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「え」


2011年鑑賞作品

絵のない夢
2011年 83分 日本 カラー
監督:長谷部大輔 脚本:長谷部大輔 金村英明
撮影:安部雅行 音楽:金山健太郎
出演:もも 西本竜樹 吉田裕貴 中村はるな 中村真綾 加藤亜依 佐々木基子 高橋洋 野村喜和夫


2011/7/9/土 劇場(ポレポレ東中野/レイト)
青春Hシリーズはヴィヴィッドな企画である一方で、見たことない監督さんに出会えるのも楽しい。
本作の監督さんも初見。話題をさらった作品もあったようなのだけれど、残念ながら未見であった。
本作をこの監督さんの作品を観る最初にしていいものかどうか……まあハードな内容はこの監督さんの持ち味らしいんだけど。
でもこの日、初日の舞台挨拶で姿を見せた監督さんはその口調と共に、ハードな内容を撮りそうなお人にはとても見えなかった。
いや、ハードな内容を撮りそうな人って、誰よ(爆)。まあほら、三池監督とか、井筒監督とかさ、見た目からそんな感じの人も、いるじゃない(爆爆)。この日その監督さんは、今後はハートウォーミングな作品も作りたいとも言っていたしなあ。

しかしこの日の舞台挨拶のトークの盛り上がらないことには、ちょっと笑ってしまった(爆)。主役の一人である一郎役の西本氏も、劇中の大阪弁のコワいオッサンの印象と全然違って、ひどく穏やかで口数少ない人だったしなあ。
ヒロインのもも嬢に至っては壇上かなり手持ち無沙汰な印象で、劇中の気性の激しいバンギャルとは全然違ってた。

そう、バンギャルの話、なのよね。ありそうで、なかったかもしれない。バンギャルというと、「NANA」なぞを思い出すが、映画化作品の中では、原作で魅力的だったバンギャルの世界はすっぱりと除かれていたし(いや、2は観てないからなんとも言えんが)、少なくとも私は、映画の世界では、というか、テレビドラマとかでも見たことのない、バンギャルの世界だった。
出てくるバンギャルはたった3人だし、まあそのあたりは予算の関係上もあるのだろうけれど。

盲目的に応援しているバンドのボーカルに体とカネを貢ぎ、ライブハウスのコ汚い階段でカップラーメンをすすり、「SEIYAはお前だけのものじゃねえんだよ、みんなの夢なんだ!」とバンギャルのリーダーに足蹴にされ……。
まあ、なんとなく予想される世界もありつつ、映像にしてみると、やっぱりなんとなく新鮮。
ヒロインを演じるもも嬢の、チンピラみたいに薄くて細い眉と、瞳自体がよく判らないほどに黒々と縁取ったアイメイク、ミニスカなのにちっともフレッシュな感じのしないバンギャル特有のいでたちに圧倒される。
バンギャル仲間、ていうか、ライバルに「くせえんだよ」と罵倒され、憧れのバンドのボーカル、セイヤとヤる場所もライブ会場の、ゴテゴテとポスターを貼ったコ汚いトイレで、バンギャル仲間に揶揄されるような「衛生上よくないよ。この子、汚いから」というより、ここ自体が汚くて衛生上よくなさそう(爆)。

しかしそのヒロイン、真琴はSEIYAのことを盲目的に信仰してて「この音源、マジ神だから」などと言うのが妙にほほえましく、つまり彼女にとっては王子様、なんだよね。
トイレの中のSEIYAはアニメみたいなピンクの髪やメイクもそれこそ神様ぐらい現実離れしてるけど。
ステージ上でファン相手にがなる「お前たちが一番幸福だと思うなよ。お前たちの前で歌える俺が一番幸せモノなんだ」と言う台詞にものけぞったけど。
とにかくそのすべてが、真琴にとって、いやすべてのバンギャルにとって、幸せだったのだ。

