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「り」


2003年鑑賞作品

river
2003年 109分 日本 カラー
監督:鈴井貴之 脚本:鈴井貴之
撮影:藤原秀夫 音楽:佐々木秀夫
出演:大泉洋 安田顕 佐藤重幸 音尾琢真 中村麻美 森崎博之 佐藤誓


2003/12/4/木 劇場(シネ・リーブル池袋)
北海道のミスターこと、鈴井監督の第二作である。何も知らずに第一作を観たあの頃から1年、自分の認識のみならず、全国的な認知度も驚くほど深まり、こうして第二作を観ているのが不思議なぐらい。だから、あの時は純粋に映画として対峙することが出来た。キャストたちのことも何も知らなかったから。北海道発、という映画のスタンスに興味しんしんではあったものの、正直なところヒロインである明日美ちゃん目当てのような部分もあった。
でも今回は違う。皆知っているだけに、しかも特に大泉洋氏にはものすごく入れ込んでいるだけに、そして役者としての彼らの顔を観る機会がほとんどないために、少々の不安を覚える。
役者としての彼らとして、映画作品として、私は対峙できるだろうか?と。
これは、本作のみならず、いわゆるテレビタレント、テレビ俳優たちがフィーチャーされている映画を観る時にいつも感じる不安である。そしてその不安の解消度の可否は4分6分といったところか。
本作は無事4分の方に収まってくれた。スクリーンの中の彼らを、劇中の登場人物としてすっと取り込める。それは、あまりにも私の知っている彼らと違う顔をしていたからかもしれない。

鈴井監督は北海道映画というスタンスにこだわる。
それは、中央が北海道を舞台に作る作品にありがちな、観光映画に反発してのこと。
前作で、その意志にとても共感した。その中で描かれている北海道は、普遍的な都市としてのそれであって、別にこれが北海道でなくてもいい、という描き方は新鮮だった。
で、それが本作でも貫かれている。北海道の中の都市、そこで生活するリアル。
ただ……と思う。前回以上に、ことさらに、場所の限定を避けているのが、逆に少し気になるのだ。
見え隠れする札幌のナンバープレートや、パトカーに書かれた道警の文字、登場人物たちのかすかななまりで気付くぐらいで、そこには“北海道である必要”が全くないのだ。
もちろんそれは、鈴井監督の狙い通りなのだろうと思う。これは、登場人物たちの、閉鎖された、閉塞した、行き場のない場所としての都市なのだから。
もちろん、ふるさとが死に場所、というテーマをその裏に抱えてはいるものの、この都市としての顔の見えなさが二回目ともなるとちょっと気になった。
例えば大阪が舞台の映画ならば、それは観光映画にはならず、大阪のカラーが色濃く出ながらも、大阪の人がちゃんとそこで生きている映画になっている。つまりはそういうことなのだ。
ただ、これはそれまで確立されていないことだから確かに非常に難しい。沖縄映画などもそのバランスで揺れているところがあると思うけれども、北海道の人間の色と、北海道であるということを感じさせながら描くということもまた難しいことなのだろうと思う。
きっとこれは、ぶつからなければいけないひとつのハードルなのだ。

次回作は東京の製作スタッフによる“北海道映画”だというから、またひとつ何かを乗り越えたものを作ってくれることが今から楽しみ。

もうひとつ、これもほんの少し気になった部分。
例えば、撃ちこまれた銃弾の穴から差し込む光。
例えば、余計なものが何も映らないように極端に照明を落としたバー。
例えば、くりかえしインサートされる忌まわしい過去。
例えば、死んだ彼女が隣にいる錯覚にとらわれ、横を見ると当然誰もいない。
例えば、佐々木が彼女に声をかけられるシーンの、どこまでも続く連続した赤い鳥居。
例えば、決め台詞を言うのは、あの頃いじめられていた小学生の姿の彼にタイムスリップする。
例えば、ラストシーン、最後の瞬間の三人をシルエットにして、差し込んだ光に満たされる体育館。
……というような、“映画的”に満ちた映像が、確かに、確かに印象的ではあるんだけれど、少々使いすぎて、記号的になってしまっている感がある。計算づく、は見えてしまっては計算づくにはならない。これもバランスの難しさだと思う。好みの問題ではあるけれども、それこそ、好みとしてはもっとまっすぐに撮っていた「マンホール」の手法が私は好きだった。

