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「は」


2007年鑑賞作品

幕末太陽傳
1957年 110分 日本 モノクロ
監督:川島雄三 脚本:田中啓一 川島雄三 今村昌平
撮影:高村倉太郎 音楽:黛敏郎
出演:フランキー堺 金子信雄 山岡久乃 梅野泰靖 織田政雄 岡田眞澄 高原駿雄 青木富夫 峰三平 芦川いづみ 菅井きん 福田トヨ 左幸子 南田洋子 新井麗子 竹内洋子 芝あをみ 清水千代子 所寿子 植村謙二郎 河上信夫 井東柳晴 小泉郁之助 鈴村益代 石原裕次郎 小林旭 二谷英明  関弘美 武藤章生 穂高渓介 河野秋武 西村晃 熊倉一雄 三島謙 小沢昭一 殿山泰司 加藤博司 市村俊幸 山田禅二 井上昭文 榎木兵衛


2007/6/19/火 東京国立近代美術館フィルムセンター(川島雄三監督特集)
私がこの川島監督の名前をちょっと聞いたことがあるなと思ったのは、多分この作品で聞こえてきていたんだろうと思う。この間ふらっとCDショップのDVDコーナーに立ち寄ったら、新作DVDの中に愛蔵版の本作のDVDがあって、もう50年も前のモノクロの映画が、それだけの需要があるんだと驚いた覚えがあった。実際この日、会場も満杯で、しかもいつもと客層も若干違っている気がして、若い人や女性の比率が多かったような。

そしてそして……私はノックダウンしてしまったのであった!最初はね、この作品が川島監督の代名詞として語られて、実際他の作品に関しては聞いたことのあるタイトルはなくって、それってまるで一発屋のようでナンだなと正直思ったりもしたんだけれど(今にして思えばなんと無知なことを……(恥))、これほどの傑作を前に、そんなくだらない思いをめぐらす方が時間のムダってもんである。
これを観ずに人生終わらなくて良かった。ああ、本当にそう思ってしまう。この作品の解説に、名作、と記されていたけれど、そんなおとなしい名称じゃ追っつかないよ。これは傑作。それも大傑作。それもそれも、娯楽の王道を突っ走ってお腹が痛くなるほど爆笑の渦に巻き込みながら、なぜかその最後には胸に苦いものを抱えてしまう、……そうか、そう考えると、やはり名作とも言うべきなのかなあ。

そうなのだ、もう笑って笑って笑いまくるの。三谷幸喜だってこんな爆笑の連続の映画を作れないんじゃないかと思うよ。それでいてハチャメチャじゃない。シーンの切り替えにはしっかり先のフリに対する答えがなされていて、役者のコミカルさやギャグだけじゃなく、そうしたキッチリとした演出でも大いに笑わせてくれるんだもの。
例えば、「あんな、どこの馬の骨とも判らないヤツら」と吐き捨てられた後で、そう言われた男たちがアホ面して遊女と盛り上がっていたり、「バクチはやめた方がいいですよ」と進言した坊っちゃんが、カットが変わると、「おお、やってるねえ」と使用人たちのバクチにこっそりもぐりこんでいたりね。
劇中の登場人物はハチャメチャで、うっかり破綻しそうに見えながらも決してそうはならないのは、そういう、映画としての成立の仕方がきっちりとなされているからなのだ。娯楽映画の作戦として破綻を味付けに使っても、構成に破綻をきたしてはいけない。やっぱりそれこそが映画の基本なのだということに気付かされる、お手本のような作品だと思う。

なーんて!しかめつらしいことを言ってもせんないほどに、もうとにかく面白いのなんのって!その“作戦としての破綻”、つまり劇中に作り上げられた様々な人間関係や枠組みや、言ってしまえば常識や良識までをもぶっ壊すのが、当の主人公だってんだから!
この佐平次を演じるフランキー堺の、素晴らしいことといったらない。素晴らしいなんてお行儀のいい言葉を使うのもどうかなと思うぐらい、彼の軽妙洒脱っぷりには感服と言うしかないんである。軽妙洒脱という言葉さえ、お行儀よく思える……って言い出したらキリがないんだけど。

だってさ、この作品には石原裕次郎だの小林旭だのといった、そうそうたるキラ星が総出演してるのよ。しかも若く可愛い時の彼ら、白黒でもお肌すっべすべなのが判るもの。ことに八重歯がきらりんと覗く石原裕次郎の可愛さときたら、今のアイドルの男の子がはだしで逃げ出す可愛さなのよ。そしてあでやかな遊女たちを演じる女性陣にも、南田洋子、芦原いずみ、左幸子といった若き美しき花のような美しさが絢爛と咲き誇っている。
しかしそんな豪華さを、すべてこのフランキー堺の縦横無尽のハチャメチャぶりが空高く超えてしまうのよ。この人って、こんなに凄いコメディアン、そして何より役者だったんだと、深い感動を覚える。

“役者”と思えるっていうのは……こんなずうずうしくてお金にしわい彼が、実は労咳という当時の不治の病を抱えてて、つまりすごく厭世的な気分を持っているのね。だからこそお金に全ての価値を見い出していて、女には全くなびかないんだけど(病気に悪いから、とは言っているけれど、それだけの理由ではあるまい)、でもお金を稼ぐために、つまりは手間賃をもらうために様々な人に手を差し伸べて、しかも底抜けに明るいから、みんな彼のことを好きになっちゃうわけ。それは彼に無銭飲食をされたこの遊女屋の経営者でさえそうなのだ。
でもそれがね、かえって最後になってしまえば切ないの。だって彼は、きっと最後の希望、オランダ渡りの医者にかかれば治るかもしれないという一縷の望みを叶えるためにお金を貯めていたんだもの。でも多分、彼は助からないんだ……。

って、だから!そんなのは、この物語中には全然感じることではないのよー。もう観ている時は、5分に1回は訪れる爆笑ポイントにただただ笑いこけている状態なんだもの。
当時の映画の特徴だと思うんだけど、すっごく台詞が早口なんだよね。でもそれが、本作ではさらに計算上に基づいているんではないかと思われるほど、とにかく駆け足。すっごいスピード感なの。それは冒頭、騎乗の異人(外国人)を追いかける攘夷の志士たちの場面から現われてる。
そうそう、一応舞台は幕末で、本当にもう、明治は目の前なんだけど、そして石原裕次郎扮する高杉晋作とか時代の人たちは出てくるんだけど、なんか幕末である必要はあんまりないっていうか(笑)。とにかくフランキー堺だからなあ。あ、でも彼の、厭世の気分は、どんなに抗ってみたってこの時代は終わる流れにあるんだっていうことにつながっているのかもしれないなあ。

ああ、またマジな方向に行っちゃった……だからそうじゃないんだってば、この映画の面白さは。とにかく、ギャグ、ギャグ、ギャグなのよ!大体このフランキー堺演じる佐平次っていうのがね、後にこの遊女屋で居残りさん、と呼ばれる、キャストクレジットも“居残り佐平次”なんだから。
彼は冒頭の志士たちが落としていった懐中時計を拾い、これは値打ちものだ、儲かったとばかりに、仲間たちを率いて遊女屋に乗り込むわけ。でも、その遊女屋には時計を落としていった高杉たちもいて鉢合わせするし、というか、佐平次は最初からこの店の払いをするつもりなんかないんだもん。

最初っから、計算づくだったのだ。仲間達は宵のうちに帰らせ、次の夜にはまた彼らが来るからと勘定を先のべにさせ、しかし仲間達は来る筈もなく、「あいつらの居所は知らないってんだから面白れえよなあ」としれっと笑い飛ばし、あげくの果てには「この俺が一線の銭も銭も持ってねえってんだから、更に面白れえじゃねえか」と言い放つ始末。若衆はあまりのことに泣き伏してしまう……って!

この棒っきれのように長い手足を似合わない丁稚スタイルに包んでいるのが、わっかーい岡田真澄!初々しい!ハツラツとしてる!カワイイ!まだ全然スターリンじゃない!(笑)。これも凄いキャスティング。
異人たちがのさばりまくっているこの幕末の世で、どう見ても異人の血が入っている彼はことあるごとにからかわれるのだけれど、その度に彼は、「わしは品川生まれの品川育ち、生っ粋の品川っ子です」と流暢な日本語(当たり前だ)で、ムキになって言うんである。それが更に周囲の笑いを誘うんだけど……なんかね、彼は捨てられた子供だったらしいんだよね。その風貌からして、恐らく遊女が異人の客との間にもうけた子ではないかと思われる。
でも彼はとにかく自分は生っ粋の品川っ子だと、とにかくそれにこだわってて、高杉達がしでかした異人館への放火を、ざまあみろ、て感じで意気揚揚と見ているんだよね。なんかそれが、ちょっと切なかったり。

だーかーらー。そんなマジメになるような内容じゃないんだってば。もうギャグシーンをひとつひとつ取り上げてったらいつまでたっても終わらないよー。
あ、でもまずつかみって感じでぐいっと引きつけられたのは、遊女のトップ2、おそめとこはるのとっくみあいケンカである。かつてのトップおそめと、彼女の客を臆面もなくぶんどっていったこはるとは犬猿の仲。ほんのささいなことでケンカになるんだけど、これがとっくみあいという以上の、大乱闘。こ、これは本当に演技なのか!?と思うぐらいの大マジなの!

現代の映画みたいに、アップでカットを割ったりしないから、逆に生々しい迫力と妙な可笑しさがあって、しかもその引いたカメラワークが素晴らしいんだよね!それを見ると、動きをきっちりつけられているというのは判るんだけど(ま、当たり前だけど)。
縁側から庭に出て帯を引っ張りあってくるくるとお殿様ごっこ状態の大バトルになり、更に縁側から階段を登って一方が逃げて、二階で周囲に羽交い絞めにされて止められながら足だけは自由だからキックボクシング状態になって(笑。もう、涙が出るほどおかしい……カメラが引いているから、余計おかしい)、一方が手すりから落ちそうになるぐらいに掴みかかる。動線は実にスムーズに計算されているのに、この本気だからこそバッカバカしいバトルの可笑しさときたら!
しかも二人、確かにライバルなんだけど、二人して佐平次にホレちゃうところなんかおんなじ価値観を持っているようにも思えるし、そして佐平次がその二人から逃れてこの店を後にする時、待ちくたびれた二人がお互いに寄りかかって居睡りしているのが、なんだ、仲良しみたいじゃんと思えて、微笑ましいのよね。

だからっ!なんでそうマジメな考察の方に行っちゃうの!面白い場面がもうたくさん、たくさん、あるんだから!
このツートップのうち、こはるにトップを奪われたおそめの心中未遂事件ってのが、最高可笑しくてさ!これをね、彼女がどこまで本気にとらえていたのかはなかなか微妙なトコなんだけど……っていうのも、彼女、全然悲壮じゃないんだもん。もうこうなったら心中するしか手はないねえ、誰か連れてっちゃってもいい男いないかねえ、なんて、まるで夕飯のおかずはなんにしようかと悩む程度の嘆息で言うのにまず爆笑だが、それには貸し本屋の金造はどうかと思いつき、あいつなら死んでも別に問題ないか、とグッドアイディアみたいにぽんと手を叩く。彼女に岡惚れしていた彼は呼び出されて大喜び(縁側から二階に、思わず庭の木を登っていくのには爆笑!小沢昭一、面白すぎる……)。

しかしいざ心中の段になってある常連客からカネをとれるとなったら、先に川に蹴落とした金造に、ごめんね!悪気はなかったんだよ!成仏してね!とちゃっかり手を合わせるんだから爆笑!あば金(あばたの金造)、報われねえ……。しかもそれを促がしたやり手婆のおくまさん、演じる菅井きんが更に更にいいのよ。「ああ、金公なら死んだって別にかまやしねえでしょ」とさっくり言ってのけるんだからもう爆笑だよ!
しかもなんとか水中から生き延びた金造、一矢報いてやろうと幽霊のフリしておそめを訪ねるシークエンスも爆笑である。もうベッタベタに幽霊のごときうらめしやな手のポーズとって、おそめが席を外したスキに、戒名札を置いておくという作戦も、土左衛門を運んできたという人足に佐平次が熱湯をちょいとかければ、三角布したあば金、アチチチチッ!と踊り出す始末なんだから。哀れながらも爆笑。小沢昭一、ノリノリ。最高。

あ、んでもってね、この金造を見殺しにしたおくまさん、演じる菅井さんはホント最高なのよ。彼女が若い頃から老け役をやっていたのは知っていたけど、よーく見ると確かに肌はツヤツヤだしパーンと張ってて若いんだよね。でも、やっぱりやり手婆なの(笑)。おそめとこはるの両方におんなじこと吹き込んでちゃっかりおべっか使ってるんだもん。
でもそれは売れっ子のこはるも似たようなもんで、まあこんなのは遊女の誰もがやっていることなんだろうけれど、お客に「わっちにはおまえさんしか頼れるものがいないんだよ」としなだれかかる、それがね、やっぱりこれは脚本と演出とカット割り、そして勿論役者の技量もあるだろうけれど、客によって同じ台詞でも違う調子で言い、「待たせて悪かったね」と部屋に入ってくるところも同じで、廊下を急ぎ足で小走りに走っていくカットと、部屋にするりと入り後ろ手で障子を閉めるカットの素早さがほんっと、スリリングなんだよなあ!

同じシークエンスが同じ客に対して二度繰り返されるんだけど、やっぱり笑えちゃうんだもん。
廊下に足音が聞こえて慌てて居住まいを正した客、しかしその足音が遠ざかってガックリして外に出ようとしたところに入ってきたこはると鉢合わせする、という一連のシークエンスなんて、ホント、お笑いのステージだってこんなに絶妙に笑わせることは出来ないでしょ!と思う。
親子を同じ台詞で口説いていたエピソードも笑ったなあ。だってまだ経験の浅い息子に対しては同じ台詞でも「判ったでしょ、じゃ、行くわね!」みたいな軽いいなし方なのに対し、親父さんの方には、しんねりエッチにかき口説くあたりがさあ、それでアッサリ親父さんも騙されてしまうのがさあ、なんとも可笑しいんだよな。
しかもだよ、これを下敷きに、しつこく居座る客を遊女の替わりになだめる佐平次が、同じように廊下を小走りに走っていくのが、妙に可笑しくてさ!

そうそうこの話ね、最初、撮影当初の現代の場面からスタートするんだよね。現在の、品川宿。最後の赤線地帯として踏ん張ってきたこの地も、今や電車や道路の交通網が網羅され、商店街でにぎわう……しかし舞台は明治直前の幕末へと飛ぶ、ていう趣。
当初、ラストシーンは、店の最後の客から逃げ出して画面の奥へと走っていく佐平次が、そのまま現代の品川に飛び出す、というアイディアがあったらしい。
これが実現していたら、冒頭とラストで見事に完結したし、それにこの時代では絶望的な病をかかえた佐平次がファンタジーでもいい、この現代でまたイチから人生やりなおせたのになあ、なんて思っちゃって。

最後の客となった東北訛りの男とのやりとりも至極可笑しかった。あの口八丁手八丁の佐平次が初めて目を白黒させて黙り込んで。で、この男の台詞の押しの強さと合わせて、台詞が進むごとにその顔をアップにしていったのもやたら可笑しかった。
だって彼ったら、「黙ってねえで、さっさと喋れ」とか言いながら、自分が畳み掛けてどんどん喋っているからこそ、佐平次が喋れないんだもん。これはさ、東北の人間が実は無口なんかじゃないっていうのを実にユーモラスに示していてさ、なんか嬉しくなっちゃう。
しかもこれがラストを締めてるんだよー。この男が贔屓にしていたこはるは死んだとウソをついた佐平次が、墓地に連れて行ってテキトーにごまかしながらも、このおっちゃんに押されまくってビクビクしているのがサイコーオカシイ。
そのインチキに気付いて「これは子供の墓でねえか!」と墓石を持ち上げて(オイオイ!)顔をあげると、もう佐平次はすたこらさっさ(爆笑!)。
あー、もう、最高。彼が不治の病を抱えているという、危うくシリアスになりそうなところを、しっかと希望の方向に変えるのが、もう泣けるほどに好きっ!

細かいところで、たくさん面白いシーンがあるのよ。計算かどうか疑われるところでさえも。
猫がね、すっごい演技?達者なのだ。遊女に待ちぼうけ食わされた客が、猫を抱えてヒゲだか毛だかを抜いているシーン、イヤそうな顔をしながらも、仕方なくって感じでされるがままにバンザイ状態の猫、それに全く気付かずに、ぼーっと彼(彼女?)の毛を抜いている男、この時ばかりは絶妙な間が用意されていて、もうもうもう!すっごい、可笑しいのよー!

