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ライブテープ
2009年 74分 日本 カラー
監督:松江哲明 脚本:
撮影:近藤龍人 音楽:
出演:前野健太 吉田悠樹 大久保日向 POP鈴木 あだち麗三郎 長澤つぐみ 松江哲明
ビデオテープギリギリの80分を、ワンカットで一気に撮る。被写体は私の知らないある一人のミュージシャン。
彼が元旦の昼下がり、吉祥寺の街の中をギターをかき鳴らしながら自曲を演奏して歩いていく。しかもほぼ曲の演奏のみで、ラスト、バンド仲間の待つ公園のステージへと進んでいく。
……そう、前知識がなかったから、私はよもや、ほぼ彼の曲だけで進んでいくとは思っていなかった。
途中、あ、これはカット割る気がないんだ、恐らくこのまま最後までワンカットでいくんだ、というのは想像がつき、その凄さには思いが至ったけれど、それでも私の古い頭の中は、お決まりの、ドキュメンタリーとしてのある定型をずっと思い描いていて、いつ彼がギターを置き、監督のインタビューに答えるのか、ジリジリしながら待ち続けていたのだ。
インタビューシーンは中盤にあるものの、それは本当に彼が十数曲歌った後で、正直私は、このままこの時間が続くのか……と疲れを感じる自分を否めなかった。
いったい何事かと振り返っていく人々や、聞こえていないようなそぶりで急ぎ横を駆け抜けていく人たち、それは確かにスリリングなんだけど……私はなんだかそれがヒヤヒヤするばかりに感じてしまったんだもの。
ああ……やっぱり私はオバチャンなんだなあ、こういう感覚。街を生きていると感じられない、なんて。でも……恐らくこんなにも疲労を感じてしまったのは、私が彼の音楽を好きになれなかったから、なんだよね。
こういう、旋律よりも言葉に重きを置かれる音楽を感じ取ることが出来るだけの感受性、私は多分中学生時代がピークで、それ以降はメロディと言葉というそれぞれが重過ぎるものが合致するタイプの、そう、彼のような音楽がめっきり苦手になったというか……いつの間にか本当に聞かなくなってしまった。
音楽は旋律だけで意味があり過ぎて、それに心を奪われるので精一杯。言葉は言葉だけで重く心をかき乱して、それだけで精一杯。……つまり私個人の感覚や好き嫌いの問題なんだよね。
でも、こういうタイプの映画ならば、初めて触れる彼の音楽と言葉の融合に打たれたら、本当に感動しただろうなとも思った。
言葉だけでいいじゃないと言われそうだけど、やっぱりそこに乗ったメロディを考えてしまう。しかも映画だから、妙にビジュアルも気になってしまう。ことにあの、いつの時代よ、ってな中途半端にデカいサングラスも気になってしまう……私は……ダメ、だったんだなあ。
松江監督は、この作品はそもそも劇場公開するつもりはなかったんだと言っていた。あくまでプライベートフィルムなのだと言われれば、彼の溢れる思いも判る気がする……なんて言ってしまったら、判りもしないくせにと怒られてしまいそうだけれど。だって、父親の死と友達の死がいっぺんに訪れた年だなんて、やっぱり私には経験ないし、判らないもの。
そして、監督が同じく父親の死を経験したこの前野氏の音楽に触れ、彼とカメラマンにあくまでインディーズフィルムとして協力を依頼し即答でOKされ、まさにこの上映時間だけの時間、繊細な緊張感と計算と、計算から外れた部分が絶妙に交錯する作品が仕上がったのだもの。
でも、街を縦断するライブ映画として、面白いと思ったところはあった。ここばかりは計算づく。途中二人のミュージシャンが合流して、前野氏の演奏にまるで街角のミュージシャンが即興で合わせているかのようにセッションする。
もちろんその場所と時間帯は計算づくであり、アドリブめいた演奏とはいえ、そこで演奏される曲は決まっているんであり……。このワンカットの映画の数少ない“計算づく”の場面が面白かったと言ってしまったらいけないのだろうか?
でも、登場する楽器も意外だったし……狭い狭い路地に入っていって、昼間なのに夜みたいな照明の中に酒瓶が沢山ならんでいるような、妙に気だるげなカウンターだけの飲み屋、その店先で中国楽器を奏でている男子。
その楽器の意外さに目を見張り、激しくかき鳴らすギターと見事にアドリブ的な演奏を繰り広げることに更に目を見張る。
その後にも駅を抜けたガード近くの信号前に待ち構えたサックスプレーヤーとのセッションもあるけれど、場所といい楽器といい、プレイテクニックといい(爆)、中国楽器を奏でる彼はひょっとしたら主人公の前野氏より(爆)クールだったかもしれないなあ。
監督が前野氏に語りかけるのは、中盤のガッツリのインタビュー以外ではほんの少し。しかもインタビューでは監督自身のアイデンティティもあぶり出される場面だけにカメラの前に姿を現わすけれども、その他はすっかり黒子に徹して、本当にほんのちょっと、声を発しているだけである。
でもその絶妙の合いの手は、面白いんだよなあ。カッコ良すぎたからもうちょっとカッコ悪くしてください。出来ますか、とかさ。
しかも前野氏はそう、あんな時代錯誤なサングラスをかけてるでしょ、外してくれないかと監督から請われて、一度は道行く子供にあげたりするものの(あの場面はホントに映画みたいによく出来てた!)、なぜかもう一つの、全く同じ形のサングラスが懐から出てくる……「なんでもう一つ持ってるんですか」「いや……予備……」よ、予備って!この時はちょっと彼に愛を感じちゃったかもしれないなあ(笑)。
人の目が気になるのは、私がイナカモノだからかもしれないなあ、などとも思っちゃったりして(爆)。カップルが路地を覗き込んで演奏しているのを見て入ってくるのをやめたり、オッチャンがなにげに避けて通り過ぎたりするのを、面白いと思うよりも、やっぱりヒヤヒヤしちゃうんだもの(爆)。
「東京の空は青い」と歌い上げる曲に合わせるかのように、それまでずっと前野氏をとらえ続けてきたカメラがパンして、夕暮れ時の東京の空を見上げる。
夕暮れ時だから、木々の姿がまるで影絵のようにギリギリうす青い空にくっきりと映り、まるで今までの乾いた空気の中のヒヤヒヤした出来事が、タイムマシンの中での出来事みたいに、遠くかすんで見えた。★★☆☆☆
それでも多分私は、いろいろとこじつけて考えてしまうのだろうな……。
とか言いつつも……何より本作の中で大きく尺を割き、そして強い印象を残すコザの娼婦たちの生身の肉体の生々しさは、そんなこじつけをはねつけるだけの、衝撃的なまでの力があるのだけれど。
ぎっちりとストライプを描いた妊娠線跡や、せま苦しいオシャレな靴に突っ込んだためと思しき、痛々しく歪んで靴擦れが日常的に出来ている若い女の子の足。
そして殆んどの女たちが、私が思わず安堵してしまうほど“豊満”な体をしており、三段腹どころではなく、本来、女の身体の形ってこうだよなあ、と安心させてくれる。
世の中に氾濫している女優やらグラドルやらの、やたら完成された身体が、まるでマネキンのように生気のないものに感じてしまう。
一体何年この商売やってんの?と思ってしまうような、“超ベテラン”も多々いて「可愛い女の子、いくらでもいるからねえ」と、自嘲気味に彼を迎えるんである。
でも一方で、不自然なまでにお腹がぺたんこな、監督と同じ年頃の女性は、そう……不自然なまでだった。なんか、肌の色も生気がない気がしたなあ……脂肪吸引でもやったのかしらん。
そして笑顔も弱々しかった。「3日間は辛いって言うね。私は水商売もやったことがなかったから」
