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「ら」


2009年鑑賞作品

ラースと、その彼女/LARS AND THE REAL GIRL
2007年 106分 アメリカ カラー
監督:クレイグ・ギレスピー 脚本:ナンシー・オリバー
撮影:アダム・キンメル 音楽:デヴィッド・トーン
出演:ライアン・ゴズリング/エミリー・モーティマー/ポール・シュナイダー/ケリ・ガーナー/パトリシア・クラークソン/R・D・レイド /ナンシー・ビーティ/ダグ・レノックス/ジョー・ボスティック/リズ・ゴードン/ニッキー・グァダーニ/カレン・ロビンソン


2009/1/13/火 劇場(渋谷シネクイント)
予告編や宣伝写真で、これはもうぜえったい、トリッキーでキテレツ系の映画だと(そういうのも好きだから)思っていたら、なんとびっくり、とっても静謐で、心がぽかぽか温まって、最後には涙がボロボロ止まらない、もうとってもとっても優しくてたまらない映画だった。
ど、ど、ど、どういうこと!?だって、だってさ、あの写真よ、青年の隣にソファに並んで座っているのは、今風に言えばラブドール?昔風に言えばダッチワイフじゃないの!(昔過ぎか……これってひょっとして差別用語かなあ、トルコ風呂とかと同じで)それなのに、なぜにこんな……どういう魔法を使ったのだ!!

劇中、このラブドールを注文出来るサイトを教えてくれたラースの同僚が、「解剖学的にも緻密だ」とニヤリとするように、今の技術はラースが本物の恋人だと本気で妄想してしまう程の出来具合で、それこそあのビニール式のダッチワイフなんぞと比べては失礼?てなもんなのだろう。
でも、それこそがポイントでさ、ラースはそんなところに見向きもしていないんだもの。ひょっとしたらラースは、あのビニール式のダッチワイフだって、ことによったら本当に愛してしまうかもしれない……もしそういう設定だったら、逆にこの物語は成立しないんだけど。

そうなの、ラースが本物の恋人と信じてやまないラブドール、名付けてビアンカを、見てる私たちも次第にそうだと感じてきてしまうのだ。それがアブない訳でもなんでもないことは、この映画がじっくりとその本質を描いていってくれるから、ラスト、ビアンカが消え去る時に涙ボロボロなのよ。まさかの感情が湧きあがってくる。
確かにそれは、皆がラースを好きだから、ラースを投影してこのビアンカに接しているからで、兄嫁のカリンが涙ながらにそう訴える場面も出てくるけれど、でもそれを突き抜けて、本当にビアンカに人格を感じるほどになってしまった、のは、決して錯覚じゃないと思う。
そう、タイトルどおり、リアルガールだったのだよね、彼女は。

なんていう感慨からは、ハートウォーミングな映画とだけ片付けられそうな気もするんだけど、これってひょっとして、その方面の玄人さんから見たらかなり、心理学的、精神学的に深い物語なのではないかしらん?とも思う。
先述したように、ラースはビアンカのことを、その最たる機能であるセックス目的としては全く見ていない。まさにプラトニックラブ。この象徴的なギャップは、心理学的考察を試みたくなってしまう。
徐々に明らかになることなんだけど、彼はプチ対人恐怖症みたいなところがあって……それは子供時代の辛い経験がその元になっている。それでも問題なく仕事をこなし、教会に通い、という普通の生活を送っていて、ビアンカが現われなければ、彼のそんな心の奥底が明らかになることもなく、生活を送っていったのかもしれない。

そう、ラースは普通なのだ。異常なんかじゃない、病気なんかじゃない。
そりゃね、人形を、それもラブドールを恋人と思い込むなんて、しかもその声が彼に聞こえてくるだなんて、弟がイカれてしまったと兄のガスが苦悩するのもムリはなく、通常は即座に、これは精神的な病だと、誰もが考えてしまうだろう。
しかしこの物語のスゴイところは、誰一人彼を病気だとして扱ってない、いや、思ってさえいないところなんだよね。
確かに兄ガスや兄嫁カリンは最初そう考えてた。カリンはビアンカのスカートの中を覗き込んでその“リアルさ”に息を飲んだりして。そして、周囲の人たちに相談して、“治す”ことを考えてた。
でも結局、ラースは最後まで“治らない”。ビアンカが“到着”すると、途端におしゃれにも目覚める。でもそれも、トラッドな柄のセーターだったりするのがなんともウブなんだけど。
そして、ビアンカを失った後、人生で二番目の“本物の彼女”を得る予感を幸福に漂わせながら終わるけれども、彼の中でビアンカはそのまま生き続ける。いや、それどころか、ビアンカと関わった全ての人の心に生き続けるんである!

病気である定義っていうのは、そう考えるととてもとても狭くて、ある意味偏見的なものなんだよね。最終的には私たちにもビアンカに対する愛着が出てきたように、彼に見えているビアンカが真実でないと誰が言えるんだろう。自分の常識から外れたこと、自分の常識に引き戻せないことを、人はビョーキというんじゃないか、なんてことまで考えてしまう。
でもビアンカの存在は一方で、先述した、興味深い明らかなギャップもやはり介在している。
そりゃまあ、決してビアンカはラースの信じているように“ブラジル人とデンマーク人のハーフで、敬虔な宣教師で独身の異性と二人きりにはなれず、両親は幼い頃に死んで、看護師の資格を持っていて、車椅子生活で、パスポートをなくして困っている”ハズもない。どう考えてもそれは、ラースが作り出した物語なのだ。

