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南風
1939年 72分 日本 モノクロ
監督:渋谷実 脚本:伏見晁
撮影:杉本正二郎 音楽:早乙女光
出演:田中絹代 徳大寺伸 佐分利信 河村黎吉 若水絹子 笠智衆 松井潤子 氷川澪子 水戸光子 葛城文子 岡村文子 二葉かほる 近衛敏明 高松栄子 日守新一 江坂静子 春日英子 谷麗光 仲英之助 大杉恒雄 葉山正雄 松尾千鶴子
で、あっという間にオチ近くまで話をぶっ飛ばしてしまいましたけれども(爆)。
しかしね、渋谷監督と田中絹代が組んだ作品を観るのは「母と子」についで二度目で、かの作品の彼女(というよりは母親の方が)あまりにも可哀想な展開だったので、本作もハラハラしながら見始めたら、本当にあっという間に彼女がどんどん不幸になっていくもんでビックリって感じで。
でもね、いやきっと大丈夫、いい余韻を残して終わる……という予感があったのは、何たってこの音大生、道雄の存在があったればこそなんである。
いるじゃん、もう登場した時から感じのイイ人って。しかしこの彼があの「母と子」ではヒドイ男の役柄だってんだから、さすが役者という感じだけど。
田舎から恋人の徹を追って出てきた菊子が、身を寄せた東京の叔父さんのところに下宿しているのがこの道雄で、引き合わせるお女中さんが「とってもサッパリしていいお人なんですよ」と言わなくったって、もう登場した時からそんな雰囲気を醸し出しているんである。
あ、きっとどんなに彼女にひどいことが怒っても、きっと彼が救ってくれるに違いないという予感がして、それが果たしてそのとおりになるんだよね。
しっかしこのお女中さんの方が、もっとサッパリしてるけどね(笑)。最初から菊子に興味シンシンの道雄に、自分が引き合わせたくせに、あらあ、てな顔してパタパタはたきなんぞかけるのには爆笑!
しかも、雇い主である菊子の叔父夫婦が大変なケチで、菊子が来た途端にもう女中の手はいらないだろうと彼女を追い出しにかかろうとするのを、全くあの人たちは、てな感じで菊子にアッサリ告げ口(と言うとしんねりしてそうだけど、ホント、アッサリ、サッパリなんである)するあたりも可笑しい。
ホント、この叔父はいかにも倹約家の関西人って感じで、手土産も持たずに上京してきた菊子をちくちくとイビリ(しかし土産がないことを、あんなにいつまでも言うのも可笑しくてさあ)しかし菊子がアパートを借りてここを出ると言うと、そんなお金があるんなら食費を入れてくれてここにいた方がいい、と。
口では親切に聞こえるけれども、手のひらを返したようとはこのことで、つまり菊子にそれだけのまとまった金があると知った途端にコレで、しかも彼女が家にいれば女中を雇うムダもはぶける、といった調子だから、先のお女中さんが呆れるのもムリはないのよね。
ところで、菊子になぜそんなまとまったカネがあったかというと、上京して再会した同級生のかほるが貸してくれたからなんである。
これまたあっという間に登場して、偶然も何もあったもんじゃないというぐらいアッサリ路上で再会しちゃうあたりの展開の早さ。
でね、彼女ももう登場した途端、あ、コイツ悪女だってすぐに判っちゃう。まあそれは、和服で小柄で楚々とした内気そうな菊子と対照的に、スラリとした長身で洋服をモダンに着こなして、華やかな化粧の美人、という判りやすい対照であるのもそうだし、お金持ちのお嬢様の彼女が「もう洋裁学校なんて飽き飽きしちゃった」と、なんでもなさげに大金を菊子にぽんと放り出すように貸す辺りからもそれはうかがえるんである。
果たして菊子とは同級生以上の親しさがあったかどうかも疑わしく、だってねえ、菊子の恋人の徹をあっという間に奪っちゃうんだからさあ。
その徹ってのがまた!あのね、菊子が上京する時に、田舎のお兄ちゃんと大喧嘩して飛び出してきたんだけど……そのお兄ちゃんが言うに、アイツは軽薄でくだらんヤツだぞ、とね。その時には、男を追って上京しようとする妹を牽制するベタな言い様だと思っていたんだけれど、果たしてこれが、マジでまんまその通りなんだもん!
徹こそ、もう登場した途端に、あ、コイツダメだ、と判ってしまうあたりがコワい。もう見るからに軽薄で、菊子に対して全然真剣じゃなくて、彼女の想いなんて汲み取ろうともしないことが丸判りなんだもの。
だってね、訪ねてきた菊子に喜ぶどころか開口一番が「電報ぐらい打ってくれれば良かったのに」それってなくない!だって菊子は何もかも捨てて出てきたのに!現代ならいざ知らず、この時代に女一人が男を追って都会に出てくるなんてことが、どんなにタイヘンなことか!
