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「つ」


2009年鑑賞作品

つみきのいえ
2008年 12分 日本 カラー
監督:加藤久仁生 脚本:平田研也
撮影:音楽:近藤研二
出演:


2009/5/22/金 劇場(東銀座 東劇)
オスカー受賞スピーチの、「ありがとう、私の鉛筆」というシンプルな言葉に打たれてしまった。それはもしかしたら、受賞スピーチなど考えていなくて本当にシンプルな英語だからこそ出たのかもしれないけど、それにしても心に残った。

それは実際にこうして作品を観てみると、いよいよ心に迫る。たった12分の作品は、まさに一本の鉛筆の力によって生み出されていた。その一本一本の柔らかであたたかな描線が人生の無限の深さを示してくれる。

つい先日、やはり短篇アニメを観た。それも8分の短さ。8分の奇蹟だった。8分後、私は涙を流していた。たった8分前には思いもしなかった感情に驚いていた。
映画は尺じゃない。これを映画じゃないと言う人もいるかもしれないけど、本当にそう思った。
そして本作も、たった12分の奇蹟。あの8分もそうだったけど、こんな短い中にまさに人生が凝縮されている。この無口な(というか、何も喋らない)おじいさんの、かけがえのない人生が12分の中にぎゅっと詰め込まれている。
しかもそれは深い深い水の底にあって、まるで難破船のように静かに過去を保管しているのだ。

今はたった一人、小さな部屋に暮らしているおじいさん。パイプをくゆらし、一人でワインなぞ開けて日々を過ごしている。ぷかぷかと水の上に浮かぶようなその家が、まさか深い水の底に何段もの歴史を、時間を埋めているなんて想像もつかなかった。
ある日、おじいさんが目覚めてベッドから足をついたら、床がたぷんと音を立てた。
浸水していた。ドアを開けてみると、積んであった土嚢を越えていた。おじいさんはふとため息をついたような顔を見せると、恐らくいつものように行商からレンガを買い求め、しっくいで塗り固めて積み上げ始めた。
その時にはかつて、その作業を共にやっていた相手がいたことを、忘れていたかもしれない……。

おじいさんは作業中、愛用のパイプをポトリと水中に落としてしまうんである。代わりのパイプをいくつも並べてみても、どうにもしっくりこない。
行商の売り物の中に潜水服を見つけたおじいさんは、水中に潜ってそのパイプを取りにいくこと決意する。……その水中が、こんなにも多くの時間を刻んでいたこと、ひょっとしたらおじいさんは忘れていたかもしれない。

最初に潜っていった部屋は、愛する妻が最期の時を過ごしたベッドがそのままになっていた。
その記憶はきっと彼の中にも、まだ鮮明だったであろうと思われた。だって今、彼が暮らす一人の部屋にも、妻の写真が大切に飾られていたんだもの。
ベッドをそのままに残していったのは、彼女の思い出が辛かったからなのかなとも思った。
でもこの、“空のベッド”は、“持ち主のいない空間”っていう、人が人生を重ねていく時に直面せざるを得ない象徴の、その導入部に過ぎなくて、彼は一階、一階、部屋を下るたびに、その“もはや持ち主のいなくなった空間”に直面していくんである。
そして恐らく彼がもう忘れていた幸福な時間を、そこにまざまざと思い出す。それは、今はもう“持ち主のいない空間”なのに、まるでそこに、本当に過去が保存されているみたいに、鮮やかに甦っているのだった。

そういやあ、最初の、一番水面から近い、妻が死んでしまった部屋はどことなく暗い雰囲気だったけど、次第に幸せな過去に遡っていくから、色調も明るく、柔らかくなっていくんだよね。
家族で記念写真を撮った部屋、皆が座っていたソファは今や、誰が座ることもなく、深い水の中でひっそりと置かれるままになっている。
一人娘が結婚相手を連れてきた日の気まずさ、その娘が元気よく学校に通っていた日々、この水上の家からささやかな桟橋が伸びて、船で通っていたのだ。
そうか、もともと水の街だったのだ。そう言うとなんだかモダンな感じがするけれど、今やこの水浸しの街に留まっているのは恐らく彼ぐらい。水の底には途中で増設を挫折した多くの家々が、その思い出も途中のままに、水の中に沈んでいる。
ひょっとしたら彼は、思い出を水の中にまっとう出来た、幸せな人だったのかもしれない。
でも今、彼はたった一人……。

