共有する。ほんの少しだけ……それは不倫というほどのものですらない、過去の回想と清算。

この家庭、まず夫が浮気をしている。部下の若い女の子とホテルにしけこみ、部長、部長と言われて果てるシーン。そのことは当の妻、修子はどこかおっとりとしてまるで知らずにいる。彼女は今、介護福祉士の仕事に邁進しているのだ。一人娘も大学に入って手が離れ、この年だとこれぐらいしか仕事がない、と言いつつ、日々勉強に余念がない修子は実に生き生きとしている。
修子はこの結婚生活に少々、倦怠を感じていたのだと思う。見合いだったこの結婚、その前の恋愛があまりに苦しく切ないものだった。その恋愛を思い出す彼女。不倫だった。今の夫の不倫相手と同じように、部長、部長と慕っていたその人は、大人の男性の魅力にあふれていた。大人だけに、彼はこの浮気をはっきり遊びだと認識し、そう彼女にも言い渡していた。
それでも修子は夢見る。一日でいいから、この人のお嫁さんになりたい。身の回りの世話とかお食事を作ったりしてあげたい。
20数年がたって、それが意外な形で叶うことになるのだ。

修子がホームヘルパーとして訪ねたのが、そのかつての小林部長だった。しかし相手はかなりボケが進んでいて彼女に気づかない。何でも若い頃に遊びが過ぎて奥さんにさんざん苦労をかけ、定年後すぐに奥さんに先立たれてしまい、そんな母親に同情していた子供たちは家に寄り付かないのだという。
かつてはその要素の一人だった修子。彼女は献身的にこの小林の世話をする。
だって、長年の夢が叶ったのだから。気づいてほしくて何度か「部長」と呼びかけてみたり、「私のこと、覚えてませんか」と問うてみたりするのだけれど、彼はうつろな目をこちらに向けるばかりだ。
修子はある時、身体を洗うついでみたいにして、彼のモノをふくんでみる……。
いまやそれはぴくりとも動かなくなってしまったけれど、彼女は「私がはじめて口に入れた、愛しいもの」を懐かしむのだ。

修子と小林との回想シーンは、修子の娘役の月島のあが二役で演じている。かなりハスキーボイスが特徴的で、この修子の若い頃と思うのはちょっとムズカシイものもあるのだけれど、白の強いモノクロで描かれる回想シーンは、まるで夢の国のよう。
この娘は、現実の娘のシーンではかなり奔放、という感じ。あのハスキーボイスは基本的にそういう色っぽさの方が強い。彼女が彼氏とセックスしたあと、父親が浮気しているらしい、という話をする。この彼氏は、いいんじゃない、バレてなくて、遊びなら。と軽く受け流す。彼女は、そういうもんなの?と少々驚き、夫婦っていつからセックスしなくなるのかなあ、私だったら一生セックスできる相手と結婚したい、と言う。彼氏は、それは無理なんじゃないの、と笑い飛ばし、彼女も、そうか、やっぱり無理か、と笑う。

この時彼女もまた自分の言葉を笑い飛ばしたけれど、多分それは本音だったと思うし、その気持ち、凄く良く判る気がする。
だって、こんな風に大抵夫が若い女と浮気して、年をとっていく女はそういう場面からだんだんと排除されていってしまうんだもの。
男性は結構いくつになってもそういう描写があるのに、女性にはないのは、年をとって欲求がなくなっていくということよりも、やっぱり男から見て醜くなってしまった女を排除しているとしか思えない部分があるじゃない?
だから、一生セックスできる相手、というのは、そうやって自分を排除しない相手という意味で凄く理想だし、女の切なる願望がリアルに出た言葉だと思えてしまう。
こういう部分、やっぱり女性の脚本だからかなあ……強く共感してしまうのは。

病魔に身体を蝕まれていた小林は、死んでしまう。その知らせが修子のもとに届く。
彼女はたまらず嗚咽をもらす。その姿を娘がじっと見ている。「今回は事情が違ったから」と修子は号泣を止めることが出来ない。
修子は小林の墓参りに行く。「最後まで思い出してくれなかったわね」と呼びかける。でも私は自分の夢が叶って幸せだったと彼女は述懐する。あの時、一日だけでも彼のお嫁さんになって身の回りの世話をしたいと願っていた夢。
でも本当は、小林は最後の最後、思い出していた。修子からもらったプレゼントが引き出しの奥から出てきて……あの時の、思い出した小林の驚愕の目!震える表情……覚えてますかと呼びかけた修子、自分のモノを含んだ修子……全てが思い出され、彼はそのプレゼントを見つめながら……息たえる。
思い出さないどころではない。彼は最後の最後、子供でも奥さんでもなく、彼女のことだけを思って死んでいったのだ。

夫は不倫相手の部下にふられ、家庭に戻ってくる。おりしも娘の誕生日である。ささやかなパーティー。修子は娘に夢を持ち続けてほしい、と言葉を送る。それはいつか、違った形かもしれないけれど、きっと叶うからと。
その夜、修子と夫は久しぶりに二人の夜を過ごした。「何年ぶり?いいのよ、ムリしなくて」と戸惑う修子を、夫は優しく抱く。見合いでも、この人に身を預けようと思ったことを、忘れていた修子。これはあの、「一生セックスできる相手」を叶えてくれるような、暗示に思える。それこそ理想的に過ぎるかもしれないけれど……この家庭回帰の幸福感は、でも魅力的だ。

愛する人の身の回りの世話をしたいという夢って、今まで征服されていた相手を征服しかえしたいという願望にも思えて何だかちょっと、不条理な切なさにも思えたんだけど、そういううがった疑問もさらりと流して気持ちよく全てが収斂される作品。やわらかな母親像が素敵な佐々木基子の女優賞は納得。★★★★☆


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