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「う」


2010年鑑賞作品

うつし世の静寂(しじま)に
2010年 96分 日本 カラー
監督:由井英 脚本:
撮影:由井英 伊藤碩男 澤幡正範 小原信之 音楽:清塚信也 中野哲郎
出演:


2010/11/14/日 劇場(渋谷ユーロスペース/モーニング)
静寂と、祈り。風土への畏敬の念。素朴だけど、だからこそ強く、何にも邪魔されない。信仰というほどに泥臭くなく、習慣と言うほどに無意識でもない。
コミュニティ、絆、先祖代々の。……なんといったら、いいんだろう。
恐らく、こうした風景は、ここに限らず、今も日本中のあちこちに残っているのだろうと思う。断片的に見る機会もなくはない。

ただ、日本人の根っこにある、いわばアイデンティティとして、それを一つの土地から系統立てて描いた作品は、初めて見る。
そしてそれが、劇中でも言われているような、「川崎都民」などと呼ばれる、東京に程近い、地元意識がさほど高そうにもない都市の片隅において根付いているのは、とても意外だった。

川崎市なんてホント、過去に公害まで引き起こしたほどの大きな工業都市のイメージと、そして、私も学生時代近くに住んでいたけれど、整然と区画され、クリーンな都会のイメージしかなかったから。
その同じ川崎市なのかと目を疑うような、山あいの、まるで昔話の挿し絵みたいな、ささやかな棚田を、いまだに手作業で育てる“お百姓”の姿には息を飲んだ。
本当にこれが、現代の、日本なのか。劇中でもそう言われていたけれど、農業従事者とか、そんなんじゃない、本当に“お百姓”の美しさと誇りを、その姿にはしんしんと感じるのだ。

山あいから湧き出る清水を水田に頂き、しかし一方で清水が運んでくる土砂による泥田に悩まされ、それでもただただ黙々と、黙々と、鍬(クワ)を使い続ける。
鍬、こんな道具を今でもこんなに自在に扱って、田んぼを育てているなんて。
何か本当にタイムスリップしたような気になった、のは、私も含めて足元をしっかりと踏みしめずとも生きていける貧しき時代になったからだろう、か。

おっと、じわーっと先走ってしまった。川崎を舞台にした風土と絆と信仰の物語は、いくつかのチャプターに分かれている。
最初に描かれる“講”による地元民の絆には、大いに興味をそそられる。
講、というのは聞いたことはある。無尽講。念仏講。うんうん、聞いたことはあるけれど、何のことやらサッパリ、というのが実感である。

この講に限らず、本作に描かれる地元民によって引き継がれていくあらゆる伝承や行事は、私のような、転校を繰り返した流浪民にとっては、憧れこそすれ、実感としてはとても感じられないのが正直なところなんである。
だってこれって、やっぱりその地に根付き、子供を育て、その子供がまた親になり……ていう、絆の物語なんだもの。
ここまでディープな現場は見たこともないけど、もっと軽いものでも……やっぱり基本ヨソモンである私たちは、こうした伝承の場面に参加できるツテを持たなかった。
指をくわえて眺めているしかない……そんな印象が、子供時代、青春時代を貫いていたように思う。

親元を離れて進学のために住んでいた地に程近い大都市である川崎でも、そんな伝承が繰り広げられていたと思うと、川崎なんて都会ならば、ヨソモンでも受け入れてもらえるような気がしていたこともあって、軽くショック、なんていうのは大げさ?……でも、やっぱり、ひたすら、うらやましいんだよなあ。

そうだそうだ、講よりも最初に提示されるのは、もっと判りやすい、閻魔様への畏怖と信仰である。
閻魔様の祠を先祖代々守ってきた男性が、若い頃はなんだこんなもの、と思っていたこともあるけれど、年をとると、守っていかなきゃいけないと思うようになった、と語る。
この台詞は、まるで申し合わせたように、チャプターが変わって、題材が変わって、インタビューされる誰もが、同じ趣旨のことを言うんである。
若い頃はめんどくさい、大変だとしか思わなかったけれど、今は大切なことだと、続けていかなきゃいけないことだと、思うようになった、と。

こうした古き信仰的行事は、伝統的なものだから、男子が前に出て、女子は裏方を務める。つまり、多くの来客に対して料理を用意しなければならない訳である。それに対して「若い頃は、ただ大変だと思ったけれど……」という部分はそうだろうなー、と大いに納得する。
しかし、私のように、コミュニティの恩恵から外れ、こうした苦労を知らずに育ってしまった人間にとっては、「年をとったら、それが大事なことだと思うようになった」という境地に達することが出来ないのだ。
それがいろんな状況こそあれ、そうした、コミュニティを離れる人間が増えていってしまったことが、日本人が持っていた様々な美しき価値観を失わせることになったのだろうか、と、自戒を込めて、思うんである。

で、いちいち話が飛ぶけれども。そう、閻魔様に関しては、とっても、判りやすい、のよね。
判りやすく、怖いお顔をしてらっしゃる閻魔様。子供たちにも、ウソをついたりしたら閻魔様に舌を抜かれるぞ、なんて、私の子供時代もよく言い聞かせられていたと思う。

でも、これも、そう、大人になるとよく判るけれども、子供の頃にはただただ怖いばかりの閻魔様だけれど、私たちの生活を見守ってくれている神様、なんだよね。
祭られている閻魔様は、それも勿論人間による手作りだし、恐らくそうした意図があってのことだと思う……リアルに怖いんではなく、愛嬌のあるお顔をしていらっしゃる。
悪いことをした子供を本当に懲らしめるんじゃなくて、実は慈しんでいる、つまり親の気持ちを象徴しているんだと、大人になれば判るのだ。
だから大人は閻魔様に手を合わせ、子供にも手を合わさせ、息災を願う。

こうして思うと、本当に日本の信仰は独特だと思う。わかりやすくキリスト教と比べても、神様をリアルに信じている訳じゃないってあたりが、全然違う。
ぶっちゃけて言えば、閻魔様も、この後に出てくるお地蔵様も、その存在をリアルに信じて畏怖している訳じゃない。偶像崇拝だと、判っているのだ。
自分たち愚かな人間を投影していて、だからこそ親しみを持っている。誰と規定していないのは、イコール自分たちだとさえ言える。そんな存在を大切に信仰するのは、つまり自分たちやその生活を大事にしていることなんだよね。

自分であり、コミュニティの人たちであり。ああ、だからなのか、こんなにほっとして、あたたかだと感じるのは。
そして子供が閻魔様を怖がるのも、規律を教える大人を怖がるから。至極健全なことなのだ。
閻魔様を守っている男性が、そうした道徳の教えを伝えていくことは大事だと語る言葉に、大いに頷けるのは、そうしたことなのだ。

で、だいぶ脱線したけど、講である。無尽講はコミュニティの中で紡がれるお金の貸借、つまり金融行為であり、念仏講は円座になった人たちが数珠をまさぐりながら念仏を唱え、その主の祖先の冥福を祈る行事である。
同じく講がついても、その内容はずいぶん違うナとは思うし、実際無尽講は、過去リアルな金融に大きく発展した歴史もある(だから聞いたことがあったのかな)し、風土や信仰とどうつながるのかな……とちょっと思ったんだけど、ここで描かれる、つまり形として残っている無尽講が、貸借が決まっており、少額によるやり取り、つまり、どこか娯楽にも近い、絆を確かめ合う場になっていると知ると、なるほどなあ、と思うんである。

無尽講も念仏講も、あるいはほかのあまたの(本当にたくさんある!)講において、重要なのはその後の酒を交えた会食であり、毎月のように行われる講に女たちは食事作りに大変な思いをする、というのが、先述した通りなんだけど、確かにそれを思うと私なんか単純にメンドくさいとか思っちゃうけど(爆)、でもこれこそが、健全、なんだよなあ……。
ドアでバタンと区切られてしまうマンション時代である今こそ、こういうのって大事な気がする。
だって、顔を合わせる機会が、ないんだもん。私なんか、ホント危機感を感じてる。こういう講があるなら、参加しとくべきじゃないかとか思っちゃう。
でも、こういうのって、ヨソモノを入れてくれない歴史もあるからさ……。

