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陸に上がった軍艦
2007年 95分 日本 カラー
監督:山本保博 脚本:新藤兼人
撮影:海老根務 林雅彦 音楽:沢渡一樹
出演:新藤兼人(証言) 蟹江一平 滝藤賢一 三浦影虎 鈴木雄一郎 友松タケホ 藤田正則 大地泰仁 川上英四郎 大塚祐也 桜木信介 井川哲也 新田亮 若松力 二木てるみ 加藤忍
御年95歳でバリバリの映画監督である新藤監督が、当然戦争経験者であるということに不覚にも思いが及ばなかったのは、彼がそんなことを吹き飛ばしてくれる目も覚める様な映画をざくざくと残してくれたからだ。確かに私の観た中にも、戦争の影が忍び込んでいる作品はあった。でもメインテーマではなかったし、……新藤監督はとにかくとにかく、人間を生々しいと感じるまでにイキイキと描き、とにかくめっぽう面白かったから、そんなこと、ぜんっぜん頭に上らなかったのだ。
しかも、その監督が体験した“戦争”は、これまでのどの戦争映画にもなかったものだった。
若き命を散らした少年特攻兵でも、愛する夫や息子が戦地で玉砕した哀しき女たちでも、空襲や原爆で焼きつくされた名もなき民衆たちでも、ひめゆりの少女たちでもない。加えていえば、戦地すらそこには存在しない。
いや、確かにそこで語られているように、「我々は敵国と戦っているんじゃない、海軍と闘っているんだ」という、皮肉な、というか実に滑稽な“戦争”が延々と続いている。
新藤監督はついに、戦地には赴かなかった。召集されたのは30歳を過ぎてから。しかも任務は掃除部隊だの少年兵たちを迎え入れる施設の整備だの、まあいわば、戦争とはあんまり関係ない、ショボイ部署だった。
それでもその中には厳然とした上下関係が存在し、たとえ10以上も若い上官であっても絶対服従、外出が許される日でも往来で敬礼を忘れれば、そばに家族がいたとしても起き上がれなくなるまで殴られるし、精神注入と称したケツバットを毎日のように浴びせられ、監督曰く「バットが折れるか、尻が破れるか」というヒドさで、仲間たちとともに毛布をかぶって泣いた。
新藤監督の同期たちは、洋服の仕立て屋や八百屋や旋盤工。それまで一人前の社会人として、仕事をしてきた者たち。その多くが妻がおり、子供がいる者もいる。そんな彼らが、18歳の兵長にビンタをくらわされ、蹴られ、殴られる。
海軍学校を卒業したばかりの若きエリート達は、中年男性ばかりの“弱兵集団”を鍛えるという理由で、訓練や体罰を行っていた。つまりそこには社会人を経験した者にとっては不条理な、しかしお国のために仕えることしか経験していない若い兵たちにとっては何の疑念もない、それどころか“尊い”ことが、まかりとおっていた。
戦況が悪化していくと共に、その“不条理な正義”はどんどんバカバカしさを増してくる。
このタイトルは、例えココが陸の上でも、潜水艦に見立てて訓練をしているゆえんである。なんでもない板の間の部屋を甲板に見立てて拭く。麻縄の雑巾だからなかなか搾れず、しかも「ヘリコプターのプロペラのスピードよりも云々」などとややこしい注文を受け、延々と繰り返される過酷な床拭きに、ついにはゲロを吐く。
“天皇陛下からお預かりした兵器”である鉄カブトが行方不明になった時は、最も過酷だった。誰かが自白するまで、腕立てから始まって、二人一組になって前の者の足を後者の肩にかけ、「敵機襲来、右に旋回!今度は左!」などという上官の号令に合わせて右に左に片手立ちして大きく身体をそらせる体罰。「今日は九州まで行くぞ。覚悟しろ」つまり、飛行機に見立てているんである。
そのどれもこれもが、実にバカバカしい。どれもこれも、泣きたくなるほど過酷なんだけど、バカバカしいんである。終戦までカウントダウンを始めているこの時期だから、勿論それは劇中の新藤監督たち、待機している兵たちには判るわけもないんだけれども、実にバカバカしいんである。
確かに、判るわけもない。でも、戦況も悪化してきて、新藤監督たちのように30も過ぎたような男たちが招集されると、その男たちは、さすがにもういい大人だから、このバカバカしさをやっぱり判っている風なんである。実際、当時を回想する新藤監督も、「あの時も、これはちょっとおかしいんじゃないかと思いましたよ」と語ってる。30も過ぎていたから、若い兵士に比べて動きもキレがないし、シャバに未練タラタラだった。
本当に終戦間際になると、いよいよそれは顕著になる。それこそ軍資金というものが底をつき、敵を見立てた訓練も実にショボいものになる。敵の戦車を板張りの模型で作り、そのニセ戦車に向かって、これもベニヤを切っただけの円形と棒形の地雷を投げる訓練。彼らは実際の地雷を一度も見たことがないんである。
勿論この“戦車”は自力では動かないから、縄をつけて引っぱる。実にアホらしい。引く方も投げる方もいいかげんウンザリして、“戦車”を引いている仲間に“地雷”をワザと投げつけたり、逆に投げつけられたり。小さな車輪で大きな車体を支えるものだから、キイキイと始終イヤな音を立てる。新藤監督はそれが耳にこびりついていまだに離れない、と言った。
極めつけは、靴を前後ろ逆にして足にくくりつけ、「前進しているのに後退している様に見せかける」という訓練。あ、アホらしい……。敵が立てる機関銃の音も、二枚の板をカチカチ言わせるだけなんである。臨場感はまるでナシ。
しかもその機関銃に日本刀で闘うというんだけど、当然日本刀も棒っきれのダミーだし、精一杯うがあ!てな顔を見せて、足音を忍ばせて“斬り込み”してみせる訓練が、アホらしくてアホらしくて仕方ないんである。
という視点は、ホント、今までなかった。戦争を語り継ぐには、その悲惨さを語るべき、若くして命を散らした少年兵や、ひめゆりの少女たち、原爆に焼き殺された人たち、みたいな。それは確かに重要なことだけど、この目からウロコのドキュを見てしまうと、いかに今までの戦争映画が、そんなテーマの繰り返しだったかということに気付く。
30過ぎで召集され、戦地に行かなかった男たち。その視点は、実に新鮮だ。いや、今までそのテーマが語られなかったのは、やはり戦争は真摯に語らなければいけないという臆した気持ちがあったからなのではないか。戦地に行かずに、いや行けずに戻ってきた自分たちは、戦争で命を散らした者たちと比して語るべきではないと。
しかし戦後60年も経ってくると、やはりもっと様々な視点が欲しくなってくるのは事実。そしてその中で生き残っていてくれたのが、なんとなんと、新藤監督だっただなんて。
