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「し」


2009年鑑賞作品

色即ぜねれいしょん
2009年 114分 日本 カラー
監督:田口トモロヲ 脚本:向井康介
撮影:柴主高秀 音楽:大友良英
出演:渡辺大知 峯田和伸 岸田繁 堀ちえみ リリー・フランキー 臼田あさ美 石橋杏奈 森岡龍 森田直幸 大杉漣 宮藤官九郎 木村祐一 塩見三省


2009/8/18/火 劇場(シネセゾン渋谷)
上映後、劇場を出てきた妙齢の女性二人連れが「可愛い話だねー」とほほえましく頷きあっているのに大いに共感した。そう、これってさ、本筋だけ言えばものすごーく王道の話、なんだよね。よくある話と言っちゃったっていいかもしれない。
男子ならきっと誰の身にも覚えのある、カラダのウズウズと心のウズウズがどうしようもなくて爆発しちゃう、あの甘酸っぱい青春の夏の日々。そして秋の風を聞く時に、肌寒さと共に大人になっていく切なさを感じる、みたいなさ。
でもその、いわば凡百の話をいかに唯一のものにするか、っていうのは、これもありてい過ぎるんだけど……やっぱりセンス、なんだよなあ。みうらじゅん&田口トモロヲという、もはや鉄壁コンビのセンス。選ぶ場所、選ぶ言葉、選ぶ音楽、そして何より選ぶ役者。
今回、主役に抜擢された、一般的には決して有名とは言えない渡辺大知が、この映画の世界を作り上げた。
勿論、クライマックスのライブシーンで、プロである彼のインパクトが大前提であったにしたって、である。
決して高校一年生ではない(でもかなり近い……ホントに若かった)彼が、本当にあの頃の、ウブな高校一年生に見えてしまう。
それはきっと、実際の高校一年生よりもっとそう見えてしまう、そういう初々しさ、勿論その中にエロへの憧れを持つ初々しさ、というこの作品には欠かせないものを、まったく完璧に彼は持っていて、まったく完璧に、表現したんである。

それはね、やはり同じコンビで作られた「アイデン&ティティ」の主役、峯田氏もそうだったんだよね。その世界では有名であるということを、私はこの映画で彼を知って初めて知った。そしてあの作品の峯田氏はまさに、隅から隅まで完璧に中島(役名)だった。
きっとね、みうらじゅんとトモロヲさんは、役者じゃないけど役者にしたらきっと素晴らしい、こんなステキなミュージシャンがいるんだよ!って意味も込めて、普通の映画人なら考え付かない大抜擢のキャスティングをするんだよね。そしてまさにトモロヲさんがそうだったように、峯田氏もその後個性派の役者として活躍しているし、きっとこの渡辺氏もそうなるだろうなあ、って思うんだよなあ。
にきびくさい(失礼)青春の男子高校生のあか抜けなさながら、百戦錬磨の女子短大生オリーブが彼に救いを求めてしまうような、何とも言い難いチャーミングを持っているんだもの。

そもそも彼が通う高校の舞台が、特殊である。これも先述したセンスのうちに入るとは思うんだけど、でもこれって……みうらじゅん氏の自伝的要素だよね、きっと。
法然を崇め奉る仏教系男子高校。ステージ上には常に法然像が鎮座し、生徒たちは常に法然に敬意を評して日々を過ごしている。
……というのは勿論形式上で、彼らはマジメに訓示する壇上の先生たちに「ホーネン!ホーネン!」とロックスターに向かってのようにコールし、文化祭のステージでも「ホーネンズ」とネーミングして壇上の法然導師を仲間に引き入れる始末なんである。
いや……それこそがまさに、彼らの中に正味で法然、ひいては彼の教えが染みこんでいるということなのかもしれないなあ。
などと思うのは、そうでなければいくらジョークでだって、キャロルのコピーバンドにホーネンズなんて名付けないだろうし、しかもちゃんと法然導師に敬意を表しているんだし。
主人公の純だって、一人でステージに上がりつつも「もう一人いましたね」と法然像を紹介するんだもん。こういうのってさ、やっぱり染み付いたものであって、まさにこれが、敬虔深いってことじゃないのかなあ。

みうらじゅん氏の仏像好きは、やっぱりこのルーツから来るのかなあ、と思う。本作が青春期のエロを描きながら、平然と法然導師が同居出来てしまうのは、彼らの“敬虔深さ”が本当の意味でのそれであるからだろうと思うのね。
みうらじゅん氏の仏像への愛は、形式的なものじゃなくて、本当に、本質的なものじゃない。だから、ああ、ルーツはここにあるのかなあ、などと思っちゃったわけ。

で、なかなかストーリーにいきませんけれども(爆)。
この男子校は仏教校だけど、ヤンキー校なのだ。常に目をつけられた文科系男子が、体育会系ヤンキー(ヤンキーだからって体育会系とは限らないが……暴力的だからってことか?)に抱え込まれてイジめられてる。
それを主人公の純は、どうにも出来ずに眺めていた。彼曰く、僕はヤンキーにも優等生にもなれない中途半端、だと。
まあ、いじめられてるって言っても、全校生徒の集会で声を発したり、校外の女の子に向かって「オメコ!」と叫んだり、そんな程度で、それでヤンキーたる存在感を示していたんだから、当時はホントに幸せな時代だったと思う。
あ、みうらじゅん氏の高校時代だから当然、1970年代ね。ヤンキーはキャロルを、そして主人公の純はボブ・ディランに熱中している、そんな時代。

純の悩みは、悩みがないこと。理解ある両親のもとで一人っ子としてすくすくと成長して、反抗期さえ迎えられずにここまで来てしまった。
彼自身、そのことに危機感を感じつつも、それこそ幸せな悩みというもの。友人からも「いいじゃん、母さんきれいだし」と言われて、そうだよなーって思っちゃうようなイイ子。
純はヤンキーを恐れつつも、彼らに対して憧憬の思いを抱いていた。その中でも孤高のオーラを放つ須藤には。

そう、純はいわゆる、青春モノにつきものである、“理解のない大人に対する憤り”が、ないのよね。彼だってそういう展開に憧れてはいたんだけれども……そもそもそれって憧れるものでもないし……。
だってさ、純が勉強もせずに夢中になっている音楽に「まだ母さんに聴かせてくれないの?」なんてさ、ニコニコされちゃさあ。
しかしそんな親もさすがに息子の学力不足を心配したのか、家庭教師を呼んでみたらこれがベッドで居眠りするばかりのヒッピーで、その不良家庭教師に酒を呑まされて伸びちゃっても、父親が「これが効くから」と湯飲みかなんか優しく手渡しちゃって、全然怒ったりしないんだもん。

これってね、今までにない男子の青春モノだと思う。大筋では良くある話と言っちゃったけど、理解ある両親に苦悩する男の子ってのは、なかなか斬新だと思ったなあ。
あ、でもちょっとそのあたりはあの大好きな「青春デンデケデケデケ」を思わせたりもするかもしれない。あれもまあ、ちらーっと青春のエロがなくもなかったし。しかも仏教のアイテムもあるし!
でも「青春……」がロックへの思いに一番の比重があったのと比して、本作はそれは……2番目だよね。
うーん、でもそこは、微妙なトコなんだよなあ、1番と2番の比重は。
エロへの旅である隠岐島のユースホステルで出会ったヒゲゴジラとはギターで意気投合。ボブ・ディランを通じてひと夏を分かち合う。
クライマックスには「実際にやらなければ音楽じゃない」と不良家庭教師に背中を押され、純は見事ステージをつとめ上げ、憧れのヤンキー君と友情を分かち合うんだから、やっぱり音楽が一番とも言えるんだけど……でもやっぱりエロだったと思うんだよな。

ちょっとね、「リンダ リンダ リンダ」も思い出したんよね。文化祭をクライマックスに持ってきている点では、まさにそうだと思う。
ただ「リンダ……」には見事なまでにエロの影は出てこない。まさしく彼女たちは体育会系的に、文化祭のステージに向けて邁進するのだ。
体育会系、というのが第一義として男子のそれとして認識されていることを思うと、この決定的な違いって面白いなと思ったんだよね。
こんなこと言っちゃうと個人差があるからあまりに大ざっぱなんだけど……高校生って、男の子と女の子では、恋愛に関する重点が一番開きがあるんじゃないかって、気がするのだ。
男の子も女の子も、一番恋愛に対して花開く時だと思うけど、おのれが示す肉体的反応に抗えない男子と、ロマンティックな偏りで恋という感情に縛られる女子と。
それこそ体育会系、文科系、なんだよなあ。それが恋愛じゃない部分に対しては真逆に出る、まさに如実に真逆だってのが、面白いなあと思ってさあ。

隠岐島のユースホステルは、まさにこの映画のキモである。ここに「アイデン……」の峯田氏が、世話役のヒゲゴジラとして登場、スッカリ貫禄タップリになって、少年たちに指針を示す。
そもそも純たちニキビ少年三人は、この島のユースホステルが、当時喧伝されていたスウェーデンの海岸のごときフリーセックスの天国だと聞いて、期待やら何やら色んなものを膨らませて(爆)出立したんである。
島に向かうバスと船で一緒になったオリーブは、まさにそんな彼らのイメージを体現していた。ピンクのサマーニットのノースリーブ姿の彼女は、ぽちんと上向きのバストがあからさまにノーブラを示していて、その出会いから彼らは鼻血が出そうだったんだもの。

首尾よくお近づきになって、海岸で見た彼女の水着姿がまたヤバかった。純白のビキニで、三角地帯に薄暮の影が覗いていたんだもの!もう三人はオマタを抱えて海岸へダッシュするしかなかった訳。
彼より三つ四つ年上の、まさに百戦錬磨の女の子。彼女が筋肉隆々の“ポパイ”と腕を絡ませている現場を目撃しちゃって、もう望みはないものと思われたのだけれど……。
予定より早く島を離れる彼女を必死になって追っていった純に、彼女は船の上から電話番号を書いたメモを放ってくれた。泳げない純は決死の覚悟でダイブ!見事ゲットし、再会した彼女とイイ感じにもなりかけたのだが……。

この島での描写はなんといっても、ヒゲゴジラの峯田氏である。
相棒のアキちゃんとユースホステルを営んでいる彼は、オリーブの部屋を覗きに行った三人が、風紀に厳しいアキちゃんに見つかったところを救ってくれる。
この島に、フラリと来た友人を泊められるような場所を作りたい、と語るヒゲゴジラ。酒に酔った勢いもあって、彼の男気にすっかり心酔する三人。
翌日、「その夢をかなえるために」とインディーズレコードを(当時としては)高値で売りつけようとするヒゲゴジラに他の二人は興醒めして去っていくけれども、純だけはそのレコードを買った。
この島に来た日、皆で輪になって歌った曲。
この島がフリーセックスだと聞いて来たと宣言して、笑われてしまった夜(それ以来三人はフリーセックスと呼ばれてしまう(笑))。

純はね、「ヒゲゴジラなら騙されてもいいと思った」と他の二人に言うんだよね。
その言葉が……グッときちゃってさあ。
そりゃさ、ヒゲゴジラの夢がウソだとは思ってないよ。でも実現するまでは……それって保留じゃん。
信じるか、信じないか、なんだよね、つまりはさ。
そんな人に出会えるか出会えないかで、人生は決まる。
そして……それは青春の夏であり、「また絶対来ます!」と泣きながら島を離れても、もう二度と会うことのない人、かもしれない。
でもきっとここで、人生が決まるのだ。

もともと純には中学時代から想い続けていた女の子、足立さんがいて、「キモチワルイ」と一度手ひどくフラれている。それが深夜の人気ラジオ番組が絡んでいるというあたりが、なんとも青春で。
うー、判る判る判る、あの、ハガキを読まれて焦ってラジカセの録音ボタンを押すあたり!興奮のあまり「やったーー!!」と布団の上でバタバタ暴れまくるあたり!!
いっしょに“フリーセックス”の旅に出た二人は、それぞれ純とは別の道を歩む余韻を感じさせる。自営業の息子と寺の息子。そもそも純のような“悩みのないのが悩み”のような恵まれた家庭とは違って、まあ、いわゆるフツーに悩みの発生する家庭なんである。
寺の息子の友人は本格的なヤンキーに身をやつし、自営業の息子は来年から定時制になるかもしれないと言う。純だけがそんな悩みがないことはいわば幸せなことなんだけれど、そのことで焦っちゃうんだよね。

オリーブが会いに来た。突然のことに純だけじゃなく、両親までもが浮き足立つ。「お世話になったのに御礼が遅れまして……」などとヘンに丁寧な挨拶をする母親に、「ちゃんと送って行け」と“おとまり”を牽制してこずかいを渡す父親。共々……反則なぐらいに理解のある親たち。
でも結局純は何も……出来ないんだよね。
ヤンキー友達に偶然会って「これからヤる」などと彼女が宣言したのに。ラブホテル街をそぞろ歩いたのに。何より……イイ雰囲気になったのに。
でもそれは……ヒゲゴジラに失恋した彼女のセンチメンタルジャーニー、だったことは確かで。
ヒゲゴジラと何かあったのか、なかったのか、そんなヤボなことは明らかにされないけど、……でもやっぱり……あったんじゃないかなあ。

純=渡辺大知の魅力が発揮される文化祭のステージは、もうこれはホント、言葉で説明できることじゃないからさあ。
ただ、それまではただただシャイな男の子で、ノートに書き溜めた詩もオリーブに聞かせた歌も、GSに毛が生えたような大人しさだったのに。
カリスマヤンキーの須藤が結したヤンキーバンドに触発されて、真に自分の中でくすぶってた、つまりエロなもどかしさをシャウトして、ダラダラ集まってた生徒たちを興奮のるつぼに叩き落とす!
彼を知っている人ならそんなに驚かないんだろうけれど、私なんか黒猫チェルシー?何それ?ってな部類だからさあ、もう、ナニーーーーー!!!てなぐらいにぶっ飛んじゃう訳よ!
そしてお互いのステージに感銘を受けた須藤と純は、体育会系と文科系が認め合うという、奇跡を起こしたんである!須藤にホメられた純の、あの嬉しそうな顔!ボブ・ディランを教える、誇らしげな顔!

