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「れ」


2009年鑑賞作品

レスラーTHE WRESTLER
2008年 115分 アメリカ カラー
監督:ダーレン・アロノフスキー 脚本:ロバート・シーゲル
撮影:マリス・アルペルチ 音楽:クリント・マンセル
出演:ミッキー・ローク/マリサ・トメイ/エヴァン・レイチェル・ウッド/マーク・マーゴリス/トッド・バリー/ウェス・スティーヴンス


2009/6/30/火 劇場(渋谷シネマライズ)
今まで数々の復活劇はあれど、ミッキー・ロークはないと思ってた。というか、頭にも昇らなかったし、いつのまにか名前を聞かなくなったことさえ、気付かずにいた。
まあそれは、決して好きなタイプのスターじゃなかったからかもしれない……つーか、彼がスターだった頃は、私はまだイナカのティーンエイジャーで、とてもとても免疫が持てるタイプじゃなかったんだもの。
そう、ミッキー・ロークといえば「ナイン・ハーフ」であり、女たらしのエロスターという、役だけでその人となりまでイメージしてしまう、当時の私はそんないかにもなイナカの学生だったからさ。

しかも彼は、その姿かたちも劇的に変貌して復活を遂げた。いや、老けたとか、中年で腹が出たとか言うなら判る。なんと驚くべき、超人ハルクもまっつぁおの、レスラーそのものとなってスクリーンに返り咲いたのだから、そりゃあもう……驚いたなんてもんじゃない。
予告編を目にした時は、にわかに彼だとは信じ難いほどだった。だってあの身体は、ただ筋トレをやって身につくような、いわゆるボディービルダー型ではなくて、本当に、闘うための下地が出来た、鋼の鎧なのだもの。

特に一世を風靡した当時のミッキー・ロークを知っていると、確かに彼は趣味でボクシングなぞもやっていたけれど、スケスケのボクサーパンツ姿で登場し、猫パンチ程度であっという間にKOされた記憶が、ミッキー・ローク、スター伝説の終焉だと、彼をナイン・ハーフ時代から知る誰もが思っていたに違いないのだ……。
その姿が目に焼きついていたからこそ、このホンモノのレスラー姿に驚愕したんである。

それにしてもそれにしても。結局は大成功だったけれども、一体この若き監督はどこにその強い根拠を得て、この役はミッキー・ロークでなければならない、と確信したのだろう?
勿論、ミッキー・ロークが100パーセント役に生きたことが最も素晴らしいことなんだけど、でもこの監督の驚くべき確信が、ほぼこの映画の成功を決めたといっても過言ではないのだ。

今や「あの人は今」的な過去のスター、ミッキー・ローク主演でこんなハードな映画を撮ろうだなんて、特にあの猫パンチが脳裏に焼きついている世代ならば、彼にそんなこと出来っこない、大体彼はエロスターじゃないかと(……いや、若い頃のヘンケンの感情だからね)思ったに違いなく、この監督の慧眼には恐るべきものがあるとしか思えない。
確かに鋭敏な感性の監督ではあるけれど……だって彼だって、そういうことを知っている世代でしょ。それともミッキー・ロークのファンで、彼の真の姿を知っていたのかもしれない。などといろいろとどーでもいいことを妄想したくなるほど、ミッキー・ロークの変貌には驚いたのであった。

物語としては、シンプルかもしれない。つまり、ミッキー・ロークの衝撃で、最後まで引っ張ってしまえるほどのシンプルさかもしれない。こういう話、どっかで、というか、何度も観た覚え、あるもの。
かつて栄光を誇って一時代を築いたレスラーが、20年後、老いぼれ、落ちぶれ、かつて顧みなかった家族の大切さを知り、そしてひと時肌のぬくもりを楽しむ風俗の女に真の愛を求める、だなんてさ。
それこそレスラーの話でもそんなのあったような気がするし、歌手とか役者にも置き換えられたものなら、ごまんとあるような気がする。あるいはそんなエンタメの世界でなくても、一般的な会社員とかでの話でだって、よくあるようにも思う。

だからつまりこれって、主人公のレスラーに圧倒的な存在感がなければ務まらない話、なんだよね。
そうか、そのギャップを狙ったのかもしれない。だって誰だって、あのミッキー・ロークがあそこまで作り上げるなんて、思わないもの。
そういう意味で言えば、よく彼を口説き落としたな、とも思う。だって「かつてスターだったのに、老いて落ちぶれた」って形容、そのままミッキー・ロークに当てはまっちゃうんだもん……すんごい、自虐的な役なんだよね、これ。
でもミッキー・ロークはそれを充分に判った上で、それを観客に感じさせないほどのカンペキな肉体とそれに宿る魂を作り上げて、臨んだ。言ってみれば同じスタンスであるヴァンダムの「その男ヴァン・ダム」を思い起こしてみたりすると、その違いがハッキリするんである。

奇しくも先日、同じような年齢で頑張ってきた三沢光晴がマットの上で壮絶死した。この作品の公開とかぶっているのが、本当に皮肉というか……いや、運命的な感じがした。
この作品のラストは、死を覚悟したランディ(ミッキー・ローク)が最後の花道に飛び込んでいく……そんな雰囲気が満点だった。ロープから相手に飛び込むストップモーションだなんて、ちょっとメロドラマ過ぎるような幕切れだったけど、本当に奇しくも三沢選手の悲劇が起きたから、それがこの映画の公開中の出来事なのが、ひどく運命的に思えた。
多分、ラストのランディは、この試合で非業の最期を遂げる、だろう。それを覚悟して彼は臨んでる。彼を愛したストリッパーのキャシディも、だから止めに走ってきたけれども、でもこのリングの上にしか生きる場所がない、と確信している彼を引き止めることが出来ない。そして、涙をたたえて、リングに向かう彼を見つめるのだ。

