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「と」


2009年鑑賞作品

童貞放浪記
2009年 98分 日本 カラー
監督:小沼雄一 脚本:石垣直哉 足立紳
撮影:小松原茂 音楽:micromicrophone
出演:山本浩司 神楽坂恵 堀部圭亮 古舘寛治 内田慈 松井周 志賀廣太郎 綾田俊樹 木野花 セイン・カミュ 奥田崇 吉行由実 速水今日子 冴島奈緒 黄金咲ちひろ AYA 結城リナ 笠兼三 岡村洋一 地獄谷三番地 けーすけ 藤原美穂


2009/8/20/木 劇場(ヒューマントラストシネマ文化村通り)
見ている間中、この彼女、北島萌というコの気持ちが激しく判らないなあ、と思って。なんか支離滅裂っていうか、彼女の中の気持ちの道筋が立っていないというか……そんな気がしてならなかった。
いや、でもそれは彼女の気持ちが判らないというより、この彼女の造形が、主人公の金井淳の目を通して見ているものだからだろうと思った。童貞で女性と付き合ったことがないという彼が見る女性像というのは、彼の理解の範疇を超えて奇奇怪怪なのだろうと。
なんていうか……彼は恐らく彼女が発している重要な信号(行動やしぐさや、時には言葉さえも)を見逃しているんじゃないかと思ったのだ。だからこそ彼女に憤慨され、去られてしまうように思えたのだ。
でもそれが、観客の側にもそうした女の造形として映し出されるのはどうなのかなあ、と思って原作本に手を出したのだけれど。

驚いたことに原作の彼女は、映画の彼女よりもはるかに理解の範疇を越えているんである。映画よりはるかに、男の目から見た女であり、重要な信号をとりこぼしまくっているように感じてならなかった。映画の彼女の方が、はるかに女としての肉付けもされていたし、まあギリギリ叫喚出来なくもなかった。
ちょっとね……この本をなんで買っちゃったんだろうと思ったぐらい、私激しくダメだったんだよね。整理されていないねちっこい文章、ひがみとないまぜになった高学歴意識からの上から目線、何よりネガティブさが充満してて、あー、ダメ、私もう生理的にダメ、と思った。
つまりは私が全く逆の位置からのネガティブで見てしまうせいなんだけれど……なんか、こういうの学生時代にやっぱり苦手だった私小説系純文学って感じだなと思ったら果たしてそうで、この作者はそういう位置づけで評価されているらしい。大衆系単純系の私には最も理解出来かねる作風、だったんだよね。

そういう意味では映画の方はずっと、大衆系単純系に咀嚼されているとは思う。何より、原作では絶対に願い下げの、ひがみ系落ち込み系、下層の女を汚いものとして見下している描写にムカムカするような男とは違って、山本氏が演じるだけあって、とてもチャーミングに描かれている。彼が30まで童貞、というキャラに、そのおどおど系の風貌がピタリと来るんだよね。
しかし彼自身はそれまで意外に、オドオド系のキャラを演じていたことは少なくて、どちらかというとかなり押し出しの強い異色キャラが多かったんだけど(彼の演技力ゆえだろうな)、この初主演で彼本来の魅力である可愛らしさ、切なさが存分に発揮されていて、それだけで満足度は高かった。

そうなのよね。単独主演は初なんだよね。誰かと一緒に両主演とか、準主演とかはたくさんあっただけに、凄く意外な気がする。
そして、大衆的に咀嚼されているとはいえ、確かに純文学の香り漂う、静謐で深層心理に分け入っていく本作は、彼のキャリアを生かすにもピタリなのであった。

30を過ぎても童貞の金井淳は、大阪の大学の講師として招かれる。東大出で文芸評論などを著わしていた彼に対し、あからさまな嫌悪感を示した同僚からは酒の席で恐ろしい罵倒を喰らわせられ、それをいつものことと遠巻きに見ている先輩教授からは「文芸評論なんかしてるし、タレントみたいになるかと思ってみんな恐れているんだよ」などと言われてしまう。
淳自身はそんな気はさらさらなく、それどころか30になっても童貞で、小さなアパートでモンモンとした日々を送っている自分に嫌気がさしているぐらい。不満を解消するために通うストリップ劇場の個室サービスやファッションヘルスでも、慣れなさと消極的な性格ゆえに、いつもグダグダな結果に終わってしまうありさまだった。

原作でも「酒乱で恫喝される」と描写されている先輩同僚、山口を演じる堀部圭亮の恐ろしさは、スクリーンのこちら側の観客も身震いするほどである。東大出で、しかも院まで進んだ経歴を披露した淳に対してハズかしいほどのあからさまな嫉妬心を見せて「来たばかりの時は小さくなってハイハイ言ってりゃいいんだよ。ブヮーカ!」とヤクザまがいの恐ろしさである。
原作でも出てきた「澁澤龍彦が死んでて良かったね」という台詞は、映画で聞いた時には正直なんのことやら判らなかったけど(こういう描写がスノッブでヤだったんだよね)そこでウッカリ淳が「あの捨て台詞は……」と言ったことから爆発する罵倒の数々は本当に震え上がるほどの恐ろしさだった。
でも確かに“捨て台詞”という言葉はカチンと来る訳であって(いくら山口の方が悪いとしても)それを「歌舞伎の捨て台詞の意味」とか言われたら、余計にカチンとくるわけで、そういう部分、原作者がシモジモの者を見下している感じがして凄くヤだったんだけど。

……いやいや、原作はもういいんだってば。でね、金井淳は同僚たちからこれはいつものことなんだと、気晴らしをしないとやってられないと言われて、ファッションヘルスに足を踏み入れるんだよね。で、そこで初めて女性と本格的な性行為を経験するんだけど……。
ヘルス嬢がシャワー室で差し出すイソジン入りのコップの水を飲んじゃったりするあたりに、映画オリジナルで金井淳の純粋さが示されてて、愛しさを感じる。ホントね、ここらあたりで、もう原作とはキャラが違う気がするんだよね。いやもう原作のことは言いたくないんだけどさ。

ヘルス嬢が口でやってくれている間に早々に射精してしまった彼だけど、出血してしまったことに狼狽する。
老教授に「処女と同じように、童貞でもそういうことってあるんですかね」などとおずおずと聞く場面はとても可愛くて、そう思い悩む場面が原作でもあるにしても、ここで決定的に彼に対するシンパシイを覚えてしまうんである。思い悩むのと、それを人に相談してしまうのとは決定的に違う。
って、いや、もう原作を引き合いに出すのはヤメにしよう……映画は映画、ベツモノなんだから。

