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「ら」


2008年鑑賞作品

落語娘
2007年 109分 日本 カラー
監督:中原俊 脚本:江良至
撮影:田中一成 音楽:遠藤浩二
出演:ミムラ 津川雅彦 益岡徹 伊藤かずえ 森本亮治 利重剛 なぎら健壱 絵沢萠子 春風亭昇太


2008/9/10/水 劇場(シネスイッチ銀座)
なんか、落語モノ続いてるよなーっと思う。それも若い世代の。ひょっとして昨今はちょっとした落語ブーム?私も寄席のある街に住んでるし(※浅草ではないよ)、一度ナマで落語を聞いてみたいとは何となく思いつつも、何となく、で過ごしてしまった。でもホント、こうも続くとちょっと興味わいちゃうよなあ、と思う。

女の子が落語家を目指すっていうのは、ちょっとしたヒットを飛ばした朝ドラの「ちりとてちん」を思い起こさせもする。
そしてそういう場合、やはり恋愛が絡んだりもするわけだが……ちなみに「ちりとてちん」は(ま、ダイジェストを見ただけだけど)その先のラストのヒロインの決着のつけ方にちょっと納得がいかないところがあってね、結局女の子が主人公だとそうなっちゃうのかと。

でも本作は、実に最後までストイックに落語への愛を貫徹させる。
いや、彼女(ミムラ)自身はとてもカワイイし、大学時代の落研の後輩は、アコガレの先輩に対する恋心を隠さないし、そういう要素はなくもないんだけど、彼女自身には全くそんな気はないんである。
ま、そりゃ後輩から今でも好きだと言われりゃ、ちょっとウキウキもするけど、それだけで。
そして、なんたって男世界の中での紅一点だから、キリリとしたストイックな中にも清楚な女らしさが際立って、エロオヤジな噺家連中にセクハラを仕掛けられたりもするんだけど、裏では顔をしかめながらもやんわりと交わすあたり、オトコマエな彼女なんである。

つーか、もう師匠が一番のエロジジイであり、日夜ソープに通い、家にもフーゾク嬢を呼んでエロいゲームに興じているような状態。
噺家の本業よりバラエティやらラジオやらの仕事をハデにやっていた師匠、三々亭平佐(津川雅彦)は、その仕事の中で重要な政治家に過ぎたオチャラケをやらかして、落語協会から無期限の謹慎処分をくらっていた。
なもんだからカネもなく、そんな放蕩費用も、たった一人の弟子である香須美からかすめとっているようなていたらく。
ただでさえ女だというだけで落語の世界では邪道に見られるのに、こんな師匠を持ったことで、後から入ってきた若いモンにも軽くあしらわれる。
それでも落語を心から愛する彼女は歯を食いしばって頑張ってたんだけど、このバカ師匠のたくらんでいるバカなことに、巻き込まれていくんである。

そもそも香須美がなんで、このバカ師匠に弟子入りしたかっていうのがさ、本当は、古典落語をやらせたら天下一品の三松家柿紅師匠(益岡徹)に弟子入りしたかった。それは、このバカ師匠の下についている今も、気持ちは変わらない。
柿紅師匠は、香須美を落語に導いてくれた、亡き叔父のごひいきの噺家であり、いまわの際の叔父に聞かせた香須美にとって初めての落語は、師匠のオハコの「景清」だった。
“三松家香須美”をひいきにするよ、と涙をひと筋流して喜んでくれた叔父の言葉が、香須美にとっては遺言のように響き、そして柿紅師匠の落語は彼女にとって聖典になったのだ。
いつか、“三松家香須美”になるためにと、高校、大学と落研に没頭、数々のタイトルをとるまでになった。

それでも、そのアコガレの柿紅師匠の門を叩いた時、彼は言ったのだ。あなたはどこまでも女だと。女は個人的な感情を交えてしまうと。落語は職人技を見せるものなのだと。
その時、香須美が披露したのは、叔父に聞かせた特別な噺、「景清」。しかしそれは師匠のオハコであり、そこに居合わせた現師匠の三々亭平佐は、だからマズかったんだよ、と柿紅師匠のプライドを傷つけたことを指摘する。
しかし一方で、この平佐師匠はそんなプライドなんてハナクソほどもありゃしない。この時も、香須美をホメてくれた。そこらにゴロゴロしてるクズみたいな二ツ目より、よっぽど出来てる、と。

そんな経緯で平佐師匠の元に入った香須美だけど、それでも心の中ではずっと柿紅師匠を崇拝していて、しかもそれは、物語の最後にも変わらないんだよね。
色々あって、香須美のやる気も実力も認めた柿紅師匠が稽古に誘ってくれる。嬉しそうな香須美を平佐師匠は、良かったな、アコガレの師匠の稽古ダゼ、とからかって、それに対して香須美はハイ!と全然、悪びれもせず、嬉しそうでさ。

なんかね、そういう意味で、香須美は二人の師匠を持っているって感じなんだよね。落語家として尊敬しているのは子供の頃から柿紅師匠、それは本当にぶれずに変わらない。
それは、女性差別といえる様な扱いを受けても変わらないのが、香須美が本当の意味で落語を愛してるってのが伝わる、素晴らしいところなのだ。
じゃあ、このエロなバカ師匠から学ぶのはどういう部分かって言うと、ひょっとしたら噺家としてそれよりももっと重要な部分、噺家は所詮芸人、人を喜ばしてナンボ、そのことに上品も下品もありますかいな、っていう部分。

“所詮”芸人っていう言い方はね、芸人である自分を自嘲しているように聞こえながら、実はすんごい、誇りに思っててさ。
お高くとまって、人を笑わせることも出来ないようじゃ、クソだと。古典落語をとうとうと話して、その芸に玄人筋をうならせることばかりに悦に入ってて、客を本当に笑わせているのかと、そのことに喜びを感じているのかと、っていうね。
クライマックスでは、平佐師匠はその自分の信じる芸の道に、命まで賭けるんであって、その噺自体は、特に苦し紛れにつけたオチも含めて大したことなかったのかもしれない。
でもそれでも、自分の命をかけて、お客さんを楽しませようとした平佐師匠の一世一代の大博打は、そんなプライドの高い柿紅師匠の心も打ち砕くのだ。

平佐師匠が挑む、この物語のメインに据えられている呪いの噺っていうのがさ、かなりの尺をとって描かれてるもんで、なんか見終わった印象としては“落語娘”が落語に奮闘する物語というより、この呪いの噺に飲み込まれちゃって、ちょっとしたホラー映画のような雰囲気さえ、あるんだよね。
この噺、「緋扇長屋」には、後に平佐師匠が語るように、確かに何か、忌まわしいモノがとりついていた。
もともとこの噺を作り出した落語家が、書き上げた朝に突然死していたことが発端だった。彼はその前日、かつて江戸の大火事があった場所で、何か意味不明なことをつぶやいて、とりつかれたように一気にこの話を書き上げたのだった。
そしてその呪われた噺は、興味本位もともなって、めぐりめぐり、数十年の間に更に二人の噺家を殺した。

この噺を語ったがために、舞台上で頓死してしまった噺家の女房は、夫が部屋にこもって稽古していた時に、明らかに彼の声音ではない女の声が聞こえてきたことを明かす。
この噺が、標的にする噺家を引き寄せるんじゃ、と言った。この噺を最後まで語りきれる人を待ち望んでて、それが夫への仇討ちになるんだと。
最初にそのナマ原稿に触れた時から、ザワザワとした何かが立ち上り、涙をぽたぽたと流した平佐師匠は、尋常じゃなかった。
その日は泊まりこみ、その噺と“添い寝”する平佐師匠を心配して、香須美がジュゲムを唱えながら様子を覗くと、確かにその中から、女の声が聞こえるんである!!!
腰を抜かした香須美が、ジュゲムを震えながらも声を張り上げて唱え続けると、師匠の叱責が飛んだ。そんな陰気なジュゲムじゃ、客は一人も笑わないぞと。
でもこの時、師匠は呪いのふちから救われていたのだ。

この噺の怨念が、江戸の火事で命を奪われた娘にあって、それが数十年、数百年時を越えて生き続け、男どもをとり殺してきた。それが、香須美が思いがけず女の噺家だったことで、それを封印することになったのがね、あんまり、女の武器を使った話がキライな私にも、なんか溜飲が下がっちゃったんだよね。
つまり、落語の世界は基本、男社会でさ、だからこのとりついた怨念が、まさか標的にした噺家に女の弟子がいるとは思わなくて、香須美のジュゲムにアッサリひるんで退散してしまったというね。それも、この師匠がエロだったから命拾いをしたというわけ??
なんかでもさ、そもそもこの師匠が、柿紅師匠に見放された香須美を引き受けたという理由がね、「死んだ女房の替わりに拾っただけだ」と言うんだよね。
それは、この大バクチに香須美を巻き込まないための放言だったとも取れるけど、結構真実の部分もあったんじゃないかなあ。
それはね、むしろ奥さんの代わりというより、家族としての奥さんの代わり、娘のような慈愛がなんとなく、見え隠れするんだもん。

だってさ、ヨソの師匠は香須美にセクハラをかましても、この全身エロな平佐師匠は、そういう行為には及ばなかったもんね。
フーゾク嬢を家に呼んでは、あられもないカッコでキャイキャイ遊んでいたとしても、そしてそんな師匠に眉をひそめる香須美に、アイツももうちょっと色気があればなあ、なんて嘆息しつつも、そう“調教”する方向にはいかなかった。
いやまあ、最後の最後、冗談交じりに「夫婦になるか」なんて後ろからかすみのおっぱいをクリクリやる場面はあっても、それはこの苦難を共に乗り越えた同志のジョークであり、香須美もそこはしたたかで、そんな師匠とのやりとりを、自分の創作落語に取り入れちゃうんだものね。

