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「ろ」


2003年鑑賞作品

六月の蛇
2002年 77分 日本 アシディック・ブラック&ホワイト
監督:塚本晋也 脚本:塚本晋也
撮影:塚本晋也 志田貴之 音楽:石川忠
出演:黒沢あすか 神足裕司 塚本晋也 寺島進 田口トモロヲ 鈴木卓爾


2003/5/30/金 劇場(有楽町シネ・ラ・セット/レイト)
塚本晋也。この人を日本人はもっと誇らなきゃ、ダメだ。映画界の中でだけ、そんな矮小なところでだけで評価するのではなくて。この人は、自身の“塚本ブランド”その根底にしっかりとあるものが、全く揺るがない。“塚本監督の映画”を観に行って、違うものを観せられたことが、一度としてないのだ。そして彼は、その刺激的で鋭角的な感覚をより研ぎ澄ませながら、もっともっと美しい領域へと入っていく。女が、どんどんと美しくなっていくのだ。その意味で本作はひとつの到達点であったと思う。塚本監督が登場した時には、ものすごく衝撃的であった一方で、やはりどこか、男の子がそれをやっていて、楽しくて仕方がない、という感覚も、今からすればあったように思う。しかし彼の映画に対等の存在としての女が登場し、その肉体的痛みを共有するようになり、肉体的痛みから精神的なそれをも共有するようになると、女はその痛みの中でどんどんと美しくなり、そしてその美しさのまま、男の手からするりと逃げ出すのだ。男の手に堕ちるのはほんの一瞬。一瞬だからこそ、胸が締め付けられるほどに、美しい。考えてみれば、今まで肉体的な痛さを撮り続けていた塚本監督が、初めて真にエロスを表現した本作。

青い、モノクローム。見たことのない画面の色の美しさに打たれる。雨は幾多の作品で多用されているのを見たけれど、こんな雨、こんな凄みを感じる雨は見たことがない。ああ、確かに塚本映画は芸術なのだ。真四角に近いスタンダードサイズの画面に、窮屈そうに収まる都会のビルたちは、始終激しい雨にさらされている。まるで、オモチャみたいな街だ……そんなことを思う。オモチャみたいな都会に、私たちは生きている。生な生活感を感じられないまま。

そんな街で、ヒロインのりん子は心の電話相談室のカウンセラー、という仕事についている。彼女の言葉で子供が救われた、という中年女性が訪ねてきたり、まさに生きがいのある仕事。しかし、そんなりん子の元に相談の電話をかけてきた一人の男が、彼女を見初め、隠し撮りをし、自分の言うとおりに行動しろ、と脅しをかけてくる。それはあなたが本当にやりたかったことのはずだ、と。

男が撮ったのは、りん子が自分をなぐさめている写真。潔癖症の夫から愛されているという実感のない不満を見透かされたように動揺するりん子。男はりん子に、この写真のように短く切ったスカートをはいて街に出て、“欲しかったはず”の電動コケシを買い、それを装着して八百屋でキュウリとナスを買え、とうながす。りん子は恥ずかしさと恐怖に打ち震えながらも、写真とネガを取り戻すために男に従う。駅のトイレの窓からりん子の買ったバイブレーターを見て「こりゃ、凄いの買ったな」とつぶやく男。この台詞回しはコミカルなんだけれど、りん子自身の奥深くに眠っていた本能を暗示している言葉でもある。しかしあれだけおびえ切っていたりん子なのに、写真とネガが手元に戻ると、彼女はそのバイブレーターを自ら動かし、快感に打ち震えながら、そして、号泣するのだ。何かが、彼女の中ではじけてしまったのが、見える。

冷静で道徳的なはずのカウンセラーが陥った、自身の本能の闇。最初は男の脅しに本気でおびえているりん子が、自身のそれに気づいて自ら身を投じていくさまは、こういう描写はある意味男の理想ではないかとも思うし、そうすんなり女が受け入れるのは難しいはずなのだけれど、圧倒的なテンションと彼女に張り付いて彼女の気持ちそのままに揺れ動くカッティングで、そんな疑念をまるでさしはさむことが出来ない。やはり、大きいのはりん子を演じる黒沢あすかの、常にその緊張感に汗ばんでいる熱演によるところが大きく、彼女が、同じ超ミニスカートをはいていても、一度目と二度目では大きく違うのが、ひどく生々しい説得力を持ってこちらに迫ってくるのだ。一度目は、彼女は羞恥心だけにとらわれていた。しかしそのことで殻を破られ、二度目に至るまでには彼女の中で生死を賭けた煩悶と、愛情に対する苦しみがあった。だから、一度目と二度目の彼女のミニスカート姿は、まるで、別人なのだ。双方共に大きな覚悟がある。でもその覚悟の方向性が大きく、異なるのだ。