このキャシディを演じるのがマリサ・トメイ。ミッキー・ロークの変貌にあまりにも驚いてしまってウッカリとリこぼしそうになってしまうけど、今回彼女もまたオスカーノミナーなだけあって、スゴイ。
いや、マリサ・トメイはオスカーに対しては強運なところがあるから、気にしてなかったんだけど、ちょっとビックリした。いや、ストリッパーなエロハダカでビックリするようじゃ、甘いかな……でもめっちゃエロエロなんだもん(爆)。
まあそりゃ、スター女優はイイ作品でハダカになることでオスカーへの道がぐっと近づくけど(今回のオスカー女優、ケイト・ウィンスレットしかり)、それにしてもこんなエロエロなのにはかつてお目にかかった記憶がない。
いやまー、それも、マリサ・トメイという、そういうのをやりそうにないサッパリ女優がやったから驚いたのかもしれない。ま、サッパリ女優だから、サッパリやっちゃったのかもしれないけど(爆)。

風俗の女が疲れた男の心の癒しになる、っていうのは、ほおんと、古今東西から定番なんだよね。それこそオスカーにノミネートされた「リービング・ラスベガス」のエリザベス・シューもそうだし、「プリティ・ウーマン」だってベタにそうだしさ。
でも本作においては、それが娼婦ではなく、ストリップダンサー、という、いわば踏みとどまった職であることはちょっと着目すべきなのかもしれない。
ランディはキャシディの扇情的なダンスにカネを払うけれども、お触りがある訳でもなく、キスすらなく、手を握るのだって出来ないぐらいなのだ。オッパイ丸出しで、ほっそいパンティの股をグワっとあけているのに、驚くぐらいプラトニックなんだよね。

それも彼女が、特にその線引きを厳しくしているように見える。他のダンサーたちはそうじゃないのかもしれないけど、キャシディだけは、客との“接触”(つまり、手を握るとかね)や、外で客と会うことなどを厳しく禁じている。
店のルールにあるんだろうけれど、恐らくしたたかな同僚たちはうまくやっているだろうところを、彼女はストイックなまでに、それを守ろうとするのだ……。
いや、それも、彼女にそんなことを求めてくるのは、ランディだけだったのかもしれない。なんたって彼女は客から「母親と同じ世代か?」なんて言われるベテランダンサーだったんだもの。
ランディとは旧知の仲で、お互いの気持ちを何となく察してる。いわば究極のプラトニックな関係だったのだけれど、ランディが心臓発作で倒れ、娘に会うべきだと彼女が薦めたところから、二人の中は急接近する。

皮肉にも、その娘は父親の彼のことを壮絶に嫌っているのだが……。
ランディが娘を「あの子はレズビアンかもしれない」と思っていたのは、子供の頃から見ていたからなのか、あるいはルームメイトの反応を見たからなのかは、ちょっと判然としない。
この要素は、正直、戸惑った。いかにもマッチョで、“家族のために”とか“不器用だから”みたいな理由で、家族を(というか、娘を)ないがしろにしてきたランディが、そんなことをキャシディに言うもんだから。
そう、ランディはいかにもマッチョだし(身体も心も)、もしか娘がレズビアンだったとしたら、もうそれだけで拒否反応示して、どうコミュニケーションとればいいか判らない、みたいなことはあるかもしれない。ただ、彼がどの時点で娘がそうだと思ったのかが判然としないからさ……。

心臓発作で倒れ、もうレスラーとして生きていけないことを悟ったランディは、キャシディの助言に押され、娘、ステファニーに会いに行く。
一度目は、これまでの父親の身勝手さを娘からぶちまけられて引き下がるしかなかったものの、キャシディとの“店外デート”で娘にプレゼントする服(彼が選んだのは、イニシャル入り、テラテラに光ったかなりダサダサのジャージの上着なのだが……)をゲット、娘とのデートも実現し、思い出の場所を巡って、「お前に嫌われたくない」と涙ながらの訴えも功を奏して、親子間の溝も埋まったように思えたのだが……。

こともあろうに、娘との食事デートの翌日、“仲間と飲みすぎた”ために、すっぽかしてしまったんである。
“仲間と飲みすぎた”というのは半分ウソで、寝過ごしたのは、その飲みに行ったバーで出会った若い女の子の“パーティー”に誘われ、ドラッグ&セックスに昇天したからなのだった。
トイレの中、バックでズコバコやっている二人に、ウッカリ入ってきた客が「こんなところで……」と眉をひそめるほど、まるで無意味な、獣のようなファックだった。
若い頃ならまだしも、分別もついた筈の、しかも翌日には愛する娘とのこれからの運命を決する夕食会が待っていたというのに……まったくこの男は、その千載一遇のチャンスをフイにしてしまうんである。

しかもキャシディにもフラれてしまうし……。
ランディは、彼女も自分を好いていると、確信を持っていた。そりゃあそうだ、だって彼女は確かに彼を好きだったのだから……でもそれは、彼が(恐らく)死のリングへと飛び込んでいく時に、ようやく告げられる訳で、その時にはもうランディは、彼女が自分を好いていようが、娘に絶縁状を突きつけられようが、もう、もう……関係ない、というか、違うステージ、最上のステージに上がっちゃってたんだよね。
20年前の因縁の相手との対決、その試合前、リング上でマイクを握った彼は言うのだ。「誰もが俺を老いぼれで、もうやめるべきだと言う。だけど、俺が辞めるべきかどうか決めるのは、ファンだけだ」って。そして愛してるよ、と、会場を埋め尽くしたファンに最上の言葉を捧げ、満員の観客のボルテージは最高潮に達する。