計算してようがしてまいが、ここまで可笑しかったら、もうどうしようも勝てないよなあ……。最初はね、スタッフクレジットの共同脚本の三人の中に、そして助監にも今村昌平の名前があったから、若き今村氏の才気の功績があったのかなあ、とも思ったけど、そりゃこの驚異的なまでのアナーキーかつギャグに溢れた脚本は凄いけど、でもそれだけじゃ、こんな驚異の傑作が生まれるはずもない。
ああ、映画ファンなどと胸張って言えるわけもない無知って、でも、なんて素敵なの。こんな感動がこれから先何度も待っているかと思うと、いつまでも無知でいたいと思う。
もう、これから先、この特集上映でどんな作品が観られるのやら、楽しみで仕方ないっ。★★★★★


裸の三姉妹 淫交
2006年 60分 日本 カラー
監督:田中康文 脚本:田中康文 内藤忠司 福原彰
撮影:小山田勝治 音楽:大場一魅
出演:麻田真夕 薫桜子 淡島小鞠 武田勝義 竹本泰志 吉行由実 たんぽぽおさむ 風間コレヒコ 岡田智宏 吉岡睦雄

2007/4/15/日 劇場(池袋新文芸座/第十九回ピンク大賞AN)
今回の上映作品の中で最も好きだったのが本作。えー、これで10位なんだ。10位の作品を上映するっていうのも珍しい気がするけど、観ることが出来て嬉しい。
まるでベテラン監督の脂の乗りきった時期の作品のような趣なのに、これがデビューというのも驚く。でも年齢を聞いて失礼ながら納得。なんかこう、人生を見てきた感じがするっていうのかなあ。
たまらなく静かで、三人もヒロインがいるのにしっかり「間」があって、それでいて三人を不可分なく、描いてる。三人とも全然キャラが違って、劇中彼女たちは反発もするのに、それぞれにそれぞれの感情移入が出来る。それが凄い。

しかも、この三人の女優さんたちが、やたら上手い。長女役の麻田真夕はピンクデビューだった「痴漢電車 さわってビックリ!」で顔を見たのを覚えているきりなのだけど、その時すでにちょっとカメラを向けた時の、本当になにげなく見える表情が、その内面の深さ複雑さを一瞬にして示していて驚嘆した覚えがあった。

そして次女役の薫桜子は、「プリティ・イン・ピーチ」しか観てない。それも確か彼女、デビューだったよね。その時はひたすら巨乳のお姉さんが凄くがんばっている、という印象程度だったのが、え!?同一人物?と思うぐらい、繊細な演技をヨユーでこなしているのでビックリした。
いやそりゃあ、こんな真中瞳(というのも微妙だが)を巨乳にしたようなキュートなお姉さんなぞ、二人といるはずはないのだが。いつの間にこんなに上手くなったのだ。いやあ、ビックリだ。しかも個性的な上下に挟まれて最も内面にぐちゃぐちゃしたものを抱えているこの役を、その巨乳さえ気にならず、フツーの女の子の苦悩に見えるのだからビックリだ。
いや、巨乳が気にならないというのはウソウソ。冒頭、彼女のカラミのシーンで、仰向けになってもたゆたゆとあふれ出るお乳、ピストン運動のたびに激しく揺れる様が圧巻で、その中身の物質は一体どんな液体運動をしているんだろうなどと、マジに興味を惹かれるほどなのだが……これは小さい胸の持ち主には想像も出来ない、おっぱいの神秘だわねー。

そして、三女の淡島小鞠嬢、私は初見。ピンクに出ている女優さんとは思えない(とか言ってる時点で、いまだに先入観アリアリなのだが……(汗))、そういう匂いをまったく感じさせない。引きこもりの役を演じている彼女は、終始ジャージ姿で、仕事であるイラスト描きに没頭していて、いつも無表情で何を考えているのか一見判んないし、なんか塩田明彦あたりの映画に出ていそうな感じなんだよね。
正直、彼女には最後までカラミがなくても良かったんじゃないかと思うぐらいで。んで、“何を考えているのか一見判んない”というのは、ホント、“一見”であり、その無表情さの奥に、本当は外に出たいと思ってること、通ってくる編集者の青年のことを思っていることが、観客に伝わるのだから凄い。これは勿論、脚本や演出の力だろうけれど、それが出来る女優、というキャスティングがピタリとはまっているんだよなあ。

古い日本家屋。なんか、「気球クラブ、その後」のアジトになっていたトコと妙に似ている気がする玄関先。そこに姉妹が住んでいる。キャバクラ嬢の美月と、長いこと引きこもりの状態を続けてイラストレーターの仕事をしている美夜。両親はもういないことは、美月が手を合わせる仏壇においてある写真で判る。
タイトルは三姉妹だよなあと思ってると、そこに、叔母夫婦の家に養女に出された長女、星美が帰ってくる。なんだか疲れた様子の星美、何かあったのだろうか……。

しかしそんな心配はつかの間、美月が仕事から帰ってみると、星美は男を連れ込んで昼間っからお楽しみの最中なんである。この隙間だらけの日本家屋では、もう声が聞こえまくり。一日中家にいる美夜を気遣い、乗り込んで文句を言おうとする美月を美夜は止めるんである。いいよ、別に、といった感じで。
この時も、いつものように無表情な美夜なんだけど、姉のあえぎ声を身じろぎもせずに聞いている様子とか、その時も確かに表情を崩さずにホントにじっと聴いているだけなんだけど、なんか、やっぱり彼女の心のさざなみを感じさせるんだよね。カットの切り方とかが上手いのかなあ、言葉もなく彼女の顔を映し出す「間」に、ハッとさせるものがあるのだ。

一方の、男を連れ込んでいる長女の星美なんだけど、何人もの男とカラミあうシーンがね、本作でのピンクの条件を担っているわけではあるんだけど、なんか、違うのよ。
なんだろ……セックスシーンに愛や、遊びや、あるいはそれから発するウラミツラミを託すのは基本的なことだし、言ってしまえばカンタンなことでもあると思う。ピンクはカラミを入れるのが条件だから、時にはそんな基本さえもすっ飛ばして、とりあえず入れとこうや、みたいな作品も、観る機会が少ない中でも結構お目にかかった。
けど、ここで見せるカラミは、そのどれでもないの。彼女が何か苦しみを抱えてる。それをこんな形でしか発散できないことが、見てて感じられちゃうんだよね。
それは後に、彼女が養女に行った先の叔父にレイプされたことが遠因になっていることが示されるんだけど、そんなことを観客が知らないうちから、それが察せられてしまうのは凄いと思う。確かにこれはピンクだから、そういう場面が出てくるのは当然ではあるんだけど、いや違う、何かが違う、彼女の抱えているものは、何かもっと特別で、重いものなのだ、となぜか判ってしまうのだ。

汗にまみれて、快感よりも何かに追われているように、恐れるように、不安さを隠すように、ただただすがりつくようなセックス。そこには、お約束の大股開きでパンティの上からアソコをグリグリやるとか、手でモノを隠してフェラをやるとかいう、いわゆるお決まりの画が一切ないせいもあると思われる。
そういう画は、次女がホレちゃった不倫相手である男とのカラミでは定石どおり披露されているんだけど、この長女のカラミでは、一見情熱に見えるけれど、そこには不安と焦燥があることが一見して判るような、どこか異様な迫力の、しかし画としては完璧な構図がやけに美しいセックスが繰り広げられるんだよね。
極めつけには、緊縛シーンさえある。それもやっぱり、そういうせっぱつまった感に満ちている。彼女が自分を追い詰めている、みたいな。あえいでいるけれど、なんだか、常に何かから逃げて逃げて、苦しそうに見える。そんな異様な迫力があるのだ。だからこそ、真にムダがなく、美しい。

三女の美夜は、恐らくそんなお姉ちゃんの激しさに、突き動かされる部分があったんだと思う。それは確かに、次女の美月がもらすような、「お絵かき仲間同士」の、何か響くものであったのかもしれない。
星美がそんな風に荒れたのは、遠い過去、叔父に犯されたトラウマというわけではなく、自分が描けないこと、何より高名な画家である叔父の元にいるのに、描けない苦しさが理由だったのだ。

詳細には言わないけれど、星美は叔父に対して相当複雑な思いを抱いていたんだろうことは推察される。それこそそれを、詳細に描くにはピンクの尺では短すぎるんだけど、それを観客に感じさせるだけの間合いを持ってくるのが素晴らしいと思う。
だって彼女は、叔父にムリヤリ女にされた記憶を思い出すけれど、いくらなんでも甘美な記憶ではないにしろ、ハッキリと忌まわしい記憶としてのイメージもないのだ。それ以降、二人の関係が続いたかどうかは定かではないんだけど、どっちにしても彼はそれを後悔しているし、そして彼女の方は恐らく……この叔父のこと、アンビバレンツな感情を持ちながらも、好きだったんじゃないのかなあ。母方の叔母夫婦であり、彼女とは血はつながらない設定だってことが、意味を持っている気がするんだよね。

星美自身が絵が好きで、この叔父のこと尊敬して養女に入ったのに、全然描けなくなっちゃったことで自分自身に腹がたつのは勿論、この家にはいられないと思っちゃったんじゃないのかなあ……。
なんかね、彼女を悄然とした風情で迎えに来る叔父に、そんな、描かれもしない外側のことを勝手に想像しちゃうのよ。それをさせるだけの、余裕の間合いがあるってことなんだ。

引きこもりである美夜は、いつも編集の青年、吉岡に作品をとりにきてもらっている。
ある日、酒に酔ってボディペインティングをし、倒れてしまった星美を吉岡が介抱して、全裸の彼女の塗りたくられた絵の具を丁寧にふき取っているのを覗き見てしまった。彼は本当に親切心でやっただけ。無論、それ以上のことはあるわけもない。でもその時、部屋を覗いていた美夜は、やっぱりいつもの無表情だったけれど、なぜかそこには、何かの変化が、見えたんだよね……。
美夜が、「お姉ちゃんの」と言ってちょっとカワイイカッコして、ヘッドフォンで音楽を聞きながら飛び跳ねている場面、ね。この作品の中で唯一、敢えてワクからハズれて飛び出している部分。しかし彼女が聞いているのが民謡だというのがおかしくもキュートなのだが、それ以上にキュートなのが、「そんなカッコしてるの初めて見た」という彼女のファッションである。
星美が帰ってきたことで、美夜は確実に変わり始めてる。とりあえず、ちょっとだけ、“外”に出た。星美と話をしに叔父が訪ねてきた時、もう絵を辞める!と叫んだ星美に呼応するかのように、彼女の部屋の画材を庭に投げ捨てた。それを片づけている美夜を、星美はそっと後ろから抱き締める。慈しむように。

でも美月だけが、そんな姉妹の輪に入れない。彼女は自分だけが姉や妹のような特別な才能に恵まれていないことを、ずっとコンプレックスに思っていたらしいのだ。
そんなこと、これまでおくびにも出していなかった。それどころか、引きこもりの美夜に対して、ちょっとはマトモになってくれればいいのに、と心配していたぐらいだったのだ。
でもその優位こそが、自分自身の存在価値をどうにか支えることだったのだ。
だけど星美が帰ってきた。それでも、コイツもまた男を連日くわえこんだりしてしょーもない姉だと断罪して、更に自分の存在価値を固めることが出来たはずだった。しかしこの姉には叔父にレイプされたという壮絶な過去があり、その姉と同じ才能を持つ者同士として妹がシンクロし、そしたら自分にはどこにも居場所がないのだ。しかも姉から「男にフラれたんでしょ」とまさしく図星に指摘されちゃってさ。

しかも、そのホレた男の店でのツケやホテル代を立て替えまくって、彼の会社を立て直すための300万までも都合しちゃってさ。
それ以来パタリと連絡がない、捨てられたらしい、あまりにもありがちだけど、それだけにあまりにもミジメで、もう、キリキリ押し込んでた栓がハズれちゃうわけ。私にはお姉ちゃんや美夜のような才能はない。だったら、恋をするしかしょうがないじゃない!って。
本当は、そんなこと関係ナシに、好きな相手に不器用なのは皆おんなじなのにね。
三人、飲み明かして、判りあって、そして締め切りの日、吉岡が原稿を取りに来たから、美夜が彼のことを思ってること、いや、彼が美夜のことを思っていることをかな?星美は気づいていたから気を利かせて美月を連れて出かけて、二人きりにしてあげるわけよ。お姉ちゃんだよなあ。

生真面目に締め切りに間に合うように、突貫で絵を描いている美夜の隣に座って、ふいに、本当にふいに、彼女にキスをする吉岡。
び、ビックリした……。いや、何かがあるとは思ったけど、あまりに唐突で、あまりに唐突だったから、ピンクだということも忘れて、なんか、凄い、凄い、凄い、ときめいちゃったよ!
もちろんピンクだから、その後カラミはあるんだけど、それはひょっとしたら美夜の処女突破と思えるような、ぎこちなく不器用で、なんか泣きたくなるぐらい純粋なものなんだけど、それだけに、別にそれがなくても良かったような気もするんだよなあ。そのおっぱいが切ないぐらいに薄いのが、あまりにも美夜で、なんか泣けちゃったけど。

しかし、まだビックリは用意されている。美夜、刺されちゃうんだもん。美月が不倫相手していた奥さんに。
美夜が、吉岡とひとつになって、突然、凄くカワイイカッコして、私、外に出る!って宣言して、ガラリと戸を開けて一歩前に踏み出した途端、どん、と女が体当たりしてくる。
それこそその画って、あまりにも映画的に見慣れた画で、それで死んじゃうよ、みたいなさ。
引きこもりの女の子が、好きな青年の愛の行為で閉じていた穴が突破されて、外に出て行くと思った途端、それが閉ざされる、なんてさ、あまりにも、あまりにも、完璧すぎたから、ああ、美夜は死んでしまうんだ。そりゃ完璧だけど、あんまりじゃん!と思ったのだが……。

美夜は、死ななかった。刺した女の呆然とした顔と血まみれになって転げ落ちたナイフ、彼女を助け起こして叫ぶ吉岡と帰ってきた姉妹……あまりにも完璧な構図なのに、死ななかった。
次のカットでは、退院したと思しき美夜と美月が土手を散歩している。美月は、ごめんね、と謝りつつ。
そして二人、目線の向こうに星美を見つけて、お姉ちゃん、と声をかけるカットで終わるのだ。
美夜が死ぬという完璧な構図を退けてハッピーエンドを獲得するベタの代わりに、最後に星美をワクから見切れさせるという選択をしたのかなあ、などと思う。
だって、普通に考えれば、三姉妹が同フレームにおさまって、大団円!が、単純なカタルシスを得られるに決まってるもんね。

ベタをそれなりに取り入れながらも、随所に真に完成された画をもぐりこませる、なんか凄く冷静な、ベテランの表現者としか思えんわ。★★★★★


バッテリー
2007年 119分 日本 カラー
監督:滝田洋二郎 脚本:森下直
撮影:北信康 音楽:吉俣良
出演:林遣都 山田健太 鎗田晟裕 蓮佛美沙子 米谷真一 太賀 渡辺大 関泰章 矢崎広 木林宏朗俊 結城洋平 安田大輝 楠知樹 五十嵐真人 酒井一世 天海祐希 岸谷五朗 萩原聖人 上原美佐 濱田マリ 嶋尾康史 あさのあつこ 山田辰夫 塩見三省 岸部一徳 菅原文太

2007/3/13/火 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
ああー!もう、たまらーん!この作品はそんなにチェック入れてなかったし、こんなに早く観るつもりもなかったんだけど、ちょうど公開日、会社でお昼ごはん食べながら見ていた「王様のブランチ」でこの少年二人が出てきて、そのカワユさに釘付けになっちゃって、んでもって観ようと思っていた映画の時間を見間違えて、たまたまこの映画の時間に合っちゃって……なんてことはもう今更どーでもいい。もう早速二度目を観てしまった私は一度目よりも心の中でキャーキャー言いまくり、そして一度目とは違うところでグッとこみ上げ、最終的には更に泣きまくってしまったのであった。しかしニコニコと笑顔のままでダーダーと涙を流すという、ハタから見たらかなりヘンな状況なんであるけど、それがこの作品の魅力をすんごく現わしていることだと思うんだなあ。

ベストセラーの原作の存在は知ってたけど、6冊も出ているとは知らなかった。原作ファンには物足りない部分もあるのかもしれないけど、未読のままこの映画に臨んだ自分にとっては、何ひとつ不足を感じなかった。
で、大感動の後、原作を読み始めて、その誘い込むような文章に止まらなくなっちゃって、この感想文を書くにあたって引きずられそうになったので慌てて止めて、とりあえず書いたんだけど、今、UPする段階では、もう全部、読んじゃってる。すっかり、とりこになってしまった。

凄かった。これが児童文学などというジャンルの中にあるなんて信じられなかった。いや、児童文学には名作がいっぱいある。なんたって人生のビギナーで、大人よりも真剣に、深刻に思い悩む季節なんだもの。
でもこれは、ちょっと尋常じゃないぐらいの世界だった。映画の中の二人と比べて、100倍は重い。それぐらい、悩んでる。
特に、スタートは映画そのままの天真爛漫だった豪が、運命の相手、巧に出会って、悩んで、悩んで、悩んで、暗い影を落としながら必死に進んでいくのには、心が引きちぎられる思いがした。
それを思えば、映画は甘いのかもしれない。でも、原作を読み終わっても、やっぱり不満は感じなかった。しかも読み終わってから、三度目観て、更に大泣き&大満足しちゃったしさ、

原作が有名だったりベストセラーだったりすればするほど、その差異についていろいろと言われるわけじゃない。特に今回、これだけの長さの原作だから、しかも最後のエピソードまでちゃんといくには、思い切ったハショリがどうしても必要となる。
実際、切るには惜しい魅力的なキャラが沢山あった。キャプテンの海音寺と次期キャプテンの野々村の、中学生とは思えない寛容さと深さには心打たれたし、ニギヤカなお笑い担当といった趣、吉貞のコメディリリーフっぷりには心癒されたし。
特に、横手ニ中の5番バッター、瑞垣は映画でも割と出番があって、しかも原作とイメージがあまりにもピッタリなだけに、この役者さんで原作の瑞垣の揺れる苦悩をじっくり見てみたいと思ったほどだった。

でも、それをやってしまっては、破綻してしまうんだ。原作と映画はベツモノ、それはよく言われる。それが真にどういうことなのか、この映画が示してくれていると思う。
ベツモノっていうのが時に、映画では原作の良さを描ききれないよ、という見方がされるけど、そうじゃない。小説には小説にしか出来ない表現があるし、映画には映画にしか出来ない表現がある。だから、ベツモノになる。でもその本質を正しくとらえることが、優れた原作を優れた映画にする条件なのだ。
本質は同じ。それを、本作は完璧にクリアしていると思うのね。それを恐れて長い原作を途中で切っちゃったりして、首尾よくヒットしたら「続」を作ろうなんていう、巷によくある逃げがないのが気持ちいい。
原作においては最も重要と言える部分をあえてバッサリ切ることで、ベツモノとしての映画を破綻なく、成立させた。

最も重要な部分とは、まさに、小説にしか出来ない表現で描かれる。それは、豪が巧の球を取れなかったことから始まる、キャッチャーとしての、野球選手としての、巧に対する自分としての、それらだけじゃ言い切れない果てしなく深遠で果てしなく繊細な、精神的な葛藤にある。勿論、そんな豪に戸惑う巧にもそれは用意されている。
それはやっぱり、どうしたって、映像では表現しきれないものだ。これこそが、小説の、いや文学の、醍醐味。映像が全てを映し出せる、表現しきれると時に傲慢に思ったりもするけれど、やはりそれはマチガイなんだ。その小説の中でさえ豪や巧は、自身の気持ちを言葉で表現しきれないもどかしさに苛立つ。

一方、映画にしか出来ないこと、それは、言葉でさえ表現できないことを、一瞬にして、その生身の身体で発露できてしまうことなのだ。
そしてそれは、ことこの少年期に関しては恐らく、どんなベテランの役者にもなしえない。
それを、豪に、巧に、選ばれた少年たちがやってのける。原作を読まずに観た時に感じた震えが、原作を読み終わって再び対峙した時に、どうしてだったのか、判った。

特に主人公の巧に関しては、思春期の男の子ならではの寡黙さで、地の文にとても丁寧に彼の心情が織り込まれているので、こと映像となると尺は確かに短く出来るだろうと推測された。
それでも一本の映画にまとめるためには、更にざっくりとシンプルなキャラ設定にせざるをえないという感じではあるけど、それだけに彼はより寡黙になり、深度は増すことになる。彼を見てると、原作の巧が饒舌だと思えるほどである。
ただでさえ、少年のフクザツで頑なな心情を、言葉に出さずに表現するなんて考えただけで難しいに決まってるのに、この巧を演じるには、さらにその上を表現できる演者が必要となる。
それをオーディションで、演技初挑戦の子を抜擢するなんて凄い勇気だと、後から思えば制作陣の多大なる決断力に震えがくる。

