home!

「と」


2004年鑑賞作品

闘球肉弾戦
1943年 15分 日本 モノクロ
監督:桑田良太郎 脚本:高木一郎
撮影:本庄吉雄 音楽:
出演:


2004/7/16/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(日本アニメーション映画史)
これって、いわゆる、戦意高揚映画の範疇に入るのかなあ。出てくるのは犬とサルとはいえ(笑)、一応軍隊めいた感じで描かれているし、メインとなるラグビーの試合だって、闘争心を育てるってことなんでしょ?しかしまあ、何たって犬とサルだからさあ……ま、つまりは犬猿の仲ってことね?まんまだけどさ……どこか犬をバカにしたような態度のサル、サルのずるがしこさに押しまくられる犬は、しかし最後大逆転を!やっぱり人間は自分たちに忠実な犬びいきなのね。

しっかし、ラグビーである。犬とサルがラグビーやるんである。パスとか妙に上手いんである(笑)。実際、この試合展開のスピード感あふれる、しかもカメラ角度やカッティングを自在に扱う様にはかなり驚かされる。もはやこれはキャプテン翼の系譜につながるものだといっても過言ではない?(種目が違うけど)

サルの方が有利な展開。だから油断したのか、木からセクシーに応援する女の子サルに木をとられた一人のサル選手が、トライ寸前に彼女が投げた花を受け取ろうとボールを投げ出しちゃう。こういうギャグもイイ感じで入れつつ、しかし頑張るのは犬諸君なのである。そう、サル選手たちがどちらかといえば個人主義(というか、冒頭、犬をからかう描写からして、享楽主義者といったほうがいいかも……)であるのに対し、犬君たちは徹底した団体主義。最後はみんな一斉に弾丸のように走り出し、それが一匹の大きな犬になって!?、呆然とするサルたちをなぎ倒してトライするんである。みんなで力を合わせて、はいいけど、だってこれはありえないだろ……幻覚じゃん。うーむ、でもここらあたりは、確かに戦時中の、ちょこっと戦意高揚映画(それも子供に対しての)なのかなあ、などと思う。どことなく……仲間みんなと一緒に、敵に一丸となって突っ込んでいく、みたいな、戦争の怖さを思わせなくもない、のかも。いや、でも当然、アニメーションの描写として、とても面白いものではあるんだけどさ。

そうよね、今や、この犬気質ではなく、みんながサル気質だものね。面白く見ながらも、こういうことはやっぱりちょっと、考えちゃうなあ?★★★☆☆


透光の樹
2004年 121分 日本 カラー
監督:根岸吉太郎 脚本:田中陽造
撮影:川上皓市 音楽:日野皓正
出演:秋吉久美子 永島敏行 高橋昌也 吉行和子 平田満 寺田農 田山涼成 うじきつよし 大高洋夫 村上淳 マギー 唯野未歩子 松岡俊介 仲村瑠璃亜 ガダルカナルタカ 沢木まゆみ 千葉哲也 鷲生功 十貫寺梅軒 中田敦夫 松本一郎 古賀美智子 益谷和真 渡邉ひかる 戸田恵子 森山周一郎

2004/11/22/月 劇場(シネカノン有楽町)
これが女性の原作というのがちょっと信じられないくらい、もんのすごい、男にとって都合のいい話になっててアゼンとする。うーむ、これが大人の恋愛というものなのかなあ。うーむ、判らん。ちなみにこれは谷崎潤一郎賞をとった原作だということで……そう言われるとちょっと判るような気も……谷崎は結構都合のいい自分勝手な恋愛作家だからなあ(笑)なーんて。ま、つまりは谷崎チックなフィクションとして観ればいいのかしらんと思いつつ、それこそ文学の領域だったらさらっと見逃しちゃうかもしれないけど、いやー、やっぱり……なんかちょっと、ガキの私は受け入れられん。それに、これって惹句が「大人の純愛」っつってるけど、こーゆーの、純愛ってゆーんだろーか……最近やたらと純愛ばやりだけど、別に純愛って、自分勝手って言葉と変換できるわけじゃないでしょー。「大人の純愛」って言葉自体、なんかものすごーく矛盾を感じてしまう……。私のイメージでは純愛にセックスは入らんもん。

ええ、まあ、そりゃこいつらセックスしどおしですともさ。なんたって「大人の純愛」ですからねえ、ええ(ナゲヤリ)。それにこういう男の造形、活字でなら許容できるかもしれないけど、実際に見るとちょっとハズかしい。いや、さすがそこはベテラン、永島敏行が渋く演じているから聞き逃していれば気にならないんだけど、聞き逃すわけにはいかないくらいハズかしい台詞の数々……。「昨日、初めて会った女を抱いた」「それはあなただ。あなたが目的……」「あなたの身体の半分は僕のものだ。勝手に殺さないでくれ」うわッ……寒い。
何で寒いかって、この人がベテランテレビマンで、華やかな世界で女に苦労したことなどなかったと、そういうキャラ設定だから。まあ、そういう人はいるんだろうけれど、そういう設定っていかにもマンガチックで大真面目にそれを目の前に出されると、逃げ出したくなるほどの恥ずかしさ。……いや、永島氏はいかにもピッタリなんだけどさ。

永島敏行演じるベテランのテレビマン、今井郷が金沢の鶴来の街を訪れる。そこは、彼が25年前、有名な刀鍛冶であった山崎火峯を取材した町だった。六郎杉と呼ばれる大きな杉を探して、当てもなくタクシーで探し回る郷は、一人の女性を窓の外に発見し、車を止める。「僕のことを覚えていますか……」
……この時点で多少の寒さを感じつつ。言われた相手はその火峯の娘で当時高校生だった千桐である。あれから25年もたつというのに、匂うような色香の美しさ。アンニュイなお国言葉がまたなんとも色っぽい。
……まあ、そりゃ、秋吉久美子は美しい。この程度に保ってなきゃ、こんな美しい“大人の純愛”は厳しいでしょうさ(私もしつこい)。

六郎杉の下で、セーラー服姿の彼女を写真に収めた25年前。「あの写真、送ってくださるの、楽しみにしていたのに」「シャッターがぶれたんだ」シャッター越しに、セーラー服姿の彼女に欲情したから、ぶれてしまったんだというシャッター。
火峯はいまや恍惚の人で、娘のことさえも判らない。ただひたすら、借金のことを気にしている。かなりの借金があるらしい。郷はその援助を申し出る。千桐はその代わりに自分の身体を差し出す、と言い、その時から二人の関係が始まった。
「心に決めていたんです。私は郷さんの娼婦になるって」
千桐は夫と離婚していた。「こんなことするの、2年ぶりだから……」そういって最初は戸惑いながらも、だんだんと郷との逢瀬に溺れていく。咲き乱れるカタクリの花を見せたい、という理由をつけて彼を東京から呼び出す。「このあたり寒いから、一気に来るんです、春が。だから、みんな狂っちゃう。」なるほど……、狂っちゃったわけね。 父親を中学生の一人娘に任せながら、東京から郷が来る、といえばいそいそと出かけていた。

郷は、この千桐との恋愛に関して、まったく良心の呵責はないらしい。まあ、男性にとって不倫なんてそんなもんかもしれんが、彼の場合は不倫という認識さえもないように思える。こういうタイプのテレビマンが家庭を顧みていないというのも、なんかもう、そのまんまの図式って感じ。彼曰く、そうじゃない業界人なんていないんじゃないか、とまで言う。ええ?そこまで言うのか……で、その台詞で説明しきっちゃったかのごとく、彼は自分の家庭に対して責任を果たそうなんてことがまるでないわけ。家族の描写はほんの一瞬。子供がケガしてその病院にかけつけ、奥さんから「忙しいのは判るけど、この年頃の男の子は女親じゃ手におえないのよ」「判った。なるべく帰るようにする」……これだけで、それが果たされている様子はまるでない。

一方、千桐の方はというと、まあ彼女も似たようなもんだけど……特に娘に対してはわりと悪びれもせずに父親の介護を頼んで出かけちゃうしさ。ただ、彼女の場合は別れた夫が出てきて、この別れた夫というのが妻に対して未練アリアリ。彼女の働いているすし屋にまでおしかけてくる。ちょうどその時郷から店に電話が入り、板前の寺田農(似合うなー)が彼女を呼びに来る。千桐はこの元夫を跳ね除けるために「私、好きな人がいるんです。今すぐにでも抱いてほしいと思うぐらい」と怒鳴りつける。
電話越しに聞いていた郷は「それってもしかして僕のこと?嬉しいな」などとほざく。
……ようまあ、そう次から次へと寒い台詞を吐けるもんだなあ……。つーか、単純に嬉しいんかい?幸せなお人だ。

わたしゃ一人身だが、さすがにこういう立場になりたいとは思わないなー。奥さんが気の毒だわ、って思っちゃう。
彼の中には奥さんは女としての存在はもうかけらもないんだよね。家族の一員。でも彼にとってその家族さえ、一体どこまで価値のあるものとして存在しているのか……。
いや、千桐の方が気の毒なのかなあ。だって郷にとってどこまで価値があるのか判んなくたって、でもやっぱり家族だし、そこに全てが握られているんだもの。
でも、そこにまったく気持ちが向けられないとすると、やっぱりやっぱり、奥さんは気の毒。
でも、気持ちにウソをついて家庭サービスにつとめるよりは、郷はまだ罪が軽いのかもしれない。ある意味、彼は自分の気持ちに実に正直に行動していて、そしてそれをまったく家族に悟られていない。そりゃまあそうだ……ここまで徹底して家庭を顧みてなかったら、奥さんとしては嫉妬する気持ちも起きないぐらい、信じ込まされているのだろうから。
でも、やっぱりずいぶんと都合のいい展開なのねと思うけど。