いつも、一体どこからこんな女優を見つけてくるのか、と思う。本作のヒロイン、黒沢あすかは、しかし今までもスクリーンの中に彼女を見ていたはずなのに、まさに塚本映画では開花するのか。まさに、これが女優なのだ。世の“テレビ女優”よ、見よ!と叫びたくなる、素晴らしさ。確かに今は、全身さらけ出すぐらいなら大したことではないのかもしれない。あるいはセックスシーンなども、そうなのかもしれない。でも彼女が豪雨に打たれ、カメラのシャッター音とフラッシュを連続的に浴び、その女の奥深くにはバイブレーターをくわえこみ、獣のような叫び声を浴びながら、次々と服を剥ぎ取り、ハイヒールだけになり、扇情的にその裸身を躍らせるシーンには、息も出来なかった。小さめの胸、太目の足。日本人女性にとって劣等感を持つそのヌードが、こんなにも生々しく真に官能的なのかと、本当に驚く。このシーンはまさに本作のクライマックスで、これを演じきることの出来る彼女がいなければ、成立しなかった。このシーンは信じられないほどに官能的なのだけれど、その一方でひどく切羽つまったものを感じて、観ているこっちは見とれるというよりも、知らず知らず身体に力が入って、そのことにも気づかず、そのシーンが終わって、ふっと力が抜けた時、ああ、こんなに身体に力が入っていたんだ、と気づく。

りん子の夫は、一流企業に勤める年の離れた男で、潔癖症。いつも部屋のどこかをゴシゴシと磨きたててて、夜、りん子が目覚めるとベッドを離れ、揺りいすに寝ている。この禿げ上がって少し中年太りの禁欲的な夫に、「仕立て屋の恋」を思い出したりする。潔癖症ということは、この夫にとってセックスもまた汚いものに違いなく、だからこの若い妻に手を出すことがない。りん子が自慰というには実に大胆な行為に及んだ写真を撮られたのは、そんな彼女自身の不満や鬱積を語ってあまりある。

りん子にストーカー行為をしていたカメラマンの男は、今までモノの写真しか撮れないことにコンプレックスを感じていた。カウンセラーのりん子に出会って、初めて人物の写真が撮れたことに、喜びを感じる。彼はまた、ガンに侵されていて余命いくばくもなかった。男は自身の経験から、そしてりん子を見つめ続けたことから、彼女の乳ガンを発見してしまう。りん子は乳房をとることに異様に動揺する夫を見て、手術に踏み切れない。そして彼女はある行動に出る……。

このストーカー男に扮するのは監督、塚本晋也。他の監督の作品に出演している時や、監督としてメディアで見かけるときはとても穏やかな人なのに……自作ではどうして彼はこんなに恐ろしいんだろう。ガンに侵されているにしては、筋肉が妙に発達している……などと思ったりもするのだけれど、それもまた、この男のどこか妄想めいた切迫感に拍車をかける。目が、凄い。どうしてこんなに恐ろしい目をするの。あんなに優しげで穏やかな人なのに。自分が思い続けているりん子が、夫のために乳房を切り取らずにいることを知った彼は、強烈な嫉妬感に駆られながらも、彼女に魅入られたように雨の中、ひたすらシャッターを切り続ける……。

このクライマックスシーンは、視姦、などという言葉を思い出してしまう。いや、このシーンでなくても、隠し撮りをされ続けた、それはまさに、視姦ではないかと。でもこの男が映すりん子の写真は、そのエクスタシーのただ中にいる写真にしても、日常生活の中で無邪気に笑うそれにしても、本当に愛情そのものを、感じずにはいられないのだ。常に監視されているということは、常に見守られているということ。愛は幸せな感情だけで構成されているわけではない。逆にそうだとしたら、それは愛ではない、と思う。恐怖におののくほどに相手の感情を感じることが出来る、それは究極の愛なのではと、思う。一方的な愛だけれど……こんな風に愛されたい、と思う。視線による強姦だとしても。

夫のために。きれいな身体のまま死ぬことを、りん子は選んだ。夫のため、きれいな体のままの姿を撮ってもらう為、男のカメラにりん子はその身をさらした。りん子の行動に不審を抱いていた夫は、彼女のあとをつけ、この扇情的なシーンを見てしまう。知らずにマスターベーションをしてしまう夫。こんなりん子の写真を撮っている男に嫉妬を感じ、男のおびき出しに応じてしまう夫は、りん子の病気に気づかなかった、それでも彼女に愛されている夫に嫉妬する男の暴力によって瀕死の目にあう。