……私どうやら、本当に原作がイヤみたいなんだよなあ。だからこの映画に救いを求めたいんだよな。だって、確かに萌の描写には首をかしげたけど、作品自体には可愛らしさを感じたんだもん。
淳が現実の女と経験出来なくて場末の安っぽい風俗に足を運ぶのも、なんか切実でキュンとくる可愛さを感じたんだよね。そこで彼の相手をする風俗嬢が時にやさぐれててウワッて感じでも、彼女たちが彼に向ける慈愛の目が優しかったんだもん。
それが原作ではね、そんな女たちを汚らしい目で見ててさ…………だから、もう、原作の話はヤメにしよう。

でね、ヒロインの登場なんである。山口の恫喝にほとほと疲れ果て、風俗でもヌケない淳が出張先で天使に出会った。大学院時代の後輩、北島萌である。
「知っている人がいないから、金井さんが一緒なら安心」などと殺し文句を囁かれて出席した宿泊旅館での懇親会で、保身のためにお酌に走り回る同期たちを尻目に、そんなことに頓着せず、知的な会話が出来る彼女に淳は夢中になった。意を決してかけた電話で朝方まで話し込んで、一気に親密になる。

でもね、それで有頂天になって芝居に誘ったりして、その時は上機嫌で受けた彼女が、現場で会うと不機嫌だったり、「私と金井さん、この先どうなるんでしょうね……どうにもならない気がするけど」などと、彼女はなんつーか、気持ちが掴みきれないというか。
しかも「英国人の恋人を追って、留学する」んだとか言うんだから、淳は余計にコンランするんである。

それでも萌はなんだかんだ淳の誘いに応じ、それだけでなく突然彼の帰郷先の実家に電話をしたりして、そりゃ否応なく淳の期待は高まる訳である。
その日のうちには大阪に帰ろうと思っていた淳が、彼女と一緒の時を長引かせたいがためにあっさりそれを翻すのが、母親から「夕食までいればいいのに」というワンシーンが挿入されるだけで鮮やかに印象づけられるのだ。

この気まぐれで突然な萌の行動こそが淳をホンロウし、そして彼女の気持ちの理解不能さを観客に植え付ける最も大きな部分なんだけど……ここが一番印象的に描かれるのは、つまりはこういう気まぐれさこそに男は惹かれるのかなという気もしてる。
恋人同士ならいざ知らず、それ以前の関係の男に対してこういう態度をとる女って、同性から見てもちょっと信用出来ないというか、理解出来ない気がするんだけど……それこそ恋愛体質じゃない女のひがみだろうか。
いやいややはり、彼が彼女の重要な信号を見逃してるが故に、唐突な感じがするんだと思うなあ。萌に関してはね、絶対に、彼女自身これを聞いてほしい、という言葉やシグナルがあった気がするんだよなあ。そうでなければどれもこれも唐突過ぎるんだもの。

いよいよ彼の部屋に遊びに来ることになって、淳がコンドームなど用意してウキウキしててさ。そりゃあ彼女だってそういう気でいたに違いないんだけど、でも「興奮していると早く来るみたい」と生理になっちゃう。
薬局で生理用品を買い込んだのを淳が彼女もコンドームを買ったんだと思っていたのがカン違いだったことが明かされるシーン、確かにほんのカン違いなんだけど、凄くそれが……象徴的だった気がしたのね。
彼女は淳がそんなことは察してて、何買ったの、なんて“からかわれた”と思ってて、でも淳はあくまで自分寄りに考えててさ……こういうのが、シグナルの見逃し、誤解、掛け違いの一端のように思えてしまったのだ。

ただね、それが原作ではコンドームを買ったとカン違いしたという記述もなかったし、単に彼をかわしたぐらいにしか描かれてなくて、そういうトコこそがイラッとくるんでさ……あー、原作のことは言いたくなかったのに、つい言っちゃう!
つまりね、原作では、ここで「生理が来ちゃった」という彼女の言葉もひょっとしたらウソだったのかも、と思ったのだ。なんかね、ありがちな言い訳じゃない。これ見よがしに生理用品なんて買っちゃってさ。そういう気になれなかったから、そんな猿芝居したのかも、なんてさ、女なら思うわけ。
でも原作では、なんかホントに、ここはロマンティックで切ない場面で、彼が意を決してキスをしたら彼女が驚いて身を起こしたりするのも、彼女の豊満なおっぱいに顔を埋めて眠りにつく彼も、とても可愛かったんだよなあ。

そういやあね、……もう原作の話をするのはヤメたと言いながらアレなんだけど、原作の萌は、胸の小さな女、なんだよね。それが映画の彼女を演じる神楽坂恵は、まー、りっぱなおっぱいを持ってる訳。服を着ている時には全然判んないんだけど。なんかね、ヘンな言い方だけど、ここで難解な純文学が理解しやすいものへ変わった気がしてさ。
男にとっての判りにくい女というものが、一枚脱いでみれば大きなおっぱいというだけで、あっさり氷解されてしまう、っていう。それでいいんだよ、って思ったんだよね。何も難しくないんだよ、男と女も、人生もさあ。

まあ、とは言いつつ、淳と萌は結局上手く行かないのだが……。
もうすぐ留学する萌の部屋を訪ねる淳。言うべきか言わざるべきか迷っていたけれど、自分が童貞だと打ち明けた。驚愕する萌。
この童貞だという件に関しては、ここに至るまで面白いエピソード満載である。処女のように童貞も……というくだりもそうだけど、一番面白かったのはコレだった。
初めて出来た彼女と今度こそ最後までいけるかもしれない、でもどうすればいいのか……と相談した同僚の女性に「申し訳ないけど、その相談には乗れない」とせっぱ詰まった表情で言われたから、これはあらぬ誤解を与えたか、と焦った(そういう描写に見えたけど、違うかな?)淳に同僚女性は思いがけない言葉を発する。「私、処女なので……」。
この時の彼女の、唇をひね曲げた表情が、すんごい、スゴかった。