こんな場所が日本にまだ存在していたことすら知らなくて、もちろん違法だから、撮影中、リアルに怖いお兄さんに脅されたことをモノローグする監督。
“まるでバスを待っているように”街中のボロい椅子にショーウィンドウの、それこそマネキンのようにセクシーなファッションとポーズで座っている彼女たちは、なんだか、それこそなんだかフィクションめいていて、映画みたいなのだ……。
だけど、服を脱ぐと、一糸まとわぬ姿になって、妊娠線も靴擦れも、アンダーヘアもタトゥーも手術跡も、時にはリストカットの跡さえあらわにすると、本当に、息を飲むぐらい、リアルな生身の女、なのだ。
その彼女たちを、ただただカメラをじっと見据えて、見つめ続ける。
職業柄、顔を隠す女たちも当然多いけれど、一方で顔をさらす女たちもこれほど多いことにも驚く。
ただただ見つめるカメラに照れる女性がいる一方で、観客がたじろぐほど、見つめ続けるカメラに挑戦するように視線を外さない女性もいる。
そのまたたく瞳はなんだか濡れているように見えたのは気のせいか。
ただただ撮るばかりで、決してやろうとしない監督に、いいんだよ、やっても、と声をかけるお姉さんもいる。
でも監督は、撮影だけですから……男として失格ですよね、とやわやわと辞退する。
なぜ、なぜこんなに彼女たちを見つめたいという衝動に駆られたのか。
そもそも彼のルーツ、暮らしている大阪の大正区という場所は、沖縄の経済難の時代に多くの出稼ぎを受け入れた工業地帯なんだという。
そんな場所があることは、コザの娼婦街に続いて知らなかったこと。
そして、カメラがとらえるその場所は、今はすっかりさびれている、ように見える。
実際、監督の父親は息子が嫌悪するほどのタチの悪い酒飲みで、今日もカメラの前でろれつが回っていない。インタビューを試みているんだけれど、正直あまり聞き取れない。
いろいろと、過去があるんである。それは、沖縄というルーツに限らずである。
父親は一度死にかけた。ノックアウト強盗にあって、ボコボコにされた。数日間、その状態で行方不明になってしまった。酒飲み特有のいびきで近隣住民に発見されたのだった。
その時、父親の仲間たちが担ぎこんで来た時のことを、監督は鮮明に記憶しているという。
死んだように動かない父親が、自分に向かって腹が減ったとささやいた。台所にあった果物を切って、父の口元に運んだ。あの時が一番、父との濃密な時間だった、と。
子供の頃の彼の記憶は、ただひたすら、父親をスナックに迎えに行ったことばかりであるという。
その沖縄系スナックのママに父親はおぼれていた。何が、どこまであったのか、とにかく事実を知った母親は「母親ではなく女の顔をした」んだという。
現在の時間軸に、母親は一切出てこない。別れてどこかに行ってしまったのか、ただ、ハレモノに触るように、出てこない。
父親をスナックに迎えに行った記憶のモノローグは、まるでそれを消し去りたいかのように、バラバラに壊された古い木材の映像がかぶせられるだけ。
それともこれは、そのスナックが取り壊されたところとかじゃ……ないよね。
その、替わりみたいに登場するのがコザの娼婦たちだから、いらんこじつけが頭に浮かんでしまったりもするのだ。
だって、時には性器までもくっきりと映し出される娼婦たちは(まあ、ボカシ入ってるけど)生身の女の延長線上に、そこから生み出される命、その母体である母親をどうしても想起させるんだもの。
妊娠線の痕跡がことさらに強烈印象であったのも恐らく、そうだと思う。
そして……“女の顔”になった母親も、父親が溺れたスナックのママも、彼にとってはまるでつかみどころのない、モンスターのような、虚構な、幻な存在に思えてしまう。
実はここに至るまで彼は、リアルな女を、そして母を、母性を、実感していなかったように思えるのだ。
いや、そう言ってしまうのは、それこそこじつけかもしれない。
監督には恋人がいる。しかも、コブつきである。まだ幼い男の子は、このいかにも現代的な状況にも、特に疑問を持っていないように……表面上は見えるけれども、それは大人が、どうせまだ子供だからとタカをくくっているだけで、この作り手である監督が幼少期を強く覚えているように、彼もまた今、戦場を生きているんではないかと思う。
むしろ、監督の父親、そう、監督が嫌悪し、本作を作る動機にもなったと思われる監督の父親こそが、カノジョの息子と慣れ親しんでいる。
宿題を見てやったり、キャッチボールをしたり、犬の散歩を一緒にしたりする。
しかしこうしたアングルは、つまりそれを撮っている監督がいるからなのであり、実はこういう、確信犯的なフィクショナルなアングルが本作には多用されているんである。
あの、娼婦のシークエンスは、彼がカメラを持つなり、据え付けるなりするしかないから実にドキュメンタリー然としているんだけれど……。
つまり、あのシークエンスが強烈に印象づけるからこそ、その他の場面、大阪でのエピソードでのフィクションっぽさを、うっかり忘れそうになるんだよね。
このあたりは、生っぽさを提示しつつ、実はしたたかに上手いよなあ、と思っちゃう。とぼけた犬を散歩させる場面なんて、引きのアングルを実に効果的に使ってて、ちょっと和ませるぐらいだしさ。
そして……そう、その“明らかにフィクションのアングル”に、あっと思ったのは、この息詰まる現実に耐え切れなくなったのか、吐き気をもよおしてトイレでオエーっと監督がやっているシーン。
これを、ちゃあんと後ろ姿から映してるんだもの。吐瀉物がリアルかどうかは別にして(爆。トイレの汚れまで、リアルなのはなかなかキツい……)、なんかこの時、不思議にホッとしてしまった。
だって、劇映画にはない現実感が、やっぱり結構ツラかったりしたんだもん。
父子が暮らす部屋の雑多さは、どんなに優秀な美術さんだって、再現できないよ。インスタント焼きそばを作るのに電気ポットからお湯を入れるのさえ、気になっちゃう。一体あのお湯はいつ補充したのかとか、跳ね返っている汚れとかさ。
こたつの上の、ごみともなんともつかないものは、一体いつからの積み重ねなのか。あのマヨネーズはいつ冷蔵庫から出してそのままになっているのか、とかさ。
なんかもう……たまらなくやるせない気持ちになっちゃうんだもの。
それでいて、結構きちんと洗いものをしたりもしてるんだよなあ……。
監督は恋人との結婚を悩んでいるのか、劇映画っぽく婚姻届を大映しにするカットもある。
そして最後は、父親とカノジョの息子と監督の三人で、焼き肉だか鉄板焼きだかお好みだか、角度からはよく見えないけど(爆)、とにかく一緒している場面である。
それまでも、父親とのシーンはのんだくれの父親だもんだから、台詞がとにかく聞き取り辛いんだけど、ここはマイクのせいか、飲み屋だから周りがニギヤカなのもあって、それ以上に台詞が聞こえないんだよね。
うーん……なんか、監督が、だけど必要だから、みたいな台詞を言っていたようにも聞こえたけど、全然違ったかもしれない(爆)。
ただ、監督が父親を肯定したことは間違いなく思った。
ラストクレジットの後に、あの娼婦たちを愛をもって見つめ続けたように、皺が多く刻まれた老父の顔を、洗濯物なんぞをベランダで干している老父の顔を、深い深い愛情を持って見つめた。
そまつな布団のあるほの暗い場所じゃなくて、明るい陽光の下で。 ★★★☆☆
ランニング・オン・エンプティ
2009年 80分 日本 カラー
監督:佐向大 脚本:佐向大 小田泰之
撮影:月永雄太 音楽:MISSILES JET BOYS