郷は、最後……がんを患って死んでしまうんだけど、手術をしてしまったら千桐とセックスできなくなるから、と、延命治療を拒むのね。またずいぶんと直截な理由だわね。ほっんとに、そこに家族に対する気持ちは気持ちいいぐらい微塵もない。……私がこんな気持ちになるのもなんだけど、なんだか……絶望的な気持ちになっちゃう。
男の理想の死に方っていうの?経営する会社の社員からも尊敬され(社長の引き際に涙するうじきさんやらムラジュンの泣かせること!彼らの方に泣けるのよ。郷じゃなくてね)、命の最後に運命の理想の女に再会して、激しい恋愛をして、しかも家庭は壊さず、その女と死ぬほどセックスして死ぬという……白いスリップなんか着せちゃってさー。
しかも、その女に、半分は僕の体なのだから、とまで言う。……うう、ホントに絶望的な気分になっちゃうな。
そしてその女は彼の家庭を壊すなんてことを微塵も考えず、控えめで彼のことばかり考えて、彼の後を追って死のうとまで考えて。
……こんなんあるかーい!!!と叫びたくなっちゃうのは、間違っておるのだろーか。

まあ……“家族に対する思い”っていうのは、それこそ恋愛映画に絡ませたら真の恋愛映画にはならないんだろう、とは思うんだけど。独身同士のそれなら、お互いにお互いだけを見つめたそれを作れるんだもん。それこそが“純愛”ってことなんだろう。
でも、だったら、そういう条件じゃないんだから、も少し悩んでよ、とか思っちゃう。やたら風情のあるところでばっかりセックスしてないでさあ。
なんというか、例えばさ、この彼の奥さんと別にバトルにならなくってもいいから、せめて彼の奥さんがこの愛人の存在を判ってて、旦那の最後を彩ってくれた、みたいな、不思議な連帯感があるっていうか、そういう感じがいいなあと思ったり。それこそ甘いんだろうけど……でもここまで徹底的にカヤの外にされると、結婚そのものと、結婚以前の恋愛が思いっきり否定されているような気がして、滅入っちゃう。
やっぱり純愛というより恋だよな。愛なんて、呼べないよ。だって、愛に付随する責任が、皆無だもん。

涙の別れ(これもかなりの寒さで恥ずかしい)から半年。郷が死んだという知らせが届く。彼女に残すと約束していた、火峯の作った刀子が入っていた。それが届いた時、家の外に黒いハイヤーが止まっていて、慌てて走り出た彼女の目の前で走り去っていく。彼の気配を、確かに感じ取っていた。
そして、二人の思い出の場所、六郎杉に向かう千桐。
「やっぱりあなたがいないと生きていけない」そう言ってやおら首に刀子を当てようとする千桐。
ええ!?あんたも、娘のことなど微塵も頭にのぼらないのお!?と、さすがにビックリする。私は悲嘆に暮れるコイツがいつ娘のことを思い出すのかと待ってたんだけど……。確かにあの半年後の情景、学校から帰ってきた娘に、やけに淡々と、決まりごとのように対応する千桐にあら?とは思ったけど、ここまでくると、ショックですらあるなあ……なんか。
で、彼女がなんで思いとどまるのかというと、杉の木に彫られた、GとCが重なり合った記号に、気づいたから。
郷のGと千桐のC。「このあたりでつながってる」と郷が言った、バックスタイルの二人の図。彼が死んでから魂となってここにきて、彫ってくれたんだ……と千桐は泣き、生きていくことを決意するのだ。
……娘が報われないなあ……。

そして15年後。千桐はあの時の火峯のように、アルツハイマーが進行してしまっている。ただただ思い出の中に生きている。娘のことさえも、判らない。
孫娘を抱いて、娘の名前を呼ぶ。そしてあの時、郷に言われた言葉を何度も何度も繰り返す。「この、右の耳は、僕の耳で、右の乳房は、僕の右胸で、この右目が見てるものは、実は僕の目が見ている」からだの半分は天国のものなんだよと、(孫)娘に言って聞かせる。
そんな母親を、娘はどこか憮然として見ている。「誰か好きな男の人がいたの?お母さん。時々、家を空けていたよね。その人と会っていたの?そんなに素敵な人なの?……私を捨ててもいいほど?」
娘は、ちゃんと気づいていたんだ。いや、母親が男と会っていたということは勿論だけど、それ以上に……“私を捨ててもいいほど”だというぐらい、子供の存在など目に入っていなかったこと。
今の母親は、孫娘にかつての自分(娘)を重ねながら、そのかつての自分さえ、愛しき人を思い出す触媒にすぎないのだ。

キッツイ、キッツイ、なあ……それじゃ一体家族って……何のためにあるんだろ。本当に……絶望的な気分になっちゃうじゃないの。
そりゃ、人間は最後が肝心、散り際の記憶が全てと言ってもいいのかもしれない、とは思う。自分の死に際は自分だけのもの。家族のことなんて考えてられないっていったら、そうかもしれない。
でも、だったら、そうと言えるなら、郷の千桐に対する気持ちだって、自分の死に際が優先されたものだとは、考えられない?
せめて、命が最後なら、最後の恋人との時間で終わろう、っていう、そこには、彼女への思いより、自分へのそれの方を強く感じない?
思えば、最後の最後の最後まで、千桐のそばにいたわけじゃ、なかったんだ。言ってしまえばセックスが出来るギリギリまでいたに過ぎない。千桐に、生きていきなさいと告げて郷は去り、半年間は家族の元にいた……んだろう。彼は自分を家族に返したのだ、最後の最後に。
そう考えると、ますます女は報われないし、ますます男ばかりが都合がいいって、思っちゃう。

もういない人の思いを胸に抱いて、その右の乳房……彼の右胸をその手のひらに感じながら恍惚の人になった千桐は……幸せだったの?★★☆☆☆


動物大野球戦
1949年 9分 日本 モノクロ
監督:藪下泰次 熊川正雄 脚本:桑木良三
撮影: 音楽:坂本良隆
出演:

2004/7/16/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(日本アニメーション映画史)
ゴリ軍対動物混成軍による野球大会の話、なんである。しっかしとにかく動物、動物なんだよね。今日観た九本の中で、実に6本が動物メイン、または動物絡みの話なんだから。確かに動物の動きっていうのは人間のそれよりアグレッシブで、アニメーションとして見栄えもするし、そしてアニメーターの腕をあげるのにもいいんだろうなあ。

それにしても、ゴリ軍、である。ゴリラ軍ですらない。もう完全に悪役状態。ゴリラは本当は賢くて可愛いのになあ……。しっかし、サルやサルの仲間の動物がいつもいつも悪役になるのも、すべて共通しているのも面白いよね。だっていわばこっちこそが人間に近いのに。あ、だからかなあ。人間がずる賢くて、もっとピュアに生きなきゃならん!という子供たちに対する指標なのかも。

動物混成軍は、もう弱いの何の。まあ最初からゴリ軍が強豪だということは有名で、みんなで力を合わせて頑張ろう!みたいな感じではあったんだけど、もう本当に弱い。ここでは「闘球肉弾戦」のようなスコアのズルを強要するようなまでの悪役ではなく、本当にゴリ軍は強い、という描写である。ま、顔といい態度といいやたらと憎たらしいんだけどね(笑)。

実に9回表の時点で、29対0である。……これは途中でコールドゲームになるんじゃないのか??
でも物語としての性質上、多分動物混成軍が勝つんだろうなとは思ったけど、でも29点を一体どうやってひっくり返すのかしらん、と思っていたら、こ、こ、これが……アゼン!
ゴリ軍の圧勝状態に盛り上がるスタンドで、飴売りがみんなにタダで飴をサービスするんである。同様にグラウンドの選手たちにもほおってやる。もうすっかり勝ちムードのゴリ達はヨユーでその飴をほおばるわけ。
しかしその飴が口から出そうとしたら、手にくっついて取れない。手どころかボールにもくっついてしまう。もんのすごい粘り気のある飴で、取れないったら取れないんである。まさかこれは飴売りが動物混成軍のためにやったわけじゃないだろうけど……。かくして投げても投げても球が戻ったり何だりでフォアボールの連続なんである。うっ、ま、まさか!
そうなのよー。何と29点分フォアボールになっちゃうの!29点分って、つまり掛けることの4でしょ!その前にピッチャー交代するんじゃないのかー普通?意地になって投げ続けるゴリピッチャーもアホだけど、列をなして打順を待つ野球混成軍のメンメンも何か可笑しいぞ!

最後にはこのゴリピッチャーが目を回して倒れちゃって、スコアも29対30で大逆転!大騒ぎして喜びまくる動物混成軍なんだけど、こ、こんな勝ち方で……嬉しいのかしらん。
そんでもって、こういう勝ち方で陽気な結末で、子供たちに何を教えるんだあ。これじゃ勝つために練習しなくちゃいけないとかいう考えには到底……ならんと思うけど(笑)。

コレが戦後直後の作品だというのはなあんか……考えちゃうもんがあるんだよなあ。今までしんどかったね、ちょっとラクになろうよってことなのか、勝つためにはズルしてもおんなじだよってことなのか……?? でも、ナンセンスな面白さとしては、バツグン。29点分フォアボールとは……考えもつかんわ!★★★★☆


動物となり組
1941年 10分 日本 モノクロ
監督: 脚本:桑田良太郎
撮影:木村角山 音楽:
出演:

2004/7/16/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(日本アニメーション映画史)
こ、これめちゃめちゃ好きなんですけど……。この日鑑賞した三本目のこの作品からトーキーになり、陽気にテーマ曲が流れ出す。♪とん、とん、とんからりんの、とーなりー組ー ……あ、ああっ!これがオリジナルだったってことなの?すいません、私マジで、♪ド、ド、ドリフの…… がオリジナルかと思ってた(バカ)。そういやあ、♪メンメンメガネの…… っつーのも同じメロディだったっけ。うーん、何か凄い、こういうの!このスコンと抜け切った、ノーテンキさがイイんだよなあ。

つまりはこれは、ご近所同士のお付き合いは大事ですよってことを教える教育映画、なわけなんだけど……これは、シュールよ、シュールすぎ。だって、みんな動物なんだもん(笑)。ウサギさん一家、ヤギのおじいさん、カンガルー?の夫婦の隣はブタさん夫婦が住んでいて、垣根越しに玄米の炊き方を教えてもらったりする(笑)。熊さん夫婦の夕食のおかずの魚を、カンガルー夫婦の飼っているネコがくわえていってしまったり、ブタさんの奥さんのところに来たコワい押し売りをもっとコワそうなイノシシのおじさんが撃退したり、ヤギのお爺さんの家の火事をみんなでバケツリレーして無事消火したり……道徳的っちゃ、これ以上道徳的な話はないけど、それがみんな動物なんだもん!