彼らは若き正義感に燃えて志願兵となった10代の少年たちを上官に持ち、10以上も若い彼らの、時に傲慢な仕打ちに耐えながら、思うことは残してきた幼い子供であり、愛する妻であり、女を抱くことなんである。志願兵の少年たちは、セックスの喜びなど知らずに死んでいっただろうに。だからこそ、戦争映画にいわば美化要因(要員)として駆りだされている訳なのに。
そのあたりは、ホント赤裸々なんである。セックスの喜びを知っているかいないかでは、人生に対する価値観は大きく変わってくる。戦争なんてどーでもいいと思えるぐらい。
そんなこと、戦争映画では今までタブーだったんじゃないだろうか。とにかく美談、犠牲精神の痛ましさ。そればかりで、人間の赤裸々が、汚らしいものとさえされていたんじゃないだろうか。
セックスなんてこういう状況下では当然堕落とされて、だからいたいけな少年兵がいいように精神操作されてしまったのだ、などという視点なんてホント思いもしなかった。
こんな場面がある。敵国に沈められる潜水艦から、およそ1割の人間は生還してくる。“敵国に沈められる”ということが、この時点では既に日常になっている恐ろしさもあるのだが、しかしそこに存在するのはやはり人間のセックスへの欲望なんである。生還した男たちが語るのは、武勇伝や軍人としての誇りではなく、「もう一度女を抱きたいと思って、必死に無人島まで泳ぎましたわ。くじけそうになっても、もう一度乳なめたいと思ったら力がわくんですわ」とまあ、まっ正直なことを言ってくれるもんだから、吹き出しちゃう。
そして何より、奥さんとのセックス。兵舎を潜水艦に見立てた、月に一度の“入湯日”と称する外泊が許される日。軍人さんたちを世話するために借りられた民家に、独身者たちを世話してくれる女たちと、そして夫に会いにきた奥さんがつめている。この民家を訪れる三人のうち、妻帯者は一人、森川だけで、彼は奥さんと二階へ姿を消したまま、夕食は食べると言うんだけど、いっかな降りてこない。スイカを切ったから持っていこうかと言ってみるけど、「今、それどころじゃないでしょう」と二人は笑いあう。この時のことを新藤監督は、「妻のいる人は、そういう状況が察せられますから」と粋な言い方をしてる。
新藤監督はセックスの素晴らしさを実におおらかに、喜びに満ちて描いた人だし、本作の中でも、「人間を支えるもの(求めるもの、だったかな。すいません、ちょっと判然としないけど)は性だと思うんですね」とさらりと語っているのが実にカッコイイんだよなあ。
で、ちょっと話が戻るけど、今までは、天皇陛下の言うとおりとか、戦争に命を捧げるのが正義だとか、少年の向こう見ずさがどこか尊ばれて描かれていたことが多かった。特攻に乗せられたのも少年で、何より彼らは自ら志願して兵になったりしているのだから、その時に彼らは、この戦争のために命を散らすのは、国民としての誇りだと思い込んでいた部分はあったに違いない……たとえ最後はお母さん、と叫んだとしても。
でも、新藤監督はじめ、ここに召集された30過ぎの男たちは、当然国のために志願するなんてことは考えもしていなかったし、もう年もくってるから、召集もないだろうと思っていたところが、思いがけず戦況が悪化して連れてこられたヤツらである。年齢的に、妻とまだラブラブの状態だったり、子供が可愛い盛りだったりして、戦争なんてどーでもいいから、帰りたくて仕方がないのだ。
新藤監督はこの時、最初の妻を亡くしたばかりだった。だから、ある意味そんな仲間たちを冷静に見ることが出来たんだと思う。「幽霊でもいいから現われてくれないかと思った」と語る場面も用意されており、切ない。そして勿論、映画人としてこの体験を焼き付けているわけなんである。
彼が召集された時に思ったのは、これでシナリオが書けなくなってしまう、という一点。映画界に入って10年目、これからって時だったから。そして戦争が終わった時に思ったのも、同じ。これでシナリオが書ける、と。
実際、新藤監督を戻してくれて、本当にありがと!って言いたい。この場合、映画の神様?きっと、いると思う。だって信じられないほどの強運の持ち主だもの。
最初に召集された100人のうちクジで選ばれた最初の60人がまず戦地に赴く途中、その潜水艦は海中に沈められ、次の30人も同様、海中に散った。残った10人になって予科練を迎え入れるいわば雑役的な仕事につき、そこからも四人が戦地に送られ、死んだ。つまり、100人の中の6人となって生き残り、しかも宝塚でもう終戦間際、本土迎撃に向かう少年兵たちを見送った。彼らは指揮官の誤りによって目的地に向かう前に爆撃され、白木の箱に入って戻ってきた。
この時のことを生存者の、当時の少年が語る場面は、唯一それまでの戦争映画、ドキュメンタリーにも見られた悲惨さを垣間見られるところである。仲間たちの顔をぬぐってみると、ぼろぼろと肉片がとれて、もうダメだと悟った。自分の身体に仲間の血しぶきと肉片が浴びせられて、自分が死んだと錯覚した。それを、昔話さながらに笑顔で語るのが、それだけ昔だってことなんだろうけれど、恐ろしい。
Xデーは本当にギリギリまで迫っていた。頻繁に襲ってくる空襲。爆弾が落ちる最中、ふとタバコを吸ったことを若い上官に責められ、壕の外に出ろと命じられる恐怖。しかももう一人に命じて、一緒に外に出てその彼を殴れと言うのだ。タバコを吸っただけなのだ。
いよいよ死んでしまうのか。その時なんと言って死ねばいいのか。新藤監督は考える。天皇陛下万歳も、お母さんと叫ぶのも、違和感がある、と考える。
これも、目からウロコである。戦争映画ではいつだって、そのどちらかを叫んでいた。特に時代が新しくなるに従って、後者こそが人間の正直な叫びだとされた。しかしそれさえも新藤監督は否定する。思えば当たり前かもしれない。だって、彼らはもう自分だけの守るべき家族を持っている大人なんだもの。
愚かなほどに純粋な10代なら、前者も後者も、その意味でありえるのだろうけれど。
東京をはじめ、大阪、神戸と大都市に次々と大規模な空襲が襲う。そして原子爆弾が投下された。ついに宝塚にも米軍による空襲の予告チラシが撒き散らされた。「宝塚のお嬢さん 盛装してお待ち下さい 八月十五日 正午訪問します」こ憎たらしい、小粋な文章など書きやがる。
どんどん仲間がいなくなって、その時には隊をまとめる位置にまで昇っていた新藤監督は、さすがにもうダメだと思っただろうけれど……その予告時刻は8月15日の正午。そう、玉音放送のあった時なのだ。ぎりぎりセーフ。ホント驚く。なんという強運の持ち主だろう。
その放送を聴いた時は、ノイズだらけで、何を言っているのか、何が起こったのか判らなかった。しかしとりあえず予告時間に空襲は行われなかったし、と仲間の元に戻ってみると、植松がぽつりと言った。「戦争がやめになったということじゃないでしょうか」
