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「え」


2005年鑑賞作品

英語完全征服  /PLEASE TEACH ME ENGLISH
2003年 113分 韓国 カラー
監督:キム・ソンス 脚本:キム・ソンス/ノ・ヘヨン/チェ・ヒデ
撮影:キム・ヒョング 音楽:チョ・ソンウ
出演:チョン・ヒョク/イ・ナヨン/ナ・ムニ/アンジェラ・ケリー/キム・イムン/チョン・スクヨン


2005/4/25/月 劇場(東銀座 東劇)
テーマは面白いのになー。これを突きつめたらすっごく面白くなると思ったのになー。それにヒロインがこんな風に思い込み型、突進型だから余計に、トンでもないところまで行きそうで面白かったのに。どっちかっつーとヒロインが突進しているのは英語よりも好きになった相手に対してだから、そのキッカケとなって「征服してやる!」と言ったはずの英語は思いっきり置き去りになっているような気がする……。まあ、結局テーマは英語征服というよりも恋愛征服であり、これはラブ・コメだから仕方ないのかなあ。でも男性の方がヒロインに振り向くまではどうしても英語征服がメインになるから、どうにも失速気味のような気がしてならないんだけど……。

ここんとこ韓国の恋愛映画は目白押しすぎて、何かどうしようかなって感じなんだけど、あの「猟奇的な彼女」がラブストーリーの醍醐味をクリア出来ていなかったから、最近あまり観る気がしてなかったようにも思う。ヒロインは皆間違いなくカワイイから、ついついいっかと思っちゃうんだけど、ラブストーリーって、これが意外に難しいんだと思うのよね。そ、コレが意外に起承転結が必要。ボリュームの加減が必要。クライマックスで大きく踏み込むクレシェンドまでの前哨戦が必要。この前哨戦がね、本作も、「猟奇的……」も感じられなくって。

本作のヒロインは、地味で平凡なメガネっ子のヨンジュ。なんだけど、このコただメガネかけてるだけで、最初からカワイイんだもん、普通に。細いわ、お尻ちっちゃいわ、足長いわ。前髪が眉毛上なだけじゃん。
あ、ブスとは言ってなかったもんね。ブスって言ったら、全然ブスじゃないじゃん!になるし、何よりラブストーリーが成立しない!?うっ……結局そのレベルのハードルはあるわけで……それに気づいちゃうとこんなにカワイイはずもない世のメガネっ子は報われないよな……。
それにしてもこのイ・ナヨン嬢が「英二」で、長渕の相手役やったコとはビックリである。へええーぜえんぜん、覚えてない。あの映画はヒドかったからなあ……。
で、そのヨンジュがホレこむお相手のムンスはといえば、女好きで、職場である女性靴売り場でホストばりのセールストークを展開する、ヘタな英語をやたらにキザに使うあたりとか、何かルー大柴みたいなヤツなんである。英会話教室の金髪美女の先生にデレデレで、先生につけてもらった「エルビス」という名前がすっかりお気に入り。ムンスと呼ぶより彼はもう劇中すっかりエルビス。ヨンジュが自分でつけたキャンディよりもヨンジュって感じ、とそこらへんは対照的で。

二人が何で英会話教室に通っているのか。ヨンジュは地方公務員、あれは何か、役所、なのかなあ?そりゃあたまには韓国在住の外国人だってくるさ。でもヨンジュを始め職場の連中は全然喋れず、ひきつった笑いでごまかすばかり。んで、それはいかんだろうということで職場の中から一人、英語をマスターさせるべく、くじ引きで選ばれちゃったのが彼女なんである。
へえー、韓国も英語事情は日本とおんなじ感じなんだ。私、なぜか、韓国の、特に若い人は英語ペラペラ系かと思ってた(なんでそう思ってたんだろう?)。でも、ほんっとに、おんなじ感じ。「単語と文法は得意なんだけど」と彼女の上司が言うあたりもそうよねー!と思う(ま、私は単語と文法さえダメだけど)で、ヨンジュが途中挫折しそうになった時、「英語が喋れなくても今まで何も困らなかった。中学二年で英語はあきらめた。でも国語は満点だったもん!」とキレ気味に言うのに、深く、ふかーく、共感しちゃうのよねー、そうそう!って。
うーん、だからこそ、判るからこそ、この英語をくっそー、完全征服してやる!ってなって、もうその方向に突進してったらオモロイ映画になるんじゃないかと思ったわけ。何か、どっか、違うだろ!って突っ込みたくなるようなところまでいってくれるような気がしたわけ。
なんだけどさあ……。

教える英会話教室の、パツキン美女センセの授業が今ひとつヌルいのがまず原因かもしれない。基礎の基礎クラスだってこともあるんだろうけれど、さあ、皆さん、始めましょ〜って感じでやたらヌルい。しかもエルビスはこのセンセにやたらと色目を使うから、彼にひと目惚れをしたヨンジュもそのことばかりが気になって英会話どころじゃないわけ。
ヨンジュはエルビスの理想のタイプが、英語を完璧にマスターする女性だと知って、それなら私、英語完全征服してやるぞッ!と意気込むんだけど、それって辞書のページを飲み込む場面だけで終わっているような気もするんだけどさあ……。だって結局このセンセに嫉妬しちゃって、二人が飲みに行った外国人バー?につけていって泥酔して醜態をさらしたりなんかしちゃって、で、そのあとはこのセンセと腹を割った親友同士になるでしょ、もうそうすると、このセンセに授業中エルビスと一緒になれるように画策してもらったりする方向になっちゃって、英語を征服して彼を振り向かせる!っていうあの固い決意がなんかうやむやになっちゃうんよね。
それに、この金髪美人のセンセも韓国好きで、教室でもラフな韓国語をばんばん喋るし、英語を叩き込む、って感じにはどーにも見えないんだよな。ま、韓国で英会話の先生してるぐらいだからそうなんだろうけど。「英語完全制服」できるような先生とはどーも思われない。

このセンセにバーでヒドいことをしたことを謝るために、ヨンジュはお手製のお国料理を持っていく(トッポッキだの、チヂミだの)。で、二人でバカバカ食いまくる。同じ場面でこのセンセは生徒である全然イケてない韓国青年からのピザの出前に感動して、何かひと目惚れラブラブ状態になる。でさ、ラスト的には「英語よりも韓国語の方が思いが伝わる(by エルビス)」だったり、このセンセ、結局このピザ青年とゴールインしちゃって、イナカで土いじりしながらもう韓国語ペッラペラに喋ってたりとか。いや、途中に英語に思いっきり邁進した結果、でもたどりついたのがそういう結論、だっていうのなら、そうよねー、自国の言葉が大切なのよねー、と納得もするけど、そんな風に英語征服が失速気味なもんだから、このウツクシイハズの収斂にもどーにも消化不良を起こしてしまう。

うーん、正直、エルビスがヨンジュに恋するようになる過程に臨場感がないんだよな。ヨンジュの方はね、最初からエルビスに夢中で、もう運命の人!って感じで目がまんまハートマーク状態だから、彼女の方に恋の高まりというものを期待することは出来ないわけ(でも、これもねえ……結局“恋は盲目”で終わってしまったような気も……)。その彼女の影に隠れる形で、彼の思いはどうにも伝わりにくい。恋のじわじわ、ドキドキを期待する向きには物足りない。正直、クライマックスの電車のシーンでいきなりって気もしないでもない。
エルビスには他に大切なエピソードがあるわけだからさあ。彼がどうして英会話教室に通おうと思ったかの理由、それはいまだ会ったことのない、アメリカにいる実妹のためなんである。夫と離婚した彼の母親が、女一人で二人の子供を育てる自信がなくて、娘をアメリカに養女に出してしまったから。そのことを母親はずっと気にしていて、今回意を決して会うことにしたんである。でも母親は韓国語しか喋れない。だからエルビスは自分が英語をマスターしようと思ったわけ。それにしてもこんな「育てる自信がなくてアメリカに養女に出した」てなことが、フツーに起こるんだろうか、韓国では……。
この母親とはもうケンカばかりなんだけどね。同じデパートで母親は清掃員として働いてる。女の尻ばかり追っかけてる息子とこの妹のことで言い争いになると、「父親と同じ人間だと判っていたら、お前を捨てた!」なんて言っちゃう。当然エルビスはおかんむりで、大ゲンカ。

