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「し」


2003年鑑賞作品

シカゴCHICAGO
2002年 113分 アメリカ カラー
監督:ロブ・マーシャル 脚本:マーティン・リチャーズ
撮影:ディオン・ビーブ 音楽:ジョン・カンダー(作曲)/フレッド・エッブ(作詞)/ダニー・エルフマン(オリジナルスコア)
出演:レニー・ゼルウィガー/キャサリン・ゼタ=ジョーンズ/リチャード・ギア/クイーン・ラティファ/ジョン・C・ライリー /ルーシー・リュー/テイ・ディッグズ/コルム・フィオーレ/ドミニク・ウェスト/クリスティン・バランスキー/エカテリーナ・シェチェルカノワ/デイドレ・グッドウィン/デニーズ・フェイ/マイア・ハリソン/スーザン・ミスナー


2003/4/23/水 劇場(上野セントラル)
2002年度のアカデミー賞で、一応、最多部門をとった作品。一応、という部分が、つまり、作品賞とってて、監督賞がとれないという珍しさと、役者はキャサリン・ゼタ=ジョーンズの助演女優賞がやっとで、主演の役者がとれてないとこが実に、“一応”なのだ。いや、実は、ゼタ=ジョーンズがとったことすら認識が薄かったんだけど。だって、ニコールにばっか、気ぃとられてたんだもん。でも、この“一応”状態は、ムリもない……だって、やっぱり、どこか、この時期のアカデミー賞作品としては違和感を感じざるを得ないから。やはり「戦場のピアニスト」にとらせるべきだったんじゃないかとか。そうでければ無論、もろ手をあげて賛成したんだけれど。

そう、そうでなければ、全然、問題なく好きな作品なのだ。これぞハリウッド、これぞアメリカの魅力、を疑問の余地なくあけっぴろげに示したこの、隅から隅まで完璧なエンタテインメントが受賞するのは。近年それこそオスカーといえば、シリアスな社会ドラマがとりがちな中にあって、こういう作品がとってくれるのは、本当にもろ手をあげて賛成したいところだった……平和な時代ならば。でも、戦争があり、「シカゴ」で華やかに、大盛り上がりのアカデミー賞、というわけにはいかなかった今回のオスカー。ことにドキュメンタリー部門では「ボウリング・フォー・コロンバイン」がとったのが象徴的で、本作の、キレて銃をぶっ放し、相手には殺されるだけの理由があると言い、そして敏腕弁護士雇って無罪放免、だなんて映画を、無邪気に受け取る気持ちの余裕が、正直ないのが事実だったりする。

しかし、観始めると、もうあっさりそんなことは忘れてしまうのであった。つまりは、観ているこっちにはアカデミー賞がどうとかいうのは、関係ないから。つまりは映画を楽しみに観に行く映画ファンに過ぎないから。うっかり?人を殺してしまった女たちが集まる刑務所が主たる舞台で、移り気な大衆は彼女たちを猟奇的な、あるいは同情的なスターに仕立て上げる。これが実は単純な話で、というあたりも近年まれにみる傾向。ハリウッド型エンタテインメントも、妙にこねくり回して無意味に不必要に複雑な物語に……とか言いながら複雑でも奥は深くないんだけど……する傾向にある昨今、こんな単純な話で密度を濃く見せてしまうの自体が、嬉しかったりする。密度が濃いのは、なんてったってそのステージング。あんぐりと口が開けっ放しになってしまうほどに、素晴らしいそれぞれの歌唱で進行していくゴキゲンなミュージカル。で、これは確かにアメリカには勝てないジャズ!このメチャクールなジャズ仕様で、もう歯ぎしりするほどカッコいい。

あ、でもでも、単純などと言ってしまったけれど、これ、ミュージカルとかステージングとか、そういうものに目を奪われるけど、実はかなり深遠な……人の不幸や血を楽しみに興奮する、現代の、いや、こういう昔から脈々と続く、マスメディアと大衆への、大いなるシニカルな映画なのだ。そう、つまり複雑ではなく単純だけど、その単純が奥が深い、という、一番理想的なスタイル。それにしてもこの物語、ジンジャー・ロジャースを主演に“ROXIE HART”という題名で過去に映画化されている、って、それ、すっごく観たいじゃないかあ。だってあのジンジャー・ロジャースが歌って踊って?うー、観たい!そしてその後、何度もミュージカル化され、そして今回が待望の映画化。最初に発表された1920年代から実に色あせることなく……あ、ちょっと待って、てことは、これ、……実話が元、なんだ。勿論かなりのフィクションはされているだろうけれど、そしてロキシーやヴェルマーがそのまま実在の人だったかどうかは定かではないけれど、こういう女殺人犯のスキャンダルに群がり、彼女達が一種のスターになってしまう、そういう時代が確かに、あったんだ。

一応二人(あるいは三人)主役の映画、としてポスターもそうなってるけど、一人レニー・ゼルウィガーがピンの主役と言ってもいいぐらい。彼女は「ザ・エージェント」で最初に観た時から心を奪われた、そのぽわんとした唇のキュートさをそのまま残して、それでもってセクシーという粋に到達した。しかもキュートを残したままであんなしたたかな女を可愛く演じられるというのは、さすが、ゴールデングローブ賞女優、である。彼女、ゴールデングローブは二度もとっているのに……というのも、ミュージカル・コメディ部門があるからなんだけど、つまりは、その分野ではもはや彼女の右に出るスターはいないってことなのに……いつかはオスカーをとらせてあげたいなあ(あ、勿論今年はニコールで大正解なんだからね!)。彼女、スイス人の父とノルウェー人の母を持つお人、だったんだ。知らなかった。それってまさしく純粋ヨーロッパ、北欧じゃないの。彼女にアメリカのやぼな色がないのはそのせいかあ。好感度大だもんね。そして驚かされたのはこのウェットな歌声。んーん、まさしくモンローを彷彿とするじゃないの。

ホント、レニーの魅力はそのまま、マリリン・モンローなのだ。そりゃ勿論、モンローほどにナイスバディじゃないけど、プラチナブロンドに唇に吸い寄せられる魅力はまさしくそのもの。格好もモンローを即座に連想させるような場面が数多い。対してのキャサリン・ゼタ=ジョーンズは、ディートリッヒ……いや、グレタ・ガルボ、だよね、これはやっぱり!大興奮のラストの二人のショータイムは、マジでガルボとモンローが二人並んでいるかと錯覚するようなセクシーさでクラクラ、圧巻なのだ。

ちなみに、ゼタ=ジョーンズは、妊娠中に出た「トラフィック」以降、戻した今も、やはりどこかお尻の張った安産体型、なんである。しかしそこがまた、レニーとは違うどこか熟れた魅力でゾクっときちゃう。最初はとにかく彼女がさらう。登場シーンの圧倒的なステージング。何でもゼタ=ジョーンズは子供の頃からこういうステージのキャリアがあったんだそうで、なんでまた今までこんな特技?を隠していたのか、もったいねー!で、この大人の女の熟した魅力でしょ。こんな退廃的セクシーさに、一体どうやってレニーが対抗するんだろ、と思っていたら、ゼタ=ジョーンズに負けないどころか勝っちゃうぐらいの退廃セクシーなんだから、実際、驚いちゃう。あの好感女優のレニーが、長いスリットの入ったベビーピンクのドレスで、グランドピアノに寝そべって悩殺するなんて!実は結構な美脚で、それも触ったらもっちりしそうな何ともいえない質感。いやー、知らなかったなあ。脇から二の腕もそんなもっちり感が、もう完璧。その点、ゼタ=ジョーンズはどちらかというと鍛え上げられたセクシー。で、レニーは天然の質感セクシー。この対照が、たまらんのよ。

リチャード・ギアは久々に当てたわあ。彼、オスカーにノミネートされても良かったのに……。こういう、ちょっと色男の、でもウソくさい、金が全ての、オーヴァーアクションの弁護士、最高に似合う。ヤバいくらいに。彼のステージングは、まず労働者風で最初に登場してくる、というのも意外なところをつき、しかもトランクスになったりしちゃうんだから、まさしく今までのリチャード・ギアを完全に裏切るんである。で、これがちょっとオチャメで頭の回転が実は早そうな(実は、ってところがそんな感じでしょ)彼にピッタリなんだよなあ。その色男の外見がいかにも弁護士の、あるいは女の騙しのテクニックをたっぷり持ってそうで、彼以上の人はちょっと考えつかない。あの法廷での、嬉しげな、両手をあげた、芝居たっぷりのアクション!最高だわあ。もう笑っちゃう。自分の魅力を判ってらっしゃるなあ。しかも、そうか、彼もともと舞台人だったんだ。なぜ今までその経験を生かせなかったのだッ。

このメインの三人のほかにも、ぞくぞく、実にぞくぞくと印象的なキャラが登場する。そうそう、レニーが演じたロキシーが、彼女を騙した男をキレてぶち殺しちゃって収監され、最初に目にする女受刑者たちのパンクなダンスのなんというカッコよさじゃ。その中に一人ハンガリーの女がいて、彼女は言葉が通じないために(彼女の台詞は字幕すら、出ない)弁護士も雇えなくって、最終的にあっさり死刑になってしまう。このことがにわかセレブになって浮かれきっていたロキシーに方向転換を大きく迫る、そういう重要なキャラの人がいるんだけど、この人が、ちょっと愁いを帯びた、美人で。結局この物語は、実際は単純な罪びとである彼女たちが、弁護士によって保身を図る、そういう物語なんであって、だからただ単に言葉が通じないだけで事情も詳しく聞かれずに死刑になってしまう彼女、というのが、何か、そういう意味でこの作品の陰というか影というか、そういう部分を彼女が一身に担っており、作品をふっと覆ってる美しい幽霊のようなそんな不思議な魅力があるのだ。彼女、バレエ出身なのか、このパンクなダンスの中で一人、とってもきれいなアチチュードを見せてくれる。見惚れる。

おっと、この人を落としては、いけない。この人を入れてメイン四人の映画と言ってもいいぐらいなのが、看守ママ・モートン(クィーン・ラティファ)。カネ次第でこの刑務所での待遇から弁護士の紹介まで一手に引き受ける、もしかしたら彼女が一番したたかな、オオサカ商人気質?を思わせるまさしく、ゴッドママ、なのだ。しかしどこかカワユイというか……彼女の手引きでロキシーがキュートな殺人犯として大評判になっちゃうんだけど、そのママまでもが今流行のロキシーの髪型を(ちゃんとブロンドにして!)マネするのが、いいんだなあ。彼女の歌の場面が(一回しかなかったけど)、一番迫力があった、かもしれない。大きな体とその爆裂巨乳をゆすぶり、股にスカーフごしごしのパフォーマンスにはのけぞっちゃうし、全身ブルースって感じで、ステージに隙が全くないのだ。

セロファン・マンと呼ばれて地味で切ないダンスをひそやか、って感じで繰り広げてくれるロキシーの夫。愛妻家で、けなげで、加えてバカで(笑)泣けるのだ。彼はこのロキシーに全身、参っている。ロキシーが殺した愛人を強盗だと主張する彼女をあっさり信じてその罪を身代わりにかぶろうとする。これが騙されたとバレた後も、彼女の妊娠を、性交渉がずっとなかったんだからあり得ないのに自分の子供だと大喜びし(彼女には見事に、無視される上、そのあといいように利用されちまう)、そしてその妊娠が彼女がスターでい続けるためのウソだと判った時、もう実に哀しそうで情けなさそうで……。ロキシーのようなスターへの野心を突っ走るような女じゃなくて、ごくごくフツーの女なら、この人ほど理想のダンナはいないんじゃないかと思う。こんなにまるで疑いなく愛してくれる人なんて……ちょっといないよ。だって、浮気するのは大抵、男の方なんだから。

そ、ロキシーはあやうくスターの座を奪われそうに、なるんだなあ。ロキシーが憧れ続けたヴェルマーの座を奪ったように。まるで「イヴの総て」のように!そのカゲキな女殺人犯がルーシー・リューで、これは、彼女のアジア人特有の薄い顔立ちが逆にシャープでかなりのコワい迫力。確かにロキシー、彼女にスターの座、持ってかれそうな勢いで、さすがはハリウッドの中でアジア人女優として気を吐くリューの真骨頂。そんな中でとっさに妊娠を装う、実に、実ーに、心憎いばかりにしたたかなロキシーにホレちゃう。そしてその彼女に「あのアマ!」と憎々しげにつぶやくヴェルマーにもね。双方共に、何かもうカッコイイんだもん!