この植松という男は非常に印象的。というのは、新藤監督の中で、印象的だったから、私たちにもそう映るということだと思う。“兵器”である鉄カブトを盗んだという濡れ衣を着せられ、拷問の末に牢に送られたけれど、軍法会議で無実を勝ち取った。拷問されて自白させられたことをぶちまけて裁判をひっくり返したとウワサされた彼だけれど、新藤監督いわく、「カラスのようにやせ細って」帰ってきて、彼をリンチした上官も気味悪がって、彼に作業をやらせようとしなかった。
植松は、玉音放送を聴いたわけじゃなかったのに、それが戦争の終結だときちんと受け取った、のは、地獄のような体験をさせられて、他の人には見えないものが見えるほどに、神経が鋭敏に研ぎ澄まされていたじゃないかと思う。
戦争が終わり、再現部分がカラーになり、タバコを吸いながら遠い目をして佇む彼は、新藤監督が回想するように、たまらない孤独に満ちている。
戦争は、終わった。早速自由にタバコが吸える“平和”を謳歌する彼ら。直立浮動して吸っていたタバコを、座り込み、足を組み、笑いあいながら吸う。上官たちは、下っ端たちにリンチされるんじゃないかと思って、逃げ出した。しかし彼らはそんなこと、考えにものぼらない。ただ、帰りたい。自由になりたい。
つまり、上官たちは、自分たちが理不尽なことしてたってこと、判ってたんだよね。それが判るのも、実に皮肉で、なんだか可笑しい。なんて瑣末なことで、上下関係が構成されていたんだろう。戦争の上下関係は奇麗ごとじゃない。
国にとっては大きな戦況の、作戦の中で死んだたった一人の兵隊、しかし彼は家族にとっては最も大切な、夫であり父親であり、息子であり兄。戦争とはそういうものだ。それが何より、この映画の、新藤監督の言いたいことだった。
思えば今までは、原爆とか東京大空襲とか、それこそ硫黄島での作戦とか、まず戦争の中の大きな出来事がテーマで、それこそが主人公であるようなところがあった。
確かに新藤監督たち三十路を越えた男たちは戦地には行かなかったけれども、ここにも戦争があり、まさにこれこそが、戦争にさらされる人間なんじゃないか。まるでコミカルなのに。そんな風に思えた。★★★☆☆
しかし、実際に恐る恐るその作品に触れてみると、これはもちろんいい意味でなんだけど、そうしたデンジャラスさ、勝手に予測した不安定さはことごとに裏切られていく。
その攻撃的なキャメラはアーティスティックと言えるほどのスタイリッシュさを持っているし、身障者を実名で演じるというのが、観客に対する遊び心ではないかと思われるほど、本作はフィクションとしての面白さで成り立っている。
いや、これは面白さと言っていいのだろうか……とはばかられるのは勿論、受け手である私が何にも判っちゃいない健常者だからなんだけれど、それはやはり健常者である作り手や、被写体となる身障者の住田氏も充分に判ってやっていることなのだろうと思う。
実際、役者・住田氏の“演技”は素晴らしい。それ以前に、狂気の殺人者となる“キャラクター”が素晴らしいんである。
介護者の気のいいおばちゃんにお世話になりながら、住田雅清は一人暮らしをしている。脳性麻痺からくる重度の身体障害者である彼は、しかし電動車椅子とトーキングマシンを駆使してどこにでも臆せず出かけていく。同じく介護者である青年、タケとは酒も飲みかわし、彼のバンドのライブなどにも出かけ、その仲間たちの飲み会にも積極的に参加したりと、アクティブに暮らしを楽しんでいるように見える。
しかし、ある女性との出会いがきっかけで、いつしか彼の中の何かが崩れ始める。大学の卒論のために介護を経験したいとやってきた敦子。おばちゃんのめいっこである彼女が来ると判ってから、「その娘、いつくるの」と気もそぞろではなかった住田。「恋しちゃった」と先輩身障者の福永にもらした彼の中で、何が壊れたのだろうか……。
ある日住田は、タケの酒に自分の使っている薬をこっそりとまぜて昏倒させ、風呂に沈めて殺した。
身障者の住田が疑われることはなかった。そして彼は二度目の殺人を犯した。今度は見も知らぬ通りすがりの男。
それでもまだ住田は疑われない。狂気が増していく。敦子に「一発ヤラせてください」というFAXを流す。怯えた敦子は姿を消してしまった。
しかし敦子の友人の女の子が、住田に興味を得て介護にやってくる。友人のように過ごす。一見、幸せそうに見えた。しかし彼らが住田の誕生日にサプライズパーティーを企画したところへ、三番目の殺人を犯した住田が血だらけで帰ってきた。血の惨劇が始まった。
劇中、「あんな風にいつも笑っているヤツは、何をしでかすか判らない」と心ない言葉を浴びせる人間がいる。それに対して住田氏のヘルパーであり友人でもあるタケは、当然、憤る。何言ってんだと。しかし図らずもこの心ない人間の言葉は当たることとなってしまい、住田は恐るべき殺人者となる。
ここにはいくつものシニカルが隠されている。筋肉を自分の意志どおりに動かせない住田氏は、確かにいつも笑っているように見えるのだ。ひょっとしたら彼が悲しい時も怒っている時も、笑っているように見える。
だから彼の感情は他の人に伝わりにくい。長年付き合いのあるタケでさえ、「何を考えているか判らないところがある人だから」などと言う。まるで住田自身が心を閉ざしているかのように言うのだ。そんな風に見えるだけだってこと、タケは判っているはずなのに。
でも、そうなんだ。多分人間は、ナカミが問題だとか言いながら、やっぱり表面上に見えていないと不安になる。例えその表面でいくらでもウソがつけると判っていても、そのウソでさえついてほしいと思うのが人間なのだ。
そして後半、住田は、主人公という立場なのに、その主観が観客にさえ理解の範疇を超えるという自体に陥る。そう、スプラッタ映画のヒーローという、恐怖の殺人者としての資格を得るんである。
この時点になると、ひょっとしたら住田は自身でさえも、自分のことが判らなくなっているんじゃないかと思われる節がある。
そのキッカケがどこにあったのかは判らない。いや、狂気のキッカケなど、そんなスイッチがカンタンに入るものではないのだ。彼の中に今まで静かに積み重ねられてきた様々な負の感情が、自身のコントロールが効かないところで爆発してしまったのだ。ただ、それだけのこと。
と、いうことは、健常者にだって充分あり得ることで、いわばここに二手の共感を得るべきなのかもしれない。でもそれを、本作は突き放す。今までの障害者を描いた映画ならば、健常者も障害者も、そういう基本は同じなんだよと説いて、ぬるい平和を目指していたのかもしれない。でもここではそうじゃないのだ。
住田の中の闇は、健常者には決して判らない。そして驚くべきことに、彼自身にも判らない。彼自身にも判らないほど、世間の偏見が生み出す負の感情が積み重ねられていったのだ。