そんな時にエルビスはヨンジュを呼び出したりするんだよね。もう夜中に。ラクに話が出来るヨンジュに、「君と話していると楽しい」と言う。それは「君には下心を感じないから」がちょーん。
まあ、エルビス自身が自覚してないだけで、実際ここらあたりから彼女が彼にとって必要な存在になっていっているのかもしれないけど、そんなことを言われたヨンジュはもうとにかくがちょーんなわけである。
しかも、お互いの距離を縮めようと画策した、英会話教室の皆で出かけた週末のピクニックで、確かに二人はちょっと距離も縮まってイイ雰囲気になるんだけど、でも、そこで彼女、ムンスのパスケースの中に、美女の写真を見つけちゃうわけね。
それが、妹のビクトリアなわけなんだけど。
しかもムンスと他の生徒さんの会話で、彼がその彼女のために英語を習っていることも知り、「早く会いたい」と嬉しげに言っているのまで耳にしてしまう。
ショックを受けたヨンジュは、一時英会話スクールから離れてしまうわけ。

しっかしねー、「実は妹だった」てなオチなんて、一昔前の少女漫画だよねー。もうさすがに禁じ手じゃないかしらん。
しかも、この親子再会に、なぜかヨンジュは立ち会うハメになってしまうんである。ヨンジュにプレゼントする靴を探すためにエルビスが行方不明になっちゃって、エルビスによって自分の靴を捨てられちゃったヨンジュはちょうど行き会ったエルビスのお母さんにつかまる。「あなたが公務員のお嬢さん?」てなわけで、息子の替わりに通訳をつとめてほしい、とこうなるわけよね。
最もワカランのがこのシーンなんである。ヨンジュはもはやヒアリングも会話もバッチリだから(つーか、いつの間にそんなに上達してんだよ……そんな感じじゃなかったのに)、ビクトリアの言ってることも、そして当然このおっかさんの言ってることも判ってるはずなのに、なぜか事情を理解出来てないんである。まあここがこのヒロインの思い込みの激しさたるやって部分なのかもしれないけど……最初に思い込んだ、「これは結納なんだわ」でもうアタマが固まっちゃってる。

で、彼女はビクトリアに、二人ともあなたを憎んでいるから帰ってくれ、なぞと言っちゃうのよね。
このことを、「思いもしない言葉が口から出てしまう性格」と後から分析?するんだけど、誤解したままの彼女がこう言ったのは、そんなもん、ビクトリアに対する嫉妬に他ならないだろーと思うんだが。
親子、兄妹の感動の対面は、それがメインの話でもないんで、そんな熱演されても別に泣けません。
で、ヨンジュがやっと解するのが、クライマックスの電車での場面。裸足のままその場を辞して電車に乗り込んだ彼女をエルビスが追いかけてきて、車両中探しまくる。「あれは妹なんだ!いくら僕が浮気者でも、妹と恋愛するわけないだろ!」と叫びながら。
ここで、初めて気づいたようにヨンジュったら「……妹?」と言うもんだから、私は、あの場で気づいていたとばかり思っていたんでビックリしちゃったんである。
そっれにしても、“電車中、彼女の名前を大声で叫びながら、事態を説明しながら、探しまくる”だなんて、もうここまで来ちゃうと少女漫画さえ飛び越えて、昔のアメリカ青春ドラマ、みたいだわね。いや大映ドラマか?まあ、どうでもいいけど、ハズかしいし、ありえないなー。
ま、そんなこといったら、徹頭徹尾ありえん描写は満載なんだが……。
そして、やっと彼女を見つけたエルビス、カッコイイ「アイラブユー」じゃなくて、気持ちの伝わる「サランヘヨ」で告白。彼女が欲しがっていた真っ赤でオシャレな靴をはかせてあげて、車両中のみんなが拍手喝采の中、“チュー”でハッピーエンド。

で、終わってほしかったんだよね、当方としては、出来れば。
この後、二人が結婚し、子供をもうけた描写が出てくる。緑豊かな小高い丘で、のんびりと散歩?してる。外国人のカップルに英語で話し掛けられて、流暢に返す二人。英語がテーマのお話だから、まあ、それでいいのかもしれないんだけど。
でもさー、ヨンジュ、25歳だったんだよね。わざわざそれを強調するように冒頭で言っていたんだよね。で、彼女に靴をはかせてあげる、なんてあれはやっぱりシンデレラでしょ?王子様と結婚して幸せに暮らしました、的な含みがあるんだよね。恋愛そのものじゃなくて、恋愛の延長線上の結婚がものすごく意識されてる。そういう適齢期みたいなこと言ってるみたいで、何か不満!んー、考えすぎなんだろうなー、私も。

ひたすらのアニメとのコラボはカワイイんだけど、どうもリズムをハズしまくってる気がして寒い……。ラストクレジットのNG集もねー、楽しそうな雰囲気は伝わってくるんだけど、韓国語が判らないせいか、見てるこっちはまったくもって面白くないんだよなー。★★☆☆☆


エターナル・サンシャインETERNAL SUNSHINE THE SPOTLESS MIND
2004年 107分 アメリカ カラー
監督:ミシェル・ゴンドリー 脚本:チャーリー・カウフマン
撮影:エレン・クラス 音楽:ジョン・ブライオン
出演:ジム・キャリー/ケイト・ウィンスレット/キルスティン・ダンスト/イライジャ・ウッド/マーク・ラファロ/トム・ウィルキンソン

2005/3/22/火 劇場(有楽町丸の内ピカデリー)
何の前知識もなく、キャストの名前だけで劇場に飛び込んだので、最初のうちはかなり???こういうタイプの映画の場合は、少しは知識を入れておいた方が良かったのかも。
そのたくましさが何よりの個性、こんなたくましい女優はいないし、たくましいからこそ、ほんのちょっとでも弱い風情を見せると、それがものすっごく際立って可愛く、はかなく感じられるのがケイト・ウィンスレット。そして最初のイメージがあったからこそ、ここ数年の繊細な役者としての持ち味にびっくり仰天、しかも作品選びのセンスが良く、自分の個性が活かせる作品がよく判っているジム・キャリー。ことにジム・キャリーの素晴らしさで語られるべき映画であり。彼は「トゥルーマン・ショー」といい、こんな風に、どこかファンタジックな味わいが入っていて、なおかつ人間の真理をつくような映画が本当に似合う。その中で彼は、これが不思議なことに、人間としての複雑で繊細なリアリティを実に絶妙に出してくる。その演技の味わいは、ハリウッド的なドラマティックさからは遠く離れており、どこか日本役者のような味わいさえ感じるほどなのだ。しかも、いい年になった。男として滋味のある色気の出てくる年齢。ここでのジム・キャリーは始終無精ひげを生やしていてうちひしがれっぱなしなんだけれど、それがとてつもなく色っぽく、ハンサムで、ビックリしてしまう。

作品解説にもあるように、逆転の発想のラブストーリー。逆回転ラブストーリー、である。そして始まりと終わりは同じ地点に戻ってくる。恋の始まりが幸せであったように、恋の終わりもその始まりの幸せの地点に戻ってくる。恋に終わりがあるとしたならば、それは失恋でしかない。愛に変わるのだというのは、実は当たってないんじゃないかとこの頃思う。愛になるのだとしたら、その中に恋が含まれているんであって、全部が愛になるわけではない、と。恋が恋のまま終わるのは、失恋しかないんだと。
でも、それはなぜ?恋の終わりは、なぜ恋を失うことしかないんだろう。
その疑問を、投げかけているように思えた。この映画は。それは恋の始まりの幸福を忘れてしまうから。そしてそれを忘れてしまった時、その恋全てがイヤになって、恋の思い出全てを忘れてしまいたいと思う。そしてそれを相手にも強要する。