しかもね、二言目には「これからどうするつもりなんだい」……ううううう、そ、そりゃ、女が男に頼って生きていくなんてことはヨシとしないけど、それもまたこの時代なら全然アリだし、何たって菊子がここまで思い切った行動に出たのはもちろん、徹との結婚が頭にあった筈で、何より彼がそれをほのめかすぐらいのことはあった筈でさ……。
どうするつもりもこうするつもりも、テメーがなんとかしようという気持ちはないのか、恋人がここまでの行動を起こしたのに!ともうもう、このしらっとメイワクそうな顔した男をぶん殴りたくなるんである。
しかもそこに、あのかほるがアッサリと割り込んでくる。事情を知ってか知らずか、いや思いっきり知ってるクセに、懐が暖かいお嬢様の彼女は、外食や登山に彼らをお誘いするんである。
いや、彼らというか、彼。なあんか最初っから、徹とやたらと意気投合してるのよね。
そりゃ確かに菊子は徹が言うように「内気なくせにガンコなところがある」のかもしれない。かほるが徹と最初から仲良さそうに身を寄せ合って話していることに不機嫌になって、外食先から先に帰っちゃったりするのは子供っぽい行為なのかもしれない。
でもねでもね、せっかく徹を頼って上京してきてさ、二人きりの時間を大切にしたいのにさ。相談したいことだっていっぱいあるのに、そんなのも全部後回しで、かほるの誘いにホイホイ乗って、更には彼女と二人で山登りにさえ行こうとするなんて、お、お、お前ー!!!しっ、信っじられない!!!
ていうかさ、だって徹は最初っから、菊子がここにいることにどこかメーワクそうなんだもん……。菊子が徹の下宿のおばさんに奥さんと呼ばれて「決まり悪いわ」と言いながら頬を染めて嬉しそうにしているのを見て、彼女には気付かれないようにではあるけれど、ハッキリと冷たい顔をするんだもの。
んでもって、山登り事件である。かほると、そして徹の友人も交えて(さすがにね)山登りに行ったまま、彼は帰ってこなかった……同じ下宿先の友人に「京都に帰って親たちと今後のことを相談してくる」ということ付けを菊子に残して。
しかし、何かヘンだと察したのか、菊子がふとかほるの部屋を訪ねてみると……いきなり出てくるのが徹なんだもん!
オイー!もう、ここまでだって展開が早すぎたのに、こ、こんな……早すぎだろ、そしてヒドすぎだろ!……ううう、なんてひどい男なんだ。
しかも彼と対峙して、お腹に赤ちゃんがいることを告げる菊子、って、う、うっそお、あ、赤ちゃん!?しかもそれを聞かされても徹は「君には悪いと思ってる。責任をとるつもりだ」他の女の家に転がり込んで、どー責任をとるってゆーんだよ!
そう、菊子は捨てられたんである……それでも彼女は女一人勤め先を見つけ、そこの同僚の女性、敬子は親身になって菊子を心配してくれる女の子で、その存在は道雄と共に本当に救いになるんだけれど……でも……。
勤め先で気分が悪くなって早退した菊子は、赤ちゃんを産んだ。叔父たちも冷たいもんで、駆けつけてもくれなかった。
以前より思いつめた菊子を見かねて、何くれとなく声をかけていた道雄は彼女の元に駆けつけた。これもね、あのお女中さんが菊子があまりに可哀想だからと道雄に知らせてくれたんである。そして彼は「よし、僕が行ってみよう」ともんのすごくアッサリと立ち上がってくれるもんだから、ぜ、全然深刻度がない……。
でも、このアッサリ加減に最後まで助けられるんだよね。展開の早さもそうだけど、これってリアルに綴っていったら……あまりにツラすぎるんだもん。
ひっそりと横たわる菊子の枕もとで、「ビックリしちゃったなあ」と、これまたカラリと言い放つ道雄。言葉ではそう言っていても、ちっともビックリしているように聞こえない(笑)。
いや確かに相当ビックリしているに違いないのだが……だって彼は、彼女のお腹に赤ちゃんがいるなんてこと、知らなかったんだから。
それでも「ビックリしちゃったなあ」で終わらせ、ここに父親である徹さえもいなくて、菊子が一人で赤ちゃんを産んだことに男らしく怒りを覚え、ヨシ、僕が談判してやる、と徹の元を訪ねてくれるのもステキなんである。
しかし、彼が思った以上に徹はくだらない男でさ、一応は養育費の話に耳を傾けもするけれども、「しかし君はどんな権利で僕にそんなことを言うんだ」などと自分の責任も棚にあげて、さもイヤそうに言うもんだから道雄は、「君はクダラン男だ。話す価値もない」と激昂して帰ってきてしまう。
いやいやいや!判断が早すぎだろ、何しに行ったんだよ!いや確かに徹はクダラン男で、話す価値もない男だろうが……。
いや、ね。道雄自身が菊子を幸せにするつもりがあったからなんだよね。菊子の同僚、敬子から請われなくても、「僕は菊子さんを幸せにしてあげたい」と何の迷いもなく言ってくれてさ。
まあ、この迷いのなさは、この作品における展開の早さってヤツなんだけどさ。なんかそれが、幸福の予感を早くも感じさせたんだよなあ。
いやいやいや、実はまだまだ展開が待っているんである。国許から兄が訪ねてくる。実家が火事に遭ったというんである。!!??そ、そんな展開もアリなの!?