そして、見いだされたこの少年、林遣都は見事にやってのけた。
今回演技初挑戦の少年だから、少々のぎこちなさはある。でもそれも初々しい少年の魅力として昇華されるし、声に出さない少年としての苛立ちを、ぎゅっと寄せられた眉と、全身から発するバネのようなオーラで見せる彼に釘付けになる。
それに、この美少年っぷりときたら!なんて、なんてキレイなの!とスクリーンを見つめながら、何度つぶやいたことか。一応芸能プロに所属してたのね。そりゃそうか。こんなキレイな少年を世の中がほっておくわけない。
でもほぼ無名の彼は、驚くべきことに本物の野球少年で(もちろん本作はそれが条件だったわけだけど)、しかしそうとはにわかには信じられないほどの、きめの細かい白い肌に浮く汗の粒までもが美しい。
まるで少女マンガから抜け出してきたような、こんなに美しい少年がまだ世の中にはいたのか。

しかも彼の美しさは、顔かたちだけではない。いや、そのお顔がまずちょっと驚くぐらいに美しいのはすぐに目を引くんだけれど、彼の美しさをそれ以上に支えているのは、実際に野球に打ち込んで作り上げられた、その身体の美しさなんである。
華奢に見えるんだけどしなやかに締まっていて、ピッチングの流れるような美しさは、未経験者がにわか特訓をしたものでないことぐらい素人が見たって即座に知れるのだ。
それどころか、ただランニングをしている場面、毎日のトレーニングなのに、ひたむきで、心地よいスピードで走り抜けてゆく、一つの無駄もない美しい走りに、本物のアスリートの美しさを見るんである。
巧としてのキャラ以上に、いや、前提として、このストイックな美しさは不可欠で、それは恐らく、予想以上にこの映画の魅力を増す効果を得ただろう。本当に、見とれてしまうんだもの、ただ走っている姿だけで。

そして何より、何より!彼とバッテリーを組む豪である。豪に関しては巧よりも更にシンプルにそぎ落とされて、そのことで彼の魅力をより抽出した形となり、それが演じる山田健太君にもーう、100パーセントハマるのだ。彼は結構芸歴あるんだ。しかし、私は初見。こんな愛しい子がどこに隠れていたのよ。
彼の純粋な愛らしさときたら、もう胸をかきむしられずにはいられない。私がキャーキャーと心の中で叫んでいたのはむしろ美少年の巧ではなく、この豪君になのだよ。

巧とは違って、もう一見しただけでキャッチャーと判るがっしりとした身体つき、人なつっこくて皆に慕われて、っていうキャラが、その誰もを微笑ませずにはいられない笑顔に現われているんである。
原作よりポジティブなキャラのようにも思われるのは、この笑顔があまりに打算がなくて、それを受ける相手を和ませてしまうせいだろうか。
それだけに、彼の笑顔が消えた時に、ああ、そんな顔しないで、豪ちゃん!大丈夫だから!などと、やきもきしてしまうのだ。
巧がその美少年っぷりで心をときめかすなら、一方で豪はその純粋な笑顔で誰もの心を開かせ、特におねーさま方の母性本能をくすぐりまくってしまうのだ。もう、もう、すっごくカワイイんだもん!!!

巧たち一家が、両親のふるさとである山あいの町に引っ越してくるところから物語は始まる。
いや、正確に言うと、冒頭は巧の、小学校最後の試合だった。マウンドに立つ巧、自信溢れる投球、しかしそのボールの行方は……彼の自信が顔からすっと消えたことでどことなく予想がついた。
そして今、彼はただただ寡黙にボールで手遊びをしながら、車に乗っている。
コンコンと咳をしている弟を気遣っている母親。彼らが越してきたのは、この身体の弱い弟のためなのだ。

この弟、青波は身体は弱いんだけど野球が大好きで、天才的ピッチャーのお兄ちゃんを誰よりも尊敬してる。
母親はとにかく青波を心配してて、このコが野球をやりたがることには当然反対で、だから巧がこの弟の前で野球をすることにも反対。「青波は身体が弱いの。野球なんて絶対ムリなの。どうしてそんな弟の前で野球を見せつけるようなことが出来るの。お兄ちゃんでしょう」と巧を戒める。巧は黙ったままなんだけど、その苛立ちは凄まじい拒否感を示すその態度で判っちゃう。
でもね、巧はこの弟を凄く大切にしてるんだよ。なんか、不思議とそういう風に感じるのだ。こんなにあからさまに弟中心に回ってても、この弟は癒し系っつーか、そういうトゲトゲしい雰囲気をすぐ柔らかくしちゃうし。
それに、野球を愛する同じ仲間でもあり、そして弟を心配する気持ちは巧は巧なりにあるわけだから、それを全く判っていないような言い方をする母親にムカッ腹が立つ部分もあると思うんだな。

巧たち一家が厄介になっているのは、母方のおじいちゃんの家で、このおじいちゃんというのが、地元の高校を何度も甲子園に導いた伝説的存在なんである。
巧が天才的資質を持っているのは、隔世遺伝かしらね。
巧がおじいちゃんに最初に発した言葉は、「おじいちゃん、カーブ教えてよ」だった。
おじいちゃんは、「まだ早い」と一喝し、「ランニングするなら、神社までがええじゃろ」とかわす。顔をゆがめて走り去る巧。無愛想な息子にヒヤヒヤして頭を下げる父親に、「巧らしい挨拶じゃ」とニッカリ。
巧は走っていく。長い長い一本道を、神社に向かってひた走っていく。
本当に、ここで、その美しく、そして突風のように早い走りに、ひたすら見とれる。しかもその顔は少年らしい苛立ちにしかめられていて、それがまたこんちくしょうと思うぐらい美しいのだ。
そして彼はここで、運命の相手、豪に出会うんである。

もう、この豪はねー、その登場から彼の人となりが判っちゃう。おおらかで、明るくて、その笑顔が太陽のようにまぶしい。この笑顔にはひと目惚れしちゃったもん。
「お前、ホワイトタイガースの原田巧じゃろ」そう言われてひるむ巧。この豪という少年も野球をやっていて、巧が負けたあの試合を見たと言うのだ。
しかし、豪はその負け試合のことなど何も頓着していないらしく、とにかくこの天才ピッチャーに会えたことで嬉しくて仕方ないらしい。「お前の球、受けさせてくれんか」ととにかくもう、天真爛漫なんである。
そして翌日、引っ越しの手伝いもかねて、豪は巧の球を受ける約束をしたのであった。

青波もまたこの豪にすぐになつくのが、ムベなるかななんだよね。んでもって、豪が巧の球を受ける、原作でも最初のエポックメイキングになるシーンは、原作よりも映画の豪は、凄く屈託なくて「原田巧の球が受けられる!」ことに嬉しくて仕方ないって感じで、もう見てる方がニコニコしてしまう。
一球目、そのもの凄い剛球をつかみきれなかった豪はもう、ものすっごく嬉しそうな顔して「これじゃ!この球じゃ!球が生きとる!」と叫ぶ。つられたように笑いながら巧は、「ちゃんと受けろよ」と返す。
「ホワイトタイガースのキャッチャーは、この球受けられるようになるまで、どのくらいかかった?」
「半年」誇らしそうに応える巧。
「そうじゃろう、そうじゃろう!」ひたすら嬉しそうな豪。臆することもない。
実際、5球目で豪はその球を捕まえてしまうのだ。「お前、合格」巧が笑顔を見せる。巧がね、この時観客が思っている以上に嬉しかったこと、ここではまだ判らないのだ。

あ、でもそれがちょっとずつ見えてきてはいるんだな。
豪はね、大きな病院の跡とり息子で、だから野球は小学校でオシマイ、という約束だった。しかし巧に出会った豪が、やっぱり野球をやりたい!と言ったことで彼の母親は困惑して、今までは野球をさせてあげてたけど、巧君から才能がないと言ってほしい。言ってみれば巧君のせいなんよ、とグチをこぼす。それに向かって巧は言ってのけるのだ。

「野球はさせてもらうもんじゃなくて、するもんです」

ひっと、軽い悲鳴をあげて、ボーゼンとする豪の母親。
こういうね、ちょっと大げさなリアクションが、大人と子供の確執を必要以上にシリアスになりすぎずにかわしている部分が、あちこちに見受けられるんだよね。
巧と母親のシーンでもある。母親が巧の肩をつかんだ時、鬼の形相で振り返った巧が振り払って壁を殴りつけ、驚いた母親が階段の下に尻餅をついてしまうシーンなど、彼女の大げさなリアクションがなければ、かなり重いシーンになったはず。
しかし母親はやはり驚いたような軽い悲鳴を上げ、しかもそこに絶妙のタイミングでおじいちゃんが出てきて、「ピッチャーの肩をつかんだりするからじゃ」と言い、さらにお父さんが帰ってきて、その手に野球入門書なぞが抱えられているもんだから、お母さん、だだっ子のように顔をゆがめるしかないのだ。

これがね、何だかちょっとクスッと笑っちゃって。映画化に際しては、そういう風に深刻になるのを上手−く回避して、慎重に、ハートウォーミングな方向にもっていこうとしているのが判るのだ。実際、巧の心情に寄り添っていったら、そこに重さがかかりすぎて、映画としてのバランスを失いかねないんだもの。

で、ちょっと話が脱線したけど、この巧の発言が、豪に野球を続けさせることとなった。
「野球は、させてもらうもんじゃなく、するもんなんだと」と豪が巧の顔を覗き込むように言う。仲間達は「いいこと言うわー」と感心しきりだけど、それを巧が言ったとは思ってない。テレたように豪の視線をハズす巧に、もう胸がキュンときちゃう。
かくして巧と豪、そして寺の息子のサワと天満寿司の息子ヒガシは、そろって中学の野球部に入部することになる。

巧はとにかく問題児っつーか、孤高の存在で、自分を押し通していく。野球部の顧問の戸村先生から、「明日までに丸刈りにしてこい」と言われると厳しい目を向け、「丸刈りをしたら、速い球が投げられるんですか」と反発、「頭を下げてまで欲しい球じゃない」と返されると、「その球を、先生は打てるんですか」と挑発し、見事戸村先生を打ちとってしまうんである。
しかしそれは、ただ反抗的なのではなく、彼にとっては納得出来ないことに従うことが出来ない、ということなんだよね。んでもってピッチャーの腕はたぐい稀なるものだから、当然、それを面白くないと思う先輩たちと確執が出来てしまうのね。
だけどこんな巧を豪は勿論、サワやヒガシは絶対見捨てないし、彼らによって巧も変わってゆく。

一番それが象徴的だったのは、巧が先輩たちにリンチにあった時、恐怖のあまり逃げ出してしまったサワの苦悩を描くエピソード。サワは自責の念に駆られて学校に来なくなってしまう。寺の大きな木の上に登って日がな一日遠くを眺めているサワに、巧は笑顔で言うのだ。
「サワ、また一緒に野球やろうぜ」
ちょっと驚いたように巧を見つめる豪とヒガシ。普段クールで、自分を裏切った者は許さないような厳しさを持つ巧が、友達を信じることを覚えたことを判りやすく示す名場面。

でも、勇気を振り絞って先生にこの事実を進言しようとしたサワが、逆に先輩たちにリンチにあったことで、野球部は休部に追い込まれてしまう。しかもその時、先輩の放った言葉が、巧を追いつめた。
このリンチ場面に飛び込んできた顧問の戸村先生がガクゼンとして、「展西(ノブニシ)、どうしてだ!」と問い詰めると、やけに冷静な彼、「どうして……?オトムライでも判らないことがあるんですね」と返し、更に、
「内申書をよくするために、部活に入っていただけです。風紀委員をやって、ガマンして、ガマンして、ガマンして……原田巧、お前のせいだ!言いたいこと言って、やりたいことやって、いきなりレギュラーか!お前が入ってこなかったら、こんなことにならなったんじゃ!」と吐き捨てる。

彼の言うことも、理解できないこともない、などと思ってしまうのは大人の哀しさかもしれないけど……いや、展西君たちには巧の絶望的な孤独や努力が見えていないだけだったんだけど。
実際、戸村先生は巧を一目見て、その身体をバーッと触って確認しただけで彼が日頃ストイックにどれだけ努力している選手かを見てとっていた。だからこそ、ハタから見ればワガママとも取れる巧を認めたのだもの。

「全ての部活動は学校と教育委員会の監視の元にある。野球は君たちのものではない」そう校長先生から言い渡された彼ら。巧たち四人がキャッチボールをしているところに、戸村先生がやってくる。
「横手ニ中の門脇を三振に取れるか」全国大会準優勝の強豪、そのチームの怪物と呼ばれる四番。「そうすれば、かならず向こうはリターンマッチを申し込んでくる。それを三年生の引退試合にしたいんじゃ」
巧はそれに直接答えずに、戸村先生に問うた。
「野球は誰のものですか、先生」
去りかけた背中を見せたまま、戸村先生は応えた。「お前らのもんじゃ!」
途端に破顔一笑の豪、つられたように笑う巧、そしてなりゆきをハラハラと見守っていたサワとヒガシがやったー!とミットを持って駆けてくる。

そうそう、この場面でさ、巧と豪の練習を、天満寿司の和傘をさして、アイスを食べながら眺めているサワとヒガシがね!この和傘が妙に和んで、笑っちゃうのよ。
その和傘をさしたまま、戸村先生と二人の話を聞きに恐る恐る近寄ってくるのが可笑しくて!
彼らは、クールな巧に臆さない。時々、ひるむことはあるけど、巧の才能を尊敬しているし、仲間として信頼してる。
映画ではそこまで掘り下げて描かれないけど、それは巧が今まで経験したことがない仲間たちだったと思われるのよね。

特にサワは最高なんだよなあ!彼は、映画では切られてしまった吉貞のキャラなども担っている部分があるんだけど、それはこのチャーミングで達者な役者によって成立した。ひょっとしたら豪や巧より、このサワを見つけたことが、映画化の成功のカギだったかもしれない!?
もういい味出しまくり。驚いたり、見とれたりしてる間の抜けた、もとい(笑)気の抜けた表情が可笑しくて、それは巧だったら絶対に見せないよなと思わせる、油断しまくりの状態が愛しい。
クラスメイトの矢島繭に恋しちゃって、「矢島って可愛いとおもわん?泣いちゃうんだもんなー。まいったなー。原田、どう思う?坊主はやっぱりダメかなー」と一人苦悩する場面など、聞いているヒガシや豪が笑っているのが、なんかホントに太賀君や健太君が笑っちゃっているようにさえ見えてしまう。ホントにね、彼は用意された設定以上にキャラを大放出してる。合いの手入れるようなちょっとした発声さえ、思わず吹き出してしまうような、天性のものを持ってる。

しかも、ちょっと後のシーンになるんだけど、豪の替わりに巧の球を受けようとするシーンも最高。
「俺は野球をやりたいだけじゃ」という台詞も、天才の巧にとっては我に返らせる言葉ではあったんだけど、結局は巧を挑発する作戦で、「原田が、豪を迎えに行くと思ってた。俺に行ったみたいに、一緒に野球やろうぜって、なんで言わないんじゃ。お前が判らん!」って叫ぶトコでちょっと感動しかけたら、カッとなった巧が本気ですっごいボール投げてきて、「こんな球、取れるかー!」と逃げ腰になるのが、もう爆笑なの。
駆けつけた豪やヒガシに笑われるけど、でも、彼はこうなることを望んで自ら狂言回しになったんだよね。そこがなんとも可愛いんだよなあ!

で、先に行き過ぎだっての。この門脇との勝負で見事打ち取った巧なんだけど、そこで彼は今まで投げたことのない球を会得してしまう。つかめない豪も呆然とする。門脇は狙い通り再試合を申し込んでくるんだけど、巧はその時からまた、孤独の器に閉じこもってしまうのね。
そして、再試合でバッテリーはボロボロに崩れてしまう。それを見守っているおじいちゃんは、「ボールの成長に追いつかなくて」と解説する。どんなに優れたピッチャーでも、それを受けるキャッチャーがいなければ、何にもならない。それを敵チームの瑞垣も見抜いてて、豪に囁く。
「キャッチャーが球を取れなければ、ハネをむしられたトンボや」そして、「確かに凄い球だけど、キャッチャーも取れない。フリにげしようぜ!」と挑発し、巧は豪のミットに全力投球の球を放ることが出来ず、門脇にホームランを打たれてしまう。

この時のね、おじいちゃんが言う「巧の一人相撲」という孤独さと、それを突破できない豪の不安で哀しそうな目がもう、見ていてとにかくハラハラしちゃって。だって、豪が差し出すボールを持つ手が震えてて、それを巧がイラついたようにひったくるトコとか、二人のバッテリーが崩れていくのがもう目の前にさらされていくのが、どうしようって、思っちゃうんだもん。
ホント、こういうところは映像の力だよな、と思う。声なき部分に演技者は試される。そして役者としては素人でもずっと野球をやってきた彼らが見せられる場面であり、不安を押し殺しながらチームメイトに大きな声をかけて鼓舞したり、そういうのがやっぱりリアリティがないと、こういう繊細な場面は支えきれないものね。

実際、現役のキャッチャーである健太君の風格は、大きな武器である。キャッチャーミットを無造作にあげる仕草。皆に声をかける何気なさ。ホント、風格なんだよな。
それに、これは台詞だけど、「巧、ど真ん中じゃ、来い!」と何度となく繰り返される言葉も、この風格がなければやはりサマにならないと思われる。不安な時も、ミットの後ろから笑顔でこうどーんと言われると、なんか安心しちゃうのだ。
しかし、この時の巧は、豪の不安を敏感に感じ取って、どんなに豪から声をかけられても、それをぬぐえなかった。

この時、横手ニ中の野球部監督が飛び込んできて試合は中止されるんだけど、門脇は「これは遊びじゃありません。推薦入学は断わります。卒業もしません。俺は、原田巧にホレたんです。アイツと決着をつけるまで、中学野球から卒業できません!」と言い放つ。 「原田巧にホレた」という台詞に、もう女子はひたすらキャーキャーと心の中で叫んじまうんである。
しかし、巧と豪のバッテリーは危機的状況を迎えてた。豪は巧に、「俺が取れないと思って、手を抜いたんか。キャッチャーに対する裏切り行為じゃ!」と叫び、何も言えない巧にバッテリー解消までをも口にし、二人とも練習に出てこなくなっちゃう。
で、先述したように、サワが替わりにキャッチャーをやると言い出して巧を挑発し、ヒガシと青波が豪を引っ張り出してきて、巧と豪のバッテリーは復活するのだ。

豪を連れてきた青波はお兄ちゃんにニッコリ、「なあ、皆で三角ベースして遊ばん?僕、ピッチャー、やる!」と提案。
言ってしまえば、たかが三角ベース。でも、素晴らしい守備を見せて戻ってくる巧と笑顔でグラブを合わせる豪、そのスローモーション。
もおー!!!!!!心臓が止まっちゃうよ!
これだけで、たったこれだけで、二人が信頼を回復したのが判るんだもん!
だからスローモーションなんだよね!予告編でも特報でも必ず使われているシーン。だってだって、このシーンはもう……単純だけど、本当に、心が通いあっているのがこの目に見えるようなシーンなんだもん!