てか、いまだにビジュアル系バンドがいるってこと自体がかなりオドロキだったというか……もう、絶滅してると思ってた(爆)。しかもそのとりまき、バンギャルもまたいまだにいるってことも……。
いや、彼ら、あるいは彼女らにとっては、ビジュアル系という言い方も好きじゃないんだろうし、いまだにとかではなく、今、ここに、存在しているだけの話なのだろう……とか、言っていると、本作の話自体に全然ゆきつけなくなるから。
ビジュアル系バンドのバンギャル、というのはあくまで彼女の設定上の話。いや、とても重要な話ではあるけど、でも厳しい現実はまさにこれから、だったのだ。

真琴はSEIYAに貢ぐ金がなくなって彼から見限られそうになり、やむなく売春に手を染める。その相手が、映画館の二階に起居している視覚障害者、一郎なんであるけれども……。
受付の韓国語のお姉ちゃんとのやりとりからしてもう既にアヤしいし、カチカチ白杖を鳴らして向かった路地の陰で取引するのは、小さなジッパー袋に入った白い粉。
厚い札束にニンマリし、帰っていく姿は、サングラスに白杖とはいえ、めちゃめちゃ悪そうである。
でも正直、あんなクライマックスを迎えるほど、悪いヤツとは思わなかった。
てか、あのクライマックスはあまりに唐突で、彼がどうしてそんな行動に出たのか判らなくて戸惑うばかりだったんだけど……ああ、それをもう言っちゃっちゃあ、おしまいだから!!

で、懐があったかくなった一郎が呼んだ相手が真琴で、目が見えない一郎が持っているバッグに札束がうなっているのを見て、そりゃあ彼女が悪心を起こしたとて無理なかろう。
しかし彼は実は、目が見えていたんであった!カネを盗もうとした真琴をブチのめし、思う存分カラダを堪能し、そしてその後、「カネを稼ぐなんてチョロイもんや」と、真琴をエセ障害者の世界へ引っ張り込むんである。
つまり、働かなくても生活保護で生きていける、と。見るからにアヤしい眼科医のもとで「見えません、見えません」と言わせて診断書を書かせ、見事障害者手帳をゲットした真琴はその後、一郎と生活しながらヤバい世界に手を染めていくんである。

あのね、一郎は確かに目が見えていたし、あの怪しい眼科医から紹介されて医療器具を売りつけに来ていたさらに怪しいセールスマンもそれを疑っていたけど、でも本当に、まったくウソを突いていた訳ではなかったらしいのね。
一郎が暗い中では見えないことを知った真琴が彼をからかうシーンで、あれ鳥目なのかなぐらいは思ったけど、その後狂ったように目薬をさす彼や、そして街中で白杖を取り落とし視界がボヤけ、本当に拾えなくなるシーンもあって、あれ……と思った。

この時一郎を善意の塊のようにして助けた中年男性に、視覚障害者を助けていい人になりたがっているんやろ、と実に具体的な例を示して(電車で席を譲るなんてもってのほかとかね!これは私も目からうろこだった……)チンピラみたくカネをせびって追っ払う展開になるから、なにかそれを、一郎自身の障害、本当は持っていた障害をごまかすように思えたのは、気のせいじゃなかったんだろうな、ヤハリ……。
ちょっとは見えている、ひょっとしたらこれからどんどん見えなくなるのかもしれない自分を、まったくの全盲に仕立て上げている彼はなんか悲しいよな……。

なあんて、ね。思ったのは、見終わって落ち着いてからさ。だってやっぱりコイツはトンでもないヤツなんだもん!
でも彼ら“兄妹”のところに医療器具の売り込みに来る男も似たり寄ったりなの。
彼もまた、最初の真琴と同じよ。どうせ見えないからと、口先ばっかりでトイレ掃除をするとか言って、壁をトイレブラシでこすって音を立てて「きれいになりました!」
当然、一郎はそれをしっかり確認して、ていよく彼を追い払うんだけど、でも自分が疑われていることを感じて焦っている。
真琴はまだまだそうした世界に慣れていないから、このセールスマンをいい人だと思い、一郎にドヤされても彼と寝てしまう。だってお金くれるし、と。
あろうことかこのセールスマンは真琴にマジに惚れてしまい、……なんかこのあたりから段々と均衡がアヤしくなってくる。

