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「ふ」


2010年鑑賞作品

フィリップ、きみを愛してる!/I LOVE YOU PHILLIP MORRIS
2009年 97分 アメリカ=フランス カラー
監督:グレン・フィカーラ/ジョン・レクア 脚本:グレン・フィカーラ/ジョン・レクア
撮影: ハビエル・ペレス・グロベット 音楽: ニック・ウラタ
出演:ジム・キャリー/ユアン・マクレガー/レスリー・マン/ロドリゴ・サントロ


2010/2/2/火 劇場(渋谷シネマライズ)
オープニングクレジットで何度も「本当に起こった物語」「本当だってば」とギャグのように繰り返されるように、本作のキモはもちろん、このありえないほどのサギ男の人生に尽きる訳で。
その動機が“愛”のためであったとしても、彼は元々そうした素質があった訳だし、ハリウッド映画としてなぜこれが作られたのかはヤハリ、サギ=ウソ=フィクションという、ハリウッド映画が大好きな、そもそも映画というものの成り立ちとも言える要素がこの男にあったからに違いない。
だって古くから詐欺師を描いた映画は数多く存在するんだもの。

確かに物語として追えば、大胆不敵と言うにもあまりあるスティーブという男の起こす詐欺の面白さが、この映画の大前提であるのかもしれない。
あるいは、そのスティーブという男こそが大前提。ジム・キャリーが何があっても出演したかった三つの作品のうちの一つに挙げるのも頷ける、彼の役者人生の節目に当たる作品だということは間違いない。
映画のパッケージとしても、変幻自在のカメレオン男(カメレオン役者ではなくて(爆))であるジム・キャリーが、もはやマンガチックなほどの詐欺男を演じるのは、だって彼自身がマンガみたいなんだから、そりゃあ単純に楽しみだったのだ。

でもでも、これは、確かに“愛”の物語だったのだなあ!観終わってみれば詐欺の部分なんてどうでもいいんちゃうと思うぐらい、“愛”の物語、なんだなあ!
そりゃあ、その“愛”のためにこそスティーブンはムチャクチャな詐欺を起こすんだから、それは最初から確かにそうなんだけど、でもさ、その“愛”が順調な時でさえ、彼は退屈をまぎらすように詐欺に手を染めてしまうじゃない。
ていうか、先述の様に、この“愛”に出会う前から、詐欺は彼の手癖の悪さ、天性のようなものだしさ。

だからね、そう……だってもう、ユアンなんだもん。ユアン・マクレガーなんだもん!!
タイトルロールというところから、ひょっとしたら主役のジム・キャリーより主役であるかもしれないフィリップ、そこにユアンをキャスティングした人はもおー、天才!
正直、この物語は、ていうか映画は、フィリップがユアンでなければ、こんなにもステキな映画にはなっていなかったような気がする(爆)。それこそ、愛に目がくらんでもともとの詐欺気質をエスカレートさせたクレイジーな男の人生を描いた、ぐらいに見えたかもしれない。
確かにジム・キャリーは実に達者に演じているし、クライマックスの大バクチで見せる、やせこけた姿にこの役にかける意気込みは伝わってくるけれども、彼がフィリップに注ぐ“愛”のまなざし以上に、フィリップがスティーブに示す“恋”の熱視線には、心臓をわしづかみにされずにはいられないのであった。

だあーって、もともと女子はゲイの純愛モノ、大好きだし(爆)。だから男子諸君がこの映画をどんな風に受け止めるのかに、かえって興味がある。
女子はもうもう、ただただトキメキのままに受け止めてしまうわよ。まあ、かつてからモーリス、アナカンといった美青年系萌え映画はあったものの、本作に関しては「トーチソング・トリロジー」みたいな、深い人生の哀切を感じたなあ。
ネコ担当が美青年ってあたりもそれっぽい(爆)。いや、ネコ担当っていうのはキャラだけで判断しているけれど……でもスティーブがモノローグで自分が実はゲイだと告白した時、マッチョな黒人さんのバックから突いてたしさ(爆爆)。

ていうかとにかくとにかく……ユアン、可愛すぎるっつーの!いやー、彼は……そう、彼のことを書く時いつもいつも同じことを書いちゃってる気がするんだけどさ。「トレインスポッティング」の時だけはハングリーに頑張ってたけど、それ以降はぽっちゃりを揶揄されたりもし、でも実際はそれこそが、そういうキャラこそが彼の魅力なのだと。「トレイン……」はムリしてたのだと(爆)。
「金髪で青い目のゲイは危険だから」と子犬のような眼差しでおずおずと語るフィリップ、いやユアンには、スティーブならずとも我ら女子はいっぺんで恋に落ちちゃうわよ。いや、萌えの恋によ(爆)。

二人の出会いは刑務所。スティーブはいわずもがなの詐欺容疑。フィリップはレンタル(車だったかな)の延滞料金を滞納していた罪。
後々聞けばフィリップもなかなかに大胆な人生を送ってはいるのだけれど、やはりスティーブとはレベルが違う。その二人が、しかもこんな場所で出会ってしまったのは運命としか言い様がない。
おどおどして荒くれ男たちから身を隠すようにしているフィリップを、スティーブの方が見初めて声をかけた。思ったとおり?彼もゲイで、感触は良かったものの、別の棟に移らなければならないと言う。

しかし二人は署内の運び屋にカネを渡して手紙のやり取りを続けた。かさばらないようにアリのような細かい字でびっしりと書くフィリップの手紙は、スティーブのそれを越えて次第に熱を帯びてきた。もはや手紙の上だけだけれど二人は確かに恋人同士だった。
それでもフィリップは、もはや彼に会うことは叶わないと思っていたに違いない。しかし思いがけず、そう……毎日の手紙のやり取りがあったのに3日の間音信不通だったことに不安を感じていたフィリップの目の前に、新しい同室者としてスティーブが現われる。
目を見張り、信じられない!と叫ぶ間も惜しんで、早くヤろう、とにかくヤろう、とスティーブのベルトを外しにかかるフィリップ(爆)。

まあ、てなわけで、スティーブは刑務所の中でさえ自分の思い通り、なんだよね。大体が、入所した時から余裕タップリで新人さんを教育仕ってたし。いわく「カネか、アレをしゃぶるか、選べ」。……散々しゃぶったんだろうなあ……いや、彼はなんたって稀代の詐欺師なんだから、カネも豊富にあっただろうが……。
スティーブはフィリップのためになら、夜中うるさく吠える入居者を、殴り屋を雇って成敗したりとかなり手荒なことをするんだけれど、フィリップがそれに対して「君はなんて優しいんだ!」と感激しちゃうんだよね。
ここがマアつまり……ちょっとヤバイとこでさ。そりゃまあフィリップは後々、彼との愛の生活のために信じられないことを次々とするスティーブにアイソを尽かしかけるけれども、でも基本「僕のためにこんなにしてくれるなんて!」て姿勢なんだよね。

いや、「こんなに優しくされたのは初めてだ」ていうような台詞があって、そもそもはそれが前提かなあ。それまで金満ジジイたちのセックスボーイな人生を送ってきたフィリップは、そんなジジイたちのことも一様に「いい人だったよ」と、本気でそう思っているらしい様子なんである。
スティーブが彼を人が良すぎると心配するのもムリはない。だってきっと“いい人”なだけな訳はないんだから……。
でもそれが、ご注進したスティーブにもある種当てはまるってこと、彼自身は気づいていただろうか。いや、ある種どころじゃないかも。彼が一番、フィリップの人生を狂わせ、犯罪の共犯者にまで巻き込んでしまったんだから。
でもそれに気付かないほど、あるいは判っていても止められないほど、スティーブもまた運命の恋に落ちちゃった、ということなのだろうか。

あのね、スティーブには、まあなんたって主人公なんだから、こんな人間になってしまった?前日談的なエピソードが語られるんだよね。
それは実に、子供時代から。最初のうち、彼は結婚して可愛い娘もいて、奥さんとのセックスの場面も出てくるし、よもやゲイだなんて思いもしないのだ。
自分にウソをついて生きてきたからなんだけど、そもそも真性ゲイである人って、女性と子供をもうけることが出来るんだろうか、と、こういう設定の物語に接するたびにフシギに思ってしまう。
いやだってさ、男性のゲイが女性と子供をもうけるには、アレがソウイウ状態になって、アアしないと……(汗汗)。女性に欲情しなくても、そこまでの段階が踏めるものなのかしらん?本作もちゃんと奥様に夜のおつとめを果たす場面も出てくるけれど……。

まあ、そんな私だけの興味の問題はいいんだけど(爆爆)。しかしスティーブはずっとゲイであるという秘密を抱え続けて、ある日、交通事故を起こした。凄い大怪我で、もう自分は死ぬと思った。
そう思ったから、これからは自分の思い通りに生きてやると彼は心に誓った。血だらけでタンカで運ばれながら叫んだ。自分はゲイなんだ、ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!!!