もらい火で、保険にも入っていなかったという兄は、妹をたたき出した時の威勢はどこへやらで、こうなったらあのドケチ叔父に相談するしかないと思って、と上京してきたと言うんである。
しかしミョーに悲壮感がなくて、それどころかコレ、と両手を広げて、もうこんな着の身着のままだ、と示す兄がちょっと可笑しいぐらいなのは……本作に常に流れている軽さとユーモアであり、それは渋谷監督の作風なのかもしれない。
しかも、そう、あのドケチ叔父である。そりゃー、カネなんて出す気もなく、しかもこの期に及んでまたしても菊子の手土産がなかったことを言い出すもんだから(せ、せこい、そしてしつこい……)菊子がボソリと「叔父さんだって、ウチに何度もお金を無心に来たじゃありませんか」とつぶやくのが爆笑!な、なにお!?と激怒する叔父さんもまたアサハカで可笑しくてさあ。
しかもここが最後の手段であった筈が、お兄ちゃんはしたたかにも徹から「手切れ金のつもりだろう」と大金を吹っかけてまんまとせしめちゃうんだから口アングリ。
このお兄ちゃんを演じる笠智衆のフットワークの軽さには、イメージが違うこともあって驚いてしまう!
で、まあ、菊子は赤ちゃんを産み、女一人生きていくために実家に子供を預けて働くことを決心、帰郷するのね。
すると……なんとまあ、いきなり母親の死に目なんである!しかもしかも「今電報を打とうと思っていた」「ちょうど良かった」菊子がいきなり赤ちゃんを抱えて帰ってきたことに驚きもせず、て、展開早すぎだろ!
そうしてお母さんが死んでしまい、そこで敬子が道雄に彼女を助けてくれないか、と提案しているシーン、そしてもういきなり菊子と道雄の結婚生活なんである。は、早い……。
しかし、もうひと波乱待っているんである。それはいわゆるお姑さん。菊子に別の男との子供がいることはまだ知られていない。
お姑さんが上京して来て、菊子にも会いたいと言っていると聞かされて菊子はうろたえる。いきなりこの状況を見せることを恐れた彼女は、最初から全てを話そうと言う道雄の提案に難色を示し、赤ちゃんをお産婆さんのもとに預ける。
が、しかし……その夜のうちに、赤ちゃんが急な肺炎になって死んでしまうんである。!!!!い、いくらなんでもそこまで!
そして赤ちゃんの存在がバレ(まさか死んだとはこの時点では思っていない)、お姑さんは怒って帰ってしまう……一緒に行って説得してくるという道雄、二人の後ろ姿を二階の窓からぼんやりと眺める菊子。
この時には少々イヤな予感もしたが、いやいや、道雄を最初に見た時の、きっと幸福な余韻を残して終わるに違いないという直感を信じてたのよー。
果たしてその通り。汽車の中でもお母さんにせっせと説得を試みる道雄。親戚なんて僕が説き伏せられる。問題はお母さんが許してくれるかどうかなんだ……。
親の許しを得ないと結婚出来ないっていうのは、時代ってのもあるけど、ただ彼の場合は、あるいは菊子もそうだと思うけど、ちゃんと親を大事にしているっていう気持ちが感じられてね。
そして「赤ちゃんも死んでしまったんだ」と告げた途端、お姑さんは顔色を変える。まさか道雄は、それがここまでの切り札になろうとも思っていた訳ではなかったかもしれないけどさ。
でもね、まず道雄が「僕、次の駅で降りて帰ります。今菊子には僕しかいないんだ」と言うのが、さ、さすが私の見込んだ男だ!(?)
しかもしかもお姑さんまでもが「私も戻ります」!?な、なぬ?「子供を亡くした母親の気持ちは判ります」え?てことはあなたもそんな経験がおありで……って、それまたいきなりだなー!いやもう、この展開の早さに今更驚いても仕方ない……。
てなわけでラストは、戻ってくる二人、道雄が二階の窓に佇んでいる菊子に帽子を振り上げて、帰ってきたよ!のポーズ、その後ろから急ぎついてくるお姑さん。ぱあっと明るくなる菊子の笑顔、でドーンとラストだ!