娘が幼い頃、三人家族のささやかな時間。そしてそもそも、妻との出会いは、そんな幼い頃からだった。大きな木の周りをはしゃいで走り回っていた子供の頃、そして思春期になってお互いを意識するようになり、彼のプロポーズを受けて二人は結婚した。その木も今や水の底にある。
まるで、何もなかったみたいに。彼だけが一人残されて、まるで何もなかったみたいに。
走馬灯のよう、とは、まさにこのことを言うのだと思い、長生きを望みながらも、ただ一人残される時間の長さを思った。
でも、幸せな時間を、より長く味わえるのなら、それはやはり長生きの特権なのかもしれない。
それがこんなにも、切ない時間なのだとしても。
過去の時間は、それが本当にあったのかと思うぐらい、まるで夢のようで、しかも彼が潜水服をガッチリ着込んだ水の中で見る夢のような時間だから、余計にそんな感じで。

どんどん水位が上がる世界でどんどん孤独になってゆき、どんどん思い出だけで生きていくっていうのって、温暖化や少子化といった社会的問題を定義している、なんてありがちなことをどうしても言いたくもなるし、実際それは確かに狙っているとは思う。でも、そんなうがったことは言いたくない。
この胸を締め付けられるノスタルジック、このリリカル。柔らかな鉛筆の無数の線が作り出す世界の豊かさ。
切ない過去の記憶の筈なのに、なぜかふと心が豊かになる気持ち。
思い出を振り返るなと言うけれど、でも、思い出こそが人の宝物なのだと、ポジティブに、思った。★★★★☆


罪とか罰とか
2008年 110分 日本 カラー
監督:ケラリーノ・サンドロヴィッチ 脚本:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
撮影:釘宮慎治 音楽:安田芙充央
出演:成海璃子 永山絢斗 段田安則 犬山イヌコ 山崎一 奥菜恵 大倉孝二 安藤サクラ 串田和美

2009/3/24/火 劇場(渋谷シネマライズ)
ケラリーノ・サンドロヴィッチは、凄く才能のある人だとは思うんだけど、うーん、どう言ったらいいか、難しいんだよなあ。
彼の演出する舞台を初めて観た時に凄い衝撃で、だからそれまでの映画化作品にうーんと思っていたのも返上して(ま、最初の一作しか観てないんだけどさ(汗))、今回足を運ぶ気になったんだけど……。
映画作品に関しては、やっぱりイイと思えないんだよね。映画とお芝居の作り方の違いっていうのとも違う気がするというか。
彼は多分、役者が板の上でぶつかった時の化学変化を、期待する人なんだと思う。そりゃあ彼の書く脚本の独特さ、シュールさの面白さはあるんだけれども、役者の化学変化、なんだよね。
それは大いにアドリヴのような火花の散る化学変化であり……やっぱりそれは、何度も同じことが繰り返されるフィルムと、毎回違う化学変化が起こる舞台では違う、んだよなあ、と思う。そりゃ、私たち観客はたった一回のそれを観るために出かける訳なんだけど……。

勿論、今回は成海璃子と彼とのコラボレーションに心惹かれた部分はあるんだけれども。
成海璃子は生っ粋の映像女優。そのオーラはスクリーンにこそ繊細に、そして時に大胆に現われるもの。今回、彼女のコミカル演技を初めて観たけれども……彼女の中にある、いまだ荒削りな部分が(あるいはそれは、恒久的な魅力かもしれない)コメディになると、こんな風に初々しい魅力になるのかと感じた。
カメラに向かって思い切った表情を作れない、いわば中途半端なグラビアアイドル、円城寺アヤメという役どころは、ワザとらしいキャラを作らない彼女のプライドをそのまま思わせたりもする。
ホントにその、笑っているのかひきつっているのか判らない表情は、なんとも“成海璃子”を思わせるのだ。

その彼女の対照に置いて、これでもかと男を釣る表情を浮かべ、売れっ子グラビアアイドルとして君臨する耳川モモに安藤サクラを配する、というのも実に絶妙である。
安藤サクラは去年、今年と、本当に驚くべき飛躍を遂げている。幅広い役柄を演じてはいるけれど、その中でもあざとく女の魅力を使い、ふてぶてしいほどの存在感を発揮する、というキャラは、あの問題作「愛のむきだし」から続いて、彼女の一つの武器になったように思う。
正直彼女は別に美人でもないし(!)、胸もペチャなのに(!!)、不思議と“女のふてぶてしいセクシャル”を感じさせるのよね。だからこそ、こんな皮肉な役が似合うともいえるんだけれど……。

“売れっ子”としてグラビアの表紙を扇情的なビキニ姿で飾るモモは、しかし現場の人間からは嫌われているし、アヤメのファンやアヤメが一日署長を務める現場の警察官たちは、「耳川モモより全然カワイイよな」と言ってやまないんである。
でもアヤメは泣かず飛ばずなんだよね……この物語は、アヤメが久しぶりに載ったグラビアページが逆さまに印刷されていることにショックを受けているエピソードから始まるのね。
久しぶりだからアヤメは本当に楽しみにしていたに相違なく、だからこそ大ショックだったのに、雑誌の編集者も、頼みの綱のはずのマネージャーまでも、そんなことで騒ぐなと言わんばかりなんである。
しかも逆さまにプリントされたそのグラビアの鼻の下には、ハエみたいな黒いシミがぽちょりとついている。それは、アヤメの熱狂的ファンをメンバーに加える、ショボいコンビニ強盗チームのエピソードにつながっていくんである。