で、ちょっとすっ飛ばしちゃったけど(爆)。そう、子供の頃からその自覚はあるんだよね。青空に浮かぶ雲がペニスに見えてる(爆)。と、明かされるのは彼がゲイだと宣言してからで、このペニスに執着する描写はかなりしつこく繰り返される(爆爆)。
そもそも彼は出自がフクザツだったんだよね。養子だったのだ。ある日突然、それを両親から告げられる。しかも「茶封筒に入れた金と引き換えに」実の母親はスティーブを渡したのだという。
スティーブはその母親を探すために警官になった。そして首尾よく探し当てた。彼は真ん中の息子で、当然というかなんというか、母親は彼を拒絶した。なぜ、真ん中の自分だけが捨てられたのか、彼は母親に吠えたけれども、答えは得られなかった。

後に彼は、こんな悪癖を持った子供だということを母親が感じたからだ、とどこか自嘲気味にモノローグするけれども……確かに思わずそうかもと思ってしまう程にスティーブの詐欺人生は凄まじいけれども……勿論、決してそうじゃないよね。

あのね、突然ゲイ宣言をしてさ、妻と娘を捨てた形で憧れのゲイライフに突入したスティーブ。「ゲイはカネがかかる」とつまり、若く美しい恋人に貢いで、いかにもセレブっぽい子犬なんか2匹も飼っちゃって、ゴージャズな生活に見栄を張るからなんだけどさ。
そんな具合に突然夫を失った妻なのに、スティーブから電話があれば陽気に受けて、アラ久しぶり、元気なの?○○(その時々の、スティーブのステディである男の子の名前)も元気にしてる?とまるで屈託がないんだよね。しかもスティーブは結構ことあるごとにこの妻に電話をかけて、なんか凄い、親友っていうか、同志っていうか、そんな感じなのだ。

いやさ、フツーならば、凄いそういうの素敵!て思うんだけど、この設定だと……微妙。最初から異性の友人同士ならステキと思うけど、彼女は彼を夫として愛していたんでしょ、彼が、子供までもうけた夫が突然ゲイだと宣言して離れて、葛藤がなかった訳がない。
まあそりゃあ、そりゃあね、この物語にそんなことに割く尺なんてないわさ。それは認めるさ。でも、ならば、こんなの入れないでよって思う。だって都合良過ぎじゃん。これじゃバカみたいじゃん、奥さん……。
ちょっとだけ、ちょっとだけ彼女の葛藤を入れておけば、元夫と親友みたいな存在になって今でもつながっている、というのも素直に受け入れられたと思うんだけれども……。

まあ、それはとりあえずいいや。だってこれはスティーブとフィリップの物語なんだもの。ていうかさ、フィリップ・モリスって、タバコの名前だよね。この話、どこまでホントなのって思うんだよね。まあそりゃあ……名前は変えてるか。でもタバコの名前にしてたりすると、ミョーに気になっちゃう。
私は正直、スティーブの出自の話もリアルにホントなの??とちょっと怪しむ気持ちになっちゃうんだけど……だってこういう後付けって、いかにもアメリカが好きそうじゃん……いや、本当ならゴメン(爆)。
でもこの設定って、そういうトラウマがある人間が犯罪者になるって言ってるみたいで、それはフォローじゃなくて差別のように思えてさ……なんか、ただ、意味もなく、理由もなく、トラウマもなく、ただ、詐欺師、って方がカッコイイ?ような気がしたなあ。

まあ、なんたってこれは“愛”の物語なんだから、カッコイイも何も関係ないっちゃないんだけど……。でも、確かにこれは“詐欺師の男の物語”が前提だったんだろうなあ、と思わせるほどに、詐欺描写はスゴイんだよね。
まあ、ね。学歴や職歴をゴマかすっていうのはあるかもしれない。でもそれを、超一流企業に入る時にやってさ、“かつての同僚たちへの裏づけ”に、彼自身が声色を変えて電話に出て、“自分自身”を絶賛するという!
いくらなんでもキャリアのない仕事にどうするのかと思ったら、“助手”を雇って自信満々のプレゼン!100パーセントこの助手が考えて作り上げたプレゼンに違いないけどさあ!
でもこのキャスティングがスティーブの才能だよね。だってそれで、それプラス状況や相手を見てアイマイな答弁を繰り返すことで(政治家みたいだ……)弁護士にまでなりすまし、法廷での抗弁さえクリアしちゃったんだもの!

……ほおんとにね、こうやってひとつひとつ取り上げてみると、スティーブのやったことはほおんとにとんでもないよ。
実際、それだけで充分映画は成立するし、実際成立しているとは思うんだけど、実際の実際は……ユアンのあまりの、かわゆさなのだよなあ!

ユアンはこの自分のかわゆさを自分で判って、この役に臨んでいるのだろうか?なんてことを知りたくなるほど、あまりにもピュアに恋する青年になっちゃってるんだもん!
いや、彼ももういい年で、もともと太りやす系な彼は、可愛くお腹がぽっちゃりしてたりするんだけど、それでさえ、愛しいッ!
彼はね、そりゃあね、こんな男に一度はアイソ尽かすんだよ。刑務所時代から波乱万丈だった。吠え男への暴力指示疑惑でひっくくられ、棟の外に出されるスティーブを、それまで弱気で出られなかった中庭に出てまで追いかけるフィリップの、その涙ながらの、そしてそして、思いを通じ合ってソウイウ仲にまでなっていながら言っていなかった「愛してる!」の言葉を、護送されるバスに乗り込むスティーブに投げかけるあの感動!
そう、そこまで、あんなチョメチョメしていながら言っていなかったんだよね。それはやっぱりお互いに世間に対する、自身のゲイというアイデンティティを臆する気持ちがあったんだろうか。特にこんな、刑務所っていうマッチョな社会ではさ。

一度はね、超ハッピーエンドになりかけるのよ。受け入れ弁護士に扮してフィリップの釈放をでっちあげたスティーブ。そう、この時にはフィリップも無邪気に抱きついて喜んでいたんだよなあ。
でも夢のような生活が現実のものとなり、スティーブが接待ゴルフ(こんなん、アメリカにもあるのか……取引先じゃなくて、上司だけど)やらパーティーやらにばかり興じていることに寂しさを募らせてくる。
「僕に隠し事はないよね?」その言葉は男のカン?ではなく、スティーブの本質を見抜いた、ってことだったのかも。
結局スティーブの横領が明らかになり、フィリプまで共犯でひっくくられた。愛を言い訳に勝手なことばかりするスティーブにアイソをつかして、一度は別れを告げたフィリップなんだけれど……。

スティーブは末期のエイズに冒される。それが冒頭、もはや死にそうにガリガリになっているスティーブなんである。
ガリガリにやせ衰え、ゲーゲー吐き、医師に余命わずかだと告げられ、余命わずかの患者が暮らすケアハウスに移設されるスティーブ。
その事実を知ったフィリップが「まだ怒ってるよ。でも、愛してる。離れていても、僕は永遠に君のものだ」と電話口で言う。
“離れていても、僕は永遠に君のものだ”!!!もー、なんてなんて、完璧な台詞なんすか!ウソばかりつき続けたスティーブへの許せない思いを抱えながら、こんな台詞を、極めつけの台詞を言っちゃうんだもんなあ!

医者も看護師も書類作成の事務方も、すべてをだまして、フィリップもスティーブが死んだと聞いて涙に暮れている時、彼に面会がくる。誰だろうと考える暇もないまま連れて行かれ、ドアを開けると、そこにスティーブがいるのだ!!!
観客もまた、彼が死んだものと思っていたから相当ビックリする。だってだってだって!フィリップからの電話に息も絶え絶えになりながら、超感激して泣き声も出す力もないまま涙をとめどなく流してたじゃん!私超感動したのに!つまり痩せすぎて、お腹すいて、体力なかっただけかい!ヒドイ!

……まあそりゃあ、彼がフィリップにもう一度会いたいがためだけに、時には死にかけの病状を示すために薬を大量に飲んだり、まさに命がけだったのだけれど。
でもそれは、彼への愛を証明する“フリ”に過ぎなかった気もちょっと、するかなあ……。
あまりにも、映画的動機付けとして強すぎて。
そりゃあね、死んだと思わせたなんてあまりに極端な手を使ったスティーブに、本気で悲しんでいたフィリップは激怒し、「ただ君を愛する男になる」という彼の台詞の証拠を示すように言うのさ。
それに対してスティーブは「……ない」と困惑したように、しかしきっぱりと言う。でもそれが、その真摯さにスティーブの愛を確信したのか、フィリップは抱きついちゃうのよねー。そりゃここでうるっともきたし、フィリップの純粋さにヤラれもしたのだが。

この後の彼らが端的に示される。結局スティーブは終身刑、フィリップの穏やかな笑顔が挿入された後、またしても脱獄を試みる場面でやけに陽気に物語は幕を閉じる。
私はただ、ただもうただ、スティーブを愛するフィリップの一途さと葛藤にうるうる来るばかりだったのだが……。★★★★☆


武士道シックスティーン
2009年 109分 日本 カラー
監督:古厩智之 脚本:大野敏哉 古厩智之
撮影:清久素延 音楽:上田禎
出演:成海璃子 北乃きい 石黒英雄 荒井萌 山下リオ 高木古都 賀来賢人 波瑠 古村比呂 堀部圭亮 小木茂光 板尾創路