いやー、ビックリ、72分でこんだけ展開して、しかもこの幸福なラスト!しっかしこの尺は……最初からそう決まっていたとしか思えないけど、まあホントに……お見事! ★★★★☆
……なんていきなり言ってしまうと、この作品に対して随分失礼なんだけれど、こんなにも“雰囲気”だけで作品世界を成立させている映画はちょっとなく、だからそんな気分を大いに掻き立てたのだった。
本作は阿部慎一という“忘れられた漫画家”(本人曰く)を描いてはいるけれど、70年代の雰囲気、世界、価値感はこうだ、と、まさにそれを完璧に示すために彼を触媒にしたとでも言いたいほどに、完璧な「ザ・70年代」なのだ。
私にとって70年代は物心がつくかつかないかの頃で、しかもイナカにいたからそれがリアルに判る訳もないのだけれど……そうした後年の世代に、70年代の世界を伝えるための映画、とさえ言える様な気がした。
狭く湿っぽい部屋での同棲生活、岡林信彦のフォークに傾倒し、青年の部屋にはおしなべて当たり前のようにフォークギターがある。
ニットセーターの下は当たり前のようにハダカの無防備さを持つ女は、ぼんやりと夢見る恋人の男よりもずっと大人びていて、しかしその成熟したハダカはけだるく、エロよりも倦怠を思わせる。
……そうした世界を極私小説的に映し出した阿部慎一の漫画世界は、その湿っぽいペンタッチ、ぬらりとした擬態文字、ため息のように吐き出される台詞といい、純粋抽出した70年代そのもので、それを後年や遠い地方から憧憬を持って眺めていた私たち世代にとって、まさに“こんな映画が観たかった”ものだったのだ。
恋人の美代子を題材に漫画を描き続けた阿部慎一の、崩落し続ける人生を追っていく。タイトルの「美代子阿佐ヶ谷気分」は彼の代表作のタイトルであり、冒頭、漫画のコマを提示しながら、そのままのショットを忠実に再現していく。
原作に忠実に寄り添う姿勢を見せながら、しかし本作は「美代子阿佐ヶ谷気分」だけを映画化したものではなく、彼女と彼自身を投影した他作品を数多く盛り込みながら、結果的には阿部慎一という漫画家の人生を追っていく、人物伝とでもいった装いになっている。
そしてその人物伝は……まさに芸術家そのものの破滅型なんである。というか、70年代の芸術家そのものの破滅型と言うべきであろうか。70年代という時代は、どんな芸術家に対しても、そんな人生を“強いる”雰囲気があったんじゃないかと思う……などと知りもしないのに思うのは、やはり後の時代からあの時代を客観的に見ると、現代ならば、多分皆がもっとしたたかに生きてしまうであろうと思うから。
こう生きねばならない、という価値感が現代ではそう定まってしまっていて、70年代は、破滅的に生きるように定まってしまっている。現代の人間がしたたかな訳ではなく、どの時代の人間も、その時代の雰囲気に従うしかない……それは、芸術家という、自分の資本こそが大事な人たちでさえそうだというのが、皮肉なんである。
物語の冒頭、漫画の世界そのままに、布団の中で「もう一日休もうか」「美代ちゃんはダメね」とけだるげにつぶやきながら、あられもない格好で寝返りをうちつつ、朝の一服をくゆらす。
その前から、濡れたような質感の色世界に心惹かれたれど、彼女がくゆらす紫煙がまるで生き物のようにくっきりと立ち昇っていく様に目を奪われた。「彼のいない部屋であたし、平和よ」という台詞が、ちっともそれどおりに聞こえないのが印象的なこの「美代子阿佐ヶ谷気分」は、まさに、“気分”。時代の“気分”そのものなのだ。
この作品が掲載されたのは伝説の漫画雑誌、ガロであり、まさしく60〜70年代の気分を刻印し続けたメディアである。かの雑誌が80年代に入ると急速に力を失い、姿を消さざるを得なかったのは、必然としか言いようがない。バブルの時代に、そんな“気分”は必要なかったのだ。
この作品は敢えて制作者自身の意図から作品世界を形作ることはせず、あくまで阿部慎一の作品を忠実に再現することによって彼の人生、引いてはあの時代の意味、あるいは無意味を抽出することに成功していると思うんだけれど、でもガロの漫画家たちのほとんどがその後が続かなかったことも、あの時代の倦怠や切なさを示しているようにも思う。
あの時代は、あの時代で完結していたのだ。ある意味、これ以上ない完成系の、幸福な時代だったのだ。……後の阿部慎一が、ほそぼそと作品を描き続けながらも、実質は工場を経営する女房のヒモのような状態であることが実に物語っている。
彼自身はあの時代から抜け出していない。美代子も、あの時の美代子ではない。精神疾患を患った夫を抱え、そう、もうセックスもなくなって、“家族”としてたくましく家庭の大黒柱になった。もう、あの“幸福な時代”は帰ってこないのだ。
それが、過去に拘泥する男の弱さと言うべきなのか、ロマンをアッサリ捨てられる女の薄情さと言うべきなのか、にわかには判断し難い。