それにしても、この弟、青波の愛らしさなんである。
戸村先生が巧の才能に瞠目し、かつての恩師である巧のおじいちゃんを訪ねて、連携して育てたいと言って来た時、おじいちゃんは、巧はいずれ野球に潰されてしまうかもしれない、と言った。
それをお風呂に入りながら聞いていた青波は、一緒に湯船に浸かっているお父さんに、「ねえ、おじいちゃんでも、間違うことあるんだね」とニッコリする。「うん……え、どのへんが?」と野球オンチのお父さんはポカンとする。このお父さんもある意味和み系なんだよなあ。
原作を読むとより明確なんだけど、青波はどんな玄人より、天才野球選手としてのお兄ちゃんを理解してるんだよね。
だからこそ、巧も弟ばかりが優遇されているように感じながらも、この弟に邪険になどできない。
いや、それどころか、可愛い弟。なんせフクザツな年頃だからそれをオモテには出さないけど、弟が家族の誰よりお兄ちゃんを慕っているのも判ってるし、何よりこの弟が一番、自分が野球を好きなことを判っていることも知ってるから。

原作と最も違うのが、青波と彼を取り巻く状況であると思われる。原作では左遷に近い状況で生まれ故郷に転勤になった。しかし、映画では体の弱い青波のために、という前提。
これは、映画における、明確な視点の獲得のための変更と思われる。原作でも確かにお母さんは青波を大事に思って、野球一辺倒の巧に懐疑的だけど、弟のために野球を見せつけるなとまでは言っていないし、そこまで巧にとって母親の存在は大きくない。あくまで巧にとっては野球をジャマする一要素という感じなのだ。
しかし、映画という限られた尺の中で、この視点に着目して展開させたことも、成功の大きなカギだったと思われる。

私ね、予告編を見た時や、青波のためにと空気のおいしい田舎に越してきた設定で、この弟は死んでしまうのかと思った。それでちょっと、身構えた。そういうお涙頂戴な設定で泣かせにくるのはズルいと思ったから。
だけど、青波は、確かにクライマックスで重篤な状態に陥って入院はするけれど死なないし、それどころかラストクレジットで元気な姿になって少年野球チームでピッチャーをつとめてたりするのだよ!
ひたすら懐疑的な私は、まさかこれは家族の希望的回想とか、ひょっとして天国の上での話なんじゃないかとか最初は思ってしまったんだけど、その後、お父さんが会社の野球チームでへっぴり腰で空振りするシーン、そしてお母さんが三人のユニフォームを大きい順から物干し竿にかけて苦笑交じりのため息をつくシーンが連なったことで、ああ、なんて幸福なラストクレジットなんだろうと、もう、そこまででひたひたときていた涙がどわーっとつたってしまってしょうがないのだ。

……あーあ、また話が飛んじゃった。でも青波は、実はそんな弱っちいわけではない。巧は青波のことを、怖がりだと言うけど、実は巧の方が臆病なのだ。
巧が青波についイライラして、彼の大事にしている記念ボールを森に投げ入れてしまった時、この弟は夜遅くまで森の中を一人で探し回って、見事見つけ出したのだ。
こんな闇の中、大人でも迷う森に入るなんてとうろたえる巧に、豪は「満塁でツーアウトなんてピンチ、味わったことないやろ。お前、案外ピンチに弱いで」と笑顔。豪は青波が実は強い子だということを、見抜いているのだ。
川にはまった巧を豪は力強く助け出し、そして森の奥から聞こえてきた青波の、逆にお兄ちゃんを心配する声を頼りに、探し出してくれた。
ずぶぬれになって、仰向けになって、空の星を見上げて、嗚咽をおさえる巧。
巧はいつもいつも、本当にギリギリに自分を突っ張らせているんだよね。

で、話を戻す。門脇たち横手ニ中との再試合に向けて、みっちりと練習を積む巧と豪なんである。巧は豪に打ち明ける。あの試合で、力が抜けたのは、豪のせいではない。少年野球時代の負け試合のトラウマがよみがえった。「その時のことを思い出して、腕がすくんだ。お前も不安そうにしていたし……」
そして、「たった5球でつかまえた。このキャッチャーを絶対離さない、そう思った」って言うんだよー。もうドキドキしちゃう。本当に、恋愛の台詞じゃないの。いや、恋愛以上の台詞だ。男の子のストイックな関係を女の子が心底うらやましいと思うのは、そこなんだ。
豪は、巧が初めてこんなに長く自分の気持ちを話したことに対して、特にリアクションをとるわけではない。ただ、ニッコリ笑って、「ペラペラ喋ってないで、練習しようぜ」って、言う。それがまたね、全てを飲み込んでいる豪の懐のでっかさに、頼もしくなるわけだよ。

豪はとにかく、威力を増した巧の球を捕ろうと意欲満々。何度捕りそこねても、「あー、くそ!今度こそ!」と言葉こそ強いけど、ひたすら笑顔なのがなんとも健太君が獲得した豪というキャラクターらしいんだよね。
とにかく巧の球に向かえるのが嬉しくて仕方ない、幸せで仕方ない、それが映画における単純化された結果だとしても、彼の存在がひたすらこの映画を幸せへと導いてゆく気がしてならない。
それにそれは、豪だけじゃなくてさ、最初のキャッチボールの場面で、豪がたった5球で巧の球を受け止めて見せた時の、そしてここで改めて受け止めることが出来た時の、クールな巧がその嬉しさを隠せない、あの笑顔ときたら!
もう、恋愛だよね、これって。「原田の球を受けるのは俺だけじゃ!」みたいなさ!
そしてそれを、巧も望んでる。だからそれが壊れそうになった時、動揺してしまった。信じられなくなってしまった。
でもだからこそ、それを回復した時に、あんなにも胸を打つんだよなあ!

そして再試合。しかしその直前、青波が倒れて入院してしまった。
集中治療室に入った青波の元へユニフォーム姿のまま慌てて駆けつけた巧に、母親は邪険に言った。
「母さん、何度注意した?青波に野球を見せつけないでって。巧、出て行って」
巧は黙って立ち去るしかないんである。
お父さんが、妻にそっと話しかける。
「どうしてそんなに、巧に辛く当たるんだ?」
「……やつあたりよね……」そう認めながらも、「巧は青波に比べて元気。やりたいことをやってる。そんな巧を見てるとイライラするの」と吐露するお母さん。

お父さん、しばし黙った後、「お義父さん曰くさ、野球は、巧にとって孤独の証しなんだって。親として辛かったな」そして一息ついて、「でも、巧が野球を続けているのは、祈りなんだって思わない。野球が大好きな弟のために、一生懸命続けている」
そして、「僕、会社の野球チームに入ったんだ。そこで大発見。野球って、気持ちを伝えるスポーツなんだよ。僕はそれを巧に教えたい。巧だって、野球を楽しんでいいんだって」
私はそろそろ、涙腺がアヤしくなってくるんである。この辺りは原作にはない、完全に映画のオリジナルで、ラストのシメに向かうためにかなりベタな台詞になってる感じは否めないんだけど、でも、巧が心を遮断して今までやってきたことが判るから、それを豪が、そして巧にホレた門脇だって、仲間たちだって、ゆっくりと外していっているのが判るから。
「君だって、本当は伝えたいんじゃないのか。青波だけじゃなく、巧だって大事な息子だって」
お母さん、天を仰いで涙をこらえるばかりなんである。

再試合当日、巧が病室に見舞うと、青波はうっすらと目を開けた。
もう死んじゃうって思う時も、お兄ちゃんの着替える音でいつも目が覚めるんだ。今も聞こえたよ、って、そう途切れ途切れに、お兄ちゃんに話しかける。
「お兄ちゃん、投げるん?一人で、投げるん?最後まで……勝ってな、お兄ちゃん」ヤバい、ヤバいぞ、私の涙腺は、かなり決壊寸前までいってるんである。
巧は頷いて、青波の手にボールを握らせてやる。そして、自転車を飛ばして、グラウンドに向かう。笑顔で、笑顔で!
風と同化するかのように疾走する巧。自分の足で走るストイックな巧も美しいけど、自転車を駆って風になる巧も、空へと飛び出していきそうな巧も、なんと清々しく美しいことか。
彼は、野球を楽しみに行くんだ。楽しい楽しい、大好きな野球をしにいくんだ。
最高の相手、門脇に、最高の相棒、豪と共に挑む。
それがこんなにこんなに、楽しいことなんだ!

しかもね、巧がマウンドに立った時、お母さんがね、駆けつけててね、手を振って、「フレー!フレー!タクミ!ガンバレ、ガンバレ、タクミ!」って、叫ぶのよー!
このシーンはね、無論原作にはないし、一回目に観た時には、ちょっとハズいと思ったんだけど、二回目にはそんな気持ちも吹っ飛んで、涙ドバー!!!
うー、この気持ちの変化は何だったんだろ、なんかね、お母さんが、今までは巧を応援することを、青波のためにどこか罪の意識みたいに戒めていたのが、当の青波の言葉で、全てが許されたように思えたっていうか……。しかも、その言葉を受ける巧の表情が、くすぐったさの中にも素直に嬉しそうな気持ちがいっぱいに溢れてて、なんか、たまんない気持ちになっちゃったんだ。
そして、それが原作に対して、映画の出した答えだったような気もして。

その頃、お父さんは青波の手を握り締め、「お母さん、お兄ちゃんの応援に行ったぞ、青波も頑張ろうな」と声をかけている。一度目に観た時にはこれもね、まさか死んじゃうんじゃ……とハラハラしてたけど、二度目はそんなことはない、これ以上ない幸福なラストクレジットが待っているって判ってるから、もうニッコニコで涙を流すことが出来るのだ。
巧の投げたボールは、まっすぐに豪のミットに吸い込まれてゆく。そのボールの行方は……。
笑いながら、笑いながら、幸福に笑いながら……泣いてしまう。

「巧がここにいる、と思いました」巧役の林遣都君に初めて会った時の印象を、豪役の山田健太君はそう言い切った。そして、原作者のあさのあつこ氏は飛びきりの笑顔で、気品のある巧を演じてくれた、ありがとう、と語ってた。
実際、彼女は、満足していると思う。
していなかったら、舞台挨拶にまで顔を出さないだろう。 彼女がオフィシャルサイトに残したコメントに、思わず涙が出ちゃった。
「ここに、大人の為した仕事がある。大人たちが集い、動き、演じ、それぞれがプロとしての仕事を成し遂げた。その遂行の軌跡を観てほしいのだ」と。
彼女が10年付き合った作品、何より巧という主人公が映像化された作品に、納得できなければ、こんな言葉は出ないはず。
こういう幸福感っていうのは、「博士の愛した数式」で、長い長い寄稿をオフィシャルサイトに寄せた小川洋子さんにも感じた。
これは、原作者も認めた、オフィシャルな映画なんだよね。

この作品のためだけの少年たちを選んで、名のある子役など使ってない。だからポスターや特報を見た時には、大丈夫なのかと思った。でも思いっきり納得させられた。これは名のある子役などではダメだ。巧であり、豪でなければならない。そのためだけの、少年たちでなくてはダメなんだ。
この後、この二人が、首尾よく役者の道を歩んでゆけるのかどうかは判らない。
でも、とにかく、巧と豪として、彼らが見い出されたことが、この映画の何よりの成功のカギだったし、映画という幸福を実らせてくれた。

それにしても、エンタメ映画の滝田監督が、このどっちかというと精神的な原作に、なぜクリエイターとして惹かれたのかなって思ったんだけど、思えばあの「陰陽師」だって、クールな安倍晴明が天真爛漫な源博雅に心を開かれたバッテリーだったんだもんなあ!★★★★★


初雪の恋 ヴァージンスノー
2007年 101分 日本=韓国 カラー
監督:ハン・サンヒ 脚本:伴一彦
撮影:石原興 音楽:Chung Jai-hwan
出演:イ・ジュンギ/宮崎あおい/塩谷瞬/森田彩華/柳生みゆ/乙葉/余貴美子

2007/6/2/土 劇場(新宿ガーデンシネマ)
やはりいまだに言語の壁を越える恋愛映画で、なかなか秀作が出てこない。恋は障害があるほどに燃える。言語の障害、あるいは国の壁というのはこれ以上ない障害なのに、これがなかなか上手く作用させられない。
そういえば、同じ英語圏でも国をまたがった恋愛映画としてならば、「ホリデイ」なんかはその国境の壁を上手く恋の障害として使っていたのになあ、と思う。
いやいや、言語の壁がある恋物語だってあった。「グリーン・カード」って、そうだったよね。でもあれは国籍をとるための国越え、という目的がハッキリしている分、障害もまたハッキリと越えるもの、という意識があったように思う。
その点、いまの日本と韓国ってあいまいというか、当たらず触らずというか。本当はもの凄く難しい問題をはらんだ国同士なのにそこのところを避けるあまりに、なんとなく出会った二人が国籍が違って、言語が違って、二人が歩み寄る姿勢がそれほどの目的意識がないというか、じわじわっと好きになっていくという普通の恋愛映画のスタイルに、じわじわっとお互い障害を越えようと努力するというのが絡んでくると、映画の尺の中では双方ともにすっぱりと完結できないまま終わってしまう感がどうしてもあるんだよね。

物語は、韓国からミンという少年が京都にやってくるところから始まる。彼の父親は陶芸家で、大学の交換教授として一年間、京都にやってきた父親に彼がついてきたのだ。彼は開放感いっぱいに叫ぶ。しかしそれは日本に来れて嬉しいってんじゃなくて、日本語が出来ないことを理由に一年間勉強しなくていいって意味である。
そんなミンの目の前に、一人の女の子が現われる。巫女姿のその子に、彼はひと目で心を奪われる。しかも彼がはしゃいでケガをしたのに気づいた彼女は、そのキズを自分の手ぬぐいを濡らして丁寧にぬぐってくれる。思わず彼女についていってしまうミン。おみくじを引いてみたりする。大吉。「ホントにベリーラッキーだ」と喜ぶ彼がそのお守りを皆に習って結ぼうとすると、彼女は教えてくれた。「ここに結ぶのは良くないおみくじだけなんです。ウイズ・ラッキー、キープ」ニッコリ。
その一瞬一瞬が目に焼き付けられる彼。

後に彼女が同じ高校だと知り、ミンは猛アタックするんである。彼女の名は七重。
七重の姿を見つけて張り切って駆け寄っていったミンは、彼女の持っている絵の具道具を川に弾き飛ばしてしまう。
慌てて橋から飛び込むミンだけど、ご存知のとおり日本の川は浅いから腰を強打してもんどりうち(笑)、しかしなんとか絵の具箱をつかむものの得意げに振り回したものだから、中身が川にばら撒かれて元の木阿弥。
落ち込む彼だけれど、街の画材屋さんで同じものを見つけ、バイトをして彼女にコレを返そうと思い立つ。
それまでは学校で友達を作るどころか、日本語を覚える気もなかったミンだけれど、彼に親しく接してくれようとする男の子に、「お金たくさんいる。お前、たすけろ」と、まーカタコトとはいえかなり強引に(というか傲慢に)バイトを紹介させるんである。
そのバイトとはチンドン屋。七重にそれを見られているとも知らず、彼はバイトに精を出し、ついに絵の具箱をゲット、最初は遠慮がちな七重だったけれど、ちょうどその時雨が降ってきたことが二人の距離を縮め、それをきっかけにミンの猛烈攻勢もあって、二人は段々と気持ちを通い合わせてゆく。

まあ、てな感じではあるんだけど……うーん、どこに問題があるのだろう……。
男の子の方が女の子にひと目惚れして猛アタックするという図式だけど、つまりひと目惚れなわけで、恋を切なく苦しくさせる、大好きで、そばにいるだけで苦しくて、でもそばにいたくて、みたいなんじゃないわけなのだ。
彼は来たくて来たわけじゃなかったこの日本、まあ一年ぐらいなら日本語が出来ないことを言い訳に勉強もサボれるからいっか、ぐらいな気持ちで、そこでカワイイ女の子に出会えてラッキーだぐらいな勢いなわけ。だからナンパ用の日本語の勉強ぐらいはちらっとするけれども、友情を深めるというわけでもなく(七重に関することでしか、クラスメイトを利用しないもの)、日本という国の文化を理解するというでもなく、まあ味噌汁がウマイぐらいな感慨だけで、彼女が姿を消してしまえば、もう意味はない、とアッサリと国に帰ってしまう(あ、これは後述ね)。
なんかそれが、国境が障害になる恋、としてはあんまりじゃないかと思ったのだ。

だってせっかく京都を舞台にしているのに。今世界に発信されているのは渋谷だの秋葉原だのの、ちょっとイッちゃってるようなねじれた近未来な日本だけれど、そこで出会うんじゃなくって、ザ・日本の美しさである京都なわけでしょ。そこから出たとしても、古きよきハイカラな街、神戸よ。やっぱりその意味を大事にしてほしいんだよね。
それが効果的に使えそうな要素はいくらだって用意されているじゃない。もう冒頭、彼が彼女にひと目惚れした巫女さんの姿、その静寂なるお寺、清水焼、祇園祭の浴衣姿、お守り……彼女が生まれ育ち、大好きな街だと後に口にするこの京都の街を、彼が好きになって、友情も育んで、そこから二つの国のことを考えるぐらいしてくれなきゃ、国境を越えた恋なんて意味がない。
結局は、言語の壁の問題しかないんだもん。それならアメリカとフランスで充分だよ。

そうなのよ、七重はこの京都という街が大好きだから、彼にその良さを伝えようとする描写がいくつもあるんだよね。というか、京都側の描写は全てそういう七重の視線を感じる。授業中の七重を強引にサボらせ、「私、七重を京都案内する」とトンチンカンなことを言うミンに、結局は七重が清水焼を見つけて教えたりもしているし。
そうそう、七重が清水焼をほれぼれと眺めているから、ミンは自分のお父さんが陶芸家だということを告げた。すると七重がすっごく感心したもんだからミンは更に調子に乗って、自分が皿を作るから、七重がそれに絵を描いて、清水焼のように役割分担しよう、と持ちかけるのだ。約束、と言うと、七重は小指を差し出す、指を絡める二人。
「小指を絡ませる約束は、口約束より強いらしい」とミンのモノローグ。

この小指の約束はベタだけど、恋をドキドキさせるための有効なアイテムである。日本の小指の約束に韓国式を合わせ、親指を合わせて、指でくすぐって、てのひらを合わせて“コピー”という描写を加えてくるのも上手い。
それまでは父親の陶芸を、あんなクソみたいなものいじれるか、とまるで興味を示していなかったミンだけれど、この七重との約束でガゼンやる気になるんである。
結局彼は、この時から二年後の描写でも陶芸を続けているし、どうやらその道に進むことを決断したようで、つまりこの時彼の人生は、七重によって、あるいはこの京都に来たことによって決定したというわけなんだよね。
しかしそれが殊更にクローズアップされるわけでもないのも、気になる。彼が陶芸を本当にやりたいのか、夢中になれるものになったのかどうかってのが、正直かなりアイマイなままスルーされるんである。彼はただ意地になって、いつかの約束を果たすために大皿を焼いているだけ、みたいなイライラした気分しかそこからは感じられないのだ。特に七重がいなくなってからの二年後のソウルでの描写ではね。