せっかく誘った足立さんは来てなかった。勇気を出して彼女に電話をした純がデートに誘ったら、予想外にアッサリ成功したかと思いきや、彼のおじいちゃんが予想外に(てわけじゃないんだけど……伏線があるあたりがニクイのよね)突然亡くなっておじゃんになったりしてさ。
足立さんは「じゃあ来年の文化祭に」って言うのよ。彼は「女の子ってそんな先の約束、アッサリ言うよな……」て全速力で往復した公衆電話の前でガックリひざを折る。

私としては、勉強を教える気は全くない、しかし純に人生の濃厚な部分を教えてくれたヒッピー・不良・家庭教師がツボだったなあ。演じるくるりの岸田氏がまたピタリでさ。
そう、純の学力にはまったく寄与してないんだけど、「音楽は人に聞かせなければ音楽じゃない」「音楽は武器」というオトコマエな言葉で、純を音楽へ思い切らせて、恋人の妊娠騒動で「コレ(とこぶしを握って天に突き出す)の時はゴムつけなきゃあかんで」とオトナな享受を授ける。
こういう人生の師匠がいるかいないかで、その人の成功度って、絶対変わるよね。……私にはいなかったなあ……。 ★★☆☆☆


社長太平記
1959年 95分 日本 モノクロ
監督:松林宗恵 脚本:笠原良三
撮影:玉井正夫 音楽:宅孝二
出演:森繁久彌 小林桂樹 加東大介 三好栄子 久慈あさみ 英百合子 団令子 藤間紫 淡路恵子 水野久美 笹るみ子 久保明 有島一郎 三木のり平 佐田豊 三輪栄子 上野明美 園田あゆみ

2009/7/27/月 劇場(銀座シネパトス/日本映画レトロスペクティブ)
この日観た森繁2本は殆どキャストがかぶってるもんだから、正直かなりコンランしたんだけど(笑)。
だあって、ねえ。同じく森繁が社長だし、しかも女好きで頼りないのも同じだし(笑)、外に玄人のイイ女が何人もいて彼をホンロウするのも同じで、更に他のキャストの立ち位置もかなり似通ってるんだもん。
でもだからこそっていうか、面白かったなあ。このパターンでいくらでも面白い映画が作れちゃうのよね、っていう。
ストーリーはいわば企業戦争だから、これはこれでまた全然違う、凝った筋を堪能できるのよ。
でも、頼りなくて女好きの社長の森繁がいちいちぶっ壊してかかる、っていうのは同じな訳(笑)。いやー、病みつきになりそうだなあ。(笑)。

冒頭ね、寝ぼすけの牧田(森繁)が奥さんに起こされるところからして同じなんだもん。
あ、でもこれが本当の冒頭ではないんであった。冒頭は……妙にボケた画面。昔風の画面。あら、これってそこまで古い映画なのと思いきや、勇ましい軍艦が映し出されるそれは、意識的に古いフィルムにしているのである。
社長の牧田以下、専務も課長も海軍で同じ釜の飯を食った、戦友である。ま、当時は社長の牧田の方がぺーぺーで、専務や課長が上官で、その辺の上下関係の逆転が、時々彼らの言動に出るんである。
ま、つまりは表向きは(爆)牧田が社長を張ってはいるけれど、そして部下たちは彼を立ててはいるけれど、かつての上官である彼らは、今だ彼をぺーぺーとして扱うところがある訳。まーそれは、ある意味仕方ないとも思えるのだが……。

当時から変わっていないのは、牧田の大食い&早食い。奥さんにはせっかちねえ、と呆れられ、食べた気がしないと苦言を呈されても、牧田は一向、気にしない。
その様子は、この日同時上映だった「へそくり社長」でお米を禁止されていた森繁が、こっそり入った寿司屋でもの凄いスピードで寿司を食う場面とかぶったりもする。なんつーか、そういう面白いアイディアは継承されるってことかなあ。

ところで牧田が社長を務める会社はね、婦人用下着の大手メーカーなんである。も、もうそれで既に、森繁にピッタリすぎる(笑)。
彼が全社員の前で「全国の婦人の履くパンティの8割をウチの製品にしてみせる」とブチあげるんだけど、パンティというあられもない言葉がこれほど似合う役者もいないだろうと(笑)。
社長室には最新モデルをまとったナイスバディのマネキンがうやうやしく飾られていて、牧田はそれに敬意を評してキスをする……のが、単なるスケベにしか見えない(笑)。

そこに三木のり平扮する営業部長がやってきて、肌に吸い付くブラジャーを自分がハダカになって示したりするもんだから大爆笑!しかしさ、これってつまり、ヌーブラを先取りしているとか?スゴイかもしれない……。
んでもって三木のり平、取引先の電話に出るように言われて「私、ハダカですよ」などとアホなことを言って当然たしなめられ、それでも「こんなカッコですみません」と電話の向こうに謝るというアホさ(笑)。しかもこのブラジャーのカッコで(爆笑!)
もー、この導入で、面白さは確信しちゃったもなー。

錨(いかり)商事は大手ではあるんだけど、関西のメーカー、さくら商会が急激に力を伸ばしてきているんである。牧田の妻曰く、「さくら商会は私が関西にいた時から老舗でした。ウチの会社みたいに戦後、パラシュートから下着を作ったところとは年季が違います」などと言うから、牧田はすっかり発奮してしまうんである。
ま、そんなことを言うにしても、別に奥さんはお上品にお高く止まっているわけでは、ないのよ。むしろ夫婦仲は円満。奥さんからお帰りなさいのチューをねだるほどの(で、チューしちゃう。キャー。)夫婦円満。それだけに牧田がなんでまあ、ウワキ心を働かせるのか、女としては解せなかったりするんだけど……。

でも、牧田、いやさ森繁を見ていると、そんなオトコの生理がなあんとなく許せるというか、納得させられちゃうというか、しちゃうんだから悔しい。まあそれは、こーゆー風に相手が常に玄人の女性で、彼に近づくのはよくよく計算づくであるが故という周到な関係性が張られているが故、なんだけどね。
その玄人の女性たちは、演じるのが藤間紫であり淡路恵子であるから、文句なく色っぽく、文句なくカッコイイんである!

まあ、それでいえば、二人に限らず、彼女たちの勤める料亭やバーの女たちは皆、そうなんだけどね。
バー「くまんばち」で牧田を最初に迎える巨乳の谷間がまぶしいピチピチの女給なんか、錨商事の製品を履いてるわヨ、ホラとばかりにスカートの下のペチコートをめくってみせ、さすがの牧田をもうろたえさせる。
そこで発する台詞がイイのよね。「だってどうせ社長さんまくるんだから」(笑)目に浮かぶわー。そんな応酬がありながらも、森繁、いや牧田はちゃっかりその胸元をちょんとやるんだけどね。

そうなのよねー。森繁に私がどうにもこうにもグッときちゃうのはさ、そのかくそうともしない真性スケベなトコなのだ。女の子に触る手つきが、あまりにも堂に入ってるんだもん(笑)慣れすぎだっての。
でもねでもね、その女の子たちには確かに嫌われてないし、それどころか気に入られているぐらいなんだけど、でも“気に入られている”程度であり、ありていに言えば、社長さんという立場を“気に入られている”っていうのが切なくてさあ(笑)。
いや勿論、彼自身もそれは判ってて、だからこそ臆面もなく愛妻家だったりする訳でさ。
その割には、色っぽいマダムにデートに誘われて、しかも旅館に連れ込まれたりしちゃって、もうヤル気マンマンで手を握っちゃったりして、明らかに下心満載だったりするんだけど……。

まあ、ね。そうは言いつつ、修羅場になりそうな場面はちゃんと(?)用意されているのよ。牧田に店の改装資金をねだりに店まで乗り込んできた女将と奥さん、そして牧田が奥さんより恐れる会長の岩子までもが鉢合わせして(ホント、設定がソックリなんだよなあ……)、もう牧田ときたら戦々恐々。
しかし折りよく(折り悪く?)そこに、前々からヤル気マンマンだった庶務課長、朝日奈の防火訓練が重なってしまう。
修羅場から逃げ出す絶好のチャンス、と煙に巻こうとする牧田だけれど、今だ海軍時代を引きずってて、敵からの焼夷弾から身を守るノリの防火訓練にリキを入れている朝日奈の陣頭指揮によって、牧田は社長室の窓から目もくらむ地上のトランポリンへ決死のダイブ!
もー、この場面の、チビりそうなぐらいビビっている牧田の、いやさ森繁のへっぴり腰の絶妙さにはもー、もー、涙が出そうなぐらい大笑い!

そうなの、朝日奈はいまだ海軍時代を引きずっているんだよね……演じる加東大介の、マッチョな髭を蓄えたふくよかな体形が、言葉以上にそれを物語っている。
彼は海軍バーなどというところに出入りし、厳しいながらも仲間との良き時代を過ごした時を忘れられないでいる。そんな彼を、専務の大森が発見してしまうのだ。
大森はまだ30代、確かに同じく海軍の釜の飯を食った同志とはいえ、30年を海軍に捧げた朝日奈とは違う。
彼に共感を寄せながらも、大森が気になっているのは、女好きゆえにことごとくセッティングをブチ壊す社長、はもちろんだけど、それ以上に……片思い、なのだ。
朝日奈の一人娘のてつ子に、彼は思いを寄せていた。モデルショップの美人店員として働くてつ子は、社員寮仲間として気安い間柄で、だからこそ……思いを告げられずにいたのだ。彼女に既にイイ人がいるということも知らずに……。

そのイイ人とは、この映画の冒頭で既に登場している敏腕社員、社長の牧田から「スーパーマンの出来損ないみたいな顔して」と言われて鳩が豆鉄砲食らったような顔をする中村君である。
この牧田の台詞は実に言い得て妙で……つまり、スーパーマンに変身する前の、冴えないメガネのクラーク・ケントに似てるのよね。
てつ子から思わせぶりな態度をとられ(いや、彼女自身は決してそんなつもりはないのだが……)、カン違いしそうになった大森が、海軍バーで父の朝日奈にてつ子への思いを白状してしまい、彼女に思いを告げようとしたその時が……中村君がてつ子との結婚を報告に来た時だなんて……キッツイよなあ。

あ、そうそう、牧田、いやさ、森繁以上に女たらしっぷりを発揮するキャラがいるのよ。取引の契約を取るべく錨商事が社運を賭けて接待する、大福デパートの仕入課長。これがなんと森繁以上のエロエロな手つきでさ!
料亭の女将の和風美人と、バーのマダムの洋風美人じゃ全然違うのに「こういう女の人が僕は好きなんだ」とかしれっと同じ台詞言っちゃってさ!
もうアッサリ色気手段で落ちちゃうアホさなんだけど……そこに同じアホの森繁が乱入してブチ壊しちゃうってのが、……他の社員が会社のために奔走しているのが不憫でさあ(笑)。
でも、こういうお気楽な社長だからこそ、社員がショーがねーなーと頑張れることってあるよな、と思う。社長はちょっとアホなぐらいがいいのよ。