それにふと気づくと、だからかなりコワイものがあるのよ。この情景はないだろう、いくらアニメでも、っていう……でもそのシュールさがボディブローのようにじわじわきくんだわ。エピソードの変わり目にはあの♪とん、とん、とんからりんの……ってテーマ曲が挟まれ、歌詞のとおりに物語が展開する、その構成がみょーに上手かったりするのもツボ。それにそれぞれの動物の特徴にあわせて、人間のキャラや性格を実に絶妙に配しているのも面白いんだよなあ。こういう動物のデフォルメの的確さ、しゃれっ気は、今に通じる日本アニメーションの真骨頂!ヤギのお爺さんはま、定番だけど、イノシシの豪快なおじさんとか、おりこうさんのうさぎの女の子とか。

あっ、あっ、このうさぎの女の子がまたメチャ可愛くてさー。冒頭は、うさぎさんの家に回覧板が回ってくるところから始まるの。うさぎの奥さんは娘に回覧板を隣のカンガルー?の家に届けるように言うわけ。女の子は友達と作っていた子供の回覧板も合わせて持っていく。「ごめんください。回覧板持ってきました」「まあ、ありがとう。おりこうさんねえ」……これだけのやりとりがなあんでこんなにカワイイのかしら。うさぎさんだからかしら(笑)。
このうさぎの女の子が持ってきた、子供の回覧板には、ネコの子が生まれたので、お好きな方にさしあげます、と書かれていた。それを見たカンガルーの奥さんは、じゃあ一匹いただくわ、という。こ、この言い方って……回覧板の書き方の時点で既に何か、食べるんじゃないでしょうねっていうカンジなんだけど(笑)。

みんなで防空壕に入るシーンとか、ああ、戦時中なんだなあって思わせるんだけど、思えば動物が空襲警報にみんな集まって、防空壕に入るっていうのも……ものすっごいシュールな画だよなあ(笑)。

しかし実際、こういう共同体的社会って、都会では特に絶滅状態なのは哀しいよね……隣の家の引き戸ガラガラッと開けて回覧板、なんてありえないもん。★★★★☆


ドーン・オブ・ザ・デッドDAWN OF THE DEAD
2004年 100分 アメリカ カラー
監督:ザック・スナイダー 脚本:ジェイムズ・ガン
撮影:マシュー・F・レオネッティ 音楽:タイラー・ベイツ
出演:サラ・ポーリー/ヴィング・レイムス/ジェイク・ウェバー/メキー・ファイファー/タイ・バレール/マイケル・ケリー/ケヴィン・ゼガーズ/リンディ・ブース/ハンナ・ロックナー

2004/6/8/火 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
あーん、もう、助けてくれよ、ていうか、助かんないよ、こいつら相手じゃ!あのジョージ・A・ロメロの傑作「ゾンビ」がリメイクされちゃったよ……。とかいいつつ、数あるホラー映画の中でも、しかもその一番のクラシック、一番の基本といいながら、私はこのロメロの「ゾンビ」は割とラクーに観ていた覚えがあるのね。確かにキモチワルかったけど、怖いという感じより……何かコメディ色も打ち出されていたし。し、しかしッ!このロメロにオマージュ捧げまくりのリメイク版はぜっんぜん違うの、怖いのよお……。いやー、リメイクっていうのはこうでなくてはいけません。オリジナルの基本をおさえつつも、その時に出来る最高のもの、そしてその時にしか出来ない別物を作らなければリメイクなんて意味ないのよ。

何が怖いって、このゾンビたちったら全力疾走なんだもん!全力疾走よ、も、オリンピックの短距離走並にマジなの。しかもかつてとはくらべものにならないぐらいフレッシュな感じにリアルな死人の造形で(死人がフレッシュッつーのはヘンだけど、でもそうとしかいいようがない)、どこかこなれた感じ(!?)であったオリジナルのゾンビとは違ってやたらと躍動的なのよお。あ、あれだね、あれはこっちに向かってくるゴキブリ状態!ゴキブリにあのすばやさで逃げずにこっち向かって来られたら、すっごい怖いもん。ああー、でも当たり前だけどそんなもんじゃない、もっと、1000倍は怖いわ。ちょっと、ねえ、だって数も尋常じゃないのよ、おびただしいのよ。もう群集!のゾンビがその血しぶきすらもハイスピードで全力で走って来るんだもん。勘弁してよお……。

なあんか、こう見ると既に、オリジナルのゾンビがいかに牧歌的だったかって思っちゃう。そう、もはや牧歌的よ。だってオリジナルのゾンビはかみつくことより食い荒らすことの方に夢中だったりしたから、一人ターゲットを見つければそいつを食い荒らしている間は割と大丈夫だったんだもん。それがさあ、この新・ゾンビときたらとにかく襲い掛かって噛みつくことにしか興味がないわけ。で、噛みつかれたが最後、その時に致命傷にならなくてもそこから感染して必ずゾンビになっちゃう!うわあああ、何という救いのなさなんだ。もうねずみ算式の比じゃないじゃないよー。

主人公である看護婦のアナが、その惨劇に最初に直面する冒頭からもう心臓バックバクなんである。彼女はそれまでは単調ながらも穏やかで幸せな生活を送っていた。夫と二人の生活は、その愛もまだまだイイ感じに保たれてて、愛し合った後気持ちの良い眠りについて……その明くる朝、事態が急変するんである。近所に住む女の子がフラリと現われたかと思ったら、その顔が、口んとこがグワッとむき出しに血だらけ!驚いたダンナが彼女を介抱しようとしたら、オスライオン並の早さで突進、その首根っこにガブリ!驚いた彼女は必死で救急車を呼ぼうとするも回線が混雑して全然かからない。こと切れてしまったダンナに呆然と震えていると、今度はいきなりそのダンナがガバリと起き上がって彼女に襲い掛かる!うわ、うわ、うわわわ、ちょっと待った、ちょっと待った、ちょっと待ったあー!待って待って、こ、心の準備があ!

何が何だか判らないまま必死に逃げ出す彼女。車に乗り込もうとすると、玄関から飛び出してきたダンナが猛スピードでこちらに走ってくる。ああ、もう走ってるよ、もう、こあいよー!彼女は何とか車を発進させてみるともう街は……まさに地獄絵図だった。
そこら中で追い掛け回され、噛みつかれる人々、そのゾンビに銃が打ち込まれ、火が放たれ、ラジオをつけてみるととにかく非常事態、非常事態……何故、何が起きているのか皆目判らない。そうしているうちにも走っている彼女の車目指してゾンビが、まるで誘蛾灯に群がる蛾のようにバンバン当たってくる(うええ)。必死に逃げ回る彼女はハンドルを切りそこねて森の中に突っ込み、木に衝突して気を失ってしまった。

目を覚ましてみると、ゾンビではない、人間の仲間たちに遭遇する。避難先はどこもゾンビで食い荒らされているという情報に絶望的になる彼ら。しかし、近くに立てこもれそうなショッピングモールがあった。とりあえずそこに落ち着くも、先客がいて、後から入ってきた彼らを排除しようとする。
こっからは、ゾンビの恐ろしさだけではなく、生きている人間同士の衝突や交流も同時に描かれてゆく。ま、でもとりあえず、ここにきてちょっと、落ち着くんである。

ほんのひと時、楽しげな時を過ごす彼ら。まあそれでも途中更に合流した生き残りたちを入れるのにまた死ぬ思いをしたり、その中からゾンビが発生して、噛まれただけでゾンビになっちゃうことが判り、まだマトモな人を殺さなければならなくなったりと、かなりキッツイことは起こるんだけど、割とここんとこは落ち着いて、楽しげである。外には無数のゾンビが開けろー、開けろー、てな具合にバンバンやっているのに、この中は、だって、ショッピングモールなわけだからさ、食べ物には不自由しないし、おしゃれな服にも着替えられる。酒三昧、セックス三昧してヒマをもてあそんで、皆で身の上話に花を咲かせてみたり。

隣のビルにも一人、生存者がいる。名前はアンディ。屋上でボードにメッセージを掲げて彼と会話しているケネスは、このアンディがこんな中でもウィットなユーモアを持つナイスガイだと判って、ボードでの会話を楽しむうち、チェスまでやるようになる。果てはちょっと悪趣味な狙撃ごっこまで。アンディは鉄砲店(の経営者?)であり、狙撃の名手。屋上から彼に芸能人の名前を示して、その人に似たゾンビを選び出して狙撃させるというゲームだ。
うう、確かに悪趣味。ゾンビは頭を撃ち抜かなきゃ、死なない。って、一度死んでるはずなんだけどね。ノーミソ飛び散らんばかりに次々と首尾よくしとめてゆくアンディに拍手喝采したりして……。悪趣味なんだけど笑っちゃうんだよね、ヤバいなあ。だって、バート・レイノルズとかロージー・オドネルとか、その選択も(こういっちゃコワイけど)上手いんだもん。

でも、いつまでもそうしているわけにもいかないのだった。外のゾンビはこの中に生存者がいることをかぎつけてどんどん集まってくるし、感染していることが判ってて身重の妻を隔離していたアンドレは気が触れちゃって、ゾンビになったこの妻を始末した仲間を撃ち殺してしまった。生まれた赤ん坊もゾンビになっていた……。
仲間の中にマリーナに船を停泊させているというリッチマンがいた。自分だけいつも安全なところにいてちっとも仲間を手助けしない、ホントいかにもな、鼻持ちならないリッチマンなんだけど、でも彼の船で無人島に行くことが絶望の中のかすかな希望の光に思われた。このままここにいても未来はない。彼らは船出を決意する。このゾンビの海の中を渡って!

