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「か」


2004年鑑賞作品

海軍
1943年 132分 日本 モノクロ
監督:田坂具隆 脚本:澤村勉 田坂具隆
撮影:伊佐山三郎 音楽:内田元
山内明 志村喬 青山和子 小杉勇 水戸光子 風見章子 滝花久子 長尾敏之助 小沢栄太郎 近松里子 嵐寛童 島田照夫 梅村蓉子 東野英治郎 藤枝久江 笠智衆 山ノ上於久良 関操 寺田晴彦 菅沼宗則 金子精吾 加藤精一 射場幾郎 原保美 演地甫 土紀柊一 前畑正美 神田澄孝 日野道夫 荒木重夫 井上正彦 北海漣 田中兼三 橘健二 谷雄二 荒木忍 佐田豊 飯塚武男 紅沢葉子


2004/3/26/金 東京国立近代美術館フィルムセンター
戦争真っ只中に作られた戦争映画で、つまりは戦意高揚映画であるこういう作品を見るというのは、初めてかもしれない。当時の時代の記録として貴重なものだと思いはするものの、違うよな、やっぱり戦争に対する受け止め方が全然……などと思いながら見てしまう。こういう作品をさらりと上映スケジュールに入れてしまうことにちょっとヒヤヒヤしたりして……やはりこれはフィルムセンターならではだよなあ、と思う。資料、記録としての上映をしているという立場である唯一の場だから。他の場所で上映してたら、戦争賛美と取られかねないもの。そういう意味では希少な体験をさせてもらったのかもしれない。

でも、これは一方として海軍の成り立ちやその生活を克明に描写した、本当の意味で記録的価値があるものだとも、思う。つまりは今の海上自衛隊にまでつながる歴史なのだろうから。劇中の少年たちは東郷平八郎(だったよな、多分)をイコンとして尊敬し、写真に敬礼しながらも、「だけど、こんな年まで僕は生きない」とあっさりと言う。あまりにあっさりと言うのでどういう意味なのか一瞬、図りかねるほど。彼らにとって海軍に入るということはイコールお国に身を捧げたということで、年寄りになるまで生きることなど、恥ずかしいことなのだ。しかもそれを笑顔で語る彼らに……。

難関をくぐりぬけ、海軍の学校に入った少年たちが、厳格な寄宿生活で送る厳しい訓練の日々。全ての個が埋没される軍隊式の規律生活を、ちょっとしつこいぐらいに追っていくので、不謹慎ながらも途中で眠くなってしまう。実際、この描写の時にはあちこちからいびきが……(笑)。まあ、だからこそ記録的意味があるんだけど。でもこの少しでも乱れるとビシッと直される軍隊生活は、感情を殺して、敵を殺すことも、そして自分が死ぬこともその中にプログラムとして組み込まれているような恐ろしさを感じるのだ。

彼らが休暇で家に帰って、普通の少年の顔に戻る時にはだから、ホッとせざるをえない。海軍生活に入る前と同じように、お母さんにてんこもりのご飯をよそってやって「西郷さんの高盛りだね(ダジャレかよ!)」などと言い合う微笑ましい親子の様子である。しかしこの少年は、うらでこっそりとお兄さんに重々お願いする。お父さん、お母さんをよろしく頼む、と。この時に既にこの少年が戦争で若い命を散らすことは示唆されているのだが……それにしてもこの年で言う台詞じゃないよな、とたまらなくなる。

この少年と同じ海軍学校で、何とボートの決勝大会で力を出しすぎて死んでしまうコがいる。ボートはこの主人公がキャプテンとして率いていて、ここまできたら何が何でも優勝だと、死んでも力を出し尽くすんだ、とチームメイトの皆を鼓舞しているんだけど、それで本当に死んじゃうとは……唖然。しかも、その死に、海軍として力をささげ尽くした、海軍の鑑ともいえるあっぱれな死だと、褒め称えられるのだからさらに唖然である。……この時代には一人の人間としてだけ死ぬことも出来ないのか。

ところでこれは真珠湾攻撃の二年後に封切られた映画だという……その報復として原爆があり、戦争が終わった。攻撃に対しての正当な報復とアメリカでは考えられているらしい原爆にばかりやはり目が行きがちだけれど、こうして日本がおこなった真珠湾攻撃のことを考えると……。だって、真珠湾攻撃の二年後ということは、日本がその戦果に酔いしれている時に違いないんである。そして劇中で、彼らが実際に船に乗り込んでの実習?の光景が描かれるんだけれど、彼らは「あれが真珠湾か」「ちょっと鹿児島に似ているな」などとにこやかに会話しているのだ。自分たちの美しい故郷を思い出させるその土地を攻撃し、そして自分たちの美しい故郷が、攻撃された。この時の少年たちのこのちょっとした会話が……何だかたまらないものに思えてしまう。

少年の死の知らせが家族のもとに届けられ、あの慎ましやかな母親が慎ましやかに悲嘆に暮れる。本当は、本当は息子が死んでしまったのだから、もっと取り乱すほどに哀しんでも、いいのに。なぜ自分のかけがえのない息子を“お国のために”捧げなくてはいけないのだろう?などと……この時代には考えることさえ、許されないのだろうか。

永遠の父親役、笠智衆の姿もスクリーンの中に見つけることが出来る。ああ、こういう作品にも出ていたんだ……と何となく……。でも彼が出てくると、日本の家族、誰一人として替えのきかない大切な家族を思わせてくれる。決して、お国のために息子の命を捧げることが美徳なんかではない、美しい家族を。★★☆☆☆


華氏911FAHRENHEIT 911
2004年 122分 アメリカ カラー
監督:マイケル・ムーア 脚本:マイケル・ムーア
撮影:マイク・デジャレ 音楽:ジェフ・ギブス
出演:ジョージ・W・ブッシュ/マイケル・ムーア

2004/8/29/日 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
確かにこれほど個人的嫌悪がはっきりと出た「ドキュメンタリー」も珍しいんだと思う。ムーア監督はブッシュが嫌い。もうそれをまるで隠しもしないで展開している。ドキュメンタリーという性格上、それは確かに間違ったやり方と断定も出来る。でも、でも、この言わなければならない、何を言われたって言わなければならない、という強固な意志の前には、ドキュメンタリーの前提をどうこうなど、まるで力を持たないのだ。

知らないことが、たくさんあった。日本と違って直接投票で決まるアメリカ大統領。だから、文句なくアメリカンドリームだと思っていた。でもそこに操作があったとムーア監督は言う。最初に報道された速報と違った結果、疑惑の名簿作り。アフリカン・アメリカンの下院議員の排除。コネの重大さを鼻高々に語るブッシュに胸が悪くなる。あんたは一体何で政治家になりたかったの?
単純に、アメリカン・ドリームを信じていた私が単純だったのか、それとも……。
しかも、アメリカのマスメディアはブッシュ礼賛で塗りつぶされているんだという。それは知っている人なら知っている、公然の秘密だって。あからさまな意識の操作。だから、国際的な常識や真実なんていうものも、知らない人がほとんどだとか。日本じゃ信じられないな……と思うのだけれど。

でも、じゃあ、真実って、なんだろう。
そりゃあ、ムーア監督が100パーセント真実を語っているという保障はないけれども、でも、少なくとも彼が信じる真実を、その最初の最初からひとつひとつ丁寧に積み重ねていることが、大きな強みだ。文句の差し挟みようもないほどに、緻密に、積み重ねてゆく。
それでも、やっぱりアメリカ大統領はカリスマだから。ムーア監督はまさに四面楚歌、ずっとずっとブーイングを受け続けてきた。
やはりブッシュ批判がその中に含まれる、去年の「ボウリング・フォー・コロンバイン」彼はオスカー受賞の席上でさえ、観衆から冷たい反応を受けた。それでも、くじけなかった。
一体、彼のこの信念はどこからくるんだろう。ちょっと信じられないほどの強さ。