ただ、あの世界のまま、あの関係のまま、二人が生き続けられる訳もなかったのは事実だ。あまりにも刹那すぎて。
ならば、あの時何らかの形で終焉を迎えた方が良かったのか。
それは……なんとも言い難い。
美代子の奔放な友人と肉体関係を持ち、芸術家としての自分を支えようとした阿部。まるでそれは……自分をネタにするところといい、太宰の様だと思ったら、実際そういう台詞も出てくる。太宰は常なる時代、孤独な若者を取り込む作家だけれど、70年代はまさに……太宰的芸術の価値感に陥りやすい時代だったんじゃないかと思う。人生経験、ひいては恋愛経験が自らの芸術を伸ばすんじゃないかと単純に考えてしまうような。
美代子の友人、真知子の扇情的なヌードの前で、ひれ伏す野良犬のように、情けない全裸姿で自らのナニをしごいている阿部の前に、呆然とした姿の美代子が現われる。もはや、何の申し開きも出来ない場面。
勿論あわてふためく阿部だけれど、彼が次にとった行動は驚くべきことだった。共に上京した友人、川本と美代子をセックスさせたのだ。
もともと彼が美代子に思いを寄せていたのは感じていた……のかどうかは正直、定かじゃないけれども、後に阿部は回想する。自分が美代子の友人と関係を持ってしまった罪悪感を解消するために、彼を美代子とセックスさせたけれども、余計にどん底に突き落とされてしまったと。……そんなこと、ちょっと考えれば、いや、考えなくても判りそうなものだけれど、そのあたりが、芸術男の愛しき愚かさ、バカな純粋さなのだ。
川本はその罪に耐え切れずに自殺してしまう。……のは、本当に起きたことだったんだろうか。阿部が彼と美代子のセックスを克明に漫画に記した、そのガロを開いたまま、クスリを飲んで。
阿部は美代子と結婚することを決意するものの、そのあたりから、彼女とのラブな雰囲気は遠く薄れてしまう。……いや、もしかしたら、最初からそれは加速度的に失われてしまっていたかもしれないけど。
川本と、もう一人、やたら明るくはしゃぎまわる池田は、共にこの時代にしか生きられないような感じで、何だか痛々しかった。阿部が来るたびに「来ると思っていたよ」と自分の予感に確信を持って、そしてついに常軌を逸して、川の中に身を投じて逝ってしまう。まさに70年代に生き、死んだ男だった。
阿部は故郷で美代子と結婚後、精神を病み(ていうか、それ以前から病んでいたような気がしないでもないけれど……)宗教に傾倒して、制作活動から離れていく。
実際、阿部が結婚だなんていう現実社会に身を投じるなんて、ムリな気がしていた。それを察したのか美代子は、本当にいいの、と彼に問い掛けた。それもまた漫画作品に残されているんだけれど……時代劇みたいに作られた世界で彼女と和服姿でそぞろ歩く阿部は「僕は今、美代ちゃんが怖い」と正直に口にした。
その直前の、暖かな、平和に見えたあの場面がその入り口だったのだろうか。一糸まとわぬ姿で窓辺にまどろむ美代子。
「太ったよ。ぽてぽて」
「その方がいいよ。田舎風が好きだ。ぽてでもぼてでもいいよ」
「ぽてぽて」
陽だまりのような時間。
「おっぱい吸いたいな」
「吸えばいいじゃん」
性愛というより、母性愛にシフトしていた美代子。
「美代ちゃんが怖い」という阿部の言葉が予言だったかのように、阿佐ヶ谷では70年代の、ハダカになってもエロじゃないような、倦怠の女そのものだった彼女が、リアルな女を獲得してゆく。
まるでそれまでのセックスがセックスじゃなかったかのように、ケモノのように彼に挑んでゆく。熱が出て寝込んだ彼に“弱った男に対する発情”をもよおして、強引にしごいて、跨ってよがる。
阿部が精神の一線を踏み越えたのがどこの時点かは判らないけれど……彼の中での美代子像が壊れたのは、確かにこの時だったように思う。彼にとって美代子はけだるげに布団の中で身じろぎをし、タバコをくゆらし、スナックでバイトをし、ニットを脱ぐといきなりハダカのような、そんな……“女”だったのだもの。
でも美代子は、カネが稼げない阿部の「トルコの方が稼げるよ」という心ない提案にも、一見さらりと受け流しつつ拒否していたし、やっぱり古風な“女”の方だったのかもしれない。
子供が出来た途端に強くなり、心を病んだ夫をどこかほったらかし気味に見える後半は、女のしたたかさ、というより当然の身の保全だよなと感心しつつも、処世術が出来なさ過ぎる男の純粋さに、パートナーだったらたまんないよなと思いつつも……愛しく思わずにいられない。
阿部はまさに、ガロのまま、70年代のままなのだ。一時期、とても掲載できない宗教に傾倒した作品を描きつつも、その後、すっかり老け込んで、妻のヒモであることも自覚して、それでも“描き続けますよ”と彼は宣言した。ずっと彼の担当者であり続けた松田 (佐野史郎)は、ようやく見つけ出した阿部の新作に、かつてと変わらぬ驚愕を覚えた。