例えば、恋人同士。女の子は、恋に思い出を求めない。男の子の過去の恋人のことを知りたくないと思う。あまつさえ、その男の子にもその思い出を投げ捨ててほしいと思う。写真や手紙をとっておくなんてもってのほか。そんなことは女の子にとって「アリエナイ」んである。
この物語が、女の子(という年でもないけど)が先に、彼の記憶を消したというのが、そういう女の子の恋に対する気質を表わしているような気がしてしまう。そして男の子(もっと、そんな年じゃないけど)が、女の子が自分の記憶を削除したことにショックを受け、それこそが原因で彼女の思い出を消し去ろうとしたことも、きっと過去の彼女の写真や手紙を捨てられない率は女の子より大きそうな男の子の気質を表わしているように思える。
この物語は、ケンカ別れしたカップルが、こんな風にお互いの記憶を消そうとして、でも(特に彼の方が)相手を忘れられなくて、そしてあの、恋の気分、幸せだった思い出の数々を思い出してもとのサヤに戻る、というお話なんだけど、ハッピーエンドはとっても心地いいけど、言ってしまえば別にヨリを戻さなくてもいいようにも思う。いや、この映画においてはこのヨリ戻しのハッピーエンドは必須なんだけど、客観的な見地で見た場合に。
つまり、思い出を否定しちゃいけないってこと。思い出、記憶、人間はそれによって形成されているものだから。

私は女の子好きだけど(つーか、私自身、いちおー女だけど)思い出を(特に彼に対して)否定することには抵抗がある。だってその過去によって成長してきた今の彼をまるごと、彼女が好きなはずなんだから。
まあ、この映画はそういう話ではないんだけど……恋っていうのは、つまりはイコール思い出なのかなって、思わず、思っちゃったから(思わず思っちゃったって、なんだろう……)。
恋は、現在進行形で語るものじゃないのかもしれないって。あんな楽しいことがあった、こんな切ないことがあった……思い出を、たどるもの。
今、現在進行形で恋をしている人たちには怒られるかもしれないけど、でも多分、そうなんじゃないかと思う。この物語が逆回転……だんだんと思い出の深度が深くなっていくのは、そんな気持ちをよりいっそう強くさせる。
だから、二人は、ジョエルとクレメンタインは今スタートラインに立ったのだ。
一度恋の思い出を葬り去った二人。
これからは、現在進行形にしていくために。

ある特定の記憶を消し去ることが出来る技術、というのは、それは今の医学の進歩なら確かにありそうだし、劇中の、複雑な機器やモニターに映し出された脳に光るポイントなど、これがなかなかにリアリティがあるんである。ま、ここでリアリティを感じられなかったら、それこそこの切ないラブストーリーのバックボーンがグダグダになってしまって興ざめなわけだから、ここは重要なところで。
でも、徹頭徹尾、リアルというわけではない。その絶妙なバランスこそが大事なトコなんである。ある一定の記憶を忘れるためには、その記憶に関するモノを全て揃えなければならないという。相手の写真、手紙、プレゼントの品、日記、エトセトラエトセトラ……それを目の前に置いて、思い出を頭の中にイメージする。それはなんだか暖かいアナログで、思い出を封じ込めたそれらのぬけがらは、次々に置かれるたびに、なんだかもう、とてつもなく、切ない。
そのモノ自体は、もう、死んでいる。そこから思い出される思い出だけが、キラキラと生き続けているのだ。
でも、モノはもう、死んでいる……。
恋の思いの矛盾が、ここにどうしようもなく露呈されている。死んでいるモノを介在しなければ、恋を実感できない。だから、恋は現在進行形ではなく、イコール思い出なのだと感じるのだ。

冒頭は、目覚めの悪いジョエルが、仕事をサボッて電車を乗り継ぎ、海岸に到着するんである。彼はそこで一人の女性と出会う。その彼女、クレメンタインとはやけにスムーズにいい段取りまで行く。ジョエルは躊躇気味なんだけど、クレメンタインの方が彼に積極的に動いてくる。
髪を青く染めた、なんだかやたらと元気なクレメンタイン。引っ込み思案風のジョエルはそれにとまどいながらも、彼女を家まで送り、誘われて部屋に入り、なんだかいい雰囲気になり、今度は自分の部屋に迎える、というところで不可解なコトが起こる。
歯ブラシを取りに戻った彼女、車で待っているジョエル、窓をこんこん、と叩く青年がいる。「大丈夫ですか?」青年は問う。「何かあったのですか」「なぜここに止まっているのですか」不可解なことばかり、青年は聞いてくる。
そこから、いきなり、ジョエルの記憶が飛んでしまうんである。きゅるきゅると記憶が巻き戻されていく。クレメンタインにバレンタインのプレゼントを持っていく。彼女はジョエルのことなど知らないという顔をし、傍らの若い男とキスをする。訳の判らないジョエル。彼の部屋に持ち込まれる機材、彼女とのケンカ、ラクーナ社からの手紙……。

クレメンタインはジョエルの記憶をラクーナ医院で消し去った。それを知ったジョエルも、クレメンタインの記憶を消し去ろうと決意する。
でも、ジョエルはその消し去られている最中、いや多分その前から、彼女のことを忘れたくなんかなかった。夢の中で、思い出をさかのぼりながら、彼女の記憶を消し去られていることに必死に抵抗しようとする。
クレメンタインがジョエルの記憶を消そうと思ったのは、彼のことがすっごく、好きだったから、だと思うのね。
それを知ったジョエルがクレメンタインの記憶を消そうと思ったのも、彼女のことがすっごく、好きだったから。
でもそれは、同じように見えて、やっぱりちょっと、男と女の違いが見える気がする。
辛い恋の思いを、辛ければ辛いほど、忘れてしまえば楽になると思ったクレメンタインと、彼女がそうしたことにこそショックを受けて、そのショック自体を忘れたいと思ったんじゃないかって感じのジョエルと。

この、自分で決めたこととはいえ、記憶を消されることに対して抵抗を続けるジョエルの脳内(というか夢)こそが、この映画のメインである。彼は彼女との思い出をさかのぼっていく中で、当然ながら彼女と出会う。不思議なことに、そこで出会う彼女は彼の記憶の中の彼女のはずなのに、全てのつじつまを合わせて考えれば……実際の彼女が、彼の夢の中に現われたのだ。
オープニングでありラストである、あの二度目の恋の始まりである出会いは、そうでなければ説明がつかない。
ジョエルの記憶を削除したことを、クレメンタインはゴメンね、と彼に謝る。そして、彼ともう一度出会うために、彼女と出会う以前の記憶の中に隠れよう、とクレメンタインは提案するのだ。

そうしてジョエルの脳内の旅が始まる。少年の頃、イジメられていた彼の手を引いて助け出してくれた小さな女の子や、彼の家で働いていたメイドにクレメンタインは扮する。無論、ジョエルもその当時の小さな男の子になる。
そのままの彼で、身長だけミニチュアになってシンクでおぼれかけたりするのが、ファンタジーいっぱいでなんとも楽しい。
そんな具合にジョエルは過去を……まるで踏まえておかなければならない自分の記憶をたどるように、クレメンタインと共に旅してゆく。
恋の思い出を逆戻りするだけではなく、ジョエルは自分の人生をもう一度見返していく。
ジョエルはクレメンタインに言った。退屈な人生だから、話すネタがない、と。
退屈な人生なんて、ない。人生は誰にとっても宝物。人生は思い出と、現在進行形の両方によって形成されているから。そのどちらも否定することは出来ない。