呪いの「緋扇長屋」を語り切ったことで、師匠は大喝采、いざという時には師匠の死に水を、と駆けつけた香須美もまた、スポットライトを浴びて、一躍有名になったのだろう。エンディング、香須美が創作落語を披露する場面では、お客さんは満員である。
前座の頃は、古典落語を懸命に披露する香須美にガラガラの客席の中で退屈そうに椅子からズリ落ちながら、「オカマの八っつあんかよ」と揶揄していた常連客も、今は「よっ、二ツ目!」と声を飛ばしてくれるまでになっている。
確かに、香須美はもう借り物の落語はしていない。自分の言葉の落語を獲得してて、それは、柿紅師匠に入門しようとした時にぶつかった壁であり、平佐師匠にまず指摘されたことであある。
それを今見事に克服し、ファンまでつき、「ありがとうございます」と会心の、余裕さえ感じられる、ちょっと色っぽいと思えるほどの笑みを観客に流すことが出来るのだ。ここのミムラ嬢には同性ながら、ちょいとホレたなあ。

そうだよね、確かに男社会、その中で男に負けないよう、同等に戦おうと奮闘する香須美の姿は真実ではあるんだけど、でも女なんだからさ、せっかく女なんだからさ、結局は違うんだというのを、マイナスではなく、プラスに使わない手はなくてさ。
それまではね、確かに香須美はストイックで凛々しくて、カッコ良かったのだ。バカ師匠に対しても毅然としてて、そう、なんか、しっかり者の長女みたいな雰囲気。しっかり者なんだけど、それだけに、男に敬遠されてヨメの貰い手がない、みたいな(爆)。
それは女の目から見たら充分にカッコ良かったんだけど、でもラスト、二ツ目となって、カンロクもつき、しかし可憐な薄桃色の着物も似合う“噺家”となった香須美は、男性客をちょいとメロメロにさせる色香を、実にポジティブな方向で使うようになったのだ。
それは、女の目から見ても、美しくカッコイイ先輩に対して、ステキ!と憧れるような感じでさ、こうして、円熟していく女噺家の香須美を、見ていきたい、なんて、スクリーンの世界を離れて思っちゃいそうになるぐらい。

この最後の場面、客席に香須美は、恩人である亡くなった叔父の姿を見る。嬉しそうに、拍手を送っている。
この叔父を演じているのが、情のある父親的存在を演じたらこの人の右に出る人はいない、利重さんで、彼のあたたかな笑顔だけでグッとくる。
勿論、そこにいたのは叔父ではなく、香須美がハッとすると、それはあの常連さんの姿に変わるのだけど、きっと本当にここで見ていてくれたんだろうなって思うのだ。

実際、そんな香須美の成長を生き生きと演じるミムラ嬢は、とってもステキだった。基本、とにかくマジメ、マジメ。ぼんぼんの後輩が雑用を投げ出すのを引き受けて、先輩から、ナメられてんなよ、と叱責されたり。
ジュゲムをひたすらブツブツと練習し、公園でいつのまにやら周囲に人が集まって香須美のジュゲムを聞いてウケている場面は、彼女の落語大好きな熱が、落語ファンではないお客を獲得するに至っている爽やかさを感じさせた。
そしてそこに鳴る携帯の着信音は寄席の出囃子(笑)。それに合わせて香須美が「おあとがよろしいようで」と締めくくるのも粋なのよね。

正直、メインの「緋扇長屋」のくだりは、ちょっと寝ちゃった(爆)。いやちょっと……疲れていたかもしれないんだけど(爆爆)。
でもね、落語そのものじゃなくて、再現映像として物語を見せるのが、なんか逆に冗長に感じて、話に潜む怨念を、噺家の気合いだけで聞かせてもらいたかったなあ、なんてね。
だってもともと、その意味合いが重要なんじゃない。この話に魅せられた噺家の悲運、っていうさ。それなら物語を再現するにしても、フラッシュバックのような手法で充分だったような気がするなあ。
途中、殆んど、再現映像の役者にまかせきりになって、あれ?話し手はどこいっちゃったんだ?みたいな感じになったのが、なあんか……残念だったんだよね。

ま、この場面は、落語そのものよりも、この企画を仕掛けたテレビ屋さんと香須美の攻防の方にも重きが置かれていたからなあ。
もともと平佐師匠をバラエティに引きずり込んで、協会から無期限停止をくらうような今の立場にさせたのが、女プロデューサーの古関で、このイロモノ企画も彼女によるもの。
そんなあざといやり方に香須美は憤り、アコガレの柿紅師匠から、もう平佐はオワリだ、他の師匠に移るなら紹介してやってもいいと言われたりして心揺れる。

でもね、平佐師匠の、お客さんを喜ばせてナンボだ、という心意気を、それだけは教えられてきた香須美は、柿紅師匠に叩きつけるのだ。「私は三々亭平佐の一番弟子、三々亭香須美です。以後お見知りおきを」
あれほど、“三松家香須美”に憧れ続けた彼女が、決断したこの時のキリリとした姿のカッコよさときたらさ!
そして、会場に駆けつけた香須美に、古関が「やっぱり女ね。情にほだされて、決断が遅い」と言いつつも満足げに通してくれる。
この女感タップリ、濃厚な色気の古関を、しかしサッパリとイヤミなく演じる伊藤かずえ。彼女の存在が香須美にも大きな影響を与えたに違いない。

ところでなぜ平佐師匠がとり殺されずに済んだかっていうと……香須美が怨念を追っ払ったこともそうなんだけど、彼は噺のネタを最後まで読まなかった。
その最後の一枚をどうしたかを、香須美に謎掛けする師匠。「あの奥さんの仇討ちが発端なんだぜ」とニヤリと笑ってみせる。
「……あ!」思い当たった香須美、なんと師匠は便所の紙の間にその一枚をはさんで、奥さんに手渡していたのだ。まさに“オチ”。

人妻になっても、そのさわやかさが変わらないミムラ嬢が、とにかくチャーミングな一篇。★★★☆☆


ラスト、コーション/色|戒/LUST,CAUTION
2007年 158分 アメリカ=中国=台湾=香港 カラー
監督:アン・リー 脚本:ワン・フィリン/ジェイムズ・シェイマス
撮影:ロドリゴ・プリエト 音楽:アレクサンドル・デスプラ
出演:トニー・レオン/タン・ウェイ/ジョアン・チェン/ワン・リーホン/トゥオ・ツォンファ/チュウ・チーイン/ガァオ・インシュアン/クー・ユールン

2008/2/9/土 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
これは珍しく人と観に行くことになって、正直不安だったんだけど……ある意味、その不安は的中。私みたいな、何でもかんでもどっぷりつかる節操ない感動屋と違って、客観的でシンラツな人だったから。
私が口アングリ開けて衝撃を受けている隣で、ポップコーンを口に放り込みながら観ていたその人は、上映後、これってよくある話だよね、セクシャルなシーンもそんな騒ぐほどじゃないし、どうしてこれが賞を取るのか判らない、と言いやがった。で、まあ即座に言い返せなかった私は、幼稚にも不機嫌に黙り込んでしまったわけなんだけど……。
でも、後から考えるほどにいつもいつも一人で観に行って、他の何の情報も仕入れずに、自分の中だけで消化して満足している私にとっては、ひょっとしたらいいクスリだったのかも、とも思えた。

確かにコレは、よくある話なのかもしれない。スパイや工作員モノとして、昔からよくある設定。ただ、そう言ったその人のその言葉に、いかに世の中のエンタメが、複雑な筋立てや予想外の結末を際限なく欲しているのかを改めて思った。
映画よりもドラマ、小説、そして漫画、果てはRPGの方がずっと複雑で深い物語を堪能できるという主張は、それは確かにある面では正しい。そしてこの人の言い様は、まさにその立場に立って言われたものだということも。
そしてそれが、きっと今の一般的見方であり、最初からシリーズモノにしなければ売れない映画業界、その中でもネタがなくなってきたハリウッド映画、観客の目的におもねる昼メロ的な韓国映画と、ヒット作の中でさえ、映画の衰退の原因がどんどん盛り込まれていることに改めて気づかされる。

一方で、決してストーリーの複雑さを求めて映画を観に行く訳ではないことにも。でもそれが、映画を判っているんだという自信などではなく、自信がないから、誰かと観に行ったり、他人の感想や情報を入れたり出来ないということも。
アン・リーは決して、ストーリーテリングで観客を持っていく人ではない。あの、衝撃の結末に驚いた「ブロークバック・マウンテン」でさえ、脳裏に焼きついているのはその部分ではなく、彼らの感情のほとばしるキスシーンだったんだもの。今でも思い出すだけで心臓がバクバクとしてくるほど。
でもそれを、そんな感情のほとばしりを、ストーリーテリングを欲する観衆に対してどれだけ訴えかけられるのかというのを、いつも映画ファンの枠の中でぬくぬくと映画を観て来たことで、痛感させられたのだ。賞だって、そうした映画業界や映画ファンで囲われた中で決められたものじゃないか、そう思ったら、自分の感動に自信がなくなって、落ち込みもした。

でも、それが判って良かったのかもしれない。確かにこれはよくある話なんだろう。
でもよくある話だからこそ、彼らがどこで裏切りに気づいたのか、どこでそうかもしれないと不安を感じたのか、どこで愛を求めたのか、どこで……そんな感情の駆け引きや緩急を、どんなRPGが読み取れるというのか、と思った。
アン・リーはよくある話だからこそ、ここで存分に勝負してきた、そう、思うもの、絶対。

