home! |
SFホイップクリーム
2002年 95分 日本 カラー
監督:瀬々敬久 脚本:瀬々敬久
撮影:林淳一郎 音楽:安川午朗
出演:武田真治 松重豊 池端絵美子 塩野谷正幸 森下能幸 片山佳 武田大和 水道橋博士
そういえば、武田真治って北海道の人なんだけど、あんまりそういう感じがしない。プロフィールを見るたびに、あ、そうそう、彼って北海道の人なんだよね、などと毎回思う。だからといってじゃあどこの人っぽいというと、どこでもない、って感じがするのだ。そのどこでもない感じ、がこのキテレツ近未来映画に似合っている。地球人なのに、捨て子だから偽造のIDしかなくて、身分証明書上は宇宙人と言うしかなくて、そういう、自分を示すものがない、っていうのが、似合ってるのだ。
で、このキテレツ近未来においても、瀬々監督の社会問題に対する視点は揺らいでいない。2065年の地球は、熱中症で人が毎日何百人も死んでいて、確かに今の状態を直さずにこのままいけば、まさかなどと笑っていられる話ではないのだ。2065年、それって全然遠い話ではない。長生きすれば、ここまで生きられるかも(笑)。そしてその地球では不法滞在の宇宙人がうようよしており、それが犯罪の温床になっている、というのが政府の見解。水道橋博士が演じる総理がこの不法滞在の宇宙人について演説する場面は、既に言及されているとおり石原都知事の“三国人発言”などを即座に思い出させるのは必至。いつの時代においても、対象が変わるだけで、自分たちと違うものを排除しようとする姿勢は同じなのだというシニカルな視線。
KENは宇宙人である育ての親に拾われたから(でもあれって、この育ての親が盗んだ車(のように思えたんだけど……だって、こっそり乗ってなかった?)に赤ちゃんだったKENが寝ていたんだから、捨てられてたんじゃなくて、この親が連れ去っちゃっただけじゃないの?)地球人なんだけど身元は偽造IDの宇宙人。これも皮肉、よね。結局、そういう異質か異質じゃないかというものを証明するものが、そんな小さなカードひとつだっていうんだから。それは現代でも同じで、結局はそういう文書化されたものとか肩書きとか、そういうものでしか判断されない。そんなくだらないものでしか。そしてKENは“故郷”である見知らぬ星に飛ばされてしまう。
彼の移送を担当する移送官HIDEが松重豊。彼がここまでまんまメインの作品は初めてじゃなかろうか。イイカゲンでとらえどころのないこのHIDEが面白い。彼は宇宙船(すみずみまであか錆びてて、小さなプロペラがゆっくり回って飛ぶハコ型)の中でヒマになり、KENに、なんか面白い話をしろよ、と迫る。KENはアツシ少年(そのフルネームはオオニタアツシ)がアンドレ山ジャイアントという活火山(……)で自分を犠牲にして人々を助けた話をすると、HIDEはボーッとした顔で斜め上を見上げたまま、微動だにしなくなる。「つまんなかったっすか」とKENが声をかけると、「いや」と席を立ち、横たわってまたひたすらぼーっとしている……なんなんだ、どうしたんだと思ったら、どうやら彼は猛烈に感動しているらしいのだ(大笑)。この彼の意外な純粋なる魂が、この物語を結構切ない方向に行かせたりもするのだ。
このKENの話からも判るとおり、彼はプロレスに心酔している。到着した見知らぬ国で書類の不備を待つ間に、その宇宙人たちにプロレスを教えたりする。コートを脱いだHIDEが、いきなり黒パンツいっちょのジャイアント馬場みたいになっているのには虚を突かれて大爆笑!KENはしかし、HIDEがこれぞまさしくプロレスごっこに興じているのを見て、「全然判ってない」とつぶやく。プロレスは勝ち負けじゃない。勝った負けたの世界はクソだ、と。
KENが心酔するカール・ゴッチという“神様”レスラーが残した言葉が、「デカイ男はデカいクソしかタレない。クソからはホイップクリームは作れない。」というものだったのだという。そしてKENはそれを「勝った負けたの世界はクソだ。人に何も与えやしない。プロレスはホイップクリーム、作品、人生だ!」と解釈している。しかし、何でホイップクリームなんだろうなあ……その“神様”が好きだったんだろうか。KENのプロレス話の中では、ケガによってせむし男になってしまい、ノートルダムのカジモドに仕立て上げられたレスラーの話が印象的。
