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「ま」


2006年鑑賞作品

待合室 -Notebook of Life-
2006年 107分 日本 カラー
監督:板倉真琴 脚本:板倉真琴
撮影:丸池納 音楽:荻野清子
出演:富司純子 寺島しのぶ 夏井志郎 ダンカン 山本澄江 あき竹城 山本康夫 斉藤洋介 堀江由香 市川実和子


2006/11/23/木・祝 劇場(銀座テアトルシネマ/モーニング)
わざわざ休日に足を運んだだけに、ガッカリ度も大きかった。うー、もうちょっと何とかならんかったのかなあ。
確かにこれは、充分感動作になりうる、魅力的な題材。だからこそ、こんなタイクツになっちゃったのは演出のせいな気がして仕方がない。
この監督さんは初めて見る名前だな……と思ったら、やっぱり演出としてはデビュー作であった。最近ガッカリするものにはこーゆーのが多い。こんなこと言うのも口はばったいけど、どうしてそんなカンタンに任せちゃうのかな、と思う。
でも、脚本家としてはベテランなのね。「修羅がゆく」とか、極道系を手がけている人。でも扱ってきた題材が違い過ぎるせいなのか、これは彼のオリジナル脚本なんだけど、選ばれた言葉の時点で、心を打つものにはなってないんだもん。

舞台は小繋という東北の小さな村。一本の道と川と鉄道しかないこの土地のたった一つの小さな駅に、列車を待つための小さな待合室があって、立ち寄る旅人に近くの酒屋(というか雑貨屋)のおばちゃんが何くれと世話を焼く。
そしてこの待合室には「命のノート」と題された大学ノートが書き継がれている。
ここに立ち寄る人はなぜか皆人生に疲れていて、このノートに弱音をはいていく。おばちゃんはそれを読んでは心を痛めて、一人一人に返事を書く。
一人、この村で生きているおばちゃん自身に、悲しい過去があったのだ……。

てな内容。軸になるのはこの駅に立ち寄る人たちの人間模様と、そして少しずつ語られていくおばちゃんの人生である。若い頃を実の娘である寺島しのぶが演じるという、素晴らしい贅沢もあったのだが……。
しかしまず、このおばちゃんを演じる富士純子なのよね。彼女は勿論、素晴らしい女優だけど、このキャラはなんつーか……全然心を打たれないのは、私の心に問題があるからなの?彼女のゆっっっくりと間延びした台詞回しに、もー、ただただメリハリをそがれるばかりなんだもの。

確かに東北訛りって、ゆったりしたイメージがあるんだろうけど、私にとっては逆なのよね。アグレッシブで、有無を言わさない。そういうイメージがあるからかなあ、彼女のゆったりさにイライラはしないまでも……なんか眠くなっちゃうのは。
あるいはゆったりでも、限度ってものがあるでしょうがと思う。あんな調子で喋られちゃ、心に届く前に地面に落っこっちゃうよ。
それにこんなにゆっくり喋られると、ネイティブではない違和感も余計に感じる。東北訛りはイとエの中間とか、母音の曖昧さこそが特徴であって、とりあえず濁点つけとこう、みたいな発音されると、違うよー!って言いたくなる。
そういう風に東北訛りをマネする傾向は強いけど、絶対違うもん。濁音じゃなくて、くぐもりとでも表現すべき(それもまた)曖昧さだし。それもね、富士純子以外は(それほどゆっくり喋らないせいか)気にならないもんだからさあ。
彼女、
「フラガール」ではそんなこと、全然気にならなかったんだけどなあ。

おばちゃんは若い頃、遠野からこの小繋にお嫁にやってきた。それまでは遠野で看護婦さんをしていた。はつらつとした明るさが人に好かれてて、それは小繋の酒屋の嫁となっても変わらず、皆とすぐに仲良しになった。
元教員のダンナのマジメさにもホレた。そしてダンナがかつての教え子の悩みの手紙に返事を書いているのを見て、「私も書いてみようかな」と言ったことがそもそもの始まりだったのだ。
「書いてみろ。文才なんかなくていい。心で書けばいいんだ」
そう背中を押されて書き始めなかったら、彼女は数々の哀しい出来事を乗り越えられなかったかもしれない。最愛の娘の川での事故死、そして夫にも先立たれて、一人になった。
悲しいことばかりがあったのに、それでもおばちゃんはノートにこう返事を書き続ける。「絶望の隣には希望がある。いつ必ずいいことがありますから」

と、こんな風に書いてみると案外良さげなんだけど、困ったことにスクリーンで見ると、おばちゃんのこのお返事は、ちっとも説得力がないのであった。
地元の女子高生の晶子が、「おばちゃんの書くことはキレイゴトとしか思えない」というのが、さもありなん、なんである。
正直、この晶子の青春らしい悩みの方がリリカルに響く。まあ、おばちゃんと比べればってことで、彼女の描写もまたありがちだけど。

晶子は、この何にもない田舎がイヤで、出て行きたくて仕方がない。毎日同じ人と会って、同じようなこと喋って、なのにここで“いつか必ずいいことがある”なんて思えない、と。
ま、ありがちだけど、判るっちゃ判るんである。
そんな風に思っている彼女に、どうやっておばちゃんの言葉を納得させられるの。それにこの言葉を納得させるってことは、まあいいからここにいてみなさい、とこの“田舎”に彼女を縛りつけることになるじゃないの。
恐らく晶子は、この地を出て行くだろう。「絵の勉強をしたいっていうのが本音ではなく、この田舎から逃げたいだけ」であっても。
そう思う限り、やはりおばちゃんの言葉に説得力があるとは思えないのだ。

まあ、晶子に向けて語られた言葉じゃないから、当たり前といえば当たり前なんだけどさ。ただ、このノートに晶子もまた書いてるんだよね。いわば、おばちゃんの返事に対する疑問を。「そんな風にはとても思えない、きれいごととしか思えない」って。
何度も晶子は書くんだけど、それに対してだけはおばちゃんは返事を書くことはない。
なんでも解説では、「それが晶子のものだと知りつつも、返事を書くことが出来なかった」らしいんだけど、そんなこと見てても判んないよ。
判んないから、単におばちゃんが晶子を無視したように感じちゃうのもマズい。だから後におばちゃんが晶子に「返事がどうしても書けなかった」という台詞が、とってつけた言い訳に聞こえてしまうんだもん。

あっと、この場面に行くにはね、晶子が待合室に置いてある歴代のノートを持ってっちゃったっていう描写があるのね。で、晶子の弟が気づいて姉に問いつめると、燃やしてしまった、と晶子は言うわけ。
それを聞いたおばちゃんは驚きながらも、弟君に、気にしないでいいのよ、と言い、そして次のシーンでは唐突に里帰りしてる。
で、ここも解説ではね、「(命のノートを失って)張り合いを失って愕然とする和代は、強烈な孤独感と、忍び寄る老いを感じ、胸中に望郷の思いを膨らませる。独り暮らしをしている母に会おう……」とまあ、そんなこと判るか!って感じなの。監督がこめているおばちゃんの気持ちが、こっちには全然判んないんだもん。