でもその一方で、映画内において障害者が初めて、健常者と同等に扱われたとも言える。そのことは、演じた住田氏自身も言っているし、この作品が作られた意味は、まさにそこにある。そこにこそあるのだ。全ての人が平等に扱われる世界。それは、犯罪者もあらゆる人間がなり得るということ。
しかしそれは、そんなことは、今まで誰が思いついただろうか。いつもいつも、身障者を心優しい人間、つまりは弱くて、自分たちの世界に入って来るべきじゃない人間だと差別していたことを、こんな形で突きつけられるとは、誰が想像しただろうか。
この作品が危険だとしたら、これが真の“平等”であることを、おごった“健常者”に突きつけられたという事実なのだ。
“犯罪者にさえなれない”、それこそが差別で不平等だなんて、想像を絶する境地を、この監督が思い至った時点で、この作品の勝利は決定した。
いや、ひょっとしたらこの被写体に出会ったことが勝利だったのかもしれない。障害のせいで恐らく視力も悪いんだろう、ケント・デリカットのように目がくりくりと大きく見えるメガネをかけている住田氏を、凸気味のレンズで大きくとらえるショットは、まるで昆虫をハイビジョンで見ているみたいな、恐怖に近い迫力がある。
そんな風に言うのは、差別的?……一体この“役者”の魅力を、どこまでの言葉を使って語ったらいいのか、判らないのだ。
誤解を恐れずに言えば、住田氏はある程度は身体の動く方の身障者なのだと思う。移動には自動車椅子を使ってはいるけれど、自分で立っても歩けるし、
……そう、こんな比較対照をするのが差別や区別なのだろうけれど、例えば「もっこす元気な愛」の倉田氏よりも動きは全然軽やか。実際、劇中に出てくる、住田氏が尊敬し、何かと相談を持ちかける“先輩”の福永氏は寝たきり状態で歩くこともままならない。
ただ、この先輩は、トーキングマシンで意思の伝達をしている住田氏と違って、やや聞き取りづらいながらも自身の言葉で伝達することが出来る。
同じ身障者も出る症状の違いで、伝え方一つでもこんなに違う。そんなことさえ、私たちは知る由もない。
そしてこの二人の身障者の会話場面は実にスリリング。本音が、赤裸々なぶつかりあいが、そこにある。
そうなのだ。今までは障害者が映画になるといったら、感動のヒューマンドラマとか、やはり感動のドキュメンタリーとかで、障害者自身が劇映画の、フィクションの役者になるなんてことは、考えも及ばないことだった。
この作品、住田氏は実名でなくても良かったのではないかと思われるほどの、役者のオーラを見せつける。でも実名で、役職さえも実際のものを使うのは、やはり大きな意味があったと思われる。
そりゃ決して、これはドキュメンタリーではない。言うまでもなく勿論、住田氏は殺人鬼などではない。自身を含めた障害者のために奮闘している素晴らしい人物だ。障害者解放センターの事務局長であり、NPO法人・障害者生活支援センター「遊び雲」副代表、障害者の自立をサポートする、ほんっとに、アクティブな人。
でも、いやだからこそ、そうした実績があるからこそ、彼が狂気の殺人鬼を演じることに意味があるのだ。何より彼にはチャームがあり、変貌すると一転、見ているこちらの背筋を凍らせるオーラを放つ。だからこそ、劇中、彼を世話する三人の人間……おばちゃん、青年、女子大生、は、よもや彼がこんなことをしでかすとは、と思うのだ。彼のそばにこんなにも長くいたのに、と。
それこそが、障害者が健常者と同じく“普通の人間”であることを示す究極の方法だなんて……そこまでいかなきゃ、私たちは判らないのか。
でも、そんな悲壮さはないんである。むしろ、殺人鬼=虚構映画のヒーローとでもいった趣である。それだけの迫力とオーラが、この住田氏にはあるのだ。
酒好きという設定も効いている。おばちゃんヘルパーの前では割と“イイ子”を演じているんだけれど、夜になって青年ヘルパーにバトンタッチすると、あるだけビールは飲み干すは、なくなったら買いに走っちゃうし、彼のパンクライブにも参加するし、かなりイケイケノリノリなのだ。
そんなありのままの自分を同じく見せられたのが、卒論のために二ヶ月間だけ住田氏のヘルパーについた敦子だった。
いや、敦子だけは、なんちゃってヘルパーだったんだよね。でもそれが、住田氏には新鮮だったのかもしれない。あくまで卒論のため、というクールな態度を敦子は崩さなかった。彼の前でタバコもヘイキで吸った。……ていうか、それが意外だと思うことが意外というか。そうか、ヘルパーが対象者の前でタバコを吸うなんて、などと思うことこそが、偏見なのかも、なんて思いもしなかったんだもの。
平等に接しよう、親しい友人にもなれる、そんな意識がヘルパーのおばちゃんや青年にあったのだということを、あんなに親しそうに気のおけない感じで接していたのに、そうなんだということに、気づくのだ。
自分の目的のためだけに割り切っている敦子が、一番住田に近かった。確かに彼女はカワイイ子だったけれど、それだけが彼の「恋しちゃった」ことにはならなかっただろう。でも、平等に接しられたことだけがそう感じるゆえんだったとしたら、それはなんて哀しく、切ないのだろうか。
そこに共感を感じることは、やはり不当に下に見ているんじゃないかと思って言いづらいけれど、でもやっぱり、判るなーなどと思っちゃう。
あのね、住田が信頼している先輩の福永は、全てを受け入れるな、と彼に言うのね。こういう立場だから、必要以上の人間とやっていかなければならない。でもその大半は、自分を真に理解しようと思っているヤツではない。だからその全てを信じて受け入れていたら、自分が壊れてしまう、と。
それは確かに正しい見方だと思うのね。でもじゃあその判断で、ここに出てくる誰を受け入れるのかっていったら……福永は、タケだというのよ。彼は逃がすなと。
でもね、それはきっと間違っていたんだよね。タケは確かに一見、住田を一番判っているように見えた。でも劇中、ふともらしたひと言「何考えているのか判んないところがあるけど」が、彼への信頼を崩壊させてしまったのだ。
敦子はそんなことは一言も言わない。まあ、そんなことは考えもしないってことだけど。でもそれこそが大事なことなのだ。人間、誰かを判ろうとまず考えてから友情を築こうなんてしない筈だもの。それこそが、真の平等への道なのだ……なんて難しい。
それにしても住田氏の狂気は、そのフォトジェニックは恐るべきものがある。こうした身障者の、先述したような“何を考えているのか判らない”表情を、住田氏は理解した上で更に恐るべき表情に昇華させているんである。トーキングマシンの平坦な“喋り”のSFっぽさもそれを加速させる。
彼が無造作に伸ばしたヒゲを飲食物で汚しながら、“笑顔”で享受している確信犯的シーンに飲み込まれないように必死に抗いながらも、はまらずにはいられない。このヒゲはそのためじゃないのか?