もう原作と違うとかは言わずにおこうと思ったんだけど(爆)でも、うう、ここは重要だと思うからさ、このエピソードって原作にないんだよね。
んでもってその後、萌とのセックスに一晩中かかって失敗した淳に、こともあろうにあの山口が「童貞喪失に行ったんだろ」と言われて、驚愕しつつも「出来ませんでした」というのがさ……。
あの、淳の切実な相談にこちらも切実に対応したと見えた女性同僚しか、このネタは知らなかったハズであって、彼女が漏らしたとしか思えない訳であって……。
でもね、この淳の言葉に、山口は、バカにしたようには見えなかった。凄くね、慈愛に満ちていたように見えたんだなあ。そうか……ごくろうさん、みたいなさ。こういうことこそが、映画はベツモンてことかなと思ってさ。ま、私もしつこいけれども(爆)。

萌とどうしようもない別れを経験して、彼女はアメリカに行っちゃって、鬱状態になった淳は、未練がましい手紙を彼女に送る。
しかし、その彼と幸せな関係を獲得したらしい萌は(かなりありがちに、芝生で遊ぶ子供たちを抱き抱えた金髪男が、モエー!と叫ぶ描写)、淳からのエアメールを読みもせずに戸棚に放り込むのだ。しかも、やたら丁寧な手つきでいつもの場所に山積みにするのだ。
これこそが、女の本質ってヤツだよね。捨てないあたりが残酷っていう。

セックス未遂の後萌と会った淳が、もう一度チャンスをうかがおうとカップルが集結する公園や、ホテル街を散策するもんだから彼女が嫌悪感を露骨に示すんである。そんな彼女の様子に諦めた彼が別れの握手を求めて差し出す手に「握手する場面じゃないって、なんで判らないんですか!」と激昂する場面が印象的だったなあ。
なんかここはね、彼が彼女の唐突な激昂に戸惑う気持ちも判ったし、それより彼女の激昂する気持ちに凄く……理屈ナシに……共感出来たからさ。
コレばかりは、ホント、説明以上のものがあるんだよなあ。そりゃ、セックス出来ればいいんでしょ、という彼への気持ちへの憤りもあるけど、そんな彼の気持ちも正直判るし、だからそんなことに対してそこまで怒りたくない気持ちもあったと思うんだよなあ……でも、どうしても譲れない部分はあって、それは上手く説明できないんだよね。女の私も女の本質が、ちゃんと判ってない、うまく説明できないのが歯がゆい。

これってね、タイトルがちょっと可愛くて、母性本能をくすぐっちゃうからさあ。映画はそんな気分を汲んでいたと思うけど、でも……。
だったらもう、“処女放浪記”を誰か出してよ!って気持ち。だってね、男以上にミジメだもん、女の方が。妊娠できる期限が限られているから。
それなら、“女が妊娠できる期限”よりも、“女を妊娠させられる期限”の方が優先されているのはさ、それこそヒドい男尊女卑だよね。年いった童貞が処女より恥とされるなんて……なんかやるせない。 ★★★☆☆


TOCHKA
2008年 93分 日本 カラー
監督:松村浩行 脚本:松村浩行
撮影:居原田眞美 音楽:
出演:藤田陽子 菅田俊 上野龍成 上野凌雅 モモ・ゴッツ・サッタール

2009/11/10/火 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
しんねりとした冒頭の数分間に、うわわわわ、これは私の苦手なゴーモン映画だという予感が……当たってしもうた。
いや……きっとこれは玄人受けするんだろうし、実際才能のある監督さんなのだろうし、私はそれこそ“判りやすい映画”しか判らないようなおバカなもんだから何を言っても始まらないような気はしているんだけれど……。
でもでも、あああ、出た、出た、ゴーモンの最強、私の超苦手な長回しがしかも超最長で!こんなに長い長回しは経験ない。いや、それだけ長く感じたというだけなのかもしれないが……。
だって、闇の中、輪郭すらもはっきりとつかめないような中、男がうずくまって、ほとんど動きもないまままんじりとすること、あれは……20分ぐらいあったように感じたんだけど、そんなにはなかったのか?
あれはツラかった……死ぬかと思った。いや、彼はそれこそ死ぬ前の時間だったのだから、それぐらいリアルに必要だったのかもしれないが。

長回しって、つまりリアルな時間ってことなんだよね。彼が死への気持ちを準備するためのリアルな時間。
でもさ……映画って時間のマジックじゃない。人間の一生分を2時間で見せたりする時間のマジック。私が長回し礼賛主義にどうにも相容れない気持ちを持つのは、そういう思いがあるからなのかもしれない。

苦手なあまりに、最初から話がそれまくっているんだけれど……描写の手法としては判りやすさからは遠く離れてはいるものの、改めて設定や物語を考えてみるとあっけないほどにシンプルだったかもしれない。
タイトルであるトーチカは、根室の海岸線に残された、使われることもなく廃墟となった戦争遺跡。敵からの攻撃に備えて作られた、切り出した石で作られたような要塞。小さな窓状の空間が開けられ、そこから銃を出して敵に立ち向かうように作られたと思われる。
そう……実際には立ち向かうことなど出来なかった。敵は上陸してこなかったし、恐らく想像より早く、日本は降伏してしまったんだろう。役目を果たすことなく忘れ去られたように荒野の中置き去りにされたトーチカが、圧倒的存在感。タイトルロールという意味で、これこそが主人公だったのかもしれない。

そうなのよね。この風景や、轟音のようにうるさいほどに鳴り続けている風の音や波の音、たった二人の主人公といった、ストイックで哲学的な雰囲気には、凄く惹かれるものがあった。もしかしたら最初の数分間の、彼女が一つの風景を探しているシークエンスのやたらと引っ張る感じがなければ、そこであ、ダメ、と思わなければ、ひょっとしたら引きこまれていたかもしれない。
いや……判んないな、あの殺人的長回しが待っているんだから。
ともかくも、彼女が、こんな誰もいる筈もないような荒涼とした地で思いがけず出会ったのが、死ぬつもりで故郷に帰ってきたことが後に明らかになる初老の男だったんである。
目的の風景を探してトーチカの中にいた彼女が、小さな窓の外に遠くからあるいて来る彼を見つけた。中腹でうずくまって、こちらをうかがうような姿勢をとっていた彼を、彼女はトーチカの中からじっと見つめ続けていた。