依頼を受けているんだから当然なんだけど、ジョエルの記憶を消そうと必死に追うラクーナのスタッフの手から、必死にジョエルとクレメンタインは逃れる。この脳内旅行は、忠実に記憶をたどっていながらも、「この記憶も忘れるのよ」などと真顔でクレメンタインが言ったり、記憶の消去という追っ手から必死に逃げているのを象徴するように、二人の周りの景色がどんどん壊れていき、それが本当に、ファンタジーなんだけど、リアルなスリリングで。
それは多分、かなりダークな照明と色彩だということもあるだろうし、人が思い出す記憶の中の風景って、確かにこんな感じなんだろうと思うところもあるから。
過去の思い出を見ているはずなのに、その相手が現在の時勢で話したりするとか。
出会った頃の記憶の中にいるジョエル。彼のチキンをつまみ食いする彼女が、「でも、この記憶も忘れてしまうのよ」そう、彼に言う。雪の中で転げまわったり、氷の張った池に仰向けに寝て星座を眺めたり、廃墟の別荘に入り込んだりする、恋そのものの描写も、すべてすべて、過去のこと。

でも、夢の中での約束どおり、もう一度二人は出会う。そのまま、新しい恋人同士としてはじめられればよかったんだけど、ラクーナ社の受付嬢によって、二人の過去があらわにされてしまう。
この受付嬢とお医者さんの、不倫のエピソードもなかなか切なく面白かったんだけどね。まあそれはおいといて。
受付嬢にしてみれば、良かれと思ってやったこと。彼女は記憶を故意に失うことが間違っていると気づいたから。でも二度目の新しい恋に落ちたジョエルとクレメンタインにとって、この身に覚えのない記憶に混乱することは必至であり。
でも、記憶削除しているはずだから全然知らないはずなのに、そう、あの受付嬢がもう一度同じお医者さんに恋してしまったように、ジョエルとクレメンタインが、お互いに記憶の旅の中でしめし合わせたとはいえ、もう一度恋に落ちたように、運命というものがきっと、あるんだよね。
記憶を削除するために、相手をワザと罵倒したテープをお互いに聞いて、うろたえてケンカしかけて別れかける二人に、ちょ、ちょっと待って!と焦ったのは杞憂。出て行こうとする彼女に決死の思いで「待って!」と声をかけ、お互いの気持ちをぎこちなく確認して、ぎこちなく笑いあう二人がきゅんと、切なく、幸福。

人は思い出を忘れてはいけないんだよね。それがどんなに辛い思い出でも、それによって自分は生かされているのだから。★★★☆☆


エノケンのとび助冒険旅行
1949年 81分 日本 モノクロ
監督:中川信夫 脚本:山本嘉次郎
撮影:河崎喜久三 音楽:早坂文雄
出演:榎本健一 ダイゴ幸江 花島希世子 旭輝子 中村平八郎 北村武夫 田島辰夫 甲斐三雄 生方賢一郎 柳文代 曽根通彦 弘松三郎 木下万平 川上正雄 菊川修一 野津伸一 里見圭子 若原きみ江 松本ひろみ 春山美弥子 栗原節子 小比賀幸子 久保春二 大谷友彦 木場福地 倉橋亨 寺島新 伊藤健 小坂眞一 山川朔太郎 小高まさる 谷三平 徳川夢声 (ナレーション)

2005/11/24/木 東京国立近代美術館フィルムセンター(東京フィルメックス 中川信夫監督特集)
このチープさは確信犯的と判ってはいながら、さすがに時々いたたまれないものがあるなあ……(笑)。そもそもが、徳川夢声のナレーションによって(贅沢!)語られる、昔話、しかも紙芝居、みたいな趣だから、確かに確信犯的ではあるんだけど、彼らを待ち受けるワニやらヘビやらが思いっきりハリボテで、しかも動きがテキトーなんだもん(苦笑)。演者がそのハリボテの動きを待って演技を開始する、みたいなのが判ると、もう見てるだけでハラハラしちゃうもの。

ま、これはエノケンの豊かな表情の変化と身軽な体のこなしを見るべき作品であり、いわゆる子供に語って聞かせる道徳的な部分はどーでもいいのかもしれないけどさ。それにしてもお約束的に、彼が驚くと何度も何度もちょんまげがキューッと逆立って、それに合わせてウギャッという顔をするエノケンには、その何度もがあまりにしつこいので、途中またか……とか思いつつ、それを乗り越えると、やっぱりまた笑ってしまうという、これも確信犯的なんだろうか……うーむ、なんか私中毒症状起こしてるぞ。

エノケンが演じているのは人形劇芝居の男、とび助。冒頭、子供たちに話して聞かせるお話「ウサギとカメ」の時点でものすごいはしょりっぷりで、オリジナルの原型をとどめずにテキトーに終わらせちゃうあたり(それで子供たちがおもしろーい!とか言ってるあたり!)あまり頭がいい男とは思えず(笑)、その後、岩で頭をブン殴られてどうも頭が悪くなっちゃった、とか言っても、大して変わんねえんじゃねえの、とか思ってしまうわ(笑)。ま、このことで、元来すんごいくすぐったがりやなのが、ちっとも感じなくなってしまった、というオマケもついているんだけど、それもかなりナンダソリャ!だよねー、あはは。

そんなことになってしまったのは、とび助の紙芝居をぼんやりと見ていたお福という女の子が、彼にどこまでもどこまでもついてきて、そうこうしているうちに悪い男にさらわれそうになっちゃったもんだから、最初は追い払っていたエノケンがこの子を助けようとして、ブン殴られてしまった、というわけ。この悪い男がどういう理由で出てきたのかがまるで判然としないんだけどねー。ま、エノケンがブン殴られるために出てきたってだけだよね、きっと。こういうご都合主義はその後もいくつか出てきて、あれ?あの人は何のために……とか思うんだけど、そういうのを考えてはいけない、いけない。

それにしてもさっき言ったハリボテもそうだけど、そう思いっきりハリボテが登場するぐらいだから、もう背景から思いっきりカキワリなの!私、ここまで思いっきりカキワリの映画は初めて観たよ。絵に描いた塀に、絵に描いた木に、絵に描いた石なんだもん!いやー、ビックリした。だからこれはホント、紙芝居なんだよね。それでいいんだよね。
お福ちゃんはお母さんと離れ離れになってしまったのだ。そしてとび助はこんな頭になってしまって、するとお福ちゃんは、お母さんの故郷である日本一のお山のふもとには、黄金の果物がなっていて、それを食べるとどんな病気も治り、利口になるという。ならば、とお福ちゃんはお母さんに会いに、とび助はこの頭を治しに旅に出ることにする。苦しく、辛い旅になるのよ、とお福ちゃんは冷静に言うも、とび助は二人で行けばそんなのヘッチャラさ!と旅の道行きを決意。

お福ちゃんは冷静っつーか、笑わない子なんだよね。徳川夢声のナレーションによると、笑いを忘れた女の子、ということらしい。それはこの戦いばかりで荒れ果てた京都の町で、お母さんと離れ離れになって色んな辛い思いをしたからなのか、でもラスト、お母さんに会えても、とび助の頭が治っても、「いつか笑顔を取り戻すに違いないでしょう」とナレーションで言われるだけで、彼女の笑顔は最後まで見ることが出来ないんだよね。なんかそれが、こんなアホみたいなカキワリの、道徳的な紙芝居なのに、妙にシニカルに思えちゃって。
この時代の子役だから、そんな上手いって演技はしない、かなりボー読み、ボー立ちだったりもするんだけど、笑わないけどよく気がつく、賢く取り乱さない落ち着いた女の子、それだけになんだかいたいけで……っていう雰囲気を、この名前のとおりふくふくのほっぺにおかっぱ頭の小さな女の子が醸し出していて、このカキワリだらけの世界の中で、彼女だけがリアルにさえ見えてくるんだよなあ(エノケンは、だって、もう全身フィクションだからさ……)。

旅の途中、彼らはさまざまな人に出会い、さまざまに怖い体験をする。最初に出会う、ガンコ坊とふらふら坊は軽いジャブだったけどちょっとウケる。この旅にふらふらとついていきたいふらふら坊を、俺はここから動かん!と頑として立ち上がらないガンコ坊に、そう言われるたび「そうだよね……」とばかりに意志弱く引き返してくるふらふら坊の、これもまたしつこいくらいの何度ものお約束につい、笑ってしまう。うぷっ。
ここでね、とび助とお福は「がっかり沼」っていう沼にはまっちゃうんだけど、ふらふら坊は逃げ出してしまって助けてくれない。そこに向こう岸から美人のおネエちゃんが現われて、まあ大変!とばかりに引き上げてくれるんだけど、このおネエちゃんがね、なんでここにいたのかが、まるで説明されないのよ。えー!?結構な美人女優さんだったよ!?私は絶対この後1エピソードあると思ったのに、「がっかり沼に入り込んでも二人はがっかりせずに、旅を続けました」ってしれっとカットを変えちゃうんだもん。オイオイ!って感じよー。ご都合主義なら、あんな美人出してこないでー!

