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「り」


2006年鑑賞作品

リバティーンTHE LIBERTINE
2005年 110分 イギリス カラー
監督:ローレンス・ダンモア 脚本:スティーヴン・ジェフリーズ
撮影:アレクサンダー・メルマン 音楽:マイケル・ナイマン
出演:ジョニー・デップ/サマンサ・モートン/ジョン・マルコヴィッチ/ロザムンド・パイク/トム・ホランダー//ジョニー・ヴェガス/ケリー・ライリー/ジャック・ダヴェンポート/リチャード・コイル/フランチェスカ・アニス/ルパート・フレンド


2006/5/6/土 劇場(TOHO錦糸町シネマズ)
何か前半、判りづらいんだよなあ。彼の人となりっていうか、立場っていうかさ。この第二代ロチェスター伯爵、ジョン・ウィルモットという人物は、当地ではそれなりに知られた人なのかなあ、判りづらいのは、それはもう当然の前提として話をしているからなの?
上映終了後、後ろの席に座ってたカップルの男性の方が「もう速攻寝ちゃったよ」とか言ったのが、思わずちょっと納得したりして……私もかなり中盤までヤバかったもの。

冒頭とラストに観客への警告よろしく、彼が呼びかけるのね。決して私のことを好きになってくれるな、最後まで見たら、私のことは絶対に嫌いになってるだろうとかさ。で、自分はどんなところでも、女とヤレる。それは自慢とかじゃなくて医学的事実だとか、しかもソッチの気もあるとか。
実際この人はそういう放蕩で名をはせた人で(リバティーンという意味自体が、遊蕩児ってことだそうだし)、うもれたポルノ詩人てのが一般的な認識だったらしいんだけど、それがピンとこないんだよね。
確かに周りからはプレイボーイだとやいやい言われるし、春画もどきのスケッチを描き散らしてみたりするんだけど、別に手当たり次第に女に手を出している描写なんかないの。彼が手をつける女は三人。妻と娼婦ジェーンと愛人リジーだけ。だから、そんなカサノヴァみたいな人に思えないんだよなあ。
やっぱ、その前提を描いてくれないとツラいのよ。

んで、その最初となる妻の造形が今ひとつ薄いのが、そもそもの難点だったのかもしれない。
いわばプロローグだからねえ、娼婦や愛人に夫をとられるわけだし、もうちょっと強い印象が欲しい。
彼女はまだおぼこな娘の時、手練手管のロチェスターに誘拐同然に連れ去られたんだという。その罪のために彼はしばらく幽閉されるものの、彼女は彼を忘れられずにずっと待ち続け、ついに結婚。でもそれは経済的に苦しくなってた彼の策略だったんだという。
そのなれそめのお話は、「その時と同じね」と、馬車の中での睦みごとで語られるんだけど、ホントサクッと語られるって感じで、え?え?と言っている間に聞き逃してしまいそうになる。
全編そんな感じなんだよね、彼に関する知られたエピソードに関して、最低限って感じにドンドン流してくる。それは多分、監督が重視しているところに力を注いでいるせいだと思うんだけど、そのバランスが悪くて、彼の人となりもひょっとしたら見えにくくなってしまう、気がする。

もちろん、重きをおいているところというのは、愛人のリジーとの関係においてである。
史実に残されている事実からも、確かに彼はこの愛人をとても愛していた、らしいんだけど、妻と娼婦も、そして他にももしかしたら、彼が同じくらい重点を置いて愛した女はいたんじゃないかと思う。男はそういう器用な生き物だしさ。
娼婦に関しては、このジェーン一人に集約させたんじゃないかっていう苦しさもあるしなあ……それぐらいなら“娼婦”というカテゴリを登場させなくても良かったんじゃないかという気さえする。ジェーン個人としてしてなのか、娼婦として彼を愛する苦しみなのか、中途半端な感じだし。
本当に愛する女がいたとしても、妻をおいてはそれは語れるわけもなく、妻というのはそういうものを全て超越した存在なわけでしょ。だから妻の存在、妻に対しての思いが愛人とどう違うのかをきっちり描いてくれないと、最後妻の元に戻って、妻は実はずっと彼を待ってて心配して、なんてついでのようにつけくわえられても、なんかすっごく、消化不良な気分なんだよね。