前半と後半は、ハッキリとカラーが別れている。舞台は1942年、日本占領下の上海。まだ西欧が参戦してくる前で、日本はアジア諸国を我が物顔で制圧していた。そんな日本軍に反発する若者たちは、抗日運動に熱中、日本におもねって甘い汁を吸っているヤツらを殺して、新しい世界を切り開こう、と盛り上がる。
それを最初に言い出したのは……そして最後まで皆を巻き込むのは、いかにも正義感に満ち溢れ、それだけに隙を突かれて騙されまくるのが最初からアリアリの純粋な青年クァン。ヤワな美青年なところが、余計にそんな危うさを感じさせる。

大学で、愛国心をあおる演劇を主宰する彼は、ヒロインに校内で偶然見かけたワン・チアチー(タン・ウェイ)を抜擢した。彼女は演劇をやったこともなければ、そんな愛国心を真剣に考えたこともなかったけれど、彼に好意を持ったことから、それに乗ったのだ。
芝居は大成功、大衆の心をつかんだことで、クァンは更に一段階進もうとする。日本軍の犬となっている政治家の下に着いている男、イー(トニー・レオン)と近い人物であるツァオが彼の知り合いで、偶然再会した。その時、この幼稚でムチャな青年はトンでもないことを考え付くのだ。

芝居を打ったホールの、ステージに上がってボンヤリとしていたチアチーに、二階席から彼らが呼びかけた時から、悪夢は始まった。あの時彼女がその声に応えて上がっていかなかったら、いや、彼らのムチャな計画に賛同して重ねた手に手を乗せなければ、いや……。
もう、彼のチラシを受け取った時から始まっていたのだ。もう歯車は動いていて、止められなかった。

なんたって芝居をする彼らだから、フィクションの舞台を整え出したのだ。豪邸を借り、チアチーにマイ夫人という、若き青年実業家に嫁いだ若奥様の役柄を振り、その夫である実業家、運転手、と役を割り振った。
それは、夏休みの間に片づけられることの筈だった。お金持ちのおぼっちゃんがその間の資金を担当する手筈だったけど、思いがけず計画が長引き、マイ夫人になりきったチアチーは豪華な衣装を次々に作るし、彼らの計画は頓挫寸前になる。
ホント、演劇サークルの学芸会よろしい、幼稚な計画なんだよね。ただひとつ、真実につながっていたのは……マイ夫人に扮したチアチーののめりこみっぷりと、彼女がなりきったゆえか、イーがどうやら本気で彼女に接触してきたこと。しかしひどく慎重で決して他人を信じないイーは、なかなか彼女に手を出そうとしない。

でも、あと一歩というところまで来た。もうマイ夫人は、つまりチアチーは彼の愛人になる、そうしなければ目的は果たせないと言って、彼女は仲間たちにどうするのかと告げる。
観ている時には、彼女が何を仲間に投げかけているのか判らなかった。しかし、男たちがバルコニーに出て物憂げにタバコを吸い出し、そしてもう一人の女子のライ(妙に仙道敦子に似ている)が「経験があるのは、リヤンだけよ」とおずおずと彼女に囁いて、ようやく察した。
なんてことだ。経験のない彼女を、愛人となるミセスとして疑われないように、仲間内で“特訓”しようというのだ。なんてことだ……。
その、たったひとり経験があるヤツは、商売女での経験なのだ。ここでチアチーが抱かれたかったのは、あの言い出しっぺの、罪なまでに理想を追求するクァンだったのに……。

しかし、そんなあまりにヒドイ苦痛にも耐えたのに、セックスの喜びなど知らないままに“慣れて”しまったのに、イーは結局危ない轍を踏まずに、“昇進”して去って行ってしまった。呆然とその報告を彼の妻から聞くチアチー。仲間たちもあまりの結末に呆然としている。目的の完遂を信じて、仲間の結束の崩壊寸前の決断をしたのに……。
悄然と別荘の引き払いの準備をしている彼らの元に、イーとの接触の窓口となったツァオがやってくる。彼は全てを見通していた。幼稚な学芸会芝居で自分を騙したことを憤っていた。
こともあろうにこの男を、幼稚な正義感を捨て切れないクァンは刺した。彼に従っていた仲間達も、彼だけを犯罪者にしないためになのか、次々とナイフを突きたてた。その光景を目にしたチアチーは、悲鳴をあげてその場を飛び出した……。

そこでいきなり、数年後に場面が飛ぶんである。ここからが後半。息詰まるような後半のスタートである。
あの艶やかなマイ夫人になりきっていたチアチーは、すっぴんの疲れた女の子になって、配給の列に並んでいた。
思えば、マイ夫人という役に出会う前も、彼女はすっぴんの純情少女で、メイクをするとホント女って変わるんだなと実感したけれど……あの、何も知らなかった少女としてのすっぴんとは明らかに、違ってた。

チアチーはクァンに再会するのである。あの時のことを彼は謝りながらも、まだあの計画は続いている。あんな幼稚な計画じゃなくて、本当に、本格的にだと言うんである。
その上で君に頼みたいことがあると言って、ある人物と引き合わせる。
それは、ウーという、いかにも冷徹な上層部の男。ウーはチアチーに、またマイ夫人になってほしいと言う。そして……「苦しまずに死ねるクスリ」を服に縫い付けるように手渡した時……失敗した時の死の覚悟を彼女に申し渡した時、彼女をここに連れてきたクァンが、この純情な仮面をかぶった青年が、結局は最後の地獄まで彼女を導いたことに呆然とするのだ。
そりゃ最後の地獄は、彼女自身が選択したことなんだろう。それはひょっとしたらこのバカ男には、計算外のことだったのかもしれない。でもやっぱりこの純情な仮面をかぶった理想バカ男が安全装置を外し、その引き金を引き、焦点を外さないままにしてしまったのだ。

そして全てが整えられた。あの時と同じように、マイ夫人として彼女はイーの前に現われた。
このご時世で、主人の仕事も大変なんだと言いながら、すべてがウソだなんて、それこそウソのように、本当にマイ夫人になりきっていた。
イーは、表面上はあの苦虫を噛み潰したような無表情だったけれど、彼の心の中の動揺が、なぜか手にとるように判った気がした。
今まで、イーに対して送られた女性工作員が、どんな誘惑の手練手管を使っても彼を落とせなかったと語られる。そりゃそうだろうと思う。
でも彼は……このマイ夫人だけには、一番芝居経験のない筈だったのに、演じたのがこの役だけだった彼女の一世一代の乗り移りに、最後まで……“自ら”騙され続けたのだ。
もう、そういう言い様しかないじゃない。だってこんな慎重な男が、誰も信じない男が、最初から最後まで彼女への疑いは絶対に捨て切れなかった筈、その様子も見えていたのに、それなのに、それに目をつぶろうとしたんだもの。

再会した二人が、視線をチラチラと絡み合わせていた時からもう判っていたけれど、その時は突然やってきた。
映画に行くと言って雨の中出かけたマイ夫人の前に、車が止まった。「ご主人様がお待ちです」と。あるホテルの前で止まる。手渡された部屋番号のメモ。入ってみると誰もおらず、窓を閉めたそのガラスに、部屋の死角に座っていたイーの姿が映り、思わず悲鳴をあげる彼女。
タイトな黒のスーツに身を包み、足を組んで、じっと椅子に座るトニー・レオンのシブさ全開。本当にゾクリときた。いつのまにやら彼ってば、やけに苦みばしった男になった。

マイ夫人的流し目でじっくりと責めようとする彼女に、「じらすつもりか?」とイーは乱暴に彼女の服を引きちぎり、ベッドに投げ倒し、レイプまがいに、というかまんまレイプそのものって感じで、後ろから彼女を犯す。
しかしイーは、彼女が自分を騙しているかもしれないと最初から思っていたから……それを頭から吹っ切らせるように、乱暴に扱ったのかもしれない。
いや、ただ単に、この数年の秘め続けた思いが爆発したのかもしれない。だってそんな個人的感情が許されない立場だから。
それが読みきれない男だから、見ていてもう……本当にドキドキとするのだ。

マイ夫人は、イーにアパートを借りてくれるようせがむ。彼とより個人的に接触するためだ。しかし次第に、濃密なセックスのためという色合いが濃くなる。勿論それは、彼の心の中に入り込んで、より確実な情報を得るために必要なことだけれど……どんどんセックスが生々しくなって、二人の感情が目に見えて濃密になってくるもんだから、こりゃヤバイと思うようになる。
それをウーは、上手く彼に取り込んだと、彼女を上層部も評価していると言うんだけれど、それに対してマイ夫人……いやチアチーは轟然として言うのだ。
「あの人は人を信用しない。あの人の心に入るためには、体も心も全てを深くぶつかりあわなければダメなんです」そう言って、その生々しい身体のぶつかり合いを赤裸々に言い募る。憮然としたウーがもうやめろと言っても、彼女は続ける。そこにはたまらない目をしてそんな彼女を見つめているクァンがいて……。

最初に恋していた筈のこの青年との距離が、どんどん離れていく。
というか、チアチーはどの時点までクァンのことが好きだったのか。最後まで好きだったのか、どこかの時点で、陥れている筈のイーへの想いと逆転したのか、それとも……。
そんなこと、恐らく彼女自身にも判らなかったのかもしれない。ただ、イーの自分への感情が恐ろしいまでに熱くなることだけは、確実なことだったけれど。
作戦の実行直前、今までのことを謝り、クァンはチアチーを引き寄せてキスをした。
そっと彼を押しやり、彼女は言った。「どうして最初にしてくれなかったの」と。
あの“特訓”の時、経験なんてなくていいから、あなたに抱かれたかったのだと、きっと言いたかったに違いない。
でも今や汚れてしまった自分は、罪なまでに純粋に理想を信じている彼のものにはなれない。
だってもう、今の彼女はマイ夫人なのだ。