2010/4/27/火 劇場(池袋シネマ・ロサ)
まさに、古厩監督にハズレなし。いやー、彼は今や、少年少女成長物語映画の担い手だわよね!ことに少女のキラメキにバツグンの手腕を発揮する。かつてそのジャンルで腕をふるった某監督がもう永遠に帰ってこないであろう(死んでないけど)ことを思うと、今後も彼には大いに期待したいところなんである。
しかもイイのは、少女映画でありながら、甘さがないところ。いい具合にドライで、でも冷たいわけじゃなくて、颯爽と風が吹いている。そんな感じはあの「ロボコン」でもあったなあ。女の子のカッコ可愛さが凄く上手いと思う、ホント。

そう、今回その恩恵に預かったのは、まぎれもなく成海璃子嬢。両主演と言える北乃きいちゃんもこれまでの彼女とは全然違うと思うほどの、キラキラとまぶしいほどの生き生きとした魅力があったけれど、成海璃子嬢に関しては、……ほおん、彼女はようやく、ハマリ役と言えるものに辿り着いたんではないだろうかと思ってしまったほどである。

彼女はね、決して器用なタイプの役者さんではないと思うのよ。ただ本当に得難い、骨太の存在感がある。ジャンルで分ければ、役所広司ではなく、高倉健みたいな??
それがね……本作ではほおんと、ピタリとハマったんだなあ。それこそ北乃きいちゃんは分ければ役所広司の方だと思う。このバランスが良かったのはだからかもしれない。

「武蔵みたい」にオットコマエな磯山さんにホレこんでチョコマカとくっついて歩き、試合で打ち込まれると怯えて逃げ回るのに、その逃げ足の足さばきに才能があって「どうしよう、勝っちゃった」なんてはしゃぐような、そんなカラフルな、ザ・女の子を、メチャクチャ生き生きと演じて、え?北乃きいちゃんてこんなに達者な役者さんだっけ、などと思う。

その彼女を相棒に迎えて、成海璃子嬢はまさに高倉健のようにその存在感でスクリーンを圧倒する(なんたって「武蔵みたい」なんだもん)。
女の子らしくはしゃぐなんてことはこれまでの父親の厳しい教育で考えられなかったから、磯山さんにキャピキャピつきまとわれると困惑しながらもその魅力にあらがえず、そしてその中で剣道一筋に生きてきた自分ですら気付かなかった、剣道への愛を見い出していく……うーん、じっつにストイックな高倉健なのだわ!

でもね、確かにこれは熱血スポ根モノであることは確かなのだけれど、その一方でコメディとも言えるんだよね。璃子嬢は今回、確実にコメディエンヌとしての才も発揮したと思う。
コメディに初挑戦した「罪とか罰とか」では、まあ物語自体がちょっとムリがあることもあって、彼女が頑張れば頑張るだけカラ回りしてしまうような印象は否めなかったんだけど、今回は、うーん、ここはやはり演出力の差かなあ(爆)。

スバラシイんだよね、彼女のコメディエンヌっぷりがさ!冒頭、西荻さんとの試合のシーン「同学年の子に初めて負けた」屈辱に震えるという、まあシリアスなシーンなんだけれど、ここで初めて見せる磯山さん、つまり璃子嬢の「ヤー!!!」とかける、気合いというより威嚇に近い、目をガッと見開いた咆哮の表情には、あまりの思い切りの良さに、威嚇におびえるよりも噴き出してしまう……のは、間違ってないよね?(爆)。

まあ勿論、対戦相手で明らかに格下である西荻さんはもうひたすらビビリまくってしまって、「ヤー」の掛け声も弱弱しいことこの上ないのだが……。
でもさ、この時だけじゃなくて、ホントに西荻さんが強くなって、スランプに陥ってしまった磯山さんを引っ張り出すための“果たし合い”の時も、磯山さんのヤー!!!はあいかわらず凄い迫力で、西荻さんは、おびえる事はなくなったにしてお、ヤー!ぐらいで、やっぱりその気力は磯山さんには遠く及ばないのよね。
そしてこのシーンでは勿論、その気迫顔に噴き出すなんてこともなく、それどころか、泣いちゃうの、もうボロ泣きなのだ。
剣道が好きなのに、剣道だけに縛られてきたから、その愛に気づけなかった磯山さんが、その愛と、そして友情にも気付いたシーン……。

……あーまたしても突っ走ってしまった。でもでも!そうせずにはいられない愛すべき作品なのよ!!
そもそもね、そう、もう判っていらっしゃると思いますが、これは剣道に邁進する女子高生の映画。物語は15歳の時から始まる。
中学生の時、無敵だった磯山さんをウッカリ破ってしまったシロート同然の西荻さん。西荻さんの方は「どーしよー、勝っちゃったあ」ぐらいのはしゃぎようで、その“勝っちゃった”相手が中学生チャンピオンだなんてことすら思いもよらないぐらいだから、つまりそれぐらい弱っちい選手、少なくとも自他共にはそう思っていたのだ。

でもそれまで負けるということを知らなかった磯山さんの方は、そうは行かなかった。負けた相手は倒す、というか斬る(完全にサムライ、というより殺し屋気質だ……)ことしか頭になく、そのために、中高一貫で殆んど外部の人間が来ることのないこの高校に入学してきた。
中学チャンピオンの磯山さんには高校からのスカウトは引く手あまただったに違いないのに、西荻さんを倒すためだけにここにやってきたのだ。

と、言うわけだから協調性なんてある訳もない。入部して早々の勝ち抜き戦で部員たちを次々に倒し、面越しの西荻さんを見て「見つけた!」と高揚するものの、期待に反してのあまりの弱さに磯山さんは失望し、こんなヤツに私は負けたのか……と歯噛みする。
顧問の先生から「折れる心も必要」と説かれても「試合は殺し合い。折れる心なんて私には必要ない」という態度を崩さない。
先輩も容赦なく打ち据える彼女は、浮いているというより、もはや鬼神の様に恐れられる存在になってしまったんだけれど、西荻さんだけは、そんな磯山さんにキャピキャピと付きまとうのであった。

磯山さんも西荻さんも、双方結構フクザツな家庭環境なんだよね。磯山さんは厳しい父親の元に、兄と彼女との三人暮らし。
この厳しい父親と子供たちの間に入ってくれていたであろう母親を亡くしたのは、そう遠くない時期と推測されるのは、見るからに子供たちと父親との間がぎこちないことと、兄が用意する夕食がリゾットだのニョッキだのクスクス鍋だのと、あまりにもチャレンジ精神豊富なことで察せられる。
まあこの兄もまた剣道一直線だったのが、それこそ妹と同じように負けてしまい、それまで彼をリーダーに崇め奉っていた後輩や周囲からの冷たい視線に耐え切れずに辞めてしまったことで、このベタベタに剣道オンリーな家の中では主婦としての役割しかない、ということなんだろうけれども……。

このお兄ちゃんが、このまま剣道辞めっきりなのか、この物語の中だけでは判らない。ただ彼は妹と西荻さんが生き生きと稽古している様子を見て、妹があんなに楽しそうに(と見えたのはお兄ちゃんならでは。客観的にはキャピキャピの西荻さんにムキになっているように見えるんだけれど、ムキになることすらなかったってことかも)剣道しているのを初めて見てさ、多分、思うところはあった筈、なんだよなあ。
お父さんの笑顔が見たいばっかりに、必死に剣道していた過去を振り返りしんみりする兄妹、今、妹がそれだけが理由じゃない、真の剣道への愛を見つけつつあることを、お兄ちゃんはまぶしく眺めているんじゃないかと思うんだよね。

そう思うのは……彼を倒した剣道界のアイドル、岡君が、彼がどうしているかをとても気にしているから……。偶然にも(偶然過ぎるが、こういう世界は意外に狭いということだろうか)、岡君のカノジョは西荻さんのお姉ちゃん。
大会で磯山さんを見つけた岡君は、お兄ちゃんのことを尋ねる一方で西荻さんのことを「いい剣道してたね」と褒めるんである。
この時、磯山さんは西荻さんと剣道への取り組み方でぶつかっていた時期で、その口論が元で手をケガしてしまった。腕一本で何とか勝ったものの、その後の試合に出れずに西荻さんに後を託す。
自分が仕込んだんだから、という思いもあっただろうけれど、その期待以上に西荻さんは見事に勝ち、勝利の喜びを素直に味わう。その姿を見て、磯山さんはそれっきり、部活に姿を見せなくなってしまうのだ。

で、そうそう、ウッカリ話を進めてしまったが、西荻さんの方も結構複雑な家庭環境なのよ。
現時点で、西荻さんちには父親がいない。まるで死んでしまったかのように写真に向かって語りかけるけれど「それじゃ、死んでるみたい」そう、つまり死んでないんである。
技術者で、結構な研究を手がけたにも関わらず、元来のおしゃべりでペラペラ喋っちゃった結果、それを横取りされて裁判沙汰になったものの全部敗訴、借金地獄になって、家族の前から姿を消した。