“それでも彼女に愛されている” そうだ、そのことを、この期に至るまで夫自身だけではなく、観客であるこちら側も、判らなかった。夫のために、きれいなままの身体で死にたいと手術を受けなかったりん子。そんな彼女と、ラストで初めて交わる夫。そのシーンは……乳房を失った彼女を夢想し、実際はまだそれを蓄えている彼女を現実に見る夫……何という不思議にアンビバレンツな哀しい愛なのだろう!映画には、本物の映画には本物の愛が生きていて、そしてそれを持ち得ない自分に、やりきれなくなる。

惹句にもなっている「一緒に地獄に行きましょう」という台詞。りん子への男からの脅しの電話で囁かれるその言葉は、その時点では驚くほどライトな響きだった。総てをあきらめきった男の、諦念の響き。そして総てが破滅へと向かって進んでいき、ガンが進行した男から最後の電話がかかってくる。「じゃ、俺、いくわ……」それに答えたりん子「私も、すぐに、行くわ」その場面に踊り出てくる夫は、そこに男がいると錯覚して銃弾を撃ち込む。しかし銃弾が撃ち込まれたのは、吊るされた男の服だった。夫を見つめる、涙をためたりん子の、目。りん子は、この瞬間をずっと待っていたのかもしれない。夫が自分を愛してくれているという、確証を持つための瞬間を。でも、判らない。先に逝く男に対しての、地獄への道行きを了承するかのようなりん子の返事もまた、また違う愛を感じなくもない。あるいはそう考えなければ、あの男が可哀想過ぎる。

夫が男に連れ込まれる、殺人クラブのシーンは衝撃。男が死の直前に持ち出した懐かしげなピンホールカメラを思わせる、視界を狭めたアイカメラを装着させられ、水槽に溺れ死ぬ人間を見て楽しむという、悪趣味な場である。奇妙なアイカメラを装着したまま右、左、と頭を動かす中年男たちの集団は、ひどくブキミである。「カンパニー・マン」で似たようなシーンがあったけれど、これを自覚的に、娯楽として受け止める人間たちに、そりゃこれはフィクションに違いないんだけど、あり得ると思って……それがコミカルなだけに、笑うわけにもいかなくて、戦慄する。塚本作品はいつでも、観ているだけでスクリーンの登場人物が受けている肉体的痛みを実際にこっちも感じているような錯覚に陥り、だからこのシーンは、知らずに首元を押えてしまうぐらい、苦しかった。その一方で、人が死にゆく場面を娯楽として観賞してしまう人々を……ある意味映画も似たような部分があるから……もっともっと、辛かった。コミカルに描写されているのが、これ以上ない皮肉に感じて、身体が、動かせなかった。

本当に、人を愛せているのだろうか?愛されたいと思っているだけではないのか?愛してくれる人ならば、愛することができると、そんなことばかり思って、自分自身で愛することに、ブレーキをかけているのではないか?そんなことを、思ってしまう。死に直面して、誰かを愛していることを自覚して、死を賭してまでここまでの行動をとることが出来るのか。あるいは、それが出来なければ、人を愛せる人間とは言えないのではないか、と。美しいまま、死ぬ。醜くなって死にたくない。それは、思う。でも……愛する人のために、それが出来るかというと、でも誰かを真に愛さなければ、一体人間として価値があるのだろうかと、突きつけられているようにさえ、思う。

塚本映画は、残酷だ。★★★★★


鹿鳴館
1986年 125分 日本 カラー
監督:市川崑 脚本:日高真也 市川崑
撮影:小林節雄 音楽:山本純ノ介 谷川賢作
出演:菅原文太 浅丘ルリ子 石坂浩二 中井貴一 尾美としのり 岸田今日子 沢口靖子 井川比佐志 渡辺篤史 浅利香津代 平野稔 横山道代 丸岡奨詞 三條美紀 常田富士男 遠藤征慈 佐々木勝彦 三橋達也 高林由紀子 井上博一 森田遙 神山繁 浜村純 佐藤正文 清末裕之 井上浩 川崎博司 永妻晃 倉尾烈 保木本竜也 小林一師 田辺千秋 茂木繁 小柳金弘 早田文次 藤堂貴也 牧村泉三郎 神崎智孝 入江隆