後にセールスマンが真琴に言うのが「僕が真琴ちゃんを好きなのは、キミが障害者だからだ。そうじゃなければキミは僕のことなんか相手にしないだろう」というトンでもない台詞で、しかし彼はそれが大マジであり、実際真琴に本気でホレているんだから、なんとも言いがたいのだが……。
でもね、本作の根底に流れているモヤモヤとした薄汚さといったものが一体何なのか、この台詞一発が示してくれていたように思う。
でもそこひとつにとらわれると、“哀れみを受ける障害者、哀れみをかけることで優越感に浸る健常者”といった、何か、社会派的なテーマに発展しそうになり、まあそれもなくはないんだけど、なんかもっとこう、混沌としている感じがある。

一郎が視覚障害者を装っていたのは、クスリを売ったりといった影の社会で生きやすいからというのもあるだろうけれど、早めに自分がなるであろう自分に逃げ込んだように見える。
一方、一郎にエセ障害者を仕込まれた真琴は、金とカラダでつなぎとめられるSEIYA、それこそが愛だとかたくなに信じて、彼の死によってあっさりと終止符を打たれた。

そう、SEIYAが死んでしまったのはかなり、驚いた。先から一郎は、バンドが解散したら自分も死ぬ、と言い募っていた真琴をバカにしていて、真琴が落ち込んでいるのを見て、おお、バンドが解散したんか、死ね、死ね!と楽しげにいたぶるんだけど、解散どころではなかった、のだ……。
でも真琴はそのことを一郎には言わなかった、よね?それは彼女にとっては解散もSEIYAの死も同じことぐらいにショックだったのだろうか。
だとしたら何かSEIYAが可哀想だけれど……いや、いくらなんでもそれはないか。こんなヤツにSEIYAの死を話して汚されたくなかったからか。

ほんと、ちょっとビックリしたんだよね。SEIYAが死んだのは。週刊誌に無責任に書き散らされた、クスリやバンギャルとの乱交記事は、いかにバンギャルリーダーが怒って編集部に電話をかけても、ある程度は本当のこと。……だってそれは、真琴がもたらしたのだもの。
でも、真琴が久しぶりにカネを持ってSEIYAのもとを訪れ、目の見えない風体の真琴にSEIYAが驚き、お前のために曲を作るよ、と言った後、そう、真琴がとてつもなく幸福感に満たされた後、トイレの鏡に映ったSEIYAの顔がさ、すっごいすさんでたから、ビックリしちゃったのだ。
その後、彼が自殺した記事が大写しになったのは、ああ、やっぱり、って感じだった。
そもそも真琴が王子様、どころか神とあがめていた彼とアンダーグラウンドそのまんまの狭い階段を下りていくライブ会場の、更にアングラな汚いトイレでヤッてるってのが、鮮やかな色に染めた彼の髪とか、ゴテゴテとしたアクセとかもあいまって、ギャップなんだかなんなんだか、もはやよくわからないような状態でさ……。

生きがいだったSEIYAが死んで、もうどうでも良くなったのか、一郎が買ってきた地味な服を着て、言われるがまま、彼と共にある住宅を訪ねる。
それはあの、一郎が助けられて逆にお説教した初老の男性の家。
この男性の奥さんが目が不自由で、それが原因でか家庭が崩壊しかけていたのを、一郎との出会いで自分の傲慢さに気づいたこの男性は奥さんと関係を修復、一郎たちを招いたのだが……。

正直、ね。なぜここで一郎が突然キレて大暴れしたのか、そもそもなんでこの家を訪れたのか、それはこの男性が本当に招いたのか、一郎から勝手に押しかけたのか、どうもよく判らないんだよね。
あのセールスマンが奥さん相手に分厚い眼鏡を売りつけに来るシーンは、目が見えない奥さんを目の前にして、すすったお茶を湯飲みにダラリと戻すシーンがいかにも悪意を感じると思ったが、一郎の所業は悪意どころではなく、セールスマンのように何かのメリットがあるわけでもなく……。
少々ずうずうしく酒を飲み続けているとはいえ、にぎやかさに奥さんは喜び、和気あいあいとしていたのだ。