1920年代だから、テレビではなくて、ラジオでの生中継。キャスターの力量が試され、そしてリスナーは想像力をふくらませる。よりスキャンダラスに、もうないことまでアリアリで想像しちゃう。そのゴシップの世界を演出する、敏腕女キャスター、メアリーもまた、彼女たちとは全く違うカッコよさ。いわば、彼女たちの手練手管に翻弄されているように見えもするんだけど、実は違う。メアリーたちキャスターこそが、この殺人犯スターを作り上げているんだ。だってさ、多分、ギア様演じるフリン弁護士とだって彼の都合のいいようにコトが運ぶようにと、つながり、ありそうじゃない。持ちつ持たれつ、ってヤツよ。それで彼女は自分のキャリアを着実に上げてくワケだ。

次々出てくるミュージカルシーンの中でなんてったって一番のお気に入りが、裁判に入る直前をステージングに仕立てた、あの腹話術と操り人形のシーン。余計なことを口走りそうになるロキシーを先んじて、弁護士フリンがすべてを自分の言葉で封じてしまう様を、ロキシーを腹話術人形、フリンを腹話術師&操り人形師に見立て、バックには無数の操り人形ダンサー、そしてロキシーはフリンに完璧に操られる腹話術人形。メイクも腹話術人形のメイクで、レニー、もう天才ッ、まさに完璧よ、この人形!ドハデメイクの大きな目をまさしく人形さながらにバチコバチコして、こりゃあ、やっぱゼタ=ジョーンズじゃちょっとムリかも。レニーのキュートなコメディエンヌの資質が、まさにばっちしこの場面であらわれているんだよなあ。
ところでね、そう、キャサリン・ゼタ=ジョーンズなら判るけど、レニーみたいなタイプの女優さんが、エンタテインメントの世界でのスター女優だっていうのが、嬉しいじゃないの。レニーって、日本で受けるようなタイプの女優さんかな、と思ってたから……そのあたり、まだアメリカは少しは健全かな、と思えたりしてね。

このロブ・マーシャルという監督さんは、舞台でのベテランで、映画は、初。ほおお。やっぱり餅は餅屋、とはよく言ったもんで、そういえばその昔はミュージカルを得意分野とした監督さんとか、あるいはミュージカル映画でミュージカル部分をだけ担当する演出家とか、いたもんね。ミュージカルが一分野として確立されなくなった今ではすっかりなりを潜めてしまったけれど……。
でもね……私は、「ムーラン・ルージュ」の方が、好きよ。というのも、この作品と比較されてたからさあ……その言いようは、「ムーラン・ルージュ」をちょっと下に見るような感じで。比較する意味も全然ないとは思うんだけど、ついつい思っちゃう。つまりは、この作品は、ある意味パーフェクトすぎて、破綻がないところが、教科書的なんだもん。「ムーラン・ルージュ」はもう今にも破綻しそうなハチャメチャさと、キャストたちが、完璧というより一生懸命って感じが独特のチャーミングさを生み出していた映画で、まさに、まったく本作とは違う、比べる意味がないんだから。もともと、映画は比べる意味なんてないはずなのに、同じようなジャンルの映画が前後して出てくると、ついつい比較論したがるのは……私もしょっちゅうやってるけど……悪いクセ、かもね。

ただ一つ、残念なのはラストクレジット。何がって、長すぎ。そりゃ、もんのすごくたくさんのスタッフが関わったんだろうし、仕方ないとは言えるけど、こんなに粋でステキな映画だけにこの無粋さにはかなり失望。だって、三曲だよ?二曲が限界でしょ。まだ終わんないのーとか思って、今までの興奮が冷めてきちゃう。あのズラズラーッのラストクレジットに入る前、メインキャストをバッバッ!とカッティングで見せるとこには興奮したのになあ。あのノリで最後まで編集してくれたら、完璧だったのにい。★★★★☆


地獄甲子園
2002年 87分 日本 カラー
監督:山口雄大 脚本:山口雄大 桐山勲
撮影:古谷巧 音楽:矢野大介
出演:坂口拓 伊藤淳史 谷門進士 榊英雄 飯塚俊太郎 西尾秀隆(X-GUN) 土平ドンペイ 生田目研人 三城晃子 松本実 勝俣喜章 増本庄一郎 蛭子能収 小西博之 永田耕一

2003/8/26/火 劇場(渋谷シネクイント/レイト)
原作コミックスを読んでみると、これを映画化しようなんて狂ってるとしか思えない!とつくづく感じるのだけれど、作ってしまったのだな、これが。うーん、凄い、凄すぎる。こんなに徹底的にバカでいちいちガクッと落とされて、そのバカに大喜びしてしまうこの完成度?は「グループ魂のでんきまむし」に勝るとも劣らず??「少林サッカー」と比べられていたりするけれども、それよりも「グループ……」寄りだと思う、のは、「小林サッカー」がバカバカしくもどっかスゲー!と思うようなカッコよさもあったところが、本作にはなーんにもないから。そこが何つったってスバラシイ。一応野球、ということになってはいつつ、その野球のプレーのカッコよさが何ひとつない。問題はそんなところにはない、ひたすら不条理とギャグに精魂込めているところがイイのだ。いや確かにワイヤーアクションを駆使する(!)マーシャルアーツバリバリの対決の数々はかなりの見どころがあるんだけれど、その対決ですらカットはいつでもギャグを模索し、画面の隅っこ、あるいは後ろでキュー、と落ちていく小さなオチに全力を注いでいるのがグーなのだ。

実際、これは映画でなきゃ出来ない面白さ。原作である漫画では、その仔細な描きこみがグロテスクと超高速スピード感を生み出しているわけで(しかもそれはこの漫画の魅力の一部でしかない)、これは実写ではできっこない。じゃあ実写では別の魅力を探し出さなければいけないわけで、それが何かといえば、原作でのそれがシュールレアリズムにまで達するA級だとすれば、映画はそれをバカバカしさに落とし込むB級、なのだ。原作だってもちろん不条理でバカバカしい。だからこそこの映画がバカバカしさの面白さに昇華している。でもやっぱり原作のそれはシリアスな作家性を帯びている。それを映画では完全に払拭している。監督の作家性、というものも無論、入ってこない。タイミングと感覚の“オチ”加減がこの映画の命で、そこが痛烈に面白いのだ。

……などと、原作と映画のことで長々と私論を述べてしまった、のは、私はこの映画もう吹っ飛ばされちゃって、あーもう最高!とか盛り上がっちゃって、観に来て良かった、ニコニコ、とかしてたんだけど、原作(あるいは原作者)ファンが何かゴチャゴチャ言ってるからさあ(って、私も失礼な言い方……)。この映画を観て、原作は一体どんなんなんだろう!?って興味を持って劇場でコミックスを即買いしちゃったけど(という人が多々いたわ)、やっぱり先に観たり読んだりが勝っちゃうのか、私にとっては映画の方がずっとずっと面白く感じたのだ。それはそうだよな。だって別物で、しかも最初に体験したものが刷り込みになって本物になっちゃうんだもん。それに、脚本協力に原作者自らが名を連ねているんだから、そんな文句言うなっつーのとかも言いたいし(笑)。切られている部分は漫画での面白さが優先されているものだし、オリジナルで追加されているキャラや物語は、この映画が醸し出す性質を吟味して、それを増幅させるために作り出されたもの。これが非常に上手く出来ていて、特にメガネのおかんなんか、すっかり物語全体に影響力波及して食いまくっているし。原作よりずっと道徳的な収束を見せるラストが特に原作ファンにとっては批難ゴウゴウみたいだけど、その道徳的で平和なのがいっそうバカバカしくって、イイのよ。

大体その成立からして原作とは大きく違う。だって、何たって主役が違うんだもん。原作ではメガネ君が主役、と言っていいと思う。で、映画では野球十兵衛(この名前はナイスすぎる)。原作での十兵衛は確かに強いものの、結構気が弱いところもあったりして、意外にカッコ悪いのだ。しかし映画での十兵衛は困ったことに、もう完璧にカッコいい。弱みがない。そのカッコよさがまたさらにバカバカしいんだけど、それこそがこの映画独自、根底にある面白さなのだと言いたい。この彼を主人公にヒロイズム映画にする、ときっぱり決めているんではないかというぐらいの潔さを感じる。カッコよさがバカバカしく見える、のは意外に計算外なんではないかと。演じる坂口拓、「VERSUS」より100倍イイ(のは私が「VERSUS」あまり好きじゃないせい)。見え方は全然変わってないんだけど、不思議と。ボケで落とす時も、あまり表情を変えないのが可笑しさを倍増させる。「メガネ……何か刺さってる……メガネ」とやるあたりとか、もう爆笑だもん(状況判らなすぎ!)。彼の、そうしたオチの台詞のタイミングやトーンの落とし加減は実に絶妙で、アクションでギャグがやれる、しかも非常にクールなやり方で、というのが、ジャッキーではなく、もしブルース・リーがギャグやったら、とかそういうことを想像させてしまう?

原作では主役を担いつつも、映画ではサブに徹するメガネなんだけど、演じる伊藤淳史が素晴らしくって。作品に恵まれていることもあるだろうけれど、彼は本当にイイよね、上手いよね。このメガネは、原作のキャラを体現していると言ってもいいんじゃないかなあ。主役からサブに移されていながら、強烈なおかんに束縛され、そして実は十兵衛と実の兄弟だった!などというバックボーンをあらたに与えられていたりもするから、彼の見せ場はとても多いのだ。顔をぶるぶるさせながらいやいやをするそのオビオビとした表情、十兵衛を助けようとすることがことごとに間に合わない愛しい役立たずながら(このくだりは原作よりさらに掘り下げてて可笑しさ倍増)、最後の最後に彼を助けることが出来るところは、仕組まれているギャグに笑いながらもちょっとジーンとしてしまうのだ。伊藤君のもともと持っているパーソナリティーが実に愛しい、のよね。

メガネのおかんは、演じる三城晃子の強烈さが前提になっているキャラ。クライマックスの大暴動シーンで、彼女のアップをスローモーションで追い、ひゅる〜ん、という効果音をかぶせるカットの絶妙な挿入にお腹を抱えて大笑い。このおかんと十兵衛の戦いがまた、映画オリジナルの出色の出来で、なんつっても部屋が狭くて、ひじょーにアクションがやりにくそうなのがやったら可笑しいんだもん。背ぇ縮こまらせてパンチとか繰り出したりして。アクションにも日本のお家事情を出すところが好きだわ。そして十兵衛はここで、実の母親と実の弟である、ということを知る。写真を見て「あ、ホントだ」とボソッとつぶやく十兵衛に吹き出し、何で気づかなかったんだよ、と心の中でツッコミ。

十兵衛は自分の驚異的な投げ玉で父親を殺してしまったことを悔やみ、家を飛び出してしまっていた。で、この回想シーンで出てくる父親を演じている蛭子さんがちょっと、いいんだ。原作ではほんの何コマかしか出てこないんだけど(とゆーより、ちょっとエッチっぽい造形のミットを出すためのような気が……)、映画での蛭子さんたら、ノスタルジックな香りを漂わせてて……息子に背を向け、夕暮れの懐かしい街角で自転車に乗って立ち去る“死後の世界”でのシーンなんて、ちょっと涙っぽい気持ちにさせられたぐらい。とっても、映画的で、とっても素敵。そういやあ、彼がお空にその笑顔をドアップでオーヴァーラップさせるシーンなんて、ひたすらブキミで可笑しいんだけど、「ニューヨーク・ストーリー」の中のアレンの一篇を思い出させるよなあ。

映画版のいいところはたくさん、ありますって。十兵衛が状況説明を突然歌いだす、チープな上にワケ判らんミュージカル仕立て(しかも顔はニヒルなまま)にはその恥ずかしさにこっちの顔が赤くなっちゃうぐらい。心のうちをシリアスなナレーションで説明するくだりは、これ、漫画でのト書きなのかと思ったらそうではなく、これもまた非常に計算された秀逸なオチ。松井ゴリラは原作オリジナルだけど、メカゴリラは映画オリジナル。映画では再三蘇る番長(その2の西尾秀隆(X-GUN)がイイ味)と、映画でだけ蘇るゴリラ、そして漫画では結構焦っているのに、映画ではそのむひょーじょーのオチ加減がたまらん審判。原作では酔っぱらいのオッチャン中村泰造と犬のパンチの合体、泰造パンチのキテレツエピソードがあって、これは実写ではあまりに荒唐無稽なせいか切られており、それを残念がる原作ファンも多いみたいだけど、この犬のパンチ、何たって犬なんで、漫画のほうでは事態に即して実に表情豊かだったりするんだけど、当然映画版のパンチはいつでものほ〜んとしてて(これが可愛くて、可愛くて)それが逆にやけにシュールで可笑しかったりするのよね。校長室がやけにボロかったりするのもツボだった。壁にかけている刀の賭け具が古ぼけた木っ端と釘で打たれてたりするんだもん。こういうところは結構細かくこだわってて、このバカなこだわりがひたすら愛しいのよ。

笑わせることは難しい、とは最近の井筒監督の言葉だけど、それこそ「ゲロッパ!」の3倍は笑ったわ。確かに、笑わせることは難しい、しかも、原作のあるもののプレッシャーは計り知れない。でもそれに臆せず、その上オリジナリティを追及したこの脱力系コメディに私は心から拍手を送りたいなあー。脚本協力、そして製作に名前を連ねている北村龍平、この人の監督作品はどうにも苦手だから、こんな風にプロデューサーに徹してくれいとか思っちゃう。★★★★★