おっと、ちょっと暗くなってしまった。でね、この講で、印象的、というか、凄くいいなあと思うのが、その場に掛け軸を据えることなんだよね。講ごとに、それに見合った掛け軸が用意されている。どれも古く、歴史がある。
その場に見合った、神様が描かれている。チャプターごとに丁寧なナレーションがつけられているのだけれど、ここで語られるのが一番印象的である。いつから人間は、人間同志だけで顔をつき合わせるようになったのだろう、と……。

日本人はいつでも、神様に見られていることを意識していた。神様の元で生活していた。先述のように、日本のあまたいる神様は、つまり私たち人間のうつし鏡だからさ、自分にとって恥ずかしくない自分でいられるか、ってことなんだろうと思うんだよね……。
仏壇や神棚がある生活も、きっとそうだろうと思う。仏様にもご先祖様にも恥ずかしくない自分か、自分が見て恥ずかしくない自分か……それこそが、日本人の美徳だと思うんだよなあ。

巡り地蔵を描くチャプターは、こんな行事があったのかと驚かされる。それまでは、川崎の一地域を出なかったのが、この巡り地蔵に関しては、地域を越える。かつては、東京一円を巡っていたとも伝えられ、本尊のお寺さんに帰ってくる期間は殆んどなかったのだという。
丁寧に駕籠に納められ、それは背中に背負えるしょい紐がつけられている。リヤカーに乗せられて、静かにゆっくりと、区画から区画へと行く。

迎えられる家にはお地蔵さんが迎えられる目印となるのぼりが立てられ、かつてはそれを見つけたご近所さんが、ひっきりなしに拝みに訪れたという。 お地蔵さんは、縁側から入り、縁側に面した場所にしつらえられる。玄関からではない。
なんとも奥ゆかしい話だが、提灯を目印に、ご先祖様の霊が入ってくるという話を聞くと、ああ、なんかそういうの、お盆の時に聞いたことあるような気がする、と思う。
縁側は、この世とあの世の境界線、結界のある、神聖な場所なのだと。

しかしこの巡り地蔵の歴史は案外と新しく、劇中出てくる中年女性の祖父母の時代だというのだから。
そして、まだやってるのと言われる、と女性同士が笑う。お地蔵さんに、お願いばかりしていて心苦しいんだ、と言って、また笑う。
でもそのお願い事は、まさにこのお地蔵さんを運んできた彼女の旦那さんが大病をした時に祈った、家族への思い、なのだ。
あるいは親のこと、子供のこと……そう思うとお地蔵さんって、子供の顔にも老人の顔にも見える。そのどちらかであり、中間ではないのは、やはり“お願いばかりしてしまう”大人の人間は、煩悩まみれなのかな、と思う。

巡り地蔵を再現する場面、バックには都会らしい鉄筋コンクリートのアパートに、生活感溢れる洗濯物が沢山干されている。
その手前に、まるで映画村みたいにかやぶき屋根の家が鎮座する。その縁側に向かってお地蔵さんを背負った女性が静々と進む。
奇妙な融合こそが、川崎の不可思議な魅力なのだろうと思う。実際、このアングルは存在するんだろうな。

本作のクライマックスは、鎮守の森に100年ぶりに納められる獅子舞の奉納である。
実は、無尽講、念仏講のチャプターから既に戦争の影が見え隠れしていて、これこそが本作の大きなテーマなのかな、と思っていた。
本来ならば、地域の純粋なコミュニティである筈の講、それが、時の軍国政府によって、これ見よがしな感謝状などが送られ、それが神様の掛け軸にムリヤリ継ぎ足されている。
今や、どちらもひび割れ、セピア化してしまって、そんななまぐさい痕跡も感じられないのだけれど、ここをハッキリ定義することによって、遥かなるものへの尊い信仰が失われることで日本人がダメになっていくことに、警鐘を鳴らしている、んだと思うんである。

伝統を受け継ぐ子供たちが、獅子舞の稽古をつけてもらっている。40日に渡る修行は、太鼓を叩きながらの複雑な振り付けが体力的にもキツく、現代の男の子なんてすぐにでも音を上げそうなのに、最初から緊張気味な顔が既に覚悟の様相を呈している彼らは、見事大役を担うんである。
そして、そのOBたちも参加するこのお祭りは……実に100年ぶりの奉納。なぜ100年ぶりかっていうと、時の政府によって合祀命令がなされて失われた森の神社へのそれだったからなんである。

それぞれの民によって信仰を集めている神社が統合され、一方が廃社されるということ自体、今の感覚ではどうにも理解しがたいものがあるんだけれど、その哀しい過去がある意味、コミュニティの絆を深めていたのかもしれないこの事実は、皮肉というか、なんというか……。
だってさ、軍国時代、軍服姿の端正な顔で写真に収められていた“OB”たちが、すっかり白髪になって、息を切らしながら面をつけて舞う姿には、この時を心から喜ぶ、その時を信じて絆を深めていた時間を感じるから……。
戦争って、なければいいに決まってるけど、そのことが絆を深めることにもなる。今の私たちが平和ボケしているなどと言われるのは、そういう意味かもしれないけど、でもそんなこと言っちゃいけない、よなあ……。

最後にもまた、あの閻魔様が現われて、なにかほっとする。閻魔様を、自分自身を信じていれば、生きていける気がする。★★★☆☆


うまれる
2010年 104分 日本 カラー
監督:豪田トモ 脚本:
撮影:豪田トモ 中谷宏道 音楽:古田秘馬
出演:伴まどか 伴真和 松本直子 松本哲 松本虎大 関根麻紀 関根雅 東陽子 東徹 池川明 鮫島浩二 大葉ナナコ 見尾保幸 岡井崇 吉村正

2010/12/2/木 劇場(シネスイッチ銀座)
どうも言いづらいんだけど、ドキュメンタリーなのに、演出過剰な感じを受けてしまった、と言ってしまったらやっぱりやっぱり、怒られるだろうか?人でなしだと責められるだろうか?私……。
導入部、出産をサポートする人たちや、実際に今ママになっている人たちに話を聞く場面の前に、なんか、ラッセンみたいなキラキラしたCGの映像から始まるのが、う、うう、なんか新興宗教のPR映画っぽい、と思ってしまったのがマズかったのか……。
そう思っているところへ誕生前の赤ちゃんの記憶、の話から始まると、それがどんなに感動的なことだと判っていても、ちょっとないなあ、と感じてしまう自分自身がイヤすぎる。

これね、時期が悪すぎたのよ。いや、少なくともこんな勝手なことを言っている私にとってはね。あの「玄牝 -げんぴん-」があったじゃない。同じく出産を扱う、しかも、同じくドキュメンタリー。
いや、いくらテーマが同じでも、ドキュメンタリーという体裁が同じでも、作品が同じものになる訳ないのは判ってる。実際、命の素晴らしさという決着点はある種同じであっても、これほど違う印象を与えることに逆に驚くぐらいで。
でもね、あの「玄牝」の驚異的なナチュラルさに比して本作は……そんなことは決してないんだけど、ない筈なんだけど、作った印象を与えたんだよね。こんなことを言ってしまうと語弊があるんだけど、ある種のわざとらしさ、というか……。

それは、実はつるの剛士のナレーションが、後押ししてしまっていることもあると思う。
私、彼のナレーションは予告編だけなのかと思っていたのだ。つまり、観客を劇場に来させるために、宣伝である予告編とかテレビスポット(は私は見ていないが)とかだけ頼んだのかと。
しかし本編ずっぱり彼がナレーション。いや、確かに彼にナレーションを頼んだ理由は、判り過ぎるほど判る。今やイクメンを体現する子沢山芸能人の代表である彼は、その好感度の高さからも適任であると思われたのだろう。
でもね、ドキュメンタリーにナレーションって、そもそも必要なのだろうか?と思ってしまうんである。説明がどうしても必要ならば、それはゲーノー人というパッケージが見えてしまう人物より、それこそ監督本人の方がよほどいいんじゃないかと思うのだ。