この編集者を演じるのが佐野史郎で、彼はつい数日前に「守護天使」でゲイ雑誌の編集長を演じているのを見たばかりなんだけど、彼はこういう超カルトなサブカル系編集者が似合い過ぎるんだよなー。このキャスティングには両作品とも、迷いはなかったと思う。恐らく彼が最も作品中でリアルなキャラだったもの。
「面白ければ、いいんですよね」と強引に編集長を説き伏せて、決してメインストリームではない(かのガロの中でも)阿部をフューチャーし続けた彼。真の芸術家が世に出るのには、芸術家自身の才能以上に、それを紹介するプロデューサーの存在こそが不可欠であり……ひょっとしたら誰よりも重要な役柄だったと思われる。
いやいや!やはり本作の成功のカギは、阿部を演じた水橋研二に他ならない!この作品に足を運んだのは、そのキャスティングに惹かれたからだもの。
彼はすんごい大好きな役者さんで、実力も折り紙つきだと思うんだけど、なんかこう、上手いことイイ作品に起用され続けられてないことに歯がゆく思っててさ……。
今回、本作の彼を見て、その理由が(いいにつけ悪いにつけ)判った気がしたわ。彼は、一見凡庸な風貌に見えるんだけど(だから、どんな役もこなせるように思えて、彼がイマイチ突出してこないことに歯がゆく思ったんだけど)、彼の湿っぽさ、個性としてのネガティブさは、起用なマルチさとは無縁であり、まさに役者、バカ役者、運命の役を生きる役者なのだと痛感した。久しぶりの水橋研二に、もっと出てよと最初は思いつつ……いや、これでこそ彼なんだと思った。
それだけに、太宰やこの阿部みたいに思いつめそうでちょっと心配だけど……(爆)。今の時代、得難い俳優。出来上がった大人の男の筋肉質のヌード(てかセックスシーン)にドキドキしながらも、どつきたくなるほど女心が判ってないのがさ!!いや、それこそが女をキュンとさせるってのが、アンビバレンツなんだけど。
もはや2000年代に突入してしまった現代、70年代だの80年代だの90年代さえ、古き良き時代になってしまって……古き良き、という言葉は、もう私たち時代以降は機能しなくなってしまうと思う。それは、私たちが現代に生きているってことだけじゃなくて、……古き良き時代っていうのは、その生活様式に対する強い思いや、誇りや、あるいはそれらがないとしても、そうするしかない、という強迫観念めいた思いがあるからこそ、なんだもの。
最後に言っちゃったこととか、古き“良き”じゃないじゃん、とも思うけど……いつの時代の青年も太宰に傾倒するように、強烈な時代の雰囲気て、やっぱり凄く、うらやましい。そう、だからこそ、“こんな映画が観たかった”なのだ。 ★★★★☆
アメリカ史上初、いやおそらく世界初のゲイを公言した政治家、ハーヴェイ・ミルク。名前を聞いたことはあった。
ただそれはやはり、ゲイの人々の間で誇らしげに、そしてやはりひっそりと語られている感があって、つまりはサブカルチャーの中で名前を耳にする人、という印象だった。自分の身近に感じる人ではなかったのが正直なところ。
でも、彼が、同性愛者である自分を始めとしたすべての弱者、全てのマイノリティの権利を獲得することを目指す宣言をした時、高齢者、アジアン、障害者とあって、そしてそこには女性、も含まれていたのだよね。
決して、大昔の話ではない。そして今も、決して全てが解決されているとは言えない。そう、女もマイノリティなのだ。そりゃ、彼が身を置いたゲイの迫害とはまた全く違う形ではあるけれど、やはり差別されてきた側なのだ。
ミルクが協力陣営の中に、同じ同性愛者とはいえ女性を招き入れたこと、そして決して全ての権利を獲得してはいないのに、その女性が彼らゲイを汚らわしいもののように見ていること。
この相反する“女”こそが、ゲイとして闘い続けたミルクよりもまず私の目に突き刺さってしまうことは、そりゃ仕方のないことだと言ってもらいたい。
しかし、アメリカという国は凄い国である。こういう展開には日本じゃ決してならないであろうことは、不幸であるような気がする。つまりアメリカという国は、“差別”においてもひどくハッキリとしている。よく言えば“差別”においても言論の自由が許されているし、“差別”においても公平な国なのだ。……矛盾した言い方かもしれないけど。
ミルクはこの国にハッキリとした差別があるからこそ、この状況を打開するために闘おうと思ったのであって、心の中で差別しながらもことなかれ主義で波風立たせずに収めようとする日本では、この展開はありえない。
そして一見、平和主義な日本のやり方の方が、実は残酷なんである。だって、ハッキリした差別を示されないからハッキリした反発を示せない。じわじわと生殺しの目に遭うばかりで。