2003/10/3/金 東京国立近代美術館フィルムセンター
三島由紀夫の原作で、しかももともと戯曲。ということを知らずに観て、あとから今更ながら原作戯曲を読む。思ったよりも映画に際しての改変はないのだけれど、その少ない改変は、いずれもよりドラマティックな効果をあげているのがさすが、と思う。例えば、討ち入りを止めてくれとかつての恋人、清原に朝子が進言する場面は、原作では彼を呼び寄せるのに対し、映画では彼のもとに彼女自らが出かけてゆき、より秘密の匂いを濃くしている。清原の息子、久雄には原作では兄弟がたくさんいるんだけれど映画では一人しかおらず、そのたった一人の弟は、兄の久雄と違って父親の理想化肌を素直に受け継いでいる。だけどこの弟は父親も兄も同等に敬愛していて、父親とどうしても相容れることの出来ない久雄は涙を流しながら、父上をよろしく頼む、とこの可愛い弟に言い残して去ってゆく。朝子の忠実な女中であった草乃が主人の影山にたぶらかされてあっさり寝返るのも、映画の方が合理主義で迷いがなく、残酷である。舞台で演じられることを前提とした戯曲を読み物として読む時に特有な、少々冷静なトーンで受け止めてしまう印象が極力排除されていることを感じる。

しかし、ヒロインである朝子を演じる浅丘ルリ子の演じ方、言い回しには、こうした戯曲特有の匂いが残る。彼女自身があえてそうして演じているようにも感じる。彼女には原作で他の登場人物に言わせている台詞などもかなり詰め込まれていて、まるでいつでも時間が足りないみたいにおせおせで喋っており、舞台調の趣がある。それは若い俳優たち、特に中井貴一あたりが、そうした匂いをなるべく消すように努力して演じている風であることと、実に対照的。しかしだからといって浅丘ルリ子のそのやり方が映画の中において不自然なわけでは決してなく、まさにヒロインの、女主人の、妖艶な存在感が、まさに舞台そのもののように際立つ。浅丘ルリ子は三島由紀夫の匂いを残そうとしているのかな、と思う。

中井貴一!いやー、若い。彼は今でこそ文句なく上手い名優だけれど、この時には真摯な演技は見せているものの決してそこまではいってなくて、やっぱりただただ若いだけである。でも声がいいんだな。今と変わらない。その背筋のまっすぐさも変わらない。でもやっぱりやっぱり、今の方が格段に上手いんだな。昔から変わらない役者もいるけれど、彼は成長するタイプなんだな。
その相手となる沢口靖子は、この頃から今ひとつパッとしない。これは今でも変わらない、ような気がする。確かにお嬢様、っていうキャラクターは体現しているのだけれど、彼女が久雄(中井貴一)との燃えるような恋をしている、というのがまったくもって伝わらないんだもん。彼が死んだら後を追う、とかあいまいな笑顔で言われても、ふーんとか思うだけで全然切実さがない。なんといっても彼女、目のでかすぎる浅丘ルリ子と妖怪女優の岸田今日子に常に挟まれているもんだから、薄くなるのもむべなるかな、なんだけど。でも中井貴一は浅丘ルリ子とも菅原文太ともきっちりとタイを張っているわけだからさあ。

浅丘ルリ子演じる朝子のダンナであり、政界の実力者である影山を演じるのが菅原文太。今よりふくよかで立派なひげをたくわえていたりして、何かチャールズ・ブロンソンみたい??なんにせよ、「仁義なき戦い」の精悍さでもなく、現在の枯れた渋さでもなく、思いっきり、バリバリに男くさいから結構ビックリ。それとまさしく対照的なのが彼の敵、理想化肌の清原を演じる石坂へーちゃんであり、ほおんと、このお坊ちゃまくさい純粋さが完璧に似合ってるんだな。キレイな目ぇしちゃってさ。純粋すぎるほどに理想を信じる彼。少しでも俗世に汚れることが我慢ならないがゆえ、父親のためにと汚い部分を請け負おうとしていた長男を突き放してしまう。いい右腕になっただろうに……。やっぱり彼も今よりふっくらとしていて、でも菅原文太がそれによって男くさくなったのに対して、彼は若やぎ、青年ぽさを感じさせる効果になっているんだな。

何かねえ、やっぱりイイ男だよね、って思うもん。それになんといってもドキドキなのは、浅丘ルリ子と心を通じ合わせるシーンであり、そうだよね、この頃はまだ二人、夫婦だったわけだし……とか思うのよね。でもね、へーちゃんはホント、実に若々しいんだよなあ。浅丘ルリ子はもはやすでに、何か老いてるわけ。やせぎすで。近年「木曜組曲」とかで、彼女の老いにたじろいだぐらいなんだけど、この時からもうその兆しが見えるんだよなあ……。その点、ホント、へーちゃんは若々しい。彼女の名誉を守るためにと、討ち入りを断念するロマンチストっぷりがまた似合うんだ。そして二人は見つめあい、彼が彼女の腕をつかみ、さすり、そろそろと抱きあい、頬と頬を重ね合わせ、……あー、いいな。たったこれだけの描写だけでドキドキできるのって、ホントいいなと思っちゃう。