実はね、このことと同じことを、奈良美智のドキュメンタリーで宮アあおい嬢がナレーションを担当していた時に思ったんだよね。
声だけを聞くと、彼女がこんなに女の子女の子しているんだということ自体にも驚きだったけど、それだけにストイックな制作活動をしている奈良氏の映像に、どうにもこうにも浮いてしまって、もったいないなー、という印象が今も忘れられないんである。
本作もね、そう、「玄牝」と比べちゃいけないんだけど、一切のナレーションなどなかったあの作品は、ナレーションがいらないだけの力があったと思うんだよね。
ナレーションの有無がまず、2作品を分けてしまった出発点のように思ってしまう。

いや、だから比べてもしょうがないんだけど(爆)。でもさ、「玄牝」でいわば主人公のように君臨していた吉村先生が、本作でも登場していたからさ、思わざるを得ないじゃん。
「玄牝」でも仙人のような浮き世離れは感じていたけれど、本作の演出の元では、ホントにマンガチックに映ってしまうのもイタかった。

いや、ね。冒頭から出産経験のあるお母さんとその子供たちが、カメラのこちら側のインタビューに答える形で出てきて、その流れで産婦人科医や助産師、バースコーディネーターと言ったサポート側もインタビューに答えるんだけど……。
これがね、白バック、まではいい、白バックがほんわりと光を帯びて、画面の人物をファンタジックに包んでいるという趣向でね、えーっと思っちゃったのだ。何コレ、って。なんでこんな演出が必要なの、って。
彼らの言葉は、生命をこの手にしている尊さに満ちている。だったらそんな演出なんて必要ないじゃん、って。
正直、この一発だけで、全てがウソっぽく感じてしまった私の方が心が狭い……のだろうな、ということは判っているんだけれど……。

でもさ、この冒頭は特に、胎内記憶に関して扱っているということもあって、そんなファンタジックな演出をしてしまうと、もうアッサリ安っぽいメロドラマに陥ってしまう危険性をはらんでいると思うんだよな……。
胎内記憶というのはそれだけで、それこそ安っぽい宗教的思想に転化されてしまう危険性があると思う。
でも確かにそれはあるんだろう、そしてそれが、親たちを癒し、救うのだろう。確かに感動的な事象であり、伝えるべきことだと思う。
それだけに……まっすぐにそれを伝えればいいじゃん、と思っちゃったんだよね。なにもあんな、白バックで光りに包まれて、ママのところに来たかったから来たの?ホント?嬉しーい!なんて子供を抱き寄せる、なんて演出をしなくたってさ、いいと思うんだよね。

そりゃあ、その記憶を話す子供たちにそんな他意はないと思う……多分……思いたい……いや。でも、そんな演出を施されちゃうと、それがいかに真実でも、ハイ、スタート!で上手く喋ろうとしている“子役”の感じが透けてしまう。いやいや、決してそうじゃないことは判ってるのよ!
でもね、そう見えちゃうこと自体が問題だと思うんだよな……いや、そう見えちゃうのは、私だけか……ヤハリ……。
それに、劇中何度か出てくる、夫婦たちの苦悩をほんわか系アニメーションで再現するのも、しかも癒し系のオリジナルソングまでつけて、そんなん、彼らの言葉以上に何が必要なの、イラネーよ!と思ってしまう……。

この冒頭のインタビュー括りに出てきたうちで、本編の中でも登場するバースコーディネーターの女性が一番タレント臭があるというか(爆)。
化粧バッチリでスタイル良くて美人で、見え方を知っている上に、バースコーディネーターという肩書き自体も、聞いたことないこともあって何それ?と思ってしまったし、発する言葉もなんというか……イメージ重視な感じで、なんか、引いちゃったんだよなあ。
いや、判ってる。それは、ホント、私がそういうことに関係ないところの人間だからだ。妊娠出産も経験なく、それを望まれる環境にもなく、気楽すぎるほどに気楽に生きているから。
でもさ、逆にそういう人間にこそ判らせるために、こういう映画の存在意義があるんじゃないのかなあ。

あのね、私が足を運んだ日、その前の回が、赤ちゃん連れのお母さん対象として設けられていたんだよね。ベビーカーを押したお母さんたちがいっぱい来ていた。
それはそれでいいことだと思うが、しかしこの映画に描かれている大半のことは、彼女たちは充分判っていることなんじゃないの。見せるべき相手としては、違うよね。
むしろ彼女たちが映画という娯楽をなかなか行けない現状を手助けするなら、この映画ではないんだよなあ、などと思ってしまった。

ぐだぐだ言っても始まらないので、内容に突入。本作は四組の夫婦による物語である。“妊娠中”“死産の経験の後妊娠”“障害を持つ赤ちゃんを育てている”“不妊のまま子供を授からなかった”という、様々なケースの夫婦がかわるがわる現われる。
最後まで見てしまえば、最初の夫婦にふと感じてしまった印象がいかに瑣末だったか判るんだけど、でも、この最初の夫婦、只今妊娠中で、出産に至るまで追いかける、いわばメインと言っていい彼ら、というか、奥さんの方が、まるでこの作品に私が感じていた演出過多を象徴するような作りこみようで、ちょっと……と思ってしまった、のだ。

もちろん、彼女自身にそんなつもりはないだろうとは思う。それは判ってるんだけど……。
あのね、これはオフィシャルサイトを覗いてみたら判ったことなんだけど、音声さんをつける予算がなかったからと、出演者は皆襟元にピンマイクをつけているんである。
それは事情を聞いてみれば確かに仕方のないことなんだけれど……ここで喋る準備というか、用意されている感を、そのマイクひとつでメッチャ感じてしまうんである。
ことに、冒頭から登場して妊娠中から出産の場面までを貫くメインの彼ら、ことに彼女の“用意されている感”を感じてしまうと、もうその印象が頭にこびりついてしまうのね。

……ホンット、私、ヒドいこと、言ってるな……。ただね、なんか、判る気はするのだ。
彼女って、凄く、人の期待に応えたいタイプの女性なんだと思う。人と話す時に、相手に悪い印象を与えたくない、と殊更に朗らかにチャキチャキと話す人って、いるよね。
そういう気持ちは判るだけに……私もそういう風にやってしまう場面もあるから……なんか殊更に、イタイ気がしてしまうんである。
助産院でエコー映像を見ながら話している時も、道端のおばあちゃんに話しかけられた時も、実はダンナと話している時でさえ彼女は……殊更にほがらかに、つまり、ガードがメッチャ固いんだよね。

それが、この題材だからこそヤだなあ、と思っているんだけど、出産日が近づいてくると、そのガードが破れる瞬間がぼちぼち現われてくるのがイイんである。
あのね、彼女は母親に虐待された過去があり、そしてダンナの方も不仲の両親の元に育っているというバックグラウンドがあるのね。
ダンナの事態も深刻だと思うし、彼がなかなか父親としての実感が持てなくて苦悩するというテーマも実に重要なんだけど、でもやっぱり彼女の方が気になるんだよね。
彼女のガードの固さ、外に対する芝居性こそが、実はこの過去が影響しているんじゃないか、って。

彼女が、自分が虐待されていて母親の愛情を実感できずにここまで来たから、いい母親になれる自信がない、と実にもっともらしい(いや、その通りなんだけどさ(汗))告白をする場面など見なくても、彼女が素を出すことを無意識にも恐れていて、朗らかな自分を演出しているそのこと自体が、彼女のトラウマを語って余りあるのだもの。
だから、出産が近づいてナーバスになった彼女が、母親のことを思って思いがけず流した涙に自身がうろたえたり、夫に対してもいつも柔らかだった彼女が、激しい陣痛に当たり散らし、出産の激痛にケモノのような咆哮を上げる時こそ、ああ、なんか、ホッとしたなあ、というか……。
そう考えると、妊娠、出産というのは、人間を、人生をむき出しにすることなのかなあ、と思って……。