そういやあ、愛人との関係をどっぷり描いた「透光の樹」に私がイライラしたのは、ヘタに妻を登場させて、それもいかにも倦怠期って感じでね、この愛人との恋愛に妻がジャマなだけだみたいな表現をしてたからだった。それもサイテーな描き方だったけど、同程度にヒドいと思うよ。最後に戻ってくるのは妻のところだ、それが妻を大切にしている証拠なんだ、それでいいじゃん、みたいなのって。
まあ、妻はそれに抵抗するかのように、生きる気力を無くして戻ってきた彼に、生きてよ!と怒るんだけど、これも優しすぎるよね。これまでまるでかえりみてなかったのに、その間も彼のことをずっと愛してて、生きてほしい、と妻が思ってたなんてさ。
あー、私、支離滅裂だな。つまりはどうしてほしいんだろう。つまりは……うーん、そんな風に複数の女がいなきゃ男が生きていけないなら、その女の気持ちまでも都合よく定義しないでほしい、ってことなのかな。

そんなグチャグチャ言ってたら進まないから、そのメインになっている愛人の話にいってみよう。
演じるのはサマンサ・モートン。愛人との関係にこだわっているだけあって、絶妙なキャスティングである。なんたってこのクセモノの色男、ジョニー・デップを、しかもクセモノのプレイボーイ、ロチェスターを演じる彼を落とさなきゃいけないんだから。
単なる美女じゃ彼の敵ではないし、醜女ってわけにもいかないし、バリバリ自立している女じゃ興醒めだし……自立を求めてて、その過程だから心にスキがあって、でも自分の信念は曲げない、そこがフツーの女と違ってプレイボーイの自尊心をくすぐる、みたいなあたりが彼女はさすが、絶妙なわけ。

ロチェスターはリジーを見い出す。そこはとある芝居の舞台。消え入るような声で台詞を言い、観客から激しいブーイングを受ける彼女に可能性を感じる。華やかな社交界で物事をナナメに見ている彼にとって、その華やか=わざとらしい世界をそのまんま表現したような舞台でリアリズムを追及しようとしている彼女は、自分に近いものを感じたのかもしれない。
つまりは同志、だよね。男の中で女に対しての役割分担ってのがあるんだと思うんだよね。女は好きな男、添い遂げる男にはその中に全てが含まれていてほしいと願うけれど、男にとっては家族としての妻がまずあって、そのほかに愛人を作るなら自分を理解してくれる同志がほしいと願い、娼婦ならリクツヌキに100パーセント自分に尽くしてほしいと願うんじゃないかと思う。
それは……男と女は、どっちがワガママだということなんだろう?難しいところだ……。

んで、リジーを大女優に育て上げるべく、ロチェスターは彼女に厳しい特訓を課す。リジーは彼のウワサを聞いていたから、自分の身体が目当てなんじゃないかと思ってたんだけど、最初のうち手を出す気配はないし、観客の方も、これはストイックな魂の関係なのかと思って見守る。
しかしこれが案外アッサリそういう関係になり、愛に懐疑的なはずのロチェスターが、これまたアッサリとリジーとの恋に目覚めるんである。手練手管の彼がなぜそうもアッサリ?まあ、確かに今までの女と彼女は違ったんだろうけど、それも描かれないから、観てるこっちにはわかんないんだよなあ。
彼の指導後、初めての舞台でリジーは拍手喝采を浴びる。リジーはロチェスターを待っていたけれど、彼は彼女への思いを抑えて家に帰る。しかし妻と口論になってリジーのアパートへと向かう……っていうくだりがあるんだけど、彼の中でのそういう気持ちの葛藤とか、せっぱ詰まったものを感じさせないんだよね。で、全編そうなんだよなあ……メインとなるリジーに対してもそうだから、なんかホント、どーにも中途半端なのよ。

むしろ、愛人との関係よりも、寵愛を受けていた王との関係の方がメインだったのかもしれない、とさえ思う。
この王、チャールズ二世を演じるのはジョン・マルコヴィッチで、舞台では彼こそがロチェスターを演じており、今回の映画化の原動力になったのだという。
そもそも、王の父であるチャールズ一世にロチェスターの父が仕えていて、二世同士、享楽者同士で気が合ったのかなんなのか。
ロチェスターの才気あふれる風刺詩が、時に王さえ標的にするもんだから彼を何度も追放するんだけれど、すぐに呼び戻すにはいられなかったのは、やっぱり愛、だよなあ、と思う。