そう、そこを抑えていれば、判るんだよね。全て、ラースが決定しているってこと。ウッカリ忘れそうになってしまう……それこそ“妄想”という、一種差別的な響きのある言葉に、忘れそうになってしまうのだ。ラースが全てを決めているのだ。ビアンカの行く先を。
ビアンカの行く先ということは、彼自身の行く先ということである。ラースはついにはビアンカにプロポーズまでする。しかし彼女に“断わられてしまった”というのだ。それで本気で落ち込んで、自分以外の用事に忙しい彼女に嫉妬し、当たり散らしたりするんである。
彼がビアンカの最後の運命を“決定した”ことにだって、いくつかのきっかけがあった。と見てしまうのは、それこそ心理学的考察になるのだろうが……。

それこそ、心理学を専攻しているバーマン医師が、“ビアンカの主治医”となるんだし、あながちそうした考えは間違っていないように思える。
この田舎町ではどんな症状も看るオールラウンドの医者ゆえに、ラースに怪しまれることもないんだけど、もちろん彼を医者にかからせた兄夫婦の意図である。しかしこの女性医師がラースの最初の理解者となるのだ。
いや、最初の理解者は、やはり兄嫁のカリンの方かな。義弟のラースがいつもひとりぼっちでいることを心配している、可愛らしい奥さん。
冒頭は、身重の身体でえっちらおっちら雪道を歩いてきた彼女がラースを朝食に誘いにくる場面から始まり、ちっともその誘いにのってくれない義弟を、劇中彼女は何度もめげずに、誘い続けるのだ。時には彼の車の前に踊り出しさえして!
でもね、彼女のその心配は、……当のラースが後にバーマン医師に苦しげにもらしたように、彼にとっては正直ツライことだったんだよね。彼女がとてもイイ人で、自分のことを思ってくれていることが判るだけに、余計に。

ラースはそれをまず、「ハグが好きな人がいるけれど、僕は苦手だ」と切り出す。触られるとビリビリと痛いんだと。その発言にバーマン医師はいぶかしげな表情を浮かべる。そんな文化がない日本では正直ピンとこないけど、ラースがそうした、スキンシップに慣れていない、どころか、恐怖心を持っていることを医師は見抜くんである。
実際、腕を触るぐらいはまだなんとか“耐えられる“と言うんだけど、首筋に手を触れた途端、ラースはまるで感電でもしたように飛び退るのだ。
カリンがそんな自分に、彼女自身に責任があるように傷つく顔をするのがたまらないのだとラースは言う。スキンシップの文化はないけれども、その彼の言い様はなんだか判る気がするのだ……自分が相手の思いやりに応えられないせいで、相手が傷ついていることに、自分が更に傷つく、そんな自分がイヤになる、そんな終わりのない悪循環に苦しんでいるラースが……。

ラースの母親は、彼を産んだ時に死んだ。ラースはだから、身重のカリンに非常に不安を抱いている。お産は大変なことだと。バーマン医師がいくら、医学は進歩したんだと言っても聞き入れない。
それはつまり……ラースは自分が母親を殺したと思っていたんだよね。そのせいで父親は、彼曰く“人間嫌い”になった。そんな父にいたたまれなくなって、年の離れた兄、ガスは、早くに家を出てしまった。
ガスは、弟がそんな父と二人、いたたまれない子供時代を過ごしたことに気付いていなかった。いや、気付かないフリをしていたのかもしれない。ラースが、父は人間嫌いだった、と言うと、いや、お前は知らないかもしれないけど、母が生きていた時はそんなことはなかった、とガスは口にし、そしてハッとするのだ。

大人っていうのは、どういうことなのだとラースは兄に聞いた。それはまるで、子供みたいな質問だ。子供みたいな質問だけど……明確な答えの出ない、もの凄く難しい質問かもしれない。
ガスはその質問が怖くて、離れていった弟にあえて近づかなかったのかもしれない。それに対して自分の嫁が何くれと心配するのは予想外だったのかもしれないけど、でも、彼はいい嫁をもらった。
だってきっと、このままその傷を見ずに生きていくことも出来るかもしれないけど、きっときっと、そのしこりをずっと痛いと思い続けるに違いないもの。

ラースはその、子供みたいな質問を投げかけて、彼自身はまず、「セックス?」とおずおずと兄に問うたんだよね。それがね……凄い究極だと、思った。
だってその時、ラースはビアンカから“プロポーズを拒否された”時であり、そもそもビアンカはラブドールなんだから。ビアンカがここにいるのはお伽噺でも何でもなく、そりゃ、ラースが理想的なラブドールをネット注文したからに他ならなく、そのサイトを教えてくれた同僚がいつもエロサイトばかり見ているのに辟易していたことを考えると、ビアンカがどういう意味を持ってそこにいるのか、それはつまり、恋人という存在が(あくまでひとつの要素として)どういう意味を持ってそこにいるのかに思い至ると、凄い、と思ったのだ。

プラトニックじゃ、ないじゃん、と。いやいやいや、そもそもプラトニックがセックス抜きだという単純な図式自体がおかしいのかもしれないけど、でもラースはだからこそ……愛という意味に、接触が伴わざるを得ない愛という意味に、苦悩していたんだよね。
ラースがバーマン医師にさ、触られるのがダメだと、ビアンカ以外は、と言うのが、その時ばかりはとても皮肉に感じられた。そりゃだって、ビアンカは人間じゃないもん、って。次第にビアンカがまるで一個の人格のように思えてきていたから、本当にシニカルだと思った。
ただラースの中には、セックスがラブドールの担うエロとしてだけではなく、自分が生まれてきた贖罪、それを投影させてしまう身重の兄嫁につながるからこそ、超苦悩してしまうわけでさ。
うっわ、ほおんと、心理学的だよなあ!