二組目の夫婦は、お腹にいる時から赤ちゃんに重い障害があることを知って産んだ夫婦である。
この素晴らしき夫婦に対して何か言ったらホント私、人でなしだと思うんだけど(爆)。
本当にね、素晴らしき夫婦なのだ。迷わず産むことを選択した。それは、母親のみならず、父親もである。
生後一年までに死んでしまう確率は90パーセント。口で食べ物をとることが出来ず、鼻からチューブを入れて栄養をとっているという、見ているだけで痛々しい赤ちゃんを、しかし彼らはありがちな涙なんか見せずに、全開の笑顔で育てている。

そう、素晴らしい以外にないのだが……でもね、赤ちゃんに障害があることが判っている、そして医者から産むか産まないかを聞かれた、というくだり、全く逡巡せずに産むことを決断した彼らは文句なく素晴らしいのだが、でも、悩んで悩んで、結局堕ろすことを決断せざるを得ない夫婦は絶対に存在する筈なんだよね。
いや、まあ、こういう趣旨の作品で、尺も限られている中で、そこまで気を配ること自体難しいことは判っているけれど、長く生きられないことが判っていてこの世に誕生させることが、この子にとって幸せなんだろうかと考えて堕ろした夫婦を誰が責められようか。
いや、別に本作がそれを責めている訳じゃないんだけど、こんなにも素晴らしすぎる夫婦だと、ふとそんなことも心配になってしまうんである。

もちろん、今の時点で不治の病でも、どんどん医療が進歩している現代、この子の病気が治るかもしれない、という希望だって持てる。
この夫婦はそういう観点ではなく、もっと単純に我が子への愛情だったからこそ素晴らしいと思うんだけれど。
でも、それまでその赤ちゃんを育てるだけの経済的余裕がないがために、悲しい選択をせざるを得なかった夫婦もきっといると思うのだ。
それこそ、こんなことを言ってしまったらホントひどいんだけれど、五体満足な子供だったら育てる余裕もあったのに、というさ……。
でもそれを、誰が責められるだろう。いや、本作が責めている訳じゃないんだけど、なんか、ふと無言の圧力を感じてしまってさ……。

三組目が一番重く、そしてラストで未来への希望を与えられて真に感動的な夫婦である。
流産、死産というのはその言葉を聞くだけで辛い出来事だけれど、それがなんと、出産予定日に起こってしまったという夫婦。
「この日がこの子の誕生日の筈だったのに」と一年経っても溢れる涙を止められない妻に、そっと寄り添う夫も彼女と同じく悲痛な思いを共有した。
もしかしたらその直前までは、あの一組目の夫婦の夫と同じように、イマイチ父親としての実感が持ててなかったのかもしれない、男ってそういうもんだと言うし……。
と思うと、このことで夫婦の絆が深まったことにふと、皮肉なものを感じてしまうんである。

いや、そんなことは、現実が判っていない独身女が言うたわごとである(爆)。
彼女が、ずっとお腹の中で育ってきた我が子を外に出すこと、つまり、死を認めることをひどく嫌がって、泣き叫んだことを聞くと、そんな独身女でも涙があふれる。
そしてダンナが、ちゃんと出してあげよう、この子に会いたいし、会いたがっているよ、と言うのも涙ダーである。
その時残された写真が、もう息をしていない赤ちゃん、まるでスヤスヤと眠っているようにきれいなきれいな顔をした赤ちゃんを抱いて、会えて嬉しかったよ、という穏やかな笑顔でもうこの世にいない我が子を抱いている二人がまた、涙ダーダーダーなんである。

物語の最後、二人に待望の赤ちゃんが授かり、最初の検査でダンナの袖をひっぱり一緒にエコー映像を見て、心音が聞こえた時に彼女がつつーと流す涙に素直に心が現われる。
椿(亡くなってしまった赤ちゃん)に妹か弟を絶対に作ってやろうと思った、と言うダンナの言葉にグッとくるんである。

そう、二人の間には、椿ちゃんは生きているのだ。失われた我が子の替わりを求めようと、妊娠を急ぐ二人を制する産婦人科医の言葉はそういう意味があったんである。
まあ正直、彼が二人に送った “椿ちゃんが書いた天国郵便局からの手紙”は、思いっきりフィクションだと判っていても、赤ちゃんの椿ちゃんが、こんな難しい言葉を駆使する訳ねーだろー!とか思って、素直に泣けない(爆)。
だってさ、言葉遣いは子供らしく彩ってるのに、使う熟語が頭のいい大人(つまり、お医者さん)の使うそのものなんだもん(爆爆)。

ここで、ちょっと忘れかけてた胎内記憶の話が再び出てくるんだよね。いや、出てくるというか、裏付けるというか、それを前提としているというか……。
「ほんの少ししか一緒にいられる時間はないけれども、それでもお父さんお母さんのところに行きたかった」とこのお医者さんが椿ちゃんに成り代わってしたためる言葉は、胎内記憶を前提にしているに他ならない。
今は親戚の皆と楽しく暮らしてる(こういう言い方が、赤ちゃんぽくないというのだ(爆))から心配しないで、と締めくくるこの手紙は、確かに号泣必至なんである。

確かに胎内記憶というのはあるのだろうと思えるほどにデータも残されているし、あってほしいと思う気持ちもある。でもそれを、こうして“代書”されるとどうかなあという気持ちもなくはない。
いや、これはこうして映画という形で表に出されたからそう思うことであって、彼らにとっては必要なステップであり、きっと本当に椿ちゃんもそう思っていたと、本当に思うけれど、でも、ね。

その次のシークエンス、次の夫婦の物語があるからこそ、思うのだ。実際の子供が記憶を辿って言うならまだしも、フィクションとして示していいのか、って。
次の夫婦、おもに表に出てくるのは不妊治療院の敏腕管理部長である女性、47歳。
実に9年間に渡る不妊治療の末に諦めた経験を持ち、赤ちゃんになることがなかった凍結受精卵を、愛しい我が子として今も大切にしている。
いつか“終わらせなきゃいけない”そのことは判っている。望んで望んで、だけど来てくれなかった赤ちゃん、望まれないところには来て、堕ろされてしまう赤ちゃん……。

このシークエンスがあると、胎内記憶、赤ちゃんが雲の上からお母さんお父さんを選んで降りてくる、なんてうかつに言えないじゃない。
いや、もちろん、本作だってそのことは判っている。この管理部長の女性は、なぜ、堕胎を選ぶ夫婦の元には赤ちゃんが来て、望んでやまない私たちのところには来ないのか、と苦悩する。それこそが現実なのだ。
そう思うと、殊更に演出過剰だと思った、胎内記憶を饒舌に喋る子供たちとそれに対して瞳を潤ませる母親、という冒頭のシークエンスが、実は計算ずくだったのかなという気もしてくるが……うーん、どうなんだろう。

でもさ、“雲の上から、このお母さん、お父さんのところがいいと思ったから行った”という言葉を、こんな風に赤ちゃんを望んでいる夫婦たちこそ、わらをもすがる思いで信じたいんじゃないの。
虐待だのネグレクトだの横行するのは、今の日本が親に大きな負担を強いていることも一端にあってさ、そんな大変な思いをしている親たちを救うためにも、胎内記憶を明らかにするのはいいことだとは思うけど……。
正直、本作を貫くには、一貫性がないような気もしてしまったのは正直なところかなあ。それに、あんなファンタジックな演出されたら、それが神秘的な事実であると受け入れるのも難しいもの。

それに、この管理部長の女性へのインタビューが、どこだか判らんけど寂寥感漂う川岸で行われていたりするのもねー……彼女が流す涙はホンモノだとは思うけど、シチュエイションにはこだわりすぎな気がした、かなあ。
それは、椿ちゃんの命日に、お骨を抱きしめてお寺にいる場面を間をおいて繰り返す三番目の夫婦にもちょっと感じたかもしれない……(あー私、最低……)。

