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「ぬ」


2010年鑑賞作品

nude
2010年 106分 日本
監督:小沼雄一 脚本:小沼雄一 石川美香穂
撮影:早坂伸 音楽:宇波拓
出演:渡辺奈緒子 佐津川愛美 永山たかし 山本浩司 光石研


2010/9/21/火 劇場(シネマート新宿)
原作者で劇中、先輩AV女優役で特別出演もしているみひろ嬢のこと、私知らないなあとか思っていたら、知らないどころじゃない、ちゃんと映画のヒロインで一度見ていた(爆)。
それは役どころもあってか、ちょっとなかなか見るにツライところもあったのだが……。あの時“人気セクシーアイドル”ってな肩書きのアイマイさに、それってなんだろなあと思っていたら、“元AV女優”という説明の方がナルホド、と納得するんである。
劇中での彼女の来し方を見ると、望むべくしてAV女優になったんではなく、いわば逃れられない流れによってならざるを得なくなり、そして今は、“AV”という肩書きの取れた“本格女優”として、これぞ望むべきこととして活動しているんだという。

本作のほんのちょっと前に「名前のない女たち」も公開され、AV女優さんたちの半ドキュメントな原作の映画が立て続けに公開されることこそに、AV業界の成熟やあるいは飽和状態、波や凋落なども含めて、今この時期というタイミング的なことがあったのかなあ、とちょっと興味深くも思った。
「名前のない……」はあまたのインタビュー記事から劇映画として作り上げたものだし、本作の原作も自伝的とは言いながらも“フィクションを交えた”ものであると明言されている。そのあたりはリアルにAV業界を糾弾する、とまではいかないのだろうけれど、この奇妙な“半ドキュメント、半フィクション”の一致こそが、AVという世界を示しているようにも思えてしまう。

冒頭、時間軸が展開の後半のところでまず映し出される。はからずしてAV女優に足を踏み入れることになったヒロイン、みひろが「AVにもちゃんと台本がある」とモノローグして、「もっと強く」とか「イキそう」とかいうハズかしい台詞にマーカーを引いて、色々に調子を変えながら熱心に復唱している場面がある。
AVの受け手であるこちら側は、まあ頭のどこかでは台本があるんだろうとは思っていても、理想としては、これはドキュメントだと思いたい気持ちで見ていることを考えると、なんだか不思議な符合だなあ、などとも思うんである。

そして彼女が、「ホントにエッチするんだよ。(Vシネとかのカラみとは)全然違うよ」と涙ながらに訴えたことを思うと、余計にそんな、ウソものなんだけど、ホントの部分が重すぎる、みたいな……。
そのウソとホントが、演じる方と受け取る方では重みが全然違う、逆転するんだということこそに、こういう題材の作品が作られる、意味、凄みのようなものがある気がしてさあ……。

とはいうものの、実はこのみひろの半生に、それほどシンクロ出来る訳ではないんである。こっちの方が、「名前のない女たち」より、一人のAV女優自身の体験を綴っているんだから、リアルであるに違いないんだけれど、彼女の言動やその先を決める決意には多々、??な部分も沢山あるのだ。

例えば、芸能人になりたいという夢を持っていた彼女が、それなりに自分が美人だということにも自覚があった彼女が(友達からそう言われても決して否定してなかった)、最初にスカウトされた芸能事務所以外に、つまりヌードの仕事からAVを経てメジャーになっていこうという方針のところ以外に、もちょっとマトモな(などと言ったら怒られちゃうだろうが)事務所だって探せた、もう一度スカウトの声をかけられるように渋谷でも原宿でもそぞろ歩けば良かったんじゃないのかしらん、などと思っちゃったりもしてさ。

劇中、彼女が事務所で仕事の打ち合わせのために待機してると、同じ事務所に所属している女の子の父親が「うちの娘は騙されたって言ってるんだよ!」と怒鳴り込んでくる場面がある。みひろのマネージャーがその父親に対応するんだけど、「うちは決して強要はしてません」と。
実際、強要はしないんだよね。みひろに対しても最初からヌードグラビア系の仕事から始める事務所だと説明し、興味があったら連絡して、と、決して最初から引っ張っていくことはしなかった。

ただ……みひろが「AVはしない」ことを条件にしていたことを知っていたのに、外部のプロデューサーから「ヌードはやる、Vシネはやる、でもAVはやらないじゃ、中途半端じゃないの?」とキツい言葉を投げかけさせてまで、みひろをその世界に引き込む、のは、これは確かに“騙した”と言えるんじゃないのかなあ……。
そりゃあ現実にみひろ嬢はAVの仕事をしっかりこなして、つまりケジメをつけてメジャーの世界に今挑戦している訳だけど、ここまで引っ張ってきて、AVをやらなきゃもう面倒見ないよ、なんていうのは、もうここまできたらそれなりに顔も知られちゃってるし、つまり他の事務所なり、あるいはもう思い切って足を洗って他の仕事をするなんてことも、ムリになってくる訳じゃない?