でもね、ガスはラースから大人の定義を聞かれて……それはセックスってことなのかと聞かれて……戸惑いながらも精一杯の答えを搾り出す。それはとても、いかにも道徳的だったんだけど、それまでの経過があったから……すんごい心に響いちゃってさあ。
つまり、他人を思いやること、自分の間違いを認めること、そういったことが、大人になることだと。
そしてガスはラースに謝るのだ。お前を置いていくべきじゃなかった。自分は父から逃げたんだ。お前の気持ちを考えてやらなかった。悪かった、と。
この時、ラースの中で何かが弾けたんじゃないかと思う。

お兄ちゃんはビョーキの弟にゼツボー的な気分を抱いててさ、こんな弟で申し訳ない……みたいに嫁に対するしさ(彼女はそんなこと思ってないのに!)正直最初は、ほおんと、俗っぽい感じだったんだよね。
でもそれはさ、確かに俗っぽく、つまり判りやすく私たち一般的なリアクション、だったんだよね。でもさ、この町の人々は、まあ最初こそはガスと同じようなリアクションだったけど、カリンの頑張りが効いたのか、あるいは(こっちが本質だと思う)この町で生まれ育ったラースの、その気質を、イイヤツだってことを、皆知ってるから、何が起こってもラースその人として受け入れたのだ。
ビアンカもきちんとラースのカノジョとして受け入れて、ファッションショップのバイトやボランティアに引っ張りだこになったりするのよ。更には美容院で、「一度切ったら元に戻らないわよ」と言いつつ(そりゃそうだ……)、ラースの「彼女のやりたいように」という言葉に従い、魔性の女風のワンレン(自体、懐かしい……)から、前髪を作り、柔らかなウェービーという、フェミニンガールへ大変身。

実際、中盤あたりからビアンカが生身の女性に見える瞬間が多くてドキッとしちゃう。
そもそも“解剖学的にも緻密”である彼女だもの。昔のダッチワイフみたいに、口もアレをくわえるって目的ではなくて、まるでキスを求めるみたいに官能的な半開きである。
実際、ビアンカが最後の“命”を燃やす直前、ラースは涙ながらにその生々しい唇にキスするんだもの……ある意味ここだけが、ラースがビアンカに対してセックス的な行動を起こした場面なんだよね……。

ラースだけじゃなくて、同僚たちもまたちょっとオッと思うほど、子供っぽいのも意味ありげなんだよね。
まあ、同僚たちっていっても、ほぼ二人だけだけど。同じブースに背中あわせでいる青年(ラースにラブドールのサイトを教えたヤツ)は“アクションフィギュア”(まあつまり、特撮系のフィギュアだよな……)のコレクターで、自分のブースに実に自慢げに並べている。それに対して新入りの女の子、マーゴがそれを隠したり何だりと子供っぽいイタズラをしかけるのは、実際に子供っぽい部分があるせいもあると思うし、同じブースにいるラースにモーションをかけているってこともあると思うし、だけど根本は……やっぱり子供っぽい部分があるってのも、あるんだよね。
つまり、ラースほどには“判りやすい”要素はないにしても……彼らはラースと、あるいは私たちとそれほど変わらなくてさ、だからこそ……愛しいんだよなあ。
このマーゴは、受付のベテラン女性がラースに付き合っちゃえばと進言するほど、まあ消極的なラースにはピッタリと思うような、可愛くて積極的な女の子なんだけど、そんな単純なくくりでは語れないほど、彼女はとても繊細で素晴らしい役割りを担うんである。

マーゴは(彼女だけじゃなく、他の皆もだけど)ラースがビアンカを連れていても、ラースはラースとして変わらずに接する。のは、彼らが理解あるってだけじゃなくて、ラースこそが、変わらないからなんだよね。
マーゴは、ラースにビアンカが出現したことで一度は彼への想いを諦め、手近な同僚と付き合い始めるんだけどすぐ破綻する。そして、オタク同僚からの仕返しで大切にしていたテディベアを電気コードで“絞殺”されて、泣きベソをかく。ラースは見かねて、彼女のテディベアを“救出”するのね。

この場面、メッチャ好き!悄然としているマーゴを横目で見守りながら、ラースはとりあえずテディベアの首に巻きついている電気コードをほどき、手のひらサイズのテディベアの心音を聞き(カワイイ)、心臓マッサージをし(カワイイ(涙))、人工呼吸をほどこし(カワイイ(涙涙))、彼女はそれを見てしゃくりあげながら、笑う。
ありがとう、って泣き笑いしながら、テディベアだけが原因じゃないの、エリックと別れたの、とラースに告白する。彼は思わず(じゃなかったかもしれない……)、どうしてと聞く。面白くなかった。もともと寂しいから付き合っただけ、と彼女は言うのだ。そしてラースをデートに誘い、彼はそれを了承するんである!
ここは、カワイイだけでなんでもないシーンかと思ったけど(爆)、後の展開を考えれば、一番重要だったかもしれない。だってさ、だって……そもそもラースはマーゴのことが気になっていたのに、そのことに自分で気付いていないだけだったんだもん……。