その才で自分の参謀になってほしいと王は思ってるんだけど、政治に興味のないロチェスターはずっとソデにし続けている。
フランスとの一触即発の時に、壮大な芝居を仏大使に見せて圧倒させたい、と王はロチェスターに依頼するも、ハレンチな芝居を打ってその期待を打ち砕いたりと、まるで恋の駆け引きのように、王の思いを裏切り続けるのである。
どこか裏エピソードのように展開する王とロチェスターのそんな関係は、それこそが主だと思って見ていると、なかなかに意味深いものにも思えるのだ。

ロチェスター自身にとっては、決して裏切るつもりはなかったんじゃないかとも思う。彼が用意した想像を絶するハレンチ芝居は、リアルな張り型だの、巨大なソレだのを用意したまさしく前代未聞のもので、それだけ彼が全精力を傾けていたわけだし。
相手のフランスはなんたってエスプリの国で、アダルトやシニカルを得意とするその国に負けるわけにはいかないと、本気で思ってこんな針が振り切れるほどの思い切った方向に出たのかもしれないと、思わなくもない。
一見、ただのハレンチな芝居に見えるし、そのとおりの評価に片付けられたけれど、彼にとってくだらない世間なんてみんなこんなもんだという、最高の皮肉だったのかもしれないよね。
皮肉はいつだって芸術に欠かせないスパイスだもの。
それが、思い切り過ぎていたのが、彼がひょっとしたら天才だったというゆえんなのかもしれないと……。

フランスとの関係が壊れ、王は烈火のごとく怒る。ロチェスターは当地にいられなくなって地方を芝居で巡業し(このあたりがかなりテキトーに流される)、フラリと戻ってきた時に娼婦街に案内した仲間をトラブルに巻き込んで死なせ(ホント、テキトーに流してる)、ほとんど逃亡って形で行方をくらませるんである。
で、彼のことがどうにもあきらめきれない王によって行方を捜されていた彼は、ついにエセ医者をしているところを発見される。
もう、梅毒にボロボロに冒されて。
王はそんな彼に、こんな言葉を突きつける。「私は、これからお前を無視する。もうお前は存在しないものだとして扱う」
これは……忘れられることが嫌われることよりも辛いと言う、まるでユーミンの歌のような、ホントまるで恋愛においての決定的な言葉じゃないの。

そもそもリジーとの仲はどうなったかって話である。
リジーは、彼がこのハレンチ芝居で失敗して逃亡したことで、まあいわば自然消滅みたいな形になってたんだけど、それこそが男の勝手さって感じではあるんだけど……それ以前にね、彼女はこの王から、彼の監視役をおおせつかってたんだよね。王は、ロチェスターがリジーにご執心なのを知ってたから。
王から彼を“見守る”ことを命じられた時、彼女は格段考えることもなく応じたけど、あれってどういう意味だったの?
彼のことを、そして王のことを考えれば、ムチャな芝居を打とうとしていた彼に、彼女は注進したはず。でも彼女は何も言わなかった。ただ眉根を寄せて見ていただけだった。ロチェスターも王も、彼女が成功をつかむためにはどうでもいいことだったからなの?

リジーにとっては最初から、男より、愛より、栄光が大事だった。最初から言ってた。私は大女優になるんだって。それを、気まぐれで指導したロチェスターのせいにはされたくないって。
そう言いながら結局、ロチェスターの愛人になるわけだけど、彼が落ちてしまうとアッサリと捨てる。いや最初から、彼がいつか落ちると見限っていたのかもしれないとも思う。
梅毒に冒された彼が、死の直前の彼が、フラフラになりながら愛する彼女に会いに来た時、彼女は言い放つ。
「あなたは、根本的に判ってないわ。私はあなたに飽きたの」
凄い台詞だけど、本当にそうだったのかな。彼と一心同体だと思っていたのに、自分が彼のことを理解できないこと、そして何の連絡も接触もなしに姿を消した彼に、そしてそして、そんなことさえ自分のせいじゃないみたいな顔して現われた彼に失望したんじゃないのかな。