うーむ、しかし浅丘ルリ子はホント目がでけぇよね。アイラインのつけ方も確かに強調するような独特さがあるけど、それにしたって、ホントでけぇ。少女漫画ばりに目が顔の半分くらいある、冗談じゃなしに。この目じゃ他の女優は確かにかなわないよなあ。沢口靖子なんてまさしく問題外。岸田今日子はさすが枠外だから(?)動じてないけど。それに、カッコいいんだよなあ。洋装の女たちの中で一人そそと和服を着ている時もポリシーを感じてカッコいいし、鹿鳴館での舞踏会のためにデコルテを身にまとうと、周りの女たちの言の通り、本当に彼女だけが特別に見えるのだもの。ゴージャスなドレスだとはいえ、紫のシックな色合いなのに、女主人の風格もたっぷりで、美しさよりは、カッコいいのだ。てきぱきとパーティーの準備を指示するのが堂に入っているのも当然。それに、(ニセ)壮士たちを、階段の途中で阻み、「そんな抜き身など怖くありません!私を殺してから行きなさい。情けない、女一人殺せないの」と、立ちはだかる彼女の何と鬼気迫っていること!このシーンはまさにクライマックスで、台詞から何から原作と変わりないんだけど、彼女の中に確かにあるはずの恐怖を凛とした緊張感に変えられるのは、さすが、浅丘ルリ子なのだなあ、と思う。この場面を演じられる、という部分を考えたら、確かに浅丘ルリ子以外考えられないのよね。

でもその朝子が、女の幸せを、ようやく気づいた女の幸せをつかもうとした時、愛する人たちは皆死んでしまっている、のだ。まずは息子、久雄が、父親の銃弾に倒れる。最初こそ、それが清原の裏切りのせいだと思い、彼を責めた朝子だったのだけれど、実はダンナの影山によるワナだと知る。朝子は、私は清原についていきます、と言い放つものの、その時、清原は自らこめかみに銃弾を撃ち込んでいるのだ……。理想主義者の清原らしい最期。影山によるワナだ、ということは、原作では清原自らがバラすのだけれど、映画では清原は自分からは何も釈明せず、事実があらわになった時、「あなたに判ってもらえたなら良かった」と言い残して去り、そして自死するのである。これもまた、へーちゃんだからこそ、そうなったんだなと思う。へーちゃんは自分から言い訳めいた釈明をする感じじゃないもん。じっと黙って、真実が明らかになったら、しずしずと退散する、こういう感じが確かにへーちゃんだもんね。役者のキャラが変えさせたんじゃないかなあ、このあたりは。

影山は、原作の方が弱い人間。映画では、久雄を陥れるあたりもやたら憎々しい感じのヤーなヤツで、これが朝子への愛情のためにしたことだと、つまりは嫉妬なんだというのは、映画よりは原作の方が納得できる感じ。菅原文太のキャラが強すぎる、のかもしれない。彼のおつきの渡辺篤史は、そう彼はやっぱりイイ声よね、さすが。中井貴一よりイイ声。声にひたすら聞き惚れる。そして一人コメディリリーフなのが天骨役の井川比佐志。感情をまじえずに人殺しが出来ることを自慢にしている彼は、流血マニア。「お前が血の話をはじめたら際限がない」というのは原作にも映画にもある台詞だけれど、そのブラックに可笑しい感じが実に的確で笑ってしまうのだ。でも結局は自分勝手なヤツで、影山ご主人命、である赤星以蔵(渡辺篤史)に殺されてしまうのだ。あ、この赤星役、原作では存在しない!のだ。でも凄く効いてるし、存在感のある役。こういうのが役者冥利につきるんじゃないのかなあ。

「愛情より憎悪が人を動かす」この台詞が何より、この物語の真をついている。そして真実をも。愛情は尊いものだけれど、憎悪の強さには勝てないのだ。華やかな鹿鳴館での、美酒、音楽、ダンスにのって描かれるのはそういうこと。辛い話。★★★☆☆


ロボコン
2003年 分 日本 カラー
監督:古厩智之 脚本:古厩智之
撮影:清久素延 音楽:パシフィック231
出演:長澤まさみ 小栗旬 伊藤淳史 塚本高史 鈴木一真 須藤理彩 うじきつよし 吉田日出子 荒川良々 平泉成