ボカシまで入る、様々な体位を駆使した生々しいセックスの描写は、二人が心をさらけだしたと、少なくともイーに信じさせるためにどうしても必要なものだった(微妙に腋毛が気になる……チャイナドレスの時にも)。
少なくとも、なのだ。そうまでしてしまったら、どんなに彼女が心の中に強く正義への忠誠を誓っていても、どこかで、揺れてしまうのは避けがたい。
いつから?どこから?そんなこと、判る訳がない。セックスの喜びを感じ始めたのだって、いつの時点からなのか。いや、そんなことを感じることがあったのかさえ、明確にはされない。
でもそれがあったのだとしたら……イーへの愛もどこかの時点から存在したに違いなく、もちろんそれがあったからこそ、彼女は仲間を裏切ったのだ。
仲間を裏切った?あるいはそれは、自分自身の行動の整合性を全うさせるだけのことだったか。もしかしてひょっとしたら、イーへの愛などなく、あれは彼女の中に新たに芽生えた正義を全うさせることだったのかもしれないとも、思う。

マイ夫人のために指輪を作ってくれたイー。宝石に興味はない。それをつけているお前が見たいだけだ、と彼は言った。受け取りに行った店の周りを仲間たちが取り囲む。これぞ暗殺の絶好の機会、と。彼女は逡巡した挙げ句、小さな声で、イーに囁いた。
泣きそうな顔の彼女から、逃げて、と言われた途端、イーは顔色を変えて飛び出した。それが彼女との最後だった。

それを、一緒に観た人から、イーが彼女の言葉を聞いた途端逃げ出したのは……つまり、その言葉が真実だと疑いもしなかったのは、マイ夫人への愛を抱えながらも、最後まで疑いを持ち続けていたからだと言われて、そんなこと思いもしなかったもんだから、ああ、私ってなんて甘いのかと思った。
それは私が、本作がRPGとなりえない部分……イーがどの時点でマイ夫人に疑いを抱いたのかとか、何度も彼女を疑っているんじゃないかっていうような思わせぶりかつ試すような言動があったことを、作品の深みとして示そうとこの冷静な鑑賞者にささやかな抵抗を見せたら、そんな風に鮮やかに切り返されて、アッサリ負けてしまった部分だったのだ。

確かにそうだと納得した。イーが彼女を愛して信じていたのだとしたら、逃げてと言われても何を言っているのかと、お前が俺の敵の筈はないだろうと、頬のひとつも撫でていたところだろう。でもイーはひとことも疑問を発せず、くるりときびすを返し、恐ろしい速さで店から飛び出し迎えの車に頭からダイビングして、走り去った。
そして当然、もうマイ夫人ではない、チアチーとして、彼女は仲間たちともに捕らえられる。
しかもオドロキなのは(これもオドロキなのは私だけかもしれないけど)秘書(以下の恐らく全ての部下たちは)全ての情報をもはや手にしていたことだ。
なぜ報告しなかったのだとイーから叱責されて、秘書は口ごもりがちに、あなたがあの女と関係を……と言う。イーは資料をバサリと叩きつけた。

疑念を持ちながらも、彼女への愛がゆえに甘さを見せてしまった自分に憤ったのか、それともこれぞ本当の愛だとギリギリの中で信じたのに、裏切られたことに憤ったのか、あるいは彼女が自分への愛ゆえに、自身のみならず仲間たちまでも犠牲にしたことに……その彼女の愛に応えられなかった自分に憤ったのか……。
こういう部分こそがRPGではないと、言いたかったんだけど、その場で言葉がまとまらない私には、言えなかった。
秘書は、あの指輪を、大きな6カラットもの指輪をごろりと机の上に置く。イーは憮然として言った。「これは、私のではない」と……。

採石場で、大きく穴のあいたふちで、仲間たちと共にひざまづくチアチー。
恐らく彼らは、土壇場で裏切った彼女に信じられない思いと、これから無残に死ぬ恐怖に打ち震えている。チアチーへ投げかける視線でそれは明らかだ。
それは、この計画の恐ろしさをちゃんと判っていなかった……あの4年前の学芸会ノリからさして抜け出していなかったことを示している。
でも、チアチーだけは4年前から既に、地獄を見ていた。彼女だけが現場勤務だったし、ミッションを全うするために好きでもない男に特訓としてセックスし、騎乗位まで慣れさせられたのだ。
彼女一人がこの場で毅然とし、きっちりメイクまでして、美しいマイ夫人として死に臨んでいる。
決して、彼らと仲間のチアチーではないのだ。イーを愛するマイ夫人として彼女は死ぬ。

イーを逃がした後、一度はコートに縫い付けた毒薬のカプセルをもぎとったのに、どうしてその場で飲まなかったのか、というのも、未熟な私の未熟な疑問だった。
それに対して、人生経験豊富なその人はあっさりと言ってのけた。自分一人死んでも、仲間たちが計画を続行し、イーの命を狙うだろう。自分の裏切りを公けにすることで仲間を全て巻き添えにし、自分と共に死ぬ。彼を生かすためにだろう、と。
何で私、そんなことにも気づかないんだろう。自分一人で消化して悦に入っていると、こんなカンタンな……カンタンだけど、これ以上ない愛の深さにさえ気づかなくなる。自分の浅はかさに打ちのめされる。

本当に、その通りなんだもの。
彼女が死のふちで、マイ夫人としての艶やかな美しさで死んだのは、そういうことだったのだ。恋していた青年の視線にも決して振り向かず、毅然として真っ直ぐ前を向いていたのは、そういうことだったのだ。
でもこの、クァンがチアチーに寄せていた想いは幼稚だけど、幼稚だけに、幼稚なりに深く純粋なものだと、感じることが出来たから、より残酷なまでに切なかった。
一緒に観ていたその人は、この腐った体制を壊そうとする学生たちに、夢がないとも言ったのね。結局、上の組織に利用されて動いているだけだって。
でもそれは……彼が愚かだったから。愚かで、それこそが夢の実現だと思ったから。それこそが現実ということなんじゃないの。

イーがマイ夫人を日本料亭に呼び寄せて二人きりになる場面が、とても印象に残っている。
酔ってグダグダの日本軍人をすり抜け、彼女はイーの待つ座敷に滑り込む。彼は、「今度は私が君を待っていた」と言った。
「どうしてこんなところに呼んだのか判ったわ。私を娼婦にしたいからでしょう」と微笑む彼女。
隣から、「泣いているような、調子っぱずれの」お座敷歌が聞こえてくる。私の方が上手いと、つややかな中国民謡を披露する彼女。
それは、故郷を思わせる歌。イーが、あの冷たい男のイーが、涙を流した。
あの時は本当に、何の駆け引きもないように見えた。
とてもとても、センシティヴな、時間が止まったような場面だった。

映画好きのチアチー、夢のロマンティックを信じたかった。
その映画を、イーは闇の中だからと嫌った。いつでも命を狙われている現実から逃げられなかった。
でも彼にとって、マイ夫人こそがきっと、彼にとっての映画のロマンティックだった、と思いたい。
それを打ち消すように、暴力的なまでのセックスを繰り広げたようにも思う。
でも、この彼女、すっぴんだと本当に、なんてことない地味な女の子なんだよね。純粋な魅力はあるけれど。これほどメイク映えする……つまり変身する女性は見たことない。その小作りの唇が真っ赤に塗られると、こんなにもコケティッシュになるのか。
ということを考えると、結局最後までイーは、本当の素顔の彼女を知らずに終わったことを強く感じさせる。

脚本家は、役者を信じて書くことは出来ない。書いている時点で誰が演じるか判らないから。
「ブロークバック・マウンテン」は、あまり脚本を変えなかったという。大御所の脚本家だったから、と監督が語っていたのが、シンラツだなあと思った。
でも、今回は細かく書き込まれた登場人物の感情を削除し、役者にゆだねたという。実際、どこで彼らの気持ちが切り替わるのか判らず、その点ではある意味ハッキリとしない脚本がそのまま出たとも言える。
でも、判らないだけに、というか、気持ちなんてどこかではっきりと切り替わるってもんじゃない訳で、彼らと一緒に観客はドキドキを持ち続け、もうギリギリ限界まで持っていかれることになるのだ。
それは登場人物の、というより、その登場人物と共に生きた、役者の葛藤と運命を共にするということ、なのだろう。★★★★☆


LOVE(イケイケ電車 ハメて、行かせて、やめないで!)
1997年 65分 日本 カラー
監督:田尻裕司 脚本:羅門ナカ 女池充 田尻裕司
撮影:飯岡聖英 音楽:
出演:朝倉麻里 池田一視 川屋せっちん 伊藤清美

2008/4/18/金 劇場(ポレポレ東中野/R18 LOVE CINEMA SHOWCASE Vol.5/レイト)
この日は佐野監督作品との二本立て。佐野監督と田尻監督といえば、今は亡き有楽町シネ・ラ・セットでピンクの特集があった時、壇上に上った、もう一杯やっている佐野監督が舞台挨拶につまっちゃって困って、「田尻いー、早くあがってこいよおー」と後輩の田尻監督を呼び寄せていた場面をすんごい覚えてて(ミョーにかわいい酔っぱらい佐野監督と、困った先輩に苦笑気味の田尻監督って図が(笑))。
四天王が一般劇場にかかってからピンクという存在を知った私としては、その後の七福神のうちの一人である田尻監督はいつまでも若い気がしていたんだけれど、それでもデビューからもう10年以上がたっているんだなと思うと、時の流れを感じるんである。