まあ、それは私が美人に弱いだけだ……次行こう。次……えーと、次はなんだっけ。とにかく二人は色々とコワい目に遭うのさあ。そこはそれ、中川信夫だから、夜の闇の中や、深い深い深ーい穴の中でのそうした“怖い世界”はさすが真骨頂で、本気で怖ええのだが、なんせエノケンがあのウギャッ、って顔で逃げ回るもんだからさあ(笑)。
あ、そうそう、次を思い出した。意地悪兵衛って男に道をふさがれるの。コイツは人の嫌がることをしたいから、道を通りたいと言うとふさぎ、じゃあ通りたくないと言うと通してくれようとするんだけど、それで通ろうとすると「通りたくないのになぜ通る!」と……とび助、頭を抱えてしまい、この意地悪兵衛をお福ちゃんはじっと見つめる。さながらにらめっこのように。お福ちゃんは笑うことを忘れているからじっとじっと見つめ続け、意地悪兵衛は別ににらめっこをしようと言われたわけでもないのに、笑いをこらえるのに必死で、目をそらしてしまう。と、奥から仙人みたいなおじいさんが現われて、わっはっはとばかりに、子供の純真さにはかなわんのう、とか言って、二人を通してくれる。……それなら最初から通してくれよ……しかもこのことで意地悪兵衛のひねくれた心が治ったのか、くねくね道がまっすぐになってるし!っていうか、このくねくね道も、床にくねくね書いてるだけだから、それを無視してまっすぐ歩けるよな、と見てるこっちは思ってしまって思わず苦笑なんだけど。

中川信夫的は、その次あたりからふつふつと展開してくるんですな。深い深い穴の中に落ちた二人、人間の子供たちに殺され続けることを恨む土グモの精が現れる。深い闇の中で、必死に助けを請うとび助の周りを、蜘蛛の糸を揺らめかせながらブキミに舞い踊るその様は異様な美しさで、ああやっと中川信夫が来た!とゾクゾクする。しかしエノケンだからさー、「私は決して蜘蛛を殺したことなどありません。小さな虫が大好きなんです。ダニやノミも大切に飼ってるんですよ。(ボリボリと身体を掻いて)カユイカユイ……ホラね!」って、だ、脱力ー!

横穴を掘って逃げようとするとそこから水が出てきちゃって、二人はあわやドザエモンに。しかしそこでお福ちゃんのお守り袋が登場し、その中から出てきたのが閉じ込められている扉の鍵っていうのは……そりゃいくらなんでもご都合主義にもほどがあるのでは……だってなんでお福ちゃん、ここの鍵を持ってんのよ。この穴に落ちることを想定してるってのにもムリがあるし、何より、ここの鍵を持ってるってことは、この土蜘蛛さんと何か関係でもあるわけ?違うよねー、ワケ判らんな。ここを脱出できる理由ってだけじゃないんだろうか……それとも彼女のおっかさんが娘の試練を見越していたとか……いや、ムリがあるな……。

まあ、そんなこと言ってると終わらないから、次、次。次のエピソードが最も中川信夫的だったな。夜遅く歩いている二人を、危ないからと呼びとめ、宿を提供してくれた美人のお姉さん。しかしここでアッサリ好意に応じようとするとび助にお福ちゃんが首を振り「土蜘蛛に時間を取られたから、先を急ごうと言ったのはだあれ?」と睨み、とび助がうろたえるのが面白いのよねー。だって多分、とび助は、この美人のお姉さんにちょいと鼻の下を伸ばしたに違いないんだもん。あ、でもね、旅の最初の方に、本当に親切心で宿を提供してくれた見張り番の若い衆の屋敷(美人姉妹が四人!)とかもあったからさ。そういやそのエピソードを書き漏らしたな。あの着ぐるみ状態の熊とかちょいと可笑しかったのに。まあいいや。

んでっ。お福ちゃんは直感があったのか判らんが、このお姉さんこそが鬼だったってわけなのだ。ブキミな音と障子に映る影はまさしく包丁をといでいる姿!先ほどまでの優しげな笑顔はどこへやら、妖艶とも思えるような恐ろしいメイクの、ざんばら髪の彼女が障子をスッと開けて現われる場面には、うひゃあ!中川信夫だーッ!とゾクリ!必死に逃げる二人を空を飛んで追いかけ回すのも、悪夢に出てきそうで本気で怖い。でもお福ちゃん、ここは実にクレバーな働きをし、いったんは自分に鬼をひきつけておいて、鬼を相手に鬼ごっこをし、橋のたもとまで誘導して向こう岸から「鬼さん、大きくなってごらん」あれ?これってまるで、……あったよね、この逆バージョン。小さくさせてびんの中に閉じ込めちゃうってやつ。なんだっけ、あの話は……まあいいや。とにかく大きくなった鬼が橋を渡ろうとすると、その重さで橋が壊れて、川底へと落ちていってしまう。とび助はお福ちゃんのお手柄に大喜び、だけど、二人は壊れた橋のこっち側とあっち側に別れてしまった。互いに声を掛け合いながらふもとで会おうとしたんだけど、出会えない。お福ちゃんは「いかさま町」という、ならずものばかりの町にかどわかされてしまったのだ。

まあ、この「いかさま町」もかなりヤッツケという感じなんだけどね……町には得体のしれない人たちばかり、というナレーションと共に、“得体のしれない人たち”を一列に並べ、その中をエノケンがお福ちゃんを探してエイサコラサと駈けていくんだもん。まあそのバカバカしさがイイんだけどさ。お福ちゃんは見世物小屋に捕らえられている。見世物小屋ってあたりが中川信夫的だが、この時点ではまだそれは紙芝居的な明るい日の光りにさらされている。ろくろっ首のお福ちゃん。ああ……こういう風に見世物小屋のろくろっ首ってのは演出するのかと、バカバカしいわあ、と思いつつも何気に勉強になったりして。このいかさま町で唯一正直者ゆえにバカにされている力持ちの男が二人を気の毒に思って助けてくれて、何とか彼らはこの町を脱出するんである。

で、次が死の谷、である。ここがねー……ハリボテ満載で見ててハラハラするのよ。しかもオチが、オチっつーか、朝になってみると、あんなに怖いバケモノに見えていたものが、全て木や岩なだけだったっていうんだから、これもまた道徳的ですな。いわゆる、幽霊の正体見たりなんとやらだよね。せっかく中川信夫的な妖しさが展開されかかっていたのに、かなりどーんと落ちつつも、まあつまり、二人が弱い心に打ち勝った時に目的が達成される、最初にお福ちゃんが言っていた、「(黄金の果物を)本当だと信じていればきっと本当になるとお母様はいつも言っていた」ってやつが、達成されたわけなのだ。