「あなたは私に生きることの喜びを、私はあなたに人生そのものを教えた。これであなたに恩義は返したわ」
妻との間にも出来なかった(んだよね?)子供をいつのまにやら産んでいたリジー。
それを彼に言わなかったのは、結局は妻の元に帰った(それも予測していたのかも)彼に対する精一杯のしっぺがえしかもしれない、と思う。だって娘の名前は、彼女自身の本名とも同じだけど、彼の妻と同じ、エリザベスだったんだもの。

でもこの、“結局は妻の元に帰ってくる”っていうの、どうとらえたらいいんだろ……。
しかもさ彼、リジーに対して、「キミと結婚したかった」なんてたわごとを言うじゃない。
結婚すれば、家族になって、最後に戻ってくる場所になる。それは確かに男が定義する、愛する女の最高の場所なのかもしれない。
でも、最後に、だよ?最後だけだよ?その間の何十年をほっとかれるんだよ?そのことをリジーは判ってたから、「あなたは判ってない」って言ったのかもなあ……なんても思ったりして。
本当にいてほしい時にいない。自分勝手に、自分だけ安らぎを得て死のうとする。今までほっとかれて、残されて哀しむのはこっちなのに。

だって、愛人に捨てられた後は娼婦にすがり、更にその後なんだよ?妻の出番は。しかもほんの一時、数日か、よくて数ヶ月だよ?
いーよねー、男は、愛人だの娼婦だの奥さんだのとフラフラできて。それにつきあわされる女はたまったもんじゃないよ。
でね、奥さんは彼にこんなことを問うわけ。
「最後にシラフだったのはいつ?」
「三年、四年……五年前か」
これでもう、その間、尽くしていた(と思っていただろう)娼婦はアウトでしょ。酔った彼と相対することの方が多かった(からこそ、こんなことを聞いたんだろう)奥さんにしても、そうではなかった愛人には負けているのかもしれない。でもこんな風に、誰にも勝ちを与えなかった彼こそが、一番の負けだったんじゃないかと思う。いや、そう思わなければ、女の立場がない。

あ、そういやあ、彼に絡む、もう一人印象的なキャラがいた。しかもこれもまた男である。まったくもう。
理不尽な賃金で働いていた奴隷を、ロチェスターがほんの気まぐれに救った。それ以来最期の時まで忠実に彼に仕える、愚直なしもべである。
ロチェスターがうっとうしがるのも厭わず、何かと彼についてまわり、最終的には彼がいないことには、最期の時さえ迎えられないんである。
彼が一番、ロチェスターに対して何の混じり気もない真実の愛を注いでいたかも。理由が単純だけに。

確かにジョニー・デップは美しい役者だけど、さすがに10もサバ読まれるとねえ。まあ確かに現代は精神年齢がどんどん下がってるから、今の役者が演じるとしたら多少年上の方がいいにしても……それならば、数字をわざわざ出さなきゃいいのに、と、「33歳で死ぬ」とかさあ。
ええ?彼、ゆうに40超えてるじゃん!じゃあ登場から考えたら、10どころじゃないでしょ!……それを考えると、肌つやの悪さが気になるーう。
梅毒に冒され、失禁し、顔がボロきれみたいに崩れ、片目が白濁する最期は、あんなにも女をかしづかせた色男が……という凄絶さ。
女にだらしなかった彼らしい病ともいえるけど、40を超えてる彼だと、いくら美しくても若い美しさが崩れた悲惨さは出ないわけでしょ。舞台ならそれこそマルコヴィッチがやったぐらいだから、そういうゴマカシはきいちゃうわけだけどさあ……。
いや、それ以外の要素が、今までグチグチ言ったような部分でひっかからなければ、そりゃー、ジョニー・デップで大オッケーなんだと思うんだけど……だから、ホント、ウラミが残っちゃう。

「これでも私を好きか?」そう、最後に、キレイな顔に戻って問い掛けるジョニー・デップ。
好きか嫌いかで分けられるほどにハッキリ定義づけされてない作品。それが問題。哀れな男だ。

当時のリアリズムにこだわってるってことらしいんだけど、そのせいなのか、画面が暗くてヒジョーに見づらかった。★★★☆☆


輪廻
2005年 96分 日本 カラー
監督:清水崇 脚本:清水崇 安達正軌
撮影:音楽:川井憲次
出演: 優香 香里奈 椎名桔平 杉本哲太 小栗旬 小市慢太郎 松本まりか 治田敦 三條美紀

