home! |
首
1968年 100分 日本 モノクロ
監督:森谷司郎 脚本:橋本忍
撮影:中井朝一 音楽:佐藤勝
出演:小林桂樹 古山桂治 鈴木良俊 南風洋子 下川辰平 宇留木康二 鈴木治夫 小川安三 加藤茂雄 佐々木孝丸 三津田健 大久保正信 清水将夫 北龍二 辻伊万里 今福将雄 神山繁 加藤和夫 灰地順 館敬介 木崎豊 渋谷英男 権藤幸彦 池田生二 小沢憬子 大滝秀治 寄山弘 榊田敬二
だってさあ、そう、私っていまだに小林桂樹は大林監督の「あの、夏の日 とんでろ じいちゃん」
「飛んでろ、じいちゃん」のイメージで止まってたのね、って(爆)。この名優に向かって何たること(爆爆)。
往年の映画スターにオマージュの意味を込めて数多く起用する大林監督だから、そんな往年のスターを知らなかった頃に見ていると、どうしても大林映画のイメージで刷り込まれてしまう。小林桂樹の、こんな凄さを知らないまま、飛んでろ、じいちゃん、だなんて(恥)。
この日は同じ森谷司郎 監督の二本だったんだけど、この監督さんの作品もひょっとしたら過去に観ているかもなんだけど(爆)、二本とも本当に、凄い迫力、凄い緊迫感だった。
強いて言い分ければ二本目の方が迫力であり、本作は緊迫感。それはやはり、本作が実話を元にしているというのが大きいのかなあと思う。
でも、リアルタイムで映画を観ていれば“実話を元にして”というのは何となく気になりもするけれども、過去映画だと単に映画として対峙するよなあ、と思ってはいたんだけど……。
でもこのタイトルが示すクライマックス(というかオチというか)の、奇想天外と言ってもいいようなスリリングには、これが実話なの!と思いもする。映画のために考えられたとしたって、奇想天外だと思うのに。
でもね、実は、そんな奇想天外、奇をてらったところが本作の凄さじゃないのだ。本作を観ている時に思っていたのは、これを今の、この現代に観ることが出来るなんてなんてタイムリーな、ということだった。勿論、小林桂樹の追悼特集だということはあるにしても、それにしてもタイムリーだと思った。
彼が演じる主人公の弁護士、正木ひろし(事件を綴った原作者と同名)は、見栄っ張りの警察は信じないけれど、“ちゃんとした教育を受けている”検事は信用している。だから、最初にこの事件に首を突っ込んだ時は、検事に話を持ち込みさえすればコトは簡単に収束すると思っていたから、現場に足を運ぶ気さえなかった。
しかし、木で鼻をくくったような態度をとられた彼は、権力を持つ者は誰もが腐っていることを目の当たりにして激昂、正義を貫くことを決意するんである。
“ちゃんとした教育を受けている”と正木が言う時点で、彼の側にも随分な偏見があるのは明らかなんだけど……。
つまり、弁護士の正木も“ちゃんとした教育を受けている”自負があるということだし(しかし警察に対してそれがないと断定しているらしいのは……警察官ってそんなに簡単になれるものなのだろうか?それともそれこそイメージ……それこそ偏見だろうか?)そしてその偏見に対して彼が認識を改め、しかし、これは戦時下だからなんだと。戦時下で、皆平常心を失って狂っているから、こんな人権侵害が起こるのだと。
“ちゃんとした教育を受けている”検事もヤミ物資の優遇に目がくらんでしたことなのだと、そう正木は思っていたんだけれど、そうやって戦争を憎んでいたんだけれど。
物語が収束し、10年後が描かれ、正木の髪に白いものが混じっても、それでも事態はなんら変わっていないのだ。
そう、だからこそ、正義を貫いた正木破天荒だと言われ、「正義とは合理性を重んじるものだよ」と心配した上司から言われたのだけれど(まあ、その上司も正木が危ない橋を見事に渡りきったのを見て「正義を信じて突っ走るのが正解なのかと思ったよ」と言うんだけどさ)世の中は、この時から更に数十年たった現代でもちっとも変わってはいないのだ。
それこそ、“ちゃんとした教育を受けた”検事が、有罪率を上げるためとしか思えない、ていうか、自らのエリート意識を満足させるためとしか思えないデッチアゲで、無実の市民を有罪に持ち込もうとした事件が記憶に新しい今、本作は本当に本当に、身にしみる。
正木に対して、唇の端を奇妙にねじまげて、正木と上層部のつながりだのなんだのをヘビみたいにねちねち問いただした検事の姿に、きっとあの事件の時もこうだったんだろうと思わずにはいられないのだ。
しかもその問いただす場面は、非常に効果的に音がオフになっていたりして、ジリジリ、イライラする正木弁護士が実に赤裸々で……って!あーまた興奮して先走って、何がなんだか判らなくなってしまった!