出演:小林且弥 みひろ 大西信満 杉山彦々 伊達建士 村上和優 中津川朋広 池田わたる 関谷彩花 遠藤孝夫 角替和枝 大杉漣 菅田俊
とはいえ、最初のうちはちょっと、ちょーっと……失敗したかなー、などと思ったんだよね(爆)。
いや、主人公である男の子の方は凄くイイのだ。そのグータラさ加減、ほんっとうにクズってのはこーゆーのを言うんだろうと思わせる、もう箸にも棒にも引っかからないような男に、カノジョである女の子がイライラするのがよーく判るほど、もうそのグータラさ加減は天下一品なのだ。
彼、ヒデジはまず、働く気がない。以前やってたコンビニでのバイトは、高い機械を壊したその日から無断で行かないでそのまんま。同棲しているアザミに当然のようにカネを無心し、返す気などないまま、一体いくら“借りた”のか(借りている意識もないのかも)。
口ではバンド活動に命を賭けているみたいなこと言ってるけど、大体が演奏シーン自体が一つも出てこないし、それどころかスタジオの予約さえまともに取れていない有り様。ていうか、そこにギターを持って来るのだって忘れているぐらいだし。
自分たちでは才能があるなんて言っているけれど、チケットをお情けで買ってもらっているライブに来てくれる人だって誰もいやしない。さっさと役立たずな自分に気づけよ、ってな男なんである。
ていう、描写はもう、見てるこっちが小突きたくなるほど、ほおんとに巧みなんだよね。じゃあ何が“失敗したかも……”だったかというと、そんなダメダメ彼氏に悩まされる彼女、アザミを演じる女の子が……あまりに「……」だったから。
いや……確かにカワイイし、女優がおっぱいひとつも出さずにどうすると思っている私としては、しっかり濡れ場も披露してくれるのは頼もしいっちゃ頼もしいのだが……。
セクシーアイドルなどという肩書きがまずよく判らんし、え?演技力には定評があるって?うそうそ、うそお……まあある意味、もの凄く“かっちり”とした演技ではあったかもしれないが……。なんつーか、昼ドラチックな演技で、どうにも見ているのがツライのだよなあ。
小悪魔的、というのをもう文字通り、教科書どおり、演じてくれるのはいいんだけど、こんな教科書通りの“小悪魔”に、劇中の男たち皆がコロリと参ってしまうのは、そんなに男はバカなのか……と思いたくもなる。まあ……そうなんだろうな。もしかしたらそのあたりは、確信犯的に描写しているのかもしれない。
だってね、前半の彼女はほおんとに、安っぽいんだもの。氷の微笑チックに足を組かえ、アタシのためならやってくれるよね?などとクサさ満点の台詞を吐き、彼女のことを心配して次々にかかってくる電話に、「もうホントにヒデジとは別れるから」と本命はあなたヨ、てな空気をこれみよがしに匂わせるという、もう、ベタベタの、ベッタベタのプレイガール。
つまりこれって……同性が反発を持つにもお約束すぎるほどの、っていうワザとらしさは、実際、ワザとだったのかもしれないと思うのは……後半彼女はジャージを着て髪を振り乱し、夜の街を逃走するのだし、そして男たちを振り回しているのはうわべだけで、彼女こそがこのグータラ彼氏にゾッコンであり、すっかり弱みを握られているんだものね。
確かに、前半、若干の徒労感を感じていたのがウソのように、中盤からかなりドキドキとする展開。
そもそもどういう話かっていうとね、そのグータラ彼氏にごうを煮やしたアザミが、これまで貸した何十万ものカネを取り戻そうと、サラ金に身柄を拘束されたという狂言誘拐を企てるんである。
仲間に引き入れたのは、アザミの色気に参っている男たち。ヒデジのバンドの仲間二人も勿論事情を知っているから、ヒデジの慌てっぷり(そうなるのが遅すぎるのだが)にも泰然と構えているし、共犯となる二人の男は、もうアゴで使われている状態。
とはいえ、その二人の男は、実に対照的なんだよね。片方の田辺君は確かに、アザミにぞっこんホレこんじゃってて、何を言われてもハイハイ聞いちゃうような男の子。
小さな体躯が、小悪魔な女の子に振り回される男の子の雰囲気満点で、期待を持たされながらも肩を抱くぐらいしか出来なかった(それでも彼にとっては大事件だろう!)田辺君は、パシリにされるだけされて、ちょっとカワイソウなんである。
もう一人の男、祐一は、見た目から全く違う。大体、最初は彼もアザミのことを好きだなんて思わなかった。
ヒデジとは兄弟らしい、というのは、アザミや田辺の台詞からすぐに察せられるのだけれど、彼自身はそのことを肯定したがらない。アザミから「その、アゴに手を当てるしぐさとかソックリ」と言われて、そんなことで激昂するぐらいなんである。
部屋の中で黙々と、ストイックに身体を鍛えている彼は、しかし足が不自由で松葉杖を使っている。そこに一体何があったのか。先天的なものなのか、それとも彼が「オレが家族を捨てたんだ」と言うぐらいだから、後天的な何かがあったのか。
実はこの作品、かなり台詞が聞き取りにくい場面が数多くあって、一生懸命耳を澄ましてはいたんだけれど、そのあたり、聞き逃しているかもしれない(爆)。
ただ……クライマックスで、足をくじいたヒデジの様子を見て「足、どうかしたのか」と事態の緊急さ(自分がアザミを匿っていたことがバレてしまった)を一瞬忘れてまで弟に問い掛けるのが、なんか……凄い重く感じたからさあ。
そもそもヒデジは、アザミが誘拐されたって聞いても全然、焦らないんだよね。最初はね、本気にしてないのかと思ったのだ。だって、そうとしか思えない態度だったんだもの。
電話口では一応、焦った声を出すものの、すぐに忘れ果てたようにスナックをぼりぼりかじりながら漫画週刊誌を読みふけり、そのまま朝を迎えてしまうというていたらく。その間アザミは彼が“金融業者”へ電話をかけてくるのを、じりじりとして待っているのにさあ。
んでもって寝ぼけまなこで朝を迎えたヒデジは、思い出したようにアザミの携帯に電話をかけ「一晩中探してたよ。大丈夫、必ず見つけてやっから」と、まー、見てないと思ってよくもまあ、そんなウソ八百を並べられるもんだ!
つーかさ、アザミは実に長い付き合いの彼氏なのに、こんな場合にまで究極的にこんなヤツだってことが判ってなくて、結局最後は、お前だけを愛してるとか言われて(そんな台詞だったような)ほだされちゃうんだから……。
そう、ラストに至って判るのだ。一枚ウワテのように見えたアザミは、ちっともウワテじゃなかった。このグータラで何の役にも立たないクズみたいな男の方が、彼女の一枚も二枚もウワテだったんだなって。
確かに、そのヘンリンは用意されていた、かもしれない。その描写は単に、彼のずぶとさっぷりを示しているだけかと思っていたんだよね。
アザミを助け出すためのカネを調達するために、彼はかつてのバイト先に出かける。よくのこのこと顔を出せたもんだ、と店長は怒りを必死に抑えている。
そんな店長の心を知ってか知らずか(いや……一応、機械を壊してから行かなくなったというんだから、判っているハズなのだが)「最後の給料が振り込まれてないようだ」とまず厚顔無恥はなはだしい申し出をし、「あの機械、そんなにしたんですか」としれっと言う。
ガマンも限界に来ていた店長が「我々がお客様に提供するものはなんだ」「おでんとか、肉マンとか……」!!!
そこに顔を出した中国訛りの女の子に、店長は同じ問いを投げかける。彼女はよどみなく答える。「お客様への安心と信頼です」ヒデジはその返答に対してではなく「いやあー、今の留学生ってシッカリしてますネ」「私の家内だ」「えっ……」もう、このクズ男は生きてる資格ナシ!