この宇宙人たちはワラワラ、としか言わない。自動翻訳機(これも凄いガッちゃいシロモノで、ノイズがひどくて聞き取りづらいことこの上ない)がないと意思の疎通も出来ない。この“ワラワラとしか言わない”というのが見ててミョーに気恥ずかしかったのは私だけなのかしらん?なんで気恥ずかしいのかというと、それもうまく説明が出来ないんだけど……うー、凄く作ってる、作ってる、という感じがするというか……見ててヘンにドキドキしちゃうのよね。このワラワラ宇宙人に対して地球人であるKENとHIDEのもの言い、その言い方は凄く可笑しい。KENなんかは地球にいる時からなーんか可笑しかったけど……「ていうか、オレ、地球人?」なんて言っちゃってさー。このワラワラ星(?)に渡ってからは、HIDEの方がもっと可笑しい。“故郷”のはずなのに彼らの言葉が判らないKENを問いただすと「なまりがきついんっすよ」とゴマカす彼に「なんだよそれー!」と叫ぶ場面は、いやその台詞は全然普通なんだけど、この音節を伸ばすところがホント棒線そのまんまって感じの発音で、やたら可笑しいのよ。この可笑しさは、ホント聞かなきゃ判んない。「お前の星ってしけてんなー」「あーあ、呑み屋とかフーゾクとかねーかなあ」という台詞なども以下同文。微妙に場違いなところがその可笑しさを増幅させるのよね。
しかしこの可笑しさは……実はおなかの中でクスクスと笑うような感じ。観ている観客は二、三の場面でクスリときたぐらいで、ずーっとしーんとして観てた……私も。しかしその中で一人だけ凄くウケてる女性がいたのね。もう機を逃さずに、笑うの。可笑しくてたまんないって感じで。私ね、この何十人かの観客の中でたった一人、というこの笑いのツボの確率が、このズレた感覚が、もしかしたら瀬々監督のネラいだったのかも?だなんて気もしたりして……。なんか瀬々監督って、大バジェット作品になるとトーンダウンするというか……少なくとも私は、ピンクでの瀬々監督作品の方が凄く好きで、“一般映画”になるといつも……あれ?などと思っちゃうのよね、何故だか。でもこの作品はバジェットとかメジャーとかいう点でもそういうズレ、微妙さがあるというか……そりゃ、キャストは大メジャーだし、公開形態もそうだし、ロケーションもお金かかってそうだけど、見え方が確信犯的なチープさ、大狙いのズレ、という感じがするのだ。あ、もしかしたら、こういう感覚に武田真治は惹かれたのかもしれないなあ。なんか彼って、そういう嗅覚は鋭そうな気がする。しかしこの作品も、オフ画面ではセックスがわりと出てくるし、これをオンにしちゃえばピンク映画でもイケるって気がする?
書類が揃うのを待機中、KENとHIDEがフラフラしているうちに迷い込んだのが、自給自足の生活をしている老夫婦の家。その途中に呑み屋で美人の宇宙人も同行して、何かウヤムヤのうちに、そこで彼らはヒマを潰すことになる。通じないながらもテキトーに「ワラワラ」と会話をし、おばあさんの料理に舌鼓。しかしそこは、ゾーンと呼ばれる放射能汚染区域で、この老夫婦は避難させられたところからまた戻ってきたのだ。これもまたチェルノブイリを即座に思い出させてって……あ!この“老人が残る”とか、“その土地で以前と同じく自給自足の生活を送る”とか、そうしたことが訴える環境世界への無言のメッセージとか、これって、これって、「アレクセイと泉」じゃん!え?これはパクリにはならないの?(笑)そしてこの美人の宇宙人、KAZU。彼女はしかし、実はロボットで、革命戦士だったのだ。
このKAZUを巻き込んだエピソードがねー、なかなか泣かせるのです。ま、泣きはしなかったけどね。この美人にすっかりホレこんじゃったHIDEはヤらせろよーとか迫っても、彼女はロボットで力が強いからはねつけられちゃうし、つまり手は出せないんだけど、でも彼女を愛してしまうんだよね。一方でKAZUは自分はロボットで感情がない、このことがそれ以上ない絶望なんだとKENに語る。でも、絶望という言葉を、ひょっとしたら人間よりも痛切に“感じている”彼女に感情がないなんてことないんじゃないかと、KENじゃなくったって、そう思う。でも彼女は、逆に自分に感情が生まれることを恐れている。ロボットである自分に感情が生まれてしまったら、その有機質の現象が無機質の自分の中で反乱を起こして死んでしまうというのだ。でも、自分に寄せるHIDEの無邪気なまでの愛情に、彼女の中の“感情”が育っていってしまう。そして、内戦状態になって、たくさんの死体の中にへたり込んでいる自分をHIDEが見つけ、抱き上げてくれたりする……彼は、KENから彼女がロボットだと聞かされても、一向に気持ちを変えないのだ。実際、これはほだされるよ。でもそのことが彼女に本当に死を招いてしまう。
KENを追って地球からきた組織の銃弾に、HIDEが迎え撃つ。そしてその二人をかばって、鋼鉄ボディで銃弾を跳ね返しながらKAZUは敵に向かって進むんだけど、銃弾なんかでダメージを受けるはずのないKAZUが突然、ガチャリという感じで、崩れ落ちる。駆け寄るHIDEに、「楽しかった……」とつぶやいて、そのまま息絶える。その後HIDEもまた敵にやられて死んでしまう。何か、凄いプラトニックラブだよね。HIDEはあんなに性欲アリアリなのに(笑)。でも、プラトニックラブというのがあるんだということを、勿論超フィクションの世界ではあるけれど、そういうことを描きたかったのかなあ、なんて。