本当に、誤解を恐れずに言えば、この、表情を作りにくいために笑顔になってしまう状態も、役者としての個性なのだ。
笑いながら、ただただ笑いながら、彼の心の中では抑えようのないどす黒い狂気が渦巻いている。
でも一体、何が引き金を引いたのか。いや、確かに判りやすいキーワードはある。敦子が住田に聞いた「普通の人間に生まれたかったですか」という質問。
それに対して住田氏は“笑顔”のままで「殺すよ」と言った。トーキングマシンの無機質な音で。
トーキングマシンは打ち込んでから発せられるまでに時間がかかるから、それを発した時の彼の“笑顔”と本当の感情が結びつかない。だからこそ、ひどく恐怖を感じるのだ。
でも敦子が発した台詞は、ドキッとした。恐らく健常者が聞きたいけれど聞いてはいけないと自制して、口にしないことだったから。そう、これこそが差別なのだと。これをアッサリと口にした敦子に怒るのかと思ったら、住田は彼女に最後まで手を出さなかったことが、その答えだったのだ。
でも、敦子は途中、姿を消してしまう。それは狂気を得た住田氏が彼女に「一発ヤラせて」とFAXしてきたから。
それ以前に、彼女が仕掛けた盗み撮りに住田氏は気づいていた。それがキッカケのひとつだったかどうかさえ判らないけれど……でも敦子が姿を消したのは、彼女が住田氏の思いを真剣なものだと感じ取ったからだろうと思う。やはり敦子は最後まで住田氏のミューズだったのだろうと思う。
実際、障害者の性の問題にまで踏み込むのも、これまでは暗黙のタブーがあったに違いない。
ここではそれ以上の、殺人者というタブーを破ってしまうから、そんなことさえあっさりと通過してしまうのも凄い。
ラストシーン、住田のためのサプライズパーティーが血の惨劇と化し、場面がパン、と飛んで警察の突入シーン、そして俯瞰でその現場が静かに捉えられる。
そこには車椅子で駆けつけた多くの身障者たちの姿が見え、まるでそれは、住田の“勇気”を讃えているかのように見えるのが恐ろしい。
住田に殺されかけた福永もいた。彼は住田からナイフを首に当てられた時、「殺すなら殺せ」と静かに見据えていた。住田は彼を殺せなかった。あの時の福永の冷たくも、慈愛に満ちた目が忘れられない。
静かに現場から介護者に押されて去って行く福永。カットアウトされ、ラストクレジットの途中には、その惨劇の家が暖かなカラーで映し出される。
まるでそれまでの、サイキックなモノクロ映像が別の世界の話だったかのように。
それにしてもほんっとに、レイトというのは“魔”法の時間だ……。★★★★☆
戦後、娯楽の王様の映画に皆が押し寄せていた。松蔵とトヨ夫婦はその映画館を二人で切り盛りしていた。そこに現われた、大津からやってきたひたむきな目をした青年。松蔵は自分が余命いくばくもないことを知っていたわけではないだろうけれど、この青年に芯の強さを見い出し、映写技師としての仕事を教え込んだ。
不思議な関係の三人だったけれど、幸せだった。
しかし、常日頃咳き込んでいた松蔵は、ある日突然この世を去ってしまう。
未亡人になってしまったトヨと留吉はますます微妙な間柄となったけれど、二人は映画が、そしてこのオリヲン座が好きだったし、その絆で結ばれていた。留吉はトヨとオリヲン座を守りたいと思った。
世間の目が、未亡人と若い青年の二人に冷たい目を向けても、そのことで留吉が苦しんでも、トヨは言った。守り続ける結果が出るのは、ずっとずっと先なんだと。
そして、今、トヨが病に倒れ、その結果が出る時が来た……。
……とまあ、サクッと物語を書いてみると、まさかこんなに、うーんと思うとは、って感じ。
「MISTY」の監督さんだというので何となく危惧するところはあったんだけど……というか、危惧していたのは浅田次郎だからかなあ。「鉄道員」では散々泣いたくせに、それ以降、泣かせるための仕掛けがあまりに見えすぎてる気がして。特に映画にした時にもう既に、身構えちゃうような感じになってたから。
で、この監督でしょ……初監督から随分と時が経って、正直あの映画で評価を得たとも思わないし、なぜ今回、彼に白羽の矢が立ったのだろう。
原作が未読なんで何とも言いようがないんだけど、そしてこれはタイトルが示しているんだからそこにケチつけたら物語自体が成立しなくなってしまうんだけど、冒頭でありラスト、現在のオリヲン座の物語、その終末を、あんまり見たくない気がした。
いや、オリヲン座の終末をじゃない。地元に愛され、時には危機にも瀕した古く歴史のある映画館、それも技師の視点からその成り立ちが描かれ、最後はその映画館が幕を閉じて終わるというのは、まさしく「ニュー・シネマ・パラダイス」そのものであり、あの映画に感涙した私の心を打たない訳がない。
でもあの「ニュー・シネマ・パラダイス」がその後、ディレクターズカット版で大幅に内容が継ぎ足された時、それは泣く泣く別れたかつての恋人との再会の部分だったのだよね。
お互いに年老いて、苦いものしか残らなかった再会。私はあれが、すっごくいらないような気がしてた。アレを足されると、ラストのトトの表情の意味が変わってしまう。私の中の「ニュー・シネマ・パラダイス」が壊された気がした。
なんかね、私ってこういうとこ、ホント子供なのかもしれない。映画の中の恋人たちのように、若く美しい時の切なく悲しいままで、思い出は終わってほしいと思う。そして映画館の終末は、その思い出を抱えた映画館だけの終末にしてほしいと思ってしまう。今回感じた違和感も、そういうものだったのかもしれなかった。
でもやっぱりちょっと、違う。だって二人は「ニュー・シネマ……」のトトと恋人のように別れることはなかったのだし、別れるどころか恐らく最後の最後まで、ずっとプラトニックを貫き続けたのだ。恐らくそれが、この映画の感涙ポイントであり、最後の最後、先に逝くトヨに留吉が、ずっとずっと好きだった自分の思いを告白出来たことが、まさにその純愛が、泣けるところなんだろうと思う。
私ね、自分で本当にヒドいヤツだと思うんだけど……なんか、キモチワルイ、とか思っちゃったのだ。そんなこと思う自分が本当ヤだったんだけど、なんか、見てられなかった。
正直、未亡人と年下の青年の組み合わせというのは、かなりクサい設定である。劇中、二人の下衆な噂が口さがない連中によって囁かれるように、そうした想像を抱かせずにはいられない。どんなに言われても、彼ら二人の間には何もなかったんだろう。お互いの気持ちを感じてはいても。少なくとも留吉の方は明らかに姉さんを敬愛している態度を最初から示していたし、愛する夫を亡くしたトヨも、真摯な留吉の存在だけが頼りだった。
でも、最後の最後の最後に、お互い年老いて、充分天寿を全うしたと思われる年齢で逝くトヨに留吉が愛を告白するまで、恐らく二人には何もなかったであろうことが、その純愛に感動するというより気持ち悪いと思ってしまうのはどうしたことなんだろう……。
それは、映像で年老いた二人を、その二人が抱き合っているのを見せられるからなのか(私、ホントサイテーだな……)。
あるいは、ここまで来たのなら、じゃあ最後まで言わなきゃいいじゃん、と思ったのも大きかったかもしれない。彼女を最後まで見送り、留吉が彼女の墓の前でひっそりと言ったならば、泣いたかも知れない。
何故今更言うのかと。今更言うぐらいなら、もっと早く言えば良かったじゃないかと。周囲からヤラしい噂を立てられても純潔を保っていたのに、今更言うのかと。
もう私もいい年になっちまった女だから思うのかもしれないけど、この何十年手も出されず、死ぬ間際にずっと好きだったと言われて、女が幸せに感じて死んでいくと思われるなんて、冗談じゃないと思っちゃうよ。生きているうちに、身体が反応するうちに、どうしてそれを示してくれなかったのかと思っちゃうよ。
なんかこういう“純愛”って、男の勝手な幻想のように思っちゃうんだよなあ……「ラブ・レター」でも似たような感慨を覚えたように思う。
なんかね、この現在時間が、宮沢りえと加瀬亮の、繊細に積み上げてきた珠玉の時間をぶっ壊してしまったように思えて仕方ないのだ。
このカップリングを聞いた時は、本当に心が震えた。傑作が生み出されるに違いないと思った。実際、彼らのパートの“純愛”は本当に素晴らしく、それはトヨの夫の宇崎竜童も含めて、彼がいた時といなくなった時の、二人の関係と絆は実に微妙でそれでいて強固で、この二人の役者が同時代に生きていてくれて良かったと思うほどであった。
二人の気持ちが響き合う前にダンナが死んでしまったから、というより、ダンナがいる間はトヨは夫を本当に愛していたし、彼も留吉を本当に可愛がっていたし、留吉も彼を尊敬し、姉さんを敬愛していたから、その透明な関係は本当に美しかったのだ。
いつも松蔵がやってくれていた鰹節を削る作業、亡き夫を思って、鰹節を削りながら号泣するトヨ。その姿は本当に愛している夫を思っていることを感じさせてあまりあったし、そんな彼女をどうすることも出来ずに見守る留吉も切なかった。
それにしても喪服の宮沢りえは本当に美しかった。私はそれをずっと見たいと思ってたんだよな。夫の遺骨を抱きながら、歩いてくるトヨに日傘を差しかける、こちらは礼服があまりしっくりきていない加瀬亮とのツーショットは、完璧すぎて鼻血出そう。
じゃあ、仮に、この夫が死なずに、生きていたならどうだったのか。いずれ、三角関係の修羅場になったのか。あるいは彼が生きていようが死のうが、二人はお互いの気持ちを同じように押し隠したままでいたのか?