なのに、男性が高価な壺を自慢したところで突然一郎は豹変、壺をぶっとばし、無残に割れてしまう。
いや、豹変とは言ったものの、その表情は変わらず笑顔をたたえている。笑顔をたたえたまま、ただ行動だけが常軌を逸してくるんである。
真琴に命じて奥さんにSEIYAのうるさい歌をヘッドフォンで聴かせる。事態がよく判ってない奥さんは、いいわね、と言って楽しげに踊りだす。
その間に男性は一郎に引きずられていき、バスルームで執拗に殴られ、舌にクスリを注射され(このシーン、マジでヤだ……)非業の、というか、まるで意味の判らない死をとげるんである。

その間、真琴はただ黙ってテーブルに座っているきりだし、その後、一郎と壮絶なバトルを繰り広げて彼に目をつぶされてしまう展開になっても、一体彼女が何を考えているのか、人生に絶望しているとかそういうことなのか、なんかもうよく判らなくて。
男性殺害のシーンから急激にハードな展開になった、と思ったのも、それまでの異常さをちゃんと認識していなかったのかもしれない。
エセ障害者、クスリの密売、十分異常な事態だったのに、悪い意味で、映画のフィクションに慣れすぎていたのかもしれない。
その中でのバンギャルの世界が、見た目は何かスレているように見えても、SEIYAはみんなの夢だとか、就職が決まってバンギャルを卒業するリーダーに、じゃあこれからはライブを誰が仕切るんですかとか、妙に純粋な世界が展開されるから、なんかうっかり騙されそうになってしまったのかもしれない。
騙されそう?そんなこと言って……なにがマトモで何が真実かなんて、判らないけど。

完全に常軌を逸した一郎とのバトルの末、目をつぶされる真琴、このシーンはあまりにも正視できないけれど……自分と同じ世界に来いと、ずっと一緒にいるんだと、あのコワい大阪弁で言い募る一郎が、怖くも哀れでさあ……。
真琴を救い出そうとしたセールスマンは真琴に舌を噛まれ(たんだよね?)つまり、真琴は一郎と対峙しようとしたのかなあ。
目を潰され、次のシーンでは本物の視覚障害者になって、繁華街の喧騒を歩いている。
一方で一郎は、あの時セールスマンに二階の劇場から突き落とされたのに、ま、まだ生きてる!憎まれっ子世にはばかるとはこのことかあ!?
しかし、男性殺しの犯人として警戒中の刑事にまんまと捕まる。でもこれはカタルシスというには辛すぎるなあ……。

一方の真琴は、あのライブ会場の階段を下っていく。SEIYAは死んでしまったから、もうそのバンドは出演していない。
見も知らぬバンドの演奏を後方から眺めながら、包帯を外す。白く白濁した目、ていうか、完全に白のコンタクトをした目だけど(爆)がさらされる。
客席は、あの頃自分がやっていたように、ヘッドバンギングをしている群れ。監督が、テーマより何より撮りたかったと舞台挨拶で語ってた(いや、その言い方は御幣があるかもしれんが)ヘッドバンギング。
何かこっけいで、だけど皆怖いぐらい真剣で、不思議に切なく、可愛かった。★★★☆☆


エンディングノート
2011年 89分 日本 カラー
監督:砂田麻美 脚本:
撮影:砂田麻美 音楽:ハナレグミ
出演:砂田知昭

2011/10/16/日 劇場(新宿ピカデリー)
あ、このお父さん、うちの父親とおんなじぐらいじゃないかなあ、と思ったらドンピシャ当たっていた。1945年、昭和15年生まれ、見事に同い年。
会社に人生を捧げ、営業畑まっしぐらというあたりもやけに似ているが、当時の多くがそうした熱血サラリーマンだったのだろうと思う。
ありがたいことに私の父親はまだ元気だけど、大きな病気を二回ほどしたりもし、やはりこのテーマはただごとじゃない。