そんな牧田社長が、スケベ心丸出しにしてバーのマダムの相談に乗るために昼日中から旅館にシケこむも、マダムの相談が大森への恋心だと知ってガクリ。
それに追い討ちをかけるように、工場が火事になった急報が入る。急ぎ駆けつけるも、もう跡形もない有り様に牧田は呆然、せっかく大福デパートとの取り引きが決まったのに、もうダメだ……と絶望のふちに突き落とされる。
そこへ、朝日奈庶務課長と大森専務がやってくる。駄々っ子のように絶望を口にする社長をなだめるように、製品は殆ど運び出しましたから大丈夫、と告げると、牧田は感激のあまり更に号泣。
ううう、こういうトコが何とも森繁のチャーミングなところなんだよなあ。メッチャ単純で、部下の胸に顔をうずめてオイオイ泣いちゃう。こーゆートコがあるから、どんなにスケベのウワキ者でも、女はクラッときちゃうのよ。

エンディングは、会社のためにまさに身を捧げた朝日奈課長の定年を延ばし、彼と共にひげをスッキリと剃り落として、生き返った牧田。
マッチョな口ひげは確かに婦人下着を売るには似合わないし、それに……なんかね、戦前と戦後を口ひげ一つで上手くあらわしたよなあ、と思う。
高度経済成長を迎えたばかり、日本が戦後のどん底から、確かに立ち直りつつある時だった。 ★★★☆☆


重力ピエロ
2009年 119分 日本 カラー
監督:森淳一 脚本:相沢友子
撮影:林淳一郎 音楽:渡辺善太郎
出演:加瀬亮 岡田将生 小日向文世 吉高由里子 岡田義徳 渡部篤郎 鈴木京香

2009/6/16/火 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷)
この原作者の映画化作品は、私にとってはどうにも??なものばかりだったのだけれど、今回は予告編を観た時からなんだかその空気感がとてもフィットするような気がしていた。
監督さんが「Laundry」「恋愛小説」以来となる(私にとっては、だが)森監督ということで、ああ、随分と時間があいたなあとは思ったけど、なんだかあの独特のあったかい空気にもう一度触れられたような気がして、嬉しかった。

とは言いつつ、これはかなり、というよりとても非情なお話なんである。世では“最高傑作のミステリー”とされている。あったかな空気感なんていうものとはある意味、正反対の場所にあるのかもしれない。
でもなぜかそこに感じる春風のようなあたたかな空気は、この兄弟が、そして家族が、必死に守ってきた結晶なのだろうか。それともやはりこの監督の持つ、あたたかさなのだろうか。

春風、そう、主人公の一人である兄弟の弟は春という。予告編でも印象的だった、「春が二階から落ちてきた」と兄の泉水が驚いた顔で飛び降りる弟を仰ぎ見る、スローモーションのエピソードが冒頭に用意されている。
今の時間軸より少し前、弟が高校生の時の話。いい気になっているお嬢様の女の子が輪姦されそうになっているところにバットを持って殴り込みに行く春が、鬼畜ドモを蹴散らした後で、二階からふわりと飛び降りるのだ。
そんな風に、兄の泉水はこの無邪気奔放な弟に半ば振り回されながらも、でも兄弟仲はすこぶる良かった。アルバムの中ではまるで双生児のように、同じカッコ、同じポーズでいつでも映っていた。泉水が足を骨折した時は、春がトイレットペーパーを巻いてギプスを真似する、といった具合。

でも、二人は血が半分しかつながっていない。実はこの冒頭のシーンは、その非情な運命を皮肉なまでに暗示している。春は母親がレイプ犯に犯されて出来た子供なのだ。
春が強姦されそうになった女の子を助けつつも、お高く止まっていた彼女に対してみぞおちにバットで鉄槌を食らわすのは、彼が後に知ることになる出生の秘密を思うとあまりにあまりに皮肉に過ぎる。彼はそれを知っていたら、この女の子に対してそんな態度に出ることが出来ていただろうか……。
だって、彼の母親には何の落ち度もなかった。泉水がまだ小さくて、幸せな三人家族の日々だった。ベビーカーを玄関に入れてドアを閉めたとたん、見知らぬ若い男に押し入れられ、有無を言わさず犯されたのだ。
耳をつんざく泉水の泣き声、虚しく抵抗する足だけが見切れる、想像もしたくない場面……。
そうして、春は出来た子だった。それでも妻を愛し、家族を愛していた父親はその子を慈しんで育てることを決意した。神様から「自分で考えろ!」と言われたと言うけれど、この父親なら最初からそうしただろう。

この両親を演じているのは小日向さんと鈴木京香。小日向さんは現在の時間軸も演じているから、若い頃はあら恥ずかし、カツラ姿だったりする。でも鈴木京香だって今の小日向さんとでも充分つりあう年恰好だし、つまり二人とも、若夫婦というには少々トウがたっているんだよね。
でも、それが救いになるし、説得力にもなる。実年齢通りの若いヨメだったら、いくら見切れた足だけでも、強姦されて子供を身籠った女、は見るのも辛かっただろうし、そんな妻を心身ともに支えられるのは、実年齢通りの若い男では、やはり画的にどうしても説得力が足りなかっただろうと思う。
カツラ姿の小日向さんはちょっとハズかしいけど、彼のウラのない笑顔には本当に救われる。

春は子供の頃から何となく、察していた。こんな田舎町でも、いや田舎町だからこそ、近所の口さがなさは容赦なかった。「春は私の次男です」「そうですよね、この土地の誰もが知っていますよ」なんて冷笑を浮かべる同級生の親。
春はきっと、友達だってろくにいなかっただろう。親からしてそんな風に差別意識を子供たちに与えていたのだから。春にとっては、兄の泉水や優しい両親だけが、信じられる存在だったのだ。
でも、その自分が、自分こそが、忌まわしい血を持った人間である……。
しかも、母親が死んだのは単純な交通事故ではなく、それが理由の自殺かもしれない……。
春は一つの決意を胸に秘めるんである。

まあ、オチを言ってしまえば、春が妙に興味を持って犯人探しをしたがる、連続放火事件のその犯人は春自身であって、弟に引きずられる形で犯人探しに付き合う泉水が、徐々に暗黒の闇を見る羽目になるんだよね。
春は最初から、お兄ちゃんに自分が放火犯だってこと、気づかせるつもりで、巻き込んでた。春の画才を生かした街のグラフィックアートと関連付けて、お兄ちゃんが専攻してる遺伝子の配列を使って誘い水をかけた。
泉水は最初こそは弟の無邪気な好奇心に戸惑っているような感じだったけれど……恐らくそれは、昔からそうだったのだろうし……次第にグラフィックアートのメッセージの頭文字が遺伝子の配列を示していることに気付き、のめりこんでしまう。
勿論、春はお兄ちゃんを巻き込むために遺伝子配列を使ったんだけれど、その連続放火の最終目的は、自分の本当の父親、あの忌まわしきレイプ犯を殺すことにあるわけで……それは遺伝子の呪縛を断ち切る、ということな訳で。

この不思議なタイトルが何を示しているのか、興味があったけど、それは本当に、最後の最後に示されるのだ。家族みんなで見に行ったサーカス。空中ブランコに怯えているピエロは、だけどひとたびブランコを漕ぎ出すと、心底楽しそうな顔になる。あのピエロは今、幸せで、重力なんて感じてないんだって、そうしたら今とっても幸せな家族の私たちは、空も飛んじゃうわね、なんてお母さん、そして家族みんなで笑いあった。
その時には幼い兄弟は、こんな過酷な運命を知らずにいたから、その幸福を、奇跡のような幸福を、当然のように受け入れていたのだ。
実際は、両親が必死に守ってきた、空飛ぶほどの幸福を。
でも、母親は決して自殺なんかしたわけじゃない、と思いたい。彼女は空に浮かぶほどの幸福を感じていたと思いたい、けれども……。

凡庸な容姿の泉水と比べて、端正な顔立ちの春。泉水は、モテる弟を持つのはキツいよ、みたいにこぼしていたけれど、その実は自慢の弟だったに違いない。だって、本当に仲が良かったのだもの。
それは勿論、春の方も同じ。頭のいいお兄ちゃんを誇りに思っていたに違いない。幼い頃の泉水を演じている子役の子も、メガネがよく似合ってる、なるほどメガネな加瀬亮の幼い頃みたいな雰囲気をよく映していて、そして春役の子役も美少年な感じがイヤミじゃなくピッタリで、子役のチョイスはこの物語においてはかなり重要だと思われるから、上手いんだよなあ。

でも、端正な顔立ちで、芸術的才能があって、という要素が突出して、つまり浮いていた春が、それを忌まわしきレイプ犯の実父から全て受け継いだ、なんて思いたくないけれど……そうなのだろうか。
端正な顔立ちは、人気モデルだった母親から受け継いだものだとしても(それにしては、口さがない周囲から、似てない似てないとやたら言われていたけれど)、画才に関しては恐らく家族の誰にもなかったものと思われる。
だから春が「どうして僕だけ絵が上手いの」と問いかけ、家族は黙り込んでしまった。しかし心優しい父親は即座に「春はピカソの生まれ変わりなんだよ。ピカソは新しいことを次々に作っていった人なんだ」と言った。春はその父親の答えに満足した。
父親は、非情すぎる運命を背負った春に、愛する息子に、その運命をその「新しい感覚」で突き破って欲しいと思っていたに違いない。
でも、ならば、母親は、それに、負けてしまったのだろうか……。

春は最初から実父を殺そうと思いつめていたに違いないし、それに巻き込まれる形になった兄の泉水もこの男に接触し、「子供を産んだ女はダメだな。ヤッてくれてありがとうなんて感じでさ」などと許せないことを言い放ったコイツの元を辞した後、殺人サイトなんてこっそり覗いちゃって、この鬼畜な男を葬り去るために綿密な計画を立てていた。
この心優しき兄弟が殺人を犯して罪に問われてしまうのか……観てるこっちはハラハラして仕方なかった。
本当に鬼畜な男なんである。高校生の頃何十件ものレイプ事件を犯した男は、しかし少年事件だったためにアッサリ社会復帰し、その社会復帰というのが、未成年の女の子の売春斡旋だっていうんだからあまりにもありがちである。

しかもこの男に接触してみると、彼はかつて犯した罪を罪とも思っていない。自分は反省なんかしたことない。レイプのどこが悪いんだ、と薄ら笑いながら言うのだ。
「レイプが悪いと言うのは、相手がかわいそうだと思うからだろ。相手の気持ちを想像しろと言うけれど、それこそ想像力の欠如だ。女を犯しながら、相手の痛みを想像しながら、だけど俺はその相手の感覚とはまったく関係ない、俺は気持ちいい。それこそが想像力ってもんだ」
ヘリクツにもほどがあるけれど、でもヘンに頭が回るこの男、その独特な吸引力は確かに……春に受け継がれたものかもしれない。春のそれは、決してこんな邪悪なものではないけれども。

春はこの男を母親がレイプされた、忌まわしき過去の現場に呼び出して火をつける。そこは確かに忌まわしき場所だけれど……春は過ごすことのなかった、両親と兄の泉水が家族水入らずで幸福な時を過ごしたささやかな一軒家だった。
この事件の記憶から逃れるため一家は引っ越して、その引っ越し先は実に自然溢れる素敵なログハウスで、養蜂などして蜂蜜を作ったり、本当にステキな家族の時を過ごしていたけれども。
でもそれでも春は、自分が過ごしたことのない、“真の”幸福の時間のあったところにきっと強いコダワリがあったのだ。
だってそこは、天国と地獄が共存したところ。しかもその地獄は、自分の存在が呼び起こしたこと。

自分の存在が生まれるために踏みにじられたところに、実父を呼び出し、彼を殺す。燃えさかる火の中で、今の父親、春が本当のお父さんはあの人だけだと言うあの温かな父親から誕生日プレゼントに送られた「ジョーダンのサイン入りバッド」で殴り殺す。それを、異変を察知して駆けつけた兄の泉水は、目を見開いて、見届けた。
春が生まれるにはこの男の存在が不可欠だった。でもこの男は殺すに値する人間だった。