……まあこのあたりは台詞もないだけに、お互いの気持ちも判らないだけに、ツライという部分もあるんだけど。
彼女が小さな窓からカメラを通して、じりじりと近づいてくる彼をとらえている、その(これまた長い)ショットを目にした時、なんか、コワイな、と思った。なんか……ホラー的だと思ったんだよね。亡霊みたいに感じた。ひょっとしたらそれは、ある意味では当たっていたのかもしれない。だって彼は、ここに死にに来たのだから。
ただ彼女の方がね、「もらったカメラの中に残された、写真の風景を探しに来た」と言い、しかも「くれた人は死んでしまった」というだけで、まるで事情が判らないのがあれっと思ったのだ。
いや……結局は終わってしまえば、主人公は、役目を果たすことなくこの荒涼とした地に置き去りにされているトーチカなのであり、そこで父親と同じ凄惨な自殺を試みる初老の男ではあるんだけれど……。
ここまで思わせぶりな設定をしながら、彼女は男の人生と最期をあぶり出す狂言回しに過ぎず、後半なんか、そんなキャラがいたのか?ぐらいな放置状態だったもんだから……なんかもったいない気がしたんだよなあ。

まあ、そう思うのは、私が“判りやすい”映画が好きなヤツだからなのかもしれないが(……なんか私、ヒクツになってるな(爆))。
でもね、ホントにもったいない気がしたんだよね。だってすごいミステリーじゃん。それにこのカメラを残して死んでしまったのは彼女の恋人だったのかもしれないし……などと考えてしまう時点で、“判りやすい”映画のトリコになっている私……(爆爆)。
結局は彼だけの物語なんだよね。彼が、亡き父が死んだ同じ方法で死ぬために、この故郷に戻ってきた。
彼の記憶の中に残された、トーチカの中でうずくまっていた父。それを犬と散歩中に見つけてしまった幼い頃の彼。
理由は判らず、ただただ怖くて逃げ出してしまった。そのことを母親には言わなかった。暗黙の了解、男の約束だと彼は表現したけれど、それはただ……怖かったからだったんじゃないんだろうか。
その恐怖は、暗闇の中ただうずくまっている父親に対する、本能的な恐怖ももちろんあっただろうけれど、コトがこうなってしまえばそれは……こうして父親の年頃になった時分が、同じ決意を持ってこの地に来ることを、幼い子供の直感で予感していたからなのかもしれない。
そう、父親が、このトーチカの中で、凄惨な焼身自殺を遂げたこと。
何たって要塞なのだから、耐火能力はハンパないのだ。しかも燃えている最中は近づけない。いわば完璧な自殺。
ようやく取り出されたときは「ほとんど白骨化していた」という。しかし彼は「自分は子供だから見せられないからそう言ったのだろう」と殊更に悲惨な状態を想像するけれど、果たしてそうだっただろうか……?

などと想像しつつも、本編はとにかく、台詞もほとんどなくストイックに進んでいくんである。
いや、前半、彼女との邂逅の中では、それなりに会話劇も展開する。トーチカの中にいた彼女に「あなただとは思わなかったから」という謎の発言をした彼に(つまり死んだ父親だと思ったわけよね)、彼女がその訳を問いただしたりする展開。そして彼は先述したような子供の頃の記憶を語るんである。
それを聞きつつ、水筒のお茶など差し出す彼女。
そして彼と別れて、彼女は荒涼とした道を帰途につく。その歩いている最中に、子供の頃に見た夢なんぞを思い出すんである。
友達の家から帰るのに、闇の中を駆けても駆けても辿り着かない。夜の闇の中では時間がちっとも進まなくて、自分が駆けることで時間が進む、と。実はそれは彼女が後に夢想したことで、でも子供の頃から実際の記憶と共に夢想し続けているから、もはや実際にあったことぐらいに記憶されているんだと。そして彼女は気づく……あの時私は死者の世界にいたんだと。

……このエピソードを使うんだったら、ここで、この作品で使うべきじゃなかった気がする。
しかも、とにかく説明しないストイックを心がけていた(かどうかは知らないけど)のに、なんかここだけやたらと語りたがるのが、奇妙な気がしたんだよね。それこそ彼女はカメラに残された一枚の写真に執着する理由さえ、言わなかったのにさ。
なんかね……まるで絵本を読み聞かせているような気がしたんだよなあ。
ここに限らず、彼女に関しては、説明過ぎる感じが常にしていた。そんな子供の頃の夢とも現実ともつかない記憶を哲学の教科書のようにしたためながら、ハッとして、「彼が何のために戻ってきたのか気付いた」ときびすを返して。
この時点で、というか、もはや彼が生い立ちを説明した時点でそれは読め過ぎだったんだけど、彼女が必死に来た道を走って戻って、トーチカの前まで来て、驚愕の表情を浮かべたアップを捕らえた時には……ええ?ここでそんな判りやすいことする!?と思ったんだよね……。
いやいや、判りやすいことを求めているんじゃないかと言われたらそうなんだけどさ(爆)、でもそうだ、私は自分が苦手なことを承知で、このストイックで自分勝手な(爆)世界観を貫いて欲しいと思っていたのかもしれない。

そういう無粋な“判りやすさ”という点では、自分にとっては都合がいいハズなのに、理不尽にも勝手にハラを立てた部分は他にもあったりするんである(いやまあ、映画ファンなんてのは、そんなモンだと思ってくださいよ(爆))。
音楽を全く使わず、轟音か、てな風の音や波の音で満たしていくんだけど……その音の中で会話をするから、その会話が聞き取れるように、だろうなあ、この中で会話しているとは思えないほどに声がやたらとデカく採録されていてね。
そりゃそうしなきゃ聞こえないんだけどさ、でも会話場面って限られているから……そのために、せっかく自然音を大切にしているのをこの“判りやすさ”のために世界観を壊している気がしたのだ。
それは、先述の、彼女の夢のモノローグもそうだし、しかも観客が薄々気付いているコトを「私は判ってしまった!」などと宣言して走り戻るのもそうだし。

彼が父親と同じ死を遂げるまでの時間を見つめる、ゴーモン的な長回しの他にも、それなりの長回しは作品中に点在している。
彼女が子供の頃の夢を思い出しながら帰路につく場面もそうで、スクリーンの右上端っこに彼女が見切れるまで、そう、観客に目で追わせることを“強いて”いることにひどく疲労感を覚えてしまう。
こういう場面がかなりあるんだよね……。やっぱり私は、作家さんの世界観を理解しようという努力そのものが足りないのかなあ。こんな長回し一発で疲れてしまうなんて。
ただ、彼女が語る夢の話は、なんか共感する部分もあって。こういう物語の中で語られるんでなければ、ホント共感したかもしれないなあ(爆)。
夢と妄想と現実がごっちゃになり、それがもたらす死の感覚を子供の頃から持ち続けていること。そう、子供はこの世に放り出されてからの時間が大人より短い分、死の世界に近いから、それを鋭敏に感じ取ることが出来るのだ。