もう、唐突にカット変わってお母さん現われちゃうし。親子、感動の再会、って、お母さんはあんな厳しい道のりをこの子が乗り越えてやってくることを信じて、探しにも出なかったのか……多分それはここで追及しちゃいかんのだろうな。いや、それも、信じる心だっつーことで。とび助も黄金の果物をむさぼり、めでたく頭もくすぐったがりも復活。お福ちゃんと別れるのが辛い……とつぶやくも、この極楽でお福ちゃん親子と暮らすことになる、というナレーションで終わる。それって、この美人のお母ちゃんと夫婦になって、お福ちゃんのお父ちゃんになっちゃうっていう含みかしらん、などと思うのは、大人の勘ぐりすぎかしらね。

ジャズ評論や映画のアーティスティックなポスターで敬愛している野口久光が製作、黄桜のカッパ画で有名な清水崑が画案(つまり、絵コンテ?)で名前を連ねているのが面白い!あのカキワリチックな紙芝居的二次元図は、清水氏の起用だからこそなのね、きっと。★★☆☆☆


エリザベスタウンELIZABETHTOWN
2005年 123分 アメリカ カラー
監督:キャメロン・クロウ 脚本:キャメロン・クロウ
撮影:ジョン・トール 音楽:ナンシー・ウィルソン
出演:オーランド・ブルーム/キルスティン・ダンスト/スーザン・サランドン/アレック・ボールドウィン/ブルース・マッギル/ジュディ・グリア/ジェシカ・ビール

2005/12/2/金 劇場(有楽町日劇1)
オーリーなんて呼ばれてる現代のアイドル俳優とか思ってたから(すんません……)、タイトルやテレビスポットからじゃ今ひとつ内容もつかめなかったし、観る気なかったんだけど……優しげなラブストーリかな、ぐらいに思ってて。
いやー、すんません、ホントに。素直に、イイ映画だと思えたわ。優しさに溢れてて。胸がいっぱいになっちゃった。

主人公の仕事における大失敗、父親の突然の死と葬儀、そしてその旅の途上で出会った女性とのやりとり……最終的には愛が実る形となるこの彼女とのラブストーリーだって、愛というより優しさが結実したように感じられたのが嬉しかった。なんかね、「恋人たちの予感」みたいな関係の先にあるハッピーエンドだったから。途中、お互いに惹かれる気持ちを制御できなくなってキスしかけるんだけど、でもそれを抑えて、「危機を乗り越えたわね。これで私たち永遠の友達でいられるわ」。というシーンが好き。
「永遠?」それは嬉しいけど、ずっと友達なのか……という表情を彼はするんだけど、でもこの局面があったからこそ、二人の関係はより深い絆で結ばれるように思うのだ。

友達と恋人と、どちらが愛しいかというのは古今東西大きな問題だ。
理想的なのは、こういう形だと思う。恋の前に友情があること。いつかこの二人の恋が破れることもあるかもしれないけど、その時にもお互いを大切に思う関係は切れないこと。そして、恋が大きな優しさに包まれた愛になった時、そこに今まではぐくんだ友情が大きく含まれて、絶対に離れない関係になること。はああ、理想だなあ。
それは、友達よりも恋人よりも尊い形。その形に二人は理想的に踏み込んだと思うのだ。

なんて話は後にしよう。冒頭、オーリー君演じるドリューは「僕は大丈夫(アイムファイン)」を繰り返しながら会社へと入ってゆく。全然、大丈夫なんかじゃない。皆の視線は冷たく、そして優しい。彼曰く、「最後の視線」である。“彼を見るのは最後”の視線。靴メーカーに勤める彼は、デザインした靴が市場でこっぴどくこき下ろされて返品の山を作り、社長(アレック・ボールドウィン。太ったなー!!)言うところの「中規模の文明国の年間予算に当たる」10億円の損失を出してしまったのだ。いつもは天才的な市場の読みを発揮する社長のカンが狂った、てなことではあるんだけど、デザインしたドリューが自分勝手に作った、みたいな空気も広がっていて、彼も会社ももうダメって雰囲気である。
「世の中には失敗と大失敗がある。失敗は人間なら誰でもする。だけど、大失敗は……」えーとなんて言ってたんだっけ(笑)。ともかくこんな禅問答みたいなことを彼は胸中でしょっちゅうつぶやいてて。この会社でのモットーは成功ではなく、偉業をなしとげることだった。でも真の勝者は、偉業ではなく、冒険をせず、無難に成功する人のことなんだと、彼は自嘲気味につぶやく。

もう、死ぬ気で。いかにもエリートサラリーマンって感じにいろんなものが溢れてた家中のものを全部戸外に出し、エアロバイクだけを(こーゆーものを持ってるあたりエリートサラリーマンよね)ぽつんと部屋の中に残して、そのバイクにキッチンナイフをガムテでぐるぐる巻きにし、漕いだらそれが胸をつくように作り上げて……ってあたりがかなりバカバカしいんだけど、悲壮感に溢れる彼は、その自殺マシンにかなり本気らしい。
しかしそこに電話がかかってくる。無視しようとするんだけど、しつこくかかってくる。しかもキッチンナイフはぽてっと外れちゃうし。
それは、父親が帰っていた故郷で突然死んだという妹からの知らせだった。
ドリューに長男として行ってほしい、という。母親は自分は絶対に行けない、と動揺していて、妹はそんな母親についているから、と。
長男として、父親の遺志のとおり遺灰を持ち帰り、海に撒く。それをまっとうしてからあのバイクに乗ろう。そうドリューは考えて、ダークスーツをさげて飛行機に乗り込むんである。

と、その飛行機がガラガラなわけ。田舎町に向かう便だからなのか、見事に誰も乗ってない。
話しかけてきたフライトアテンダント、「ありがとう。あなたが乗ってくれたおかげで、会社も私も首がつながったわ」どうやらかなり崖っぷちの航空会社だったらしい。
「私は疲れてるし、ここまで歩いてきたくないの」などと言って、ドリューをファーストクラスに案内する彼女。そして今は正直誰とも話したくないドリューの横に座り込み、延々と話をする。
いねーって。こんなスッチー。でも確かに客が一人だったら、そして彼女なら……するかもな。
でもファーストクラスには後ろに一人いたように見えたけど……気のせい?(ぞぞ)

クレアと名乗る彼女。ドリューの向かう先は彼女の故郷。詳しいのだ。ドリューの両親は旅先で運命的な恋に落ちて結婚した。その時父親には婚約者がいたから、母親は彼の故郷に恨まれている、とこの土地に寄りつかなかった。ドリューは父親に連れられて何度かバカンスで来てはいたけれど、それも小さな頃の話だ。
ビギナーは判りにくい道で迷うに違いないから、と彼女は地図を描いてくれたりする。
そして姓名判断の話やら……名前でその人となりが判るのだと。「お父さんの名前は?」「ミッチェル」「ミッチと呼ばれてなかった?」彼女はズバリと言い当てる。「皆に愛される名前よ」
「ところで、お父さんは元気?」あいまいにうなづくドリュー。でも、彼の持っているダークスーツで、彼女はミッチが死んだことを悟るのだ。

飛行機が到着し、たった一人の乗客にクレアは最後まで名残惜しげに手を振る。「60のBよ!」車で降りる出口を何度も連呼する。
ドリューがふと、彼女の手渡した地図を見ると、60Bと書かれたヨコに、携帯の番号が書いてある。
クレアは彼をひと目見た時からもうゲットモードに入っていたんだな(笑)。
でも、今の彼はそんな心境にはなれない。あれほど60のBと言われていたのに散々迷い、ようやく「エリザベスタウン」への道を見つけるんである。