……。

殺すに値する人間、死んで当然な人間、本当はそんなこと、あっていい筈はない。だってそれを肯定してしまえば、その存在を否定することになってしまえば、春はここにいなかったのだもの。
でもそれを、こともあろうにソイツ自身が口にする。「オレがいなかったら、お前は産まれなかったんだ」そう、自分がお前の母親をヤッてなかったら、ということを言った訳で……当然春はその言葉に一番ショックを受けて……それは春自身が最も自覚していた、一番言われたくなかった、聞きたくなかったことだから……彼を容赦なく殺してしまうんだけれど、これって、キツい、キツ過ぎるよね……。
この殺人で春が、そしてもしかしたら泉水もとがめられることになるのかという危惧は回避される。それもまたキビしい後味の悪さがあるんだけれども、二人は信頼する優しい父親、ガンに冒されて余命いくばくもない父親に「やってはいけないことをやったんだろう」と見透かされて黙り込むしかないのが、でもそれが、痛くて切なくてたまらないけど、でも凄く幸せなことじゃないかと思うのだ。それは幼い頃の、ありがちな幸福な家族の風景よりもずっと、幸せなことじゃなかったかと思うのだ。

罪に問われなかったことで、当事者の春は勿論、それを一部始終見守った兄の泉水も、一生十字架を背負っていく。片時も忘れることはないだろう。愛する人が出来て、自分の分身が生まれても、むしろそのたびごとに、自分が、自分たちが、その絆のひとつを断ち切ってしまったことを思い出すだろう。
ちょっと違うんだけど、ジョディ・フォスターが自信満々に、悪人は死すべき!みたいに殺しまくった「ブレイブ ワン」を思い出した。共通点は、愛する人が殺されたことがキッカケだったこと。
でも出発点は同じでも、全然違う。だって、だから同じような全ての悪人をさばこうなんて思わないよ。その点では、日本はまだ、自分や家族につながることで考えてて、そこまで傲慢じゃないのかなと思ってちょっとホッとする、なんておかしいだろうか。
でも、本当に究極の一線は、あると思う。それを春と泉水が超えたのか超えていないのか……言ってしまうのもちょっと、自信がなくて、怖いのだけれども。

「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ」辛い経験がなければ出てこない言葉。この兄弟の、そして家族の強さであり優しさ。★★★☆☆


守護天使
2009年 109分 日本 カラー
監督:佐藤祐市 脚本:橋本裕志
撮影:川村明弘 音楽:佐藤直紀
出演:竹山隆範 佐々木蔵之介 與真司郎 忽那汐里 寺島しのぶ 佐野史郎 池内博之 大杉漣 柄本佑 日村勇紀 波瑠 吉田鋼太郎 キムラ緑子 升毅

2009/7/3/金 劇場(渋谷HUMAXシネマ)
あの「キサラギ」の監督の新作ということで迷わず足を運ぶ。しかし今回は、スマッシュヒットを放ったあの「キサラギ」よりは盛り上がっていないような?まああの作品は、強引なくらいな謎解きの爽快な面白さ、つまりは文句なしの脚本の吸引力があったからなあ。
本作もそれが決してないとは言わない……謎解きもあるんだけど、前作で見せた、バカバカしさが極まった愛しさ、みたいなものは生まれなかった、かもしれない。まあそりゃー、作品が違うんだから、それはそれで当然なんだけどね。
でもその謎解きがなされてみると、かなりシャレになんないというか、ダークなネタが仕込まれているもんだから、やっぱりちょっと、ツラかったかなあ。

今回の主人公はカンニング竹山。彼は映画は初出演?なんにせよ予想外のキャスティングだけど、でも彼は確かに、今後役者として重宝されそうなチャームを持った人。
ここ最近はもっぱら塚地氏が引っ張りだこで、本作もデブキャラという点に関してだけ言えば、つかっちが起用されてもおかしくなかったかもしれないんだけど、これは確かに、カンニング竹山の役なんである。
だってこれって、つまりは彼、ストーカー役なんだもん(爆)。それは、陽気さが先に立つ塚地氏に比べて竹山氏は何となく影があるというか、哀愁が漂ってて、人生に疲れて恋に癒しを求めちゃう感じが、ピッタリなんだよね。
そして何より劇中、ゲイ雑誌のモデルのバイトに挑戦した時、ゲイさんたちから「この幼さが残る風貌も、たまらないんだよね」とその才能?を絶賛されるあたりも、たまらなく竹山氏なんだなーと(爆)思ったりしちゃうんである。

竹山氏以上に意外なキャスティングはやはり……寺島しのぶだろうなあ。彼女がこんな、ブス(とは別に言ってないけど……)的なキャラを演じるなんてオドロキ。
亭主を尻に敷くなんてもんじゃない、家庭の全ての権利を握ってて、亭主には昼ごはん代の500円しか渡らない。何でも彼女の父親である相撲部屋の親方に押し切られて、結婚させられたという、獄中のような日々を送るカワイソウな彼なんである。
しかしそれが本当にカワイソウだったかどうかは……彼は目の前の幸せに気づいていなかっただけなんじゃないかというのが……オドロキのエンディングで判る仕組みになっているんである!

とか、なんか伏線ばかりで話が進まないけれども(笑)。とにかくね、このカワイソウなダンナ、しかもリストラまでされちゃって、今や不登校の子供を連れ戻すような団体(?)の仕事にキュウキュウとしている彼がね、いきなり恋をしちゃうんである。それも……初恋を!
なんとなーく語られるところによると(どーも彼のカツゼツが悪くて判り辛いんだけど(爆))、彼、須賀啓一はそれまで、学生時代にもカワイソウな日々を送っていたらしく……その頃からいいように使われまくっている今やチンピラの村岡(佐々木蔵之介)に今もつきまとわれている。つまりそんな、生涯いじめられっこみたいな日々を送っていたから、恋をする気持ちの余裕さえなかったのだ。

そんな啓一が恋したのは……気持ちの余裕が出来たのは、この落ちていくばかりの生活だったから、余計に彼女が光り輝いて見えた、ということなのかもしれない。
電車の中でお年寄りに席を譲っているのを見かけた時は、バッグに吊り下がった天使のマスコットがちらりと見えただけだった。その鈴の鳴るような声の女の子の顔をどうしても見たくて、次の日須賀は彼女と共に満員電車から下車した、ら……満員過ぎて、ハデにこけてしまう。
なけなしの500円が転がっていくのを絶望的な気分で眺めて、潰されたカエルのように突っ伏していたら、その500円玉と網棚からガメたスポーツ新聞を拾ってくれたのが彼女だったのだ。まさに天使のような笑顔で、差し出してくれた。それが涼子。
初めての恋。彼女を守りたい。見返りなんか考えてない。この年になって初恋を経験してしまった啓一は、涼子に向かって猛突進する。すると予想外の事実が次々と明らかになってきて……。

啓一がキモチワルイストーカーに間違われて(まあ、ストーカーには違いないんだけど(爆))、ついには涼子から「警察呼びますよ」とまで言われる事態になるんだけど……真の、許せないストーカーは別にいる訳なんだよね。彼女の通うお嬢様学校のイケメン教師。演じるは池内博之。
そりゃー、彼みたいな体育会系さわやか教師と竹山氏を比べたら、誰もが竹山氏の方をストーカー男だと指差すだろう(笑)。
しかしこのイケメン教師はトンでもないヤツで、次々に女子生徒を食い物にしては、ついには妊娠した生徒を転校にまで追いやってしまった。
その生徒が本作のキーマンの一人である渡辺麻美で、序盤は彼女こそが須賀が恋する涼子を陥れていると須賀たちも思っているし、観客も思っているんだけれど、渡辺は友達の危機を心配してずっと涼子を警護していたんだし……って、渡辺もつまりはストーカーじゃん!友達なのに!……説明出来ない事情があったんだよね。先生に妊娠させられて転校しただなんて……。

啓一が面倒を見ていた高校生、佐々木君が、熱心な啓一に心を開いたことから、事件は発覚するのだ。
現代っ子らしく、ノートパソコンを持参して「現代の女子高生はこんなに乱れているから」と、啓一に見せたブログが、自分が初恋に落ちた女の子らしいと知って、激しく啓一は動揺する。
そんな筈はないと思いながらも、腐れ縁のチンピラ、村岡からも目を覚ませと諭されながらも、彼は彼女への思いを捨てきれないのね。
そんな中、佐々木君が更に恐るべき情報をゲットしてくる。このブログの女の子を拉致して、乱交パーティーをする計画を立てているグループをネット上に発見したのだ。
ブログの中ではエッチ系のキャラを確立している彼女だから、まるでそれは、彼女も納得ずくの“計画”に見えた。それもその筈、当然、そのブログをやっているのは涼子ではなく、彼女の先生である牧瀬(池内博之)、そして牧瀬が、彼女を輪姦する計画の“プロデューサー”だったんである。

涼子がブログなんかやっている筈はない、と断言するのは、転校前、このお嬢様学校で親友同志だった渡辺。実は佐々木は彼女が結構気になってるっぽく、ひょっとしたらひきこもりから外に出たのはその理由が大きいんではないかとも思われる。
渡辺がなぜそこまで断言出来るかと言えば、涼子は生まれつき心臓が悪く、ペースメーカーを埋め込んでいることを知っているから。だから携帯電話やパソコンを、涼子は使えないのだ。
涼子が心臓病の子供のための街頭募金に立ったり、病院に子供たちを見舞いに行ったりしているのを知って、啓一はますます彼女への思いをつのらせ、ますます、涼子がそんなハレンチ(って死語だけど)な女の子じゃないという確信を得る。そしてこのあたりになると、事件の全貌が次第に見えてくるのだ……。

でね、啓一の腐れ縁のチンピラ、村岡を演じているのが佐々木蔵之介なんだけどね、ううむ、やはりさすが、なのよね。
彼はもともと、そのミョーにヒョロ長い手足と、端正の途中で立ち止まったような顔立ち(失礼!)が、“使えないのにカン違いしてるチンピラ”にピッタリなんだよなあ(笑)。
んでね、彼が根城にしている、とても流行っているようには思えない寒ーい雀荘も、そんな感じなのよ。店長のアヤしさといい、村岡のボスかと思いきや、どうやら単なるマージャン仲間の豊川を演じる大杉漣といい、彼の女かと思いきや、どうやら単なるスナックのママらしい(うーんそんな台詞、劇中にあったかなあ)キムラ緑子といい。
つながりがあってなさそな、しかし今の啓一にとっては、ここ以上の安らぎどころはないというのが、切なくてさ。

そうなの、涼子に恋して、彼女を恐るべき計画から守ろうと決めた時から、啓一は家を出て仕事まで辞めちゃって、この雀荘で寝泊まりするんである。
しかし鬼嫁、勝子(寺島しのぶ)はその居所をかぎつけてやってくる。というのも預金通帳を盗み出そうとした啓一が、襖のたてつけの音を消そうとして撒いたサラダ油(!)で滑って階段から転げ落ち、その際ウッカリ雀荘のマッチを落としてしまったから。
そしてカネを作るために啓一が向かったゲイ雑誌の編集部にも乗り込み、夫のあられもない姿の写真に逆上、ボヤ騒ぎを起こしてしまうんである……。

しかし、このゲイ雑誌のくだりは笑ったなあ。だって竹山氏、そのぽよぽよとした体形と、メガネを外すと妙にベビーフェイスなあたりとか、確かにそそられそうなんだもん(笑)。
「仕事だって、忘れそうになりましたよ」とカラミも担当するカメラマンは大喜び。編集長(佐野史郎!)も、啓一の逸材っぷりを認め、スター街道が約束された?ところに、あの鬼嫁が殴りこんで来る訳なのよね。

すんでのところで涼子を悪の手にさらわれてしまった。それも、自分をストーカーだと怯えて逃げようとしたからと、啓一は激しい自己嫌悪にかられる。しかしそこからはまさに「キサラギ」の監督作品!爽快な追い詰め作戦が待っているのだ。もうここはドキドキ!
さすがは?チンピラ、村岡が指示した、神奈川県全域の新聞配達員たちに「岩手ナンバーのワンボックスカー」を探し出す指令は、見事なまでに功を奏するのよ。
牧瀬教諭が涼子をさらわせた一人が、岩手からはるばる乱交パーティーを楽しみに上京してきた男で、これに足がつく。しかし彼は無邪気に乱交パーティーを楽しみにしていただけで(それもどうかと思うが……)、更に牧瀬教諭さえコントロール出来ない悪党が噛んできたことが、事態を大きくさせた。
未解決の幼女バラバラ殺人事件の犯人である“ハーベスト”が、マグロ解体用の包丁を仕入れて、悪寒がするほどの落ち着きっぷりで、この計画の主導権を握ったのである……。