それでも、こんなクズ男をアザミは捨てきれないんだよね。そう、そのことが段々と判ってくる。
結局、彼と別れるのに今まで貸してきたお金を取り戻せないのは悔しいから、という理由で企てたこの狂言誘拐。
でもさ、結局ダラダラと貸しちゃったのは彼女だし、ホントに別れたいならお金のことなんて目をつぶって、すっぱり別れられたハズなのだ。
そう、ホレた弱みアリアリなんだもん、ていうのが、この小悪魔女子の最大に意外なところであり、それが……すべての引き金になるんである。
そう……“長年の付き合い”なんだから、アザミはヒデジがこんな手に乗らない、というか、期待通り動いてくれない男だってことは判ってた筈でさ、判ってて、それでも試したくなったんじゃないかって、気がするんだよなあ。
最初からムダなんじゃないかって雰囲気の態度を、もう一人の“長年の付き合い”である祐一は醸し出していたんだから。
ちょっとしたどんでん返しというか、なんというか。アザミが、私たち出会ってからもうどのくらい経つんだろう。20年ぐらい?と祐一に言う台詞があって、その時はフツーに幼なじみなんだろうと思っていたけれど……彼らの年を改めて考えると、幼なじみというにも若すぎる(いや、勿論、そういう幼なじみさんはたくさんいるだろうけれど)。
物心がついていない時からの“幼なじみ”。彼ら三人の微妙な距離感。アザミとヒデジ&祐一の兄弟とは、連れ子同士の異父母兄弟妹、だったんである(ややこしい記述だ……)。
もう、それこそ昼ドラチックな展開だしさ、実際そんな雰囲気も若干漂わせたりもするんだけれど……それを決定的に避けるのは、今まで言い続けてきたヒデジのあまりの危機感のなさがまず一つ。
ごうを煮やしまくったアザミに尻を叩かれた田辺が、公衆電話から演技力たっぷりに(この場面の田辺が一番、見せ所だったかも)ヒデジを“恫喝”してさ、ヒデジはもうようやくようやく、本気を出したかに見えた。
しかしまたしても途中で、彼のファンの後輩に遭遇し(こういう描写が繰り返し、ヒデジはその度挫折、っていうか、アッサリ目的を忘却してしまうのだ!)ノンキにライブの決め台詞なんぞを披露して、もうその時点でスッカリアザミを心配していたことなど忘れてしまって、サックリ部屋に帰ってしまうんだから!!!
こんな、お気楽と言うのもはばかられるほどの、人間失格、ぐらい言いたいヒデジのテキトーさには、彼は一体、血がつながっていないとはいえ、道徳に反する関係を結んでいる自覚があるのか、とウタガイを持つのも仕方のないところである。
実際、足を悪くした理由がイマイチ判らないとはいえ(いやだから、単に私が聞き逃しただけだろうが(爆))そのスタンスさえやたらに少女マンガチックなストイックな兄の方は、その自覚がまさに少女マンガチックにアリアリなもんだからさ……。
なんであんなどうしようもない弟の方なんだ!と祐一が爆発してアザミに襲いかかるも、生来のインポで哀しく未遂に終わってしまうあたりなんて、めっちゃ昼メロでさ……。
そう考えると、この“人間のクズ”である弟、ヒデジは、フツーに考えればカノジョにとっては勿論、家族にとっても友人にとっても、彼と関係を持つ全ての人たちにとってメイワク極まりない人物なんだけれど、こんな事情を持ち、なぜだかベタ惚れしてしまったアザミにとっては……痴話げんかを繰り返しつつ、最良の相手、なんだろうなあ。
しかし、その二人の幸せは、どうやらそう都合よくは続かないらしいんである。あんな厚顔無恥なヒデジでさえ、金を無心するのに最後の最後に恐る恐る訪れた実家の、義父、つまりアザミの父がね……ある意味、この危険極まりないオトンを見ちゃえば、ヒデジなんてカワイイもんだと思っちゃう。
オトンが持ち出した猟銃は、どうやら趣味でやっているらしいけれども、こんなキケンな人にそんなもん、許可出しちゃいけないよ……。だってさ、だって、ラスト、ラストは……。
その手前まで、そんな危険なオトンのこと、忘れていたのだ。演じているのは菅田俊。そしてオカンは角替和枝。なんかここだけメッチャ、リアリスティックなんである。
ヒデジから電話がかかってきた時「どっちだ!」と鋭く問う。オカンはテキトーにごまかす。あんなテキトーなヒデジが、実家へのカネの無心をためらうなんて、そりゃラストを見せられればムリもないんである。
こうなったらケンアクの仲である兄に頼るしかないと、ヒデジは兄の元に向かう。そんなことも知らずに、祐一はアザミに積年の思いをぶつけて襲い掛かっている最中である。
結局未遂に終わり、気まずい思いを漂わせている中に、ヒデジが訪ねてくる!祐一のジャージをまとい、隠れていたアザミはアッサリ見つかって、二人のおっかけっこになる。
弟を近親憎悪という以上に憎んでいた祐一だけれど、手加減されることもなく、あっさり殴り倒されてしまう。助けに来た田辺の手を振り払い、祐一は、車に乗り込んだ。
正直、ヒデジとアザミが、ひたすら走り続けた末とはいえ、甘いエンディングを迎え“ようとしてい”たことにはあれれ?とは思っていた。ただそのバックが……最近ハヤリらしいとはいえ、轟音がいつ果てるとも知れないコンビナートが林立する、都会のそれとはまた違う“眠らない街”。そこには……あるハズの人の息吹きが感じられないのに、“眠らない街”なのだ。
ヒデジとアザミがようやくお互いをぶつけあう場面なのに、轟音で聞き取れないのが大部分。それは確信犯的だったのか、そうではなかったのか……とりあえず、ラブラブに戻った二人は、祐一の運転する車とすれ違う。祐一の様子は、当てどもない旅立ちのように見え、それも気になるな……と思っていたところに。
猟銃を携えた義父が、鬼の形相をして現われる。
車に乗っていた祐一が、その姿を確認する。
背後から聞こえる、銃声。
前半の、今から思えば“用意された安っぽさ”からは、考えられない、恐ろしいラスト。
しかし、その後も、そう……最たるラストと思えたラストからも……思えば、音しか聞こえていなくて、何が起こったかなんて、観客の想像に任せているだけなんだから……さらに続くんである。
音だけが分断するだけで、その前から、祐一が夕陽、いや、朝陽かな、あれは……に向かってどことも知れず、車を走らせていく場面で終わるんである。
ちょっと面白い才能だな、と思った。劇場公開にまでこぎつけた自主作品を観ることが出来ていないので、とにかく次作が楽しみ。★★★☆☆
で、本作は実は、彼の演出だということを認識しないままに、タイトル買いと、あの「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」で強烈な印象を与えた本谷有希子の戯曲が原作だということだけどっかで聞きかじって、足を運んだら……そうだったのだった。
戯曲が原作になっているから「パビリオン……」の時に感じたような難解さに頭を抱えることはなかった。筋は見えるし、本谷節とも言える醜悪で激しい人間関係もクリアーなんだけど……。
でも私、こんなこと言ってしまうとホント、身もフタもないんだけど、この監督さん、生理的にダメかも……と思ってしまった。
もうこれは、自分自身の感覚の問題ってヤツかもしれない。こんなところに出してくるのもアレなんだけど、そういう監督さんは過去にも数人……時代もまったく違うけど、吉田喜重や相米監督も私、ダメなんである。
映画巧者と呼ばれるような、独特の感性とリズムを持っているところが共通しているような気がする。熱烈な支持者がいるあたりも似ているような。
そう考えると、私ってホントダメだなと思ってしまう……結局、わっかりやすいのが好きなのね、などと思って……。
とはいうものの、先述したように、本作は話自体は決して判りにくいものではない。
出てくるのは四人の男女。引っ越してきたばかりの身重の妻、あずさとそのヒモのような無職の夫、番上。
あずさは同じ市営住宅の棟の一つに、見知った顔を見て驚愕する。それは彼女に高校時代、ヒドい仕打ちをした、絶対に許せないかつての同級生、奈々瀬。
そしてその奈々瀬は、足を引きずった英則を兄でもないのにお兄ちゃんと呼び、一緒に生活している。その気色悪さにオエーと吐くあずさ。
「人の顔見て吐くなんて、失礼だろ」と慌てる番上の、ソコじゃないだろ、というズレたいさめ方が可笑しい。
あずさを演じるのは小池栄子。一人怒りまくっているキャラの彼女、近年映画での演技派を目指しているのかな、などと思う。
私的には、なんか好きになれない映画ばかりで彼女が頑張っているもんだから、どうにも居心地が悪い。彼女自体はイイ女優さんだと思うし、好きなのだが……。
あずさが奈々瀬に高校時代何をされて、あんなにまで怒っているのか、しばらく明らかにされないんだよね。ただただ彼女は、奈々瀬の顔を見るのもイヤだ、出て行け、と言い、忘れた訳じゃないよね、絶対に許さないから、と目をギョロつかせて吠えるんである。
窓ガラスにサンダルを投げつけて割るぐらいはまだカワイイもんで、しまいにはリサイクル回収の軽トラからうんしょと盗んだ自転車を、バリバリバリ!と投げ入れさえもする。
そこまで許せないほどの何をしたのかと、想像をたくましくして待っていると、明かされた事実が「あんた、私の付き合っていた男ともヤッたでしょ」と……なあんだ、そんなことかと思ってしまう自分自身にガクゼンとする(爆)。
つまり私は、そんな華やかな経験が高校時代なかったもんだから、それがどれだけあずさのオトメ心を、自尊心を傷つけるものなのか、想像も出来ない不毛なヤツということなのか(爆爆)。
“私の付き合っていた男とも”という言葉どおり、奈々瀬は“誰とでもヤル女”だったんであった。ならば尚更、別にあずさの彼氏をピンポイントで狙った訳じゃないんだから、などと思っちゃう私はダメ??
