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落語物語
2011年 111分 日本 カラー
監督:林家しん平 脚本:林家しん平
撮影:渡邉隆輔 音楽:
出演:ピエール瀧 田畑智子 柳家わさび 柳家権太楼 春風亭小朝 石橋杏奈 嶋田久作 三遊亭時松 柳家小権太 隅田川馬石 古今亭志ん橋 三遊亭小円歌 柳家喬太郎 桂文楽
いやその……恐らく、ね。最近は確かに何本か落語映画もあったし、ドラマもあったし、ヒットも評価もそれぞれそれなりにもらっているものがあったから、ひょっとしたら本職の落語家さんたちにとっては、そんなのは本当の落語の世界を映していない、その世界はもっと厳しく、もっと粋で、真剣勝負の場なのだと文句をつけたいかもしれない、とは思ってた、んだよね。
いや、それこそ本作のような落語界の裏側までは知らないけど、やっぱり映画はエンタメ、だしさ。それだけに本作は、そうした落語業界のあるある話を盛り込むことに執心しちゃって、ちょっと散漫になった印象が否めないというか……。
確かにそれぞれのエピソードは、その表向きの部分はちらりと私たちにも見えているから、なるほどウラではこうなっているのね、と興味深いところは沢山ある。
若い女の子の落語家さんがタレント活動の方が忙しくなって、やっかみ半分に彼女の真打ち昇進をオエラ方が拒んだりとかね、「女の落語ってのは尻がムズムズする」ってな台詞とかね。
それこそ落語ファンでない人間にとって、落語は笑点メンバーか、タレント活動しているハデなタイプの落語家さん、あるいはそれこそまだまだ珍しい女性の落語家さんとか、しか知らない。つまり、テレビを通してでしか、知らない。
無論、落語の世界は寄席というホームグラウンドがあってこそだというのは判ってはいるけれど、だからこそそうした裏側も含蓄があるんだけれど、正直、予測の範囲内というか……。
大物になって、天狗になって自滅する中堅落語家や、あるいはもっと軽いエピソード、大御所が自分の都合で勝手に出の順番を変えてしまって、トリをとる人が時間通りに来なくなって大混乱するとかも、それぞれに確かに面白いんだけど、そうした落語界の様々なエピソードを盛り込みすぎて、なんか主軸が見えなくなっちゃう。
あ、軽いエピソードなんて、言っちゃいけないよな。それこそこれは、主人公である小春の一世一代の運命の舞台だったんだから。でもね、それこそそうした大事なエピソードもどこか薄まって見えちゃうんだもの。
そう、主人公のハズなのよ、この小春は。田舎から噺家を目指して出てきた見るからに弱々しそうな青年。
実際に二ツ目の噺家さんであるという柳家わさびさんは、「落語の実力はあるのに、普段はふにゃふにゃしている」というところを監督に買われたらしく、その頼りなさが実にチャーミングである。
その“実力”をちゃんと見せるところがないのはいかにももったいないが、ふにゃふにゃさ加減は最高である。そうなの、ちゃんと見せるところがない、んだよね。先述した一世一代の舞台、トリの人間が来ないことでどうしようもなくなって小春が舞台に出ることになり、見事大役をまっとうする場面ですら、ほんの出だししか聞かせず、すぐにカットが変わって会場の喝采と、緞帳が下がってくる舞台のこちら側。
正直なところ、もっとちゃんと小春の成長を見せてほしかったよな、と思う。だって、彼以上にちゃんと落語を聞かせる場面がある噺家さんは登場するんだよ。
それこそ先述の、タレント化しておエラ方に眉をひそめられた若い女の子の噺家さんだって、その後彼女がやりたかった古典も力を入れて、お客さんを爆笑の渦に巻き込む場面が用意されているし。
これも先述の、自信満々の中堅落語家が師匠との二人会の途中で頭が真っ白になって飛び出してしまい、その後野たれ死にしてしまうエピソードでだって、その落語の場面は、本作の中で最もじっくりと割いてるよ。
恐らくそれは、演じる隅田川馬石氏の存在感自体の迫力と、自信満々の彼が、師匠をこの場で打ち負かしてやろうと思っていた彼が、「評価を決めるのはお客さんだから」という師匠の言葉で思いがけず心がグラつき、筋を忘れて飛び出してしまう、という衝撃の場面、そこにつながる迫真の落語の語り場面に、監督自身が引きずられる形になったんじゃないかと、思う。