それでも写真を飾っていたり、「研究している姿はカッコ良かった」と娘と母親とがネー!と意気投合している姿を見ると、家族としての仲は決して悪くなかったことが察せられる。
お姉ちゃんはドライで、お父さんのことを甲本さん、などと呼ぶ。まあ今は母の姓を名乗っていることもあるにしても、随分な扱い、とこの時には思うんだけれどね。
でも、その後お父さんがアッケラカンと現われ、元のさやに戻り、彼の研究にお金を出してくれる企業があるということで家族が九州に引っ越す、てな話が出て反発するかと思いきや「しょうがないなー、甲本さんは」従っちゃうんだから、そのドライな表情の下では、ちゃんとお父さんとして認めているのが察せられてちょっとグッときちゃったり、するのよね。

おっと、“フクザツな家庭環境”を説明するのに、随分掘り下げちゃったけれども(爆)、一見対照的でも、そんな部分が共鳴したのかもとも思わせる、そう、それだけ対照的なんだもん。
でもね、このキャピキャピ娘の西荻さんに完全に引きずられる磯山さん=璃子嬢はほおんと、カワイイったらなかったなあ。
もうね、西荻さんは、ストイックな磯山さんに最初からひと目惚れ状態な訳。出会い、というか、高校入ってからの初めての邂逅は、友達二人とはしゃいでいた入学式の日、磯山さんにぶつかって西荻さんがあの調子でキャアと倒れたんであった。
ギラリと睨みつける磯山さんに三人は震え上がり、しかしそのコワい風体ながら磯山さんは西荻さんにサッと手を差し伸べて立ち上がらせ、颯爽とその場を去った。

竹刀袋を持っていたから剣道をやるのだとは察せられたけれど、その竹刀袋の絵柄が般若だったことから二人の友達はただただ怯えるばかり。
磯山さんは、違ったんだよね。手を引いてくれた時から、もう目がハートマーク。休み時間に本を読みながら片手はバーベル持ち上げてるなんていう、ギャグとしか思えないシーンですら、「カッコイイ」とメロメロ。しかも読んでいる本が兵法書の「五輪の書」だってんだから!
後々、自分がこのオーラバリバリの中学チャンピオン、磯山さんにウッカリ勝ってしまったことを知っても、それはマグレだったと断じて、西荻さんはこのオットコマエな磯山さんに「もう、待ってよー!」とばかりにキャピキャピついてまわる。
ケーキの食べ放題に行ったり、カワイイ靴をオソロで買ったり、ゲームセンターで遊んだり、プリクラ撮ったり、女子高生!!!って感じを満喫するんである。

そのどれもを磯山さんが、今までの武士道的精神で是が否かを判断するのが、可笑しくも微笑ましいんだよね。
恐らくケーキをこんな大量に食べたことすらないんだろう。ていうか、ケーキ自体食べたことあるのか??という位の磯山さんの目の開きっぷり(爆)。
「甘いものを食べると身体が鈍くなる」と渋る磯山さんに「甘いものを食べなきゃ頭の働きが鈍くなるんだよ」と西荻さんが言って、オドロキに目を見張る磯山さん(笑)。
「ここは食べ放題がウリなんだから。食べ残しちゃダメなんだよ」「てことは、食べるのが義務なのか?」「そうそう」
そう聞いた途端。せきを切ったように手づかみでむさぼり食う磯山さん(爆笑!)鼻の下にクリームまでつけて、もー、璃子ちゃん、カワイすぎるっての!!

ハイパーホッケーにムキになる璃子ちゃん、いや、磯山さんもカワイかったなあ!ことごとく西荻さんが勝つんだけど、それってつまり、一見ヘタレな西荻さんが、なんで磯山さんに勝てたかってことを上手く示してるんだよね!
それこそ、そう、甘いものから始まるのよ。頭の働き、つまり身体の動きではなく頭、動体視力、反射神経が西荻さんは優れてる(そりゃまあ、甘いものを食べてる、ってだけじゃないだろうが(爆))。
それまでとにかくストイックに身体を鍛え、剣道としての動き、つまり剣道としての反射神経は身につけていただろうけれど、そうじゃない、予想外の動きを西荻さんは持っててさ、それはつまり……フツーの女の子として培われたもの、なんだよね。

西荻さんの才能を見い出して、本格的に自分の道場に、とスカウトするものの拒否されて、言い合いになって西荻さんが磯山さんを突き飛ばす形になってしまう。
手をケガするも、片手で何とか勝利できたのは、磯山さんがこれまでありえないと思ってきた「引く」ことを、西荻さんが必死に応援席から訴えたから。
西荻さんの武器は、相手の勢いに怯える形で引きまくり逃げまくり、それで相手にスキが出来た時に打ち込めること。それで磯山さんも西荻さんに中学時代負けてしまった。

でも違うんだよね。一見マグレのように見えるそれは、作戦としてみれば非常にしたたか。純粋でまっすぐで、実はそれゆえに弱いのは……一見、鬼神の様に強い磯山さんの方なのだ。
だから、折れた時は修復の出来ようのないほど、ボキリと折れてしまう。西荻さんのような、最初から自分を低く設定している女の子は、ゴムのように柔軟で、簡単に折れるけれども、しなやかに強靭で、復活が早い。
そう、あの顧問の先生が言うとおり、折れる心を知らなければ、真に強くなれはしないのだ。

色々考え込んでしまって、部活にも自宅の道場にもすっかり出てこなくなってしまった磯山さん、西荻さんは自分の家庭の事情で翻弄される中でも、磯山さんのことや、自分が真に剣道のことを好きなのか、という葛藤に向き合って、逃げ回っている彼女とぶつかるのね。
もう一度一緒に剣道やろう、というだけじゃ心を開けない。そう、一度はマジなケンカにもなりかけるけど、それだけじゃダメで、二人は決裂しかける。
でも、結局西荻さんはほおんと西荻さんでさ、女の子でさ、「ゴメン、来ちゃった」とかつてキャピヤピと遊びに、いや稽古に来ていた磯山さんちに押しかける。部屋にこもって出てこない磯山さんに語りかける。

そう、ストイックだと思うのはこのあたり。まるでじらしみたいに、こういう展開になるだろう、てところでそのままアッサリと終わってしまうシーン運びっていうのが多くてさ。
このシーンも、バン、とドアを開けて西荻さんを追いかけるのかと思わせるぐらいの充分な間をとりつつ、あっさりと次のシーンにジャンプしてしまう。
そんな、知らん顔して思わせぶりに提示するような感じが結構あって、なんか勝手にドキドキしちゃうのだ!剣道の練習シーンも、頭に手ぬぐいを巻く段取りを粛々と見せたり、なんともストイックなんだよなあ。

そして、あの、もう大泣きの“巌流島の決闘”の場面!
果たし状をバンと突き出した西荻さん、初めて自分と剣道に真剣に向き合い、父親とも向き合い、決して父親に従うだけが剣道を続けた理由じゃなかったことを悟った磯山さんが走って走って決闘の場へと向かう。
いつも二人で高台から眺めたそこは、町が海のように見える、そう、巌流島みたいだと、西荻さんが言った場所だった。

「遅刻。やっぱり武蔵だね」とニッコリと笑う西荻さん。初めてこの場所で立ち会った時みたいに防具もつけずに向かい合い、お互い面と胴を喰らって「いったー!」「いってぇー!」と叫ぶその生々しさに、しかし思わず微笑ましくて泣き笑いしてしまう。
「小次郎、強くなったな」「あら、私はもともと強いのよ。気づかせてくれてありがとう」「どう致しまして」
そこにいるのは怯えてばかりの西荻さんではなく、勝つことだけが全てだった磯山さんではなく、そしてまるでまるで、そう楽しくて仕方ないみたいに、真剣かつほがらかな面の打ち合いのラリーを引きで見せるのには、もうボロボロ泣きすぎてしまう!!

そして、折れる心を学んだ磯山さんは、付き添った西荻さんと共に先生と部員たちの前で深く頭をたれ、本当の仲間となる。
何よりイイのは先生は勿論、こんなナマイキな後輩に幅をきかされていた先輩たちも、彼女の強さをひがみなく受け止めてて、素直に戻ってきた気持ちをキチンと受け止めるところ、なんだよね。
もー、それだけでそれだけで超泣いちゃうんだもん!それがそれこそがなんとも武士道、なんだよなあ!

そんなことで無事インターハイをベストメンバーで闘い、完全燃焼した。写真一発なのに、その思い出がいかに宝物になったかがこれ以上なく提示された。
でも、父親についていく西荻さんとは別れが待ち受けてる。それもね、あの決闘シーンで言ってたのだ。「そんなこと、関係ない。剣道をやっていればいつでも会える」
……もう、もうもうもう!この台詞一発でブワー!と涙があふれたけれど、そう、連絡を取り合うなんてふやけたことをせずにね、本当にこのコトバを現実にするってのがステキすぎるのよ!