でも最初はね、この家族はうちより若めなのかとも思ってたのね。というのは、かなり早い段階、この監督さんが幼い頃から家庭用ビデオでの映像が残っているから。
いや、単にウチがそうした最先端なものに無頓着な家庭だったからなのかもしれないが(決してビンボーだった訳ではないっ)。
この監督さんがドキュメンタリー作家を志し、まるで父親からバトンタッチするかのように、自らカメラを携え、まるで呼吸するように家庭のあらゆる映像を残し続けていることを思うと、なんだか運命的なものを感じる。

というか、やはり親子なのだということなのかもしれないな。このお父さんはその時代の熱血サラリーマンらしく、とても真面目できちんとして段取り好きで、次女である監督さんがその真逆の性格であると心配しているんだけど、ものすごーく長い目で見れば、彼女もまたずっとずっと段取りをつけて、この作品にまで辿り着いたような気がしてならないのだ。
だってこの作品って、ドキュメンタリーの要素としてありがちな、というかドキュメンタリーという構成要素自体がそうである筈の、偶発的な感じがまるでないんだもの。チャプターごとの扉絵も凄くポップで。

誤解を恐れずに言えば、ものすごく良く出来てるんだよね。このお父さん(と言いたい。名前で呼ぶよりしっくりくる)が娘の作品のために、彼女が生まれた時から、彼女の映画監督としてのデビューまで、つまりそれは自分が死ぬ時までなんだけど、判っていて協力しているように見えて仕方ない。それはもちろん、この監督さんの構成能力によるものなんだろうけど。

私ね、やっぱり単純に泣く気で来たのよ。でも休日の新宿で、凄くこんでて、隣に人が座っちゃって、あー、これじゃ私泣けなーい、とか思って。
でもそれで良かったような気がした。それこそ泣く気で来た気持ちを優先させたら、本作の魅力を存分に味わえない気がした。
結果的に、私は泣かなかった。笑い、感心し、満足をした。号泣ポイントであると思われる「愛してる」の言葉の時も、お父さんったら、タイミング狙ったなーっ、て微笑ましくなって、ニコニコしてしまう。それが良かったと思う。

私のとーちゃんもめっちゃ段取り好きで、ていうか心配性で、一から十まで細かく考えちゃうから病気になっちゃったところもあるんだけど、とーちゃんは「愛してる」をかーちゃんには言えないだろうなあ……と思う。同じ年で同じ時代を生き抜いたサラリーマンとして似た部分はいっぱいあるけれど、そこが違うだろうなあと思う。
とーちゃんもきっと、このお父さんと似たようなことはすると思うのよ。こんなエンディングノートも書くと思う。ええ、確実に書くだろうな。葬儀に来る人のリストとか、絶対作るだろうと思う。

それでも、「愛してる」は……。私ね、だからうらやましかった。これがエンディングノートの一環だとしても、そこまで全う出来た、高度成長期を支えたサラリーマンとしてのプレゼンテーション、プランニング能力を遺憾なく発揮して。
つまり、自分の人生は、会社に捧げたと、家族を省みなかったと責められても仕方ないかもしれない自分の人生は、間違ってなかったんだと見事に証明して、幕引きしたお父さんが、うらやましかった。

いや実は、うちのとーちゃんは山一だったから、そんなサラリーマン人生が途中で頓挫したから(爆)。てのは、関係なくは……ないと思う。
このお父さんはある意味幸せにサラリーマン人生を全うした。同僚、後輩に拍手されて送り出される定年の日を、私のとーちゃんは迎えることが出来なかった。
だからやっぱり少しずつ違う。私のとーちゃんも、ローンを払い終えて、その後の人生はこうで、墓はこうで……と凄くきっちりと思い定めてた。もちろん病気も想定外だったけど、その前にもっと想定外な、人生を捧げた会社の終焉があった。

だから、このお父さんは、私のとーちゃんが辿れなかったサラリーマンとしての完成形なのだと思って、見ていた。
しかもその時々の、接待ゴルフやらで家庭を顧みない夫とケンカする妻との映像さえ、この監督さんは収めていてビックリする。えええ、一体いつからカメラを回してきたの、と。
もちろん、定年の日も彼女は密着し、お父さんは娘の前で泣くなんて……と照れ笑いをしていた。もうこの時点で、彼はちっともカメラがあることに違和感がないんだよね。それほど彼女はずっとずっとカメラを回し続けていたんだ。