そう、七重は突然ミンの前から姿を消してしまう。その理由を、彼は知らなかった。いや、どうやら友達を含めて誰も知らなかったらしい、七重の家の事情を。
彼女が家に帰ると、いつも母親はすっかり泥酔してくだをまいていた。母親は夫が死んでからというもの、すっかり壊れてしまったのだ。しかもタチの悪い男に引っかかって、時折この男が家に乗り込んでは母親に暴力を振るう有り様だった。止めようとする娘たちも手荒に扱う彼に、妹は思い余って包丁を手にとったこともあった。それを七重は必死で止めた。このままじゃ、誰かが死んでしまう。そんなせっぱつまった状況で、七重は誰にも行方を知らせずに一家で引っ越す決断を下したのだ。
ミンが感じる、七重の笑顔に差している寂しげな影は、そのせいだったのだ。

七重がミンとのデートの途中、妹からかかってきた電話に慌てて帰ったりする時点で、ミンは彼女にその事情を尋ねるべきだった。そういう後悔はちらっとミンの口から語られるけれど、それだけではかなり不自然に思う。まあ、ミンは七重に猪突猛進なだけで、彼女のバックグラウンドを何ひとつ知ろうとしなかったもんなあ……。
ある日のデート、川に浮かべたボートに乗る二人。七重がぽつりと言う。このボートでデートすると、恋人は別れると言われてる、と。
ミンはそんなことを言い出す彼女の真意などまったく頭にのぼらず、韓国でもそういうのはある。ただ、初雪の日にデートする恋人は幸せになれる。「石垣道で初雪デートしよう、それでプラスマイナスゼロにしよう」とアッケラカンと言ってのけるんである。
そして、韓国式を加えた、小指の約束を交わす。コレで二つ目の、大事な約束。
それを七重がどれほど大切に思っていたか、この時のミンは知るよしもないのであった。

だけどさあ……この七重の家庭の事情なんだけど、ちょっとどうかと思うんだよね。
言語や国境の障害をさらりと流して、こんな個人的な家庭の事情の方に重きをおくのって、なんだかなあ、と思う。
なんか、せっかく大きな要素があるのに、それが深くなって難しくなることを避けているように思えちゃう。
夫が死んで自堕落に酒飲みになって、悪い男につかまって家庭が崩壊する、だなんて、昼メロで充分だよ。しかもそれを、ミンは知ることもなく(つーか、知ろうともせず)、彼女とその苦しみを共有することもなかったんでしょ。
二人の恋の部分にはなんら関係がないのよ。あるとすれば、彼女が彼に自分の全てを打ち明けず、一人で苦しんで彼が置いてきぼりにされたってことだけなのよ。
なんかそんなのって、この物語に必要な要素なの?それともそれが、京都の女の子の奥ゆかしさっていうことなわけ?
私は陳腐さばかりを感じてしまうんだけどなあ……。

京都の女の子の奥ゆかしさといえばさ、ミンの押せ押せに腰が引け気味の七重を心配して、クラスメイトの男の子が、「京都の女の子は奥ゆかしいんよ。シャイ、恥ずかしいの」とミンを牽制する。しかしミンは納得したような顔はするものの、聞いていたのは「スロー、スロー……チュッ」と彼が人差し指同士をゆっくりとくっつけたその部分だけって感じで、「コイツー」みたいにニヤニヤして、結局全然スローアタックなんかに切り替えないわけ。だって次のシーンで、いきなり授業中の七重をデートに引っ張り出すんだもん。
この男の子はミンにチンドン屋のバイトを斡旋してくれたり、何かとミンを心配してくれている友人の一人。彼との友情物語を心ひそかに期待したが、結局はこの程度の役割でしかないんであった。

祇園祭に可憐な浴衣でおめかしした七重にミンは見とれるけれども、そんなせいいっぱいのおめかしの底に押し隠された彼女の真意に気づくことなどありっこない。
人ごみに遮られて、さよなら、ミンのおかげで勇気をもらえた、と叫ぶ七重の言葉は、距離とざわめきに邪魔されて彼には届かない。このままホントに彼と別れてしまうのかと思ったら(ていうか、あの感じじゃそういう流れでしょ)、七重は彼が人ごみを掻き分けてくるのを待って、彼の胸に顔をうずめ、キスをする。彼女の方から誘うようなキスシーンである。
ミンは七重に「100日記念」のために何とか作り上げた小さな焼き物をプレゼントしていた。七重はミンにお守りを渡した。中を見ようとするミンを制して、後で開けて、と七重は言った。
この時ミンは祖母が倒れたとの報を受けてソウルに帰らなきゃいけなくて、結局それが七重との別れになるんである。後で開けようと思っていたお守りも、祖母が自分のために買ってきてくれたものだとカン違いして、そのまま渡してしまった。
しかしさあ……そもそもお守りの中は開けないもんだし、それに後でというのが、いつという具体的な時間を設定してないのもムリがある。
で、結局それを、彼は二年後にようやく開けることになるんである。

思えば、恐らくミンは、わざわざ日本に来る必要もなかったんだろうなあ。
おばあちゃんの病気ですぐに戻ってくるぐらいだし、父子家庭っぽいけど、帰る家はあるんだろう。
だから、なんか七重との温度差があるのよね。

七重が行方不明になったことを知ったミンは、ソウルに帰った。そのまま彼女の行方はようとして知れなかった。しかし二年後、神戸の大学に行った七重の友人の女の子が、絵を描いている彼女を発見する。
そしてその時初めて友人は、七重の家庭の事情を知るんである。逃げるように越してきたこと、あの暴力男は別の事件でつかまり、入院した母親も今は落ち着いていることを淡々と話す七重。
友人は、ミン君のこと知ってる?と七重に言う。あの後、七重がいなければもう日本にいる意味もないと、二学期になる前に帰っちゃったんだよ、と。

しかし七重とミンは、思いがけないところで再会するんであった。それはソウル。七重の描いた絵が韓国との文化交流イベントの展示会に入選したのだった。「韓国語が出来るんですか?」とのインタビュアーの質問に、アイマイに笑っていいえ、と首を振る七重。
運命的な再会、しかし二年間の時間と距離が挟まった二人の気持ちは、噛み合わない。自分に会いに来たのか、と問うミンに、違うと答える七重の表情が何かを含んでいるのは、彼のみならず観客にもまだ判らない。韓国語は難しい、日本語で喋ってよ、という彼女に、日本語なんか忘れた、と冷たく言い放つミンは、後になってそんな風に突き放したことを悔やむんである。
荒れまくるミン。焼き物をブチ割り、二年前七重からもらったスケッチをビリビリに破る。しかしそれを祖母が修復してくれていた。
「これはお前のものだったみたいだよ」と彼女が差し出したのは、二年前のお守り。その中から七重がミンに当てた別れの手紙が出てきたのだ。

ミンは展覧会に足を運ぶ。そこには七重の手によってミンの姿が描き加えられた絵があった。チンドン屋の彼、橋をジャンプした彼、そして様々に見せていた表情……。
しかしこれもなあ、夜の展示場に七重が忍び込んで、その場で描き加えるんだけどさ、しかも泣きながら。そんなことってアリなの?いくら作者だからって、かけられている絵にそのまま描き加え(てたよね?)って、侵入罪の上に器物破損罪とかにならないの?おっかしいよなあ。
それに、展覧会が感動の場面で用意されるのって、「ただ、君を愛してる」みたいで、そのクサさもなんか共通してるよなー。

ミンは京都に飛び、七重を追い求める。
七重は、「石垣道で初雪デートしよう」というミンとの約束を信じて、初雪の降る日、石垣道で彼を待っていた。そんなこと、ミンは知る由もなかった。
そりゃー、ムリがあるよなー。例えこの手紙を読んでいたとしたって、七重がミンとの約束を信じて、初雪の降る日に石垣道で待っているなんてことは予想もつかない。ただ、京都を去らなければいけない。いつか会えるといいね、的なだけの内容なんだもの。
ミンは七重との思い出をなぞるように、京都でのデートスポットをめぐり、お寺で共に書いた思い出ノートを繰ってみる。そこで七重が石垣道で彼を待っていたことを知るんである。そりゃビックリするに決まってる。それならそれを手紙に書いておけって。そうでなけりゃ、ミンが二年間この手紙を読まなかったこと後悔する意味がないじゃないの。すれ違うどこじゃないよ。
えっ?それが京都女の奥ゆかしさってことなの?
もうこの時には、たった数ヶ月で彼女のいた日本には意味を見いだせなくなって離れた彼と彼女の温度差がハッキリとしているんだけど……。
だって彼女は、韓国との文化交流のイベントに絵を応募して入選してしまうぐらい、つまり彼=韓国っていう思いがあったわけでしょ。

そして二人、ようやく石垣道で初雪デートが叶ったラストシーン、雪の中待ち続けた七重に、「こんな寒い中、一体何時間待ってたんだよ!」とミンは言い……それはつまり、この二年間のことも言っているんだと思われる。この時のミン=イ・ジュンギの、自分に苛立っているような、そして彼女の思いに打たれたような表情はバツグンである。この時ばかりは、って感じだけど。
ニッコリと微笑みながら彼に近づく彼女。そして雪がしんしんと降る中、静かに抱き会う二人。
その姿が、やっと叶ったもうひとつの約束、ミンが皿を焼いて、七重が絵を描く清水焼に結実し、大団円を迎えるんである。

言語、国境を越えた恋愛物語の切なさなら、韓国との文化交流の節目となったスペシャルドラマ「フレンズ」の方がよっぽど良かったなあ。
やっぱりそれは、そういう気合いがスタッフはもちろん役者にも漲っていたからのように思う。彼らが直面する障害も、キッチリと国をふまえていたし。
そういやあ、その先駆け的な映画である哀川翔プロデュースの「RUSH!」は、最後まで二人の言葉は一切通じていないのに、なぜかお互い好きになっているという、かなりランボーな、しかし勢いでそれをねじ伏せてしまう物語だった。つまりはどっちかなのよ。しっかと問題に取り組むか、もう一切無視して突っ走るか。“それなりの”美しい恋物語を作ろうとしたら、色々とボロが出ちゃうのよ。
だって本作の七重がさ、ミンのおかげで勇気が出たとかいうの、具体的な例は全然ないじゃない。え?ラジオ語学講座で韓国語を学び始めたのがそうだっていうんじゃないよね?それとも母親の引っかかった男に刃向かうシーンとか?いやでも、全然因果関係ないしなあ……。

日本語の言葉の発音が韓国語では違う意味の言葉になるとか、あるいは日本語と言葉も発音も同じとか、判るけどありがちな描写。特に前者、韓国語ではエッチな言葉になるとかっていうギャグを押しすぎて、しつこいのも気になった。なんかそんな風に幼稚な印象を受けるところが多々ある。
んでもって、ミンがケンカが強くてテコンドー何段とかってのは、イ・ジュンギが韓国のリメイク版で主演を勤めた「フライ,ダディ,フライ」をふまえたパロだろうか……。
あおいちゃんは可愛いんだけど、ちょっと地黒が目立って、「ただ君を愛してる」の時のような圧倒的なキュートさがないのがちょっと残念。
せっかく韓国でも絶対に公開される作品であるだけになあ。ま、「NANA」とかで知られてはいるんだろうけど。

一方のイ・ジュンギの魅力が前面に押し出されている感が強い。彼はホント、独特の風貌なんだけど、その白目部分が冴え冴えとしている一重の、刀のような瞳がすっごい目を引くのよ。で、ちょっとおちょぼ口のような小ぶりの唇からこぼれ出る韓流スター!って感じの真っ白な歯はまあ……ちょっと揃いすぎって感じだけど、でもとにかく、独特の美貌だよね。
それが「散髪してください」と父親が揶揄するうっとうしい髪型とあいまって、凄く魅力的。やっぱ、「王の男」で目を惹かれたから、その印象が頭にあって、どうしても彼の方を目で追ってしまう。

しかし、なんでこんな意味のある映画をこれがデビューの監督に任せたんだろうか……。★★☆☆☆


パフューム −ある人殺しの物語−/PERFUME−THE STORY OF A MURDERER
2006年 147分 ドイツ カラー
監督:トム・ティクヴァ 脚本:トム・ティクヴァ/ベルント・アイヒンガー/アンドリュー・バーキン
撮影:フランク・グリーベ 音楽:トム・ティクヴァ/ジョニー・クリメック/ラインホルト・ハイル
出演:ベン・ウィショー/レイチェル・ハード=ウッド/アラン・リックマン/ダスティン・ホフマン

2007/4/6/金 劇場(上野東急)
「ある人殺しの物語」そのサブタイトルについついつられて、しかもハリウッド役者が出てメジャー展開なものだから、つーか、ハリウッド映画かと思ってたから、 悪人が最後バッサリやられて終わり、みたいなものを予期していた。驚愕のクライマックスというのは聞いていたけれど、彼が案外逃げおおせちゃうとか、その程度のことだと思っていた。
つまりいつのまにか、映画がフィクションであるという大前提を忘れていたのだ。話にしても、描写にしても、リアリティばかりが尊重される昨今、結局はそれはイマジネーションの上でのリアリティで、しかしリアルを追及すればするほどどんどんツクリモノめいてくることへの、強烈なアンチテーゼだったんじゃないかと、思えてきた。
確かにこれは、歴史に名を残すような事件ではないから、忘れ去られた、そう言われたら、納得してしまうのかもしれない。
でも、そう思って見始めてしまった、信じて見続けてしまったことで、あのクライマックスでやられた!とアゼンとするほかない。

こんなギリギリになって観ることになったのは、だって私、香水もそうだけど、化粧品の匂い自体が苦手なんで、この脂粉の世界は想像しただけでゴメンなさい、と逃げ出したくなるぐらいだったんだもん。
でも、香水っていうよりは、匂い自体の物語なんだよね。んで、冒頭は、主人公が産まれた当時の、悪臭に満ちていたというパリ。その魚市場が悪臭の象徴とされてるでしょ、ここで逃げ出すわけには行かないのよ。そりゃ劇中の衛生状態や新鮮度は吐きそうになるぐらい悪くて、これと一緒にされちゃ困るとはいえ、ここはプライドで踏みとどまるんである(どんなプライドだ)。

彼は、望まれない子供として、このゴミ溜めの中で魚を売っている母親の足の間からただ、産み落とされた。ぬるりとした胎児は、魚のはらわたにまぎれて、死んでしまうはずだった。しかし彼が必死の泣き声を搾り出したことから、彼は救われ、替わりに子捨ての母親が絞首台に吊るされた。
ここから彼、グルヌイユの数奇な運命がスタートする。
それにしても、この赤ちゃんが母親の血やら魚のはらわたやらにぐちゃぐちゃにまぎれている画のグロテスクときたら!しかもこの母親、あの腐りかけの魚をさばいていた包丁でヘソの緒を切るんだよ!ゲゲッ……。

赤ちゃんの時から、その異様な存在感が、敏感な子供たちを怯えさせた。子供たちは赤ん坊の彼を殺そうとするけれど、小売りのババアに阻止される。母親から産み落とされた時も、そしてこの時も辛くも生き延びた彼だけれど、どこかで死んでしまっていた方が、世のためになっていたかもしれない。
しかし孤独な彼はその勤勉さで、粛々と大人になって行く。
その傍らで、彼を売り飛ばす大人たちは次々と不慮の死を遂げて行く。子売りのババアも、なめし皮職人の大男も、そして彼を殺人者として解き放ってしまった香水の調合師も。

この調合師、バルディーニとの出会いが、グルヌイユの人生を大きく変えた。
社会の底辺でなめし皮職人の仕事を黙々と続けていたグルヌイユが、主人に連れられて配達に出かけたきらびやかなパリの街……彼が産まれた腐敗と悪臭のパリとは全く違う、華やかな香りに彩られた街。
彼は、貪欲に香りをむさぼる。今まで知らなかった種類の香りがいくつもいくつも彼の鼻をくすぐってゆく。
そして行きついたのが、一人の若い女。彼はその時、彼女の香りに夢中になるあまりに、うっかり彼女を殺してしまった。

そしてグルヌイユは、バルディーヌの店になめし皮を届けに行った際、香りをかぎ分ける才能と、その調合を感覚で作り上げてしまう腕を彼に見せつける。時代に取り残されていたバルディーヌはグルヌイユの才能を嬉々として買い取り、店は大繁盛するようになる。
一方で、グルヌイユはバルディーヌから、香りを保存する方法を貪欲に吸収していった。バルディーヌはどんな香りも抽出出来ないものはないと言い、自ら作った蒸留器を自慢げに説明した。
しかし、グルヌイユは、実験を繰り返していたある夜、突然荒れ出す。慌てて飛び起きたバルディーニは、蒸留器の中に沈んでいた飼い猫を発見して呆然とする。

グルヌイユは、銅やガラスの匂いを蒸留式で抽出しようとして失敗した、と食ってかかった。バルディーヌは困惑して、それらには匂いがないじゃないかと言うしかなかった。でもグルヌイユは、どんな無機質にも匂いがあることを知っていた。だからこそ失望した。どんな匂いでも捕らえることが出来ると言ったのに、出来ないじゃないかと。
かといって彼が、無機質の匂いに執着しているというわけでもない。彼はたったひとつ、女の匂いを永遠に保存したいと思って、この店のドアを叩いたのだ。
それは正確に言えば、愛した女の匂いを、である。

いや、それもまた、正確ではないかもしれない。匂いに囚われていた彼は、あの彼女、道端の花売りの若い女にひと目惚れならぬひと匂い惚れした。声をあげる彼女の口と鼻をふさぐという、あまりにも愚かなハズミで彼女をウッカリ殺してしまった。その死んでしまった彼女の匂いを胸の奥深くまで吸い込んで、何の匂いでも判っていると自負していた自分が、きっとどこか、打ちのめされたのだ。
この匂いの記憶を、とっておきたい。
それは、きっと、恋の、愛の感情に他ならないのに、彼はそれが、果たして判っていたのか。
彼女の衣服を破り、ほっそりとした首、淡く煙る脇の下、白く可憐な乳房やなめらかな腹やその下……、そして締まった筋肉のふくらはぎまで、むさぼるようにその肌をブオーブオーと嗅ぎ取っていった彼、このねちっこい描写。こんな行為は、セックスの時にやるものだよ……でも彼は死姦もしないし、最初からそういう頭は全然ないんだよね。それが最終的にはなんかカワイソウになってくるっていうのがね……。

バルディーヌはグルヌイユに香水の街、グラースへの紹介状を書いてやる。あそこでなら浸水式という香りの抽出方法も学べるはずだ、と。
そしてグルヌイユに100種類の香水の調合を残していくことを条件に、彼を送り出して満足してベッドに入った夜、もともとボロだったバルディーヌの店の一角は、パリの川に脆くも崩れ去った。

その頃、もうグルヌイユはグラースの街に向かっているんである。
ところでこのグラース、元々は、なめし皮の街で、その匂いを消すための香水の技術が発達したのだとか。グルヌイユをなめし皮職人にしたのは、そういう含みがあったのかなあ。
しかし、皮の匂いを香水で消すって、聞いただけで、あいまった匂いで具合が悪くなりそう。
まあ、そんなことはどうでもいい。グラースで住み込んだ工房でも彼は勤勉な態度で、すぐに女主人に気に入られるようになり、工房の道具を使って実験を行っても咎められることはなくなった。
そう、グルヌイユは、早速“実験”していたのだ。大きな浸水式の器具の中に、美女の全裸を沈みこませ、その香りを抽出しようとした……。

彼は最初に出会った女以外、直接匂いをかごうとしない。あんなにも匂いに執着していたのに、知識を得る為ではなく、自らが欲する匂いとして殺してまでかぎまくったのは、あの最初の女だけである。
この最初の記憶が、彼の行為に矛盾を落としているのだろうか。
どうにかして女の匂いを保存したいと思った彼、最初はこの地で新たに習得した浸水式を試した。それは失敗した。しかも当然ながら、水に沈められた女は死んでしまった。
次に思いついた方法……匂いを吸着しやすい動物の脂を女の身体に塗りたくってそれを採取、蒸留して抽出するという方法は上手くいった。この時、彼は女を殺すつもりはなかった。というか、香りを採取する相手が死のうが生きようが、そんなことなど考えていなかったということなのか。

ただ、それを最初に試みた娼婦に、「リラックしてくれ。恐怖を感じると、香りが濁る」と言ったのに、脂をこそぐ道具を見た彼女が逃げ腰になって逆ギレしたことから、彼は彼女を殺してしまう。で、それ以降、女を捕まえてはまず殺し、それから香りを採取する作業をするようになった。
これって、彼が最初に言っていたことと大きく矛盾するよね。特に最初の娼婦の女なんて、思いっきり恐怖にさらされてるじゃないのよお。他の女たちに関しては恐怖の前に息の根を止めてしまうからいいのかもしんないけど、でも当然、「リラックスした状態」であるわけもない。

女がリラックスした状態で、いい香りを発散させる状態、それは愛する人に身をゆだねる時だったのかもしれない。
彼が香りを採取しようとした最初、図らずもその状況を再現しようとしていたのかもしれないのだ。
でも、女は彼に心を開かない。たとえ彼が努力して甘い言葉を囁いても、きっと誰一人、心を開かない。
それはたった一人でいいのだ。香りを保存する必要なんかもないのだ。愛する人は、自分に向かってだけ、それを発散してくれるのだから。
彼があの時、一瞬の過ちを犯さなかったら……?