そもそもこの事件、正木弁護士と知り合いの印刷工場の社長の元に持ち込まれてきた事件を、働き盛りの正木はなんたって忙しいから、最初は知り合いのよしみでちょっと手助けするだけのつもりだったのが……。
こんな田舎の事件のその裏に、大きな力がひしめいているのを感じて、その大きな力が、何の罪もない、善良な市民をひねり殺したのだと知って、黙っていられなくなるのだ。
事件は小さな炭鉱町で起きた。鉱脈を読み取る炭鉱のブレーン、奥村が、ささいな賭博行為で引っ張られ、身に覚えのないヤミ物資への関与を執拗に問いただされ、拷問の末に死んだ。
と、いうのは、正木にそれを訴え出た鉱山のオーナーの滝田静江らの主張だったけれど、証拠はないんである。警察は、突然死であり、脳溢血だろうと言う。
しかし一緒に捉えられた仲間達は、こんな微罪でおかしいほどに暴行された、奥村さんは殺されたんだと言ってやまない。
聞いていくうちに正木自身も事件に違和感を感じていたけれど、ちゃんと解剖すればコトはすむと思っていた。
季節は冬、しかも事件が起きたのは寒冷地で、埋葬された死骸(という言い方をするんだよね……遺体でもなく、遺骸でもなく。それがなんとも生々しくてヒヤッとするのだ……)は数日は腐る心配もない。
そうタカをくくっていたのだけれど、単に解剖許可をとるためだけに接触した検事の、頑なで横柄な態度で感じた正木のイヤな予感は的中した。
抜き打ちのように解剖が行なわれ、その医者は恐らく間違いなく警察や検察が抱き込んだグルであり、立ち会った遺族(奥村の弟)にうやうやしく、脳の内側に溜まった血をメスで切って溢れさせて見せて、これは脳溢血だと言い切ったんである。
弟が不審に思った、棒で殴られたような背中のアザも、脳溢血の時にはこうしたアザは出来るものだ、としれっと言い放った。
この、解剖に当たる医師を演じるのが大滝秀治で、当たり前だけど、なんかつるんと若くてドキドキしちゃう(照)。
困ったことに、関根勤氏のモノマネがいちいち頭に浮かんじゃってさ。んで、こうして聞くと、やっぱり上手いんだよねー。若い頃を模しているのかと思っちゃうぐらい。まあそんなことはどうでもいいんだけど(爆)。
でもこの、思いっきり謝礼をもらっているんであろう医師のしれっとした感じが実に気味が悪くてね……「解剖をしている時には、刑務所で変死した男だとは知りませんでした」と聞かれもしないのにわざわざ彼は言うんだけど、そのわざわざ、ってのも、疑われているようだからという焦りなんかじゃなくて、自信たっぷりに牽制している感じがもー、凄い気味が悪いの!