多分、同じだったと思う。ただ、それは夫が生き続けていたなら、それこそが純愛だったと思う。思いだけの不倫、その方がタチが悪いのかもしれないけど。
でも夫が死に、その夫への思いでつながっているのはむしろ同志として美しいことなのに、こんな、片方が死ぬ時になって言うなんてキモチワルイし、ズルイと思ったのだ。
キモチワルイと思うのは、まあやっぱり、お互いいい年なんだから、何ガマンしてんのと思う向きもあるんだけど。
ああ、やだやだ、私ってホント、ヤボだ。でも思わずにはいられない。生理現象だし、愛の形だもの。
もう最後には、オリヲン座の最後の挨拶では、久しぶりのなじみの観衆の前で留吉はトヨのことを連れ合いと言っているし、その言い様には、若かりし頃「ぼくたち夫婦……みたいなもんなんだから!」とウッカリ言ってしまったテレはもはや感じられない。
そう、二人は連れ合いであり、もうそれは公認のことなのだ。そう考えるともしかしたら、二人はそういう関係にも陥っていた?
いやいやそうは考えられない。そうだとしたら、「オリヲン座にいたのは、トヨさんがずっと好きだったから」「嬉しい」などとゆー、クサ過ぎる会話が成立するわけはないのだ。
しっかしさあ、私だったら死ぬ間際にそんなこと言われたら、嬉しいなんて絶対言わないよ。このバカ!って言うと思うわ、多分。何今更言ってんの、って。本心である一方で、そこに愛情を込めて言うと思う。……なんか、しっくりこないのよね、このおばあちゃんの言葉。
ここにもね、トヨへの、というか女性の気持ちへの軽視を感じられちゃう。そりゃこれは、「ニュー・シネマ・パラダイス」なんだろうよ。あくまで映写技師の視点なんだろうよ。だからこそ「ニュー・シネマ……」でも最初の版では、トトの恋人との邂逅ははぶかれたんだろうよ。
でもね、本作では映写技師の映画への愛の描写も中途半端だしさ。そもそも、留吉がこのオリヲン座に来た経緯も行き当たりバッタリって感じで、別に映画への愛は感じないし。
彼が守り続けたものって、結局は一体、何だったんだろうって気がしちゃうのよ。そりゃ純愛の切なさは素敵なものだけど、ここではそれが、なんか違う、なんか違うんだよって、ずっと、そんな風に思い続けてしまった。
二人の映画への愛を、もっと感じたかった。結局真に映画を愛していたのは、先代の松蔵だけ。
ここで雇ってくれと土下座する留吉に「何度も同じシャシンを見なきゃいけない」と言う松蔵に留吉は「そんないいことあらへん」と言ったけれども、それを最も幸福に感じていたのは、この先代こそだったと思う。留吉がそれを幸せに思っている表情を映すようなシーンは、別に用意されていないし。
先代が亡くなって以降は、周囲の心ない噂話との葛藤と、いつもオリヲン座に来てくれる、幼い男の子と女の子との擬似家族のような風情を漂わせるエピソードで進行していく。
ピントのボケた8ミリの懐かしさは、その前でテレながら映画スターのマネなどをやってみる留吉や、掃除をする手を止めて笑いながら前掛けを取るトヨの姿などを映し出す。
そして後に「あの時、初めて手を握った」と述懐する、トヨの蚊帳の中に、留吉が捕まえてきた蛍を放す場面ぐらいで終わってしまうんである。結局映画も映画館も、脇役なんだよね。もしかしたら私はそのことにこそ、失望したのかもしれないなあ。
それにこの場面だって、なんでわざわざ「初めて手を握った」なんていうの。それは画を見れば判るし、何より、“初めて”ってことはその後があったってことで、セックスだって予期させてしまう。
そうなると、ここまで描いてきたものと矛盾して、あれって思っちゃう。純愛を描くつもりなら、そんなヤボなセリフ入れないでよ。すんごくガッカリする。
この幼かった男の子と女の子が、長じて夫婦となり、しかし今は離婚寸前の危機にあって、思い出の地であるオリヲン座のおしまいに駆けつける。あの頃と同じように新聞紙で作った袋にピーナツを入れ、狭い座席にひしめきあうように腰を下ろす。
そしてかけられるのは、先代が好きだった、だけど戦争の検閲でズタズタにされた、バンツマの「無法松の一生」
こんな皮肉はない。あるいは直球なのか。人妻に、それも未亡人に恋する話ではないか。そしてプラトニックを貫く話。そりゃ切ない話、名作。先代が好きで、留吉自身初めて映写した思い出の映画。
だけど、だけど、こんなあまりにも含みのある映画を、これまでの経緯を全て知っているおなじみさんを集めて、最後の最後に上映するなんて、そりゃ出来すぎているぐらい出来すぎてるけど、ちょっとあまりにも、無粋っつーか、無神経っつーか、ヒドいんじゃないの。
なんかこれって、もの凄いハズかしい正当化じゃん。何みんな判ったよ、ってな顔してんのよ。
留吉が最後の挨拶に泣きモードになるのも、なんか引いてしまった。スクリーンの中の人物が泣いてると、逆にこっちは涙が引っ込んでしまうのだ。
それにこんな演技、原田芳雄にやってほしくなかった。ここまでストイックに純愛で引っぱって、最後の最後、留吉の挨拶にしても、愛の告白にしても、それがズルズルに壊れてしまう。これに納得出来なかったら、この映画自体に納得出来ないんだろうなあ……それは個人的な好き嫌いってことになるんだろうけど。
でもさ、後で知ったけど、この原作の元々熟年夫婦(ちゃんと二人、結婚してんじゃん!)の設定を、老いた二人にし、更に純愛に設定したんだっていうんじゃない。うわ、これこそが私がキモチワルイと思った要因を作ったんじゃないの。いくら短篇を2時間にする都合があるにしたって、何で老年に純愛を担わせるなんて、キモチワルイことをしちゃったのだ。
二人の関係については、監督とキャストの間で議論があったという。ただその一言だけで詳しいことは一切明かされていなかったけど……二人は疑問があったんじゃないかと思ってしまう。そりゃ二人ともプロフェッショナルなお方だから、そんなことを口にすることも、演技に影響させることもないけれど、なんかね、そんな風に思ってしまう場所がいくつもあったんだもの。
このオリヲン座は名画座で、「幕末太陽傳」なんかもかかってて、心躍る。しかし名画座が世の流れに取り残されて次々と閉館していくのは、ここ数年でも身を持って実感していることでもある。この東京という地でさえ、私が出てきてから一体何館の名画座が閉じてしまったことか。