でも、皆、あのアンディも助けてあげたいと思った。このあたりは興味深い心理というか……遠く離れていても信頼関係が芽生えていて、でも彼を助けることはそれだけ多大な危険をしょいこむことにもなる。でもアンディは何といっても射撃の名手だし、ゾンビを退治するための銃や弾丸を店の中に沢山所有している。ビジネスライクと仲間意識が交錯する……でも、やはり、アンディを救い出すためにはまたひと苦労、あったんであった。
いや、ひと苦労なんてもんじゃないんだけど……何かここまでくると、これぐらいのエピソードは“ひと苦労”ぐらいですませてしまうのがコワいなあ。で、結局アンディは噛まれてしまって、彼のことを助けにきた彼らは……豹変したアンディを撃ち殺さなければならなくなる。「悪く思うな」と言って……。

この、感染した仲間を、愛する相手を殺さなければならないという葛藤が、この怖さだけに埋もれそうな中で一つの重要なポイントになってる、のね。アナはそれが出来ずに家を飛び出してきた。きっといつまでもあのゾンビになったダンナのことが彼女の胸の中にはあるだろうと思う。噛まれただけで感染することが判って、噛みキズがある、でもまだゾンビにはなっていない男性に、あなたを殺さなければならない、と告げる仲間。この男性には一緒に来た娘がいて、もう頼れる身内はこの世に二人きりなんである。男性は自分が死ぬことよりも娘が残されることが不憫で、娘は父親が殺されるなんてと、泣きながらぎゅっと抱きつくんだけど……でももう選択の余地は、ないのだ。
この時、ゾンビになるのが判っているなら、人間のまま死ぬ方が幸せだというひとつの結論が導き出されている。
それはちょっと、ね、現代における死の問題を考えさせられなくもない。ただただ延命ばかりをうながす末期医療。でも人間として死ぬことを選択できる方が幸せじゃないかという……。
なーんてことは後から思いついたことで、この時にはそんなことを考える余裕なんて無論、なかったんだけどさ(笑)。でも、父親が撃たれるのを見ていられなくて、離れた場所で耳をふさいでしゃがみこみ、泣き続けるこの娘と、静かに銃口の前に座すこの父親、という図は、哀しいんだけど、何か、神聖なものをも感じさせるのだ。

一方、あのゾンビの赤ちゃんを生み出してしまったラブラブ夫婦は、その愛はまだ成熟していなくて、そこまでの覚悟がなかった。後から落ち着いて考えればそう、この奥さんだって……人間として死ねるだけの期間、そのチャンスは充分にあったのだ。ダンナがそうしてあげるチャンスが。
勿論、生まれてくる子供に希望を残したということなんだけれど、感染、だから……これは母子感染、ということなんだろうなあ……その子もまた、生れ落ちたとたん、歯をむくのだ。
奥さんどころか、その子供さえもモンスターにしてしまった。生まれて一日もたたないうちに、撃ち殺されてしまった小さな命。

こんな状況で、いやこんな状況だからこそ生まれる信頼関係。そこから生まれる恋愛感情。アナとマイケルは惹かれあうお互いを自覚していた。
そんな中、いよいよ武装したバスが出発する。まるでお祭り状態にゾンビに取り囲まれ動けなくなる(うげっ)。そしてそんな血まなこゾンビ群集が火の海で焼き尽くされる……(うげげっ)。
何かここまでくると、すでにゾンビたちの頭が吹っ飛ばされたり、一気に焼き尽くされたりすることにカタルシスを感じている自分が怖いんである。
でも、そんなカタルシスに浸っている間もなく、彼らは続々と襲ってくる。
道が空いた今がチャンス!
追いすがるゾンビを振り切って、バス二台が進む。なのに……あーん、何で、ここまで来てッ!一台が横転!
ゾンビを退治しようとしてバス内で振り回したチェーンソーが、仲間の肩をぶった切ってしまったのだ(なんつーことを!)。飛び散る血しぶき、つんざく悲鳴、そして横転するバス。
死んだ一人はあの船の持ち主のリッチマンだった。必死でその船のキーを死体からまさぐるアナ。
でもその間にゾンビがまた襲ってきていて……アナをもう一台のバスにマイケルが必死に引き上げる。
その時、マイケルは噛まれてしまっていたのだった。

やっと船まで辿り着いて、でもマイケルはそのことを自分だけは判っていたから、船には乗らない。泣きながら「治る、助けてあげられる」とかぶりを振るアナを優しく諭して、すぐ背後まで迫ってきているゾンビのいるその埠頭に立って彼らの船出を見送るのだ。
ああ、彼もまた、人間らしい死に方を選んだんだな、と思う。静かに響く銃声……。

でも、着いた先の無人島もゾンビだらけ……もうダメじゃん!

なるほど確かにCM界の鬼才、って感じ。全編商品価値200パーセントの見せ方だもんね。これは……凄いわ。このハイスピードの怖さは「ファイナル・デスティネーション」以来って感じかも。
もしコイツらに噛まれてゾンビになっちゃったら?全力疾走してみたり、ゾンビをちょっと楽しみたい気もするなあ!?★★★★☆


トスカーナの休日UNDER THE TUSCAN SUN
2003年 115分 アメリカ カラー
監督:オードリー・ウェルズ 脚本:オードリー・ウェルズ
撮影:ジェフリー・シンプソン 音楽:クリストフ・ベック
出演:ダイアン・レイン/サンドラ・オー/リンゼイ・ダンカン/ラウル・ボヴァ/ヴィンセント・リオッタ/マリオ・モニチェッリ/ロベルト・ノービレ/パヴェル・シャイダ/デイヴィッド・サトクリフ

2004/7/13/火 劇場(渋谷Bunkamuraル・シネマ)
ダイアン・レインがすっごくイイ感じなんだよねー。私は彼女の出演作品ってあんまり観ていなくって、ブロンド・肉体派・セクシー女優、っていうもんのすごい単純な昔のイメージのままずっと来ちゃっていたんだけど、「デブラ・ウィンガーを探して」ですっごくサラリとライトなのがステキで、ころっとイメージを覆されたのであった。で、その現在の彼女の出演、というのが足を運んだ理由として大きかった。無論、トスカーナというのも、予告編のオシャレでドラマチックな感じも心惹かれていたんだけど。で、もうダイアン・レイン、パーフェクトだよねー。こういうさらりとした大人の女って、憧れる。ま、彼女自身の基本が超美人ってことがあるにせよ、いーい具合に肩の力が抜けているんだよなあ。

ライターとしての地位も確立して、夫婦の仲も上手くいってて、教え子も無事成長してくれて……その時のフランシスの人生はまさしく順風満帆だったのだ。そう、何事もないと思っていた。
フランシスに自分の本を酷評されたという男性が、いやみったらしく彼女に耳打ちした夫の浮気……嫌がらせかと思いきや、それは事実だった。
あっという間に転落の一途をたどる彼女。夫から離婚を言い渡され、それなのに慰謝料どころか生活費としての金を要求されてしまう。作家であった夫を支えて、その時は彼女が生計を立てていたから、その理不尽な要求をのむしかなく、しかも長年住み慣れた家さえ夫とその恋人のために手放さねばならぬ始末。
うっそ、こんなのって、アリなの!?

ま……男の浮気で離婚ってのは、多分離婚原因の一番ぐらいになるもんだろうから、それは仕方ないのかもしれない。それは男のサガってもんよ。でも、でも、こんなにも、男にだけ都合のいい、バカにした道理が通るだなんて!
でも、彼女の弁護士は助けてくれるどころか、ここが踏ん張りどころだ、ぐらいにしか言わない。鼻を真っ赤にして呆然と事態を受け止めるしかないフランシス。
このときの、まさにスッピン状態の、なにもかもが絶望の女、がすっごくリアルにブスで、驚いたんだよね。いや、フツーの女がこういう状態になれば、もっと手ひどいコトになるのかもしれないけど……やっぱり美人だから、こうなるとそのギャップの激しさに驚いてしまう。これが、あの、美女美女のダイアン・レインなの!?って。
いやー、この時思ったのよ。彼女、腹くくってるわ、これは面白くなりそう、って。

離婚で行くところを亡くした傷心者ばかりが集う短期滞在マンションに、一時身をよせるフランシス。そんなところだから、隣からは始終泣き声が聞こえてくるし、滅入るばかり。そんな彼女を心配して親友のパティが旅行を勧めてくれた。彼女自身が恋人の女性(レズビアンなのだ)と行こうと思っていたトスカーナへのゲイ・ツアー。パティが人工授精に成功してオメデタを迎えたので、このツアーは断念していたのだった。ゲイばかりだから、傷心のフランシスがヘンに気をとられることもないだろう、と。いつもハツラツとしたキャリアウーマンだった親友がくすんでいくばかりの現状を、パティは見ていられなかったのだ。
あの滅入るマンションにガマンならなくなったフランシスは、トスカーナ行きを決意する。
そしてそれは、まさしく彼女の運命を変えたのだ。

まあ、判りやすい形で言えば、旅行先での運命の恋、みたいなことがありがちだわよね。何たって恋の国、イタリーだもの。でも、そうじゃない。それは後からは出てくるけど(しかも結局破局するし)、彼女が恋した、いや一目ぼれしたのは、築300年の、お伽噺に出てくるような一軒家だったのだ。
彼女がずっと居心地良く過ごしてきた家を、夫とその恋人に取られたという痛手は、夫との離婚以上に大きかったのかもしれない。夫は夫でしかないけど、家は生活、つまりは人生の中心そのものなのだもの。
ツアーの途中、貼り出された不動産広告に見入っている彼女に、まるで夢のような女がアイスクリームをなめなめ、この家を勧めて来る。このフシギな美女、キャサリンはその後、このトスカーナでフランシスの指南役になる女で、どこかキ印みたいな部分がありながらも、それさえもすんなりとこの街に受け入れられているような、何ともミステリアスな美女なのである。
バスで移動中、実際のこの家をバスから見つけたフランシスは、衝動的に一人降りて、この家の中に入ってゆく。
ハトが彼女の頭にフンを落としたことで、なかなかウンと言わなかった持ち主の老婦人が、神様のご意志だ!とフランシスに売却を決定してくれる。本当に、すべてが運命のめぐり合わせだった。