そもそも、過去の時間軸で既に判んなかった。おばちゃんがこの縁談を受けた気持ちからして。
そりゃあ、時代というものがあるんだろう。女はある程度の年になれば、お嫁に行かなければいけない。
でも看護婦という職を得ていて、ひょっとしたらこの地で恋のひとつもするかもしれない彼女に、さしたる理由もなく遠い村にお嫁に行く理由があるんだろうか。父親を亡くしこの地には母一人子一人。その母親を置いてでも?
大体、そうまでしてお嫁に行く葛藤さえ描かれずにアッサリ行っちゃうし。しかも夫も教員をしていたのに、店を継ぐために辞めた。その葛藤も描かれない。晶子は「あなただって先生を続けたかったんじゃないの」と問うんだけど、彼は何も言わない。
まあこの時代の女は、そういうのも仕方ない部分もあるだろうけど……それと抱き合わせて男もそうされちゃうのかあ。ついでみたいじゃん。

一応メインはこのノートに癒される旅人であって、そんなワキのことをぐちぐち言ってもしょうがないのかもしれないけど、でもそのメインもねえ……。
その象徴とされる男がいる。晶子曰く、「心も身体もすっかり冷え切った」男。行くアテもなくただただ北を目指して歩いてきたらしい彼は、このノートに妻と娘を事故で亡くしたこと、そして、自分も彼女たちの元に行こうと思う、と書き残すのだ。
それを読んだおばちゃんは、彼の行く手に向かって祈るように手を合わせ、そしてノートに返事を書く。あなたが死ぬことを奥さんも娘さんも望んでなどいないはず。絶望の隣には希望があるといいます、と。
で、それを読んだ晶子が反発して書き込むわけよね。晶子は実際にこの男のしおれ具合を見ていたから……。

一方で、待合室で夜を明かしたこの男は、おばちゃんがこっそりと差し入れをしたおにぎりを「涙ッコ流して食べ」、待合室をキレイに掃除して出て行った。
このおにぎりというアイテムは、私にとっては出てきただけで泣けるはずなのだが、ここでもどーにも私の涙腺には作用しないんである。
おばちゃんのウワサを聞きつけて取材にやってきた女性記者に、若い頃看護学校に行くために乗った汽車の中で、母親が作ってくれたおにぎりを食べて心安らいだ話などもするんだけど、自身が言うとおりありきたりの話で、その後それを繰り返すように帰省から戻ってくる汽車の中でおにぎり食べてても、……うーんという感じである。
だって先述のように、おばちゃんがそんなに心を痛めて帰省したのが感じられないんだもん。

ちなみにこの女性記者は、友人からおばちゃんの話を聞いていたのだ。東北のお母さんだといって慕っていたその彼女、元気にしてるの?とおばちゃんが問うと、女性記者は一瞬下を向いて……「去年、手首を切って……」
……でさあ、このエピソードは何の意味があったんだろうか……結局はおばちゃんの励ましなんて意味ないじゃん、というわけでもあるまいし。
それとも、その後おばちゃんのいない間に再訪していた、あの妻子を亡くした男の存在との対比なのかなあ。救われる人もいれば、それが届かなかった人もいる、みたいな。
しかしこの女性記者とのシーンは中盤に持ってこられているだけに、それまでのタイクツ度がピークに達していて、シーンは動かないし、私は思わず寝ながら聞いちゃったよ。だって目を開けても変化がないんだもん。せっかく市川実和子を持ってきてるのになあ。

おばちゃんを慕う人たち、はもうひと組出てくる。これはちょっと魅力的な二人組。以前からおばちゃんを慕っている男と、彼が引き連れてきた少年院上がりの無口な青年。
男がおばちゃんのために買ってきたカニ鍋を、おばちゃんがひたすら「私はあとでいいから」と言うのも聞いていないかのように、ひたすらむさぼり食う青年、しかもカニミソもねらっているのが再三示されるのが実に可笑しい。
しかし、この青年のバックグラウンドが連れてきた先輩の説明だけで終わってしまうのはもったいない。この青年がおばちゃんと絡んだ方がよっぽど面白そうだった。だって先輩の話はあまりに浪花節なんだもん。
この先輩はトラック野郎で、家を空けることが多いから、妻にウワキされちゃって、離婚。でも子供だけは絶対に渡さない、と……おばちゃんにトラックの運転席から電話する。昔からの彼を全てを知ってて、今の幸せを疑わずに喜んでくれたおばちゃんに面と向かってはどうしても言えなかった、と……。
それをたまらない顔でじっと聞いている青年、というのもあまりに浪花節だが……。

ところで、晶子とあの妻子を亡くした男との邂逅である。おばちゃんが留守の間に晶子はノートを返しに来て、おばちゃんに会いにきていたこの男と話をする機会を得る。
「おばちゃんの言うこと、私はどうしてもきれいごととしか思えない」と晶子が言うと、男は、それでいいんじゃないか、と応える。おばちゃんからの返事を読む人は殆んどいない。そのことを判ってて書く。ここを訪れた人は他の人に書かれたおばちゃんの返事を読んで心癒される、つまり、きれいごともある種の救いだみたいな論を展開するんだけど、イマイチ納得出来ない。

確かに、おばちゃんが返す返事は、凄く通り一遍というか、ありがちな言葉なんだよね。生きていれば必ずいいことがある、とか。女の子が、そんなこと信じられない、きれいごとだ、と言うのもしょうがないよなと思っちゃうような。
実際は、このおばちゃんは、幼い一人娘を亡くし、夫にも先立たれ、いわば何の希望もなくこの寂しい村に暮らしてるわけでさ、彼女がその人生の中でどんな希望やいいことを見い出したのかが全然明示されないから、余計に説得力がないんだよね。
例えばおばちゃん自身が、あたたかい人の心に触れた、とかいうんなら判るんだけど、ハートフルを求めるあまりなのか、おばちゃんの優しさが人を癒す、ってことにばかり固執しているんだもん。
聖母マリアの話なわけ?これは。

地元の人もこっそり書いてたりする。先行き短い男が遺書みたいにこのノートに繰り返し書き綴る。日常的に顔を合わせている親しい間柄なのに、そのことを明かさずに。
ちょっと、手を広げすぎな気がするのよね。その誰もが死にそうな思いで書いているのを、あんな人もいる、こんな人もいる、みたいに分散されちゃって、こんなところで公平を期したって、どこに共感を置いて観たらいいのか判らないじゃない。

しっかし、命のノートなんて書かれちゃ、ウッカリしたこと書けないよなー。
ところで、富士純子がミョーに髪の毛が黒くて多いのが気になる。全然関係ないけど。★★☆☆☆


マッチポイントMATCH POINT
2005年 124分 イギリス カラー
監督:ウディ・アレン 脚本:ウディ・アレン
撮影:レミ・アデファラシン 音楽:
出演:ジョナサン・リース・メイヤーズ/スカーレット・ヨハンソン/マシュー・グード/エミリー・モーティマー/ブライアン・コックス/ペネロピー・ウィルトン