そうそうつまりこれってさ、最近流行りの?“様々な違う立場の人間たちの、それぞれのエピソードがパズルのように散りばめられ、最後に収斂していく”ってな手法でさ、時間軸を前後にバラすのも、なんか最近ホントよくあるよね。
最初はね、円城寺アヤメなんかぜんっぜん関係ないような展開なんだよね。
うだつのあがらないサラリーマンの加瀬が、いつも通って常連の筈のコンビニでニッコリ笑顔の女の子店員に用意されるのは、ワケの判らない品物ばかり。パンだっていつも買うのとは違うし、蚊取り線香なんか買うはずないし、朝から生卵1パックなんて誰が買うのかって話だし、しかも何に使うのかまるで判らないような、おちゃらけた道具まで登場するんである。
……そのカワイイ店員の笑顔が彼の生きがいだっただけに少々のショックを受けて……しかも彼は、そのすぐ後、あまりにも理不尽に死んでしまうんである。

突然頭の上から降ってきた血だらけの女、見上げたバルコニーから驚愕の表情で覗き込んでいるやはり血だらけの男、その直後、加瀬は暴走してきたトラックにはねられた。
めんどくさそうに降りてきた運転手は、轢き逃げという認識さえないみたいに、やはりめんどくさそうに運転席に戻って、そのまま走り去っていった。
……ちなみにこの運転席の助手席に座っているのが、エンドクレジットの後で運転手がプロポーズする女なんだけど……麻生久美子、なのよね。
有線放送でアヤしげな宗教音楽にトランス状態になって、シャラン、となるところで、オンタイムで頭を揺らす。……正直、目がイッちゃってる。彼が何度有線のチャンネルを変えても、彼女はそれを戻して、慢性的トランスなんである。
ずっとウンザリした表情を浮かべている彼が、なぜ最後の最後にプロポーズして、それが映画の最後になるのか……どうにもこうにも判りかねるのだが、そんなことに疑問を呈しちゃったら、何にも進まなくなっちゃうんだよね。そう、単純に面白がればいいんだってことは、判ってるんだけどさあ……。

ま、いいや、メインの話に行く。そう、璃子ちゃん演じる円城寺アヤメである。
ちなみに前エピソードの、加瀬の瀕死の状態の時にアヤメは遭遇している。彼女は彼が、自分が久々に載ったグラビア誌を買ったことなど当然知らず、そしてナレーションは、加瀬もまた、彼女がそのグラビア誌に載っていたことなど知らなかった、とまことしやかに語るんである。
“パズルの再構成”である本作は、終始この手法で進んでいくんだよね。加瀬が見たバルコニーの上の男はアヤメの元カレであり、……ていうか、加瀬が描く似顔絵が、ちょっと楳図かずお入ってそうな、ホラー風味超絶リアリティなのが、この瀕死の状態で描いてるっていう不条理が、なんとも可笑しかったりするのよね。
まあでも、ギリギリ笑えたのはここぐらいだったかな、っていう感じではあるんだけど……そういう、“不条理ギリギリギャグ”で構成されているようなもんだからさ、本作は。

アヤメは、コンビニで確認した、逆さまに印刷されたグラビア誌にショックを受けて、しかもその時財布を持っていなかったもんだから、そんなブチ切れた状態だったこともあって、思わず雑誌を持ったまま店を走り出てしまうのね。つまり、万引きである。
当然のように捕まり、どうなるかと思ったら、これまたメンドくさそうに居合わせた警官が、一日署長が出来る女性タレントを探していると言うんである。
まず、売れっ子の耳川モモ、アヤメと同じプロダクションでマネージャーも兼任している風間は、撮影のスケジュールが埋まっているからと断わる。その他のタレントもみんなスケジュールが合わない。……つまり、ヒマなのはアヤメだけなんである。
「一日署長、興味ある?」と聞かれて、真顔で首を振ったアヤメに、マネージャーの風間はバシ!と彼女の後頭部に強烈なツッコミをくれる。
こういう場面は多々あって、まあ、ボケとツッコミではあるんだけど、璃子ちゃんは超マジでアヤメを演じてるし、そしてツッコむ犬山イヌ子氏は、コメディの何たるかを完璧に会得している人だから、これまた超マジでツッコんでるし。
ここまでベクトルが全く違う方向に向かうことが成功につながっているのって、珍しいと思うんだよね……奇跡の化学反応だと思う、この二人に関してだけは。