信じられない、と思ったのは……やっぱり私みたいなヘタレはくじけちゃうからさ、あっさり。この作品中でちらっと触れられた日本人ボランティア三人の拘束事件。ムーア監督はそれについて別にどうこう言っているわけじゃないんだけれども、あの映像、ドキッとして、思い出しちゃった、私。あの時……私はね、ちょっと信じられなかったのだ。日本人があんな風に同じ日本人を“自己責任”だなんて言ってバッシングするなんて。日本人らしくないと思ったし、ショックだった。
でもあれも、最初に自己責任と言い出したのって、政府じゃなかったっけ……。それこそ、まるでブッシュみたいに、世論を操作したように思えて仕方ない。確かに日本はアメリカの飼い犬なんだ。何か、ゾッとする。
私にはどうしてもそうは思えなくて、そのことで上司と居酒屋でもの凄い口論になったりして(苦笑)、でも言い負かされちゃって、悔し涙が出てしょうがなかった(もうあの居酒屋二度と行けない……)。あの時日本全部が自己責任、自己責任と連呼して、反論したら叩き潰されるような雰囲気があって、それをまさに体感した気がした。それから怖くて、自分の意見が言えなくなってしまった。そんな自分が情けなくて。

だから、どんなに四面楚歌になって、自分の方が間違ってるかもしれないと思うような状況でも、自分の中の“真実”を曲げないムーア監督が凄いって、思うんだ。そりゃ、それが本当に間違っていることに結果的になってしまったらこれほどイタイこともないんだろうけど……。
でも彼をそこまで突き動かせたのは、それが単に“反ブッシュ”ではなく、確かにこの映画はそのことから始まって最後までそれで貫き通してはいるけれども、ある意味それは観客を引きつけるための一つの手段に過ぎなくって、彼が本当に言いたいのはやっぱり、“反戦”ってことなんだと、思うんだ。
今や、カンヌでの受賞で米国民をようやく振り向かせることが出来た彼。外国での受賞がそうさせたのというのも、ちょっと皮肉で、そして意外である。日本ならまだしも……。

でも、正直言って、カンヌで賞とって(さすがはタランティーノ審査委員長だよなー)日本でも全国拡大公開になって、案の定、公式掲示板が胸の悪い展開になってて哀しい。
確かにムーア監督はアメリカで少数派だったんだろう。今は大分劇的に同意者を増やしているみたいだけど。劇的なだけに、まだなんだか不安定で、その意味でミニシアターにかけて、この映画を本当に観たい、そして考えたいと思う人が観て、しっかりと受け止めてもらう方がいいような気もした。だって、話題作だから観よう、あるいは、観ても観なくても、クサした方がクールだみたいに、クソミソに言う人も出てくるわけでしょ。総2ちゃんねる状態なんだもん。
小泉サンも、観ないで非難しないで、非難するなら観てからにしてほしい。それがイヤなら最初から何も言わないほうがいいんじゃないのかなあ。
「ボウリング・フォー・コロンバイン」もすごい話題になったしヒットもしたけど、こんな風にいきなりの広がりじゃなかったから、その点、健全だった気がする。

それにしても、「ボウリング……」よりずっと、タイトにシリアスに語ってゆく。ムーア監督独特の、実に毒味の効いたブラックジョークは冴え渡っているんだけどね。
ブッシュを批判する部分はことごとくブラック・ジョーク。もしかしたらムーア監督は、このブッシュが“映画の主演”を張るキャラとしてあまりにも適任で、逆に気に入っているんじゃないかと思うほど、楽しそうに叩きのめしている。そりゃムーア監督はさまざまな証拠で固めて悪人に仕立て上げていって、確かにブッシュ批判に他ならないんだけど、映像作家としての視点で、ある意味気に入ってなけりゃ、ここまでやれないだろうというほどの緻密さなもんだから。選択と編集の上手さだよね。だからといってこれがウソだと責められるはずもない。そこにはブラックながら、やっぱり真実が凝縮されてるって思う。

ブッシュ大統領が、振り返ってみれば何の根拠も、推測さえもない戦争をはじめた。9.11で国民の、そして世界の頭が混乱していて、その矛盾やおかしさに気付かないうちに、正義の戦争にしてしまった。でも、一体何の証拠があったろう。戦争としての攻撃はされていない。その前兆もない。されるだろうから先に仕掛けるなんて、9,11後のこんな異常な状態でさえ、おかしいと思った。でもやってしまった。一体なぜ?本当に……ブッシュ大統領は自分のカネや立場を守るためだけに、そうしたのだろうか……。
ムーア監督はその戦争そのものを、容赦なく切り取る。吐き気をもよおすような、どす黒く血まみれ、ちぎれた死体。愛らしい子供も、当然のように含まれてる。
怒りで、頭が締め付けられて痛い。怒りで、涙がこみあげて止まらない。
怒りで涙が止まらないなんて、あんまり辛すぎるよ。映画を観る時は、感動して涙を流したい。怒りで涙を流したくなんかない。

でも、これは、これだけは少なくとも真実だ。いくらムーア監督が偏った見方をしている人だとしたって、これは、これだけは真実じゃないか。
こういうのを見ても、ブッシュ大統領はまだ戦争をしたいって思うの?その必要があるって思うの?100歩譲ってたとえ彼が本当に報復の感情でそうしたとしたって、たとえそうだって、一体その報復に何の意味が、そしてメリットがあるというんだろう。
ブッシュ大統領じゃなくったって、誰だって、世界中のどんな人だって、こんなむごたらしい惨状を実際に目の当たりにしたら、戦争なんて間違ってるって、即答する。きっと。と、思いたい。ムーア監督もそう思ったからこそ、テレビじゃ絶対流せないようなこういう映像を躊躇せずに出してきたんじゃないのか。

実際に前線に出て戦っている米兵が出てくる。ノリノリのCDを聞きながら敵を倒すのが快感、なんて言う兵士も出てくる。なんて奴!と思うけど、多分……彼には標的の先の敵と、倒れるそれは見えていても、その後のむごたらしさは目にしていないんだ。まさしくゲーム感覚そのもの。
だから実際にむごたらしい惨状を目にした米兵は、深く落ち込み、何のために自分がそうしているのか判らない、とつぶやく。人を殺すごとに、魂が死んでゆく、本当にそうなのだ、と言う。もう二度とそんなことをしたくない、と刑務所に入れられるのも覚悟で次の召集は拒否する決心を固めている者もいる。
だって、ブッシュ大統領は見ていないんだもの。そして小泉サンだって、そうでしょ。普通の感覚であんなの見ちゃって、それでも戦争を正当化できるなんて無理だと思うもの。……違う?
いや、だから見ないのかもしれない。見ちゃったら及び腰になるの、判ってるから。そう、誰だって……あんなところに自分の子供を送りたいなんて、思わないんだから。

米軍兵士は多くが貧民層によって支えられている、というのも初めて知る。つまり、生活の保障がしてもらえるからだ。
これは、このあたりは、やはり日本と明らかに違う。日本は一億総中流国民だから、こういうことを身をもって痛感することが難しい。
何か、またしてもあの、拘束事件のこと、思い出しちゃうな。だからって、行かなくてもいいんだから、何もしなきゃ良かったじゃないとかいう風に片付けられるなんて、おかしいじゃない、って思ったりして……。
まあ、そのことは言い出すときりがないから、おいとこう。アメリカの貧民層の若者たちが、巧みにスカウトされ、半ば夢を持って軍隊に入る。“生活の保障がしてもらえる”というより、それが愛国心だとなかば信じ込まされて。いや信じ込もうとしているのかもしれないし、本当に信じているのかもしれないし……とにかく、国のために自分の子供は誇りを持って戦っているんだと。反戦運動は自分の子供を避難されているようで気分が悪いと、そう言うご婦人が出てくる。
国のために……“お国のために”まるで、半世紀も前の日本みたいじゃないの。でもたった一つ違うのは、このご婦人はまさかその息子が本当に“国のために”死んでしまうとは思ってなかったこと。