2006/8/30/水 劇場(シネスイッチ銀座)
アレンはホントにイギリスに行ってしまったんだなー、などと思う。アメリカの映画撮影事情にイヤ気がさしてイギリスに渡ったというアレン、がらりと作風を変えてきたのは、やっぱり今までのアレン映画はニューヨークでなければ撮れなかったということなのかなあ。粋でモダンなジャズも、ウィットに飛んだ可笑しみも、可笑しくも暖かい人間関係も、まるでみそぎをしたかのようにすっぱりと脱ぎ去っている。
私は何だかそれが哀しいのさ……。
いきなり他の土地で、今までの居心地のいい映画を撮るというわけにはそりゃいかないんだろう。こんなベテランになって新天地に望み、新しい領域に挑戦するアレンは素晴らしいとは思うけど、それだけに頑なで保守的になっているような感じもするし……。

保守的っていうか、なんか定型的というか。イギリスだからミステリにしたっていうわけでもないだろうけど、音楽もジャズじゃなくてオペラだし。
官能ミステリといった趣の本作。そして完璧にイギリス色に染めたわけでもなく、イギリス社会に入り込んだことで悲劇が生まれるアメリカ人、という図式である。
そのあたりは、自嘲グセのあるアレンらしいとも言えるんだけど、ここでの女の役割があまりにスッパリと別れて、ステロタイプなんだもん。

主人公に対する二人の女の造形がね。妻と愛人。しかも、保守的な妻と、セクシーな愛人。うーむ、アレンにしては陳腐なほどステロタイプを持ってきたなあと思っちゃう。それとも、だからこそのネライだろうか。
でも確かに、アレンは自分を投影したような自嘲気味の弱い男に、キャラのハッキリした女性をあてがって、男を更に翻弄させる、という手法をずっと描いてはきた。
それに前作「メリンダとメリンダ」は本作への流れを感じさせるような、対照的なヒロインを登場させてはいるんだけど、あれだってあくまで用意された設定の上での条件つきだったし、アレンのフィルターを通したものだと感じることが出来たんだけど、今回はなんていうか……ほかの人が作った映画みたい、とさえ感じる。
アレン映画だなと感じるのは、あの独特のクレジットの出し方だけで。

舞台はイギリスで、主人公のクリスはイギリスに渡ってきた元テニスプレイヤー。プロを引退した彼は、手始めにテニスコーチを始める。
テニスは元々イギリスが発祥地。そしてセレブのスポーツ。彼の教えるクラブも金持ちばっかりである。というか、多分、彼はそれをネラってこの高級クラブにやってきた。テニスのコーチで終わる気はない。野心がある。後に妻となるクロエにそう語っていたから。
首尾よくクリスは金持ちの坊っちゃん、トムに気に入られた。家族ぐるみで付き合うようになった。
そしてトムの妹のクロエに好意を寄せられた。イイ子だし、なんといっても金持ちの娘、足がかりにするには悪くないと思ったのか、クリスは彼女からのアプローチをあっさりと受け入れ、ステディな仲になる。

しかし、そこからの展開は早かった。多分、クリスの予想以上に。クロエは彼を父親の会社に入れるよう手配する。「これをあなたの足がかりにすればいい」というクロエの言葉は、クリスの心を見透かしているようだった。確かに彼は、コーチは野心への足がかりだと言ったんだもんね。
でもそこから彼自身の力ではいあがることなど、このセレブの国では出来ないのだ。アメリカではそれが出来たのに。いや、そのアメリカで挫折したからここに来たのに。

結局彼は最後まで、自分の力で這い上がることはない。まさにこの映画のテーマである、ネットに弾かれたボールがどちらに落ちるかの運だけだ。
そのボールが相手のコートに落ちれば運がいい、人生はそこで勝ちだ、そんな前提ではあるけれど、それが本当に幸せだったのかというシニカルなオチが待ち受けている。
クリスがやったこと、それはこの運を守るために、悪い芽を摘む行為に出た、ことなのだけど。シニカルを描けばアレンの真骨頂、でも今回ばかりは、何だかチョットナア、と思ったのが正直なところ。

クリスはセレブな生活がなじめないと思いつつも、それへの憧れがあったからどうしても抜け出せない。
というか、そう言うことによって、かろうじて自分のアイデンティティを保っているようにも見える。
もともと上流社会のものであるテニスをやっていたのは、彼の中にそれへの憧れがあったからなのだろうか。わざわざイギリスに来たのだからやっぱりそうなのかな。
でも、今までは弱肉強食の勝敗世界だった。しかもそこで破れた彼が、野心を自分の力でつかめないのは最初から判っていたことなのかも。

というより、クロエが最初に囲い込んでしまった。自分の父親の会社に入れるなんて、結婚に持っていくためのからめ手でしかない。しかもムジャキを装って、野心をくすぐってくる。。
ハタから見ればそれが明らかなのに、クリスは自分の野心を満たされるような錯覚に陥って抜け出せない。そこそこに彼女にも魅力を感じてしまったことも後押しした。
彼は自分で人生を決めることが出来ないのだ。
何か大きなことをやりたいと言ってたのに、女に用意された目の前のチャンスに屈してしまい、しかもそれを捨てることが出来ない。

クリスは、トムの婚約者のノラと出会う。ノラを演じるのはスカーレット・ヨハンソン。正直彼女がこんなフェロモンむんむんの美女に成長するとは、最初を考えるとかなりのオドロキである。
そのフェロモンは、唇女優の先輩、アンジェリーナ・ジョリーさえも越えている。唇の脅威は、オソロシイものである。
トムは部屋に入ってきたとたん、ノラに魅せられる。卓球の勝負を挑んでカケをしていた彼女。その行為の子供っぽさと、けだるげなセクシーのギャップがまたそそられる。

彼は、自信満々の彼女が打ったボールを、子供のようにスマッシュを打ち込む。
小学生かよ、って手である。でも、それだって、彼女の計算ずくだったかもしれない。
クリスの気持ちは燃え上がり、ある日ついにノラと一線を越えてしまう。
女優の卵という不安定な位置にいる、しかもアメリカ人のノラは、トムの母親に嫌われて、いびり倒されていた。
同じアメリカ人でも、女に対してはハッキリと蔑視するこの母親は、いかにもセレブが庶民を見下しているって図なんである。さしものノラも傷ついて飛び出してしまう。
外はどしゃぶりの雨。追いかけたクリス、お互い激情にかられ、草叢に倒れこんでヤッてしまうのだ。

このあたりはアレンの美学なのかもしれないけど、これだけノラに官能美女の設定を与えているんだから、トップレスぐらいやってよと思わなくもない。
肉欲に溺れた男、がテーマなのに、そのセクシー女がおっぱいひとつ見せてくれないのはちょっと不満が残っちゃう。とりあえず乳首はスケスケになってるのに。一瞬だけど。

それでもノラはトムの婚約者だし、ノラは一度の間違いに感傷的になる男とは違って、すり寄ってくるクリスをソデにするんである。そんなこともあり、クリスはビジネスの世界でも手腕を発揮してクロエの両親、特に父親にすっかり気に入られ、当然のようにクロエと結婚する。
しかし、ノラはトムと別れてしまった。そのことを知った時のクリスの顔ときたら!明らかに「しまった!早まった!」と思ってるじゃないの。
ノラの行方を捜すクリスだけれど、あとかたもなくノラは消え去ってしまっていた。
そのまま消えてくれてれば、あんな悲劇は起こらなかったのだが……。