この街に着いた時がね、もう本当に感動的なの。
街中が、ミッチの死を悲しむ気持ちであふれてる。
でもそれでいて、沈痛な感じじゃないの。皆が愛するミッチを暖かく思い出している、悲しいけど優しくて幸せに満ちた空気なのだ。
ドリューが車で街に入ってくると、もうみんな気づくのだ。あ、ミッチの息子が帰ってきた!と。みんな手を振り、そして教会までの道をこっちだよ、と指し示してくれる。路地を曲がっても曲がっても、みんなそうなの。これが……打たれちゃうんだよなあ。
集まってくれた人たちに長男として何と言っていいか判らず、「ご愁傷様です」などと言ってしまい、「それはお前が皆に言われることだろ」とイトコから突っ込まれる。ちょっと、笑っちゃう。
父親の死に顔は、とても穏やかで、今にも笑って起き出しそうに見えた。
「変わり者。それが一番ピッタリくる」そんな風に話しかけると、その口元がニコッと笑ったような気がした。
ドリューは父親と本当に仲が良かった。小さな頃、友達のようにじゃれあっていたことを思い出した。

ミッチを悼むために集まった人たちは本当ににぎやかで、そして誰も彼もがドリューが帰ってきたことを抱きあって喜んで、膨大な写真を見せてくれたりして。彼の家の、代々の写真がズラリと飾られてる。血を受け継いだ者は、皆ここに貼られるのヨ、と言い……ドリューは今まで知らなかった、大事に築き上げられてきた家の歴史をじっくりと眺めている。
ところで、彼が仕事で失敗したことはまだ世に出ていない。故郷一番の出世頭である彼、しかもその町にはシューズマニアなぞいて、彼を尊敬しててサインを求めてくるのだ。
彼の開発した、つまりは失敗した靴の大ファンだと。
笑顔でヒーローを演じ続けるドリューは、まだ父親が死んだことを哀しむ余裕はない。

皆は本当にあたたかいんだけど、ただドリューは悩んでいた。ここでは土葬が主流。でもミッチの遺志は遺灰を海に撒くこと。それを告げると皆それはそれは悲しそうな顔をするのだ。だってもう何十年も前から、ミッチのための墓をあけていたんだもの。
ドリューはホテルに滞在している。孤独が押し寄せる。誰かかけてきてくれ、と片っ端から電話をする。ホテルはチャックアンドシンディというカップルの結婚前夜で盛り上がっていて、それは彼をもっと孤独に落とし込む。かかってきた電話はまず妹。母親が料理を始めた!どうしよう、兄さん帰ってきて!なんだそりゃと思うんだけど、とにかく取り乱しているらしい母親は、動いていないと気が休まらないと、ハイテンションでずっと料理をしているんだという。次にかかってきたのは彼の恋人“だった”ナンシー。会社の同僚で、こたびのことで彼を最後の視線で送り出した一人だ。「さよなら。でも誤解しないで。そういう意味じゃなくて、ただ、さよならってことよ」思いっきりそういう意味だろ……と思うあっけない会話で終了。そしてこの二つの電話を行ったりきたりしている間に、最後まで根気よく待ってくれたのがクレアの電話だった。
「ようやく私の番が来た?」そうくったくなく言ったところから、二人の会話は流れ出す。

この物語のひとつの見どころである、夜を徹したおしゃべりなんである。まるで飽きずに、トイレの時も切らずに。「一緒にビールを飲まない?」そう言ってドリューは部屋の外に出て、結婚前夜で盛り上がっている“チャック”の部屋からビールを一本失敬すると、その本人にバッタリ!父親の葬式のために来ているんだと言うと、もういっきなりチャックは涙を浮かべ、まだドリューは泣いていないのに(笑)、彼を何度も抱擁し、その度にガウンのポケットに突っ込んだビールがガチャガチャといい(笑)、クレアの電話にも出て「愛してるよ!」と言う始末……笑ったなー、このチャックの単純ないいヤツっぷりには!かなりのぶちゃいく君なのだが(笑)、愛すべき人物。
そういやあね、後にクレアはこの結婚式のために集まった若い仲間たちに巻き込まれ、その女友達たちにスッカリ気に入られちゃうんだよね。この雰囲気もとてもイイんだよなあ。皆で祝おっ!みたいな。で、「もう、あなたって最高よ、クレア!」とまで言われてる彼女が、同性にも好かれるサッパリした気性だってことも、とても好感度なのよね。

話が脱線しちゃったけど……もう夜も明けるし、このまま話し続けて、一緒に日の出を見ないかってことになる。本当は、電話で話してるだけでこんなに楽しいし、会わない方がいいのかも、なんても言っていたんだけど、でも車で反対方向からお互い走ってきて、「ライトが見えた。赤い帽子をかぶってる」……と、お互い顔が見える距離まで電話で話しながら近づくのが、ドキドキする!
クレアが笑って、「もう切る?」なんて言うのもね!
そして、二人並んで座って日の出を見る。「もう話もつきたわね」って言うんだけど、でもその沈黙もまた、気まずくなくて、心地いいの。まるでずっと昔からこうしていたみたいに、近い距離を感じる二人。

次の日のフライトの後は休暇を取ってハワイに行くことになっている、というクレアに、「いつ戻る?」と問うドリューに電話の向こうでヤッター!ポーズを作ってたクレア。ホントにノリノリにゲットモードだったのね(笑)。なので、一旦別れて仕事をこなし、ハワイで過ごすはずだった休暇を返上して彼の元に戻ってくる。徹夜明けで、そして親戚たちとのやりとりでお疲れモードの彼の電話に、「もう私に飽きちゃった?」なんて言って、「今、キュートな男を追っかけてるところなの」などと言い、焦る彼の後ろに回って目隠しをする。いやー、クレア、もうなりふりかまわずだなー。でもそれがイヤな感じがしない。積極的な彼女は人懐こくて、とてもチャーミングなのだ。キルスティン・ダンストは顔コワいけど(笑)。

ドリューは、最後の視線を見分けるのが得意だと思っていた。でもクレアに、また最後の視線だ、などと思うのに、彼女は何度となくその予想を裏切って、彼の前に現われるのだ。彼女だって崖っぷちの会社のフライトアテンダントなのに、とてもポジティブで、……惹かれない訳がない。
でも、この大切な友達、になった関係を壊すのも怖かったのは、多分二人とも同じで……あのキス回避の場面があったりもするのね。
アイスクリームの恋はゴメンよ、5分でとけてしまうから、などとクレアが言うのが実に象徴している。
二人が父親の遺灰を入れる壺を選んだりする場面は、その場所自体はかなりシュールだけど(笑)いかにもデートって感じだし、店主がおいおい、みたいな表情で見ているからさー。

あのチャックアンドシンディの結婚式会場に前夜紛れ込み、ガランとした会場で酔った勢いか、「あなたが好き!」とマイクで大絶叫するクレア。もうドリューも彼女にキスすることがガマンならなくなっちゃって、……だってクレアは、ベンという学者バカの恋人に翻弄されているみたいだし。
でもどうやらこのベンの話もカタリだったらしいんだけどね(笑)。いやー、なりふりかまわずだなクレア。
まあ、そんな感じで二人はついにベッドイン。朝、眠りこけてさっぱり起きないドリューに苦笑してクレアは部屋を出て行く。やっと気づいたドリューが追いかけてくる。クレアはまたも後ろ背中で「やった!」の表情(笑)。でもドリューが口にした言葉は、彼女が待っていた言葉じゃなかった。

「君に言っておかなきゃいけないことがある。僕は有名な会社をつぶしてしまったんだ……4日後(だったかな)には新聞に出て知られる。街の皆には成功した男だという期待を裏切りたくなくて、笑顔ですごしていたけど……」
クレアは、「私と別れるのが辛いって言ってくれるのかと思っていたわ」と言う。「そんなことなの?」と。
そう、そんなことなのだ。クレアにとってじゃなくて、クレアが言いたいのは、あなたにとって、ってこと。あなたはこれは単なる失敗じゃない、大失敗だ、って思ってるんだろうけど、って。偉業を成し遂げる人は、やらかす失敗もデカいけど、それを乗り越えるんだって。
これを言うのが彼女じゃなかったら、ドリューは憤るだけだったろうけれど、クレアはもうこのたった数日でドリューのこと全て理解してくれていたから、彼女は他の誰とも違ったから、だから……。
「君と別れるのはつらいよ」「なぜ別れようとするの?まだつきあってもいないのに」「……」何もかも諦めようとしているドリューを見透かすようにクレアは言うんだけど、この時のドリューにはまだ前に踏み出す勇気がない。