なんかこの、計画性のあるがんじがらめなAV女優への道が、いくらマネージャー役が真摯な雰囲気を醸し出す光石研で、彼女のそばをぴたりとついて離れなくっても、やっぱりやっぱり、彼女はいくらでも、どの段階でも、違う選択が出来たような気がして仕方なくてさあ……。

いや、プロとしてAV女優の道を極めた彼女に対して、そんなことを言うのはそれこそ失礼なのかもしれないが……。
でもね、確かに興味深くはあった。彼女はAV女優として、最初からスター街道を約束させられた状態でのデビューだった。それはまさに「名前のない女たち」で、最初からAV女優としてスカウトされたルルとは全く違う道筋だから。
まあだから余計に、みひろが、“いいように騙されてこの道に入らされた感”を見ていて感じてしまったのよね……。
ヌードモデルと聞いて最初は引いていたんだもの。それだけで、引いていたんだもの。でも最初からテレビに出られるような芸能人にはなれない、ともっともな説得をされて彼女はヌードを決意する。カメラマンに甘い言葉を囁かれながらポーズをとることも、快感になってくる。彼氏や友達に責められても、みひろは仕事をやめないんである。

……正直ね、このシークエンスで、みひろがヌードモデルに関してだけでも、もっと観客側に誇りを感じさせてくれたら(いや、実際の彼女自身は、きっと本当にプロとしての誇りはあったんだろうけれど)、そこからAV女優に行くことへの葛藤も、別に騙されてやらされたんじゃなくって、ステップアップとして、プロとしての葛藤と思えたんだろうけれどさ……。
物語の組み立て上仕方ないのかもしれないけれども、正直みひろがヌードモデルになったのも、そしてAV女優になったのも、成り行きにしか見えないのがキツいんだよね。

ヌードモデルに誇りを持っているというより、カメラマンに甘い言葉を囁かれるのが快感だから、この先に芸能人への道があるから、としか、見えないのがキツいのだ。
だからこそ、甘い言葉の前でポーズをとるだけのヌードグラビアの仕事とは対極である、自らの身体を、女としての身体を犠牲にするAV女優の仕事が対照的に浮かび上がってくるにしても、それこそ、彼女がマネージャーやプロデューサーから言われているとおり、思いっきり中途半端にしか見えないんだもんなあ……。

いや、それはみひろをAV女優にするための言葉でしかない“中途半端”とは全く違う意味であって、だからこそ見てるこっちは、そんな言葉にのせられることないのに!などと憤ってしまうんである。
でも……みひろ自体に一体、どれだけの信念やプライドがあったのだろうと考えると、正直なところ考えてしまう。
いや、もちろん、この限られた尺内での描写だけの話なんだけれど……。物語は彼女が上京する直前、つまり高校生のところから始まるのね。

本作は、AV女優の彼女というよりは、普通の女の子がヌードモデルからAV女優となる中で失ってしまったもの、という意味合いの方が強い気がする。
つまり、成り行きで流されるように見えてしまう彼女は、あくまでそのメインの展開に対するそれであって、それは……ヌードモデルやAV女優でなくったって、永遠であると信じて疑わなかった大切なものを、大人になって、半ば自分のせいで失ってしまうという、いわば普遍的テーマを描いているんだよね。

それは彼氏と親友。どちらもツライ別離だけれど、後者の方がその重みは大きいあたりが、実は高校生の頃のあの泥臭く純粋だったみひろを、ヌードモデルになってもAV女優になっても全く失っていなかったことをうかがわせて、ふとこみ上げる思いを感じるんである。
新潟の片田舎、高校の卒業式から始まるこの物語。もうべったべたに田舎訛りの女子高生二人、地元に残る親友のさぁちゃんが、夢の東京に旅立つ親友のひろみに子供っぽく当たり散らしながらも、ずっと親友だよ、と誓い合うんである。
ブンむくれるさぁちゃんが、だけどひろみを自転車の後ろに乗せてキャイキャイ言いながら走っていって、海岸で抱き合って友情を確かめる、なんて、もう照れくさくも目頭が熱くなる友情の絆が目にまぶしいんである。