息子が死んで、彼女は初めて気付く。反戦運動は、兵士を非難しているんじゃない、戦争を非難しているんだってこと。至極当たり前のことなのに、それさえ、気付かなかった。自分が今までいかに無知であったかを。なあんにも、知らなかった。なぜこの戦争がはじまったのか。それには本当に意味があったのか。本当に、脅威のある敵なのか。そして……戦争に参加するってことは、その攻撃される相手の国には、自分と同じように辛い思いをしている母親が、数え切れないぐらい、いるのだ。
やっぱり、母親が気付くんだよね、そのことに。ムーア監督がとらえる映像。子供が、家族がこの戦争に無残に殺されてしまって、神に救いを求める様は、イラクもアメリカも、本当に、驚くほどソックリだ。ゴッドとアッラーの違いだけだ。でも、救いを求めても求めても、神様は助けてくれやしない。……これも同じ。

ホワイトハウスに出かける彼女。イラクの殺戮を訴えている女性がいる。思わず立ち止まり、私の息子も死んだのだと、同志を見つけたかのように泣きながら語りかける。そこを通りかかった、政治的意識の強そうな女性が、何千人も死んでいるんだからと、彼女は大げさに芝居しているんだと説く。婦人は思わずその女性につっかかるように訴える。私の息子はイラクで死んだのだと。これは芝居なんかじゃない、と繰り返す。
そうだ、芝居なんかであるはずがない。沢山の人が死ぬ。それだけの言葉はなんだか慣れてしまって、ただただ通過し、仕方のないことなんだと思ってしまう、恐ろしいことに。でもあんな風に残虐な死体の山を見てしまったらもうダメ、そしてこんな風に……たった一人の、自分の息子が死んでしまって、ようやく気付く。沢山の人が死ぬことより、たった一人の息子が死ぬことで、ようやく、気付く。
自分は無知だった。そう言って、彼女は泣くのだ。

こここそが、この映画の白眉だと思う。知る権利はこの現代でも平気で奪われてしまうのだ。息子は戦場に行ってこの戦争の無意味さを知った。ブッシュはバカだと、早く帰りたいという手紙を送ってきた。自分と同じように愛国心を持っていると思っていた息子が。でも、愛国心が、一体、一体何の役にたつの?

愛国、って、なんだかヤな言葉だ。日本でも、愛国心を教育しようとしているみたいだけど、心底、やめてほしいと思う。この劇中でも、テロリスト対策にと、国民のプライバシーにめっちゃくちゃ侵害してくる愛国者法というものが成立してしまう。あの9.11の直後で、マトモに判断できない状態の中設立された法。
結果論だけど、やっぱりイラクの脅威なんてなかったし、9.11後、イタズラに怖がらせているとしか思えなかった(ムーア監督の視点から見れば、ということだけど)国民を自由に手中に収めているアメリカ政府に恐怖を覚えてしまう。

愛国者法、タイトルだけでゾッとしちゃう。だって、この場合の愛国って、国っていうよりは、政府を愛せ、みたいな、言うとおりにしろ、っていうような響きがあるし、何より、愛国って裏返せば、他国を排斥する、ていう気分が多分に含まれてるじゃない?
日本の住基ネットも似たような恐ろしさを感じるし……ヤバいよ、やっぱり、こういうの。
他国の排斥って、絶対、ヤバい。だって自国民以外は人間として見てないってことだもの。だからブッシュさんはどんなにイラクの人がヒドい死に方したって平気なんでしょ。あんたの国民じゃないんだもん。
いやでも……米兵だって相当数、死んでるんだよね。イラクの人に比べれば微々たるもんだけど、それでも何百人単位で。それでも……平気なんだ。自分以外は人間じゃないのかな。そんな気さえするよ。あるいは、貧民層から兵士の大多数が出ている現状、ムーア監督の故郷は既にゴーストタウン状態。……自分にカネを落とさない貧民層なんて、彼にとって人間じゃないのかもしれない。
政治家なんて、そんなものなの?

確かに昔々……戦争によって世界は文明をより高度に築き上げてきたという歴史はあった。
でも、もう文明がこれ以上高度になる必要なんてないじゃない。
私は、戦争がこれ以降の地球に、いい意味をもたらすことなんて、もう絶対にありっこないと思う。
やられたって、やり返すのなんて、イヤ。やられっぱなしで死んだほうがマシだ。★★★★★


歌舞伎町案内人
2004年 110分 日本 カラー
監督:張加貝 脚本:神波史男 南木顕生
撮影: 音楽:
出演:チューヤン 山本太郎 坂井真紀 李丹 舞の海 ガッツ石松 黄奕

2004/9/3/金 劇場(テアトル新宿/レイト)
歌舞伎町の通りに14年間も立ち続ける原作者の、え?ということはこれはノンフィクション?その人がどういう人かは知らないけど、チューヤン、ピッタリだなあ。このチューヤン抜擢を聞いて、役者としてのチューヤンが良さそうな予想はしていたけど、予想以上にイイ。彼は、人を惹きつけるなんともいえない磁力みたいな人なつっこさがあって、それがスクリーンレヴェルになっても薄れないんだ。それが、凄いと思った。もはやそれって、スクリーン映えすると言っていいんじゃないかなあ?彼が演じる主人公のシャオチャンっていうのは「この仕事は笑顔が大切」と鏡の前で笑顔の練習をしたりするんだけど、でもチューヤンってそんなことしなくったっていつでも笑顔のイメージじゃない?たとえ歌舞伎町みたいなところに立っていたって、あの笑顔でニコニコ近寄ってこられたら、同胞の中国人だけじゃなく、日本人だって何か信用しちゃいそうだよなあ。

主役のシャオチャンは、決して客引きではなく、同胞にいい店を紹介するガイドなんだと、それは口先だけじゃなくて彼は本当にそう思ってて、最初なんて殆どこずかい程度のショボイ金しか稼げないのに、誇りを持ってそう言ってる。そういうちょっと純なところがチューヤンにピッタリなのよ。一方で中国人のしたたかさ、ある種のズルさ(いい意味でよ)も彼の中にはキチンと感じられるところがあるのもいい。シャオチャンだって中国人なんだから親友のガンみたいに、日本人に対して敵視している思いは絶対にあると思うんだけど、それを自分なりに消化しているのか、表面的にはそれほど感じられない。ま、それを口実に、つまり日本人にはヒドイ目に合わされたんだからこれぐらいかまやしない、と万引きして捕まっちゃったりするけど。というあたりも何となくチューヤンぽいというか……それはチューヤンが中国人というよりも香港人だからかもしれないけど、それでも底の底の底を覗けばきっと、それだけじゃないはずだよね、っていうのも薄く伺わせるから……。

シャオチャンは就学ビザで東京に来ている。同じ学校に来ている同胞のガンは親友。シャオチャンは夜のガイドのかたわら、本業はラブホテルの清掃係。だから日本語学校は日本にいるためのキップみたいなもので、授業は寝たっきりである。
授業中寝たっきり、というあたりが、シャオチャンの性格をよく現している。そう、彼はこの学校がここにいる目的じゃない、とハッキリ割り切っている。でもマジメなガンはそのあたりシャオチャンとは正反対。
とにかく合理的で世渡りが上手いのがシャオチャン。どんなヒドイ目にあっても、屈辱的な言葉をかけられても、全然ヘコまない。果ては日本語学校が閉鎖されたって、デザイン学校に首尾よく編入して強制送還を免れる。デザインなんて、日本語以上に勉強する気なんて、ないくせに。高い授業料に、ちょっとだけヘコむシャオチャン。
でも歌舞伎町のガイドだけは、シャオチャンにとって譲れないものだった。客からもらう紹介料のわずかな金だけが彼の分け前。本国から呼び寄せた妻はホステスをやってて、私の方がずっと稼ぎがいいじゃないの、と責められる。でもシャオチャンはこのガイドに誇りを持ってる。きっちりしたスーツを着て、ニコニコと歌舞伎町の街角に立つ。
一体、彼をそこまで駆り立てたものって、何だったんだろうなあ?