前作でのその画面のブルーが印象的だったけれど、本作もやはりブルーである。これは今後も鈴井映画のひとつの印となるのかもしれない。今回はブルーというよりブルーグレー。沈うつな心象風景をそのまま映したような暗い都市世界だ。
ブルーで描く映画作家は結構いる。キタノブルーと呼ばれる透徹した北野映画。やはり都市を描くフルーツ・チャンのブルーは、都市のクールさをつるつるとした透明なブルーで表現する。
そして、鈴井映画のブルーは、やわらかい。
つるつるもしていないし、見通せる透明さでもない。柔らかい淡く青い空気をいだいている。それは作品世界を強調するというよりも、確かにその場所の空気、彼らが生活している空気の柔らかな青。それは暗いブルーグレーであっても。

しかし一方で本作では青が意識的に、使われもしている。
青はもともとミステリアスを暗に示す。青いドレスの女、などという映画があったし、リンチの「マルホランド・ドライブ」の青もそれそのものだった。
本作では謎の、そして狂気の男、横井がいつも見につけている服の色だ。
いや、狂気というのはあたらないかもしれない。これは冷静さを示す青。彼は、憎しみが日常になってしまった男。憎しみが激情ではなく、冷静な平常心になってしまった男なのだ。

哀しい。

横井はいじめられっ子だった。生徒数の少ない小さな小学校に転校してきた彼は、ふとしたきっかけからいじめられっ子になってしまった……半年間。
そして彼はまた転校していった。20年近くが過ぎ、この学校が閉校になって数年後、開かれた同窓会に彼の姿があった。あの頃のわだかまりなんてまるで感じていないかのように、かつてそのいじめを傍観していた同級生たちと二次会へとなだれこんだ。
しかし、横井は決して忘れてはいなかったのだ。それどころか、ひたひたとチャンスを狙っていた。
あの同窓会に横井は呼ばれていなかった。転校して、卒業生ではなかったから。しかし彼はそこにいた。そして彼が佐々木と藤沢を誘ったバーのバーテンダーも同級生の九重。そこにいた客からある相談がもちかけられる。
記憶を消す薬を製薬会社から盗み出してくれないかと。
それぞれ消したい記憶がある男たちは、この計画にのることになる……。

一応、主人公は我が愛するよーちゃんこと大泉洋氏、である。彼は通り魔事件の犯人を取り逃がし、その人質の女性は後に遺体で発見されてしまった。その記憶に苦悩する、謹慎中の警官、佐々木である。
そして、その殺された女性と結婚式の直前だったのが、安田顕扮する藤沢。彼は当局から伏せられた犯人を取り逃がした警官を恨み、その正体を追っている。
バーのマスターは佐藤重幸扮する九重。かつて花形スキージャンパーだった彼は、しかし事故によって選手生命を断たれてしまった。
彼らが、“傍観していた”三人である。実は彼らが狙われる前、このかつての同窓生が立て続けに二人、死んでいる。事故ということになってはいるものの、これは横井の手によるもの。横井は実に周到に自分を見捨てた友達たちを片付けていっているのだ。
で、横井はキーマンとはいえ、四番手の位置付けであるんだけれども、後半などほとんど主人公と言っていいほどである。演じる音尾琢真が凄いのだ。もうけ役ではあるけれども、それにしてもこの“冷静な狂気”は尋常ではない。

記憶を消す薬。倫理上問題があるということで、世間から隠匿されたその薬は、本当は横井こそが自分の記憶を消したくて作った薬だったのではないか、などと思う。 記憶とはやっかいなもので、その事実そのままの重さで人間の中に残っていくものではない。誰かにとってのイヤな記憶は、誰かにとっての、すぐに忘れてしまう記憶。あるいは、どんなにイヤな記憶でもポジティブに生きていけばそれが糧だったのだと思える。忘れることはなくても。
それともそこからの大きなジャンプがなかった場合。記憶は時間が経るごとに濃くなってゆく。憎しみも煮詰まってゆく。
横井が、あいつらを殺さなければ自分は本当の意味で生きてはいけないのだと思う気持ちが……何だか判るだけに、こんな風にいじめられっ子の立場がネガティブに描かれているのは、哀しいのだ。
傍観しているのも、いじめているのと同じ。それはそうなんだけれども、ここではその傍観している彼らを責めるような描き方はしていない。誰も救えないんだと苦悩している佐々木の心情の方にこそ寄り添うような形。横井にとってはそんなのはただの甘っちょろい感傷としか思えないんだろうということが想像に難くないだけに、かなり、ツラい。