実際、この馬石氏は素晴らしかった。プロフィルを見てみたら、そもそもは石坂浩二主宰の劇団から役者としてスタートし、その後落語家に転身したという変わり種なのだが、その実力は折り紙つきなのだという。
なるほどなあ、だからか、役者の素地があるっていうのは、こんなにも違うものなのか。いや、彼自身の才能か。
とまあ、正直このエピソードの前後は彼が食いまくっちゃったし、その後の、ガラの悪い酒場でぼったくられて暴れ、殺されてしまうという展開はあまりにベタでギャグじゃないかと思うんだけど。
実際、太ったホステスがスパンコールゴテゴテのミニスカからパンツ丸見えだというのもそれを象徴しているんだけど、その丸見えもカメラが遠いからイマイチ効かず、彼自身のシリアスに引きずられて、めっちゃ持ってかれちゃうんだよね。
いや、このエピソードだけじゃない。ていうか、それ以上に重い展開が待ってる。小春の師匠、小六の恋女房が病気にかかって死んでしまうエピソードに至ってしまえば、もう小春の成長物語どころではなくなる。
いや、確かに小春が住み込みの弟子になり、そうなると用事を言いつけられるのは師匠よりおかみさんであり、家族同然であったおかみさんの死は小春に大きな打撃を与え、あの大舞台の時には、誰もいない客席におかみさんの幻影を見ることで乗り切る、といういかにも感動的な場面が用意されてはいるんだけれど……。
正直、ね。なんでこの物語の展開でおかみさんを死なせてしまったのか。心酒(馬石氏ね)が酒場のチンピラに殺された死も重かったし、正直そこまでのエピソードはジャマだと(爆。ゴメン!)思ったんだけど、それ以上におかみさんの死は、それまでも薄々感じていたこと……これ、小春の物語じゃないじゃん、小六の物語じゃん、しかも落語家としてじゃなくて、恋女房との話じゃん、と思ってしまったんであった。
いや、そう言うと語弊があるな。でもこの語弊を説明してしまうともっとミもフタもなくなる(爆)。これってつまり、小春以外の物語、なんだもの。
小六の物語、丸千代(女落語家)の物語、心酒の物語……落語界の真の姿を描写しようと思ったがゆえなのかもしれないけど、そこから派生するドラマに引きずられて、真に、真の姿を映し出す存在の筈である小春が、彼のエピソードが、それこそ落語界の軽いウンチクめいたもの……楽屋の様子とか、前座としてのふるまいや先輩や師匠に対する仕事、住み込みの弟子が遭遇する微笑ましいエピソードだの、いわゆるあるあるエピソードに終始してしまって、彼の成長に寄り添って共感することが、難しいんだよね。
だって彼が、主人公じゃなかったの?噺家になりたくて、意を決して憧れの師匠の門を叩く場面ではワクワクを感じたけれど、でもその導入さえも、彼がなぜ噺家を目指したのか、“たまたま見た寄席”で魅了されて、とモノローグで語られるだけなのが、えーっ!そりゃないよなーっと思ってしまった。
いやそりゃあ、彼が寄席で落語にカンドーしている姿を映し出すというのもベタッちゃベタだが、でも、その後も彼に対しては言うほどの落語への情熱は感じられないし、どちらかとゆーと、「人とコミュニケーションがとれなかった」という過去から「落語なら一人で出来るから、コミュニケーションの必要がない」という理由が大きかったんであろうと感じられるんである。
無論、そこが現代性を反映しているんだと思うし、このキャラクターの面白い部分であると思うんだけど、なにせ横のエピソードにジャマされて、そうした現代性も掘り下げられないまま通り過ぎてしまうしさあ。
小春に関しては、なんか、初めて上京した学生のオドオドの可笑しさ、の域を出ないんだよね。
最初は確かに“主役に抜擢!”のハズだったのが、“主役級”にトーンダウンしていった、というのは、小六を演じるピエール瀧、その女房の田畑智子はもちろん、心酒を演じる馬石氏の上手さなどに引きずられて、そっちの尺が多くなってしまったことが原因じゃないのかなあ、と想われるんである。