観光客だったはずなのに。気晴らしだったはずなのに。この瞬間からフランシスはトスカーナの住人になってしまったのだ。こんなステキなことって、本当にあるのかしら。
そりゃまあ、フランシスはアメリカ人で、イタリア語なんて話せないし、戸惑うことばかりなんだけど、出会う人の運もついているのか、次第にこのトスカーナの生活に慣れてゆく。
それでも最初はタイヘンだった。何たってこの築300年の家である。オンボロどころではない。内装を頼むまでには雨露をしのぐだけで精一杯。突然のカミナリに洗濯機が死んじゃうし、ベッドに入ってびくびくと一夜を過ごすフランシス。うーん、前途は多難なんである。
内装業者を決めるのもひと苦労だったんだけど、この家を購入する時お世話になった不動産業者のマルティニが尽力してくれて、まあまあ良さそうなポーランド人のチームを紹介してくれた。ま、とはいっても文学教授だの何だのの集まりの素人集団なんだけど……仕事は熱心。家族同様に彼らに料理を振舞ってやったりしながら、フランシスは忙しくも充実した時を過ごす。

で、新しい恋もあった。いかにもナンパそうなイタリア男のマルチェロ。いかにもナンパそうな、ということは判っていたし、そのキザな台詞に実際噴出しちゃったりもしたんだけれど、離婚以来、長いこと寂しい思いをしてきたフランシスは、ちょっと、溺れてしまった。もういい年の自分でも、魅力を感じてもらえるんだってことに有頂天になる彼女の描写は……下着姿でノリノリにキャーキャー言いまくるのが、恥ずかしくもカワイイ。多分、これは恋だ、恋に過ぎない、ということは判っていたんだろうと思う。でも一方で、恋の素敵さを久々に味わったトキメキを客観的に見られないでいたのも事実。
タイミングが合えば、このマルチェロとも上手く続いたのかもしれない。でも、そのタイミングがいつでも上手く続き続けるかどうかだって判らないことを考えると……やっぱりこれは、イタリア男との一瞬の恋に過ぎなかったのだ。

タイミングを逸してしまったのは、親友のパティが大きなおなかを抱えて訪ねてきたから。恋人と生まれてくる赤ちゃんと、家族になるのを夢見ていたのに、恋人は、赤ちゃんを育てるのはイヤだと言って、パティの元を去ってしまったんだという。あれほど幸せそうに妊娠を報告していた二人だったのに……確かにまだかなり若そうな女の子だったけれど、彼女と添い遂げようと思って人工授精に踏み切ったパティの心中は……想像しようもない。
長年の親友を放っておくことなど、出来はしない。フランシスは私がいるから、とパティの肩を抱き、ここで産むようにと勧める。この時から少しずつ、フランシスの夢は叶いつつあったのだ。彼女の夢、それはこの家で結婚式をし、そして家族を作ること。
それは無論、彼女自身のことを想定してのことだったのだけれど……。

内装業者のポーランド人の中に、若い青年がいて、その彼が地元の娘と恋に落ちる。この娘(びっじん!)の父親には世話になっているフランシス。外国人の、しかも肉体労働者で、家族もいないヤツなんかと!ととにかく反対一点張りのこの父親に、二人の恋を応援するフランシスは、言い放つのだ。私が彼の母親だと。私が家族だと。
結婚に失敗したフランシスだから、永遠の愛なんて信じられないでいたっておかしくはない。この若いカップルは今こそが絶頂で、お互い以外見えていないようなところがあるのは事実。でもそれでも、フランシスはこの若いカップルに未来を託す。私には永遠の愛は得られなかったけれど、彼らには出来るかもしれない、と。

この点について再三否定するこの娘の両親は、図らずも冷え切った夫婦関係を露呈してるってことなんだけど、イイ味出してるのが、娘の祖母である。このおばあちゃんは、お前(息子)の亡くなった父親は私はとても愛してくれた、と言って、孫の結婚を応援してくれる。何たってこのおばあちゃんときたら、今でも恋に積極的で、ネットで知り合った外国の男性が、自分の年を知ったらとたんに連絡が来なくなった、と意気消沈している、なんていうオチャメさなんである。もう、80をゆうに超えているのよ!
こんな風に、一生恋に積極的になれるのって、ちょっと奇跡的なぐらいにパワーがいることだろうけれど、でもとてつもなく憧れちゃう。
愛はひとつ、が理想だけれど、たとえ愛が進行中でも、恋はいくつだってしてもいいと思う……なんて私も老成したかなあ??

そしてこの若いカップルの結婚披露がフランシスの家で行われる。パティの赤ちゃんも無事生まれている。たくさんの祝い客の中にお世話になったマルティニがいて……彼が一番、理想だったんだよね、フランシスの相手として。実際、お互い惹かれ合ってしまって、でもマルティニには家族がいて、彼はしっかり常識人だったから、惹かれる自分を自覚して、マチガイが起こらないうちに、とフランシスと距離をおいたわけ。そういう、ちょっとビミョウな感情を共有している二人なんだけど、信頼している同士としては変わらなくて……そのマルティニがフランシスに言うわけ。あなたの夢が叶いましたね、って。
つまり、自分の家で結婚式が出来て、そして家族が出来たってこと。本当にそうだ……とフランシスは自分の考えいていた形とは違いながらも、夢が叶ったことに気づく。
女のね、新しい幸せの形なのかもしれないって思うのよ。恋愛が成就するカタチの幸せしか思いつけずにいた、確かに。でもこういう幸せも、確かに幸せだって思うって。実際、この時のフランシスの表情はとても充実していて、ドレスアップしているせいもあって、すっごくキレイ。
あの、ナンパなイタリア男、マルチェロに純白の勝負ドレスを着て会いに行った時もキレイだったけど、あの時のバッチリ勝負メイクな感じとは違って、イイ感じに力が抜けてて、とても素敵なのね。

でもそのフランシスにまたまた新しい恋の予感が……彼女がトスカーナにいるというウワサを聞いて、旅の途中立ち寄ったという若い作家である。彼は自分の著書をフランシスにケチョンケチョンにけなされた、と言う。かつて同じことを言われてそれが発端で奈落の底へと誘われたフランシスは思わず顔をしかめ……しかし彼は、あの時の男とは正反対のことを言うのだ。そのことで発奮していい作品が書けました、と。つまり彼は彼女に感謝して、わざわざ訪ねてきたのだ。
次のシーン、フランシスの家には、新婚さんとパティと赤ちゃん、に混じって、あの作家の青年もいるんである。
新しい家族に、すんなりとメンバー入りした雰囲気。そして物語はそんな幸せな空気の中終わる。

この、最後の恋人が現われるまでは、何とかフランシスにそういう意味での幸せが訪れてほしいって思って、内装業者の中の、シャイな文学教授とかフランシスと趣味も合いそうでいいんじゃないかとか、色々思ったんだけど、最終的に幸せな感じで終わってくれて、良かった(でもあの文学教授は実際、お気に入りなの)。
レズビアンの親友とか、それがアジア系だったりとか、トスカーナの開放的な明るさの中でだから、そういうボーダレスな描写がすごく自然で、それもとても良かった!★★★☆☆


ドッグヴィルDOGVILLE
2003年 177分 デンマーク カラー
監督:ラース・フォン・トリアー 脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影:アンソニー・ドッド・マントル 音楽:ペール・ストライト
出演:ニコール・キッドマン/ポール・ベタニー/クロエ・セヴィニー/ローレン・バコール/ジェームズ・カーン/パトリシア・クラークソン/ジャン・マルク・バール/ベン・ギャザラ/ステラン・スカルスゲールド/ジェレミー・デイヴィス/フィリップ・ベイカー・ホール/ショブハン・ファロン/ジョン・ハート/ウド・キアー/ハリエット・アンデルソン/ブレア・ブラウン/ゼルイコ・イヴァネク/クレオ・キング/ビル・レイモンド/シャウナ・シム/マイルス・ピューリントン

2004/3/26/金 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
ラース・フォン・トリアーはイジワルだ。決して好きな監督ではない。この人は観客をイヤな気持ちにさせる天才だ。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」だって身も世もないぐらいに泣いたけれども、それはどこか憤りの涙だった。どうしてそうさせるの!?っていうような……。この人の天才的な、類まれなる実力が判るから余計に腹がたつ気分さえ起こさせる。

今回もそれは健在?だった。正直、展開は予測できるものではあった、最初から。というより、その設定から予測は出来たはずだった。でも出来なかったのは、まず、のまれたから。なに?この舞台はいったいなに?それこそ芝居の舞台をそのまんま持ち込むなんて、そんなのアリなの??と驚かせるこの組み込まれたセット。確かに街の住人たちをあからさまに描き出すのにこれ以上の手法はない。家ごとに床に描かれた白線でスペースだけが与えられ、そこには家が建っているという想定の元、しかし、すべてが見通せてしまう、街。

何をやっていても、見えてしまう。レイプされている女がいても。
もちろん、彼らにはそれは見えないということになっている。そこは家の中であって、壁があって、誰も何も気づかない。
でもそれは、ひどく皮肉なメタファーだ。だって彼らには判っているのだもの。ちゃんと見えているのだもの。他人に興味アリアリなのに、そうじゃないフリをしているだけ。そんな風に、裸の王様が家になって建っているような町では。ただ、こんな風に見えないフリをしているだけなのだ。
ここでは何もかもがウソ。つくりごと。手入れをしているグーズベリーなんて白いチョークで描かれただけの丸ぼうずのスペースだし、廃坑も杭で囲われただけの丸見えのトンネルだ。そう……最初のうちは、だから安心できていた。こんなにダイレクトにつくりごとだと判る世界もない。だから、他のトリアー監督作品のように、あんな生々しいイヤな気分にならずにすむかもしれない、と。
でもやっぱり、そんなワケなかった。いや、それは判っていた。判っていたから前半の穏やかで幸せな気分が怖かった。絶対に、このままで終わるわけがないと判っていたから。