いや勿論、あずさが奈々瀬を許せないと思う理由はそれだけじゃなく、彼女が何故そんなことをするのかという理由自体にあるのだけれど……。
やっぱこういうのって、経験値だなあ、と思う。どんなことを経験するかによって、何が人として許せないかの基準が変わってくると思う。正直、こういう事態って、私は全然、予測もつかないんだもん(爆)。
私はね、あずさが、悪質なイジメとかに遭っていたのかとか思ったのだ。それにしちゃあ、キャラが逆だけど、なんてね。
そういう想像に行くあたりが、ホント私、ツマラン女だなあと思うんだけど。
で、これは最後まで思っていたことなんだけど、そんなに、毛虫のように、蛇蝎のように嫌っている奈々瀬に、出て行けと脅すことが基本としても、なぜそんなに執拗にコンタクトをとるのか、そのこと自体が私としてはちょっと理解の範疇を超えていたというか……。
私はね、人をキライになると、もう一切顔も見たくない、口も聞きたくない、接触したくないと思ってしまう。私、ホント人間が出来てないの。キライになると、もう、その気持ちだけが増幅されてしまう。サイテーだよね……。
だから、あずさのように、強気に出て行けと執拗に迫ることが理解出来ない。自分の方から何とか工面して出て行ってしまうと思う。
まあ実際、あずさも番上に、引っ越したいと訴えるシーンはあれど、引っ越したばかりということもあり、なにより資金的なことで出来ない。
にしても、引っ越しはムリなのが確定しても、なにくれと奈々瀬にイヤガラセを仕掛けていくあずさが、正直私には理解出来ないんだよね……。
ヘドが出るぐらいキライなのに、何故そんなに接触出来るのか。怒れば怒るほど、イヤな思いになるのは自分の方ばかりなのに……しかも身重だからさ、心配になっちゃうんだよね。
実は、自分としては似てると思うのは奈々瀬の方なんである。いや、私は“誰とでもヤる”なんていう以前の問題の不毛女だし(爆)、あずさが彼女のことを嫌う気持ちも凄い判るのね。判らないのはそこまで嫌っているのに、なぜイヤガラセという形で執拗に奈々瀬にまとわりつくのかという点だけでね。
奈々瀬がなぜ、“誰とでもヤる”のか。それは、誰にも嫌われたくないから。劇中でもあずさの夫の番上から迫られて、彼に嫌われたくないというよりも、あずさに嫌われたくない一心で、関係を持ってしまう。
この理由自体はおかしいんだけれど、番上の、これはあずさと僕が上手くいくためだとかなんとか、どー考えても男の欲望のための言い訳に奈々瀬が、嫌われたくない一心で応じてしまうのが、あまりに哀れなんである。
ここまで私はバカじゃないと思うんだけど(爆)、ただ……人に嫌われたくないことに異常なまでに神経過敏になる奈々瀬の気持ちが判ってしまう自分が、実は彼女と同等に病んでいるのかもと思うと、ヘコんでしまう。
その同じ理由から、キライになってしまう人と、私は距離を置いてしまう。あずさのように、あんたのことが嫌いだ、と言えないのだ。
嫌われるのが怖いから。嫌いな相手にさえ、嫌われれるのが怖いから、その気持ちが見透かされるのが怖いから、距離を置いてしまう。
だから、奈々瀬の気持ちは判るけど、その行動はある意味……彼女の強さを感じるし、あずさに対してもまた、同様のことを感じる。
いや、奈々瀬は、やっぱり私とは違うな。人に嫌われるのが怖いところは同じだけど、奈々瀬は、人が好きなんだもの。こんなに、蛇蝎のように嫌われているあずさのことも、好きなんだもの。
正直それは、私には本当に、理解の範疇を超えることなんである。
そもそも奈々瀬がここにいるのは、英則に監禁されているからなんである。「自分が不幸になった理由をよくよく考えてみると、お前が原因だと判った!」と、出版会社のOLだった奈々瀬の元に英則が現われ、軟禁状態を強いたんである。
その時から、奈々瀬はグレーのダルダルスウェットの上下に二つに結ったヘアスタイル、メガネという、ダサ女を演出したいでたちになった。
引っ越しの挨拶に番上が訪ねた時もそのカッコで、般若心経など唱えていた。股間を押さえてモジモジして、ついにはジャーと漏らしてしまった……見るからに、異様だった。
そう、明らかに、追いつめられた心理状況に見えるんだけど、このあたりはビミョーである。出てくる登場人物が皆してフツーじゃない、キョーレツだから、一体これが、心理的に追いつめられているのか、単にイッちゃってる女なのかが判断しがたいんである。
ヘンにテンションの高い、人に気を使ってます!てことを前面に出した喋りっぷりは、あずさならずともイラッとくるのだが、これが彼女の素という訳じゃないのは、英則にさらわれる以前の回想がちらりと示されることで判る。
何はともあれ、番上はこんな奈々瀬に“なぜか”興味を持つんである。
お腹の大きな状態でまだスナックのママとして働いているあずさに甘えて、受ける面接にことごとく失敗する、もう生来のヒモって感じの彼は、つまりヒマなんで、何かと奈々瀬にアクションをかけてくる。
わっかりやすくガードを張っている奈々瀬に「それで男が興味を持たないなんて、奈々瀬ちゃん、間違ってるよ」と、嬉々として挑んじゃうんである。
一度は拒否されて「俺、カン違いしてた?」なんてこれまたわざとらしくヘコんで見せるもんだから、人に嫌われるのが怖い奈々瀬はあっさり陥落しちゃう。
いや、奈々瀬が陥落したのは、それが番上とあずさが上手く行くことなのだと、彼の理不尽きわまりない口八丁に乗せられたからであり、それが過去、あずさの元カレと寝た理由もそうだったことは、想像に難くないんである。
そんな濡れ場をなんと、天井裏に潜んで覗いているのが、奈々瀬と同居している英則であり……。演じているのが浅野忠信で、その奇妙な軍隊口調?がちょっとコメディタッチであったりもするんだけれど、正直、笑えない。
てか、それ以外でも、笑わせようとしてるんだろーなーという要素は多々あるんだけど、ことごとく笑えない。いや、劇場では結構笑い声も上がっていたし、身を固くしているのは私だけだったのだろうが……ダメだったなあ、なんか。
だって、あまりにも作っているからさ……そんなこといったら、皆そうなんだけど(爆)。いや、作った感じが著しかったのは、彼と奈々瀬を演じている美波嬢だけだったかなあ。
彼がなぜ、本当の兄妹でもない彼女と、それを装って暮らしているのか、かなりしばらく、明らかにされないんだよね。
どうやら奈々瀬が脅されている状態であるらしいということは、薄々判ってくるんだけれど、別に普通に生活していて、いくらでも逃げられる状態だし、彼女は特に怯えている風でもない。
「お兄ちゃん、明日は思いつきそう?」「思いつくかもしれない。お前に復讐してやるぞ」「頑張ってね、お休み」まるで穏やかに交わす二人の会話に、何か聞き間違ったかな?と思ってしまう。
軍隊のような口調を崩さない英則はまだしも、奈々瀬はその会話の最中も幸せそうな笑みを浮かべ、まるで待ち遠しい日を待っているかのように、カレンダーの今日の日を×で埋めて眠りにつくのだ。今時見ない、二段ベッドの下で。
その二段ベッドの、こともあろうにお兄ちゃんが寝ている上のベッドで、番上から迫られた奈々瀬は彼と濡れ場に及ぶ訳で……で、その様子を天井から秀則が眺めている。
「マラソンをしてくるぞ!」と言っていつも家をあける彼は、そうやって“妹”の生活を覗き見していた。奈々瀬はその“マラソン”を信じていた、と、いうのは、あずさと同様、観客も決して信じてはいなかったけど、でも、まるで知恵の足りない女みたいな風を装っていた奈々瀬に、やっぱり若干、観客も騙されていたような気もする。
少なくとも、英則と番上といった、劇中の男はコロリと騙されていた。番上が奈々瀬に手を出したのは、恐らく高校時代彼女とヤッた男たちと同じ理由だと思う……ちょっと頭がヨワイから、ヤラせてくれる、と思っていたんじゃないのかなあ。
この番上を演じる山田孝之がさ、彼は今どき珍しい、女に慣れてる男臭さをもつ役者さんで、そこんところが、いつまでもサラリとユニセックスな雰囲気を持つ浅野忠信と対照的なもんだから、このキャスティングは面白いなあと思うんである。「奈々瀬ちゃん、全然判ってないよ」と迫る彼の手つきは、森繁並みに慣れてんぞ!