このオリヲン座も、そんなギリギリのところでやってきた。留吉は最後の挨拶で、「ピンクをかけようと思ったこともありましたが……」などという言い方をするから、ちょっとムッとする。そりゃまあ、子供たちに見てもらえないからという理由をその後に述べるにしても、やっぱり基本的にこの映画というか、監督さんは判ってくれていない気がした。
しかし、加瀬亮は凄いな。17歳っつっても、全然違和感を感じない。かといって実年齢の年を言っても違和感がない。凄い(ん?これで締めか?)。★★☆☆☆
しかし、本作はもうとにかく若尾文子の色っぽさ、もうもう、コレに尽きるんである。彼女は売春禁止法をかいくぐって、「お名刺頂けません?だってもしもって時、言い訳が利かないんですもの、恋人の名前も知らないんじゃ」と恐らくそうした“恋人”の名刺を数十枚、いや数百枚は持っているだろうと思われるしたたかな芸者。歌も踊りも出来ず、得意なのはドドンパという不見転芸者だけれど、色気だけでここまでの売れっ子になっているんである。
身体だけ、ではなく色気だけ、とわざわざ言い換えたいぐらい。確かに彼女は贔屓の客と“恋人”になって寝るけれども、別にロマンポルノでもないので乳ひとつ出さないし、ソウイウ場面になると粋にフェイドアウトするわけで。
しかしそれでも、乳を出したって、この色気には敵わないんじゃないかと思うぐらいなのね。あー、なんなんだろ、この色気は!これぞ脂粉の色香っていうやつなんだろうか。しっかりとしたおしろいの下に肉が息づく様が、何重にも武装された着物の下に息を潜めているこのデンジャラス。抜き気味に着た真っ白なうなじは、ここに手を差し入れなければ男じゃないとばかりに誘ってくるし、しかもその性格というか女としての性質も、そんな風にしたたかな女である一方、結構単純な可愛さもあって、そりゃ男がメロメロになるのもムリはないって思うんである。
その、単純な可愛さの部分が、この映画の面白さになってる。誰もをとろけさす小えん姐さん、と皆が思っているのに、彼女が思いを寄せる、彼女曰く「岡惚れ」している男たちは、あっさりと彼女に背を向け現実の幸せをつかむんだもの。それを思い知らされた時の彼女の、鳩が豆鉄砲を食らったような顔が、哀れにもやっぱりなんだか可愛くて、美人だから幸せになるわけでもないんだナアなどと、妙に安心したりする。
そのうちの一人は、半ばまでは彼女の魅力の虜になりかけた、すし屋の板前、野崎。演じるはフランキー堺。彼はいつもの可笑しさを封印して、ウブな板前をこれまた可愛らしく演じてる。小えんが彼に母性本能にも似た思いで惹かれるのが判る気がしちゃう。
一緒にすし屋につきあった小えんの贔屓客が「あの、四角い顔の、あごのしゃくれた男」というのが、あまりにも言い当てているので吹き出してしまう。しかもこの男をダシにして彼に会いに来た小えんに、野崎はやせ我慢してつれなく当たったりして、第三者にバレないように攻防戦を繰り広げる二人のやり取りが実に可笑しいのだよね。
「あんな男ともヤるのか」と野崎は嫉妬心アリアリですしをギュウギュウ握り、おとりさまのデートの誘いに乗らない野崎にじれた小えんはブンむくれるし。
でも彼とも、このおとりさまのデートが最後だった。上野のホテルにしけこんだけれども、それだけだった。次にすし屋を訪ねた時、彼が子持ちの出戻り女との再婚を決めたと聞き、小えんは鼻白む。それがね、私よりもそんな条件の悪い女の方がいいのかと言いたげなのがアリアリなのね。自分には現実の女としての価値がないことを、判っているはずなのに、どこかで夢を見ている、そんな、一歩間違えればイタイ女。でも可愛い女。
もう一人は、銭湯への行き帰りでよく出くわす、大学生の牧純一郎である。演じる藤巻潤はいかにもさわやかな健康男子であり、彼女が彼に惹かれたのは、あるいは自分の手練手管でなら落とせる相手だという気持ちもあったのかもしれない。
でも彼は、往来で偶然出会って一緒に靖国神社にお参りしても、彼が社会人になってお客として再会しても、小えんのときめきなどどこ吹く風で、しかもその時接待していた外国人客の“相手”をしてくれと、女将さんを通じて頼んでくる始末なのだ。
小えんがガクゼンとして、「あの人がそんなことを言うわけがない」と言った根拠は、一体どこにあったのか。ただ彼は外見がさわやか青年だっただけで、そこに野崎に対する思い同様母性本能をくすぐられていただけではないのか。結局は体よく扱えると思った男に、逆に体よく扱われたことにプライドを傷つけられただけではないのか。
でもそれが、この女の可愛さであり、愚かではあるけれど純粋な恋心に似たものが、確かにあったんだよね。いわゆる“お客”に対してはプロとしての矜持を決して乱さないのに、やっぱりそういうところは女なんだよなあ……。
売春禁止法の手入れが入って、小えんは芸者としての稼業を失い、銀座のバーにホステスとして勤めることになる。そこでも彼女は和服で、しかし大ぶりなイヤリングなどして客とチークを踊ったりして、そのアンバランスさが妙に蠱惑的である。
しかし、そんな現代的な店に勤めるのもほんの一時、そこで彼女は小えん時代の贔屓客の一人であった、あの冒頭の二級建築士、筒井に再会し、彼のお妾さんになるんである。
小さなアパートの一室を与えられ、少女趣味に飾り立てる彼女に苦笑を漏らしながらも、筒井は彼女を可愛がってくれる。「一人前の女になれ」という彼の言葉に従って、芸者時代はサッパリだった唄の稽古に励んで頭角を現わす小えん。
このアパートではね、住人である現代っ子の女の子に、「ねえ、ペッティングって知ってる?」などとなかなかに生々しい会話をかわす場面が秀逸である。愛撫のことだと言いながらも、どんなことをするかなんて言えない、とぼかすあたりが更に生々しい。
ペッティングだけでガマンするの、それが燃え上がるのよ、などと言う彼女に、それでガマンできるの?と聞き返す小えんもまた、生々しい。時代が進むほどに男にサービスを求めたがる女からは出ない台詞であり、そのサービスがそれほどなくてもガマンできないものなんだ……などと妙に感心したりする(どこに感心してんだ)。