2006/1/20/金 劇場(有楽町日劇2)
清水監督は慣れるとどんどん怖くなくなっちゃうんだなあ……。というか、彼の怖さはクリーチャーの怖さだったんだよね。本当に、ホンモノのバケモノがそこにいる、あるいは近づいているっていう……有無を言わさぬ怖さ。今回は、筋を追っちゃったなあ。オチはなかなか意表を突かれたけど、彼の持つ怖さは失われてしまったような気がする。そう、清水監督の場合、ストーリーなんか正直どうでもいいのよ。クリーチャーで怖がらせてくれえ!って思うもんだから……それにこのお話はうーん……どうなんだろう。つじつまが合っているようであっていないような。いやだから、そんなことはどうでもいいんだけどね。

でも本当は、小市さん目当てで行ってたりして……でも小市さん、キャストクレジットの前の方に名前があった割には、台詞も存在意義もほとんどないような感じだったなあ……劇中映画の撮影の前の挨拶で、プロデューサーの、と自己紹介しなきゃ、彼が映画のプロデューサーだってことすら判らないかもしれない、みたいなさ。
まあ、この映画のヒロインである優香はこの映画に何かを賭けたのか、やけに熱演なのであった。特に、もういきなりオチの話をしてアレなんだけど、彼女が自分の正体を思い知って、完全に異次元の世界に迷い込んでしまった、実体のあるこちら側の彼女の顔は完全にイッてて、やるう、と口笛を吹きたくなるほどだったんである。鼻の下の伸び加減と口のあたりのだらしなさがかなりキテる。いやー、やりますね、お嬢さん。

まあ、なんてところから話を始めてもなんなので、一応最初から行ってみる。一人の映画監督がある事件を映画化することに執念を燃やす。この松村を演じるのが椎名桔平。資料に囲まれて脚本から起こしている彼は、ただたんにひとつの映画の企画を作り上げているというにしてはずいぶんとのめりこんでいるように見える。そしてこの映画のヒロインのオーディションを受け、監督のインスピレーションで抜擢されるのが新進女優の渚。で、これが優香ね。
しかし、この渚、一緒に来ているマネージャーが心配するほど、どうも覇気がない。オーディションでも印象的な受け答えができない。それは彼女がこのオーディション自体に最初から何かの予感を持っていたからなのかは知らないけど……。

電車の中で彼女を叱責するマネージャー。しかし上の空の彼女に何かが見えている。不気味な人形を抱えた女の子。彼女の目はその子に釘付けになる。駅について、客がなだれ降りるのにまじって、女の子が電車とホームの隙間に落ちてしまう。驚く渚。女の子は落ちた隙間から彼女をじっと見つめている。
この感じ、エレベーターで昇っていくと、通り過ぎた下の階に男の子のオバケがいる、「呪怨」とそっくりだわね、などと思いながら見てしまう。うーん、ついつい清水監督の過去作品に類似を探しちゃうのは、以前からの悪い癖なんだけれど……。

一方でもう一人のヒロイン、香里奈演じる弥生である。私は彼女がなぜそんなに映画に重用されるのか今ひとつ理解できないんだけど……なんか可もなく不可もなくって感じよね、彼女。まあいいけど。彼女は子供のころから見ている同じ夢が気になっている。行ったこともない赤い屋根のホテルの夢。それを恋人(小栗旬)に話すと、そういうことに詳しい「不思議ちゃん」が友達にいるという。それはあのオーディションにも来ていた由香。

彼女は、その映画で描かれる事件の被害者の一人の生まれ変わりなんだという。まずここで解せないよなー、と思う。それならなぜ彼女はそのことをオーディションの時に言わずに、ただ「前世で殺されているんです」と言うにとどまってたの?まさしくこの事件の被害者の生まれ変わりならうってつけじゃない。それともそこまでいうとウソくさいと思ったのかな……そんな感じもなかったけど。それともその時点ではそこまでは判ってなかったのかな。ならばなぜ、彼女はそんな詳しい前世まで判ったの??いや別に突っ込もうと思っているわけじゃなくて、純粋に疑問なのよ。
まあそこはすっ飛ばす。由香はその事件の新聞記事を図書館で弥生に見せてくれる。そしてその昔の新聞に載っていた惨劇のあったホテルは、まさしく弥生の夢に何度も出てきた赤い屋根のそれだったのだ。しかしその間に由香は図書館から忽然と姿を消してしまう……のは、あっちの世界に次々に連れて行かれた生まれ変わりたちに、彼女もまた連れ去られた、らしいのね。