全体に漂う気味の悪さや不穏な空気は勿論のこと、効果的に適宜使われる、会話の相手の台詞をオフッてその相手の不敵な表情に正木が追いつめられていったり、その追いつめられる表情を超クロースアップにしてカットバックしたりといった、観客に固唾を飲ませる演出は全編に渡って冴え渡っていて、ほおんとこの森谷監督さんは素晴らしいと思うんだけれど……。
実は何より効果的だったのは、このモノクロこそだったんではないかと、思うんだよね。1968年といったら、カラー映画でもおかしくない年。まあ、モノクロ映画もまだ数多く制作されていたにしてもさ、本作に関してはこれは、モノクロじゃなきゃいけない気がしたなあ。
だってまずね、本作は、もう、見ているだけで寒いのだ。後に“寒冷地だからしばらくは死骸が腐らない”と正木が言うぐらい、舞台となる地は吹雪が吹きすさっている。それが本当に本当に寒そうなのは、モノクロの効果が8割方手助けしているだろうと思われる。
冒頭に強烈に印象づける、吹き荒れる吹雪の中、土まんじゅうに差し込まれた薄っぺらい卒塔婆が風にびゅうびゅう吹かれて今にもぶち折れそうにしなっている様子。
そこを訪れている正木弁護士の、薄手のコートに冷たく湿った雪がじわじわ襟首から染みこんで、見ているだけで身が凍りそうな寒さを感じる感覚、これは……カラーではここまで感じられない、絶対。
とにかく、この吹きすさぶ寒さが強烈な印象を残す本作は、絶対絶対、これはモノクロじゃなくちゃいけない。襟元から忍び寄る湿った寒さは、正木氏が何度となく感じる、じっとりと冷や汗をかく場面にも通じているように感じるもんなあ。
そう、最大の冷や汗は、なんと!この“死骸”の首を切り落として東京に運ぶという、トンでもないクライマックス!
抜き打ちのように解剖が済まされ、脳溢血であると断定され、もうそれで押し通されそうになったのだけれど、絶対に拷問による死だと、警察や検察がヤミ米の恩恵を受けているのを隠蔽するために奥村に濡れ衣が着せられたのだと(彼がこの炭鉱の出身者でないことも、目をつけられた要因だろうか?)、解剖をした医者の見立てのおかしさを知り合いの医師に確かめたり、検事の不遜な態度で確信した正木は、再解剖が不可欠だと思い定める。
そのためには個人で動くには限界がある。団体に助けを求めろとの師匠からのアドバイスで、人権問題に熱心な弁護士団体に協力を依頼するものの、長々とした陳情書を書いて提出したのに、それが図られる会議は数日後だという。そんな悠長なことを言っていたら、寒冷地とはいえ、死骸が腐ってしまうのだ!
この、死骸が腐ってしまう、という時間制限があるのが、本当に、推理モノみたいなスリリングを感じさせるんだよね。死体が腐るまでの時間、てのもスゴいけど(爆)。
でもそれだけに、表向きはご立派なことを言いながら、ホントに信念を持って仕事をしている訳ではないお役所仕事の悠長さを強烈に印象づけられるし。
何より、死骸が腐る!再解剖を早くしなければと焦る正木に、相談をした法医学教授はあっけらかんと、まるで散歩をしましょうかと言うような口調でこう言うのが強烈なんである。「それなら、首をここに持ってくればいいじゃないですか」
え、ええ!このタイトルがまさかこんなオチ?につながるなんて、思ってもみなかった!
てか、この教授、現地で遺体を解剖する手続きがメンドウなら、と、いかにも親切心で、首(つまり頭部ね)だけ持ってくればカンタンじゃん、と“助言”してくれた訳だけれど、な、なんて浮き世離れした発想!!
そう、あまりに浮き世離れしていたから、この教授がそう口にした時には、思わず噴き出したりしてしまったんだけれど、でも、浮き世離れしているからこそ、これしか方法が見つからなかったんである。
それでなくても目をつけられている正木、尾行されているかもしれない、墓を掘り返して首を落とす場面を見つけられたらアウト、いや、それをクリアしても解剖室に持ち込むまでの旅程で警官に見つけられたらアウト、もうこの工程の超絶スリリングといったら、ないんである!!!
だって、だって、墓を掘り起こして死体の首を斬りおとすだけでも凄いのに、そもそもこの殺された奥村を落としいれた地元の巡査が正木が来たのを嗅ぎつけて、誰か(相当トップだろうな……)に連絡、そんなことも知らずに(いや、予測はしていただろう……だから作業後は急いでこの地を離れたのだ)駅に急いだ車は途中で豪雪にタイヤをとられる。
何とか回りまわって途中駅から、生首が入ったバケツを持って飛び乗った満員の列車(今と違って、もくもくと煙を吐き出す列車よ)に揺られること数時間、それでなくても日数のたった遺体、いや生首(!)、どんどん匂ってくるっていうのもハラハラするし、時代が時代だから、憲兵(いや単に、警察かな?)が巡回に来るのがもう、心臓がのどから飛び出しそう!