沙羅双樹
2003年 99分 日本 カラー
監督:河瀬直美 脚本:河瀬直美
撮影:山崎裕 音楽:UA
出演:福永幸平 兵頭祐香 生瀬勝久 樋口可南子 河瀬直美

2003/8/11/月 劇場(シブヤ・シネマ・ソサエティ)
NHKの「トップランナー」を見ちゃったから……などといきなり言ってしまうのは、実はあまり観る気持ちでは、なかったから。もっと正直に言うと、躊躇していた。河瀬作品は、ちょっと苦手。少なくとも過去二作の劇場作品は、こう言っちゃうと恥ずかしいのだけれど、判らない、というのが正直な感覚だった。静か過ぎて、観念的過ぎて、あるいは詩的すぎて。で、ついつい今回の作品は避けていたのだけれど、「トップランナー」で喋っている監督は、その人間としての彼女はとても好きだな、と感じて、彼女の映画に対する姿勢とか考えとか、すっ、と入ってくる感じで納得できて、このことを頭において(あるいは身体に入れて)観たらきっと判るんじゃないかな、と思ったのだ。今回の作品は、過去二作ほどに観念的ではなく、そして監督の言葉を思い返しながら観ると、確かに判るような気がした。この人は時間を撮りたい人なんだと。流れる時間を。あらかじめ決めている時間ではなくて、常に流れ続けている時間をフィルムに収め、あるいは時間を感じられるまで待つ人なのだと。そしてその時間の記憶のフィルムを、その時が感じられるまでの長さでそろそろと切り取る人なのだと。

それは確かにとてもとても共感出来ることではあるのだ。待つこと、待つ行為、待つ描写、待つ時間、それほど映画にとって幸福なものはないと、常々思っていた。映画の中にそれを感じると、とてもとても幸福な気分になれたものだった。本作でも、それは確かに感じたのだけれど、でも、やはり、なんていうのかな……未完成な気がしたのだ。未成熟とかそういう意味でのそれじゃなくて、やっぱり、人生に映画は勝てないから、いくら待っても待っても、そしてギリギリでフィルムを切っても、やっぱりそこからはみ出している、あふれてしまっている、そんな気がするのだ。河瀬監督がツクリモノが作れないって言うの、とても良く判るのだけれど、映画でナマモノを本当に収めたい、と思ったら、作る部分がいくらなんでももうちょっと必要なんじゃないかなと思うのだ。河瀬監督はドキュメンタリーにおける虚構性と、ドラマにおけるドキュメンタリー性、という話をしていた。その点はとても説得力がある。なるほどと思う。でも、何というか、それにこだわるあまり、ドラマのドラマたる部分が上手く見えてこない気がして。河瀬監督のドキュメンタリー作品を観ていないので、あまり言い切れない部分はあるのだけれど。

脚本はあっても、その場での即興性を大事にするのだという。それは言われなくても、作品を観れば痛切なまでに感じる。登場人物たちはこれはナマでなきゃ出来ないだろうと思うほどに逡巡して言葉を探り、見ているのが辛いほどに戸惑った表情を見せる。こちらが不安な気持ちにさせられる、そうした彼らの演技ではない演技は、確かに素晴らしいものなのだけれど、でも一方で、これは脚本の言葉だな、と、いくら即興性を大事にするとはいえ、当然脚本というものは存在するんだから、そういうのが判る場面がいくつかあって。それは例えば昌子(樋口可南子)が娘の夕(兵頭祐香)に彼女の出生の秘密を打ち明ける場面とかに顕著なのだけれど、そういう部分と即興性の部分とが明らかに乖離していて、融和していなくて、そのギャップがどうしても気になってしまう。あ、突然芝居が始まった、って。ことにこの場面は、お兄ちゃんを溺愛していた妹のお話、として語られていて、それはひどくファンタジックな(あるいはドロドロしたドラマティックな)“物語”なだけに、余計に芝居じみてしまう。当然ベテランの役者さんたちだから上手いんだけど、でも上手いだけに、そのギャップはますます感じてしまう。むしろ、自分たちで言葉を探っている彼らは、ベテランの役者さんも、新人の二人も、演技的に上手いというのとは違って、そういうのを完全に離れた部分での生々しさがあっただけに、そのギャップがあまりに大きいのだ。

状況の説明も極力、省かれている。そうしたものが大抵ヤボなものになるとはいえ、ちょっと判らなすぎて戸惑ってしまう、のは、大きくとらえることが出来ないこちらの悪いクセなのだろうか……。そもそもタイトルである沙羅双樹、監督の説明を聞けば確かに判るのだけれど、そうでなければまずよく判らないし。この何をするでもない卓お父ちゃん(生瀬勝久)が墨職人で、夏の間は作業がないからダラダラしている、というのが判らなかったのは私だけなんだろうか。説明をせずとも、大きな状況さえ判ればいいことだって無論あるとは思う。でもこうした小さな誤解や戸惑いは、作品に対する印象のみならず、好悪さえも決定してしまうのではないか、と思う。思えば河瀬作品がどうも苦手だな、と思う原因はここらあたりにあったような気もし、確かにそれは私の理解力不足があるわけで、恥ずかしいことなんだけれども……。

演技に生々しさを追究しつつも、そして人々の日常の生活を活写しようとしつつも、用意された物語はかなりドラマティックだったりする。幼い双子の兄弟が追いかけっこして遊んでいた夕暮れ。突然、ふっと消えるようにして兄の方が行方知れずになる。神隠し……?しかしその5年後、それまで杳としてしれなかった兄の消息が明らかになる。明らかになる、と言いつつ、その詳細は明らかにされない。多分、死んでしまっていたのだろうけれど……このあたりにも、あまりに説明してくれない歯がゆさを感じる。

この幼い男の子が行方不明になる場面、そしてその後も物語中に再三描出される愛しい小路は本当に画になる。確かにそんな神隠しが起きそうで。残された弟、大きくなった彼が、かつて兄がかき消えた小路を歩き、塀の中を覗き込んだりする場面は、小さかった彼にとって小路や塀がとても大きかったのに、成長した彼にとって、そこは狭くて小さな空間であるということに、それは当たり前のことなんだけれど、ひどく不思議で、そして少し怖いような感覚にもとらわれる。
主人公である、つまり取り残された弟、俊(福永幸平)と彼の幼なじみでお互いに思い合っている少女、夕が自転車の二人乗り(彼女は立ち乗り)でめまぐるしく小路を疾走していく場面や、妊娠している俊の母親、礼子の子供が生まれそうだと聞き、彼が夕の手をつかんでその小路を一心に駆けていくとか。オーソドックスな制服姿が目にまぶしい。女の子のスカートは紺サージではなくて男の子と同じ黒なのが何か凛々しい感じ。

河瀬監督が、この母親を演じているのだ。予定されていた女優さんの体調不良によるピンチヒッター。その女優さんが誰だったのかちょっと気になるけれど、まさにこの作品世界を……言ってしまえば、私の歯がゆさを100パーセント表現している女優、河瀬直美は、しみじみ、この映画の監督なんだなあ、と思いもする。例えば、ここがクライマックスである、彼女の演じる出産シーンの表情はとても静かで、彼女を支える夫、生瀬氏の表情の方がドラマティックなのだ。そこでも先述のようなギャップを感じる。そして彼女の淡々とした出産の表情に拍子抜けしてしまう。出産シーンに対する先入観があったせいだろうと思うと、そんな自分の固定観念がヤにもなるのだけれど。
ここで生まれ出たのは男の子。出産シーンを膝を抱えて見守っていた俊は静かに涙を流す。同じ“静か”でも彼の抑えた表情から出る涙にはハッとさせられるものを感じる。兄の消息を聞いて取り乱した彼とまさに対極にあるのだけれど、やはりこれは……その兄の生まれ変わりだと感じているのかもしれない。少々ベタだけれど、彼の涙に素直にそう感じさせてもらえる。
この母親が夏の逃げようのないギラギラした陽光の中で、汗をぬぐいながら育てている一面の野菜たち。子供が行方不明になり、そして新たな子供がさずかり、祈るようにして彼女はこの野菜たちを育てていたのかもしれない。

奈良には、伝統のあるお祭りがない、というのも、監督の中では自明のことでも、やはり外の世界の人間には伝わらない部分が大きいと思う。卓が実行委員長を務めるバサラ祭りの打ち合わせの様子や、その当日の彼の挨拶などでこの祭りに関してはそうした事情は推測できるけれども、やはり全体像としては判らないし。でも、新しい祭りにしても、古い祭りにしても、根無し草ながらも一応は北の人間である私の持つ感覚と、根本的に違うな、という気がする。あるいは奈良ではなくても、北とそれ以南、あるいは以西のそれは。この奈良のお祭りの描写もそうだなと思ったし、特に南のお祭りは総じてそうだと思うんだけれども、もう生活の中にその根っこがあって、というよりお祭りは日々の生活の延長線上で、あるいは生活そのものがお祭りとさして変わらなかったりして、ケとハレの区別がないのだ。このバサラ祭りにおいてはそこまではいっていないし、ここが輝ける場所として弾ける人々は確かにハレの状態ではあるのだけれど、日常の自分たちを完全に捨て去って、とか、この時のためにそれまでの閉じ込められた生活がある、とか、そこまでの飛躍はない。彼らの輝きは、あくまで彼らの日常が培ったものなのだ。それはどちらがどうというのではなくって、同じ日本でも、これぐらい違うものなのだ、と改めて思う。私はやっぱり、一応北の人間だから……理解しきれないのかな。でも、このバサラ祭りで光り輝く夕には、目を奪われた。監督が、たくさんの女の子の中からこの子だけが光り輝いて見えた、というのが判った気がした。そしてこの夕を見つめ続ける俊。彼が彼女を追う視線がいい。視線だけで、判る。こういうのは忘れたくない。

故郷、奈良を撮り続ける河瀬監督。同じ奈良を撮る監督が他に現れればどうなるだろ、という気もする。この奈良に住んでいたり、あるいはかつて住んでいたことのある人たちすべてが、共感するわけでもないんじゃないか、などとも思ったりするのは、単に私が今ひとつ判れなかったせいなのだけれど。で、この映画、観ると元気が出るのだろうか?そういう触れ込みなのだけれど……どうなのだろうか?

ラストシーンは空撮。遠くにぽつぽつとマンションみたいなものも見えるけれど、古い街並、瓦屋根の長屋が連なるこの風景、そしてなだらかな、目に染みる緑の山々。河瀬監督は奈良が好きで好きでたまらないんだろうな、いや、愛しているのだな。それが本当に良く判る。ちょっと、憎らしいくらい。★★★☆☆


17才
2001年 72分 日本 カラー
監督:木下ほうか 脚本:猪俣ユキ
撮影:大道省一 音楽:浅井勇弥
出演:三輪明日美 猪俣ユキ 菊地百合子 木下ほうか 松田龍平 徳井優 田口浩正 田中要次 永島克 BIKKE 高岡蒼佑 村上淳 水橋研二 松丘小椰 津田寛治 三輪ひとみ 奥貫薫 浅野順子

2003/7/1/火 劇場(テアトル新宿/レイト)
イヤー!明日美ちゃん、妻になるのみならず、母になるなんて!ついこの間の電撃発表に大ショックを隠せない私。うそ、うそ、うそ、もおー、私と結婚するはずだったのに!(違うだろー!)そして本作の中で太陽のように光り輝く笑顔全開の彼女は、今はなかなかお目にかかれない紺サージのセーラーからチラリと見える素肌のウエストがすがすがしい色気を感じさせたりもし、もう少しでレイプされちゃうかも、なんていうシーンで唇を奪われ(ああ……)親友が妊娠(では結局なかったんだけど)するストーリだったりするし、何か、何ていうかもう、ああ、これが独身最後の、そしてもしかしたら10代の役最後の、このきらめきなのかも、と思うと切なくて切なくて。だから、もうすっかりそんなんだから、明日美ちゃんが出ているだけで平均点を献上しようかしらと思ってたぐらいだったんだけど、これが、どうして、なかなかヨイのでちょっとビックリ。

木下ほうか氏の監督作品だというのは知らなかったのでこれもビックリしたけれど、彼が企画、製作した「SWING MAN」が私はどーもよく判らなかったので、もし彼の監督だと知っていたら、ちょっと尻込みしたかもとか思うんだけど。もともと明日美ちゃんと、彼女の相手役とも言うべき親友役の猪俣ユキ嬢が企画し、しかもこの猪俣嬢は脚本まで手がけるという才女ぶりを発揮。で、この彼女たちの思いを木下監督は非常に上手くすくい取ってくれ、出来上がったものは、あふれる10代映画の中で最もセンスを感じさせる佳作に仕上がったのであった。それは例えば、明日美ちゃんが衝撃的にスクリーンに登場した「ラブ&ポップ」ほどには生々しい深刻さではなく、「blue」ほどにリリカルなわけでもなく、奇しくも同タイトルとなる「十七歳」ほどにティーンのアイデンティティに対するマジメなテーマを掲げているわけでもない。適度にゆるゆるで、適度に真剣で、適度に不安を抱えていて、その適度さはひどく微妙な部分で針が振れてて、時々抑えきれないテンションが襲ってきたり、ひどく残酷だったり不機嫌になってみたり、死の一歩手前まで行ってみたり、そして実際に死んでしまったり……するのである。それはまるで白日夢を思わせるような柔らかな光の中で。