このHIDEを演じる松重豊の強烈さに食われそうに見えながらも決して食われない、武田真治の不自然さすら感じる自然さには、ホント唯一絶対のものがあるわ。彼がこういうナンセンスな台詞が似合うっていうのは、ちょっとオドロキだった。「マジグソ!」と叫んで野グソたれたり(しかも出てきたう○こは粘土仕様(笑))その最中に彼以外のみんながゲリラに連れてかれて「やった!自由じゃーん」と無邪気に喜んだりとか。独特の自然体なんだよね。芝居としてやろうと思っても出来ないような。こういうところが実に異邦人っぽいんだよなあ。それこそ彼なら透明人間ぐらいなりそう。
トボけた民俗音楽風サウンドがちょっと好き。ところで、川瀬陽太氏がどこに出ていたか判らなかった私は、相変わらずアホやね。★★★☆☆
寂しい寒村に住む喜助は竹細工師。名工だった父親が死に、ひとりぼっち。この父親に世話になった、と一人の女が弔いにと訪ねてくる。この世のものとは思えないほどの美女、玉枝(若尾文子)。名前は、と聞かれて玉枝、と答えた時から、いやその前に、この父親に世話になった、と言った時から、彼女がどういう立場の女なのか、即座に判る。つまりは彼女は、遊女で、喜助の父親はなじみの客だった、とこういうわけだ。しかしこの寂しい村で、一身に竹細工に没頭していたらしいウブな喜助には、そんな当然の予測さえつかないらしい。玉枝を忘れられない彼は、芦原まで彼女を探しに行き、玉枝が遊郭にいることを突き止めるけれど、その段になっても彼には判っているのか判っていないのか。何だか見るからに無邪気なほどに純粋で、風邪をひいて寝込んでいるという玉枝のために、見舞いだと称して足しげく通う。そこで遊んでいくとかいうんじゃなくて、滋養のつく食べ物を持参したり、本当に顔を見たいだけ。まるで中学生の初恋のような純粋さで、このプロの玉枝に接するのだ。
登場シーンからひどく美しい若尾文子。私は彼女の出る映画にはなぜだか縁がなくて、これがようやっと二回目ぐらいなんだけど、この人の、女そのものを思わせるどこか怨めいた美しさに惹かれる。大体、いくらなじみだったからって、いち客の弔いに遠く離れた寒村まで足を運ぶなんて情の深い女でなければ出来ないことだし……でもそれが、彼女とこの喜助の父親の、長い年月の間に育まれた関係を物語って、実に艶めかしいのだ。この時の彼女はぐるぐるにあったかくしてて、わらぐつで、野暮ったい格好なのに、このわらぐつを脱いで仏壇のある部屋に上がる時の、濡れた足袋につつまれた小ぶりな足や、お墓で手を合わせる、その美しいうなじにはらりとかかる後れ毛、そこにふわりふわりと舞い降りるぼたん雪など……たまらない色香。こんな美しい女を見たことがなかった喜助が一発で参るのも当然なのだが、何せ彼女は父親となじみだった遊女なのだ。
だということを、喜助だって当然判っていた。心の中で葛藤もあったんだろうけれど、表にはそんなことは全く現さず、とにかく玉枝に猪突猛進、自分のところに嫁にきてくれないか、という。自分よりかなり年若い、この純粋な青年からのプロポーズ、玉枝は考えに考え抜いた末、受けることを決意する。こんな寒村にはもったいないような綺麗な奥さん。喜助も有頂天なのだけれど、彼はなぜだか、彼女と夜の生活をしようとしない。いやそれどころか手も握らない。いくらウブだからといって、結婚してまでそんなのはあまりに変である。喜助は父親が玉枝に贈った竹人形の出来ばえに、自分もこれを超えるものを作る、と奮起し、毎日毎日その竹人形作りに没頭する。やがてはそれが評判となって、有名民芸店に置かれるまでになる。しかしそれでも喜助は玉枝を抱くことはない。玉枝のことはとても好きだ、でも、今は堪忍してくれ、と言うばかりで。そんな時、喜助の留守中、この民芸店の番頭が仕事の話をしにやってくるのだけれど、何とこれが玉枝の昔のなじみの客。彼に押し切られ、玉枝はこの男と間違いを犯してしまう。
嫁にきた夜から自分と一緒に寝ようとしない喜助に、どこか不満げな表情で寝につくあたりからもう色っぽさ全開だけれど、この時の若尾文子の色っぽさときたら、ちょっとない。こりゃ、いくら仕事の相手でも、いくら昼でも、やっぱりこんな風にあがらせて、こんな風に酒を出したりしちゃ、いけなかったんである。だってだって、ガマンが出来なくなっちゃう番頭じゃなくったって、彼女を押し倒したくなるもの。しどけなくお酌をするその手のしなやかさ、慣れた手つきでたばこをふかす横座りの体はなんともいえないなめらかな曲線を描き、これは確かに喜助の嫁さんとしてはあまりにレヴェルが上すぎる……。しかしこの番頭は玉枝より10も上で、いかにも遊び慣れた男。玉枝は遊女だった生活から喜助との結婚生活に入って、そりゃ遊女の生活だってイヤだったに違いないんだけど、でも喜助があんまり手を出さないから、何かありありと、その身体が欲しがっているように思えるのだ。