正直、本作は予告編では号泣なのよ。予告編見るたび泣いちゃって、こりゃやべえな、と思ってた。それだけ身構えていたところはあったとは思うけれど……その前に「玄牝」を見ちゃったからなあ。
ホント、「玄牝」と観る順序が違ったら、全然印象違うと思った。「玄牝」はなんというか、本能的なんだよね。動物的というか。
本作と同じく、現代の出産に対する警鐘も鳴らすし、死産を経験した女性や、ダンナが行方不明の女性に涙する場面もあるんだけど、女の本能的な強さを、実に動物的に、それゆえに真に美しく活写するのがあまりに圧倒的だったからさ……。

出産シーンも、全然違うのだ。まあ、出産に対するスタンスが違うことこそが、「玄牝」のテーマであったからでもあるんだけど……。
“万一”を考えない、出産に死はつきものだ、だけれど、自然に出産すれば、何も恐れることはない、っていう、ね。
で、実につるつると気持ち良さそうに産む出産シーンが、しかも何度も現われる衝撃こそが、「玄牝」の凄さだったんだよね。
実は本作も、あの冒頭でありメインの夫婦は、“万一”のリスクをサポートできる病院での出産ではなく、つまり、陣痛促進剤だのなんだのといったものに頼らない自然分娩が出来る助産院を選ぶ、という点は「玄牝」と非常に似通っているのだ。しかし、その肝心の出産シーンが、メチャメチャ痛そうなんだもん(爆)。

いや、ね。「玄牝」だってナチュラルなドキュに見えてあくまで映画作品なんだから、吉村先生の元に来た中でも難産はあったとは思うけど。
でも、そこで映される出産はどれもこれも……色っぽく、言ってみれば気持ち良さそうで、もっと言ってみればセックスしているみたいに、いやそれ以上に気持ち良さそうに「気持ちいい、気持ちいい」とツルリと赤ちゃんを産み出す女性さえいて、それこそが衝撃だったからさあ……。
本作の彼女、めちゃめちゃ、めっちゃめちゃ、痛そうで、それは私らがこれまで、それこそありがちなドキュメンタリーやそれを模したフィクションドラマや映画で見て来たそのものだったから、あー、やっぱりそのものなんだとか思って、引いちゃう自分がサイアクだってのは、判ってるんだけど。

まあでも、そこでダンナが取り残されないことこそが、本作の強みかな。死にそうなほどに苦しむ彼女を抱き締めながら、赤ちゃんが出てくる場面までしっかりと付き添ったからこそ得られる、妻への尊敬と赤ちゃんへの愛情。
「玄牝」でもね、出産する奥さんをたくましい腕で支えるカッコイイダンナはチラリと出てくるんだけれど、あの作品はそれが主題じゃなかったから……。
つまり、ここの違い、なんだよね。実はね、本作が、図らずも提示したテーマは、生まれくる赤ちゃんやその命の大切さよりも、夫婦の絆こそだったんだと思う。
それはいずれ、この赤ちゃんが大人になり、彼らの元を巣立ち、また命を生み出す二人になって、そのことを反芻するであろう遠い未来を考えると、至極真っ当なテーマであるとも思えるのだ。
完全に第三者の立場だから言えることなので……許してね(汗)。

出てくる夫婦が皆、きょうだいみたいによく似ているのが、何よりも雄弁にその絆を語っていたなあと思うなあ。不思議だね、ホント。★★☆☆☆


海の情事に賭けろ
1960年 85分 日本 カラー
監督:野口博志 脚本:滝口速太
撮影:永塚一栄 音楽:鏑木創
出演:赤木圭一郎 中原早苗 三島雅夫 近藤宏 笹森礼子 南田洋子 深江章喜 高品格 郷英治 高野由美 杉幸彦 待田京介 星ナオミ 椎名伸枝 雨宮節子 若原初子 黒田剛 蒲生晃治 河上信夫 荒木良平 平塚仁郎 天路圭子 夏今日子 五十嵐久子 森みどり 橘田良江 式田賢一 沢美鶴 志方稔 雪丘恵介

2010/9/16/木 劇場(銀座シネパトス/加山雄三・赤木圭一郎特集)
相変わらず某データベースはあらすじの途中経過のみならず、大オチまで全然違うんだからビックリしちゃう。自分で残しとかないと、後からこういうの読んで、ああそうだっけ、とか思いかねないよなー。
これって脚本が固まる前の時点で情報を載せてんのかしら……。蘭子が父親の牧の替わりに撃たれて死んだだなんて!

まあ、とはいえ、あのオチにはなんか中途半端なものは感じたけど……父親の不正と彼の死に動転した彼女が、一人ヨットを駆って、海原に出て行く。それを追いかけてきた剛一が呆然と見つめるというところでオワリなんて。
まさかこれが、蘭子が海原に身を投じる暗示をしている訳ではないよなあ?蘭子が死ぬオチじゃあまりひどいと思ったのかしらん……。

てか、何にも展開が始まらないのに、オチから始めてどうする(爆)。いや、あんまりビックリしたもんだから(爆爆)。
さて今回は、加山雄三と赤木圭一郎の特集。赤木圭一郎は夭折中の夭折なもんだから当然本数も限られてくるので、なかなかお目にかかる機会がない。ひょっとして今回が初めてだったかな?いや、一本ぐらい観たような気もするが……。

ミステリではある意味禁じ手とも言える、泣く子も黙る双子ネタだが、銀幕スターにとっちゃあオイシイ役に違いない。けれど恐ろしいことに、全然演じ分けをしてないあたりが(汗)。
全く違う環境に暮らしていた筈の二人なのに、キザで豪気な態度から、言葉遣いから、何から何まで一人の赤木圭一郎だってあたりが大胆というか、強引というか、ある意味強心臓というか(爆)。
だってかたや田舎から出てきた大学生、かたやヤクザの道に入って命を狙われている男、そんな境遇の違いで、物腰から使う言葉から女の扱いまで何から何まで同じってどうよ……。そこもまた双子だから、離れていてもシンパシィ、んなバカな。

さすがに恋人は土壇場で気付くものの、土壇場だもんなあ。「なんかおかしいと思ってたのよ」いやいや、そんな風には見えなかったが……メッチャ彼の肩に顔を乗せてチーク踊ってたじゃんよ。
彼とずっと一緒に仕事をしてきたヤクザ仲間も、いくら顔がソックリで思い込んじゃっているからって、毛筋ひとつもおかしいと思わないなんて、大学生がどんだけヤクザに堂に入ってんのよ。

まあ、そう言いつつ、それに対してホントに怒ってる訳じゃなくて、映画黄金期らしいなあ、って感じがするってことなんだけどさ。
だってね、この赤木圭一郎の登場がまず、ふるってる。てか、彼の登場の前に、ヒロインの蘭子とその仲間たちの登場が、既にふるってるんである。
お金持ちのお嬢である蘭子は、友達たちと小型船の上でパーティーに興じている。あのユルユルなダンスがなんともいえない(爆)。

彼女は甲板にサングラスをかけて横たわっている。遠くからヘリコプターがバラバラバラと飛んでくる。彼女に向かってピンクのスカーフを振っているのは、どうやら別れた恋人らしい。
「アメリカに留学に行くんだって。もうあっちに住むつもりみたいだから、永のお別れ」と言う彼女はさして残念そうでもなく、むしろ、てか当然、こんなとこまでヘリで追いかけてきたその元カレの方が未練タップリなんである。
蘭子はいかにもなお嬢様で「男たちが私にひざまずくの、最高!」とか信じられない台詞を吐く一方で、「完璧な恋をしたい。今、海の王子様が現われるの」なんて言うもんだから、さすがの友人たちも苦笑するんである。