だから、このお父さんの、段取り好きなお父さんのチャーミングが全開なんである。
確かにこれは、彼が死ぬことが最後に用意されているのが判っているという点で、重い気持ちを引きずりつつ見ざるをえない。いきなりガンが見つかって、それも第四ステージでもうどうしようもなく先が見えてて。

でもこのお父さんが、役者じゃないのにカメラ慣れしている、娘のカメラにだけはカメラ慣れしているというのが本作の何より素晴らしさなんである。
ていうより、家族全員がそうなんだよね。そりゃそうだろうと、サラリーマン時代の父親の接待ゴルフの様子さえ収められている映像を見て大納得する。

それはすんごく大きかったんだよね。本作に際して思い出したのは、「チーズとうじ虫」だった。あの作品も、監督さんのお母さんが余命いくばくもないと判って作られた映画だった。
ただ、あの作品は、その時点からカメラが回りだした。ささやかな生活や自然の風景がリリカルに切り取られた、とてもセンシティブな作品だったけど、カメラはある時点で止まり、時間が飛んでそのお母さんは静かに旅立っていっていた。
あの時その監督さんが語っていたので印象的だったのが、やはり死ぬ間際、苦しんでいる時にカメラを向けることが出来なかったということ。
あのお母さんは強い抗がん剤に壮絶に苦しんだ末に息を引き取ったということなんで、本作のお父さんの最期とはちょっと違うのかもしれないけど。

でもそれでも、もうダメだと、家族はもちろん、恐らくお父さん本人も判っている状態で、そりゃそうだ、孫や、年老いた彼のお母さんにありがとうと直接言い、段取り好きを継承した長男が、葬儀のリストを父親に確認するなんて場面まであるんだから!そんな場面をカメラに収めることが出来ていることに驚愕するばかりなのだ。
そう、家族もすっかり承知しているんだよね。承知なんて張り切ったことじゃない。お父さんの記録を残そうとか肩に力が入ってさえいない。これが日常で、まるで、そう、まるで“映画みたいに”映像が回されていることに驚嘆するばかりなんである。

でもそれでも、お父さんはやっぱり判ってる。いや、ある意味、カメラの存在を無視できない唯一の存在がお父さんだったのかもしれない、と思う。
ガンを告知されて自分の葬儀をプランニングしているお父さんが、仏教徒なのになぜ洗礼を受けてまでキリスト教会で葬儀をやろうとするのかについて、娘からこれはかなり形式ばったインタビュー風に聞かれて(もちろんそれも確信犯だよね)、ここからはビデオを切ってくれよ、と言って、リーズナブルだからな、と暴露する場面。

そして「回してるだろ」と突っ込んで娘がふふふと笑うところまで、ほおんとに彼は、娘の作品に、デビュー作に貢献しようと思う気持ちがあったんじゃないかなあ……と思えて仕方がないのだ。洗礼名はパウロかな、孫にはそう呼ばせようかな、なんてところまでね。
そう、つまり、これはドキュメンタリーなんだけど、お父さんの死までの壮絶な軌跡ではあるんだけど、お父さんは、まったく持って素晴らしい、役者だった、娘のためだけの役者だったと思えて仕方ないのだ。

でもそれでも、最後の最後、お医者さんが、もう心臓は動いていない、ご臨終を告げていいなら今だとまで言う最後の場面は、……ここは恐らく映像も撮ってたんじゃないかとも思うんだけど、示されない。
それこそ「チーズとうじ虫」みたいに、印象的な自然風景である。紫色に光る夕景に、お医者さんと家族の声が静かに響く。一見映画的に見えるそこだけが、実は一番ドキュメンタリズムにあふれているような気がした。

なんか思うまま綴っちゃって、よく判らないままのような(爆)。そもそもエンディングノートというこのタイトル、私、ここで作られた造語かと思っていたんだけど、ちゃんと今、通じる言葉なんだね。
お父さんが自分の葬儀のプランニングを中心として、これまでの人生を語るナレーションを監督自身が務めているんだけど、最初のうちはね、本当に彼が綴ったエンディングノートを監督さんが読んでいるのかと思っていたの。