これまでベタな物語展開をしてきたのは、敢えて、だったんじゃないかと、思わずにいられない。
このメッセージをダイレクトに言ってしまえば、それこそ、家族も恋人(?)も顧みず、“男の夢”とやらを追及してやってきた、身勝手な男の話にしかならなかっただろう。
ま、本作だって結局はそうなんだけど(爆)それでも、やはり男の美学というやつは、どんな時代になっても守りたいらしいんである。
それこそ、妻の存在をスルーしても、娘をレズビアンにしても、恋する女性をストリッパーの、しかも子持ちにしてまでも(この事実はベタもベタ、「それで大抵男性は引く」っていうのも、いつの時代よと思っちゃった)、守りたいものなのだ。

……などと物語の筋を追うと、結局はベタなんだよね。この作品を唯一たらしめているのは、プロレスの世界の臨場感。
無論、ミッキー・ロークのオーラはあれど、これって、プロレスファンが見たら、それこそそんなベタな物語世界なぞにはまったく興味も行かず、このプロレスの世界の美学にハマるんじゃないのかしらん。
それは無論、プロレスがスポーツではなく、ショーであり、エンタテインメントであるという前提である世界、という点ね。
判ってはいるものの、プロレスにあまり明るくないと、彼らが試合前、対戦相手と「段取り」を打ち合わせする姿を見せる最初の場面には、やはりちょっと引いちゃったりするのよ。ああ、やっぱり、なんてさ。
でもそれこそ“判ってた”ことであって、それが彼らが誇るショーマンシップであり、プロフェッショナル精神であり、そしてレスラー同士の友情と信頼と尊敬であることが示されて行くと……わかっちゃいるけどグッと来ちゃうんだよなあ。

段取りも、時に試合結果さえ段取りで決められてる。それでも熱狂し、感動するのは、彼らの友情と信頼と尊敬の念が、そこにあるから。言ってしまえば全てが決められているが故の、友情と信頼と尊敬を感じる感動、なんである。
スポーツであってスポーツでない、エンタメだけかというとそうではない。特殊な世界であると思う。
そしてそれは、大昔から連綿と受け継がれているマッチョな“男の美学”というヤツに貫かれていて、女が付け入る隙などある訳がないのだ。だからこそ女はストリッパーでシングルマザーであり、娘は父親嫌いのレズビアン(多分)なんである。

試合で使う武器を、対戦相手と仲良くホームセンターに買いに行く場面は笑った……どんだけ仲良しなのよと。しかも試用しまくって金属板なんかベコベコにしちゃって「ズラかろう」って、中学生かよ!って。
……つまり、そういうことなんだよなあ。男はどんなにマッチョになっても少年で……誤解を恐れずに言えば、子供の頃から男の子はみんなプロレスごっこをしてて、ランディはその延長線上で……でもね、きっとそれは、男の子が幼い頃から無意識ながらも“男の美学”を判ってて、それを自分の軸にしていたんだよね。ナマイキだけどさ。

でも、なんにせよ、ミッキー・ロークなんである。それだけで、心から感動した。★★★☆☆


レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまでREVOLUTIONARY ROAD
2008年 119分 アメリカ=イギリス カラー
監督:サム・メンデス 脚本:ジャスティン・ヘイス
撮影:ロジャー・ディーキンス 音楽:トーマス・ニューマン
出演:レオナルド・ディカプリオ/ケイト・ウィンスレット/キャスリン・ハーン/マイケル・シャノン/デヴィッド・ハーバー/キャシー・ベイツ/リチャード・イーストン

2009/2/10/火 劇場(渋谷シネパレス)
レオナルド・ディカプリオ&ケイト・ウインスレットという黄金コンビだったりするからウッカリ、ハリウッド大作みたいな扱いで公開されてるけど、実はコレって……こんな大画面で観るのが辛いような凄い人の内側な話、なんだよね。哲学と言ってもいいぐらい。
確かに展開としてはドラマチック(というか悲劇的)な結末が待ってはいるけど、そしてそれを盛り上げる個性的な脇役も散見はされるけど、基本的に会話劇。その中に男と女のそれぞれの哲学が、深く掘り下げられている。
まさしく男と女の埋まらない溝を、これでもか、これでもかとどんどん掘りまくって、溝はどんどん深くなるばかりなんである。
会話っていうかケンカだから、どんどんお互いに感情的になって、理不尽だったり非常識なことにまでエスカレートしていくんだけど、でもそこにこそ隠しようのない本音があって、「言い過ぎた」とは言っても「ウソだった」とはとても言えなくて、だから溝は深まる一方なのだ。