彼が父親と同じ末路を選択するために、トーチカに閉じこもる場面、その長回し、その殺人的長回しシーンをどーにかこーにかクリアして、その後、しかしなかなか決定的場面が現われない。
彼の意図を察して駆けつける彼女のシーンもあるし、しかも、彼女と印象的にすれ違うトラックと駆けていく犬なども用意されているから、こりゃあまだまだ時間がかかるなと覚悟する。
しかし、この長さがなければ(爆)、どれもこれも印象的なシーンで、ことにあの殺人的な(しつこい)長回しの後、犬の影が彼の目前を横切り、少年がトーチカから犬を追って出てくるカットで、それまでの息が詰まるような長回しから解放されることもあって、やけに印象深い。
そして……犬がいるってことは、つまり、あの時の、父親を見つけた時の彼自身?夕暮れとも夢の中ともつかないぼんやりとした闇の中、少年は駆けて行き、軽トラックに乗り込んで、もう一人運転席の隣に座っている少年がいて、ほえる犬をかまわずに、トラックは走りだす。
そしてそのトラックが彼女とすれ違うんだよね。……これは、この荒涼とした、誰もいない、神様さえも見ていないこの地で、ふっと時間が交錯したのか。

そうは言いつつ、でもやっぱり……こと私にとってはやっぱり、ゴーモン映画だったなあ……。
なんか、解説か、監督自身の言葉でね、そう、それこそ、万人に判りやすい映画ってことへの否定意見なぞも提示しつつ(その時点で私、くじけたんだけど(爆))人に見せることを考えた上での映画と、自分のための映画ってことを言っててね……。
そう、芸術という観点、いや、そこまでアカデミックにならずとも、純粋な表現という観点では、それはまさに正論だってのは理解できた。でも……特に映画って、音楽もそうだけど、視覚と時間の芸術である映画は特に、それを必要としない他の芸術と違って、それを割いてくれる観客がいないと成立しない、んだよね。
そういう意味でまだまだワカゾーの芸術であるだけに……作り手と観客の間に、ヘンな逡巡が生まれてしまう。芸術というものの確立がなされてしまっている現代なだけに、そして映画は芸術と娯楽の両立と相互と乖離がそれぞれに存在するだけに……。
評論家さんとか作り手というプロよりも、観客の方が戸惑い、取り残されてしまう感がある気がして……それは単に、判った気でいたいナマイキな映画ファンだからなのかもしれない、けれど。

でも、映画は時間のマジックだって先述したけど、それこそシェイプして、リアルな時間にとらわれないで作られたなら、とか思っちゃう。そしたらメッチャひれ伏した気さえする。もともとこういう雰囲気の映画はかなり好きなんだもん。
しかも彼は、短編映画で名をはせた人なのでしょ?と思い……でもそれも、こらえ性のない受け手の勝手な言い草なんだよなあ(爆)。

私ね、彼が父親と同じ死を選択してここに来たと知った時点で、石油をかぶってカチッとライターかなんかを点して、炎がぶわっとあがる場面をずっと頭に浮かべててね、それこそベタなんだけど、そのベタを……それ以上のベタで伸ばしに伸ばされた感じがしたんだよなあ。
先述のように、死への逡巡が恐ろしいほど長かったし、彼女が戻ってきたりする場面もあったし。
そして……確かにカチリ、という音が待ちに待って来ました!と思ったら(正直この音が来たこと自体に驚いたんだけど……判りやすすぎること、ホントにするんだと思って)、その後、トーチカを引いた画面で、しかもそれまでうるさいぐらいに聞こえていた風の音やらを排除してしんねりと映し出して。
……ホンット、ここも長回しじゃないけど、やたら長くて、すんごい付き合わされてる感じがしちゃったし(爆)。
しかもしかも、ラストクレジットの直前、もうココまできたらそんなベタなことないだろと思った、燃え出す炎が映し出されるもんだからかなりビックリしてしまった……それ以前にトーチカから吹き出す煙のシーンも、まるでミニチュア撮影みたいに遠目でウソくさく見えてしまったから……後半は特に気分が萎えてしまったのが事実かなあ……。

ずーっと、思わせぶりだなあ、って気持ちが凄く、してた。長回しって時点でそうなんだけど……。
でもね、私、思いだしたんだよね、今や大好きな監督である奥秀太郎監督の作品「壊音」を初めて観た時に、こういう気持ちになったなあ、ってこと。 その後、すっかり奥監督のファンになってから、「壊音」を見ていて良かったと思いつつ、あの映画に散々毒づいていた自分をハズかしく思ったのも事実。でも、あの時はそれが正直な気持ちだったし、今でも多分……同じことを思っちゃうんじゃないかと思う。
本作も、そんな予感がしている。後に私、また後悔するかもしれないんだなあ(爆)。 ★★☆☆☆


特殊三角関係
1972年 73分 日本 カラー
監督:山本晋也 脚本:田村晋
撮影:音楽:
出演:谷ナオミ 篠原千恵

2009/3/2/月 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム/WE ARE THE PINK SCHOOL!)
フィルムの状態がひどくて、途中5回も中断。うーむ、上映前にもうちょっと調整出来なかったのかなあ。スクリーンの左上がずっとかげっていて、音声が時に極端に潰れてしまう、のは、まあ仕方ないのかもしれないけど……。かなり気持ちが分断されてしまったから、ツラかった。
いかにもピンクらしい、というと語弊があるかな。ピンクでしか出来ない、ピンクそのものって感じの作品。
ピンク映画の監督としては、恐らく最も名が通っていると思しき山本晋也監督。でも彼の作品は、過去一本ぐらいしか観る機会がなかったんだよなー。
それは本作とはぜんっぜん趣の違う、昭和エロを本格的な時代考証を作り上げて描いたものだった。カントクのイメージと違うなー、と思っていたから、本作を見て、あー、これこそカントクのイメージだなあと(笑)。

お気楽な事務系サラリーマンが、ほどほどの地位の上司の娘さんをもらい、閑静な住宅街に暮らす。そんな幸せな境遇のヤツなのに、それ以前からの腐れ縁である恋人と別れられない。
妻と愛人、二人の女を同時に愛し、同時に愛されて、ついには精気も何も吸い取られてしまう男の話。この設定って、いわば男の夢だし、女からはありえねー!と怒られるに決まってるんだけど、これが不思議と女の方が共感してしまうかも??と思うのはナゼだろう……。
そしてラスト、「女のいない世界に行きたい」と書き残してぶっ倒れてしまう男に、思わずニンマリとしてしまうのはナゼだろう……。
それは、この設定の最も重要な部分、妻と奥さんが仲良しになってしまうところが、それこそ絶対にありえないハズのことが、不思議にすんなり納得出来ちゃうというか……。
いや、違うな、そりゃこんなこと実際にはありえないんだけど、心のどこかでこういう奇妙な友情を、ある一つの理想として女は持っているのかも?
いやいやいや……あー、なんだろ、この奇妙な感じ!とにかく、腹が立つどころか、この二人の女のブリブリの仲良さがやけに楽しげで、ニコニコと観てしまうのだよなあ。