ボウリング場で、二人はデートする。そう、これはデートに他ならない。ラースはそもそもボウリング自体やったこともないのか、隣りのレーンに大暴投、マーゴは可笑しそうに笑う。
途中、仲間たちが参戦してくる。ありゃりゃ、デートのジャマする気と思ったけれど、むしろちょっとテレのある二人の中に上手く入ってくる。ラースのことを心配している仲間でもあったから、彼が生身の女の子と二人ボウリングに来ているのを見て喜んでいるようなところもあり、ワイワイと和気あいあい。
ラースは、他の皆がしている彼女とのハイタッチが出来ない。でもそれは、今までの、他人に触れるのが怖いっていう理由とは明らかに違っていた、のは、ラースの顔を見れば判るんだ。
そもそもマーゴのこと、きっとずっと気になっていたんだもん。例えばね、彼女の後ろ姿、ミニスカートからのぞくタイツをはいた肉付きのいい足を、ラースは知らず知らず眺めてた。うーん、でも、ひょっとしたらそれこそを、彼はイケナイこととして自分の中から排除していたのかも……。

楽しいデートの最後、靴をカウンターに返しながらラースは恐る恐る言う。
「誤解しないでほしいんだ。愛している人を裏切ることは出来ない」
それはきっと、自分を必死に押さえ込んで、自分に対して言い聞かせているに違いないのに。
「判ってる。あなたとビアンカの仲を引き裂いたりしない」
彼女は涙を抑えてそう言って、「私だっていつか、いい人を見つけて幸せになる」と笑顔を見せた。
外には一面の雪……。
それが、ラースがビアンカを“殺した”大きなキッカケだった。

ラースは一度、カリンと大喧嘩するんだよね。それはビアンカがボランティアしている施設へパーティーに行くという日、ラースは彼女とゲームの続きをする約束をしていたといって、珍しくダダをこねるんである。彼女は僕のガールフレンドだ、僕の好きにさせろって。
するとね、迎えに来ていた老女がまず怒るわけ。まったく大きな赤ちゃんね、と。ビアンカにあなたの仕事を待って一日中何もさせないで平気なのかと。彼女だって大人の女性なんだからと。
ビアンカが去ると、ラースは更に荒れる。心配したカリンが近寄ってくると、八つ当たりしまくる。
すると今度は、普段いつも穏やかに心配しているカリンがやはり同じように怒るのだ。なぜビアンカが町の人々に歓迎されていると思うのだと。それはラース、あなたが心配で、皆あなたが好きだからなのだと。ビアンカはもう大人の女性で、私たちが世話をするのだって大変なのに、あなたにはそれが判っているのかと。

……落ち着いて考えればビアンカは人形なんだから、こんなにみんながラースのために怒ることはないのかもしれない。それにこのカリンの言は、対人間の女性に対して言えば結構ヒドい言い草かも……などと思うことこそ、観客側ももうビアンカをただの人形として認識することが出来なくなってるってことなんだよね。
それこそビアンカ自身が、他人に世話になっている自分を歯がゆく思っている、ということを含めてカリンはラースのワガママに怒っているんだもの。
怒ることなどなかったカリンが怒ったことで、ラースは目を見張った。その目は真っ赤だったのだ……。

そんなこんながあって、ビアンカは“意識不明”になってしまうんである。そんなことが起こりうるのかと戸惑う兄夫婦だけど、動転しているラースのためにとりあえず救急車を呼ぶ。この大病院もまたナイスな演技力でちゃんとビアンカを急患扱いしてくれてさあ……なんで皆、そんなにいい人たちばかりなの。
バーマン医師がやってくる。彼女もまた、あたかもビアンカが本当に重篤だという態度をとる。更に戸惑う兄夫婦だけど、どうやら本当にビアンカが危ないということが知れる。
それはもちろん、ラースの心の中で決定したことなのだ。すべて、すべて……。
ビアンカはきっと、ラースその人だったんだよね。彼の優しさ、彼の悩み苦しみを投影したあるひとつの人格。
だから彼がその弱さを脱却するためにビアンカを“殺した”ことが、喜ばしくもあるけれど、まるで本当に一人の愛する人が死んだように哀しいのは、ずっと自分のそばにいた、分身だから……。

もう望みはないと、自宅療養を選ぶ彼。町の人々から心づくしのお見舞いの花が沢山届いて、玄関をとりどりに飾っているのには、うっと胸がつまってしまう。
もう皆ね、本当にビアンカが、いや、ラースが好きなんだよね。
老女たちが、穏やかに縫い物やら編み物やらをしながら、悲嘆に暮れているラースのそばにいてくれる。とにかく食べなさいと、料理を作ってくれる。どうして……という顔をするラースに、彼女たちは静かに微笑んで言った。「悲しい時は、そばにいるの」
愛する人を亡くす経験を何度もしているであろう彼女たちの経験に基づいた、シンプルで、でも温かな言葉がラースを包む。
もうこのあたりでこみ上げる涙を抑えられなくなっちゃう。

春の湖を見に行こう、ビアンカも一緒に、兄夫婦がラースを誘う。春とはいってもまだ寒々としていた。ビアンカと隣同士座って、散歩に行く兄夫婦の、しっかりと寄り添った後ろ姿をラースは見送った。そしてその時はやってくる。
ラースはビアンカを抱き締め、キスをするんだよね……。キスなんて、それこそラブドールの役割も求めていないビアンカに対して、恋人のはずなのにプラトニックを貫き続けた彼女に対して、初めてのことだったんじゃないだろうか。
ラースは心のどこかで、これが最後の儀式だと判っていたんじゃないだろうか……。
そして彼女は、死んでしまった。