クレアはミッチの葬儀パーティーにも来てくれる。そこでドリューに「特別な地図」をプレゼントし……今度こそ、「最後の視線」だと思ったのだけれど。

このパーティがもう最高に感動的なの。ミッチの友達たちが、絶対に泣かない、皆で楽しく見送ってやるんだ、と決めて開かれた葬儀。そこに母親がね、意を決してやってくるのだ。母親は怖かったのだ、ここに来るのが。愛する夫がとても愛している故郷だって判ってたから、ちょっと嫉妬の思いもあったかもしれない。そして街の人々も彼のことが大好きで、つまりは彼と街とは相思相愛で、彼を婚約者どころか街の皆から奪った女として恨まれているんじゃないかと思っていたから。
こんなカワイイ心境の母親を演じるスーザン・サランドンが、愛しくて最高なの。
だってさ、壇上でミッチの思い出を語る友人たちは彼女に敵意を燃やしてるのがロコツだったんだもん。ミッチをカリフォルニア(にいたのは短い間だったんだけど)なんぞに連れてっちゃった(と思ってる)彼女に、恨み節のおじいちゃんとかもいたしさ。でも二人の子供に支えられて壇上に立ち、ミッチとの出会いから語り始めた彼女に皆がいつしかひきこまれてゆく。

ユーモアが好きで、皆を笑わせるのに長けていたミッチと自分はまるで違う。という劣等感もあって、コメディスクールに通い始めた、なんて言うと、みんな大爆笑。
そのコメディスクールの甲斐あってか、かなりおゲレツな下ネタのオチにも大ウケ。
それは、ミッチの死を哀しんでくれていたと思っていた彼の友人が、彼女と抱擁したら……勃ってたってヤツだったんだけど。オイー!
でもそれがね、ただの下品な下ネタじゃなくて、彼女はミッチの死を哀しんでいる人がどこにもいない、と思って、ようやく一人いたと思ったらまた裏切られて、でもこの街に来てみたら皆が哀しんでくれてる。それが嬉しかったって。
そして覚えたてのタップダンスで思い出の曲、ムーンリバーを踊る。皆の大喝采。この場面がね……娘も号泣だったけど、もう、なんだか涙が止まらんのよ。胸がいっぱいになっちゃって。

その後、ドリューのイトコ率いるバンドによる、アメリカの古きよき時代をほうふつとさせるような、しかしノリノリのロック!更に会場は、おじいちゃんも若い頃を思い出してこぶしを突き上げて大盛り上がり!しかしまるでミッチが天国に飛んでいくのをほうふつとさせるような、白い大きなハリボテの鳥が飛んでゆく、という凝った趣向がどこで間違ったか、火ついちゃって!おいおい火の鳥ッ!聴衆は逃げ惑い、スプリンクラーが撒き散らされもう大混乱!でもそれも、最後まで涙のない葬儀としてミッチにふさわしかったかもしれない。クレアが「私は客室乗務員です!」と皆を誘導する。ズブ濡れになったドリューとお互い目を合わす。その時ドリューは、またしてもそれを「彼女の最後の視線は、彼女らしかった」などと思うのだけど。

ところで、火葬と土葬の価値観の違いも興味深いんである。
ドリューがミッチを火葬にすることに、親戚を始め街の人たちは実に哀しそうな顔をするんだもん。「カリフォルニアでは80パーセント火葬なんだ」暑いからねえ……。日本も蒸し暑いからなのかな。
やはり姿が失われることへの拒絶感があるんだろう。
でも、遺“灰”にまでしちゃうのがアメリカだが。
一度はドリューも火葬を思いとどまって、「その火葬、待ってくれ!」と夜半駆けつけるんだけど、もうその時にはミッチはドリューが用意した壺に収まっちゃってる、のがなんか哀しいというか可笑しいというか。
故郷の人たちの意向を汲んで、スーツと思い出の品を棺に入れて“土葬”の儀式も行なうんだけど、棺がスムーズにおりていかなくてガックンガックンいっちゃって、母親が思わず吹き出したのを合図のように、みんな和やかに笑うところもいいんだよな。最後まで、悲痛にならなくって。

ドリューはクレアがくれた地図をひろげ、車で帰り道をゆく。すべてが終わった。あのバイクに乗るんだと、まだ彼は思っていた。でも、クレアがくれた“特別な地図”は、彼女のチョイスしたCDを聞き続け、小さなメモリアルな場所を丁寧に訪れる、心を洗い流す旅のツアーガイドだったのだ。
彼女の座右の銘であり、監督の、そして本作の言わんとするところである、つまりは、ノーミュージック、ノーライフってやつである。ジャズ、エルビス。音楽の国、アメリカなんだから。
ドリューは彼女の指示に従って、風を感じて音楽を聴き、エルビスの町を訪れ、老舗のカフェの親父さんの話を聞き、キング牧師の最期の場所のモーテルを訪れ、歴史ある大木に触れる。そしてこれまた彼女の指示に従って片手を振り上げて踊りまくり、ここで思いっきり泣き……それはなんと自分の記事が出ている経済誌を手にした直後で、彼女の慧眼には恐れ入るんである。
その間、彼は助手席に乗せたミッチ(壺)に、まるでそこに本当にミッチがいるかのように、ずっとずっと話し続ける。
本当に、まるでミッチがそこにいるみたいに。
そして様々な場所で遺灰を撒き、少しずつミッチに別れを告げてゆく。

故郷を、そしてそこに刻まれた歴史を愛している彼女。
一歩間違えればホント、かなり余計なお世話だが……彼女の優しさでもあり、それ以上に最大の賭けだったんだろうとも思う。彼が自分の価値観で立ち直ってくれるか。ただ打ちひしがれていたドリュー。彼女曰く、音楽を人生から切らしちゃダメなのに、彼はそれを忘れてて。
でも、ドリューの家がゴールじゃないの。そこに彼女の賭けがある。途中、世界第二位だというファーマーズマーケットに立ち寄らせる。ドリューが心血を注ぎ、そして失敗したあの靴の中にメッセージが入ってる。「赤い帽子の女性を探して」と。赤い帽子、いつもクレアがかぶっていた!でも、赤い帽子の女性、沢山いるのだ。彼は、必死になって探す。「最後の視線」をことごとくそうではないと、彼に対してあきらめずにアプローチしてくれたクレア。今まで自分は、逃げ腰だった。彼女に惹かれながらも。
そして、ついに、もう何度目の再会?これが最後の再会だよね。そして彼女の視線はいつだって最後なんかじゃなかった。
抱き合う二人に、ああ、ハッピーエンド、しかも女が主導権を握り、勝者になるハッピーエンドはスッキリするなー、と爽快である。

あのロックかぶれのいとこ殿のエピソードも面白かった。父子家庭で、子供と友達のような関係を築いている彼、でもこの息子がかなりの悪ガキで、ところかまわず奇声を発し、落ち着かず、イタズラばかりするもんだから、「親のしつけが足りない!」「親と子供は友達にはなれないんだ」と周りのおじいちゃんたちからキツく言われるのね。でもドリューも多分、ミッチとまさしくこんな関係だったと思うんだ……と思って。ところでこの落ち着きのない子供たちを黙らせるための「教育ビデオ」というのをクレアがどこからか調達してきて、まあこれが家を爆破するだけのビデオなんだけど、子供たち見入っちゃって、黙っちゃう。なんでこれが教育ビデオなんだかよう訳が判らんが、クレアはいちいちツボをついてくるのね。

それにしてもこれ……心温まる佳作って感じだし、こんな大々的な公開より、丁寧なミニシアターでの展開の方が似合ってた気がするな。そこでじんわりと観たらもっと心に残ったような気がするんだけどね。★★★★☆


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