どれぐらい経ったのだろう。トムも他の女性と結婚して落ち着いた頃、ノラはこの街に舞い戻ってきた。
ある日、偶然にノラを発見するクリス。クロエもその場にいるというのに、もう欲望ムキダシでノラの連絡先を聞き出すんである。
ノラ、「一体、どういうつもりよ」って、そういうつもりなんだよね。でもそれが、どんな結果をもたらすのか、まるで考えていないあたりはいかにも男、いやコドモである。
ノラ自身、そもそもどういうつもりだったんだろう。彼女も欲望を満たすぐらいの思いだったのか。でも彼女は所詮女だから、独占欲が頭をもたげてしまったのか。

という処理に見えてしまうのが、ステロタイプだって感じちゃうのよね。
そりゃアレンだから、そのあたりもキッチリ計算づくだってことぐらいは判るけど。セクシーさはあくまで男の目から見た外側の女。女が独占欲というワガママな本性をムキダシにすると、あんなにセクシー美女だったノラもまた、その他大勢の女になってしまう。
いや、セクシー美女という毛皮をまとったノラも、そんな女はゴマンといる、その他大勢の一人だったのかもしれないとも思う。だから彼女は女優としての目が出なかったし、ホンモノの中で育ったトムが結局は他の女に目を移したのも、そのせいだったのかもしれない。

でも、妊娠が判り、一転してクリスに離婚を迫るノラは、見るに耐えがたいものがある。
もちろん悪いのは、後先全く考えてなかったクリスに決まってる。コイツってば妊娠したノラに向かって、「どうして妊娠したんだ」って言うのよ。どうしてだと!?
しかしそれに答えるノラの台詞も凄い。「危険日だっていうのに、避妊もしないでヤルからよ!」
いや、危険日じゃなくたってさあ……。こんな台詞を聞いちゃうと、やっぱりノラの計算づくだったんじゃないかって気がしてくるじゃない。
困り果てたクリスは、プロテニス時代の友達に相談する。友達は、妻と離婚してノラと結婚すればいいじゃないかとまっとうな意見を言う。クリスはノラにゾッコン参っているようだったし、妻の方にはまだ子供が出来ていないのだから。

クロエは凄く子供をほしがっていたのに、クリスは拒んでたんだよね。ここまでクロエに主導されて成功の人生を手に入れたのに、縛られるのがイヤだったのか。
それでもクロエは計画的にセックスして子供を作ろうともしてたんだけど、なんたってクリスはノラとの愛欲に溺れていたから、妻とセックスする気さえ起こらない。
という、関係を、クリスはその友達に、妻とは愛で、ノラとは愛欲だ、と言うんである。
愛つけなくても。つまり肉欲でしょ。だってノラとはデートすらしない。部屋でセックスするだけだもん。
でもそれだけで、女はセックスを愛に変換してしまうんだ。そして今までは男にとって特別な女だったのが、その他大勢の女になってしまう。
そこが男との違いなのだ。

そう、ノラは妊娠したとたん、妖艶な愛人だった女が、口うるさいジャマな女へとハッキリカラーを変えてくる。観客への印象もハッキリ変わる。セクシー光線も全く出さなくなるし。
クリスは妻への思いを愛だと言って、この手段を選んだけど、妻への重要度だって、結局は愛じゃない。今の生活を破綻させることへの恐怖なだけだ。

この手段、それは……本当に、この男はアホね。証拠隠滅とばかりに、ノラを殺すことなんである。
恐怖に震えながら、涙を流しながら、バレるのを恐れながら、義父の猟銃を持ち出して、しかもノラの隣人の老婦人まで巻き添えにして殺すクリスに唖然とする。
ちょっと、ガマンすればいいだけなのに。ノラから中絶を拒まれるなら、妻や義父に責められるのをちょっとだけガマンして、彼女の子供を認知すればいいだけの話なのに。
第一、悪いのは自分なのに、ノラが子供を産みたいと言ったとたん、そんな彼女自体がマナー違反のような態度をとるクリス、いや男ってなんなの。
もちろん、彼には一生背負うべき、罪の意識という地獄の制裁が待っているわけだけど、でもそれで女が殺されちゃ、ワリに合わないじゃないの。
それでもクリスは奥さんに告白しようとしてた。奥さんもちょっとカンづいてたみたい。クリスは彼女に「外に女がいるの?」ちょっと先を越されるただけで怖じ気づいて、浮気の告白一つ出来ないんである。
もしここで告白できていたら、こんな方法はとらなかったのかな。

しかも、彼の犯罪はバレることがない。正直ほころびだらけだったけれど、この地域に出没した麻薬の売人の殺人事件と、その売人が死んでしまったことで、彼の犯罪もその中に含められてしまった。
という、決め手になったのは、クリスが殺した老婦人の指から抜き取った指輪を、川に投げ入れたはずが橋の欄干に当たって弾き返され、それをこの死んでしまった売人が偶然拾っていたことなんである。
まさに、ネットに弾き返されたボールが相手のコートに落ちるという、この映画のテーマのマッチポイントである。でもそれが、果たしてラッキーだったのか。
一生、殺人犯の苦しみを自分だけ抱えて生きていくのに。自分の子供は殺人犯の血を引くことになるのに。

そう、この時奥さんのクロエは、念願の子供を授かっていた。
手放しで喜ぶクロエや彼女の家族や友達に、自分が殺人犯だと言えるわけもなく。
したくてしたセックスで子供が出来たのに喜べず、気乗りのしないセックスで出来た子供は望むべき子供だなんて。

ベテラン刑事はクリスを怪しいと睨んでいて、そのカラクリも“睡眠中にひらめいた”と見抜く。でもあの売人の死があって、最初からクリスを疑っていない若手の刑事に、言い含められてしまう。
それが、こうなの。「これで陪審員がそう思いますか?」
陪審員の心証が決め手で、真相を追うことが重要ではないなんて、アメリカだけでなく、イギリスもそうなのかあ……。

これがイギリスに渡ってのアレンの第一作目、そうかあ……などと思う。当然、上手いけど……。
とりあえず、次作を待とう。★★★☆☆


卍 まんじ
2005年 80分 日本 カラー
監督:井口昇 脚本:井口昇
撮影:武山智則 音楽:清水真理
出演:秋桜子 不二子 荒川良々 吉村実子 野村宏伸

2006/4/4/火 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
これでもう何度目の映画化になるのかは知らんけど、よもや、よもや、こんな形のモノが出現するとは、誰も予想しなかったに違いない!だって、ギャグなんだもん、誤解を恐れずに言えば、ギャグ映画なんだもん!