葬儀がまた凄く心揺さぶるのだ。ラースの希望で皆に喪服は着てくれるなと。彼も明るい色のセーターを着てビアンカを見送る。教会に集まった皆も、演技じゃなくて本当にビアンカの死を悼んでて、それ以上に目を真っ赤に泣き腫らしたラースを痛ましそうに見守っている。
牧師さんが言ってくれる言葉がまたなんとも感動的で。
ビアンカは私たちを愛してくれた。特にラースを(もうここで、ラースと一緒に号泣)とまず前置きし、牧師はこう言った。
「それを、彼女は想像もしない方法で、私たちに教えてくれました」
ビアンカは本当に本当に、“本物の彼女”だったよね。

葬儀が終わり、埋葬が終わり、佇む弟を遠くから見守りながら、ガスはバーマン医師に言った。「弟を見直しました」と。
うっ、なんていいお兄ちゃんなんだ。いいお兄ちゃんだったんだね。その言葉に医師もしっかりとうなづく。
ラースのそばに、マーゴがゆっくりと近づいてきた。彼女も真っ赤に目を泣き腫らしていた。私も本当に哀しい、その言葉にウソは微塵もなかった。
いつか時が忘れさせてくれる、とつぶやいたラースに「でも、彼女みたいな人は他にいない」とマーゴは言って、その言葉がとてもとても胸に染みた。
そう、彼女みたいな人はいない。ビアンカは本当にいたんだ。
そしてそのことをマーゴのみならず、みんな判ってくれている。いや、きっと彼女がラースとともに、そのことをずっと忘れないでいてくれる。
「そろそろみんなのところに戻らないと」と声をかける彼女にラースは言った「一緒に行こうか」
ああ、なんて温かな幕切れなの!

劇場に入った時、まずビアンカがいてドキッとした。こ、これは特別展示?うっ、これが実際に目の前にいたらコワイかも……。
しかし映画の中の“彼女”を見ていくうちに、ベッドに倒れこむ時の髪がはらりとかかった感じとか、特に横顔とか、車のシートベルトにくくられる時とか、本当に人間っぽいんだよね。
そう感じさせてしまう、雪景色。寒々しさはなぜか全然なくて、とても温かでお伽噺のよう。
その中の住人だから、皆こんなに優しいのか。
だって私、こんな町の人みたいに出来るかなあ……って。★★★★★


シネマ歌舞伎 らくだ
2008年 分 日本 カラー
監督:榎本滋民 脚本:岡鬼太郎
撮影:音楽:
出演:中村勘三郎 坂東彌十郎 片岡亀蔵 尾上松也 片岡市蔵 坂東三津五郎

2009/1/16/金 劇場(東銀座 東劇)
歌舞伎ってーのは一回だけ。職場の先輩に連れて行ってもらって凄くいい席だったのに、なんと私爆睡。それ以来、歌舞伎は私はダメなんだわと思い、シネマ歌舞伎という名で劇場にかかるようになったのを目にしても正直行く気にはなれなかったのだけど、お勧めされてちょっとソノ気になった。
うう、面白い。涙を流して笑ってしまった。なんという。全然判んなくなんかないじゃん。

ま、私が爆睡したのは、この日同時上映だった「連獅子」のように、語りの部分が昔の言葉で、しかも唸るもんだから全く理解出来なかった点もあったんだろうけれど(でもこの「連獅子」、判んなくても全然問題なかったんだけど!)、
この「らくだ」、歌舞伎というより演劇、芝居。時代劇の舞台みたいなんだよね。歌舞伎風のメイクをしているのも一人ぐらいで、あとは女性はやっぱり女形で演じるぐらいなところしか歌舞伎っぽくない。本当に、演劇そのもの。
しかも筋がスッキリしてる。これは元ネタの落語よりもオチも圧縮してるし、あくどさもかなり抜いていると思われる(サクッとウィキで落語の筋を見てしまった(爆))。
でもそれが、いかにも歌舞伎ならではの粋にさえ感じて、筋よりも、オチよりも、役者の縦横無尽なアクションにひたすら笑わせられちゃうんだよなあ。

ていうか、死人にカンカン踊り(カンカンノウ)を踊らせるなんていう時点で既にあくどいしさ(笑)。
そういやー、死人のカンカン踊りって「寝ずの番」で出てきたなあと思って、このネタが落語だとは知らなかったから、なるほど、長門裕之のカンカン踊りはここから来ていたのか。
しかしアレの百倍は笑える、死人のダンスである。もう、この場面だけで全てを語れるぐらい。
これってさー、改めて考えてみると恐ろしく不謹慎なことなんだけど、つまりは人間って、そういう不謹慎なことを想像するし、それが目の前に現われるとこんなにも意表をつかれて爆笑しちゃうのかっていうね。

まあ、筋をサクッと行こうか。先述のように、元ネタの落語よりもさらに切っているのでかなり単純である。
とある貧乏長屋で、長屋じゅうに嫌われているらくだと呼ばれる男が死んでしまった。彼の兄貴分であるヤクザの半次は、その死の原因と思われるフグをご一緒した縁。自分は生き残って、らくだは死んでしまった。
誰一人見向きもしない、その死を喜びこそすれ、悼む訳もない周囲に、ならば自分が弔いを出してやろうじゃないか、と彼は立ち上がる。

んだけど、自分がカネを出しはしない。鼻つまみもののらくだが死んだんだから、それを祝った祝儀や酒やつまみぐらい出せ、と周囲を脅すワケなんである。ちょうと都合よく通りかかった、らくだが“お得意様”であったくず屋をパシリにつかまえて。
どんだけ“お得意様”だったかっていうと、くず屋がらくだの家の家財道具を、欠けた茶碗の一個に至るまでそらんじることが出来るぐらいなんである。「お前、よく覚えたなあ」と感心顔の半次。ちょっとここでクスリと笑わせちゃう。