シャオチャンはね、最初から言っているのだ。自分はなんといってもこの歌舞伎町っていう街にホレたんだって。親友のガンは、こんなゴミためみたいな街に?とちょっと信じられないように言うんだけど、シャオチャンは、とにかくこの街が、メッチャ好きだよ、と。
歌舞伎町は正直コワいし、私は苦手だけど、彼の言うこと、なんだかちょっと判らなくもないような気もする。シャオチャンはシマを荒らしたという言いがかりをつけられてヤクザにボコボコにされたりもするんだけど、つまりはそれぐらいチョクで相手にされる街だということ……ここには冷たい排他的な空気はない、誰でも受け入れる空気があるのだ。
勿論、誰でも受け入れるといっても、イコール暖かいとかアットホームなとかいう意味ではないんだけど。あくまで、その人に覚悟とやる気があれば、のし上がれる街。そういう意味。
シャオチャンだってガンだって、この街でさんざん中国人だ、外国人だって言われて、イヤな思いを何度もしてるのね。でもそれでキレて姿を消してしまうのはガン。彼は……外国人だって言われるより、これだから中国人は、って言われる方にキレた。相手はたかがのんだくれた飲み屋の客、一緒に飲んでる仲間は、ごめんね、コイツ別れたばかりの奥さんが中国人で……と必死に謝り、なだめるんだけど、この客が執拗にからんで、しかもガンの肩にゲロ吐いたことでもうガンはガマン出来なくなる。その客をしこたま殴って……店から、そしてこの街から姿を消してしまう。

そんなガンのことを心配しながらも、シャオチャンの方は着実にこの街で実力をつけていった。まず、この街ではケツ持ちと呼ばれる、ヤクザの後ろ盾が必要だということを知って(というくだりでもずいぶんと危ない目にあっちゃうんだけど)、マナブちゃんという気さくなヤクザに気に入られ、彼にケツ持ちになってもらう。このマナブちゃんが舞の海なんだけど……風体は、“気さくなヤクザ”にピッタリなんだけど(ヤクザ、だけじゃマジメ系の舞ちゃんにはキビしい)うー、舞ちゃん、このまま役者の道に行っちゃったりするの?この演技は……ちょおーっとキツいものがあるんだけどなあ。
そして、あの万引きの時につかまってしまい、しかしこの刑事のおかげで強制送還をまぬがれたというナガタ刑事にガッツ石松。つまりシャオチャンはヤクザを後ろ盾にしていながら、ヤクザと警察両方に顔がきくという、一目おかれる存在になっていたんである。まあこれが後に彼の首をしめることにもなるんだけど……。
でね、このガッツ石松っていうのが、そりゃ彼だって決して演技が上手いとは言わないよ。そりゃもう決して(笑)。でもね、この人の独特のこの喋り口調がもはや演技を超えてて、そしてこの絶対無二のキャラクターが、じっつに人間味のある、いい味をかもし出しているんだなあ。彼がね、後にピンチになったシャオチャンを救ってくれ、その時に、「勘違いするな、お前にはまだ利用価値があるってことだ」なあんて言うんだけど、いやいや、ナガタ刑事は絶対シャオチャンを気に入っているんだよね、と思わせるような雰囲気をガッツさんはちゃあんと出しているからさあ、ナカナカこの人はあなどれないのよ。

たった一人で歌舞伎町の街角に立ってた頃と違い、今のシャオチャンは多くの部下を従え、もはやこの街でいちばん有名な中国人となっている。細身のスーツをビシッと着て、オシャレなメガネをかけ、無礼なふるまいをする部下は問答無用で切り捨てるその姿は……うっそお、これがチューヤンなのっ!?と思うほどのクールなカッコ良さと驚くべきカリスマ性。
いや、実際、チューヤンの役者としての顔にはずいぶんと驚かされた。入り口はあくまで私たちが今まで知っているチューヤンのイメージを裏切らない、人なつっこい彼だったから。でも思えば彼ももういい年なんだよなあ(って、私と同い年だよ……そうだったのか!)。劇中のシャオチャンの彼は、中国から呼び寄せた妻、アイメイにアイソをつかされ、彼女は出て行ってしまう。しかも時を同じくして、故郷の母親が死んでしまう。勿論彼はかけつけることなど出来るわけもなく……そう、まずその時の、長っ細い手足を折り曲げて呆然と座り込む彼に、その呆然とした顔だけでちょっと驚いちゃったんだけど(だって、チューヤンだからさ(笑))、でもそれ以上に、華奢に細いんだけど妙に色っぽいその骨格と大人の男の哀愁を感じさせる表情に、ドキッとしちゃったんだよね……えー?ウソ、チューヤンにドキッとしちゃうの?なんて思って(思っきし失礼だな……)。

その後、シャオチャンは歌舞伎町の美容師、ユキと結婚し、一子をもうける。その結婚はマチガイだったとは言わないけど……最初のささいな誤解は、この結末を予期させるものだったのかもしれない。
ユキの身の上話を聞いて、シャオチャンは涙を流す。それを見てユキは私のために泣いてくれたと思ったんだけど……シャオチャンは自分自身の日本に来てからの辛い経験を思い出して、泣いたのだ。
決して、キライになったわけじゃ、ないと思う。ただユキは、中国の文化習慣を結婚生活にそのまま持ち込む彼に戸惑っていた。しょっちゅう集まる仲間たち。多分ユキは……家族水入らずの生活を、平凡で幸せな家族生活を夢見ていたんじゃないか、って思う。
彼と別れることになって、シャオチャンは彼女が連れていく愛しい息子を抱き上げる。このしぐさにも、自然な父親らしい男っぽさを感じて、チューヤンなのに!とドキドキする(再三失礼だぞ、私……)。

でもユキは、やっぱりシャオチャンのこと、ちゃんと愛していたんだと思うんだ。「あなたに永住許可が出るまで、離婚届は出さないから」そう彼女は言い、「頑張ってね」と声をかけて去ってゆく……。彼女は本当にシャオチャンを愛していたんだ。シャオチャンだってそうだとは思うけど、でも彼女にとってやっぱり、彼が日本人と結婚して永住許可をもらうっていうのが望みだったっていうこと、充分すぎるほど判っていたし、自分との結婚生活よりも仲間とのそれを大事にするんだって思っちゃったら(それは中国文化だからってことに過ぎないんだろうけど)、そして、男には一つや二つあるであろう浮気問題も重なっちゃって(チューヤンが女の子に濃厚にキスするだけで驚いちゃうよ、ってホント失礼だな、私……)やっぱりたまらなくなったんだろうな……。
最初に、「だったら私と結婚しようか」と言い出したのはユキ。もちろんそれは冗談だったんだけど、始まりが冗談だったから、こんなコトになっちゃったのかもしれない。おたがい惹かれあっていたのは本当なのに。そして二人が愛する息子もいるのに……こんなの、切ないよ。