だから、散漫な感じがするのよ。それぞれはとってもいいエピソードだし、役者の演技もとても素敵なんだけど、それだけに、欲求不満に陥る。
小春はもちろん、小春ではなくこっちが主役だろと思う小六や、心酒や丸千代のエピソードはひとつひとつ、一本の映画が作れるだけの余力がある。
それを、“落語界をリアルに描く”ことを目指したせいなのか、“小春の周囲の人間”を盛り込んでしまったことで、それぞれ物足りないし、散漫だし、何より主人公の筈の小春が希薄になってしまった印象は否めないんだものなあ。
皮肉だよね。だって恐らく、作り手がいわゆる落語映画に不満を抱いていたのは、落語界のすべてを描いていない部分に対してだったんだろうと思われるんだもの。
あるひとつの方向性を掘り下げれば、そこには映画的フィクション、つまりウソも出てくるし、そこがホンモノの落語家さんにとっては違うぞと思う部分だったんだろうとも思うんだよな。
だって、傲慢な落語家なら「しゃべれども しゃべれども」、女性の落語家なら「落語娘」それぞれ映画としてはきちんと面白い作品が出来上がっているんだもの。
それにリアリティが欠如していたとしたって、リアリティを追究して散漫になってしまうより、よほどいいんじゃないのかなあ。
……うぅ、なんかクソミソに言ってしまった。いや、小春を演じるわさび氏が凄くほほえましく可愛らしいから、もったいない気がしたのよ。
それでいったら、彼の師匠とおかみさんを演じるピエール瀧と田畑智子はそれ以上に、もったいない。実際、監督が引きずられたのはこの二人の存在が大きいと思われる。
おかみさんが死んじゃうとかいう展開が最初からあったのかどうかは知らないけど、ペーペーの頃の小六とぶきっちょな床屋の娘だったおかみさんの若かりし頃のなれそめのエピソードなんか、形としては主人公の師匠夫婦のなれそめなんだから、付け足しのエピソードに過ぎない筈なのに、めちゃめちゃリキ入ってんだもん。
画自体は、過去を象徴し、若さを演出するためにソフトフォーカスにして、甘美さをギャグ気味に狙ってるんだけど、めちゃめちゃマジなんだもん。
他愛ないケンカ、まではまだ青春の風景で良かったけど、彼女の父親が突然倒れて、小六が病院に駆けつけ、自分がお前を守ってやる、と肩を抱き寄せる場面、強がりの彼女が頭を預け、自分からチュッとやって、もう返品はきかない、認め印だ、とちょいと粋な台詞まで吐くに至れば、もうここが一番監督がリキ入ってる場面ちゃうのと思っちまうじゃない。
しかもその後、このベッタベタにホレてる恋女房が死んじゃうなんて展開まであってさ。長年連れ添っていたけれど、子宝には恵まれなかった、だからこそ、恋人のような夫婦であり……というのもズルいというか、噺家を目指す小春の成長物語の場としては正直……もう最初から、この夫婦に力点が置かれてるのがアリアリなんだもん。
妙齢のおかみさんがいる環境が年若い弟子にどんな影響を与えるか、というのも落語界の定番ネタなのかもしれず、確かにそれは表には聞こえてこない話ではあるけれど……。
そう、そうなの、純粋に小春の成長物語を見たかったからさ、だから、おかみさんのお風呂上りのなまめかしい姿を見るとか、洗濯機の中に忘れた赤いレースの勝負パンツを見つけちゃってうろたえるとかまでは、いいのよ。そりゃあ、修行物語にいろどりを与えると思う。
でも、そのおかみさんが死んじゃうっていう展開になると、どうしても小六夫婦に話はシフトしちゃうじゃん……しかも先述したように、他のキャラにも一本映画が作れそうな人たちがいるしさ、小春はどんどん、狂言回しなだけの存在になってっちゃったような気がしてさあ……。
そりゃまあ、ね。きっと弟子は師匠夫婦にとっては子供のような存在、住みこみならば尚更、と思う。
だからこそ、愛するおかみさんを亡くして意気消沈した師匠と、偶然ながら大きな場を乗り切り、落語家としての一歩を踏み出した感触を得た小春が、いい肉を使ったすき焼きをつつくエンディングは、本当に親子のようでなんとも心にじんと染みる。
でもね、ご丁寧に、その前、小春に稽古をつけた小六が小春に、葵(おかみさんの名前ね)とウッカリ呼びかける場面があり、しかも小六自身がそのことに気づいていないというのが示されていてね、それが……うん……なんとも、ねえ……。