そうして彼は、次々と街の美女たちをその手にかけてゆく。小さなビンに美女の香りを閉じ込めてゆく。ベースの4本を基本とし、必須の4本ずつ、計12本の香りがなければ、完成されない。
その、様々な美女の匂いを天才的感覚で調合し、彼はあの愛した女の匂いを完成させた、のかもしれない。そういう暗示なのかもしれない。最後の最後に、あんなにも執拗に追い続けて手に入れた街一番の美女は、彼が最初に遭遇した彼女と同じ、鮮やかな赤毛なのだもの。
だから彼は女たちの匂いを採取する時に、必ず髪の毛もくぐらせていたのだ。それも、キレイにそりあげて、全ての髪の毛を浸らせていた。

その街一番の美女は、彼の手を逃れるため、グラースを出て、遠く離れた街へ父親と共に避難していた。
なんかね、このあたりで私も気づけば良かったんだよね。この物語は、結局は、ファンタジー。虚構なんだと。そのフィクショナルがどんどん加速していくのが判るのに、あのクライマックスまでそれに気づかなかったなんて。
だってグルヌイユは、この赤毛の彼女の香りを山々を飛び越えてもかぎ分けてしまう。それこそ壮大なるファンタジーさながらの大地を飛び越えて行くカメラワークで、ブワーッ!と山脈を駆け抜けていくことで、それが示されるんだもの。
あまりに、バカバカしいほどに大げさで、そう、バカバカしく感じちゃって、笑ってしまうのだ。
そうだ、この時点で、これは大いなる虚構、皮肉なるファンタジーだと気づかなければいけなかったのに。

父親があんなにも娘を守ろうとしたのに、彼女はアッサリ侵入したグルヌイユの手にかけられてしまう。
しかし、彼の抵抗もここまで、追ってきた警官隊によってついに捕らえられた。
グルヌイユは、美しい女たちを手にかけたことを、必要だったからだと言った。水責めの拷問にかけられても、ただそれだけを言い続けた。
ローラの父、リシは、憎しみにその身をたぎらせているに違いないのに、それを押し殺して、氷のような冷静さで、絶対に許せない彼をじっと見つめていた。
しかしこの時、グルヌイユはもう、完璧な香水をその手にしていた。

騒ぎ立てる群衆の中、彼は引っ立てられ、拷問の末処刑されることになっていた。実はそれはもう、最初の時点で提示されている。鎖につながれた彼が、この忌まわしき殺人犯の処刑を舌なめずりして待っている群衆の中央へと、今まさに引っ立てられていくという場面。
そしてクライマックスを前にして、その場面に戻ってくるのだけれど、驚愕の展開が待っているんである。
彼は、あの美女の香水を撒き散らした。
とたんに、彼を引っ立てようとしていた者たちはひれ伏し、彼に王子様のような衣装を着せ、シンデレラのような馬車でお送りするんである。

なんだなんだと呆然としていると、彼の拷問を待ち構えていたはずの群集も、なにやら様子がおかしくなってくる。どこか歓喜の顔を浮かべる。ざわめく。そして王子様のカッコをしたグルヌイユが台の上に立つと、鉄の棒を持って待ち構えていた執行官はメロメロになって、「この男は無実だ!」と叫ぶんである。
ええっ!?
そうしたら、群集もまた、「無実!」「無実!」と嬉しそうに叫ぶんである。
えええっ!!?? ちょ、ちょっと待って!
グルヌイユはおもむろにハンカチを取り出し、それにあの香水をひと垂らし、そして大げさな身振りで、そう、香水の成分をかぎわける時にしていたように、そのハンカチをバサリ、バサリと振る。そうするともう、群集は、ああーーーっとばかりに倒れこみ、「天使だ!」「天使様!」と彼に向かって口々に叫ぶんである。
なにおおっっ!!!???

そして、あろうことか、この何千、何万の群集が、先をあらそって服を脱ぎ、あるいは隣の人の服を脱がせ、あるいはもう衣服を着たまま性急に、カラミだすのだ。
ちょ、ちょっと待ったー!!!
そんでもって、それをひな壇から見つめていた司祭までもが!!って、だ、ダメでしょ!!!
もう、それこそ3Pだろうが4Pだろうが、手当たり次第に、バルコニーに溢れかえっていた人たちまでも、あまたの、本当にあまたの老若男女が……。

な、なんという画だ……。やってることは愛の行為でも、それがこんな群集でひしめいてやってると、まるで地獄絵図のように見えてきてゾッとする。
これって、エキストラでしょ。全員がそうじゃないにしても、何千人いるのよ。それが、みんな、R指定百花繚乱だよ。よく群集をCGで増やすっていうけど、これは絶対出来ない。だって隅々に至るまで、皆やってるコトが違うんだもん。って、思わず目を凝らして見ちゃったよ。
監督はこの画がやりたくて本作を作ったんじゃないかって、コレを目にした時にはそう、思ったぐらいだもん。
でも……。

思えばこれはトム・ティクヴァなのだ。そらー私は「ラン・ローラ・ラン」「ヘヴン」しか観ていないけれど、判る。それに、「ヘヴン」には、マジひれ伏したもん!
ダスティン・ホフマンなんか、出てるんだもん。それも、いかにも美味しい、スターらしい位置どころで。ついつい、ハリウッド映画のようなつもりで観ていたから、このクライマックスで目を覚まされた。
そう、そんなつもりで見ていたから、あのイキナリのように見えるクライマックスに、戸惑った。これしか方法はないのかよとさえ思った。パゾリーニをやりたいんじゃないの、この場面を作りたいがためにこの映画を語っていたのじゃないかとさえ。

でも自信満々に提示されるこのクライマックスが、更に進んで驚愕度を増していくほどに、ああ、確かにここにたどり着くためにこの映画は存在していたんだと気づく。
それは、このシーンが撮りたいとかそんな瑣末なことじゃなくて、これは、ファンタジーなのだ。ファンタジーが美しいと錯覚しているハリウッド映画への挑戦だと言ってもいい。ファンタジーの中には人間の欲望が渦巻いていて、だからいきなり神を、天使を見るようなクライマックスに、人間の身勝手さをも見る。
しかも、その天使の前で、彼らは交わる。それが神聖で美しい行為ででもあるかのように。
確かにそんな風に、ニセファンタジーの世界では描かれてきた。命が生まれるための行為、それは美しいのだと。しかし天使様はそれを困惑した顔で見つめ、そして目覚めた人たちは……二日酔いから覚めたような、ひどくバツの悪い思いで、自分たちのそのムカつきを静めるためだけに一人の犠牲を用意し、この饗宴に幕を引くんである。
そう、カワイソウなことに、グルヌイユを雇っていた工房のダンナさんが拷問の末自白させられて、吊るされて、メデタシメデタシ?になっちゃったのだ。

そういやあね、言い忘れてた。グルヌイユには体臭がない。それを、彼はグラースに向かう旅の途中、突然気づいた。そして愕然とした。誰にも気づかれない彼。絶対の孤独。それは見事に、天使に祭り上げられたクライマックスへとつながっている。
匂いは、その人自身の最も直接的なアイデンティティ。聴覚や視覚がない人はいても、嗅覚がないって人は、そうはいないから。生々しく、性的ホルモンを発散させ、異性を、時には同性をも惹きつけるもの。誰しもに、ある筈のもの。
彼には体臭がない。さらりと語られるけれど、これってありそうで、ありえない設定だ。体臭のない生き物なんて、ありえない。つまりこの時点で、彼は既に、天使の称号を与えられている。

でもそれを、グルヌイユは孤独としてしか受け取らない。彼にそこまでの哲学的な思想がめぐっていたかどうかは判らない。ただ彼が匂いフェチであるから、自分自身にそれがないことにショックを受けただけかもしれない。
でも、彼が匂いに惹かれるのは、何にでも、有機質でも無機質でも、匂いを持っている、それこそが何よりの存在意義だと無意識に思っていたからでしょう?銅やガラスから匂いが抽出出来なかった時の落胆を思い出せば、匂いのないモノなんて、彼にとってはありえない筈だ。
つまり、匂いのない自分は、存在意義がない。自分自身はこんなにも匂いを愛しているのに、その愛しているものがひとかけらも自分の中にないなんて……。幽霊よりひどい。無だ。誰の目にも見えない。

最初の見え方ではね、街の美女たちの匂いを絶妙に調合して、天使のエッセンスを作り上げ、それに街の人々がひれ伏した、という図に見えたの。
でも、グルヌイユが最初に出会った、あの街角の花売りの娘、その愛した女の匂いを完璧に調合したと思って、彼がそれを身にまとって死んでゆこうと思ったならば、これってこんなに皮肉なことはないじゃないの。
ただ一人、愛した女とこんなに努力しても一体になることが出来ず、体臭がない、誰からも存在を認識されない自分がイヤだったのに、更に無機質の天使に祭り上げられてしまう。

街で一番の美女の、最愛の娘を亡くした男でさえ、自分を憎んで“くれて”いたのに、彼だけが最後の砦だったかもしれないのに、その彼でさえグルヌイユの前にひれ伏するのだ。
人を憎むことは人を愛することより、その相手を強烈に具現化すること。絶対的孤独を抱えたグルヌイユにとって、何より嬉しい相手であった筈。その彼でさえ、正気を失った。グルヌイユに向かってわが息子!と叫んだ。グルヌイユの視線がさまよい、涙を流したのは、どうしようもない孤独を悟ったからじゃないのか。
だってグルヌイユは、彼の目の前の群集のように、女を抱くことさえ知らないのだ。それが肉欲であれ、(一応)愛の行為であれ、知らないのだ。どこか呆然とその光景を見つめる彼が、なんと哀れに見えることか。しかもシンデレラのような馬車に乗せられて、マヌケな王子様のカッコで!

グルヌイユは、とぼとぼと故郷の街に帰る。そして、頭から残った香水をふりかける。と、あの群衆たちより更にアグレッシブに、人々が彼に飛びついてくる。
そして彼の上に山型に積み重なった群集がいなくなった後には、すっかり食べ尽くされたあとの、残骸だけがあった。
食べられて死ぬのは、自分の存在を認められる最大級の賛辞。でもそれも、合成の天使の匂いを借りなきゃいけない。
「彼は生まれて始めて、愛のためにそうした」
生まれ故郷の人々への愛。向こうがそれを認識していなくても。なんと切ない片思いだろう。

物語の最初に提示される、腐敗した魚市場の悪臭と、グルヌイユが美女の匂いに執着するくだりへの対照が鮮やかである。
そして彼が、いい香りといやな匂いを区別しなかったことも、大きなポイントである。
美女の匂いったって、なんたって人間の匂いなんだから、美味しそうな食べ物の匂いや、華やかな花束の匂いのように甘美なものではないはずである。
もしかして、最初に示されているような、魚の腐ったようなあのパリの街の悪臭と、さして変わらないかもしれない。
だって彼は、その美女を捕らえて、別に身体をキレイに洗うこともなく、そのままの彼女の身体に油を塗りつけ、女そのものの匂いをはぎとったんだもの。

処女だから、女という生々しさには当たらないのかもしれない。
でも、だからこそ、全ての欲望が未使用のまま凝縮して閉じ込められているともいえる。
熟成されてはいないけれど、とてもフレッシュなままで。
そして彼が女から全てを搾り取って放り捨てる時、その一糸まとわぬ姿は衣服を着て生きていた時より、神々しい美しさを感じるのだ。
現世への煩悩を象徴する髪も、きれいにそり上げられている。そう、神に仕えることを決意した聖女のようなのだ。 それこそ、全ての欲望を捨て去った、ホンモノのバージン。

だから、グルヌイユは天使というより、神を象徴していたと言った方がいいのかもしれない。
だって、彼をあんなにも憎んでいたあまたの群集が、まるで奇蹟を見たようにひれ伏すんである。天使というにはちょっと弱すぎる気がする。
しかも王子様よろしく、馬車に乗って、青くドレスアップして現われるのだから。
しかも、人々のあくなき欲望を見せつけられた彼は、どこか魂が抜けたようになって、生まれ故郷に帰り、そこで自らの肉体を民衆に差し出して、満足げに息絶えるのだから。
自分の肉をパンに、血をワインに見立てた西洋の神を、思い出さずにはいられないではないか。
そしてあの西洋の神は、確かにそんな風に、どこかムチャでワガママで、残酷だった。
太宰の書いたユダを思い出す。

それにグルヌイユを産み落とした母親、これまでも魚を売りながら何人もの赤ちゃんを産み落としては殺してきた母親、そりゃ、聖母マリアとは程遠いけど、でもだからといって彼女が売春婦とか、男にだらしない女とかいう風に描かれるわけではなく、ただ、この爛れたパリの片隅で大きなお腹を抱えて懸命に生きて、でも一人じゃどうしようもなくて、そのまま放置した、そうとしか見えないのだ。
つまり、ここに赤ん坊の父親の影は、ないんである。
しかもかのお人もまた、厩という俗世の吹き溜まりに産み落とされたではないか。
そして、聖母マリアは彼をこの世に送り出した人物として重要なんであって、その母としての愛が、重要なわけではない。
そこまで考えるとあまりにうがちすぎだけど、でもそこまで考えてしまうと……神学的なことや、フェミニズムのことに関して、凄くシニカルに思えてきちゃうのね。

しかし、この映画を、全国公開規模、大スクリーンで観るっていうのは、なんか違和感なんだよなあ。
どうしてこれが、英語劇で作るっていうトコに渡っちゃったんだろ。そして、こんなメジャーな展開になっちゃったんだろ。
私は知らなかったけど、世界的大ベストセラーだってんだから、そうなるのは仕方なかったのかなあ。でも、ひそやかさが失われてしまった気がして仕方がない。
フランス語の響きは文学的、そして、アカデミック。英語には余地も余暇もない。
しかも舞台はパリ。愛が、哲学が、男が、女が、いや人生そのものが、残酷であると歌い続けた街なんである。
どうして、高らかに歌い上げるようなアメリカンイングリッシュを持ってくることが出来ようか。
んでもって、原作はドイツ文学。これも深く納得。
この強烈な厭世とシニカルは、ドイツだよなあ。
だから、監督に、ドイツ人のティクバ監督なのだね!