死人がやけにリアルというか、その蝋人形のような黄ばみようが本当にゾッとさせるものがあってさあ。
だから彼を背負わされるくず屋の腰の引けようも、カンカン踊りを見せられて腰を抜かして這いずり回る長屋の大家夫妻も、決してそれが大げさなリアクションには思えないのよ。
最初のうちは、本当にちょっとゾッとしちゃう。背負わされたくず屋がその体の冷たさにゾッとして震え上がり、しかもその死人はどんなに首を背けても彼の顔の方に向き直って頬をペタリとつけちゃったりするものだからさあ、そのたびにくず屋はひえええ、と悲鳴をあげる。
その繰り返しのギャグが、いやあ、ギャグの基本、ギャグの王道だよね、っていう。

そのカンカン踊りの場面、ひょっとしたらアドリブも入ってたりして?なんて思っちゃうのは、ノセられすぎ?
だってさあ、らくだの“振り付け”に悪ノリしすぎて、色っぽくおみあしをチラリと見せたり、それどころかふんどしを丸見えにさせたり、もー、実にさまざまな“ステップ”を披露させちゃったりして、腰が引けているハズのくず屋を演じる勘三郎が笑っちゃってるのが、本気に見えちゃうんだもん。
で、舞台が回転してらくだの長屋に戻ってくると、「あんまり怖いと笑っちゃうもんなんですね」とか、「ババアは上から降ってくるし」なんて当意即妙な台詞を言うもんだから、もう手を叩いて喜んじゃう。
いやいやまー、そりゃ、全てが代本上なんだろう、でもそれをアドリブのようにさえ見せてしまうことがさすがということだろう。んでもって、「俺は(カンカン踊りをさせて)へとへとだ」という半次の台詞もハッスルしまくってた彼の悪ノリを見た直後だから、また爆笑!

次の場面の、実は相当な酒好きだったくず屋が泥酔して気が大きくなり、半次と立場逆転する場面も爆笑モノなんだけど、この死人のカンカン踊りがあまりにも強烈だったもんだからさあ。
でも、どちらもやはり笑いの主導を握っていたのは、勘三郎だという点が彼の芸の凄さを物語っているんだろうと思う。その雰囲気も演技もとても暖かで庶民的なのに(いや、そーいうのしか見てないからだろうけどさ)、ふと気づくと彼に目が釘づけになってる。
弱気なくず屋というのを前提にしながら、カネがらみにはサッとチャッカリモノになるという王道でまず笑わせ、常に弱気を前面に出しながら、実は彼が一番したたかで強かったというオチに持っていく、その流れがじっつに素晴らしい。
それこそヤクザって立場をベタに振りかざす半次よりも、冷酷な因業大家という立場をこれまたベタに振りかざす大家さんも、彼の前座でしかないってのが凄い。

本作はまず、死人のカラダが思い通りにならないユーモラスさが大前提になってて、それを素晴らしい死人っぷりで(!)演じる(?)片岡亀蔵の上手さがあることは間違いない。
そして、この物語の主人公のように見える(いや、まんま、主人公なのかなあ)半次は江戸っ子的なきっぷの良さと、ヤクザの強引さと、彼自身の人の良さが見事にミクスチャーされたキャラが実に魅力的で、ホント、最初のうちは彼が主人公に違いないと思ったんだけど、でも最終的には勘三郎氏に持ってかれちゃう。
こんなに腰が引けて弱々しかったくせに、酒を飲むと離さず(笑)、相手にはちょびっとしか注がず(笑)、しまいには自分が散々怖がってたヤクザの真似ごとをご披露しちゃうという。しかも、自分の腕にはイレズミなんてないのに、ぐいっとソデをまくしあげて、これ以上怒らせるんじゃねえよ、なんてさ(笑)。

酔っ払いの演技って、体力を消耗するのかなあ。勘三郎氏、汗がヤカンのお湯がふつふつ沸騰しているかのようにどんどん汗のつぶが湧き出てくる。死人のカンカン踊りを笑っている時にはそんなん、なかったのにね。
そういうあたりが、役者の大変な部分を物語っているようで妙にリアリティがある。それこそ、役者にカメラが肉薄するこのシネマ歌舞伎ならではってことかも。役者にとってはこれって、いいのか悪いのか?でもやっぱりこれ、シネマ歌舞伎とかいうけど、やっぱまんま舞台だよね……。

こんなん観ちゃったら、そりゃーこれをナマで観たくなるよなあ!もちろんそれが、このシネマ歌舞伎という企画のネライなんだろう。ホントこの「らくだ」、絶対ナマで観たいもの……せっかく通勤途中に歌舞伎座があるんだしさ!しかもその歌舞伎座はもうすぐなくなるっていうんだしさ……。
正直劇場に入る前は、二千円なんて金額で、しかも割引きも全然きかないし、おごってやがんなと思ったけど、敷居の高い歌舞伎をこの値段で気楽に見られると思ったら、いいかもしれんと思った。しかもこんな面白いの見せられたら、絶対ナマで観たいと思っちゃうもの!なんか、ちょっとズルい気がするわー。
それだけに観客が、フツーに歌舞伎ファンが集ったみたいな、お金のありそうな中高年女性がほとんどを占めていたのが、なんかもったいない気がしてさ……ならば二千円はヤメたらいいんじゃないかい?