確かに彼女にはそんな風にスキがあったのかもしれないのだが……。しかしこの場面、そりゃそのものの画は映し出さない。別室に逃げた玉枝を追いかけた男が押し倒したんだろう、見えるのはその戸からはみ出したちょっとの部分、イヤイヤをするように避ける女の足袋の間に男の足が割り込み、そして男の手で戸がそっと閉められるという、それだけなんだけど、もういかにも日本的な奥ゆかしい描き方なんだけど、これがむちゃくちゃ想像を掻き立ててしまって、これぞ官能的シーンに心臓バックバク。それにその後、薄暗い中、呆然と畳の上に横たわる玉枝、着物を着たままですそが乱れてて、わ、着たままヤッちゃった?(おっと、下品な言い方をしてしまった)と思っちゃってさらに隠微な感じがしてしまう。彼女の髪や襟元のかすかな乱れだけで、こんなに色んな画を想像させてしまうだなんて。
何と、玉枝はこの一回だけで、妊娠してしまう。いやな予感はしていたんだ。喜助が彼女に手を出さない中、この男とだけ寝てしまって……。喜助は玉枝を抱けないことを、母親だと思っているから、などと彼女に向かって言ってはいけないことまで言ってしまって、一時は、うわ、何だ、こいつ、まさかマザコン!?と思ってしまったりもするんだけれど、そうではない。喜助は玉枝が好きで好きでたまらないんだけど、こんな信じがたいほどウブに育った彼は、とにかく混乱しているだけなんだ。父親のように、女遊びを余裕でするなんて、彼にはできっこない。しかし玉枝の湯浴みしている後姿(その滑らかな背中のなんと美しいこと!)を見て彼の混乱は頂点に達し、父親の作った竹人形を叩き割って飛び出して行ってしまう。実際、この時の玉枝ときたら、本当に美しかったもんなあ……蚊帳の中で横たわっている姿も、その蚊帳がまた何かヴェールを感じさせて、もうこっちをモヤモヤさせちゃうぐらい。天上の美しさっていうのは、こういう人のことをいうんだろうな。
喜助は呑めない酒を浴びるほど呑み、行きついた先は、玉枝のいた遊郭。玉枝の妹分であるお光は、もう彼女から話は聞いていたし、何とか玉枝姐さんの力になってやりたい、と喜助を諭しにかかる。喜助の父親は確かになじみの客だったけれど、私たちを娘のように可愛がってくれただけで、玉枝姐さんと一緒の布団に入ったことはない。いつでも私も一緒に雑魚寝していたからそれは私が一番よく知っている、と。もういかにもなウソなんだけど、だって言っているお光ちゃんときたら、これでこの人、どう反応するかしらん、とばかりにちらりと流し目で喜助を見るんだもん。でも喜助のウブは本当に筋金入りで、実にあっさりこれを信じてしまって、胸のつかえがとれた!って顔して走って玉枝のもとに帰る。う、うっそお、信じちゃうの?こりゃ、天然記念物並みのウブさだわ、と驚いちゃうんだけど、そこが喜助の喜助たるゆえんだよなあ……可愛すぎ。そして喜助は玉枝をひしと抱きしめ、あんたが好きや、これからは夫婦らしくする!と宣言、玉枝も嬉しそうだったのに……。
このお光ちゃんを演じているのが中村玉緒で、今と違って娘らしく声も高いし、おきゃんな感じながらもプロの遊女って感じでたばこを吸う様とか実に堂に入っていて、とっても魅力的。この小柄で華奢な身体でてきぱきと動き回り、コメディリリーフの部分も受け持つ彼女はまさしく一服の清涼剤。ホント、若尾文子と対照的なんだよなあ。
玉枝はつわりに襲われ、妊娠していることが判ってしまう。しかし喜助にはそんなこと、当然言えるわけがない。だって、喜助とは今までそんなことにはなっていなかったんだから……つまりは、あのたった一回の間違いが種を植えてしまったのだ。彼女は喜助との幸せのために堕ろそうと決意するものの、時代が時代、そう簡単に堕ろせはしない。最初に頼ったのはその間違いの相手だったけれど、この男は実に鬼畜で、こんな段になってもそれを恩に着せて玉枝を押し倒そうとする。……いや、まあ、こんな場所を選んじゃった彼女の方にも問題はあるんだけど。だって、閉ざされた宿、なんだもん。そりゃ、こんな話をするにはこういう場所じゃなきゃマズいってことは判ってるけど……。でもさあ、この男、もうハナから、何言ってまんねん、って態度で、そりゃまあそうなんだけど……普通に考えれば夫である喜助と全然そういう関係じゃなかったって言ったって信じられないのは当然かもしれないんだけど。でも、わてのせいやあらしません、みたいな、もうそんな無責任さで、玉枝の方は自らを責めに責めているのに、もうもう、この男のこの厚顔に、スクリーンの中に入っていって、ぶちのめしたくなってくる!また、西村晃がこういうのが憎たらしいほど上手いんだもん……いやらしい話し方と、わて、あんたが好きやねん、と性懲りもなく迫って、力づくで押し倒そうとするこのいやらしい態度!ああー、もう上手すぎてぶん殴りたいッ!