谷崎がよ、禁断のドロドロ同性愛を描いた「卍」がよ!もう、ぶっ飛んじゃった。手え叩いて喜んじゃった。
いや、私、谷崎フリークなのよ。卒論、谷崎だったんだから。全集もどーんと揃えてんだから。ちっとも実らない就職活動なんて一切やめとけば良かった、卒論に思う存分没頭しとけば良かったと、いまだに悔いているぐらいなんだもん。映画が好きだった谷崎の、映像を喚起させる文章や表現のことがね、卒論のテーマだったのさ。いや、そんなことを今更、10数年ぶりに思い出さなくてもいいのだが。
でもね、予想もしなかったこの映画、谷崎だったら、いや谷崎が一番喜びそうな気がするんだよね。だってもしかしたら、こんな風に見えていた部分もあったのかもしれないって思うんだもん。

原作は、谷崎をほうふつとさせる作家の“先生”に、事件の当事者でただ一人生き残った園子が語り聞かせる趣になってるじゃない。この園子が語りに語りに語りまくり、改行を一切しないその文面は、読むのも厭うてしまうぐらい息苦しさに満ちていて、それは話を聞かされている“先生”の境地をまんま物語っているんだよね。
で、ほんのすこうしだけこの“先生”の感想が差し挟まれるんだけど、それはまるで、この詰まった文章の中で息をつくかのように、間をたっぷりあけて、短い文章で、痛烈に、この同性愛に陥った関西婦人の、関西特有のアクの強さとケバケバしい趣味の悪さ、園子がキレイだキレイだと賛美する、恋人光子に対して、それほどかあ?みたいな冷めた目線なぞも感じられたりして。
なんかそれがさ、今回の映画化が徹底してギャグ風味にしている感覚と通じるような気がするんだよね。こんな風に、滑稽に見えていたんじゃないかなあ、なんて。

と、思いながら原作を読み返してみるんだけど、やっぱりやっぱりすっごいドロドロで、これまで映画化されてきた作品は、そういう部分を十二分に掬い取って名作を残しているわけなのだ。だからこそ井口監督が「卍」を撮ったと聞いて、ええ!?どうなるの!?それとも井口カラーを全く払拭してしまうのかなあ、なんて思ったんだけど、キッチリ監督の色に引き寄せたから本当にビックリしたんだ。
でも、内容を変えているわけではないのよ。ストーリーは生真面目なぐらい、きちんと原作どおり追っている。セリフや状況もほぼ逸脱することがない。それでなんでこうまでギャグに作れるんだろう、それも過去の映画化作品に全く引きずられずに!本当に、感嘆する。劇場内が爆笑に包まれる度に、私も一緒になってお腹抱えて笑いながら、そのことに本当に感嘆したのよ。

二人の出会い、それは美術学校。ワザとはやしたてられた二人の“同性愛”。お互いに見知らぬ他人なのに……校長先生にまで同性愛を揶揄され、階段の踊り場で園子が泣いている。泣いてる、けど……めっちゃ鼻ビービーかんでるんだからすでにギャグなんである。スバラシイ。しかも、なぜかコレがカワイイ。
やはり、まずキャスティングが重要なトコである。語り部の園子は、原作では光子を崇めるあまり、そして謙遜が入って自分のことを醜い、醜い言ってるからイメージが掴みづらい部分があるんだけど、でも今までの映画化作品、あるいは原作からなんとなく喚起するイメージと違って、本作の園子を演じる秋桜子はチャーミングでカッワイイのである。この作品にドロドロさが全くなく、ひとことでいえばカワイイというイメージに集約されるのは、彼女の功績が大きい。
光子に恋い焦がれるあまり、唐突にバッタリ倒れてスクリーンから見切れたり、ソファで足をバタバタさせて「死ぬ、死ぬ」と言ってみたり、夫の言いつけで彼女の外出を阻むばあやと至近距離で睨み合ったり、……なんかいちいち、カワイイのよね。こういう描写がカワイく映ると、それだけで作品のイメージがスッカリ変わってくる。それはもちろん、監督の意図するところに違いなくて。

一方の光子である。自分が崇められるのが大好きで、すべてが計算ずく、非業の最期さえも園子を陥れて彼女を傷つけたんじゃないかと思われる、究極のファム・ファタルを演じるのは不二子。
現代の若手女優でこの役を演じられるのは彼女しかいまい。そういうイメージがついてしまっているというのもあるから、彼女にとってはフクザツなところもひょっとしたらあるのかもしれないけど、でもこのまま突き進んでほしい。どんな役も演じられることより、この役はこの人にしか出来ない、という方が強いに決まってるもの。最近はそういう役者が案外少ないしねえ……。

この二人のラブシーンというのが、非常に美しいんだよね。ここだけはギャグじゃない。原作では、まあ時代もあって巧みに逃げているシーンを、タップリと見せてくれる。
最初に愛を交わしたシーンなんて、二人の高まりがやけにスリリングで、二人ともさすが、全身を見られる仕事を続けてきただけあって、実に、美しい。
なんといっても素晴らしいのはキスシーン、紅く柔らかい唇が、なまめかしく艶やかに舌を出し入れする様は、がっつきもせず、かといって遠慮もなく、本当に、呆然とするほど美しく官能的で、口を開けて見とれてしまう。

あ!口を開けてで思い出した。原作に出てこないシーンでね、光子が園子の口の中をデッサンする場面があったんだ。もともと美術学校(というか、カルチャースクール)で出会った二人、ヌードモデルに光子を夢想した園子がすべての始まりだったんだけど、園子が光子を観音様みたいに崇めて描いているのに対して、光子は園子の口の中……のどちんこまでも微細に描く。
あごがはずれんばかりに口をあーんと開け続ける園子=秋桜子は実にチャーミングなんだけど、同性同士である二人の“行為”が象徴される“口”のその中の、その奥の全てまでも描こうとしているのがね、それも奔放な光子を園子は観音様として見てて、光子と出会うまでは貞淑な妻だった園子を、そんな風に端から壊しているというのが、このほんのちょっとのオリジナルが、実に上手く対照をなしているんだよなあ。

男性キャストが、最も原作のイメージから外れている。そしてそれこそがこの強力な作品を、井口カラーに引き寄せる役割を担っている。
園子の夫で、妻の奇行に悩み、後に自らも光子の魅力に溺れて苦悩する柿内に扮するのが野村宏伸。ガンコで潔癖なボンボンという原作の描写からは、思いつかないキャスティングである。まあ、ボンボンってとこはちょっと判る気はするけど、これまたカワイイんだよね。光子との恋に溺れて情緒不安定な妻に戸惑って、「お前は、極端から極端やなあ」ともらすシーン、この台詞自体は原作にもあるんだけど、演じる秋桜子のメリハリの効いたコメディエンヌっぷりもあいまって、やけにカワイくて吹き出しちゃうんだよなあ。

そして最も、ありえないだろ!というキャスティングが、光子の婚約者、綿貫に扮する荒川良々である。もうギャグにする気マンマンだろ!ありえないもん!“ネチッこい女々しい性格の、女なら誰もが振り向くような、線が細い美青年”に荒川良々なんて、天地がひっくり返ってもありえない!光子が、いや不二子が、この男から離れられないなんて、ありえない!このキャスティングでこの映画がギャグになることはケテーイである。
あからさまな長髪のカツラと、いつもの荒川良々ならありえない“それなりに”かっこつけたキレイな発音、執念深く恐ろしい美青年、のはずの彼が登場するたび笑いが起こる。
読者がドン引きした“姉弟の契り”を交わすという、双方の流血をすするシーンでさえ、本気でイヤがっているんではないかというぐらい顔をゆがめて引きまくっている秋桜子に、嬉しそうに迫りまくる荒川良々が可笑しくて可笑しくて、ここで笑いを誘うという決断が、この作品のカラーを決定したと思うんだ。

二人の愛は障害に阻まれれば阻まれるほど、燃えるんである。妻の尋常ならざる光子への思いを不安に思った夫のさしがねで、二人が一時、交際を中断される。
聞いてるこっちが引きまくる、熱烈な手紙のやりとり……光子の「光」という字を、耳なし芳市よろしく左手にビッシリ書いてさ、窓の外に視線を移すと、そこにはこっそり訪れている光子が。
原作では二人は手紙のやり取りだけで会うことはできないんだけど、ここではしっかり二人の視線を絡め合わせて熱情を盛り上げる。しかし、そんなアツいシーンの筈が、もう二人の表情がキメキメだし、エンディングにも使われている怨念のこもったオリジナルソングにも噴き出しちゃうし、たまらなく、サイコーに……ギャグなのよ!見張っているばあやとの至近距離でのガンとばしもスバラシイしさあ。何でこんなに臆せず谷崎に対峙出来るの!