このセットで象徴的なように、まるで生きる力のない死んだような町がにわかに活気づくのは、美しい逃亡者、グレースが迷い込んできたからである。
まるで昼寝をしていたネコがいたぶるネズミを見つけたように。
このグレースに扮するニコールのなんと美しいことだろう!とニコール出演映画を語る時は毎回言っているような気がするけれど……それにしても、この美しさは確かに罪、だ。第三者に罪を誘発させる危険を充分にはらんでいる。
グレースと最初に出会ったトムは、彼女こそがこの死んだような町にとってのかっこうのいけにえだと直感する。小説家志望の彼は、自分の思い描いたとおりのシナリオにそって町が、住民が動いていくことを夢見る。そのために、彼女をかくまうのだ。
提示されたのは、住民に対する肉体奉仕。それぞれの家の仕事を手伝うこと。
手伝ってもらう仕事なんかない、と拒む住民たちだったのだけれど「やってもやらなくてもどうでもいいこと」をグレースが提案すると、次々と仕事が出てくる。そして一時はグレースと住民たちの関係は良好になったと思えたのだが……。

グレースを追っていたのはギャングらしい。そして警察も巻き込むほどのワルらしい。強盗犯としての指名手配書が町に貼られた。……そのあたりから、住民たちの気色はあやしくなってくる。
いや、その前から何かその兆候はあった。どんなところにも鬼っ子はいるものだ。このことなかれ主義の住人たちの中で冷ややかな態度をとっていた男こそがガンだったのだ。
彼がグレースをレイプしたあたりから、事態は変わってくる。
そのレイプはグレースからトムにだけは知らされるのだけれど、その時点では皆、知らない。いやでも、丸見えの町でグレースが押し倒されているのはハッキリと見えているのだ……。
これまでの二倍の労働に加え、男たちのなぐさみものにも甘んじるグレース。
“肉体労働”にはこんなことも入っていたのか……。
彼らは、後ろめたいグレースをかくまってやっているのだから、という大義のもとに非人間的なことを何とも思わなくなってくる。むしろ、当然の権利なのだという態度で、グレースに氷のように冷たく当たる。
もうこうなると、何とかグレースを逃がそうとトムが画策しても、彼女は連れ戻されてしまう。しかもその間にまたしてもレイプされて(あの運送屋、最悪!)。

ある程度予測される展開とはいえ、どんどん自分の都合のいいようにグレースを追いつめていく住人たちに気分が悪くなる。
だって、しまいには、逃げないようにとグレースの首に、重いおもりがついた鎖をつけることさえ、するのだ。「こんなことはしたくはないんだ」と言いながら!
チリンチリン、と鈴の鳴るその鎖をズルズルと引くグレース=ニコールの姿は嗜虐的でひどく美しいのが、逆にたまらなく痛々しい。

こんな風に、あり得ない造形の町だから、胸の悪くなる展開も、どこまでいってもつくりごとなんだというのは画的にも判っているはずで……頭の隅では判っているんだけど、最初こそは違和感があるほどだったはずなのに、どんどん、まるでそれが本当に起こっている出来事のように感じて、いたたまれなくなってくる。
それでもこうしてラース・フォン・トリアーは、これはしょせん舞台の上のつくりごとだよと言っているのが何だか……ズルくって。
住人たちに気に入られるためにグレースが必死になること。いわばトムが演出家でグレースが女優というわけだ。そして他の住人たちは観客。観客だったはずが、ストリップ女優をレイプするがごとく舞台にあがりこんできた。それは、トムだって住人の一人、つまり観客の一人じゃないかという発想。そして、女優にその演出を拒まれた時、演出家は怒り……トムもまたその陵辱に加わろうとする。
雇用の関係。一般的な社会にも当てはまる、恐ろしさ。
しかし、この女優にはとんでもない切り札があった。
それがあるならどうしてこんなところにいるのかと思うほどの。

グレースは、お嬢様だったのだ。彼女こそがギャングの娘。しかし正義と許しを愛するグレースは、そんな富と権力が自分に譲られるのが、たまらなく嫌だった。そして、家を出た。
だけど、だけどだけど、家に戻るより、こんな残酷な町にいる方が、まだましだというのだろうか……??
でも、一個の人間を否定されているような暮らしが、グレースにはきっと耐えられなかったのだろう。
でも、人間として暮らしていると言えるのは、どっちなのか?

グレースは許したいと思った。人間には許す必要があると。あの人たちは可哀想な人たちなのだからと。
でも、そんなグレースを父親は一喝する。そういう態度が傲慢なのだと。お前を愛しているけれど、その傲慢だけは許せないのだと。

性善説。グレースもそれを信じていたに違いない。私も信じていたかった。
私も彼女と同じように、許すことを知りたいと思っていた。許せば、信じあえると。
でもそれは、彼女の父親が言うように、傲慢、なことなのか。
人が人を許すなんて、だってそれをした瞬間から、許した人間は許された人間を精神的に下に見るのだもの。
人が人を裁くことは確かに傲慢だと思うことがある。許すこともほとんどそれと同じなのか。
許すという行為は……神にしか与えられないのかもしれない。
でも、ならば、人は結局はいがみ合うしかないの?
グレースが最後に下した決断は、「この人たちが、町自体の存在が、この地上に存在しない方がいい」のだということだった。あまりにも……でも彼女の受けた仕打ちを考えたら、否定することなんか出来ない。
死んでもかまわない人間などいるわけがない、と思っていたのは、ただ単に自分が幸せな生活を送っていたからなのか。
しかし、幸せな生活を送っていられるのなら、こういう世界を描き、観なければならない必要があるのだろうか。

やっぱり、ラース・フォン・トリアーは、イジワルだ。

映画はリアリティこそが重要みたいな方向で突き進んで、ついにはそのリアリティが残酷さと履き違えているような映画が数多い中、まさにラース・フォン・トリアーは斬り込んだのだ。映画がリアリティなんて何の意味がある?と。
最初から映像としてのリアリティを提示するから、観客が慢心していくばかり。確かに今の時点では芝居の観客の方が映画、あるいはテレビドラマのそれよりもレヴェルとしては上かもしれないなんて思うこともある。そしてその更に上のレヴェルに小説や何かがあって……つまり受け手がどれだけ自分の力でその中にリアリティを見出せるかということなのだ。

いや、やはり作り手の力に違いない。この条件付きの手法でどれだけ観客を連れていけるかということなのだろうと思う。映画は優秀なスタッフさえ揃えば、割と誰でも作れちゃうみたいなところがなきにしもあらずなのは、やはり映像としてのリアリティがすでに用意されているからで、ならばそれを捨ててしまった時、映画監督はどこまで出来るかというのを、ラース・フォン・トリアーはアッサリとやってのけてしまった。
実際、こんなことを映画でさらりとやられたら、芝居の人間はたまったものじゃないと思う。
そしてここで、押しも押されもせぬ銀幕のスターでありながら、一方で舞台に並々ならぬ情熱を注ぐニコールが登板した。そして彼女の舞台人としての力もハッキリと示されたのだ。

この作品がカンヌで一番の話題をさらいながら黙殺されたのは、皆きっと……怖かったんじゃないだろうか。
ラース・フォン・トリアーの才能と、これを映画として肯定してしまうことが。

これが三部作になるという噂は……なんて悪趣味な。ちょっとこれ以降観る気力と体力の自信は、ない。でも本作のメイキングは観たかった。本編の公開後にしてほしかった。★★★★☆


dot the idot the i
2003年 92分 イギリス=スペイン カラー
監督:マシュー・パークヒル 脚本:マシュー・パークヒル
撮影:アフォンソ・ベアド 音楽:シャヴィア・ナヴァレテ
出演:ガエル・ガルシア・ベルナル/ナタリア・ヴェルベケ/ジェームズ・ダーシー/トム・ハーディ/チャーリー・コックス

2004/9/10/金 劇場(シネセゾン渋谷)
終わってみると、さまざまな伏線と計算が緻密に織り込まれてて、非常に上手く出来ている作品。そんな世界に連れて行かれるこっちはしかし、最初はよく判らなくて、というか、何かフツーの三角関係じゃないの、とか思って……でも時々意味ありげに挿入される客観的キャメラの視線がノイジーに入ってくるから、何、なんなの、と……映画っつーのはある意味登場人物たちの行動を覗き見しているような感覚があると思うんだけど、覗き見を覗き見している感じっていうか。何なんだろうなあとは思いつつ、フツーにラブストーリーとして見ていると、そうそのタネが明かされるのはかなり後半になってからなので、そこまではどちらかというとちょっとタイクツ気味に観ていたのは否めないんだけど。

しかし、カラクリが判ってからは、猛スピードである。というのも、それまでの、自分の中の登場人物に対する意識がガラッと変わってしまうから。それを戸惑いながら自分の中で修正しつつ見ていくので、焦りも手伝って、スリリングである。だって、だって、だって、カワイソーと思っていた三角関係の男のうちの一人、バーナビーがすべての黒幕、つまりは悪役だったって知って、カワイソーと思っていただけに、この人を一気に憎む感情にするのが難しいんだもの。でも物語はどんどんと進んで……バーナビーは哀れ……ああッ!