2003/9/19/金 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
たまんない、たまんない!たまんないのよおおお!まったく、紅一点の長澤まさみちゃん!どおしてこんなに可愛いのよおお!正直、この子を写真で最初に見た時は何かやぼったいというか、ぜえんぜん、ピンとこなかったのに、「なごり雪」「黄泉がえり」で動いている彼女を見て、あ、何かナチュラルな揺れがいい感じかも、と思い、で本作ではもうもうもう、ノックアウトなの!ま、まさかこんなに可愛い子だったとは……。“すくすく”という音が聞こえてきそうな(なんだそりゃ??)まっすぐさ、きっと世の親御さんたちは、こんな娘が欲しいと思うに違いない。100パーセント全開の笑顔のなんという魅力。こんなに笑顔が魅力的な女の子と出逢ったのは、三輪明日美ちゃん以来じゃないかと思うほど。それほど、それほどまったく持って驚異の逸材なのだ。いやー、私の目はいかにフシ穴だったか。劇中披露する歌の上手さといい(ホントに上手い!)力の抜けた独特のエロキューションによるニュアンスのつけ方の自然さといい、その顔立ちの和やかさからは想像できない、手足の長いプロポーションの良さといい、なるほど、まさしく東宝シンデレラ、なのだわ。

とと、まさみちゃん礼賛で興奮してしまった。我を忘れるのよー、この可愛さには。しかししかし、もちろんこれだけひれ伏すぐらい大感激するのは、いっくらなんでもまさみちゃんだけの話ではないわけ(当たり前だ)。とかいいつつ、正直物語自体はクライマックスのロボコン本選までは割と牧歌的な感じで、ま、そこがなんともカワユイんだけど。でももちろんそこをつないでいるのがまさみちゃんのかわゆさであり、彼女は冒頭から、その無敵の笑顔とブータレ顔をくるくると入れ替えさせ、「ロボコン」のニュアンスの違いでクスリと笑わせ(正しい発音をケッという感じで言うのが上手いんだな〜)、最初から観客のハートをわしづかみにするんである。粛々と、とでも表現したいような話の運びも、この子の魅力で連れて行ってくれる。ここは、絶対計算の上。だってそれが出来ると確信するぐらい、このまさみちゃんが素晴らしいんだもの。

お話は、というと、高専によるロボコンを目指したスポコン?物語。工業地帯を抱える町での学校生活。部員を大量に抱える第一ロボット部と、居残り授業を回避するためにまさみちゃん扮する里美が入らされた弱小第二ロボット部。第二は予選一回戦でアッサリと落っこちる。勝つ気どころかやる気自体が感じられなかったメンバーにイライラする里美は、自分の中にある意外な情熱に気づかされる……という場面のまさみちゃんもまた、上手いんだよなー。どう表現していいのか判らない、そのモヤモヤした気分を全身で、しかも実にナチュラルに見せてくれる。で、落ちたはずの第二なんだけど、そのロボットの形状の面白さが評価され、優勝した第一とともになんと全国大会にコマを進めることに。ロボコンおたくな部長、天才肌で完全主義者の相田、技術の腕はピカイチだけどちゃらんぽらんな竹内、そしてこの落ちこぼれの里美が、改良ロボット製作、そして大会での戦いを熱く青春してくれちゃうのだ。

高専、というのは、恥ずかしながら今回初めて知った。高校、ではなく高専。五年制の、即戦力を育て上げる学校。で、このロボコンの大会シーンでは、全国の高専生たちがそれぞれの実際のロボットとともに大挙出演しており、このガテン系のかっこよさときたら、ちょっと、ないのだ。だってもう、ホンモノだもんね、リアルだもんね。いわゆる映画チームであるこの四人はホンモノの高専生たちとマジバトルを繰り広げ、この対戦シーンは監督も言っていたけれど、カッティングで逃げることなどせず、まさに実際の、戦いなのである。この映画の白眉は何たってそこにあって、監督自身が脚本を手がけるその対戦の面白さ、スリリングさを様々種々取り上げて、決勝に向けて徐々に徐々に盛り上げていくのがほおんとに、見事。このロボコンバトルが、それまでのシーンに意味を与えてくれるのだ。そして彼ら四人、役者としての上手さはもちろんあるんだけれど、それ以上に、この若い年頃でしか持ち得ない、演技を忘れた真剣さ、みたいな部分が、特にこの場面に奇跡的なぐらいに引き出されているのがなんといっても素晴らしいのだ。ロボットを段から降ろし、たたた、と駆け寄るまさみちゃんの素な感じがイイんだわあ。

第二は一回戦、二回戦と勝ち進むんだけど、ここでは彼らに歓喜の色は見られない。彼らの武器である、一気に箱を積み立てるのが上手くいかなかったり、勝ったはずなのに相手のロボットの魅力に完全に持っていかれちゃったり。予選でのふがいなさにイライラしていた里美はこの本大会に「勝つ以外、何があるんですか」と言って燃えに燃えるんだけれど、図師先生が言うとおり、確かに勝ち負けだけが問題じゃないところに、このロボコンの素晴らしさがあるのだ。とか言いながら、第二は最終的には優勝の栄冠も勝ち取るわけだけれど、でもそれは、彼らがロボットへの愛情を取り戻したことが大きな要因。ようやく納得のいく勝ち方をした三回戦でまさみちゃんが見せた全開の笑顔と深々と下げた頭が、そのことを語って余りあるのだ。昼休みに、このロボット、BOXフンドとの信頼をとりもどす里美の背中をそっと押すかのような、吹奏楽の「蘇洲夜曲」からズルズル泣き出していた私は、たまらずドバッと落涙。もう、ダメ。