しかし、そこに本当に忽然と現われた“王子様”。波間に身一つ仰向けに漂っているという信じがたいシチュエイションで、彼女の前に現われた剛一。
「服を着ているのは、風邪を引いているからさ」などと、これまた信じがたいキザな台詞を吐き、引き上げてみれば腕に銃創と思しきケガをしている。
銃創だと判るこの友人たちも「今時、そんなことぐらい判るよ」の台詞で説明されるのもキザだが、剛一が「平気さ、こんな……」と言いかけると、蘭子が受けるように、揶揄するように「かすり傷」と受け止めるのもキザキザである。
女友達が「王子様ね」と蘭子にささやく。まさに運命の出会い、だったんである。

見てる時にもウワッと思ったけど、こうして書き出してみてもやっぱりメチャクチャキザだよなー!
本当は彼は、こんな余裕ぶっこいている状態じゃないのよ。水難救助のバイトから帰る船の上で、人違いで殺し屋に殺されそうになり、命からがら海に飛び込んで、この状態、なんだから。
この殺し屋ってのが、この場面で素人相手にしくじった時点で腕のほどが知れるってなもんだが、その後もことごとくしくじるんである。

もう今からクライマックスのことを言うのもなんだが、まあついでだから?言っちゃう。この殺し屋さんの弱点は、殺し屋さんなのに、思いやりがあり過ぎることだわな。
本当のターゲット、剛一の双子の弟の勇二を、彼の生まれ故郷で恋人百合子と落ち合っているところを見つけた彼は、最初に剛一を狙った時のようにすぐには撃たない。
「女はつけられていることも知らずに」と百合子を張っていた事をご丁寧に説明し、「滝でも洞窟でも、死に場所を選ばせてやる」という親切っぷりで、しかも勇二が「最後に彼女と接吻させてくれ」と頼むと、その望みを飲んじゃうほどのお人よし!ありえん!
それだけ腕に自信があるのかってことだけど、でも剛一に逃げられた汚点が既に示されているじゃんか……。

そんな具合で、二人の接吻を待ってやってる隙をつかれ、彼女の身体に隠れて勇二は拳銃を抜き、殺し屋さん、拳銃を持っていた手を撃たれて撃沈。か、カッコ悪すぎ……。
しかも、手を怪我してほうほうのていで逃げてくるところを、ずっと勇二だと信じて疑わなかった剛一に遭遇してしまうというていたらくっぷり。なんかここまでくると、カワイソウになってきちゃう。

あー、だから、話が全然見えないじゃないの。つまりね、剛一は自分が人違いで撃たれそこなったんなら、その人違いになるほどソックリなヤツを探し出したい、と思ったんだよね。まさかそれが、こんな大きな事件を引き出すとは思わずに。
まあ、自分に似た人間が狙われているままでは、自分も安心して生活できないってこともあったんだろうが、それにしてもずいぶんと積極的な首の突っ込みっぷりなんである。先述したように、もんのすごく自信タップリにその勇二になりすましていたんだもん。

勇二の存在が明らかになる前、ほとぼりを冷まそうと、蘭子の別荘に身を寄せる剛一。そこは若者たちで夜な夜なパーティーが繰り広げられるような、ザ・富豪な場所だった。
蘭子とは確かに気が合った。お互い強情なところも似ていると笑いあった。そして……あれはかなり、かなーり婉曲ではあったけど、海辺の岩場で気持ちを抑えきれないように抱き合って、ならば、やはり、まあ……ソウイウことに陥ったんだろうなあ。いや別に、そこまで深読みすることもないのか?
しかしなんといっても貧農の出の剛一と、大富豪のお嬢様である蘭子では住む世界が違い過ぎる。と、この時点で剛一は当然思っていたんだけれど、その蘭子が最後には何もかも失うんだもんなあ……。

二人が意気投合したのは、お互い片親同士というのもあった。剛一の方は後半のクライマックスに出てくるんだけど、この時代にしてもまるで時代劇みたいなあばら家の貧農で、土間とかいろりとか普通にあって、蘭子の豊かさと比べても、そりゃあ住む世界が違うにもほどがあるってもんである。
蘭子は父親と異常に仲が良く、黒幕だとまだ観客に知れないうちにはこの父親は、絵に描いたように温厚で娘ラブで、なんかちょっと温水さんっぽかったりして、まさかまさか、彼が悪玉の親分なんて、このベタだらけの物語にしても思わなかった。
いやでもそれは、そうだとしたら、剛一と蘭子との出会いが出来すぎだから、なんだけど(汗)。

勇二の恋人で、この悪玉の手下となって働いている、ヤクザの組が牛耳っているキャバレーのママである百合子は、もう一人のヒロインである。
更に剛一には、この真相を明らかにするために助っ人になってもらっている新聞記者の殿村がいて、その妹が剛一にご執心だったりして、まあ華やかにきれいどころが揃ってるんである。
ことに、お嬢様である蘭子が、剛一から「恋人はいないけど、ガールフレンドならいる」と、ザ・プレイボーイなことを言われてヤキモチを焼き、彼の下宿まで押しかけてくるシーンは、本作の一服の清涼剤って感じである。

恋する男の下宿先を掃除しにやってくる女の子ってのも、現代においてはあまりにイタすぎるが、この下宿ってのが、本当にこれもまたザ・下宿で、一階が今はなかなか見ない雑貨屋、というか、荒物屋さんみたいな風情なのもイイんだよね。
訪ねてくる蘭子の質問攻めにおやじさんが答えようとするんだけど、ことごとくおかみさんが先んじて言っちゃうの。まあ、ありがちだけど、いつまでもあってほしいありがち、だよなあ。

そう、この時点では、蘭子はまさか、こんな悲劇が待っているとは知らなかった。シモジモのライバルに余裕タップリにふるまうことだって出来ていたのに。
勇二が殺し屋に狙われていたのは、この稼業から足を洗おうと思っていたから。もちろん、百合子の存在があるからである。足を洗って彼女と二人、堅い職業について、平穏な生活を送りたいと願っていた。
しかし、密輸に深く関わっていた彼は当然、アッサリ足を洗わせてもらえる訳もなく、組から追われる立場となって、剛一が狙われたんである。

自分が狙われた謎を解きたいと、敵の懐に無謀にも飛び込んだ剛一、ほおんと、彼の真の目的はなんなのかと敵もいぶかしむほど(爆)、どこまで探りが深く入っても諦めない訳(爆爆)。
まあ、それによってまぶたの母ならぬ、まぶたの弟に会えた訳だが……。しかしこの事実を剛一にひた隠しに隠していた老母が、彼が弟に会いたいというと「それなら会わせてやる。オレが隠して(かくまって)るんだ」とアッサリ。
おいおい!だって勇二はその後剛一との会話からでも、彼や母親を恨んでたんじゃないのかよ!フツーに連絡先とか知ってるって、どーよ!あっさりすぎだろー!!