つまり多分、アメリカの方が同じ問題の解決に対して言えば、かかる時間が早いんだよね。差別も同調も全てがハッキリしている、目的がハッキリしているから、打開策もハッキリしている。勿論、そこで敗北すればすべてが崩壊するという危機はあるにしても、やはりやりがいが違う。
だからこそアメリカンドリームなわけだし、ヒーローが生まれる訳だし、こんな風に伝説も残る訳で。
……でも一方で、彼のように、銃弾に倒れるリスクもはらんでいる。結末までもがハッキリしている。でも彼の存在、彼の行動がアメリカのみならず全世界に大きな一石を投じたのだ。
でも、彼の人生が、こんな風にメジャー映画として作られ、そしてオスカーとして評価されるに至るまで、30余年がかからざるを得なかったことを考えると、やはりこんなハッキリしたアメリカでも、この差別の問題は決して“ハッキリ”と言い切れるものではないのだということを実感する。
普通にストレートの人の伝記ならば、いちいち恋人がどうだ、性生活がどうだということを描かなくてもいい筈なのに、やはりハーヴェイ・ミルクの人生を描こうと思えば、恋人の存在や彼とのセックスの描写は避けられなくなってくる。最愛の恋人で最高の理解者、スコットとは20歳差だったんだ!みたいな。
同性愛者の問題を語る時、まずセックスのイメージを明示せざるを得ない、のは、恐らくその同性愛者にとっても歯がゆいことだろうと思う。
でも、本作にはそんな瑣末なイメージは感じなかった。それは、そのセックスの嗜好性こそが人間を形成するものだということに彼らが真摯に向き合っていること、そして逆にストレートの私たちこそがそれに向き合っていなくて、一番大事なことを卑俗なことだと考えているってことを突きつけられたからなんだよね。そう、それは、人間という生き物として、もっとも大事なことの筈なのに。
そして、ミルクたちは、それゆえに、命さえも賭している。自分のそのアイデンティティを言えずにいる苦悩、社会から拒否され、同じ価値観である筈の恋人も、その社会通念に縛られているから時にその恋人からも拒否されて……ハーヴェイ・ミルクは実に恋人を三人、自殺未遂の目にあわせ、四人目の最後の恋人、ジャックは、本当にその命を失ってしまった。
ハーヴェイ・ミルクは冒頭、39歳として現われる。恐らく、いわゆるハッテンバにおいて、カワイイ男の子、スコットをナンパするという、もういきなり、ゲイとしてのセクシャルな嗜好性を観客に突きつけてくるあたり、逃げの姿勢は微塵もない。
彼の最後の恋人……自殺してしまったジャックは更に若いコで、「こんな年くった男に付き合ってくれる若いコなんていないだろ」とそのチャンスをミルクは幸運と受け止めるんである。でもそれゆえに彼は傷つき続けるんだけれど……。
でも、果たしてストレートである大多数である筈の私たちは、彼のように自分自身という人間をちゃんと把握できているだろうか。どこかで、自分をもうちょっとマシな人間だと思いたがっているんじゃないだろうか?
ミルクを皆が信頼したのは、彼が自分自身というものを正確に判っていたからなんじゃないかという気もする。だって彼が矜持としていたのは、自分がマイノリティ、つまり弱者ということだったんだもの。
自分が弱い立場の人間であると、誇りを持って言えるって、実は凄いことなんじゃないかと思うんだよな……。そりゃ、彼の行動力とか、スピーチの上手さ「僕は君たちを勧誘したい」から始まる群集の惹きつけ方は見事だと思うけど、やはり根本的な部分、人間としての部分だと思うんだもの。
ミルクが爆発的に有名になったのは彼が恐れた提案6号への反発だった。同性愛者を教職などから外す条例。この反対に勝利したことで、ミルクは一躍有名になる。まさに寵児になるんである。これこそまさに、一発逆転のアメリカンドリーム、失敗したら後がない挑戦だった。
まだビジネスマンだったミルクが冒頭、ナンパした若い男の子、スコットとの信頼関係は、途中破綻しつつも、最後まで、そうミルクが死んでから後も、続くんである。
ゲイが寛容に迎え入れられる地、サンフランシスコに“逃避行”した彼らは、カストロ地区にカメラ店を構える。ゲイへのあからさまな差別的視線を実感した彼ら、というよりミルクは憤り、この地からゲイ・コミュニティを発信しよう、と一念発起する。
最初は恋人とラブラブな生活をするために逃げてきた土地なのに、ミルクは“ムーヴメント”から“政治的活動”へとシフトしていく。スコットは“ムーヴメント”の時点ではミルクに協調していたんだけれど、次第に大きくなる彼の活動や影響力に、恋人としての生活が失われていくことを感じてついていけなくなるのね。
この時点で、最後の恋人が命を断つ伏線は既に用意されているのが皮肉である。だってスコットがミルクから離れていった理由も結局は同じなんだもの。
ただスコットはミルクに依存するだけで成立している人間じゃなくて、彼自身の誇りがあり、立ちたい位置があったということでさ……。