そんな中、シャオチャンはガンと再会する。それも、敵同士として。もう、何年ぶりの再会になるんだろう?久しぶりに会ったガンはなんと……日本のヤクザになっていた。
あの頃。若い二人はよく話していた。故郷への帰属意識がシャオチャンよりずっと強いガンは、(彼から見れば)日本人に媚びているシャオチャンに、お前、日本人になりたいのか、と軽蔑したように言う。シャオチャンは、なりたいさ、ここには何でもあるからな、と答える。
……思ったんだ。意外に、こんな風に割り切っているシャオチャンの方が、中国人としての譲らない分をしっかと持ってるんじゃないかって。
でも、ある意味弱い、心優しいガンは、あんなに故郷への愛が強かったはずなのに、魂を、売り渡してしまうんだ。この日本という砂漠で生きていくために、日本人になるために、日本のヤクザになった。
日本のヤクザになったからって、日本人になれるわけじゃないのに。
でもそれが、ガンの出来る、精一杯のことだったんだ。

おりしも、チャイニーズマフィアが歌舞伎町で台頭してくる。シャオチャンもガンも巻き込まれる。シャオチャンはね、ガンのこと、今でも本当に心配して……こんなこと、やってるべきじゃないって、自分と組んでデカイことやろうって。ガン、お前、貿易会社作るって夢持ってたじゃないか、二人なら出来ないことなんて何もないじゃないかって、言うの。
でもね……ガンは日本のヤクザから足を洗ったことで、でも多分中国人だってことがあって……殺されてしまうのだ。雇われたチンピラに、たった30万円で。「殺しも価格破壊か」なんて、ブラック・ジョークを言いながら。
そしてシャオチャンも、一連の騒動があって、また一人に戻った。
ケツ持ちもいなくなって、あの頃と同じようにまた一人、歌舞伎町の街角に立つ。
まだいるのかよ、と若いヤクザ連中にボコボコにされるんだけど、彼はめげない。だって、歌舞伎町がメッチャ好きだから、と。この街を出て行くことはしない、って。
一体、彼をそこまでひきつける歌舞伎町って、なんなんだろう。
理不尽に殴られて、親友を殺されて、中国人は!って言われて……それでも彼はこの歌舞伎町を離れようとしないのだ。

チューヤンと、親友ガンを演じる山本太郎のコラボがすっごくイイ感じ。親友同士のあったかい空気が伝わってくる。いっしょに働くラブホテルで、AVに釘付けになる二人、「中国人はこんなことしないぞ」「日本人は世界一スケベだから」そして使用済みコンドームを見つけてはしゃぎまくる、そんな、修学旅行の男子生徒みたいな無邪気さが、チューヤンと山本太郎だと違和感なく見せちゃうんだな。
シャオチャンにそそのかされて、いかがわしい店で京劇ショーに付き合わされるガン。ただただ戸惑うガンに対して、シャオチャン、いやチューヤンの色っぽい舞いと高い声の素晴らしいこと!ホントにやってたの??
××××が大きいから恥ずかしい、と海パンをはいて銭湯に入るシャオチャン。二人が夢を語り合う場。この銭湯は二人の再会シーンにもなってる。今でも銭湯が社交場になっているなんて、歌舞伎町ならではかもしれない。
そしてその時よりずっと大人になって、あの頃のように立ち食いラーメン屋で一緒にラーメンをすする二人。やっぱりここのラーメンは美味い、故郷の味だ、って言って……「ずっと耳についていた」という笑点のテーマ音楽に盛り上がったり、本当に、男の子同士のなんともいえない可愛らしさ。
……でもこんな風に見てみると、やっぱりやっぱり、ガンはこの歌舞伎町で生きていくのは確かに難しかったのかな、って思えてくる。
そしてシャオチャンが永住許可を欲しかったのは、日本ではなく、この歌舞伎町にとどまりたいからということだったということも。

韓国人の後は、中国人で、そういうのがハマる山本太郎。もちろん素晴らしかったし、彼が映画に積極的に出てる俳優さんだということで、主役のチューヤンよりクローズアップされてる感じだけど、でも私としてはチューヤンをもっとホメてほしいのよ、チューヤン、良かったよお、ホントに。
本作、チューヤンのためにもアジアに出したい映画だけど、山本太郎の中国語はネイティブに聞こえるのかなあ?だって、彼の、“中国語なまりの日本語”はビミョーだったからさ……。★★★☆☆


カレンダー・ガールズCALENDAR GIRLS
2003年 108分 イギリス カラー
監督:ナイジェル・コール 脚本:ジュリエット・トウィディ/ティム・ファース
撮影:アシュレイ・ロウ 音楽:パトリック・ドイル
出演:ヘレン・ミレン/ジュリー・ウォルターズ/ペネロープ・ウィルトン/シーリア・イムリー/リンダ・バセット/アネット・クロスビー/シアラン・ハインズ

2004/6/17/木 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
あっ、この話は聞き覚えがある、というか見覚えがある、と思って……ニュースかワイドショーか、そんなのでやっていたのを見た記憶があったから。へえー、映画になったんだ、ひょっとしてドキュメンタリー?などと思っていたら、事実をもとにしながらもドラマを大きく盛り込んだ、良質なエンタテインメント映画になっていた。

あのね、女にとってオバサンになってしまうっていうのは、凄い恐怖だと思うのよ。多分、もっともオソロシイ恐怖。スクリーンの中のオバサンたちも、最初、ああこうはなりたくないなあって感じに見えもした。みんなで集まって、叫び声にも似た笑い声を上げて、女ではなくオバサンになってしまった、オバサン。
しかし、このオバサンたちったら、とんでもないことをやりとげる。そしてオバサンもまた、魅力的な女性になる、いや、もともと魅力的な女性であるということを示してくれるのだ。

このニュースを聞いた時、何といっても最も意外だったのは、イギリスという、どこかおカタいイメージの国の中でも、もっとおカタいイメージである片田舎の、さらにおカタそうな女性連盟、ということだった。何たって彼女たちが作ったのはヌードカレンダー!しかも連盟活動の一環として!
でも、それが生まれるきっかけにこんな物語が存在しているなんて、知らなかった。
劇中ではアニーという名の女性。そのダンナが白血病で死んでしまう。
そしてアニーの親友のクリスともども、彼らはとても仲が良くて、だからクリスは落ち込んでいるアニーのためにも、このアニーのダンナ、ジョンを追悼する意味で、病院の休憩室にソファを寄贈したいと思いつくのだ。
そう、キッカケは愛する人、そして親しい人を追悼するということだった。そして最後、スクリーンにもちゃんとこのジョンへ捧げる、というクレジットが記されており、最終的にトンでもないベストセラーになったこのカレンダーの売上は、この町の白血病治療に役立てるために寄付されているのだ。

それまでの、それこそおカタい連盟のカレンダーなんてサッパリ売れなかった。橋だの教会だのの、ウツクシイ風景写真のカレンダーなんて。ただでさえタイクツな女性連盟の活動に飽き飽きしていたクリス。面白くもないお話会に彼女一人が爆笑しているのは、そのタイクツさへの痛烈な皮肉。そして、ヌードカレンダーを思いつくのだ。
まあ、だからクリスは、自分のためもあったのだよね。ダンナを亡くして生きる希望を失っているアニーを元気にするためも手伝って、自分も盛り上がれるような、何かパッとしたことをしたい!って。この二人が親友同士というのは不思議というかさもありなんというか……チャキチャキッとしていて、しかし連盟の中では異端児というか問題児ってな感じのクリスと、おっとり、慎ましやかな、これぞ理想の妻、理想の主婦って感じのアニー。
アニーは本当にダンナを愛していた。それは最後の日々がほんのちょっと描かれるだけで判る。うらやましいぐらい、ラブラブ。亡くなった後、いやこの映画の全編に渡って、彼女の夫への消えることない愛は貫かれていて、哀しいんだけど、とても美しい色合いにふちどられている。