園子は光子に会えないストレスで顔じゅうに湿疹が出来てしまう。これって……原作にあったっけ?どっちにしろ、赤いブツブツの顔で夫を責めまくる園子は笑うに笑えない、いややっぱりおかしくて吹き出しちゃうけど、とにかく鬼気迫るものがある。
光子は常に計算高くて、彼女にホレちゃった園子は光子のためならひたすら奔走するけれど、園子も夫に対しては光子のような勝手気ままなふるまいをする。つまり、夫に対してしか、出来ないのだ。その下のはけ口がない夫にとっちゃ、ただただストレスになるばかり。

綿貫との姉弟の契りを聞かされて、いよいよガマンならなくなった夫が、光子からかかってきた電話に園子を行かせないシーンがまた、おっかしくって、カワイイの!
二人にとっては本当に深刻なシーンであるハズなんだけど、帯を抑えられてランニングマシーン状態になった園子が、それでも必死に電話に出ようと抵抗するカワイイ可笑しさと、そんな彼女を逃がすまいと必死に帯を、いや、帯だけを抑える夫と。
そして「あーれー」とばかりに園子は自ら帯を解き、光子を追って行くんである。

原作で二人の逢瀬に協力した(というかさせられた)、光子の家の女中であるお梅が本作では出てこず、園子の家の老女中がその替わりを担っているのも、秀逸なギャグに拍車をかけている。
もう、ギャグのためにそうしたわけで、最終的にウラギリの役割になるわけでもなく、後に浮気が発覚することになるという狂言心中の場面……本来なら深刻な場面なのに、これじゃなるわけがない!
園子がこのババアに、しれっとした寝顔でのしかかられる夢を観ているのが、それだけでやたらと可笑しく、この場面からラストに向かってシリアスでいかなきゃいけないハズなのに、可笑しかったらダメなはずなのに、もうホントに降参なんだもんなあ。

ここで、園子は夫に浮気される。先に正気を取り戻した光子が夫を誘惑したのだ。朦朧とした意識の中で園子と間違えたのだと光子は言うけれども、最初から計算ずくだったんじゃないか。この狂言心中でさえ、いやこれまでのことも、それ以降のこともそうなんじゃないかと園子は思うんだけど、もう後戻りなど出来ない。
しかも、夫も光子の魅力のとりこになってしまった。共通の敵は綿貫。ならば、夫婦で光子を共有して、三人一緒に仲良く暮らそうじゃないかということになる。
だけど、光子の所有欲と嫉妬心の強い性質はエスカレートする一方で、光子と柿内の間に間違いが起こらないようにと、寝る前に睡眠薬を飲ませるようになるのね。マチガイって……その定義、おかしいって。
このあたりは原作ではかなりグロッキーに描かれているんだけど、井口作品はここに至ってもやはりチャーミング。顔色の悪くなった二人が、すべてが世間に知れた新聞を持ってきた光子に死のうかと言われて、ニッコリと同時に頷く。
深刻に見えそうなのに、そこまでがひたすらギャグだから、もうひたすら笑うしかないのが凄いんだよなあ。

もういろんな場面でカワイイやら可笑しいやらなんだけど、一番好きなのはこのシーンかな。光子がケンカした園子と仲直りしようと演出した吐血事件。光子から言われるまま、うつぶせの彼女の腰につま先立ち、袖口を握りしめながら、小刻みに微妙なバランスをとっている園子に爆笑!

園子は和服、光子は洋服。原作では光子は割と和服着るし、ファッションから来る二人のキャラも違うんだけど、ここではひたすら、その対照に注目してる。同じ年頃の役者同士。さあどっちがイイ仕事をしているか、だ!★★★★★


間宮兄弟
2006年 119分 日本 カラー
監督:森田芳光 脚本:森田芳光
撮影:高瀬比呂志 音楽:大島ミチル
出演:佐々木蔵之介 塚地武雅 常盤貴子 沢尻エリカ 北川景子 戸田菜穂 岩崎ひろみ 佐藤隆太 横田鉄平 佐藤恒治 桂憲一 広田レオナ 加藤治子 鈴木拓 高嶋政宏 中島みゆき

2006/6/8/木 劇場(新宿武蔵野館)
私は正直、森田監督作品が苦手なんだわ。特に近年、あざとさが際立ってる気がしてさ。だから前作の「海猫」は観ることさえしなかった。んだけど……今回は予告編にまず惹かれてしまった。
この予告編はホント、秀逸だと思う。最近は、その映画の面白いトコを全部語っちゃってる予告編が多くて、予告編の方が面白かったなーということがよくあるんだけど、本作は、違う。実際、予告編もすっごく面白いんだけどね。
予告編ではほんとにワンシーン。カレーパーティーに誘った女性二人を待っている兄弟の、後ろ姿での会話だけ。それだけでは内容は判らない筈なのに、この兄弟の仲の良い関係、信頼関係がダイレクトに出てて、作品のカラーをダイレクトに伝えてて、本編見ても裏切らない。これはホント、秀逸だと思うのね。

本作は森田作品特有のあざとさもままありながら、ベストキャスティングの妙でバランスを保ってる。
間宮兄弟の弟を演じる塚地氏が、名演技なのがまず驚く。彼はドラマとかで評判良かったらしいけど、私は初見だったんで。
そしてお兄ちゃんを演じる佐々木氏は、ホントは二枚目路線なのにこういうオタク系に切り取ったのが、塚地さんの舵取りの上手さと合わせて、絶妙なのよね。

それにしてもカワイイんだなあ、カワイイ映画なの。原作がカワイイんだろうなあ。それに間宮兄弟のキャラがカワイイんだけど……待った!もう忘れないうちに言っといちゃう。
私が一番嬉しかったのは、この兄弟のお母さん役であるみゆきさんのカワイさだったのだ。もおー、ホントにカワイイの。喋り方とか、二人に投げる視線のやり方、ちょっと首傾げたり。息子と一緒にボウリング行って、投げた拍子にすっころんだりするトコもメチャクチャカワイかったなあ。
そうそう、みゆきさんって、こういうカワイイ人なのよ、と中学時代、彼女のラジオに励まされた私は思うのさ。ほっんとうに、憧れの人。
最近では、そういうキャラを発泡酒のCMとかでも披露していて、そうそう!と私は思ってたからさ。ああ、なんて可愛らしい人なんだろ。ユーミンじゃこうはいかないさ。女優も出来ないさ!
んでもって、このお母さんが息子二人に言う台詞が、この作品そのものを大いに物語ってる気がするのね。
「女の人にもてなくてもいいの」