とか思うのは、このパズル的構成の物語の、その他のいくつかの人間関係、エピソードが、なんか寒いというか、カユいというか、みたいな印象を与えたから。
まず、判りやすく、アヤメと直接関係する、元カレの春樹である。アヤメが一日署長をつとめることになった署の若い警察官として、運命の再会をするんである。
今風に言えばイケメン、まあ言っちゃえば……ユルいハンサム君の彼は、驚くべきことに連続殺人鬼、なのよね。というよりも、殺人癖があるというか……そんな“癖”があること自体、問題なんだけどさ。
でも、ジャック・ザ・リッパーから始まって、世の中の殺人鬼が恐らく相当数それに当たるんじゃないかとも思われ、サド癖が高じた果てに確かにあるものなのであり、そういう意味で結構、現代社会に通じているとも思われるんである。
いや、現代社会に通じているのであれば、そんな恋人を「バレなければいいじゃん!」と再三にわたり見逃してしまう恋人、アヤメの方にあるのであろうが……。「バレなければいいじゃん!」というのは、コワイことではあるけれど……ある意味、真実だからさ……。

彼と恋人同士だった頃のエピソードは、だからソーゼツではあるんだけど、それもまた不条理な可笑しさの中にある。
殺人を犯しては、その証拠に体の一部を持ってくるというオソロシイ癖も併せ持つ彼は、ついには風呂敷に包んだボール状のモノを……「見せなくていいから!」と拒否しまくるアヤメが思わず放り投げると真っ赤に割れた、「キャーッ!」
……いや、割れたスイカって(爆笑!)、「これで頭を割ったんだ」割れるかッ。スイカが割れるわ!
ユルいハンサム君が恐るべき連続殺人鬼、というギャップこそが多分、面白いんだろうと思うけど、だとしたら、その変化の瞬間を見せてほしかった気持ちも、あるのね。
いや多分、監督はそんなことは百も承知で、ただ避けただけなんだろうと思う……ギャップのインパクトっていうのは、確実すぎて、ヤボなんだもん。あくまでこの男の子が、ユルい今風のカッコイイ男の子であれば、いいんだろうな。

むしろ、物語をかきまわす役割なのは、春樹のソックリ似顔絵をウッカリ描かせてしまったスケッチブックの提供元、ショボいコンビニ強盗チームにある。
そもそも、スケッチブックをウッカリ窓から放り投げてしまうってあたりがあまりにも、ねえ、確信犯的にも過ぎるほどのご都合主義であってさ。
この“ウッカリスケッチブック”は、押し入ろうとしたコンビニの見取り図であって、しかしこれまたあまりにショボくって、笑うしかないぐらいでさ。
しかしその見取り図とニュース報道を見比べて、即座に一致しているのを判っちゃうアヤメってのが、まずあり得ないしさ(笑)。
ちなみにそのスケッチブックには、春樹がまたしても衝動的殺人を犯してしまった時の、加瀬が描いたあの似顔絵が描かれている訳で、それを確認した春樹の上司の刑事さん、ニヤリと笑って、そのページをビリビリと破り捨てる。
そう、彼は春樹の性癖からくる恐るべき犯罪を“警察のメンツが潰れるから”という理由でニコニコと見逃していたんである!時にはヘーキで身代わりを立てながら!
ま、その身代わりっていう部分にも巧妙なパズル要素が加えられていて、あーもう、うっとうしいから、説明は略(多分私、その間に忘れてしまうだろうな……(爆))

で、ね。ちょっと話が脱線したけど、一番物語を引っかき回し、かつまた……私的にはうっとうしいばかりなのが(爆)、ショボいコンビニ強盗団なのだが……。
そのうちの一番の年長者、建築関係の仕事らしいんだけど、スケッチした見取り図から察しても、かなりレベルの低い職人である常住(山崎一)は、円城寺アヤメの大ファンで、彼の部屋には所狭しと彼女のポスターが貼ってある訳。
んでもって、ここであの逆さまプリントのエピソードとつながるんだけどさ……鼻の下に出来たシミさ。エアコンの壊れた部屋で、壊れ気味の女、マリィ(奥菜恵)が扇風機の前に陣取っていると、紛れ込んだ虫が扇風機に紛れ込んで、ビシャッと粉砕されて……その汁がマリィに飛んでくるわけさ。ギャー!と悲鳴をあげるマリィ、その背後のアヤメのポスターの鼻の下にも飛びはねてついちゃう訳でさあ……。
でね、この紅一点、マリィがほんっとうに、うっとうしいんだもん。ていうか、うるさい(爆)。ただただ絶叫してて、ホンキでうるさい(爆爆)。
なんか奥菜恵さあ……なんつーか、こう、もったいない気がするんだよなあ。ただただスクリームなんだもん……ありがちだし。