まぶしいだけに……これが早晩破綻することも、あまりにも判ってしまう。こんな田舎じゃ、ヌードモデルになった時点であっという間にウワサは広がるし、AV女優になんぞなってしまったら、余計である。
芸能人になりたいというひろみの気持ちを知ってはいても、そんな仕事に手を染めてしまうひろみが理解できないさぁちゃんは、ヌードモデルの時点では必死に理解しようと努め、「誰とでも寝るような女だった」などとヒドいことを言う同級生の女友達と取っ組み合いの喧嘩をする。
上京してひろみの意思を確かめることもするんだけれど、AVとなるともうそんな必死な努力も崩壊して、親友であることも返上してしまう。交換し合ったキラキラの携帯ストラップを手紙の中に同封して、ごめんね、と書き残して。

こういう場合にね、大抵はヒロインの方に同情して、田舎が保守的なのは判るけれども、親友を見捨てるなんてヒドい!などと憤るのが通常なんだけれど……こりゃ仕方ねえなと思っちゃうのよね。
それはみひろがさぁちゃんに対して、ヌードモデルの時点でさえも、自身の仕事に対する誇りを説明し切れているとは到底思えなかったから。
それこそさぁちゃんの視点の、チヤホヤされて喜んでいるだけでねぇの?という言葉こそ、そうだよなー、と思うぐらいの仕事への態度にしか見えないから。
それはでも、それこそリアルなのかもしれない、と今にして思うのよね。実はAVという事態に陥ってから、みひろはことの重大さに気付いたんじゃないか、なんて思っちゃうのよね。

それこそおっぱい出すぐらいなら、誰でも出来る。AVを頑なに拒んでいたのは、それが本当のエッチだから。
でも……女側の主張はそうだけど、男側としたら、ヌードもVシネもAVも大して変わりない、ズリネタのひとつに過ぎなくて、頑なにAVに対して一線を引きたがるみひろのような女の子に、こんな風に冷ややかな目線を送るのが、それこそリアルなんじゃないかって。
つまり世の中はやっぱりいまだ男社会で、AVに一線を引く、そっから先は全然違うんだという女の子の切実な思いが、単なる女のワガママか貧相なプライドぐらいにしか思われてないのかもしれない現実に、なんかもう、絶望的な気持ちになっちゃうんである。

それをこそ描いたと思えば、みひろのいわば流されやすさ、言い方を変えれば、その時々に人をすんごく信用しちゃう人の良さは、実に赤裸々だと思える。
それこそ、ああ、こうしてAV女優になるのネなどと納得させられる、物語性のハッキリした「名前のない女たち」とそのあたりは対照的で面白い。

そして、初めての現場。ピリピリしているみひろに何かと気を使うマネージャーに「うるさい!!」と当たり散らし、震える思いで現場に向かう。
初めてのみひろにベテランAV男優さんは、好きなアイスクリームの話なんぞを振ってリラックスしてくれる。
冒頭、まだみひろの何の物語も語られない段階で、現場に向かう彼女の姿が披露されるんだけれど、エッチは一対一でするもの。好きな人とするもの。AVでは当たり前の3Pだけれど、私はやったことがない、とモノローグするのね。
誰かに見られてセックスするなんて考えられない、好きな人が他の女の子とセックスしているのを目の前にするなんて耐えられないだろう、と至極当たり前のことをとつとつと綴る、のは、それこそが、そんな耐えられない、非日常なことが、AVであるからなのは、言うまでもないんである。

それでもAV男優さんはみんな優しいし、ヒドいめにあったことなんてない。でも、でも……と。ある意味、男優さんが優しい、というのが、実は一番、辛いのかもしれないなあ、などと思う。
みひろは最初のAVの撮影の直後、彼氏と別れた。高校時代から付き合っていて、進学した彼と一緒に仕事を見つけてみひろは上京した。その後スカウトされてハダカに“転職”したことが彼に発覚して一度はぶつかったものの、そこまでは彼はガマンしてくれた。
自分の愛情が深ければ、いつかひろみは自分の元に帰ってきてくれる。大学を卒業したら結婚してほしいとプロポーズした時、彼はなんの迷いも疑いもなく、彼女への信頼を口にしたのだ。