あっぶない、あぶない。いきなりラストを言っちまいそうになっちゃった。うー、だから、最初から説明しますとね。バーナビーというリッチマン、仕事なんかしなくても生活できちゃうほどの富豪のハンサムな青年がいまして、彼がフラメンコ・バーで見初めたスペイン女性、カルメンと恋に落ちました。で、半年後プロポーズして無事了承をとりつけました。しかしカルメンは独身最後を女友達と騒ぐヘン・ナイトパーティーを楽しんでいたレストランで、そのヘン・ナイトの約束事、“その場にいる独身男性と独身最後のキスをする”とゆーいわばお遊びごとにノッたんだけど、彼女が指名したそのお相手というのが、運命の相手だったのだ。ほんのお遊びのキスのはずが、ながーく、情熱的に唇を重ねあっちゃって……我にかえった時彼女は動揺するの。だって、そりゃ、そうだわ、愛する婚約者と結婚の約束をした直後だったんだから。

実はここに至るまでで既に、そしてここからの展開も用意されたものだった、というオチをいきなり言っちゃうけど、よく出来ていると最初に言っちゃったものの、そう、よく出来ている……出来過ぎだってぐらいなんだよね。あ、だからネタばらししちゃうと、これはバーナビーが退屈しのぎに、そして自分の才能をいかして(ってサラッと言っちゃうあたりがケッなんだけど)作っている、ドキュメンタリーラブストーリーだったのだ。彼女が行動するところ、そこここに追いかけるカメラマン、そして据え置きのカメラをしかけて、ナマな恋愛物語をスリリングに撮る、という趣向。フラメンコ・バーでカルメンを見た時、彼は彼女こそがこの作品のヒロインだと思ったのね。情熱的なスペインの女。気性が激しく、昔の彼のストーカー行為のトラウマがぬけず、そして何より美しい。完璧なヒロイン。
で実に半年もかけて彼女との恋愛関係を築いて、その上で、結婚直前の女が他の男に心を奪われてしまう、というスパイスを用意したわけさあ。

でも、だからさ……いくらヒロインとしてカルメンをいわば恋愛ゲームに巻き込んだとしたって、彼女が結婚を決意するほどバーナビーを愛するという保証なんてないはずだし、ましてやそのカルメンがヘン・ナイトでバーナビーが用意した役者、キットをキスの相手に指名するという保証だってなかったはずでしょ。そりゃキットはその客の中では一番のセクシー・ガイだったんだろうさ。そのあたりの根回しもバーナビーは怠りなかったし、何よりキットはこの映画の撮影用としてのビデオカメラで、いかにも仲間同士で戯れにホームビデオを回しているように見せかけて彼女を熱い視線さながらに追っていたわけだから。でもそれだってやっぱり確実じゃないじゃない。極めつけは、このドキュメンタリー映画のクライマックスともいうべき、結婚式をあげる教会に彼女が来るか否かの場面よ。そこに彼女が来るっていうこと、どうして確信できたの。ここまでキットと熱い恋に落ちてて、実際その後カルメンとキットの仲が深まってバーナビーは哀れ……あわわ、それは後に回すけど、つまりそういうことなのに。ここでカルメンが教会に来なければ、このドキュメンタリー映画の上映同意書へのサインももらえなかったわけで(結婚誓約書と同時に彼女には判らないようにサインをもらうっていう手口。う、うまい……)、もちろん、偶発性がこのドキュメンタリー映画の最大の魅力とはいえ、予測した筋書きに乗ってくれなければ成立しないラブ・ストーリーが、あまりにも上手く行きすぎなんじゃないのかなって。

だからね、逆に、こう思っちゃったんだ。いや、私はね、このバーナビーが最初からカワイソで仕方なくってさ、ドキュメンタリー映画のために最初っから彼が仕掛けたことだって判った後も、そうか彼は悪役なんだ、黒幕なんだ、って思っても……やっぱり何か、カワイソって気持ちが抜けなかったのね。確かに彼はすべて演技だったのかもしれない。結婚式をあげたあと、しかしカルメンがキットの元に去っちゃってさ、そこでカルメンは初めてキットと寝るんだけど、良心の呵責を感じたキットがそこでカルメンに自分は実は雇われたんだって話をして……カルメンは騙された!とばかりに彼を罵倒してバーナビーの元に戻るんだけど……バーナビーは深く傷ついてて、そして自殺、しちゃうのだ。キットの元に撮影仲間からその一報が入る。カルメンは慌てて戻り……警察やら何やらが現場検証してて、もう彼女は自分のせいだ!って錯乱しちゃって、で、キットのところに戻るんだけど……そこに、死んだはずのバーナビーが現れるのだ!

そう、当たり前だけどこの自殺騒動もバーナビーの演出であって……でもね、演技なんだって思ってもね、カメラの前でカルメンが去ったことを涙を流しながら語るバーナビーが私……ウソだとは思えなかったんだ。思わずもらい泣きしそうになっちゃったくらいだもん。そのカットの後、上手く撮れたか、みたいに一気に表情を変えるバーナビーの姿はネタばらしとして出てはくるけど、たとえそうでも、やっぱりやっぱり本当だったんじゃないかって何か、思っちゃうのね。そりゃリッチマンのタイクツしのぎだったんだろう。でもそれで半年もかけて彼女を結婚を了承するまで持っていった、つまり愛したってことだし、もしかして来ないかもしれない彼女を教会で待っていたあの時、本当に彼にとってこれは賭けだったんじゃないかって思うし。教会に彼女が来た時点でやった!と思ったんじゃないかなあ、やっぱり。

そう思ってしまうのはやっぱり、このカルメンがちょっとねえ、と思うせいかもしれない。だって、あんたがバーナビーとの結婚を決意したんでしょー。それなのに、自分の気持ちの整理がつかないことで勝手にキレてさ、バーナビーの心遣いをうっとうしい!みたいに跳ね除けて、そんなことなら結婚をヤメてキットの元に行ってりゃ良かったじゃん!と思ったよ。あんたってさあ、ちょおーっとムカつくとこ、あるよね。リッチマンとの同棲生活でも、「養われるのはイヤだから」とバイトしてるんだけど、短気のせいでロクに続かず、そう言いながら、バーナビーとの同棲生活は、私の夢はこういう穏やかで幸せな生活だったんだわー!ってなノリだしさあ、何なんだよ、それは!って感じでしょお。

そう、こんな風に、無事結婚したはずのカルメンの態度が変わってキットの元に行ってしまった時……そりゃあ映画としてはいい展開だっただろうけど、バーナビーにとってあの教会に来たカルメン、で実際にはクライマックスは終えていたんじゃないのかって思っちゃったんだよね。自虐的に二人の前でネタをバラして、ただただ呆然とするカルメンの前で、キットの部屋にすえつけられているカメラを次々と外すバーナビーは……カルメンが愛してしまったキットに嫉妬していたんじゃないかって、やっぱり思っちゃう。お遊びみたいにもう一度二人の前で懺悔っぽい“演技”をするのも、本当は、本心なんじゃないかって、思っちゃう。

だってさ……ほら、バーナビーが、カルメンと自分とがセックスしてるビデオテープと、キットと彼女のそれを各々見ている場面があるじゃない。バーナビーとのセックスではカルメン、じっつにつまらなそーな顔しててさ、キットとはもう、もう、ヤリまくりなの(笑)。哀しげに見ているあの時のバーナビーの表情もそりゃ演技だったんだろう、そうだろうとは思いつつ……いや、やっぱりあの時彼、すっごく傷ついてたと思っちゃうもん。まあ、カルメンがキットとはノリノリだったのは、結婚直後にこんなことしちゃう、みたいな悪いことしてる、っていう気持ちがより興奮させたんだとは思うけど。ま、そういう女だよ、つまりは。
結局演技だったバーナビーの自殺騒ぎも、ホントだと思っていたうちは、アンタのせいだよ!って本気で思っちゃったしさ……だから、だからさあ、いくらすべてが仕組まれていたことだったとしたって、なあんでバーナビーが殺されなきゃいけないんだよ!ってやっぱり思うの。

あッ、あッ!……そうなの、バーナビーったら、この二人の共謀で殺されちゃうのよ!これは、演技じゃないの。結局このドキュメンタリーラブストーリーがインディーズ映画祭で絶賛されて賞とかとっちゃって、一見、関係修復したかのように見えた三人だったんだけど、そう思っていたのはバーナビー一人で……彼は、殺されてしまうのだ。しかも用意周到なことに“撃った”キットの銃は競技用の空砲で、彼曰く、これもまたこの作品のパブリシティのためにトムとテオ(カメラマンのアホな二人)に提案されたことだ、と主張。実際、トムかテオ(どっちか忘れた)のポケットの中からバーナビーが撃ち抜かれた銃が出てきて……それはキットと同時にカルメンがバッグからコッソリ出して撃った銃。彼女が取り乱したフリしてバーナビーに駆け寄る時、スッと彼のポケットに滑り込ませたのだった。無論彼には覚えがないんだけど、何せこの二人はアホだからさ(笑)、もうそのまんま監獄に入れられちゃってカワイソウなんだけど、このことで更に爆発的に注目を浴びたこの作品、インディーズ映画ながら凄い興行収入とかあげちゃって、二人は監獄の中でそのニュースに小躍りするの。お前ら、二人にハメられてここにいるのに……やっぱりアホや……。

それにしても、カルメンとキットというのは、確かに奇しくもバーナビーが用意してしまった運命の恋人同士だったんだよね……スペインの女とブラジルの男(なのよ。半分だけだけど)。なんかもうそれだけで、情熱の熱さがスパークしている。「いつも、あんなキスをしているのか。凄いキスだった」と、ヘン・ナイトでのキスをキットがカルメンに言うのは……ここばかりは本気だったと思うんだ。ま、キットの方もあの時、ひと目で恋に落ちちゃったんだろうなとは思うけど……まさに、愛の意味を記す、dot the i のキスだった。バーナビーの誤算は、カルメンの相手としてこのキットをキャスティングしてしまったことだろう。いや、その意味でバーナビーは確かに、映画監督として確かな目を持っていたのかもしれない。
このカルメン、セクシーなわりにはあんまり、見せてくれない。スペイン時代にストーカーと化した恋人につけられた腕のキズのせいで、いつでも長袖着てて、で、キットとのセックスの時も上半身は脱がないの。でも、カーディガンとブラだけなら、ブラはとってくれても、と思ったり……あたしゃ、オヤジか(笑)。でも、美人だったなあ。二人の男を手玉に取るぐらいは納得の、情熱の美女。