そう、この長いメインシークエンスには「16歳」のタイトルがついてる。
そして「17歳」次のインターハイの場面が示され、大会パンフレットを手にした磯山さんが「西荻、西荻……いねえじゃねえかよ!」と毒づく。
そこに階段から何本もの竹刀を抱えてたたたと降りてくるその後ろ姿は、あまりにも見覚えが!「今は甲本なんですけど!」聞き覚えのある声に振り返った磯山さんの目に飛び込んだ、あの無防備な笑顔!

「ややこしいんだよ、オマエ!」弾かれるように笑った西荻さん、いや甲本さんは、やっぱり磯山さんだ、と笑う。
磯山さんはね、それを受けて、初めて早苗!と名前の方で呼ぶんだよ。もうこれにもギューッと胸をつかまれたなあ!
そして「負けたらぶっ殺すぞ!」甲本、いやさ早苗はニッコリと笑い「決勝戦で」と返し、磯山さんも笑顔で返し、二人は背中を向けて歩き出す。

なんって、なんって、ストイックで、なのに友情で、そう武士道なの!ああ、確かにまさに、武士道シックスティーン、いやさ、もうセブンティーンなのだわさ!!!

女の子で苗字のさん付けと苗字の呼び捨て、という組み合わせも萌えたが、それだけに磯山さんが早苗!と呼んだ時の萌えっぷりには筆舌に尽くし難いものがあった。
もうもう、少女映画はこうあるべき。璃子嬢、今度は書道少女だって?ま、またしても……はかま姿が世界一似合うもんね、ホント!!★★★★★


武士の家計簿
2010年 129分 日本 カラー
監督:森田芳光 脚本:柏田道夫
撮影:沖村志宏 音楽:大島ミチル
出演:堺雅人 仲間由紀恵 松坂慶子 草笛光子 西村雅彦 伊藤祐輝 藤井美菜 大八木凱斗 嶋田久作 宮川一朗太 小木茂光 茂山千五郎 中村雅俊

2010/12/10/金 劇場(有楽町丸の内ピカデリー)
時代物は決して得意ではないんだけれど、ここ数年は上司が読んでは投げ捨てる軽めの時代小説を、もったいないからともらいうけて読んでいるので、すっかり読書生活が時代小説一辺倒になっていて、歴史が苦手だから時代物も苦手、という以前の頑なさはなくなったようにも思う。
まあつまり、歴史物ではなく時代物、時代に題材をとったエンタメ小説であるから、男子が好きそうな浪人や岡っ引の物語も楽しいけれども、下級武士や市井の人々を描いた物語には特に心惹かれるものがある。やっぱりそれって、ホームドラマだからなんだなあ、と本作に接して改めて感じ入った。

本作はまさに、それだったから。武士といえども町人と変わらないような、というか、つまらぬ見栄や体面がある分、町人よりも厳しい暮らし。つましさが切なく、そして美しく、時に微笑ましかったりもする。
そして本作の時代はなんたって幕末。加賀藩という、大都会の江戸からは遠く離れた場所なれど、黒船来襲に薩長藩の動乱といった動きは、彼ら下級武士にも大きく響いてくる。

本作の語り部は、主人公、猪山直之の息子であり、冒頭からもう、武士の時代とは遠く離れた、ピシリとした洋装の軍服でキメて、背もたれの高い椅子に座って部下に指示を出している。
しかしその手にしているのはそろばんである。自らがそろばんをはじき、この幕末の動乱を乗り切った。その教えは、猪山家が代々引き継いできた“お家芸”だった。
一度は、そんなことではこの動乱の世の中を変えられない、と反発した息子も、このそろばんの腕で、父から教えられたその才覚で、乗り切ったのだ。

と、いうのは、最初に示されて、最後にそこに戻って終わる。本身は、その息子に教え込んで、武士のまま静かに生涯を終えた、猪山直之の話である。
原作は、この実在の人物、猪山直之が残した家計簿や日記や手紙によって、想像力を駆使して再構成された家族の物語。
武士が家計簿をつけていたというインパクトと、それが示す赤裸々な下級武士の日常が本作を生み出したのだけれど、それらが発見されたのがまさに今の時代というのが不思議なほどにリアリティがあって、まるでその時を待っていたようにさえ感じる。

イクメンなどという言葉が登場するほどにまで、家庭を大事にする男子こそがイケてるんだという時代に“なってしまう”ぐらい、世の中の不景気は進んだ。
いや、私は、その傾向は大いに結構だ、というか、その方が全然自然で健全で健康的でしょ、とは思う。ただ、今まで連綿と続いてきた男子たるもの……という日本社会の意識を考えると、不景気が招いたことかもしれないとはいえ、ようやく日本も変わったか、と一抹の感慨を覚えずにはいられないんである。
でも、きっとどの時代にもそういう価値観を持っている男子はいただろうし、むしろ、男子たるもの……に押し込められることに窮屈に感じている人もいたかもしれない、と思う。

まあ、本作の主人公、直之は別にイクメンというほどではないし、家事をやる訳ではなく、ただそれまでほったらかしにされてきた家計を一手に引き受ける訳なんだけど、でもそれだって、主婦の仕事だ、とこの日本社会はずうっといってきた訳じゃない?亭主のこづかいの額が、その家庭の余裕具合を示していたりしてさ。
でも本作は、商家から嫁いできたお駒が家事をやろうとすると、体面を重んじる姑からたしなめられるし、つまり、その日本社会の中で振り分けられてきた女の役割さえ奪われる訳でさ。
刀を差していてもそれを抜くこともない、そろばんこそが命である算用方である彼らも、武士であることを重んじ、外への体面を気にしていた。故に借金が膨らんでいることを直之は知って、呆然とするんである。

それこそ時代小説を読んでいると、武士が借金まみれというのは実に毎回のように出てくるぐらいで、それが故に歴史上にも悪法の聞こえの高い棄捐令などが登場する訳で、決して珍しいことではない、というか、殆んど常識のような感じ。
エバっているほど内情は豊かじゃない、見得や体面で出て行く金の方が多い。親戚縁者はもちろん、各方面へのツケや、町人からの借金も細かく重ねているのが、あの当時の武士たちの普通の姿だった。
だから別に、猪山家が特別にそうだった訳ではない筈。ただ、直之がそのことを知らず、その窮状がどれだけ大変なことかどうにも判っておらず、かなりぽやーんとしている両親に業を煮やして、自ら家計を立て直すことを決意して家計簿をつけ始め、それが今日になって発掘されたことでこのような物語が紡がれた訳だけど、実はこういう物語は、どこにでもあったのだろうと思う。

それに、“ぽやーんとした両親”てのは、あくまでここまで借金を膨らませたことによって想像された創作に過ぎないしさ……。
でもその“ぽやーんとした両親”特に、お気に入りの友禅を手放したくなくて「いやじゃ、いやじゃ」とダダをこねる母、松坂慶子の可愛さときたら、なかった。
この人はいくつになっても無邪気な少女のようなこういう可愛らしさが、まったく違和感なく似合う。うらやましいような、うらやましくないような(爆)。
そのダンナが、色男だけど、それだけにどこか厳しさに欠ける印象(ゴメン!)の中村雅俊というのもピタリだなあと思う。なんとも癒されるのよね、この二人には。

いやいやでも、癒されるなどと言っている場合ではないんである。なんたって年収の二倍の借金!直之は得意のそろばんを弾き、家中の家財を売り払って、まずは身軽になるべきだと訴える。
それでも嫡男の着袴の祝いで、親戚へのお披露目にかかる費用がとてもまかなえない。そこで直之は一計を案じ、ふるまう膳の鯛を睨み鯛(絵に描いた鯛)にすることを決めるんである……。

そろばん侍”ってのが、御算用者、という肩書きの武士であると知った時、私がとてもハマって読んでいる六道慧氏の「御算用日記」シリーズを思い浮かべずにはいられなかったんである。なもんで、もう最初っからすんごい親近感があった。
六道氏の御算用者は、幕府お抱えで、財政の傾いた藩を陰ながら立て直すという、御算用者という地味な立場ながらも実はすごいエリートであるんだけれど、でも自身はハデな姉二人が作った借金に首が回らなかったり、市井のささやかな相談に知恵をひねったり、そう、仕事も私生活もそろばんと知恵で切り抜ける、心優しい主人公なのよね。

本作の直之は一介の算用者だし、窮乏に苦しんでいる民に供出するお助け米を横流しして私服をこやしている藩の不正を、それこそそろばんひとつで暴こうとしても、あまりに非力で左遷されそうにもなる(逆に全てが明るみに出て、出世するんだけど)。
それに、何より彼が活躍するのは、傾いた家計を助けることであって、世のため人のためな訳じゃ、ないんだよね。
直之の指示によって倹約生活に入ってからは、あの睨み鯛以上に傑作なエピソードが沢山ある。かつては豪華なおかずが詰められた愛妻弁当にうらやましそうな視線を向ける同僚に「奥の手作りですから」とこれまた誇らしげに言っていた直之。