スコットが後にミルクと再会した時に“ムーヴメントは続けている”と言ったのが実に象徴してて、それは“ムーヴメント”の先に政治活動があるんじゃなくて、“ムーヴメント”の価値こそがスコットにとって大事だったということなんだよね。
ミルクだって最初は本当にそれを大事にしていた。話がイマイチ通じない老練な地元政治家に、あなたたちには判らないだろうと誇らしげに言ったものだった。
その時はミルクはまだジーンズに長髪を束ねたいでたちだった。そう、ミルクが「やつらにバカにされたくないから」と髪をきちんと切りそろえ、三つ揃いを身につけた時から、“ムーヴメント”を境とするスコットとの別れが見えていたのだ。
しかしそこから、ミルクが“政治家”となっていく様はいわば圧巻である。市長を理解者として味方につけて、でもこの市長も政治的思惑があって、みたいな。そしてミルクがとりこんだのは同じゲイたちだけではなく、最も保守的に見える高齢者や地元労働者たちをも支持者につけたんである。
マイノリティっていうのはネガティブな言い方だけど、一方でこれほど強い主張を持つ者もいないのだと思う。弱い立場であった筈の者たちが、実は強い主張を持つ、パワーのある者たちであるということに気づくと、どんどん力は膨れ上がる。
お約束に、地元政治家が公約を気にするくだらないプライドやら、“アメリカの基本である家族制度が崩壊する”などといかにももっともらしく、しかもイヤミにも神まで持ち出して主張する女政治家(……こんなことに女を主張されるのって、一番哀しい)などが現われる。
なもんで、ハーヴェイは選挙に勝つまでにも長い時間がかかるし、その間にかけがえのない恋人に去られ、次の恋人は自死を選ぶし、散々な目に遭うんだけど、でも彼が目指すこと……同性愛者の公民権獲得、ひいてはマイノリティの権利の獲得は、確実に実を結んでいくのだ。
印象的だったのは、ミルクが最初に勝った時、電話をかけてきた車椅子の少年のエピソードである。彼は、もう自分で死を選ぶと言った。両親が自分を“治す”ために病院に入れようとしているのだと。
ミルクは少年に、君は病気なんかじゃない、この街を出ろと言うんだけど、彼の「ムリです。僕は歩けないんです」という言葉に絶句するしかないんである。
恐らくこの時、ミルクはマイノリティというものが様々な形で存在することを……人々が、自分はマイノリティではないんだと思いたがっている気持ちこそが、差別につながっているんだと言うことを、恐らく殆んどすべての人がマイノリティの要素を持っているんだということを悟ったに違いない。
ミルクは自分たちがゲイだということを、家族、友人にカムアウトすることを支持者たちに訴えることを彼の最後のテーマに据える。それを出来ていないから、彼らには負い目があったということに気づいた。ゲイではないマイノリティならば、もう最初からさらされて苦しんでいる部分だから。
ミルクに敵対し、時には味方になろうとし、ついには彼を銃弾で撃ち抜いた地元政治家、ダン・ホワイトでさえも、“地元政治家”しかもほんの小さなブロックでやっと支持を得ている政治家、という、ひょっとしたらミルクよりももっとマイノリティと言えるのかもしれないのだ。
彼はそのミジメさを判ってて、でも認めたくなくて、だからそれを避けられなくなった時、ミルクを撃った。
とても、哀しい人だったと思う。
マイノリティであることは、一見そっちの方がミジメに見えるけど、逆なんだよね。
それこそが誇りなのだ。
大多数の人には判らないからこその、自分だけが抱えている誇り。
それを知らないことの方が不幸なのかもしれない。
最初のスコットとの出会いで、睦みごとのなかでミルクは冗談めかして言った。「50までは生きられないよ」と。
最後にスコットと再会した時、ミルクは49歳の誕生日を迎えていた。スコットは「おめでとう。50まで生きられそうだね」と言った。10年前のこと、あの甘い時間を忘れていなかった。
でもミルクが銃弾に倒れたのは、その直後だったのだ。
ハーヴェイ・ミルクという人を、私は本当に、知らなかったんだね。
そのことを、一番強く、痛感した。
彼の周囲に集まってきた人々。今もバリバリ活動している人たちを知ると、それほど昔の話じゃないんだと痛感する。
最愛の恋人、スコットは今も“ムーヴメント”を続けているし、唯一の女性協力者、アンも、ミルクが最初にスカウトしたと言ってもいい、それこそ最初こそひ弱な少年にしか見えなかったグリーヴも、まさにハーヴェイの意志を継いで、今日に至っている。
グリーヴは、劇中、誰よりも率先して動いたいわば“斬り込み隊長”だったし、アンを真っ先に認めたのも彼だった。まさに人間は、見た目ではないのだ。
ここのところ苦手意識が強かったガス・ヴァン・サントだけど、今回は判りやすい映画を撮ってくれた……かも。★★★☆☆