同じくバカなら男のバカの方が可愛げがあるっていうのが、女としてはキツイんだよなあ……壊れたスタンガンに“ほどよく気持ちイイ”ことに目覚めた男、立本が、いきなり全裸になって“試す”バカさ加減は、女に置き換えられないのは必定なんだもん。
演じるのが大倉孝二ていうのがまた絶妙で……彼がバックヌード披露しても、セクシーの方向には1パーセントもいかないもん(笑。別にフツーの青年の後ろ姿なのにね!)。
で、薄い壁の隣の部屋の女の声に興奮した立本が、マリィ相手にコトに及ぼうとしていた頃、その女の声は喘ぎではなく、まさに今、首をしめられて殺されそうになっていたのだった……。
春樹に殺されそうになる女はサトエリ。このユルいハンサム君にはちょっと過ぎるキャスト。だって、チェーンソー振り回す姿が堂に入りすぎだもん(笑)。
大体なんで、壁の薄い安アパートにチェーンソーがあるんだっての(大笑)。これはやっぱり、ベタに「悪魔のいけにえ」が念頭にあるんだろうなあ……。

アヤメが編集部にクレームをつけに行く場面はなかなか見応えがある。マスコミの人間の横暴さ(って、知らないけど)がホンットに、判るっていうかさ。
恐らく取材や撮影時にはへりくだるくせに、載っちまえばこっちの仕事、売れないタレントが何寝言言ってんだ、みたいなさ。もう、ホンットに腹がたってしょうがなくって。
演じる入江雅人氏らが、腹の立つキャラをうまい具合にジョークを交えて和らげているのもさらに腹がたつっていうか(笑)。アヤメのミジメさが実に際立ってて、だからこそ彼女の暴走が輝くってもんなんだろう……リアリティないけど。

万引きしたタレントのおてつきを帳消しに出来るのが警察の一日署長だという、“業界の常識”ってなムチャクチャな論理が発端となって、どんどんムチャクチャな論理が通っていく訳だけど、終わって思えば、“タレントのお手つきを帳消しに出来る”ってことが一番マトモだったってことが、スゴイわけで……でもって、マトモ以上の、つまり異常なことは、実際に世の中にはびこっているってのが、スゴイんであって。
でもそれは、実は映画を実際に観ている時にはあんまり気づいていないってあたりも(爆)。

しかしなんたって、一日署長ってことは、そう、コスプレなのよねー♪と、誰もが、特にカメラ小僧はおもった訳でさ。実際、最初の挨拶の場面、警察署の建築のくぼみのところ、つまり、ありえない高い場所にセッティングされて、「皆さん、ガンバリマショウ!」と台本どおりアヤメが小さくガッツポーズをした瞬間にあおる風がスカートをめくる……カシャカシャカシャ!と連写するカメラ小僧。
そうそう、いかにもカメラ小僧のファンが、夜の公園で落ち込むアヤメに励ましの言葉を送って、感激したアヤメが彼の手を握り締めると、「何すんだよ!」と彼が邪険に振り払って走り去っていく、呆然とするアヤメ、って場面もさ、いかにも現代社会さねえ。つまりリアリティ、3次元の世界を彼らは実感出来てない、ってことなんだよね、つまり。

でもこれも……表現が巧みだからウッカリ見逃しそうになるけど、メッチャお約束。勿論、表現が巧みだからいいんだけど、でもそのアイディアで掘り下げるわけでもないから……そう、思えばすべてが同じ理由で、なんかリアリティをもって感じられないのだ。
そりゃコメディだからそんなこと必要ないって部分もあるけど、でもそれは100パーセントではない。コメディは、喜劇は、共感があってこそであり、共感とは、リアリティなのだ。コメディは決してフィクションではない、リアリティだからこそ、すばらしいのだよね。

アヤメがコンビニ強盗団の対処を“一日署長だから”とゆだねられ、「どっしようかなーっ」と嬉しげにニンマリする頃には、最初の頃の、鬱々とした雰囲気も払拭されている。“署長”であることに、だんだんノリノリになっていく璃子ちゃんがカワイイんである。
実は人質になっているのがかつては友人同士、今は人気グラドルとして彼女を下に見ている耳川モモとマネージャーの風間であり、行き当たりばったりに誘拐までしちゃったショボい強盗チームたちとのハイテンションながらもグダグダであるという奇妙なやり取りは、いかにもケラ監督の醍醐味。
常住と立本の立ちションがナナメの床を伝っていくのにパニクる人質、って危機感はそこかい!みたいなさあ。