しかし、弁当箱までも売り払ったため、弁当は竹皮に包んだにぎりめしとふかし芋だけ。思わずかける言葉を失った同僚に「奥の手作りですから」という台詞は同じで、ふと観客の笑いを誘うけれども、でもこれが意外と、口調は変わってなかった気がするなあ。おちゃめな雰囲気を残しながら、一貫して泰然としている直之に扮する堺雅人が素敵である。
可哀想なのは直之の父、信之の方で、昼休みに一緒に碁を指す同僚に「我が家には弁当箱が余っておりまする故、明日持ってまいる」と気を使われる有り様なんである。うろたえたか、信之がボトリと食べていたふかし芋を碁盤の上に落とすのは、もう見ていて涙ぐましすぎる(笑)。

そうそう、父と直之は碁を打つのが常なのだが、その碁の一式も売り払ったがために、紙に書いた碁盤と、碁石は白と黒の貝殻(黒は、しじみだろうな……)で代用しているのも、実に涙ぐましい。形も大きさもバラバラだからさあ。
それまでは優雅に長煙管を使っていた母も、せかせかと短い煙管をかがんで吸っているのがなんとも哀感があるというか、可愛らしいのよね。
松坂慶子のこの可愛らしさはなんなんだろ。容赦ない直之に「鬼のような息子じゃ」とつぶやくのも実に可愛いんだよなあ。

さて。そうそう、直之の妻、お駒は絶世の美女、仲間さん。彼女の父親、与三八は道場の師範代なのに、“剣はからっきし”な直之が気に入って、とんとん拍子にことは進んだ。
この与三八を演じる西村雅彦もイイ。体面上は武家である猪山家に対してもへりくだらず、世の中のこととのギャップに悩む孫の直吉(後の成之)に、のほほんとアドヴァイスを与えるんである。直吉も彼にべったりで、与三八、と呼び捨てにするもんだから、周囲からたしなめられるほどなのが実に微笑ましい。
しかも与三八は成之だけじゃなく、成之に授かった子供、つまりひ孫の顔見たさにもいそいそと出張ってくるのが実にイイのよね!

この時、成之は父と衝突して、新しい世界に飛び出しているから、余計に与三八の存在は救いになる。加賀藩は時代の流れに逆行して幕府と共に共倒れになりそうな状況だから、今や引退した直之やその妻も気が気ではなく、与三八が商人で、藩以上に世俗の噂や情報に通じていることが頼りになるんである。
なんかね、こういうのも、今の時代に通じているような気がするなあ。お上より、庶民の情報の方がずっと早くて正確で、そして容赦ない、と。それこそウィキリークスじゃないけどさあ。

えー、またしてもかなり先走っちゃいましたけど。話を戻す。初夜から寝室でそろばんを弾いている直之に驚いているお駒に、出世は望めないそろばん侍だが、それでいいか、と直之は問う。困ります、と言ったらどうするのですか、とちゃめっけたっぷりにまぜっかえすお駒。
商家の娘らしく、女中に任せず家事を切り盛りし、最初から武家の見得や体面などない彼女の存在こそ、直之が思い切った建て直しに出られた頼もしい存在だったのかもしれない。
長男、長女と子宝にも恵まれ、借金もきれいになってこれからという時に、父、祖母、母と相次いで亡くなってしまう。
そんな時でも葬式費用をその日のうちにと記す父親を苦々しく思うほどの年齢に、長男の成之は達していた。

代々続く御算用物を継ぐ者として、父の直之からは殊更に厳しく躾けられた。台所方の入出金帳簿を任され、お金が合わないと雨の中でも夜の闇中でも放り出された。
さすがに母のお駒はそんな息子を不憫に思って、この時ばかりは仲の良かった夫婦の間にも亀裂が入りそうになる。
やはり、母となった女は違うのだと、後に成之が出兵先で不慮の死を遂げたかもしれない、との報が届いた時に取り乱した彼女を見て、更に思う。しかも彼女はとりなそうとした夫に、あの時夜の闇の中に我が子を放り出したではないかと、夫を責めるのだから……。

で、まあ、そう。ちょっと脱線したけれども。この作品の主題はなんたって、その倹約生活にある訳で。
お嫁に来た当初は、台所仕事に表立って出てくるべきではないと姑にたしなめられたお駒、近所にも驚かれたぐらいなんだけど、もはやその近所にも、奉行所にも、恥じも何もかき捨てて借金を返すために裸同然になるまで売り払ったことが知れると、もう遠慮する必要もないんである。
冬場安くなる鱈を一尾まるごと買い、焼き物、アラの吸い物、白子の酢醤油、昆布締め、とさまざまにバリエーションを凝らして食卓に出せば、白子!昆布締め!高級料亭じゃん!と言うほどに、実はその方が贅沢な味が楽しめる訳なんである。
不正米の摘発に陰ながら尽力していたことが認められて、殿のおそば近くに仕える異例の出世を遂げていた直之は、妻のこのアイディアを殿の食卓にも応用、「明日は昆布締めか。余の好物じゃ」と、周囲の心配をよそに、おすみつきを頂くんである。

この、“明日は”ってあたりも絶妙なんだよね。一尾のタラから今日はこれだけの献立が仕上がり、そして今日仕込んだ昆布締めが明日には美味しく仕上がります、という、このワクワク感。
決して高価な魚ではない一尾の鱈を食べ尽くす、食材への深い感謝の気持ち。日本の魚食文化の素晴らしさは、ここにあるんだもん!
んでもって、この殿を演じる山中崇も良きね♪ 彼が殿って、かなり意外な気がしたけど(失礼!)、ちょっとアマノジャクな?風貌と、しかし、根底に純粋さや無邪気さをたたえているような雰囲気がこのお殿様に実にピッタリなんだな!

そろばんが、つまりは数字が、全てを示す、家族や友人、あるいは国家の愛さえもそこに示されるかもしれない、というのは、数学を愛する人は実はそうなの!と、意気揚揚と語るかもしれないし、そしてそれは、確かに……真実かもしれない。
容赦なく、変わることなく、見得も体面も、おべっかもない。冷徹だからこそ純粋で高潔な数字というものは、文字によるコミュニケーションと共に、人間が育んだ最大の文明だものね。

その文字が最初の純粋や高潔を失って、どんどん虚飾の代名詞になっていったの反して、数字はいつまでも純粋で高潔で、正しくあり続けるのだ。
数字が虚飾をまとうこともあるけれど、それが発覚した時、文字やそれによる言葉と違って、ハッキリと虚飾が明らかになる。つまり、人間の、最後のとりでかもしれないと、思うんである。★★★☆☆


フローズン・リバー/FROZEN RIVER
2008年 97分 アメリカ カラー
監督:コートニー・ハント 脚本:コートニー・ハント
撮影:リード・モラノ 音楽:ピーター・ゴラブ
出演:メリッサ・レオ/ミスティ・アップハム/チャーリー・マクダーモット/マイケル・オキーフ/マーク・ブーン・Jr./ジェイ・クレイツ/ディラン・カルソナ/マイケル・スカイ

2010/2/2/火 劇場(渋谷シネマライズ)
「友達です」という言葉が、こんなに重く響いたことはなかった。私は思わず身をすくめてしまった。
本当の友情は、こんな極限の絆を結ばなければ得られないものなのかもしれない。
だとしたら、日本のような平和な社会は、本当に幸せ?
いやでも、こんな危険で深刻な差別が根付いている社会を応と思う訳では決してないのだけれど……。“民族の保留地”なんて、想像も出来ない。
でも、レイが警官にライラのことを問われて迷わず「友達です」と言ったあの言葉、あれほど真実の意味を感じたことはなかった。

とはいえ、二人は決して友達などではなかった。
それどころか、とても接点などありそうもない二人。
まずはレイの物語から語られ始める。というより、一応は彼女の方がメインの物語である。
くたびれたバスガウンからのぞいた足首のタトゥー、カメラが徐々にのぼっていくと、つい“老醜”などという言葉がふいに口をついて出そうな、生活の疲れがそのまま、痩せてシワシワの顔に出た女性がふとまばたきをし、その両目から涙が伝った。

只今、レイは夫に蒸発された。それも、手付けを払ったトレーラーハウスの残金を持ち逃げされた。
もともとギャンブル中毒の夫との関係は、悪化の一途をたどっていたことが後に明らかにされ、そしてそれはひょっとしたら彼女のケッペキな、癇の強い性格が夫を追いつめたかもしれないことも後々明らかになるのだけれど。
とにかく今、彼女はのっぴきならない状態なんである。

それより先に言っておかなければいけないのは、舞台となるこの土地。カナダとの国境に隣接する、ニューヨーク州最北の町。そこはモホーク族という部族の保留地でもあるんである。部族の住む地域は、いわば治外法権。
貧しい生活とはいえ、白人であるレイはひょっとしたら、彼らのことを犯罪の横行する野蛮な民族ぐらいに思っていたかもしれない。
というのは、明らかに白人を敵対視するライラの態度から、彼らがアメリカ人、ことに白人からどういう態度をとられているかが察せられるからなんである。それに恐らく……まともな職にもつけていない。