でもそれだと段々つじつまが合わなくなってくる訳。もう年は越せないだろうということを、来年孫に会うためにアメリカに旅行することを心の支えにしている彼に告げるべきかどうか、なんていう場面をさ、「こんなことは知る由もないんでございます」なんて、もうエンディングノートを綴る余裕もないまま最期まで行ってしまった彼が書いてる筈がないじゃない。

でも、だからといって、全部が全部、監督さんの創作(というのもちょっと違うけど……代筆?)というのも違う気がして、途中までは実際書かれたものなんじゃないかとも思い、そのあたりの乗り換えっぷりが実に見事なんだよなあ。
遺体が教会から送り出される作品の最後には「自分のふりして勝手にしゃべっている次女が」みたいな言い回しまであって、なんか気持ちよく騙された!って感じになっちゃう。

そうなの、ほおんと、そう……誤解を恐れずに言ってしまえば、見事に、エンタテインメント、ドキュメンタリーなのにフィクションの醍醐味。それをこの父と娘、あるいは家族も巻き込んで描いているのが素晴らしいと思う。
いくらなんでもあの幼い孫たち、お父さんが、まさに目に入れても痛くないといった感じに溺愛してる孫三人までも加担してる(って言い方まではあんまりだが)とは思わないけど、それだって上手いことハメられてる(!)と思う。

あのね、私、びっくりしたのよ。もう、死の淵って感じの“じいじ”の元に孫たちが呼び寄せられるんだもの。
まあ、というのも、このお父さんがホント孫ラブで、そんな自分に苦笑しつつもほんっとラブラブで、海外に住んでるからなかなか会えなくて、遊びに来た孫との別れの時を収めたお父さんの横顔なんて、ほんっとに寂しそうなのよ。

……こういうの、病気告知の前に撮られた映像はどれも、本作ありきじゃない筈なのにホントに素晴らしいんだけど、特にこのショットは、本作のためにあるようだった。
事態を聞いた長男がムリを押して、生まれたばかりの三人目の孫も携えて急遽帰国する。一応、出張のついでだと称しているあたり、安っぽいドラマのような体裁でもいいからと必死に模しているような暖かなフィクション味があって、愛しい。
生まれたばかりの子に目を細め、それでなくてもじいじが大好きな上二人の女の子は、「(急に日本に来ることになって、じいじと会えることが)夢みたい!」などと言うもんだから、そらー、お父さん、うるうる来ちゃうんである。

いや、うるうる来ちゃうのは観客の方だな。こんな風に理想的な祖父母と孫の関係、実はなかなか築けてないと思う。
彼女たちはじいじがもう今日死ぬか、明日死ぬかという状態の病院にも訪ねてくる。死というものがうっすらと判ってきている一番上のお姉ちゃんはことさらに硬い表情で入ってきて、じいじに「ごめんね」とか「ありがとう」とか「楽しかった」とか言われると、くしゃっとした泣き顔を見せて、それがなんだか、ひどく女っぽくも見えるんだよね……。

妹はつられて泣いているような感じだし、一番下の子はまだ右も左もわからぬ状態。キョウダイのすべての感情を引き受けているこのお姉ちゃんがなんとも愛しい。
でね、お父さんが、いや、彼女にとってはじいじが、なんで死ぬのかなあ、判らない、なんていうと、その時には落ち着いている彼女が、人間も古くなるからだよ、という。
一歳と百歳。新しいと古い。草花も枯れるように。ほんっとにね、彼女がどこからそんなシンプルで美しい真実を得たのか、彼女自身で得たのか、もうなんかズドーン!と来たなあ。なんだか凄く、救われた気がした。お姉ちゃんって、なんて凄いんだろう。

祖父母と孫たちのイイ関係ってのはさ、海外という離れた環境であることも実は影響していて、皮肉なんだけど。
それこそ今このお父さんと奥さんが、病気が判る前、定年になって、彼が外に仕事を見つけ、週末婚の状態になってから穏やかでいい関係が作れた、というのもきっとそうだと思うんだよね。