劇中、浮気を告白した夫に彼女は言った。「どうしてそれを告白するの?」と。
そう、黙っていれば、判らないままにしていれば、良かったのに。何もかもを話し合おうなんてしなくていい。現に私はあなたと話したくない、と。
これは凄く俗っぽい方法で女の心理をついてるんだけど、確かに判りやすい。
それを告白して私に何を言えというのだ。許すしかないのか、あるいは許さない方がいいのか。
もうそんなことを聞くのさえイヤなのに、そんな次元の話じゃないのに、夫がそんなバカなことを告白してきたことに彼女はイラだった。
何もかも話し合って理解し合って、そんなことムリなのだ。いや、ムリというか、やるべきではないのだ。
人間は、特に男と女は、そしてひょっとしたら特に夫婦は……永遠に判り合うことなど不可能な関係だ。それを前提にしなければ、“幸せな家庭”なんていうイツワリは、壊れてしまう。 まあ、浮気をしたその日、家に帰ってみたら、彼の誕生日を祝う家族のパーティーが待っていたってのはキツクって、それが彼のトラウマになっていたのかもしれないけどさ……。

原作があるとはいえ、この物語がなぜ1950年代をベースにしているのか、なぜ現代じゃないのか、最初はちょっとギモンだったんだよね。このテーマなら現代の夫婦だってイケそうな気がしたから。
そりゃ、かの時代のファッションや文化は映画的にとても魅力的で、まるでハンフリー・ボガートやイングリッド・バーグマンがそこに生きていそうな(ちょっと時代がズレるか)上品なファッションや生活スタイルが、とてもステキだった。
でもだからこそ、その内面のドロドロとしたものがギャップとして生きてくるっていうのもあるし、何より今なら……特に女の方は、こんな苦しい思いを耐える前にきっと夫と別れてしまうと思う。
今の時代、特にアメリカなら、女が子供かかえて一人生きていくことぐらい、タイヘンだろうけど不可能ではないんだもの。だってそれこそこのエイプリルだって一時は、夫を休ませて高給の大使館秘書として働こうと思っていたぐらいなんだから、それなりの才覚はあったはずだしさ。

この時代はまだまだ、女が働いて生きていくなんてことが、白い目で見られていた。いやそれでもエイプリルは、家庭のためにタイクツな仕事に甘んじている夫を見かねて、憧れの新天地パリで、新しい人生を見つけようと提案したのだ。
私が稼ぐからあなたは休んでいて、と。その点、彼女は実に進歩的ではあったのだけど、でもそれは、パリでそれをやろうと思っていたからこそ、だったんだよね。
このアメリカでは出来ない。女房を働かせて夫がブラブラしているだなんて、という、実に判りやすい冷ややかな視線が降り注いでくる。
そこには、じゃあ夫が妻の替わりに子育てや家事をやるんだ、っていう空気もないんだよね。夫のフランクもそれをやろうという風でもなくて、パリに行ったら本を読んだりしてゆっくり過ごして、自分のやりたいことを見つける、なんて寝ぼけたことを言ってる。
その点こそ、現代の視線で見たらありえないことなんだけど、この時代では、女房が夫を食わせるという点だけが、ありえないことなのだ。

その点は奇妙なほどに触れられないのだけど……エイプリルが家事に忙殺される描写は何度となく出てくるのに。いや、というか、彼女は家事をすることで、自分を殺している、というか、時間をなんとか潰してモヤモヤする気持ちを押さえ込んでいる、と言った方が正しくて……そのことに夫がちっとも気付いていない、考えも及んでいないことが問題だったのかもしれない。
いや、それは彼女自身も気づいていなかったのかもしれないんだけど……。

そもそもエイプリルは、女優になりたかったのだ。二人の出会いの時、彼女の方がキラキラ輝いていた。女優を夢見ている女の子と、盲目的に輝く未来を信じているフランクは瞬く間に恋に落ちた。
エイプリルは、フランクが何かを成し遂げる無限の可能性を持った男だとムジャキに信じていたし、自分の女優の夢も成功させるつもりだったんだろう。
でも次のシーンではもういきなり……彼女は市民劇団の旗揚げ公演の舞台に立っていて、そのあまりにつまらない芝居に観客は「ようやく終わった」とつぶやくぐらいヘキエキしているんである。

既に二人は結婚していて、見たとおりエイプリルは女優の夢をかなえることは出来ず、趣味として続けようと思った出来の悪い素人芝居に、どん底に叩き落とされている。
一方のフランクはやけに理解のある夫然としているけれども、無限の可能性があったハズの彼は結局、父親の勤めていた会社に(恐らく)コネで入り込み、つまらない仕事を惰性で続けている。まあ、時には秘書の女の子をつまみ食いしたりして。
そしてグチばかりを言って、家族のためにガマンしてるんだ、ぐらいに思ってる(のは、後のケンカでの台詞であっというまにバレるんである)。 何にでもなれると思っている若い頃。でも結局、自分も平凡な人間だと判ってくる。それならまだいいんだけど、自分のパートナーに対してそれを認められないのは、相手にとって自分がそう思う以上にツライ。

二人が郊外の、小洒落た家に越してきたのは、子供ができたのがキッカケだった、というのは、後に知れる。
最初は不動産業者の中年女性、ヘレンが二人に、レボリューショナリーロードに建つこのカワイイ家を勧める場面で、その時点で二人は……後から考えるとちょっと気まずそうな感じはあったけど、でも、幸せそうに見えた。
案内してきたヘレンも、あなたたちみたいな人に住んでもらえて良かったと、あなたたちは特別な夫婦だと言ってやまなかったし。

確かに二人はスマートな美男美女で、それはご近所付き合いしている夫婦たちと比べても明らかに違ってた。それを二人も意識していたんだけど……でもそんな虚飾を、自分たちで一枚一枚、血を流しながらはがしていき、つきつけられるのだ。ちっとも特別なんかじゃない、平凡な夫婦に過ぎない、って。
これは後から判ることなんだけど、子供ができたことが、二人の人生を大きく変えた。
それを失敗だと思いたくなくて、二人目を産んだ、なんて台詞がケンカがエスカレートした結果出てきちゃって……うっ、絶対、子供には聞かせられない台詞……でも、結局、その果てしない議論の結果、エイプリルは三人目の子供を堕ろしてしまうんである。