このハーベストを演じるのが柄本佑で、彼はヤハリ……凄いと思う。柄本父の遺伝子を色濃く継ぎつつ、弟の方がキョーレツな風貌を持ちながらも、彼はその得体の知れなさは父以上、カリスマ性は弟以上で、末恐ろしいほどの可能性をいまだに感じる。
ニット帽を被りスリムな黒づくめの彼が、スラリとマグロ包丁を構える姿は、顔だちはなんとなくタンパクなのに、どこか奇妙なあくの強さがあって、それら全てが彼の空恐ろしさを形成している。
彼からマグロ包丁を奪ってしまえば解決するし、啓一、佐々木君、村岡、と大の男三人も揃っているのに、このワカゾーにここまで手こずるのは……ヤハリ、柄本君の底知れなさから来ているのだとしか思えない。
彼からはどうしても、武器をおいそれとは奪えないのだ。ビリビリ感電しそうで、近づけないのだ……最終的には“ハーベスト”は、自分を殺してくれという願望もかなわず、自らウィークリーマンションの窓から身を投じるのだけれど、なんだかそれが一瞬、かわいそうに思えてしまうことにビックリしてしまう。

ていうか、その前に啓一達が彼らのアジトを突き止め、目もくらむ屋上から赤ふんどしでぶら下がって(!)窓を突き破って救出に入るってな、超アクションがあるのに、結局は悪役のオーラにさらわれてしまう?
……それでも、啓一の片思いの気持ちを、そして涼子を守ったことを、最後の最後に彼女に判ってもらえて、それだけでも感激だったのに、その初恋が彼女の引っ越しという古典的な手法で幕をおろし(まあ、こんな目にあったら、この地を離れたいと思うのはムリないよね……)しかし最後の最後の最後には……驚くべきハッピーエンドが待っているのだ!!

あのコワーイ鬼嫁が、想像だにしない一言を口にするんである。正義のヒーローを奉りつつ、しかしストーカー?みたいな好奇な視線を向けるマスコミを掻き分けて現われたのが、鬼嫁、勝子。
「この人は……この人は、私の初恋の人なんです!」 !!!いやー、びっくりしたさ!フツーに、私はこの人の妻だ、と言うんだとばかり思っていたからさ!
でも彼女、涼子を救いに行く啓一から「初恋なんです!」と仰天の告白をされ、それでも「(捕まるかもしれないけど)絶対に正しいことです!」「いつになるかは判らないけど、必ず帰って来ます!」の言葉に……ダンナを黙って送り出したんだよね。
この場面と、ラストのビックリ発言とで、彼女、ダンナがチョー好きなんじゃん!と思って、とてつもなく幸せな気分になってしまう。 ★★★☆☆


情事の履歴書
1965年 88分 日本 モノクロ
監督:若松孝二 脚本:若松孝二 大谷義明
撮影:伊東英男 音楽:
出演:千草みどり 三枝陽子 三宅一 明石健 細谷俊彰 立川雄三 寺島幹夫

2009/10/22/木 劇場(銀座シネパトス/若松孝二監督特集)
常に成人指定のような扱いを受けている若松監督だけれど、ちゃんとした?ピンク映画として呼ばれて撮っているものがどれぐらいあるのか……私はそこんところが集中的に未見であるような気がする。
だからちょっと、本作にはオドロキを隠せなかった……なんというか……こういうちゃんとした?(どうも言葉が出てこない)商業ピンク映画を若松監督が撮っていたんだ、というオドロキというか。時代の要素を鋭敏に取り入れて、いつも何かに対する怒りを克明に、時には前衛的に刻印し続けているイメージのある若松監督が。

でも思えば若松監督は、いつでもその怒りそのものの中に自身を投じてはいなくて、そう、常に、怒りを何かにぶつけている対象人物を距離をおいて見つめているのだから、それがピンク映画というものにツールが変わったとしてもさほどオドロキではないのかもしれない。
ヒロインの加代が自身の計画のために引き入れる青臭い青年が、学生闘争に身を投じていることぐらいが、“若松的”を匂わせる程度。ちょっと意外なぐらいに劇映画としての構成を完璧に成り立たせていてちょっと、ビックリした。

て、さあ。私は一体、若松監督にどーいうイメージを持ってるのって(爆)。限られた数しか観てないのに(爆爆)。
うーんでも、やっぱり意外だったなあ。完璧に女の物語、女一代記であるのもちょっと意外だったし、しかもその女に対するイメージを後半でガラリとくつがえしてくるのも意外だったし。

でもそこんところもね、ほおんとよく出来た心理劇なんだよね。ことに彼女のような、二人の男に妾として請われたファムファタルが、実は私は騙されたんです……騙されどおしの人生だったんです……と涙ながらに語り始めるのには、最初は話を聞く刑事のみならず観客だってマユツバもんだと思いながら見ているんだけれど、後半にひっくり返るまでは、スッカリ彼女の、男にもてあそばれた悲惨な半生に同情しちゃってるんだもの。
それを語る彼女が、高そうな着物を着て大きなダイヤの指輪を指に光らせて、バッチバチの付けまつ毛を震わせながら「違うんです、騙されたんです!」とお決まりの台詞を言うにも関わらずよ……女ってのは、げにコワイ生き物なんである。

でもまあ、それを彼女の供述という形とはいえ、こちらは映像で見せられるんだからムリもないよなあ。それにどこまでホントかは判らないながらも、途中までは確かにホントだったんだろうし……。ううむ、ラショーモナイズだ。

物語はひとりの中年男性が銃殺体で発見されたところから始まるのね。
その部屋の持ち主であり、その男性の妾である加代が当然のことながら疑われるんだけれど、彼女はその時、別の若い恋人の部屋でお楽しみの真っ最中で、無実を訴える。
刑事達が彼女の男遍歴を調べ上げ「お前は悪い女だ」と決め付けるのに加代はキッと睨みつけ、私は騙されたのだと、自分のこれまでの生い立ちを語り始めるんである……。

タイトルは情事の履歴書だけれど、レイプの履歴書じゃないかってぐらい、加代の半生は悲惨である。もちろん、彼女の言うことを信じればなのだが、少なくとも彼女がこの男の妾になるまでは、事実が主だと思われる、って騙されてるかな?(爆)。
雪深い田舎、冷害でどこもかしこも貧乏で、でも加代は運良く就職も決まって、このふるさとで穏やかな人生をこのまま続けるハズだった。
しかし、この村の女の子を売り飛ばす目的で来ていた女衒の男に、加代の美貌が発見されてしまった。

しかもこの男のやり口は汚かった。加代をひと気の少ない(つってもそこらじゅうひと気が少ないのだが)道で待ち伏せして、荒くれ男たちに廃屋へ連れ込ませて輪姦させた。しかも加代は処女だった……。
更に、助けに来たと思わせたこの男(友達が都会に出るんだと加代に話をした時に、顔を見知っていた)からも陵辱された。絶望のふちに落とされる加代。
全裸のまま雪原に飛び出していって、汚いものを洗い流そうとするかのように雪を浴びるシーンの鮮烈さ。なんか単純に寒そうとも思うし、誰も足跡をつけていない、音さえしないようなまっさらな雪原に飛び出していくのが、処女の彼女が凌辱されたという、聖を踏みにじられたという惨劇を、ひどく残酷にも美しく描写している気がして、胸に迫るんである。

そこから、加代の転落人生が始まる。加代が言うに「今でもお女郎さんの世界ってあるんですよ」というそこは、つまりヤクザが取り仕切っている秘密クラブのような場所で、一度囲われた女は決して外に出ることは出来ないし、客に助けを請おうとすれば、鋭く嗅ぎ付けて、二度とそんな逆らうマネをさせないように虐待するんであった。
加代がやられたのは、両方の内腿にかわるがわるタバコを押し付けられるというもの。さすがに押しつける場面までは映さないし、美女があぶら汗を浮かべてアーッと悶えているカットで充分ピンクの要素は満たしているんだろうけれど、それにしても……キツいんである。

そもそも加代はこの場所に来た時に、東京への就職が決まっていた筈の友人がここに囲われていたのを目にしていて、彼女もまた逃げようとしてヒドい目に遭わされていたんであった。
でもその後の加代がそうであったように、この友人も縛り上げられながらもペッとつばを吐きかけて、凛とした態度を崩さなかった。ひょっとしたら加代はそれを見ていたからこそ、毅然とした態度を取れたのかもしれない。

最初は失敗したものの、警察のガサ入れが入ったのは、ひょっとしたら一度失敗から学んだ加代が、仕掛けたことだったのかもしれない。
更生する気があるかと言われて、当然頷いた加代が紹介されたのは縫製工場。昼休み、工員皆で「幸せなら手を叩こう」を合唱するような、絵に描いた様な慎ましやかな青春があった。
マジメそうな青年からも思いを寄せられ、加代は初めてセックスというものが、愛する人とするそれが喜びであることを知った。
……これはね、すんごく重要な部分でさ、女にとって、好きな人以外にヤラれることが、嫌悪と屈辱以外の何ものでもないことを、判ってほしい訳よ。
アダルトソフトでレイプモノが横行しているのは、結局セックスが気持ちよければレイプでも女は喜ぶんだぐらいの乱暴な考えがあるんだろうけれど(いや……それよりも、陵辱という、女を支配下に置く感覚が気持ちイイってのも大きいだろうが)、ホントに違うんだもの。加代が言うように、「全然違う」んだもの。

加代はこの時、好きな人とするセックスが、望まないそれとはまるで違うことを、初めて知った。初めて“女”にさせられた時には考えられないことだった。
しかも彼からプロポーズされて、これまでの不運を清算するかのように幸せになれる気がしていたのに。

でね、このあたりから、彼女の話の信憑性がアヤしくなるんである。いや……ここからアヤしかったら、結局は最初からアヤしかったことになるのかもしれないけど。
恋人からのプロポーズに天にも昇る気持ちながらも、私は汚れた女だから……と拒絶しかけた加代。二人のデートコース、川の土手の場面に見切れそうに入り込んで来たのが後に銃殺される村田であり、加代の勤める工場の工場長なんである。

この、カットにおもむろに入り込んでくる村田から、いきなり彼に犯される加代のシーンへの唐突さは衝撃である。
しかも村田は、加代のこれまでを知っていて、口汚なくののしることまでするのだ。つまり、お前はその程度の女なのだと。
その一方で、自分が頼むことを聞いてくれたら、あの男と結婚でも何でもしていいから、と卑屈にも頼み込む。レイプしながら、弱みを握って、頼み込むんである。サイテーの男。
しかも加代はこの男の妾となって、冒頭、彼は死んでいるというんだから、何が起こったのかと思いきや……。

工場を立て直すための金を融通するために、銀行員の、見た目ヤクザみたいな色眼鏡の男に、加代がつまりは人身御供にされる訳でさ。
で、このあたりから、加代の言い分と男たちのそれが食い違ってくる。
加代はそれまでと同様、私は騙されたんだ。村田に続いてこの銀行員の男にもレイプさながらに犯されて、ムリヤリ妾にされたんだと言いつのり、それまでの、ウブな田舎娘の転落物語に引きこまれていた刑事たち、そして観客もつい信じてしまうんだけれど、なんせ今の彼女は高そうな和服に大きなダイヤの指輪、そしてこの銀行員からプレゼントされたという高級マンションに住んでいる訳でさ、彼女の話の信憑性がアヤしくなってきていることに気付かなければいけなかったのに。

加代は後に二重妾となるこの銀行員の男にも、レイプされたと言うけれど、彼は加代が村田と共謀して自分を陥れたと訴えた。
加代の誘惑にアッサリ陥落した彼は、その現場写真で脅され、湯水のごとく金を奪い取られた。いや……彼は、自分が加代に惚れて惚れて惚れ抜いてしまった、と刑事に供述しているし、結局は彼と加代の言い分のどちらが真実かなんて判りゃしないんである。
こんな立場でもみすぼらしいのはイヤだからと、豪華なマンションや指輪を加代がゲットするのも、加代の回想と彼の回想では、同じ台詞をお互いに言わせているのだから。
まあ……後半は、男側の証言の方に信憑性があると思ってしまうのは……加代のしたたかさがふいに垣間見えてしまうせいもあり、あるいは女が最後まで虐げられ続けるなんてツラすぎるという思いもあるからなんだけど、でも多分、いやきっと、加代は後半、どこかの時点で間違いなく、鬼になったに違いないんだよなあ。