うーむ、どうしてもまさみちゃんの方に話がいってしまうぜ。いや、もちろん、チームである他の男子三人も素晴らしいのよ。実質彼女の相手となる天才肌の設計士、相田を演じる小栗旬は、「あずみ」の時にはちいっとも心動かされなかったけど、ここでのハカセっぽいキャラが実に美しい魅力なの。まさみちゃんに気をとられながらも、彼のクールな美しさに心の中でキャーキャー言う私(ミーハー……)。サラサラヘアーを無造作になびかせ、キラリ眼鏡が実にそそられる。途中で里美に殴り飛ばされて眼鏡が壊れ、コンタクトにしちゃうけど、でも彼のクール、いや不器用な美しさがホント、いいのよね。彼は自分のどこが悪いのか、どう治していいのかが判らない。それを自分と正反対でどうも相性の悪かった竹内(塚本高史)に指摘されケンカになるんだけど、でも竹内の、「もっと他人を見ろ」という言葉で彼が成長していくところから、私の涙腺の蛇口がひねられ始めたんだよなー。

その場面は、物語も中盤、改良ロボット作りに煮詰まった彼らを顧問の図師先生がつれてきた海沿いの温泉旅館での合宿。その旅館を手伝わせて、硬くなった頭を柔らかくさせるのが先生の目的だったんだろうけれど、精神的にも彼ら、特にこの相田君は大きく成長するわけで。笑顔を作ろう、お客さんに親切にしようとガチガチになっていた彼が自然におばあちゃんに手を貸してあげられるようになり、そのおばあちゃんから何度も何度も頭を下げられて、ぽーっとしながら彼も頭を何度も何度も下げ返すあのシーン、その時の、彼の充足した表情、何かたまらん、涙が出るんだよー。なんていうのか、これは本当に、未熟な彼らの成長物語なわけで、相田君は無表情そのものだったし、竹内君の笑顔は皮肉というか意地悪っぽかったし、部長(伊藤敦史)の笑顔は卑屈でオドオドしていたのが、みんなが真の、幸福な喜びいっぱいの笑顔になっていくのが、その笑顔がもう、たまらんのよ。涙が、涙が、止まらんのだよー!!!(絶叫)

竹内君の見せ場は何たって、あのちょうつがいの故障を見て取り、自分の携帯電話をさっと取り出してドリルで穴をあけ、見事な手際でささっと取り付けたシーンである。鳥肌立ったもん。ウワー!とばかりに盛り上がる場内に、またしても涙、涙(泣きすぎ)。あの時の、竹内君のえ?みたいな放心した顔がいいんだよなあ。いつもの自信満々の顔と全然違う。

そして部長役の伊藤敦史。彼を映画で見るたびに思うけれど、ホントにイイ役者、いい若手。気弱な、自信のない、使いっぱしりのリーダー、でも誰よりもロボコンが大好きな彼は、実は他のロボットの性能を見極める知識や、絶体絶命の事態を打開するアイディアを持ち合わせているのだ。そうやって本当に頼れるリーダーに確実に成長していく彼にもまた涙ドバーなのだ。だって、だってさ、彼、本当に、本当に嬉しそうなんだもん!「相田は天才肌だから」と設計には一切口出しせずに、黙々と部品作りにだけ励んでいた彼がさ、相田君にも思いつかなかったアイディアを彼に採用され「悔しい!」とまで言ってもらえて、「どうやって思いついたの、教えてよ!」と再三突っつきまわされながらひたすら笑いまくるのが、見てるこっちまで嬉しくなっちゃって、たまんないんだよなあー。そんな彼らをほけっと見つめるまさみちゃんの表情がまた絶妙でさ。ここでは彼女が笑顔じゃない、ってところの表情の選択がなんともヨイ。

あくまで彼らは仲間で、青春で、恋愛の匂いはないんだけれど、でもほんの、ほんのかすかに、里美と相田君の間にあるのよね、そういう空気が。彼女の手を抜かない体当たりの一生懸命さと、時に直球で、時にテレたように言う「ありがとう」と(この美しい言葉を、この可愛さで、しかもバージョンを全部変えて言ってくれるまさみちゃんの素晴らしさよ)なんといってもあの100パーセントの笑顔が相田君に少しずつ笑顔を与えてくれ(そりゃ、そーだよ。あんな笑顔見せられたら、抗えないもん!)、そしてそして最後、感動の優勝の瞬間には、彼は一直線にドライバーの彼女に走っていって、ギューと抱きしめるのよー。キャー!てなもんよ、あーもうたまらんわあ。最後の涙振り絞りまくっちゃったわよ、ホントにもう。
それにしても、この決勝戦は本当に見事だった。てっぺんに箱をぽてっと落とす一瞬にはこぶしを突き上げて歓声をあげそうになっちゃったよー!