あのね、それこそこれが現代ならば、こんなに心の血を流すほどの議論をぶつけあうこともなく、いくらだってスマートな選択が出来たと思うんだよね。
それこそ三人目を妊娠したぐらいで、パリに移住する計画が崩れることはなかった。異国で赤ちゃんを産むぐらい、なんてことない。
それは、ヘレンの息子、精神病を病んでいるジョンがさらりと言ったことなんだよね。「妊娠したから?パリで赤ちゃんは産めないの?」と。
あるいはそれを言い訳にしたのかもしれない。そうだ、この時代だから手続きとか言葉の問題とか現代以上に色々タイヘンではあるけど、不可能ということはない。
実際、フランクは妻の妊娠に驚いたけど、ホッとしていたんじゃないのか。パリに行かなくて済むって。

それは、テキトーにこなした仕事が思いがけず評価されたために辞職の話を切り出せずにいた、ってこともあるけど、でも彼はパリ移住を決めてすぐには辞職願いを言い出してなかったんだもの。
同僚たちには意気揚揚と告げていたけど……それはやはり躊躇があったのか、それとも同僚たちに「女房に食わせてもらうのか」と言われた台詞に鼻白んでいたことが原因だったのか。
エイプリルの妊娠で結局パリ移住を断念した時、同僚たちはしたり顔で言ったものだ。最初から現実的じゃなかったものな、と。ファンタジーを夢見る女房の尻に敷かれていると言いたげだった。それに対してフランクは何を言うことも出来なかった。
多分それは……彼自身もそう感じていたから。ただ、それを実行できる強さを自分自身だけでは持っていないことを、出来ないのに吠えているだけだということを気付いていたかどうかまでは判らない。
だって確かに彼の夢だったに違いないんだもの、パリに住むってことは。何もかも捨てて家族で移住する、そう宣言することに鼻高々でいたことは間違いないんだもの。

ジョンが、二人の心をズバリ、言い当てるんだよね。そりゃ、一見してキョドっててナナメにモノを見ている風の彼は、天才が思いつめて病んでしまうと、こうなるってな、いわばベタな造形ではあるんだけど……彼は実にクレバーに全てが見えている。それを遠慮なく二人にぶつけてくる。
だから、パリ移住に本気だった頃の二人は、ジョンだけが自分たちの気持ちを理解してくれている。だったら私たちもビョーキなのかしらネ、などと笑い合うほどだったのだ。
それは……「絶望的なほど虚しい」この地から、パリに行くのだ、という言葉に、ジョンが反応したことだった。「絶望、は勇気がなければ言えない」と彼は言い、二人の決断を肯定的に迎えた。
ジョンこそが、絶望の中にいるのにそれを口にする勇気がないことを、自ら認めているような、そんな何とも言えない虚無感に溢れていた。それをエイプリルとジョンは感じ取って、彼に心からシンクロしていた。
そうだ、あの時、夫婦は本当に結びついていたのに。
そして二人、盛り上がっちゃって台所でセックスしちゃうぐらい。フランクは、「僕は今、戦争に出る前のような気持ちだ。勿論恐怖もあるんだけど、それ以上に血がたぎっている」と告白した。戦争を結局肯定的に見てしまうあたりがアメリカ的だな……。

エイプリルの妊娠が発覚して、パリ行きを取りやめることになり、それに対してジョンが実にシンラツな言いようをしたことから発展した夫婦ゲンカが、決定的な決裂をもたらす。
エイプリルはただ、タバコをくゆらして黙って聞いているだけだった。フランクの方だけが激昂した。結局、奥さんを孕ませることしか出来ない男だと言われて。
この地に絶望的に虚しさを感じていたんじゃなかったのか、結局カネか、そこが一番落ち着く価値観だから……でもその間、エイプリルはただただ黙ってタバコをくゆらしているだけ。
そういえば妊娠が判ってからも、彼女は酒もタバコも切らさないんだよね。この時代にはそういう害は判ってなかったのかなあ……。

ジョンたちヘレン一家が帰ってから、二人は大衝突する。自分の言いたいことを言ってくれたとでも思っているんだろ!と怒鳴るフランクに、エイプリルは表情をちらとも動かさずにそれを肯定した。
エイプリルが密かに用意していた避妊道具が見つかって、フランクは激昂して彼女に詰め寄る。君は冷静さを失って、バカな選択をしようとしている、と。
確かに、パリに行くことにこだわって、というか、夫の人生を輝かせることにこだわって、授かった子供を堕ろそうとするなんて、正気ではないに違いない。
でも……ああ、こんなことを言ってしまったら、いけないんだろうと思うけど、彼女の気持ちが判ってしまうのだ。というか、全編通して、妻と夫、それぞれ、常識的であったり、非常識であったり、理不尽であったり、支離滅裂であったり、場面ごとに感情に任せて凄く変動が激しいんだけど、これに同意したら絶対マズいよな、と思う場面でも、エイプリルには常に……共感してしまうんだよね。