最初から最後まで横井は不気味な男で、昔のことを根に持っていて、同情を起こさせるような感じじゃないから。癇の強い潔癖な男らしく、革靴をゴシゴシと磨く癖は小学生の頃から変わらない。小学生で革靴ゴシゴシだなんて、どう考えても子供らしいとは言えない。そう、こんな風に、彼を偏狭な男として最初から最後まで描いているのが辛いのだ。いくらもうけ役とはいえ……。だって、ネガかポジかといったら、やっぱりネガの方である私のような人間にとって、彼の立場の方が理解できるから、辛い。クライマックスなど、ホラー映画さながらに怖がられたりするのも哀しい。しかも、その小学校時代のいじめの描写はかなり抑え気味で、ナレーションに頼っている部分があり、少年の横井がそこまで苦しんでいたことがなかなか共感しづらい作りになっている。
いじめに加わっていなくても傍観していた彼ら三人、その苦しみも判るけれど、所詮彼らはその記憶を表層からすっかり消し去っていたのだ。同窓会でやっと思い出したくらい。そして、今苦しんでいるのは現在の自分たち自身の苦しみ。

しかし横井だけは、昔を乗り越えられないでいたのだ。
「救えなかった」とつぶやく佐々木に、横井は苦々しい思いでいたに違いない。苦しんでいる顔をして、本当に苦しんでいたのは俺なのに、と思っていたに違いないのだ。
本作では、「誰も救えない」と言う佐々木の方にシンクロさせる方向性になっていて、横井は最終的にやはり狂気の男に過ぎない。それにもどかしさを感じたのが、一番痛かった。
感情の複雑さという点では、勿論佐々木の心情の方が大人のそれである。横井の苦しみは判るけれども、子供の時のことだと言われればそれまでだ。でも……。

縦笛でひたすら流れる「今日の日はさようなら」あの歌詞、何にも考えずに歌っていたけれど、友達ということを考えた時、こんなにうわっつらに聞こえる歌もない。そんなに簡単にはいかない。そんなに無邪気に信頼しあえるなら誰も苦労はしないのだから。
と、横井は心から思っていただろう。この歌は横井への皮肉なアンサーソングに他ならない。やはり彼が裏の主人公に違いない。何度も何度も、その意味を確かめるように、友達、という言葉を口にする彼。それを言われた相手の表情を確かめるように、あざ笑うように。
彼ら三人の前に、同級生二人を死に追いやった時には、事故として処理されていた。けれども、ここで横井は自ら拳銃を握る。
笑みを浮かべて拳銃を発射する。その笑みは不気味だけれど、ふと泣き顔のようにも感じてしまう。覚悟した笑み。
彼はこの最後のカタをつけて、死ぬつもりだったのかもしれない……。
結末が、どうなったのか、判らない。佐々木が復讐すべき相手の警官だったと知った藤沢は拳銃を発射したのだろうけれど、それが佐々木を貫いたのか、佐々木を羽交い絞めにしていた横井がどうなったのか……オフ画面になって示されない。
その外には、横井に撃たれて瀕死の状態だった九重が、必死に必死に這いずってきて、しかし力尽きて倒れている。……血まみれで。
その姿は、ふるさとの川を目指しながらも途中で力尽きた鮭そのものなのだ。

タイトルでもあり、北海道であるという土地性を生かしたこのテーマはしかし、悲惨すぎるではないか。
ふるさとは死に場所。
ふるさとは死にに行く場所。
ならば、ふるさとを持たない人間は、死ぬ場所さえ、ないのか、などと思ってしまう……根無し草の人間としては。
私がことさらに、北海道、北海道と言いたがるのは、何とかここならばふるさとになってくれるのではないかという願望から来ているんだけれど……実際に住んだことがあるのは2年ぽっちで、やっぱり私にはふるさとはない、と思う気持ちの方が強いのだ。死に場所があるというのは、とてもとてもうらやましいことなのだ。
ああ、だからきっと横井にシンクロしたんだろうと思う。転校生の横井に。すぐに去っていって、卒業生になれなかった横井に。同窓会に呼んでもらえなかった横井に。