実はAVをやっている。今日初めての撮影をしてきたと告げると、彼は震えるように拒否反応を示し、それ以降は何のトライもすることなく、彼女の元を去った。
そう、恋人でない女に対しては、ヌードモデルもVシネもAVも特に垣根のない、単なるズリネタ、みひろがこだわっていた芝居や女優といったスタンスであったVシネも、安っぽいエロ天使のコスチュームでステッキを持って、朝、男をおめざさせるというおサムイ内容だった。
単純に男から見れば大して違いはなかったのだろう、けれど……そんな恋人を持つ男からならば、やっぱりヌードモデルやVシネと、AVの間には当然、大きな溝があったのだ……。ていうか、それこそが当然なのに、女の子にとっては最初から当然の垣根なのに。恋人にならないと、そんなことも判らないなんて。

いや、家族だったらやっぱりそれもまた大きいと思うんだけれど、みひろに関して家族が出てこないんだよね。
それもちょっと、違和感を感じたひとつだった。もしかしてみひろは天涯孤独で、家族がいないのかもとかも一瞬思ったけど、冒頭彼女は、自分は本当にフツーの田舎の子だったと述懐しているし、親友のさぁちゃんも、こんな仕事して家族がどう思うの、と心配している。
つまりみひろには別に普通に家族もいる筈なんだけれど。実際は、さぁちゃんが自分の家族を気にしてみひろのAVを一人自分の部屋で、スナックをヤケ食いしながら鑑賞するシーンがあるぐらいで、みひろの家族は奇妙なほどに出てこないんだよね。

こういう仕事をする場合、一番気にするのは家族であり、家族が地元で受ける肩身の狭い思いの方が、親友のそれより大きいハズなのだが……。原作を読んでないからなあ、何とも理解のしようがないんだけど……。
みひろにとっては、家族より、そして彼氏より、親友を失うことが、AV女優を選択することによる、最も辛い代償だった、と、そういう結論のような気もしたのだ。
実際、改めて考えると、さぁちゃんの登場は他のメイン役者の誰よりも早かったし、そしてみひろが最後まで心に留めていたのもやっぱり彼女だった。
なんかこういうあたり、彼氏より、自分の生き方より、親友に去られることが重く心にのしかかるのって、いい意味で少女マンガ的というか、胸が締め付けられる、なんというか、最後の青春っていうか、青春が失われた、少女の時代が失われた、下衆な意味じゃない意味での、少女から大人の女になった、て、感じがしたんだよなあ。

確かにさぁちゃんは本当に、本物の親友だったと思うけれども……それはきっと、少女時代のそれだったんだろうなあ、って。
いや、みひろがこんな過酷な人生を選択しなければ、それなりに彼女とも友情を続けていけたかもしれない。でもそれは、段々と上っ面なそれになっていったかもしれない……。
それに気付かないフリをして、それなりな友情を続けて人生を生きていくのもそれなりに幸せだと思うし、むしろ私はそっちを選択して、満足してしまう、だろう。みひろのようには生きられない。

でも、きっともう会うこともない、みひろとさぁちゃんは、それでもやっぱり、生涯本当の親友なのだ。受け入れられない、もう親友ではいられないとさぁちゃんはみひろから離れたけれど、でもきっと、やっぱり、彼女の動向を気にし続け、心の中で応援し続けるだろう。会うことがなくても。
みひろだって、さぁちゃんを忘れることなんてあるまい。彼女の存在があったからこそ、今この場で踏ん張って、頑張っていられるに違いない。

なあんか、ね。それって、究極の親友な気がして、かえってうらやましい気がしてしまうのだ。そう、これが、原作の時点で、あるいは映画化の時点で思いっきりフィクションだとしても。

そして、やっぱり、名前のない、ことは同じなのだなあ、と思う。実際のみひろ嬢が先輩AV女優に扮して(引退するAV女優、てことは、彼女自身を投影しているんだろう)、ひろみ、という名前からみひろと命名する場面、ひっくり返しただけなのに、「可愛いでしょ」と言われ、みひろがその気になるのが実に印象的である。
みひろとしてカメラの前でニッコリし、そして一方で苦悩する彼女と、ひろみとして彼氏や親友の前で無邪気だったり逆に虚勢を張ったりする素の彼女は、本当にまるで、まるでどころかぜんっぜん、別人なのだもの。

そして、そんな風に命名された自身を演じるみひろ嬢は、さすがベテランの貫禄たっぷりで、「ランニング・オン・エンプティ」の時には正直、うーん……と思っていたのが、ちょっとカッチョいいかも、などと思ってしまった。★★★☆☆


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