彼女たちの操るフィクショナルな言葉の響きが、とてもポップできらめいていて、これが何より本作のセンスの良さを物語る。その一方で、真剣な口調で内面がナレーションされたりもする。明日美ちゃんはもちろんなのだけれど、この親友、リョウ役の猪俣ユキ嬢が素晴らしい。彼女は留年していて、「卒業する時にはハタチ、ババアだよ」などと言い、煙草を吸うしぐさのなんともカッコいい女の子なのだ。彼女から一本煙草をもらい、もらい火を受ける明日美ちゃん。その二人のシーンは、色違いのお揃いウエストポーチをしてみたりと、もちろん同性愛的なリリカルさもあるんだけれども、それより前に、やはり何か同志めいたカッコよさの方を感じるのだ。ティーン映画のカワユイ女の子たちはいっぱい見てきたし、お気に入りもいっぱいいるんだけれど、このユキ嬢を頂点に、明日美ちゃんも、クネクネとフィクショナルなガーリー、ヒトミでさえ、彼女たちは、なぜだかとてもカッコいい可愛さなのだ。これは、この違いはどこから来るのか判らないけれど、やはり企画の二人主導で作られた、その世界観なのだと思う。リアルな10代の女の子は、不機嫌で上機嫌で、芝居めいた世界を作り上げてて、テレくさくて、弱さが強さになるカッコよさ、なのだ。

それにしても、彼女たちはセンスがいい。何がって、あの、今は揃いも揃っての、ブレザーにチェックのミニスカートの制服なんぞじゃないってことだ。丈を短めにしたセーラー服は、ちょっと腕を上げればチラリと素肌が見えるさわやかなエロティシズム、ミニ丈のスカートは、まあ流行りだけど、やたらに生足を見せずに同系色のハイソでほっそりと見せ(ルーソはダメよ。あれは太い足を更に太く見せるガンダムだもん)、その足元はこれも最近はクソナマイキなテカテカした革靴ではなく、実に愛らしいぼっこりとしたスニーカーなのだ。うーん、ヨイ。もう理想100パーセント。メイクも薄めで、片方の眉だけ石原真理子(というのは古すぎ)になった明日美ちゃん、というギャグのタイミングも実にサエてる。

そうギャグがことごとに、実にセンスがいいのだ。特に、彼女たちと絡むオジサマたちのギャグがいい。「ばきゅん!」と突っ込む徳井優が特に好き。発音がひらがなっぽいんだもん。「うぅ」と返す明日美ちゃんもグーなのだ。明日美ちゃんのこうした、ツボを微妙にずらしてくるリアクションの絶妙さは随所に感じられる。友達のヒトミがフランス人の彼氏、セヴァスチャンに振られる。ヒトミは動揺して自殺未遂をするのだけれど、その罪をこのセヴァスチャンはかぶろうとする。「僕が君を傷つけたから」と彼が言ったの、と言うヒトミに、明日美ちゃん演じるアコはすかさず「かっこわる〜」と突っ込むのだけれど、「そして彼は去ったの」と続けるヒトミの言葉にコロッと「……ちょっとカッコいいかも」とつぶやく。うー、この絶妙のノリ、実際に聴いてみなきゃホント判んないんだけど、こういう会話のリズムが実にセンスがいいのだ。生々しいというほどでもなく、芝居っぽさが遊び心程度に加えている、この調子がなんともいいのだ。しかもこの後、ヒトミから彼と別れた理由を「彼、ホモだったの」と聞かされた明日美ちゃんの、アニメキャラがガーン!となった時みたいにお口をアゴが外れんばかりにぐがっ!と開け放すその表情の可笑しさときたら!「ザ・エージェント」のレニー・ゼルウィガーを彷彿とさせたりして。彼女はコメディエンヌでもいけるかもしれんなあ。

個人的にこのヒトミは好き。ヒトミ、というのが当然明日美ちゃんの実姉、ひとみお姉さまを思わせ(実際、一瞬だけお姉さまも出演。ホント一緒多いよね)明日美ちゃんが、ヒトミ、と呼びかける時、ちょっとドキリとしたりもする。で、このヒトミはモデルの仕事をしてて、彼氏はフランス人。携帯電話にはボンソワー、ジュテーム、セブー、と(書いてるこっちはかなりアヤしい)とプリティに喋り、ゆるいカールのかかった髪を指先でもてあそびながら「あたしって可愛いから、みんなに嫌われちゃうの」とのたもう。おっと、これも字面だとただのブリブリのヤなコにしか思えないんだけど、演じる菊池百合子の静かに甘めのテンションが実に上手くて。菊池百合子、この人も密かに凄いかも。「空の穴」で初めて見て、そして見るたびにあまりに違うので、いつも彼女だと気づかなくって、あとで、そうだったのかー!と驚くのだから。いつもいつもアコにまとわりついて、彼女から(もちろん、ジョークで)「私もあんた嫌い」と言われても、「またあ、ムリしちゃってえ」とへこたれない。でも、彼女とヒトミは違うクラスで、教室に訪ねてアコがいなかったりすると、実に寂しそうな顔を見せる。

17才って、何でそんなに特別な季節なんだろう。いや、特別じゃないから、かもしれない。16才のような、何かが始まる初々しいときめきがあるわけでも、18才のように、何かを決めなきゃいけない最初の壁があるわけでもない。何かが出来そうで出来ない、体の中には確かにエネルギーがあるのに休止をよぎなくされているような、ゆるゆるの時期。そして、そうでありながら、その17才という特別の響きに全幅の信頼と自信を誇っている時期。正直、私は自分が17才だった頃、こんな自信を持っていたかなあ、と思う。さっぱり、覚えがない。この教室の中にチラチラと見える、メインの行動派の女の子たちにアッサリ排除されるような中に、あの頃の私がいる。そちら側から観る彼女たちは、うらやましいようなうっとうしいような、何か居心地の悪い、ヘンな距離感だったことを思い出す。でもアコやリョウやヒトミはその輪からもふっとずれている。17才に自信があるわけでも関心があるわけでもなく、不安というほどに強い拒絶感でもない、大人と子供の資格の間を自覚し始めている。大人を騙していたい、と言うアコは、でも実はその大人が騙されているフリをしているのではないか、と思い当たる。それでは子供だましだ、と。それでもいい。いつまでも大人を騙していたい、とつぶやく彼女は、それが矛盾していることも充分に判っているのだけれど。

松田龍平の存在感にはホント、嬉しくなる。彼はその登場が強烈だったし、なにせ凄いオーラのある役者だから、いわゆるフツウの役に昇華されるのに少し苦労した感じがするけれど、ここ数作でそれもしっくりとくるようになった。しかも、彼が一瞬映るだけで、画面が湿るほどの色気が匂い立つ。最初の登場シーン、アコがバイトする喫茶店に来ている彼は、横顔が一瞬映るだけのカットなのだけれど、あ、松田龍平!とうろたえるほどにその横顔の美しさにうたれてしまう。不器用に唇の片方だけ上げているような微笑みにドキドキし、アコが彼と自転車を二人乗りしているのを夢想するシーンは、本当に、呆然とするほど画になっていて……猪俣嬢や明日美ちゃんはこの映画の企画者だし、松田龍平はこれからの日本映画を背負って立つ人で役者としてだけではなく、さまざまに関われる才能もありそうな人。こういう若い映画人がこんな風に新鮮な映画をガンガン発進していく絆がたっくさん、この映画の中にありそうな気がして、ワクワクする。

アコがリョウと朝まで過ごし、その秘密をたくさん共有する学校の屋上。映画には必ず出てくる学校もの青春映画のアイテム。でも、私は行けなかった学校の屋上。そこに行くには勇気と、秘密を持つだけの成熟が必要だった。あの頃の私にはそれがなかった。思い出の中に学校の屋上を持っている人と、いない人は、何かが違うのかも……そんな風に思うのは、嫉妬、だろうか。★★★★☆


呪怨
2003年 92分 日本 カラー
監督:清水崇 脚本:清水崇
撮影:喜久村徳章 音楽:佐藤史朗
出演:奥菜恵 伊東美咲 上原美佐 市川由衣 津田寛治 柴田かよこ 菊利友佳子 松田珠里 田中要次 森下能幸 榊英雄 松山鷹志 尾関優哉 藤貴子 石倉力 磯村千花子 大國千緒奈 藤真美穂 本田大輔 井上博一 小林朝美 藤井亜紀 小田切理紗  中條佳生里 小林加奈 斎藤あきら 横尾博之 谷津勲

2003/2/7/金 劇場(テアトル新宿)
劇場がまさに満員御礼状態で、ちょっと驚いてしまった。最近の話題作の中では前評判含め一番こみそうだと思われた「猟奇的な彼女」よりスゴいことになっているかも。宣伝のせいもあると思うけど、これはやはりビデオ作品からの口コミが大きいんじゃないだろうか?もー、あれはすっごくすっごく、怖かったんだもん!!!あれを部屋で一人、ビデオで観られる人を私は尊敬する。私は絶対、イヤだもん!私はビデオ作品の方をBOX東中野でレイトショー公開された時に観ているので、劇場という公の空間でもあれほど怖かったのに、あれをビデオで観るなんて、絶対絶対、考えられない。考えただけでもゾーッとする!それにBOX東中野というところは、今回のテアトル新宿よりももっと狭く、閉ざされた雰囲気で、逃げ出したくても(実際、逃げ出したかった)逃げられないッ!という感じで、もう、もう、もう……。しかもレイトショーだったでしょ。外出ると深夜で、本当に身も世もないほど怖かったんだもん!!

と、いうわけで、実は今回の劇場版は怖くなかった、というか、落ち着いて観られたというか。ロードショー公開だから外に出ればまだ明るいし、テアトル新宿という劇場柄、割と広々とした雰囲気があり、で、ここが大きいんだけど、本作、構成から物語から、キャラから、恐怖の見せ方まで、すべてがビデオ版の集大成、という感じだったから。つまりは、ビデオ版を勉強?していれば、どうくるかがかなりの確率で予想できるので、どこか確認作業みたいな趣。実はこれはビデオ版の2の時に既に感じていたことではあり、1を観てしまっていれば、ある程度心構えが出来てしまう。だからビデオ版の一番最初が、本当に衝撃的で、すべての面において原点の怖さがあって、それは今思い出しても何よりも秀逸な怖さだったと思う。一番単純な手法である、窓にぼんやりと映る白い姿にしても、今回も出てくる、クライマックスの階段落ち女にしても。そうそう、この「階段落ち女」は、絶対出るよね、と思ってて、いつくるか、いつくるか、という感じで心待ち?にしていたくらいなんだけれど、その造形も、ビデオ版の方がもっと、モノ凄い、トンでもない顔をしていたような記憶があるのだ。いま、思い出してウワッとか鳥肌が立っちゃったくらいなんだけど(思い出したくないわ)……まあ、それも、もしかしたら初見で、衝撃が大きかった故の刷り込みなのかもしれない。

むしろ、予想できる分、今回は純粋に?映画的な観方を堪能することも出来た気がする。見せ方が上手い、というのは、秀逸なホラー映画の基本的力であって、センスと職人的な確実な力、がないと出来ないことだと思う。そうした映像的な見せ方のセンスというのは、無論、映画作家としての力であって、別にホラー映画にこだわらないらしいこの監督の今後を期待させるものでもあるのだ。シャワーを浴びていると後頭部に添えられてくるバケモノの白い手、というのは、今回の劇場版での初の描写と思うけれど(うー、お風呂の時、ぜえったい思い出しそう!)、それをヒロインが感触で確認するのを、観客である私たちもどこか感触で受け取り(ゾー!)そしてその場面はその後角度を変えて、バケモノがシャワーを浴びている彼女を見下ろす形で手を添えているカットで確認できるよう、用意されているのだ(あー、あー、だから思い出したくないんだってばッ!)。バケモノを見てしまった恐怖で顔と身体をひきつらせたまま、仰向けに倒れている女性、バケモノ描写はもちろんだけれど、バケモノを見てしまった人間の描写は、その彼女を見るに耐えないほど怖い。顔を覆った指の間からバケモノが見えることに気づいたヒロインが、そういえば……と思い出す、数々の“一瞬見え”ショットは、通常、日常生活を送っている時にふっと背中に寒気がさすような、あの感じを思い出させ、背筋が凍りつく。あるいはエレベーターに乗っていると各階ごとに子供オバケの俊雄君が顔を覗かせているというのはまさにアイディアで、怖さを忘れて思わず、う、上手い、と唸ってしまった。

上手さ、というのは人間関係がどんどん連鎖していくところでも現われる。登場人物の名前を冠した、その人に関する小さな物語の積み重ねによる展開はビデオ版と同じだけれど、人物相関図を作りたくなるぐらい物語間で人物たちが見事に連鎖していき、最後まで見るとキレイにその輪がつながる。その中にはこんな描写……父親が恐怖の連鎖に取り込まれて死に、その因縁か、成長した娘もまたその輪に取り込まれた時、彼女が小さい時に亡くなった父親と、その恐怖の館で異次元の空間を突き破り、対面することになる、などといった、かなり時間軸を飛び越えた描写もしており、それが無理なく収斂されていくのは実際、上手いと思う。今回の劇場版はビデオ版と同じ一軒家を使っていて、その中の、部屋の様子も同じで、この場所で何度もエチュードを繰り返したケレン味のようなものが生まれている感すらする。子供オバケの俊雄君に、女オバケの伽耶子も同じで(でもこれは……俊雄君は勿論、伽耶子も違う人がやっているんだよね?)この設定とこのキャラでどこまで出来るか、という一種の到達点。設定とキャラのみならず、軽いノイズのように聴こえてくる奇妙な物音などもビデオ作品から受け継いでいて(これが、怖いのよ。音だけなのに……部屋の中で聴こえてきたら、どうしよう!?)、これもこの要素を使っての別パターンをさまざまに探っているのがうかがえる。