こんな悪女なのに、彼女にハメられてライバルである村田をカッとなって殺したのに(自分が買い与えたマンションで、あられもない姿で村田がスヤスヤ寝ているもんだからさ)、それでも銀行員の彼は加代に対する思いを捨てきれず、その思いが、捕まった警察署で「加代に会わせてください!」となる訳で。
加代をひと目見るや否や、この売女!とベルトで彼女を打ち据え、しかし加代の方もツバをはかんばかりに罵倒し、ドロドロの呈をあらわにするんである。
……それにしても彼はなぜこれほどまでに、加代にハマってしまったのか。
あるいはそれは、彼女がようやく本気になった(男を落としいれようとする、という意味でね)からなのか。

確かにそうかもしれない。自分のアリバイ(つーか、確かに彼女は無実なんだから、まあ保険みたいなものかな)を成立させるために、随分前から垂らしこんだ学生闘争あがりの青年の存在が、案外大きいから。
青年は、つまりはその闘争から逃げ出してきて……いかにもブルジョワな加代の運転する車に拾われた。
目を覚ました彼が目にしたのは、あらわな背中を向けてベッドにうつぶせになった加代が、退廃的にジャズのレコードなんぞをかけて、怠惰にそのエロな身体をリズムに揺らしている様。

お前らのような、私有財産にあぐらをかいたブルジョワの階級がいるからダメなんだ。俺たちは戦うんだ、と言いつつ、彼のそんな台詞もまるで聞いていない加代の生々しい肉体に抗えずに襲い掛かってしまう。
青年の言う台詞自体、そもそも青臭い以前に矛盾に満ちているしさ。てか、つまり共産主義ってことだよな……富めるものを単純に憎み、貧しい者が正義で、働いている云々は関係ないってあたりが、抜け落ち過ぎでさ。
つまりこのあたりが、若松監督のニヒリスティックなとこなんだと思うんだよね。彼は時代を反映しながら、実はとてもニヒリスティックでリアリスティックで、現実が残酷なまでに見えている。だから恐ろしい映画が次々に撮れるんだよなあ。

もちろん、加代は村田を殺してはいないんだから、全てが明らかになれば当然釈放される。
刑事たちは一度は疑ったことを反省し、しかしやはりファムファタルであったことを、真犯人の口から聞かされたのでコンランしていて、しかも彼女はなんせイイ女だから、警察官らしく説教する時に思わず加代、と呼びかけてしまう。
加代は皮肉めいた流し目を送って、それをやんわりと牽制する……なんかこの時が一番、加代が哀れに思えて仕方なかった。これまでの、女だから、イイ女だからって理由だけで受けてきた、理不尽で残酷で鬼畜な仕打ちを世に示したいと、時に自分の恥をさらしてまで訴えてきたのに、結局自分は、その日会ったばかりの男に自分の女みたいに下の名前で呼びかけられるような、その程度の女なのだ、と……。

下の名前で呼ばれるのってね、しかもこの場合は呼び捨てだよ、自分が服従してもいいってぐらい、親か親しい友人か尊敬してる目上の人か、そして……真に好いた男でなければ、女は認めない。
実はプライドがメッチャ高い女が、呼び捨てにされることを許す存在は限られていて、そこんところを男は割と判っていないということを、判ってほしいんである。

ラスト、そんなこともサッパリ判っていない、あの学生運動崩れの青年が加代を追いかけてくる。
行くところがないんだよ、と甘えたことを言う青年に、それまで見せたことのない冷たさを加代は示し、彼は覚えず狼狽する。
そして加代は、夜の雑踏の中に消えていく……爽快にも思えるけれど、なんかやるせないラストにも思え、でも加代は、同じ女の目から見ればカッコよかったよ!どこまでホントかは判らないけれど……。

場面転換で多用される、静止画で郡谷理と歪むカメラが、なんかいかにも当時の前衛っぽさを示してるみたいで、ちょっと覚えずハラハラしてしまった。
でも、生々しさや残酷さを絶妙に強調する場面もあって……でも現代じゃ、この手法は使えないだろうなあ。 ★★★☆☆


少年メリケンサック
2009年 125分 日本 カラー
監督:宮藤官九郎 脚本:宮藤官九郎
撮影:田中一成 音楽:向井秀徳
出演:宮アあおい 佐藤浩市 木村祐一 田口トモロヲ 三宅弘城 勝地涼 ユースケ・サンタマリア ピエール瀧 田辺誠一 哀川翔 烏丸せつこ 中村敦夫 峯田和伸 佐賀智仁 波岡一喜 石田法嗣 犬塚弘 遠藤ミチロウ 日影晃 仲野茂

2009/3/23/月 劇場(有楽町丸の内TOEI@)
クドカン監督作品は「真夜中の弥次さん喜多さん」以来、実に久しぶり。これまで、クドカンが脚本して他の監督さんに任せる映画が何本かあったけど、そのどれもが監督の名前はほとんど前に出ず(とゆーか、聞いたことない人ばっかりで)ほとんどクドカン作品としてプッシュされていたのがなんだかなー、と思っていたから。自分自身で演出すればいいじゃん、と。
あれって、なんだったのかなあ。彼自身で書いて、誰かこういう人に演出させたいとかいう、そういう感じがまったくなかったよね。とりあえずクドカンの脚本ならヒットするだろ、みたいな。
確かにクドカンテイストをとにかく壊さないこと、弾けきることだけを忠実に守って作り上げている、という感じがあって、だからまあ、楽しめることは楽しめるんだけど、どっかのどの奥に小骨が引っかかっていたような感じがあったんだよなあ。

で?今回はなんでまた、彼は自分で監督をやる気になったのかしらん?自分自身が音楽やってるバックグラウンドがあったから?
そうそう、彼自身がミュージシャン役として出ればいいのにと思ったのよねー、彼自身はチラリと出てきて、いかにもパンクなバンドマンのファッションなのに「バンド、やってないです」というお約束なスカシをかましてくるからさ。ま、この作品自体が、50になったオッチャンたちがパンクバンドを再結成する、というものだからアレにしても……。
でも今の50って、全然オッチャンじゃないんだよね。そうそれこそ、佐藤浩市や田口トモロヲにオッチャンなんて言ったら怒られちゃう。佐藤浩市なんて色気バリバリの男盛りだもん。なんか、一昔前より男の若さ年齢、色気年齢というものが10は伸びたような気がするなあ。女のソレはそんなに変わらない気がするけど(爆)。

でもやはり、クドカンが監督やる気になったのは、宮アあおい嬢がヒロインを了承したことに他ならない、だろうなあ。
久々に彼女がスクリーンに戻ってくるというのもそうなんだけど、これほどまでに、それが一般的にも待ち望まれた瞬間というのもないに違いない。
ていうか、彼女が元々は殆んど映画専門の女優だったということさえ、今それを言うのもヤボなぐらいの、“国民的女優”ってヤツに彼女は飛躍した。
あれだけ主演映画を量産していたのに、主演映画をあえて避けたという蒼井優に比したってあおい嬢に映画女優の匂いが消えてしまったことを、まあ……朝ドラから大河へと引き続いたという稀有な展開があるにしたってあまりにもったいないなーと思っていたからさあ。

で、本作はあの「篤姫」の撮影の真っ最中に撮られた、ということも話題のひとつになっている訳で。
それでなくてもヒロインのかんなにとって理解不能のパンク、しかもオッチャンの再結成、しかもドヘタなところから、という頭を抱えっぱなしのシチュエイションに、もうこれはハイテンションになるしかないんだけど、それにしてもそれにしても、もう血管が何本もブチ切れるであろうというハジけまくりのあおい嬢。
それは、これまで映画においては静謐な役が殆んどだったってのもあるけど、あの「篤姫」の最中の撮影なら、そりゃこれぐらいぶっ飛ばなければ切り替えられないだろうと想像されるのよね。
観てる皆が、ああ、「篤姫」の撮影中だったんだもんな、と判ってて観ているっていうのが、なんか、可笑しくてさ(笑)。そんなことをウリにするなんて、この映画が初めてじゃないかなあ?

そうそう、これまで映画では静謐な役ばかりだったあおい嬢なのよ。中学生の時でさえ、内面にこもりまくっていたんだもの。でも彼女自身はとっても愛らしくキュートな女の子なんだもんね。
その演技力ゆえに、そんなシリアスなところにばかり呼ばれていたけれど、そう、こんな役をやらせたい!とクドカンが思ったってのは、あ、そうか!と今更ながら彼女が明るく、カワイイ女の子だってことに気付かされる。役なんて役に過ぎないのに、ほおんと、私ら観客なり視聴者は、まどわされちゃうんだよね、それに。
彼女の役どころは、レコード会社の“新人開発部”に、もう2年も実績もあげられずに居座っている契約社員、かんな。

もう辞めることが決まってて、明日は送別会。彼女はいわば、ジョークのノリで、「今度こそホンモノを見つけました!」とネットの動画サイトを社長に持ち込むんである。
社長も「そうか、今度こそホンモノか!」と彼女のノリに合わせるけれど、それまで、ゆるーいエセ癒し系ばかりを“発掘”してきた彼女とお遊びみたいなやり取りを続けてきたから、当然、全然信じてないわけね。
というかんなだって、こんなのありえない、と思ったからこそ、最後のジョークで社長に差し出したに違いないし。
しかしその、超ヘタクソでがなりたてているだけ(とかんなには見える)バンドが、社長の心にはウッカリ訴えてしまったのだ。

というのも、彼は昔パンクバンドをやっていた。今この会社の看板であるテルヤと共に。
しっかし彼が「社長がホモだってこと、皆知ってますよ」「皆知ってるってこと、僕は知らないってことになってるから」っていうのはね……ホモって言うのはアレなんじゃないのかなあ……ゲイってことだよね。
ま、とにかく。「パンクはヘタでいいんだよ。それでこそパンクだ」今夜には送別会で、実家の回転寿司屋に帰るつもりだったカンナに、契約延長の命が出されたのだ。

テルヤってのは、カリスマ系アーティストっていうか……中性的メイクと衣装で、なんか宗教がかっているような、ちょっとGackt入っているような?感じの、このレコード会社の看板アーティスト、だからかんなのような役立たず(!)も今までいられたわけなんだけど。
このテルヤをやっているのが田辺誠一っ!ビックリ!わ、私なぜか、これを北村一輝だとずっと思って観てた……(爆)。ううう、メイクのせいで顔がハデに見えるとはいえ、なんというフシアナ(汗)。
い、いやそれに、田辺誠一が、あの田辺誠一が、こんなとんでもない役やるなんて……「テルヤです」ぐらいしか台詞がないじゃん……クドカン恐るべし。

この社長役をやってるユースケ・サンタマリアだってさー、ラテンバンド出身なんだもんね!本作にはそういう、かつてのバックグラウンドが見え隠れする人がちらほらいて、ドキドキしちゃう。
その中でなんといっても胸ときめいたのは、この発掘バンド、少年メリケンサックのボーカルをつとめるジミーこと田口トモロヲ氏。
彼が伝説的パンクバンド、「ばちかぶり」のボーカルだってことは周知の事実であるとはいえ、それはホント、知識として知っているだけで、彼がパフォーマンスしているのは、私一度も見たことなかったんだよね。
そういう触れ込みで彼が塚本監督の伝説の「鉄男」に主演した時から、私にとっては田口トモロヲは、確かに“パンク”ではあるけれど、パンクな役者、な訳だったんだもん。それにしても、「鉄男」の時、もうトモロヲさん、30越えてたんだ……ビックリ!あれで既にパンクじゃん!