それは、パリ移住を実現させるために子供を堕ろそうと密かに準備していた彼女にさえ。
そりゃあ、フランクの言う、君は冷静に判断できなくなっている、という台詞はもっともなんだけど、エイプリルに共感しちゃ絶対いけないんだけど、このせっぱつまってしまった彼女についついシンクロしてしまうのは……この時に妻を諭す彼の言葉がウソだと、もう既に気付いてしまっているから、妊娠が判ったら彼は、“常識的に”そう言うだろうと判ってしまっているから、なんだよね。
案の定フランクは、いったんはパリ中止として収まった後に、ジョンの挑発でケンカが再燃した時、「本当は堕ろしてほしいと思っていたよ!」と絶対に言ってはいけない言葉を口走ってしまう。
だからね、これが、本音なのだ。いくら後から取り消そうとしても、せいぜい言いすぎた、としか言えない。ウソだったとは言えないのだ。
妊娠したと聞けば、中絶しようとしているのを知れば、常識人としてこう動くしかないだろ、でも本当は堕ろしてほしかった、だなんて、そんなこと判ってたのにわざわざ言われた女の側のショックをなぜ考えないのだ。
でもそれは、男の側からも、散々言いたいことはあるんだろうけど、私は女だから受け付けない(爆)。

あの時、ジョンの捨て台詞が一番キョーレツだったんだよね。「今まで幸せなことなんてなかったけど、ただひとつだけ良かったことは、そのお腹の中の子供じゃなかったことだ」と。
うっわ、シンラツ……この時点では一応エイプリルは産む方向でいたのに、まるでその言葉に導かれたかのように、堕ろすことを選択したんだよね……。
ただ、その前にひとくさりあるんである。キョーレツな夫婦ゲンカの末、森に逃げ込んだエイプリルをフランクが追う。あなたとは話したくない、どうしたら黙ってくれるの、一人にして、と拒否しまくる妻を、やむを得ず彼は残して戻り……でもひょっとしたらこの時、彼女を残さなければ……なんてそれこそタラレバなんだけれど。
だってエイプリル、あの時、去っていく彼の背中を見て、一歩、二歩と歩を進めて……そして木にすがりついて、泣きじゃくったじゃない。

で、次の日、彼女はやけに穏やかで、夫にスクランブルエッグの朝食など作ってくれた。子供たちは外に預けて、夫婦水入らずの朝食に彼は素直に感動したのだ。男って、バカだよね。どうしてこれが不穏な前触れだと気付かないのか……。
フランクが取り上げた筈の中絶用ゴムポンプを、エイプリルはその手にしていた。夫を送り出し、洗い物をしながらこみ上げる思いを抑えられず泣きじゃくり、そして……。
バスルームから戻ってきた彼女は、窓の外を眺めていた。その絨毯にぽつりと血が滴った。カメラが引くと、スカートのお尻には大量の血がべったりとしみていて、そして彼女は救急車を呼んだ。

あのね、秘書をつまみ食いしてたフランクに対抗する訳じゃないんだけど、エイプリルも一回だけアレしちゃったんだよね。
妊娠が判ってパリ行きを断念した後、友人夫婦で飲みに出かけたダサイカフェで、酔った友人妻のミリーをフランクが送っていって、その夫、シェップと二人きりになったエイプリルは、やたら情熱的なダンスを踊って彼に火をつけてしまって、車の中でコトにおよんでしまう。
もともとこのシェップはエイプリルに懸想していて、この場で愚直にも愛しているなどとバカなことを言ってしまうんだけど……恐らくそんなこと、エイプリルは判っていたんだろうな。それは言わないで、とクールに挿入だけを促がす。
フランクとミリーは知らなかったんだろうけど。ってあたりが、なんとも……。

ミリーはね、なあんにも疑ってない、幸福な生活を送っていると信じてやまないって感じで、夫のシェップが何を抱えているかなんて、知る由もないっていうかさ。
エイプリルとフランクがパリ移住の話を持ち込んできた時、シェップの「現実的じゃない」という台詞にほっとしたように、ああ、良かった、私も!と言うのね。
夫の感じた気持ちとは全然違うに決まってるんだけど……シェップは懸想しているエイプリルが遠くに行ってしまうことにショックを受けている訳でさ。
ただミリーがこの時、「あなたもそう思っていてホッとした」と言って涙を流したのは、気になったんだよね。彼女は、自分が平凡であることに臆する気持ちがあったんじゃないかって。ミリーもまた、エイプリルとフランクのことを特別だと思っていたんだもの。
あの涙は、虚偽の尊敬をはがした、嫉妬よりも深い、自分たちこそ真の世界を判っているんだ、夢見ているインテリとは違うんだ、という気持ちだったんじゃないだろうか……。

それは、エイプリルたち家族をまずこの土地に引き入れたヘレンなんだよね。彼らを特別な人たちだと尊敬し、だからこそ病んだ息子のジョンを引き合わせた……ハズなんだけど、この映画の最後の台詞で全てが崩壊する。
いい夫婦だったわよ、と言いながら、でも変わってたわよね。付き合いづらくてタイヘンだったのよ、と。何言ってやがんだ、オメーの方から散々押しかけて、息子に会ってくれないかと言っていたくせに!
それを黙って聞いている夫の、ストップモーションかってなぐらいの、身じろぎもしないカットでエンドというのが、ひどくシニカルで。
だってつまり彼は、恐らくこんな事態に慣れているってことでしょ。次にこの家に入る夫婦を褒めちぎる妻に「エイプリルたちだって、いい夫婦だと言っていたじゃないか」みたいに絶妙に突っ込んだりしてさ。