カラックス並に、暗く重くワールドに入りきっている一方で、複数の主役ともいえる登場人物たちを巧みに配し、九重と横井の事前取引や、突然逃げ出す藤沢などのエピソードの組み立て方は上手い。バランスがいいとも言えるし、バランスが良すぎるとも言える。
この上手さを通り過ぎた自由を獲得した、そんな鈴井作品を観たいと思う。これだけ世界観に入りこめるのなら、入りきっちゃったらどうなるんだろう?という興味。
おっと、これは言っておかなくちゃ。佐々木の先輩警官で、面倒見のよさそうな森崎博之がイイ味。彼はナックス5人の中でただ一人、名バイプレイヤーの雰囲気を持っていて、それが非常に良く出ていた。いい意味でクラシカルな、好感の持てる演技をする人。あれ?よーちゃんが意外に印象薄……?あんなにシリアスでカッコよかったのに……。★★★☆☆


猟奇的な彼女
2001年 122分 韓国 カラー
監督:クァク・ジェヨン 脚本:クァク・ジェヨン
撮影:キム・ソンボク 音楽:キム・ヒョンソク
出演:チョン・ジヒョン/チャ・テヒョン/キム・インムン/ソン・オクスク/ヤン・グムソク/ハン・ジンヒ/ヒョン・スキ/キム・イル

2003/2/3/月 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
予告編は100点満点だったのになあ……惜しいッ!いや、これは皮肉じゃなくて。予告編で見せ場を全部出しちゃっていて、しかもそれがこっちが期待する見せ方だから、実際に本編を観てみると、その予告編で見た見せ場の間、間が長い感じ、並列の印象、っていうのかな?間延びしている感じがするのだ。一つ一つのエピソードは、大好き。主人公の男の子、キョヌの大学の代返とか芸達者で笑っちゃう可愛さがあったり、そこにキョヌを迎えにきた彼女(あれ?ところで彼女の役名、ないんだね)が自分のお腹の子供の父親です!と言って彼を連れ出したり、この川の深さが知りたいのよ、とキョヌをドーン!と川に突き落として、溺れる彼を見て自分もバシャーン!と見事なダイビングしたり、あるいは制服ナイトで踊りまくったり、電車の中で賭けをして大負けした(電車の中に軍隊が行進するかよー)キョヌが連続ビンタをくらったりして。そういうちょっとした?エピソードがとても効いているんだけれど、そうやって同じ感覚で提示されるのが軽いエッセイ風で、予告編の爆裂な展開でイメージしていたのと随分とギャップがある。彼女は確かに爆裂で、その爆裂さに合わせて疾走するもんだと思っていたこちらとしては、妙にゆっくりとしたテンポに逆にかき乱される感じで、笑おうとかワクワクしようと思っていると、あれ、あれれれ?という感じ。もったいない……実にもったいないのだ。

ネットの掲示板から出来た話、というのは、その点確かに納得で、つまりはおのおののエピソードがどれだけ面白いか、ということにその場合はかかっていたわけなんだろうけれど、映画にする場合、もうちょっとジリジリと盛り上がる展開でつなぎを考えてほしかった気がする。いや、監督の弁を聞くと、そのあたりは充分考えていらっしゃったらしいんだけど……。でもこの、“前半戦”“後半戦”“延長戦”と分けたエピソードの語り方も、もしかしたら盛り上がったかもしれない気持ちをガチャン、と分断させてしまう。で、しかも後半になったら、いきなりシリアスなラブロマンスになっちゃって、あれれれ?と思う。もうその辺から流れ出すラストテーマの甘美さとか実に象徴的で、うっわ、泣かせにきてるよ、そーゆー映画だったっけ?と……。それまでのカラーと全く違うんだもの。何でも“延長戦”は映画のオリジナルだということで、またしても納得。“延長戦”からいきなりカラーが変わっているから。確かにそれまでも彼女のそうしたシリアスなトラウマは伏線として描かれているんだけれど、彼女のキャラまでもがここからはっきりと変わってしまっている。まあ、内面の彼女が出てきたってことなんだろうけれども、ちょっとバランスが悪い。

確かに、確かにね、人生は悲喜こもごもで、だからこそ面白いって、「キス★キス★バン★バン」の時私、言いましたけれども、悲喜こもごもは織り交ぜ、バランス良く配置されているから絶妙なんであって、まるで二本の映画が入っているかのように構成されると、正直、戸惑ってしまう。やっぱりここは、泣き笑い、の感じで攻めてほしいわけ。爆裂さが彼女のチャームだったんだから、それがすっかり影をひそめてしまうのは、これまたもったいないわけで。確かに弱さを表に出し始めた彼女は、こちらの胸がかきむしられる切なさで、とってもとっても魅力的ではある。それは勿論なのだけれど。