そういやあさ、トモロヲさんが、そんな音楽的バックグラウンドを初監督(それ以降ないけど……)「アイデン&ティティ」でぶつけた時、本作と同じような、何とも胸ときめく気持ちがあったんだよね。あ、そうそう、「アイデン&ティティ」もクドカン脚本だったのかあ!でもあればっかりは、トモロヲさんの気持ちの方が溢れていた。あれだけは、クドカンではなく、トモロヲさんの映画、だった。
で、その時はトモロヲさんは監督だから完全に裏方だったけど、ああ、ようやく、彼の出発点を見ることが出来た、と思った。主人公の、のめり込んでいるが故の切なさに、トモロヲさんの青春を勝手に重ね合わせてみたりさあ。
で今回、かんながネットで見つけた25年前の少年メリケンサック、まさにトモロヲさんの若い頃を演じているのが、「アイデン&ティティ」で切ない主役を演じた峯田和伸氏でさ!それはなんか……感動したなあ……。
顔は全然違うんだけど、でも25年たって、刺激的な歌をシャウトし、客席にダイブするジミーさんは、きっちり重なるんだもん……なんか、感動しちゃった。

ま、というところまで行くにはかなり紆余曲折あるんだけど……。
かんながネット動画に、より目で興奮した(凄いより目だ……)「少年メリケンサック」だけれど、実は25年前に解散したバンド。ホームページに記載されていた連絡先であるもつ焼き屋を訪ねてみたら、ギターの男はアル中寸前のレロレロ50男で、二階の客間からエレエレとゲロをぶっ放す有り様。
こんなのムリムリと、自分の勘違いに何とか終止符を打とうとするかんなだけど、この男、秋夫がやけにやる気で、それ以上に社長が我が夢甦り、とばかりにツアーを次々に決定し、グッズも次々作成し、なんて状況だもんだから、もう引くに引けなくなるんだよね。
あおりにあおられた観客と共に初ステージを観た社長は、愕然。「中年メリケンサックじゃん!」と叫ぶのには思わず噴き出しちゃったけど……とにかく、もうこの時点ではツアーは全部決まってて、それだけでもやらなきゃいけなくなっていた。
まあそれでもさ、この状況を見たら、事情を説明して、これはムリですと言うべきだったんだろうけど……かんなの弱点は、ラブラブな彼氏、マサルだったんだよね。
ミュージシャンを目指している彼、自分がこのプロジェクトを成功させたら、ディレクターという地位が手に入る。そうしたら、彼をデビューさせられる……そういう目論見があったわけで。

この、ヒモ同然のアマアマ彼氏を演じているのが勝地涼君で、彼は出始めの頃、その可愛らしい風貌だけを反映されるキャラばかりで正直つまんなかったんだけど、この頃、ナカナカ面白いんだよねー。
本作の中で、彼が一番変貌を遂げるし、実は最も複雑な内面を求められる、難しい役だったんじゃないかと思う。
いやまー、こういう、とにかくはっちゃけた物語だから、そんなシリアスに役作りをって求められる訳でもないんだけどさ、それにしても彼はすんごい波のある役だったよなあ。最初はかんなとアホみたいにラブラブで、「○○するするー♪」みたいなさ(爆)。
でもかんなが少年メリケンサックのツアーに帯同するようになると、それまではかんなと同じようなヘタレだったのが(それでも彼がヒモには変わりないんだけど)、彼女がどんどん、目覚めていくのを彼は目の当たりにしちゃうわけでさ。

かんながツアー途中、少年メリケンサックのあまりのヒドさにイヤ気がさしたこともあって、マサルの営業先に「来ちゃった」と姿を表わすんだよね。
勿論彼氏は破顔一笑、彼女に捧げる歌を、と勇むんだけど、そこの客は食事を楽しみにしているだけで、彼の歌なんか聞いてない訳。
まあ確かにヘタレ歌でさ、ヒドイんだけど……。かんなはほっぽりだしてしまったメリケンサックが気になったこともあって、途中で抜け出してしまう。かんなに捧げる歌を、と歌いだそうとした彼が、彼女がいないことに気づき、「……やめます」とギターをおろすと、食事しながらテキトーに聞いていた客が無意識に拍手。うっ……キツいわ、これ。

かんなの勤めていた大手レーベルは、「癒し系、沖縄系、ひとつおいてクラブ系、ギターポップス」とかいうような、もういかにも、現代J−POPに迎合する商売してる。
マサルは、そのギターポップス+癒し系÷100、みたいな、なんつーか、私小説的というには閉じこもりすぎで、なんつってもヘタで、うっとうしい、みたいな、救いようがないタイプだったんだよね。
でもそれって……正直、今のJ−POPに若干通じるところがあるっていうか……そもそもJ−POPって言い方自体が寒いし。だから路上ライブとかあちこちで見かけて、そういうカン違いな人たちがいっぱい出てきちゃうんだろうな、って。
かんなもマサルが所詮その程度だってこと、判っていたハズでさ……少年メリケンサックは、そりゃ最初こそは、久しぶりの再結成だから、もう技術もなにもボロボロだったけど、次第に見違えるほどのライブパフォーマンスを披露するようになる。そうすると、我が彼氏のヘタレぶりが、より判るようになっちゃって。

でもこの、「癒し系、沖縄系、ひとつおいてクラブ系、ギターポップス」って、すんごい、シニカルだよなあ……。クドカン、あんなクニャクニャしてて、シンラツなこと言いやがるよね(笑)。
劇中、メリケンサックを口先ではリスペクトなんて態度をとりながら、「年はとりたくないな」とバカにしくさるギターユニットのユルさに、キム兄が切り込み隊長になってブチ壊しちゃうのは、思わず爽快な気分になる。
しかし、その前の、自分たちのライブですっかり息も絶え絶えになっているのはダメダメなんだけどさ(笑)。

まあ、つーか、25年ぶりにムリヤリ再結成したこのバンド、生まれ変わるまでにはホント、時間がかかるんである。
その大きな要素は二つ。ギターとベースを分け合う、フロントマンである秋夫(佐藤浩市)と、その弟である春夫(木村祐一)の兄弟の軋轢。
最初はヘタクソなパンクバンドの再結成、というだけのはずが、その過去を掘り下げてみると、意外に溝が深いんである。

そもそもは兄にギターを教えてもらった弟だけど、その弟とジミーが先に人気を得た。しかし時代が悪くて……時代はアイドルGS、それに見事に組み込まれてしまい、納得のいかない活動ばかりやらされて、女の子に軽くキャーキャーいわれて、でもあまりにも先が見えていて、みたいな。
兄はそんな弟を嘲笑を持って見つめてて、弟はそう思われざるを得ないことを自覚してて、でも実は兄は恐らく、そんなメジャーに踊り出た弟を嫉妬してて……みたいなさ、ほんっとうに、ねじくれた感情がうずまいちゃったのよね。
それは、このポップな物語、アホみたいな70年代のアイドル歌謡界の再現、ではとてもとてもそんなドロドロした心情を想像なんて出来っこない。
実際、そうして再現される表面上は、その似合わないおかっぱ頭のアイドル姿に笑っちゃうばかりで、そここそがさ、一見、そんなシンラツを、シニカルをやりそうにない、日和見主義のように見えるクドカンが、実はキビシイ人だったのか、と突きつけられるのだ。

でも、彼がやっぱりやさしいな、って思うのは、一度はかんなに見限られたヒモ男のマサルが、パンクバンドの唯一のイケメンとして、つまり一般的視線を集めるフロントマンとして迎え入れられるという展開に置いてなんである。
マサルはかんなのいない間に女を連れ込んでウワキしちゃう。そこでもマサルは往生際が悪いっつーか、ここはかんなの部屋であり彼は居候なのに、出て行けと怒鳴られた彼女に、「だからって出て行くのは違うっていうか……」とか口ごもる。うう、ヘタレすぎる……。
そんな彼氏、捨て置いたって良かった筈なのに、かんなはそんなスバラシイ形で救ってあげるんである。

なぜそうなったか、っていうと、長年の兄弟の確執がついにステージ上で衝突して、双方片腕ずつケガしてしまったからなんであって。
まあ、それも、いかにもパンクって感じではあるんだけど。でもってかんなの堪忍袋の緒が切れちゃうのは、注目を集めつつあった少年メリケンサックが、いよいよテレビ出演を獲得した矢先だったから。それも生放送。
しかしかんなは妙案を思いつくわけね。それが、ヘタレ彼氏を、ギターの腕でだけは確かな彼を、ケガをした兄弟の替わりに送り込むこと。で、兄弟たちは、まるで二人羽織のように、利き腕を使ってベー?を二人かかりで弾く。これが大成功を収めると思いきや……。

その直前、25年前の解散ライブで、身体も言葉も不自由になってしまったハズのボーカルのジミーさんが、実は全然歩けるし(というのはそれ以前に発覚していたんだけど)、フッツーに喋れるということが判っちゃう。
なぜそれを隠して、あーうー、みたいな状態を貫いていたのか……彼を最初に練習スタジオに連れてきた奥さんは、「立てない訳ではないんです」と言っていたけれど、実は立てないどころか、歩けるし、いや、走れるし、喋れるし……いやいや、全然、疾患なんかないだろ!ってこと、判っていたハズ……だよね。
最も音楽を届ける役割であるボーカルの彼がウニャウニャ状態なのが、一番ネックだったはずなのに、それがフリだったなんて!
ひょっとして、障害手当てとかそういうアレで……いやいやいや、それ言っちゃったら生臭い話になっちゃうって!
で、それを、この生放送でカンナは初めて知るのだ。ニューヨークマラソン、と歌っていたはずの歌詞が、ていうか、歌全体、何を言っているのか全然聞こえなかった歌詞、かんなはそれを事前に知ってたけど、聞き取れないならオッケーと思って見切り発車した。そしたら、ジミーさんは、ハッキリ歌っちゃったんだ!

ニューヨークマラソンじゃない、「農薬飲ませろ」!!!
懐かしのバンド復活、なんてユルイ企画のテレビで、こんなん生放送して、ただで済むわけがないって!
当然彼らは、この大手レーベルから追放されてしまうけど、そして当然、彼らはほっておかれるわけもなく。
かんなは実家の回転寿司屋に帰る。もう会社からの契約は切れているのに、その社長からライブのチケットが取れないか、と電話がかかってくる。もう関係ないんだからムリですよ、と彼女はしかし誇らしげに言い、いまだに皿の値段を覚えられない頼りない親父(哀川翔!)を置いてライブに出かける。
そこには、まさに伝説を復活させた少年メリケンサックが、観客を興奮させてる。あの、頼りなかったハズの、女子高生とウワキしやがった彼氏が、生きる場所を見つけたみたいに、イキイキと君臨している。

彼らは、セックスピストルズの再結成は、カネのためでマチガイだったとか、パンク談義をしていたけど、そしてそれは自分たちの姿も重ね合わせていたのかもしれないけど、でも人生が長くなってしまった、過去の栄光が時に辛い時代に、このカッコ悪さがひらりと裏返ってとてつもなくカッコ良くなるのって、凄い爽快。

それにしてもあおい嬢、だよね。ヤケ酒でヘロヘロに酔っぱらったり、秋夫から奇跡を見せてやると言われて「……ハイ……」と小さな歓喜をもらしたり、今まで見たことのない彼女が盛り沢山で、とっても可愛いのだ。
つまりはこれって、白雪姫と七人(はいないけど)の小人、みたいな気もしちゃう。テーマはパンクバンドでも、やはり彼女が主役なのだよなあ。★★★☆☆


新宿マッド
1970年 65分 モノクロ(一部カラー)
監督:若松孝二 脚本:出口出(足立正生)
撮影:伊東英男 音楽:つのだひろ 陳しんき 石川恵 柳田ひろ
出演:谷川俊之 江島裕子 寺島幹夫 吉村隆史郎 吉川一 杉光晴 伊勢卓郎 関根忠治 広岡昭子 原田牧子 坂田悦子 裕二 大野ヨーコ エリザベス・ロス 中靖 サディスティーヌ エルザ・ニュンフォス 野良・犬 石丸・仂田井 BiBi・Bvn・Bun さかしま・ハレ ビッド・アウト ビザール・スクウェア 不潔・捨 江流・絵州 宮川良 杉隆尾 小林勇 長嶋広 福岡伸二 伊藤乃ぶ子 坂本直樹 大久保道子 古林直治 山崎安夫 森本義政 佐藤桂子 大山健二

2009/10/13/火 劇場(銀座シネパトス/若松孝二監督特集)
まさか予告編がないとは思わず、息せき切って3分後に飛び込んだら、ショック!もう本編から始まっていた……。
悔しくてネットをさまよっていたら(ホントはいけないんだけど)you tubeに冒頭の映像を見つけてやった!と……でも……あれれれれ?