で、すったもんだの末見事アヤメは人質たちを救い出す。
ちょっと前までは行き詰まり気味で、見上げた空には雲で「やめちまえ」と見えるまでに(ノスタルジックなマンガチックさだなあ)追い詰められていたアヤメに「頑張れ、正しく頑張れ」となんとも切ないエールを送っていた風間も、彼女の成長に目を細めて声をかける……カミカミだけどね(爆)。
そしてアヤメは春樹を署長の権限で逮捕させ、しかし「優秀な弁護士もつけてください」そして、「上カツ丼もとってやって」(いつの時代よ(笑))と。

それにしても、璃子ちゃんが、恋する男の魅力に溺れて×××する役をやるようになったんだねー(涙)。

で、改めて思うは……主役が、とかヒロインが、とかじゃなく、群像劇にして、それぞれのキャラに見せ場を用意する。いかにも舞台的なんだよね、ヤハリ。★★★☆☆


劔岳 点の記
2009年 139分 日本 カラー
監督:木村大作 脚本:木村大作 菊池淳夫 宮村敏正
撮影:木村大作 音楽:池辺晋一郎
出演:浅野忠信 香川照之 松田龍平 モロ師岡 蛍雪次朗 仁科貴 蟹江一平 仲村トオル 小市慢太郎 安藤彰則 橋本一郎 本田大輔 宮崎あおい 小澤征悦 新井浩文 鈴木砂羽 笹野高史 石橋蓮司 國村隼 井川比佐志 夏八木勲 役所広司

2009/7/24/金 劇場(丸の内TOEI@)
今年はこの映画で決まってしまったかもしれない。
見たことのないラストクレジットを満足の気分で眺めながらそう思った。仲間たち、と記されて、役名とかスタッフとかそんな肩書きなど一切書かれずに、監督さえもその中の一人として誇らしげに並んでいるラストクレジット。

その予感は大分前から感じていた。一体いつの公開になるの、というぐらいはるか前から、そうそうたる役者たちがこのトンでもない現場に没頭しているのを聞いていたし、その役者たちが、その撮影の時点でこの映画のトンでもなさを、既に絶賛している雰囲気がひしひしと感じられたから。
そう、香川氏とか、小市さんとかね。そういう大好きな役者たちがそう感じて現場に入っているのなら、もうこれは間違いない!と。

そしてこれはこの監督の第一作目、デビュー作ではあるけれど、黄金期からの映画を知り尽くした巨匠も巨匠、大巨匠のキャメラマン、木村大作なのだもの。
これほど楽しみで、間違いないと確信できる“デビュー作”もなかっただろうと思う。異業種監督が映画一本撮っちゃったなんていうんじゃないのだ。映画界に身も心もどっぷりささげた、もしかしたらどんな巨匠監督より映画のことを知っている人の、“デビュー作”なのだから。

だからこそ、様々な才能をつぶさに見てきたからこそ、彼自身がどんな個性を出し、どんな画作りをしてくるのか興味津々、というところもあった。
あまりにも様々な才能を見てきたから、逆に平均的になってしまうのではないか?
でもそれを、この超巨匠はブッ飛ばしてくれたのだ。それはむしろ……監督である前に押しも押されぬ、彼の右に出るものなどいない超ベテランキャメラマンであるという意地こそが、その“個性”も“才能”も“画作り”も決定してしまった。そしてその時点で……もう決定してしまった、のだ。

これはね、ほおんと感想なんて意味ないのよ。いやそりゃ、全ての映画に対して素人の感想なんて、全然意味ないものなんだけど……でも、こんな圧倒的な画の前に、どう言ったらいいの。
地図を作るために命をかけて、険しい山に登った男たちの記録。
そんなひと言で終わってしまうことが、このトンでもない画に対して、いかに力のないことか。
彼の今までのキャメラマンとしての経験を注ぎ込んだのは勿論、それでは追っつかないものを作らなければ!という少年のような見得や意地さえも感じて、その少年のような気持ちこそが、こんな……あり得ない画の数々を生み出したのだ。

だってさ、だってさ、雪崩に埋まって掘り出されるし、雪山のトンでもない斜面を転がり落ち、更にバージョンアップして岩壁のトンでもない高さから墜落して雪山の斜面を転がり落ち、“前人未到の頂上”の、草も生えぬ切り立った岩ばかりの頂点の彼らを、更に高みのカメラからグワッと映し出すんだよ?一体どうやってるんだって話じゃん!