うーん、やっぱりバーナビーはカワイソウだよー。ま、彼がちょいと線の細いハンサムで、私の琴線に触れちまったってこともあるけどさ(笑)。キットもま、イイ男ではあるけど、バーナビーみたいな、青っちろいハンサムが時としてミョーにツボにはまることがあるのさあ。★★★☆☆


隣のお姉さん 小股の斬れ味
2003年 60分 日本 カラー
監督:荒木太郎 脚本:内藤忠司
撮影:小山田勝治 音楽:
出演:林由美香 松川芽生 坂本ちえ 谷畑聡 なかみつせいじ 滝川鯉之助 野上正義 荒木太郎

2004/5/24/月 劇場(渋谷アップリンクファクトリー/2003PINK FILM ARCHIVES)
ピンク版“男はつらいよ”こと「キャラバン野郎」シリーズというのがあって、実にその9作品めであって、エピソード1となる作品、なんだという。へえ、と思う。かなり、そういうのって興味をそそられる。それにこの荒木監督というのも、興味をそそられる人で。わたしゃヘタレなので、こういう機会がないとなかなかピンクが観られず、荒木監督作品もこれがやっと二作目なんだけど、この荒木監督自身がなんというか、興味をそそられる人物。この日のトークショーでもかなり率先して喋っていたけれど、とても強いポリシーを感じる人で。作家性がありながら、非常に作品の創作について貪欲なのが感じられて、面白い。で、こういうシリーズをやっていると知ると、さらにそれを強く印象付けられて、ますます興味がわくんである。

この場合、寅さんとなるのはここでワゴンの男と旅に出る林由美香嬢、ということになるのかな?その男と旅に出るところで終わるこの物語は、しかし主軸は姉妹の物語である。姉妹愛の物語と言ってもいいか。いや、主に、姉が妹を思いやる物語。この姉妹にはどーしよーもない父親がいて、もう思いっきりジジイなのに最期までお楽しみはヤメないぞ!と今日もナンパした女子高生を家に引きずり込んでソレの真っ最中なんである。畳にビニールシートしいて、ビニールプールに泡ためて、ヤッちゃってるんである(せめて風呂にしてほしい)。その女の子にためきっぴゃん、なんて言われてウハウハ言ってる父親に、姉妹二人はもうあきらめきっている。

この父親のために、二人は自由になれない。月に20万もの請求書が飲み屋から届くため、二人はそれぞれスナック、理容院で働きながら、姉は客に身体を売り、妹は主人の愛人になってほそぼそと金を稼いではその返済に当てている。いつ幸せになれるのか、そんなことを夢見ながら。
いや、それを夢見ていたのは、妹の方だけだったのかもしれない。姉は妹を心配していた。ただでさえケチな男の愛人になっている妹はまだ若くて、将来もある。彼女自身はもうどこかあきらめムードだった。突然、彼が来るまでは。

ある日店にやってきた昔の恋人。彼が入ってくるなり、運命の風が彼女の髪をふわりと舞い上がらせるショットが印象的である。高校時代の、彼女の最初の恋人。最初の男。何も言わずとも二人お互いの気持ちがふいにぶつかって、求め合う。男は彼女に東京に来ないかと誘う。だけど彼女は……これは私の仕事だからと、誰とでもこんなことをするんだからと、彼にカネを要求するのだ。
確かに、彼女はここで、誰とでもこんなことをしている。生活を支えるために。でも彼とのそれは明らかに違ったのに、そんなの見れば判るのに、彼女はそんなことを言うのだ。
どうしようもない父親と、そのために幸せになれないでいる妹が彼女の頭にはある。つまり、彼女の頭には、自分のことはないのだ。
ああ、何かおねえちゃんだなあ、と思う。妹は実はこの姉の恋人だった男をずっと好きだったから、姉のこんな態度に憤り、姉が自分にこの恋人を譲る、と言うと更に、彼の気持ちを考えていない、と憤るんである。そりゃ妹の気持ちは、判る。でもそれはまだまだ幼い気持ちなのだ。

彼は姉の気持ちを汲み取る。確かにこの時点ではまだ彼は姉のことを好きなのは明白だし、そう妹に言ってもいる。でも、彼には姉の気持ちが判るから、この妹を幸せにしようと思う。妹は彼のことを掛け値なしに、純粋に愛しているのだ。
本当は、こんなの、妹の立場からしてみれば、そんな人をバカにした話って、ない、と思いそうになるんだけれど、不思議とそれがない。彼のそうした、姉に心を残しながらも、この妹を幸せにしようと、愛していこうと決心する気持ちもまた、尊いものに思える。二人はきっと幸せになると思える。それは本当に、何故だか不思議と、なのだけれど。

この時、自分には恋人がいるからと彼を引き離すために使ったのが、三日も食べずにいた、とワゴンの横でへたっていた、ヨレヨレスーツに帽子にメガネのとぼけたおにいちゃんである。妙にカワイイキャラのこの人を演じているのは、おっと、監督自身。つまりこのピンク版「男はつらいよ」は、由美香嬢と監督とのコンビですすんでいくシリーズだったのだ。おおー、他のも観たいなー。

由美香嬢はなんというか、凛々しいのね。この人はいつまでたっても可愛らしい雰囲気を残したままなんだけど、この中ではちゃあんとおねえちゃんだし、何よりこの日トークショーに現われた彼女を見て深く納得したんだけど、スクリーンのイメージよりずっと颯爽としていてカッコいいのだ。実際の彼女はスクリーンよりそんなにオンナオンナしてなくて、カッコ良かったなあ、ホント。で、そう、本作の中での彼女は、そのハイトーンはびんびんと響き渡るのが結構ギャップなんだけど、行動自体は、実に凛々しい。妹を愛人にしながらこずかいの支払いが滞っているヘボ髪結いを誘惑して関係し、脅して50万円もの小切手を巻き上げる。父親をゆすりにきた、あの女子高生の兄だと名乗るいかにもその筋の男に対しては、そんな女の武器は使わずにキッとした威厳だけで見事追っ払う。女の武器を使う時もそうでない時も、彼女は実にしっかりとその足で立っていて気持ちいいんだな。

でも、でもね、その中に、そうしたしっかりしたおねえちゃんであるが故の寂しさもなんだか感じてしまうのね、やっぱり。それは、妹が、彼女が誰よりも思いやっている妹が、その点まだまだ弱くて、でもだからこそ純粋だから、その対照でそれは本当に強く、思う。彼女が小切手を巻き上げたのは、妹にあの彼と結婚して幸せになってほしいから。だけどこのどーしよーもない父親を彼女がののしり、出て行けと言ったことを、妹は責めるのね。どんなにヒドい父親でも私たちのお父さんなんだ、って。姉は妹に幸せになってほしいから、だからそうしたのに、そう責められて……彼女何かハッとするのだ。一度は結婚支度金として妹の手に小切手を握らせようとするものの「ごめん、やっぱり私、役に立てない」とその小切手をバッグにしまい、父親を探して飛び出していく。……父親を脅していた男が、50万円を要求していたから。

まあ、ね。確かにこの父親はどーしよーもない。でも困ったことになんだか、憎めないんだな。そりゃー、女子高生とあーんなことやっちゃうエロジジイ。自分の父親が、娘がいるのも気にせずにあんなことしてたら、そりゃヤに決まってるんだけど、あまりに屈託がなくて、毒気を抜かれちゃう。この女子高生も、まあこういうシュミの子もいるのかなあ、このおじいちゃんのためきっぴゃん(つまりね、為吉だからなのね。はあ。)を気に入っちゃってて、勝手に美人局にしてためきっぴゃんをゆすった男、恋人だったんだろうけど、ソイツをビシッとソデにするのだ。ま、その直前まで波打ち際でセックスしてたんだけどさ(笑)。波の中に男を突き倒してビシッとね。ロリロリ巨乳なこの女の子、「ごめんね、ごめんね、ためきっぴゃん!」と駆け寄り、仲良く手をとって歩いていく。おーい、しかし君の将来はいいのかあ?ま、いいか。このおじいちゃんの最後の恋人になってくれるのならそれもそれでいいか。まだまだ若いし、このおじいちゃんが……の後でも……いやいや。

まあ、そういうのもアリだとは思うのよ。このためきっぴゃんだって(そう呼んじゃうけど、これって超絶恥ずかしい)それは承知の上でしょ。別に100まで生きようとか考えているわけじゃなく、まあ老い先も短いから、その後はこの子にフツウに幸せになってほしいと思っていると思う。なんていうか、この作品がどこか切ないながらも幸せな雰囲気を残しているのは、おねえちゃんにしても、その恋人だった男にしても、そしてまだ幼い考えながら妹だって、そしてそしてこのおじいちゃんも、そしてこのロリ巨乳の女の子ですら、みんな、愛する誰かに対してとても優しい気持ちで、幸せになってほしいと考えているってことなんだな。ある種の自己犠牲の上に成り立つ幸せなんだけど、それが欺瞞に映らず、その優しい気持ちがきちんと受け取れる。これって結構凄いことなのかも。
小切手はどうなったかっていうと、結局由美香嬢はそれを落としてしまい、風に舞い上がり、あのヤクザな男がそれを追っかけるも、風に飛ばされてゆく。風のようになりゆきで旅に出たおねえちゃんを象徴するように、軽やかに。

ピンクはその性質上、どうしても屋内に閉じこもりがちなんだけど、積極的にロケーションへと出て行くカメラが切り取る自然光の中の風景は、それ自体が湿った切なさを感じさせて美しい。姉妹が一緒に帰ってゆく夜の道、妹が彼に思いを告げる風の中、ヘタレ髪結いを誘い出してカラむ屋上から見えるパチンコ屋の明滅、父親を探してひた走る海岸沿いの道……それぞれはなんてことないさりげなさなんだけど、なんてことないから、その風や光や夜のひんやりとした空気を感じとることが出来る。閉塞感はないけど、だからといって明るく解放されているわけでもない、この手触りが、ああ映画だなあ、って思えて、好きだ。★★★☆☆


トップに戻る