……こんなことで動揺してはいけない。ていうか、その後の展開が重要なんだから。
先述したように殺し屋はマヌケに散り、めでたく勇二と百合子は人生の再出発が切れそうである。剛一は勇二から、ずっと判らずじまいだった本当の黒幕を教えてもらう。
それが、蘭子の父親である牧氏だという、ありえない偶然なんである。

コーヒーの缶詰めの中にダイヤの原石をしのばせるという方法。何も知らない蘭子は、突然訪ねてきた剛一にウキウキと「私の青春がつまっている場所」と言って防空壕に案内するんである。そこに無造作に置かれていたのだ。
何も知らないから、剛一がひとつもらってもいいかと言っても、アッサリいいわヨと言っちゃう。父親もまさか、娘が自分の首をしめるとは思ってなかったんだろう。
最後までじたばたした哀れな悪党だけど、娘を愛していた点については間違いないからなあ……。

しかし、ダイヤだけでなくて、高級時計と、そして麻薬にまで牧氏が手を染めていたことを知った剛一と殿山。スッパリスクープしてしまうのはカンタンだったけど、蘭子のことを思うと、せめて牧氏に自ら自首してほしくて談判したのがアダになる。
全てを知られた上は消そうと、手下として使っていたヤクザたちに命じるも、そろそろ自分たちも危なくなってきたと感じていた彼らは、逆に牧氏を殺そうとする。
ことを知って飛び込んできた蘭子も巻き込んで、複雑な様相を呈した結果、結局牧氏が子飼いの銃弾に倒れてしまうんである。

蘭子が真相を知るシーンも、彼女には知らせまいと席を外させたのに、そのドアの向こうでアッサリ聞かれているという単純さで、もはやここまで来ると愛しくなるかも(爆)。
それに、全てを失い、パァンと外に飛び出した蘭子が、その直前まで愛するパパと楽しくクルージングしていたヨットに一人飛び乗って、狂おしく恋していた剛一を見つめながらどことも知れず、大海原に繰り出していくラストシーン。
それって、なんかあまりにも放り出したようにも思ったんだけど、実はとっても美しかったかもしれないんだよなあ。★★★☆☆


海の若大将
1965年 99分 日本 カラー
監督:古澤憲吾 脚本:田波靖男
撮影:梁井潤 音楽:広瀬健次郎
出演:加山雄三 有島一郎 中真千子 飯田蝶子 星由里子 田中邦衛 北龍二 江原達怡  重山規子 藤山陽子 沢井桂子 藤原釜足 佐原健二 大木悟郎 田畑猛雄 佐々木孝丸 曽我廼家明蝶 伊藤久哉 広瀬正一 宇仁貫三 寺内タケシとブルー・ジーンズ

20109/16/木 劇場(銀座シネパトス/加山雄三・赤木圭一郎特集)
若大将シリーズ、今更ながらようやくの初見。黒澤作品でしか加山雄三を見てないというのはやっぱりマズかったわよねえ、と思う。
正直この若大将のキャラって(こと本作に限ったことだけかもしれんが)行き当たりばったりに人に優しいけど結構その後はほったらかしで、女の子には手当たり次第にいいこと言うし、ちょっとヒデェよなー、青大将が怒るのもムリないよなーッなどと思ってしまう。
そんな、あまり好きになれないキャラなのだが(かと言って、青大将が好きになれるかというと(爆))、歌手としての類い稀なる彼の才能には、やっぱりこのシリーズを見ないことには判んなかったなあ、と思う。
私世代には既に「お嫁においで」ぐらいのイメージしかなかったから、軽やかに英語歌なんぞを操る彼に、素直にかっけぇ!と思ってしまった。それこそ青大将のバンドのヘタレっぷりと好対照で(爆)。

しかし、この青大将を知らずして、田中邦衛を語ることも出来なかったことを改めて思い知る。うーん、す、凄い。今まで見た中で、一番若い田中邦衛ではなかろーか。
しかも当然だが、田中邦衛はこんな若い時から完璧に田中邦衛だったのね(しごく当然だ……)。キョーレツ過ぎる……むしろ、田中邦衛度?は若い時の方が濃厚だ……。
あのコイのような口の具合、クネクネとした身体の曲げ具合、いや、私の知ってる田中邦衛は口の具合は別として(爆)、あんなクネクネと身体は曲げてなかったような気が……するが……一体どこからこんなキョーレツなキャラ造形が……。

うーん、やっぱり若大将のあまりのまっすぐさに対比する青大将だから、なのかなあ。これでお金持ちのおぼっちゃんだってあたりもイタすぎる。
そしてその息子をバカだと判っていながら、猫かわいがりする親もイタすぎる。しかも青大将は「気のいいヤツ」と若大将から若干上から目線に見られていたりするところがちょっとアワレだったりする。
しかしレイプしかけたような男が「気のいいヤツ」とか単純に言われてもなあと思ったり(爆)。

で、まあ、若大将シリーズは「恋とスポーツの大学生活」がモティーフで、毎回そのスポーツが変わり、登場人物のキャラクター自体はほとんど変わりがないらしいのだが、なんたって今回、私は初見なもんだから……。
若大将は京南大学水産課の学生。んでもって浅草の老舗すき焼き屋、田能久の跡とり息子である。
父親は彼が商科に通っていると信じて疑わない。スーパーですき焼きのタレを売り込んでいる父親が「まあ、大学なんぞ出ても、商売は別ですから」と言いつつも、大学卒業後の息子に期待をかけているのはアリアリなんである。

この父親を演じる有島一郎の、威勢はいいものの家族の誰からも下に見られちゃうあたりも、なんかかわいそうというか、カワイイというか(爆)。
だって小さなおばあちゃんにまで、「これだから大正生まれは」と、明治生まれの自分と昭和生まれの孫はしゃんとしているのに、とじっつにピンポイントで責められるんだもん。そんな責められ方って、アリかよ……。
そして、ひょんなことから息子が水産課に行っていることを知った父親は「勘当だー!!」これもシリーズ毎回のことらしい……。

てか、水産課に行ってることがバレても、若大将はちっとも悪びれない。ちょっと困った顔をして頭をかくぐらいで「だって、親父は大学を出たって仕事とは違うっていつも言ってるじゃないか。なら大学では好きなこと勉強したっていいだろ」としれっと言う。
妹までもが「父さん、負けたわね」などと兄の肩を持つもんだから、そりゃあとーちゃんだってスネるわさ。
しかも若大将は「継ぐだなんて、もっと年をとってからでいいな。俺、船乗りになりたいんだ」そ、そりゃー、怒るわ!年をとってからって!

いや、そもそも父親がここまで怒ったのはそれこそムリもない……若大将ったら停学三ヶ月をくらっちまったんだもの。
いやそれは、青大将のカンニング事件の巻き添えを食っただけで彼に罪はないから百歩譲ってしょうがないにしても、授業料をラジオブースを買うために使い込んじゃって、未納の通知が家に届いちゃってさ。
これまたちょっと困ったような顔をして頭をかいて「アルバイトして穴埋めするつもりだったんだ」
未納通知が来るまで埋められてないんじゃ、どーしよーもないだろーがー。

……うーん、こーゆータイプの映画に実にマジメに反応して、どーすんだって気もするが(爆)。
でね、その停学を食らったカンニング事件というのは、若大将の友達の江口に、彼の弱みを握った青大将がけしかけたものだったんであった。
江口は父親の定年後の再就職をおぼっちゃんである青大将に口利きしてもらう替わりに、こんな危険な役割に加担したんである。
無線でテストの答えを教えるという、実に大胆な手法。あの青大将じゃ、そんなスマートにいく筈もなく、あっという間にバレるのは火を見るよりも明らか(爆)。
で、たまたま江口のそばにいた若大将も一緒に三ヶ月の停学を喰らい、ついでに勘当も喰らったから、こりゃちょうどいいやとばかりに若大将は船乗りへの道に進んだのであった。

てか、その前に重要なシークエンスがいくつかあるんだっけ。
そもそも若大将は、この大学の水泳部のエース。「お前らより練習してない奴に負けてどうする」とヒーヒー言ってる他の部員が、部長に叱咤されている。ここでもデキる彼に、その他大勢は迷惑千万喰らっている訳である。
涼しい顔してタイムを出し、テキトーに部活を切り上げる若大将。スマートというより、正直憎たらしい(爆)。

貧乏学生である江口の買い物に付き合った彼は、友人をほったらかして荷物をいっぱい持っているおばあちゃんを助ける。往来の車を全部ムリクリ止めてまで、おばあちゃんを渡らせる。……横断歩道を渡れよ……ムチャすぎる。
んでもって、ムリヤリ止められた車の運転手とケンカになる。その一部始終をレジスター係の美女、澄子が見ているんである。
そして後に若大将と、青大将のパーティーで再会することになる。ちなみにこの時江口が買い込んだ、よく見もしなかった激安缶詰は、あとでオチをつけられなくても、そりゃードッグフードあたりだろうな、ってことは予想がつく訳で(爆)。