でも、それでもやっぱり90年代。どこかにロマポルの香りを感じた四天王のデビュー作とは、画の雰囲気が違う。“ボニー&クライドよろしく”疾走する若いカップル、というけど、私ボニー&クライド観てないし(うっ、基本押さえてない……)。
冒頭、なんかの事件を起こしたらしいワカモンのうちの男の方が、裁判所に向かう車から、女の子の手引きで脱走するところから始まる。つまりそれはもう最初から、行き詰まることの判る旅行き。
ピンクらしく、途中ガマンできない二人は建物と建物の間の細い路地でヤッたりしながら、追っ手をかわし、ただただ走っていく。このまままるで「弾丸ランナー」のように最後まで突っ走るのかと思いきやそうではなく、もう一組のカップルが出てくるんである。

布団に潜ったままの男に、「ねえ、面接行かないの?」と話し掛けてもぐりこむ女。そのままコトに及ぼうとするも、じんましんが出来るから、と逃げる彼女は、「冷たくて気持ちいい」とハダカの背中を板敷きにつける。
「たまには布団でやりたいな」「ゴメンね」とそのまま板敷きでカラみはじめる二人。「ねえ、子供、出来ちゃった」「別れる?」「イヤ」「結婚するか」「嬉しい」この最初の会話一発で、この男の情けなさと、女がそれを重々承知でいることのやるせなさが伝わってくる。何の躊躇もなく別れる?と聞き、女がイヤというと、結婚するか、というなんて……女はたまったもんじゃないと思うけど、彼がこんなに堕落してしまったのにはある理由があった。
それはあの若いカップルと交差することで判ることなんだけど、そのカップルの女の子の方が教師時代の彼の教え子で、生徒に手を出してしまったことで先生を辞めてしまったのだ。それ以来、この男はこんな怠惰な生活を送っていると思われるんである。

ようよう面接に向かう男に付き添う女。タイトルよろしく電車のトイレの中で一発ヤッたりもする。
その同じ電車には、逃亡を試みるあの若い二人。「オレ、電車でトイレに入ったの、初めてだよ」「うそお」「だって、山の手線にトイレがあるかよ」「田舎の電車にはあるんだよ」この台詞で、女の子が地方から出てきた子であることが判る。そして、これから向かうのが彼女の田舎であることも。
降りた駅が一緒で、二組のカップルは一瞬、交錯する。特に関係のあったかつての教師と教え子は、一瞬で相手のことが判ったようだった。二人が人生でつまづいた学校は、もはや廃校になっている……。

女の子が向かった実家は、美容院をやっていた。シャンプーを手にし「まだこんなの使ってんの。東京にはもっと色々あるんだよ」とごろごろ寝転びながら言う女の子。
そんな娘に母親は、何しに来たんだ、と冷たい態度をとる。お前が家を飛び出して四年だよ。刑事がウチに来たよ。何をやったんだ、と。母親は娘が飛び出した後に再婚して、その相手には娘は死んだことにしているんだという。
この時点では彼女がなぜこの田舎を出たのか、ただ単に東京に憧れて家を出たぐらいに想像していたから、母親の冷たい態度が、あららずいぶんねと思わなくもなかった。
でもいたたまれなくなった彼女がゴメン、と言って辞そうとすると、ちょっと、ひどい髪じゃないの。ブローぐらいしていきなさい。と母親が彼女を座らせて優しく髪をすくのが……ああ、なんか、それが、それぐらいしか、親としての優しさを示せない、それを母親も苦しく、はがゆく、哀しく思ってるのかな、なんて、そんな一瞬のシーンでバチッと感じさせてしまうのだ。
髪を触られるっていうのが、セックスでもそうだけど、親子間の愛情表現としても一発で判る、愛しい相手にする行為だっていうのが。

ところでこの母親とか、あるいは後から二人を追いかけてくる刑事の言葉がすんごい津軽弁っぽいんだけれど、このどんづまりの田舎は青森あたりなんだろうか?確かに海だと言ってはしゃぐ男が泳ぐその海は、まさしくそんな北の果ての海のどんよりとした冷たさを思わせるけれど……。

そう、その海岸でのシーンは印象的。あれって相当寒かったんじゃないかなと思うんだけど……。誰もいない海。寒々とした風景からして、絶対に夏ではない。
素っ裸になってはしゃいで海へ走っていく男をバカねえ、って感じで見ている女の子。お前も来いよお!とムリヤリ女の子も素っ裸にさせて、抱き抱えて海にダイブする男。ひたすら二人してハシャいで、そして海岸で、波打ち際でセックスをする二人。
このカラミシーンは女の子の動きも悪くて、こりゃ絶対寒かったんだよ……と勝手に想像してしまう。海と砂浜と白い体のカラミは、画的にはとても素敵なのだけど。

そして一方の夫婦。「紙切れを出しただけなのに」夫婦となったあっけなさに、女の方はそれでも少し嬉しそうで、男の方はどことなくまだ心にわだかまりがある。
前日の面接をすっぽかした男が向かったのは、さびれた工場だった。すっぽかしを謝りもせず、覇気もない男を工場主は容赦なく糾弾する。
そのどれもが確かに当たっていて、男はうなだれる。別に雇わないと言ったんじゃないのに、もうそれだけでいたたまれない様子で、彼はその場を離れてしまうのだ。
「教師に戻れば?」彼の心のわだかまりを見透かしたように女は言う。恐らく教師を辞めた日から、彼の時間が止まってしまっているんであろうことを、彼女は見抜いている。
でも、そんな彼に、彼女は出会って、愛するようになったんだろうと思うのに、そう考えると、彼女の時間が彼と出会ってからちっとも進んでいないのかと考えると……なんだかやりきれないのだ。

そして、二組が出会う。共に訪れた、その現場となった学校で。
どっかバカ入ってる若い男の方はイマイチこの事態が判っていない様子で、おつまみやらを買ってきては一緒に過ごしましょうよとはしゃいでいる。一方、夫婦の女の方は、この女の子が夫の時計を止まらせた相手だということを早い段階から感じとっていた。
あの時、小さな駅のホームに降り立った時から、恐らく双方で頭の中から消し去ろうとしていた記憶が蘇ってくる。
女の子は、先生への想いを落書きした机を探し回っていた。机の裏側に書いたからと、この教室にある筈なのにと、ガタガタとひっくり返して探し回っていた。
教え子に手を出した、なんていうから、男の一方的なコトかと思ったら、この女の子も彼のことが好きだったのだ。それが学校にバレたというだけのことだったのか。
ひっくり返された机が散乱する教室、あの時から時が止まっている二人。男は女の子を押し倒した。恐らくあの時には言えなかった愛の言葉を口にした。でも、でも彼の中では制服を着た教え子だった彼女のままなのだ……。

スゴいのが、このシーンを妻と若い男が見てしまうことなんである。
双方、固まる。スゴイ修羅場だ……。
女の子が駆け出す。妻も駆け出す。向かうのはどんづまりの沼。
ところでこのあたりからとてつもない睡魔が襲ってきて、私の記憶がアヤしくなるんだけど(爆)なんかね、妻には男の気持ちを掴みきれない焦りみたいなものがずっと充満してて、発作的に死に向かおうとした感じがあるのね。あるいはそれは、女の子の方もそうだったかもしれない。
男二人は沼でそれぞれの相手を捕まえるんだけど、どうやって夫婦の方が仲直りして、というかようやくお互いに向き合って気持ちを交わすセックスシーンに突入したのか(ハッと目を覚ました時には、もうカラミになってた(泣))記憶が飛んじゃって判らない(爆爆)。
彼はまた、教師に戻るのだろうか。

そして若いカップルの先の見えない逃走がまたスタートする。ズーズー弁の刑事にいったんは捕まりそうになりながらもこれをかわし、しかし閑散とした田舎道には店の壁といわず、道路といわず、彼の指名手配写真がベタベタと貼られているのだ。
これが実にアメリカチックな作りのポスターで、「殺戮天使」とか書かれてて、こんな指名手配写真、日本の警察じゃ作らねえだろうと思わず思ってしまうんだけど、そのあたりが「ボニー&クライド」的な遊び心かもしれない?
そして二人は、無数に貼られたそのポスターをはがしながら走り出す。またあの学校に向かう。
校庭にはがしたポスターを並べ出す。何をやっているのかと思ったら、よし!と校内に走りこんで階段を駆け上がり、校舎の窓から校庭をながめると、ポスターで「LOVE」と書かれているのだ。

ああ、これがタイトルなのか……。
満足そうに顔を見合わせる二人。
でもね、すぐに強い風にあおられてしまうのだ。本当に一瞬の「LOVE」なのだ。風にあおられ、木の葉のようにはかなく、ポスターで書かれた「LOVE」の文字が舞い上がっていく。
それでも二人は、走っていくのか。だってもう、陸は終わってしまうよ。津軽弁、だったもの。
絶対もう、近いうちに捕まってしまうと思うと、二人の道行きは切ない。
一方、あんなに愛情にすれ違いを感じたのに、あの夫婦の方にこそ、不思議に光明が見えるのだ。

ダメ男を支える女というのが、ピンクの究極の図式なのかもしれないと、ふと思った。
でも女は、時にはマドンナでいることに疲れてしまう。女の疲れた顔に共感を覚えてしまうのが、ちょっと辛かった。一見してハジけてナンセンスな部分が多いだけに。★★★☆☆


ラブファイト
2008年 126分 日本 カラー
監督:成島出 脚本:安倍照雄
撮影:藤澤順一 音楽:安川午朗
出演:林遣都 北乃きい 大沢たかお 桜井幸子 浪岡一喜 藤村聖子 鳥羽潤 建造 ツナミ 大垣

2008/12/12/金 劇場(シネスイッチ銀座)
嬉しいことに、遣都君の魅力を活かしたスポーツモノが続いている。ヤハリ彼にはそういう題材を与えたら光り輝くということが、作り手側にも判っているんだろうと思う。
野球を通して身体能力で表現してきた彼が、その方法でもっとも魅力を発揮することが出来るってことを。リクツじゃ説明出来ない、身体を動かした時に発揮する彼の魅力は、他には変えがたいものがある。