でも、東劇はこの中途半端な場所には妙に立派な劇場過ぎて、これまで何をかけても閑散としていた、という雰囲気は否めなかったんだよね。
だから松竹のお膝元であり、歌舞伎座にも近い、という立地を生かして、シネマ歌舞伎を観られる劇場(プラス、演劇のライブビューイング観られる劇場)という位置づけをしたのは、凄くイイアイディアだったと思う。
東銀座って、中途半端なんだもの。銀座、有楽町、日比谷、といった映画館たちに、キャパや個性でどうしても負けちゃう。
なのに、歌舞伎座は取り壊されちゃうっていうんだもんなあ……。

映画でも、エノケン主演(くず屋の久六役。やっぱ、くず屋が主役なんだ)で作られているという。うっわ、それ、メッチャ観たい!★★★★★


ラビットセックス 女子学生集団暴行事件
1980年 61分 日本 カラー
監督:小水一男 脚本:日野洸(大和屋竺)
撮影:音楽:
出演:朝霧友香 野上正義 杉佳代子 柚木春美 保坂和志 佐野和宏

2009/3/18/水 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム/WE ARE THE PINK SCHOOL!)
1980年というのは、私自身はまだ子供だったので、こんな雰囲気、というのをリアルに感じる訳でもないんだけど、これが時代の雰囲気だという気分が凄くする。70年代という強烈な時代が終わったばかりで、その余韻がどこかけだるげに残っているというか。
若者の親世代は金があることこそが幸せへの道だと思っていて、その親を若者はケーベツしている。若者たちは「俺たちは冷めてるだけなんだよ」とか言いながら、無益な遊びにフラフラと浸る。オバサンをレイプし、オジサンの車を奪って、そのオジサンがふとした拍子に海の中に落ちてしまう。
一瞬は呆然とするも「そんなこともあるよな」と、彼らはまたあてどなく放浪し……彼らだっていつか、そんな唾棄すべき大人になるのに。

最初、エピソードがかみ合わなかったのよね。でもそれは後で判る。
高校生の少女と浪人生の青年の側のエピソードと並行しながら描かれる、引きのシーンでの、捕らえたオジサンをいたぶるエピソードが??と思っていたのよね。それは、青年の遊び友達の、学生でもなく仕事をするでもない、チンピラにもなりきれないような斜に構えた男女たちのグループたちと、青年と少女らが合流した後の、今で言えばオヤジ狩りしつつの気楽な旅行きだった。

時間軸が少し揺らしてある。後半に出てくるそのシーンが妙に引きの場面で描かれているのが印象的で。
彼らの表情が遠目でハッキリしない感じのところに、必死に若者たちを説得しようとするオジサンに、「俺たち、冷めてんだからさ」「フロイトなんて言いだすなよ」とからかう若者たちの台詞が、高い波音に時々かき消される。
彼らは無軌道に遊んでいるように見えて、なんか……虚しいんだよね。勿論彼らが軽蔑している大人たちは、もっとハッキリと虚しいんだけど。

少女の両親が、娘のことを心配しながらもカラむ場面から物語が動き出す。両親は娘に気づかれないように声を殺してはいるけれど、彼女にはハッキリと聞こえている。
でも、「私、本当にママが殺されるかと思った」というモノローグが入るように、彼女はまだ男女のことさえよく判っていないウブなコなんである。とてもそうは見えないけど。
まあ、どの時点から彼女がそういうことを理解していったのか、あるいはこのモノローグはもっと彼女が幼かった時のことなのかもしれないけど、そのせいでか、彼女はどこか父親に対して拒否反応を示しているようなところがあって。

父親は、絵に描いた様なこの時代のモーレツサラリーマン。家族のために働いて稼ぐことが、幸せを作ると思ってる。娘の入学金を稼ぎ、娘のために残してやれるのは家ぐらいだと、夢のマイホームの設計図をご満悦で眺めている。
少女は、反発するのね。お金のことばかり言っていると。その繰り返しじゃないかと。私はそんな生き方はしたくないと。
父親は思わず娘の頬を張り、彼女も思わず謝るけれども……だからこそ二人の気持ちは通じ合う訳もない。

お互い、判らないのだ、なぜ相手が不満に思っているのか。それは……今こうして第三者として、客観的に眺めるとよく判るのだけれど、そして父親だって自分の若い頃を思い出せば、娘の気持ちを理解することぐらいそんなに難しいことではないと思うんだけど、判らないんだよね。
確かに両親のセックスのシーン、夫の下で喘ぎながら、主婦の井戸端会議にも金融の話が出てくる妻の話に、彼が苦笑しながら彼女をサバ折りにして突っ込むっていう、まあ実に興醒めなカラミであり、このシーンを娘が見ているかどうかは定かじゃないんだけど……まだ将来にもセックスにも夢を見ているであろうこの子が、失望したのも判る気がするっていうか。

なんかね、突っ張っているように見えてこの娘、そういう感じが結構甘えっ子というか……父親っ子だったのかもしれない。ひょっとしたら、母親を“殺されるかと思った”父親の姿がショックだったのかもしれない。
その一瞬の親子ゲンカのシーンが、なんか若干見覚えのある、日本的家族団らんの食事シーンというのもグッとくるんである。
小さな四角いテーブルに、ギンガムチェックのテーブルクロス、こちゃこちゃと狭っくるしくおかずが並べられて、ビールを飲んでいた父親が「メシにしてくれ」というと、母親がすぐ後ろのこれまた狭いキッチンに立って、あの頃の大きな炊飯器をガチャリと開けてごはんをよそってやる、という……。
この狭いアパートを抜け出して、夢のマイホームを持って、広い“家族団らん”を形成できたら、それだけでもっと幸せになれると、そんな単純に両親は思っていたのかも知れず……今の時点で娘がまず幸せに思っていないことなど気付かずに。