今回の、映画版のポイントは絶叫、かもしれない。それは予告編の時から感じていて、その最上級の絶叫の持ち主は、女子高校生。もう身も世もない素晴らしく恐怖に満ちたその絶叫、場面がなくても耳にするだけで身の毛がよだつぐらいなのだ。実際、彼女がその絶叫を発している場面、彼女は屋根裏に引きずり込まれている、のだけれど、カメラは中まで覗き込むことをせず、彼女の絶叫だけがキンキンと一帯に響き渡り、それが異常に怖いのだ。それまでバケモノをこれでもか、これでもかと見せ続けていたことを考えるとこの声だけの恐怖は異質とも言えるのだけれど、それだけに恐怖感覚も大きい。彼女はいわば、父子二世代に渡ってこの呪いを受けてしまった女の子。友達とノリで入ってしまった“オバケ屋敷”に一人だけ何かを感じて立ち去るものの、その友達たちが行方不明になってしまう……。この何かを感じた時、彼女は小さい頃死に別れた父親をその場で見ていた。というこの場面は、過去の時間軸において既に父親がこの恐怖の呪いに取り込まれていた時に提示されており、だからもはやここですべての運命は決まっていたのだ。この変形型の連鎖の輪も、上手い。この時の画は、不思議にノスタルジックな感覚さえ受ける。

しかし、この“オバケ屋敷”で死んでしまった三人の女子高生たちがバケモノとなってこの彼女を襲いにくるシーンは、どこか彼女たちが往年のゾンビ風で、しかもついつい、こういうことを考えてはいけないんだけど、カットがかかったあとで、このメイクのままヤダー、とか和気あいあいになっているんじゃないかとか想像してしまって、どうにも笑えていけない、いけない。あ、でもこのゾンビとか……監督のインタビューを読んでいると、ホラー映画がはやった頃の記憶とか、結構私も重なる部分があって(あ、そりゃそうだ、同い年じゃん!)。あの頃ゾロゾロ出てきてたホラー映画、特にイタリア製のものは、ぐっちゃぐちゃのゲロゲロなスプラッターが多く、でも監督はそういうものよりも、もっと本能的に訴えるものが好きだったみたいだけれど(私はそういうの、結構好きだったりしたんだけどね)、そういう恐怖映画の定石をまずきっちりと抑えつつ、独自の表現の地平を探っている感じが好感度?高し。

特に最近のホラー映画というと、そういうかつての内臓グチャグチャ系の、まあどこか子供の粘土遊びの楽しさの延長線上にあるようなものとは違って(むしろ今は、そういうグチャグチャ系はどこかパロディにされているしな)、人の怨念が、つまりはアナログが、デジタルのものにまで侵入するような、文明の利器とかそんなもののすべてを凌駕する気持ちの怖さにあるような、気がする。本作も、電話をジャックし、テレビをジャックし、そうした“文明の利器”に頼りきっている人間を恐怖のどん底に突き落とす。実際、電話にしてもテレビにしても、ひとりの心細さとか怖さを紛らわす手段の一つであって、この、いわば人間の作り出した最後の砦までもが、バケモノに支配されることは相当の恐怖。でもそれは、たかがこんなことで、という人間の弱さでもあるのだ。電話だってテレビだって別になくても生きていけるはずなのに。あの、テレビ画面が切り替わらず、女性アナウンサーの顔がグニャリとゆがむ恐ろしさときたら、もともとテレビなんてただの画像に過ぎないはずなのに、そしてグニャリと曲がるのだってそうなのに、どうしてこんなに怖いんだろう!

今回は奥菜恵などのビッグネームが、返って恐怖を減じていたような気もしなくもない、のがちょっと気になった。あ、ところでこの監督さん、「富江 re−birth」の監督してたんだ。「富江」シリーズで唯一観逃していたものが、よりにもよって……。★★★☆☆


蒸発旅日記
2003年 85分 日本 カラー
監督:山田勇男 脚本:北里宇一朗 山田勇男
撮影:白尾一博 音楽:CAME 藤本和之
出演:銀座吟八 秋桜子 清水ひとみ 住吉正博 藤繭ゑ 夕沈 飯島大介 近藤京三 伊藤博幸 樫山圭 日野和彦 石川真希 稲川実代子 浜菜みやこ 林裕子 松沢有紗 木下真利 七海遥 高野早苗 中川惠太 五十嵐小夜子 斉藤太郎 福田作男 和崎俊哉 和田幾子 田村高廣

2003/7/24/木 劇場(渋谷ユーロスペース)
私はこの人、山田勇男監督の世界が大好き。長編では久しぶりだけれど、短・中編をみられる幸運な機会があって、のめりこんだ。そうした短いフィルムの名手だけに、長編ではどうなるのかと(特にこういう、エピソードが連なるような作品の場合は)とも思ったけれど、そうした懸念をまるで感じさせないのはさすが、と思う。最近、この点に関して違和感を感じる作品が多かったから余計に、このさらさらと流れてゆく世界に浸りきれる幸福を思う。色ガラスの濡れた美しさ。完璧なフィクションの中に、不思議としめつけられるような切なさと懐かしさが満杯になっている。完璧なフィクションは、子供の頃、いや今だって心の引き出しにそっとしまいこんでいる場所だ。主人公の津部はありったけの金と時刻表だけを持って旅に出る。ああ、私もこんな旅に出たい、と思う。この設定からしてもはや完璧なフィクションだ。そして旅の始まりとなる列車の中も、流れる外の景色や振動さえ、ない。時間と空間の経過は淡い黄色の、あいまいな流れによって示される。

ロケーションでの撮影でも、その画はまさに細密に計算され、何の揺れもなく完璧なフィクションを構築している。どこかでふっとガッカリさせられることがまるでなくて、その世界の色と形に完璧に塗り上げられている。きっとこの場所を実際に見ても、まるで違う場所のように感じるのだろうと思う。残酷なまでに、その世界のために奉仕しているその場所。折々差し挟まれる大きな雫と、なめらかに、しかしその下では一定の速さで流れているのを感じさせる光る水面。そして何より文字盤からもう逆になっている時計!

冒頭の、緑の水面がいっぱいに広がって、小さな黄色い陸が切り取られている、この画だけで既に完璧、参ってしまった。つげ義春の世界はさまざまな映像作家によってビジュアル化されているけれども、これほど完璧なコラボレーションはかつてなかったんじゃないかと思われる……というほど、私はつげ氏の世界を見知っているわけではないんだけれど。ただ、山田監督のもともと持っている世界観というのが、このつげ氏の世界を表現することに対して、何かを妥協するとか合わせるとか、そういうことが一切感じられないのだ。そこにはつげ氏の世界を語る、山田監督の世界が、双方100パーセント完璧に存在していて、その奇跡のコラボに震える。コラボといえば、山田監督の美術センスを実際のそれとして構築する美術監督の木村威夫氏とのコラボも何という幸福な出会い。時計の音が重複して聞こえてくるモノトーンの喫茶店の造形など、なんという素晴らしさ。

もともとはモノクロの世界観の中で構築されているつげ氏の漫画世界を、山田監督は目も覚めるような原色の中に描く。いや、目も覚めるような、というのはかなり見当ハズレな言い方だ。一見、ハッとするほどの美しい赤や黄色を使ってはいるものの、それらの色は空気や光の色になってその世界そのものを沈ませてゆく。時々その色の鮮やかさに突然気づいて、ハッとさせられるような。例えばストリッパーの少女が赤いつややかな布を自在に操って舞う、津部氏の空想の中での幻想シーンなど、鮮烈なほどの赤と彼女のふくよかな白い肢体の対照に突然、圧倒される。しかし、私たちはいざなわれている、隅々まで。その世界の中に溺れている。だからそんな風に時々気づくだけで、この原色の世界との距離感がないのだ。そこに入ってしまっているから。でもこの赤い光、時々画面にしずしず侵食してくるこの赤い光には、説明のしがたいざわざわした気分をかきたてられる。不安、とひと言で済ませてしまうのにはあまりに蠱惑的な。

時計の音が、絶え間なく聞こえる。いつもならせかされているように思えてあまり好きではない種類の音。それがここでは、こんなにハッキリとコチコチと聞こえているのに、なぜか、気にならない。時々、幸福にさえ思う。文字盤は逆回り。時間は進んでいるのか戻っているのか判らない。いま旅しているこの時間が、未来への希望とは到底思われないけれど、かといって過去にタイムスリップしているわけではない。行っても行っても物理的な時間が流れていないような感覚にとらわれる。津部が行き着いたところは彼がどこかで夢見ていた場所。そこには少々のお喋りをガマンしさえすれば幸福になれる結婚相手がいて、その一方で何もかも捨ててついていこうと決心しかけるはかなげなストリッパーがいて、その双方の少女はどこか、何だか似ているのだ。髪形だけかもしれないけれど、その髪型が似ているというのが、ひどく切なく、どこか残酷にも思える。心に忘れられない少女を抱えながら、あのお喋りな女と結婚しようとする自分が。

津部が結婚しようとしている女も、一瞬のヌードを見せるけれども、あのストリッパーの少女と比べて胸が薄く、幼く見える。しかし彼女は別れたダンナがいて人生の辛酸をある程度は知っており、突発的に結婚しようという津部に一度東京に帰ってゆっくりお考えなさい、と説く。津部だってさまざまな辛酸を、彼女よりももっとたくさん知っているのかもしれないけれど、彼は彼女のような選択をしない。蒸発してきて、その逃げてきた先で誰かと結婚し、静かに暮らせればいい、と思う。こんな風に「蒸発してきたんです」と言って現われた男と、すんなり添い遂げられる女になれたらどんなにいいか、と思う。でもきっと女にはそれができなくて、だから男と女は永遠にすれ違うのかもしれない、とも思う。そしてここで津部は東京に戻り、きっとそこでは彼が蒸発してきた時から時間が経っていないのだ。

津部はプロポーズしたこの女から一週間の猶予をくれと言われて、その間さまざまにさまよい歩く。彼はさまざまな人に会い、さまざまな場所に行き、時には「こういう穏やかなところで静かに暮らしたい」という場所にも出会うのだけれど、そういうところにはいつでも先客がいて、彼は穏やかにその背中を押されるのだ。人にはそれぞれの居場所があって、きっとそれはいつでも同じ場所で、そこではないと、どこか別の場所を探したいとさまよい歩いても、こんな風に静かに背中を押されて、回りまわって、同じ場所へと帰ってきてしまうものなのかもしれない。最後の一押しが、あの女の「一度東京に帰って」という言葉だったのかも、と。この場所ではないところに行きたいと切に願う者にとって、それは時に、ひどく残酷なことなのかもしれない。場所というのは、判りやすい空間的なそれではなくて、彼自身が魂をうずめる場所。時間が経過していないと感じるのはそのせいかもしれない。彼は魂の場所を探してさまよっている。空間としての場所、東京にいることが、空間が魂にまで侵入してきて、彼にその場所を見失わせてしまったのかもしれない。

その間に出会ったのがストリッパーの少女で、お姉さんと慕う先輩ストリッパーの代打で出演していた踊り子。先輩ストリッパーは子供を抱え、彼女を崇拝するマネージャーとともにいつかこんなヤサ暮らしを脱出する日を夢見ている。いや、夢見ているのはこのマネージャーだけかもしれない。津部は彼をぼんやりと見つめ、もしかしたらやはりそれは、彼のことをうらやましいと感じていたのだろうと思う。代打のストリッパーの少女に、津部は魅せられる。彼女の胸に顔をうずめ、こうしているだけでいい、と言う。こうしているだけでいいというのは判るし、そんな感覚を女も夢見ているけれど、きっとそれを言われたとたん、女は不安にさいなまれるのだ。そこには“こうしているだけ”の先の時間がないから。

彼女は彼と床を共にするものの、彼を優しくかき抱き、「東京の人は、優しいね。優しい言葉を使う」と言うだけで、彼ら二人が交わるシーンはない。ただ単にそれを暗示させているのかもしれないけれど、やはりそこには、私にはそういう匂いは感じられなかった。この胸の豊かな少女にそれが感じられなくて、津部がプロポーズした胸の薄い女に、しかも彼女とは確かにそんな行為には及んでいないはずながらも、そんな肉の匂いを感じてしまうというのが、津部も、そしてこの二人の女性も、ひどく悲しく感じられた。優しい言葉だけを信じて一緒にいられたらいいとも思い、一度身体を交わらせて実感がほしいとも思い、しかしそのどちらもなんと確信のない、不安に満ちたものなのか。彼女たちはこのそれぞれの理由に従って、彼から離れた。こんな風に確信を欲しがる女を同じ女だからなのか、あまりにも判って、そしてやっぱりなんだか悔しい。津部のようにひとりでさまよえる男が、それは弱い心から来ているのかもしれないけれど、でもやはりそれは女には出来ないと、うらやましいと思う。