青大将のパーティーで、気持ちよく歌っていた彼のバンドが停電で演奏出来なくなる。若大将がピンチヒッターで舞台に上がって、アコースティックギターと歌でさらってしまい、拍手喝采を浴びる。
てか、彼は大学の授業中にもウクレレをさらりと弾いて皆の注目を集めるし、そもそも女の子はみんな彼に夢中なんである。

そのパーティーには青大将が呼んだレコード会社の関係者と歌手の悦子も来ている。若大将の歌いっぷりに、「ホンモノを見つけた」と、デビューの話をかき口説くんである。
ことに悦子はこの若い青年にデレデレで、自分のお店に連れて行ってしまう始末。で、なぜかそこには青大将が連れ込んだレジ係りの澄子の姿も。
もともと若大将に会わせてやるからとホテルにまでのこのこついてきたのに、いざ若大将がその場にいると「あら!」とまるで偶然を驚いたような顔をする澄子と、何でここにいやがんだという顔をする青大将というのも解せないが……。

まあ、そんな具合で澄子と若大将の仲はぐっと近づくんである。
そうこうしているうちにあの停学騒ぎ。若大将は父親と衝突して、船乗りになるべく家を出る。
ていうか、この場面も、お父ちゃん、かわいそう……とりなそうとしたおばあちゃんが彼を押し入れに一時閉じ込めるのも笑ったが、父親がいないと知ってのこのこ家に上がってきた若大将が、のんきに肉まんを頬張りながら「あんなガンコ時事以外なくて良かった。おばあちゃんに会えて」みたいに言うもんだから、押し入れから激怒したおとうちゃん登場(爆笑!)
そりゃあ、かわいそうだわ……おばあちゃんも言うにことかいて「ちょっと出るの、早いよ!」いやいやいや、そーゆー問題かよ!

まあ、そんな具合で家を出た若大将、ありついた船乗りの口が偶然青大将の募集していた航海士だってのは、あまりに偶然過ぎる(爆)。
ちなみにそこには同じく停学になった江口も乗り込んでいる。しっかし停学中の息子にこんな船をぽんと買ってやるあたり、ホント、バカ親だが(爆)、それを単純にホクホク喜んでいる青大将はもっとバカ(爆爆)。
見送りに来た澄子と悦子は若大将をめぐって女の火花を散らし、悦子にバカにされておかんむりの澄子は、こっそりこの船にもぐりこんでしまうんである。
ていうか、このお見送りのシーンで澄子ってば、手土産の中に「私の髪の毛が入ってるわ。お守りよ」ってコワすぎるだろ!
さすがの若大将も一瞬引いてるのはマジじゃないの??一体なぜこんな台詞を紛れ込ますのだ……。

船内に隠れていた澄子が夕食をつまみ食いしたりして、幽霊かという騒ぎになるなんていうひとくさりがあって、もう海の上だし、仕方なく彼女も交えての航海になるんである。
しかし若大将が危惧していたとおり、青大将がこんなチャンスはないとばかりに、彼女に襲いかかる。
てか、リアルにこの場面、コワいんですけど……。あのカンニングの時に使った無線から聞こえてきた澄子の悲鳴で、ボートで魚釣りをしていた若大将が急ぎ戻って彼女を救い出す。

その後若大将から、ムチャに乗り込んだ君にも責任はあると叱責されてムクれたとはいえ、澄子があんなことされた青大将に、にこやかにコーヒーを差し出すなんて、あ、ありえない。
だってあんた、レイプされかけたんだよ!抵抗したらほっぺたまで張られてさあ!ギャグっぽくやってたんならまだ判るけど、正直あのシーンはわりとガッツリやってたから……それでも「気のいいヤツ」なの?シンジラレナイ!
しかもしかも物語のクライマックスには、若大将へのアテツケとはいえ、この青大将とドライブまで行っちゃうなんて!

台風に遭遇してすわ沈没かという危機も乗り越え、到着したのは予定の八丈島ではなく、小さな漁村のある島。
ここでの若大将のその場しのぎの天然っぷりも相変わらずである。
「船が来るまではやることもないから、手伝いますよ」とか言いながら朝の網引きをしたのも一瞬、助けられた漁師の娘、昌江から「あの岩に登らない?」と誘われると、あっという間に手伝いを放棄してしまう。な、なんて無責任な(汗)。それじゃただの女好きだろ(汗汗)。
澄子の気持ちを知ってか知らずか(いや、知ってるに決まってるけど)、ついには海パン姿で昌江ときゃいきゃいと泳ぎ興じる。遠くから澄子が気を揉みながら見ている。

しかも若大将、この漁村がどんどん若い人が都会に出て行って、今は、じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんだけの“三ちゃん漁業"だと聞かされると、「こんないいところにいないなんてもったいないな。俺ならずっとここに住んで王様になりたい」などとまー、軽々しく言ってくれちゃうもんだから、そりゃー、昌江だってのぼせあがるに決まってるでしょ!
この台詞がどこまで本気だったのか、船が迎えに来ても、もうちょっとここにいようカナァなどと言っていたものの、日豪大学水泳大会の選手に選ばれたと聞くと大喜びして、よーし、オーストラリアなんぞに負けるか!などと大張り切り。

てか、この喜びっぷりなら、日本代表に選ばれたぐらいのコトかと思ったら、ふたをあけてみると単に、京南大学とオーストラリアの一大学の学生同士、つまりは親善試合のような趣で、若大将はもともと水泳部のエースだったんだから、そりゃー選ばれるのは当然だろ……。
しかしどう考えても親善試合としか思えないのに、バカみたいに巨大な会場に続々と何千何万の観客が集まってきて、ラジオ放送までされるって、どーゆーこと(汗)。うーん……どうもこのあたりの設定が判らないなあ……。

若大将にのぼせあがった昌江が、老父と共に東京まで押しかけてきたことで、ますます澄子と若大将の仲はこじれてしまうんである。
で、若大将が青大将に託して受け取った水泳大会のチケットを、澄子は昌江の父親に押し付けて、自身は青大将とドライブに出かけてしまう。
チケットの中に入っていた若大将の澄子への愛の手紙に、こりゃいかんと彼女を追いかける昌江親子。なんとまあ、「娘が誘拐された」とたばかってパトカーをチャーターという無謀さ!

てゆーか、パトカーが後ろから走ってくるのに気付いた青大将が、なぜか「やべぇ、パトカーだ」と言い、澄子が「飛ばしちゃえ!」と言うのは、まったくもって意味が判らん……君たちは、何かやましいことでもしたのか??
かくして青大将の真っ赤なオープンカーに追いついたパトカー、昌江が澄子に若大将の手紙を見せ、自分たちの浅慮な行動を謝る。
しっかし昌江、つまりは失恋したのに、なぜそんなに無邪気なまでにごめんなさいね、と笑顔でいられるんだ……てか、パトカーをチャーターしてスッカリ嬉しくなっちゃったみたいな……そんなバカな……。

そして青大将の車でまたしてもパトカーを振り切り(青大将、警官に免許証を渡したままなのに!)水泳大会の会場に駆けつける。
奇しくも、若大将がライバルのジョーンズ選手と競り合っている場面である。ちょうど良すぎる……。
そして競り勝った若大将に狂喜する澄子。そこへ到着する警官。
青大将の腕をとり、観念した彼は「……行って来ます」。澄子は笑顔で「行ってらっしゃーい」ここはちょっと、笑っちゃったなあ。

ラストは若大将が、対戦したオーストラリアの大学に留学する、その壮行会の会場である。
もう澄子とのわだかまりもスッカリとけたらしく、2人とも笑顔。でも、若大将が留学しちゃうんなら、ここから年単位で会えなくなっちゃうのでは……。
そして若大将「挨拶は苦手だから」とまたギターをとって歌いだす。そして舞台を降り、なぜか一人カメラ目線になって人ごみを外れ、こちらにあるいて来る。う、うーん、さすがスター映画だなあ。 ★★★☆☆


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