それに、コミカルさが優先される前半戦、後半戦、においてもちょっと気になる部分が。それはシナリオライター志望の彼女の書くキテレツなネタが映像化されていること。……この映画にどう作用しているのか、理解に苦しむ。キョヌの言うとおり“面白くない”し、これまた盛り上がりかけたこちらの感情をぶった、ぶったとぶった切っていってしまう。これはねー……監督の弁がまた判らんのよ。「彼女のシナリオを通じて、アクション映画や時代劇などすべてのジャンルを少しずつ描きたかったのです」って、さあ……それって、この映画に対して、メリット、あるわけ?ただ単に、“色んなジャンルを撮りたかった”だけでねーの?この部分はひょっとしたら本国の人は本質的な部分で笑える展開になっているのかもしれない。しかししかし……少なくとも日本では、この場面ではみんなシーンと観ていた気がするのだけれど……それとも私だけ?

この“猟奇的な彼女”は実に最高。何といってもカンペキな美少女。そうそう、どこかで見たことあるよな、と思ってて、「イルマーレ」の彼女だったわけね!全然印象が違っているから判らなかった。彼女、あまりにも美しかったから、美女の印象だったけれど私の美少女リストにもちゃっかり載せちゃっているのだ。韓国女優はハズれがないけど、その中でも、今まで観た韓国女優の中で最も美しい、と思う。しかしここでは美女が美少女になった……どっちが先の作品なんだろ。この作品でそれまでのイメージをガラリと打ち破った、らしいんだけど、確かに「イルマーレ」のような作品で清楚で可憐な魅力をふりまいていた彼女が、こおんな爆裂キュートな美少女をやるなんて、思わないよなあ。口癖の「ぶっ殺されたい?」という時のオラオラ!という表情から可愛いなんて、タダモンじゃないもん。

美しいだけじゃなく、このアクティブな表情の豊かさは本当に素晴らしい。登場シーンの、酔っぱらって口いっぱいに広がる吐き気を押えに押えて、目ん玉むいて、呑み込んで(!)口元に出てきた吐瀉物を袖でぬぐって……という、ゲロを吐く前段階のそうした前戯(!?)がとにかく最高に素晴らしく、もしかしたら最も笑えたのはこの場面だったかもしれない。酔っ払いの大酒呑み、っていうけど、たった3杯でつぶれちゃうんじゃ、彼女はつまりはお酒に弱いのよね。強気で凶暴で、エンコウやポイ捨てや年寄りに席を譲らない若者を許せない正義感の持ち主。しかしそれも度が強くって、チンピラまがいの暴言がガンガンそのカワイイ口をついて出ちゃって、しかも手が早くてパンチが強烈。それでいて酒が入るとふかーいトラウマが顔を出して、突然泣き出すその様変わりの表情がまた何とも言えずベリーキュート。確かにキョヌでなくてもこの子のそばから離れられなくなっちゃうのだ。

しかしこれ、男女逆になったら、絶対に成立しない話よね。それじゃ単なるドメスティック・ヴァイオレンスになっちゃうもん。あ、これもいわばDVに当たるのかしらね(笑)。それと、これはこういう美少女でなければやっぱり成立しない話。そうじゃなければ、ただの凶暴女の話になっちゃう(笑)。だから、彼女が魅力的だからっていってうっかりマネすると(すんなよ)とんでもないことになるわけね。あはは。うーむ、実は密かに男女差別や容姿差別?の問題を含んでいるのかも(そうか?)。

で、一方のキョヌ。やはり韓国男優は女優と違ってなかなか美しい役者を出してきてくださらないのだが(「寵愛」だけだったな……)、しかしこの芸人風のヘタレ系青年は、この彼女があってこその彼で、強烈さを柔らかなクッションで受け止める彼だからこそ、彼女のお相手が出来るわけ。だんだんと彼女のコツがつかめてきて、ニッコニコでお相手をするあたりがかわゆいのよね。全編彼のナレーションで話が進んでいって、そのトボけた喋りはなかなか好きなのだけれど、実はこれも間延びする原因。でも、彼女の側の事情がナカナカ判らなくて彼と一緒に歯がゆい思いをするあたりが、いいのかもしれない。