というのも解せないんだけどねー、あ、いきなりここを言うのもなんなんだけど。つまりはこれはね、この殺人事件の犯人であり、自身も自殺した大森教授による“実験”だったというのよ。弥生は自分もまたこの事件の被害者の生まれ変わりであると確信し、ただ一人の生き残りであるこの大森教授の妻に会いに行き、彼女からそう聞くわけ。それにしても、弥生はなんて名乗って彼女を訪ねたのかね。いきなり、「私はあの事件の生まれ変わりです」もないだろうし……。まったくの見ず知らずなわけでしょ?
まあいいや、そこもすっ飛ばす。精神科学だか心理学だか知らんけど、そんなような研究をしていた大森教授は次第に、人の生まれ変わりについて、夢物語ではなく真剣に合理的にアリなんだと思い込むようになったんだと。世間はこの事件を彼の狂気だと片付けたけど、「大森は狂ってなんかいなかった」と妻は言うのね。

繰り返し現れる少女は、「ずっと一緒だよ」という言葉をきめ台詞のように繰り返す。そして大森教授は、「また会える」という台詞を……。
うーんと、てことは、大森教授はなんらかの確信を持って、死んだ人間は生まれ変わるんだと思ったわけで。まあそこまではいいんだけど、「また会える」ということは、同時に生まれ変わるという前提があったわけだよねえ……でもさあ、冒頭で女子高生たちが話しているように、生まれ変わりという概念があったとしても何年後なのか、人間なのかさえ判らないのに。そこんところの矛盾はここでは全然触れられないんだけど、それも操作できると思ったからこその強行には違いないんだけどさ。しかし、やっぱり解せないんだけどなあ。しかも生まれ変わって同じ惨劇を繰り返すっていうのもなぜ?呪い?

だから、ゾンビになったというわけでもあるまいし。生まれ変わった人たちがゾンビになる意味が判んない。そこまではらしくもなくまっとうな筋なぞ追ってたのに、ここに来てバケモノありきの展開にするなら、最初からそうすればいいのに。しかも今時ゾンビだよ(と劇中では言ってるわけじゃないけど、あれはまんまそうだよね!)!びっくりしちゃったよ。ゾンビっていまやクラシックなキャラになっちゃってるからあんまり怖くないんだよな。だってスローだからいくらでも逃げられるんだもん。そこをついて、リメイク映画では最速のゾンビでえらい怖かったりしたけど、ここではクラシックそのままのゾンビ。閑散としたホテル、そして街に顔色の悪い彼らがさまようのは、怖いはずなんだけど……うう、笑っちゃうのは悪い癖なんだろうなあ。ゾンビはちょっとユーモラスっていう頭ができちゃってるからさあ。

その頃渚はどんどん感覚が研ぎ澄まされて、不安にさいなまれている。実際に惨劇のあったロケ現場に行くことに、悪い予感がひた走る。監督は実際に惨劇のあった場所で「この場の空気を感じてもらいたいんだよ!」と執拗に、何かに取り憑かれたようにカッティングや演技指導に没頭する。まるで、35年前に見たそのままが彼の頭の中にどんどん再生されるように……そしてそれに呼応するかのように渚の頭の中に、次々とフラッシュバックが現れる。悪い予感は的中して、彼女は35年前のその世界に入り込んでしまうのだ。殺される女の子を、男の子を見てしまう。わが子を殺しながら、返り血を浴びながら8ミリビデオをまわし続ける大森教授!