だから、彼がそのテーマを与えられなかった時にどれだけの力を発揮出来るのか(若干そこからはズレていた「ちーちゃんは悠久の向こう」がイマイチだったのは、彼のせいではない、と思うのだが……)まだ未知数だけど、ならば逆に、そうした機会を与えられているうちに、役者としての演技の仕方も身に付けていけるじゃん、とも思う。
ただ造作が美しいだけの美少年なら他にいくらでもいると思うけど、澱がまるでない、身体からそのまま出る純粋さを信じられる彼のような人は、本当に得難い。まっさらな洗い立てのような美しさ、清新さをいまだ失わない彼にはメロメロなんである。

と同時に、今回は両主演である北乃きいちゃんの魅力にも、ようやく目覚めることが出来た。
いやー、ドラマとかはなかなか見ないもんだからね、彼女がドラマ分野で人気を得ているらしいことを聞いてはいても、どうもピンとこなかったんだよね。映画デビュー作でのファーストインプレッションが、あまりに凡庸なものだったからさあ……。

今から思えば大切なデビュー作に、あんな印象の薄い作品をあてがったのは、良くなかったような気がする。あれって、キャリアのある若手女優がやるべきじゃないかと思う、凡庸に見えるだけにある意味難しい役だよね、と思うのだ……やはりデビューの彼女に担わせるには若干荷が重すぎた気がする。
で、次に彼女を観たゲゲゲでは、仕事の経験も順調に積んで、ずっとイイ感触を得たものの、やはりその役柄の暗さはデビュー作から引きずっているような気がした。
などと思うのは、今回のこのはっちゃけた役こそが、彼女の地に近い、あるいは女優としての彼女に似合っているんじゃないかと思えるぐらい、ほんっとうに、魅力的だったからなんだよね。
回し蹴りでのパンツのチラリズムがなくったって(爆。でもあのパンツはまるでガードルみたいで、ガードしすぎだけど)、とってもチャーミングだったんだもの。

でもやはり、それを引き出したのは成島監督の手腕かなあ。いやー、この作品、ウッカリ見逃すところだったのよ。そりゃ遣都君が出てるってことで観たい!とは思ってたけど、やってるのが私の使える割引の一切きかないスカした映画館(爆)バルト9だけだってのが心を萎えさせたし、前述のように相手役の北乃きいちゃんにイマイチ触手が動かなかったのもあるし。
でも成島監督だって知って、これは這いずってでも観に行かなければ、と思った。いわゆるベタな商業映画でも、彼の演出なら間違いないと信頼できる人。「ミッドナイト イーグル」なんてそのベタの極地だけど、大号泣でヤラれた!って思ったしさー。
本作だってアイドル役者の青春ドラマという括りで言えば、十分過ぎるほどのベタベタ商業映画。正直それでコケた、大好きな監督たちを数多く観てるだけに(大谷監督とかー、三池監督とかー(笑))その心配がない数少ない監督として、非常に信頼出来るんだよね。

本作は、テーマのボクシングを役者二人に徹底してやらせることによって追い込み、追いつめ、ホンモノの顔を引き出すことに成功していると思う。
遣都君が「バッテリー」以来の、イイ目をしているのにはしびれた。そりゃー、「ダイブ!!」だって飛び込みの特訓をして、その身体から立ち上る魅力は充分あったんだけど、でもこの目は、なかったと思う。
それはね、やっぱり「バッテリー」は滝田監督、そして本作は成島監督の手腕が、ここにこそ出ているんだと思うのだ。本当に追いつめられた時にしか、あんな目は出ない。特訓した成果だけを見せるのならカンタンだけど、あの目があったからこそ、この映画はホンモノになったと思うし。

しかもその目は、ボクシングをしている時に現われる、というワケでもないのだ。むしろそこから離れた時、好きな女の子を奪われそうになった時、とか、迷ってボクシングから離れた一時期に、自分自身を持て余している時、とかに現われるのだ。
それがね、本当にしびれた。ああ、彼は役を生きるということを、会得したのだと。それを彼得意のスポーツという入り口から今回も入ったけれど、きっとこの経験が今後生きてきて、そうじゃなくてもこの目を見せられるようになるって、そう思えたのだ。
しかも、遣都君は、滋賀出身だったんだね!関西弁にはビックリしたけど、ネイティブだったんだ。新鮮だったなー。

で、その相手役となるヒロインの北乃きいちゃんも、水を得た魚のようにオトコマエな女子を演じる。
彼女が演じる亜紀は、そのキュートな美貌で学園のアイドルなのに、稔(遣都君ね)にばかりベタベタしているもんだから、彼は亜紀に憧れるコワモテな男子たちからつけねらわれてしまう。 しかしそんな彼を案じて、稔ちゃんをいじめるヤツはこの西村亜紀が許さない!と見事な喧嘩殺法を見せるんである。
ミニのプリーツの、しかも今時珍しいセーラー服から繰り出す回し蹴り、思わずスカートの中から覗くパンツに注目してしまうのは、稔だけではあるまい(爆)。しかしそのパンツは先述したように、実に色気のないものなんだけどね(爆爆)。

それにしてもきい嬢、むしろこういう役を待っていたんじゃないかと思えるほどの、素晴らしい躍動感。映画二作でのイメージしかなかった私は、思いっきりぶっ飛ばされた。
稔を追いかける形で始めたボクシングにのめりこみ、ひたすらがっつく亜紀。女子プロ選手とのスパーリング場面なぞ、鳥肌が立つ凄まじさ。
それでも亜紀は、その凄さを実感しながらも、男をどつかなければ面白くない、と言い放つ。その真意は稔を守りたい気持ちであり、稔がボクシングを始めて自分を必要としなくなることへの危惧もあっただろうと思う。
でも彼女自身は恐らくこの時点で稔への思いに気づいていなくて、強い男であるジムの会長に錯覚の恋心なんぞを抱いてしまうんだけど……。

それこそ、亜紀が気づいていない自分の心の奥底で、会長への思いを口にすることによって、自分に向き合ってくれない稔に当てつける思いもあっただろうと思う。
ジムの経営難を救うため、芸能人のエセドキュメンタリー番組の負け役を買って出た彼に、亜紀は自慢の足蹴りをこのスカしたタレントにオミマイするんである。
プライドを犠牲にした会長にクラリときた亜紀は、「私、会長のこと好きかもしれない。キスしたい」などとのたまう。オッチャンをからかうんじゃない、と言う会長に構わず迫る亜紀。それが、一緒にいる稔の存在があってこそだと察知した会長は、敢えて亜紀にキスをした。しかも、長くて濃厚なヤツ。

このシーンは、その前の三人の問答のところから、俯瞰でのカットなしで、もんのすごいスリリングなんだよね。長回しの苦手な私でも……いや、濃密な時間、要素がつまった長回しこそ、やるべき価値があるものでさ。
何とか逃れようとする亜紀を、その強靭な腕力で逃がさずにキスし続ける会長、そんな二人をなすすべもなく呆然と見詰め続けるしかない稔、という画は、なんたってもう、遣都君が青少年すぎるもんだからさあー。まるで自分までそんな甘酸っぱい頃を思い出したように思って(こんなスバラシイ経験はないけど(爆))ドッキドキなのだ。
そう、この場面、引きの場面だし、遣都君のその表情に寄るわけじゃないんだけど……ここでも、本当にいい目をしてる。全身から立ち上る緊迫感溢れる戸惑いは、スポーツに集中している時に見せる“イイ目”とはまた違って……そう、これこそ、そうした中で着実に会得していった役者としてのスキルを感じて、実に頼もしいのよね。

そうなの、亜紀と稔という、幼稚園時代からいじめられっこの彼を守る彼女、という関係が出来上がっていた青少年二人をメインにしながらも、会長の物語もまた、大きい要素なんだよね。
それは、この映画が初プロデュース作品であるという大沢たかおが、役者としても関わっているせいかと思うんだけど。
しかし彼が必要以上に自分を老けて見せて、場面によっては老眼鏡さえかけているのは、色気のある男優として君臨してきた彼にとってはチャレンジだったのかもしれない、と思う。
それに、かつては世界チャンピオンさえも狙える才能溢れるボクサーだった彼が、今は潰れかけたジムを細々と経営し、時にはカネのために人気タレント相手のヤラセスパーリングまでも買って出るという、まあ一種の“汚れ役”なんだから。

うん、でもね、男は40からだと思っている私としては(女は25まで……(爆。ダメじゃん。))、彼の、老け役願望、汚れ願望とも言えるこのスタンスは、ああ、なんか判る気がするなあ。
んでもって、自分が落ちぶれてしまった原因の、若き日の燃える様な恋の相手との再会、その彼女の、自分を髣髴とさせる落ちぶれた姿、そして彼女と本当の意味での愛を獲得する、なあんて展開まで用意されているときちゃあ、ますます、わかるわあ、などと思っちゃうんである。

まあその、かつての恋人、桜井幸子演じる順子の存在と、その後のそうした収斂はそれこそベタすぎて、美しすぎる気がしたけどねー。
清純派女優だった順子が、ボクサーの彼との熱愛を写真週刊誌にキャッチされて、二人の関係も、キャリアも崩壊した。その後、二人はお互い以前の華やかな立場とは一転して再会する。
最初、雨に濡れてジムの前に立ち尽くしていた順子を、稔が入門希望者かとカン違いして招き入れるのね。
で、自分のタオルを差し出す。順子はそのタオルを顔に当てて、ハッとしたような顔をする……のは、後に彼女が会長に「あなたと同じ匂いがした」と明かし、彼は「若い男の汗の匂いなんて、皆同じだよ」と返す。その頃の二人の燃える恋が見えるよう。