クラシックの名曲が慎ましやかに流れ、数々の哲学者の名言が、この男の口から吐かれるんである。
それこそ最初は、こんなヨユーぶっこいたこと言ってる。「女は一人の男のために出来ている。男は全ての女のために出来ている」と。ばっかやろー、何言ってやがんでい、とか思いながら、それが女の独占欲と、男の浮気症を証明しているのかもしれない、などとミョーに納得もしたりする。
ただ、この説は、本作においては結局はひっくり返っちゃう。いや、ひっくり返ってはいないのかもしれない。だって二人の女はヤハリこの男一人を愛しているのだし、この男は二人の女を等分に愛しているんだもの。
でもその説の下ではいつも泣いていた女が、ここでは高らかに勝利を勝ち取り、男を踏んづけるんだから、そうか、だからやけに爽快なんだな!

妻は結婚する前から、愛人の存在を知っている。それはこの男が正直に告白したからである。
彼は何を思ってそれを告白したのか、「君には黙っていられなかった。必ず切れるから」と言うんだけど、切れるつもりがあるなら、告白なんかせん方がいい訳でさ。
あー、そういやあ、つい先日観た「レボリューショナリー・ロード」で、全てを告白することで許しを請おうとする男に、ひどく憤ったことを思い出したなあ。全てなんて、言う必要ないんだってね。
妻は「正直に言ってくれた」ことに対して感激して涙を流す、というのが、そりゃないよなー、とここでは思ったんだけど……でもそれこそが、この作品の重要なキモだったのだよね。

つまりさ、この夫婦と愛人、三人の関係には、見事なまでに隠し事がないのよ。妻と愛人が仲良しになったことも、二人はウフフと嬉しげに夫に披露するしさ。
夫婦の家に愛人は何度となく訪れて、最初は夫婦がセックスしている中グッスリ安眠する(!)んだけど、なんたって妻と愛人は仲良しこよしなもんだから、「(射精する前に)リョウコさんのところに行って!」「ダメ、ダメ、カズコさんのところに行って!」と夫を何往復もさせて、夫はもう……精根尽き果ててしまうんである。
そりゃー、女が二人、男が一人なんだから、女それぞれが満足してても男は二倍の“労働力”、もう楽しむどころじゃなくて、しまいにはアレがひん曲がってしまう!?
何とかしてくれ、と懇願したあげくの3Pは、愛人のアナル、妻のヴァギナに交互に入れてる“筈”だけど、もう夫は何がなんだか判らない状態で、堪能しているのは鏡餅のように重なり合った女二人だというのが……これって凄い画だわー。いや、さすがにこれは憧れないけど(爆)。

まあ、だからさ、男性諸君には、ウワキするならこれぐらいの覚悟を持ってほしいっつーことだわよね。一日おきだの、週に数度愛人の元に行くだの、寝ぼけたことを言ってんじゃないっつー話よね。
案外カントクはフェミニストなのかもしれない?だってこれって、男を自虐的に、女を魅力的に描いている点でも、実にピンク的なんだもん。

でもヤハリ、それを演じている片方、愛人の方がピンク女優の伝説、谷ナオミという説得力もあるかもしれないなあ。
彼女は絶対、妻の役にはならない。ザ・愛人。うっすらとした腋毛が妙にそそられるもっちりボディに、顔だけはメイクバッチリの谷ナオミは、女から見てもゾクゾクするほど魅力的。
ていうか、女をもミョーな気にさせる強烈な色気、なんだよね。まあそれは、団鬼六作品とかを観ているせいで、そんな刷り込みがなされているのかもしれないが……。
それにしても、彼女が四つん這いになった時の、タケノコのような美しい形でぶらさがるおっぱいはモハヤ芸術品だよな……って、何言ってんだ私。
まー、だから、女の目から見ても非常なる色香で(そうよ、色っぽさってのは、ヤセではいけないのよ!)、その母性、女神のような包容力に、女もまた抱(いだ)かれたいとか思っちゃうのだよな。

まー、だから、ツマリね、私はこの妻と愛人のレズ的場面を期待していたんだよな(爆)。あー、ヤダヤダ、我ながらヨコシマすぎる。
まあ、一緒に狭い浴槽にくっつきあって入って、お互いの美しい身体を褒め称えながら触りっこする場面はおおっ、キタか!と思ったけど、それ止まり。ちえっ。戯れにキスぐらいしてみたらいいのにー。って、ヘンタイか、私……。

夫がつぶやき続ける哲学者の言葉は、大半が頭の中をスルーしていくんだけど、その中でもふっと留まったのは、愛人と妻が仲良しになった場面に重なる「羽よりも軽いのはクズ、クズよりも軽いのは女、女よりも軽いものはない」という言葉。
そのモノローグに合わせて、二人の女が楽しげに笑い合いながらパフェなんぞつついている。敵対する相手のハズなのに、ののしりあう場面さえない。
ならばなぜ、妻は愛人を呼び出したのだろうか……という気持ちもふと湧くんだけど、彼女が夫にしれっと「リョウコさんに会ったわ。キレイな人ねえ」と言うように、彼女はつまり、美しい谷ナオミにひと目惚れしちまったってことだろうな。だからこそレズ的場面が欲しかったのに(爆しつこい)。

羽よりもクズよりも軽い女の軽さが、それこそが女の強さなんだと思うわ。うーむやっぱり、山本晋也カントクはフェミニスト?