逃げ惑い、227号室に迷い込み、震える彼女を見つけ出したのは松村監督だった。渚は資料の新聞記事で見た女の子をなぜか知っていること、そして自分が迷い込んだところがその女の子が殺された場所だということを知って戦慄する。自分はあの女の子の生まれ変わりに違いない。ならば自分はこれからどうなってしまうのか。
自分をなぜヒロインに選んだのかと松村監督に聞いても彼はハッキリとした答えは言わず、彼女にあの女の子の遺品である不気味な人形を指し示す。そりゃこの人形は不気味だが(というか、こんなかわいくない人形、センス悪いって感じ)ここで彼女の問いに何も言わない松村監督もどうも解せないんである。ま、いいけど、すっ飛ばすから。結局、彼はあの殺された男の子の生まれ変わりだったわけで、そうした予感が働いて彼女を起用したに違いなく、彼もまた、彼女と同じように、そして観客と同じように、彼女があの女の子の生まれ変わりだと思っていたのかもしれなくて。

そう、そうじゃなかったのよね。このオチには結構素直にビックリさせられる。イヤー!彼女は大森教授の生まれ変わりだったのよ!本番の撮影に入り、彼女がホテルの中をさ迷い歩くワンシーンワンカット、その途中で彼女の視界からスタッフが次々と消えてゆく。最後には松村監督だけになる。その松村監督が、あの男の子になり、彼女が見たそのままに、大森教授に殺される!
渚は逃げる。どんどん逃げる。導かれるように227号室にさまよい、ここで殺されるんだ、と思った押入れ、“開けたのが彼女だった”のだ。中には弥生が変わり果てた姿で息絶えていた。そう、渚は大森教授の、殺人者の生まれ変わりだったのだ!ジャーン!てな感じっ!これは、被害者の生まれ変わりより格段に、数段に、ショック、大ショーック!

渚が、そして弥生がさ迷いまくる35年前のホテルの中は、あのゾンビさんたちがウロウロしてるわけで。あ、あそこだけはちょっと怖かったな。首吊りのメイド(由香ね)がドーン!と落ちてきて、倒れ掛かってくるところ。あれは清水監督のクリーチャーの恐怖大全開だったなー。あと怖かったのはもうちょっと前のシーンで、渚の部屋のインターホンが鳴って、ドアののぞき穴から彼女が外を見ると、白いオバケたちが跳梁跋扈してるとこ。ドキッとしたのはそんなところ。やっぱりバケモノ!って感じがないとねー。

あっと、その前に、大森教授が殺戮を繰り返しながらビデオを回している夢を渚が見てるじゃない。んで、目覚めた彼女のベッドにその8ミリが置いてある……ってことは、この35年間、この8ミリの存在すら知られてなくて、冥土の世界をさまよってたってことなのかしらん。渚はマネージャーに頼んでフィルムを現像してもらう。
彼女が本番に臨んでいる間……つまり、あっちの世界に引きずり込まれてしまっている間、マネージャーはこの8ミリの恐るべき“ワンシーンワンカット”を見て……それにしてもこの長々とした殺戮フィルムを驚きつつも最後まで、飛び出して誰かに知らせもせず、一人でしんねりと見てるってのもどーかと思うけど。大森教授、コワすぎるって……。返り血で真っ赤になりながら、自分の手にかけた我が子を撮り続けるこのフィルムの方が、この映画そのものよりコワイ。最後、今度は自分の血が噴出すのをカメラが捕らえ、撮影者の力が失われたそれは、床に放棄され、そこから35年間、闇の世界をさまようことになる、のかあ。

ラストシーンは、唯一フィルムに刻まれた、あっちの世界に行ってしまった狂気の渚を、試写室でマネージャーやスタッフが戦慄しながら見てる。そして、すっかり正気を失った渚がぐるぐる巻きにされてガランとした部屋に放り込まれてる。その彼女を、試写も見ていたあの老妻が、なんともいえない表情で……まるで、あなたの“実験”の結末は結局こんなことだったのよ、みたいな、さげすむような、皮肉な薄い笑みを押し隠したような表情で、ドアの窓越しに眺めてるの。そしてアップになった渚、放心した表情の、その口角がかすかに上がる。優香、してやったりのエンディングである。

それにしても、渚の視界の最後に残った当の松村監督はどこ行っちゃったのかしらん?つまりあの惨劇の繰り返しで彼女に殺されて……なわけないか。彼女の実体はフィルムに残っていたようにあそこにあって、狂気に陥ったってわけだから、彼も異次元につれてかれて行方不明ってワケ?同じく死んだはずの大森教授の生まれ変わりの渚だけが、正気を失ったとはいえ、こっちの世界にい続けるのはなんでなのかなあ……。
うーむ、やはりヘタに筋があると、恐怖に浸るより、ついつい余計なことを考えてしまうわ。★★☆☆☆


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