こんな彼のカミさんになれるのは、ヤハリ小池栄子並みの“女臭さ”を持つ人でなければならず、だから「シーサイドモーテル」で彼の相手が璃子ちゃんだったのが、どーにも違和感だったのかなあ、と思う。
この四人が奇跡的に一緒するシーン、超ウソ寒く、四人が英則たちの部屋で人生ゲームなどに興じ、あずさが何を思ったのか、奈々瀬をモノマネしたようなキャピキャピ言葉で番上に迫るシーンは、ホンットに、ザワザワとサブイボが立つのだが、このすぐ後に修羅場が待っており……。
キャピキャピあずさに張り手をくらわせ(!)、仕事の面接に行かせた番上、英則もマラソンに出かけた(これも……ジョギングって言うべきだよな……3時間は帰ってこないという言い訳にしても)ので、いつものように奈々瀬とエッチをし始める。
そこに、履歴書を取りに来たあずさが戻ってきて……んでもって、英則も天井から覗き見ている訳で……もう、わっかりやすい修羅場。
Tシャツを伸ばしてフルチンを隠そうとしている番上の姿はコミカルだけど、どーにも笑えず、破水しながら怒りを爆発させるあずさもどーにも笑えず、天井から覗いているのがバレて、慌てて踏み抜いてしまって命綱でブラーンとぶらさがってしまった英則もどーにも笑えず……。ここで笑えなかったら、アウトだよな……劇場内ではかなり笑いが起こってたのに。
実際、天井からこの修羅場を覗きながら、破水したあずさを心配して「救急車を呼べ」とミョーに冷静に言う英則は可笑しかったんだけど……やっぱりね、この四人の誰にも、共感出来そうでどーにも出来ないことも大きかったし。
何より、一番共感要素が(恥ずかしくも)大きかった奈々瀬が、まるで最初から笑い者としてキャラ要素を仕立て上げられているのが、そのクサさが、どーにも引いてしまったの一番の原因かなあ。
あずさは破水の苦しさに悶えながらも、にっくき奈々瀬に襲いかかり、結局は、夫の腹にナイフをつきたてる。偶然ではなく、夫にこそ、である。
そして、奈々瀬は英則から「出て行ってもいい」と言われ、涙を流した……。
時間軸が飛び、あずさは夫と別れて同僚と共にスナックで赤ちゃんをあやしている。
そこに、やたらキメキメのスーツ姿に手下を従えた英則があらわれる。奈々瀬はどこだと言う。
「知らないの?サイテーなことになってるよ。案内したげる」あずさが案内したのは、あの元の市営住宅。庭先で番上が七輪をパタパタやっていて、玄関から呼びかけると、別の入り口から奈々瀬が出てくる。という小細工もイラッとくるのだが……。
奈々瀬はかつてのような、ワザとらしいダサファッションではなく、ちゃんと女らしいカッコをしている。
ここで、なぜ以前、奈々瀬と英則が同居生活をしていて、彼が奈々瀬に復讐してやると言っていたのかが明らかにされる。
二人は幼なじみで家族ぐるみで仲が良く、一緒にドライブに行った時に事故に巻き込まれ、秀則の両親が死んでしまった。
てなことまでは判るんだけど、てことは、奈々瀬の両親は無事なんだよね?この事態について彼女の両親はどういうリアクションしてるの?え?違う?私カン違いしてる?
そもそも、この事故の時の状況を英則が説明するんだけど、「おじさん、後ろ!」「それでボンネットにボーン!」「それは、奈々瀬の言ったことが正しかったんじゃないの?」……頭の中でシュミレーションしたけど、どーにもよく位置関係が判らないのは、私の頭が悪いせいだろうな……だって会話の応酬が早口なんだもおん……(……もう、私、マジダメだ……)。
それにさ、このシーン、英則がメガネをかけてない、コンタクトにしたんだということを、あずさも番上も奈々瀬も全員気にするのが、笑えるというよりうっとうしいと感じてしまうことも、なぜか脱ぎ出す浅野忠信も、自分の勘違いに気づいていきなり悄然とする彼も……。
それでもやっぱり今までと同じく「私が悪いんだよ!」と言い募り、この時ばかりは自分の欲望を優先して“お兄ちゃん”にむしゃぶりつき、この時点で番上と同居している事実はなんなんだよ!と作者の思い通りの術中にハマッてしまっている自分も、もうすべてが、どうにもこうにもイラついてしまって、だ、ダメだあ……それは、原作であり、演出に関してじゃない筈なのだが……。
これはね、あくまで私の生理的な印象だから、だから……でも、ヤダなあと思うこと全てが、展開や役者の問題ではなく、そのせいであったように思うのは、オープニングクレジットで監督の名前を見てしまった先入観かも。見てなかったら、どう思ったか、自信ない……(ダメだ……)。
でもね、美波嬢は、映画では久しぶりに観たけど……ワザとらしいキャラ設定はちょっとイラッとしたけれど、それまで舞台でもまれたらしい、地に足のついた存在感は、なんかすっごく、頼もしさを感じた。
それは、強い役柄である小池嬢よりも安定感を感じさせたし、何より、回想シーンや、ラストの、スウェット姿ではない、つまり普通の女に戻った彼女の質感が、とても素敵で、印象深かったからさ。
そう、だから……最終的にはね、なぜあんなにもあずさが奈々瀬に執拗に、過去のことがあるにしても、それ以上のイジメとも言えるまでのイヤガラセをし続けたのか、つまり関わり続けたのかってのがね。
この関わり具合は、ちょっとした友達よりずっと強い絆でさ、私なんかは、うらやましいよ。だって、出来ないもん。嫌いだと思う相手に、嫌いだと言うことさえ出来ない。嫌いだと言うことって、言えることって、それ以上の愛情ってないって、思うもん。
友達だと思ってた、と。特にあずさは、友達に“なってあげてた”ぐらいの気持ちがあったんだろうから、余計に憎しみが強くなったんだろうけれど……それと友情が表裏一体ならば、うらやましい。
でもそれを、どちらかと言えば奈々瀬がわの人間だった私に、リアルに感じられるほどにしてほしかったのは正直なところなのだ。キテレツで目を引く描写だけではなくて。 ★★☆☆☆
そう、なんかね、前半はかなーり、ひたすら、ハズかしかった。いや、ひょっとしたら全編にわたってハズかしいなあ、と思っていたかもしれない。
パラレルワールド、ミステリアスな黒づくめの男、その男に操られている(訳ではないらしいのだが)生気のない女、ウンチクめいた台詞のひとつひとつも、どうにもこうにもハズかしくって、どうしようかと思った。
でも、キャラや台詞はともかく、このパラレルワールド(あるいはパラレルユニヴァース……と解説するあたりのウンチクっぷりが、どうにもこそばゆいのだ)の世界を受け入れなければ、作品を観進めてなんていられない訳で……。
あ、それに、そのパラレルワールドには関係ない、居残り佐平次、フランキー堺かよ! さすがよく勉強してるね、とか、そーゆーウンチクまで出て来て、なんか詳しいことを自慢しているみたいで、どうにも気恥ずかしい。
ま、それはおいとくとしても、うーん、でも、やっぱりハズかしいのはそのパラレルワールドを自分の手で作り出す、最もキーパーソンであるカミオを演じる秋山真太郎氏が、あまりにもキメキメだからかなあ。
彼は主人公の恵介から恋人のあゆみを奪う形になるのだが「400万年も一緒にいた」というから、つまりはそんな、昔々の雅やかな時代の男を体現しているのか?