主人公、グルヌイユを無名の俳優が演じる意味を重く感じる。誰も見たことのない神なのだから、彼は。
頬骨がゴツリと張り出したストイックな輪郭に、ギラリと光る緑色にも見える大きな瞳。そして、やせこけた身体に痛々しく刻み込まれるアザ。何もかもが、強烈に印象に残る。
しかし、香りを扱う耽美な物語なのに、彼のツメがいつも真っ黒なのがどうもね……。あれだけで、触れた対象物の匂いが変化しそうじゃん。
そして、最後の美女、ローラの父親リシを演じるアラン・リックマンのさすがの存在感と、いつのまにやらすっかり年をとってしまったことに軽くショックを受けるんである。いや、相変わらずシブくてステキだけどさ。★★★★☆


バベル/BABEL
2006年 142分 アメリカ カラー
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 脚本:ギレルモ・アリアガ
撮影:ロドリゴ・プリエト 音楽:グスターボ・サンタオラヤ
出演:ブラッド・ピット/ケイト・ブランシェット/ガエル・ガルシア・ベルナル/役所広司/菊地凛子/アドリアナ・バラッザ/エル・ファニング/二階堂智

2007/5/29/火 劇場(渋東シネタワー)
バベル、それはあのバベルの塔。
世界はひとつの言葉によって成立していた。神に近づこうとした人間が立てたバベルの塔に怒った神が、言葉を乱した。だから世界中にたくさんの言葉が生まれた。聖書に書かれた伝説。
言葉は確かに世界を隔ててる。人間を隔ててる。でも今は言葉以上に隔てているものがたくさんある。
それに、言葉はアイデンティティの一つであるとても美しく尊いものだし、それが神の怒りによって生み出されたのなら、神こそが傲慢だと言うしかない。と、言っているようにも思ってしまうことこそが傲慢なのだろうか。
もっと言ってしまうならば、それはそんな神への挑戦。神がいなくても、人間はつながれる。言葉が違っても、全てが違っても。

一丁の銃が生み出す悲劇、それはほんのちょっとだけ「ミッシング・ガン」を思い出させた。それが世界スケールになりシリアスになるとこうなる、みたいな。
元をただせば一丁の銃、それだけが、一方ではどこかシニカルでユーモアを含んだ物語になり、一方ではこんな壮大な、人間がどう生きるべきかなんていう物語にもなる。
でも根っこは案外、一緒な気もする。
本作の一丁のライフルの持ち主は、富裕な日本人、綿谷。それがモロッコのガイドの手に渡され、知人に売られ、男の子がゲーム感覚で撃ち抜いたバスの中のアメリカ人女性に当たった。
その夫妻の子供二人を預かっているメキシコ人女性アメリアは、息子の結婚式に出席するため、替わりの子守りが見つからないもんだから二人をつれて国境を越え、不法入国者としてつかまってしまう。
そしてライフルのもともとの持ち主綿谷の娘、チエコは聾唖の女子高校生。母親が自殺してしまった彼女は父親と二人暮し、このきらびやかな東京で表面上はいかにも今風な女子高生ライフを謳歌しているのだが……。

アメリカ、メキシコ、モロッコ、そして日本。舞台を様々に移し、時間軸も様々にズレて描かれていくこの物語。デビュー作の「アモーレス・ペレス」は観ていないけれども、「21グラム」でアゼンとした時間軸のジグソーパズルはここでも健在である。
様々な舞台の中でも日本、いや東京編というべきか、が一番異色、というか浮き上がって見える。それは日本人の目で見るせいだけではないように思う。いわゆる日本描写の違和感というものを感じることはそれほどないんだけど、東京パートだけが明らかにカラーが違うように感じるのだ。
日本→東京→渋谷。なんかもう、連続するひとつのイメージ。そんなイメージを一気に決定づけた「ブレードランナー」は、あれは新宿っぽい感じもあったけど、今はもう渋谷がひとつの文化圏を作っていることが世界中に知られているから。今回の撮影では許可が全然下りずに苦労したということ、それをもっと自覚してフィルムコミッションをしっかと機能させてほしい。石原都知事も口ばっかりなんだもん。

で、今回の賞レースを騒がせたのが、最終的にオスカーのノミネートまで果たした東京編の菊地凛子。=菊地百合子。んん?見た名前だなあ……っと、「空の穴」のヒロイン、寺島進がホレてしまう女の子、そうか!おっどろいた。他の作品はあんまり観る機会がないのばかりだったけど(石井克人監督とか、苦手だから避けてたし……)、「空の穴」の、無意識なファムファタルとでも言うべき彼女のことは強烈に印象にある。
だけどなんか、全然顔が違って見えるなあ。いやまあ、あれからもう何年も経ってるし、まさかその彼女が女子高生やるなんて思わないしなあ……。
障害者、あるいはハダカになること(それがイコール体当たりの演技とされてしまう)、オスカーへの近道がすんなりそろったこの役がノミネートされたのは、確かに判りやすいっちゃ、判りやすい。この物語の中で確信犯的な浮き上がり方をしている東京編の中で、とても女子高生には見えない(少なくとも日本人である私たちの目からは)彼女は、独特の浮き上がり感を醸し出しているのだから。
でもそれが、いわばハッピーな映画でポジティブな役へのアプローチをした「ドリームガールズ」の方にオスカーが(しかもシリアスな役柄が好まれる助演賞が)渡ったというのも、ある意味皮肉だけど。

私はやっぱり、いつも魂から突き上げるような演技で心を震わせる、ケイト・ブランシェットの素晴らしさに、いたく感嘆するんである。本作の中では、彼女が一番素晴らしいと思った。
二番目は役所さん。彼は登場シーンがかなり少ないんだけど、それでこの存在感と強印象である。湧き上がる感情を抑えた静かな表情で、刑事に「もうほっといてくれないか」というエレベーターホールでのシーン、ああやっぱりさすがだなあ……と思う。

さて、それぞれの話を進めていくと……ブラッド・ピットとケイト・ブランシェットが演じる夫妻はモロッコに旅行に来ているのだけれど、どうもただならぬ空気なのであった。
奥さんはなんだかイラついてちょっとしたことで涙ぐみ、そんな彼女をもてあましている感じの夫。
後に明らかになることだけれど、夫妻の三人目の子供が、恐らく乳幼児突然死症候群とかだと思われるが、生まれてほどなくして死んでしまったのである。
そのことから目をそむけた夫、そんな夫に苛立ち、自責の念にも苦しむ妻。
そんな彼女が、どこからか降ってわいたような銃弾に肩を撃ちぬかれてしまうのだ。
砂漠のど真ん中。病院のある街まで行くには何時間もかかる。通訳の勧めで彼の住む近くの村に立ち寄ることになる。そこなら医者がいるから、と。

こういう状況だからムリもないとは思うけれど、こういう状況だからこそ、常日頃思っていることが表面化するんである。
彼女は、異国の人間が信じられない。
それは、言葉が通じないという以上に、野蛮な、文化の低い、こんなところに暮らしていて平気な人間、とでも思っているってことがアリアリなんである。
医者がいる、と言ったのは、実は獣医だった。そのことに呆然とする夫妻だけれど、そのこと自体が根本的に傲慢ってことかもしれないのだ。
だってその獣医はきっと、病院もないこの小さな田舎村で、人間も含めてここで暮らす全ての生命を救っているに違いないんだもの。

ここではパソコンも携帯電話も役に立たない。一緒にバスに乗り合わせた同国人でさえ、自分たちが巻き添えを食ったことにあからさまに迷惑顔で、「最近は旅行者皆殺しのテロがある」なんて、起こるかどうかも判らない推測を、一人の命が消えかかっていることよりも重視するんである。
夫は必死に大使館に連絡をとるんだけど、こっちもお寒い対応しかしない。自分たち国民を救ってくれるのが大使館のはずではないか。なのに「政治的問題」を優先し、国民一人の命はその前に脆くも崩れ去ってしまう。
この“獣医”が止血をするために傷口を縫ってくれなかったら。そして苦しむ彼女を部屋の隅からじっと見守る老婆が、優しく髪をなでながら意味が判らないけれどなぜか安心する言葉をかけつつ、アヘン(恐らく)で彼女の苦痛を和らげなければ、彼女はきっと死んでいたのだ。

奥さんは当初、話し合いをしようと連れて行かれたここモロッコで、決して氷(水)を口にしようとはしなかった。そして、いかにもアメリカ的な「なるべく脂のないもの。ダイエットコーク」なんていう、あるわけないメニューを口にしたり、傲慢な文明人そのものだった。もちろん、個人的な悲しみでイラついてたってことはあるにしても。
彼女がようやく変わったのは、瀕死の怪我をしてどうしようもなくなってガマンの限界で、ケンカしていたダンナの腕の中で小用を足してしまった時だった気がする。
リラックスさせるために、彼は妻を抱きしめてキスをして。いや、リラックスさせるため以上のものがあった。こんな状況でこんな場所じゃなきゃ、こんなことありえない。お互いに100%信頼していなきゃ、ありえない。それが文明の国では凄く凄く、難しいのだ。
本当は、簡単なことなのに。
彼らを助けるために自分の村に連れてきた通訳の男性が、「(子供は)二人だけ?もっと作るべきだ」とか「奥さんは一人だけ。養うのは一人が精一杯」と笑うのが、本当にシンプルでハッピーな理由で、そうだよね、結局はそれだけのことなのに、どうしてそんなに難しく考えちゃうんだろうって、思うんだ。

そして、その彼女を撃ち抜いた銃弾、なんである。
昔ハンティングにこの国を訪れた綿谷が、いいガイドだったからと、役に立ったからと、世話になったからと、いわば豊かな国の上から目線で賜われたライフルは、そんな贈り主の思いなどあっさりと吹き飛ばされて、いい値段で売買された。
それは売り主にとっては生活が豊かになるカネになり、買い主にとっては家畜を荒らすコヨーテなどを駆逐する、ということ以上にステイタスの心の方をくすぐったに違いない。
そんな気持ちを、正直な子供たちは隠すことなく示してしまう。大人たちは明らかに見せびらかしたがってる自尊心も隠すだけの自制心はある。それならば、最初からそんな自尊心を持たなければいいだけの話なのだが。
だって、「音だけで威嚇することが出来る」っていう理由でライフルを持つのは、おかしいもの。そういう理由ならコヨーテを駆逐する方法はほかにいくらだってあるはずだもの。

幼い兄弟の、弟の方が射撃の腕が良かった。それもまた悲劇の引き金を引いた。納得のいかない兄は何とか弟に勝とうとした。コヨーテ、遠くの岩、そして、はるか下に見えているバス。
3キロ先も撃ち抜くことが出来る、という触れ込みが、いつしか3キロ先のものがただの射撃の標的でしかなくなったことに、まだ子供である二人は気づかなかった。
バスの中に人間がいることぐらい、判ってるはずなのに、思いもしなかった。
それは、まるで戦争、いや、今で言うならテロリズムそのものだ。
実際、彼らが撃ち抜いた銃弾がアメリカ人女性に重傷を負わせたことで、これはテロなんじゃないかと世界中に打電される。遠くから、無差別に、見えない敵の命を狙う。その条件がそのままテロリズムだから。
文明の利器は、少年の単純な自尊心をカンタンにテロリズムに変えてしまう。

バカなことをした息子たちを父親は当然激しく叱るのだけれど、それが「姉のハダカを覗いた」ことと同列にして叱られるというのが……まあ、彼らの価値観ではそれもまた一方でとんでもない罪悪なのかもしれないけれど、どこか滑稽で、そして、結局は異国人の死など他人事なのだという本音も見え隠れしているように思う。
息子の撃った弾がこともあろうにアメリカ人に当たって死んでしまった(いや、死んでないんだけど)ことは、運が悪かったぐらいに思っている。
当然、捜査の手が動き出す。ライフルのもともとの所持者である綿谷のいる日本にも手が及ぶ。
しかし、“テロリスト”を追って、まだ確証もない容疑者に容赦なく発砲するモロッコと、「法に触れることはないと思いますが、伺いたいことがあるので明日麻布署に出頭してください」などとどこかノンビリとしている日本とでは、事件への立場が違うにしても、事態への危機感にあまりにも差がある。

捜索隊に追われる少年二人と父親、弟は自分の腕を過信してしまったのか、この追っ手に銃を向けてしまうのだ。
そのことがどんな事態を招くか、大人なら判っているのに、彼には判らないのだ。
この文明の利器が自分たちを救ってくれるとでも思ったのか。それは身の破滅しか招かないのに。
兄が撃たれた。動かなくなってしまった。息子を抱き抱え泣き叫ぶ父親。呆然とする弟は、ようやく銃を捨て、投降した。
「お兄ちゃんを助けて!」と……。

そして、東京、渋谷の街。綿谷の娘、チエコは同じ聾唖の友人たちと、しかし外見上はほかの女子高生たちとなんら変わることなく、明るく興じている。
カッコイイ男の子に目配せしたりもする。でも健常者のナンパのようにそれは上手く行かない。
言葉が通じれば、つまり同じ国、同じ民族なら通じ合えると思っていたことも崩壊する。いや、そう思っていたことが人間の傲慢であったことに、今ようやく気付いている。
それを象徴するのが、この東京編なのだ。
ゆっくり喋れば唇を読み取れるし、筆談だって出来るのに、聾唖だと知った途端、カワイイ女の子だと思って近づいてきた男の子たちは、「バケモノを見たような顔」をして去って行くのだ。
自分と、少しでも発音が違うだけで、もう言葉が、気持ちが通じない、
ここではそれを判りやすく聾唖者として描いているけれど、地方の訛りだっていまだにそういう範疇に入るし、あるいは日本に住む外国人たちだってそうだ。いまだに英語だって、「バケモノみたいに」避けられてしまう。

そんな男の子たちに憤り、「バケモノみたいな目で見てた。ホンモノのバケモノ見せてやる」とパンツを脱ぎ、ミニスカートの足を男の子たちに向かって開いてみせるチエコ。後に全裸になるシーンがあるにしても、ロリな女子高生ファッションのミニスカートからヘアが隠微に覗くこの場面は衝撃である。
チエコは一見、そんな強気な、だけど明るく友人たちと接している普通の女の子に見えるんだけれど、なんだかちょっと、壊れている。
歯医者で治療する医者にキスしようとしたり、その手をスカートの中に誘おうとしたりする。
しかし、マスクもせず、しかも顔を近づけて治療する歯医者はいないと思うが……。
そして、“理解ある”男の子たちと、酒やドラッグにムジャキに興じ、クラブで踊りまくる。
突然の静寂とがなりたてられる音楽が交互にやってきて、そして明滅、耳の聞こえない彼女と少女の揺れ動きに合わせたようなめまぐるしい描写に、グラグラする。
友人はチエコの目の前で男の子をつかまえて、すっかりイイ雰囲気になってる。
興醒めしたチエコは家に戻り、父親を訪ねてきていた若い刑事を呼び出すんである……。

綿谷は刑事に問われて言った。「ハッサンはいいガイドだった。だから私は彼にライフルをあげたんだ」そして、「ハッサンは無事なのか?」
彼は決してかの国の人たちを見下してはいないはず、なんだけど、いいガイドだった、だから報酬としてあげたんだ、という流れはやはり、雇用した人間という意識が見え隠れする。
しかも彼が今いる豊かな日本、きらびやかな東京だから、余計にその感覚が強く感じられるんである。
実際、三つの地点で描かれる物語の中で、東京が一番異色である。テレビゲームの中のようなこの虚飾に満ちた都会は、そこで心臓がちゃんと鼓動を打っているのが不思議なぐらい、現実味がない。電飾の中に浮かんでいるような高層高級マンションの、その夜の中に張り出したベランダから飛び降りようと銃で頭を撃ち抜こうと、生命がそこにいたという現実味がないのだ。
そう、彼の妻は頭を銃で撃ち抜いて自殺した。その第一発見者が、娘のチエコだった。

それが本当に自殺だったのか、警察から散々絞られたらしい。今回の刑事の訪問もそのことだと思って、チエコは“好みの”若い刑事を呼び出し、母親はベランダから飛び降りて死んだ、それを私は見ていたんだと言う。思いも寄らない話をされて若い刑事は面食らう。しかも彼女は突然ハダカになって、彼の手を乳房に触らせ、すがるような目で誘いをかけるのだ。
でも、こんな現実味のない夜景に浮かぶ高層マンションで、この少女が一糸まとわぬ姿でいても、そのすらりとした肢体はまるでアニメのフィギュアのように見えて、その中で本当に内臓が息づいているのか、ナイフで切り裂いて見たくなる。そんな恐ろしい考えが芽生えることに戦慄し、それこそが、都会の、東京の恐ろしさなのかもしれないと思う。
耳の聞こえない少女は、それをより本能的に察知しているように思う。母親の死の原因さえ偽ったのは、そのせいなのか。どうでもいいのだ、結局はそんなこと。ハダカになってセックスしなけりゃ生きている意味さえ感じられない気がするなんて。

そして、この銃の問題からは少し離れたところにあるのが、あのアメリカ人夫婦の子供たちの面倒を見ているメイドのアメリアである。メキシコからアメリカに働きに出てきているアメリアは、前々から息子の結婚式に出席したいと“旦那様”に申し出ていた。しかし妻とモロッコに旅行中の彼は、最初こそ替わりの子守りを見つけると言ったものの、見つからないからそのまま留守を守っててくれと言うんである。
息子の結婚式だよ?それなのに子守りが見つからないという理由だけで、金は出すからと言って、それで解決出来ると思う裕福なアメリカ人の傲慢さ。
いや実は、この時には先述のように、本当に大変なことになってて、雇用主である彼がそんな傲慢な気持ちで言ったわけではないことが後には明らかになるんだけど、でも結局理由や状況はどうあれ、そういう気持ちが根底にあるからこそ、こういう事態を招くってことなんだよね。

迎えに来た甥は自分の友人に預けようかと言ってくれるんだけど、見知らぬ人に大切な子供たちを預けるわけには行かない、とやむなくメキシコに連れて行くことになる。
そんな彼女の“親心”が裏目に出た。
メキシコでの結婚式も盛況のうちに終わり、彼女も幼なじみと再会してちょっとイイ感じになったりして楽しく時を過ごしたのに、甥が車で送っていくその国境越えのところで彼が不心得をおこし、警備隊に追われるハメになったのだ。
彼が酒に酔っている時点でヤバイと思ったけれど、メキシコとアメリカの国境はそれでなくても、子供たちの人身売買や密入国で厳しくとりしまられてる、らしい。
警察をまいたら迎えに来るからと、砂漠の真ん中でアメリアと二人の子供たちはおろされてしまう。当然、朝になっても甥が迎えに来る気配はない。そのまま逃げたのか、それとも警察に捕まってしまったのか……。

夜、漆黒の闇の中、四方の感覚がまるで判らなくなるのも恐怖だけれど、朝になって見渡す限り荒涼とした砂漠で、車の轍の跡はかすかにあるものの、道らしい道もないこの光景に取り残される恐怖といったらない。
しかも大事な子供たちを預かっているのに!
しかしそこに、ようやく車が一台やってきた。しかしそれは、警察の車。子供たちが砂漠に残されているんだと必死に叫んでも、アメリアは“容疑者”として逮捕されてしまう。密入国者だと疑われて連行され、不法就労者であることが判明して、本国に強制送還された。16年間アメリカで真摯に働き、生活の基盤もしっかりとあるのに。

アメリカはそれを知っていながら見過ごしてきたのだし、そして彼女たち不法就労者もそういう暗黙の了解があるんだという認識でアメリカで生きてきた。
でも結局、いざとなれば簡単に放り出されるのだ。アメリカにしてみれば、そんなことは判っていただろうというところだろう。だからヘタな動きをしなければいいんだ。大人しくしていれば目をつぶっていてやったのに、と。
実際、そういう持ちつ持たれつの関係、でもそれがいつしか権利のように思って、思いがけず裏切られたように愕然とする。
どちらが悪いというわけではない、のだろうか。じゃあどちらも悪いのだろうか。
気の毒なのは、アメリアのようにそこまで深く考えずに、いわば先人の後を習って自分の家族のために出てきただけの人間である。
でもそれは、彼女が言うように、悪いことをしたのではないけれど、愚かだったということなのだ。そして時に愚かということは、自覚している罪よりも深い厳罰を下される。
人生を生きていくためには、賢く生きる努力をしなければいけない。前例を信じるばかりに、文明を信じるばかりに、努力を怠った愚かな人間の中の、運の悪い何人かが、こんな風にワナにつかまるのだ。

そして、何とか助け出された、らしい(台詞だけで言われるから判然としない)箱入り娘、箱入り息子で育った二人の姉弟。
「メキシコは危ないところだって」両親から言い聞かされている、という台詞で、彼ら両親が使用人のふるさとを何の疑問もなく見下していることが判る。
そんな風に育てられた子供たちだから最初、かなり臆している。鶏の首をひねるおじさんに固まっちゃったり。でも子供の素晴らしいところはその順応力。華やかな結婚パーティーに大盛り上がりなのだ。
でも、一番哀しいのは、アメリアが自分の子供同然だと大切に思うほどの気持ちを、どうやら二人は持っていないことである。
多忙な両親の替わりに育てたような子供たちだけど、結局は子供たちにとっても彼女は単なる使用人に過ぎず、彼女が思うほどの思い入れはないのだ。
そしてアメリアは、子供たちに別れを告げることも、雇用主に長年の礼を言うことも出来ず、強制送還された。