でも、アニーだけでなく、この町の、あるいは女性連盟の中の夫婦関係はみんな割とラブラブなんだよね。これはお国柄の違いかなあ。夫にベッタリのある女性なんか、その夫は出張がちでどこか妻に冷めているのを自分はラブラブだから気づいてなくて、浮気を知って押しかけてみたら、何と自分と同じ年恰好の、決して美人とはいえないこちらもオバサン!愕然としたり、しちゃうのよね。
あ、でもホントこの浮気夫ぐらい、だな。妻に対して冷たくて、しかも協力的じゃないのは。
何たってヌードカレンダーだもの。ダンナたちの心境はフクザツに違いない。妻たちが撮影中、バーに三々五々集まって、何を言うでもなく黙って杯を重ねる中高年男性たちがなんとも言えず可笑しくて。でもその様子で、心配しながらも妻がこの活動に生き生きと取り組んでいるのを応援しているのが、判るのね。いやー、いいダンナたちだなあ。

でも、ここまで行き着くには、タイヘンな物語があるのよ。やっぱり、女性連盟だもの。こんなフザけた?企画にすんなりゴーサインを出すわけがない。それにこのネイプリー支部は成績優秀なのを誇りに頑張ってきた支部。ま、成績優秀といっても、クリスがスーパーで買ってきたスポンジケーキが賞をとっちゃったりするアヤしさがあるんだけど(笑)。
でもこのヌードカレンダー発行のお墨付きを、アニーとクリスはイギリスの女性連盟の会合に乗り込んでいって、勝ち取ってしまうのだ!
会長に話を通すだけのつもりだったのに、通されたところは全国の代表が参加しているとんでもない大舞台。その大群衆に怖気づく二人。アニーはあがってしまってろくろく話すことも出来ない。ごうを煮やしたクリスが壇上にあがりこみ、マイクを奪い取って演説するのだ。亡くなった友人、ジョンのために、私たちは脱ぐのです!とばかりにね。かっちょいー。
そして大喝采。最後まで難色を示していた支部長もしぶしぶながら了承する。これで舞台はととのったのだッ!

最初はね、本当にみんながヌードカレンダーに賛成してくれるのか、しかもモデルになって脱いでくれるのか、というのが不安だったわけ。クリスは提案者だから、もう最初から例を示さんとばかりにさっさと脱いじゃってさあ、ためしに写真を撮ってみようというその時点では、どこか修学旅行でヒミツの遊びをしているような盛り上がりっぷりで、途中で息子が帰ってきちゃってあわてふためいたり(笑)。
しかし話が本決まりになり、みんなに恐る恐る打診してみると、これがノリノリなの(笑)。
私は美乳だし、だの、今脱がなきゃいつ脱ぐんだ、などと言ってみたり。もうやる気まんまんなの。だってもう、かなり垂れ下がってシワシワな女たちなのに!(失礼!)
しかも撮影までの短い期間に涙ぐましい努力も重ねる。日サロに行ってみたり、ジムで鍛えてみたり。そして撮影二時間前には線が残らないようブラを取ること、と連絡網が入って(笑)、準備万端。

フォトグラファーは本格的な男性のカメラマンである。男性、だから最初は段取りだけ彼にやらせて、いざ脱いでシャッターを押す段になったら追い出されていたんだけど、このカメラマンもまた凝り性で、小道具とか動かされるのが許せないわけ(笑)。まあでも彼のこの凝り性っぷりが彼女たちの信頼を厚くしたんだろうなあ。結局は彼の前で脱ぎ、様々なポーズを取り、まさに信頼関係の上に素晴らしい写真を撮りあげたのだ。
日常の主婦の風景……お菓子を作ったり、ピアノを弾いたり、編物をしたり、植木鉢に水をやったり、という情景をヌードで見せる。そんなアイディアのナンセンスな面白さが、しかし写真自体は非常に上品に美しく撮られるという中にあって、さらに洒脱に際立つこのカレンダーの出来栄えは予想以上。
さっそく地元マスコミに打診するクリス。この間にくだんの女性連盟認定の修羅場もくぐりぬけ、記者会見の場に乗り込んでみると……一社も来ていない。
意気消沈するクリス。なぐさめるアニー。と、そこにボーイがやってきて……「記者が殺到したので、宴会場に場所を移しました」!!!
慌てて宴会場へのドアを開けると、万来の拍手に迎えられる二人!カレンダー・ガールズが二人の到着を今や遅しと待ち構えていた。とてつもない数のフラッシュを浴びながら、予想外のオドロキに顔をほころばせるカレンダー・ガールズ!
この一瞬の転換の痛快さ!ちょっとここは涙腺がゆるんじゃったなあ。

今や情報化社会だから、町の地元マスコミで話題になったニュースがあっという間にイギリス全土、そして全世界に配信されてしまうのである。まさに一夜にしてスターになったカレンダー・ガールズ。あっという間にハリウッドでのテレビ出演の話まで来てしまう!ものすごい特別待遇。迎えのリムジンに豪華なスイート。
しかしその時、クリスの家庭はちょっと問題アリだった。元々このぶっとび母さんに戸惑いを隠せなかった息子。だって息子の部屋でエロ本を見つけても、叱るどころか何だか嬉しそうだったんだもん……そうかと思えばヌードモデルになっちゃうし!ま、この息子、ちょっとだけグレちゃったんだな。いや、グレちゃったってほどでもない。ハッパだと思ってつかまされたのがオレガノだったんだから(これはトホホ)。
なので、アニーはクリスに、ハリウッドよりも家庭にとどまるようにアドヴァイスする。アニーには子供がいないような雰囲気。つまり今やたった一人のアニーにとって、せっかくある家族を大事にしなさい、と言いたかったんだろう。

しかしクリスは途中から合流してしまう。それというのもクリスのダンナがあるちゃっかり屋の新聞記者のワナにはまって、大げさなスキャンダル記事にされてしまったから。
でも、このダンナは本当にクリスを応援していたのだ。そりゃ、花屋である仕事をそっちのけで女性連盟の活動に邁進しているこの妻のおかげで、仕事に追いまくられてきりきりまいだけど、でもこんな生き生きとした妻を誇りに思っていたんだ。
それが判るのは彼女たちが帰国してからの話で……この時彼女たちは夢のようなハリウッドでの日々を過ごしながらも、アメリカでの販売のため獲得したスポンサーのCM出演で、興が冷めるような思いをしてしまうのだ。つまり、キミたちは裸がウリなんだからと、当然のように脱がされ企画のCM!