つまりはこれこそ、……イヤだけど、夫婦が長続きする理想の形態なのだろうと思う。超理想だと思う。ありえないほどに。
この夫婦は、お互いに隠していることもないと思う。イヤな部分はハッキリと見えていて、でもイヤなことに対してそれは違うとか、決着のつかない議論をすることをしないんだよね。イヤだと思っていることを、仕方ないことだとスルー出来るって、若い頃には……ていうか、私世代でさえ、難しいと思う。
それはやはり、この時代背景だからなのだろうか、この夫がヘレンの言い分に納得しているハズはない。だって、聞いてないもの。イヤホンして、途中から完全に表情を失ってる。
でもね、彼は彼女を愛しているんだよ。完全なマリアだから愛せないのなら、この世界は滅びている。だって自分だって、完全なアダムじゃないのだから。

恐らくヘレンたち夫婦以前の時代には、そんなことを考える自由さえ与えられなかった。自由の時代になって、女が女優になる夢を見られるようになって、子供を産み、家庭を守るだけの存在以外の可能性を見いだせる時代になって……その初期だからこそ、起こった悲劇だったんだよね。
でも、だからこそ、そんな時代になったことが良かったのかどうか。でもそう考えてしまえば、女に自由は永遠に訪れなくなる。でもそのせいで、人間滅亡の危機が訪れるのならば?
判らない、だからといって、ニワトリみたいに閉じこもってたまごを産めと言われるのはイヤだもの。

エイプリルは結局、自分だけで施した中絶で大量出血して、死んでしまった。フランクは子供たちを連れてニューヨークに移り住む。
ニューヨークに行けるなら、それぐらいやってあげれば、エイプリルはあんなに息詰まることもなかったのに。
まあ、フランクの能力を買われて、ニューヨークへヘッドハンティングされたからだけど、でも……。
なんかね、最後はフランクが寂しげに哀しげに、遊んでいる子供たちを眺めている場面で終わるのが、女としては解せないのだ。
だって、最初から最後まで苦しんだのはエイプリルじゃん!まあ……かなり自分勝手でゴーインにコトを進めたところはあるけど。
そのあたりが、女性が進出しながら基本的に最も男性至上主義がぬぐえないアメリカならでは、なのかなあ。

レボリューショナリー。革命的。それをなしとげられそうだったのに、結局は保守の波に沈んだ二人。

大人の男がやっぱりイイわー。……それは自分の気持ちを押し込めているにしても。押し込められることも大人だと思う。勿論それは、女もそうだけどね。
全てをさらけだして、それでも判ってほしい、なんてさ!!!
女はやらないよね。全てなんて、話す訳ない。秘密をいっぱい持ってる。のは、それが円満の秘訣だって判ってるから。それを、隠しごとがあるとか糾弾されてもなーってことでさ。
信頼すること、それは隠しごとがあるという前提。それは確かにとても難しいことだけど、多分過去はそんなこと、織り込み済みの、当然のことであって、それこそがフツーの人間関係の付き合いってことだと思うんだよね。
お互い拘束したがる男女に置き換えるから、難しくなるだけで、親子でも友達でも、当然隠しごとはあることを考えると、全然、ヘンじゃない、ウラギリなんかじゃないんだもん。
だって、思っていることを全部言っちゃったら、夫婦や恋人は愚か、友達も、家族でさえ、離れてしまうよ。それだけ人間って、ドロドロした恐ろしい生き物なんだもん。皆、判ってるでしょ。

ディカプリオって、昔はあんなに美少年だったのに……。
一度太ってから、結局戻らなくなったなあ。ギリギリ、デブってわけではないんだけど、でもやっぱり違う。
一方のウィンスレットは、以前から大人の女の魅力があった人だけど、いよいよ素晴らしい。そうか、メンデス監督と結婚したのがウインスレット。妻の女優としての素晴らしさをここまで引き出せるのは凄いよなー。★★★☆☆


シネマ歌舞伎 連獅子
2008年 分 日本 カラー
監督:山田洋次 脚本:
撮影:音楽:
出演:中村勘三郎 中村勘太郎 中村七之助 片岡亀蔵 坂東彌十郎

2009/1/16/金 劇場(東銀座 東劇)
「らくだ」との二本立て。大いに笑った後は、とにかく圧倒される。うおお、圧巻。そらあまあ連獅子ってのはビジュアルイメージはあったけど……あの大きな毛を手元で掴んでぶんぶん振り回すっていう、でもそれこそコント的なもので植え付けられたイメージだけだったんだわ。
それがこんなに圧倒的でこんなに素晴らしいものだとは……映像で見ているだけでもこんなに圧倒されるんだから、実際に見たら、あの客席のお客さんのようにスタオベしてしまうだろうと思っちゃう。

というか、それこそぶんぶん振り回す場面のイメージしかなかったので、これがこんな、ある程度の尺を持った演目だということすら知らなかった(爆)。バックのコーラス?隊が何を唸っているのかも全然わかんないんだけど、まーこれはいわゆる“舞”を見てるだけで充分に圧巻なんだもん。

しかも実際の親子三人。子の二人、勘太郎と七之助が子獅子を演じるんだけど、三部立てになっている構成の前半では、まだ獅子ではなく狂言師。それがまたなんというか妖艶な雰囲気で、二人で舞っているとその妖艶さが実に妖しい雰囲気、耽美な雰囲気を持って迫ってくるもんだからドキドキしちゃう。
しかもお兄ちゃんと弟、白塗りをすると妙にソックリで、その相似系な耽美がまたゾクゾクとさせる。父親の荘厳な舞とあいまって、その美しい躍動感がたまらんのだ。

彼らは“子供”だから、前髪があるんだよね。その感じがまたいいんだよなあ……。
恐らく親獅子が子獅子を崖に落としたと思われる、花道に二人が下がってそこで舞う様子がまたいい。あの狭い花道で座した状態で高々とジャンプしてピタリと止まるのにはドギモを抜かれてしまう。
いやー、いわゆる日本の舞ってさあ、静のイメージばかりがあったんだけど、この複雑で幾何学的な美しさの振り、ジャンプの高さ、身体の線の柔らかさ、これはまさにダンス、ダンスなのだわよねえ!