あゆみにも?あのおっとりとした言葉遣いからすると平安時代とか?いや、平安時代でも、400万年も前じゃないけど……いや、それは私の聞き間違いで、400年だったのか?いやいや、400年じゃ平安時代には届かないけど……多分……。
てか、てか!話が進まねー!(いつものことだが)あのね……メインの役者は三人、このカミオと恵介とあゆみなんだけど、その三人が三人ともあまりに大仰な芝居をするから、ほんっとに、前半ツラいんだよね。
いや、ここにカミオを入れてくるのはちょっと違うか。彼はいわば時空を超越したキャラだし、違和感を加えてくるのはある意味当然とも言える。
けれども、まず前半部分で、何の実にもならない同棲生活を送っている恵介とあゆみ、というのを見せる二人のお芝居が、もう……見てられないんだもん。目を見開き、肩をすくめて、はぁ?みたいな(爆)。
私は見たことのない役者さんたちだから、こりゃーヤハリ芝居がこなれていないせいかしらん、と思ったが、後に、本作が今は当然である同録ではなく、懐かしきアフレコ方式であることを聞いてミョーに納得する。
アフレコに慣れている役者さんならまた違うだろうけれど、そうじゃなければ余計にそりゃー……大げさに感じるよな。
最終的にはね、この大味さが本作の世界に合っていたと感じることが出来るんだけど、冒頭の恵介とあゆみの場面、だらしないヒモ男が同棲記念日も覚えていないことにキレ気味のシッカリ者の彼女、という、コントか!てなやりとりにかなり気分が萎えて、先が思いやられる……と思っちゃうんである。
それでも見ていくうちに慣れるのか(爆)、あるいは日常を超越した設定にヤラれちゃうのか(爆爆)、いや、きっと、彼らの演技なり、当てる声なりが、真に迫ってくるせいだろう……な、多分。結構、見入っちゃうんである(失礼な言い方……)。
カミオが一体どの時代、どの空間から来たのか。とにかく彼の登場シーンは鮮烈である。
雪の夜道の真ん中にぼおっと立っている。走ってきた車の運転手が、どけろよ!と叫ぶ。しかし降りて来た運転手は、カミオの視線に魅入られたように、「人の車に乗ってきてしまった……すみません」と謝り、彼に車を譲るんである。
そして、恵介とあゆみがデートしているレストランにもやってくる。店員は彼を先生、と呼び、崇め奉っている。驚いたことにあゆみまでもが熱に浮かされた顔をするもんだから、恵介は困惑する。
しかもカミオは金の替わりにティッシュを数枚、店員にもったいぶって渡して店を出て行くんである。
この時点で、恵介だけがカミオの“術”にはまっていないことが判るのね。
カミオ曰く、これは催眠術とかの類いではなく、世界がまるごと変わっていて、違う世界の君が居座っているのだと、くだんのパラレルワールド理論を提示するのである。
でも、恵介の目からもそうだし、観客の目からも、カミオの“術”としか見えないあたりがちょっとイタイかもしれない。
いや、一生懸命にパラレルワールドを、学術的にも認められていることだと解き、今の世界のすぐ隣にあるパラレルワールド、ほんのちょっとの違いだけど、違う世界、というのは、私も漫画かなんかで読んだことあるし、納得は出来るんだけど、それを、個人の能力、つまり超能力でそれが作り出せる、という展開になると、それこそ“術”にしか見えないんだよなあ……。
だってカミオが、自販機を見つめただけで、ガコンと缶飲料が落ちてくるシーンなんてのまで用意されてるんだもん。いくらパラレルワールドを強調されても、これじゃ恵介が言うように、皆が催眠術にかかっている、という方が説得力があるもんなあ。
とはいえ、カミオに目をつけられて、この“ワールド”では存在しない人間にされてしまった恵介は、それをくつがえそうとするとカミオに見つけられ、実にしつこく何度も何度も世界を変えられて、リセットされてしまうんである。
このあたりの描写で、パラレルワールドの説得性はちょっとは増したかな……。
しかも、この繰り返しこそが、本作の最も重要な部分なんだよね。ノーテンキなヒモ男、恵介だって、恋人のあゆみのみならず、バイト先の人たちや自分に色目を使っていた女の子たち、果ては電話の向こうの母親までもが「オレオレ詐欺か!」と自分の存在を否定することにボーゼンとしていた。
住民票にさえ、彼の名前はなかった。この文明的、情報化社会で、人の記憶以上にデータベースに残っていないことこそが、彼にとっては致命傷かも……と思ったけど、本作はそこんところはアッサリ否定するんだよね。
いや、否定、というより、スルー。確かにそのことにも彼はショックを受けるけれども、恵介は存在を消されたこの世界で見事、自分を確立していくんだもの。
カミオからはね、とにかく人に受け入れられることで自分を成り立たせていた、つまり、人任せだ、あゆみに対してもそうだ、ただのヒモだ、と喝破されるのね。そして確かにそれは当たっているんである……。
作詞家志望だなんてヌルいことを言って、あゆみの部屋に転がり込んで久しい。あゆみは歌手になる夢があったのに、このだらしない男のせいもあって半ば諦めかけている、ことを、当の恵介自身は気付いていないってあたりがヌルすぎるんである。
バイト先のライブハウスで常連の女の子たちにチヤホヤされるのも楽しい彼は、現在進行形で全く努力していない。
カミオが現われて、「自分が認められないのは社会が悪い。社会が自分に気づくべきだと思っているだろ」と実にキツいことを言われても、「誰でもそうじゃねえのかよ!」と逆ギレする始末なんである。
このやりとりは、確かに“誰でも”心のどこかでそう思っているだろうから……痛いんだよね。
つまりそれが、カミオが恵介を糾弾する“人に受け入れられることで自分を成り立たせている”人間の弱さ、なんであり、この時点では観客もまた、確かにそうだよな……と自分を顧みて思わずヘコんだりする訳で。
でも本作の素晴らしいところは、恵介が、それの何が悪いんだと反発すること。ていうか、それこそが、人間が人間として立つ価値なんだと気付き、カミオに突き付け続けていくことなんである。
カミオから、この世界にいないヤツにされた恵介は、最初のうちは、自分を知っている筈の人間を必死に訪ね歩いた。そして、撃沈した。
カミオは、遠からず彼が発狂するだろうと見ていた。しつこくあゆみを訪ねてきて、いやだワ、という顔をする彼女にもそう言い聞かせていた。
しかし恵介は、とにかく食い扶持を稼ぐためにとリサイクル家具屋で住み込みのバイトを始める。だって、恵介の持っている金は通じないし、ティッシュと小石にしか見えないこの世界の金も、彼が差し出すとやはり通用しないのだもの。
そこにもカミオがしつこくやって来てしつこく世界を変え、恵介をこの世界に存在しないものにするんだけど、そのたび恵介はここに来た最初の行動……「バイトの面接に来たんです!」とやり直して切り抜けるんである。そしてカミオに、中指を立てて見せる。