大事な家族をないがしろにするようなクリスの態度にキレていたアニーは、ここでその思いがバクハツしてしまう。こんなことするもんかとばかりに、撮影所を憤然と出て行ってしまう。
追いかけるクリス。ここでの二人のやり取りは見ていて辛くて……アニーはクリスをスター気取りと糾弾するし、それを言われたクリスはアニーを、人生相談なんかに乗って、聖人(教祖だったかな)にでもなったつもり?と揶揄するし。
い、いや……これはヒドいよ、クリス。つまり、アニーの旦那への追悼企画だったから、これは。同じように愛する人を失った体験を持つ女性たちから凄い数の手紙がきてて、それをアニーはひとつひとつ丁寧に返事を書いてたのね。
アニーは涙をためて振り返る。夫が生きているあなたには判らない、と。
クリスだって、ジョンと友達だったし、その哀しみは共有していたはずなのに、あれよあれよという間にマスコミに祭り上げられて、何が何だか判らなくなってしまっていた。

スターになりたかったんじゃない。ハリウッドで有名になりたかったんでもない。カレンダーをベストセラーにするのも、そりゃ売れれば売れるだけありがたいけれど、それもちょっと違う。
みんな仲間で、友達で、大事な家族がいて、愛すべきふるさとでの愛すべき生活こそが、大事だったんだ。その中にカレンダー作りがあった。それだけのことなんだ。
二人は具体的な仲直りの言葉を口にするわけではない。クリスの、じっつにものわかりのいいダンナが「親友なんだから、言葉なんていらないだろ」とクリスの肩を押してくれて……ただ二人は黙って抱き合って少しだけ泣いて、もとの親友同士に戻るのだ。そしてこのタイクツだけれど大事な大事な生活の全てがあるネイプリーの町で、みんなでワイワイ楽しくやりながら、こんな風に時々は大花火を打ち上げてみたりしながら、生きていくんだ。

人生で大事なことって何なのか、あるいは最も美しいことって何なのかって、よく考えることがあるんだけど、そのたびに行きつく答えは私はいつも同じで。それは“生活”じゃないかってこと。それをね、この映画を観てまた改めて思ったのだ。大事な、慈しむべき、ささやかな、哀しいこともあるけれど楽しいこともある、そして美しい生活。★★★☆☆


かんがーるの誕生日
1940年 7分 日本 モノクロ
監督:(熊川正雄)脚本:
撮影:木村角山 音楽:
出演:――(サイレント)

2004/7/16/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(日本アニメーション映画史)
もー、これもまた、カワイイんだわあ。これは「新猿蟹合戦」の翌年製作だけど、完全に和だったそれと違って、どこか西洋テイストが懐かしカワイイ。これもまたサイレント。かんがーる(っていうのが、もはやカワイイ)の家族が、誕生日のおごっそうを作ってる。お母さんがあわ立てている生クリームを手伝うフリして泡だて器をなめまくるお約束。ちょこまかと動き回るミニサイズの子かんがーるたちのカワイイこと!

この美味しそうなおごっそうの匂いにつられて、丘の上のオオカミが彼らの家にやってくる。このオオカミの造形は、まさしくお伽噺によく出てくる、そう、赤ずきんちゃんのオオカミはこれだろうという、ソレである。オオカミはおごっそうをくらいまくり、子かんがーるを一人連れて行ってしまう。この時、慌てて飛び出して、動揺するお母さんかんがーるがイイんだよなあ。いかにも優しそうな、エプロン姿が、イイの。かんがーるにエプロン姿の優しいお母さん!もお、イイんだよー!

ここでかんがーる家族を助けてくれるのは、もぐらくんたち。悪者オオカミの家の床下までどんどんどんどん掘ってってくれる。かんがーるの子供たちがそれに続いて入っていく(お母さんのサイズじゃ入れない(笑))。うう、このもぐらくんたちがまたカワイイ。オオカミの家の床にあけた穴から双眼鏡を出してのぞくのが、もー、キュートなのッ!そんで、穴を踏んだオオカミの足の裏をこちょこちょしたりして、いちいちカワイイんだよなあ。そしてみんなで協力してオオカミを退治して、最後はメデタシメデタシで誕生日パーティー。

なんか、私、カワイイしか言ってない気がするんだけど……でもたった7分でこれだけの細かいワザを見せて、これだけカワイイって、凄い!★★★★☆


完全なる飼育 赤い殺意
2004年 99分 日本 カラー
監督:若松孝二 脚本:久保寺和人 出口出
撮影:辻智彦 音楽:益子恵一
出演:佐野史郎 大沢樹生 伊東美華 石橋蓮司

2004/10/5/火 劇場(新宿武蔵野館)
「完全なる飼育」シリーズの第六作目と聞いてあれっと思った。なにげに全作観ているはずと思っていたのは四本だけだったから。と思ったら、OV作品として「完全なる飼育 女理髪師の恋」北村一輝!荻野目慶子!しかも監督が小林政広!なんだよー、何で劇場公開してないんだよー、これが一番観たい「完全なる……」じゃないの、もう!あとでチェックしとこ……。

とは言いつつこれもまた、今までの中ではかなりの期待の大きさを抱かせる「完全なる……」ではあった。だって、若松監督なんだもん!バイオレンス・アバンギャルドな若松世界でどう「完全なる……」を斬るのか、今まで納得のいく結果を出せなかった、監禁する者とされる者の信頼関係と愛情関係は若松演出ならどうなるのか、そりゃあもう、楽しみだったのだ。この新人の女の子は知らんけど、男性側の主役として大沢樹生がキャスティングされているのもかなりの期待を抱かせた。彼の退廃、爛熟、諦めの入り混じったキャラクターは演じる役にいつでも複雑で不穏なキラメキを与えるから。好きな役者の一人だ。

で、なんだけど……これは、「完全なる飼育」では、ないのよね。あ、だって、このシリーズに必ず出ていた竹中直人が出てないし、ってそれは別にどーでもいいけど。もっと正確に言えば、松田美智子原作の「女子高校生……」の映画化ではない。まあ、原作と言いつつ、第三作目あたりからかなり内容のアレンジが激しくなってきちゃったけど、本作に関しては、だって、原作、と言っていないんだもの。原案、のクレジット。でも、原案、と言わなくてもいいと思うぐらい、全く違う。だって、「完全なる飼育」の「完全なる飼育」たるゆえんは、そう、言ったとおり、監禁する者とされる者の間に生まれる信頼関係と愛情、だったんだもの。いわゆるストックホルムシンドロームというやつ。

この作品からイメージされるのは、その松田美智子が元ネタとした「籠の鳥事件」ではなく、あの忌まわしき、少女を9年間もの間監禁し続けた新潟の事件である。スタンガンで脅されていたという経緯なども、本作に出てくるし、このヒロインが「完全なる……」では女子高生が誘拐、監禁されたという大前提にあったのから大きく外れて、小学生の時からずっと監禁され続けているという設定からもそれは疑うべくもないところ。

だったら、「完全なる……」などと銘打たなければ良かったのにと思いもするんだけど、若松監督が「完全なる……」で原作においても映画においても懸命に試みられてきた、その“監禁する者とされる者の間に生まれる信頼関係と愛情”なんてものは、ありっこないんだと、斬って捨てるために、あえて「完全なる……」シリーズだとしたように思えるのだ。だって、確かにあの世界って、男の征服欲を満たすような設定だった。少女の性を目覚めさせることで信頼関係を得るだなんて、それは確かにそんなこと、ありっこないと、女の側からこそ強固に否定すべきことだったのだ。原作なんてもろに、ロコツなエロ小説と化してるし。ただ、映画の材料としては確かに魅力的だったから、それを確かにそうだと納得させてくれる映画化作品を心待ちにしていたのだけれど。

でもこんな風に、そんなことありっこないと斬って捨ててくれた方がすっきりする、のかもしれない。今までの犯人像と違って、監禁する男は佐野史郎、いかにもな佐野史郎、観客の共感なんて最初っから100パーセント拒絶しているヘンタイ男である。どういういきさつでなのか、監禁する少女、明子とはどういう関係なのか、親類なのか、判らないけれども、少女だった明子を、イヤがって逃げ出そうとする彼女を、再三追いかけ、連れ戻し、スタンガンで脅して、監禁した。いや、彼には監禁したという自覚もないのだろう。大切な小鳥を大事に囲っている、ってな意識なんだろう。言うことを聞かない時にスタンガンで脅したり、全裸で手錠につなげたりするのも、本当に信頼されているのなら、そんなことしなくてもいいことが彼自身にもちゃんと判っているから。愛しているものに愛されていないことを判っている……それが彼を狂気の卑屈さにさせるのだ。
ご丁寧にも、仕事に出る時は電気のブレーカーまで落として出かける。冷蔵庫はどうするのかしらん……とちょっと気になったりもするけど……。真冬、寒い部屋。これは……拷問だ。