さて、物語の始まりは、この兄弟がどういう生活をしてるかってトコから始まる。
休日の前の晩、二人してテレビの前に供えられた椅子にぴったりくっついて座り、横浜ベイスターズの試合をスコアつけながら見てる。兄はビール、弟はコーヒー牛乳。
時にポップコーンをハネとばしてしまって、二人して拾って。そして試合に勝てば用意していた紙ふぶきをはしゃいで撒きまくって、しかしこれも後で掃除し(笑った)。椅子に座ったまま居眠りをしてしまった弟に毛布をかける兄の描写は、まるで奥さんのようで。
休日となると眠そうに起きてきた二人は、商店街の中を「ギョウザジャンケン」で闊歩する。距離が離れてしまうと携帯で連絡を取り合いながら、ギョウザ屋までの道のりを「チヨコレイト」「グリコ(のおまけ)」(←携帯から外して言ってる(笑))と大股で歩きながら進んでく。大抵お兄さんの方が先に到着して、弟を待たずにギョウザ食っちゃってる。弟のしょうゆの比率に注意を促しながら。

……なんて生活を、30もとうに超えた兄弟が過ごしているなんて、確かに考えもしなかった。新鮮で、やけにカワイイ、と思ってしまうのは、イメージとして、兄弟がこんな年まで共同生活をしているというのがありえないと思ってるからだろうな。姉妹ならあるかもしれないけど、って。
でもなんで、そう思うんだろう。男は女がいなきゃダメとか勝手に思ってるからなのかなあ。
だから、二人がなんか微笑ましくかわいいのが、女としてどこかで悔しい気がしてる。
友情でも兄弟の絆でも、男同士の関係に女は叶わないと、どこかで思ってるから。

それにしても、私最初ね、弟を演じる塚地氏の方がお兄さんなのかと思ったのよ。年齢考えればすぐ判るのに。
でもそれも、あながち外れてなくもないというか。だって、弟の方がしっかりしてて、お兄ちゃんに女っ気のないのを心配しているんだもん。
でも、やっぱり最終的には弟なんだよな。だって弟、自分に憎からぬ思いを寄せている女性がいるのを、お兄ちゃんあたりは気づいているのに彼は関心を示さず、全然方向違いの道ならぬ恋をしてフラれてしまい、最終的には自分が面倒見るはずだったお兄ちゃんに慰められちゃってるんだもん。
お兄ちゃんの方が純粋度が高いだけに、弟が傷ついた時の気持ちが切実に判っちゃうんだろうなって思う。

ま、というのは随分と後の話。まずはカレーパーティーである。
そもそもは、お兄ちゃんに女の人を紹介しよう、と弟が用務員として勤める小学校の女性教師、葛原依子と、二人がいつも行くビデオ屋の店員、直美ちゃんを誘うことを提案するんである。
いつもフルネームで呼ばれているのが、なんとなく判るような気がする葛原依子センセを演じるのは常盤貴子である。正直興味の沸かない女優なんだけど、ここでは態度のあいまいな恋人に翻弄される、イケてないメガネ教師を独特のぎこちなさで演じてて、面白い。
めがねを外しておめかししてきた彼女に、弟から話を聞かされていた直美ちゃんが意外そうに「先生、キレイですね」と言うギャップも効いてるしね。
しかも四人でモノポリーをしてる時、脚見せチラリズムのお色気大作戦でトレードを成功させちゃったりするし!

まあ、あざとさのギリギリセーフってあたりなのだけどね、この辺も。一瞬、弟とイイ感じになりそうになるんだけど、この弟が思わぬ女性と出会うことから、その軌道が大きく外れてしまう。今から思っても実に惜しいと思うけど、恋はままならぬから、恋なのだよね。そんな都合よくこうなればいいのにといくはずもない。

そして直美ちゃんの方は、演じる沢尻エリカがあいっかわらず超絶のカワイさを見せている。
んでもって、彼女が次のパーティーに連れてくる妹がまた、イイ味を出してるんだよなあ。最初こそ、この姉が間宮兄弟に興味シンシンなのをいぶかしがっていた妹なんだけど、最終的には妹の方こそが興味シンシンで彼らの本質を理解しているあたりがイイんだよね。

あのね、お兄ちゃんはこの直美ちゃんにホレるんだけど、結局フラれてしまうのね。だから直美ちゃんはその後、パーティーに誘われても行きづらい、というんだけど、妹は大丈夫、行こうよ、と言うのよ。ちなみにこの時誘われているのはクリスマスの日に催されるおでんパーティー。
「クリスマスパーティーに誘いたいのにおでんパーティーとわざわざ言うところが切ないじゃない」と解析するのは実に絶妙である。
お姉ちゃんが、今は姉妹仲良くこうしているけど、いつまでもそうはいられないかもしれない、などと彼氏との関係に悩んでいることも含めてそんなことを言うのに対してもこの妹、「何言ってるの。間宮兄弟を見てごらんよ。いまだに一緒に遊んでいるじゃん」と返す。
この台詞も、作品のテーマをズバッと言い当ててて、そしてそれは、こんな風に恋が切なく破れても、そんなことを超えたところにある幸せを示してて、なんだかホッとあたたかくなるんだよなあ。

なんか思いっきり話が飛びまくってるんだけど、ごめんなさい。だからね、まずはこのカレーパーティーよ。
女の子はほうれん草が好きだからとか、直美ちゃんはシーフードカレーっぽいとかって、何種類ものカレーを用意する間宮兄弟。
未知の領域に上がりこむ葛原センセと直美ちゃんは、「つまんなくなったら一緒に帰りましょう。髪をこう触ったらその合図」と決める。
招き入れられたしょっぱなにテンパったセンセが無意識に髪を触りまくるのを、「先生、早すぎ」と直美ちゃんが笑いながら諌めるのはウケたが、結局二人は帰りたいなんて思うこともなく、ゲームにも盛り上がりまくり、ホントに程よい時間になって「……じゃあ、この辺で」と目を合わせて髪を触るのね。うん。なんか実にイイ感じなんだなあ。

そして次の浴衣パーティーでは、直美ちゃんの妹の夕美ちゃんと、その彼氏の鉄平も参加。鉄平が兄弟のコレクションやら本棚を見渡して、「間宮兄弟じゃなくてマニア兄弟だな」というのがドンピシャで笑うんだけど、でもそーゆーアンタも相当変わってるって!
このキャラには森田監督っぽいあざとさを感じそうにもなるんだけど、多分この本人そのもののキャラなんだろうなという不思議さもあり、神経衰弱で一人勝ちする彼に周囲が引きまくるトコとか実に語ってるのよねー。
それに彼が後に、間宮弟の職場である小学校に夕美ちゃんともども入りびたり、建造物の長さを図りまくって悦に入ってるとことかも、このキャラの底知れなさを感じさせるのに充分。しかも彼、なんとパリに留学しちゃうし!それを知った間宮弟が「あなどれんな」とつぶやくのが判る判るー!