昔ならば、69歳というのは、特に若くして死ぬという感じではなかったと思う。でも長寿社会になって、何より私の父親と同じ年だからさ……それって自分が年をとりたくないという気持ちの裏返しなのかなあ。

個人的には父親の段取り好きを継承した長男が、父親の意向を尊重しようと、家に帰りたいならその通りにするからとか、知らせたい人を今言えるかとか、本人も辛い気持ちなのに振り絞っているのがすげーっと思った。
それ以上にすげーのがお父さんで、パソコンにリストが入ってる、消えてる?ちゃんとコピーもとってある、お母さんにそういう作業は耐えられないから、お前がやってくれ、とかさ……もう息も絶え絶えなのにすっげー明晰なんだよ。

で、最初にいきなり書いちゃった「愛してる」もね、彼的にはさ、もう、コテッといっちゃうところで言いたかったんだと思う。状況的には充分そんな雰囲気があったし。
夫からの初めての「愛してる」の言葉に、これ以上ないサプライズに妻は落涙し、ここからは二人にしてくれないかと子供たちに言い……でもしっかりカメラは定位置に残されてるのさあ。

お父さんが定年を迎えて、ようやくゆっくり出来て、こんなにいい人だと判ったと妻は言って。
恐らくね、それなりに上手くやってきた夫婦なら、こういう感慨は持っていると思う。でもそれを言葉に出して交換できるかというと話は違ってさ。
言葉に出して言えば良かったと、天国で再会したら言おうとか思ってる人たちがきっとたくさんいてさ……。でも天国で再会出来ないかもしれないじゃない(爆)いろんな意味で(爆爆)。
娘のドキュメンタリー作家志向、そしてそれに応え続けた父親と家族たち、彼らはホントに、ホントに……いい意味で合意の上でのフィクションもあったと思うけど、幸せだったと思うなあ。

でもそう、ここでコテッとはいかないの(爆)。夜が明ければまだ元気だし(爆)。てか、その前の夜より元気だし(爆爆)。
次女である監督さんが取り急ぎみたいな感じでベッド際で洗礼式を執り行い、あのギャグみたいなパウロの名を授ける場面なんて、それこそこの場面のナレーションはお父さんが書いた訳はなくてさ、悲しみの真っ只中なのに、確信犯のそりゃまあ、エンタメだよね。だって今にも死にそうだから、キリスト教式葬儀の都合上って感じだもん。
まあこの場面は映画というエンタメの枠組みで上手く作用したけど、すべてがそんな風に、ドラマみたいに上手くはいかないんだなあ。先述の、孫のお姉ちゃんが泣いた場面からも、孫たちは一度落ち着きを取り戻しているしさ。

この段取り好きのお父さんが結構ネラっていたんじゃないかと思ったから、あの感動的な「愛してる」のタイミングにも思わずニコニコしちゃったし、確かにそう上手くはいかないんだけど、上手くいかないから、だから、愛しいと思う。
これだけ日常のようにカメラを向けていたのに、最後の瞬間は、人生の最後を映し出すような紫色の夕景を差し替えた監督さんにもそう思う。

監督さんのナレーションが特にだけど、ある意味完成されすぎの人生の終焉のプランニングに、ふとわびしさを感じつつも、なんか日本人らしいなあと思う。いい意味でね、そう思う。
人間は決して完璧じゃないけど、完璧な人間と思われたい気持ちはあって……完璧は言い過ぎかもしれないけど、立つ鳥跡を濁さず、かなあ。
恥ずかしくない最期でありたい気持ちって、日本人のあるひとつの価値観だと思うんだよなあ、それがある一人の高度経済成長期のサラリーマンの結末という形で見事に結実しててさ。
もちろんこのお父さん、砂田さんの人生そのものなんだけど、照れたようにコミカルに構成しているあたりさえも、日本の誇るべき歴史をここにひとつ、世界に知ってもらおうと、刻もうとしているように思えた。★★★★☆


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