でも、そう言いながらも、女は待っているのだ。津部を東京に送り出しながらも、あの看護婦の女は、彼に死んだ兄の形見だという面を託し、「いつまでも待ってますから。本当ですよ」と囁き、去ってゆく。その面は、匂やかな、なまめかしい女の面。日本の女面はどれもそうだと思うけれど、この面は特に、つけて舞うとことさらに、セックスの悦楽の表情を色濃く漂わせる。その半開きの唇が、あおられるように下から切り取られたカットにドギマギするほど。この面をつけた能さながらの場面、こういう描写は日本映画の中で時々見かけるけれど、ここまでパーフェクトにその美的世界を作り上げているのは観たことがない。まるでぽかんと口を開けっ放しにして、酔いしれるほどに見とれてしまう。面が映しだす人間の生々しい表情を、しなやかで早い、緩急のある舞の中で見せる。こんな風に美しい日本文化をもっと映画の中に観たいと思う。日本映画でしか出来ないのだから。

エピソードの合間ごとに、どこかコメディリリーフとして現われる煙草売りのおばさんのシュールさや、少女か少年か一見して判別のつかないような子供の、清らかながらも不思議に悪魔的な美しいヌードも忘れがたい。この世界にいて、いつでも彼を待っている住人たちだ。この世界の住人たち……主に老人たちがじっと見つめる中を、田村高廣(!)扮するおじいさんにつれられて黙々と津部が歩くシーンなども頭にこびりつく。それにしてもこの津部役の彼である。この作品に主演するにあたって、美術の木村監督に銀座吟八、という美しい名前を授かった彼の素晴らしさが大きい。小柄な体の中に、孤独な空気を溜め込み、異世界に紛れ込む、魂をなくした男の顔に、ちゃんとなっている。静かに静かに語る彼のナレーションによって進むこの世界の構築は、キャスティングが失敗していたらありえなかった。いろんなところにいい役者というのはいるものなのだ、と思う。

津部の部屋、逆回りの文字盤の柱時計から長く伸びた影が、男の形になっているラストシーンは、そういえば光でも色でもない、影こそがこの映画の主役だったのかもしれないと思うと、何か背中がざわっとする。どこか心地いいようなざわめき。彼は影を置いていったのだろうか。自分の代わりに。影にはなくした魂が、落ちていたのだろうか。★★★★☆


昭和歌謡大全集
2003年 112分 日本 カラー
監督:篠原哲雄 脚本:大森寿美男
撮影:高瀬比呂志 音楽:池頼広
出演:松田龍平 岸本加世子 池内博之 斉藤陽一郎 鈴木砂羽 市川実和子 古田新太 村田充 近藤公園 原田芳雄 内田春菊 細川ふみえ 森尾由美 安藤政信 樋口可南子

2003/11/14/金 劇場(上野スタームービー)
うー、篠原監督久々にハズしちゃったなあ。観ている最中、自分からこんな言葉が出るとは思わなかった「つまらない」だなんて。どうしてこんなトンガッた稀有な構成とテーマの話を、こんなにダラダラと語るの。どうしてこんなフツーの映画にしてしまっているんだろう。
もともとどちらかといえば良心的なタイプの作品を作る人ではあったけれど、でも年を追うごとに、最初のイメージからどんどん羽ばたいて、驚くほどジャンルにこだわらず、職人的に手を広げて成功した人だったのに。
本作に関しては、描き方の“選択”を誤ったような感じを受ける。例えて言えば、「木曜組曲」の時に見せたようなスリリングなカッティングとスピード感を、どうして選ばなかったのかなあ、というような。
今から10年前に書かれ、物議を醸したという村上龍の原作は気になるけれど未読(給料前で買えん)。恐らく、確実に原作の方がスリリングな面白さがあるんじゃないかと思う。
原作者は映画をホメてはいるし、何と6回も観たと言っているんだから原作者にとっては満足なんだろうけれど……でも納得がいかない。「まるでスポーツやダンスを楽しむように殺し合いを続ける青年たちとおばさんを描きたかった」と原作者が語るこの物語の特異性を、この映画が再現しているとは思いがたいから。そういうカラッとした狂気こそがまさに欲しかったのに、まるで感じられない。それを表現するために、ヘンにガチャガチャしたつくりにしないよう、淡々と語ったのかもしれないけれど、それはあまりにも普遍的過ぎる語りで、結局フツウなのだ。加えて、今の映画って秀逸にとんがっている映画が多すぎるから、余計にその凡庸さが際立ってしまう。

こんな復讐の復讐をするから話がややこしくなるのよねーって、ま、復讐の時点でもうややこしいけど。だって、心当たりがあるなら警察に任せろよ、って話だし。
そりゃまあそんなこといったら話自体が成立しないんだけどさ。そういうことを言いたくなるのは、そういうツッコミをチャラにしてくれるほどの弾け方をしてくれないからだろうなあ。

で、少年VSおばさん。復讐が復讐を呼ぶ殺し合い。そもそもがありえない話で、こんな妙にリアルに見つめるからつまんなくなっちゃったんじゃないんだろうか。ありえない話はありえない画で見せてくれなきゃというか。いや、確かに画はありえない。こんなのありえちゃたまらない。最初のおばさんからの復讐は、身近なものを使うことがコツだと言って、“ラッタッタに乗ってダスキンの先につけた包丁で刺す”だなんてまさにありえないのだ。ただ“ありえねー!”と驚くような見せ方になっていない。普通に見てしまうのだ。ああ、と。それじゃヤなのよ。喜びたいのよ。“うっそ、ありえねー!”って。このやたらと本格的な殺戮はもはや戦争で、で、戦争のバカバカしさなのだもの。“ありえねー!”と手を叩いて喜び、そして一方でその狂気にゾクッとしたいと思うのは、戦争のバカバカしさなのだもの。それがなきゃ、それがなきゃ、ダメじゃんー!

で、もうひとつ。この物語の特異性の一番に挙げられる昭和歌謡なんだけど……。殺しごとにくぎられるそれぞれの挿話に、ひとつひとつそのテーマとなる昭和歌謡が与えられている。パンタロン風衣装と帽子にベッタリメイクとアナクロな振り付けが印象的な冒頭、SMボンデージから華奢で骨っぽい手足が見えてるセクシー?なステージング(の後には殺戮が待っている)のクライマックス、そんな少年たちのパフォーマンスはかなりの見所だけど、でもやっぱりこの二つぐらいで、しかもこの魅力は予告編で使い切っちゃっているのだ。昭和歌謡に物語がのっとられるようにバンバン彩られているようなヴィヴィッドさを勝手に期待していた私は、え?昭和歌謡はどこいっちゃったの?この意味はどこにあるの??などと戸惑ってしまった。だって結局印象としては「カラオケで歌われている程度」みたいな感じなんだもの。例えばこの昭和歌謡の部分をスパッと斬って捨てたって、この作品の印象はさして変わらなかったんじゃないかと思う。そ、それじゃ意味ないじゃない。昭和歌謡に自らの心情や気分を託して暴走するっていう、大衆感情を逆手にとったそのシニカルさこそが命なのに、このとりあえず歌っといてあとは物語を語りましょう、だなんてまるでヤッツケじゃないの。肝心の“昭和歌謡大全集”自体の魅力がフツーの展開に埋没されて何の意味もなくなってしまっているだなんて、失望したってそりゃしょうがないんじゃないのかなあ。

フツーの展開、というのはそれでもギリギリいいことを言っているつもり。正直言えばこう言いたい。ただダラダラと見せられている、って。それに意外に松田龍平が印象に残らないのもキツい。キレた映画がフツーの映画になっちゃったから、だろうと思う。松田龍平は、よくとがれたナイフがサヤ無しで無防備に握られている状態の俳優。まだまだフツーの映画に柔軟に対応するような器用さなど、いい意味で持ち合わせていないのだ。
彼が原爆作る場面のナンセンスとリアルが混在する感じは好きだったけれど……。
それに、松田龍平が歌手デビューすることはない……な。うーむ、今の子には珍しく?この不器用な歌い方は愛しいのだけれど。
というより、少年VSおばさんと言いつつ、おばさんチームの方が印象が強いのだ。少年キャストは皆旬の俳優ばかりで固めていて、こちらの方が大きな話題になっているにもかかわらず。それともそう思うのは、私がおばさんだからかしらん……。
最終的におばさんを皆殺しにしたのは松田龍平演じるイシハラなんだけど、最後にひとり残されて、皆殺しの後に自死を選ぶしかなかった彼、ひいては少年たちの方がやはり負けだったんじゃないかなと思う。

でも、このおばさんチーム、女くさい言い回しがかなり違和感を感じる。女なんだからそうなんだけど、で、どこがと具体的に言われると困るんだけど、何ていうのかな……“男が考える女言葉”みたいな感じ?あまりに女言葉過ぎてワザとらしいというか……何でだろ、原作が、だろうか。それとも脚本が?
何にせよ、このおばさんたちというのが、おばさん、という言葉から連想するオカン系のオバハンじゃないというのが意外というか。少年たちに手を貸す金物屋のオヤジ、原田芳雄が嫌悪するのもまた、そういう優雅系のおばさん、なのである。それもまたいっじょうに反応するから可笑しい。大きな窓のあるレストランできのこのスパゲティ食べるような、という言い方には思わず大爆笑。そう言われると、彼がそうしたタイプのおばさんを毛嫌いする気持ちがなんとなく判る気がするのよね。
うん、原田芳雄はひとりで可笑しかったな。そのほかにも古田新太とかコメディリリーフは登場するんだけど、本当に可笑しかったのは原田芳雄のみ。この人の、シリアスな外見で思いっきり真剣にアホらしいことを言うってあたりが笑えるのだ。だから古田新太じゃ逆にダメなの。彼はその外見からもうコメディリリーフだって判っちゃうんだもん。そうすると、その予想の範囲を超えてくれないと、全然可笑しくない。人を笑わせるのって難しいんだよなあ。

おばさんたちは、ミドリ会、という名のもとに集まっている6人。皆ミドリという名で一様に離婚していてひとり者である。最初に殺されたヤナギー(内田春菊)、そのお通夜に訪れた別れた夫と息子がどこかせいせいした表情をしていた、ということからも判るように、彼女らはひとり身で気楽な身分である一方、誰からも必要とされない絶望的な孤独感をも共有している。それは逃げ場となるべき仕事においてもそうである。この会の提唱者であるスズキミドリ(樋口可南子)はバリバリのキャリアウーマンなのだけれど、家庭を崩壊してまで仕事にかじりつくのか、みたいな職場の目に耐えられなくなっている。女は家庭をもってナンボみたいな風潮が世間にはまだまだ、まだまだ、まだまだ!あるのだ。

でも多分、離婚するとヘコむのは男性の方なんだろうな、と思う。慰謝料とか養育費とかもあるし。ま、それをマトモに払ってる男性がどれだけいるかというのもよく問題になるけれど。
女は基本的にツオイから、頑張っちゃうし、頑張ることで輝いちゃう。離婚していながら、そしておばさんながら(でもこの年でおばさんとかやっぱり言われるの?私の感覚ではせいぜい50以上、なんだけどなあ)皆思いっきり女の色香を発揮しているのはきっとそのせい。
岸本加代子なんてイメージにそぐわず?(失礼〜)年下食いで、部下から一発やりませんかとか言われるし、最後のシーンではホテルでの艶姿なんぞも見せてくれたりして。個人的にはロケットランチャーぶっ放す樋口可南子が好き。そういうシーンでさえ色っぽい彼女だから、クラシックを聴きながらの自慰場面なんかヤラしいというよりホントきれいで見とれちゃう。しかしここはやはり鈴木砂羽だろうなあ。カラオケスナックでツバメ風の男の子に口説かれ、トイレで×××な行為に及ぶ、その美脚のセクシーなこと!しかし背中のファスナーを降ろすとそこにはピップエレキバンが……あうう。この年になるとね、もう、しょうがないのよ。病気じゃないかってくらい頭から腰までもが凝るのよ。ホント、しょうがないんだってば。

でもこういう気のゆるみこそがおばさん、と言われてしまうゆえんなんだろうなあ。原田芳雄扮する金物屋のオヤジが言う、進化しなくなれば皆おばさんになってしまう、という意味がここらあたりに集約されている気がする。進化、というのは多分、こういう対人間に気を払わなくなるような部分なんじゃないかって。
で、そうなると殺されるしかないわけ?原爆で!すげー話だなあ。うん、すげー話なんだけど、そう見えないこのつくりが……しつこい?