でも、レイも切迫っぷりは同程度のものなのだ。全財産といえるお金を夫に持ち逃げされて、テレビのレンタル代金にも事欠く状況。
しかも二人の息子も抱えている。上の子は15歳、下の子はまだサンタクロースを信じているような幼い子。パート勤めをしている1ドルショップは、2年経っても彼女を腰掛けだからと見なして常勤にしてくれないし、子供たちの夕食にポップコーンを出すしかない有り様なのだ。

……もうね、ホントに画が寒々しいの。ていうか、寒いの。太陽なんて本当に出ているのかと思うぐらい、なんでもないのに気が滅入りそうな曇天の真冬。
ラジオは「体感気温はマイナス35度です。家畜は中に入れてください」などと、まるで楽しいイベントのお知らせをするかのような口調で伝えるし、川は分厚く凍ってトレーラーが通ったってビクともしないぐらいなのだ。

そう、車がラクに通れるぐらい分厚く凍った川。
その一点が、この映画を緊迫した物語に変えてしまうのだ。

もう、どんどんと続いていく画が、あまりに緊迫感に満ち満ちていて、悪い予感をどんどん連ねていくものだから、次の場面にはどんな恐ろしいことが待ち受けているのか、もうこんなん、ハッピーエンドの訳がない。救いのない気持ちを抱えて映画館を出ることを考えて、それだけでひどく気が滅入っていたのだった。
そう、それこそ最近、傑作サスペンスを数多く世に送り出している韓国映画がまさにそうで、もう救いようがないったらどうしようもない、っていう映画が続いていたものだからさ。まるでそれが傑作の証しのように言っているような気がして、重い気持ちを引きずって映画館を出ることが何度もあったからさ……。

でも、これはアメリカ映画だったのだ。見ている途中はウッカリ忘れそうになっていたけれど。
ご都合主義にもハッピーエンドにしてしまう、アメリカの映画だったのだ。
いや、本作はご都合主義のハッピーエンドなどでは決して、ない。それどころか、ハッピーエンドなどという単純な言葉で括れる訳もない。
でも、救いがあったのだ。私が渇望していたのはハッピーエンドだと思っていたけれど、そうじゃない。救いがほしかったのだと気付いた。
犯罪に手を染めても、道徳に背いても、神様が慈悲の心を下さる救いが、本作には一貫して溢れていた。

とはいえ、過酷な物語には違いないのだ。だって、困窮の末、家族のためという譲れない理由で、二人の母親は密入国の手引きという犯罪に手を貸してしまうのだから。
そもそも二人が出会ったのは、レイが夫を探しに来たビンゴ場だった。夫の車が駐車してあったことで一度は安堵したレイだけれど、その車を従業員の女が乗っていってしまったのを目にして慌てて後を追う。
粗末なトレーラーハウスに逃げ込んだ女を威嚇するのに、レイはドアに一発発射した。「イトコのトレーラーハウスなのに……」と顔を出したライラは「カギがついていたから、捨てたんだと思った。持ち主の男はバスに乗って行った」と悪びれる様子もなく吐き捨てた。

この場面で既に、レイの、自分の正義を通そうとするキツい性格が見て取れるんだよね。彼女はクライマックスでも、メチャクチャ無茶な場面で銃をぶっ放して自ら危険を招くようなマネをしでかすし。
それになんといっても、息子の言葉……「母さんが父さんを撃ったから、父さんは出て行ったんだ!」という台詞には衝撃を受けた。
一度も画面に姿を現わさない、写真さえ出てこないレイの夫は、彼女の口からしか語られないから、前半は彼女の言い分がまんま通ってしまうんだけど、段々彼女のキツい性格があらわになってくると、アレ、ちょっと違うかも、という事態になってくるんだよね。

ことに、親のことや経済状態を心配する上の息子のTJに対し、「お前はまだ15歳なんだから!」のひとことで片付けて、彼が母親をサポートしようとする気持ちを完膚なきまでに踏み潰すのには、いくら私が、彼女の方に女性であり年齢も近い存在(爆)だとしても、ちょっと、これはないよな、と思ってしまうんである。
勿論、それは観客にそう思わせるように仕向けるほどの、レイの厳しさなんだけど、勿論彼女が、まだ幼い息子たちは私が守らなくてはいけない、と自分なりの正義を押し通しているのも判るんだよね。

ただ……TJは「まだ15歳」かもしれないけど「もう15歳」なのだ。確かに大人ぶって悪い友達と付き合い、振り込め詐欺まがいな、お年寄りに電話でカード番号を聞きだしてそれを友達に売り飛ばすようなマネなどしているけれど、でもその友達だって、彼の頼みを引き受けて幼い弟のためにクリスマスプレゼントを調達してくれるような優しい心根を持っているんだしさ。
ちなみにこの“悪い友達”も、名前だけで影も形も出てこないというのはミソなんだよなあ。ある意味この友達の存在で、“ワルいヤツかもしれないけど、完全な極悪人って訳じゃない”であろう父親の存在があぶり出される結果になっているんだよね。

そりゃあ、家計をやりくりする女にとっては、ギャンブル好きの夫なんて許せないに違いない。現に今、新居の残金という大金を持って行方をくらましたんだから。
でもそれは確かに……彼の本質をくらますにはあまりに強力なマントなのだ。息子は、母親が父親を罵倒する言葉があまりにまっとうなだけに言い返すことなど出来なかったけれど、でも彼は父親を慕っていた。彼にとってはいい父親だった。
言葉の端々に見える、理想的なアメリカの父と息子の姿。家の修理にやたらとバーナーを使いたがる男どもにレイはガミガミ言っていたらしいけれど、男の子というのは若かろうが年をとってようが火が好きなもんで、でも父親のマネをして凍った水道管を溶かそうとしたTJは外壁を焦がしてしまう。

この場面もね、ヒヤッとしたのだ。うわ、家が爆発とかするんじゃないかって。私、悪い方向に考えすぎ(爆)。
でもね、そこで爆発したのは家じゃなくて……息子の気持ちの方だったのだ。
そう、レイは夫を撃った。威嚇ではなく、足元を撃った。それを息子は目撃していて、だから父さんは出ていったのだと母親を責めた。母さんは厳しすぎたと。
給料は全部召し上げ、こずかいもわずかしか渡さない。レイは「ギャンブル中毒だからよ」と反論したけれど、息子はすかさず「それでもだ!」と吠えた。
そう、それでも、だって、父親は3年ギャンブルを断っていたのだという。“それでも”レイはあの調子でガミガミと締め付けたのだろう。だから父さんは出て行ったのだと、TJは言いたかったのだろう。
この場にその夫がいないから、何とも言いようがない。でも……。
レイが、子供たちを愛するがあまり、弱者扱いをして、手を差し伸べようとする息子を軽んじたのは真実なのだ。

そしてそれは、「友達」となったライラとの関係においても、そう。 相手に対して、この人はこうだ、という決めつけ。それがモロに態度に出ていたのが、二人を分かつ決定的な理由だったと思う。
レイの車を“拾った”ライラに挑戦的な態度をとったものの、思いがけず「車を高値で買ってくれる」話を持ちかけられ、引き上げられてしまったトレーラーに未練があるレイは、ブローカーに会ってみることにする。
しかしそこで待っていたのは車の譲渡話ではなくて、そのトランクに密入国者を入れて密かに運搬する、いきなり実地のウラ稼業だったのだ。
ライラはその仕事をするための車が欲しいがために、レイの夫の車を“拾った”のだった。そして、仕事が終わった後も、レイの銃を奪って彼女に突きつけ、車もカネも横取りしようとしたものの、レイのあのキッツイ性格なもんだから、そんな訳にも行かず、アッサリレイに追い出されてしまう。

単なる性悪女かと思いきや、この時にはすぐに判断出来ない場面が用意されているんである。ライラの寝起きするトレーラーハウスとは違って、ちゃんとした一戸建ての、その庭の枯れ木に彼女は登っている。犬をエサで手なづけながら、窓の中の様子をじっと見つめている。
愛らしい赤ん坊が、初老の女性にあやされている。彼女はさっきレイラの分も横取りした大金を、そのドアにそっと置いて帰る。しかしその金は後に、非常にもそっくり叩き返されてくるんである。
この赤ん坊はライラの子供であり、彼女の夫は密入国の仕事中に妻子を守って、自分一人が凍った川の中に沈んだ。
夫の母親は「息子を殺した」とライラを恨み、「一族の息子だから」とライラから赤ん坊を奪った。

夫の死に自責の念を感じているとはいえ(彼女に責任なんかないのに!)夫の母親に赤ん坊を奪われるなんて常識的に考えても理不尽なのだが……しかしここは、“治外法権”の地なんである。
モホーク族の揉め事は、彼らの法律によって断じられ、アメリカやカナダの警察が介入することは出来ない。
勿論それが、密入国という犯罪の温床になっていることも確かなんだけれど、“部族の息子”などという、時代錯誤な価値感が人々を苦しめているのも事実なのだろうと思う。
だってさ、確かにライラの義母は逆恨みだとは思うけどライラを憎んでいたにしても、彼女がレイの後押しで息子を奪い返しに来た時、ちらっと抵抗しただけで、嫁を黙って見送ったものね。その後の様子を見ても、騒いで取り返した、という感じもないし。