ラストシーン、夜のきらびやかな電飾の中に張り出した船のようなマンションのベランダで、一糸まとわぬ姿でぼんやりと宙空を見ている娘を見つけた父親、振り返る娘はふいにくしゃっと泣き顔になって、父親の胸に顔を埋める。
どこか戸惑いながら、しかし生まれたままの姿の娘をしっかりと抱きとめる父親。
それだけで、いいのだ。解決方はそれだけで、と言っているような気がした。

本作は、カンヌで監督賞を受賞。まさに監督賞って感じ。このまとめあげる豪腕。
一丁の銃が狂わす。一人の人間どころか、世界を。それを人間はあまりにも自覚しなさ過ぎなのだろう。そう言う自分が一番自覚していない、とぼんやりと考えていた。★★★☆☆


パンズ・ラビリンス/El LABERINTO DEL FAUNO
2006年 119分 スペイン=メキシコ カラー
監督:ギレルモ・デル・トロ 脚本:ギレルモ・デル・トロ
撮影:ギレルモ・ナバロ 音楽:ハビエル・ナバレテ
出演:イバナ・バケロ/セルジ・ロペス/マリベル・ベルドゥ/ダグ・ジョーンズ/アリアドナ・ヒル

2007/10/31/水 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
私、こんなに本気で映画の中の人物をぶっ殺したいと思ったことない。ホントにスクリーンの中に乗り込んでいって、ブチ殺してやりたいって、心底思った。何で、何でコイツが最後の最後まで生きてるの。どうして、周りの誰かがコイツをぶっ殺さないんだ。なんでコイツのために、コイツの勝手な思いだけで、なんで、なんで、なんで!!!って。
でもそれが、時代というものなのか。時代というものが、こんな信じられない男を生み出すということなのか。そういう意味では彼は時代の犠牲者なのか。いや、でも、たとえそうだとしたって絶対絶対許せない。映画だって、フィクションだって、しかもこの映画なんてすこぶるファンタジー入ってるし、そう思っても、どうしても、やりきれなかった。

舞台は1944年、スペイン、独裁者フランコ将軍の圧政下。そのファシズムに心酔するビダル大尉の駐屯する山奥に、少女オフェリアは身重の母と共にやってきた。優しい仕立て屋の父は、内戦で命を落としていた。
ビダル将軍は新しい父であり、お母さんのお腹の中の赤ちゃんの父親。内戦は終結していたけれど、その圧政に反発するゲリラたちが抵抗を続けており、その駐屯地は決して安住の地ではなかった。しかしこのビダル大尉、そんなことはお構いなし。少しでもゲリラの疑いのある者がいると、躊躇なくぶっ殺せばいいと思ってる冷酷人間。だから、こんな長旅に臨月の妻を迎えるなんてムチャをした。

ビダル大尉が最初の横暴な人殺しをするシーンで、もう目を覆いたかった。ただウサギを狩猟していただけの父子を、銃声が聞こえたという理由だけで捕らえ、よく調べもせずに、まず息子に酒瓶をぶち割った破片を顔面にぶち込み(うわっ)、それを見て人殺しと叫んだ父親に銃弾を容赦なくぶっ放した(……)。
その後荷物を調べたら彼らの言うとおり仕留めたウサギが出てきても、「私を呼ぶ前に良く調べろ」と言っただけで(おめーが調べろよ!)眉一つ動かさず、後悔する表情のひとつも浮かべずにその場をザッと立ち去った。

サドなのだ。たくさんの拷問道具を用意して。ゲリラの一人、吃音症の男を捕まえて、三つまでつかえずに言えたら解放してやる、と出来っこないことを判ってて、いたぶるように言う。そして案の定失敗した彼にズラリと並んだ拷問道具を見せて、これを使う頃にはお前は真実を喋る、これを使う頃には私たちとの絆が生まれる、とか、ここでも眉ひとつ動かさずに言うのだ。
むしろ喜びの表情でも浮かべていたら、ただ単にヘンタイ!と蔑むことも出来たのに、コイツはマジで、それを信念でやっているのだ……ああ、吐き気がする。こんな男が存在を許される世界があるなんて。

そうなの、観るまでは、これは単なる悪夢系ファンタジーだとばかり思ってた。コアファンがいるらしいこの監督さん、私は初見……と思ったら、「ミミック」で観てた。全然覚えないなあ、と10年前のメモをひっくり返したら、最低点つけて、思いっきりクサしてた(笑)。ので、全く先入観ナシに臨んだんだけど、最近のファンタジーノベルの大作映画化の流れを汲む系統だとばかり思ってた。
でも、全然違ったのだ。
少女オフェリアが入り込む悪夢の世界は、そりゃ確かに彼女は夢見がちな少女ではあるけれども、でもやっぱり、この時代だからこそ見てしまう幻想であり、彼女が平和な時代に生まれていたら、こんな夢を見る必要だってなかった筈なのだ。

オフェリアは、夢に救いを求めている。彼女の不安を映すように、その夢の世界は決して明るくバラ色に満ちてはいない。
呼びに来る“妖精”は不気味な昆虫の姿をしていて、オフェリアが妖精の姿を絵本で教えてやると、何とか人型に姿を変えるというのも不気味である。
そして、オフェリアが導かれるのは、地下室のような暗い場所で、おどろおどろしい怪物めいた牧神=パンが、あなたはモアナ王女の生まれ変わりだ、あなたのことを何世紀も昔から王様はお待ちになっていた、というのだけれど、このパンは外見からしてアヤしいし、その王様にすぐには会わせてくれなくて、彼女に試練を課すんである。本当にあなたが王女様であるかどうかを確認するために、と。
このパンが一体味方であるのか敵であるのか、どうにも判然としないのね。優しさとイジワルが表裏一体。牧神というのがそもそも、善悪全てを包括し、創造を破壊を生み出す申し立て者として定義されているんだという。そうか、確かになるほどであるのだ。

オフェリアは、最初からこんなところに来たくはなかった。お腹に赤ちゃんのいるお母さん、カルメンと共に遠路はるばる森の奥まで新しいお父さんの元にやってきたけれど、見た途端にこの新しいお父さんと相容れないことが判った。彼女はお母さんに聞くんである。どうして再婚したのかと。お母さんは弱々しく答えた。一人じゃ寂しいのだと。
寂しい、というか、心細い、と言った方が正しい表現かもしれない。つまり、ズバリ経済的理由である。今の時代ならば、彼女のような愚かな選択をするとは思えない。いや、するだろうか。女は時々愚かに弱くなる時があるから。
でも、よりによって選んだ男が悪かった。いや、選んだ、のだろうか。なんか最初からこの男に狙われていたような気がする。位だけは高い男、大尉。しかし情勢は不安定で、独裁軍事に反発するゲリラが彼らの失脚を狙って暗躍している。

オフェリアは早くから、女中のメルセデスがゲリラの味方をしていることを見抜いていた。でも勿論それを、口外することなんてしなかった。大好きなお母さんにだって言わなかった。だからこそメルセデスは、彼女を小さな女の子ながらも、仕えているお嬢さんながらも、同志として信頼し、最後まで彼女を助けようとしたのだ。
本当はこんな小さな女の子が、そんな大きな信頼を負わされる必要なんて、ないのに。そんなの、名誉でもなんでもないのに。

正直メルセデスの行動は、協力していた医師が忠告したように、あまりにも無謀だった。数が絶対的に足りない。負け戦だと判りきっていると。
それはスクリーンのこちら側の観客も、痛切に感じていたことだった。お願いだから、このいたいけな少女を巻き込まないでと思ってた。
でもメルセデスは諦めず、それまでに医師もまた自らの信念を貫いて、ビダル大尉の銃弾に倒れてしまう。
しかしメルセデスは最後には私の願い、このサイテー男をぶっ殺せという願いを叶えてくれる。でもその時にはオフェリアは死んでいる。この男にぶっ殺されている。たとえ幻想世界で救われても、それじゃ意味がないんだ……。

あなたの未来が示されていると言ってパンから手渡された分厚い本は、真っ白だった。しかし一人バスルームにこもって見ると、そこにみるみる絵と文字が現われ始めた。バスルームに少女がたった一人というフェティシズム。屋敷の中で一人きりになれる、たった一つの場所。
でもオフェリアがある時、いつものようにその本を開くと、そこに真っ赤な血がみるみる広がる。ドアの向こうから悲鳴が聞こえる。オフェリア、助けて、と。大好きなお母さんが、下腹部を真っ赤に血で染めていた。
たとえ未来が示されていたって、どうしようもないことがある。ただ残酷に目の前に広がるだけの光景を、どうしようも出来ない。

お母さんとビダル大尉のなれそめは、特に描かれることもない。パーティーの席で客に促がされ、彼女が頬を染めて披露しようとすると、この冷酷男がさえぎり、「パーティーに慣れていないので、くだらない話をしてすまない」とか、しんっじられないことを言ったりする。それのどこがくだらないんだよ!
こんな具合に最初から最後まで、この男に妻への愛情を感じることは微塵もない。大体、臨月の状態の彼女を車での長旅でムリヤリ連れてこさせること自体酔狂だった。
この時代は、車の衝撃は尋常じゃなかったから、ビダル大尉の元に詰めている医師は、ムチャだと恐る恐るながら忠告した。しかし彼は平気の平左で、それを診るのがお前の仕事だろうと言うんである。そしてこともあろうに、もし危険な状態になったら、赤ちゃんの方を救えと言いやがった。
一見した時からヤな男だという直感があったけれど、この台詞にはさすがに血の気が引いた。そして彼の言葉がまるで予言になったかのように、この可哀想な妻は、息子を産み落として、替わりに命を落としてしまうのだ。

この男は、最初からお腹の中の赤ちゃんが男の子だと信じきっていた。息子を救え、と医者に明言していた。なぜ男だと判るのだと言うと、彼はまたも眉ひとつ動かさずに言った。息子に決まってる、と。
私は心の中で、女の子が生まれろ、女の子が生まれた時の彼の顔を見たいという残酷な欲望でいっぱいになってしまったんだけれど、意に反して生まれたのは男の子だった。
それが、彼にとってひどく哀れな気がしたのが不思議だった。彼は確かに望みどおり、自分の遺伝子を受け継ぐ男の子をその手にした。哀れな女の死と引き換えに。そのことを露ほども哀しく思わずに。それなのになぜか……だからこそ、彼が哀れな気がしたのだ。

それまでもそれ以降も、ビダル大尉に対する憎悪は、少女オフェリアより強く感じているんじゃないかと思うぐらいだったのに。最後まで彼がこの息子を自分の命よりも守ろうとして、そのために義理の娘を殺すなんていう、到底許すことの出来ない悪魔の所業までも犯して、そしてもうギリギリゲリラどもに追いつめられてもう自分の命がないと悟った時、彼の最後の望みは、自分の父親の死に様と、その時刻を息子に伝えてほしい、というものだったのだ。
メルセデスがそんな得手勝手な願いを受け入れる筈もなく、この子には父親の名前も教えない、と言い放ち、今度こそその頭に銃弾を撃ち込んだ時、この場面を心から待っていた筈なのに、溜飲を下げたかった筈なのに、こんなこと思いたくないのに、なんか、凄く、哀しかった。
この愚かな男が願ったたった一つの望み、死んで当然の、もっと早くぶっ殺されるべきだった男のたった一つの望み、なぜそれをかなえてやりたいと思ってしまうのか、自分がいまいましくて仕方なかった。

やはりこれは、時代なのか、時代のせいなのか。そしてメルセデスは急いでオフェリアの元に駆けつける。でも案の定、彼女は非情な義父の銃弾に倒れていた。彼女はパンの言うとおりに、ここまで弟を連れてきたけれども、無垢な者の血を与えよ、それが最後の試練だ、と言われて、それに頷けなかった。ほんの一滴、ちょっとつつくだけだと言われても、大好きなお母さんが命をかけて産んだ愛する弟を、自分のために傷つけることが出来なかった。
しかしそこに、追いかけてきた鬼のような義父が現われて、勿論彼にはパンの姿など見えるわけもなく、自分の血を引く息子を連れて行った義娘を容赦なく撃ち殺してしまう。
倒れたオフェリアの鼻から流れる鼻血、半開きの目、そのクロース・アップが映画の冒頭に示されている。時間が巻き戻されるように、チュルチュルと鼻血が鼻に収められていくそのショットが、当然、その時点では何を意味しているのか判らなかった。

地上では、オフェリアのことを同志であり妹のようにも娘のようにも思っていたであろうメルセデスが、いたいけな彼女の亡き骸を抱き抱えて号泣している。あまりにも、あまりにもやりきれないラスト。
しかし、オフェリアはその頃、この最後のテストを見事乗り越えて、そう、弟の血を所望したのは引っ掛けであり、自らの命を差し出すのが、最も厳しい最後の試練であり、彼女は無事、復活したモアナ王女として迎え入れられたんである。
現世の、借り物の身体は死んでしまったけれど。

いや、それはこのあまりに哀しすぎる世界への、必死に抗うアンチテーゼであり、そうとでもしなければ、あんまり救われなさすぎるのだもの。そりゃ魂は高尚なもので、それが生き続けるのなら現世の肉体が死のうとも、なんていうリクツも、平安な世ならまあ、ひとつの理想として語られるのかもしれないけど、ここではただのなぐさめなんだもの。
いくら、いくら少女が別世界を見ることが出来、その別世界が本当にあるものだと、純然たるファンタジー映画ならば仮定も出来るけど、ここではそれが哀しきなぐさめとして作用するしかない。だから悪夢だし、試されるのだし、人間の弱い心にもつけこんで、彼女を試すのだ。

そう、あくまでフィクションでファンタジーであるこの幻想世界も、かなりシンラツな描写に満ちている。
最初のうち、王女へのテストにオフェリアは順調にパスしていく。パーティーのためのとっておきのドレスを泥に汚してまで、木のむろの中で跋扈している巨大カエルを退治して、その胃の中から鍵を手に入れたりする。このあたりは実にファンタジーらしく、現実世界の不穏さとリンクしていることをうすうす感じながらも、ふと非現実に逃避していられるんである。
しかし、子供たちを食い殺すバケモノ、ベルイマンの脇をすり抜けて秘剣を手に入れる場面では、彼女はパンの忠告を軽んじて、豪華な食卓からぶどうを2粒口にしてしまい、お供してくれた妖精たちがベルイマンに食われてしまうんである。

この時にはなぜオフェリアがそんな愚かなことをしたのか、あれだけ言い含められていたのに、と観てるこっちは気もそぞろで、後に彼女が「ブドウ2粒ならいいと思った」と泣き顔で弁明するのも、なんかムリがあるよな……と感じたのは否めなかったんだけど。まあこのあたりは、一つつまづくという起承“転”結が必要だったんだろうとは思うけど、ちょっとワザとらしいかなあ。
ただ、このベルイマンは本当に恐ろしい。彼?には目がない。まるで薬物かなんかで溶けたような肉がデロデロした造形をしていて、目があるべきところがのっぺらぼうになっていて、テーブルに向かって人形のように座って動かない。
しかしそのテーブルの上には目玉が二つ、おかれているんである。んで、彼女がブドウの粒を口にすると、その背後で、ビクン、ビクンと動き出し(ひえっ)、その両手に二つの目玉を埋め込んで、掌をバッとこちらにむけると、その目玉がぎょろりと稼動する……ひえええ!

やだ、やだよお、これ絶対、夢に出そう、っていうか、こういう悪夢って、あるよね。絶対、ある。
監督は、ゴヤ「我が子を食うサトゥルヌス」からヒントを得たと言っていて、大いに納得する。あの絵は私も子供の頃に百科事典で見て、凄く怖いのに何度も見ちゃったりして、妙に蠱惑的で、今でも脳裏にありありと浮かぶものなあ。
オフェリアは自在に扉を作れるチョークを持っているんだけど、焦ってしまってなかなか書けない。迫ってくる。椅子の上に登って時間稼ぎをし、天井の上に扉を書き、間一髪!このバケモノから逃れるんである。

パンから伝授されたマンドラゴラという薬草で、お母さんの産褥を軽くする場面も印象的である。マンドラゴラ、マンガや時代小説で聞いたことあるんだよね。南蛮渡来の怪しげな子宝を操る薬草。
人の形をしていて、劇中ではパンがこれをミルクに浸して、お前の血を一日にニ滴与え、お母さんのベッドの下に置いておけ、と指示する。ミルクに浸すとマンドラゴラはまるで生きているようにうごめいて、そしてお母さんの体調はみるみる良くなるんである。しかしあの冷酷義父に発見されて、哀れマンドラゴラは暖炉の火の中へ……。
このまま、マンドラゴラを置き続けることが出来ていたら、お母さんは死ぬことはなかったのかなあ……。でも結局は、ファンタジーなんだもの。結局はだなんて言いたくないけど。ファンタジーが人を救ってくれるわけじゃない。いや、魂を救ってくれるのか、でもそんなの、死んでみなけりゃ判らないじゃない。

でも、ビダル大尉に象徴されるこのマッチョな現実世界も、あまりにマッチョだからこそ、ファンタジーなのかなあ、とも思えるけど、こんなのがファンタジーになってしまう世界なんて、いらない、ほしくない、と思う。
極端だから、ファンタジーになるってわけじゃない。この冷徹男の夢がマッチョ男の究極の夢で、その夢のためにオフェリアが死ぬ結末がファンタジーだと片づけられるのだとしたら、そんなファンタジーなんて、心底、いらないと思ってしまう、のは、私がかたくなな女だからなんだろうか。

オフェリアが生まれ変わりとなったモアナ王女とは、外の世界に憧れて地上に出るものの、日を浴びたとたんに目がくらみ、さ迷い歩いて死んでしまったんだという。
それって、人間世界がいかに邪悪で、そこで生きている人間はろくでもないって言っているってことだよね。 だから、いくらそこでの肉体を借りて甦ったとはいえ、ホンモノの女王かどうかを試そうとしたってことなんだ。

監督曰く、ファシズムとは純潔の曲解で、子供自体に繋がるんだという。なるほどと思う一方で、それは子供の時からそうした間違った大人になる可能性をしっかと持っているということなのかとも思う。
オフェリアの見る幻想世界は、彼女を試す残酷なテストは、確かに悪趣味な選民思想に他ならない。だから彼女が借り物の肉体を死にさらして、幻想世界へ王女として迎えられるラストが、そのきらびやかな幻想世界の画のどこかに、暗い闇が潜んでいるような気がして仕方がないのだ。

この物語世界の全てを決するオフェリア役のイバナ・バケロは、厚めの唇が妙に妖艶な、なんと13歳!撮影当時は10歳くらい?驚くべき少女女優!★★★★☆


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