たった一つ好きだったのは市川美和子。この“地縛霊のような女”は、逆で地縛霊とコミュニケーションがとれる女なんである。彼女ぴったりすぎるんだもん。彼女はそれこそ特異な顔してるし、まさに幽霊みたいな先細黒髪がコワイし、で、この彼女の場面だけはカッティングとかキレがいいのよね。なんでここだけ?って思うんだけど。この畳み掛け方の無意味さが好き。そ、こんな風に無意味がキッチュな魅力になるような映画が観たかったのよ。

少年たちが食べてたすきやき、肉固そうでしょっぱそうでおいしくなさそうだったなあ……。★★☆☆☆


ジョゼと虎と魚たち
2003年 116分 日本 カラー
監督:犬童一心 脚本:渡辺あや
撮影:蔦井孝洋 音楽:くるり
出演:妻夫木聡 池脇千鶴 上野樹里 新井浩文 江口徳子 藤沢大悟

2003/12/16/火 劇場(渋谷シネクイント)
こ、こらッ!妻夫木ッ!あんた、そのキスは演技じゃないでしょ、本気でしょ。ちーちゃんに対して何てことするのよー!い、いやちーちゃん、あなたいつの間にそんな……そんなの誰に教えてもらったの!ああーっ!!

ああ、この子にはいつもビックリさせられてしまうのだ。いや、この子、だなんてもう失礼。でもこのベビーフェイスだからやっぱり驚いてしまう。思えばその最初「大阪物語」から、この幼顔での(実際、幼かったし)物怖じしない存在感に腰を抜かさんばかりの衝撃を受けていた。池脇千鶴。この人はスクリーンに吸いつくような映えを見せる女優、まさしく映画女優。
脚本家としてその「大阪物語」からのつきあいである犬童一心監督とは、思えばそこから既に相性が良かった。監督と女優として初めての顔合わせだった「金髪の草原」で、すでに犬童監督は彼女に恋人との朝のシーンを用意し、その大人の女の顔を見え隠れさせていた。それだけのことが出来ると、早い段階から見抜いていたのだ。そして今回ヌードも含めたラブシーン、ことに何度も用意されるキスシーンの情熱的な濃厚さに目を見張る。そうついついそのベビーフェイスに騙されてしまうけれど、彼女はいつのまにか大人の女優に成長していた。

逆にベビーフェイスだからこそ、生々しい。彼女が躊躇なくするりと見せるヌードも、可憐なつぼみのような乳房がグラビアアイドルの形のいいそれとは全く違って、普通の女の子の生々しさを感じさせる。いやらしい生々しさじゃなくて、本当の、生身の人間の女の子のリアル。
それにしてもこのキスシーンは……。普通にスケベな男の子をさらりと好演するあたりが意外だった妻夫木君は他の女の子に対してもやたらと積極的だけれど、千鶴嬢とのキスシーンの、本当に好きあっている同士の、恋人同士の粘っこさが素晴らしかった。キスって、セックスより感情的で官能的だということを、改めて思わせてくれる粘っこさ。素晴らしかったといいつつ、嫉妬に身を焦がしているのだけれど……うぅ。
思えば「g@me」で、形としてはキレイだけれど、いかにもスター同士の乾いてくっついちゃうキスシーンに物足りなさを感じていたから、ああ、やっぱりちーちゃんは(もはや彼女しか見とらん)違うなあ、と見とれる。何度も言うようだけど、彼女は見た目で騙されてしまうけれど実際は根性入った根っからの大阪女だから、女優に対する根本的な気合の入れようがぜっんぜん違う。

でも、本当の本当は、最初はちょっぴり違和感だった。そう、私は千鶴嬢のことをこれだけ買っていながら、可愛い可愛いちーちゃんとしてベタ惚れだった部分がやっぱりあったから。ぐしゃぐしゃの髪におびえ気味に顔を隠し、ドスのきいた声とドスのきいた表情で登場する彼女にあれれ?と思ってしまったのだった。ありゃりゃ作ってる、と。でも違うのだ。私の方があまりに先入観を持ちすぎていた。あるいは、今まで彼女に振られた役が、先入観を持たれすぎていた。彼女は可愛いだけの女優じゃない、無論。それは判っていたことなのだけれど、しんから判っていたわけじゃなかった。そして犬童監督は彼女の無限の素質を最初から見抜いていたのだ。

劇中の登場人物が「リアル身障者、初めて見た」などとかなりギリギリのことを言いながら、そして世間の差別的視線もきっちりと織り込みながらも、ひょっとしたら甘いと言われかねない世界観はしかし、彼女が強い女だからなのだ。
健常者には身障者の世界を、真実味を持って理解することは出来ない。だから時々及び腰になってやけに美談になったりする。身障者が繊細な心を持っていたり、やたらいい人だったり、けなげだったり。
強い女、というのもその系譜に入るのかもしれないけれども、でもここまでふてぶてしいほどに強い女を描いているのは見た覚えがない。

と、思うのはラストの彼女を見た時である。あれほど車椅子を嫌がっていて、乳母車や恋人の背中におぶさっていた彼女が、電動車椅子を操って買い物に出かけ、一人で料理を作っている。美味しそうな脂をじゅうじゅう言わせている焼き魚。味見をして満足そうに笑みを浮かべるジョゼ。その姿はカッコいいのだ。女一人のカッコよさ。
恋人の恒夫と別れた時は正直、何で!?と思ったのだ。この彼は運命の人だと思った。そしてこの時にはまだまだ彼女は弱かった。ずっと世話してくれたおばあさんに死に別れた直後。「帰れ言われて帰るようなヤツは帰れ」とメチャクチャ矛盾することを言いながら、彼の背中を叩き続けるジョゼの心が響きすぎて痛かった。痛すぎて、もう激痛ってなほど。ずっとここにいてくれと請いて泣くジョゼ……彼女の無愛想な態度は弱さを隠すよろいだったのだ。
でも最後に彼女と別れて泣き崩れたのは男の方。「自分から逃げた」と言いつつ、その姿はフラレた男そのものである。彼は彼女の持つ人生の重みを背負いきれなかった。そしてその人生の重みを彼女自身は自らの責任をもって背負い、生きていくことができる強さを持っていたのだ。

確かに身障者を真実味を持って描くことは難しい。
ことに“足の悪い女”というのは、ペシミスティックなエロを感じさせるという点で映画的ではあるけれども、それだけにその問題に関してかなり危険であることは事実。
しかし本作はその“ペシミスティックなエロ”を感じさせている間に彼女自身が強さを獲得していき、最終的に身障者の、というのではなく一人の人間としての、一人の女としての強さをスクリーンに焼き付けることに成功している。

この言葉から、急に惹きつけられたのだ。
「あの雲、持って帰りたい」
それまでは、池脇千鶴という女優の作り出すジョゼというキャラクター、みたいな見方だったのが、この言葉とその響きにきゅっと吸い込まれた。池脇千鶴ではなく、ここにいるのはジョゼだと確信した瞬間だった。
初めて昼間の外に出た女の子の、初めて昼間の空を見上げた女の子の、口をついて出たその言葉。大阪弁の、その調べ。
そこには文学の香りが漂っていて、身障者の、とか映画の、とかいうのとは違うものだった。原作が文学なのだから当然といえばそうなのかもしれないのだけれど、その文学の中にサガンという文学がまたあって、その登場人物の名前を自らつけているジョゼが、彼女自身が文学としての香りを身につけている。
彼女に生々しさや強さを感じながらも、一方でどこか夢のような美しさや優しさもあるのは、その空気を取り込むことに成功しているからなのだ、きっと。
ネイティブ大阪弁を駆使する彼女は、しかしその大阪弁はあくどくない。このキャラではかなりドスのきいた声音を使っているにも関わらず、まるで詩の様な余韻を残す。いや、音楽のような調べといってもいいかもしれない。

バイトで犬の散歩をしていた恒夫の前に突然滑り降りてくる乳母車。噂の謎のおばあが押して歩いているその中には、足が動かない女の子がいた。……包丁を持って、彼を上目遣いに睨みつけながら。
圧倒的な、登場シーン。その女の子は自分のことをジョゼ、と名乗った。近所の噂になるから、と閉じ込められたまま生活をしているその女の子は、おばあがゴミ捨て場から拾ってくる本をむさぼり読み、大学生の恒夫よりも豊富な知識を得ていた。そして作る食事は最高に美味。
このご飯に惹かれて恒夫は通うようになる。「また食べに来よったで」と無愛想に、迷惑そうにさえ思える調子で迎える彼女。
でも、恒夫はジョゼのことが最初から気になっていたに違いない。ジョゼの方だって。
男に食べさせる、という行為は、母性そのものだ。そして同時にエロティック。
実に嬉しそうに、美味しそうに食べる妻夫木君は好青年そのものだけれど、美味しく食べる、食べさせる行為は欲望とそれが満たされることの全てを引き受けているのだから、エロティックで当然なのだ。
「うちが作ったんや。美味くて当然やろ」そう言い放つジョゼの台詞も勘ぐろうと思えば相当にエロだ。

不思議なタイトルの特に後者の方は、そのエロティシズムをまた違う方向から感じさせるものだった。
大きな貝殻のベッドに、カラフルな魚のライティングがゆらゆらとうごめく趣向のラブホテル。普通に考えれば、ちょっとキッツい。
でも「あんたとここで世界で一番エッチなことをするんや」と言って入ったジョゼは、この魚たちに取り囲まれながら、夢のような話をする。
自分は海の底にいたんだと。暗い暗い、海の底に。
寝物語の睦みごと、ぐらいに軽く聞き流している風の恒夫と違って、ジョゼはマジメな顔つきである。
暗い暗い、海の底……。
押入れの中にいたジョゼのことを思う。その中で暗いランプの下で一心に本を読んでいたジョゼ。
押入れの暗い限定された空間。そして暗い海の底は、生暖かい水に満たされた暗い空間。
子宮、を思わせはしないか。女そのものの。
そこで育まれてきた自分。母性そのものの時間と空間。
子供は皆、女から生まれてくるんだ。それを知った時から女は強くなれる。男は知らない方がいいことなのかもしれない。
だって、この時から「それでも数ヶ月一緒に暮らした」後、恒夫はジョゼといられなくなってしまうのだから。

彼女という存在に負けた形で別れた男は心の中でこうつぶやく。別れた後も友達になれる子はいるけれど、ジョゼはそういう女じゃない、と。
ふと考えてしまった。普段の私なら、それこそが女のソンな部分なのだと思っていたから。男にとって女は人間として対等じゃないとか、そういう風に考えてしまっていたから。
でも、“別れた後も友達になれる女”と、“そういう女じゃない女”と、どっちが重みをもって響いてくるかと言われたら……本作の中に限ってのことかもしれないけれどそれは圧倒的に後者なのだ。
ジョゼという女の子。その永遠。
“そういう女”じゃなかったジョゼは永遠として刻まれるから。

ジョゼの出現で恒夫をとられた女の子は、彼女に対して敵意むき出しにこう言う。
「正直あんたがうらやましいわ。そういう武器を使えるのが」と。
何てヒドいことを言うのかと思ったけれども、これに返すジョゼがまた痛快だった。
「だったら、あんたも足切ったらええやん」
キッツイ殴り合いをする二人。ジョゼに付き添ってきた小学生の女の子は背中向きになってじっとしている。
うーむ、小さい時からいい勉強させられてるなあ??

何てヒドいことを、と確かに思った。あんただって女の武器を使って彼に近寄ったじゃん、と。でも、こんな風にストレートにジョゼに悔しさをぶちまけ、殴り合いまでする彼女に、あ、この子の方が対人間として向き合っているんだ、と思う。
それは、恒夫がジョゼと一緒にいることをこの彼女に「俺がいてやらなきゃ」などと説明していたから。
何言ってるの、あんたがジョゼにホレたんじゃないの、と。ジョゼに「してもいいよ」と言われた時、「俺、泣きそう」っていうぐらい感激してたくせに。彼女が布団を敷くのをそろえた膝をついてじっと待っていたくせに。
ジョゼに触れたいという気持ちがある過ぎるくらいあるくせに、「俺は隣のエロ親父とは違う」だなんて。「どこが違うの」と、ジョゼがあの時言っていたように、何にも変わらない。イイ人の衣をかぶるコイツの方が始末に悪い。あんたと違って彼女は、いや女は生きていくためになりふりかまってなんていられないのだ。
こんな風に元彼女に言い訳するなんてあまりにバカにしている。そんなにあんたはイイ人なのかと。元カノもそれを感じたからこそ、ジョゼに向かって“武器”などという言い方をしたんだろうし、それに憤りを感じたというのはある意味、恒夫に対してジョゼの代わりに怒ったのだとも言えるのだ。
ひょっとしたらこの時点でそれに気付いていなかったジョゼの方が、あるいは……。

「俺がいてやらなきゃ」などと言いながら、最後までいてやれなかった男は、負けなのだ。
ジョゼを田舎の両親に紹介しようと旅に出たはずが、途中で怖気づいて戻ってきてしまった恒夫。ジョゼは最初からこの世にたった一人の自分であることへの覚悟があったのに、彼にはそれがなかったのだ。
哀しい勝ちだけれども、最終的な勝負は、ジョゼの勝ちだった。

「さよなら、クロ」の時には、一人の女の子を取り合った親友同士だった妻夫木君と新井浩文が、ジョゼを介して再び顔を合わせる。この縁の不思議。朝井浩文は本当に驚くべき新進役者。ジョゼが彼の母親だと言ってはばからない幼なじみのヤンキー。そり上げた眉とパンチな髪型からくる容姿と、乱暴どころじゃない物言いは100パーセントカンペキな怖さ。しかし一方で旅行中犬を預かることを承知する彼は、この小さな犬を優しく横抱きにしてそっと出てくるのだからもう笑ってしまう。新井浩文、あんたは何なの!素晴らしすぎるではないか。