タイトルクレジット前の息を飲む映像……新宿のそこここで若者たちが血だらけになって倒れている、地下へゆく階段の途中、路地の片隅、汚い劇場の前、その最たるものは、若く象牙のような肌をした全裸の女の子が、血まみれどころじゃない、全身血を浴びたような感じで、うつぶせに倒れて半目をあけている鮮烈さに、うっわ、これを見逃したのかー!と歯噛みをしたんだけど、タイトルが示された後、父親が息子が殺された部屋を訪ねる、というシーンになってるんだよね。
私が劇場に飛び込んだ時目にしたのは、全編モノクロの中でそこだけカラーだった場面。殺された十郎と同居している女の子が芝居の稽古をしている。そこに突然飛び込んできた若者たちに十郎は刺され、女の子は彼の血を塗りたくられた上で輪姦されるというシーンであり、その後、父親が刑事にくってかかる場面、そして息子の殺された部屋を訪ねる場面、と連なっていたのだった。

と、いうことはひょっとしてこれは、最初に世に出た後に手を加えられたものなのだろうか……?私が冒頭の映像を見逃しているのは間違いないんだけど、息子が殺される場面は最初はなかったんだろうか……?などとつらつら考えつつ、しかもこのシーンだけがカラーで印象的なもんだからつい、気になってしまう。
しかもこの時、十郎と相手の女の子がまるで宗教団体みたいなカッコして(いや、ギリシャ神話みたいと言うべきなのだろうか……それにしては安っぽいけど)神がどうの、神への絶望とか、なんかそんな台詞を口にしていたものだから、私はしばらくの間、彼らは新興宗教団体の間の仲間割れで殺されたのかと思っていたくらいなのであった……。
実際は十郎と彼女は単に芝居の稽古をしていただけらしいんだけど。そして彼が殺されたのは私が考えていたような単純な理由よりも更に不可解な「ヤツは街を売ったから」というものだった。そう、それこそ「芝居みたいなチャラチャラしたことの方が大事になって」と。

いや、その理由もまた、答えではなかったのかもしれない。その答えを父親が最初に耳にしたのは、犯人からではないのだから。
息子を殺した犯人はおろか、なぜ殺されたのか動機も判らず、息子が死ななければならなかった理由の方が知りたいのだと、父親が刑事に叱られながらも街をさまよっては、その疑問に対する答えを探し続けていた。
その時出会った、公園でギターを弾いていた少年がそう言ったのだ。しかも彼は「理由なんてない」「強いて言えば」とあいまいな言い方で、結果そんな表現をした。
そして驚くことに、犯人グループの少年たちに父親が辿り着いても、結局は同じなのだ。
彼らは「革命のための革命だ」と言い、裏切り者は全員殺す、と息巻く。父親が「何のための革命なんだ」と言い募っても「だから、革命のための革命だ。お前たちが出来なかったことだ」と言うばかりで「皆憎いから殺すんだ」とまで言い切る。
しかも恐るべきことに、彼らはその言い様があいまいだとさえ思っておらず、それこそが明確な意志であり、自分たちがそれで世界を変えるんだと本気で信じているらしいことなんである。

どうしても思い出さずにはいられない、あさま山荘事件に代表される内ゲバというヤツなんだけれど、もはや時代は学生運動などというものも過ぎ去っている。
あの頃には大義名分があったようにも思えたものが、結局はこの程度の無意味さだったんだと突き放しているような恐ろしさがある。
なぜ仲間たちを殺したのか、そんな理由はせいぜいこの程度……彼らは「いつかやってやる」と火炎瓶を何本も隠し持っていても、その「いつか」の前に、裏切り者の仲間を殺すことを優先する。そう、父親が言うように結局は何も出来ない、のだ。

この朴訥な父親。田舎から出てきた父親。見るからにイナカモノで、新宿のフーテンの若者たちにバカにされて、それでも必死に息子の消息をたどる。
息子は演劇をやっていたと聞いている。だけど何か運動をしていたのか。息子はスパイになっていたのか。君たちはこの日本を変えようとする運動をしていたのか。それを息子は警察に売ったのか……。

不思議なことに父親は、息子が運動に加担していて、その裏切りで殺されたらしいことを最初に聞きかじった時、それを西郷隆盛やら坂本竜馬に重ねるんである。いつの時代の若者たちにも、そうした気概があるんだとどこかで信じていて、むしろそのことに感銘を受けているようにさえ見えるんである。
その父親のあまりの純粋さが痛々しくて……だって、もう学生運動も終わり、虚無の中で何に真価も見い出せない彼らにとって、そんなこと、ある訳がないんだもの。
それが証拠に“革命”を起こそうとしていたグループを探し出してみれば、“革命のための革命”などとまるで意味のないことを言い出す始末。
革命のための革命、ならば、その辿り着いた本物の革命が何を変えるのか、ということに思いが至っていない。あるいは彼らは、自分では本物の革命が出来ないと自分たちを見限っているのだろうか?

むしろ、この無気力に見える、ただただセックスとドラッグのループにはまっているようにしか見えない若者たちが“革命のための革命”とはいえ、革命を起こそうとしていること自体に少々の驚きを覚えなくもない。
いや……確かに劇中登場する、街に吹き溜まっている若者たちの殆どは、“フーテン”と呼ばれ、酒とセックスとドラッグだけで生きているような状態であり、革命とは程遠いのだけれど、彼らの中にわだかまっているものが、まるで吹き寄せられるようにこの少年グループの中に蓄積されたということなのだろうか。

フーテン、という言葉自体に、非常に隔世の感を感じるんだけれども……お気楽な私たちにとってフーテンなんて、もう既に寅さんしか思い浮かばないんだもの。
父親が最初に手がかりを見つけるギター少年。コンクリートの築山の上、何か意味の判らないフレーズを繰り返し歌っている彼のそばで、少女がアンニュイにリズムをとって踊っている。
築山にうがたれたトンネルの中では、数人の男女が怠惰に絡みあっている。それが父親が最初に目撃した若者のあまりにも軽い睦み合いで、純朴な父親はそれを見咎めるのだけれど、彼らは「ジャマすんなよ、オッサン」「ムード壊れちゃうなあ」とまるで相手にしないんである。

ギター少年が、手がかりをくれる。結局は彼は新宿マッドと呼ばれる少年グループとつながりがあって、最初から十郎を殺した奴らを知っていたんだけど、そう簡単に手の内は見せない。
ギター少年が言ったのは、十郎がこの新宿という街を売ったのだということ……あまりにも観念的な物言いで、この父親のみならず観客である私たちも戸惑ってしまうんだけれど、結局は、“革命のための革命”を企てていた少年グループから足を洗って芝居に専念したかった十郎が警察にネタを流したこと、つまり“仲間を売った”ということに他ならない。

ただ、そう単純に言ってしまえないものを感じるのは確かで……刑事たちでさえ容易に入っていくのがはばかられる新宿の街の危険さ、そこにくすぶっている有象無象の狂気が、新宿マッドと自称する少年たちに象徴的にくすぶっているのは確かなのだ。
そして彼らが、自分たちこそが新宿という街そのものであり、それを売った奴は裏切り者でありスパイであり、殺すしかない、と思いつめているのが……いや思いつめているという自覚さえなく、それが正義だと本気で信じ込んでいるのが……恐ろしいのだ。

いや、恐ろしいと言うより……恐ろしいと感じているのは、現代の時間からそれを眺めているからであり、そしてもしかしたら私が女だからであるのかもしれない。
いや、父親が少年グループに辿り着き、善良な市井の人の持つ明確な言葉で少年たちの矛盾を次々に崩していく時、そうだそのとおりだと思いつつも、何か違和感を感じるのは……少年たちの主張があまりにムチャで無謀でも、そこに揺るぎない彼らの信念が確かにあることを感じてしまう、からなのだろうか。
しかも少年たちは、最初はバカにしていた田舎のおっちゃんの、あまりに当たり前の言葉にビックリするぐらいアッサリ動揺し、ベタに暴力に走り、あわや殺してしまいそうになるんである……。
そこには確かに、彼らの若さが見て取れて切なくなる。イナカモノで、純朴で、単純でも、やっぱりこの年月を生きてきた強さがこの父親にはあるのだ。

十郎が新宿という街を売ったんだ、だから殺されたんだ、と最初に聞いた時、意味が判らないまでも、なぜそれがいけないんだ、誰だって何かを売って金にする。そうして生きていくだろうと父親は言うんである。
そしてギター少年に、君だってそのギターを買ったんだろうと言うと、ギター少年は、これはかっぱらったんだよ。金でモノを買わなくても、生きていけるもんだよ。とさらりと言う。言葉を失ってしまう父親。

明らかにギター少年の論は間違っているんだけれど……なぜかそれを、即座に否定できない。
何かを売ってカネにして、そのカネで自分を満たすものを買う……当たり前のことなんだけれど、そこには確かに、自分の満足を満たすために、何かを“売る”、つまり、裏切るんだと言われればそんな気もしてしまう。
その資本主義社会、自分主義の社会が、お互いを裏切る汚い社会なのだと言われればそうなのかもしれないと。そうして仲間を、弱者を、切り捨てていく汚い奴らがのさばる社会は許せない、と。
それが突き詰められたものが共産主義というヤツなのかもしれないと思いつつ、彼らの言があまりに理想的過ぎて、理想が過ぎて、くるりとひっくり返ってマチガイになっていることを、安易に責められなくて。

父親が明治維新を即座に想起したように、この父親の方が、激烈な時代を生きてきたことは間違いない。
戦争にも行き、裏切り者のスパイたちがどんなに汚くて憎らしいかも知っているから、息子を殺した少年たちの気持ちが判る、とまで言う。それでも彼らを許すことは出来ない、と相反する正直な気持ちを、十郎と最後まで一緒にいた女の子に吐露する。

この女の子を、父親は最初、激しく責め立てた。
最後まで一緒にいたんだろう、警察はお前さんみたいなフーテンのせいで息子は殺されたんだと言っている。こんな小汚い部屋に引きずり込んで、君が十郎を殺したんだ!
犯人はどういう顔だったんだ。何も喋りたくないって?強姦されたか輪姦されたか判らんが、君は生きている。だけど息子は死んだんだ!と。
あまりといえばあまりにヒドい言いようで、彼女は「十郎が殺されて、その側で朝までヤラれまくった。死んだ方がマシだった!」と涙ながらに噛み付く。
「君も被害者だったんだよな……」と、さすがに言い過ぎたことを父親は反省し、この部屋に居候しながら犯人を探すことを決意するんである。

てな具合に、この女の子は最初、当然同情すべき対象として描かれるんだけれど……父親が息子を殺したグループと対決し、ぼろきれのようになり、もういいんだ、と自分の中で決着をつけて部屋に戻ると……この女の子は、父親が最初に公園で見た光景のまんま、数人の男女とフリーセックスの真っ只中だったのだった。
「あれえ、オジサン、もう帰ってきたの?」などと言って……。
息子が芝居に打ち込むために足を洗ったこと、仲間を売るようなそんなコじゃないと言ってくれた彼女が……。
いや、それとこれとは関係ない、彼女がどんな享楽を求めようとそれは彼女の自由なんだけれど、やはり父親同様ショックを受けずにはいられない。
そんなストレートに考えてしまうことこそ、あの時代から遠く離れてしまったということなのかもしれず、あの時、あの場所、新宿という街に生きていた若者たちにしか知りえない世界だったのだ、きっと。

父親があてどなく新宿の街をさまよいながら、手当たり次第に若者たちに息子の消息を聞くも、誰もが首を振る。
「こんなに人がいるのに、皆他人のことはどうでもいい。冷たいもんだ」と意気消沈する父親。
こんなに人がいるからこそ、ほんの若者一人を知っている人なんてそうはいないんだ、というところに思い至らないところがあまりに純朴で切ないんだけれど、でもその事実こそが、つまり都会の中の人ひとりっていうのがなんて軽い存在なのかということが一番の恐怖かもしれない、と思った。
都会の人が冷たいんじゃなくて、数の論理で単純に比重が軽くなってしまうそれこそが、都会の冷たさ。どうしようもないことなのだということが。

そして、新宿マッドなどという男は、本当は存在しない。
もう数年前に、ヤクザに刺されて死んでしまったのだという。
そのことを刑事に聞かされても、父親は、新宿マッドは何十人も出てきますよ、とつぶやく。狂気という名を借りた、行き場のない若者たち。
その結論に達した時、父親は許したのかもしれない。
少年たちを、そしてこの新宿という街を。★★★★☆


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