玉枝は力を振りしぼってこの男から逃れ、かつて世話になっていた姐さんを訪ねるんだけど、転々としていて、見つからない。折しも季節は真夏で、しかも川を渡ったりなんだりしなきゃいけなくて、それでなくても身重の身体でつわりもひどい彼女は、ついに渡し舟の上で悶絶し、倒れてしまう。この時の、ほどけた黒髪が川の水にゆらりとつかっているのをアップで撮るショットに、またここでも妙にホラーめいた音楽を乗せるもんだから、ギョッとする。おいおい、驚かせないでよー!この時、玉枝は死産してしまい、彼女が気を失っている間に、船頭さんが気をきかせて、その“やや”を始末してくれていた。自分以外誰も見ていない、誰も知らない。このややはこの世と縁がなかったんや……そう、穏やかな笑顔で玉枝に言ってくれる。この船頭さんを演じるのが中村鴈治郎。これぞ滋味に富む名演技。心に染みる。
で、だから、今度こそ、何もかもが片づいて今度こそ喜助と幸せな夫婦生活を送れることと思ったのに……なぜ、なぜなの!?喜助に一刻も早く会いたいと思ったのか、玉枝はこんなえらい身体で雷鳴がとどろく中、その身を引きずるようにして戻ってくる。喜助はん、喜助はん、と呼びかける声に喜助が戸を開けても、そこには誰もいない。しかし雷がピカリ!と光った時に、ざんばら髪で、戸口に身を寄りかからせている玉枝の細い体が映し出され、喜助はまだ気づいていないんだけど、観客の方はうわッ、とギョッとさせられる。これは……あの川につかった黒髪のシーンでもそうだったけど、これはよもや、もしかして悲劇的な結末が用意されているの?とどこかで予測はしていたけれど、心の中で追い払い続けていたそんな思いを、もはや払いのけ出来なくなる、決定的な暗示の描写なのだ。二度目の雷で喜助はようやく、倒れこんでいる愛妻を見つけ、中へと運び込む。これからは何もかもが上手くいって、仲良く暮らそう、そんなことを言い合って、笑いあう二人だったのに……玉枝は、こと切れてしまう。ちょっと待ってよ、何で!?何でこんな結末にしちゃうんだよお、あんまりだよお(冒頭に続く)。
でも、玉枝は、この喜助の純粋な愛の中で、充分、幸せだったよね。いや、充分幸せだということに気づくのが遅すぎたのが悲劇だったのか。ついに奇跡的なまでのプラトニック・ラブのまま死んでしまった二人。あんまりだと思うけど、あの、心を通い合わせた一瞬だけで、それが永遠の愛と同等だと思ってあげなければあまりにも可哀想過ぎる。
このウブな喜助に扮する山下洵一郎という人は初めて見る。いかにも純粋な青年で、それでいてウブさゆえの可愛らしい心の葛藤も良くって、若尾文子ほどの真のスターに抗して、この純粋さ、純朴さだけで充分に対抗しているのがイイ。ああ、でも今思えば、あの喜助が作った竹人形は、父親がおやまの姿にしたのと対照的に、彼が玉枝に出会った時の、あのやぼったいわらぐつ姿の彼女で、喜助にとって、彼女は遊女だとか色っぽいとか艶っぽいとか、そんなところで好きなんじゃなかったんだ。そう思うとこのウブな男が実は、すっごくすっごく女を見る目があるヤツじゃないのかと思って胸が熱くなる。
これだけの中身をまるで駆け足でどんどこ描いていって、台詞も展開も早すぎるぐらいなんだけど、若尾文子の艶と、この山下洵一郎の真摯さでさほど気にならない。ちょっとピンポイントな感じで出てくるおっしょさんの殿山泰司が好きだなあ。独特の庶民性を持つ俗っぽいお坊さんで。★★★★☆
着せ替え人形の美しいマダムとハンサムな庭師の悲恋物語。そう書いてみるとやっぱりどこかおとぎばなし風。哀しいおとぎばなし。完璧なプラトニック・ラブ。いや、これを恋愛と言っていいものなのかどうか。恋愛、と断じてしまうことが、二人の関係を安んじているように思えてならない。もっともっと高いところにあると。二人は、きっと似ているのだ。どこか兄妹のように。あるいは同じ魂を分け合った、元は一人の人間のように。黒い肌を持つレイモンドによって、キャシーは人間としての目を開かれていくけれども、レイモンドの方も、彼女に同じ魂を感じたからこそ、なのではないのか。レイモンドはこのスノッブな白人社会の中にしなやかな強さで一人、入っていける人。そしてキャシーは最初のうち、その大変さに気づかない。むしろキャシーの素晴らしさというのは、その気づかないところにあって、意識的にではなくまるで分け隔てがなくて、バカなプライドを持った白人の住人たちの眉をひそめさせる。しかし彼女は気づくことになる。たった一人だけが違うのが、どんなに大変かと。違う世界に入っていくことが、どんな代償を払わなければいけないかを。それは思慮深いレイモンドでさえ想像もつかないほどに、弱い人間たちの持つ心というのは、彼らが作り必死に守ろうとしているコミュニティというのは、残酷だということを思い知らされることになる。
二人は恋人同士としてつき合っているわけではない。最後にはそんな感情を示唆しているけれども、でもやっぱりそうじゃない。本当の意味で、最初から何ら隔たりがない二人。とても幸福な価値観をまっすぐに持っているのは、純粋すぎるのか。
二人はお互いを尊敬している。人間として興味を持ち、信頼しあっている。恋愛感情がその上で生まれてくるのだったら、こういう恋愛だったら、信じられる。だから二人の関係は、単純な愛だけではないのだ。単純な愛だけだったら、無論キャシーは彼の元へと飛んでいったに違いないのだ。二人には子供たちがいる。キャシー側は特に、夫が子供までも捨ててしまった。子供が足かせになるのではない。一緒にいることばかりが、愛ではないのだ。それにきっと、いつか会える。きっと。