ねえ、ジョゼ。今のあなたは素敵だけれど、でももう恋はしないの?ジョゼ……。★★★★☆


ションベン・ライダー
1983年 118分 日本 カラー
監督:相米慎二 脚本:西岡琢也 チエコ・シュレイダー
撮影:田村正毅 伊藤昭裕 音楽:星勝
出演:藤竜也 河合美智子 永瀬正敏 鈴木吉和 坂上忍 原日出子 桑野将大 木之元亮 財津一郎 村上弘明 寺田農 宮内志摩 伊武雅刀 きたむらあきこ 倍賞美津子 前田武彦 ケーシー高峰

2003/4/24/木 東京国立近代美術館フィルムセンター
何か、相米監督って、長まわしの権化みたいに言われているから、私にとって敷居が高い監督、なのだ。だって私、そういう部分で凄いとかあんまり思えないたちというか、まあ単純バカな映画ファンなので、要するに面白ければ(自分にとってだけでも)それでいいやと思っているから、長回し、というと、もう即座に作家主義的な映画を撮る監督、っていうイメージで、あ、ダメダメ、きっと私には判らない!と腰が引けてしまうという……。実際にはそんなことはなくて、ちゃんとエンタメな作品を撮ってくれている(などと、思わず持ち上げた言い方になってしまう卑屈なヤツ……)んだけど、相米監督作品に関しては長回しに言及しなきゃ、ダメ、みたいな雰囲気を感じるというか……なので、何かついつい、遠ざけていたのであった。うーむ。

でも実は、相米監督というのは、アイドル映画をガンガン撮っている監督で……つまり、アイドルを使おうがどんな話を撮ろうが、映画を自分のスタイルで撮れればそれでいいと。それは逆に、そういう監督に使われるアイドル役者がいかに鍛えられるかという話でもあって。この作品、いやいやながら?観る気になったのは……というか、ずっと気になっていたのは、永瀬正敏、河合美智子のデビュー作品だというのを聞いていたからなのであった。そんでもって永瀬がデビューのこの作品で、相当相米監督にしごかれ、それが彼の役者の基盤になっているということも。ここまで聞いちゃ、そりゃ観ないわけにはいかない……とはいうものの、先述の理由でずっと、渋っていた。そんな、構えることなかったのだ。もっと早く、観りゃ良かった。

つまりは、豪快で壮大でハチャメチャで、ちょっと気恥ずかしいほどのガキ映画、なのだ。主人公三人は中学生で、どう見ても女の子のブルース(って愛称も気恥ずかしい)が自分は男だと言い張って、言い張るばかりか銭湯まで男湯に入っちゃう、そんなことが確かにありそうなギリギリの年代。そうしないと、女の子が男の子のグループになんて、入れっこ、ない。河合美智子はこの時の役名なのね。そういえば、それって、聞いたことがある。永瀬と彼女の名前ばかり聞いていたから、坂上忍が出ているなんて、知らなかった。彼はもっと子役の頃からのキャリアがあるから、特にこの作品でどうこうされることがないせいかもしれない。でも、確かに、彼にはキャリアがあるだけのことはある。今はまあ……アレだけど、この時には、何か坂上忍には独特の色気があるというか、それは多分演技の上での余裕がある故の艶だと思うけど、そんな魅力があった。

で、問題の長回し。これが……うー、やっぱり私には、苦手。冒頭、あ、さっそく長回しだ、と気づくものの、気づくだけで、別にこれを長回しにするだけの必要性があるのかなとか思っちゃう。長回し、と気づけば、おー、凄い、さぞかし大変だったろうなあ、とか想像するけど、想像しなければ、結局流れに過ぎないような気も……(こんなこと、言うの怖いよー)。そして、“衝撃”とまで称される、クライマックスの、川?に浮いた材木置き場での超、ロングシーン、これはさすがに凄いと思ったけど……凄いと思ったのは、銃ぶっ放しのアクションつきだったから。このシーンも、そしてオープニングのシーンもそうなんだけど、ぶっちゃけて言っちゃえば、頭からお尻まで、全部そうだとも言えるんだけど、大きな流れの動きを、カットをかけずに長回しで撮る、ということは、凄く画面が引きになって、役者の表情がまるっきり、見えない。これが、私には、もう、全くもって、ダメだった。そりゃ、役者は顔で演技をするわけじゃない。その人間そのもの、体そのものの表情で演技をするというのは、判っちゃいるけれども、でもやっぱり表情、というからには、顔の表情って、役者にとって凄く、重要じゃない?もうこの三人がどれが誰だか判んないぐらい引きまくって、照明も暗いから余計顔見えないし、それで台詞はやっぱり、よく言えば初々しく、ぶっちゃけてまだまだヘタな言い回しだから、正直、困ってしまう。もしかしたら、こんな若い役者……子役と言ってもいいぐらいの役者に、顔の表情で演技をさせるなんてムリだと相米監督が思っていたということなのかなあ。子供は体使って動け、と。それもまた判らないでもないんだけど、今やリッパな大人の役者になった、永瀬正敏、河合美智子、坂上忍のガキの頃をじっくり観たい、と思って見ているこっちとしては、これがどうにもこうにも歯がゆくって。

画面が引きになっていると、アクション自体はかなり凄いだろうな、と思えるものでも、妙に淡々と見てしまうのも、何となく……。うーん、でもこれは、昨今のカッティングでごまかすアクション映画に毒されているせいなんだろうなあ。確かに寄れば寄るほど、アクションの迫力は増すわけだし、それはつまり、寄れば寄るほど、カットを割れば割るほど、手抜きが出来るって寸法。でも、この役者が傷だらけになるほど(成程、これだけカットを割らずに引いて撮ってれば、スタントも使えないわな)のアクションでも、いわゆる映画のマジック、つまりはいわばズルを使わないと、見え方としては、遠くで何かやってるよ、というぐらいのものにしか見えてこない。いや、そればっかりじゃなくて、おお、すげえ、と思ったシーン……男の足にロープをかけて、それをデブッチョの男の子の体重で引き上げるとか、永瀬が自転車から軽トラの荷台に飛び移るとか、(何か、言葉で説明しても、サッパリね)もあるにはあったんだけど。

なんて、思ってしまうのは、長回し恐怖症?の私が、「ヴェルクマイスター・ハーモニー」の長回しにはすっかり陥落してしまったから、なんだけど。というのも、「ヴェルクマイスター・ハーモニー」では、長回しなのに、人の表情が実にハッキリと見えたから。カメラが至近距離で張り付いたままカットを割らずにいたのだ。何かね、そういう、役者を役者としてね、きちっと描く長回しなら、そりゃ私はOK、と言いたいのよ。……本作のような長回しは、正直、苦手なんだよなあ。

ジョジョ(永瀬正敏)、辞書(坂上忍)、ブルース(河合美智子)。この三人を普段いじめたおしているでぶっちょのデブナガ(ほんと、デブ)が、結局は人違いだったんだけど、とにかく突然、この三人の目の前で誘拐されてしまう。三人は、このデブナガにいじめられていた落とし前をきっちりつけたい、と誘拐した相手は暴力団だったっていうのに、臆せずどこまでも追いかけていく。途中、キーマンとなるヤクザの厳兵(藤竜也)と出会い、研修に来ていた英語の女教師(原日出子)を巻き込み、覚醒剤をめぐるヤクザの争いに巻き込まれていく。

この女教師は、何だかちょっと意味深な感じ。いや、最初は、アラレと呼ばれているぐらいの、大きなメガネをかけた、生徒に近い存在として認識していたんだけど、ヤクザに捕らえられちゃって、その間に一体何があったのか、彼ら三人に助け出されても、私はここに残る、と戻ってしまう始末。白のブラウスに白の膝丈のタイトスカート、というあまりと言えばあまりの清楚な、いや、言ってしまえばカマトトなスタイルで、しかし捕えられ、縛り上げられ、天上からつるされ、……そしてその後一体何があったんだろう。発見された時は、ベッドに縛り付けられてて、いや別に普通に衣服は着たままなんだけど、やっぱり、やっぱり、あらぬ想像をしてしまうではないか。

見え方としては、アイドル映画。主題歌まで歌っちゃう、そして役名がそのまま芸名になってしまった、河合美智子のための映画だったのかもしれない。思えばボーイッシュな女の子、というのは、同性にも共感(というより、同性愛的な憧れ)をもたらす、少女アイドルの切り札だ。今で言えば上戸彩ってところ。勿論、男の子にはその青いキュートな魅力で訴える。胸にタオルを縛りつけた男湯での場面など、考えてみればかなりマニアックなセクシャルではないか。それに、とてもささやかではあるけれど、この河合美智子ったら、男!な藤竜也とちょっとオオッと思わせる場面があったりもするし……いや、何てことはない、軽いチークダンス、なだけなんだけど、その場面は、三人がガキっぽくマッチメドレーで歌いまくって浮かれてて、その時ふと藤竜也扮する厳兵が立ちあがり、ブルース(河合美智子)の目を見据えたまま、他の二人の喧騒はそのままに、彼女相手にチークを踊りだす、という……。確かに彼女はもうまんまガキで、自分を男だと言い張るのも通用するぐらいのナインペタで、でも、やっぱり、女の子、なんだよなあ。これが相手が藤竜也なだけに、ヤバい魅力でドキドキする。残された男二人のガキが、それに気づいているんだかいないんだか、どっちにしてもおよびじゃないってあたりが、余計に。

ブルースと厳兵、最後の最後、もうこの厳兵が警察につかまっちゃうよ、という場面でも、彼は彼女の小さな頭を自分の胸に引き寄せて……他の二人も同様に頭撫でたりなんだりしてるんだけど、やっぱりブルースに対してだけは、やり方が違うんだよね。うー、何か耽美。厳兵には女房がいて、これが倍賞美津子なんだけど、彼女のスタンスは実にカッコいい。あんたとあたしの人生は別よ、と。いや、厳兵のことは愛しているとは思うけど、そういう次元を超えたカッコよさ。皆してケガした病室にさっそうと現われて、「田舎から送ってきた」というナシをふるまう彼女、カッコよかったなあ。三人プラス女教師が呆然とするぐらい。

そうそう、マッチメドレー。いやー、時代だな。「ギンギラギンにさりげなく」と「フラれてバンザイ!」をご丁寧にもきっちり振り付けつきで歌いまくる三人。途中の宴会のシーンと、そしてラスト、全てが片づいて、あとは厳兵がつかまるだけ、という場面でまた繰り広げられる。彼らよりちょっと若いけど、このアイドル全盛時代にかなりテレビかじりつきだった私としては、もう何だかテレくさくって。マッチ、ってあたりが何か反抗心剥き出しの彼らに合っているんだろうな。ちょっと大人びたトシちゃんでも、人が良くて陽気なヨッちゃんでもないあたりが。マッチはまさしく悪ガキで。その歌詞はでもちょっとだけ、背伸びした恋が歌われてて、それはブルースにだけ、男の子より成長が早い女の子にだけ、訪れている、のだな。
彼女が、この破天荒な旅の途中で、朝、何を思ったのか海に入っていくシーンがあるじゃない?この時だけはカメラは彼女の顔にぴったりと張り付いていて、彼女の、少女期特有の、戸惑ったような、哀しいような、何ともいえない表情を余すところなく捕えている。ま、色々想像されるんだけど……何にせよ、この時の顔は、明らかに、女の顔だ。男だと言い張っている彼女が、女だという証拠になるほどに、明らかな女の顔なのだ。……女優の、顔。

ブルースとはまた違う意味で、ジョジョは、この厳兵に大人の男として憧れている。ジョジョだけが、他の二人と離れて単独行動をとって、この厳兵を追っていくのだ。三人が厳兵を追っかけてきて、あれはどこなのか……高層建物のガラス張りの部屋で、外にはどこかの花火大会の花火が華やかに舞っている中で、この厳兵にあっさり征服されてしまう三人、ことにジョジョは、もうここで男としてホレてしまったんだろうな。実際、この時の藤竜也ときたら、本当に、ちょうどいい時。大人の男の色気と渋さと、そしてまだまだ若さ、青さも持ち合わせているちょうどいい時で、奇跡の瞬間、と言ってもいいぐらいの時。いや、私は今の、実にシブい、熟成された藤竜也が大好きだけどさ。

彼ら三人と厳兵の別れのシーン。出会った時、肝試しとして厳兵に銃を向けた辞書、厳兵に男としてホレたジョジョ、そしてブルース……どこに行ってしまうのか、背中を向けて歩き出す厳兵にブルースが拳銃を空に向けて一発。これは女の子がやるから、ちょっと何か、深い別れの感慨を残す。

状況を変えるごとに黒地に白ヌキ文字でクレジットが入るのが……その文句といい、いかにも80年代という感じで、ハラハラするような気恥ずかしさ。80年代、なのよねえ。80年代って、何か泥臭くて、ハラハラする。冷たい感じのする90年代以降より、よっぽどいいけど。★★★☆☆


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