片や潰れかけたジムをようよう経営している中年男、片や小さな役にくらいつくためにプロデューサーに身体を委ねている落ち目女優。順子は今度の映画の役のトレーニングのためにと彼の元を訪れたけど、それは彼女だけの判断だった訳で。
お互い目を合わせないようにしていたんだけど、ある時、屋上で二人きりになった。
その時、なぜあの時あの待ち合わせに来なかったんだ、という話になる。いや、オレはちゃんと来た。向かいのコンビニからお前が来るのを待っていた。私だって来た。車の中からあなたが来るのを待っていた。
お互い、同じ思いを抱いたが故のすれ違いに笑い合う。でもそれは、その後の長い長い別離の時間を決定付けた出来事だった。

カネのために、つまりは今もボクシングを愛しててジムを存続させるために、プライドを捨てて負け役に徹する彼の、口からほとばしった返り血を浴びて、彼女は我に返るのだ。
この役を捨てて、つまりは女優を捨てることを。
最後にひと目彼に会おうと思ったのか、ジムを訪れた順子は、はがれかけた看板を直そうとして落下、入院の憂き目に。バカだなと笑いながら見舞いに訪れた彼にサヨナラを言った後、彼女は彼の最後の試合のチラシを、いまだ丁寧にたたんで手帳に大切にしまっていたそれを眺めて涙を流した。

そのまま寝入った彼女の病室に、一度は振りきって出て行った彼が戻ってきた。そのチラシを手にし、裏に彼女が描いたファイティングポーズの彼のイラストを目にした。
若い頃と同じように、彼女の頬に自分の拳をあてて、「ただいま」。彼女は更に涙ぐみ、万感の思いを込めて「……おかえり」そして抱擁。
ううーむ、こうして経過を書いてみると、ホンットにこれ以上ないぐらいベタかもしれない(爆)。でもそれこそ、ベテラン役者の味わいでさ、魅せちゃうのよね。

クライマックスは、亜紀に勝ちたいと思うがゆえにボクシングをしていた稔が、自分の亜紀に対する恋心に気づいて、彼女とのガチンコの勝負に挑む場面。
という結論に至るあたりが、この二人の、いわばMM同士である特殊性を表わしているんだけど、それを殴りあうことで思いが頂点に達することに、納得させられてしまうあたりがスゴいんである。
そりゃね、遣都君だからさ、むしろ弱いいじめられっこを演じている部分がムリしているぐらいだからさ(でも、色白の美少年だから、似合ってるけど)、逃げ足が早いって設定が、彼の走りの美しさを描写してしまうというヒネリワザだったりしてさ。
ただどうしても相手の顔を殴れないってあたりは、なあんか納得してしまうというか……弱さというより、彼の優しさ。

でも、ここに至って、宿命のライバルである亜紀とガチンコの勝負をする場面では、もうすっかりボクサーの美しい身体能力を示しているんだよね。
中盤では、ボクシングにのめりこんだ亜紀が会長を指名してスパーリングをさせてもらったり(あっさりかわして、グローブでコツンとおでこを小突く会長にドキドキ)他のジムに出かけていって女子プロボクサーの洗礼を浴びたりと、彼女の活躍が目立つんだけど、やはり本来の身体能力、その美しさは遣都君はピカイチなんだよなあ。

それに、恋愛感情の表現として殴り合いっていうのは、ああ、「東京フィスト」があったっけな?でも、それが対等に行われ、ある意味エクスタシーにまで達するというのは、初めてじゃないかしらん?
だって、あの奥ゆかしい?遣都君が、ぶちのめした(ぶちのめされた)彼女に、自らキスするぐらいなんだもん!あー、萌え萌え、超萌え萌えだわ!
一度目のキスに亜紀が「何、これ!」と動揺し、逆に動揺しまくった稔が「消毒だよ!」とごまかすのも萌えたが、会長とのキスに対する自分のわだかまりをまっすぐにぶつけ、二度目のキスがそのキスに対抗するぐらい、長くて濃密なのには、ああ、少年、遣都君よ、もうあなたは大人になってしまったのねー!などと、萌えながらもしんみりとしてしまうんである(爆)。
いやー、青少年は、素敵。もう届かない季節だから……。

とはいえ、こういうタイプの女の子が実際にいたとしたら、私は苦手なタイプかもしれないけど(爆)。
というのも前半はね、亜紀よりも、稔に思いを寄せる恭子ちゃんの方がタイプだったんだよね。こういう内気な女の子に萌えるんである。ま、それは私は絶対亜紀にはなれないと思うからかもしれないけど(かといって、恭子ちゃんになれるかといったらそれもアレなのだが)。
しかし恭子ちゃんが稔に対して抱いていた思いが、アコガレのタカラヅカの男役に重ね合わせていたといういわゆるオチが、サーッと冷めさせてしまうのは、上手いのか、ズルいのか、悩むところである……。
でもある意味、そうでもしなきゃ、彼女より亜紀を選ぶ、あるいは亜紀への思いに気付くきっかけをどうやって得るのかは難しかったのかもしれない。
だって自分の気持ちを隠して、いや気付かないフリをして(ひょっとしたら本当に気付いてなかったかもしれない……)稔に対して男勝りでい続けた亜紀とは違って、稔への募る思いをまっすぐにぶつけてくる恭子ちゃんの方が、女の子としてはカワイイに決まってるんだもん。

ボクシングはケンカではない。戦いでもない。この世で一番美しい、拳による会話。そう言った会長の誇り高き表情、それをクライマックスで二人の青少年が示してくれた。
ああ、青春という、もう戻れない、美しき季節よ(涙)。★★★★☆


ラフマニノフ ある愛の調べ/LILACS
2007年 96分 ロシア カラー
監督:パーヴェル・ルンギン 脚本:ミハエル・ドゥナエフ/ルシンダ・コクソン/パーヴェル・フィン
撮影:アンドレイ・ジェガロフ 音楽:ダン・ジョーンズ
出演:エフゲニー・ツィガノフ/ヴィクトリア・トルストガノヴァ/アレクセイ・コルトネフ/イゴール・チェネヴィチ/オレグ・アンドレーエフ/ミリアム・セホン/ヴィクトリア・イサコヴァ/エヴドキア・ゲルマノヴァ/アレクセイ・ペトレンコ

2008/5/27/火 劇場(渋谷Bunkamura ル・シネマ)
思えば私、このラフマニノフさんのことは勿論、クラシック音楽のなんたるかをぜえんぜん判ってなかったのだったことに今更ながら気づく。
割と好きだと思っていたのに、この知識のなさに呆然とする。だって、クラシック音楽って、もうモーツァルトもショパンもシューベルトもそしてこのラフマニノフもいっしょくたに考えちゃってて、だから本作で、彼がカーネギーホールで演奏したり、ハリウッド映画業界と関わったりしているのに驚いちゃうのだ。
そりゃそうだ、ショパンやモーツァルトと一緒くたにしてりゃ、そりゃ驚くって。ラフマニノフはそんな、くるくるのカツラをかぶったような時代の音楽家じゃないんだ。まさに現代の、20世紀の音楽家なのだ。激動の時代を生きた音楽家。

でも私のような人って、結構いるんじゃないかしらん(いや、言い訳じゃなくって!)昨今、クラシックのイメージを一気に押し上げた「のだめカンタービレ」の中でだって、クラシックという同じカテゴリーの中で、モーツァルトやベートーベンと一緒にラフマニノフがいたんだもの。もう頭の中で、古くから確立された音楽の中に彼も入っているような錯覚を起こしていた。
でも、そういう20世紀の音楽も、やはり“クラシック”というカテゴリーに入れられてしまうのだろうか。やはりそのアタリに私のような無知者が増えてしまう原因があるように思われる。クラシック=古典=古くてタイクツなもの。みたいな、イメージの連鎖。

そして、恐らくその“のだめ”の中でも最も印象的に響いていたのが、このラフマニノフだった。♪チャーン、ドーンと千秋先輩が弾き始める、美しく壮大なピアノ協奏曲。私の中では村主選手の名プログラムのイメージも大きい。そして、あらこんな曲もラフマニノフさんだったの!と、「パガニーニの主題による狂詩曲」はつい最近も大型テレビのCMで流れていたような。
そう考えてみると、やはりその感覚は現代人に、より訴えかけるメロディアスなのだなと思う。そしてラフマニノフ自身の手による演奏が残ってるというのにも驚く。クラシックの作曲家自身の音源が残ってるなんて!(だから、クラシックに対する無知と偏見なんだってば)現代の音楽家だからこそ。

でね、これは確かにドキュメンタリーという訳でもないんだけど、それでも、物語の最後に「事実を元に創造したフィクション」とわざわざ付されてて、ううう、そんなこと言われたら、切り込みにくいじゃん。
まあかのモーツァルトだって「アマデウス」では恐らく、そのフィクションの強みでエンタテインメントを作り上げられたのだし。でもこんな近い時代の音楽家の生涯を描いているんなら、これが真実って、思い込みそうになっちゃう。

実際、本作のラフマニノフ像には、どこまでこの映画作家の創造が、あるいは想像が入り込んでいるのだろう。
演奏家となるべきか、作曲家を目指すのかの岐路で師匠と決裂したことや、ロシア革命を逃れてアメリカに亡命したこと、演奏生活に忙殺されて作曲家としてのブランクがあったことなどは、事実として残されていることだけれど。 もう私はあのラストクレジットを見て、即ウィキペディアに走ったもん(爆)。
でもこの作品のテーマとも言うべきもの、彼の女性遍歴、女によって彼の音楽が、そして人生が翻弄されたというのは、果たして事実として残っていたり、誰かが語っていたりするのだろうか、そこが最も気になるところなんである。