しかも、それまでも、奥村の首切り作業員として派遣された男が、事情を知ってんだか知らないんだか(正木は知らないと思っているからこそ、彼に迷惑がかからないように心を砕くのだが)、近づいてきた警察に「人間の首が入ってるんだよ。外にいる時はそうでもなかったけど、この列車の暑さじゃどんどん匂ってきた」などとしれりと暴露してしまうのにはギャー!!
しかし彼は、こんな、何にも考えていないような顔をしながら(爆)、仕事の後に美味しい水炊きと酒にご満悦ながら、実はちゃあんと察していた、んだろうなあ。
東京駅に警察が張っているらしいことも、多分彼が気づいて生首入りのバケツを引き取ったからこそ、最後の関門を抜けられたんだもの。
その後も、頼みの綱の法医学教授が解剖を助手に任せようとして、その助手が無神経に水道水で生首をジャブジャブ洗ったり(!このシーンは鮮烈!しかも、突然運び込まれてきたバケツの中に生首が入っていても、この助手はちっとも驚かないし……)と、ここまで来てただの脳溢血にされたら、というハラハラを示したりもするのね。
けど、教授は助手が解剖しているところに淡々と入ってきて、ああこれは、脳溢血じゃないですね、殴られて死んだんですね、と、まるで無感動に、いい意味で無感動に言うから、正木氏は勿論、観てる観客もダーッ!と腰が砕けるんである。うっわ、超ハラハラした!!
とにかく鮮烈に残っているのは、“小さな事件”が隠蔽された田舎の鉱山の寒々しさ。びゅうびゅうと風が吹いて、雪が風花のように飛ばされて、そこで細々と生きている住民たちはただただそこに立ち尽くすばかりで、押し流されてしまいそうになるのだ。
今思えば、あの暴力的にさえ見えた吹雪は、酷薄で強引な権力の象徴だったのかもしれない、と思う。
戦時下が生み出した人権侵害の事件だ、と正木は信じていた。“お国のために死んでいく人間がいるんだ”という理由を振りかざして、無実の罪を作り出したのだと。
確かにそれはそれで、事実だったのかもしれない。映画の冒頭、生々しく映し出される、木炭のように埋もれて死んでいる戦地の兵隊さんたちの画が、生々しく心に焼き付いて離れない。
実際、時代的にも記憶に新しい当時はもっと生々しかった筈だけれど……どんな風にとらえていたのかと、気になる。
この映画が作られたのは、戦後からずっとずっと経って、いわゆる高度経済成長の真っ只中。だからこそ、権力に対する反発を描く力もあったのだろうと思うけれど、でもその反発はいまだ効力をなさず、この現代でも横暴な権力は無実の市民をおびやかしているのだ。
物語のラスト、恐らく、当時の現時点での正木氏は、あの時から全く変わらない権力(だけじゃないけど)の横暴さと闘っている。
ハリボテの首を裁判所に持ち込んで、傍聴者の前で、加害者はこうして刺したんだ!と何度も自分で再現して見せる場面で終わり、そのハリボテの首がハリボテだから表情がある訳もなくて、ミイラみたいで不気味で、そのハリボテに執拗にナイフを刺す正木=小林桂樹の鬼気迫る様が恐ろしくて、思わず身を引いてしまう。
なんかね、これ……それに身を引いているのは傍聴席で聞いている市民、事件に関わる遺族とかなのだろうけれど、それだけに、今の裁判員制度に通じるものを思わせたんだよなあ……。
だって、正木は、いわゆるプロの人間の癒着に憤り、闘うことを決めた。市井の人間の憤りこそが基本だと。
突っ走り気味の正木に、正義は合理的であるべきだと進言し、後に撤回した師匠のことを、ふと思い出した。
でも多くの弁護氏さんは多分……合理的を基準にして仕事しているのだろうなと、今の時代には思ってしまうのは……やはり不幸なことのように思えてならない。★★★★★