でも確かに小えんは、現代的なしたたかさを持ちながらも、根本的なところでは古風な女であり、だってお妾さんになることを承知するなんてやっぱりね、そうした文化の最後の女って感じがするもの。
筒井に、「だって、お妾さんって初めてなんですもの」と言い、「初めては、良かったな」と笑われるのがそれを象徴してると思うんだけど……そりゃそうだ、お妾さんなんて、そう何度もなるもんじゃない。
そして筒井は彼女に「お妾さんじゃなくて、二号さんと言った方がいい」と言うんだけど、それはより現代的という意味でなんだろうか?そしてそれが更に進むと愛人、という呼称になるんだろうか……なんかそうやって進めば進むほどヤボになり、ケチになり、そして哀しくなる気がするけど。
だっていにしえの文化の中に確かに存在したお妾さんは、こんなショボい一間アパートじゃなく、きちんとした一軒家に、時には小料理屋なんかやらせてもらったりして、こんな風に本妻から扉に悪意に満ちた落書きもされなかったし、男はそのあたりちゃんと采配できるだけの器量がなければ、男こそが悪いってことになったしさ……。
筒井の死後、本妻とのバトルになるトコなんて、ホント象徴してるんだよな。そりゃまあ、この場面はめっぽう可笑しかったけど。
「筒井があなたにプレゼントした物や金は一切目をつぶるけれど、あの翡翠の指輪だけは返してほしい」と乗り込んでくる本妻。そんなものに覚えのない小えん、しかし引き下がらない本妻、次第に小えんはバカにするなと激昂し、「ちょっと洗濯しただけでボロボロになるようなワンピースのニ、三着ぐらいしかもらってない。あの人が訪ねて来て渡してくれるお金を持って夕食のお買い物に行った位。言っちゃ何だけど、あの人はお金にはシワい人でしたよ」とイラ立ち、「なんならそのボロボロになったワンピース、お返ししましょうか」と息巻く(このあたり、かなり笑える)。
「あなたみたいな我利我利亡者に」(!!)といきり立って、本妻に掴みかかっちゃう。知らぬフリしてついたてのこちら側で食事をしている芸者たちが巻き込まれるのも可笑しいんだけどさ……でもやっぱり哀しいんだよな。
確かにこの時点では、本妻と小えん姐さんはどっこいだよ。小えんの言うとおり、奥さんのサービスが足りなかったから、だんなさんはつまみ食いの浮気じゃ済まず、小えんを二号さんに囲うまでになったんだ。でもホレこんだ小えんにもこんなショボい待遇しか与えず、しかし嫉妬心ばかりは一人前であやうく刃傷沙汰になったりしてさ。
でも、本妻を引き取りにきた娘さんがすっごいしっかりしててさあ、母親の無礼をきっちりわびてくれちゃうもんだから、小えんは何も言えなくなってしまうわけ。ここでカンペキに負けてしまったのよね。
そうそう、野崎が嫉妬のあまり小えんに刃を向ける場面はひとつのヤマで。小えんは彼女を慕う若い工員のお兄ちゃんと連れ込み宿にしけこんじゃうわけ。まあ、二号さんとしての生活がちょっとタイクツだったのかもしれない。
「これは遊びよ」と彼に言い聞かせての、場末の安宿での浮気場面は、外の建築工事(これは、やはり筒井をほうふつとさせる描写なのだろうか)の音が凄まじく鳴り響くのがやけに頭にこびりつく。それだけに、若さで彼女にむしゃぶりつく彼が凄く赤裸々で……彼女の方が脂粉の香り漂う大人の女だから余計に赤裸々で……彼女はそういう情熱に飢えていたんじゃないかって、思うわけよね。
だから実は、筒井が小えんが思う以上に彼女にホレてて、手下に行動を探らせてて、その日彼女が帰った時にはもう全てを知ってて彼女に刃を突きつけるのが、結局彼女はそのトラウマに最後までさいなまれることになったけれども、でもやっぱり嬉しかったんじゃないかと思うんだよなあ……。
しかもこの場面、もう浮気は許さない、今度あったら本当に……と脅し気味に小えんに言い、しかし涙にくれる彼女を、そう、それこそ“愛撫”しながら唇を合わせるシーンは、もうそれだけでセックスを超える官能で、ヤバイヤバイ、18禁は挿入シーンばかりじゃないよ!と余計な心配してしまう。感情よ、やはりこの生々しい感情なのだよ!
しかしその筒井が病気に倒れ、本妻の目を盗んでの献身的な看病(「私ならいいでしょ」とお小水をとる場面の濃ゆい親密さがたまらん!)も虚しく、あっけなく彼は死んでしまう。
置屋に祭壇なぞ設けて喪服で涙にくれ、本妻とのバトルもあり、すべてが終わった後、彼女は筒井の墓参りに赴く。恨みごとを言いながら最初はひしゃくで水をかけて、しかし苛立ったように桶の水をバシャア!とばかりぶっかけてしまう彼女に思わず吹き出しちゃう。
奥さんや私や娘さんを苦しめた、あなたが一番悪かったのよ、さよなら、という言葉は、もうここにも来ないという含みが感じられる。
墓石がね、タージマハールのてっぺんみたいな、まろやかにとがった形してるのね。で、彼女は水をぶっかけたそれを、最後にいとおしそうに両手で包み込んで、そしてきびすを返すのよ。それがね、やけにやけに生々しく感じるんだよなあ。“愛撫”でしょ、コレ……。いやこれは、絶対うがちすぎじゃないと思う。
映画館で、あの工員の少年に出会った。彼の行きたいと言っていた上高地に向かう。その途中、電車の中ですし職人の野崎に遭遇してね、妻子と共に幸せそうで……。
小えんは少年に切符と金を与えて、自分はふるさとのおじを訪ねてみようと思う、と告げる。ガランとした小さな駅の待合室でぽつんと座っている彼女、徐々にカメラが引いて、あれ、まさかこれで終わり?と思った予感が当たって、かなり唐突な印象でエンド。これは、彼女にとっての再出発としてのハッピーエンドなのか、それとも……と悩んでしまうような、突き放すようなラスト。
なんか、これだけ男と縁があったのに、本当に彼女を愛してくれた人がいなかったっていうのが、悲しく思えるのは、女だからなんだろうか。
むしろ、彼女を完全に割り切って扱う、スケベ心だけが丸出しの贔屓客、矢島が一番、彼女のことを判っていたのかも……うう、哀しい。演じる山茶花究の全てを判ってるあの酷薄な表情が憎たらしい。
脂粉の色香というものを、真に感じたのは初めてだった、気がする。世界唯一の日本の女の色香が、今は失われているんだなあ……。★★★★☆