勿論、妻となったいとこのナターシャの存在は揺るぎない。でも彼女は本作の中で、あるいは実際のラフマニノフの人生の中でももしかしたら、ずっと陰の存在だったかもしれない、とこの作品は言っているように思える。
勿論、彼女の支えがあってこそ、異国の地に渡ってもラフマニノフは自分自身をなんとか存続できたのだろうけれど。
なんか、この作品が語りたい雰囲気っていうのがね……そういう、妻の支えの上で(それは彼女と出会う前であっても、なんだけど)激しい女たちに溺れ、その影響でドラマチックな曲が生まれた、って趣なんだよね。うーん、これが芸術家ってやつなのかしらん。

最初の女は年上の美女、アンナ。そのアイメイクの強さが醸し出す退廃的な雰囲気といい、もう見るからに彼を奈落に引きずり込む女である。
まだウブだったラフマニノフは、ひと目でこの年上の女に惹かれた。そうは言ってないけど、なんか初体験の女って雰囲気もある。濡れ場も結構キてる。
実際、妻のナターシャとはそういうシーンはないんだよね。ちゃんと子供をもうけてるのに。つまり妻にはそういう役目を負わせていないことがハッキリしてる。
それは刹那的な恋人ではない、人生の伴侶だからという意味合いがあるのかもしれないけど、たった一人の男を愛する女という観点から思えば、やっぱりそれは、辛い。
だって、二人目の、これはまたぐっと年下の女とも、濡れ場は用意されているんだもの。ま、それはまた、後の話だけど。

このアンナは、ラフマニノフに対して、絶対ホンキじゃなかったよね。他の男とよろしくやってる場面も出てくるし。
しかも彼女のために作ったと思しき、ラフマニノフ初めての交響曲の演奏会で、酔いどれ指揮者に頼んだがために大失敗、観客はゾロゾロ帰っちゃうし、アンナにもアイソをつかされてしまう。
この演奏会の失敗は実際、ラフマニノフの系譜にも重要事項として出てくるし、ホントにそうなんだろうけれど、ここにホントに女がこんなに絡んでいたかどうかは……。
そして、この場面には後の妻となるいとこのナターシャがいた。彼が彼女の存在の大切さに気づくのはもっとずっと後なんだけれど、彼女は彼と再会した時から、あるいは兄妹のように過ごした幼少の頃、いつも一緒にいて彼の背負ったものの大きさや悲哀を見続けていた頃から、彼のことが好きだったのだ。

そして二番目の女は、更にキケンな女である。演奏会の失敗の後、生活のために女子校の講師として働き始めるラフマニノフ。世間の酷評に乗っかる生徒たちの中で、ムキになって彼を擁護する一人の女子学生がいた。その名はマリアンナ。
熱狂的なラフマニノフファンの彼女は、制服に押し込め切れない色香を発散していた。でもやっぱり幼いから、更に押さえが効かない危険さをも持っていた。
更に、マリアンナは頑なに共産主義を信奉していた。もはやそんなものに現実味がないことを知っているラフマニノフは、苦笑気味に彼女をたしなめるのだけれど、マリアンナはそんな彼こそ判ってないんだ、みたいな余裕の笑みをもらす。
それが現代の目から見ればあまりに哀れで。でも判ってしまっているラフマニノフもまた哀れに見えるのはどうしてだろう……。

生徒と関係を持つなんて、ホントに刹那的。でもマリアンナとはまた、時間を違えて関わることとなる。
こここそ、フィクションだろうなと思われる、あまりにもドラマティックな場面。
マリアンナはマニッシュなロングブーツが印象的な、いかにも革命戦士、てな姿に身を固め、裏切り者たちに目を光らせていた。亡命を企てているラフマニノフなんて、その最たるものだったに違いないのに、彼女は見逃すのだ。
演奏旅行に行くからと、ひしめき合う駅のホームで妻や子供たちとはぐれそうになった時、ナターシャが涙ながらに、あの人を愛しているんでしょ、だったら助けて!と言われて……その台詞はあまりに矛盾しているように感じるのに、というか、こんな皮肉はないのに。
だって、マリアンナの信じる思想に従ってここに残ったら、彼は不幸になる、という妻の主張を肯定することになるんだから。勿論それはその通りなんだけど……それでもマリアンナは、妻の懇願に負けて、彼を通してしまうのだ。愛しているから。
「ありがとう」と言った彼に何を言うことも出来ず、というより、何も言わずに、ただ見送った。
そして女たちとの激動の時間は終わった。

本作は、時間がモザイク状になっているんだよね。まず、カーネギーホールで演奏するラフマニノフの姿が描かれる。新しい国の象徴、アメリカ、そしてニューヨークのカーネギーホールっていうのが、実に現代のサクセス物語、アメリカンドリームを感じさせる。
しかしラフマニノフは、客席にソ連大使を見つける。彼が故郷で自分を拘束したこと、そして大事な人たちを殺したことを知っているラフマニノフは、大使がいる場所で演奏することを拒否するんである。
騒然とする会場だけど、プロモーターはこれがチャンスとばかりに、この大使を悪者にして追い払い、ひたすら自分のピアノの宣伝に走る。
そう、今やピアノの名器の代名詞、スタインウェイが、ラフマニノフのスポンサーなのだ。名声の誉れ高いスタインウェイが新興著しい企業のように描かれていることにもビックリするし、そのスタインウェイの宣伝攻勢によるハードスケジュールの演奏旅行にラフマニノフが心身ともに疲れ果ててしまうというのにも更にビックリする。
全然、優雅なクラシック音楽家じゃなかったんだね……。

でも、ラフマニノフは、もともとは貴族の出だったんだというんだから、優雅な生活だって送れたかもしれないのだ。
でも、没落してしまう。ピアノの才能を見いだされて高名な師匠につくも、作曲家を目指す彼と、作曲をどこか侮蔑している師匠との間に溝が出来てしまう。
もう素晴らしい音楽がこの世にあるのに、今更現代の人間が作曲したってくだらない、みたいな感覚を、この師匠からは受ける。いや、そんな台詞を言ったわけじゃないんだけどね。でも言動の端々に、作曲なんてくだらない、みたいな意識を感じ取ることが出来るのだ。
でもそれって私が、ラフマニノフがこんな新しい時代の音楽家だとは思ってなかったことと、何となく似通っている気がするんだよなあ。
でもその新しい音楽家であるラフマニノフと同じ時代にチャイコフスキーがいたってことも、超無知な私には非常なる驚きで!

でも、若き日のラフマニノフに対して、偉大なる音楽家であるチャイコフスキーという位置づけなのよね。師匠もチャイコフスキーのことは凄い尊敬しているし。
時代は確かにズレるんだけど。劇中ではチャイコフスキーとの邂逅は、ラフマニノフがアンナに溺れていたために遅刻しちゃって実現しなかったけれど、実際はどうだったんだろうか。
でも、ラフマニノフは、チャイコフスキーを崇拝していた、ことは確からしい。そしてその理由は、彼もまた現代に生きる作曲家だから。
そして彼は、師匠と決裂してしまうんである。

最終的には、移り住んだアメリカでの描写が、静かにラストまでの軌跡を描く。
めまぐるしい勢いで進んでいくアメリカに、どうにもなじめない様子のラフマニノフ。演奏旅行がどんなに喜ばれても、それが自分自身で納得いかない出来なら、余計に気分もふさぎこむ。
その稼いだ金で立派な邸宅が建っても満たされないし、子供たちのはしゃぎ声にイラ立ち、寛容な妻もさすがに冷たい視線を放つ。
この海辺の家が非常に印象的。ほんっとに、海のすぐそば。まるで海の中に建っているかのよう。日本海みたいに激しい波が打ち寄せてる。
そんな状況に追い立てたスタインウェイのプロモーターだけど、でも彼はこれがアメリカで生きていくために仕方ないことだと判ってて、つまりラフマニノフを心配するがためにやったことだし、それにどうやら、ナターシャにホレてたっぽいしさ……。

しかも、ラフマニノフが最もやりたい作曲が出来ないままに10年も過ぎてしまった。10歳の誕生日を迎える娘に、「偶然だな。パパも作曲をしないまま10年だ」とヒドいことを言って、娘を泣かせ、妻を怒らせてしまう。
でも、こんなヒドい夫にも、時には反撃を試みても、妻はやっぱり夫を愛しているんだもの。

妻と娘を怒らせて、自分でも理不尽に憤然となって、車を降りたラフマニノフ、庭園に迷い込む。そこにはかつて、あのアンナに無造作に刈り取って送り続けたライラックの鉢植えがあった。
思わず手にとる彼に、近づいてきた婦人が言った。それは今日取りに来る筈のご夫人のために取り寄せたのだと。その名はロシアの名前だった。ナターシャだと。
そうだ、あの時後の妻になるナターシャは、そんな彼をいつも見ていたんだ。ライラックが彼にとって特別な花であることを、知ってた。彼がくじけそうになった時、彼には知らせずにいつも贈り続けていたのだ。

その鉢植えを抱えて、家に戻る彼。誕生日を祝ってもらっている娘、そして妻のナターシャが気づく。
庭を掘り返して、ライラックを植えている夫に。
にわか雨がざあっと降ってくる。構わずに駆け出す妻と娘。泥だらけになりながら、彼にむしゃぶりつく。
これは、ひょっとしたら、本当に一瞬の、ここだけの幸福だったのかもしれないけれど。

劇中でね、落ち込みきったラフマニノフが医師の催眠療法で復活するんだよね。この医師の存在は事実としてあって、しかもラフマニノフの良き理解者だったということなんだけど、本作の中では、この医師がナターシャの当時の婚約者として描かれてる。そ、それは本当なのかなあ。
なんかいらんことまで真実として信じてしまいそうで、こういう形式の作品は怖い。ま、エンタテインメントとして楽しめばいいのよね。★★★☆☆


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