彼女と最初に出会った時、どうしようもなくて彼が行くところは……あ、あれはやっぱ……ラブホ、よね?(うー)。彼女のゲロで汚れてしまった彼は、酔いつぶれた彼女をベッドに置いて一人シャワーを浴びるんだけれど、その全裸のユルい後姿が……(笑)。しかも彼はなぜか(本当に、ここはなぜ?)突然飛び込んできた警官に逮捕されちゃって留置所行き!鉄格子の中はやくざ風の男たちが血だらけでにらみをきかせてて怖いの何の……って、実はただの当たり屋だったんだけど(笑)。しかも翌日呼び出された彼女に自分の好きなものも頼めずにさんざんおごらされて、またしても彼女はきっちり3杯で酔いつぶれ(そんなに強い酒なのか……いや、これは父親からの遺伝ね→)ゴン!とテーブルに頭をぶつけたまま動かない(笑)。なので彼はまたしてもあのラブホ(じゃ、ないのかなあ……うーむ)に彼女を連れて行くハメになる。しかしそこでの、天使のような彼女の寝顔を見て、彼は彼女を守り、癒してあげる決心をするのだ。

実は彼と彼女は運命的な赤い糸で結ばれていた同士。彼女が死んだ恋人のことを忘れられなくて、キョヌと一緒にタイムカプセルを埋めた後、2年後に会いましょうと冷却期間を提示し、しかし彼女は二年では気持ちの整理がつかなくて、結局再会したのは三年後、しかし実は彼女の死んだ恋人のイトコがキョヌで、その死んだ恋人のお母さん、つまりキョヌのおばさんに当たる人が、ずっと前から二人を引き合わせようとしていた、というのだ。確かにこんなご都合主義はないんだけど、でもここに至るまで結構伏線は張られていたわけで、気づいても良かったのに私は相変わらずのニブチンで気づかない。あっさり驚いちゃいました……アホね。

しかし、韓国は恋人が死ぬ話が好きよね。ふと振り返ってみると、今まで観た韓国映画の実にほとんどで、恋人が死んでる気がする。それこそ「イルマーレ」は死んだはずが死んでなかったという掟破りまであったりして(笑)。本作の中で、韓国の若者が皆感動する小説として「夕立」という、恋人が死ぬ話が紹介されていたりもするので、やっぱりそうだよな、と。恋人が死ぬ悲恋話、これが韓国の人たちが好む傾向なのだな。韓国でヒットしたという日本映画、「Love letter」も「秘密」も、そうだもんね。さらに言うと、彼女が書いたシナリオで、彼女はこの「夕立」のラストに反発して、恋人に死なれた男の子を一緒に生き埋めにさせちゃう。つまりは……彼女は、死んだ恋人と一緒に、死んでしまいたかった、とここもまた薄く伏線が張られているわけ。生き埋めにされちゃうキョヌはたまったもんじゃないけど(笑)。でも、その自分の考えたラストを語りながら、ちょっと遠い目をしている彼女に、やはりちょっと気づくものがあったりして。

それにしても、3年間を彼女に対して変わらぬ想いで待ち続けたキョヌは凄い。だって、彼女とは完全にプラトニックで、セックスはおろか、キスのひとつもしてないのに。って、そういうこと考えるから私はヤボなのね。だからこそ、待てたんだとも言えるんだな、きっと(この三年間、そういう浮気はしてないよね、ね?やっぱ、凄いわ)。彼女に負けないように、彼女の強かった剣道やラケットボールを特訓して(そうそう……こういうのが強いあたりが、また彼女の魅力でもあるわけ。つーか、キョヌが弱すぎね。なぜか打ったボールが全部自分のトコに来ちゃう間抜けさが愛しいわ)、彼女との思い出をインターネットで公開して、待ち続ける。……おっと、これって落ち着いて考えてみるとちょっと怖いかもしれないけど(笑)。だって、三年間をこうやって過ごした、というのは……その間に彼女も彼を想っていたからいいけど、そうじゃなかったらこれはかなりの精神的ストーカーだもんなあ……。と、そういうあたりも今までの韓国映画で感じなかったわけではない。「ラスト・プレゼント」とかもストーカーっぽい要素があってちょっとアレだったし。いや、恋愛なんて、多かれ少なかれそういう要素はあってしかるべき、確かにね、そうですが。

ところでさあ、これハリウッドでリメイク?またかよ、ヤメてよ。これはこの彼と彼女だからイイんじゃない。どーしてハリウッド人種ってのはそれが判らないかね。そのまま持ってて配給しろっつーの。全く。“ハリウッドでリメイク”ってそういう部分、ある意味侮辱よね。私はそう思うんだけど?★★★☆☆


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