どんどん憔悴していく彼をいつも注意する、同僚のカワイイ女の子とも関係を持つのかと、ちょっと思っちゃった(爆)。 ★★★★☆


鈍獣
2008年 106分 日本 カラー
監督:細野ひで晃 脚本:宮藤官九郎
撮影:阿藤正一 音楽:緑川徹
出演:浅野忠信 北村一輝 真木よう子 佐津川愛美 ジェロ 本田博太郎 南野陽子 ユースケ・サンタマリア

2009/5/26/火 劇場(渋谷シネクイント)
なんつーか、クドカン脚本で長編デビューする監督さんが多いのはどうなのかなー、などと思ってしまう。今回も、またしても。確かにクドカン程の吸引力のある脚本で撮れば、そうそう足を踏み外しさえしなければ面白くなるし、客も呼べる。でも客はあくまでクドカンの名前で来る訳だし、それがどんなにいい出来でも、ヒットしても、それでデビューを飾った監督が評価されるとは思えないんだよなあ。評価されるどころか、覚えてももらえないかもしれない……。
うーん、それでもかまわないから彼の脚本で撮りたいっていう人が多いってことなのかしらん。でもそれってなんか、冒険を避けているような気がしてしまうのだけれど。

とまあ、また毎度のようにつらつら言ってしまったけれど。うーむ、どうしても気になるんだもん、そこんところが。
でもまあ、本作に関してはクドカン以外にも気になることは確かにある。それは浅野忠信の大いなるイメージチェンジ。彼がね、この役に絡めて演技に対する心境の変化を語っていたんだよね。曰く、以前はいかにも演技演技したやり方を嫌っていたのが、その考えが改まった、と。自分で監督した経験から、カメラ越しにそうした“演技演技”したやり方の、つまりは大きな演技(ひょっとしたら狭義で舞台出身の役者のことを指しているのかもしれない)をする役者が面白く映ったのだと。

確かに彼がほんの数年前までは、とにかくナチュラル演技を心がけていたことは、彼自身の口から再三語られるところではあったし、それは彼がわざわざ言わなくったって、充分に察せられた。
時にぶっきらぼうに、棒読みにさえ思えるほどに、彼は大仰な“感情演技”を殊更に嫌っていたんだもの。それこそが浅野忠信という役者だったことを考えると、この心境の変化、そして心境どころか本当に演技に反映させてしまったことは、驚愕と言っていいほどの変化なんだよね。

本作で浅野忠信は、殺されても殺されても死なない、つまり超鈍感な男を演じる。鈍感なのはそうした痛み(どころじゃないけど……)に対してだけではなく、おのれに向けられた悪意や憎しみ、殺意というどす黒い感情に対してでもある。
むしろ後者の方が本作の重要なテーマになっていて、こんなきわどい話なのに、おっとびっくり、結末ではその決して壊れない永遠の友情(これは壊れても良かった気もするが……(爆))にカンドーしてしまうという、オドロキが待っているんだよね。

こんな、荒川良々あたりが浮かびそうな役に、スーパーナチュラル役者の浅野忠信を抜擢したという時点で超オドロキである。一体誰がそんなハナレワザを思いついたの!?そしてどこらへんに、成功の確信を抱いたの!?結局大成功しちゃったけど、その確信は本当に最初から得られていたのかしらん。大バクチだったんじゃないの!?
ただ、浅野忠信は実際にはスクリーンのイメージとは違って、おしゃべりで気のいいあんちゃんだっていうことはあって、その素を出してもらえればこれはイケる、というトコがあったのかもしれない。そこへもってきて彼の心境の変化があって、この奇跡的な大成功がもたらされたってワケかも。
確かにこのキャラは極端ではあるけど、素の浅野忠信として見え隠れしている彼のキャラ、気のいい、好青年にかなり近いものがあるのよね。そこをついたキャスティングがなされた点で、この作品の成功は見えていたのかも。

しかも彼以外は、それこそ“大きな演技”が持ち味?のメンメンばかりである。彼を子供の頃にいじめた二人組の一人、ユースケ・サンタマリアは今の役者の中で恐らく一番大きな演技の持ち主だし(笑)、しかもそれでいて町のおまわりさんってのが絶妙だし(大笑)。
そしてもう一人の北村一輝は、顔の作り自体が大きいし(爆)、しかもそれで、町唯一のホスト(ホスト!しかも彼が他のホストを追い出したから唯一ってのがね!)っつーのが絶妙すぎてさあ。誰も来ねえだろ、という寂寞とした空気の中に、北村一輝の濃厚な笑顔だけが浮かんでいるっていうのが、なんつーか、なんつーか、なんつーか、哀しすぎるんだもん(爆爆)。
彼らのいわばマドンナ的な存在に、南野陽子を持って来るという変化球には驚いたけど、彼女はそのちょっと風変わりなキャラで、同時代のアイドルたちの中で奇跡的に生き抜いてきた人。
そして実にわっかりやすい大味さでロリータ少女を演じる佐津川愛美はちょっとムカつくほどのブリブリだし、この中に浅野忠信が放り込まれるなんて、通常ならちょっと考えがたいことだったのだ。

通常の浅野忠信ならばひょっとしたら大波に飲まれてしまったかもしれないところを、すばらしい存在感で見事主人公のオーラを放ちまくるんである。
でもこの役者陣の中ではやっぱりナチュラル系の演技だし、いや、やはり緩急が絶妙なんだよね。なんかね、ミョーにカワイイのだ。こんなシブい年齢になった男性に向かってカワイイというのもなんなんだけど、カワイイとしか言い様がない。
まず、今までの浅野忠信では考えられない造形である。前髪が一直線に切りそろえられたまことちゃんみたいなヘアスタイルに、昔の山岳部みたいな、フツーに現代のオタクみたいな?テキトーカジュアルなカッコは、いくら浅野忠信であっても、カッコイイとは言い難いんである。
そのカッコで彼らの前にニッカリと現われては、殺しても殺しても死なない。毎度「おしまい?もう、おしまい?」とニコニコなんである。最後の最後にはもうどこか怒ってるみたいに「おしまい!」(もう疑問符の雰囲気すらない)言って、半死半生の姿で現われる。それでも彼は、友達が自分を殺そうとしていたなんて、ツユほども思っていないのだ。

そもそもなんで彼が、そんな何度も殺される(というか、殺されかける)ことになったかっていうとね、彼が子供時代にいじめられた経験を小説に書いたからなんであった。
ボーゼンとするほどの田舎町。いくら仮名を使ったからって、すぐに判っちゃうのだ。しかも彼のあだ名、凸やんの由来である隣町の少年は、江田(北村一輝)と岡本(ユースケ・サンタマリア)がけしかけた度胸試しで、鉄橋の上で電車にはねられて死んでしまった。いくらワンパク坊主とはいえ、行き過ぎてしまった。
今やいい大人になっていまだこの田舎でくすぶっている二人にとって、それは消そうにも消せない強烈なトラウマなんである。