いや、むしろ、もっと地味な画の方が過酷だったかもしれない。
一寸先も見えない猛吹雪の中をそぞろ歩き、天幕(テント)も飛ばされるよな暴風雨の中を耐え忍ぶ。
確かに木村大作は、過去にもこういう画を巨匠監督の元で作ってきたんだろうと思うけれど……恐らく、こんな凄い画ではなかったに違いない。
なんかね、勝手な妄想なんだけど、彼はこれまで自分が撮ってきた画以上のものを撮る、そうでなければ意味がないってぐらいに思ってたんじゃないかなあ、って思うんだよなあ。

原作は新田次郎の同名小説。だからそれなりに世間に知られたものではあるだろうし、なんたってこれは実話だというんだし、しかも国をあげての大事業、という重厚なテーマ。奇をてらったオリジナリティというところからは遠く離れている。
しかもとても映像化出来るなんて想像も出来ない、過酷なロケーション。そんな様々な点で、デビュー作として選ぶには、よほど腰のすえた覚悟がなければ手を出せない題材。

そんなことさえ思考の外に振り切ってしまうほどの、手を出しちゃいけないほどの過酷な大自然を、“過酷だから美しい”というところまで対等に闘って、奇蹟の画を次々と作り出した。
そこで闘い続ける役者陣はまさにそうそうたるメンバーなんだけど、そのそうそうたるということもこの凄さの前では何の役にもたたない。
華やかな彼らの経歴を知っているからこその、そのギャップが何より効果的だったし、彼ら自身がなす術もない自分を誇りに思っているように、思えたのだ。

演出自体はとてもストイックだったと思う。ドラマチックになりそうなところはいくらでもあったのに。
国の威信をかけて、とは名ばかりの単なる見得で、測量隊員たちの命を平気で危険にさらす国軍、その見得の対象となる日本山岳会との“初登頂”をめぐるバトル、そして何より……初登頂は修験者によって果たされていたという事実が、死ぬ思いで頂上に到達した測量隊員の前に明かされる衝撃。

それに劇中、死にそうになる場面はいくつもあるのだ。落石、雪崩、岩肌からの墜落、吹雪によって方向が判らなくなって遭難しかけたことだってある。豪雨によってテントごと飛ばされそうになったことだって。
そうした、容易にドラマチックになりそうな場面がいくつもあるのに、こっちが拍子抜けするぐらい、あっさりスルーしてしまうんだよね。
勿論、その画自体は凄まじい。観客が思わずあっと声をあげて口元を抑える場面が頻発する。それでも……アッサリカットを割って、アッサリ切り抜ける。ビックリするぐらい執着しないんだよね。
こういう場面はよくさあ、ドラマチックな音楽をこれでもかって乗せて、うっとうしいぐらいに劇的にするもんじゃない。それが一切ないのだ。
最初はそれがむしろ乗り切れないぐらいに感じたんだけれど……だからこそのカタルシスがあったんだよね。

そういやあ、“ドラマチックな音楽”で気付いたけれど、これってオリジナルスコアがないのだ。全てが既存のクラシックで構成されている。
これってオリジナルスコアをつけてしまったら、……まあ、現代を生きる音楽家さんには申し訳ないけど、やっぱりベタな泥臭い、ドラマチックを優先するそれになってしまったと思う。
だってこの作品の、この場面だけのために作るスコアはやっぱり、そういう欲が出ざるを得ないというか、それが当然の“仕事”だろうと思うもの。

でもこれはさ……ラストにそう明言されるけど、いわば名もなき者たちの記録な訳で、だからこそ尊い訳で……彼らのために作られるスコアじゃ逆に、その普遍性が出ないってことだと思うんだよなあ。
それにやっぱり……永の年月残り続けた音楽の、殺ぎ落とされた、研ぎ澄まされたストイックさ、何の生臭さも泥臭さも寄せ付けない美しさには……ホント、かなわないよね。
名もなき彼らだけど、彼らの残した仕事はこれから永の歴史に残り続ける。この音楽のように……っていうのが、しっかと示されてて、なんか……尊い気持ちになった。

そう、名もなき、なのだ。点の記というのは、地図を作る上で示される日記のようなもので、その中に測量員たちが設置した三角点の記録が残される。
でも彼らが命を賭して設置した劒岳頂上のそれは四等三角点であり、点の記には残らないのだ……ただ、日本山岳会との見得の張り合いで送り出された仕事に過ぎないのだ……。

でもね、その日本山岳会と過酷な状況を共にするうちに、彼らの間に絆が芽生えてくる。
最初のうちは、趣味で、遊びで登山をするようなヤツらに負けてられるか、という意識が、上層部だけではなく、実際に測量するスタッフの間にもはびこっていた。それこそ血気盛んな若手など、それゆえにムチャして命の危機にさえ陥ってしまう……。
この若手を演じているのが松田龍平で、クセのある風貌と何よりそのDNAのせいで個性的な役柄が多かった彼が、若くて血気盛んで、だけど嫁さんが子供を産んだ知らせを受けてから「俺も親になったんですよ」と言うのがね……。
彼を16歳の頃から目にしているとやっぱりさ……ああ、時は確実に過ぎていくんだなあ、なんて思っちゃうのだ。