やっぱりこれは、最終的には小六の方が主人公であり、小春は、最初に主人公として定義されていただけに、それ自体でなにか安心されてしまったというか、ほかのキャラクターのエピソードにもドンドン侵食されて、結果最も影の薄い存在になってしまった気がしてならない。
クライマックス、おかみさんが死んでしまう場面に至ってもね、小春は急ぎ駆けつけたおかみさんの実家のおやじさんのためにおにぎりを用意するんだけど、その中にお赤飯のおにぎりが紛れてるのね。こんな時にお赤飯なんて笑えない、と叱られる小春。
しかしもういよいよ危ない、瀕死のおかみさんが思いがけず、お赤飯が食べたい、と言う。赤飯なんかある訳ねーだろー!?と愛する奥さんの最後の願いを叶えられそうにない小六が絶望の声をあげると、小春が「ポケットにあります!」とハブられたお赤飯のおにぎりを取り出すわけで……。
これってさ、前段での、おかみさんのおやじさんに突っ込まれた時点でギャグなハズなんだけど、そこでも中途半端にスルーしてしまい、このクライマックスは、なんたって死に際ということに腰が引けたのか、あるいは最初からシリアスにするつもりだったのか、“お赤飯が死に際に食べたくなった時、ちょうどよく弟子のポケットにお赤飯がある”という二重のボケが実に見事に、見事に……スルーされてしまうのよ。
だって、小春が手にしたお赤飯にカメラが寄ることもないんだもん。そりゃその表現はベタかもしれないが、それをやらないだけで、おかみさんが死んでしまうこと自体にスポットを当てて、小六とおかみさんのラブ物語で終結させようとしているのはアリアリなんだもん。
たった、それだけのことで。いや、それ以前にも以後にもそんな要素を手助けする部分は山とあった。いかにも尻にしかれているノンビリな小六とチャキチャキのおかみさんのやり取りは、ラブラブなことこの上ないんだもの。
ダンナの行動を完璧に先読みして、コーヒー、濃いお茶、明日はライスカレーで明後日が湯豆腐、時にはムダにガンコなだんなをピシリと牽制して、時にはお尻をぷりぷり振ってだんな様(はぁと)と言ってみたり。
こんなにラブラブなのに、子供は出来なかったんだ……彼女が体調を崩した時、ひょっとして……とめちゃめちゃ嬉しそうな顔をした小六に、どんだけ彼女がやりきれなかったかと思うと、たまんない。
ダンナを託す小春に手書きのレシピをびっしり書いた大学ノートを渡すおかみさん、彼女が食べたいと言った、赤飯おにぎりを小六がまずガブリとやり、一粒口の中から出して妻に与える。これをキタネーとか思ってはいけない(爆)。奥さんは「美味しい……」と満足そうに微笑み、たまらず小春は席を外す。
死に際に医者を呼ぶことなく、こときれた妻を号泣して抱き締める小六。ほら、やっぱり小六の物語になっちゃってるじゃん。
ラストシーン、舞台を見事成し遂げた小春が、そのことは何も言わずに師匠と一緒にすき焼きをつつくシーンでラストクレジットに突入するのは確かにホンワカあたたかいけど、確かに擬似家族、本当の家族に限りなく近い二人だけど、でもそれは、限りなく、小六にとってのそれなんだよね。
そのことをハッキリとラストシーンと、さらに駄目押しのラストクレジットにもその続きの、肉のとりあいのコミカルなシーンつなげていたから、余計に感じてさ、一体小春は何だったんだろう、て程に感じてしまってさあ、なんだか、どうにも。
だって、小春、小春のための映画だった筈じゃないの。彼が“抜擢”されたことが、この映画の出発点だったんじゃないのと思ってしまうから。
いや、ピエール瀧や、なにより田畑智子嬢がとてもキュートで、魅力的で、だからつい流されてしまうのだけれど……。
エピソードの区切りごとに挿入される筆文字の、俳句のような、ウンチクのような一文。なるほどと感心したり、しゃれてるなとうなることもあったけど、でも正直、ちょっとしょっちゅう過ぎる。
最後の方になると、価値観や作り手にとっての良識を押し付けているように感じてしまう。……とまで言ってしまうのは、やっぱり、アレルギー反応しすぎだろうか。 ★★☆☆☆