彼らが舞う第一部と第三部の間の第二部は、どこかコミカルな仕立てで間をつなぐ趣。
法華僧と浄土宗の僧が清涼山に向かう旅の道連れとなって、これはこれは疎ましい者と道連れになったものよ、とごち、それぞれの信仰の方がどれほど素晴らしいものか、と見得の張り合いをする。
唯一この場面だけは、役者が自ら発する台詞の意味が割合と判るものだから、それこそコントを見ているかのように楽しめる。そう、これこそ、まんま狂言だよね。
お互いを数珠で威嚇?し、してやったりと「うーふーふー」と笑い合う様など、おもわず吹き出しちゃう。しかしこの場面が連獅子とどう関係があるのかは判らんのだけど……まあそれを言ったら、見ている時には第一部の狂言師と第三部の獅子がどうつながるのかも判っていないのだけどさ。

第三部で獅子の舞になるのは、手獅子を持って親子を演じていた狂言師に、獅子の精が乗り移った、ということらしい。ま、でもそんなことを知らなくても充分に楽しめる、というか、ただただ圧倒!
第一部はアクロバティックな舞でもその美しさに見惚れていたようなところがあるんだけど、第三部はあのクライマックスの“毛振り”に至るまでただただ野性的。
いやあ……それにしてもあの“毛振り”がこんなにも凄まじいものだとは。あれ、本当に脳みそが液状化しそう。よく目が回らないなあ……などと、ついついくだらないことを悩んでしまう。いやそれこそがプロ中のプロだからなんだけどさ(爆)。
いやー、でもさ、歌舞伎なんて見たことなくて、それこそワイドショーぐらいでしか彼らの顔を見知ってないと、いかに鍛え上げられたプロであるかということが、ほんっとうに判ってなかったんだなと痛感する。この圧倒的な伝統を今に残している世界ってのはホントに凄いもんだ……。

三人の後ろで三味線や笛や鼓、そして素晴らしいノドを聞かせるひな壇のお歴々が、これまた素晴らしいのだ。時々は彼らの方に引き寄せられてしまう。
それこそさー、鼓を打つ時の、イヨー、とかイヤーとかって言うの、コント的なイメージで植え付けられていたからさ(それこそどうでしょうの効果音とか(爆))そ、それがこんなにカッコイイものだとは(汗)。三味線は三人の弾き手が順番にソロを聞かせ、その超絶技巧に拍手が巻き起こる。うう、まさにライヴではないのお。

舞台上に役者がいない間、彼らがつなぐんだけど、つなぐなんて感じでさえなくて、本当にライヴ、なのよね。
そしてこの時ばかりは、それまではあくまで役者の背景で演奏してきた彼らにカメラが寄る。そのソロの三味線や、息を詰めて集中して清冽な音を聞かせる鼓、鬼気迫る笛を聞かせるお兄さんたちはエラくカッコ良く、ウッカリ惚れそうになってしまう。
そう……第三部の獅子を迎える時に、静寂の中、なんとも息詰まる間を保って鼓を聞かせるところなんて、ゾクゾクしちゃう。いやー、ステキ、ステキ、ステキ。

更に言うと、獅子たちに小道具を手渡したり乱れた毛を整えたり(これには思わず微笑んでしまった)お兄さんたちの、静かな佇まいと最小の動きの美しさよ!あ、ついでにお顔も実に美しかった(爆)。

これって山田洋次監督、になってるんだけどさー、舞台の演出の段から関わっているのかしらん?
確かにね、カメラアングルとかは気を使っている感じは受ける。それこそ実際に舞台を見ているんじゃ決して見ることの出来ない俯瞰からの眺め、あるいは花道の真下から仰ぎ見るような眺め(そこから見る子狂言師二人のジャンプは圧巻!)は、シネマ歌舞伎ならではといったところなんだろう。俯瞰の眺めで見る舞は、二次元的な歌舞伎の舞台を三次元に見せるような魅力を持っている。
更に、中村勘三郎が大見得を切りながら一人舞う場面は、カメラが存分に彼のアップの表情などもとらえ、劇場で見る歌舞伎、という一つの醍醐味を見せてくれる。そうでなきゃ、こんなところで歌舞伎を観たってウソだと言われかねないもんなあ……実際私だってそう思ってたし。

もしかしたら実際の劇場よりも、中村屋!の掛け声だってクリアに響いてるかもしれない。
それにしてもあの掛け声もまたカッコイイんだよね!そらーこんなん見たら、中村屋!って言ってみたいーっ!って思っちゃうけど、ムリムリムリ。
ああいう合いの手を客席から入れられる人って、いったいどういう人生?を送ってきているのかしらん……いやいやいや、観客までもが完璧に様式美を育て上げている凄まじさよ!
あ、でも掛け声をかける専門家(大向こう)が、ちゃんと用意されてもいるんだそうで……へえー。知らないことばかり。★★★★☆


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