少女は大学受験を四浪もしているという青年と出会う。会ったその日からいきなり「いいのよ」と誘い、セックスをする。
「私、いつも屋上にいるから」と、アパートの屋上で逢瀬をしては、セキララなセックスをするんだけど……彼女はね「私、ソレあんまり好きじゃないの。指か唇でして」というように、やはりまだ経験がなかったらしいのだ。気持ち良さそうによがってはいるけれど、なんだか背伸びしているように思えてしまう。
その場面をアパートの住人の女性が見てしまう。「子供のクセに、いやらしいわね!」とガーガー言うこの女を疎ましく思った少女は「復讐」をしようと思い立つ……そこで接触したのが、青年の遊び友達の若者グループだったのだ。
その「復讐」の報酬として、少女はそのグループのリーダー格の男に一発ヤらせることを約すんである。

このリーダー格の男っていうのが佐野和宏で、そこまで少女の相手役であった浪人青年が、引っ張る男キャラとしては弱かった感じもあって、強烈なインパクトを残す。
青年を「学生さん」とどこかひやかし気味に呼ぶ彼は、つまり学生ではないんだけど、かといって仕事をしている雰囲気もない。当てのない道行きでガス欠やら金欠をおこしては、車を盗んだり乗っ取ったりしてつないでいくんである。
彼の他にやたら笑い続けている男、いつもフーセンガムをくちゃくちゃ噛んでいる女などがいて、彼らは一緒に行動するんだけど……これだけ、時代をナナメに見ている彼らが、自分一人では行動できないってこと自体が、なんだか彼らがコドモである証拠みたいに思えてやるせない。

とは言ってもやることはムチャクチャなんだけど。かのアパートのオバサンを屋上でムリヤリ犯し、旅に出た先で外車に乗った歯科医のオジサンを車ごと乗っ取って、そのオジサンを追い詰めた果てに海中に落っことしてしまうんだから。
最初のボロ車で海岸についた一行、リーダー格の男は「復讐の報酬」をいただくために、少女をつれてシケこむ。
ホテルにでも行くのかと思ったらそんなカネがあるわけもなく、アオカンである。
なんていうか……わびしい枯れかけた草っぱらで、彼はさっそく少女に襲い掛かる。覚悟を決めていたはずの少女なのに、いざ挿入となると悲鳴をあげて逃げ出す。
追う男、逃げる少女。その繰り返しの果てに、まるでレイプさながらに彼女は彼に突き刺される。悲鳴をあげる少女。ひょっとして……まともにセックスしたのはこの時が初めてじゃないかと思うような。

一方、彼女を連れて行かれた浪人青年は、若者グループの紅一点、いつもガムをクチャクチャ噛んでいる女に誘いをかけられる。
この女はいかにも、80年代のツッパリ姉ちゃんという感じで、フーセンガムというアイテムも今じゃちょっとないし、アイドル風のパーマに、ジミめな顔にアイメイクたっぷりの化粧を施して、“男好きのする女”に仕立て上げているのが、今の時代から見ると何とも痛々しいのだ。
しかしこのシーン、海岸に止まったボロ車に寄りかかったまま、愛撫をし出す二人を、引きの画面で捕らえるのが印象的なのよね。なんか、青春映画の一ページを見るかのよう。
絶え間ない波の音、二人の後ろをサーファーが横切り、波間にはサーフィンをしている影が見え隠れする。
そういやあ、少女と青年、若者グループが顔合わせをした時、後ろに「狂い咲きサンダーロード」のポスターがこれ見よがしに貼られてて、そのタイトルがハッキリと映し込まれててるのだよね。同じ1980年作品だし、凄い確信犯的だと思って……。

常に、あの頃流行ったんであろう洋楽がバックに流れ続けているというのも、凄くこう、時代の気分を感じさせる。
一方で、いつもいつも笑い続けているちょっとウザイ男は、忌野清志郎を狂ったようにリピートしていたりして……。
なんかね、今は、音楽も文化も日本のもので全然大丈夫、自信を持ってられるんだけど、この頃はまだ、欧米文化至上主義みたいな部分も残ってて……それを切り裂いた忌野清志郎を彼がずっと口ずさんでいるっていうのが、なんていうか、アンビバレンツのような気分を起こさせるっていうかさ。

そして一行はガス欠、金欠に陥り、くだんの歯科医の車を乗っ取って、彼を殺してしまい、さらに当てのない道行きに向かって突進するしかなくなってしまうのだが……。
ラストがね、山の一本道、彼らが去った車を俯瞰で眺めて、そのこちら側の道路にUターン禁止のサインがペイントされてる画で終わるのだ。
彼らがこの道路に戻ってくるかどうかも判らないのに。それでも戻ってこざるを得なくて、彼らはただただその間を行ったり来たりを繰り返すのか。
あるいはこれは彼らの道行きを象徴してて、どこか未来に向かって走って行ったように見えて、そんなことなど出来はせずに、若者たちが自由に出来そうで出来ない閉塞感の中を抜け出せない象徴なのか。

多分、今なら、大人にイイ子を演じながら、突っ張ることだって出来ちゃうんだよね。彼らはだから……やってることは過激なんだけど、なんか正直で、だからどこか、気恥ずかしくて、胸が苦しくなるんだよなあ。★★★☆☆


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