そうだ、そういやあさ、彼らが電話をかける時、「間宮兄弟の弟です」って言い方するでしょ。あれがまた、兄弟の絆を思わせて、クスッと笑っちゃいながらも嬉しくなっちゃうのよね。

兄弟二人がこのパーティーの後や、何かコトがあった後には必ず反省会をするのもカワイイんである。
時にはお兄ちゃんが上司のグチに付き合わされて、ぐでんぐでんになって帰ってきた時。時には弟がぼったくりバーに引っかかった時。
そしてどんな時でもお兄ちゃんは「待っていてくれる人がいるっていいなあ」とつぶやいてる。上司の離婚騒動に巻き込まれて気まずい夫婦の対話に付き合わされた時も、「うちで弟が待ってますから!」と言って帰っちゃう。
お兄ちゃんが出張になった時に、出張先から寝る前に電話をかけるとことかもカワイイんだよねー。弟は早く寝ろよと言いたげなんだけど(笑)。
お兄ちゃんは、寝る前に弟と話せてご満悦で、「さ、本読みながらだんだん眠くなろ」(この台詞、好きだなー)と寝る体勢に入る。その頃弟が運命の出会いをしていることも知らずに……。

弟が出会ったのは、お兄ちゃんが巻き込まれた上司の離婚騒動の、その奥さんである。上司を演じているのは高嶋兄で、このキャラはわざとらしくてそう、実にアザとくって正直参るんだけど、そしてその妻の戸田菜穂がただ一人ナチュラル演技を見せているのが(彼女だけ、フツーのメロドラマの中の役者みたい)、いい錘(おもり)になってる。
この上司がひっかかっちまったのは、同僚の安西。間宮兄と三人で飲んでる時、安西は間宮兄に、「どこかに連れてってと言う女と、ここにいこうと言う女。どっちがいい?」と問いかける。「連れてって、かな」「そう。私はここに行こうという女なの」「……」
間宮兄にはまだまだ遠い、フクザツでムズカシイ男女の関係なんである。

んでもって、この上司の奥さんに恋しちゃった間宮弟である。彼はMDでイイ曲を編集してプレゼントしてあげることによって、人を元気づけられると思ってる。
実際、それを葛原先生はずっと待ってて、でもその間に間宮弟はこの奥さんに恋しちゃったもんだから、MDを奥さんの方に手渡しちゃうのね。でも奥さん、この思いも寄らない方向からのアタックに迷惑しきりなの。
それをはねつけるのが、彼女愛用のi-Pod。だからMDなんぞイラナイと。……いまだにMDどころかCDウォークマンで聞いてる私はどないするのだ。時にはテープでだって聞くぞ!(いばらんでも)

ホント、フツーに弟は葛原センセ、兄は直美ちゃんと上手く行っていれば、どんなに良かったろう。でもどこか逃げるような気持ちで間宮弟に寄っていった葛原センセは、自らの力でアイマイな恋人を取り戻したんだから、良かったのかもしれないけど……。でも直美ちゃんはね。彼女の恋人が直美ちゃんをきちんと愛してるとは思えないんだもん。セックスできる家政婦ぐらいの位置じゃん。
まあ、でもだからこそ、おでんパーティーにきっと二人は来る、っていう含みのラストが、もしかしたらのこれからを思わせるわけだけど。

直美ちゃんにフラれちゃった兄は、この持っていきようのない気持ちをどうしようもなくて、「ありったけの洗濯物を持ってコインランドリーに来い!」と弟を呼び出す。弟、「洗濯したばっかりだったのに」とごちながらも駆けつけ、そして二人、洗濯している間、銭湯で汗を流す。
銭湯に入る場面は何回か出てくる。ぷかぷか浮かぶゆずに囲まれる二人が何とも愛しかったりする。そして風呂からあがると必ず、兄はビールで弟は牛乳、並んで腰に手を当てて飲み干すんである。
なんか、懐かしいな。そして懐かしいというのがなんだかこんなに胸苦しい。

いつも彼氏の鉄平と二人で小学校に遊びに来ていた夕美ちゃんが、ある日一人で間宮弟を訪ねてくる。彼氏はパリに留学しちゃったからと。
そして失恋して落ち込んでる弟に、ガバッとばかりに後ろから抱きつく。このシーンは、なんか好きなの。
そして耳元でささやく。スローモーションになっているあたりがニクい。
「言っとくけど、これは愛じゃないよ」
うろたえながらも弟。「でもここは小学校。誰が見てるか判らないから、わざとらしく笑いながら離れて」(笑)
そのとおり、笑いながら離れる夕美ちゃん。愛じゃないよと言いつつも、この後の展望を思っちゃうのは私だけかしらん?

だってね、イヴの夜、携帯にかかってきたのは夕美ちゃんからでしょ!ちなみに間宮兄弟はこの夜、一緒に旅行する海外を探すためのビデオ鑑賞会をしていた。そして枕もとにクリスマスの飾りがしんみりと光ってて。いつものように布団をぴったり並べて(笑)寝る体勢。くっつきすぎだって!
寝息を立て始める弟に、「イヴから、一晩中話をしようって言ったじゃないか」ってお兄ちゃん……完全に小学生の会話だ。いや恋人同士の会話か?
そして携帯が鳴る。その着信の名前を二人してのぞきこんで、あんなにも輝いた嬉しそうな顔、二人ともするんだもん!

その前のシーンで、弟が大好きな新幹線の操車場が見える屋上にやってくる。そういえば冒頭もほぼ同じシチュエイションがあった。だから弟は、以前もこんな風に失恋したのかなと察せられる。意外に弟、恋多き男なのかもしれない……だから女っ気のないお兄ちゃんをことさらに心配していたのかもしれない。
そしてお兄ちゃん、そっと寄り添うようにして弟の元にやってきて、仰向けに倒れて「助けてくれー!」
そうだよ、これまでと同じように、一緒に楽しく暮らして行けばいいんだ。何の問題もない。そしてまた、おでんパーティーから何かが始まるかもしれないんだから!

二人で夏休みに、故郷の静岡に帰省する場面も好きだった。大好きな新幹線に乗り込み、通り過ぎる土地のウンチクを語るテンポの良さ。どっち側で富士山が見えるかとか言い合ったり。
まるでホントに、子供の夏休みなんだもん。昼寝して、海ではしゃいで、おばあちゃんにおこずかいまでもらう(笑)。
しかし、間宮弟が、おみやげのうなぎパイを食べる、その食べ方はあざとくてヤだったけどさ。あ、兄の出張のみやげの笹かまもそうだった。袋を眉毛用?の小さなはさみでチョキチョキと切って、リスみたいにカリカリと食べる。うーん……やっぱあざとい。こういう細かいところがなんかヤなのよ。そんなのにこだわるの、おかしい?でもワザとらしいじゃーん。
でもね、お兄ちゃんが子供の頃、朝顔で作った色水が大好きで、腹を下したってエピソードはかなり好き。だって、色水!判る判る、色水はいいよね!同世代だからか、色水に対する思い入れは判るー!

大島ミチルの音楽がステキだった。かつてのフュージョンを思わせる。心地よさげなトコが作品世界にピッタリ。で、浸ってるところに、ラストクレジットの後の、あのオチはいらないと思うんだけどな……。★★★★☆


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