キャシーがレイモンドの導きによって入ってゆく黒人のコミュニティ。そこで彼女は、たった一人であることがどんなに勇気がいるのかということ、それでも、たった一人で違う世界を知ることが、重要で素晴らしいことだということを知る。レイモンドはこの時点で、自分たちの仲間を信じていた。いや、信頼していた。でも白人の社会における彼への視線と同様、彼らのキャシーに向ける視線は冷たかった。ある意味、レイモンドもまた、知らず知らず逆の差別意識を持っていたことが露呈される。二人の仲が噂になり、彼の娘が被害にあった時、レイモンドは言う。「黒人も同じことをする」と。彼はとても勇気のある、知性のある人間だけれども、でもやっぱりキャシーと同じ、このエゴの人間社会で生きていくには甘かったのかもしれない。むしろ、人間社会で必要なのは勇気ではなく、皆と同じになる、たった一人になることから逃げる、臆病な、心の弱さなのか。ひどい矛盾だけれど、人間って、やっぱりそうなのだ。
でもだからこそ、二人は美しい。奇跡的なまでに、汚れがない。キャシーの信念は心の弱いダンナに「黒人擁護論は沢山だ!」と見当違いに断じられたりするけれども、何の迷いもないし、何の打算もない。こんな人いるのかとちょっと皮肉に思うぐらい、ニュートラルだ。腰のあたりから豊かなプロポーションが印象的なジュリアン・ムーアは、この時妊娠中?彼女は泣きのテンションが素晴らしい。思えばヘインズ監督とは「[SAFE]」で一度組んでいる。あの時の彼女も信じられないほどに素晴らしかった。どんな映画に出ていても目を見張る役者ではあるけれど、ヘインズ監督とは相性がいいのかも。
レイモンドは深いまなざしと柔らかな物腰が素敵過ぎる。演じるデニス・ヘイスバート、こんな役者どこにいたのかと思ってしまう。とてもきれいな目をしている。キャシーが彼の娘、サラをそうほめたけれども、この親子はよく似ていて、彼女は彼のこともきっとそう思っていたに違いない。
心の弱いダンナと言ってしまったけれども、仰天の決断をするキャシーの夫は、二人が負けてしまった“たった一人”になることを選んだ、誰よりも強い人なのかもしれないとも思う。彼は自分の中のゲイを隠しきることが出来なくて、苦悩して苦悩して、そして自分の本質から逃げずに本物の愛を見つけ、妻と子供の元から去った。同性愛が“病気”だった時代。ダンナがゲイだったと知ったキャシーはなんの迷いもなく(こういう時でも彼女は迷いがないのだ……)彼を医者に連れていき“治そう”とする。医者もまた「同性愛が治る確率は……」などというもの言いをする。ギョッとするけれど、確かに、ほんのちょっと前まではそうだったのだ。そしてダンナ自身も自分は病気なのだと思っていた。いや思おうとしていた。この時代、この街ではゲイでいることは人間として扱われないことを知っていたから。
ひっそりと夜の片隅でゲイたちが集まる場所がある。白人であるとか、黒人であるとかいうこととは違って、ゲイであるということはこんな風にひっそりとコミュニティを作り、隠し通して生きていくことは出来る。でも、彼はついにウソをつき続けることが出来なくなった。それはきっと妻のキャシーがあまりにもまっすぐな目で見通し、そんな彼を愛そうと努めていたから。こんな人間に対して、ウソをつき続けることなど出来るわけがない。その意味でこのダンナもまた、ちゃんと純粋な人だった。いや、そうなるチャンスを与えられたのだ。ツクリモノのような、きっちりと出来上がった“幸福な家庭”の見本が崩された時、キャシーだけではなくこのダンナもまた、人間として生きていくチャンスを与えられた。苦しんだ挙句、彼は違う世界の代償を判っていながらも、自分の思うままに飛び込んだ。彼が一番幸せな人だったのかもしれない。
何かというとパーティーだらけ。虚飾の。何の意味もない。何か、「めぐりあう時間たち」にリンクする。そんな生活の中、キャシーがハイソな友人たちと共に、午後のお茶をしながら会話を楽しむ場面がある。友人たちは夫婦生活のことをどこか自慢げに話し、他人のそれをも暴露して盛り上がる。その中でキャシーだけはあいまいな笑みを浮かべている。子供がいるんだから全くというわけはなかったんだろうけれど、今の二人にその関係がずっとないのであろうことが想像されてしまう。
男女の肉体関係の有無が人間的にどうこうというわけではないけれど、この時点でのキャシーはやっぱりお人形さん状態で、生気がない。でも彼女が生気を取り戻すのは、肉体関係を取り戻すことによってではなくて、もっとスピリチュアルなものを得ることによってなのだ。でもそれは誰にも判ってもらえない。レイモンドが忘れられないというキャシーに、親友のエレノアは眉をひそめ「あなたを中傷からかばおうとしたなんて」とつぶやく。「何かあったとしか思えない」とまで言い放つ。
親友だと思っていたのに、結局は……友達って、難しい存在だ。いや、エレノアがキャシーのことを本当に心配しているのは判るのだ。でも結局キャシーを理解してあげることが出来ないから……それは心をさらけ出さなかったキャシーも悪かったのかもしれない、と思う。すべての悩みをレイモンドには打ち明けることが出来たのに。それはやはり、エレノアもまたキャシーを苦しめているスノッブなコミュニティの一部分だから。エレノアに打ち明けることは、心の傷をさらに広げてしまうことだと、判っていたから。友達って、何からも切り離された、無償の存在であるはずなのに、でもやっぱり人間社会はそれさえも許してくれない。