これってさ、凄い、凄いなあ、と思ったなあ。だってね、カミオが最初に恵介に突きつけた台詞は、確かに痛かったんだもん。人に受け入れられることで、自分が存在していることにしている。携帯のアドレスに沢山入れてれば入れてるほど、それが自分の存在している重さ、みたいなさ。
そう、それこそ昔なら……住民票に名前がない描写一発で終わってしまっていたと思う。今は、ケータイなんてものも普及し、とりあえず自分が保有している、あるいは他人の中に入っているデータがあれば、存在理由になるみたいな、寂しさがあってさ……。
だから、友達百人、どころか、何百人もアドレスを欲しがって、それだけ自分が誰かに受け入れられている、と思いたがっているのかもしれなくて……だからこれって、すんごく、現代的なテーマにヒットするんだよなあ。
その中で、確かにそんな情報化社会の中で、他人に受け入れられることで自身を確立させていた恵介が、一から人間関係を作り上げることを、カミオから何度壊されても壊されても、何度だってやり直して自分の存在を作り上げるのが、なぁんか、感動的だったんだよね……。
これってすんごく根本的で、原始的で、一番大変だけど、一番つながる絆の作り方だな、って思ってさあ……。番号やアドの交換じゃ、結局は数字や記号だけがそこに残っているだけだもの。
あるいは、恵介は表面上はタッパのあるイケメンDJとしてチヤホヤされていたにしても、それは、そういう現象にしか過ぎなくって、自分から相手に知ってほしい、と思ってそうなったんじゃ、ないんだもの。
おっと、思わず、こんな精神的なところでウダウダ留まってしまった(爆)。
でもね、これが、これこそがあったから、本作が、いいなあ、と思った。
そりゃあ、カミオの“術”にかからない恵介が見る世界、特に愛するあゆみが、あのハツラツとした、ヒモの恵介に対してチャキチャキとものを言っていたあのあゆみが、まるで焦点が合っていないようなおっとり女になってしまって、彼があゆみを取り戻すためにこそ奔走する、というラブの部分だって、確かに見どころはあるんだけれど、でも……。
この部分はね、あくまで世界観の構築としての魅力であったように思う。メイン三人のうち、世界を変える能力を持っていないのはあゆみだけだから、こんな具合にコロコロとキャラが変わってしまう訳であって、彼女は二人の男に取り合いになる女なのに、パラレルワールドを象徴するキャラにされてしまったことで、彼女自身のトキメキなりが、全く示されなかったのはつまんなかったなあ、とは思ったかも……。
つまり、女の存在価値が示されない、とも言える訳なんだもの。女は男の存在価値がまず成り立ってから存在する、みたいなさ。
ただ、最終的に、カミオと恵介が対決して、恵介が勝利する形で新しい世界が開けた時、それがあゆみの望む世界……彼女が夢だった歌手になり、恵介の書いた歌詞で歌い、カミオは単なる同居人、という結末で、ようやく溜飲が下がるんだよね。だってそこでのあゆみは恵介と恋人ですら、ないんだもの。
ただその前に……自分の存在を消された恵介が、ならばお前を殺したらどうなるんだとカミオに詰め寄った時、そうしたら全てがなくなる、お前の存在だけで、後は真っ白な世界だ、それは地獄だ……とカミオが言い、恵介は、まるで見て来たような言い様だな、とからかい気味に返すと、肯定するがごとき沈黙の視線をカミオは返すんである。
実際、カミオは、一体どれほどの長き間、この時空を旅してきたのか判らないけれど、“若気の至り”で、そんな経験もしてきたのだろう。あゆみに執着するのも、そのトラウマがあるからかもしれない。
恵介はカミオのその脅しがあるからこそ、やぶれかぶれにも彼を殺すことが出来ない。
しかしそれなりに時が経ち、バイトの最中にワケアリの物件からトカレフを見つけると、恵介の気持ちも揺れる。
実は映画の冒頭で示されるのが、恵介がカミオにトカレフを向けている場面なんである。
恵介の顔だけで、こちら側のカミオは示されない。ブルブルと震えている恵介は、冒頭のシーンでは彼の方が劣勢に見えたけれども……。
映像の色合いや光の切り替わりが、実に印象的なんだよね。現実社会はやけにピカピカと白光りしていて、最初はそれが、本作のデジタルな色合いなのかと思った。
だけど、パラレルワールドだの、カミオが登場する非現実的なシーンだのが重なるたびに、その度に、色合いががらりと変わる。
それこそ恵介が現実だと信じてやまなかった世界が、実はそんな風にただただ白光りしているだけの、ウソ寒いパラレルワールドの1ページに過ぎなかったんだと思えてくると、ゾクリとするんである。
一番のクライマックス、全てを失って、自分ひとりだけの絶望的孤独な地獄に落ちてもいいと、恵介がカミオに銃を向け、発砲し、すわ、全てが真っ白に帰してしまうのか!と思った瞬間……。
そこに至るまでドラマチックな照明にクレシェンドしてきたのが、アッケラカンとした日常の日の光にさらされる転換は、一瞬、何が起こったのか判らず、ぼおっとしてしまったぐらいだった。
どうやらもう一つのパラレルワールドに移行したのかと認識し、それがカミオも恵介も手の届かない、あゆみの世界、女一人生きていく世界になったと知った時、本作の重さ、面白さをずんと心の奥に受け止めた気がした。
そりゃあそれでも、どんな世界に行っても自分の存在を認められさえすれば生きていける恵介は、あゆみを口説き落とす気マンマンだけど、カミオはまた、全く違う。
それまでの世界とは違う、カルい感じで男二人と同居しているあゆみに戸惑いつつ、それでも、それはつまり、自分はここから簡単に出て行ける、自由に生きていけるんだと受け止める。
それこそ、何百年ぶりなのか。彼は二人から離れ、見知らぬ土地で豆腐屋の店先に佇み、何を思ったのかコートのポケットに無造作に豆腐を何丁も突っ込んで走り出す。
追いかける店主から逃げながら、爽快な笑顔を見せるのだ。笑顔なんて、見せたこと、なかった。
最終的にはあゆみの夢だった、ロックボーカリストとしてライブステージに立つ場面で見切れるんだけど、これが一番非現実的、っていうか(爆)、オトメチックっていうか(爆)、それまでの大波の展開からするとどうなのという気もしないでもないというか……(爆)。
ただ、このライブハウスで様々なバンドの演奏が披露されるのが楽しく、その中でも大トリ、じゃないか、大トリはあゆみだからな、その前のライブシーン、あゆみがその歌詞、「自分の生きたいように生きるべきだ」みたいな歌に涙を流す、戸川昌子のステージが、その歌詞を提示するのはベタながらも、それでも、確かに、すんごい、ステキだった!
キャリアっつーのはさ、やっぱ全然違うね、凄いもんだね。単純に盛り上げるとか、歌唱力とかじゃないのよ。
オーラとひと言で言ってしまうのも違うような気がする。ここだけ時が止まった気がした。このライブシーンだけでも、本作を観る価値があると思うなあ! ★★★☆☆