大会前夜に、重量オーバーだったBOXフンドの重さを減らすため、遅くまでかかって作業をするシーンのリリカルさも忘れちゃいけんのだ。初めてマジメに作業をする竹内君にもジーンとするが、全員力を合わせて作業を終了した後、図師先生の差し入れてくれたラーメンを皆ですすりながら、「こういうの、夢だったの。文化祭ってこんな感じかな。本気で頑張ったの、初めてだから」とつぶやく里美。お約束な感じもするけれど、やっぱりやっぱりグッときちまうわ。思えば予選の時、やる気のない彼らにイラだった彼女は、他の学校の子達が和気あいあいと作業をし、差し入れのカップラーメンとおにぎりをわいわいとほおばっているのを、「いいなあ」と眺めていたんだもんね。実はこのラーメンの食べ方は、女の子のまさみちゃんだけすすっておらず、うーむ、最近女性は皆こういう食べ方するけど、ラーメンの食べ方としてはルール違反なのだー!可愛いからいいけどさッ。

実は何気に頼りないところがオチャメな図師先生(鈴木一真)もなかなかいいのよ。それにしても図師、とは名前が物語るよなあー。彼は本当にロボットに対する純粋な愛情に満ちている人。もともと第二ロボット部を作ったのだってそういう理由からだったわけだし、教員室にポップなロボットがいっぱい置いてあるしさ。それにしてもあの目覚ましロボットは凄い。一緒に寝ているというのがさらに凄い。オッパイを連想させるダイヤルがまたチャーミングで、しかしもっと凄いのは、あの騒音(だよなー、もはや)にも微動だにせずに寝ている恋人である保健のセンセ(須藤理彩)だ。お、この二人は彼女がデビューの朝ドラ、「天うらら」のカップル復活ではないですか。大人の女性を演じている彼女。年月を感じるわあ。

第一ロボット部のリーダー、荒川良々のスバラシさも落とすわけにはいかない。いやー、すっごい、すっごい、この独特のユーモラスがこの映画の雰囲気に、ジグソーパズルのピースがはまり込むようにビタッとはまってさあ大変よ(?)。相田には勝てない、と言い続けるこのリーダー、実は相田君に憧れ続けているのだろうな、というのが判るのが可愛くてしょうがないんだもん。憎まれ役なはずなのに、どうしたって憎むわけにはいかないぐらい。第二に負けてしまって、その第二がボンベを切らして困っている時(この時の、相田君と竹内君の、不条理な言い合いがたまらなく好きッ)差し出すのを拒否されるのがなあんか、可哀想なんだよなあ。でもそこもまた、彼の彼らしいところなんだけど。優勝した第二を「チクショー」「クヤシイー!」と人海戦術のパネル文字で迎える彼ら。うッ、か、可愛いよー。憎まれ役のはずなのに、憎まれ役のはずなのに、憎めるわけないじゃないのよ、こんちきしょー!

古厩監督、長編はやっと三作目だけれど、メジャーは初。第一作と第二作の間に大きなブランクがあり、第二作で驚くほどの完成度に持っていきながらも、思いっきり内省的な映画になっていたけれど、今回初メジャーとなる本作では、第一作の時に感じられた、あったかハートフルで満タンにし、しかもメジャーを撮りながらまるで変わらない、ひとつも溺れていないのが凄いかもしれない。人気のある役者もチラホラいるけれど、その威光に引きずられていないマイペースさが。

この映画、海外に出したいなー。こういう映画こそ、海外に出したい!
ガテン系のカッコよさ炸裂。工業、高専の学生たちは、さぞかし誇りに思うだろうし、そういう世界を知らなかった側も目を見開かれる。かつて自分が住んでいたり、生まれ故郷の学校がクレジットに名を連ねていると嬉しくなる。全国に、こうした、本当の意味でのカッコいい奴らがいっぱいいるということなのだ。日本の未来は政治家だのマスコミだのではなく、彼らこそが作り、変えていくのだ。カッコイー!

「スポコンだな」「ロボコンだよ」いやー、青春!★★★★★


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