日本人もカラードだけれど、どこか黒人よりは白人寄りだと考えてはいないか。そしてそれが優越だと思ってはいないか。キャシーの家に勤めているメイドの女性の肌も黒いけれども、彼女は自分がハイソな人間に従事しいる特別だと思っているのか……自分自身も侮辱されていることに気づいている風がない。その姿が、そんな風に勘違いをしている日本人を思い知らされるような気がして仕方がないのだ。優位の白人のコミュニティにいることや、仲間たちのいる黒人のコミュニティにいること、そのどちらでもなく、キャシーやレイモンドのように(あるいはダンナのフランクもそうかもしれない)、自分であること、だけを見つめ続けて生きていけたらどんなにいいと思うけれど、でもそのことによってレイモンドは追われ、キャシーも愛する人を失ってしまうのだ。確かに一緒にいるばかりが愛ではない。そう言ったけれども、一緒にいられたらその方がいいに決まっている。でもそのためには何かを諦め、自分を騙し続けなければいけない。それは愛なのか信念なのか友情なのかアイデンティティなのか。その中で一番を決めなければいけない、だなんて、すべてが一番なのに。
エデン、原題はヘヴン、天国。宗教で語られる神や天使は白人。スノッブなご婦人が言う「そりゃ、神様は人間は皆平等だと言いますけれど……」彼女は頭の中で、神様は白人だし、と思っているのだろう。そしてその天国では、白人と黒人の愛も、もちろん同性愛なども描かれない。ヘインズ監督、彼こそがたった一人、なのだ。劇中、レイモンドが現代絵画展に出掛け、単純化された線の中に神性を感じる、と言う。それを聞いて、私は印象派の絵の方が素晴らしいと思う、と冷笑するマダムは、そこに描かれているのが白人だから理解できるに過ぎないことを、自分で判っていない。すべてを単純に見れば、黒人も白人も人間というひとつの形に過ぎないということを、レイモンドは判っているのだ。それは具体化された昔の宗教の、そして社会の世界では見えてこない真実。ヘインズ監督こそが、たった一人。だから彼には判る。だから描けるのだ。★★★★☆
江分利を演じている小林桂樹のサエなさにホレる。彼が、こんなことしか書くことがない、という感じで自分史を書いていくわけだけど、その小説の内容を、彼自らが体現してくれて、これがとにかく絶妙洒脱で可笑しすぎる。ことに、麻布の商店街で買った3枚100円のパンツで……と始まる、普段の服装を云々する場面はもうー、抱腹絶倒!まず、このゴワついた安パンツいっちょで出勤する江分利、合流するとなりの新婚のおにーさんはぴったりとしたサポータータイプのパンツいっちょで、江分利は「いくら大事なものだからって、そんなサポーターでぴったり守らなくても」などとこのおにーさんの強調された“大事な部分”をじっと見つめるんである。ランニングシャツのくだりがばつぐん。お腹まわりの出てきた江分利に合わせて、のんきな奥さんがLサイズを買ってくるんだけど、なで肩の江分利にはどうも大きすぎ、「どうやっても乳頭(にゅ、にゅーとー!)が出てしまうのがなんとも情けない」と、こちらの乳首を隠せばあちらが出てしまう、というありさまでブカブカのランニングを押えるのにはもう大笑い。同様に、ズボンはわざわざ裏返しにはいてみたりもし、靴下、軍服の生地を使った背広、とだんだんまともな格好になって、やっと出勤スタイルになる。
これは、江分利の小説をおでこを寄せ合って読んでいる社員たちも犠牲?になっちゃうのだ。ここ、かなり好き。女性社員は、男性社員がどんなパンツをはいてんのかと夢想したのか、目の前にいる男性たちはみんなさまざまなパンツいっちょに!そして男性社員の視線も同様に……すると、女性社員は皆セクシーなブラ姿に!おおお、とナマツバの男性社員。今のギスギス痩せている女優たちと違って、程よくふっくらと押さえつけられたブラ姿は確かになかなかおおお、モノなんである。
万事この調子。ひたすら江分利の、小説を朗読するがごときナレーションですすんでいく。時には同僚をストップモーションで止めて自分だけが動いてみたり。なんといっても素敵なのはトリスのCMそのままのアニメーションで、なるほどサントリーだからなのだった。原作者の直木賞作家、山口瞳の、本当にこれが直木賞受賞作。当時彼が実際にサントリーの宣伝部員だったため、原作の電機メーカー社員から変えられたのだという。しかしこれは変えて正解。サントリー、というのが何とも洒脱な気分を盛り上げるし、そのシャレた中での江分利のサエなさも際立つし、極めつけは大酒呑みの江分利であって、しかも大抵彼が呑んでいるのはバーで、洋酒。赤提灯で日本酒とかじゃなく、確かにサントリー、なんである。一回目に何とか書き上げた自分史が大好評。また次もお願いしますよ、と言って来る編集者に、冗談じゃない、もう書けませんよ、カンベンしてください、と言っていたクセに、気分良く酒が入ると、「僕はぜっっったいに傑作を書いてみせる。書かせてくれえ!」早ッ!この酒をかっくらっての変わり身の早さが好きだなーもお。
かくして、第二段を書くことになった江分利、さて、どうしようか。第一段は自分のことを書いた。ならば、その自分を生み出した両親のことが第二段だ、と。ことに、父親のこと。つまりは戦争成金。あのいまわしき戦争の利益にありついて事業に成功してきた父親は、確かに戦犯だったのかもしれない。しかしいまやこの父親もすっかり落ちぶれ、だけれどお金に関する感覚が、まだあの成金の頃から戻らない。あちこちに残した膨大な借金から逃れて引越しを繰り返し、商店街にもこまごまとしたツケを残しているのを気にしながら母親は、死んだ。その亡骸を抱えて身も世もなく泣き叫ぶ父親に江分利は呆然とし「何もそんなに大げさにしなくても……」(思わず吹き出したわ)と父親の“演技”に脱帽するんである。果たして自分は妻が死んだ時、同じように嘆くことが出来るんだろうか、と。江分利と江分利の父親の対比は、まさしく時代の対比でもあって、自分で自分の人生を引っ掻き回してきた父親と、そんな父親を見て、ああはなりたくない、なれない、とある意味受け身で何とか生きている江分利とでは、まさしく時代の気分が違うのだ。