田舎でくすぶっている、と言ったのは、その凸やんだったんだよね。もう何年ぶりになるのか、しれっと田舎に帰ってきて、そんなことをヘーキで言う。それでいて自分が二人にいじめたおされていたことをイマイチ覚えていない、ノーテンキにヘラヘラ笑うばかりの凸やんに、二人は「……確かに凸やんだ」とつぶやくのだ。
後から思えばさ、凸やんって、単純に見えて、浅野忠信が演じてミョーに可愛く見えて、実はすんごい複雑で、自分を抑えてて、誰にも真実を見せなかった哀しいキャラのような気がしてくる。
だってさ、最初こそ二人はちょっとアタマが足りないような彼に「確かに凸やんだ」と確信を得るのに、最終的には彼が全てを飲み込んで、ちょっとバカなフリまでして、復讐めいた暴露話を世に送り出し、著名な賞までもらっちゃうんだもの。
友達が自分を殺したいと、殺そうとしていたことだって、彼はひょっとしたら判っていたんじゃないかって、終わってからなら思うのだ。

まー、なんていうのはあくまでシリアスな見方で、見え方は実にアホアホなんだけどさ!いかにもクドカン作品らしいんだよなあ。
子供時代をアニメーションにしたのは秀逸だったと思う。コレを実際の役者たちがそのまま子供時代も演じていたら、どうしようかと思ったもん(爆)。
冒頭は、凸やんを凸川先生、と呼んでこの田舎町に探しにくる編集者の女性(真木よう子)の登場から始まる。彼女が電車の中で急ブレーキに、前の座席の客のお腹にめり込んで赤いメガネを壊す。これがオドロキのスイーツ親方こと芝田山親方じゃないの!んでもって辿り着いたココは“相撲の町”だし。彼がキーパーソンかと思った……(全然違う)。
彼女が江田と岡本に聞きだす形で物語は進行する。確かに凸やんはこの町に帰ってきていた。でも今はいない……いやいる?どんどんとんでもない話が明らかになっていくんである。

悪ガキ二人組がいじめていた凸やん、よわっちい少年だった彼が、突然売れっ子小説家として江田と岡本の前に現われる。しかも彼らの忌まわしい過去を暴露する小説で、著名な賞をとろうかというトコまできてるんである。
しかし彼らの前に姿を現わした25年ぶりの凸やんは、「僕が小説?ムリムリ!」と笑い、実際過去の彼を考えたら彼らもウッカリそう思ってしまい、しかも凸やんはかつていじめられていたというのに、彼らに対して親友の気持ちを崩そうとしないのだ。
この田舎町でこんな暴露話が広まったらいられなくなると、二人はついに凸やんを手にかけてしまった……ハズが、再三殺しても殺しても、ちっとも死なないどころか、ニコニコと再登場する凸やんに、彼らは次第に恐怖を感じるようになる。一方で凸やんは、彼らの友情を信じて疑わないのだ……。

これってさ、核の話は実に単純だよね。だって“殺しても殺しても死なない”ってだけなんだもん。殺しのバリエーションと、いかに生還するかのバリエーション、なだけなんだよね。
山盛りの殺鼠剤(ネコイラズ)をウィスキーのロックに混ぜて何週間も飲ませ続けようが、トリカブトを“中華丼パンケーキ”(どういう料理だ……しかも凸やん、「美味いね、中華丼パンケーキ!」って……)に飾り付けて食わせようが、しまいにはトラックで轢いて、その後を追いかけてスコップで何度も後頭部を殴打し、5メートルの穴を掘って埋めても、彼は死なないんである!
この最後に至っては「目が覚めたら土の中なんだもん。ビックリしたよ」……なぜ土の中にいたのかを気にしないのか!?ていうか、記憶を思い起こせよ!

そのたび罪の意識に耐えられなくなって、江田の愛人である順子ママ(南野陽子)が凸やんに真実を伝えようとするも、凸やんは友情を信じて疑わず、逆に江田と岡本に進言して彼女が彼らに殺されそうになるなんていう修羅場すら用意されているのがスゴいんだよなあ。
しかも、順子ママが食べる筈だった毒入りバースデーケーキを、替わりに食べた凸やんが泡吹いて死にかけたのに、当の凸やんはいつものように全く意に介さず、それどころか「ママを大事にしろよ」みたいなさ、超判ってないしさ(爆)。
しかもそんな信じられない事件を経ても、彼女は江田(だけじゃなくて、他のメンメンも全員加担しているのに!)の元に戻ってきて、再び凸やんVSのメンツに加わっているんだもん。タフすぎだろ!

ちょっと判り辛かったのは、凸やんと、凸やんのあだ名の由来となった隣町の少年の関係である。回想のアニメーションでしか出てこない、それこそ知恵足らずに見える(スイマセン……ヘンケンタラタラだけど)男の子。
あまりにも死なない凸やんに、実は死んでいないあの少年が今の凸やんである、と位置付ける展開になるんだよね。なんか中盤、本当にそうなような気がして、名前もごっちゃになっちゃうし、でも結局そうじゃなかったんだよなあ。
この部分の処理は、ちょっと急ぎすぎた気もするんだよね……ちょっと、判り辛かった。結局あの時電車に突っ込んだ少年はどこに行ってしまったの?みたいな。

ラストもラスト、もういい加減気づけよ、というトコに至って、殺しても殺しても死なない凸やんがエレベーターを使って皆が集まるいつものホストクラブにやって来る、そのエレベーターの点滅が次第に昇ってくるのがホラーめいた描写だったのが、最後には、なんか感動的になっちゃうのがスゴイのよね。
満身創痍で、もう死ぬだろってカッコで、まるで怒ったように「おしまい!もうおしまい!」と叫ぶ凸やんに、もう負けたってか、ここまで来れば、まごうことなき真の親友だ!みたいな(いや、その境地は……間違っていると思うのだが(爆))感極まった涙顔で迎えいれる江田と岡本がさ、ていうか、それでウッカリ感動させちゃうっつーのがさ、スゲーと思うわけ。
だって絶対このカンドーは間違ってるもん(笑)。何度も殺そうとしてたじゃん、執拗に、なんで死なねーんだよ、ってノイローゼにまでなってたじゃん。なのにその先に真の友情があるだなんて。カンドーさせちゃうだなんて。つまり現代社会はそこまで耐えなきゃ、友情さえも手に入れられないのかなあ。

うーむ、ま、とにかく浅野忠信がミョーに可愛かったのでヨシ! ★★★☆☆


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