で、この日本山岳会の側なんだけど、西欧の登山技術をいち早く取り入れ、登山スタイルも実にシャレてて(現代の目から見ても、そんな伊達ファッションで登るの!?とビックリしちゃうぐらい)なんつーか、いかにもおぼっちゃま集団に見えるんだけど……。
まあ最終的には、点の記には残らないけれど登山史には確実に功績が刻まれる、と測量員たちと旗信号でやりとりする場面にグッとくるものの……。

でもこの山岳会もそうなんだけど、測量員たちを命の危機にさらす国軍のオエラ方こそが、そういうベタな対照集団なのだ。
んでもって、彼らは当然、現場には出張ってこない訳で、よりいっそう、測量員たちとのギャップはもうベタもベタってほどに明らか、なのよね。
そういうベタな要素はあるんだけど、それもまた、ドラマチックになりそうな場面と同様に、提示されたままあっさりスルーされる。だからね、ああそっか、これは確信だったんだと思うのだ。

……なんかウッカリ気付いてみると、話の筋もキャストのことも全然言及してないけど(爆)。
勿論、全ての役者陣がすばらしいのよ。この作戦の陣頭指揮をとる柴崎(浅野忠信)の物腰の柔らかさ、でも一時意地を張ってしまったり。
彼を待ち続ける妻のあおいちゃんは、しかし茶目っ気タップリのラブラブ奥さんでなんかホッとするし、彼が教えを請うベテラン測量員、古田を演じる役所広司は、山のシーンが一切ないのに全てを判っているカンロク充分でさすがだし。
何より、柴崎が全幅の信頼を置いて、その信頼に応えようと奮闘する山を知り尽くした男、宇治を演じる香川氏の葛藤と敬虔深さは……もうもう、深すぎるんだよね。

そう、なんたって霊峰なんである……霊峰という価値感は、日本だけじゃないだろうか。神様が宿るお山、というか、神様そのもののお山。
宇治が山の先輩として崇める行者(夏八木さん、ピッタリすぎる……)は、この険しい山々を風のように疾走していたという。
その話があったから、神の山として崇められ、何よりその険しさ故に人の侵入を阻んできた劒岳に修験者が訪れた跡が記されていても……それほど驚かなかった。
むしろ、煩悩に翻弄される凡人が決死の覚悟で登ったお山を、達観した修験者はアッサリ登れるのだろうという、畏怖と尊敬の気持ちさえ起こった。

でもそれを、マスコミが面白おかしく書きたて、軍は激怒し、測量員たちの努力は水泡に帰した……かのように見えたけれど。
現実的な敵の脅威にだけ頭いっぱいの軍は、たかだか修験者ごときに先を越されるとは、なんて不遜なことを言った……。この時代には、力こそが力、日本が持っていた筈の先祖や及ばぬ力(自然や神)を敬う心が失われそうになっていた、のかもしれない。
だって千年前であり、苦行を積んだ修験者である。我が誇るべき日本人ならば、そんな素晴らしい先達を敬いこそすれ、そんなヤツに先を越された、なんて言う筈、ないのに。
時代というのはげに恐ろしきものである。

そして、どこかで勝ち負けを意識していた測量員たちも、悔しさを隠し切れず……でもね、皮肉なことに、それを、その苦労をリアルには判らない第三者、古田や柴崎の妻が、客観的に、そんな“負け”なんて意味ないと理解している。
修験者の凄さを敬いつつ、そこに到達したことこそ、いわば敬虔な位置に到達したことこそ凄いことじゃないかと、穏やかな笑みを浮かべ、柴崎の妻は愛する夫が帰ってくるのを待ちわび、「私は味方ですから」と、むしろそれこそが満足な笑みを浮かべるんである。

人生は、判らない。いや、人生なんて、結局数十年に過ぎなくて、だからこそ人生は……いや人間は、捨てたものじゃないって、思えるのだ。

役者だけでなくスタッフにとっても、作品自体が評価されるかとかいう以前に(勿論、評価されたらそれに越したことはないんだけど)、参加出来たことに誇りや喜びを感じる作品、っていうのがきっとあると思うんだよね。それがまさに、この作品じゃないかって気がするのだ。
出来上がる前から、恐らく同業者の間にこそ噂が飛び交っていて、その時から自分も参加したかった!と思う人たちがいただろうし、完成した作品を見て更に、余計にその思いを強くした人たちがあまたいたと思う。
そういう作品って、ヒット作品や、評価される作品とはまた別に、大いなる存在感を放つものなんだよね。★★★★☆


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