父親史は、あのトリスのアニメーションがふんだんに使われる。キナくさい戦争の時代と、その戦争の波にのっかっての事業の成功と失敗の繰り返し、そんなものがこのシャレたアニメーションで軽快に語られる。江分利にも出征の経験はあり、しかし江分利のそれは実写で、ここでももたもたサエない江分利は、「日本の兵隊も西洋式にスマートにならないものであろうか」などと嘆息し、まあ、しかしスマートじゃないのは、君だからだよ、と突っ込みたくなるおポンチさが笑えるんである。その点、この父親は確かにある意味でスマートではある。お金にガツガツせず、息子の恩師にあっさり借金してそ知らぬ顔して平気の平左。苦労をかけてきた老妻が死んでも、最初こそ嘆き悲しんだものの、焼き場に運ばれていくのを二階から見下ろしながら、俺ぁ再婚するぞ!とブチあげる、懲りないオッチャンなんである。
まあ、確かにこの父親は結構ダンディな感じはする。だって、江分利がどてボチャで、あんまりにも無粋なんだもん(ごめんなさい、小林桂樹御大)。メガネは顔に埋まりそうだし、まさしくモーレツ時代の日本人そのもの。あるいはこのあたりのイメージが日本人の典型として流出しているんではないかと思われ……でもね、それでいてどっか神経質で、それをのんきな奥さんに支えられている、というのが、その慎ましやかさが、イイのよね。「あたし、のんき?のんきかもしれないわね。のんきでなきゃ、とてもあなたの奥さんなんてやってられないわ」と言う、おっとりのんびり、しかし美人の奥さんは新珠三千代。ダンナが出かけるその時間になってやっとワイシャツにアイロンをかけだすのんびりぶりが、和ませるのだ。実は病気持ちであるというのも深刻にならず、突然の奥さんの発作に取り乱した江分利が、さっさと医者を呼べばいいのに医学本を繰り、なるほど、ニワトリに多くかかるこの病気だ、とナットクするのには思わず吹き出す。ニワトリ、というのが、このおっとりのんびり奥さんに似合っているんである。
一方で、一人息子も小児喘息。この息子、香具師にひっかかって、実は単なるニンニクの粉末だった“どんな病もたちどころに治る富山の薬”を自ら買ってしまうぐらい、つまりは深刻なのだが、この息子も母親譲りののほほんさのせいなのか、さして深刻に映らない。貸し本のSFやモデルガンに夢中になるフツーの男の子で、半ズボンにストローハット(麦藁帽子、と言わないところが、さすがサントリー社員?)が実に子供らしい可愛らしさ。
そんな風に語られる、「江分利満氏の優雅な生活」は大好評。単なる酒呑みのサエないおっちゃんだと思っていた同僚たちから一転、尊敬され、お隣の新妻なぞも、たまには外で呑んで帰ってくるようじゃなきゃいけないかも、とまっすぐ帰ってくるラブラブ旦那とケンカになっちゃったりする(なんとゆー、ぜいたくなヤツじゃ)。この小説はどんどん評判になって、ついには直木賞候補、そしてめでたく受賞となり、マスコミは押しかけ、やんや、やんやの大喝采。で、ですね、ここからが……この祝いの酒に酔いしれる江分利が、ひたすら、ひたすら、そして夜通し、呑み、からみ、くだを巻く。そう、これこそが、最初に見出された彼の才能で、まあこんなに丁寧?にやらんでもええんじゃないかというほどに、やってくれちゃうんである。自論、ウンチク、実に見事なまでに。彼と一緒に呑んでいた仲間たちも一人減り、二人減りして……。最後までウッカリ残っちゃった二人は江分利の自宅に連れていかれて、実に始発の出る早朝まで、付き合わされる。このくだりには、単なる観客であるこっちまでも閉口してヘロヘロになり、途中で思わず目を閉じて休んじゃった(笑)。ゆえに、彼が何を朝まで話していたか、判らない……目を開けてみたら、ついに眠りこけた江分利にかわって奥さんが何かを朗読してた……あれ?
と、いうわけで、確かにこの後半部分が江分利の真骨頂、であるとは思うんだけど、ここの部分で★ひとつ、減っちゃいました。疲れちゃうんだもん。
江分利が母の死と父の入院がきっかけで社宅に移る前の家で、二階に下宿していた“外人”ピートがジェリー藤尾。彼の“外人”っぷりが面白かったなあ。彼、この江分利の母親のお通夜の最中に帰ってきて、取りに行きたいものがあるんだけど、そんなだから家に入れないわけ。仕方ないから見よう見まねでお焼香し、出てきたところでまた同じ列にウッカリ並んじゃって、またお焼香して、それを何とまあ、3回繰り返す。三回目にはお焼香もすっかり慣れちゃって、神妙な顔で左右の人に会釈したりするのが異様に可笑しい。で、それを後で笑い話で江分利としていると、ふっと江分利が、母のことを思い出したのか暗く沈んでしまう。その江分利に向かって「……アイム・ソーリー」。 江分利は、この“外人”になら、自分の気持ちを判ってもらえるかもしれない、と、これからの自分の不安をつたないカタコトの英語で話し出すのだ。彼、涙を流して江分利の気持ちをくんでくれる。まさしくエッセイ風の、さっと挿入されるエピソードなんだけど、好きだなあ、ここ。
サントリーの同僚で、最初から一人異彩を放つ天本英世。彼はやっぱどっか、普通じゃない。うーん、実に悪魔的だわ。彼は江分利に、君とは呑みに行かないよ(つまり、江分利の酒癖が悪いから)と言うんだけど、この天本英世と呑みに行ったら、また別の意味で怖そうというか、どっか異次元に連れてかれちゃいそう?★★★★☆