彼は多分ロリコンだったんだろうな……セクシーに成長した明子に対しても、「コドモなんだから、こんなものはいらない」とアンダーヘアをくりくりに剃ってしまう。お風呂で磨き上げた明子を全裸で仰向けに寝かせ、ベビーパウダーを丁寧にはたく。まるで顕微鏡ででも見ているように、至近距離で見つめながら……やがてもよおした彼は、自分の手でイく。……どうやらマトモに勃たないインポらしい……そして、コタツの上にある筈のティッシュがないと、激怒する。
なぜ、この時ティッシュがなかったのか。それは、この豪雪の中に埋もれた一軒家に、殺人を犯して逃げ込んできた文也を明子がかくまい、彼がティッシュの箱を隠されている屋根部屋に持っていってしまっていたから。ここだけは、潔癖症であるべきところにモノがないと激怒するこの男の手も届かない場所。

文也は都会で売れないホストをしていた。闇賭博に手を出して借金を作り、カネを作るために、出会い系サイトで出会ったリッチな中年女の依頼で彼女のダンナを殺すことになる。しかしこのあたりはいかにもお人よしというか、ホストなんかやっている割には世間知らずというか……「あんたを信用していいのかなあ」と悩む彼、信用していいはずないじゃないの!まったく、バカだね。
彼は殺しの現場を回覧板を届けに来た近所の主婦に見られた。でもそれだって、この中年女の策略だったのかもしれない、きっと。この雪山越えを出来るヤツなんかいるわけない、と警官は言っていたから。しかし文也は死ぬ思いで雪山を逃げ惑い、明子が監禁されているこの一軒家にたどり着いたのだ。

と、いうわけだから、今までの「完全なる……」では完全な密室での二人劇だったのが、闖入者があらわれ、しかもこの闖入者の方とこそ、少女は心を通わすことになる。何度も言うけど、やっぱりやっぱり、「完全なる……」ではないんである。
厳重にカギをかけられた家に不審に思いながら、もはや引き返す体力もないし(ってわざわざ独りごと言うのが説明的)、バールで鎖をたたっきって中に入ってしまう文也。
そこには、息をひそめ、異常におびえた様子の明子がコタツの中に隠れていたのだ。

明子はあのヘンタイ男を「シンちゃん」と呼ぶ。かくまわれた文也はこの二人の異常な関係を屋根部屋からずっと覗き見ている。暗い屋根部屋から、これまた決して明るくない、隠微なほの暗さの下の部屋を覗き見る。この覗き見の背徳感漂うエロさ。この男の明子に対する陵辱を見るに見かねた文也が彼を罵倒し、一緒に逃げようと言っても、首を振り続け、「シンちゃんはいい人」と繰り返す。
言うことを聞かなければ、母親と妹が殺されてしまう……そう彼女は思っているらしい。あの男がそう言い聞かせたのだろうか。

男がいない間、あの雑然とした屋根部屋で、二人は結ばれる。明子は当然、処女だっただろう。最初苦痛の表情を浮かべるけれども、文也の愛撫に心も身体も開くようになる。
まるで引力に逆らうかのごとくにぴん、と張った乳房を持つセクシーな女性に成長したのに、少女の頃から、ずっとずっと脅され続けた彼女は、心の成長が止まってしまっているようだ。いや、それどころか、白痴になってしまったんじゃないかとさえ思う。いやいやをするようにただただ首を振り続ける彼女。文也の明子に対する思いは、もはや愛だったと思うけれども、彼女には愛という意味さえ判っていなかったように思う。それが、痛々しい。
文也と結ばれてから、彼女はあの男のパウダーマッサージにも反応してしまうようになった。剃られたアンダーや、乳首にパフが及ぶと、思わず知らず身をよじってしまう。ロリコン男は眉をひそめる。そんな姿は、彼にとってはあってはならないことだから。そして明子は口ずさむ。「てるてる坊主、てる坊主、明日大きくしておくれ……」そして言う。「シンちゃんは、どうして大きくならないの?」無邪気な、童女のような表情で。

少しずつ、少しずつ、この男の言いなりの行動からタガが外れていくのが判るのだけど、それはやっぱり子供の行動に過ぎなくて、この男も常軌を逸しているけれど彼女に対する愛には違いなく、そして文也も、短い間のことではあるけれど、やはり明子への愛には違いなく、それを当の彼女は判っていなくて、この男からはヒドイ目にあうことから逃げ続けることだけを、そして文也に対してはカラダで受け止める気持ち良さを、どちらも本能的に選択しているだけだってことが、男二人に対しても、もちろん明子自身に対しても、哀しい、のだ。
彼女が最後まで、小学生の女の子だったってことは、ラストシーン、やっと、やっと逃げ出せた彼女の格好で判る。家の中での方がまだ年相応の(といっても、紺のニットに紺のスカートという女子高生スタイルだけど)格好をしていたのに、何年ぶりかで外に出た彼女の格好は、ロリロリな白のセーターに小学校の名札をつけ、ミニのプリーツスカートに赤いランドセルといういでたち。そして裸足で雪の地面を歩き出す。

もう、この時には、文也は死んでいた。一度この家から出た彼。あの中年女に決定的に騙されたことを知って、この女と、グルの男を殺してしまう。「もう三人も殺してしまった……」とまたしても説明的につぶやき、文也は明子のもとに戻ってくる。「やっぱり、戻ってきた」この時の彼女の台詞だけは、何だかやけに成熟して艶っぽく聞こえた。
幸せに思えた時間は、ほんの一瞬。帰ってきたヘンタイ男が明子に陵辱しようとするのを見て、文也はコイツを殺ろうとし、逆にメッタ刺しにされたのだ。包丁でザクザクと際限なく刺される文也、このシーンはかなり、エグくて悪趣味……。絶叫し、発狂寸前の明子、いやもう、とっくに彼女こそが狂っていたのかもしれない。このヘンタイ男はもとから狂っているけれども……今まで、抵抗など出来るはずのなかったこの男にスタンガンを押し付ける。気絶した男を、自分がつながれていた鎖につなげる。この期に及んで、殺すことはやっぱり出来ないんだ……殺してもいいぐらいの男なのに!
街にさまよいだす明子。裸足のまま。彼女はどこに行くんだろう。本来の自分を、取り戻すことが出来るんだろうか?

本作がメジャーデビューのヒロイン、伊東美華はちょいと老けた顔した女の子。そりゃそうだ、もう23じゃん。この抜擢はどうかな……。演技はまあまあだったし、何よりバストトップも出さねーで熱演とか言われる、同じ苗字のゲーノージンよりは根性入ってるかな。でも今はヌードだのセックスシーンだのだけではそれもなかなか、ねえ……キビしい世の中になったもんだから。まあ、彼女の場合は何たってそのバストの形の良さがポイントでしょ。ちょっとあり得ないくらい張ってるもん。痛そうなぐらい。いやー、若いとあんなもんだっけ?記憶にないなあ(笑)。
正直なところ、佐野史郎演じるヘンタイ男があまりにもきっちり悪役で、彼の明子に対する捻じ曲がった愛情でも、それを愛情と感じさせてちょっと切なくさせるぐらいのことが……欲しかったなあ。それこそがありえないから斬ったんだろうとは思うんだけど、これもアマノジャクな女の願望なんだろうな。★★★☆☆


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