……そうなのだ。この物語は、密入国のスリリングな、などと言っては怒られるんじゃないかと思うほどの、生き死にをかけた、緊迫した模様がなんといってもメインなんである。
ことに一番恐ろしかったのは、それまでは中国人密入国者が多かったのに、ある日いきなりパキスタン人夫婦で、レイが不信感を示すのね。
英語も喋れないから言葉も通じず、彼らが大事そうに持っていたやたら重いバッグを、「自爆テロでもされたら大変」と凍った川に捨て置いてしまう。
この時点でイヤーな予感はひた走り、レイ、あんた強気に出るのもえーかげんにせーよと思ったのが案の定。

中継地点のモーテルにつき、バッグがないことに泣き喚く妻の言葉を通訳してもらうと、なんとそのバッグの中に彼らの赤ん坊が入っていたんだと!
……もうこの言葉を聞いた時点で、うっわ……もう終わった……凍って固くなった赤ん坊を見せられて、地獄にまっさかさまだ……って思ってた。
実際、二人が慌てふためいて、闇に覆われた凍った川を捜索し、バッグの中から赤ちゃんを取り出した時には……後にライラが何度も「確かに死んでた」というほどに、冷たく息をしてなくて、絶望的な状態だったのだ。
そりゃそうだ。「体感マイナス35度」の、凍った川の上に、一体どれだけ置き去りにされていたの。“凍った赤ちゃん”を目の当たりにさせられるのかと思ってゾッとし、この後の展開を本気で見たくないと思っていたのだけれど。

モーテルに着く直前、赤ん坊は息を吹き返すんである。
冷たくなった赤ん坊を早々と諦め、というか、抱かせられるのを嫌がったライラだけれど、レイからマッサージやらなにやらを指示されて温め続けて腕の中で赤ちゃんが動いた時、レイの「冷えていただけだったのね」という言葉に、ライラは首を振ったのだ。「確かに死んでた」そう繰り返した。
レイが、ならばあなたが温めて生き返らせたのよ、と言うと、彼女はそれにもストイックに首を振った。それは創造主しか出来ない、と。

この日、レイは下の息子へのクリスマスプレゼントを調達する筈だった。モホーク族はキリスト教のサンタを信じない。レイが「サンタがいないんじゃ、子供たちは寂しがるわ」と言った。ライラ自身が神をどう考えていたのかは判らないけれど……。
キリスト教でも仏教でもなんでもいい。きっと神様が助けてくれたんだと、私だってそう思った。
二人とも、愛する子供がいる。ライラは一緒に暮らせていないけれども、それだけにレイは、彼女の子供に対する思いを慮っていたし、ライラは子供たちのためにと次の仕事を懇願するレイの頼みを断われなかった。
そう、次の仕事で彼女たちはついに、追い詰められるんである……。

その前に、もう足がつきかけていた。ライラが密入国業者であることを突き止めた警官が、一緒に行動しているレイに忠告に来た。
ライラも危険を感じ(ていうか、義母から金をつき返されたし……)、嫌がっていたメガネをかけてマトモな職につこうとしてた。でも、あと少しで新しいトレーラーハウスが買えるという誘惑に勝てないレイに口説き落とされてしまった。
しかしそんな時に限って、いつもどおりには行かなかった。中継地点も手配人も違う。挙げ句の果てにはその手配人にナメられて半額にされそうになったのを、レイが「ナメられたらアカン!」てな勢いで銃をぶっぱなしちまった。
おかげで全額はもらえたけれど、あっという間にパトカーに追跡されちまい、焦って薄い氷の場所を通ろうとして(……私、この場面で一番イヤな結末を迎えるのかと思ってしまった……)車輪がハマり、命からがら保留地に逃げ込むんである。

守ってもらえると思ったのが甘かった。“夫を死なせた女”が部族にとって反発がキツかったのか判んないけど……二人のどっちかを差し出せってんである。
ていうか、その前に、ライラに部族からの追放が言い渡されるのだ。それもね、今まで目をつぶってきたが、みたいな言い方されてさ!
ウッキー!何それ!彼女をこんな困窮に追いつめたのは、“部族の子供”だとか言って彼女から子供を取り上げたオメーラじゃないのか!
……いや……これこそが、社会の理不尽というものなんだろう。ライラのように特殊なケースじゃなくったって、女性は、ことに一人で子供を抱える女性は、様々な理不尽に直面している。
そしてそれは、男は勿論、同じ女性も、同じく自分ひとりの戦いで精一杯だから、あるいは自分ひとりの戦いこそが重要で逆に他の女を敵対視してしまうから(この義母こそがまさにそうだろうな……)、誰からも助けてなんぞ、もらえないのだ。

ライラはレイに行けと言う。確かに子供の数から言えば……それにライラはもはや部族から追放されてしまったんだし……と、イヤなオトナの計算をこちらもしてしまう。
レイもそんな計算の元、ライラに「あなたの息子は家族がちゃんと面倒を見てくれるんだから」と言い聞かせるように言って、息子たちのもとへ駆け出した。でも……凍りついた林の中で、レイはふと立ち止まった。
確かにね、レイの「家族がちゃんと面倒を見てくれる」という台詞に、観客側もなんか、引っ掛かりがあった。その“家族”こそ、ライラから愛する子供を奪った張本人じゃないのかと。

家族って、とても愛しく大事な存在だけど、まさにそれに、二人の女は縛られたのだと思う。
いや、元々は他人だった家族。二人とも夫に縛られて、こんなことになってしまったんだよね。レイの不幸が夫が原因なのは明らかにしても、実はライラも意外にそうで……ライラが口にするほんの断片的な話から、二人がラブラブな夫婦だったことは想像出来るんだけれど、結局はこの夫が死んでしまったことが、今のライラの不幸なんだもの。
……皮肉なことに、夫の死ではなく、夫の死によって引き起こされた不幸、なんだよね。
今のライラにとって夫は、とても愛していた人だったけれど結局は過去で、今彼女にとって大事で愛している存在は子供であり、その子供をこの腕に抱けない原因は、夫、なんだもの。……勿論、彼が自分と子供を助けてくれたにしても、よ。

レイが自らを差し出すのは、「白人で前科がないなら、3、4ヶ月でしょ」という理由……いや、それはあくまで、部族から厳しい沙汰が下されたライラに対する思いやりだっただろう。父親が家族を捨て、母親が犯罪者になる、なんて、子供たちに聞かせたい訳がないもの。
でもレイは……まっとうな人間であるべしことを臨んだんだろうなあ。そして、「友達」を得ることを。
ライラに、自分の赤ん坊を奪い返すこと、そして自分の家族を、託した。手付けを打ってあるトレーラーを中古に変えて、私の、そしてあなたの子供とゆとりを持って生活してくれと言った。警官にウソで言っていた子守りの仕事を、部族から追放されて行くあてもないであろうライラに託した。
もちろんそれは、「彼女は友達だから」。パトカーで連行されるレイは、動揺するTJに毅然と電話をかけ、警官から再び問われて、そう答えたのだ。

この時も、レイから子供たちを頼むことを言われたライラの表情も、そして赤ん坊を抱いてレイのトレーラーハウスにおずおずとおとないを入れたライラの場面も、もうただただ、胸がつまるだけだった。
この時、TJが言った「今まで僕が弟の面倒を見てたのに、何で子守りが必要なの?」と連行される母親からの電話に困惑して返した台詞が、彼の苦悩と、そしてプライドを充分に感じさせてぐっと胸がつまったけど、ライラを迎え入れ、TJが弟に赤ちゃんが小物を飲み込まないように注意をし、それを受けた弟がきちんと正座なんかして動きもおぼつかない赤ちゃんを見守る描写で、きゅーんと胸を打たれてしまった。
そうよ……これこそを、レイに見せたかった。息子たちは、あなたが思っているよりずっとずっとしっかりしてて、愛情に溢れてるって。

どのくらいの時が過ぎたのか。ライラと子供たちもすっかり打ち解けている。庭にほっておかれた回転木馬をTJが修理し、きちんとホールドされた赤ちゃんと弟が、TJがペダルをこぐのに従って、楽しそうにくるくると回った。
おまわりさんがクレジットカードの番号を騙し取ったおばあさんを連れて訪れ、きちんと謝罪しろと促がし、TJは決まり悪げに、しかしきちんと頭を下げた。そして、少し小ぶりの真新しいトレーラーハウスがやってくる。

フローズン・リバー。あの分厚く凍った、真夜中の漆黒の闇の中の犯罪行為は本当に怖くて、いや、罪そのものよりも、自分自身が追いつめられる恐怖で身が縮こまったけれど……。
でも、フローズン・リバー、なのだ。いくら厳寒の北でも、春には氷は解ける。恐ろしいばかりの記憶のこの川も水ぬるみ、穏やかな春が幸せな思い出を積み重ねるのだろう。このタイトルと物語には、そんな希望が込められていると、思った。★★★★☆


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